2018年4月21日 (土)

『生誕一五〇年横山大観展』参観記

本日参観した『生誕一五〇年横山大観展』は、「東京美術学校に学んだ大観は、師の岡倉天心とともに同校を去り、日本美術院を設立。新たな時代における新たな絵画の創出を目指しました。西洋からさまざまなものや情報が押し寄せる時代の中、日本の絵画の伝統的な技法を継承しつつ、時に改変を試み、また主題についても従来の定型をかるがると脱してみせました。やがてこうした手法はさらに広がりを見せ、自在な画風と深い精神性をそなえた数々の大作を生み出しました。本展では、40メートル超で日本一長い画巻《生々流転》(重要文化財)や《夜桜》《紅葉》をはじめとする代表作に、数々の新出作品や習作などの資料をあわせて展示し、制作の過程から彼の芸術の本質を改めて探ります。総出品数約90点を展観する大回顧展です」(案内書)との趣旨で開催された。

 

《屈原》明治三一年 《白衣観音》明治四十一年 《迷児まよいご》明治三五年 《瀑布(ナイヤガラの瀧・万里の長城)》明治四四年 明治四五年頃 《ガンヂスの水》明治三九年 《瀟湘八景》大正元年 《彗星》《焚火》大正四年 《群青富士》大正六年頃 《生々流転》大正一二年 《龍蛟躍四溟》昭和一一 《海に因む十題》昭和一五年 《或る日の太平洋》昭和二七年 《夕顔》昭和四年 《風蕭蕭兮易水寒》(昭和三〇)などを参観。

 

横山大観は明治大正昭和の三代を生きた偉大なる日本画家である。どの作品もその強烈さに圧倒される。初期の《屈原》は、共に東京美術学校を追放された岡倉天心をイメージして描かれたという。屈原は支那楚の時代の伝説的詩人で国政に関わるも讒言により追放され自死した人物である。屈原の無念さがその表情に表現されている。大観の師・岡倉天心の無念さが重ねられている。私はこの作品を見るたびに前進座を追放された河原崎長十郎が追放された後に演じた屈原を思い出す。テレビ中継で見たのだが、長十郎が「そなたたちは私を陥れたのではない。我が楚の國を陥れたのだ。全中華の人民を陥れたのだ」という鬼気迫る台詞が蘇える。《瀑布(ナイヤガラの瀧・万里の長城)》は大観が実際にかの地を訪れた時の雄大な景色の印象を同じ画面で描いた異色作。《彗星》は明治四三年に見たハレー彗星を描いた作品。彗星を描いた絵画は他にないと思う。《瀟湘八景》は支那の景色を描いている。「瀟湘」というと「君がため 瀟湘湖南の 少女らは われと遊ばず なりにけるかも」という吉井勇の歌を思い出す。吉井勇の歌は支那湖南省ではなく相模の国の湘南のことをしゃれて歌ったという。《群青富士》は今回展示された大観の富士山の絵では一番美しいと思った。富士山の青と雲の白と他の山々の緑の対照がまことに見事である。《生々流転》は長さ四十メートルを超える大作。自然の河の流れを人の一生に譬えているという説があったように思う。「大観」という号の通り、大自然と時間の流れを大きく観た作品である。《龍蛟躍四溟》は凄まじい作品というほかはない。龍と雲が今にも動き出すかのように見える。白と黒の色彩で描かれている迫力満点の作品。《風蕭蕭兮易水寒》は晩年の作であるが「風蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し、壮士(そうし)一たび去って復(ま)た還(かえ)らず」という司馬遷『史記』の中の詩を題材にしている。秦の始皇帝の殺めようとして出発する荊軻のことを詠んだ悲壮な詩である。荊軻は事破れ逆に惨殺されてしまう。易水のほとりで荊軻を見送る犬がとても可愛く描かれている。もっとも初期作品は屈原を題材とし、大観が亡くなる二年前の最晩年の作品が荊軻を題材としている。どちらも悲劇の主人公であるのは不思議なことである。

会場で上映されていた記録映画では、岡倉天心が横山大観などと共に谷中初音町に創立した日本美術院の院歌を横山大観が歌っている声が流されていた。「谷中うぐいす 初音の血に染む 紅梅花 堂々男子は 死んでもよい」「奇骨侠骨 開落栄枯は 何のその 堂々男子は 死んでもよい」という美術学校の校歌とは思えない勇壮な歌詞である。

 

