2018年9月29日 (土)

『没後50年 藤田嗣治展』参観記

本日参観した『没後50年 藤田嗣治展』は、「「明治半ばの日本で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)。2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催します。本展覧会は、『風景画』『肖像画』『裸婦』『宗教画』などのテーマを設けて、最新の研究成果等も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。藤田の代名詞ともいえる『乳白色の下地』による裸婦の代表作、初来日となる作品やこれまで紹介されることの少なかった作品も展示されるなど、見どころが満載の展覧会です。」(案内書)との趣旨で開催された。

 

《目隠し遊び》1918、《タピスリーの裸婦》1923年、《自画像》1929年、《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》1922年、《狐を売る男》1933、《夏の漁村(房州太海)1937、《争闘()1940年、《アッツ島玉砕》1945、《サイパン島同胞臣節を全うす》1945、《私の夢》1947、《カフェ》1949、《フルール河岸 ノートルダム大聖堂》1950、《礼拝》1962-63などを参観。

 

《夏の漁村(房州太海)》は、安房國長尾藩の家老をつとめた藤田の祖先のゆかりの地である。小生の子供の頃、近所の方が太海に海の家を借りていたのでよく行った。《アッツ島玉砕》《サイパン島同胞臣節を全うす》は所謂戰爭がであるが、決して戦意を高揚させる絵ではないと思った。厳しくも凄惨なる戦場を描いている。戦時中この作品を見た人は、絵に向かって拝礼したという。

 

前にも書いたが藤田嗣治は、戦時中軍の要請で戦地に赴き、多くの戦争画を描いたところから、戦後になって、占領軍に媚を売り自己保身を図る画壇の人々によって、「戦争協力者」として指弾された。戦争画を描いた人々は他にも数多くいたのに、左翼によって「人身御供」にされたと言っていいだろう。これは、藤田嗣治が戦前はフランスにおいても高く評価され、戦時中帰国した時にも戦争画が高く評価されたことに対する画壇の一部の人々と言うよりも多くの人々の藤田に対する嫉妬があったからと言われる。

 

昭和二十二年の《私の夢》という作品は、全裸で眠る女性の周囲に闇が押し寄せ、古風な衣装をつけた猿、梟、鼠・狐などの動物たちが全裸の乳白色で描かれた全裸の女性を取り囲み今にも女性の体を引き裂こうとしているかのごとき不気味な作品である。

 

近藤史人氏はこの作品について、「藤田が日本を離れる前々年、一九四七年に制作された『私の夢』という作品がある。戦後初めて東京都美術館で開かれた展覧会に出品された絵である。中央には裸の女性が、周囲には人間の衣装をつけた猿や犬、兎など動物たちが描かれている。後にこの絵について藤田は中河与一への手紙の中でこう述べている。〈この二年間、戦争中の疲れを静かに休めて初めてとりかかった最初の作でした。やっと気分も落ち着いた或る頃、私か見ました夢を描いてみたのでした。人が裸で居て、獣が着物を着ていました。人間は頽廃して禽獣にも劣るという世相への皮肉かと言われましたが、ただこんな夢を見たまでと答えました〉こうした日本との複雑な関係は、やがて藤田に『帰化』という重大なる決断を指せる伏線となった」(『藤田嗣治「異邦人」の生涯』)と書いている。

 

中河与一もまた「戰爭協力者」として指弾され、文壇から事実上追放された。藤田と中河とは若い頃からの友人であった。何とも不思議な縁と言わざるを得ない。

 

戦後の糾弾の動きを嫌悪した藤田は、フランスに赴き、二度と帰国することはなかった。そしてアメリカ・ヨーロッパで大活躍し、世界的画家として地位を不動のものとした。日本の西洋画家として藤田嗣治以上の人はいないのではないか。

 

藤田は、日本国籍を捨ててフランスに帰化し、カソリックの洗礼を受けても、亡くなるまで日本を愛していた。味噌汁を飲み、浪曲のテープを聴きくことが多かったと言う。気の毒なことである。

 

晩年の《礼拝》という作品は、聖母マリアの左右に修道士姿の藤田夫妻が描かれているだが、何となく滑稽に見えるのは不謹慎であろうか。

 

私は、これまで藤田嗣治の大きな展覧会を三回見たが、今回は、はじめて見る作品が多くもっとも充実していたと思う。

| | トラックバック (0)

2018年8月 8日 (水)

『特別展「縄文―1万年の美の鼓動」』を参観して

本日参観した『特別展「縄文―1万年の美の鼓動」』は、「縄文時代が始まったとされる約13000年前。狩猟や漁撈、採集を行っていた縄文時代の人びとが、日々の暮らしのなかで工夫を重ねて作り出したさまざまな道具は、力強さと神秘的な魅力にあふれています。本展では『縄文の美』をテーマに、縄文時代草創期から晩期まで、日本列島の多様な地域で育まれた優品を一堂に集め、その形に込められた人びとの技や思いに迫ります。縄文時代1万年にわたる壮大な『美のうねり』をご体感ください」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「木製網籠縄文ポシェット」(重文)「土製耳飾り」(重文)「火焔型土器」(国宝)「土偶・縄文のビーナス」(国宝)「遮光器土偶」(重文)「人形装飾付有孔鰐付土器」(重文) 合掌土偶」(国宝) 「ハート形土偶」(重文)「石棒」(重文)などを参観。

