2017年4月19日 (水)

日本は強靭にそして柔軟に生きて行くことが大切

今日はからりと晴れあがり、気温も高く、初夏到来と言った感じです。桜の花も散り果て、銀杏の葉は青々と大きくなりつつあります。四季の変化というのは本当に不思議です。

 

わが国は、湿度が高く、緑が多く、水も清らかです。台風が来て多くの被害をもたらしますが、地上の穢れを祓い清める働きをします。そして台風一過の晴天に恵まれます。さらに、火山の噴火や地震がよく起ります。

 

日本人は自然を敵とすることなく、自然とよく調和して生きてきました。台風や地震などの自然の猛威に対してすらそれによく耐え忍んで生きてきました。

 

このようなわが國の風土が、日本人の柔軟にして強靭な精神力そして清潔さを好む性格を生んだと思います。

 

大東亜戦争の敗北という建国以来の大きな苦難を経験しましたが、短期間で力強く復興を遂げました。これも日本人が風土の中から培ってきた力によるものと思います。日本人は自然と対立し自然を憎むということはあまりないと思います。

 

終戦の時は、「敗戦」を「終戦」、「占領軍」を「進駐軍」、「隷属の下」を「制限の下」などと言い換えました。そして敗者の悲哀をいくらかでも払いのけたと思います。これは、神話の世界からの伝統である「告り直し」「言い直し」「聞き直し」であると思います。

 

また、戦争ではアメリカから大変な仕打ちを受けましたが、戦争が終わってしまえば、それほど深く憎んだり敵対したりしませんでした。それが日本人の長所でもあり、短所でもあると思います。

 

ともかく、これからも、わが日本は強靭にそして柔軟に生きて行くことが大切だと思います。

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2017年4月13日 (木)

今日思ったこと

日本という国は何という国でしょう。国家的危機であるというのに、一学校法人の不祥事で大騒ぎ、そしてスケート選手の引退でも大騒ぎしています。これはメディアの姿勢が全くおかしいからです。

 

民進党は、学校法人問題で、安倍政権を責め立て、政治を混乱させて、政権を奪取せんとしているのであります。しかし、そうは問屋がおろさず、民進党の支持率は低迷したままです。また都議会では離党議員が相次いでいます。国会でも、長島昭久氏が離党しました。

 

社民・共産両党を含めた連合政権ができたら、日本はどうなるのでしようか。対外関係だけに限っても、支那と北朝鮮による我が国への軍事的政治的圧迫をはねのけることはできなくなります。民進・社民・共産の連立政権は何としても阻止しなければなりません。

 

日本国の政治が混迷し不安定になれば一番喜ぶのは誰かを本当に真剣に考えるべきであります。日本は支那の属国になり、軍事的政治的支配下に置かれることとなります。志位・辻元・福島などという輩が政府閣僚になっている姿を想像するだけでゾッとします。

 

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2017年4月11日 (火)

長島昭久氏の民進党離党について

長島昭久氏が民進党を離党しました。長島氏は「保守政治家」であることを強調していました。

一体保守とはどういうことを意味するのでしょうか。現状維持という意味なら、近年は守旧派とか抵抗勢力という言葉があります。

 

真正保守という言葉があります。これは現状維持という意味の保守ではなく、日本の国柄、伝統、歴史を守るという意味で使われております。私は現行憲法の原理を墨守し戦後体制を容認する立場こそ「守旧派」だと思います。真の保守とは言うまでもなく「國體護持」です。

 

長島昭久氏は、「伝統と革新」第十九号(平成二七年五月発行)に置いて小生のインタビューに答え、「『保守の真髄は何か』と問われれば、私は皇室を尊ぶということ、この一点に尽きる…一番の大本となるのは、神話を含めて、天皇、皇室を尊ぶということです。…日本および日本人の大本は皇室だという信念こそ、保守の真髄だと思っています」と語りました。

 

「國體護持」という正統なる信念と思想を持っている長島氏には、日共という國體破壊勢力と選挙共闘するなどということはとても耐えられなかったのでしょう。今回の長島氏の民進党離党は快挙です。

 

