2020年6月19日 (金)

天照大御神の御心であり鏡の心である「清明心」が日本民族の外来文化・文明包摂の精神

太古以来の日本民族の精神的特性は、「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」である。

中村元氏は「日本人の思惟方法のうち、かなり基本的なものとして目立つのは、生きるために与えられている環境世界ないし客観的諸条件をそのまま肯定してしまうことである。」(『日本人の思惟方法』)と論じてゐる。

「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」とは、中村氏が言はれる「与へられてゐる環境・条件をそのまま肯定する思惟方法」とかなり近いものがあると思ふ。

「与へられてゐる環境を素直に肯定する思惟方法」が、天地自然を人間と対立する存在ととらへず、天地自然を神としてまつり拝ろがむ信仰生活を生んだと思はれる。それは日本の天地自然が麗しく温和であり人間に大いなる恵みを与へる存在である事による。麗しく豊かな自然に恵まれた日本民族は、現世を肯定し、明るい太陽の下で生きてきた。日本民族は本来明るく大らかな民族である。

「明治天皇御製

あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな」

「清明心」をうたひあげられた御製と拝する。大らかな広々とした心が「清明心」である。私心をまじえず眞澄のやうに清らかな心、それが日本人の本来の心である。

「清明心」は、佛教思想の影響が強まった中世になる「正直」といふ言葉になった。『早雲寺殿二十一カ条』(室町後期の武将北条早雲の教訓書)に「こころを直にやはらかに持ち、正直憲法にして…あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持、持仏冥慮にもかなふと見えたり」と記されてゐる。

「正直の心」は、ありのままなる心・素直な心である。つまり清明心の中世的における表現である。

日本民族は、「もののあはれ」といふ美感覚を持ってゐる。「あはれ」とはうれしいにつけ、楽しいにつけ、悲しいにつけて、心の底から自然に出てくる感動のことばである。

「もののあはれ」とは、物事にふれてひき起こされる感動である。知的興味とは違った何かに深く感動することのできる感じやすい心のことである。自然・人生の諸相にふれてひき出される素直なる感動の心である。理論・理屈ではない。「清明心」「正直の心」を美感覚の世界における表現が「もののあはれ」といへる。

本居宣長に次のやうな歌がある。

「事しあればうれしかなしと時々にうごく心ぞ人のまごゝろ」

この宣長の歌について、村岡典嗣氏は「この眞心こそは、やがて古神道に於ける清明(あか)き心、中世神道における正直の觀念の發展せるものに外ならない。彼(註・宣長)が一切の偽善や作為をあくまでも斥け、その見地から儒教を攻撃したのもこの立場からである。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。
宣長にはまた次のやうに歌がある。

「眞心をつゝみかくしてかざらひていつはりするは漢(から)のならはし」

宣長のいふ「からごころ」は、日本人本来の素直なる心・清明心・もののあはれとは正反対に位置するといふことである。

先人は「正直」「清明心」といふに本人の中核精神が「三種の神器」の一つである「鏡」に象徴されると信じた。

北畠親房は、『神皇正統記』で「鏡は一物をたくはず私の心をなくして萬象をてらすに、是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがって感應するを徳とす。是正直の本源なり。」と説いてゐる。

「清明心」は、鏡の心であり、太陽の心であり、天照大御神の御心である。この精神が、「主体性」を喪失せずに「無私」の態度で一切を包容摂取するといふ矛盾と思へるやうなことを為し得て来た原因であると思ふ。

「鏡」は、天照大御神の『神勅』に「吾が児、この寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るが如くすべし」と示されてゐる通り、天照大御神の御霊代(れいだい・みたましろ)である。

また、仲哀天皇が筑紫に進軍された時、筑紫の県主・五十迹手(いとて)が『三種の神器』の意義を天皇に奏上した言葉に「白銅鏡の如くにして、分明(あきらか)に山川海原を看行(みそなは)せ」(『日本書紀』「仲哀天皇紀」)とあるやうに、鏡のやうに明らかに山川海原を統治されるお方が、天照大御神の「生みの御子」であられせられる日本天皇なのである。

「鏡」は天照大御神の広大無辺の御慈愛と曇りなき御心を表象する。天照大御神は、素盞鳴尊が悪い行為をされても、それを良く解釈された。それが太陽の明るく大いなる生命=天照大御神の御神徳である。見直し聞き直して、相手を生かされるのが天照大御神の御心である。それがまさに、日本民族の外来文化・文明包摂の心である。