谷中初音町は小生の住む千駄木の隣町である。そして大観の墓所も谷中霊園にある。また、大観の住んでいた家は私宅近くの池之端にあった。そこは今、横山大観記念館なっている。この三つは私は散策する所である。

 

 

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2018年4月 7日 (土)

「平成三〇年春の特別展・江戸幕府、最後の闘い―幕末の『文武』改革―」展参観記

本日参観した「平成三〇年春の特別展・江戸幕府、最後の闘い―幕末の『文武』改革―」展は、「平成30年(2018)は明治元年(1868)から満150年を迎える年に当たります。春の特別展では明治前夜、幕末期の江戸幕府に焦点を当て、当館所蔵の江戸幕府公文書である『多門櫓文書(たもんやぐらぶんしょ)』を中心に、幕末期の江戸幕府の『文武』改革について取り上げます。こうした改革が可能になった背景や、維新後に新政府で活躍する幕臣たちのその後も合わせて展示し、明治の近代国家建設の端緒を江戸幕府の側からご紹介いたします」(案内書)との趣旨で開催された。

 

『甲辰阿蘭舟到来・視聴草』(オランダ国王からの開国勧告の記録)、『ペリー提督日本遠征記』、『天保中唐尹闘争風声』(阿片戦争についての報告書)、『勝麟太郎上書五策』(勝海舟の対外政策意見書)、『蕃書調所規則覚書』(海防・外交・海外学術研究機関の規則)、『安政四年水戸前中納言殿軍艦旭御船製造之儀成功ニ付拝領物之抜書』、『歩兵令詞』『兵学程式』(この二つは幕府軍が使用した軍事資料。オランダ・イギリスの文書の翻訳本)、『二條摂政記』(最後の関白二條斎敬の記録。徳川慶喜の「大政奉還」の上表文が記されていた)、『駿河表召連侯家来姓名』(維新後徳川宗家が駿河に移封された時に従って行った家臣の名簿)、中村正直著『西国立志編』などを参観。

 

大変勉強になった。阿部正弘は海外情勢の把握、海外学問・知識の受容、政治体制及び国防の強化などの懸命の努力をしたことが分かった。また人材の育成にも力を尽くした。幕末の幕閣の開国政策の推進者は決して井伊直弼ではなく阿部正弘であったことを再認識した。維新前の幕府のそういう努力の過程で収集された海外情報、育成された人材・官僚が、維新後の日本において大きく役立ち且つ活躍をした。徳川慶喜の「大政奉還の上表文」はよくよく読み返さなければならないと思った。慶喜が何故「朝敵」と指弾され攻撃されたのかを考えねばならない。

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2018年4月 3日 (火)

『寛永の雅 江戸の宮廷文化戸遠州・仁清・探幽』展参観記

本日参観した『寛永の雅 江戸の宮廷文化戸遠州・仁清・探幽』展は、「17世紀初め、江戸幕府が政権を確立すると戦乱の世は終わりを告げ、泰平の時代がおとずれました。時を同じくして文化面でも新たな潮流が生まれます。それが寛永年間(1624~44)を中心に開花した「寛永文化」です。寛永文化は「きれい」という言葉に象徴される瀟洒な造形を特徴とし、当時の古典復興の気運と相まって、江戸の世に「雅」な世界を出現させることとなりました。

寛永文化の中心は京都にあり、なかでも学問・諸芸に造詣の深かった後水尾院(ごみずのおいん)は、長く絶えていた儀礼や古典文芸の復興に心を尽くしたことで知られています。特に和歌は朝廷を象徴する芸能に位置づけられ、その洗練された優美さを追求する姿勢は、和歌のみならず、多くの美術作品にまで影響を及ぼすこととなりました。

一方、幕府はそうした公家衆の動向に注目し、時には意見を異としながらも、公武間の文化的な交流は盛んに行われました。京都のサロンを主な舞台としたその交流は、さまざまな階層の人々を巻き込み、公家、武家、町衆といった垣根を越えて、新しい時代にふさわしい美意識を醸成し、共有されていったのです。

