2018年10月 8日 (月)

古代日本の太陽信仰と檜原神社

 

日本最古の道と言われる「山の辺の道」を、大神(おほみわ)神社から三輪山の麓の麗しい景色を眺めつつ北へ歩み行くと、檜原神社(ひばらじんじゃ)に至る。この神社は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神のご神靈を、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立ててお祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」に比定される地に建てられている。

 

天照大御神が、伊勢の地にお遷りになった後も、「倭笠縫邑」は「元伊勢(もといせ)」として今日まで尊ばれてきてゐる。

 

神域には、明治天皇第七皇女・北白川宮房子内親王(北白川宮成久王妃)の御歌碑(昭和四十年建立)がある。

 

「檜原神社旧蹟をおろがみまつりし折よめる

立つ石に 昔をしのび をろがめば 神のみいつの いやちこにして」

 

と刻まれてゐる。

 

伊勢皇大神宮祭主・神社本庁総裁をつとめられた北白川宮房子内親王は、初めて天照大御神が皇居から移されて祀られた宮跡と伝えられる檜原神社に参拝され、天照大御神の赫々たる御神威を実感されたのであろう。

 

檜原は日原とも言はれたといふから、太陽信仰の地であったと思はれる。古代の人々は、大和盆地の東方にあり神宿る美しき山である三輪山の後方から昇り来る日の大神を、倭笠縫邑で拝んだのであろう。

 

檜原神社から西方を眺めると、すぐ下に倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはかか・箸墓古墳)が見える。やや左手方向に大和三山、そして眼前に広がる大和盆地を越えて真向かひに二上山が眺められる。何ともいへぬ神秘的な景色である。

 

三輪山の日の出と二上山の日没は、大和の國の「日の神信仰・太陽信仰」の原点であろう。

 

太古の人々は神聖なる山と仰がれた三輪山と二上山の間を渡る太陽を、日の神の去来と信じた。そして二上山の背後に沈んだ太陽は再び東方の三輪山の背後から出現するように、三輪山から昇る日の神は永遠不滅の存在であり、人の命もまた永遠であると信じた。

 

大和盆地の西方の二上山に葬った死者の霊は必ず蘇ると信じた。二上山は二つの峰を持ち大津皇子の墓所がある。大和盆地に昇った太陽が二上山の二つの峰の中間に沈むことから、他界の入り口と信じられた。この信仰が、西方極楽浄土信仰と融合した。

 

麓に西方極楽浄土の様子を表はした「当麻曼荼羅」があり日本の浄土信仰発祥の寺とされる當麻寺がある。

 

三輪山・檜原神社・箸墓・二上山は一直線で結ばれてをり、春分・秋分の日にはその上を太陽が通るといふ。

 

すなわち、檜原神社がある倭笠縫邑は、大和地方の太陽信仰・天照大御神信仰の中心地であり、発祥の地と言っていいと思う

 

春分・秋分の日は、三輪山を中心にして、真東に七〇キロ行ったところの伊勢の斎宮、真西に八〇キロ行ったところの淡路島北淡町の伊勢の森をまっすぐに結ぶ「太陽の道」と呼ばれる「北緯三四度三二分」の線がある。この線上に太陽崇拝および山岳信仰と何らかのつながりがある古代祭祀遺跡が並んでいるといふ。

 

「三輪の檜原」と呼ばれる地で詠まれた歌は、『萬葉集』に数多く収められ、柿本人麿の育った地とも言はれてゐる。「柿本人麿歌集」には次のやうに歌がある。

 

鳴る神の 音(おと)のみ聞きし 巻(まき)(むく)の 檜原の山を 今日見つ

るかも                  (一〇九二)

 

()(もろ)つく 三輪山見れば 隠(こもり)()の 泊瀬の檜原 思ほゆる

かも                   (一〇九五)

 

いにしへに ありけむ人も 我がごとか 三輪の檜原に 挿頭(かざし)折りけむ            (一一一八)

 

大和国中を一望するこの地には何回か訪れているが、日本人の「魂の故郷」に帰って来た心地がする。「まほろば」と呼ばれる通り、筆舌に尽くし難い穏やかにして美しい景色である。これほど美しくのどかで、しかも日本国生成の歴史を伝える地は他にないのではないだろうか。

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2018年8月16日 (木)

