2014年11月15日 (土)

『進撃の阪神巨人演歌コンサート』を鑑賞

今日鑑賞した『進撃の阪神巨人演歌コンサート』の第一部は、深見東州氏が、「北の宿から」「哀しみ本線日本海」「天城越え」「カスバの女」「ベッドで煙草を吸わないで」「高校三年生」「黒い花びら」「伊勢佐木町ブルース」「函館の女」「星降る街角」など懐かしい歌を披露した。

 

深見氏は能楽師であると共にオペラ歌手でもあるので、朗々とした歌声であった。「哀しみ本線日本海」「天城越え」がとても心に響いた。「黒い花びら」は大ヒットした極であるがあまり歌われることがない。今日は久しぶりに聞いた。「高校三年生」は私が高校三年生の時にヒットしたので大変印象深い歌である。また、ジャズ調で歌った「カスバの女」も良かった。「カスバの女」は、私の好きな曲で。「ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く 酒場の女の薄情け」という歌詞が印象的である。エト邦枝という女性歌手が懐メロ番組で歌っていたのを懐かしく思い出した。また、京王線か小田急線沿線のある駅のそばで「エト邦枝歌謡教室」という看板が出ていたのを思い出した。深見氏が熱唱した「星降る街角」も良かった。

 

第二部は、小林旭氏が、「自動車ショー歌」で登場し、「アキラのズンドコ節」「昔の名前で出ています」「熱き心に」などを歌った。やはり「熱き心に」が一番胸を打った。正直に言って、私は小林旭のことを昔は全く好きではなかった。しかし、年を重ねられた小林旭氏は、重厚な感じになっていて、好感を持つようになっている。それは宝田明、津川雅彦両氏と同じである。最近は俳優と言うよりも歌手として大活躍しているが、息の長い芸能人である。

 

私は歌が好きで、昔はカラオケスナックに毎日のように通った。歌った歌は殆どが演歌であり懐メロであった。渡辺はま子先生、田端義夫氏、そしてコロムビアトップ氏ご存命中は、よく歌謡曲の舞台を見に行った。渡辺先生、トップ師匠と親しくさせて頂いたので、関係者のような顔をして、楽屋や舞台の袖で、歌謡ショーを鑑賞した。お二方が他界された後は、全く見に行くことはなくなっていた。今日は本当に久しぶりに歌謡曲のリサイタルを観賞した。

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2014年5月27日 (火)

渡辺はま子・三波春夫両氏は、私にとって尊敬する歌手である

小生は、歌が好きである。よく歌ふ歌は、『元禄名槍譜・俵星玄蕃』と『ああモンテンルパの夜は更けて』である。『元禄名槍譜・俵星玄蕃』は、三波春夫氏が歌った長編歌謡浪曲である。高校時代にレコードを購入して憶へて以来、今日まで歌ひ続けてゐる。赤穂浪士の吉良邸討ち入りを助けた槍の名人・俵星玄蕃を主人公にした歌謡浪曲である。忠臣蔵のテーマである「主君のために尽くすまごころ」「忠義の心」は、日本人の心情の中でも最も大切なものであり、多くの人々が共感する。

 

『ああモンテンルパの夜は更けて』は、渡辺はま子さんが歌った。フィリッピンの捕虜収容所に収容されてゐた日本人捕虜の方が作詞・作曲した歌である。渡辺はま子さんがレコード化し大ヒットした。渡辺はま子さんは、苦労してフイリッビンに赴き、捕虜収容所を慰問し、この歌や「支那の夜」などのヒット曲を歌った。そして当時のキリノ大統領と面会し、この歌のオルゴールを聞いてもらった。キリノ大統領は非常に感激した。また、釈放運動も行はれ、「戦犯」と言はれた人々は、帰国することが出来た。渡辺さんは、「帰国したと言っても三つの帰り方があった。一つは、遺骨になって帰国、一つはそのまま巣鴨プリズンに収容、もう一つはそのまま自由の身になった」と語ってをられた。

 

私は、故野村秋介氏にフィリッピンに連れて行っていただいた時に、モンテンルパ刑務所の処刑台のそばでこの歌を歌はせていただいた。涙があふれてとどまらなかった。終生忘れることが出来ない思ひ出である。

 

渡辺はま子・三波春夫両氏は、私にとって好きな歌手といふよりも尊敬する歌手である。

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2013年4月27日 (土)

