2017年11月26日 (日)

本日散策した日暮里・谷中の風景写真

本日散策した日暮里・谷中の風景写真を掲載します。

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日暮里の高層マンション

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諏方神社の黄葉

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諏方神社の黄葉

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日暮里養福寺の弘法大師像

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谷中大仏(天王寺釈迦牟尼仏像)

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谷中霊園の巨木

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谷中霊園の黄葉

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谷中霊園の来島恒喜氏墓所

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谷中霊園の渋沢栄一氏墓所

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谷中霊園の巨木

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東京藝術大学の紅葉

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2017年5月 6日 (土)

土佐の国にて

土佐の国に行って来ました。

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桂浜・坂本龍馬像

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高知城天守

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四万十川

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足摺岬

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高知空港・吉田茂像

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四万十川にて(小生)。少し痩せたと思っていたのですが、全くそうは見えません。

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2017年4月 6日 (木)

谷中霊園散策記

本日散策した谷中霊園では、次の方々の墓所を拝した。

澀澤榮一(号青淵)  幕臣、維新後は大蔵官僚実業家第一国立銀行東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営。「日本資本主義の父」ともいわれる。漢学特に論語に造詣が深く、論語に関する著書がある。私の母校二松学舎を援助し、舎長に就任している。また私が書生をしたことがある野依秀市先生のことも援助した。

坊城俊章 幕末の公家、戊辰戦争に参加。明治期の陸軍軍人・政治家。陸軍歩兵中佐、貴族院伯爵議員。日清戦争では台湾兵站司令官として活躍。 陸軍少将、山形県知事

 

大道長安  明治期の曹洞宗の僧。救世教(熱海の救世教とは全く別)の祖。越後国(新潟県)の出身、観音信仰と在家主義に立ち、社会貢献を訴える救世主義を唱えた明治41年、長安が没すると救世教は三代まで続いたようだが、活動を主導する後継者を立てることができず消滅したという。墓所は荒れていた。

 

出羽の海秀光 第31代横綱常ノ花寛市。相撲協会理事長。本名は山野辺 寛一(やまのべ かんいち)。私の幼少の頃はこの人が相撲協会のトップ。昭和三十二年、衆議院予算委員会で日本相撲協会の在り方が追及されて改革を迫られ、心労と責任感から、同年五月四日に蔵前国技館内の取締室にガスを充満させ割腹自決を図ったが命をとりとめた。相撲好きの私には、今も印象に残っている事件であった。

有坂 成章 長州藩士。日本陸軍軍人、男爵。帝国陸軍の国産小銃を開発した。最終階級は陸軍中将。別名に淳蔵。日露戦争の旅順攻略戦、奉天開戦に貢献。

 

鶴田 皓 明治時代の法制官僚。元老院議官。佐賀藩士。東京帝国大学法学部講師。諸法典編纂に参加。「元老院議官正二位勲二等鶴田君碑 司法大臣山田顕義篆額 大審院検事三島毅撰」という石碑が建てられてゐた。三島毅は、二松学舎の創立者である。谷中墓地や青山墓地には、三島毅先生が撰文を書いた石碑が多い。

 

戸田忠至 江戸時代後期(幕末)から明治時代前期にかけての大名。下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄でもあった。文久2年(1862年)閏814日、幕府が宇都宮藩の提出した山陵修補の建白を採用した。この頃、戸田姓に改める。同年1022日、宇都宮藩が幕府より天皇陵補修の命を受け、忠至は山陵奉行に任じられた。文久3年(1863年)121日、従五位下大和守に叙任する。元治元年(1864年)129日に大名格となり、同年712日に諸侯に加えられた。同年末までに畿内における山稜全ての補修を終了、慶応元年(1865年)925日に幕府はその功績に対し2000両を支給した。

 

重宗雄三 、昭和期の政治家、実業家。参議院議長を39年間にわたり務めた。山口県岩国市出身。佐藤・岸信介とともに長州御三家と呼ばれた。長期にわたって参院議長をとつとめ、且つ、岸佐藤兄弟と盟友関係にあったことから、大変な権勢を誇り、参議院は「重宗王国」と呼ばれた。歴史上の人物になったが、私は大学時代この人に会ったことがある。当時生長の家が参院選で重宗氏を推薦した。そして私は、当時永田町の角にあった平河ビルという政治家の事務所がたくさん入っているビルにあった重宗氏の事務所で手伝いをした。眼光の大変鋭い人であった。多くの政治家が事務所参りをしていた。その後、河野謙三氏などの反乱が起こり事実上失脚した。

竹内 綱 土佐藩士、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎は外曾孫。明治11年(1878年)4月、前年の西南戦争にあたり、西郷軍に通謀する立志社のために小銃800丁と弾薬を手当てし、西郷隆盛らに呼応して政府転覆を企てたという嫌疑がかけられる。その結果、士族の身分を剥奪された上、禁獄1年の刑に処せられた。竹内が逮捕されたのは炭鉱経営で出張中の長崎であったが、間もなく東京の獄につながれる。その中には陸奥宗光や林有造らが含まれていた。しかし、5月の大久保利通の暗殺以後、政府は国事犯を東京に置く危険を悟って、彼らを地方に分送した。竹内は911日、新潟の監獄に護送された。明治12年(1879年)8月、満期放免となった竹内は、板垣退助が創立した愛国社の再建に取り組むことになる。翌年、愛国社は国会期成同盟に改称されたが、竹内はこの国会期成同盟を足場にして、後藤象二郎らとともに国会開設・自由民権を掲げ、自由党結成の原案を作成した。私は竹内綱の墓所が谷中霊園にあったとは全く知らなかった。簡素な墓所であった。麻生氏はお参りをしているのだろうか。