千駄木庵日乗八月十六日

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春日大社 慰霊の萬燈篭

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春日大社

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春日大社奉納演舞

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奈良の大仏殿

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大仏様(毘盧遮那仏)

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高野山 根本大塔

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高野山金剛峰寺御社(御社・高野山間地主の神をお祀りしている)

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高野山金剛峰寺玄関

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2018年1月 2日 (火)

丹後地方に旅しました

大晦日から本日まで丹後地方を旅しました。

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元伊勢 丹後籠神社

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丹後浦島神社

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丹後の海岸

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天橋立

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天橋立

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2017年11月26日 (日)

本日散策した日暮里・谷中の風景写真

本日散策した日暮里・谷中の風景写真を掲載します。

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日暮里の高層マンション

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諏方神社の黄葉

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諏方神社の黄葉

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日暮里養福寺の弘法大師像

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谷中大仏(天王寺釈迦牟尼仏像)

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谷中霊園の巨木

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谷中霊園の黄葉

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谷中霊園の来島恒喜氏墓所

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谷中霊園の渋沢栄一氏墓所

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谷中霊園の巨木

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東京藝術大学の紅葉

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2017年5月 6日 (土)

土佐の国にて

土佐の国に行って来ました。

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桂浜・坂本龍馬像

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高知城天守

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四万十川

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足摺岬

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高知空港・吉田茂像

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四万十川にて(小生)。少し痩せたと思っていたのですが、全くそうは見えません。

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2017年4月 6日 (木)

谷中霊園散策記

本日散策した谷中霊園では、次の方々の墓所を拝した。

澀澤榮一(号青淵)  幕臣、維新後は大蔵官僚実業家第一国立銀行東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営。「日本資本主義の父」ともいわれる。漢学特に論語に造詣が深く、論語に関する著書がある。私の母校二松学舎を援助し、舎長に就任している。また私が書生をしたことがある野依秀市先生のことも援助した。

坊城俊章 幕末の公家、戊辰戦争に参加。明治期の陸軍軍人・政治家。陸軍歩兵中佐、貴族院伯爵議員。日清戦争では台湾兵站司令官として活躍。 陸軍少将、山形県知事

 

大道長安  明治期の曹洞宗の僧。救世教(熱海の救世教とは全く別)の祖。越後国(新潟県)の出身、観音信仰と在家主義に立ち、社会貢献を訴える救世主義を唱えた明治41年、長安が没すると救世教は三代まで続いたようだが、活動を主導する後継者を立てることができず消滅したという。墓所は荒れていた。

 

出羽の海秀光 第31代横綱常ノ花寛市。相撲協会理事長。本名は山野辺 寛一(やまのべ かんいち)。私の幼少の頃はこの人が相撲協会のトップ。昭和三十二年、衆議院予算委員会で日本相撲協会の在り方が追及されて改革を迫られ、心労と責任感から、同年五月四日に蔵前国技館内の取締室にガスを充満させ割腹自決を図ったが命をとりとめた。相撲好きの私には、今も印象に残っている事件であった。

有坂 成章 長州藩士。日本陸軍軍人、男爵。帝国陸軍の国産小銃を開発した。最終階級は陸軍中将。別名に淳蔵。日露戦争の旅順攻略戦、奉天開戦に貢献。

 

鶴田 皓 明治時代の法制官僚。元老院議官。佐賀藩士。東京帝国大学法学部講師。諸法典編纂に参加。「元老院議官正二位勲二等鶴田君碑 司法大臣山田顕義篆額 大審院検事三島毅撰」という石碑が建てられてゐた。三島毅は、二松学舎の創立者である。谷中墓地や青山墓地には、三島毅先生が撰文を書いた石碑が多い。

 

戸田忠至 江戸時代後期(幕末)から明治時代前期にかけての大名。下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄でもあった。文久2年(1862年)閏814日、幕府が宇都宮藩の提出した山陵修補の建白を採用した。この頃、戸田姓に改める。同年1022日、宇都宮藩が幕府より天皇陵補修の命を受け、忠至は山陵奉行に任じられた。文久3年(1863年)121日、従五位下大和守に叙任する。元治元年(1864年)129日に大名格となり、同年712日に諸侯に加えられた。同年末までに畿内における山稜全ての補修を終了、慶応元年(1865年)925日に幕府はその功績に対し2000両を支給した。

