今年も過ぎ去らうとしてゐます。色々な事がありました。国家的にはコロナウイルス禍の猖獗であることは言ふまでもありません。
私個人のことで言へば、暮れにまた心不全で入院したことです。これは医師の「是非に」といふ勧めによるものです。前回より長く苦しい入院生活でした。個人的なことですので、詳しくは書きませんが、医師と看護師が実によく面倒を見てくれたことに感謝してゐます。
今年は、長年にわたった親しくさせて頂いた方、運動の同志が何人か亡くなりました。特に古賀俊昭東京都議、村上正邦元参院議員の逝去は残念でもありさみしくもありました。
古賀さんとは昭和四十年代の学生時代から同志でした。彼は日本学生同盟、私は生長の家学生部に属してゐました。彼は関西、私は東京で活動してゐました。
時が経過して、古賀氏は東京日野市議会議員となり、活躍しました。私が存じ上げてゐた古屋太郎といふ都議会議員の後継者として東京都議となり、真正保守運動で大活躍しました。特に国語国字問題では地道に活動しておられました。名刺も選挙のための文書も縦書きの堅持しておられました。
信念を曲げない人でした。したがって自民党内においても、都議会においてもどちらかといふと非主流派に属してゐました。しかし蔭の重鎮としての存在感を発揮してゐました。本当に頭の下がる人物、尊敬できる人物でした。まだ七十歳になったばかりでしたから、もっともっと活躍してほしかったと思ひます。
村上正邦氏は、小生が高校生の頃、それこそ生長の家の活動を熱心にしてゐた頃からの知己です。村上氏は、玉置和郎氏の秘書として玉置氏の当選のために頑張ってゐました。秘書とは言っても、玉置氏と対等の関係に近いやうでした。拓殖大学の先輩後輩だったのでせう。
ともかく声は大きいし、主張を貫き通す強固な信念と性格を持ってゐた人で、インテリ宗教といはれた団体で「おとなしく品のある人」が多い生長の家では珍しい存在だったと思ひます。
村上氏自身も参院議員となり、参院自民党幹事長にまで上り詰めました。一時はまさに飛ぶ鳥落とす勢いでした。村上氏の思ひ出を詳しく書くと、生長の家の政治運動の歴史、そして選挙運動の歴史を書かねばなりません。別の機会にしたいと思ひます。
ともかくさみしくなりました。古賀俊昭・村上正邦両氏のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。
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