2017年7月26日 (水)

『東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!』参観記

昨日参観した『東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!』は、「東京藝術大学は今年、創立130周年を迎えます。これを記念し、大規模なコレクション展を開催します。東京美術学校開設以来、積み重ねられてきた本学のコレクションは、国宝・重要文化財を含む日本美術の名品ばかりではなく、美術教育のための参考品として集められた、現在では希少性の高い品々や、歴代の教員および学生たちが遺した美術学校ならではの作品が多くあることが特徴となっています。本展では、多様なテーマを設けて、すでに知られた名品だけでなく、これまで日の目を見ることの少なかった卒業制作などの作品、模写、石膏像や写真・資料類にもスポットをあてることによって、藝大コレクションの豊富さ、多様さ、奥深さをご紹介します。また、近年の研究成果を展示に反映させ、コレクションに新たな命を吹き込まれていくさまもご覧いただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

椿椿山「佐藤一斎像画稿」、原田直次郎「靴屋の親爺」、浅井忠「収穫」、黒田清輝「婦人像(厨房)」、狩野芳崖「悲母観音」、横山大観「村童観猿翁」、白滝幾之助「稽古」、下村観山「天心岡倉先生(草稿)」、鏑木清方「一葉」、前田青邨「白頭」、平櫛田中「活人箭」「禾山笑」、和田英作「渡頭の夕暮れ」、高村光太郎「獅子吼」、青木繁「黄泉比良坂」、高橋由一「鮭」、小倉遊亀、「月光菩薩坐像」(奈良時代)、「広東錦」(飛鳥時代)、「絵因果経」(奈良時代)、「羅漢図」(南宋時代)などを参観。

 

それぞれ美術史にのこる名品である。何回も見た作品もあったが今回初めての作品もあった。

 

和田英作「渡頭の夕暮れ」に最も感激した。何回か見た作品であるが、落日に染まる多摩川の水面を、渡し場でじっと見つめる農民の姿が描かれている。老人と中年の男性、赤子を背負う女性、そして二人の子供が船を待っているのであろう。じっとこの作品を見つめていると何故か涙が浮かんでくる。不思議な絵である。

 

狩野芳崖「悲母観音」は、芸大美術館の収蔵作品展では必ずと言っていいほど展示される。生まれたての赤子に甘露の水を灌ぐ観音様の姿が描かれている。観世音菩薩の慈悲の心がそのまま絵画になっているように思える。芳崖が亡くなる四日前まで描いていた絶筆であり、作家自身の最高傑作として名高い。日本美術史上重要な作品とされている。

 

「羅漢図」(南宋時代)の「羅漢(らかん)」とは、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者ことだそうであるが、角ばった坊主頭が面白い。私が子供の頃、私宅近くの日暮里に及川裸観(らかん)という人がいたのを思い出した。坊主頭で上半身は裸、半ズボン姿で「薄着は健康のもと」と書かれたのぼりを持ち、たすきがけをして「ワハハ、ワハハ」と笑いつつ「御機嫌よう、御機嫌よう」と言いながら走っていた。日本全国を行脚し、健康体操の指導、健康相談を行っていた。「裸のおじさん」「羅漢さん」と呼ばれていた。「羅漢図」の「羅漢」はその「裸のおじさん」によく似ているのである。昭和六十三年に八十八歳で亡くなったという。

 

高村光太郎「獅子吼」は、光太郎の「卒業制作」である。若々しい日蓮が路上で説法する姿である。若い頃の日蓮の強靭な意志が伝わってくる。弘法大師空海を描いた絵画や彫刻は多いが日蓮は珍しい。

 

「藤田嗣治資料」というのも展示されていた。君代夫人が寄贈した五千点以上にのぼる資料の一部である。日記帳・書簡などである。日記帳に「中河与一」という文字が見えたのだが、ケースの中に入っており、字が細かくてよく讀めなかった。

 

私は藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品が好きである。乳白色が用いられた何か不思議な感じのする絵である。見ていて美しいなあという思いがする。絵画というものは美しくなければいけない。

 

何故私がレオナール・フジタに関心を持つようになったかと言うと、フジタが私の文芸上の恩師である中河与一先生と深い親交があったからである。中河先生の家の応接間には、フジタが描いた『嬉子像』という中河先生の三女の方の肖像画が飾られていた。そしてその隣には、佐伯祐三が描いた『恐ろしき顔』と題した中河先生の肖像画も掲げられていた。