 

重宗雄三 、昭和期の政治家、実業家。参議院議長を39年間にわたり務めた。山口県岩国市出身。佐藤・岸信介とともに長州御三家と呼ばれた。長期にわたって参院議長をとつとめ、且つ、岸佐藤兄弟と盟友関係にあったことから、大変な権勢を誇り、参議院は「重宗王国」と呼ばれた。歴史上の人物になったが、私は大学時代この人に会ったことがある。当時生長の家が参院選で重宗氏を推薦した。そして私は、当時永田町の角にあった平河ビルという政治家の事務所がたくさん入っているビルにあった重宗氏の事務所で手伝いをした。眼光の大変鋭い人であった。多くの政治家が事務所参りをしていた。その後、河野謙三氏などの反乱が起こり事実上失脚した。

竹内 綱 土佐藩士、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎は外曾孫。明治11年(1878年)4月、前年の西南戦争にあたり、西郷軍に通謀する立志社のために小銃800丁と弾薬を手当てし、西郷隆盛らに呼応して政府転覆を企てたという嫌疑がかけられる。その結果、士族の身分を剥奪された上、禁獄1年の刑に処せられた。竹内が逮捕されたのは炭鉱経営で出張中の長崎であったが、間もなく東京の獄につながれる。その中には陸奥宗光や林有造らが含まれていた。しかし、5月の大久保利通の暗殺以後、政府は国事犯を東京に置く危険を悟って、彼らを地方に分送した。竹内は911日、新潟の監獄に護送された。明治12年(1879年)8月、満期放免となった竹内は、板垣退助が創立した愛国社の再建に取り組むことになる。翌年、愛国社は国会期成同盟に改称されたが、竹内はこの国会期成同盟を足場にして、後藤象二郎らとともに国会開設・自由民権を掲げ、自由党結成の原案を作成した。私は竹内綱の墓所が谷中霊園にあったとは全く知らなかった。簡素な墓所であった。麻生氏はお参りをしているのだろうか。

 

小平 浪平 技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者。

 

小針重雄 三浦文治 琴田岩松 横山俊六 天野市太郎連名の墓 加波山事件(かばさんじけん)死刑になった人々。加波山事件とは明治七年(1884)に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。過激にして急進的な自由民権運動であった。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、爆弾を製造中に誤爆。計画が未遂に終わると、茨城県加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。また警察署や豪商の襲撃を行なった。この人々は市谷監獄で処刑されたという。

 

谷中霊園は、近代日本の歴史的人物が多く眠っている。体制側の人、そして反体制側の人が共に眠っている。

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2016年5月 9日 (月)

『出光美術館開館五十周年記念日の祝典』展参観記

本日参観した「2016年春、出光美術館は開館50周年を迎えます。その記念企画として所蔵の絵画作品から、国宝・重要文化財を中心とした屈指の優品を厳選して三部構成により一挙大公開いたします。第一部のテーマは、『やまと絵』。日本の伝統美を象徴する鮮やかな色彩と、やわらかな造形が織りなす『やまと絵』は、古来、宮廷文化に導かれながら発展してきました。とくに四季折々に移ろう山景や樹木の装い、そして野に会する花鳥たちの表情は、いつの世の人々にも愛され、絵に描かれることで独自の情緒や典雅な美意識を伝え遺してきました。優れた画家たちの手によって制作された、時代を代表する数々の名品を特集展示する本展では、重要文化財の『絵因果経』(奈良時代)や『真言八祖行状図』(平安時代)、『四季花木図屏風』(室町時代)をはじめとし、出光コレクションが誇る『やまと絵』の華麗なる展開をご紹介します。なおこの期間、国宝『伴大納言絵巻』上巻を10年ぶりに特別展示します」との趣旨(案内文)で開催された。

 

『伴大納言絵巻』(平安時代)、『長谷寺縁起絵巻』(南北朝時代)、『四季花木図屏風』(室町時代)、『吉野龍田図屏風』(桃山時代)、『月に秋草図屏風』(江戸時代)、『増長天像』『持国天像』(鎌倉時代)、『山越阿弥陀図』(南北朝時代)、『真言八祖行状図』(保延二年)などを参観。

 