本展ではこのような近世初期の「雅」を担った宮廷文化と、それと軌を一にして生まれた新時代の美意識が、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、野々村仁清(ののむらにんせい)、狩野探幽(かのうたんゆう)などの芸術に結実していく様子をご覧いただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「白釉円孔透鉢」 野々村仁清、「東福門院入内図屛風」 六曲一双、「冠形大耳付水指」修学院焼、「桐鳳凰図屛風」六曲一双 狩野探幽、「源氏物語絵巻」住吉具慶 五巻のうち第三巻(部分)「色絵紅葉賀図茶碗」 野々村仁清、黒釉色絵金銀菱紋茶碗 野々村仁清、「後水尾天皇宸翰『忍』」、「後水尾天皇宸翰『一貫』」、「御切形茶碗」 修学院焼、「瀟湘八景のうち『山市晴嵐』『煙寺晩鐘』『瀟湘夜雨』『江天暮雪』」などを参観。

 

寛永文化は豪華絢爛たる安土桃山文化と元禄文化との間の文化であり、寛永文化という言葉自体、小生は知らなかった。徳川幕府成立後、世情が安定した時期の文化である。小堀遠州、狩野探幽、金森宋和の三人が活躍した。しかし、寛永文化の中心はやはり朝廷・皇室である。特に後水尾天皇は指導的御役割を果たされた。後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天万乗の大君として君臨あそばされ、修学院離宮の造営、学者文人芸術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。

 

本日拝観した「後水尾天皇宸翰『忍』」は、聖護院門跡に伝わるものである。この宸翰は京都岩倉実相院門跡にも伝えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されてゐると拝する。実に力強い筆致である。徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。

 

会場に入ってすぐの所に「白釉円孔透鉢 野々村仁清」が展示されていたのであるが、とても四百年前の作品とは思えなかった。現代の作品と見紛うばかりと新鮮さであった。小生は、茶道具の良さ、香合、茶入れ、茶碗、茶杓、水差しなどの芸術的価値がよく分からないのである。しかし本日参観した「御切形茶碗」「冠形大耳付水差」など「修学院焼」と言われる作品は美しかった。また野々村仁清の茶碗も光輝いて見えた。

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2018年3月29日 (木)

『横山大観・竹内栖鳳・川合玉堂をはじめとする、近代日本画の精鋭たち』展を参観して

本日参観した『横山大観・竹内栖鳳・川合玉堂をはじめとする、近代日本画の精鋭たち』展は、「明治40年(1907)、政府は文部省主催の美術展覧会(文展)を開設、さらに大正8年(1919)帝国美術院主催の美術展覧会(帝展)に改組しました。これら“官展”に対し、横山大観を中心とする旧日本美術院派は、同3年(1914)日本美術院を再興、本格的な在野運動へと進んでいきました。ことに、大正から昭和初期にかけては、文、帝展を主舞台とした東京画壇と京都画壇、さらに在野の大観率いる日本美術院とがそれぞれ独特の存在感を示して鼎立しており、近代日本画壇は、さながら百花繚乱の様相を呈していました。
本展示では、まさに、この時期に重なって形成された野間コレクションより、近代日本の絵画革新運動を牽引してきた精鋭たちによる美の光彩を感じていただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

 

川合玉堂《渓山春色》横山大観《松鶴図》・前田青邨《羅馬へのおとづれ》・下村観山《竹林賢人》・竹内栖鳳《鮮魚》・上村松園《塩汲ノ図》《惜春之図》・木村武山《光明皇后》・松岡映丘《池田の宿》・安田靫彦《春雨》・小林古径《売茶翁》・鏑木清方《五月雨》《夏の旅》・堂本印象《清亮》・福田平八郎《紅葉遊禽図》・寺崎広業《瀑布》などを参観。

 

川合玉堂の景色の絵は何時見ても心洗われる思いがする。景色の中に必ず小さな人物が描かれているのが良い。美人画は、何と言っても上村松園が良い。鏑木清方や伊藤深水よりもずっと美しい。横山大観は富士山の絵か感動を覚えるが今回は展示されてゐなかった。

 

野間コレクションの色紙「十二カ月図」は、川合玉堂の作品が良かった。小さな色紙の中に大きな風景か描かれていて見事であった。福田平八郎の作品も良かった。洋画の技法を取り入れているとのことである。また小茂田青樹という人の作品も色彩が美しかった。この方の作品は今回初めて観賞した。

 

先日六本木の泉屋博古館分館で参観した木島櫻谷の作品は無かった。やはり、画壇の主流からは外されていたのであろうか。芸術の世界にも色々複雑な派閥の対立と言うか不調和の歴史があったようである。

 