田端義夫氏の逝去を悼む

田端義夫氏が亡くなった。田端氏は、昭和十四年、「島の船歌」という歌でデビューした人である。戦前から活躍している歌手である。戦前デビューした歌手でご存命だった方は、田端氏のみであろう。後輩の三波・村田・春日の各氏の方が先に亡くなった。大正八年一月一日生まれで私の父と同年である。そういう意味でも大変親近感を抱いていた。田端氏は幼少の頃大変苦労をした人である。

私が田端氏を初めて知ったのは、昭和三十八年「島育ち」のヒットでカムバックとした時である。「島育ち」は奄美大島のことを歌った歌で、素朴ではあるが、心にしみる良い歌である。そして、田端氏のヒット曲を集めた三十センチLP盤レコードを購入した。ヒマがあると、いやなくても、「大利根月夜」「ふるさとの灯台」「別れ船」「帰り船」「玄海ブルース」「月の出船」「かよい船」「ズンドコ節」「雨の屋台」などのヒット曲を聞いたり歌ったりして過ごした。高校時代である。

田端氏の歌は、心にしみる歌が多いし、彼の人柄が庶民的というか親しみやすい感じがした。そしてヒット曲にはそういう庶民の心をよく表現した歌が多かった。田端氏の歌声と共に、清水みのる、藤田まさとなどの詞、長津義司、倉若晴生などの曲が素晴らしかった。

日劇や国際劇場や厚生年金会館などでの田端氏の歌謡ショーを見に行った。この三つの劇場は今や跡形もない。

田端氏のファンになったのをきっかけとして、他のいわゆる懐メロ歌手にも興味を持った。東海林太郎、藤山一郎、霧島昇、ほとんどの歌手の方々のレコードを買い込んだ。東京十二チャンネルなどの懐メロ番組もよく見た。そればかりか、「年忘れ日本の歌」という大晦日に歌舞伎座などで収録された懐メロ大会の楽屋に行って、歌手たちと会ったりした。渡辺はま子先生やコロムビアトップ氏に頼み込んで、関係者のような顔をして舞台の袖に入り込んで見物した。

どなたかが田端氏の逝去によって「愈々昭和が遠くなった」と書かれていたが、本当にそのように思われる。しかし田端氏の歌った名曲の数々はこれからもずっと歌い継がれるであろう。心よりご冥福を祈る。

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2011年12月18日 (日)

嵐寛寿郎について

『水戸黄門』が終了することが話題になっている。テレビの時代劇も次第に少なくなってきていたが、いよいよ最後の砦とでも言うべきこの番組もなくなってしまう。里見浩太郎氏は、往年の時代劇それもテレビではなくチャンバラ映画の伝統を継承している殆どただ一人の役者だろう。

時代劇・チャンバラと言うと、私は幼少の頃から、嵐寛寿郎の大ファンであった。私は、豪華絢爛たる東映チャンバラ映画よりも、つぶれかかった新東宝のアラカン主演のチャンバラ映画の方が好きだった。

嵐寛寿郎の大ファンになったきっかけは、昭和三十二年、私が十歳の時に『明治天皇と日露大戦争』を見て感激してからである。二百三高地の橘大隊長戦死の場面を涙を流しながら見たのをよく覚えている。

『大東亜戦争と国際裁判』での東条英機役、『皇室と戦争とわが民族』での神武天皇役などを見た。さらに、高倉健主演の『網走番外地』「鬼寅」役で毎回出演した。第一作での迫力は凄く、主役を食っていた。

『鞍馬天狗』を映画館で見たのは昭和二十八年の最終作のみで、他の作品はテレビで見た。私の母も小さい頃からアラカンの大ファンであった。親子二代にわたるアラカンファンという事になる。

竹中労氏と親しくなったのも、竹中氏がアラカンファンであり、昭和五十一年に『鞍馬天狗のおじさんは-聞書アラカン一代』という著書まで出したからである。

私はファンであった田谷力三・島田正吾・渡辺はま子の三氏には会うことができ、色々お話を伺い、色紙などもいただいたが、嵐寛寿郎氏には会うことができなかったのが残念である。

『水戸黄門』は、典型的な所謂「勧善懲悪」の時代劇である。こういう番組がなくなるのは残念である。しかし実際の話。私も最近はあまり見ることはなくなっていた。私にとっての水戸黄門は、里見氏でも東野英二郎氏でもなく、やはり月形龍之介である。私は自分の性格が素直なためか、アラカン・大河内伝次郎・月形龍之介など癖のある役者、別な言い方をすれば個性的な俳優が好きである。