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2020年3月18日 (水)

『二〇周年記念 深見東州バースデイ書画個展』における登壇者のスピーチ

本日開催された『二〇周年記念 深見東州バースデイ書画個展』における来賓祝辞を紹介します。

 

亀井静香氏「深見氏は現代のダヴィンチを超えているかもしれない。暗い空気に人類が滅ぼされてはならない。深見東州氏に人類を救う先頭に立ってもらわねばならない」。

 

高村正彦氏「深見氏はビジネス・國際交流で素晴らしい活躍をされてゐる。沈滞した世の中に明るく元気な空気を吹き込んでもらいたい。深見氏の全人格がキャンバスにストレートに反映されている。これから深見先生の真似をして生きていきたい」。

 

下村博文氏「こういう催しを開かれたことにより勇気と元気をいただいた。我々の発想をはるかに超えたパワーで刺激を与えられた」。

 

前原誠司氏「京都亀岡の大本の出口王仁三郎の書画と陶器は素晴らしい。神が降りてきて力を与えられた。深見先生も大きな神の力を与えられている。人をワクワクさせる。先生のチャレンジ精神をいただきながら私も頑張っていきたい」。

 

平沢勝栄氏「今永田町で流行っている言葉は延期・自粛・中止。この時期にこれだけの人が集まるには大したこと」。

 

鈴木宗男氏「私が逮捕されて一番つらい時期に深見先生は一番助けてくれた。人間として一番大切なことは施し。障害者のために尽力する深見先生に敬意を表する」。

 

深見東州氏は要旨次のように語った。
「自粛ではなく積極的に打ち勝っていく。今回は自分の目で選んだ浮世絵を展示している。江戸期のものは価値が安定している。来年は七〇歳。おじいさん臭くなるので古稀の祝いはしないようにしている。葛飾北斎は七〇代で一番活躍し世界のクリエイターに影響を与えた。白隠禅師と北斎の一番の黄金期は八〇歳台。私は九〇歳まで現役を続ける。お茶会は生きるか死ぬかの時にするもの。茶禅一如・剣禅一如。戦さで明日は決戦の時にお茶をたてる。明日は死ぬか生きるか分からない。己の腹を固めるためにお茶をたてる。柳緑花紅の喜びを悟った者が貴い。見性の中に佛が出てくる。雑念妄想に打ち勝つ。その奥に悟りがある。これが和敬清寂。コロナウイルスの恐怖の中で超然とお茶会をする。刻々と今を生きる。私はこれまで五回見性している」。

 

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2020年2月21日 (金)

『日本書紀成立一三〇〇年 出雲と大和展』参観記

本日参観した『日本書紀成立一三〇〇年 出雲と大和展』は、「令和2年(2020)は、我が国最古の正史『日本書紀』が編纂された養老4年(720)から1300年という記念すべき年です。その冒頭に記された国譲り神話によると、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祀の世界を司るとされています。一方で、天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ『幽』と『顕』を象徴する場所として、重要な役割を担っていたのです。令和2年は、日本が国内外から大いに注目される時でもあります。『幽』と『顕』を象徴する地、島根県と奈良県が東京国立博物館と共同で展覧会を開催し、出雲と大和の名品を一堂に集めて、古代日本の成立やその特質に迫ります」との趣旨で開催された。

「重要文化財日本書紀 巻第二 南北朝時代・永和1~3年(1375~1377) 愛知・熱田神宮蔵」「国宝 銅剣・銅鐸・銅矛(部分) 島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)」「重要文化財 宇豆柱 島根県出雲市 出雲大社境内遺跡出土 鎌倉時代・宝治2年(1248) 島根・出雲大社蔵」「国宝銅剣・銅鐸・銅矛 島根県出雲市 荒神谷遺跡出土 弥生時代・前2~前1世紀 文化庁蔵(島根県立古代出雲歴史博物館保管)」「国宝七支刀 古墳時代・4世紀 奈良・石上神宮蔵」「模型出雲大社本殿 平成十一年」「国宝秋野鹿蒔絵手箱 鎌倉時代・13世紀 島根・出雲大社蔵」「新沢千塚異一二六号噴出土品」「藤ノ木古墳出土品」「延喜式(九条家本)巻八」「観音菩薩立像 持統天皇六年」「「十一面観音菩薩立像 支那唐時代」などを参観。