 

小平 浪平 技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者。

 

小針重雄 三浦文治 琴田岩松 横山俊六 天野市太郎連名の墓 加波山事件(かばさんじけん)死刑になった人々。加波山事件とは明治七年(1884)に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。過激にして急進的な自由民権運動であった。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、爆弾を製造中に誤爆。計画が未遂に終わると、茨城県加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。また警察署や豪商の襲撃を行なった。この人々は市谷監獄で処刑されたという。

 

谷中霊園は、近代日本の歴史的人物が多く眠っている。体制側の人、そして反体制側の人が共に眠っている。

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2016年5月 9日 (月)

『出光美術館開館五十周年記念日の祝典』展参観記

本日参観した「2016年春、出光美術館は開館50周年を迎えます。その記念企画として所蔵の絵画作品から、国宝・重要文化財を中心とした屈指の優品を厳選して三部構成により一挙大公開いたします。第一部のテーマは、『やまと絵』。日本の伝統美を象徴する鮮やかな色彩と、やわらかな造形が織りなす『やまと絵』は、古来、宮廷文化に導かれながら発展してきました。とくに四季折々に移ろう山景や樹木の装い、そして野に会する花鳥たちの表情は、いつの世の人々にも愛され、絵に描かれることで独自の情緒や典雅な美意識を伝え遺してきました。優れた画家たちの手によって制作された、時代を代表する数々の名品を特集展示する本展では、重要文化財の『絵因果経』(奈良時代)や『真言八祖行状図』(平安時代)、『四季花木図屏風』(室町時代)をはじめとし、出光コレクションが誇る『やまと絵』の華麗なる展開をご紹介します。なおこの期間、国宝『伴大納言絵巻』上巻を10年ぶりに特別展示します」との趣旨(案内文)で開催された。

 

『伴大納言絵巻』(平安時代)、『長谷寺縁起絵巻』(南北朝時代)、『四季花木図屏風』(室町時代)、『吉野龍田図屏風』(桃山時代)、『月に秋草図屏風』(江戸時代)、『増長天像』『持国天像』(鎌倉時代)、『山越阿弥陀図』(南北朝時代)、『真言八祖行状図』(保延二年)などを参観。

 

「やまと絵」とは、支那風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり、平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画のことだそうである。『源氏物語絵巻』などの絵巻物かその典型と言ふ。

 

今日参観した『伴大納言絵巻』は、貞観8年(866)閏310日に起きた応天門の炎上(『応天門の変』)をめぐる大納言伴善男の陰謀、その露見と失脚を物語った絵巻物。火災現場に駆けつける検非違使の役人たち、炎上する応天門と、それを風上と風下で眺める群集、炎に包まれる応天門がリアルに描かれている。群衆一人一人の仕草や表情がこまかく描写されていてまことに面白い。このように克明な描写を平安時代の昔に描かれたことに驚く。後白河天皇に重用された宮廷絵師・常盤光長が主導的な役割を担ったと言う。

 

『応天門の変』は、当初は大納言伴善男(とも  よしお、弘仁2年(811年) - 貞観10年(868年)は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言により無罪となり、その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、拷問によって自白させられ、有罪となり、伴善男父子が流刑に処された事件である。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による大伴氏排斥事件とされている。『伴大納言絵巻』は藤原氏側に立った描かれ方がされているように思う。伴善男は、神代以来の明俗・大伴氏の血統をひく人物である。ということは、『萬葉集』の編纂者とされ、大歌人であった大伴家持の子孫である。大伴氏は、天孫降臨の先導役であった天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、『萬葉集』の時代から藤原氏と並ぶ氏族であった。何とも陰惨な事件である。

 

『山越阿弥陀図』も印象に残った。亡くなった人を阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩が極楽浄土から迎えに来た状景を描いている。まことに荘厳な作品で、こういう絵を見た人は、阿弥陀仏への信仰をより深めたと思われる。山の向うに浄土があると信じたのであろうか。日本浄土信仰発祥の地は、大和の二上山の麓である。そこには當麻寺(たいまでら)というお寺があり、西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」が伝えられている。東の三輪山から昇った太陽が西の二上山に沈む。大和に生活した古代の人々は二上山の彼方に淨土があると信じたのであろうか。

 見ごたえのある展覧会であった。

 

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2016年5月 7日 (土)

昭和天皇御製・皇后陛下御歌に拝する「現御神信仰」

昭和天皇おかせられては、昭和三十四年、『皇太子の結婚』と題されて、

 

あなうれし 神のみ前に 日の御子の いもせの契り むすぶこの朝

 

と詠ませられてゐる。「日の御子」とは「日の神すなはち天照大御神の御子」といふ意味である。「日嗣(ひつぎ)の御子」と同じ意義である。この御製は、戦勝國アメリカの占領軍の無理強いによって発せられた『昭和二十一年元旦の詔書』が「人間宣言」であったなどといふことを根底から否定する。昭和天皇におかせられては、天皇及び皇太子は「天照大御神の生みの御子=現御神である」との御自覚はいささかも揺らいでをられなかったことは、この御製を拝すればあまりにも明白である。