フジタも佐伯も近代日本における洋画家の最高峰である。二人とも日本国内のみならず、欧米において高い評価を得ている。中河先生のこの二人と若いころから親交があったのである。中河先生自身、画家を志して岡田三郎助の指導を受けたこともある。

 

中河先生と藤田は戦後、同じような運命を背負った。二人とも「戦争協力者」とされ、作家や画家や評論家たちから非難攻撃を受け文壇及び画壇から追放された。中河も藤田も祖国の危機に際して、粉骨砕身その芸術家としての立場から、大東亜戦争に協力した。敗戦後、文壇・画壇において、「戦争協力者」「戦争犯罪人」烙印を押され二人に対する追及が起こった。戦争への反省と言うよりも、画家や作家たちの戦勝国へのおもねり、時局便乗、自己保身のために行われたという側面もある。そのターゲットにされたのが、文壇では文芸評論などで活躍した中河与一先生であり、画壇ではいわゆる「戦争画」を描いた藤田嗣治だった。

 

「戦争協力」という言葉自体実に怪しげな言葉である。第一、戦時中は日本国民のほとんどが戦争に「協力」したのである。

戦後、藤田はフランスに渡り、彼の地で創作活動を続けた。中河与一はパリに藤田を訪ねたこともあった。藤田はパリで子供たちを主題とした作品を多く描いた。しかし、描かれた子供たちには笑顔が無かった。藤田の孤独感を象徴しているように私には思えた。

 

中河与一の父君は医師であり、藤田の父君も医師である。藤田の父が陸軍軍医総監であった。

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2017年7月16日 (日)

『水墨の風 ―長谷川等伯と雪舟』展参観記

本日参観した『水墨の風 ―長谷川等伯と雪舟』展は、「水墨画の魅力を、『風』をキーワードに迫ってゆきます。『風』は、『かぜ』と読めるのと同時に、『画風』『遺風』といった言葉からもわかるとおり、『流儀』や『様式』といった意味も含んでいます。日本における水墨の『風』を考える上で欠くことのできないのが、雪舟と長谷川等伯というふたりの画家です。雪舟は、当時の日本で重んじられた画法を学びながらもそれに飽き足らず、中国に渡って日本とは全く異なる本場の絵画動向に触れ、強い表現性を持つ水墨画を生み出すに至りました。そして等伯は、雪舟以後に大きな飛躍をとげた水墨画をさらに変革し、日本人の心性にかなった、情緒あふれる絵画表現にまで高めたのです。…伝統を基盤としながらも新たなる風を興したふたりの創作意欲の源に迫りつつ、さらに日本における水墨画がいかなる遺風にならい、いかなる新風を興したのかを、深く読み解いてゆきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

破墨山水図 画・雪舟 賛・景徐周麟 室町時代

松に鴉・柳に白鷺図屏風 長谷川等伯 桃山時代

四季花鳥図屏風(右隻)  能阿弥 応仁3年(1469

酔舞・猿曳図屏風 (左隻) 狩野尚信 江戸時代

四季柳図屏風 長谷川等伯 桃山時代

雪峯欲晴図 浦上玉堂 江戸時代 

平沙落雁図 牧谿 南宋時代

 

などを参観。

 

水墨画というのは、「墨」一色で表現される絵画である。筆の動きによる墨線・墨の濃淡で美しさを表現するというのだから大変難しいと思う。雪舟の「破墨山水図」は極めて筆の動きが極めて早く躍動感が感じられた。水墨画の特質を十分に表現した作品であった。

長谷川等伯の作品では水墨画ではないが、「四季柳図屏風」が良かった。金色の背景にそよ風に吹かれる緑の柳が描かれている。美しい作品であった。 

 

「雪峯欲晴図」などの浦上玉堂の作品も良かった。大きな作品ではないが、自然に対する慈しみの心が良く表現されていると思う。心洗われる絵画である。

 

水墨画というのは支那から禅と共に伝わったというから、水墨画を見ることは一種の宗教的に安穏の境地に導かれるということなのであろう。

 

全体的には花鳥風月、山水の景色を描いた作品がほとんどであった。ワンパターンの作品がやや多かったように思える。

 

近世以前は、電気の照明というものが無かったのだから、昼間は外光がさして来ることもあっただろうが、夜は蝋燭などの灯りなどで絵画など鑑賞したのであろう。現代の展覧会の照明とは全く違う雰囲気であったと思う。

 