「やまと絵」とは、支那風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり、平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画のことだそうである。『源氏物語絵巻』などの絵巻物かその典型と言ふ。

 

今日参観した『伴大納言絵巻』は、貞観8年(866)閏310日に起きた応天門の炎上(『応天門の変』)をめぐる大納言伴善男の陰謀、その露見と失脚を物語った絵巻物。火災現場に駆けつける検非違使の役人たち、炎上する応天門と、それを風上と風下で眺める群集、炎に包まれる応天門がリアルに描かれている。群衆一人一人の仕草や表情がこまかく描写されていてまことに面白い。このように克明な描写を平安時代の昔に描かれたことに驚く。後白河天皇に重用された宮廷絵師・常盤光長が主導的な役割を担ったと言う。

 

『応天門の変』は、当初は大納言伴善男(とも  よしお、弘仁2年(811年) - 貞観10年(868年)は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言により無罪となり、その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、拷問によって自白させられ、有罪となり、伴善男父子が流刑に処された事件である。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による大伴氏排斥事件とされている。『伴大納言絵巻』は藤原氏側に立った描かれ方がされているように思う。伴善男は、神代以来の明俗・大伴氏の血統をひく人物である。ということは、『萬葉集』の編纂者とされ、大歌人であった大伴家持の子孫である。大伴氏は、天孫降臨の先導役であった天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、『萬葉集』の時代から藤原氏と並ぶ氏族であった。何とも陰惨な事件である。

 

『山越阿弥陀図』も印象に残った。亡くなった人を阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩が極楽浄土から迎えに来た状景を描いている。まことに荘厳な作品で、こういう絵を見た人は、阿弥陀仏への信仰をより深めたと思われる。山の向うに浄土があると信じたのであろうか。日本浄土信仰発祥の地は、大和の二上山の麓である。そこには當麻寺(たいまでら)というお寺があり、西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」が伝えられている。東の三輪山から昇った太陽が西の二上山に沈む。大和に生活した古代の人々は二上山の彼方に淨土があると信じたのであろうか。

 見ごたえのある展覧会であった。

 

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2016年5月 7日 (土)

昭和天皇御製・皇后陛下御歌に拝する「現御神信仰」

昭和天皇おかせられては、昭和三十四年、『皇太子の結婚』と題されて、

 

あなうれし 神のみ前に 日の御子の いもせの契り むすぶこの朝

 

と詠ませられてゐる。「日の御子」とは「日の神すなはち天照大御神の御子」といふ意味である。「日嗣(ひつぎ)の御子」と同じ意義である。この御製は、戦勝國アメリカの占領軍の無理強いによって発せられた『昭和二十一年元旦の詔書』が「人間宣言」であったなどといふことを根底から否定する。昭和天皇におかせられては、天皇及び皇太子は「天照大御神の生みの御子=現御神である」との御自覚はいささかも揺らいでをられなかったことは、この御製を拝すればあまりにも明白である。

 

『萬葉集』に収められてゐる柿本人麻呂の歌には「やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと…」と高らかに歌ひあげられてゐる。「四方をやすらけくたいらけくしらしめされるわが大君、高く光る日の神の御子、神ながらに、神にますままに、…」といふほどの意である。この歌は、古代日本人の現御神日本天皇仰慕の無上の詠嘆である。

 

「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」といふ言葉は、『古事記』の景行天皇記の美夜受比売(みやづひめ)の御歌に最初に登場する。現御神信仰は、わが國古代以来今日まで繼承されて来たてゐる。

 

御歴代の天皇そして皇太子は、血統上は天照大御神・邇邇藝命・神武天皇のご子孫であり血統を継承されてゐるのであるが、信仰上は今上天皇も皇太子もひとしく天照大御神の「生みの御子」であらせられるのであり、天照大御神との御関係は邇邇藝命も神武天皇も今上天皇も皇太子も同一である。  

 

皇后陛下は、昭和三十五年、「浩宮誕生」と題されて、

 

あづかれる 宝にも似て あるときは 吾子(わこ)ながらかひな 畏れつつ抱(いだ)く

 

と詠ませられてゐる。ご自分のお産みになった御子ではあるけれども、「高光る 日の御子」であらせられるがゆゑに、宝の如く畏れつつ抱かれるといふ、まことに崇高なる御心をお詠みになったと拝する。

 