 

縄文時代は一万三千年前が一万年続いたと言ふのだから、まさに悠久の太古の美術品である。美術品というよりも、古代日本人の生命力・魂のエネルギーが吹き出した結晶のやうに思へる。古代日本人と日本の大地が生み出した力強さが感じられた。弥生時代は洗練された文化であり縄文時代は素朴な文化といふ先入観があったが、まったくさうではないと思った。縄文時代の土偶も装飾品もきわめて手の込んだ造形であり、技術である。古代日本人の造形力の豊かさを実感した。

 

「土偶」は精霊を表現したものと言ふが、女性像が多いので、農作物の豊饒を祈る地母神崇拝のための人形と解釈されることが多いといふ。「遮光器土偶」はアメリカ映画の「グレムリン」を彷彿させるものがあったが神秘的な像であった。合掌土偶」と言ふのを見たが、大いなるものに手を合わせ祈るといふ風習は太古以来のものであるらしい。「動物型土製品」と言ふのもいくつか展示されてゐたが。蛇や猪が多かった。この二つは良い意味でも悪い意味でも畏怖の対象であったのであらう。「ハート形土偶」(重文)は岡本太郎氏の「太陽の塔」に似ていた。「石棒」(重文)は男性性器をかたどっている。生産の豊穣を祈る祭器である。「国生み神話」を思い出した。

 

一万年以上前に造られたものではあるが、時間を超えた感動を与えるのが縄文文化であると実感した。今日このような迫力のある芸術作品はあるであらうか。

 

この『縄文展』では、日本の天地自然には神が生きていたまうということを実感した。そして日本国の生成は、まことに麗しい歴史であることを実感した。神々への祭りと祈りが国家生成の根本になっていることを実感しました。太古の日本人は、豊かなる日本の自然と共に生き、自然に宿る神々を祭り、神々に祈りつつ生きていたと思う。神国日本というのは決して嘘ではない。

 

 

 

| | トラックバック (0)

2018年6月17日 (日)

『さゞれ石―佐々木誠の木彫展』を参観して

本日参観した『さゞれ石―佐々木誠の木彫展』は、「天神地祇という言葉が、佐々木誠氏のこれまでの作品名に幾つか見られる。皇祖たる天神(あまつかみ)系氏族と、土地の守、氏神たる地祇(くにつかみ)系氏族―それらは太陽(/あま)と土・水(地、海/あま)との関係にも置き換えられる―の調和と統合ゆえに、日本の歴史の連綿―さゞれ石のごとくーはある。こんにち文明間の衝突は、ここに回避の知恵もあろうが、それは久しく覆い隠されているかのようだ。佐々木氏の仕事は、その知恵を顕現させることにもなるのではないか。作品から滲む敬虔さと、頂門の一針たる絶対的ちから、そして、『代()くだれりとて自ら苟(いやし)むべからず。天地の始は今日を始とする理なり(神皇正統記)』―氏はかつて正統記の一文を展覧会タイトルとした―とのやむにやまれぬ決意をもって」(田中壽幸氏が書いた推薦文)との趣旨で開催された。「久延毘古(くえびこ)」「沙々禮石(さゞいし)」「鏡」などの作品を参観。

 

日本の神話や歴史精神を制作の源泉とする木彫作品であり、迫力がある。「鏡」という作品はそのままご神体と思えるようであった。どの作品も神秘的力というか霊力を発散しているように感じられた。

 

佐々木誠氏は、昭和39年東京生まれ。日本神話から造形をイメージし制作を続けている彫刻家。これまで、「彫刻創型展」で文部大臣賞「彫刻創型展」で創型会賞を受賞し、湯島の羽黒洞で「祖形-ヒトガタ-」展などを開催した。小生が講師を務める『萬葉古代史研究会』にも参加しておられる。

 

佐々木誠氏も「やまと歌」を詠まれる。『さゞれ石』と題する佐々木の長歌を紹介する。

 

「奉祷 皇國彌榮 

苔むせる 巖(いは)が根響(とよ)み かぎろひの 磐(いは)さけ耀(ひか)り 靈(たま)(ゆら)ぐ 稜威(いつ)の神さび 凝(こゞ)しかも さゞれ石(いは)は 天地の 神祇(かみ)の氣吹(いぶき)ぞ あやに畏し

反歌

さゞれ石 むすぶ祈りは 皇神(すめらぎ)の 御代の榮えを 萬代までに」

 

日本の傳統信仰・神話と「やまと歌」を根幹にした魂の籠った彫刻を創作している人はそれほど多くはないと思う。有難いことである。

 

