2017年3月14日 (火)

マスコミによるいじめ。魔女狩りについて

日本人の悪い癖は、ある特定の一人の人物を、みんなで寄ってたかって悪の権化として裁き、あることないこと暴き立てて糾弾し、責め苛むことである。マスコミは、マイクやカメラを突き付けてそういう人を追い回す。市中引き回しの刑の現代版である。しかもテレビは繰り返しその映像を垂れ流し的に興味本位に放送する。そういうテレビ映像を見て育った子供たちが学校で特定の子供を寄ってたかって苛めるのである。

 

「いじめ」とは、小學生・中學生の専売特許ではない。「戦後民主主義・平和主義」の「守り手」・「弱者の味方」を以て任ずるマスコミは、「知る権利」「知らせる義務」とやらを振り回し、カメラやマイクを持って「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象となっている特定の人物を追ひかけ回し、特定人物を責め苛む。これまで、かういふやり方でどれだけ多くの人々が血祭りにあげられ、「魔女狩り」の対象になってきたであろうか。小學生・中學生のいじめは、大人のこうしたやり方を真似しているに過ぎないのである。

 三島由紀夫氏は言う。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である」(『反革命宣言』)と。

 

革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろそうという精神が國民に横溢している。それを煽り続けているのがメディアである。

 

「本是神州清潔の民」と言われるように、日本人の潔癖さは日本民族の優れた体質である。しかし、それが単に、嫉妬であり、自分よりも幸福そうな人を引き摺り下ろそうという精神に堕してしまってはならない。

 

われわれは、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、日本精神の真の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。

 

 

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2017年3月11日 (土)

日本伝統信仰・伝統文化・伝統精神を現代の価値として再生せしめるべし

 戦後日本は、ひたすら経済一辺倒でやってきた。エコノミックアニマルなどと罵られながらも、世界第二位の経済大国に発展した。その陰で、伝統・文化・道義・道徳は二の次となった。むしろ、戦前に謳歌された尊皇愛国・滅私奉公は国民を戦争に駆り立てた邪悪なる思想だとして排除された。

 

 しかし今日、その経済大国の地位・経済的優位性も揺らいでいる。日本の大きな強みだった「物づくり」の伝統が傾き、生産コストの安い海外に生産拠点が移された。このまま推移すれば、日本の社会はさらに空洞化する。

               

 今こそ、日本伝統精神と経済・政治・軍事を総合的にとらえるべき時である。日本ならではの独自の文化伝統を活用すべき時である。

 

 大和魂・武士道精神をはじめ和歌などの日本伝統文芸・神道という伝統信仰・伝統文化・伝統精神を現代の価値として再生せしめ、これらをハイテク技術製造業といった経済活動そして政治・外交・軍事そして何よりも教育と合体させるべきだ。それによって、他の国々に追随を許さない高度国民国家が建設される。それが、わが国が政治的・経済的に力強さを回復する切り札である。

                            

 とにかく国家存立の基本は伝統精神であり道義である。それが国家・国民の真の発展と繁栄の基盤だ。

 

 日本の固有のみの、伝統文化・伝統精神を現代に生かすことが大切である。「グローバリズムとは外にあるものを受け入れて順応し行くこと」だそうだがそれは建国以来の日本がやってきたことである。何も二十一世紀になって始めたことではない。

 

しかし、外から入ってくるものに摂取するということは、無原則に外来文化文明法令れ独自の伝統を捨て去ることではない。日本伝統精神をしっかり確立した上に外来文化文明を咀嚼し同化させてきたのが日本である。日本独自の文化伝統の中にむしろ普遍性があるのである。今日、日本から、その日本の文化伝統文化を世界に発信していくべきである。

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2017年3月 9日 (木)

『世界は一家、人類は兄弟』とは?