 

『萬葉集』に収められてゐる柿本人麻呂の歌には「やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと…」と高らかに歌ひあげられてゐる。「四方をやすらけくたいらけくしらしめされるわが大君、高く光る日の神の御子、神ながらに、神にますままに、…」といふほどの意である。この歌は、古代日本人の現御神日本天皇仰慕の無上の詠嘆である。

 

「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」といふ言葉は、『古事記』の景行天皇記の美夜受比売(みやづひめ)の御歌に最初に登場する。現御神信仰は、わが國古代以来今日まで繼承されて来たてゐる。

 

御歴代の天皇そして皇太子は、血統上は天照大御神・邇邇藝命・神武天皇のご子孫であり血統を継承されてゐるのであるが、信仰上は今上天皇も皇太子もひとしく天照大御神の「生みの御子」であらせられるのであり、天照大御神との御関係は邇邇藝命も神武天皇も今上天皇も皇太子も同一である。  

 

皇后陛下は、昭和三十五年、「浩宮誕生」と題されて、

 

あづかれる 宝にも似て あるときは 吾子(わこ)ながらかひな 畏れつつ抱(いだ)く

 

と詠ませられてゐる。ご自分のお産みになった御子ではあるけれども、「高光る 日の御子」であらせられるがゆゑに、宝の如く畏れつつ抱かれるといふ、まことに崇高なる御心をお詠みになったと拝する。

 

民間から皇太子妃殿下となられ、キリスト教教育を受けられた皇后陛下は、神話時代以来の「現御神信仰」を正しく受け継いでをられるのである。國體擁護・尊皇の立場に立つ人の中に、皇后陛下に対し奉り、不当にして理不尽な批判を行ふ人がゐるが、厳に慎むべきである。

 

葦津珍彦氏は「(注・今上天皇のご成婚に際して、皇后陛下がミッションスクールのご出身であられることによって)『皇室の傳統精神は確保され得るや』との真剣な憂念は、政府に対して強力に働きかけて来る。政府としては、御慶事を迎ふるための不可欠の準備としても、これら國民の心配を解消させなくてはならない。昨年末の十二月二十九日、皇太子妃教育の科目が発表されたが、その初めには宮中祭祀があげられ、次いで神宮祭祀が講義されると発表された。一月十四日、納采の儀に際しては、伊勢の神宮、畝傍の陵などに勅使が奉告のためさしつかはされた。いよいよ御成婚の盛儀は、賢所大前で神式の國家儀式でとり行はれるといふことになったわけである。…このやうな努力の必要を、政府に痛感させた原因は、…正田美智子さんが聖心女學院といふカトリック學校の優等生だったといふことから起ってゐる。…皇室は、キリスト教的教育を受けられた正田美智子さんを迎へたために、皇室神道の傳統を回復すべき好機を得られた、といふこともできる。歴史の流れといふものは、まことに複雑微妙であり、時によっては逆説的なコースをとるものである。」(「東宮殿下の御成婚の波紋」・『みやびと覇権』所収)と論じてゐる。

 

皇后陛下に対し奉り、國體否定論者ではなく、國體擁護の立場にあるとされる人からも色々な批判を耳にすることがある。中には「正田王朝」などといふ言葉を用いる「學者」もゐる。不届き至極である。

 

昭和三十四年のご成婚の時、「皇后は民間出身であってはならない」といふ批判が起って以来皇后陛下に対する反感が、一部の人々に地下のマグマのやうにくすぶり続けて来た。あってはならないことである。

 

皇后陛下は、宮中祭祀への伺候をはじめ「皇后」としてのご使命を果たされるべくつとめてこられた。皇后陛下の御歌を拝すれば、皇后陛下が、日本傳統精神そして皇室の傳統を常に重んじられ、回帰されつつ、皇后としての尊き道を歩まれてをられるがか分かる。

 

平成十五年  皇后陛下御歌

 出雲大社に詣でて

國譲(ゆづ)り 祀(まつ)られましし 大神の 奇しき御業(みわざ)を 偲びて止まず

 

平成十三年

外國(とつくに)の 風招(まね)きつつ 國柱(くにばしら) 太しくあれと 守り給ひき

 

この御歌についての、宮内庁ホームページの説明には「明治の開國にあたり,明治天皇が広く世界の叡智に學ぶことを奨励なさると共に,日本古来の思想や習慣を重んじられ,國の基を大切にお守りになったことへの崇敬をお詠みになった御歌。明治神宮御鎮座八十周年にあたり,御製,御歌の願い出があったが,六月に香淳皇后が崩御になり,今年の御献詠となった」とある。

平成十一年

結婚四十年を迎えて

遠白(とほしろ)き神代の時に入るごとく伊勢参道を君とゆきし日

 

平成八年

 終戦記念日に

海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたのみ靈(たま)國護(まも)るらむ

 

平成五年

 御遷宮の夜半に  

秋草の 園生(そのふ)に虫の 声満ちて み遷(うつ)りの刻(とき) 次第に近し

 