田中壽幸氏は推薦文で「天神地祇」について書かれてゐる。日本民族は太古より「天地の神」を信仰して来た。わが國の神は、根源は一つであるが、天の神・地の神、陽の神・陰の神に、ご使命・ご系統が分かれてゐる。

 

 

 

 天照大神の系統の神様が天の神である。天照大神の御孫であらせられ、地上に天降られて地上を統治される神が、皇室の御祖先である邇邇藝命である。また、天照大神の弟君である須佐之男命の子孫の神が國土の神であり邇邇藝命に「國譲り」をされた大國主命である。そして、神武天皇をはじめとした御歴代の天皇は、天の神・地の神の霊威を身に帯びられて國家を統治されて来てゐる。

 

 

 

 全國各地に、天照大神をお祀りした神社、須佐之男命をお祀りした神社が数多くあ鎮座してゐるやうに、わが國民は、天の神・地の神(天神地祇)を共に敬って来た。農耕生活を営む上において、天の恵み(太陽)と地の恵み(土と水)は欠かすことができないので、わが國の祖先は天神地祇を篤く信仰したのであらう。

 

 

 

 「天神地祇」と言ふやうに、日本人は、天の神・地の神を対立して考へず、一体のものとしてとらへた。天の神・地の神として全てを包み込んでしまひ、漏れ落ちることがないといふのが日本人の伝統信仰である。

 

 

 

 地の神である須佐之男命も、天の神である天照大神の弟神であられる。天の神も地の神も根源的には姉と弟であり一つなのである。

 

そして、須佐之男命は、天照大神に反抗されて高天原で大暴れするけれども、出雲の國に天降ると、豊饒の神となって、民を助ける。日本人は「天と地」・「善と悪」を厳しく峻別するといふ考へ方はなく、「悪」も見直し・聞き直しをすれば「善」となるといふ寛容にして大らかな精神を持ってゐる。

 

 

 

 キリスト教などの一神教では天と地とは隔絶した存在であり、人間がこの世から天國へ行くのは簡単ではない。イエス・キリストを神の一人子として受け容れ、信仰し、他の宗教を捨て、原罪を悔い改めなければならない。

 

 

 

 しかし、わが國の伝統信仰においては、天と地とは隔絶した存在ではないととらへてきた。わが國が四方を海に囲まれてゐて、水平線をよく見ることができる。水平線の彼方は海と空とが一体になってゐる。故に空のことも「天(アマ)」と言ひ、海のことも「アマ」と言ふ。日本人は、天地は一如であると観察してゐたのである。

 

 

 

| | トラックバック (0)

2018年6月 6日 (水)

『NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」』展参観記

 

本日参観した『NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」』展は、「明治維新から150年、2018年の大河ドラマの主人公は西郷隆盛です。薩摩(鹿児島)の一介の下級武士から身を起こし、明治維新を成し遂げた西郷隆盛。しかし、この稀代の英雄には、肖像写真が一枚も残っておらず、その生涯は多くの謎に包まれています。本展覧会は大河ドラマと連動しながら、西郷隆盛ゆかりの歴史資料や美術品などによって、「西郷どん」の人物像と激動の時代を 浮き彫りにします。西郷の風貌を最も忠実に伝えるとされる肖像画や、座右の銘を記した書「敬天愛人」。西郷がその婚礼に尽力した篤姫が所有していた華麗な調度品には多くの 展覧会初公開品が含まれます。また幕府瓦解のきっかけとなった幕末の最重要史料「討幕の密勅」も登場。そして、あの有名な銅像「上野の西郷さん」の制作過程を物語る新出写真まで、西郷隆盛の魅力のすべてを味わいつくす展覧会です」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「西郷隆盛肖像画」石川静正画、「天璋院所用 薩摩切子」、「於薩海二英入水」松月保誠画、「西郷菊次郎宛 西郷隆盛書状」、「孝明天皇御宸筆 忠誠」、「大久保利通宛 西郷隆盛書状」慶應元年、「徳川慶喜書 誠」、「討幕の密勅」慶応三年、「錦旗」慶應四年に朝廷より土佐藩に下賜、「江戸開城談判 下図」結城素明筆、「西郷頼母宛 西郷隆盛書状」明治二年、「西郷隆盛陸軍元帥辞令」明治五年、「西郷隆盛軍服」、「西郷隆盛遣韓使節書状」明治六年、「武者絵」明治時代初め西郷隆盛筆、「私学校綱領」明治時代初め西郷隆盛筆、「私学校祭文」明治七年西郷隆盛筆、「西南戦争に対する大義名分論」明治九年川路利良筆、「西南戦争官軍高札」明治十年、「正三位御沙汰書」明治二十二年、「西郷隆盛銅像設置場所申請書」(明治二九年)など貴重な資料を参観。

 

孝明天皇の御宸筆「忠誠」は初めて近くで拝したが、まことに素晴らしいものであった。やわらかに筆致ではあるが、強さがにじみ出ていた。徳川慶喜の書も見事であった。

 

