2020年8月24日 (月)

千駄木の須藤公園について

私宅の近くに須藤公園という公園がある。江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺(だいしょうじ)藩(十万石。寛永十六年〈一六三九年〉、加賀藩の第三代藩主・前田利常が隠居する際、三男・利治に大聖寺七万石を割いて大聖寺藩が立藩された。)の屋敷跡であり、明治維新後、長州出身の政治家・品川弥二郎の邸宅となった。

品川弥二郎は、足軽の家の生まれ、吉田松陰門下となり、尊王攘夷運動に挺身、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀。有名な『トンヤレ節』作詞者。維新後は、内務大臣・枢密顧問官などを歴任。永井荷風が明治新政府を「足軽政府」と揶揄し、北村透谷は、明治維新を「幕府から薩長への権力の移動であった」と嘆いたが、品川弥二郎や山県有朋の維新後の足跡を見るとこれらの批判も納得できる面がある。二人とも、維新前の各藩の旧藩主の真似をして旧藩主他の藩邸に住んだ。

吉田松陰は「身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という辞世を遺したが、品川や山県は、維新後、権力者となり、武蔵の野辺に大邸宅を構えたのである。松陰の、「僕は忠義をなすつもり。諸君は功業をなすつもり」という言葉を想起する。九段坂に品川弥二郎の銅像がある。

明治二十二年(一八八九年)に実業家・須藤吉左衛門(この人物の故事来歴は不明。ただし、須藤公園のすぐ近くに須藤という表札がかかった邸宅が二つある)が買い取ったという。昭和八年(一九三三年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付、昭和二十五年(一九五〇年)に文京区に移管された。

須藤公園の入り口のすぐ前に親戚の家があったので、この公園は小生の子供の頃の遊び場の一つであった。紙芝居屋さんや粘土細工屋さんが来ていた。公園の中を駆け巡ったり、ブランコや砂場で遊んだ。

この公園は、台地と低地とに分かれていて、深山幽谷を流れ下るような高さ約十メートルの滝がある。一時、枯れていたが、今は水が流れ落ちている。そして池があり、回遊式庭園となっている。池には、亀が棲息しており、池の中の岩の上でよく甲羅干しをしている。池の中に島があり、弁天様を祀った朱色のお堂がある。大名屋敷の面影をのこしたなかなか風情のある公園である。須藤公園は住宅密集地の中の森と言った感じある。

公園の上の方が、駒込林町というお屋敷町であり、下の方は、駒込坂下町という下町である。東京の山の手と下町の区別が分かる典型である。私は駒込坂下町に生まれ育った。

公園の一角の小高い丘に

「かしこくも 親王あれませり 九重の 御そのの松に 日の昇る頃                従二位爲守」

と刻まれた歌碑がある。

昭和八年十二月二十三日の、先帝陛下の御生誕を奉祝して入江爲守氏が詠まれた歌である。この歌碑は、昭和十年に町内の青年団が建てたものという。皇太子が日の神の御子としてお生まれになったことを寿いだ歌である。歌碑に何の説明書きがないのが残念である。

入江爲守(ためもり)氏は、明治から昭和御代前期まで宮中に仕えた方であり歌人である。子爵。京都生。慶応四年四月二十日生まれ。冷泉為理(れいぜい-ためすけ)の三男。幼少から父に歌学を学び、漢詩は森槐南に学んだ。のち入江為福の養子となる。昭和天皇の侍従長をつとめた入江相政(すけまさ)の父。明治三十年貴族院議員。のち東宮侍従長,侍従次長を経て、昭和二年皇太后宮大夫。大正四年から御歌所所長を兼ね,「明治天皇御集」「昭憲皇太后御集」編集事業を完成させた。昭和十一年三月十九日六十九歳で薨去。

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2020年7月28日 (火)