野間記念館の参観を終えて、江戸川公園、肥後細川庭園を散策したのであるが、この辺りは、講談社野間家、肥後細川家に縁のあるというか所有していた建物や公園が多い。また、近くの椿山荘は明治の元勲山県有朋の屋敷跡である。細川家は言うまでもなく鎌倉時代から続く家柄である。講談社野間家は明治末期に創業し発展した出版社である。「私設文部省」とまで言われるほどの大出版社になった。創業地は、今私が住んでいる文京区千駄木三丁目(旧町名駒込坂下町)である。

 

今日は、美しい日本画を鑑賞し、江戸川公園の櫻並木と神田川に浮かぶ桜の花びらを愛でるとともに、日本の歴史を偲んだ。

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2018年3月24日 (土)

『生誕一四〇年記念特別展 木島櫻谷』参観記

三月十八日に参観した『生誕一四〇年記念特別展 木島櫻谷』は、「明治から昭和にかけて活躍した京都の日本画家木島櫻谷(このしま おうこく1877-1938)。京都の円山・四条派の流れをくむ今尾景年に学んだ櫻谷は、20代で頭角を現し、明治後半から大正期にかけて文展の花形として活躍しました。画業のなかで、最も高く評価されたのが動物画です。それは徹底した写生を基礎に、卓越した技術と独自の感性により創造されたもの。確実で精緻にとらえられた動物の表情は、一方で情趣にあふれ、どこかもの言いたげです。本展では彼の描いた"動物"に着目し、その代表作はもちろん未公開作品を一堂にあつめ、多様な表現とその変遷をたどります。また櫻谷文庫に遺された多くの資料調査から、それらの制作背景や画材などをあわせて紹介します」(案内書)との趣旨で開催された。

「野猪図」明治三三年(一九〇〇)、「熊鷲図屏風」明治時代、「寒月」大正元年(1912)、「猛鷲図」明治36年(1903)、「獅子図」昭和時代、「かりくら」明治43年(1910)、「孔雀図」昭和4年(1929)、「幽渓秋景」大正時代などを鑑賞した。

 

私は恥ずかしながら、京都の日本画家は、竹内栖鳳と伊藤若冲のことは知っていたし、これまで何回も鑑賞したが、木島櫻谷はこの展覧会に来て初めて知った。どれも美しい作品であった。日本画は實に心が落ち着く。

 

「寒月」という作品は代表作とのことであるが、狐が雪の積った山林の中を歩いている図で、何となく神秘的でまことに見事であった。何故か夏目漱石はこの作品を評価しなかったという。不思議ことである。

 

「獅子図」も良かった。竹内栖鳳も獅子を描いた作品があったように思う。先輩の竹内栖鳳と木島櫻谷は大体同時期の画家で二人とも京都で活躍した。おたがいに影響し合ったのかもしれない。「野猪図」は猪を描いた作品。猪を題材にした絵は初めて見たような気がする。私はいのしし年なので興味深く拝見した。「かりくら」は二人の武将が馬に乗って出陣する時を描いていてとても躍動感と迫力があった。「孔雀図」も見事であった。

 

前述したように、竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ華々しく注目される作家であったが、その後、画壇から嫌われたと言われる。竹内栖鳳は文化勲章を受章したが、木島櫻谷はそうした栄誉は与えられなかったようである。そして、昭和131113日枚方近くで京阪電車に轢かれ非業の死を遂げたという。気の毒な事である。

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2018年2月 1日 (木)