出雲と大和の歴史と信仰を伝える貴重な文物である。国宝・重要文化財に指定されてゐる展示品が非常に多かった。神々への信仰と祭祀が日本国存立の根幹であることを改めて認識した。『日本書紀』を重要なテーマにした展覧会を参観したのは今回が初めてである。私も何回か出雲に赴いたが、神社のしめ縄がとても太く大きいことに驚いた。大和の神社との違いを実感した。ただし、大和におけるもっとも古い神社である三輪神社のご祭神は大物主神であり、この神は、大国主神の別名である。また銅鐸・銅矛・埴輪・土器は、古代祭祀を今に伝える貴重なものであるが、大和も出雲も違いはない。つまり、大和地方の信仰も出雲地方の信仰も根源的には一つであるということである。『日本書紀』には出雲神話を融合した神話が語られている。出雲の神である須佐之男命や大国主命は日本人がとても親しみを感じ愛した神ではなかろうか。修験道の佛である蔵王権現は須佐之男命の別名と言われているという。

奈良時代に入ると観世音菩薩像や四天王像などが信仰の対象になった。特に仏像は日本の時代を通じて観音菩薩像が多い。観音様は多くの人々に慕われ信じられた仏様ということであろう。日本の神々の像はとても少ない。日本の神は自然神であり祖先神であるからであろうか。自然や祖霊を神として拝むので特別に神像を造り拝礼する必要が無かったのであろう。

上野の山に日本の古代信仰が生き生きと開示されてゐることに大きな喜びを覚えた。

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2020年1月10日 (金)

東京国立博物館参観記

本日参観した東京国立博物館の常設展では、室生寺の鎌倉時代につくられた十二神将像(巳神・酉神)などの仏像、高村光雲・高村光太郎・平櫛田中などの彫刻作品を参観。そして長谷川等伯・横山大観などの日本画などを参観。江戸時代以前のわが国の彫刻は仏像が殆どである。特に観世音菩薩像・阿弥陀如来像・不動明王像が多い。日本人は、この三つの仏様を信じ、救いを求める人が多かったのであろう。

平櫛田中、高村光雲光太郎父子、朝倉文夫という近代日本の代表的彫刻家は、千駄木・谷中に居住していた。また、日本画家も横山大観は池之端に、児玉希望、小堀鞆音(小堀桂一郎先生の祖父にあられる)は、千駄木に居住していた。

文學の世界で森鴎外・夏目漱石は千駄木にいた。という訳で、谷中・千駄木・池之端は近代日本の文化史に極めて重要な町なのである。下

そして、特別展「天皇と宮中儀礼」拝観。大嘗祭・新嘗祭・宮廷にて行われた祭祀・儀式・行事における絵画作品・歴史資料を拝観。平安時代以降、天皇が即位後に行なわせられる大嘗祭では、その都度、悠紀主基屏風が連綿として作成されてきたが、今回展示された明和元年度の屏風は現存最古のもので、極めて貴重な作品であるという。謹んで拝観。

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2019年12月 1日 (日)

『東山魁夷の青 奥田元宋の赤―色で読み解く日本画』展参観記

本日参観した『東山魁夷の青 奥田元宋の赤―色で読み解く日本画』展は、「東山魁夷(ひがしやまかいい)の青、奥田元宋(おくだげんそう)の赤―。ある特定の色が画家の名と結び付けられ、代名詞のように語られることがあります。絵画の中の色は、作品のイメージや画家本人の世界観を伝えるうえで、重要な役割を担っているといえるでしょう。このたび山種美術館では、近代・現代の日本画から印象的に色が表された作品を取り上げ、画家と色の密接な関わりをひもとく展覧会を開催いたします。
明治時代に入り、日本は様々な分野で西洋の影響を受けましたが、絵画の色も例外ではありませんでした。元来、日本美術の伝統的な絵具は、群青は藍銅鉱(らんどうこう)、白は胡粉などに見られるように、鉱石や貝殻をはじめとする天然素材が主に用いられてきました。そのため、表現できる色数も限られていましたが、近代以降、多彩な合成顔料の流入や、新たな人造の岩絵具が開発されたことなどにより、色の種類が増加していきます。
このような画材の広がりは、日本画家に刺激と表現の多様化をもたらしました。画家たちの間では新たに開発・輸入された合成絵具や西洋の色彩学などを取り入れて制作を試みる者がいる一方で、天然岩絵具を中心とした伝統的な彩色表現が日本画の神髄とみなす者もおり、それぞれが日本画ならではの色の可能性を追求しながら、バリエーション豊かな作品を生み出しています。…画家が自らの芸術を創造するため、どのような色を制作に活かしたのか、それぞれの言葉や、社会的背景などを踏まえながら、色を通じて見えてくる画家たちの軌跡をご紹介いたします。」(案内書)との趣旨で開催された。