平成三年

 立太子礼

赤玉の 緒(を)さへ光りて 日嗣(ひつぎ)なる 皇子(みこ)とし立たす 春をことほぐ

 

平成二年

 明治神宮御鎮座七〇周年

聖(ひじり)なる 帝(みかど)にまして 越(こ)ゆるべき 心の山の ありと宣(の)らしき

この御歌についての宮内庁ホームページの説明には「この御歌は,明治天皇の御製『しづかなる心のおくにこえぬべきちとせの山はありとこそきけ』を拝してお詠みになったものです」とある。

 

 御即位を祝して

ながき年 目に親しみし み衣(ころも)の 黄丹(に)の色に 御代の朝あけ

 

畏れながら、「遠白(とほしろ)き神代の時に入るごとく伊勢参道を君とゆきし日」の御歌は、「今即神代」「神代即今」といふ日本傳統信仰の基本精神を、つつましくも清らかに歌はれた御歌と拝する。「赤玉の緒(を)さへ光りて日嗣(ひつぎ)なる皇子(みこ)とし立たす春をことほぐ」の御歌は、皇太子殿下は、天照大御神の靈統を継がれる御方であるといふ古来の傳統信仰すなはち現御神信仰を歌はれたのである。

 まことに畏れ多いことながら、皇太子雅子妃殿下におかせられても、色々精神的肉体的御苦労はあおりになったとしても、天皇皇后両陛下の祭祀、そして日本傳統信仰のご体得、国民を思はれる仁慈の御心を見習はれ、継承されることであらう。

 

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2016年1月27日 (水)

吉野山について

奈良県の吉野は今日も自然の美しいところであり、日本民族そして皇室の歴史と伝統を伝へてゐる地である。神武天皇は大和橿原の地に都を開かれる際、熊野に御上陸になった。そして吉野をお通りになった時、神のお告げにより無事に大和の國にお入りなり都を開かれるための祭事を行はれた。その時、神武天皇は、吉野にもともと住んでゐた尻尾の生へてゐる人に道案内されて、大和に入られた。大和朝廷成立の上で、非常に由緒のある地が熊野と吉野である。

 

その吉野に歴代の天皇が離宮を造営されたのは、皇室の歴史と伝統を思ひ起こすためである。天皇が離宮に行かれたのは、単に遊びに行かれたのではなく、歴史的由緒のある神聖な吉野の地で、川水で御祓をされ祭祀をされるためであった。歴代の天皇は、度々吉野や熊野に行幸され、神祭りを行はれた。

 

特に、持統天皇にとって吉野の地は、夫君・天武天皇が「壬申の乱」の前に隠棲された地であるので思ひ出深いところであった。また、「壬申の乱」以後の不安定な時期に、持統天皇は皇統の正統性を確認するために、神武天皇が橿原奠都の前に神の御加護を祈る祭事を行はれた吉野で、祭事を行はれたのである。そして、天皇としての神威・霊力を高められた。また、伊勢の神宮の式年遷宮祭の制度も、天武天皇の御代に定められ、持統天皇の御代から行はれるやうになった。 

 

持統天皇は御在位中非常に多く吉野へ行幸された。持統三年(六八九)正月から持統十一年(六九七)四月にかけての八年間に三十三回ほど行幸された。即位されて間もない時期は一年に五回吉野に行かれた。そして、御滞在日数は長い時は三ヵ月、短い時は二日。一回平均して一週間くらい吉野に滞在された。真冬にも赴かれた。これは避暑とか物見遊山ではなく宗教行事である。

 

天皇に即位されるはずであったのに夭折された草壁皇子が薨去された後も、吉野に行幸されることが多くなる。山深い清浄な吉野の地へ赴かれて、亡き皇子を偲ばれたのであらう。

 

吉野は日本山岳信仰・修験道(役小角【えんのおづの】を祖とする、密教の一派。山岳修行によって超自然的な力を得ることを目的とする)の聖地である。吉野に行くことによって、大きな霊的な力が与へられると信じたのである。雄略天皇もよく吉野に行かれ、天武天皇は吉野に籠られ、南北朝の騒乱の時も、後醍醐天皇は吉野に朝廷を開かれた。

 

吉野は山が険しい要害の地であると共に、背後の熊の灘から全國からの物資を運ぶこともできるし、全國に指令を発することもできた。だから、大和や京の都の中央勢力に対抗するために立て籠もるのに適してゐた。

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2015年11月 1日 (日)

天孫降臨以来の薩摩の歴史と伝統

 南九州・薩摩の地は、天孫降臨から神武天皇御東征御出発までの神話が伝えられている地である。

 

 南九州は海に面している地なので、海の神への深い信仰が伝えられている。それが『海幸彦・山幸彦の神話』であり、『龍宮伝説』・『浦島太郎伝説』なのである。

 

 薩摩の地は、縄文・弥生時代から独自の文化が発達し、古墳時代には隼人と呼ばれる武力の秀で独立進取の気性が強かった人々がいた。五世紀前半以降には大和朝廷に服属したという。隼人族は宮門警衛や天覧相撲の力士として勇敢さが讃えられた。

 

 また南九州は、天照大神の御命令によって天孫・番(ほ・穂のこと)の邇邇藝命(ににぎのみこと・にきにぎしく穂が実ること)が降臨された地である高千穂峰(高く稲穂を積み上げた山のこと)がある。