『特別展 仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―』参観記

本日参観した『特別展 仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―』は、「御室桜で知られる仁和寺は、光孝(こうこう)天皇が仁和2(886)に建立を発願し、次代の宇多天皇が仁和4(888)に完成させた真言密教の寺院です。歴代天皇の厚い帰依を受けたことから、すぐれた絵画、書跡、彫刻、工芸品が伝わります。創建時の本尊である阿弥陀如来像(国宝)は、当時もっともすぐれた工房の作品です。また、高倉天皇宸翰消息(国宝)は皇室との深いかかわりを物語るものです。本展覧会では、仁和寺の寺宝のほか、仁和寺を総本山とする御室派寺院が所蔵する名宝の数々を一堂に紹介します」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「国宝 阿弥陀如来坐像 平安時代・仁和4年(888)」「宇多法皇像 江戸時代・慶長十九年(一六一四)」「秘仏本尊国宝 薬師如来坐像 円勢・長円作 平安時代・康和五年(一一〇三)」「国宝高倉天皇宸翰消息 平安時代・治承二年(一一七八)「国宝 三十帖冊子(さんじゅうじょうさっし)空海ほか筆 平安時代・九世紀」「国宝 孔雀明王像 支那 北宋時代・十~十一世紀」「重要文化財 金銅火焰宝珠形舎利塔(こんどうかえんほうじゅがたしゃりとう)鎌倉時代・十三世紀」「重要文化財 僧形八幡神影向図(そうぎょうはちまんしんようごうず)鎌倉時代・十三世紀」「秘仏本尊国宝 十一面観音菩薩立像 平安時代・八~九世紀 大阪・道明寺蔵」「秘仏本尊 重要文化財 如意輪観音菩薩坐像 平安時代・十世紀 兵庫・神呪寺蔵」「後嵯峨天皇宸翰消息 鎌倉時代寛元四年(一二四六)」「後宇多天皇宸翰消息 鎌倉時代 徳治二年(一三〇七)」「「後醍醐天皇宸翰消息 鎌倉時代 元徳元年(一三二九)」「伏見天皇宸翰唯識三十頌 鎌倉時代 十四世紀」「後光厳天皇宸翰消息 南北朝時代 応安三年(一三七〇)」「後陽成天皇宸翰一行書 安土桃山時代~江戸時代」「桜町天皇宸翰般若心経 江戸時代 寛保三年(一七四三)」「光格天皇宸翰和歌懐紙 江戸時代 文政六年(一八に三)」「彦火々出見尊絵 狩野種泰筆 江戸時代 十七世紀」などを拝観。

 

仁和寺の仏像をはじめ全国の御室派(おむろは)寺院の普段は公開されてゐない数多くの「秘仏」、そして、歴代天皇の宸翰、弘法大師空海の書などを拝観することが出来た。仏像はやはり観世音菩薩像が多かった。これほど多くの宸翰を拝観し、且つ国宝・重要文化財の仏像を一度に拝観したのは初めてのことで大変有難かった。

 

「宇多法皇像」は、右手に倶利伽羅龍剣(くりからりゅうけん・不動明王を象徴する持物)を持たれている。れは法皇が真言密教の行者であられることを表わしている

 

仁和寺は光孝天皇の発願で建立され、光孝天皇の第七皇子・宇多天皇により完成された真言密教の寺院である。天皇の住まわれる室は御室と呼ばれ、やがて仁和寺の別称となった。「国宝 阿弥陀如来坐像」という創建当時の仏像が今も伝わっている。その後、皇族が門跡(皇族の住職)を務めるなど、皇室と深い関わりがある寺院である。そのため、天皇・皇族の御直筆の書が数多くのこされている。

 

「桜町天皇宸翰般若心経」の末尾には「大日本國天子昭仁敬書」と記されている。桜町天皇は江戸時代中期(徳川吉宗が将軍であった頃)の天皇であらせられ、大日本国の上御一人・天子としての御自覚を強く持ってられた天皇であらせられる。御幼少の頃から厩戸皇子(聖徳太子)の再誕と讃えられるほどの英明な天皇であらせられた。朝廷の儀式再興に力を尽くされ、大嘗祭を復活された。

 

仁和寺は、応仁の乱(1467-1477年)で伽藍は全焼したが本尊の阿弥陀三尊は持ち出され、焼失を免れた。寛永年間、仁和寺第二十一世覚深法親王(後陽成天皇の第一皇子)の申し入れにより、德川幕府三代将軍・徳川家光によって伽藍が整備された。そして、寛永年間の御所建て替えに伴い御所の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築された。このように、仁和寺は、朝廷の尊崇が極めて篤かった。

             ○

『やまと新聞』に、桃園天皇御製について書かせていただきました。

 

 

 

 

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2017年11月22日 (水)