根津神社参拝記

本日午後、東都北鎮・根津神社に参拝しました。本来なら、六月末に参拝すべきだったのですが、体調の関係、コロナウイルス猖獗の関係で今日になってしまいました。

境内はとても静かで、小雨が降っておりましたためとても清々しい雰囲気でした。躑躅の花は散っていましたが、神社の樹木の緑はとても瑞々しく美しかった。

明治時代から千駄木に住んでいるわが家は根津神社の氏子であります。「由来書き」によると、根津神社の由緒は次の通りです。

「根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。

江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。宝永二年五代将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。翌年(1706)完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されている。

明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。

御祭神は、須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主命・菅原道真公。

私は、全国各地を旅行し、神社仏閣などにお参りをしましたが、日本武尊にかかわる伝説は全国に数多くあります。また、須佐之男命を御祭神にしている神社がとても多いようです。

この二神は、英雄神であられるとともに、大変な苦難を経験した神であられます。また「やまと歌」を詠みになっておられます。

須佐之男命の 

「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」

という御歌は、わが国の短歌の発祥と言われております。
日本武尊は

「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし」

など多くのお歌を詠まれています。「剣魂歌心」という日本の道統を身を以て実行され体現された英雄神須佐之男命と日本武尊であられます。

古来、わが国民はこの二神に特別の親しみと仰慕の念を持っていたと思われます。日本武尊が千駄木の地に須佐之男命を祀られたのが根津神社の発祥であるという伝承もそのことを証ししています。

本日は、何組かの初老のご夫婦が、参拝に来ておられました。とても麗しい光景でした。

根津神社参拝を終えて、小生の好物であるとんかつを食しに、上野広小路近くのお店に行こうと思って電話をしますと、まだ午後四時半だというのに、もう何組かのお客さんが来ているとのことでした。このとんかつ屋さんのことはつい先日NHKの番組で約一時間ほど紹介されましたので、今日、お客さんが増えたのでしょう。なぜか政治家の方も良く来ます。

そこで別のとんかつ屋に行きました。上野は美味しいとんかつ屋が多く、その店はまだ空いていました。私はヒレよりもロースが好きです。

昔はぼん多、双葉、蓬莱屋が上野のとんかつ屋のご三家と言われていましたが、残念ながら私が一番好きだった双葉がなくなってしまいました。

講談家の宝井馬琴先生主催の会が本牧亭で開かれ時は、すぐ前にあった双葉のカツサンドが出ました。懐かしい思い出です。馬琴先生はなかなか過激な方で、「四宮君。いま日本に右翼はいるのかねえ」と聞かれましたので「います」と答えますと、「じゃあなんで田中角栄は生きているんだい」と言われました。昭和五十年代前半のお話しです。

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2020年3月25日 (水)

東叡山寛永寺・谷中霊園散策記

朝は少し曇ってゐたが、やがて晴れ、洗濯物を干した後、室内を清掃しました。風が強かったので洗濯物はすぐ乾きました。こうして体を動かすことがかえって心臓に良いように思います。ただし、もちろん無理はいけません。

午後に家を出発。タクシーで上野寛永寺に参りました。正しくは、東叡山寛永寺と言います。天海という徳川家康・家光に仕えた坊さんの発案で、東の比叡山という意味です。朝廷の権威を利用して徳川幕府の権威を高めようという魂胆であったと思います。

天台宗の大本山で、江戸時代には、芝増上寺と並んで徳川将軍家の菩提寺で、広大な領地を有し、皇族を門主に迎えました。そもそも徳川氏の菩提寺の住職に皇族を迎えること自体が不敬千万です。

これには深謀遠慮があり、西国大名などが京都の朝廷を要した徳川征伐の兵を挙げた時、寛永寺門主を天皇の御地位に祭り上げて対抗しようとしたのであります。事実幕末の戊辰戦争の時には、東北の幕府方諸藩が当時の寛永寺の門主を「東武皇帝」と祭り上げ、奥羽列藩同盟盟主にして政府軍に対抗しました。