山水画は、自然の美しさを実感し、心が洗われるような気分になれれば、良いのであう。私などは、描かれる絵画の世界に入って行きたくなる気分を起こさせる絵が良い作品だと思う。近代絵画では川合玉堂の絵がそうだと思う。起用参観した水墨画も玉堂の絵も、景色と共に人物が描かれているところが良い。自然の中に住む人間の幸福を思わせる。

また、そこで描かれている世界は写実ではない。言い換えると現実ではない。むしろ非現実の世界、理想の世界と言っていいだろう。だから鑑賞する者の心をする者の心を安穏たらしめるのである。

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2017年7月 6日 (木)

『フランス絵画の宝庫 ランス美術館展』を参観して

六月二十三日に参観した西新宿の損保ジャパン日本興亜美術館にて開催された『フランス絵画の宝庫 ランス美術館展』は、フランス北東部シャンパーニュ地方にある、ランス美術館のコレクションをご紹介する展覧会です。ランス美術館は、歴代のフランス国王が戴冠式を行った大聖堂で知られる古都ランス市に位置し、初期ルネサンスから現代まで、幅広いコレクションを有しています。本展覧会はランス美術館の所蔵作品から、17世紀から20世紀まで、選び抜かれた作品約70点を展示、華麗なるフランス絵画の歴史をたどります。また、ランス市に縁の深い日本出身の画家レオナール・フジタ(藤田嗣治)の作品群も併せて展示します」との趣旨(案内書)で開催された。

レオナール・フジタ《聖母マリア》《『平和の聖母礼拝堂』フレスコ画のための素描》 

作者不明(フランス)《ルイ15世の娘、アデライード夫人の肖像(と思われる)》

ジャック=ルイ・ダヴィッド《マラーの死》

ウジェーヌ・ドラクロア《ボロニウスの亡骸を前にするハムレット》

ポール・ゴーギャン《バラと彫像》《アリスカンの並木道》

カミ―ユ・ピサロ《オペラ座通り、テアトル・フランセ広場》

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ《ひまわり》

 

などを参観。レオナール・フジタ(藤田嗣治)が好きなので見に行ったのだが、他の作品も見ごたえがあった。美しい絵画の典型である。

レオナール・フジタは晩年ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂を建立して内壁を飾り、死後この礼拝堂に夫人とともに埋葬されている。そして、フジタの旧蔵作品や資料など2千点余りがランス美術館に寄贈された。1920-30年代の作品もあるが、大半は戦後、それも最晩年の礼拝堂を飾る壁画のための素描や習作である。展示されている作品には宗教的崇高さはあまり感じられなかったが、迫力のある作品であった。黒人の聖母マリア像というは大変に珍しかった。マリアの周りに子供達が描かれているのだが、誰一人笑顔を見せていない。フジタは晩年子供を描いた作品が多いが、笑っている子供はいない。不思議なことである。フジタの孤独感の表れであろうか。

フジタは、1955年にフランス国籍を取得、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けて藤田嗣治からレオナール・フジタとなった。没後、わが國政府からも勲一等瑞宝章を追贈された。

何故、フランスに帰化し、カソリック教徒になったのか。戦時中戦争画を数多く描いたことから、非難がフジタに集中したことが原因かと言われている。藤田嗣治は、私が御指導を受けた作家の中河与一氏とは、深い交流があり、藤田がフランスに行った後も続いた。中河氏も、戦時中戦争に協力したということで文壇から事実上追放された。藤田・中河両氏とも戦後、画壇・文壇に巣食っていた左翼勢力の生贄になったと言える。しかし二人の芸術家・作家としての業績は不滅である。

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2017年6月 5日 (月)

『はじめての古美術鑑賞ー紙の装飾ー』展参観記

昨日、根津美術館にて参観した『はじめての古美術鑑賞ー紙の装飾ー』展は、「日本の古美術はなんとなく敷居が高いという声に応えて企画した『はじめての古美術鑑賞』シリーズ。二回目の今年は、『読めない』という理由から敬遠されがちな書の作品にアプローチする一つの方法として、書を書くための紙、すなわち料紙(りょうし)の装飾に注目しました。華麗な色や金銀あるいは雲母(うんも)によるさまざまな装飾技法を、当館コレクションの作品を中心にやさしく解説するとともに、絵画に取り込まれた例もご覧いただきます。この展覧会が、書の作品に親しく接する機会となり、さらにはより深い古美術鑑賞への足がかりとなれば幸いです」(案内文)との趣旨で開催された。

 