『没後六十年記念 川合玉堂ー四季・人々・自然』展参観記

本日参観した『没後六十年記念 川合玉堂ー四季・人々・自然』展は、「日本の山河をこよなく愛し、豊かな自然とそこに暮らす人々の姿を叙情豊かに描き出した川合玉堂(かわいぎょくどう) (18731957)。山種美術館では、没後60年を記念し、玉堂の画家としての足跡をたどり、その芸術を紹介する回顧展を開催いたします。愛知に生まれ、岐阜で育った玉堂は、14歳で京都の画家・望月玉泉(もちづきぎょくせん)に入門。画壇デビューを果たした17歳から同じ京都の幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事しました。1896(明治29)年には23歳で京都から東京へ移り、橋本雅邦(はしもとがほう)のもとでさらなる研鑽を積んでいきます。若い頃から好んで風景を描いた玉堂は、円山四条(まるやましじょう)派の基礎の上に、雅邦が実践した狩野(かのう)派の様式を取り入れ、さらに各地を訪ねて実際の景色に触れることで、伝統的な山水画から近代的な風景画へと新たな境地を拓いていきました。また、官展で審査員をつとめ、帝国美術院会員となる一方、東京美術学校教授、帝室技芸員に任ぜられるなど、東京画壇における中心的な役割を果たし、1940(昭和15)年には文化勲章を受章しています。戦後は、疎開先の奥多摩にとどまって晩年を過ごし、大らかで温かみのある画風を展開させました。…代表作を中心とする名作の数々とともに、玉堂の70年にわたる画業をご紹介します。また、少年時代から俳句を嗜み、晩年には俳歌集『多摩の草屋(たまのくさや)』を刊行するなど、句作や詠歌は玉堂の生活の一部となっていました。玉堂の詠んだ詩歌が書かれた作品をとおして、家族や親しい芸術家との交流にもスポットをあて、素顔の玉堂の魅力をお楽しみいただきます」との趣旨(案内書)で開催された。

 

 《鵜飼》 《雨江帰漁図》《夏雨五位鷺図》 《紅白梅》《渓山四時図》 《早乙女》《竹生嶋山》《雪亭買魚》《春風春水》《山雨一過》《遠雷麦秋》《荒海》《熊》《早乙女》《悠紀地方風俗屏風》《雨後山月》《湖畔暮雪》等多数の美しい風景画を参観。

どの作品も日本の美しい自然を描いている。《雨江帰漁図》は初期の作品であるが、雨と樹木と船が描かれている幽遠な墨絵でひきつけられた。《渓山四時図》は山と人間と馬と樹木が描かれた大作であり、玉堂の絵の特色が凝縮されている。《紅白梅》琳派の影響を受けた色彩豊かな六曲一双の大作であった。《悠紀地方風俗屏風》は昭和三年一月、昭和天皇御大典の時に命により揮毫されたもので、極彩色の大和絵風の様式が描かれた六曲一双の文字通り見事なる絵である。画賛形式の絵を見て、玉堂の書が大変美しいということ今回初めて知った。

私は川合玉堂の作品が昔から好きだったので今日は本当にいい機会が与えられたと思った。自然そのものの美しさを描いていると共に、その中に小さな人物・人影が描かれているので、一層心が癒される思いがする。「人間と自然の共生」というのは最近はやりの言葉であるが玉堂の絵はまさにそういう世界を描いている。

川合玉堂の絵は、単なる山水画ではなく、 江の中に人が生きている。生活があ。人と自然のやさしい交流・一体化がある。日本的美の伝統を継承し表現している。  

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2017年11月10日 (金)

『東京藝術大学創立130周年記念特別展 皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト』を参観して

本日参観した『東京藝術大学創立130周年記念特別展 皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト』は、「およそ 100 年前。大正から昭和最初期の頃に、皇室の方々の御成婚や御即位などの御祝いのために、当代選りすぐりの美術工芸家たちが技術の粋を尽くして献上品を制作しました。中には、大勢の作家たちが関わった国家規模の文化プロジェクトがありましたが、今日ではそれを知る者がほとんどいなくなっています。いったん献上されたそれら美術工芸品は、宮殿などに飾り置かれていたために、一般の人々の目に触れる機会が極めて限られてきたからです。

 古くから皇室は、日本の文化を育み、伝えてきましたが、近代になってからは、さまざまな展覧会への行幸啓や作品の御買上げ、宮殿の室内装飾作品の依頼などによって文化振興に寄与してきました。皇室の御慶事に際しての献上品の制作は、制作者にとって最高の栄誉となり、伝統技術の継承と発展につながる文化政策の一面を担っていました。大正期には、東京美術学校(現、東京藝術大学。以下美術学校)5代校長・正木直彦(1862 1940)の指揮下で全国の各分野を代表する作家も含めて展開された作品がこの時代の美の最高峰として制作されました。本展では、宮内庁に現存する作品とともに、その制作にまつわる作品や資料を紹介いたします。