民間から皇太子妃殿下となられ、キリスト教教育を受けられた皇后陛下は、神話時代以来の「現御神信仰」を正しく受け継いでをられるのである。國體擁護・尊皇の立場に立つ人の中に、皇后陛下に対し奉り、不当にして理不尽な批判を行ふ人がゐるが、厳に慎むべきである。

 

葦津珍彦氏は「(注・今上天皇のご成婚に際して、皇后陛下がミッションスクールのご出身であられることによって)『皇室の傳統精神は確保され得るや』との真剣な憂念は、政府に対して強力に働きかけて来る。政府としては、御慶事を迎ふるための不可欠の準備としても、これら國民の心配を解消させなくてはならない。昨年末の十二月二十九日、皇太子妃教育の科目が発表されたが、その初めには宮中祭祀があげられ、次いで神宮祭祀が講義されると発表された。一月十四日、納采の儀に際しては、伊勢の神宮、畝傍の陵などに勅使が奉告のためさしつかはされた。いよいよ御成婚の盛儀は、賢所大前で神式の國家儀式でとり行はれるといふことになったわけである。…このやうな努力の必要を、政府に痛感させた原因は、…正田美智子さんが聖心女學院といふカトリック學校の優等生だったといふことから起ってゐる。…皇室は、キリスト教的教育を受けられた正田美智子さんを迎へたために、皇室神道の傳統を回復すべき好機を得られた、といふこともできる。歴史の流れといふものは、まことに複雑微妙であり、時によっては逆説的なコースをとるものである。」(「東宮殿下の御成婚の波紋」・『みやびと覇権』所収)と論じてゐる。

 

皇后陛下に対し奉り、國體否定論者ではなく、國體擁護の立場にあるとされる人からも色々な批判を耳にすることがある。中には「正田王朝」などといふ言葉を用いる「學者」もゐる。不届き至極である。

 

昭和三十四年のご成婚の時、「皇后は民間出身であってはならない」といふ批判が起って以来皇后陛下に対する反感が、一部の人々に地下のマグマのやうにくすぶり続けて来た。あってはならないことである。

 

皇后陛下は、宮中祭祀への伺候をはじめ「皇后」としてのご使命を果たされるべくつとめてこられた。皇后陛下の御歌を拝すれば、皇后陛下が、日本傳統精神そして皇室の傳統を常に重んじられ、回帰されつつ、皇后としての尊き道を歩まれてをられるがか分かる。

 

平成十五年  皇后陛下御歌

 出雲大社に詣でて

國譲(ゆづ)り 祀(まつ)られましし 大神の 奇しき御業(みわざ)を 偲びて止まず

 

平成十三年

外國(とつくに)の 風招(まね)きつつ 國柱(くにばしら) 太しくあれと 守り給ひき

 

この御歌についての、宮内庁ホームページの説明には「明治の開國にあたり,明治天皇が広く世界の叡智に學ぶことを奨励なさると共に,日本古来の思想や習慣を重んじられ,國の基を大切にお守りになったことへの崇敬をお詠みになった御歌。明治神宮御鎮座八十周年にあたり,御製,御歌の願い出があったが,六月に香淳皇后が崩御になり,今年の御献詠となった」とある。

平成十一年

結婚四十年を迎えて

遠白(とほしろ)き神代の時に入るごとく伊勢参道を君とゆきし日

 

平成八年

 終戦記念日に

海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたのみ靈(たま)國護(まも)るらむ

 

平成五年

 御遷宮の夜半に  

秋草の 園生(そのふ)に虫の 声満ちて み遷(うつ)りの刻(とき) 次第に近し

 

平成三年

 立太子礼

赤玉の 緒(を)さへ光りて 日嗣(ひつぎ)なる 皇子(みこ)とし立たす 春をことほぐ

 

平成二年

 明治神宮御鎮座七〇周年

聖(ひじり)なる 帝(みかど)にまして 越(こ)ゆるべき 心の山の ありと宣(の)らしき

この御歌についての宮内庁ホームページの説明には「この御歌は,明治天皇の御製『しづかなる心のおくにこえぬべきちとせの山はありとこそきけ』を拝してお詠みになったものです」とある。

 

 御即位を祝して

ながき年 目に親しみし み衣(ころも)の 黄丹(に)の色に 御代の朝あけ

 