前原誠司氏も『伝統と革新』第二〇号(平成二七年初月発行)に於いて、小生の質問に答えて「日本人と日本の骨格を成ししているのが皇室だと思いますし、皇室のない日本というのはやはり考えられない。日本の心、伝統、文化、日本人の拠り所が皇室だと私は思います」と語りました。

 

前原氏も、真の保守政治家だと思います。

 

自民党の中にも國體観が正しく確立していない政治家がいます。「真の保守」と「守旧」「現状維持」との区別を明確にしなければなりません。國體護持こそ真正保守であり、この立場に立つ政治家が力を増すことを願います。そして國體破壊勢力を殲滅しなければなりません。明治維新の歴史を見ても明らかなように、真の保守とは真の革新であります。

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2017年4月 5日 (水)

日本共産党はソ連・共産支那・北朝鮮のアジア赤化・侵略に加担してきた

 

金正恩の暴虐ぶりはとどまるところを知らない。日本共産党・社民党・民進党左派などの亡国野党は、政府自民党やアメリカに対する非難攻撃は熱心だが、共産支那や北朝鮮の暴虐に対しては全く口をつぐんでゐる。

 

日本共産党は、あらうことか長い間、「朝鮮戦争はアメリカの侵略だった」といふ嘘八百を並べ立ててゐた。

 

『日本共産党の四十五年』といふ書物(昭和四五年八月二五日・日本共産党中央委員會出版局発行)には「アメリカ帝國主義は、(一九五○年)六月二十五日、わが國を前進基地として朝鮮への侵略戦争をはじめました」と書いてゐる。

 

日本共産党は、わが國における最初にして最大の北朝鮮軍事独裁政権支援組織だったのである。また、日本共産党は戦後一貫して、朝鮮労働党の日本における窓口であった。

 

また、「在日朝鮮人の祖國帰還運動」にも積極的に協力した。日本共産党と北朝鮮は昭和三十四年、在日朝鮮人の北朝鮮への「集団帰還事業」をわが國政府に働きかけ實現させた。これによって、約九万八千人の在日朝鮮人(約七千人の日本人を含む)が北に永住帰國した。

 

この「集団帰還事業」について宮本顕治書記長(当時)は、朝鮮労働党第四回大會で帰國熱を煽った。つまり、日本共産党は多くの在日朝鮮人を地獄に送り込んだのだ。

 

七〇年代初頭、北朝鮮の國家保衛部は、九万八千人の在日朝鮮人帰國者たちを粛清の対象にした。絶え間ない監視と罪状の捏造によって、金日成父子冒瀆、反動宣伝煽動罪、スパイ罪をかぶせ、七三年から八〇年の間に、全帰國者の約二割を処刑もしくは政治犯収容所送りにしたといふ。

 

帰國事業では、日本共産党の有力者が、全國の「帰國協會」で「事務局長」を務め、地方党員が實働部隊となって在日朝鮮人を帰國させ、政治的には「北朝鮮に社會主義國の建設を」と宣伝した。

 

在日朝鮮人の北朝鮮への帰國に決定的な役割を果たしたのは日本共産党であった。しかるに日本共産党は自らが犯した犯罪行為に対して何の謝罪も行なってゐない。のみならず、悲惨極まる状況に陥ってゐる帰國者の救援・救出にもソッポを向き、それを妨害して来た。共産党は、昭和四十年代前半くらいまでは、北朝鮮を理想國家・天國のように宣伝してゐた。

 

日本共産党は拉致問題に関しても、平成十二年十月五日の党首討論で、不破哲三委員長(当時)らが「政府は拉致の確たる証拠を示してゐない」とか「確たる物証がなく状況証拠だけだ」などと述べた。拉致された人々は北朝鮮におり、拉致したのは北朝鮮なのである。「確たる物証」は北朝鮮にはあっても日本國内にあるはずがない。わが國の警察の捜査が及ばない北朝鮮の國家ぐるみの犯罪について、わが國の治安当局が「確たる証拠を示す」ことは殆ど不可能である。不破氏がこんなことを言ったのは、共産党が北朝鮮を擁護し拉致問題解決の意志が無かった何よりの証拠である。

 

