2017年3月19日 (日)

『屏風にあそぶ春のしつらえ』展を参観して

本日参観した『屏風にあそぶ春のしつらえ』展は、「春を彩る屏風の名品と、茶道具や新収蔵品のおもてなしのうつわをあわせて披露します。本展では、江戸時代・寛永3年(1626)、将軍・徳川家光、その父秀忠の招きに応じ、後水尾天皇が京都・二条城に行幸する様子を描いた《二条城行幸図屏風》を展示します。行幸の道沿いでは見物する大勢の人々が描かれ、みな着飾り思い思いに過ごす情景は、京風俗の宝庫といえます。前期では、《誰ヶ袖図屏風》(江戸時代・17世紀)や《扇面散・農村風俗図屏風》(江戸時代・17世紀)を、後期では《大原行幸図屏風》(桃山時代・16世紀)や俵屋宗達にはじまる俵屋工房制作の「伊年」印《四季草花図屏風》(江戸時代・17-18世紀)などと共に、華やかな春の世界をどうぞお楽しみください」(案内書)との趣旨で開催された。

 

《二条城行幸図屏風》江戸時代・17世紀、《丹波茶入 銘 山桜》江戸時代・17世紀、《紅葉呉器茶碗》朝鮮時代・16世紀、菊池容斎 《桜図》江戸時代・弘化4年(1847)、《誰ヶ袖屏風》江戸時代・18世紀、などを参観。

 

《二条城行幸図屏風》は、寛永三年(一六二六)九月六日、後水尾天皇が京都における徳川将軍の居城である二条城に行幸された時の、天皇と将軍の行列図である。後水尾天皇をお招きしたのは、当時大御所とよばれた前将軍・德川秀忠、第三代・将軍徳川秀忠である。招かれたのは、後水尾天皇、中宮和子(まさこ)そして皇族方である。和子様は秀忠の五女であられる。

 

幕府が、天下を掌握した徳川氏の威信と正統性を天下に示した大行事であった。また公武関係の融和を図る意味もあったとされる。京都の民衆は、将軍の先導で、二条城に赴かれる天皇・皇族方の絢爛たる行列を見て、徳川氏が天下の覇者となったことを強烈に印象付けられたであろう。

 

この行幸を企画したのは、南禅寺の僧・金地院崇伝である。金地院崇伝は徳川将軍のプレーンであり「黒衣の宰相」と言われた人物である。彼は、この行幸の後に起こった「紫衣事件」や、この行事の前、家康存命中の「禁中並びの公家諸法度」制定にも深く関わった。朝廷の廷臣では烏丸光廣が有職故実に基づいて関与したという。

 

この行幸の翌年に、幕府による朝廷規制圧迫策である「紫衣事件」が起こった。その三年後に、後水尾天皇の御譲位が断行された。二条城行幸は、徳川幕府海幕以来続いた徳川氏による朝廷圧迫の最中の束の間の「融和」を示す行事とされる。

 

《二条城行幸図屏風》は、江戸時代から住友家に秘蔵されてきた。大切に保存されて来たためか、絵の具の退色・剥落が非常に少ないという。朝廷のお行列と幕府の行列が細部にわたって精密に描写されている。また沿道で集まった多くの老若男女の生態が克明に描かれている。当時の風俗を知るための貴重な資料とされる。

 

行列は御所から二条城まで堀川通りを南下した。天皇は鳳輦にお乗りになった。後水尾天皇には、内大臣二条康道、右大将九錠道房、右大臣一条兼遐、左大将鷹司教平、関白近衛信尋(のぶひろ)が供奉した。家光の行列は、天皇を奉迎するため中立売通を東上した。将軍の牛車は葵の紋に飾られ皇臣や摂関のみにゆるされる唐庇車(からひさしのくるま)であった。将軍・秀忠には、尾張・紀伊・駿河・水戸の徳川一門、伊達政宗など國持ち大名が鎧兜ではなく公家装束で供奉した。

 