しかし、戊辰戦争・上野戦争では、たった半日で彰義隊は敗北し、あの豪華だったであった寛永寺の堂塔伽藍のほとんどは灰燼に帰しました。彰義隊の忠義は逆の結果を生んでしまったのです。政府軍は今の東大構内からアームストロング砲という新鋭の大砲を上野山に撃ち込みました。その総指揮にあたったのが靖国神社に銅像が建てられてゐる長州藩士・大村益次郎であります。

今日、埼玉から移築した建物を「根本中堂」としています。屋根には、金色の葵の御紋が燦然と輝いてゐます。私はこのお寺に来るたびに「盛者必衰のことわり」を想起します。徳川慶喜が謹慎した部屋も残されています。

根本中堂のそばには芭蕉の句とされる「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の「上野寛永寺時鐘堂」がのこされている。浅草の鐘は「浅草寺弁天山鐘楼」であるという。江戸の時代の庶民は早起きで日の出午前六時(明け六つ)の鐘で起こされ仕事に励んだようである。

ところが今日は確かに櫻は咲いてゐましたが、とても寒く、花の雲などという気分にはなれませんでたした。

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2018年10月 8日 (月)

古代日本の太陽信仰と檜原神社

 

日本最古の道と言われる「山の辺の道」を、大神(おほみわ)神社から三輪山の麓の麗しい景色を眺めつつ北へ歩み行くと、檜原神社(ひばらじんじゃ)に至る。この神社は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神のご神靈を、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立ててお祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」に比定される地に建てられている。

 

天照大御神が、伊勢の地にお遷りになった後も、「倭笠縫邑」は「元伊勢(もといせ)」として今日まで尊ばれてきてゐる。

 

神域には、明治天皇第七皇女・北白川宮房子内親王(北白川宮成久王妃)の御歌碑(昭和四十年建立)がある。

 

「檜原神社旧蹟をおろがみまつりし折よめる

立つ石に 昔をしのび をろがめば 神のみいつの いやちこにして」

 

と刻まれてゐる。

 

伊勢皇大神宮祭主・神社本庁総裁をつとめられた北白川宮房子内親王は、初めて天照大御神が皇居から移されて祀られた宮跡と伝えられる檜原神社に参拝され、天照大御神の赫々たる御神威を実感されたのであろう。

 

檜原は日原とも言はれたといふから、太陽信仰の地であったと思はれる。古代の人々は、大和盆地の東方にあり神宿る美しき山である三輪山の後方から昇り来る日の大神を、倭笠縫邑で拝んだのであろう。

 

檜原神社から西方を眺めると、すぐ下に倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはかか・箸墓古墳)が見える。やや左手方向に大和三山、そして眼前に広がる大和盆地を越えて真向かひに二上山が眺められる。何ともいへぬ神秘的な景色である。

 

三輪山の日の出と二上山の日没は、大和の國の「日の神信仰・太陽信仰」の原点であろう。

 

太古の人々は神聖なる山と仰がれた三輪山と二上山の間を渡る太陽を、日の神の去来と信じた。そして二上山の背後に沈んだ太陽は再び東方の三輪山の背後から出現するように、三輪山から昇る日の神は永遠不滅の存在であり、人の命もまた永遠であると信じた。

 

大和盆地の西方の二上山に葬った死者の霊は必ず蘇ると信じた。二上山は二つの峰を持ち大津皇子の墓所がある。大和盆地に昇った太陽が二上山の二つの峰の中間に沈むことから、他界の入り口と信じられた。この信仰が、西方極楽浄土信仰と融合した。

 

麓に西方極楽浄土の様子を表はした「当麻曼荼羅」があり日本の浄土信仰発祥の寺とされる當麻寺がある。

 

三輪山・檜原神社・箸墓・二上山は一直線で結ばれてをり、春分・秋分の日にはその上を太陽が通るといふ。

 

すなわち、檜原神社がある倭笠縫邑は、大和地方の太陽信仰・天照大御神信仰の中心地であり、発祥の地と言っていいと思う

 