 

『古事記』には、「天の日子番(ひこほ)の邇邇藝命(ににぎのみこと)天の石井(いはくら)を離れ、天の八重多那雲(やえたなぐも)を押し分けて、稜威(いつ)の道(ち)別(わ)き道別きて、天の浮橋に、浮じまり、そりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の霊(く)じふる峰に天降りましき。」(天の日子番の邇邇藝命は天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によって、浮洲にお立ちになって、筑紫の東方の高千穂の尊い峰に天降りさないました、というほどの意)と記されている。

 

 高千穂の峰は現在の鹿児島県の霧島山の一峰と、宮崎県西臼杵郡の二ヵ所がその伝承地である。天孫降臨神話の思想は大嘗祭の稲穂の上に穀霊神としての天皇の御霊が天降ったということである。

 

 『古事記』にはさらに、南九州とりわけ鹿児島がわが國本土最南端にあり、海に面した黒潮洗う地であり、明るい太陽に照らされた地であることを次のように表現している。天照大神が「此地(このち)は韓國に向ひ笠紗(かささ)の御前(みさき)にま来通りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。かれ此地ぞいと吉(よ)き地(ところ)」(この地は海外に向かって、笠紗の岬に(良き國を)尋ね求めて通って来て、朝日が真っ直ぐに照り輝く國、夕日の輝く國である。こここそは大変良い所である、というほどの意)と詔りされたと記されている。「笠紗の岬」とは現在の鹿児島県河辺郡笠沙町の岬という。

 

 南九州の地には邇邇藝命などの御陵も鎮まっている。我が國生成の神話は薩摩を中心とする南九州の地から始まっている。ゆえに、薩摩人が戦いに強く、敬神・尊皇の念が篤いのは神代以来の伝統である。聖武天皇の御代に國分寺が立てられているということは、南端の地でありながら、律令國家に組み込まれたのが早かったことを証明している。

 

 御家人・島津氏は二階堂氏などと共に、十三世紀に鎌倉幕府の時代に地頭として薩摩に派遣された。島津氏は土着すると共に勢力を強め、第十五代・島津貴久は南九州(薩摩・大隅・日向)を統一し、第十六代・義久は九州全体を制覇せんとするが、豊臣秀吉に敗れる。その後、豊臣氏に忠節を尽くす。義久の弟の第十七代義弘は朝鮮出兵に戦功を立て、関ヶ原で徳川方と勇敢に戦う。

 

 徳川時代には徳川幕府の圧迫に遭った。薩摩藩は鎖國政策を取り、他藩との交通を厳しく制限し、隠密侵入を取り締まった。さらに領内に外城といわれる百十三の出城を築き、武士を土着させて兵農一致態勢を敷き、幕府側の侵攻に備えた。しかし、宝暦三年(一七五三)には幕府の圧迫政策の一環である木曾川の治水工事で四十万両の出費があり藩財政は逼迫した。

 

 幕末期には、薩英戦争では世界の超大國イギリスを相手にして戦い、その後イギリスと友好関係を結び、パリで開かれた万國博覧會では、幕府と同格の立場で参加し、ナポレオン三世に薩摩藩独自の勲章を与えている。そして明治維新の戦いでは、同じく関ヶ原で徳川氏と戦った長州と共に徳川幕府打倒の中心勢力となる。鎌倉時代から明治維新まで七百年の長きにわたって一貫して同じ領國を支配した大名は島津氏以外にはないという。維新後においてさえ薩摩は新政府に対抗して西南戦争を戦った。

 

 このように薩摩藩は敬神尊皇思想が篤かったが、独立進取の気象もまた旺盛であった。地理的にも外國との接触を早く受けやすい地であったため、中世においては坊津が倭寇の根拠地となり、近世においては明との交易も盛んとなり、鉄砲やキリスト教が我が國で最も早く伝来した。近代においては、多く人材を失った西南戦争の痛手が大きかったことは否めない。

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2015年10月26日 (月)

西郷隆盛・大久保利通について

 西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

 「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

 各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保利通は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので親近感を覚えたる。

 

 各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

 この郷中制度出身者には、西郷大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

 大久保利通は天保元年(一八三〇)八月十日、鹿児島城下高麗町で、西郷と同じく小姓組の家に生まれた。そして加治屋町に移転して来た。大久保もまた『郷中教育』の中で育った。大久保利通が「甲東」と号したのは甲突川の東側で育ったからである。

 

 この加治屋町からは桜島が眺められる。平野國臣が「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

 歴史を動かした西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、維新断行後は仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の厳しい一面を物語っている。

 

 大西郷と大久保甲東の二人こそ、わが日の本の近代の二つの道を示したる人である。この二つの道は「王道」「覇道」といわれるが、西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

 

 明治十年(一八七七)九月二四日午前三時五五分、政府軍によって西郷軍が立て籠もる城山総攻撃が開始された。城山に籠った西郷軍はわずか三七0人、包囲する政府軍は五万人を超えていた。西郷軍は奮戦したが敗れ、西郷隆盛は午前七時過ぎ別府晋介の介錯によって満四九歳八ヵ月の生涯を閉じた。

 