後水尾天皇は『紫衣事件』や』『春日局参内』なを端緒とする幕府に対するお怒りを表明して三十四歳で譲位され、以後、五十一年にわたって院政を敷かれた。修学院離宮を造営され、本阿弥光悦など多くの文化人を庇護された

 

泉屋博古館編の『二条城行幸図屏の世界』には「舞台は『政治・経済・文化の総体』としての京都、登場するのは『この都にながく君臨してきた天皇一族』、そしてそれを見物する『豊かな民』。民衆は立会人であると同時に行幸を盛り上げる最大の立役者でもある。旺盛な観衆表現は、それを演出した将軍の天下の繁栄ぶりを知らしめる重要な役割をも果たしている。公・武・民がそろって始めて行幸図が完成するのだ。しかし行幸の後、程なく幕府は支配を強化し、朝廷も今日の町衆も完全に管理下におかれることとなる」と書かれている。

 

天皇の武家への行幸は、後陽成天皇の豊臣秀吉の聚楽第行幸以来、四十年ぶりのことであった。幕府の将軍が上洛し、参内し、行幸を仰ぐことによって、徳川幕府の正統性と権威を高めたのである。しかし、徳川氏は、表面的には、天朝尊崇の姿勢を示したのであるが、実際には此の行事の後にも「紫衣事件」など朝廷圧迫策をとり続けた。

 

徳川家康には基本的に尊皇心は希薄であったと考える。ただ徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の伝統的権威を利用した。しかし、天皇・朝廷を京都に事実上の軟禁状態に置いた。

 

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加へた。天皇・朝廷に対し奉り京都所司代が厳しい監視にあたった。

 

江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられたに後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の実相院で拝観した。 実相院第十七世義尊門主の母・法誓院三位局は、後陽成天皇との間に聖護院門主道晃親王をもうけているため、後水尾天皇とは兄弟のような関係にあり、後水尾天皇は 実相院へは度々行幸されたと承る。

 

後水尾天皇は、

「思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は」

「葦原や しげらばげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」

といふ御製をのこされてゐる。

 

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害されたと言っても言い過ぎではない。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓が眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事実を以て証明されるのである。

 

江戸時代の禁裏御料はたったの三万石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一五千石を献上した後、家光が一万五升四合、家宣が一万一斗余を献上し、ようやく三万石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高であった。

 

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2017年1月21日 (土)

水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

 

水戸藩の藩校・弘道館は藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

 

 徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与えた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終えるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

 弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救うための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもなどでもこうした教育振興策が講じられた。

 

 弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されている。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬い、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されている文である。水戸學は尊皇ではあるが、徳川家康そして幕府を否定する考えはなかった。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

 

 明治維新の基本思想たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の一節「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」より発したのである。藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べている。

 

 徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したという事実は驚嘆に値する。

 

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2017年1月16日 (月)

武士道について

 肝心の生死の際の覚悟のほどは、合理的な儒教論或いは仏教思想という外来思想とは全く縁のないエモーショナル(感情的)なものによっていた。「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本の武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。武士道は仏教から発したものでもなく、儒教から発したものでもない。『古事記』『萬葉集』の歌を見ても明らかな如く、日本伝統的な中核精神(神道)から発した。主君に対する忠誠と名誉が根幹である。新渡戸稲造は、吉田松陰の

 

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」

 

という歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた」(武士道)と論じている。

 

 もののふのみち(武士道)は、成文法をとって伝えられている理論・理屈ではない。ゆえに、「武士道」については、精々口伝により、もしくは数人の有名なる武士や学者の筆によって伝えられたる僅かの格言があるに過ぎない。和歌もその一つであろう。

 

『萬葉歌』は、飛鳥奈良時代の武士道を伝えている。それは語られず書かれざる掟、不言不文であるだけに実行によっていっそう効力を認められる。理論・理屈を好まない日本人らしい道徳律が武士道なのである。日本の伝統の根幹たる和歌も祭祀もそして武道も理論・理屈ではない。「道」であり「行い」である。そして一つの形式・「型」を大切にし「型」を学ぶことによって伝承される。学ぶとはまねぶである。理論理屈ではないが「道」(歌道・武道・茶道・華道)と言う。