昔、大勢の人が行列をして、「世界は一家、人類は兄弟」と叫ぶテレビコマーシャルがあった。その同じスポンサーのコマーシャルでは「戸締り用心、火の用心」と叫ぶのもあった。

 

私は「世界が一つの家で人類が兄弟なら戸締りは要らないではないか。全く矛盾している。これではまったく日本浅薄振興会だ」と思った。しかし今は、このコマーシャルは「理想と現実との乖離」を的確に示していたと思うようになっている。決して「浅薄」ではなく、世の中の真実を訴えていたのだ。

 

誰でも世界の平和を願っている。しかし、現実世界は闘争戦争の繰り返しである。それが人類の歴史であり現実なのだ。今日、それはますますひどくなっている。自己防衛・安全保障体制を確立しておかないと、何時、外敵からどんなひどい目に遭わされるか分からない。

 

平和な世の中を願う気持ちは大切にしなければならない。また人と人とは出来得る限り信頼し合い愛し合わねばならない。しかし、自分自身そして祖国を外敵から防衛することは決して怠ってはならないと実感する。

 

実の兄弟・義理の叔父まで無惨に殺してしまう独裁者が支配し核武装してミサイルをわが国周辺海域・排他的経済水域にミサイルを撃ち込む国、そして周辺諸国を侵略支配し政敵を監獄に放り込む独裁者が支配している核大国がすぐ隣にあるのだから。

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2017年3月 7日 (火)

木造建築及び煙草について

以前、『日経』のコラム欄に、佐伯一麦という作家の方が。大要次のようなことを書いていた。

 

「鉄筋コンクリートの床があらわになった空間は、人の声を硬く撥ね返し刺々しくする。木造家屋で話をすると自分の声が天井などに柔らかく吸収され、自然な口調になる。学校でのいじめ問題も、校舎が鉄筋コンクリートになったため、声が硬く反響する空間で、苛立ちや拒絶が倍加するのではないか」。

 

小生の小学校時代は、戦後建てられた木造モルタル造りの校舎で、冬は石炭やコークスを使ったストーブで暖をとった。窓などから隙間風が入って来た。子供たちの殆どは手の平や耳たぶにしもやけが出来ていた。給食もうまくはなかった。一クラス五十人以上のすし詰め学級だった。

 

勿論、いじめっ子はいたし、いじめもあった。しかし今のような陰惨ないじめはなかった。自殺に追い込むというような歯止めのきかないいじめはなかった。

 

校舎が立派になり鉄筋コンクリート、冷暖房付きなり、給食がうまくなり、「教育施設」が充実しても、決して子供たちが伸び伸びと明るく健全に育っているというわけではないようである。

 

これは、学校に限ったことではない。人類全体が、科学技術が進歩発展し、生活が快適になっても、人と人との争い、国家民族同士の戦争は、ますます激化しとどまるところを知らない。むしろ科学技術が進歩発展しているだけに、戦争の惨禍がよりひどくなっている。

 

日本の建物を全部木造に戻すということは不可能だが、内部だけでも出来るだけ木と紙を使った建物にしてほしい。

 

先日、神田学士会館の喫煙コーナーに煙草を吸いに入ると、お年を召した男性の方が煙草を吸っておられた。その方曰く「煙草を吸う民族や地域はあまり争い事や戦争は起らない。アメリカは禁煙大国だが戦闘的だ。コーヒーは心を落ち着かせる効能持つ。煙草とコーヒーはむやみに抑制すべきではない」という意味のことを言っておられた。ご職業を聞くと、ある有名なコーヒーメーカーの元社長・現顧問とのことであった。

 

飲み過ぎは良くないに決まっているが、煙草は決して百害あって一利なしとは言えない。精神を落ち着かせる効能がある。ただし、煙草を吸う人は戦闘的ではないというのには大いに疑問がある。共産支那の初代皇帝・毛沢東も、北朝鮮の初代皇帝・金日成も愛煙家であったが、残虐さ・戦闘的という面では比類がない人物であった。

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2017年3月 6日 (月)

教育において「人の命・自然の命を拝ろがむ精神」を涵養することが大切

 