 日本共産党は、昭和二十五年に、北朝鮮による韓國侵略=朝鮮戦争が起った時、日本において武装闘争・火炎ビン闘争を展開し、北の侵略を支援したのだ。また白鳥警部射殺事件、大須騒擾事件などを引き起こすなど暴力的破壊活動を展開した。これを後方攪乱と言う。

 

共産党員の多くは、「中核自衛隊」「山村工作隊」として、火焔ビンや時限爆弾などで武装して破壊活動を起した。さらに、日共が朝鮮総連と一緒になって、平事件・皇居前メーデー事件・吹田事件などの数多くの騒擾事件・集団暴力事件を起したことは歴然たる事実である。

 

日共の武装闘争は、北朝鮮の韓国侵略に対する後方支援であったのである。さらに言えば、ソ連・共産支那北朝鮮による日本侵略支配を目的としてゐたのである。

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2017年3月14日 (火)

マスコミによるいじめ。魔女狩りについて

日本人の悪い癖は、ある特定の一人の人物を、みんなで寄ってたかって悪の権化として裁き、あることないこと暴き立てて糾弾し、責め苛むことである。マスコミは、マイクやカメラを突き付けてそういう人を追い回す。市中引き回しの刑の現代版である。しかもテレビは繰り返しその映像を垂れ流し的に興味本位に放送する。そういうテレビ映像を見て育った子供たちが学校で特定の子供を寄ってたかって苛めるのである。

 

「いじめ」とは、小學生・中學生の専売特許ではない。「戦後民主主義・平和主義」の「守り手」・「弱者の味方」を以て任ずるマスコミは、「知る権利」「知らせる義務」とやらを振り回し、カメラやマイクを持って「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象となっている特定の人物を追ひかけ回し、特定人物を責め苛む。これまで、かういふやり方でどれだけ多くの人々が血祭りにあげられ、「魔女狩り」の対象になってきたであろうか。小學生・中學生のいじめは、大人のこうしたやり方を真似しているに過ぎないのである。

 三島由紀夫氏は言う。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である」(『反革命宣言』)と。

 

革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろそうという精神が國民に横溢している。それを煽り続けているのがメディアである。

 

「本是神州清潔の民」と言われるように、日本人の潔癖さは日本民族の優れた体質である。しかし、それが単に、嫉妬であり、自分よりも幸福そうな人を引き摺り下ろそうという精神に堕してしまってはならない。

 

われわれは、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、日本精神の真の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。

 

 

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2017年3月11日 (土)

日本伝統信仰・伝統文化・伝統精神を現代の価値として再生せしめるべし

 戦後日本は、ひたすら経済一辺倒でやってきた。エコノミックアニマルなどと罵られながらも、世界第二位の経済大国に発展した。その陰で、伝統・文化・道義・道徳は二の次となった。むしろ、戦前に謳歌された尊皇愛国・滅私奉公は国民を戦争に駆り立てた邪悪なる思想だとして排除された。

 

 しかし今日、その経済大国の地位・経済的優位性も揺らいでいる。日本の大きな強みだった「物づくり」の伝統が傾き、生産コストの安い海外に生産拠点が移された。このまま推移すれば、日本の社会はさらに空洞化する。

               

 今こそ、日本伝統精神と経済・政治・軍事を総合的にとらえるべき時である。日本ならではの独自の文化伝統を活用すべき時である。

 

 大和魂・武士道精神をはじめ和歌などの日本伝統文芸・神道という伝統信仰・伝統文化・伝統精神を現代の価値として再生せしめ、これらをハイテク技術製造業といった経済活動そして政治・外交・軍事そして何よりも教育と合体させるべきだ。それによって、他の国々に追随を許さない高度国民国家が建設される。それが、わが国が政治的・経済的に力強さを回復する切り札である。

                            

 とにかく国家存立の基本は伝統精神であり道義である。それが国家・国民の真の発展と繁栄の基盤だ。

 

 日本の固有のみの、伝統文化・伝統精神を現代に生かすことが大切である。「グローバリズムとは外にあるものを受け入れて順応し行くこと」だそうだがそれは建国以来の日本がやってきたことである。何も二十一世紀になって始めたことではない。

 

しかし、外から入ってくるものに摂取するということは、無原則に外来文化文明法令れ独自の伝統を捨て去ることではない。日本伝統精神をしっかり確立した上に外来文化文明を咀嚼し同化させてきたのが日本である。日本独自の文化伝統の中にむしろ普遍性があるのである。今日、日本から、その日本の文化伝統文化を世界に発信していくべきである。

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2017年3月 9日 (木)

『世界は一家、人類は兄弟』とは?