 

 そして武士道は、道徳・倫理精神と共にあった。武士は封建時代において国民の道義の標準を立て、自己の模範によって民衆を指導した。義経記・曽我兄弟の物語・忠臣蔵などの民衆娯楽の芝居・講談・浄瑠璃(平曲・謡曲から発した音曲(おんぎよく) 語り物。義太夫節(ぎだゆうぶし)が行われるようになってからは、義太夫節の別名となった。)小説などがその主題を武士の物語から取った。明治維新の志士たちの歌も近代日本の武士道教育の手本となった。

 

 かかる和歌などの芸術によって武士道が継承され教育されたことは、武士道が教条や独善的観念体系(イデオロギー)ではないということを証しする。

 

 武士は、日本国民の善き理想となった。いかなる人間活動の道も、思想も、ある程度において武士道の刺激を受けた。武士は武家時代において、決して民衆を武力で支配した階級のみでなく、道義の手本でもあった。明治維新をはじめとしたわが国の変革を断行せしめた重要なる原動力の一つに武士道があった。この武士道を今に生きている。

 

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わが国はグローバリズムを克服し国家民族の独立と栄光を維持してきた

米ソ二超大国による冷戦構造が崩壊した後、世界は平和になったかと言うと決してそうではなく、むしろ、民族問題・領土問題・資源問題・宗教問題などで冷戦どころか熱い戦ひが世界各地で起ってゐる。

 

また、多くの国家が世界を一つの市場として利害を共有すれば、世界規模の戦争勃発の危険性を大きく低下させ平和が実現するといふ考へ方がある。いはゆるグローバリズムである。

 

しかし、現実には、各国の利害が衝突すると共に、持てる国と持たざる国との格差が広がってゐる。また無資源国が高値で資源購入を余儀なくされる状況になりつつある。

 

そしてグローバリズムの市場共有を放棄し武力行使をする国が再び出始める可能性も生ずる。つまり、再びブロック経済が第二次世界大戦を勃発させた時に近い状況になりつつある。地球の一体化を目指すといふグローバリズムが逆に世界平和実現を阻む大きな要因になってゐる。そして、市場原理主義の問題をはじめ日本も世界も大変な混乱期にある。

 

さらに、わが日本は、共産支那の中華帝國主義・アメリカ覇権主義・北朝鮮の暴虐が渦巻く狭間にあって、祖国の独立と安全を守るために戦はなければならない。

 

しかし、日本がかかる危機的状況に陥ったのは、今が初めてではない。飛鳥・奈良時代も、江戸時代末期も、今日と同じやうな危機に遭遇した。そしてわが國はその危機を乗り切った。

 

飛鳥・奈良時代にも、今日で言ふグローバリズムの波がわが国に押し寄せて来た。しかし、日本はそんな波に呑みこまれることなく自立した国家を作り上げた。

 

飛鳥・奈良時代は、儒教や仏教をはじめとした外来文化・文明が怒涛の如く日本に流入してきた。日本は、さうした言はば当時のグローバリズムをたくみに対峙しつつ、日本独自の文化と政治を確立した。そして平安時代といふ長きにわたる平和の時代を招来せしめた。

 

日本の歴史の中で長期にわたって続いた平和な時代が二つある。平安時代の三五〇年と江戸時代の二五〇年である。これほど長期にわたって平和を持続させた国家は世界史的にも日本だけである。

 

また、江戸時代末期にも、同じような危機に際会したが、明治維新を成し遂げ、日本の独立を守った。

 

つまり、わが国の歴史は、今日で言ふグローバリズムと対峙し、それを克服し、国家民族の独立と栄光を維持し発展させてきた歴史である。

 

その最大の要因は、天皇・皇室を祭祀主と仰いで國の統一と安定を確保するといふ強靭なる日本國體精神である。日本民族がグローバリズムの波に呑みこまれることなく、外来文化・文明を自由に柔軟に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤の中核が、天皇・皇室のご存在である。

 