学校で人命に関わる事件が起こると、「学校長が全校集会で゙人の命の大切さ゛を改めて生徒たちに教えた」などと報道される。 

 

「人の命を尊ぶ心」は、人間が単なる物質的な存在であるとする唯物論からは絶対に出て来ない。「戦後教育」は、唯物論を本旨とするマルクス・レーニン主義勢力=左翼教員組合によって牛耳られ、学校教育の場において戦後一貫して唯物論教育が行なわれてきた。その結果が、現在の惨状である。

 

旧ソ連・共産支那・北朝鮮・カンボシアなどの共産国家による自国民殺戮および対外侵略を見れば火をみるよりも明らかである。また、わが国内においても、共産主義者集団による武装闘争・リンチ・テロによる殺戮は凄まじいものがあった。

 

共産主義者・唯物論者というかイデオロギーにとりつかれた人間がいかにひどい人格・人間性の持ち主になるかは、これまでの歴史が証明している。二十世紀はマルクス・レーニン主義、スターリン主義、毛沢東思想という「イデオロギー」の残酷な実験場だった。その実験場において幾千万という人間が「実験動物」として殺されたり、殺し合いを行ったのである。

 

人の命の尊厳性を子供たちに正しく教えるには、唯物論を否定し、神仏を尊び人間生命の永遠を信じる「宗教的情操を涵養する教育」が正しく行なわれなければならない。ところが、戦後日本においては、まともな「宗教教育」が行われて来なかった。

 

しかしながら、古代から今日に至るまで宗教戦争によって多くの人命が奪われてきたことも事実である。こうしたことを考えると、宗教教育・宗教心の涵養とは言っても、宗教なら何でもいいというわけには行かない。教育の場において、正しい宗教観を子供たちに植えつけ、間違った宗教にとりつかれないようにすることが必要である。

 

正しい宗教精神の涵養によって、人の命の尊さを分からせることができるだけでなく、人の命だけでなく、自然の命、そして亡くなった人々すなわち先祖を尊ぶ心も養われるのである。「人の命・自然の命を、神として仏として拝ろがむ精神」が大切である。そして、人としての生きる道、踏み行うべき道を指し示すことができるのである。

 

「宗教教育」は、特定の教団の教義を強制的に子供たちに教えることではない。わが国生成以来の国民信仰であるところの神道、そして長い歴史の中で日本に包摂され高度なものとなってきた日本儒教や日本佛教などの宗教精神を、学校教育の場で正しく子供たちに教えることが「宗教教育」である。それによって人の命の尊さを分からせることができるだけでなく、人としての生きる道、踏み行うべき道を指し示すことができるのである。

 

さらに、正しい宗教精神の涵養によって、人の命だけでなく、自然の命、そして亡くなった人々すなわち先祖を尊ぶ心も養われるのである。「人の命・自然の命を、神として仏として拝ろがむ精神」が大切である。

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2017年2月20日 (月)

我慢も限界

 

 自民党は、野党時代、「政府主催で建国記念の日を祝う式典を開催する」という公約を掲げた。自民党が政権を奪還し、「日本を取り戻す」を政治理念とする安倍晋三氏が総理総裁となり、愈々政府主催の建国記念の日奉祝式典が行われると期待していたが、今日に至るまで実現していない。これは一体どうした事か。これは公約違反などという生易しい問題ではない。まさに「日本を取りもどす」即ち国家再生・維新断行の根本問題の一つである。

 

「真正保守」と言われている学者・評論家・国民運動組織は、安倍晋三総理を批判することを遠慮しているようである。他の政治家例えば福田康夫氏や石破茂氏が総理として安倍氏と同じようなこと、即ち「戦後七十年談話」「建国記念の日の政府主催行事の不実行」「慰安婦問題の決着」「靖国神社総理参拝の不実行」などをしたら、大変の非難攻撃を行うであろう。私も安倍総理を正面から批判することを控えてきた。しかしもう我慢も限界といった思いである。