 

宮廻正明《水花火(螺)》 竹内栖鳳 《鴨雛》 奥村土牛 《舞妓》 田渕俊夫 《輪中の村》 柴田是真《円窓鐘馗》 奥田元宋《奥入瀬(秋)》 東山魁夷《年暮る》 宮廻正明《水花火(螺)》 竹内栖鳳《鴨雛》 山口蓬春《卓上》 千住博《松風荘襖絵習作》 小林古径《秌采》 田渕俊夫《輪中の村》 安田靫彦《観世音菩薩像》などを参観。

 

近代日本の日本画家の美しい作品が展示され実に見ごたえがあった。会場に入って作品を見た途端に心やすらぎを覚えた。色彩美が素晴らしい。ということはそれを描くために眺め描写した日本の自然が美しいということである。こういう絵画を見ると本当に日本に生まれて良かったとあらためて思う。日本の自然が破壊されつつあると言われる。自然が破壊されないことを切に祈る

 

奥田元宋の作品は今回初めてゆっくり鑑賞したが、迫力があり強い力が感じられる。私は、日本の風景画では。川合玉堂が最も好きである。

 

こうした日本画は、藤田嗣治や岡本太郎とは全く異なる世界であるが、どちらも好きだ。岡本太郎は、「芸術は爆発だ」と言ったが今日参観した日本画の世界はそういう世界ではない。「爆発」ではなくあくまでも「美」が描かれている。

 

私宅のある千駄木(旧町名・駒込林町)には児玉希望という画家が住んでいたが、奥田元宋は児玉希望の弟子であるという。児玉希望の作品も色彩が見事であると思うのだが、今回は展示されていなかった。

 

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2019年10月 6日 (日)

「耀盌顕現七〇周年記念 東京大本藝術祭 出口王仁三郎耀盌展」を参観して

本日参観した「耀盌顕現七〇周年記念 東京大本藝術祭 出口王仁三郎耀盌展」は、「出口王仁三郎は広大な大宇宙・大自然こそ神が造られた大藝術作品であると唱え、自然の産出原理と芸術の創造原理の一致を説いた。藝術は宗教の母なりーー。この独自の芸術観を展開し、大宇宙、大自然の姿を三〇〇〇個を上回る茶盌の中に表した。今から七〇年前美術評論家・加藤義一郎氏は、『近代フランスの油絵のように見たこともない茶盌』と驚愕し、その光り輝く茶盌を『耀盌』と名付け、日本美術工芸誌に発表。すぐさま各地で『観賞会』が開かれ、東京では東京国立博物館・応挙館で開催された。『耀盌』はやがて、国内のみならず欧米を駆け巡り、一大センセーションを巻き起こした」と趣旨(案内書)で開催された。

「天国三十」「天つおとめ」「御遊(ぎょゆう)」と名付けられた茶碗作品、「光明」と書かれた書な度を参観。小生は陶芸のことは全く素人であるが、茶道で使われる陶芸作品、いわゆる焼き物はは、わび・さびの世界と言われるように地味で色彩が暗いものばかりのように思う。しかし、王仁三郎の作品は色彩豊かで実に明るい。光り輝いているように見える。

出口王仁三郎は(明治4年旧7月12日) - 昭和23年1月19日)は、明治二十五年に開教した所謂教派神道系新宗教「大本」の二人の教祖の一人。私が高校時代に入信した生長の家の教祖・谷口雅春師は、若き頃大本に入信し、若手幹部として頭角を現し、機関誌の編集に携わるとともに、数々の論文・書籍を発表した。そうしたこともあり、「大本」に関心を抱いてゐた。