大聖武 伝聖武天皇御筆 奈良時代 8世紀

五徳義御書巻 伝後陽成天皇御筆 桃山時代 16-17世紀

尾形切 伝藤原公任筆・平安時代 

百人一首帖 智仁親王筆・江戸時代 17世紀

今城切 藤原教長筆・平安時代 12世紀

難波切 伝藤原順筆・平安時代 11世紀

相生橋図 冷泉為恭筆・江戸時代 19世紀

百人一首帖 智仁親王筆・江戸時代 17世紀

八幡切 伝飛鳥井雅有筆・鎌倉時代 13世紀む

風俗図(部分)・ 江戸時代 17世紀

 

などを鑑賞。「書蹟」が多く展示されていた。書籍特に仮名文字は判読するのに大変苦労する。崩し字・変体仮名が多く讀み難い作品が多かった。『百人一首』や『萬葉集』に収められている歌は、初句さえ読めれば何んとか分かるが、それ以外は読解するのがとても困難である。しかし大変に美しい作品ばかりであった。

 

「大聖武(おほしょうむ) 伝聖武天皇御筆」は、聖武天皇が『賢愚経』(釈迦が、比丘たちに、三業の善悪とその果報について説いてゐるお経といふ)を書写されたと伝承される作品。紙本墨書。雄渾にしてたっぷりとした堂々とした大字で書写されてゐる。長い歳月、聖武天皇の御宸筆として尊ばれてきた。

 

第四十五代・聖武天皇は、佛教への信及び佛の慈悲と加護によって災厄から國家・國民を救ひたいと念願あそばされ、天平十三年(七四一)三月に『詔』を発せられて、諸國に國分寺(金光明四天王護國寺)・國分尼寺(法華滅罪寺)を建立するように命じられた。これらの寺は、鎮護國家の祈りを全國的な規模で行おうとしたものであった。さらに、聖武天皇は、天平十五年(七四三)『盧舎那大佛造立の詔』を発せられ、鎮護國家の祈りを全國的規模で行ふ日本國の総國分寺として東大寺を建立された。深い仏教信仰を持たれた天皇であらせられる。しかし、聖武天皇は、日本伝統信仰の祭祀主・現御神としての御自覚は正しく厳然と継承あそばされてゐたことは疑うべくもない事実である。奈良の大佛=盧舎那大佛建立は、日本の傳統的な信仰精神の佛教的表現である。盧舎那大佛は、太陽神の仏教的表現であり、天照大神のお姿そのものなのである。天地生成の神である伊耶那岐命・伊耶那美命二神の御子神が、太陽神であり皇祖神であらせられる天照大御神である。天照大神は高天原の主宰神であらせられ、その「生みの御子」を日本の永遠の君主と仰いできた。

 

日本民族は太古より太陽神を崇拝してきた。これは、日本民族は本来的に太陽のような明るさ・大らかさに強い憧れを抱いていたことを証明する。広大な前方後円墳にしても、東大寺の盧舎那大佛にしても、暗さは少しもない、明るく大らかである。また威圧感もなく円満である。

 

「五徳義御書巻 伝後陽成天皇御筆」は、儒教で説く五つの徳目「仁・義・礼・智・信」の要旨が書かれた書である。江戸時代以来、後陽成天皇の宸翰とされてゐる。法書(先人の筆跡を臨書したもの)として、青蓮院流(しょうれんいんりゅう・青蓮院門跡、尊円法親王を始祖とする書の流派)の堂々たる書風である。

 

第一〇七代後陽成天皇は、近世初期の天皇であらせられ、豊臣秀吉の権力掌握と豊臣家の滅亡、そして徳川家康の天下統一の時代の上御一人であらせられる。

 

聖武天皇・後陽成天皇の宸筆はまことに以て上御一人の書として大きな気宇を感じさせていただいた。

 

根津美術館の庭園を散策。鬱蒼と茂る樹木、池、そして所々に仏像や石塔が置かれている。東武鉄道創業者である初代根津嘉一郎氏は相当深い仏教信仰の持ち主であったと思われる。江戸時代の大名ではなく、近代になってからの個人邸宅跡の庭園としてはまことに広大なものである。東京には、根津家のほか、岩崎家(三菱)、古河家(古河鉱業)、五島家(東急)など大企業グループ総帥の屋敷跡の庭園が公開されている。何故か、堤家(西武)の屋敷跡とか堤家の美術館というのがないのが不思議である。

 

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2017年3月19日 (日)