また本展は、東京美術学校を継承する東京藝術大学の創立130周年を記念して、東京美術学校にゆかりある皇室に関わる名作の数々も合わせて展示いたします。皇室献上後、皇居外で初めて公開される作品を中心に、100年前の皇室が支えた文化プロジェクトの精華をお楽しみください」との趣旨で開催された。(案内書)

 

「軍鶏置物」石川光明 「萬歳樂置物」「木彫置物養蚕天女」高村光雲/山崎朝雲 「久米舞」竹内久一 「鹿置物」高村光雲 「丹鳳朝陽図花瓶」海野勝珉 「東京名勝図・萬歳樂図衝立」島田佳矣 「鱚」前田青邨 「秩父霊峰春暁」「日出処日本」横山大観 「住吉詣」松岡映丘 「御飾棚 鳳凰菊文様蒔絵」島田佳矣 「彫金洋式文房具」千頭庸哉 「玳瑁装身具鴛鴦菊文様」森田佳鳳 「牙彫置物唐子遊」和田光石などを参観。

 

大正天皇御即位、皇太子殿下(昭和天皇)御成婚、昭和天皇御即位という大正・昭和の御代に皇室の御慶事に献上された美術品、明治宮殿に置かれた美術品が多く展示されていた。日本の近代美術は、皇室を中心に継承され高められていったこと、日本美術発展の基礎は皇室にあったことを実感した。展示され作品は、正しくは御物と申し上げると思うが、豪華絢爛と言うよりも、美しさ清らかさ気品の高さを極めた作品であった。太田彩氏(宮内庁三の丸尚蔵館学芸室主任研究官)は、本展覧会の図録解説で「明治宮殿は近代における正倉院宝庫のような存在で、その内部を装飾する品々は宝物的な存在であるという見方ができる。…明治宮殿という近代日本美術のひとつの牙城的存在は、天皇という崇高な存在とともに、日本美の象徴的存在であったとも言えよ」と述べているが、全くその通りである。

 

私が最も感動した作品は、横山大観の「日出処日本」であった。昭和十五年大観自ら、昭和天皇に検証した作品で、霊峰富士と旭日のみが描かれている。解説には「七十歳を過ぎた大観が勤皇の画家として生きた己の人生の集大成として、尊崇の念のすべてを具現化しようとしたかのような気迫が感じられる」と書かれてあった。まことに以て見事な絵であった。この作品を見つめていると、自然に涙がこぼれてきた。

 

彫刻では、高村光雲の作品に感動した。仏師として修業し、実物写生を基とした高い藝術性のある彫刻を数多く制作した。光雲の作品を見ていると今にも動き出しそうな感じがする。高村光雲の子息は、詩人にして彫刻家の高村光太郎、彫金家の高村豊周である。お二方とも、小生の家の近くの駒込林町に住んでいた。豊周氏は何回かお見かけしたことがある。高村邸の隣が宮本百合子・顕治夫妻の家であり。すぐ近くが安田財閥の一族の人の家であった。小生の家は林町の屋敷町から大給坂という坂を下った駒込坂下町という庶民の町であった。わが家は煙草屋を営んでいたので、宮本百合子が煙草を買いに来たと母は話していたのを思い出す。

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2017年10月20日 (金)

『明治改元百五十年記念特別展覧会 近代の御大礼と宮廷文化 明治の即位礼と大嘗祭を中心に』拝観記

本日拝観した『明治改元百五十年記念特別展覧会 近代の御大礼と宮廷文化 明治の即位礼と大嘗祭を中心に』は、「明治天皇の御大礼は、明治元年(1868827日(新暦1012日)新式の即位礼が京都御所の紫宸殿で催され、また同41117日(新暦1228日)夜、古式に即った大嘗祭が、初めて東京の皇居で営まれました。しかも、明治天皇の聖旨により、それ以後も京都で行う事が定められた即位礼と大嘗祭は、大正4年(191511月の10日と14日、及び昭和3年(19281110日と14日に実施されたのです。そこで、『明治』改元から150年目の今年、明治を中心に大正・昭和も含めて即位礼と大嘗祭に関する重要な資料を精選して、明治神宮文化館宝物展示室で特別展覧会を催します。多くの皆様に、雅な宮廷文化を楽しんで頂けたら幸いです」(案内書)との趣旨で開催された。

 