 南洲墓地には城山における最後の戦いおよび各地の戦いにおける西郷軍の戦死者二千二三人(西郷軍全戦死者六千二百三九人の約三分の一)が埋葬されている。墓の殆どは錦江湾に向いている。戦死者には若者が多く、十歳代の若者が数百人数えられる。これらの若者は郷中教育・私學校などにおいて教育を受けた優秀な人が多かったであろうから、天寿を全うしたとしたら國家のために大きな働きをしていたであろう。鹿児島県のみならず國家にとって大きな損失であった。

 

 城山を攻めた政府軍首脳には、川村純義・大山巌(西郷の従兄弟)など薩摩出身の人も数多くいた。また参軍の山県有朋も西郷の恩顧を受けた人物である。政府軍は西郷たちの遺体に無礼を働くことはなかった。また政府の派遣した岩村通俊県令は、西郷隆盛をはじめとした二千二三名の西郷軍戦死者たちをここに手厚く葬った。

 

 佐賀の乱鎮圧の時、その首謀者とされた江藤新平を梟首(晒し首)の刑に処したのとは大きな違いである。西郷隆盛が死してもなお政府は西郷の影響力を恐れたからともいわれている。ただし末端の政府軍兵士には西郷軍の遺体に無礼を働くものもいたという。

 

西郷等の墓所は埋葬直後から鹿児島市民の参拝が絶えず献花は墓標を埋めて盛り上がったという。墓所には西郷隆盛を中心に桐野利秋(西郷軍総指揮官)・辺見十郎太・池上貞固などの墓が数多く並んでいる。 

 

また、墓地の正面の下の方には、勝海舟の

 

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

 

という歌碑が建てられている。説明書きには「私學校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。…西南戦争を引き起こした…幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私學校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです」と書かれている。

 

 果たしてこの見方は正しいであろうか。西郷はただ私學校の生徒にかつがれただけなのか。勝海舟のこういう見方は西郷を政府への反逆者・賊徒にしたくないという意思に基づくものである。西郷は相当の決意を持って軍を率いて上京しようとしたと私は思う。大久保・山県・伊藤等が主導する政府の非を問責するため兵を率いて上京しようとしたのは西郷自身の強い意志であると思う。

 

 警視庁から西郷暗殺団が送り込まれたという事実を勘案すれば、陸軍大将の地位にある者として兵を率いて上京するのは当然である。それはまた島津斎彬・久光が維新前に徳川幕府を威圧するために行った『率兵上京』を見習ったことなのかもしれない。

 

 ただし、西郷軍は最初から武力戦を想定していたのではなく、政府軍は西郷軍到着前に熊本城下を焼き払い、熊本城に籠った政府軍の方が先に発砲した来たのである。

 

 また、 南洲墓地には、常夜燈がある。西郷と勝との會談により江戸城が無血開城され江戸が兵火から免れたことへの感謝のため、昭和十四年東京市によって建立されたという。「江戸ノ開城セラルルヤ西郷南洲勝海舟両翁ノ折衝ニ依テ兵火ノ厄ヲ免レ以テ大東京殷盛ノ基ヲ成セリ茲ニ奠都七十年記念トシテ感謝祭ヲ行ヒ常夜燈ヲ建ツ 昭和十四年五月 東京市」と刻まれている。

 

 さらに『岩村縣令紀念碑』と刻まれた石碑がある。岩村通俊は、土佐藩士として維新の戦いに加わり、維新後は北海道開拓、佐賀の乱・萩の乱鎮定に功をたてた。西南戦争後、鹿児島県令として戦後処理に当たり西郷を手厚く葬り、南洲神社の前身である参拝所を建てた。このことに対する鹿児島県人の感謝の意をとどめた碑である。通俊はその後、農商務大臣・宮中顧問官などを歴任した。

 

 通俊の弟は岩村高俊というが、高俊も維新戦争に挺身し、東山道総督として信越に出征、小千谷において長岡藩家老河合継之助と會談し、高圧的態度で挑み談判を決裂させ、長岡藩を抗戦させた。また、佐賀の乱では佐賀県令としてこれまた高圧的な態度で挑発し、佐賀県氏族を決起させたといわれている。弟は兄と違って多くの悪評を持つ人物である。この兄弟の墓は東京谷中墓地にある。

 

 城山は西南戦争最後の西郷軍司令部のあったところ。城山に立て籠もった西郷軍兵士はわずか三百七十余名。西郷隆盛が自決するまでの最後の五日間を過ごした岩崎谷の洞窟(間口三m、奥行五m)がある。政府軍の総攻撃が開始されるや、西郷がこの洞窟を出て百㍍ほど歩いたところで、政府軍の弾丸が西郷の太股を貫いた。そこで西郷は従っていた別府晋助に「晋どん、もうこの辺でよかろ」と言って介錯を命じたという。こうして西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じた。西郷軍の戦死者は士族四九一九名、平民二九八名。政府軍の戦死者は四六五三名であったという。

 

明治維新の歴史は、薩摩の國の人たちが都(京都と江戸)に踊り出で、築きたるものと言うべきか。西郷南洲・大久保甲東は共に、薩摩隼人の気性を背負いて近代日本の礎を作りし人である。

 

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2015年10月25日 (日)