『屏風にあそぶ春のしつらえ』展を参観して

本日参観した『屏風にあそぶ春のしつらえ』展は、「春を彩る屏風の名品と、茶道具や新収蔵品のおもてなしのうつわをあわせて披露します。本展では、江戸時代・寛永3年(1626)、将軍・徳川家光、その父秀忠の招きに応じ、後水尾天皇が京都・二条城に行幸する様子を描いた《二条城行幸図屏風》を展示します。行幸の道沿いでは見物する大勢の人々が描かれ、みな着飾り思い思いに過ごす情景は、京風俗の宝庫といえます。前期では、《誰ヶ袖図屏風》(江戸時代・17世紀)や《扇面散・農村風俗図屏風》(江戸時代・17世紀)を、後期では《大原行幸図屏風》(桃山時代・16世紀)や俵屋宗達にはじまる俵屋工房制作の「伊年」印《四季草花図屏風》(江戸時代・17-18世紀)などと共に、華やかな春の世界をどうぞお楽しみください」(案内書)との趣旨で開催された。

 

《二条城行幸図屏風》江戸時代・17世紀、《丹波茶入 銘 山桜》江戸時代・17世紀、《紅葉呉器茶碗》朝鮮時代・16世紀、菊池容斎 《桜図》江戸時代・弘化4年(1847)、《誰ヶ袖屏風》江戸時代・18世紀、などを参観。

 

《二条城行幸図屏風》は、寛永三年(一六二六)九月六日、後水尾天皇が京都における徳川将軍の居城である二条城に行幸された時の、天皇と将軍の行列図である。後水尾天皇をお招きしたのは、当時大御所とよばれた前将軍・德川秀忠、第三代・将軍徳川秀忠である。招かれたのは、後水尾天皇、中宮和子(まさこ)そして皇族方である。和子様は秀忠の五女であられる。

 

幕府が、天下を掌握した徳川氏の威信と正統性を天下に示した大行事であった。また公武関係の融和を図る意味もあったとされる。京都の民衆は、将軍の先導で、二条城に赴かれる天皇・皇族方の絢爛たる行列を見て、徳川氏が天下の覇者となったことを強烈に印象付けられたであろう。

 

この行幸を企画したのは、南禅寺の僧・金地院崇伝である。金地院崇伝は徳川将軍のプレーンであり「黒衣の宰相」と言われた人物である。彼は、この行幸の後に起こった「紫衣事件」や、この行事の前、家康存命中の「禁中並びの公家諸法度」制定にも深く関わった。朝廷の廷臣では烏丸光廣が有職故実に基づいて関与したという。

 

この行幸の翌年に、幕府による朝廷規制圧迫策である「紫衣事件」が起こった。その三年後に、後水尾天皇の御譲位が断行された。二条城行幸は、徳川幕府海幕以来続いた徳川氏による朝廷圧迫の最中の束の間の「融和」を示す行事とされる。

 

《二条城行幸図屏風》は、江戸時代から住友家に秘蔵されてきた。大切に保存されて来たためか、絵の具の退色・剥落が非常に少ないという。朝廷のお行列と幕府の行列が細部にわたって精密に描写されている。また沿道で集まった多くの老若男女の生態が克明に描かれている。当時の風俗を知るための貴重な資料とされる。

 

行列は御所から二条城まで堀川通りを南下した。天皇は鳳輦にお乗りになった。後水尾天皇には、内大臣二条康道、右大将九錠道房、右大臣一条兼遐、左大将鷹司教平、関白近衛信尋(のぶひろ)が供奉した。家光の行列は、天皇を奉迎するため中立売通を東上した。将軍の牛車は葵の紋に飾られ皇臣や摂関のみにゆるされる唐庇車(からひさしのくるま)であった。将軍・秀忠には、尾張・紀伊・駿河・水戸の徳川一門、伊達政宗など國持ち大名が鎧兜ではなく公家装束で供奉した。

 

後水尾天皇は『紫衣事件』や』『春日局参内』なを端緒とする幕府に対するお怒りを表明して三十四歳で譲位され、以後、五十一年にわたって院政を敷かれた。修学院離宮を造営され、本阿弥光悦など多くの文化人を庇護された

 

泉屋博古館編の『二条城行幸図屏の世界』には「舞台は『政治・経済・文化の総体』としての京都、登場するのは『この都にながく君臨してきた天皇一族』、そしてそれを見物する『豊かな民』。民衆は立会人であると同時に行幸を盛り上げる最大の立役者でもある。旺盛な観衆表現は、それを演出した将軍の天下の繁栄ぶりを知らしめる重要な役割をも果たしている。公・武・民がそろって始めて行幸図が完成するのだ。しかし行幸の後、程なく幕府は支配を強化し、朝廷も今日の町衆も完全に管理下におかれることとなる」と書かれている。