会津の西郷頼母と西郷隆盛が親交があったこと初めて知った。隆盛は、会津戦争後、頼母に見舞金を度々送ったという。西郷隆盛は敵方であった庄内藩士からも慕われた。「西郷隆盛軍服」は明治六年四月に習志野で行われた近衛兵大演習にて近衛都督(総司令官)であった隆盛が着用したもの。隆盛の身長は一八〇㎝、体重は一一〇キロであったと推定され、まことに大きな軍服。「西郷隆盛遣韓使節書状」には、韓国に対して礼を尽くして交渉を行う旨が詳細にそして丁寧に述べられている。しかし一度決定された遣韓使節派遣は、岩倉具視、大久保利通によって覆されてしまう。

 

「私学校祭文」において西郷隆盛は、「蓋し学校は善士を育する所以なり、只に一郷一國の善士たるのみならず、必ず天下の善士為らんことを、夫れ戊辰の役に名を正し義を踏み、血戦奮闘して斃るる者は乃ち天下の善士なり、故に其の義を慕ひ其の忠に感じ之を茲に祭り以て一郷の子弟を鼓舞するは、亦学校の職を尽す所以なり。西郷隆盛謹んで誌す」と論じてゐる。

 

多くの貴重な資料により、西郷隆盛の生涯そして明治維新から西南戦争までの歴史を学ぶことが出来た。やはり日本国史上西郷隆盛は偉大なる人物であったと思う。

 

             〇

「西郷隆盛銅像設置場所申請書」に発起人総代として樺山資紀の名が記されている。樺山資紀は薩摩藩士、海軍大将、警視総監、海軍大臣、台湾総督、内務大臣などを歴任した。従一位大勲位功二級伯爵西南戦争では熊本鎮台司令長官谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守した。その樺山資紀が西郷像建立の発起人総代となったのである。かつての敵側からも尊敬される西郷隆盛が如何に大人物であったかがわかる。樺山資紀の曾孫が、都議会議員をつとめた故樺山卓司氏である。小生とは学生時代からの友人・同志であった。樺山卓司氏は、まことに気の毒なことに都議会のボスといわれた自民党都連内田茂幹事長(当時)との軋轢で自殺に追い込まれた。遺書には「内田許さない!!これは全マスコミに発表して下さい!人間性のひとかけらもない内田茂。来世では必ず報復します。!お覚悟!!自民党の皆さん。旧い自民党を破壊して下さい」と書かれていた。

| | トラックバック (0)

2018年6月 5日 (火)

『戊辰戦争 菊と葵の五〇〇日』参観記

180604_162002

『戊辰所用錦旗及軍旗真図』


昨日参観した『戊辰戦争 菊と葵の五〇〇日』は、「戊辰戦争は、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに始まり、翌明治2年(18695月の五稜郭の戦いが終結するまでの、一連の戦闘をいいます。王政復古によって誕生した新政府軍と、旧幕府軍との間で500日以上にわたり、各地で様々な戦いが展開されました。本展では当館所蔵資料から、日本各地で行われた様々な戦闘の記録や、戦争に参加した人々に関する資料をご紹介し、戊辰戦争の実像に迫ります」(案内書)との趣旨で開催された。

 

『戊辰所用錦旗及軍旗真図』(ぼしんしょようきんきおよびぐんきしんず)重要文化財(戊辰戦争の際、新政府軍が用いた錦旗(きんき)及び軍旗(ぐんき)の精密な模写図です。戊辰戦争では各種の錦旗や軍旗が新政府軍に与えられました。 これらの旗は年が経過すれば劣化は免れないため、政府では絵師浮田可成(うきたかせい)に命じ、これらの旗を克明に模写させ、正確な姿を後世に伝えることとしました(明治21年(18885月から約2年をかけて作成)。本資料の含まれる「公文附属の図」は、平成10年(1998)、「公文録」とともに、国の重要文化財に指定されました、との説明が書かれていた)、『函館五稜郭開拓使ヨリ請取方伺』(はこだてごりょうかくかいたくしよりうけとりかたうかがい)重要文化財、『二の丸炎上並薩摩藩貞焼打等消息ニ付書状』、『甲斐鎮撫日誌』、『赤報記』、『長岡戰爭之記』、『白虎隊之図』、『箱館奉行杉浦兵庫頭 明細短冊』『大正十三年皇太子御成婚贈位内申事蹟書』などを参観。

 

鳥羽伏見の戦いについて、多くの史家は、開戦翌日の一月四日に、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたので、幕府軍の士気が萎えてしまったと論じてゐる。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことが、史家のいふところの「両軍の士気・戦意の相違、幕府内部の所謂『裏切り』『内紛』、徳川慶喜の戦意・統率力欠如」の根本原因である。

 

「錦の御旗」とは、朝廷の軍即即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。

 

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

 

史家の中には、「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、国学者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ者がゐる。以前のNHKの大河ドラマでもそのような描き方をしてゐた。