わが國の建国の精神は、「八紘爲宇」の精神である。これは、世界は色々な民族・国家が連帯し共存する一つの家であるといふ精神である。また近代日本の父と仰がれる明治天皇御精神は、「四海同胞」の精神である。これは、世界の民は兄弟であるといふ精神である。日本は本来的に言葉の真の意味における平和国家である。

 

日本はその傳統信仰の靈的精神の偉大なる包容力によって、よく他國の宗教・文化・文明を取り入れてそれを融和せしめ洗練して、強靱にして高度な日本文化として開花せしめる力を持ってきたのである。 その根源には、天皇を祭祀主と仰ぐ日本伝統信仰がある。

 

世界各国各民族にはそれぞれ伝統精神・傳統文化を保持している。世界の愛国者は、各国各民族の個性・立場・歴史・傳統を尊重し合ひ、真の意味の平和な世界を実現しなければならない。

 

現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な祭祀の精神・文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

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2017年1月14日 (土)

天皇の祭祀について

 

 何故、天皇は神聖なる御存在であらせられるのか。それは天皇が、天照大神の地上に於ける御代理であらせられるという「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは天皇が、天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられるという「神話の精神」によるのである。それ以外に理由はないのである。この尊き事実をまず以て確認しなければならない。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変わることはないのである。

 

 「神話の精神」と言うと非科學的だとか歴史的事実ではないと主張してこれを否定する人がいる。しかし、神話は荒唐無稽な伝承ではない。神話において語られているのは、一切のものごとの生成の根源であり古代人の英知の結晶であり、神話的真実なのである。神話には日本民族の中核的思想精神・根本的性格(國家観・人間観・宇宙観・神観・道義観・生活観など)が語られているのである。そして「日本神話の精神」は、は西洋科学技術文明及び排他独善の一神教を淵源とする闘争的な西洋政治思想の行きづまりが原因となった全世界的危機を打開する力を持っている。

 

 しかも日本民族の「神話の精神」はただ単に『古事記』『日本書紀』といった文献だけでなく、「天皇の祭祀」そして「全国の神社の祭祀」という「生きた行事」によって今日まで継承され語られているのである。 

 

 神話には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の伝統的思想精神の結晶である神話への回帰こそがほとんど絶望的と言われている現代の混迷を打開する方途である。

 

 日本天皇が日本國の君主であらせられ、日本の文化と歴史継承の中心者であらせられるということは、天皇が行われる「祭祀」と不可分の関係にある。

 

 信仰共同體・祭祀國家日本の祭祀主であられる天皇は、その本質が神秘的御存在なのである。日本國民は天皇を神聖なる御存在と仰いできた。これを<現御神信仰>という。そしてこの信仰は、日本伝統信仰の中核である。

 

 ところが、「現行占領憲法」には、「天皇の祭祀」についての規定がないので、「天皇の祭祀」は「天皇の私的行為」とされている。このため政教分離規定との関係で、國との関わり合いの問題が常に憲法論争になってきた。しかしながら天皇の祭祀は個人の幸福を祈る私的なものでは微塵もなく、あくまで國家國民の平和と安定を祈念されるのであり、天皇の國家統治の精神そのものである。ゆえに、「天皇の祭祀」は天皇のもっとも大切にして神聖なる「ご使命」である。このことは『成文憲法』に書かれていようといまいと、厳粛なる事実である。

 

 天皇の國家的、文化的統合者としてのご使命の基礎には、祭祀や歌会始などの伝統的儀式にある。天皇と世俗的権力との関わりは時代によって異なり、積極的に関わった時もあれば、そうでない時もあって様々である。しかし歴史的に見て、一貫して変わらなかったのは祭祀であった。その意味で天皇中心の日本國體(不文憲法)を考える時、もっとも本質的なものは祭祀である。

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2017年1月10日 (火)

この頃詠みし歌

良き子二人に恵まれしわが妹は六十六歳になりにけるかも

 

重き曲『ショスタコビッチ第五番』自由圧殺の響きとし聴く

 

若き日より聴き来し『白鳥の湖』を今朝も掃除をしつつ聴きをり

 

夕暮の根津権現の神域は静かなりけり清らなりけり

 