本駒込の神社仏閣

千駄木の隣町の本駒込には、富士神社が鎮座する。富士神社は天正元年(一五七三)本郷村の名主・木村万右衛門、牛久保隼人の二人が夢に木花咲耶姫命(霊峰富士の御神霊)のお姿を見たので、翌年駿河の富士浅源間神社の御神霊を勧請した。寛永六年(一六二九)加賀藩が現在の東京大學のあるところに藩邸を作るにあたり、その地にあった浅間神社をこの地にお移しした。故にこの付近は住居表示改定までは「駒込富士前町」と言われていた。また東京大学のあるところは住居表示改定まではもと富士神社のあったところということで「本富士町」と言っていた。オウム事件で話題になった本富士警察署は東大の隣にある。

 

 富士神社は山岳信仰特に江戸において盛んであった富士山への信仰によって建てられ今日まで信仰が続けられているのである。小生は中学時代一年間だけこの神社の近くの文京九中に通ったので、体育の授業のマラソンでこの神社の回りを走ったりしたため懐かしい思い出のある神社である。

 

 神殿は小高い丘の上にある。この丘は塚であり前方後円墳であるという説がある。加賀藩に縁があるため江戸時代加賀藩の特設消防隊『加賀鳶』(大名火消し)が奉納した大きな石がある。そうした関係からかこの丘には東京の消防体制の基礎を作った人物(薩摩藩士にして警視庁幹部)の顕彰碑が建てられていた。

 

 さらに近くには天祖神社が鎮座する。この神社は、文治五年(一一八九)七月、源頼朝が奥州藤原泰衝征討の砌りこの地を過ぎる時、霊夢によって伊勢の大神(天照大神)への祈願の地を求めたところ、この地の松の枝に大麻(伊勢の神宮の神札)かかったのをかしこみ、神祠をお祀りしたのが淵源であると伝えられている。以来駒込神明宮と称えられ、駒込の総鎮守として住民に信仰されている。御祭神は天照大神。明治の御代に天祖神社と改称された。このあたりの町名を駒込神明町と言った。

 

小生の幼少の頃には都電の車庫があり、銀座から神明町まで四0番の電車が走っておりよく乗ったものである。中学一年の頃小生はこの天祖神社境内を通り抜けて九中に通った。境内は当時のままのたたずまいであり懐かしい。

 

 すぐ近くの駒込名主屋敷がある。東京山手線内で唯一江戸時代の名主(村長のような役職)の役宅の遺構をよく残している建物であるという。高木という表札が掛かっている。この高木家の御祖先に当たる高木将監(しょうげん)は元和元年(一六一五)豊臣氏の残党としてこの地に来たて駒込の開拓を許され、名主となった。現在の建物は享保二年(一七一七)に再建されたものという。旗本以上の屋敷しか許されない式台付きの玄関があるという。しかし、現在も高木家の人がお住まいになっているので中に入ることは出来ない。門(宝永年間、一七0四~一一の建造。薬医門形式)だけを見る。また大きな倉や家屋が眺められる。

 

本郷通りに出ると、、諏訪山吉祥寺がある。吉祥寺は太田道灌が江戸城築城の時、井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出たので、現在の和田倉門のところに「吉祥寺庵」を建てたのが淵源であるという。徳川家康の時に水道橋際に移り、明暦の大火(一六五七)で焼け現在地に移った。このとき水道橋際の門前にいた人たちが移って新田開拓したところが現在の武蔵野市吉祥寺である。

 

 享和二年(一八0二)再建の見事なる山門(四脚門)を潜って境内に入る。参道の左右が墓地になっている。右手に眉山・川上亮の墓がある。川上眉山は明治時代の小説家。硯友社同人。また鳥居耀蔵(江戸末期の幕臣。渡辺華山ら洋学者グループを弾圧。江戸町奉行となり水野忠邦を助けて天保の改革を推進)の墓があった。

 

向かい側に二宮尊徳の墓がある。二宮尊徳は江戸末期の農政家。小田原藩・相馬藩・日光神領などの復興につとめ、その思想と行動は農政のみならず近代日本の教育にも大きな影響を与えた。お墓の横に尊徳の少年時代の読書像が建てられている。何故江戸駒込吉祥寺にお墓があるのかその由来を知りたいと思っている。

 

榎本武揚(江戸末期の幕臣。函館五稜郭に立て籠もり新政府軍と戦ったが、維新後は海軍卿、文部大臣、外務大臣、枢密顧問官などを歴任)の墓もある。

 

文化元年(一八0四)に再建された古く大きな経蔵がある。新しい墓地の方には鹿島守之助・卯女夫妻の墓がある。

 

この吉祥寺は、曹洞宗のお寺で、栴檀林という坊さんが学ぶ学寮があった。千余名の学僧が仏教や漢学などを学んでいたという。この後身が現在の駒沢大学である。江戸中期以後は縁故のある旗本の子弟も聴講した。吉祥寺の栴檀林は幕府官学の昌平坂学問所と並んで江戸における大きな学問・教育施設と言える。そのどちらも現在の文京区内にあった。明治以後今日に至るまでの文京区は教育機関の多いところとなっている。

 本郷通りをさらに少し進んで左に折れると、左側に『栴檀林寄宿寮』という表札のある門があったがその奥には何も無かった。その先に『原氏墓所』がある洞泉寺がある。原氏とは、江戸中期・後期の儒学者原氏のことでここのには双桂・敬仲・念斎・徳斎の四代の墓があるという。

 