 

しかし、明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ理屈は全く成り立たない。

 

仁和寺宮嘉彰親王は、新政府軍を率いて御所をご進発、午後には洛南の東寺に陣を置かれ、錦旗が掲げられた。

 

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。一月五日、征討大将軍が鳥羽街道を錦旗を立てて南下すると、それを遠望した幕府軍は浮足立ち、淀城へ退却した。ところが、淀藩は幕府軍の淀城入場を拒んだ。津藩・淀藩の行動は決して裏切りではなく、上御一人日本天皇への恭順である。徳川慶喜の戦意喪失も決して臆病風に吹かれたのではなく、彼の尊皇精神がさうさせたのである。

 

『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。また、わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

 

『大正十三年皇太子御成婚贈位内申事蹟書』について次のような説明が書かれていた。「幕末期の浪士・相良総三は本名を小島四郎左衛門といい、下総の郷士の子として江戸で生まれました。平田國學を学んだのち尊王攘夷運動に参加し、水戸天狗党の筑波山義挙などにかかわり、慶応三年十月の薩摩藩邸焼き打ち事件で浪士隊を結成して、江戸攪乱工作を行います。慶應四年正月、西郷隆盛らの命で赤報隊を組織し、年貢半減令を宣伝して、東山道を進軍しましたが、政府が半減令を取り消したため偽官軍と見なされ、処刑されます。本資料は大正十三年、相良らの名誉回復のため遺族有志が申請した、赤報隊氏への贈位に関する文書です」。

 

相良総三及び赤報隊については、薩摩に利用されたとか、掠奪を行ったとか、純粋に維新を目指したて戦ったとか、様々な評価がある。しかし、昭和3年(1928年)に正五位が贈られ、翌昭和4年(1929年)、靖国神社に合祀されたという。

 

| | トラックバック (0)

2018年5月13日 (日)

「創刊記念『國華』130周年・特別展『名作誕生-つながる日本美術』展参観記

本日参観した「創刊記念『國華』130周年・特別展『名作誕生-つながる日本美術」は、「日本美術史上に輝く『名作』たちは、さまざまなドラマをもって生まれ、受け継がれ、次の名作の誕生へとつながってきました。本展では、作品同士の影響関係や共通する美意識に着目し、地域や時代を超えたさまざまな名作誕生のドラマを、国宝・重要文化財含む約130件を通してご紹介します」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「国宝 薬師如来立像 奈良~平安時代89世紀奈良元興寺」「重要文化財 仙人掌群鶏図襖(部分) 伊藤若冲筆 江戸時代・18世紀 大阪・西福寺蔵」「国宝 普賢菩薩騎象像[ふげんぼさつきぞうぞう]平安時代・12世紀 東京・大倉集古館蔵」「雪梅雄鶏図[せつばいゆうけいず]伊藤若冲筆 江戸時代・18世紀 京都・両足院蔵」「国宝 八橋蒔絵螺鈿硯箱[やつはしまきえらでんすずりばこ]尾形光琳作 江戸時代・18世紀  東京国立博物館蔵」「重要文化財 初音蒔絵火取母[はつねまきえひとりも]室町時代・15世紀 神奈川・東慶寺蔵」「国宝 松林図屛風[しょうりんずびょうぶ]長谷川等伯筆 安土桃山時代・16世紀 東京国立博物館蔵」重要文化財 蓮池水禽[れんちすいきんず]於子明筆 中国・南宋時代・13世紀京都・知恩院蔵」「重要文化財 湯女図[ゆなず]江戸時代・17世紀 静岡・MOA美術館蔵」「くだんうしがふち 葛飾北斎筆 江戸時代・19 世紀 東京国立博物館蔵」「重要文化財 色絵竜田川透彫反鉢 尾形乾山 江戸時代・18世紀4神奈川・岡田美術館蔵」「道路と土手と塀 岸田劉生筆 大正四年 東京国立博物館蔵」などを参観。

 

仏像は、鑑真和尚が来日した時に連れて来た仏師が造り出したという。その後、日本人の仏師によって木造の仏像が多く造られるようになったという。観世音菩薩像、普賢菩薩像、薬師如来像が多い。今日展示連れていた国宝の「薬師如来像」は後姿が堂々としていて良かった。寺院など安置されている仏像は礼拝の対象であるから、後姿や横顔はなかなか拝することができにくいが、美術館に展示されている時はどの角度からも拝することができる。何故か平安時代の仏像は普賢菩薩・薬師如来が多かった。普賢菩薩と共に描かれている「十羅刹女」は鎌倉時代の作品になると十二単を着た女性になっていた。仏教画が日本に定着し融合したということか。尾形乾山の「色絵竜田川透彫反鉢」は現代の作品かと思われるくらいに新鮮であり色彩が美しかった。葛飾北斎筆の「くだんうしがふち」は、江戸時代の九段坂と牛が淵とが描かれている。今日の九段坂とは全く異なる風景である。小生が二松学舎に通っていた約十年間上り下りし、今日も靖國神社にお参りする時に上り下りする坂なので格別親しみを感じた。伊藤若冲筆の「仙人掌群鶏図襖」は鶏の表情が実に面白い。紅の色彩が印象的であった。模写した作品も言わば模倣であろうが、美の継承ということでもある。「美の継承」という意味では、岸田劉生筆「道路と土手と塀」は、葛飾北斎筆「くだんうしがふち」の美を継承した作品である。そしてそこには新しき美が生まれている。近代以前の日本の彫刻美、絵画美は、やはり仏像と仏画と切っても切れない関係がある。藝術は洋の東西にかかわらず宗教と不離一体の関係にあったという事であろう。また藝術は継承と創造の世界であるをあらためて認識した展覧会であった。多くの外国人が参観に来ていて賛嘆の声をあげていた。日本の美術はやはり素晴らしい。