敷石を踏みつつ神殿へと歩み行くこの夕暮れの静かなる時

 

拝ろみがて一年のご加護を感謝する夕暮時の根津のみやしろ

 

除夜の鐘を若き僧侶が打つ姿見つつ年越す越前永平寺

 

百八煩悩その一つでも消えよかしと永平寺の鐘を聞きゐたりけり

 

除夜の鐘を聞きつつ参道を歩み行く小雨冷たき越前永平寺

 

仰ぎ見る巨木の命の大いさを身に感じつつ立つ永平寺

 

越前の國一宮の神を拝ろがみて新しき年の出発とする

 

青く美しき日本海を眺めつつ静かなる心となりにけるかな

 

穏やかな日本海を眺めつつ新しき年の平和を祈る

 

青く美しき海の彼方にある國はわが日の本に仇なす國か

 

これほどに喫煙を嫌ふ世の中となりても我は煙草吸ひをり

 

今日もまた母と過ごして『ダンチョネ節』共に歌へば楽しくもあるか

 

寄り添ひて母上の口に食べ物を運べることがわが務めなる

 

息切らし昇り行く坂の上にある母のゐる施設にたどり着きたり

 

心込め文を書く時護りたまふ神を背後に感じゐるなり

 

真昼間の青空は消えて夜となればかすかながらに星がまたたく

 

年賀状で友の健在を知ることが年の始めの楽しみとなる

 

遠く住む友とはもう何年も会ふこともなく年賀状を讀む

 

おろしそば食しつつ逢ひ得ぬ人のことを偲びゐるなり越前の宿

 

知人よりのメールを待ちてゐる時にパソコンを開くことの楽しさ

 

筆を持つ手は何時も活発に動くが嬉し生きてゐる我

 

パソコンのキーを打つ指は忙しなく生きゐる我の命の動き

 

命あることを喜び今日も明日もパソコンのキーをたたき続けむ

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2017年1月 9日 (月)

昭和天皇の御聖徳

終戦の年の十二月から翌年一月にかけての大混乱期に、日本全國からマッカーサー宛に送られた『天皇戦犯指名反対』の手紙は、米國ワシントンの國立公文書館の『東京裁判関係文書』にファイルされてゐるだけでも千通を越す。(秦郁彦氏『天皇を救った千通の手紙』)

 

また、全國各地で「ご留位」の嘆願署名運動が展開され、十萬に上る嘆願書が宮内庁に送られてきた。

 

中國地方御巡幸の折の昭和二十二年十二月七日、広島市の奉迎場に、七萬人の市民が集まり、陛下をお迎へした。その時の様子を当時の広島市長・浜井信三氏は次のやうに記してゐる。

 

「『バンザイ、バンザイ』の嵐、歓迎會場の護國神社前の広場には、郡部から出てきた人々も含め数萬の群衆で埋めつくされ、車から降り立った天皇はモミクチャにされた。誰の目からも涙がとめどなく流れつづけた。そして、天皇は壇上から次のように述べた。『このたびは、みなの熱心な歓迎を受けてうれしく思います。本日は、親しく広島市の復興のあとをみて満足に思います。広島市の受けた災禍に対しては、まことに同情にたえません。われわれは、このご犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して、世界平和に貢献しなければなりません』水を打ったように静まりかえってききいっていた人々の中からドット歓声があがり、バンザイがこだまし、會場は興奮と感激のルツボと化した…。」(『原爆市長──ヒロシマと共に二十年』)

 

昭和天皇は、

 

ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり

 

といふ御製を詠ませられた。

 

終戦時、わが國の『ポツダム宣言』受諾の際に、わが國政府が「天皇の國家統治の大権を変更する要求を包含し居らざることの了解の下に帝國政府は右宣言を受諾す」との条件を付したのに対し、米國務長官・バーンズから送られてきた文書いはゆる『バーンズ回答』には、「最終的の日本國の形態は『ポツダム宣言』に遵い、日本國國民の自由に表明する意志により決定すべきものとす」とあった。まさに、「日本國民の自由に表明する意志」は、國體護持であったのである。