春分・秋分の日は、三輪山を中心にして、真東に七〇キロ行ったところの伊勢の斎宮、真西に八〇キロ行ったところの淡路島北淡町の伊勢の森をまっすぐに結ぶ「太陽の道」と呼ばれる「北緯三四度三二分」の線がある。この線上に太陽崇拝および山岳信仰と何らかのつながりがある古代祭祀遺跡が並んでいるといふ。

 

「三輪の檜原」と呼ばれる地で詠まれた歌は、『萬葉集』に数多く収められ、柿本人麿の育った地とも言はれてゐる。「柿本人麿歌集」には次のやうに歌がある。

 

鳴る神の 音(おと)のみ聞きし 巻(まき)(むく)の 檜原の山を 今日見つ

るかも                  (一〇九二)

 

()(もろ)つく 三輪山見れば 隠(こもり)()の 泊瀬の檜原 思ほゆる

かも                   (一〇九五)

 

いにしへに ありけむ人も 我がごとか 三輪の檜原に 挿頭(かざし)折りけむ            (一一一八)

 

大和国中を一望するこの地には何回か訪れているが、日本人の「魂の故郷」に帰って来た心地がする。「まほろば」と呼ばれる通り、筆舌に尽くし難い穏やかにして美しい景色である。これほど美しくのどかで、しかも日本国生成の歴史を伝える地は他にないのではないだろうか。

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2018年8月16日 (木)

千駄木庵日乗八月十六日

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春日大社 慰霊の萬燈篭

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春日大社

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春日大社奉納演舞

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奈良の大仏殿

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大仏様(毘盧遮那仏)

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高野山 根本大塔

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高野山金剛峰寺御社(御社・高野山間地主の神をお祀りしている)

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高野山金剛峰寺玄関

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2018年1月 2日 (火)

丹後地方に旅しました

大晦日から本日まで丹後地方を旅しました。

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元伊勢 丹後籠神社

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丹後浦島神社

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丹後の海岸

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天橋立

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天橋立

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2017年11月26日 (日)

本日散策した日暮里・谷中の風景写真

本日散策した日暮里・谷中の風景写真を掲載します。

               ○

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日暮里の高層マンション

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諏方神社の黄葉

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諏方神社の黄葉

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日暮里養福寺の弘法大師像

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谷中大仏(天王寺釈迦牟尼仏像)

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谷中霊園の巨木

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谷中霊園の黄葉

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谷中霊園の来島恒喜氏墓所

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谷中霊園の渋沢栄一氏墓所

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谷中霊園の巨木

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東京藝術大学の紅葉

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2017年5月 6日 (土)

土佐の国にて

土佐の国に行って来ました。

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桂浜・坂本龍馬像

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高知城天守

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四万十川

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足摺岬

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高知空港・吉田茂像

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四万十川にて(小生)。少し痩せたと思っていたのですが、全くそうは見えません。

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2017年4月 6日 (木)

谷中霊園散策記

本日散策した谷中霊園では、次の方々の墓所を拝した。

澀澤榮一(号青淵)  幕臣、維新後は大蔵官僚実業家第一国立銀行東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営。「日本資本主義の父」ともいわれる。漢学特に論語に造詣が深く、論語に関する著書がある。私の母校二松学舎を援助し、舎長に就任している。また私が書生をしたことがある野依秀市先生のことも援助した。

坊城俊章 幕末の公家、戊辰戦争に参加。明治期の陸軍軍人・政治家。陸軍歩兵中佐、貴族院伯爵議員。日清戦争では台湾兵站司令官として活躍。 陸軍少将、山形県知事

 

大道長安  明治期の曹洞宗の僧。救世教(熱海の救世教とは全く別)の祖。越後国(新潟県)の出身、観音信仰と在家主義に立ち、社会貢献を訴える救世主義を唱えた明治41年、長安が没すると救世教は三代まで続いたようだが、活動を主導する後継者を立てることができず消滅したという。墓所は荒れていた。

 