 

 

 

| | トラックバック (0)

2018年4月21日 (土)

『生誕一五〇年横山大観展』参観記

本日参観した『生誕一五〇年横山大観展』は、「東京美術学校に学んだ大観は、師の岡倉天心とともに同校を去り、日本美術院を設立。新たな時代における新たな絵画の創出を目指しました。西洋からさまざまなものや情報が押し寄せる時代の中、日本の絵画の伝統的な技法を継承しつつ、時に改変を試み、また主題についても従来の定型をかるがると脱してみせました。やがてこうした手法はさらに広がりを見せ、自在な画風と深い精神性をそなえた数々の大作を生み出しました。本展では、40メートル超で日本一長い画巻《生々流転》(重要文化財)や《夜桜》《紅葉》をはじめとする代表作に、数々の新出作品や習作などの資料をあわせて展示し、制作の過程から彼の芸術の本質を改めて探ります。総出品数約90点を展観する大回顧展です」(案内書)との趣旨で開催された。

 

《屈原》明治三一年 《白衣観音》明治四十一年 《迷児まよいご》明治三五年 《瀑布(ナイヤガラの瀧・万里の長城)》明治四四年 明治四五年頃 《ガンヂスの水》明治三九年 《瀟湘八景》大正元年 《彗星》《焚火》大正四年 《群青富士》大正六年頃 《生々流転》大正一二年 《龍蛟躍四溟》昭和一一 《海に因む十題》昭和一五年 《或る日の太平洋》昭和二七年 《夕顔》昭和四年 《風蕭蕭兮易水寒》(昭和三〇)などを参観。

 

横山大観は明治大正昭和の三代を生きた偉大なる日本画家である。どの作品もその強烈さに圧倒される。初期の《屈原》は、共に東京美術学校を追放された岡倉天心をイメージして描かれたという。屈原は支那楚の時代の伝説的詩人で国政に関わるも讒言により追放され自死した人物である。屈原の無念さがその表情に表現されている。大観の師・岡倉天心の無念さが重ねられている。私はこの作品を見るたびに前進座を追放された河原崎長十郎が追放された後に演じた屈原を思い出す。テレビ中継で見たのだが、長十郎が「そなたたちは私を陥れたのではない。我が楚の國を陥れたのだ。全中華の人民を陥れたのだ」という鬼気迫る台詞が蘇える。《瀑布(ナイヤガラの瀧・万里の長城)》は大観が実際にかの地を訪れた時の雄大な景色の印象を同じ画面で描いた異色作。《彗星》は明治四三年に見たハレー彗星を描いた作品。彗星を描いた絵画は他にないと思う。《瀟湘八景》は支那の景色を描いている。「瀟湘」というと「君がため 瀟湘湖南の 少女らは われと遊ばず なりにけるかも」という吉井勇の歌を思い出す。吉井勇の歌は支那湖南省ではなく相模の国の湘南のことをしゃれて歌ったという。《群青富士》は今回展示された大観の富士山の絵では一番美しいと思った。富士山の青と雲の白と他の山々の緑の対照がまことに見事である。《生々流転》は長さ四十メートルを超える大作。自然の河の流れを人の一生に譬えているという説があったように思う。「大観」という号の通り、大自然と時間の流れを大きく観た作品である。《龍蛟躍四溟》は凄まじい作品というほかはない。龍と雲が今にも動き出すかのように見える。白と黒の色彩で描かれている迫力満点の作品。《風蕭蕭兮易水寒》は晩年の作であるが「風蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し、壮士(そうし)一たび去って復(ま)た還(かえ)らず」という司馬遷『史記』の中の詩を題材にしている。秦の始皇帝の殺めようとして出発する荊軻のことを詠んだ悲壮な詩である。荊軻は事破れ逆に惨殺されてしまう。易水のほとりで荊軻を見送る犬がとても可愛く描かれている。もっとも初期作品は屈原を題材とし、大観が亡くなる二年前の最晩年の作品が荊軻を題材としている。どちらも悲劇の主人公であるのは不思議なことである。