 

昭和天皇は、國民を鼓舞激励し、祖國の復興を成し遂げるために、昭和二十一年二月二十日より二十九年まで満八年半をかけて、行程三萬三千キロ、総日数百六十五日間の地方御巡幸を行はせられた。それは昭和天皇の「國見」であったと拝する。「國見」とは、國土と國民の祝福し、國土の豊饒と國民の幸福を祈る祭事である。昭和天皇は、敗戦によって疲弊した國土と國民の再生のための「祈りの旅」を行はせられた。

 

昭和天皇は、「戦災地視察」と題されて次のやうなお歌を詠ませられた。

 

戦のわざはひうけし國民をおもふ心にいでたちて来ぬ

 

わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ

 

國をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

 

 鈴木正男氏は、「敗戦國の帝王が、その戦争によって我が子を亡くし、我が家を焼かれ、その上に飢餓線上をさ迷ふ國民を慰め励ます旅に出かけるなどと云ふことは、古今東西の歴史に絶無のことであった。アメリカをはじめとする連合軍は、恐らく天皇は國民から冷たく迎へられ、唾でもひっかけられるであらうと予想してゐた。ところが、事実は逆であった。國民は熱狂して天皇を奉迎し、涙を流して萬歳を連呼した。…天皇の激励によってストは中止され、石炭は増産され、米の供出は進み、敗残の焦土の上ではあったが、國民は祖國再建の明るい希望に燃えて立ち上がった。」(『昭和天皇のおほみうた』)と論じてをられる。

 

昭和三十八年以来、毎年八月十五日に挙行される政府主催『全國戦没者追悼式』における、昭和天皇の「お言葉」では必ず、「胸の痛むのを覚へる」と仰せになっておられる。

 

昭和天皇崩御前年の最晩年の昭和六十三年には、『全國戦没者追悼式 八月十五日』と題されて、

 

やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど

 

と詠ませられた。

 

昭和天皇は、大東亜戦争に対する「政治的責任」「法律的責任」というような次元ではなく、「日本國天皇としての責任」を深く自覚されておられたのである。根本的には、昭和天皇はご自身のご意志で御位にとどまられてその責任を果たそうとされ、また事実は果たされたのである。

 

昭和天皇は、ご生涯をかけて日本國の天皇としての御使命を果たされたのである。それはただただ國民の幸福と平和の実現であった。だからこそ、戦後日本の復興と國民の幸福があり得たのである。

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2017年1月 7日 (土)

亀井静香氏の妄論について

亀井静香氏が、『月刊日本』平成二十九年一月号で「天皇陛下には基本的人権はない。人間ではない。譲位を認めるべきではない」「天皇のお言葉に対して安倍総理はサボタージュすべし」などと主張したことは旧臘十二月二十五日にも書きました。

 

亀井氏はまた、「天皇陛下の本来のお務めは宮中祭祀と国事行為であって、被災地や激戦地に行かれることではない」とも述べてゐる。亀井氏は、祭祀が、天皇陛下の最も重要なお務めであることは承知してゐるようである。

 

日本天皇は、日本国の祭祀主であらせられ、現御神であらせられ、日本国の「君主」であらせられ「国民」ではあらせられない。これはあまりにも自明のことである。

 

「人権」とは「人間が人間として生きるために生来持ってゐる権利」とだと言ふ。であるならば、「現御神」であらせられる日本天皇は、普通一般の「人間」ではあらせられないのであるから「人権」はお持ちにならない。そんなことは亀井氏が主張しなくとも当たり前のことである。

 

「人権」といふ考へ方は、一二一五年のイギリスの『マグナ・カルタ(大憲章)』がその淵源であると言ふ。さらに「絶対王政」を打倒し「共和制」に移行した「フランス革命」当初の一七八九年八月のフランス国民議会は『人と市民の権利の宣言』(所謂世界人権宣言)を議決した。この「宣言」における多くの原理は今日に至るまで広範囲に及ぶ影響を持ってゐる。つまり、「人権思想」とは、絶対専制君主と人民との闘争に於いて生まれてきた思想であって、君民一体・一君万民の日本國體精神とは本来異質の考へ方である。我が国においては単なる「ヒト」(ホモ・サピエンス)「市民」「人民」といふ概念は無い。わが国においては「ヒト」とは「日人」であり「国民」「臣民」「皇民」である。