昭和四十年代後半に、出口王仁三郎氏の孫である出口京太郎氏が「巨人・出口王仁三郎」といふ著書を刊行した。この本によって当時まだあまりよく知られてゐなかった王仁三郎の思想・芸術・生涯が多くの人々に知られるようになったと思う。この本がその後のいわゆる「出口王仁三郎ブーム」のきっかけになったと思う。

その後、王仁三郎の著作を讀み、色々勉強した。谷口雅春の本は殆ど読んでゐた小生にとって、王仁三郎の著作はそれほど困難なく理解することが出来、共鳴するところが多かった。その後、出口京太郎氏と文通するようになり、お目にかかった。そして綾部と亀岡にある大本本部を訪問した。また王仁三郎のもう一人の孫である出口和明氏にもお目にかかった。今は詳しく書くことか出来ないが、亀岡では二回ほど神秘体験を経験した。

昭和十年十二月八日に起こった第二次大本事件は、昭和史・わが國近代史において、大変重要な事件である。あれほどの宗教弾圧が行われ、多くの犠牲者が出た事件であるのに、何故に國家権力特に内務省・警察当局は徹底した弾圧を断行し、出口王仁三郎氏そしてその婿養子である出口日出磨氏ら多くの方々を教団幹部が投獄されたのか、その真相は今でもそのすべては明らかになっていない。

出口王仁三郎氏等の幹部は、悪逆不逞の國賊と指弾され、拷問を加えられた。王仁三郎の養嗣子出口日出麿氏は、残虐凄惨な拷問によって精神分裂症になり、近年に亡くなるまで回復することはなかった。
 
大本は、皇室を廃絶して出口家がわが國を統治するという國體転覆を謀った悪逆不逞の教団としたのが内務省である。一方、王仁三郎師は、昭和維新運動の最高指導者であられた頭山満・内田良平両先生と同志的契りを結ばれ、昭和九年七月、昭和神聖會(統管・出口王仁三郎、副統管内田良平)という愛國団体を結成し、昭和維新・神政復古・國體明徴化・立替え立て直しを叫んで、皇道宣布運動・天皇機関説排撃・ワシントン海軍軍縮条約撤廃運動などの運動を展開した。その勢力は會員百万人・賛同者八百万人に達したという。

 変革思想を抱いた大教団が、愛國団体と手を結び、実際活動を展開した。しかも華族・軍人などにも信徒が拡大しつつあった。このことが、当時の國家権力に大きな危機感を抱かせたことは想像に難くない。

 「大本教を何とかして押さえ込まねばならないと考えた國家権力とりわけ内務省は、大本教を大逆不逞教団に仕立てあげ、治安維持法・不敬罪を適用して苛酷な大弾圧を敢行した」というのが、大本教に同情的な人々の見方である。

愛國団体と大本教とを離間させるには、大本を國體転覆を謀る逆賊教団と決めつけるのは最も効果的であった。事実、第二次大本教事件から三ヵ月後の昭和十一年二月二十六日に起こった二・二六事件の『蹶起趣意書』には「傾来遂に不逞凶悪の徒簇出し……共匪、大逆教団等、利害相結んで陰謀至らざるなき……」と記されている。

 当時の國家権力が愛國維新を目指して活動していた王仁三郎氏及び大本教団に悪逆不逞の濡れ衣を着せて迫害したのなら絶対に許されざることである。大本は無実の罪を着せられたのか、あるいは本当に皇室を廃絶して出口家が日本を統治するという國體転覆を謀ったのか、どちらが真実なのかは、正しく究明しなければならない昭和史上の大問題である。 

小生は、講談社発行の著作集に収められた王仁三郎氏の論文・歌などを読み、尊皇愛國の人であることを実感した。また、数年来大本機関誌『おほもと』を購読しているが、反國體・反天皇の言説は全く無い。むしろ日本の伝統を尊ぶ良き論調の雑誌と思考する。出口直日三代教主(王仁三郎氏の長女)そしてその子息の出口京太郎氏は反天皇・反國體の言説を説いていない。また大本教の幹部で歌人の山川京子先生などは、尊皇愛國の志篤い方であった。

美術展の感想記とは言えないようなことを書いてしまった。

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2019年9月21日 (土)