昔、大勢の人が行列をして、「世界は一家、人類は兄弟」と叫ぶテレビコマーシャルがあった。その同じスポンサーのコマーシャルでは「戸締り用心、火の用心」と叫ぶのもあった。

 

私は「世界が一つの家で人類が兄弟なら戸締りは要らないではないか。全く矛盾している。これではまったく日本浅薄振興会だ」と思った。しかし今は、このコマーシャルは「理想と現実との乖離」を的確に示していたと思うようになっている。決して「浅薄」ではなく、世の中の真実を訴えていたのだ。

 

誰でも世界の平和を願っている。しかし、現実世界は闘争戦争の繰り返しである。それが人類の歴史であり現実なのだ。今日、それはますますひどくなっている。自己防衛・安全保障体制を確立しておかないと、何時、外敵からどんなひどい目に遭わされるか分からない。

 

平和な世の中を願う気持ちは大切にしなければならない。また人と人とは出来得る限り信頼し合い愛し合わねばならない。しかし、自分自身そして祖国を外敵から防衛することは決して怠ってはならないと実感する。

 

実の兄弟・義理の叔父まで無惨に殺してしまう独裁者が支配し核武装してミサイルをわが国周辺海域・排他的経済水域にミサイルを撃ち込む国、そして周辺諸国を侵略支配し政敵を監獄に放り込む独裁者が支配している核大国がすぐ隣にあるのだから。

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2017年3月 7日 (火)

木造建築及び煙草について

以前、『日経』のコラム欄に、佐伯一麦という作家の方が。大要次のようなことを書いていた。

 

「鉄筋コンクリートの床があらわになった空間は、人の声を硬く撥ね返し刺々しくする。木造家屋で話をすると自分の声が天井などに柔らかく吸収され、自然な口調になる。学校でのいじめ問題も、校舎が鉄筋コンクリートになったため、声が硬く反響する空間で、苛立ちや拒絶が倍加するのではないか」。

 

小生の小学校時代は、戦後建てられた木造モルタル造りの校舎で、冬は石炭やコークスを使ったストーブで暖をとった。窓などから隙間風が入って来た。子供たちの殆どは手の平や耳たぶにしもやけが出来ていた。給食もうまくはなかった。一クラス五十人以上のすし詰め学級だった。

 

勿論、いじめっ子はいたし、いじめもあった。しかし今のような陰惨ないじめはなかった。自殺に追い込むというような歯止めのきかないいじめはなかった。

 

校舎が立派になり鉄筋コンクリート、冷暖房付きなり、給食がうまくなり、「教育施設」が充実しても、決して子供たちが伸び伸びと明るく健全に育っているというわけではないようである。

 

これは、学校に限ったことではない。人類全体が、科学技術が進歩発展し、生活が快適になっても、人と人との争い、国家民族同士の戦争は、ますます激化しとどまるところを知らない。むしろ科学技術が進歩発展しているだけに、戦争の惨禍がよりひどくなっている。

 

日本の建物を全部木造に戻すということは不可能だが、内部だけでも出来るだけ木と紙を使った建物にしてほしい。

 

先日、神田学士会館の喫煙コーナーに煙草を吸いに入ると、お年を召した男性の方が煙草を吸っておられた。その方曰く「煙草を吸う民族や地域はあまり争い事や戦争は起らない。アメリカは禁煙大国だが戦闘的だ。コーヒーは心を落ち着かせる効能持つ。煙草とコーヒーはむやみに抑制すべきではない」という意味のことを言っておられた。ご職業を聞くと、ある有名なコーヒーメーカーの元社長・現顧問とのことであった。

 

飲み過ぎは良くないに決まっているが、煙草は決して百害あって一利なしとは言えない。精神を落ち着かせる効能がある。ただし、煙草を吸う人は戦闘的ではないというのには大いに疑問がある。共産支那の初代皇帝・毛沢東も、北朝鮮の初代皇帝・金日成も愛煙家であったが、残虐さ・戦闘的という面では比類がない人物であった。