 

さらに、「国民」「臣民」「皇民」ではなく「上御一人」であらせられる天皇陛下は、国民としての権利即ち「民権」はお持ちになってをられない。「国民」ではない「君主」が「国民としての権利」即ち「民権」をお持ちにならないのはこれまた当たり前のことである。

 

亀井氏は、天皇陛下が「基本的人権」をお持ちになっをられないことを「お気の毒なことです。申し訳ないことです」などと言ってゐるが、言外に、「天皇には基本的人権はないのだから、譲位される権利もない」と言ってゐるのだ。だからかかる言葉を発するのだ。対談相手の石原慎太郎氏が、「天皇陛下がくたびれるのは当たり前です。そういうことを斟酌すると、私は天皇陛下のご意向を一緒になって考えなといといけないと思います」と述べたのに対して、亀井氏は、「非常にセンチメンタルで、石原さんらしくないね」と返答し、さらに、「天皇陛下には基本的人権はないんです。人間ではないんです。お気の毒な立場ですが、そういう御存在なんです。そういう面で我々は畏敬の念、尊崇の念を持って行けばいいと思う」と語った。

 

祭祀主日本天皇は、現御神として神聖にして最尊最貴の権威を持ってをられる。上御一人日本天皇の現御神・祭祀主たる御本質は決して「お気の毒な立場」ではない。

 

「現御神」あるいは「現人神」とは、読んで字の如く、現実に人として現れた神といふことである。人でありながら神であり、神でありながらながら人であるお方が、祭り主であられる日本天皇なのである。それを名詞で表現したことばが「現人神」「現御神」なのである。だから亀井氏のように一概に「天皇は人間ではない」などと言ふのも間違ってゐる。 

 

葦津珍彦氏は〈現御神日本天皇〉の意義について次のやうに論じてゐる。「天皇おん自らは、いつも過ちなきか、罪けがれなきかと恐れて御精進なさっている。天上の神になってしまって、謬つことなき万能の神だと宣言なさった天皇はない。…現御神とは、地上において高天原の神意を顕現なさる御方というのであって、決して無謬・無過失の神だというのではない。」「現人神というのは人間ではないというのではない。人間であらせられるからこそ、皇祖神への祭りを怠らせられないのである。天皇は、神に対して常に祭りをなさっている。そして神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体となるべく日常不断に努力なさっている。天皇は祭りを受けられているのではなく、自ら祭りをなさっている。祭神なのではなくして祭り主なのである。その意味で人間であらせられる。けれども臣民の側からすれば、天皇は決してただの人間ではない。常に祭りによって皇祖神と相通じて、地上において皇祖神の神意を表現なさるお方であり、まさしくこの世に於ける神であらせられる。目に見ることのできる神である。だからこそ現御神(現人神)と申上げる。」(『近代民主主義の終末』)。

 

現御神日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。

 

日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神にまつろひ奉る御方であり、神のみ心を伺ひ、それを民に示される御方である。また民の願ひを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。

 

「祭る」とは無私になって神にまつろふといふ事であり、祭る者が自分を無にして祭られる者=神に従ふといふ事である。「祭り」とは神人合一の行事である。天皇が祭り主として「無私」であられるからこそ、神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方となられるのである。だから民から天皇を仰ぐ時には「この世に生きたまふ神」すなはち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

 

現御神(現人神)日本天皇は、天つ神・皇祖神の御子としての神聖なる権威を担って、目に見える人の姿として、現実に地上に現れられた神であらせられる。そして、皇祖天照大神の住みたまふ天上界(高天原)と地上とは隔絶した関係ではなく、常に交流してゐる関係にある。

 