 

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2017年1月14日 (土)

日本こそ『強盛国家』にならねばならない

国家をグローバルな枠組みに従属させ、各国からナショナルなアイデンティティーを剥奪する動きが続いてきた。これに対する反発が世界各地域で起こっている。イギリスのEU離脱、トランプ大統領の登場、ドゥテルテ大統領の登場など、グローバル対ナショナルという構図が成立し、後者が前者に選挙で競り勝つという現象が世界各地で起こっている。こうした事態に日本は如何に対処し、如何なる立ち位置に立つべきであろうか。

 

アメリカという国は、わが國に対して、爆撃すれば相手が屈服すると思って、原爆投下・焼夷弾投下などの空爆を敢行し無辜の民を殺戮した。いくら日米同盟が大事だとは言っても、この事は忘れてはならないと思う。

 

アメリカのご都合主義に振り回されてきたのが戦後日本である。日本を二度と再びアメリカに刃向かわせないようにするために、「占領憲法」を押し付けたのに、朝鮮戦争が始まり共産国家との対決が激化するや、再軍備を迫って来た。「現行占領憲法」がある限り、日本は独立国家ではないし対米自立はあり得ない。

 

日米安保体制の枠内で憲法九条がどうの、安保法制がどうの、といったことを議論する時代は去ったと思う。日本は米国に軍事でも経済でも依存しない「偉大な国」になれば良いのである。わが国がアメリカと対等の立場に立ち、言いたいことが言える国になるためには、自主防衛体制を確立し、自主憲法を制定し、真の独立国家として再生しなければならない。

 

アメリカからの自立と共産支那の排除が必要である。その前提は、戦後体制の打倒である。自主防衛体制確立・対米自立・対共産支那の圧迫の排除とは「日本の核武装」である。最近、トランプ氏の登場で、核武装論議が起っている。日本は核武装すべきだが、トランプと雖も許さないであろう。米軍部が猛反対すると思う。アメリカは、日本がアメリカの軍事的保護下にいるのならいいが、日本が核武装をすると、あの真珠湾攻撃のようにアメリカに撃ち込んでくるのではないかという恐れを今も持っていると思う。

 

ただし、不本意ではあるが、共産支那・北朝鮮による軍事的脅威を受けている日本は、今はアメリカを敵に回してはならないと思う。それこそ共産支那の思う壺である。わが国が核武装し、自主防衛体制を確立するまでは、日米軍事同盟は必要である。この矛盾からいかに脱却するかが問題なのである。

 

戦後日本の復興は、アメリカの占領政策が成功したからではない。明治大正世代の日本人が優秀だったから復興したのである。日本人の血のにじむような努力で復興を遂げたのである。むしろアメリカは日本を弱体化しようと様々なことを行ったのである。

 

私は、ベトナムという国を見直している。フランスと戦い、アメリカと戦い、共産支那と戦い、屈服しなかったあの国を日本は見習わねばならないと思う。ベトナム・イスラエル・北朝鮮は大国ではないが、それなりの力を持ち、支那やロシアやアメリカの言いなりにならない。日本はこの点は見習わねばならない。支那・ロシア・アメリカの言いなりにならない国にならねばならない。

 

一方、共産支那は今や軍事大国・侵略国家の顔を持っている。日本に公害・自然保護対策などの協力をしてもらいたい時には開発途上国の顔を使い、わが國の領土や資源を奪おうとする時には、軍事大国・侵略国家としての顔をして迫ってきている。

 

共産支那は「日中国交」樹立時には、「ソ連は覇権国家だ」と主張し、日米安保も容認し、わが國の北方領土返還要求を支持していたが、日本の経済技術援助のお蔭で経済発展に成功すると、支那自体がアジアにおける覇権国家となり、日本をはじめとしたアジア諸国に脅威を与えている。『恩を仇で返す』とはこのことだ。

 