 

天皇の武家への行幸は、後陽成天皇の豊臣秀吉の聚楽第行幸以来、四十年ぶりのことであった。幕府の将軍が上洛し、参内し、行幸を仰ぐことによって、徳川幕府の正統性と権威を高めたのである。しかし、徳川氏は、表面的には、天朝尊崇の姿勢を示したのであるが、実際には此の行事の後にも「紫衣事件」など朝廷圧迫策をとり続けた。

 

徳川家康には基本的に尊皇心は希薄であったと考える。ただ徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の伝統的権威を利用した。しかし、天皇・朝廷を京都に事実上の軟禁状態に置いた。

 

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加へた。天皇・朝廷に対し奉り京都所司代が厳しい監視にあたった。

 

江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられたに後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の実相院で拝観した。 実相院第十七世義尊門主の母・法誓院三位局は、後陽成天皇との間に聖護院門主道晃親王をもうけているため、後水尾天皇とは兄弟のような関係にあり、後水尾天皇は 実相院へは度々行幸されたと承る。

 

後水尾天皇は、

「思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は」

「葦原や しげらばげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」

といふ御製をのこされてゐる。

 

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害されたと言っても言い過ぎではない。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓が眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事実を以て証明されるのである。

 

江戸時代の禁裏御料はたったの三万石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一五千石を献上した後、家光が一万五升四合、家宣が一万一斗余を献上し、ようやく三万石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高であった。

 

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2017年1月21日 (土)

水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

 

水戸藩の藩校・弘道館は藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

 

 徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与えた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終えるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

 弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救うための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもなどでもこうした教育振興策が講じられた。

 

 弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されている。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬い、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されている文である。水戸學は尊皇ではあるが、徳川家康そして幕府を否定する考えはなかった。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

 

 明治維新の基本思想たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の一節「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」より発したのである。藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べている。

 

 徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したという事実は驚嘆に値する。

 

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2017年1月16日 (月)

武士道について

 肝心の生死の際の覚悟のほどは、合理的な儒教論或いは仏教思想という外来思想とは全く縁のないエモーショナル(感情的)なものによっていた。「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本の武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。武士道は仏教から発したものでもなく、儒教から発したものでもない。『古事記』『萬葉集』の歌を見ても明らかな如く、日本伝統的な中核精神(神道)から発した。主君に対する忠誠と名誉が根幹である。新渡戸稲造は、吉田松陰の

 

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」

 

という歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた」(武士道)と論じている。

 

 もののふのみち(武士道)は、成文法をとって伝えられている理論・理屈ではない。ゆえに、「武士道」については、精々口伝により、もしくは数人の有名なる武士や学者の筆によって伝えられたる僅かの格言があるに過ぎない。和歌もその一つであろう。

 

『萬葉歌』は、飛鳥奈良時代の武士道を伝えている。それは語られず書かれざる掟、不言不文であるだけに実行によっていっそう効力を認められる。理論・理屈を好まない日本人らしい道徳律が武士道なのである。日本の伝統の根幹たる和歌も祭祀もそして武道も理論・理屈ではない。「道」であり「行い」である。そして一つの形式・「型」を大切にし「型」を学ぶことによって伝承される。学ぶとはまねぶである。理論理屈ではないが「道」(歌道・武道・茶道・華道)と言う。

 

 そして武士道は、道徳・倫理精神と共にあった。武士は封建時代において国民の道義の標準を立て、自己の模範によって民衆を指導した。義経記・曽我兄弟の物語・忠臣蔵などの民衆娯楽の芝居・講談・浄瑠璃(平曲・謡曲から発した音曲(おんぎよく) 語り物。義太夫節(ぎだゆうぶし)が行われるようになってからは、義太夫節の別名となった。)小説などがその主題を武士の物語から取った。明治維新の志士たちの歌も近代日本の武士道教育の手本となった。

 

 かかる和歌などの芸術によって武士道が継承され教育されたことは、武士道が教条や独善的観念体系(イデオロギー)ではないということを証しする。

 

 武士は、日本国民の善き理想となった。いかなる人間活動の道も、思想も、ある程度において武士道の刺激を受けた。武士は武家時代において、決して民衆を武力で支配した階級のみでなく、道義の手本でもあった。明治維新をはじめとしたわが国の変革を断行せしめた重要なる原動力の一つに武士道があった。この武士道を今に生きている。