畏れながら、「遠白(とほしろ)き神代の時に入るごとく伊勢参道を君とゆきし日」の御歌は、「今即神代」「神代即今」といふ日本傳統信仰の基本精神を、つつましくも清らかに歌はれた御歌と拝する。「赤玉の緒(を)さへ光りて日嗣(ひつぎ)なる皇子(みこ)とし立たす春をことほぐ」の御歌は、皇太子殿下は、天照大御神の靈統を継がれる御方であるといふ古来の傳統信仰すなはち現御神信仰を歌はれたのである。

 まことに畏れ多いことながら、皇太子雅子妃殿下におかせられても、色々精神的肉体的御苦労はあおりになったとしても、天皇皇后両陛下の祭祀、そして日本傳統信仰のご体得、国民を思はれる仁慈の御心を見習はれ、継承されることであらう。

 

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2016年1月27日 (水)

吉野山について

奈良県の吉野は今日も自然の美しいところであり、日本民族そして皇室の歴史と伝統を伝へてゐる地である。神武天皇は大和橿原の地に都を開かれる際、熊野に御上陸になった。そして吉野をお通りになった時、神のお告げにより無事に大和の國にお入りなり都を開かれるための祭事を行はれた。その時、神武天皇は、吉野にもともと住んでゐた尻尾の生へてゐる人に道案内されて、大和に入られた。大和朝廷成立の上で、非常に由緒のある地が熊野と吉野である。

 

その吉野に歴代の天皇が離宮を造営されたのは、皇室の歴史と伝統を思ひ起こすためである。天皇が離宮に行かれたのは、単に遊びに行かれたのではなく、歴史的由緒のある神聖な吉野の地で、川水で御祓をされ祭祀をされるためであった。歴代の天皇は、度々吉野や熊野に行幸され、神祭りを行はれた。

 

特に、持統天皇にとって吉野の地は、夫君・天武天皇が「壬申の乱」の前に隠棲された地であるので思ひ出深いところであった。また、「壬申の乱」以後の不安定な時期に、持統天皇は皇統の正統性を確認するために、神武天皇が橿原奠都の前に神の御加護を祈る祭事を行はれた吉野で、祭事を行はれたのである。そして、天皇としての神威・霊力を高められた。また、伊勢の神宮の式年遷宮祭の制度も、天武天皇の御代に定められ、持統天皇の御代から行はれるやうになった。 

 

持統天皇は御在位中非常に多く吉野へ行幸された。持統三年(六八九)正月から持統十一年(六九七)四月にかけての八年間に三十三回ほど行幸された。即位されて間もない時期は一年に五回吉野に行かれた。そして、御滞在日数は長い時は三ヵ月、短い時は二日。一回平均して一週間くらい吉野に滞在された。真冬にも赴かれた。これは避暑とか物見遊山ではなく宗教行事である。

 

天皇に即位されるはずであったのに夭折された草壁皇子が薨去された後も、吉野に行幸されることが多くなる。山深い清浄な吉野の地へ赴かれて、亡き皇子を偲ばれたのであらう。

 

吉野は日本山岳信仰・修験道(役小角【えんのおづの】を祖とする、密教の一派。山岳修行によって超自然的な力を得ることを目的とする)の聖地である。吉野に行くことによって、大きな霊的な力が与へられると信じたのである。雄略天皇もよく吉野に行かれ、天武天皇は吉野に籠られ、南北朝の騒乱の時も、後醍醐天皇は吉野に朝廷を開かれた。

 

吉野は山が険しい要害の地であると共に、背後の熊の灘から全國からの物資を運ぶこともできるし、全國に指令を発することもできた。だから、大和や京の都の中央勢力に対抗するために立て籠もるのに適してゐた。

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2015年11月 1日 (日)

天孫降臨以来の薩摩の歴史と伝統

 南九州・薩摩の地は、天孫降臨から神武天皇御東征御出発までの神話が伝えられている地である。

 

 南九州は海に面している地なので、海の神への深い信仰が伝えられている。それが『海幸彦・山幸彦の神話』であり、『龍宮伝説』・『浦島太郎伝説』なのである。

 

 薩摩の地は、縄文・弥生時代から独自の文化が発達し、古墳時代には隼人と呼ばれる武力の秀で独立進取の気性が強かった人々がいた。五世紀前半以降には大和朝廷に服属したという。隼人族は宮門警衛や天覧相撲の力士として勇敢さが讃えられた。