『奥の細道三三〇年 芭蕉』展

本日参観した『奥の細道三三〇年 芭蕉』展は、「芭蕉は、江戸を出立。白河の関を越えて、松島・平泉を巡り、出羽の各地を遊歴しました。その後、越後・越中・加賀・越前へと旅して、8月下旬には美濃大垣へと至ります。こうした約600里(2400キロ)の旅路は、半年にも及びました。行く先々で目にした景物を題材に優れた俳諧作品が生まれ、自筆の短冊や懐紙なども多く残しています。この旅をもとに、亡くなる元禄7年(1694)の4月に編まれたのが紀行文『おくのほそ道』です。今年は、芭蕉が奥の細道の旅に出て、330年の記念の年を迎えます。これを記念して本展では、出光コレクションの中から芭蕉の自筆作品を厳選し、他館の名品もお借りして、約20点もの芭蕉の書をご紹介いたします。多様に展開する芭蕉の書の魅力をお伝えするとともに、芭蕉の真跡を捉え直す機会になれば幸甚です。また、『おくのほそ道』をめぐる名品や芭蕉を敬慕した者たちの書画作品も展示し、芭蕉や俳諧にまつわる美術をお楽しみいただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

「発句自画賛『はまぐりの』 松尾芭蕉 江戸時代」「二句懐紙『ふる池や』『ながき日も』松尾芭蕉 江戸時代」「発句画賛『かれえだに』書/松尾芭蕉 画/森川許六 江戸時代」「中務集 伝 西行 平安時代 重要文化財」「発句画賛『はまぐりの』書/松尾芭蕉 江戸時代」「奥之細道図 与謝蕪村 安永七年」「西行物語絵巻 詞書 烏丸光廣 画俵屋宗達 寛永七年」「佐野渡図屏風 狩野興以  江戸時代」「筏師画賛 与謝蕪村 江戸時代」「芭蕉蛙画賛 仙厓 江戸時代」などを参観。

それぞれ趣のある作品である。和歌絵画などのわが国古典芸術の伝統を継承していることはもちろんであるが、学者・文化人・絵画の専門家でなくとも親しめる作品である。「古池や蛙飛び込む水の音」「長き日もさえずり足らぬひばりかな」「蛤の生けるかひあれ年の暮れ」(貝と生きがいとを掛けている。いはば洒落である)などはその典型であらう。「奥之細道図 与謝蕪村 安永七年」は「奥の細道」長大なる絵巻物になっている。如何に蕪村が芭蕉を尊敬していたかが分かる。このほかの作品にも、芭蕉の有名な俳句が書かれている。書家や平安朝貴族・僧侶の書や画とは異なるが見つめてゐると何となく心やすらぐ。

江戸時代の僧侶仙厓の「画賛」が特に面白いパロディである。「池あらば飛んで芭蕉に聞かせたい」(池の無い所に坐っている蛙を描いた画)「古池や芭蕉飛び込む水の音」(植物の芭蕉が池に飛び込む画)「気に入らぬ風もあろふに柳かな」(堪忍の心を詠んでゐる)。昔『てなもんや三度笠』といふテレビの喜劇番組で天王寺虎之助という役者が「インド洋象の飛び込む水の音」と叫んだのを鮮明に思い出した。
感銘した画と俳句(画賛)は「枯れ枝にからすのとまりけり秋の暮れ」「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」「筏師の蓑や嵐の花衣」などであった。

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2019年8月21日 (水)

『円山応挙から近代京都画壇へ』展参観記

本日参観した『円山応挙から近代京都画壇へ』は、「18世紀、様々な流派が百花繚乱のごとく咲き乱れる京都で、円山応挙は写生画で一世を風靡し円山派を確立しました。また、与謝蕪村に学び応挙にも師事した呉春によって四条派が興り、写生画に瀟洒な情趣を加味して新たな一派が誕生します。
この二派は円山・四条派としてその後の京都の主流となり、近代にいたるまで京都画壇に大きな影響を及ぼしました。
本展は、応挙、呉春を起点として、長沢芦雪、渡辺南岳、岸駒、岸竹堂、幸野楳嶺、塩川文麟、森徹山、菊池芳文、竹内栖鳳、山元春挙、上村松園ら近世から近代へと引き継がれた画家たちの系譜を、一挙にたどります。
また、自然、人物、動物といったテーマを設定することによって、その表現の特徴を丁寧に追います。日本美術史のなかで重要な位置を占める円山・四条派の系譜が、いかに近代日本画へと継承されたのか。これまでにない最大規模でその全貌に迫る、圧巻の展覧会です」(案内書)との趣旨で開催された。