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2011年11月24日 (木)

立川談志さんを悼む

立川談志さんが亡くなられた。立川談志さんは、千駄木の隣町の根津に住んでおられたので、地下鉄の中、根津の路上、そして谷中の酒場でもよくお目にかかった。故野村秋介氏のパーティーでお目にかかった時は、壇上から別人であるとわかっていて小生に『加瀬先生、加瀬先生でしょ』と呼びかけられたこともある。私が加瀬英明氏に似ていると思われていたのであろう。

小生の叔母が親しかった庭野千草さんという女優さんと談志さんも親しかったようなので、その人のことも共通の話題となった。また、先代の立川談志さんも我が家のすぐ近くに住んでおられた。談志さんは、「未亡人から主人の名前を大きくしてくれて有難う」とお礼を言われたと言っておられた。

そういうことで、私は談志さんのファンであり、親近感を抱いていた。またバイタリティーと芸能史についての博識ぶりに感服していた。談志さんが「管理社会」となりつつある現代日本において、枠にはまらない生き方をしておられることに敬意を表していた。

小生は、下町育なので、笑芸は好きである。隣町の日暮里に住んでいた古今亭志ん生・金原亭馬生・古今亭志ん朝にもよく会った。志ん朝さんは小学校・中学校の先輩である。

学生時代、上野の鈴本や本牧亭にはずいぶん行った。ある日、鈴本に行った時、談志さんが出演すると書かれていたので期待していたら休演で、代演の方が出て「談志は二日酔いで寝てます」と言ったのには笑わされた。その代演の人は、名前は忘れたが軍歌・ナツメロを歌いまくる落語をする人と記憶する。

以前行った山形天童温泉の「鶴亀荘」とかいうホテルに談志さんの色紙や手紙がたくさん展示されていた。その中の色紙に「鶴は千年、亀は万年、立川談志はあと二年」と書かれていた。小生が見たのは平成十五年の秋と記憶するから、その色紙を書いてからきっと十年以上は過ぎたと思う。

死を覚悟しつつ十年以上も生きられ、しかも芸道を歩み続けられたわけである。それにしても、個性のある人が次第に少なくなるのは本当にさみしいことである。談志さんは落語家であると共に独特の文化論を展開する批評家であったと思う。その生き様もまた学ぶところが多かった。

心よりご冥福をお祈りします。

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2011年2月19日 (土)

新国劇について

今日は仕事をしながら、平成元年に録画した新国劇十八番「極め付け国定忠治」を鑑賞しました。約三十年前の昭和五十五年、読売ホールでの公演です。主役の国定忠治はもちろん辰巳柳太郎。川田屋次は島田正吾、日光の円蔵は宮本曠二郎、山形屋藤蔵は緒形拳でした。出演者の殆どは故人となっております。

私は高校生時代に明治座で見て以来、新国劇が大好きになりました。そして東京での公演は殆ど見に行きました。「国定忠治の」の名セリフは暗記しています。赤城山天神山の場の「赤城の山も今夜を限り」はもちろん、「犯した罪の数々に首は細っても長岡の忠治、生涯男の魂は曇らせたくねえ了見だ」「何を隠そう高飛車に出て、子分の衆に斬られようと、企んで来たが相親の御室の最後を見るにつけ、矢竹心の張りも切れ、年寄りの意気地はなくなった。笑って死のうぜ、やってくんねえ」などです。

そして「瞼の母」の「親に放れた小僧っ子がぐれたを叱るはちっと無理。堅気になるはの遅蒔きでござんす」「幼い時に別れた母親の顔は、こう瞼の上下ぴったり合わせ、思い出しゃあ、絵に描いたように浮かんで来るんだ。それでいいんだ、会いたくなったら俺は目をつぶろうよ」。「大菩薩峠」の「親もいない、子もいない、妻もなければ、兄弟もない、天涯孤独の龍之介」、なども覚えております。

銀座で偶然にお会いした島田正吾氏に握手をしていただきながら、「瞼の母」のセリフを言ったら、大変喜んでいただきました。島田氏の楽屋を訪問し、お話を伺ったこともあります。島田氏の色紙は私の宝の一つであります。

新国劇は「男の劇団」と呼ばれ、義理人情の世界を描いた劇を多く上演しました。日本人の伝統というか、美風というものを伝える劇団だったと思います。今は、新国劇もなくなり、島田・辰巳両氏も、そして緒形拳氏も亡くなってしまいました。本当にさみしい限りです。

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