会場で上映されていた記録映画では、岡倉天心が横山大観などと共に谷中初音町に創立した日本美術院の院歌を横山大観が歌っている声が流されていた。「谷中うぐいす 初音の血に染む 紅梅花 堂々男子は 死んでもよい」「奇骨侠骨 開落栄枯は 何のその 堂々男子は 死んでもよい」という美術学校の校歌とは思えない勇壮な歌詞である。

 

谷中初音町は小生の住む千駄木の隣町である。そして大観の墓所も谷中霊園にある。また、大観の住んでいた家は私宅近くの池之端にあった。そこは今、横山大観記念館なっている。この三つは私は散策する所である。

 

 

| | トラックバック (0)

2018年4月 7日 (土)

「平成三〇年春の特別展・江戸幕府、最後の闘い―幕末の『文武』改革―」展参観記

本日参観した「平成三〇年春の特別展・江戸幕府、最後の闘い―幕末の『文武』改革―」展は、「平成30年(2018)は明治元年(1868)から満150年を迎える年に当たります。春の特別展では明治前夜、幕末期の江戸幕府に焦点を当て、当館所蔵の江戸幕府公文書である『多門櫓文書(たもんやぐらぶんしょ)』を中心に、幕末期の江戸幕府の『文武』改革について取り上げます。こうした改革が可能になった背景や、維新後に新政府で活躍する幕臣たちのその後も合わせて展示し、明治の近代国家建設の端緒を江戸幕府の側からご紹介いたします」(案内書)との趣旨で開催された。

 

『甲辰阿蘭舟到来・視聴草』(オランダ国王からの開国勧告の記録)、『ペリー提督日本遠征記』、『天保中唐尹闘争風声』(阿片戦争についての報告書)、『勝麟太郎上書五策』(勝海舟の対外政策意見書)、『蕃書調所規則覚書』(海防・外交・海外学術研究機関の規則)、『安政四年水戸前中納言殿軍艦旭御船製造之儀成功ニ付拝領物之抜書』、『歩兵令詞』『兵学程式』(この二つは幕府軍が使用した軍事資料。オランダ・イギリスの文書の翻訳本)、『二條摂政記』(最後の関白二條斎敬の記録。徳川慶喜の「大政奉還」の上表文が記されていた)、『駿河表召連侯家来姓名』(維新後徳川宗家が駿河に移封された時に従って行った家臣の名簿)、中村正直著『西国立志編』などを参観。

 

大変勉強になった。阿部正弘は海外情勢の把握、海外学問・知識の受容、政治体制及び国防の強化などの懸命の努力をしたことが分かった。また人材の育成にも力を尽くした。幕末の幕閣の開国政策の推進者は決して井伊直弼ではなく阿部正弘であったことを再認識した。維新前の幕府のそういう努力の過程で収集された海外情報、育成された人材・官僚が、維新後の日本において大きく役立ち且つ活躍をした。徳川慶喜の「大政奉還の上表文」はよくよく読み返さなければならないと思った。慶喜が何故「朝敵」と指弾され攻撃されたのかを考えねばならない。

| | トラックバック (0)

2018年4月 3日 (火)

『寛永の雅 江戸の宮廷文化戸遠州・仁清・探幽』展参観記

本日参観した『寛永の雅 江戸の宮廷文化戸遠州・仁清・探幽』展は、「17世紀初め、江戸幕府が政権を確立すると戦乱の世は終わりを告げ、泰平の時代がおとずれました。時を同じくして文化面でも新たな潮流が生まれます。それが寛永年間(1624~44)を中心に開花した「寛永文化」です。寛永文化は「きれい」という言葉に象徴される瀟洒な造形を特徴とし、当時の古典復興の気運と相まって、江戸の世に「雅」な世界を出現させることとなりました。

寛永文化の中心は京都にあり、なかでも学問・諸芸に造詣の深かった後水尾院(ごみずのおいん)は、長く絶えていた儀礼や古典文芸の復興に心を尽くしたことで知られています。特に和歌は朝廷を象徴する芸能に位置づけられ、その洗練された優美さを追求する姿勢は、和歌のみならず、多くの美術作品にまで影響を及ぼすこととなりました。

一方、幕府はそうした公家衆の動向に注目し、時には意見を異としながらも、公武間の文化的な交流は盛んに行われました。京都のサロンを主な舞台としたその交流は、さまざまな階層の人々を巻き込み、公家、武家、町衆といった垣根を越えて、新しい時代にふさわしい美意識を醸成し、共有されていったのです。

本展ではこのような近世初期の「雅」を担った宮廷文化と、それと軌を一にして生まれた新時代の美意識が、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、野々村仁清(ののむらにんせい)、狩野探幽(かのうたんゆう)などの芸術に結実していく様子をご覧いただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「白釉円孔透鉢」 野々村仁清、「東福門院入内図屛風」 六曲一双、「冠形大耳付水指」修学院焼、「桐鳳凰図屛風」六曲一双 狩野探幽、「源氏物語絵巻」住吉具慶 五巻のうち第三巻(部分)「色絵紅葉賀図茶碗」 野々村仁清、黒釉色絵金銀菱紋茶碗 野々村仁清、「後水尾天皇宸翰『忍』」、「後水尾天皇宸翰『一貫』」、「御切形茶碗」 修学院焼、「瀟湘八景のうち『山市晴嵐』『煙寺晩鐘』『瀟湘夜雨』『江天暮雪』」などを参観。