『光格天皇御譲位 櫻町殿行幸図』(原在明画)、『聖徳記念絵画館壁画下図践祚』(川崎小虎画)、『明治天皇御即位式図』、『髙御座屋根飾雲上華形』、『聖徳記念絵画館壁画下図大嘗祭』(前田青邨画)、『阿波志料践祚大嘗祭御贄考』、『明治天皇御肖像』(明治五年写真師内田九一により撮影された御束帯姿の御真影)、『明治天皇御料 御直衣(おのうし)』、『明治天皇御料 御齋服(ごさいふく)』、『明治天皇御料 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)』などを拝観。

 

明治天皇即位の大嘗祭は、明治四年十一月十七日(新暦十二月二十八日)に東京の皇居内の吹上広芝で行わせられた。私は大嘗祭も即位式と同様京都御所で行わせられたと思っていた。そうではなかったことをこの度初めて知った。

 

本年は明治改元百五十年目、来年は明治改元満百五十年の意義深い年である。明治天皇の即位式は、慶應四年九月八日(新暦十月二十三日)に、京都御所において執り行われた。江戸期までは「唐式」で行われた即位式が日本伝統に即した即位式に復古したと承る。わが国は神代以来の伝統を継承し回帰しつつ、新たなる変革を繰り返す国である。明治維新はまさに「復古即革新」であったと拝し奉る。

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2017年10月10日 (火)

『ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション』参観記

本日参観した『ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション』展は、「世界有数の規模と質を誇るボストン美術館のコレクションは、国や政府機関の経済的援助を受けず、ボストン市民、個人コレクターや企業とともに築かれています。本展では、美術館を支えてきた数々のコレクターの物語に光を当てながら、発掘調査隊の成果を含む古代エジプト美術から、歌麿や蕭白らによる日本・中国美術の名品、ボストン市民の愛したモネやファン・ゴッホを含むフランス絵画のほか、現代美術までを選りすぐりの80点でご紹介します」(案内文)との趣旨で開催された。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン》1888年《子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人》1889年、英一蝶 《涅槃図》江戸時代1713年(正徳3年)、喜多川歌麿《三味線を弾く美人図》江戸時代、1804-06年(文化1-3年)頃、ジョン・シンガー・サージェント 《フィスク・ウォレン夫人(グレッチェン・オズグッド)と娘レイチェル》1903年、曾我蕭白《風仙図屏風》江戸時代の1764年(宝暦14年/明和元年)頃、《ツタンカーメン王頭部》エジプト新王国時代の紀元前1336-1327年、などを参観。

 

殆どはアメリカの富裕階層と言うか大金持ちが収集し、ボストン美術館に寄贈した美術品である。エジプトの美術品は、紀元前千年から二千年のものであるが、実に精巧で美しい。四千年近い時間的経過を感じさせない。民族の興亡、文化の盛衰を実感した。

 

ボストン美術館の日本美術コレクションは、日本国外の日本美術コレクションとしては最大であるという。英一蝶の《涅槃図》は、芝愛宕町の青松寺というお寺にあったものであるが、何故かボストン美術館に収蔵された。お釈迦様の入滅の歎く人々・動物が描かれていて面白い。ただ宗教的荘厳さはあまり感じられなかった。尾形乾山の《銹絵觀爆図角皿》は、瀧を眺める人物と共に、李白の「望廬山瀑布」という漢詩が記されている。「日照香炉生紫煙 遥看瀑布挂前川 飛流直下三千尺 疑是銀河落九天」(廬山(ろざん)の瀑布(ばくふ)を望む 李白 日は香炉(こうろ)を照らして紫煙(しえん)を生ず、遥かに看()る瀑布(ばくふ)の前川(ぜんせん)に挂()かるを。飛流直下(ひりゅうちょっか) 三千尺(さんぜんじゃく)、疑(うたご)うらくは是()れ銀河の九天(きゅうてん)より落つるかと)。瀧が流れ落ちるのは銀河が天より落ちてくるようだというまことに大げさの詩であるが、高校時代の漢文の授業で習って以来私が好きな漢詩である。

 

洋画は、印象派・ポスト印象派の作品であるということだが、素人の私は印象派とは何なのかは分からない。しかし、ミレー、モネなど観る人の目を楽しませ安らぎを与える美しい作品ばかりであった。ジャン=バティスト=カミーユ・コロというまことに長い名前の画家の《ボーヴェ近郊の朝》という作品が特に良かった。描かれた景色の中に入って行きたいという思いがした。ゴッホの作品はやはり迫力がある。ただ美しいというだけではない。色彩は強烈であり描き方も力強い。そして緻密である。

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