 すぐそばには『浅香社跡』がある。浅香社とは明治時代の短歌結社で、落合直文が主催。落合直文は仙台出身の歌人・國文学者。一高教授。和歌革新を唱え近代短歌の基礎をつくった人。『大楠公』(青葉茂れる櫻井の……)の作詩者として知られている。浅香社という名はこのあたりの町名が浅嘉町であったことに由来する。浅香社には与謝野鉄幹・大町桂月・樋口一葉などが関係した。直文がこの家で詠んだ歌の一つに「庭に散る花にも音の聞ゆなり いかにしづけきゆうべなるらむ」がある。小生は和歌文学の道統の継承と革新が我が故郷の地で起こったことを誇りに思うものである。

 

「秋の日に経巡りにけりわが生まれ育ちし里の寺と神社を」    

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2015年5月 9日 (土)

北九州旅行記 その二

五月四日昼、連絡船に乗り、約十分で能古島へ。能古島は福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいる。東西二㎞、南北三・五㎞の南北に長いナスビ形の島で、全体が台地状を呈し、最高所の標高は一九五m。これまでの調査で弥生時代の遺跡や古墳群が見つかっているという。

 

島に着くと、対岸に福岡市のビル群が眺められる。自然豊かな島から大都会の高層ビル群が眺められるというとても珍しい光景である。バスに乗り、アイランドパークへ。能古島北部に広がる約十五万平方メートルの自然公園ある。初夏の日の下、名前は分からないが数多くの花々が咲いている。家族連れで賑わっている。岸壁の上から眺められる青き海、そして青い空、時々飛びゆく白き飛行機が、実に美しいコントラストを見せている。

 

『筑前国続風土記』には、神宮皇后が朝鮮出兵から御帰還あそばされる時、この島に住吉大神の御神霊を「のこしとどめられ」て敵国降伏を祈られたので、「のこの島」と言うようになったと記されてゐると言ふ。『萬葉集』には遣新羅使や海人(漁業に従事する人)の歌として、能古島の名が登場する。

 

『萬葉集』巻十六に、

 

沖つ鳥 鴨とふ船の 還り來ば 也良(やら)の崎守(さきもり) 早く告げこそ 

                                (三八六六)                    

(沖つ鳥・鴨に掛かる枕詞)鴨という名の船が帰って来たなら、也良の防人よ、早く知らせておくれ」。

 

沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎 廻()みてこぎ來と 聞え來ぬかも 

                                (三八六七)              

(沖つ鳥)鴨という名の船は也良の崎を回って漕いで来たと知らせて来ないものだろうか、知らせて来てほしい」。

 

という二首の歌が収められている。これらの歌は「筑前國志賀の白水郎の歌十首」のうちの二首である。「白水郎」とは海人のこと。「也良の崎」とは、能古島の北端の岬のことである。

 

 天平八年(七三六)、新羅を目指した遣新羅使一行は、筑紫館(後の鴻臚館)を出発し、韓亭(別称能古の亭、現在の唐泊。福岡市西区宮浦付近。「亭」は船が停泊する所)に至り風待ちをした。韓亭は遣新羅使が寄港地であった。ここから半島や大陸に船が出航したといふ。韓亭(唐泊)で出航を待つ心情を綴った歌が次の歌である。

 

韓亭(からとまり)能許(のこ)の浦波(うらなみ) 立たぬ日は あれども家に 恋ひぬ日はなし (三六七〇)

「韓亭の能許の浦の波が立たない日はあっても私が家を恋しく思わない日はない」。

 

「能許」は能古島のこと。韓亭のすぐ前に見える。


風吹けば 沖つ白波 かしこみと 能許(のこ)の亭(とまり)に あまた夜ぞ宿(ぬ  る                               (三六七三)    

「風が吹けば沖の白波が恐ろしいので、能許の船着き場に幾夜も寝ているなあ」。

 

玄界灘が荒れているのでなかなか出航できないことを詠んでゐる。

 

このように、能古島のことが詠まれた歌が何首か『萬葉集』に収められてゐる。『日本書紀』に、天智天皇三年に、対馬・筑紫国などに、防人と烽火を置くと記されている。能古島北端の也良岬(やらみさき)に「防人」が配置され、敵の襲来や大陸から帰還した船が近づいたことを大宰府に知らせるために烽火台が設置されたという。

 

自然公園内の也良岬には、壹岐島の烽火台を参考にして烽火台が復元されている。そこから海の彼方を眺めると、約千三百年昔の萬葉時代のままの景色のように思えた。

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能古島自然公園

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烽火台(復元)

 

平安時代中期に編纂された『延喜式』(平安時代中期に編纂された格式。律令の施行細則)の「兵部式」には、島に馬牧があった旨の記述があるという。島の中心に残る古土手という土塁遺構は、馬牧の境界だったという。

 

五月五日午前、門司港見学。出光美術館、三井倶楽部などを巡る。時間がないため中に入ることが出来なかったのが残念。関門海峡を見るのは初めてのことで感激した。これほど幅が狭いとは思わなかった。

対岸に下関市が眺められる。第八十一代・安徳天皇を御祭神とする赤間神宮を遥拝。日清戦争後の講和会議が行われ『下関条約(日清講和条約)』が締結された「春帆楼」が眺められた。

 

新幹線で帰京。

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