 

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わが国はグローバリズムを克服し国家民族の独立と栄光を維持してきた

米ソ二超大国による冷戦構造が崩壊した後、世界は平和になったかと言うと決してそうではなく、むしろ、民族問題・領土問題・資源問題・宗教問題などで冷戦どころか熱い戦ひが世界各地で起ってゐる。

 

また、多くの国家が世界を一つの市場として利害を共有すれば、世界規模の戦争勃発の危険性を大きく低下させ平和が実現するといふ考へ方がある。いはゆるグローバリズムである。

 

しかし、現実には、各国の利害が衝突すると共に、持てる国と持たざる国との格差が広がってゐる。また無資源国が高値で資源購入を余儀なくされる状況になりつつある。

 

そしてグローバリズムの市場共有を放棄し武力行使をする国が再び出始める可能性も生ずる。つまり、再びブロック経済が第二次世界大戦を勃発させた時に近い状況になりつつある。地球の一体化を目指すといふグローバリズムが逆に世界平和実現を阻む大きな要因になってゐる。そして、市場原理主義の問題をはじめ日本も世界も大変な混乱期にある。

 

さらに、わが日本は、共産支那の中華帝國主義・アメリカ覇権主義・北朝鮮の暴虐が渦巻く狭間にあって、祖国の独立と安全を守るために戦はなければならない。

 

しかし、日本がかかる危機的状況に陥ったのは、今が初めてではない。飛鳥・奈良時代も、江戸時代末期も、今日と同じやうな危機に遭遇した。そしてわが國はその危機を乗り切った。

 

飛鳥・奈良時代にも、今日で言ふグローバリズムの波がわが国に押し寄せて来た。しかし、日本はそんな波に呑みこまれることなく自立した国家を作り上げた。

 

飛鳥・奈良時代は、儒教や仏教をはじめとした外来文化・文明が怒涛の如く日本に流入してきた。日本は、さうした言はば当時のグローバリズムをたくみに対峙しつつ、日本独自の文化と政治を確立した。そして平安時代といふ長きにわたる平和の時代を招来せしめた。

 

日本の歴史の中で長期にわたって続いた平和な時代が二つある。平安時代の三五〇年と江戸時代の二五〇年である。これほど長期にわたって平和を持続させた国家は世界史的にも日本だけである。

 

また、江戸時代末期にも、同じような危機に際会したが、明治維新を成し遂げ、日本の独立を守った。

 

つまり、わが国の歴史は、今日で言ふグローバリズムと対峙し、それを克服し、国家民族の独立と栄光を維持し発展させてきた歴史である。

 

その最大の要因は、天皇・皇室を祭祀主と仰いで國の統一と安定を確保するといふ強靭なる日本國體精神である。日本民族がグローバリズムの波に呑みこまれることなく、外来文化・文明を自由に柔軟に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤の中核が、天皇・皇室のご存在である。

 

わが國の建国の精神は、「八紘爲宇」の精神である。これは、世界は色々な民族・国家が連帯し共存する一つの家であるといふ精神である。また近代日本の父と仰がれる明治天皇御精神は、「四海同胞」の精神である。これは、世界の民は兄弟であるといふ精神である。日本は本来的に言葉の真の意味における平和国家である。

 

日本はその傳統信仰の靈的精神の偉大なる包容力によって、よく他國の宗教・文化・文明を取り入れてそれを融和せしめ洗練して、強靱にして高度な日本文化として開花せしめる力を持ってきたのである。 その根源には、天皇を祭祀主と仰ぐ日本伝統信仰がある。

 

世界各国各民族にはそれぞれ伝統精神・傳統文化を保持している。世界の愛国者は、各国各民族の個性・立場・歴史・傳統を尊重し合ひ、真の意味の平和な世界を実現しなければならない。

 

現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な祭祀の精神・文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

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2017年1月14日 (土)

天皇の祭祀について

 

 何故、天皇は神聖なる御存在であらせられるのか。それは天皇が、天照大神の地上に於ける御代理であらせられるという「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは天皇が、天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられるという「神話の精神」によるのである。それ以外に理由はないのである。この尊き事実をまず以て確認しなければならない。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変わることはないのである。

 