円山応挙『写生図鑑』(重文)、円山応挙『松に孔雀図』(重文)、円山応挙『江口君図』(重文)、竹内栖鳳『春暖』、長沢芦雪『薔薇蝶狗子図』、岸竹堂『猛虎図』、岸連山『枳殻御殿春秋図』、呉春『四季耕作図』、呉春『山中採薬図』、川合玉堂『鵜飼』、森寛斎ほか『魚貝尽くし』、木島櫻谷『山水図』、上村松園『楚蓮香之図』等を参観。

江戸時代は京都画壇では様々な画家や流派が群雄割拠していたが、明治維新以降、京都画壇の主流派となったのは円山・四条派だったという。円山派の祖である円山応挙が現れたことで京都画壇の様相は一変しました。円山応挙と四条派の祖である呉春の二人は、新しい画風を確立し、爆発的人気を博したという。写生画が優れていたというが、確かにどの作品も迫力のあるそして精緻なる写生画が多かった。応挙・呉春を源泉とする円山・四条派の流れは、その後の京都画壇の主流となり、近代になってからは、竹内栖鳳、上村松園等を輩出した。

江戸時代の虎の絵が猫を大きく描いた絵であったが、岸竹堂『猛虎図』に描かれた虎の絵は、リアルで如何にも猛虎という感じであった。これは、明治初年に京都にやってきた西洋のサーカス団の公演における虎を岸竹堂が熱心に写生したからだという。絵画といふ藝術は写生が基本となっていることを実感した。

最近は、体調がすぐれず、旅行が出来ないので、上野公園などの美術館を参観することが心の安らぎになる。

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2019年8月15日 (木)

『漢字展ー4000年の旅』参観記

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東洋文庫モリソン文庫

本日参観した『漢字展ー4000年の旅』は「古代中国で誕生した漢字は、世界史上もっとも字数が多い文字といわれています。日本へは5世紀頃に伝来し、日本語の発達および学問、文化と切り離せない存在です。本展では、漢字の成り立ち、漢字文化圏の広がり、日本における漢字文化、文字の由来など、日常的に使っていながら意外と知らないことの多い漢字にまつわる様々な知識を、国宝を始めとする文化財を中心とした展示によって分かりやすく紹介いたします」(案内書)との趣旨で開催された。

 

ハンムラビ法典(一九〇四年訳) 甲骨卜辞片(紀元前一四~紀元前一一世紀) 三才図会(王圻撰 一六〇七) 説文解字(許慎 西暦一〇〇年成立) 蘭亭序(王羲之 拓本) 節用集(室町時代成立) 大漢和辞典(諸橋轍次著 一九四三~二〇〇〇)などを参観。

 

我が国及び支那の古典、支那の百科事典、漢字辞典、わが國の国語辞典、漢和辞典はそれぞれ原本とそれに近い複製であり、貴重なものである。漢字文化の伝統を伝えている。今回初めて知ったのは、漢字文化圏は、我が国・支那だけであり、何と朝鮮半島は入っていないということである。

 

江戸時代以降、オランダや英語圏の文化・学問が日本に入ってきた。外来の文献を日本語に翻訳するために日本人がつくったのが「和製漢語」である。自然科学・社会科学においてそれは顕著であった。『解体新書』の翻訳で生まれたのが「神経」「軟骨」「動脈」などであるという。これは今日でも使われている。社会科学でも「社会」という言葉は福地源一郎が使い出したという。資本主義・共産主義・哲学・革命・思想・宗教などは皆「和製漢語」だという。江戸末期から明治初期にかけての日本及び日本人の外国文化・文明を学ぶ意欲が如何に強かったかが分かる。

 

東洋文庫は東洋学の研究図書館である。三菱第三代当主岩崎久彌氏が莫大なる私財を投じて大正一三年(1924年)に設立した、東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界五大東洋学研究図書館の一つに数えられているという。文京区には岩崎家及び三菱財閥関係の施設としてもう一つ旧岩崎邸庭園がある。また六義園も一時岩崎家の所有であった。

 

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千駄木庵日乗八月十四日


午前は、諸事。

午後は、本駒込の東洋文庫ミュージアムにて開催中の『漢字展ー4000年の旅』参観。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆。

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