出羽の海秀光 第31代横綱常ノ花寛市。相撲協会理事長。本名は山野辺 寛一(やまのべ かんいち)。私の幼少の頃はこの人が相撲協会のトップ。昭和三十二年、衆議院予算委員会で日本相撲協会の在り方が追及されて改革を迫られ、心労と責任感から、同年五月四日に蔵前国技館内の取締室にガスを充満させ割腹自決を図ったが命をとりとめた。相撲好きの私には、今も印象に残っている事件であった。

有坂 成章 長州藩士。日本陸軍軍人、男爵。帝国陸軍の国産小銃を開発した。最終階級は陸軍中将。別名に淳蔵。日露戦争の旅順攻略戦、奉天開戦に貢献。

 

鶴田 皓 明治時代の法制官僚。元老院議官。佐賀藩士。東京帝国大学法学部講師。諸法典編纂に参加。「元老院議官正二位勲二等鶴田君碑 司法大臣山田顕義篆額 大審院検事三島毅撰」という石碑が建てられてゐた。三島毅は、二松学舎の創立者である。谷中墓地や青山墓地には、三島毅先生が撰文を書いた石碑が多い。

 

戸田忠至 江戸時代後期(幕末)から明治時代前期にかけての大名。下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄でもあった。文久2年(1862年)閏814日、幕府が宇都宮藩の提出した山陵修補の建白を採用した。この頃、戸田姓に改める。同年1022日、宇都宮藩が幕府より天皇陵補修の命を受け、忠至は山陵奉行に任じられた。文久3年(1863年)121日、従五位下大和守に叙任する。元治元年(1864年)129日に大名格となり、同年712日に諸侯に加えられた。同年末までに畿内における山稜全ての補修を終了、慶応元年(1865年)925日に幕府はその功績に対し2000両を支給した。

 

重宗雄三 、昭和期の政治家、実業家。参議院議長を39年間にわたり務めた。山口県岩国市出身。佐藤・岸信介とともに長州御三家と呼ばれた。長期にわたって参院議長をとつとめ、且つ、岸佐藤兄弟と盟友関係にあったことから、大変な権勢を誇り、参議院は「重宗王国」と呼ばれた。歴史上の人物になったが、私は大学時代この人に会ったことがある。当時生長の家が参院選で重宗氏を推薦した。そして私は、当時永田町の角にあった平河ビルという政治家の事務所がたくさん入っているビルにあった重宗氏の事務所で手伝いをした。眼光の大変鋭い人であった。多くの政治家が事務所参りをしていた。その後、河野謙三氏などの反乱が起こり事実上失脚した。

竹内 綱 土佐藩士、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎は外曾孫。明治11年(1878年)4月、前年の西南戦争にあたり、西郷軍に通謀する立志社のために小銃800丁と弾薬を手当てし、西郷隆盛らに呼応して政府転覆を企てたという嫌疑がかけられる。その結果、士族の身分を剥奪された上、禁獄1年の刑に処せられた。竹内が逮捕されたのは炭鉱経営で出張中の長崎であったが、間もなく東京の獄につながれる。その中には陸奥宗光や林有造らが含まれていた。しかし、5月の大久保利通の暗殺以後、政府は国事犯を東京に置く危険を悟って、彼らを地方に分送した。竹内は911日、新潟の監獄に護送された。明治12年(1879年)8月、満期放免となった竹内は、板垣退助が創立した愛国社の再建に取り組むことになる。翌年、愛国社は国会期成同盟に改称されたが、竹内はこの国会期成同盟を足場にして、後藤象二郎らとともに国会開設・自由民権を掲げ、自由党結成の原案を作成した。私は竹内綱の墓所が谷中霊園にあったとは全く知らなかった。簡素な墓所であった。麻生氏はお参りをしているのだろうか。

 

小平 浪平 技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者。

 

小針重雄 三浦文治 琴田岩松 横山俊六 天野市太郎連名の墓 加波山事件(かばさんじけん)死刑になった人々。加波山事件とは明治七年(1884)に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。過激にして急進的な自由民権運動であった。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、爆弾を製造中に誤爆。計画が未遂に終わると、茨城県加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。また警察署や豪商の襲撃を行なった。この人々は市谷監獄で処刑されたという。