 「神話の精神」と言うと非科學的だとか歴史的事実ではないと主張してこれを否定する人がいる。しかし、神話は荒唐無稽な伝承ではない。神話において語られているのは、一切のものごとの生成の根源であり古代人の英知の結晶であり、神話的真実なのである。神話には日本民族の中核的思想精神・根本的性格(國家観・人間観・宇宙観・神観・道義観・生活観など)が語られているのである。そして「日本神話の精神」は、は西洋科学技術文明及び排他独善の一神教を淵源とする闘争的な西洋政治思想の行きづまりが原因となった全世界的危機を打開する力を持っている。

 

 しかも日本民族の「神話の精神」はただ単に『古事記』『日本書紀』といった文献だけでなく、「天皇の祭祀」そして「全国の神社の祭祀」という「生きた行事」によって今日まで継承され語られているのである。 

 

 神話には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の伝統的思想精神の結晶である神話への回帰こそがほとんど絶望的と言われている現代の混迷を打開する方途である。

 

 日本天皇が日本國の君主であらせられ、日本の文化と歴史継承の中心者であらせられるということは、天皇が行われる「祭祀」と不可分の関係にある。

 

 信仰共同體・祭祀國家日本の祭祀主であられる天皇は、その本質が神秘的御存在なのである。日本國民は天皇を神聖なる御存在と仰いできた。これを<現御神信仰>という。そしてこの信仰は、日本伝統信仰の中核である。

 

 ところが、「現行占領憲法」には、「天皇の祭祀」についての規定がないので、「天皇の祭祀」は「天皇の私的行為」とされている。このため政教分離規定との関係で、國との関わり合いの問題が常に憲法論争になってきた。しかしながら天皇の祭祀は個人の幸福を祈る私的なものでは微塵もなく、あくまで國家國民の平和と安定を祈念されるのであり、天皇の國家統治の精神そのものである。ゆえに、「天皇の祭祀」は天皇のもっとも大切にして神聖なる「ご使命」である。このことは『成文憲法』に書かれていようといまいと、厳粛なる事実である。

 

 天皇の國家的、文化的統合者としてのご使命の基礎には、祭祀や歌会始などの伝統的儀式にある。天皇と世俗的権力との関わりは時代によって異なり、積極的に関わった時もあれば、そうでない時もあって様々である。しかし歴史的に見て、一貫して変わらなかったのは祭祀であった。その意味で天皇中心の日本國體(不文憲法)を考える時、もっとも本質的なものは祭祀である。

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2017年1月10日 (火)

この頃詠みし歌

良き子二人に恵まれしわが妹は六十六歳になりにけるかも

 

重き曲『ショスタコビッチ第五番』自由圧殺の響きとし聴く

 

若き日より聴き来し『白鳥の湖』を今朝も掃除をしつつ聴きをり

 

夕暮の根津権現の神域は静かなりけり清らなりけり

 

敷石を踏みつつ神殿へと歩み行くこの夕暮れの静かなる時

 

拝ろみがて一年のご加護を感謝する夕暮時の根津のみやしろ

 

除夜の鐘を若き僧侶が打つ姿見つつ年越す越前永平寺

 

百八煩悩その一つでも消えよかしと永平寺の鐘を聞きゐたりけり

 

除夜の鐘を聞きつつ参道を歩み行く小雨冷たき越前永平寺

 

仰ぎ見る巨木の命の大いさを身に感じつつ立つ永平寺

 

越前の國一宮の神を拝ろがみて新しき年の出発とする

 

青く美しき日本海を眺めつつ静かなる心となりにけるかな

 

穏やかな日本海を眺めつつ新しき年の平和を祈る

 

青く美しき海の彼方にある國はわが日の本に仇なす國か

 

これほどに喫煙を嫌ふ世の中となりても我は煙草吸ひをり

 

今日もまた母と過ごして『ダンチョネ節』共に歌へば楽しくもあるか

 

寄り添ひて母上の口に食べ物を運べることがわが務めなる

 

息切らし昇り行く坂の上にある母のゐる施設にたどり着きたり

 

心込め文を書く時護りたまふ神を背後に感じゐるなり

 

真昼間の青空は消えて夜となればかすかながらに星がまたたく

 

年賀状で友の健在を知ることが年の始めの楽しみとなる

 

遠く住む友とはもう何年も会ふこともなく年賀状を讀む

 

おろしそば食しつつ逢ひ得ぬ人のことを偲びゐるなり越前の宿

 

知人よりのメールを待ちてゐる時にパソコンを開くことの楽しさ

 

筆を持つ手は何時も活発に動くが嬉し生きてゐる我

 

パソコンのキーを打つ指は忙しなく生きゐる我の命の動き

 

命あることを喜び今日も明日もパソコンのキーをたたき続けむ

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