わが国は共産支那のこうした戦略に毅然とした態度でのぞまなければ、やがて支那の属国になるか、さもなければつぶされる。

 

今後の日本は、いかにして「中華帝国主義」の侵略から祖国を守るかが最大の課題である。「対米自立」の根本に、まず以て日本の敗戦国意識の払拭そして日本の真の自立が確立されなければならない。北朝鮮ではないが日本こそ『強盛国家』にならねばならない。

 

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2017年1月12日 (木)

今日思ったこと

ご譲位に関連して色々報道が行われているが、陛下の御裁可を仰いでいるのであろうか。

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日本の今日的使命

米ソ二超大国による冷戦構造が崩壊した後、世界は平和にるという期待が持たれたが、全くそうはならなかった。むしろ、民族問題・領土問題・資源問題・宗教問題などで冷戦どころか熱い戦いが世界各地で起こっている。

 

資本主義と共産主義は共に、世界各民族・各国家の歴史と伝統を無視し破壊するグローバリズムの思想である。資本主義も共産主義も共に、人間の経済的物質的豊かさを実現することを至上の目的とし、人間の道義精神、国家民族傳統精神を軽視あるいは無視する思想である。

 


アメリカ覇権主義、共産支那の中華帝國主義、ロシアの拡張主義、さらには北朝鮮の暴虐が渦巻く狭間にあって、わが日本は、祖国の独立と安全を守るために必死になって戦わなければならないにもかかわらず、残念ながら、国民の多くは日本の傳統精神、國體精神を忘却し、内部から破壊されつつある。

 

グローバリズムの推進によって、多くの国家が世界を一つの市場として利害を共有すれば、世界規模の戦争勃発の危険性を大きく低下させ平和が実現するという考え方があった。しかし、現実には、各国の利害が衝突すると共に、持てる国と持たざる国との格差が広がっている。また無資源国が高値で資源購入を余儀なくされる状況になりつつある。

 

そしてグローバリズムの市場共有を放棄し武力行使をする国が再び出始める可能性も生ずる。つまり、再びブロック経済第二次世界大戦を勃発させた時に近い状況になりつつある。グローバリズムこそ、世界平和実現を阻む大きな要因になっている。

 

わが國の建国の精神は、「八紘爲宇」の精神である。これは、世界は色々な民族・国家が連帯し共存する一つの家であるという精神である。また近代日本の父と仰がれる明治天皇の御精神は、「四海同胞」の精神である。これは、世界の民は兄弟であるという精神である。日本は本来的に言葉の真の意味における平和国家である。

 

日本はその傳統信仰の靈的精神の偉大なる包容力によって、よく他國の宗教・文化・文明を取り入れてそれを融和せしめ洗練して、強靱にして高度な日本文化として開花せしめる力を持っているのである。

 

世界各国各民族にはそれぞれ伝統精神・傳統文化を保持している。世界の愛国者は、グローバリズムすなわち市場原理主義と共産主義という二つの覇権思想を否定し、各国各民族の個性・立場・歴史・傳統を尊重し合い、真の意味の平和な世界を実現しなければならない。そのさきがけの役目を果たすのが日本である。

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2017年1月11日 (水)

維新について

 

 今日の危機的状況を打開するためには、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち平成維新を断行しなければならないと信ずる。

 

明治維新前夜は、アメリカなどの西欧列強が徳川幕府の弱体化に付け入って武力による圧迫を以て屈辱的な開港を日本に迫って来た。徳川幕府は、外圧を恐れかつ自らの権力=徳川幕藩體制を維持せんとしてそれを甘受しやうとした。かうした状況を打開し、王政復古すなはち天皇中心の國體を明らかにして強力な統一國家を建設し外圧を撥ね除けやうとしたのが明治維新である。

 