 

寛永文化は豪華絢爛たる安土桃山文化と元禄文化との間の文化であり、寛永文化という言葉自体、小生は知らなかった。徳川幕府成立後、世情が安定した時期の文化である。小堀遠州、狩野探幽、金森宋和の三人が活躍した。しかし、寛永文化の中心はやはり朝廷・皇室である。特に後水尾天皇は指導的御役割を果たされた。後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天万乗の大君として君臨あそばされ、修学院離宮の造営、学者文人芸術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。

 

本日拝観した「後水尾天皇宸翰『忍』」は、聖護院門跡に伝わるものである。この宸翰は京都岩倉実相院門跡にも伝えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されてゐると拝する。実に力強い筆致である。徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。

 

会場に入ってすぐの所に「白釉円孔透鉢 野々村仁清」が展示されていたのであるが、とても四百年前の作品とは思えなかった。現代の作品と見紛うばかりと新鮮さであった。小生は、茶道具の良さ、香合、茶入れ、茶碗、茶杓、水差しなどの芸術的価値がよく分からないのである。しかし本日参観した「御切形茶碗」「冠形大耳付水差」など「修学院焼」と言われる作品は美しかった。また野々村仁清の茶碗も光輝いて見えた。

| | トラックバック (0)

2018年3月29日 (木)

『横山大観・竹内栖鳳・川合玉堂をはじめとする、近代日本画の精鋭たち』展を参観して

本日参観した『横山大観・竹内栖鳳・川合玉堂をはじめとする、近代日本画の精鋭たち』展は、「明治40年(1907)、政府は文部省主催の美術展覧会(文展)を開設、さらに大正8年(1919)帝国美術院主催の美術展覧会(帝展)に改組しました。これら“官展”に対し、横山大観を中心とする旧日本美術院派は、同3年(1914)日本美術院を再興、本格的な在野運動へと進んでいきました。ことに、大正から昭和初期にかけては、文、帝展を主舞台とした東京画壇と京都画壇、さらに在野の大観率いる日本美術院とがそれぞれ独特の存在感を示して鼎立しており、近代日本画壇は、さながら百花繚乱の様相を呈していました。
本展示では、まさに、この時期に重なって形成された野間コレクションより、近代日本の絵画革新運動を牽引してきた精鋭たちによる美の光彩を感じていただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

川合玉堂《渓山春色》横山大観《松鶴図》・前田青邨《羅馬へのおとづれ》・下村観山《竹林賢人》・竹内栖鳳《鮮魚》・上村松園《塩汲ノ図》《惜春之図》・木村武山《光明皇后》・松岡映丘《池田の宿》・安田靫彦《春雨》・小林古径《売茶翁》・鏑木清方《五月雨》《夏の旅》・堂本印象《清亮》・福田平八郎《紅葉遊禽図》・寺崎広業《瀑布》などを参観。

 

川合玉堂の景色の絵は何時見ても心洗われる思いがする。景色の中に必ず小さな人物が描かれているのが良い。美人画は、何と言っても上村松園が良い。鏑木清方や伊藤深水よりもずっと美しい。横山大観は富士山の絵か感動を覚えるが今回は展示されてゐなかった。

 

野間コレクションの色紙「十二カ月図」は、川合玉堂の作品が良かった。小さな色紙の中に大きな風景か描かれていて見事であった。福田平八郎の作品も良かった。洋画の技法を取り入れているとのことである。また小茂田青樹という人の作品も色彩が美しかった。この方の作品は今回初めて観賞した。

 

先日六本木の泉屋博古館分館で参観した木島櫻谷の作品は無かった。やはり、画壇の主流からは外されていたのであろうか。芸術の世界にも色々複雑な派閥の対立と言うか不調和の歴史があったようである。

 

野間記念館の参観を終えて、江戸川公園、肥後細川庭園を散策したのであるが、この辺りは、講談社野間家、肥後細川家に縁のあるというか所有していた建物や公園が多い。また、近くの椿山荘は明治の元勲山県有朋の屋敷跡である。細川家は言うまでもなく鎌倉時代から続く家柄である。講談社野間家は明治末期に創業し発展した出版社である。「私設文部省」とまで言われるほどの大出版社になった。創業地は、今私が住んでいる文京区千駄木三丁目(旧町名駒込坂下町)である。

 

今日は、美しい日本画を鑑賞し、江戸川公園の櫻並木と神田川に浮かぶ桜の花びらを愛でるとともに、日本の歴史を偲んだ。

| | トラックバック (0)

より以前の記事一覧