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2017年3月 6日 (月)

教育において「人の命・自然の命を拝ろがむ精神」を涵養することが大切

 

学校で人命に関わる事件が起こると、「学校長が全校集会で゙人の命の大切さ゛を改めて生徒たちに教えた」などと報道される。 

 

「人の命を尊ぶ心」は、人間が単なる物質的な存在であるとする唯物論からは絶対に出て来ない。「戦後教育」は、唯物論を本旨とするマルクス・レーニン主義勢力=左翼教員組合によって牛耳られ、学校教育の場において戦後一貫して唯物論教育が行なわれてきた。その結果が、現在の惨状である。

 

旧ソ連・共産支那・北朝鮮・カンボシアなどの共産国家による自国民殺戮および対外侵略を見れば火をみるよりも明らかである。また、わが国内においても、共産主義者集団による武装闘争・リンチ・テロによる殺戮は凄まじいものがあった。

 

共産主義者・唯物論者というかイデオロギーにとりつかれた人間がいかにひどい人格・人間性の持ち主になるかは、これまでの歴史が証明している。二十世紀はマルクス・レーニン主義、スターリン主義、毛沢東思想という「イデオロギー」の残酷な実験場だった。その実験場において幾千万という人間が「実験動物」として殺されたり、殺し合いを行ったのである。

 

人の命の尊厳性を子供たちに正しく教えるには、唯物論を否定し、神仏を尊び人間生命の永遠を信じる「宗教的情操を涵養する教育」が正しく行なわれなければならない。ところが、戦後日本においては、まともな「宗教教育」が行われて来なかった。

 

しかしながら、古代から今日に至るまで宗教戦争によって多くの人命が奪われてきたことも事実である。こうしたことを考えると、宗教教育・宗教心の涵養とは言っても、宗教なら何でもいいというわけには行かない。教育の場において、正しい宗教観を子供たちに植えつけ、間違った宗教にとりつかれないようにすることが必要である。

 

正しい宗教精神の涵養によって、人の命の尊さを分からせることができるだけでなく、人の命だけでなく、自然の命、そして亡くなった人々すなわち先祖を尊ぶ心も養われるのである。「人の命・自然の命を、神として仏として拝ろがむ精神」が大切である。そして、人としての生きる道、踏み行うべき道を指し示すことができるのである。

 

「宗教教育」は、特定の教団の教義を強制的に子供たちに教えることではない。わが国生成以来の国民信仰であるところの神道、そして長い歴史の中で日本に包摂され高度なものとなってきた日本儒教や日本佛教などの宗教精神を、学校教育の場で正しく子供たちに教えることが「宗教教育」である。それによって人の命の尊さを分からせることができるだけでなく、人としての生きる道、踏み行うべき道を指し示すことができるのである。

 

さらに、正しい宗教精神の涵養によって、人の命だけでなく、自然の命、そして亡くなった人々すなわち先祖を尊ぶ心も養われるのである。「人の命・自然の命を、神として仏として拝ろがむ精神」が大切である。

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2017年2月20日 (月)

我慢も限界

 

 自民党は、野党時代、「政府主催で建国記念の日を祝う式典を開催する」という公約を掲げた。自民党が政権を奪還し、「日本を取り戻す」を政治理念とする安倍晋三氏が総理総裁となり、愈々政府主催の建国記念の日奉祝式典が行われると期待していたが、今日に至るまで実現していない。これは一体どうした事か。これは公約違反などという生易しい問題ではない。まさに「日本を取りもどす」即ち国家再生・維新断行の根本問題の一つである。

 

「真正保守」と言われている学者・評論家・国民運動組織は、安倍晋三総理を批判することを遠慮しているようである。他の政治家例えば福田康夫氏や石破茂氏が総理として安倍氏と同じようなこと、即ち「戦後七十年談話」「建国記念の日の政府主催行事の不実行」「慰安婦問題の決着」「靖国神社総理参拝の不実行」などをしたら、大変の非難攻撃を行うであろう。私も安倍総理を正面から批判することを控えてきた。しかしもう我慢も限界といった思いである。

 

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