 

谷中霊園は、近代日本の歴史的人物が多く眠っている。体制側の人、そして反体制側の人が共に眠っている。

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2016年5月 9日 (月)

『出光美術館開館五十周年記念日の祝典』展参観記

本日参観した「2016年春、出光美術館は開館50周年を迎えます。その記念企画として所蔵の絵画作品から、国宝・重要文化財を中心とした屈指の優品を厳選して三部構成により一挙大公開いたします。第一部のテーマは、『やまと絵』。日本の伝統美を象徴する鮮やかな色彩と、やわらかな造形が織りなす『やまと絵』は、古来、宮廷文化に導かれながら発展してきました。とくに四季折々に移ろう山景や樹木の装い、そして野に会する花鳥たちの表情は、いつの世の人々にも愛され、絵に描かれることで独自の情緒や典雅な美意識を伝え遺してきました。優れた画家たちの手によって制作された、時代を代表する数々の名品を特集展示する本展では、重要文化財の『絵因果経』(奈良時代)や『真言八祖行状図』(平安時代)、『四季花木図屏風』(室町時代)をはじめとし、出光コレクションが誇る『やまと絵』の華麗なる展開をご紹介します。なおこの期間、国宝『伴大納言絵巻』上巻を10年ぶりに特別展示します」との趣旨(案内文)で開催された。

 

『伴大納言絵巻』(平安時代)、『長谷寺縁起絵巻』(南北朝時代)、『四季花木図屏風』(室町時代)、『吉野龍田図屏風』(桃山時代)、『月に秋草図屏風』(江戸時代)、『増長天像』『持国天像』(鎌倉時代)、『山越阿弥陀図』(南北朝時代)、『真言八祖行状図』(保延二年)などを参観。

 

「やまと絵」とは、支那風の絵画「唐絵」(からえ)に対する呼称であり、平安時代の国風文化の時期に発達した日本的な絵画のことだそうである。『源氏物語絵巻』などの絵巻物かその典型と言ふ。

 

今日参観した『伴大納言絵巻』は、貞観8年(866)閏310日に起きた応天門の炎上(『応天門の変』)をめぐる大納言伴善男の陰謀、その露見と失脚を物語った絵巻物。火災現場に駆けつける検非違使の役人たち、炎上する応天門と、それを風上と風下で眺める群集、炎に包まれる応天門がリアルに描かれている。群衆一人一人の仕草や表情がこまかく描写されていてまことに面白い。このように克明な描写を平安時代の昔に描かれたことに驚く。後白河天皇に重用された宮廷絵師・常盤光長が主導的な役割を担ったと言う。

 

『応天門の変』は、当初は大納言伴善男(とも  よしお、弘仁2年(811年) - 貞観10年(868年)は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣藤原良房の進言により無罪となり、その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、拷問によって自白させられ、有罪となり、伴善男父子が流刑に処された事件である。これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。藤原氏による大伴氏排斥事件とされている。『伴大納言絵巻』は藤原氏側に立った描かれ方がされているように思う。伴善男は、神代以来の明俗・大伴氏の血統をひく人物である。ということは、『萬葉集』の編纂者とされ、大歌人であった大伴家持の子孫である。大伴氏は、天孫降臨の先導役であった天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、『萬葉集』の時代から藤原氏と並ぶ氏族であった。何とも陰惨な事件である。

 

『山越阿弥陀図』も印象に残った。亡くなった人を阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩が極楽浄土から迎えに来た状景を描いている。まことに荘厳な作品で、こういう絵を見た人は、阿弥陀仏への信仰をより深めたと思われる。山の向うに浄土があると信じたのであろうか。日本浄土信仰発祥の地は、大和の二上山の麓である。そこには當麻寺(たいまでら)というお寺があり、西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」が伝えられている。東の三輪山から昇った太陽が西の二上山に沈む。大和に生活した古代の人々は二上山の彼方に淨土があると信じたのであろうか。

 見ごたえのある展覧会であった。

 

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