 

 また南九州は、天照大神の御命令によって天孫・番(ほ・穂のこと)の邇邇藝命(ににぎのみこと・にきにぎしく穂が実ること)が降臨された地である高千穂峰(高く稲穂を積み上げた山のこと)がある。

 

『古事記』には、「天の日子番(ひこほ)の邇邇藝命(ににぎのみこと)天の石井(いはくら)を離れ、天の八重多那雲(やえたなぐも)を押し分けて、稜威(いつ)の道(ち)別(わ)き道別きて、天の浮橋に、浮じまり、そりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の霊(く)じふる峰に天降りましき。」(天の日子番の邇邇藝命は天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によって、浮洲にお立ちになって、筑紫の東方の高千穂の尊い峰に天降りさないました、というほどの意)と記されている。

 

 高千穂の峰は現在の鹿児島県の霧島山の一峰と、宮崎県西臼杵郡の二ヵ所がその伝承地である。天孫降臨神話の思想は大嘗祭の稲穂の上に穀霊神としての天皇の御霊が天降ったということである。

 

 『古事記』にはさらに、南九州とりわけ鹿児島がわが國本土最南端にあり、海に面した黒潮洗う地であり、明るい太陽に照らされた地であることを次のように表現している。天照大神が「此地(このち)は韓國に向ひ笠紗(かささ)の御前(みさき)にま来通りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。かれ此地ぞいと吉(よ)き地(ところ)」(この地は海外に向かって、笠紗の岬に(良き國を)尋ね求めて通って来て、朝日が真っ直ぐに照り輝く國、夕日の輝く國である。こここそは大変良い所である、というほどの意)と詔りされたと記されている。「笠紗の岬」とは現在の鹿児島県河辺郡笠沙町の岬という。

 

 南九州の地には邇邇藝命などの御陵も鎮まっている。我が國生成の神話は薩摩を中心とする南九州の地から始まっている。ゆえに、薩摩人が戦いに強く、敬神・尊皇の念が篤いのは神代以来の伝統である。聖武天皇の御代に國分寺が立てられているということは、南端の地でありながら、律令國家に組み込まれたのが早かったことを証明している。

 

 御家人・島津氏は二階堂氏などと共に、十三世紀に鎌倉幕府の時代に地頭として薩摩に派遣された。島津氏は土着すると共に勢力を強め、第十五代・島津貴久は南九州(薩摩・大隅・日向)を統一し、第十六代・義久は九州全体を制覇せんとするが、豊臣秀吉に敗れる。その後、豊臣氏に忠節を尽くす。義久の弟の第十七代義弘は朝鮮出兵に戦功を立て、関ヶ原で徳川方と勇敢に戦う。

 

 徳川時代には徳川幕府の圧迫に遭った。薩摩藩は鎖國政策を取り、他藩との交通を厳しく制限し、隠密侵入を取り締まった。さらに領内に外城といわれる百十三の出城を築き、武士を土着させて兵農一致態勢を敷き、幕府側の侵攻に備えた。しかし、宝暦三年(一七五三)には幕府の圧迫政策の一環である木曾川の治水工事で四十万両の出費があり藩財政は逼迫した。

 

 幕末期には、薩英戦争では世界の超大國イギリスを相手にして戦い、その後イギリスと友好関係を結び、パリで開かれた万國博覧會では、幕府と同格の立場で参加し、ナポレオン三世に薩摩藩独自の勲章を与えている。そして明治維新の戦いでは、同じく関ヶ原で徳川氏と戦った長州と共に徳川幕府打倒の中心勢力となる。鎌倉時代から明治維新まで七百年の長きにわたって一貫して同じ領國を支配した大名は島津氏以外にはないという。維新後においてさえ薩摩は新政府に対抗して西南戦争を戦った。

 

 このように薩摩藩は敬神尊皇思想が篤かったが、独立進取の気象もまた旺盛であった。地理的にも外國との接触を早く受けやすい地であったため、中世においては坊津が倭寇の根拠地となり、近世においては明との交易も盛んとなり、鉄砲やキリスト教が我が國で最も早く伝来した。近代においては、多く人材を失った西南戦争の痛手が大きかったことは否めない。

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