何処の國の革命も変革も、洋の東西・時の今昔を問はず、またその変革の是非を問はず、外國との関連・外國からの圧力によって為し遂げられたと言へる。古代日本の大変革たる大化改新も支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻の危機下に行はれた。ロシア革命も日露戦争・第一次世界大戦の影響下に行はれた。辛亥革命は阿片戦争が影響した。アメリカ独立革命は言ふまでもなくイギリスとの戦ひであった。明治維新もまたしかりである。

 

わが國のやうに建国以来三千年の歴史を有し高度な統合を実現してゐる國家に強大な外敵が出現した場合、民族的一體感・ナショナリズムが沸き起こるのは当然である。西洋列強の日本に対する圧迫が強まった時、これを撥ね除けるために藩といふ地域そして士農工商といふ身分制度を乗り越えて、天皇を中心とした日本國家・民族の一体感・運命共同意識を回復して外敵に当たろうとしたのである。

 

 國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

 

「攘夷」とは夷狄(野蛮な外國)を撃ち攘ふといふことである。西欧列強といふ侵略者、異質の文化に直面した日本民族の國民的自覚と祖國防衛・独立維持の情念の噴出である。アメリカやロシアの軍艦の来航といふ國家的危機に直面して、國防意識が全國民的に高まった時に、自然に発生し燃え上がった激しき情念である。

 

「尊皇攘夷」の起源は、貝塚茂樹氏によると、北狄や南蛮の侵略にあった古代支那(周の末期)の都市國家群・支那民族が、危機を乗り越えやうとした時の旗幟(きし)である。ただし支那の場合は、「尊皇」ではなく「尊王」である。

 

 日本國の長い歴史の中で、「攘夷」の精神は静かに表面に出ず脈々と継承され生き続けたのであるが、白村江の戦いの敗北・元寇・幕末・大東亜戦争といふ外患の時期においてこの精神が昂揚した。

 

 大化改新と明治維新は共通する面が多い。それは外圧の排除であり、政治体制・法体制の整備であり、外國文明・文化の受容である。大化改新後の律令國家体制は明治維新後の明治憲法体制と相似である。

 

維新のことを日本的変革といふ。日本の伝統精神に基づいた変革が維新であり、日本の本来あるべき姿即ち天皇中心の國體を開顕する変革が維新である。維新と革命の違ひは変革の原理を天皇とするか否かである。ゆゑに明治維新は革命ではない。

 

また、神武建國の精神に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではない。日本の道統への回帰である。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になるのである。これを「維新とは復古即革新である」と言ふ。

 

徳川幕藩体制から天皇中心の統一國家への転生は、体制変革のみならず、精神の変革がその根底にあった。日本國家の発展と安定の基礎は、天皇中心の信仰共同体としての日本國體が、現実の國家運営の基盤として正しく開顕してゐることにある。

 

 近代のみならずわが國の歴史が始まって以来、日本國家を統合する<核>が天皇であった。急速な変化と激動の中で、わが國が祖先から受け継いだ伝統を護り、かつ変革を為し遂げた<核>が、天皇のご存在であった。わが國は、どのやうな困難な時期においても、常に伝統を守り、統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その<核>が天皇であった。

 

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。

 

事実、明治維新断行後、天皇を統治者として仰ぎつつ、封建的身分制度は廃止され、廃藩置県によって統一國家が建設され、帝國憲法の発布・議会政治が開始された。そしてわが国は、欧米列強の支配下に置かれることはなかった。

 

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は、外来文化・宗教・文明を受容しても、その中核には、天皇を中心とするわが國體精神があった。特に政治・倫理・文化など國家民族形成の基本においてしかりであった。

 

日本人は優秀である。その優秀さは、勤勉性、高い道義心、協力と献身の精神の旺盛さ、謹厳実直さなど色々挙げられるだらう。

 

わが國の祭祀主は、上御一人日本天皇であり、天皇はもっとも清浄な御方であり、現御神であらせられる。天皇が政治・軍事・文化・宗教の最高権威者であらせられる。天皇帰一の國體の開顕が維新である。内憂外患交々来たると言った状況にある今日こそ、維新断行の時である。

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