日本人の傳統信仰は、皇祖神と天皇の関係ばかりでなく日本の神々と一般國民も種々の形で交流し、両者の間に超えがたい区別などはないのである。神はしばしば人の姿をとって現実世界に現れ、人の口を借りて神意を傳へんとする。

 

天皇陛下が祭り主・現御神として「無私の御存在」であることを「天皇には人権がない」と言ったといふ理解も不可能ではない。しかしそれなら、「お気の毒」などとは言へないはずである。

 

無私の御存在であり、祭祀主・現御神たる天皇陛下の御心に対し奉り、絶対的に従ひ奉るのが臣民の道である。祭祀主・現御神としての天皇陛下の神聖性・尊貴性を正しく語ることをせず、「天皇に人権はない」「お気の毒」などと慎みのない言葉を繰り返し、安倍総理に対して、天皇陛下の御意志・御心を拳拳服膺せず、「サボタージュすべし」などと要求してゐる亀井静香氏には、現御神日本天皇に対する尊崇の心が希薄であるからだと言はざるを得ない。

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2017年1月 5日 (木)

精神性を重視した世界観・文明観の確立と日本伝統信仰

 

本当の正しい合理主義は、合理的・科学的態度そのものの倫理や歴史との関係を謙虚に反省し、科学技術や合理的なものの考え方の限界の自覚を前提としたものでなければならない。現実の人間生活は理論や理屈通りには行かないものである。また不条理なものである。

 

 人間の意思決定やものの考え方そして行動は、合理的に論証して行われるのではなく、情念的・情緒的に行われる場合が多い。学問の分野における新たなる発見や発想及び芸術の分野における新たなる創作は、自由な感性・想像力・霊感・啓示・そして狂気というような不条理な心理が源泉となり、偉大な業績を生み出す。その感性・想像力・霊感・啓示・そして狂気をどのようにして正しく統御し自制するかが問題なのである。

 

 人間は理論や理屈では死ねないし、世界は理論や理屈では動かない。学問や芸術のみならず、歴史そのもののも、人間の情念によって動いてきた。歴史の根底を支えてきた民衆は、政治思想や政治技術によっては容易に動かず、心性を揺さぶる情念によって動かされてきたし、自己の情念が美しいと感じたものに対して命を捧げてきた。己れの「美学」が死をも厭わぬ行為に駆り立てるのである。  

 

 つまり今日の人類の危機を打開するためには、真の合理的発想を重んじるとともに、科学技術・物質文明に偏した考え方を改めて、人間の精神性の復活・内面から発する情念の正しき統御が大事なのである。近代合理主義やある一人の人の説く教義で全ての世界が説明できるという傲慢な考えを捨てて、壮大なる宇宙の神秘=無限の可能性は、人間の理性や知能によって全てが説明できるものではないという謙虚な姿勢を持つべきである。ここに宗教の必要性が生じてくる。

 

 先進諸国の<近代合理主義>を根底に置いた物質文明及び経済至上主義の行きづまりによる今日の混迷を打開するためには、正しき「宗教精神」への回帰が大切である。

 

 しかし、「宗教精神」への回帰とは、安易にしていかがわしい神秘主義や狂信的な教団宗教へのよりかかりであってはならない。むしろそうしたものを厳しく否定しなければならない

 

 仏教・キリスト教・マホメット教は、一個人を教祖とし、教団を組織する。そして信者その教祖と教団に依存している。日本の新宗教・新々宗教ももちろんそうである。そうした教団宗教は、往々にして排他独善の姿勢に陥りやすい。世界の宗教史は宗教戦争の歴史といっても過言ではない原因はここにある。そして今日それが日本国内においても世界においてもますます激化してきている。

 

 日本伝統信仰すなわち神道には教祖がいない。教典もない。ただ「神への祭り」を行い、「神の道」に随順して生きる事を大切にしている。これが、わが国の伝統的な信仰精神の基本である。つまり日本神道の本質は、特定の人物によって書かれた教条・教義の中には無いのである。文字通り「神」及び「道」のそのものの中にあるのである。我々日本人は、その「神」を祭り「神の道」を現実に生きることによって宗教的安穏を得るのである。

 

 今日の日本人には、西洋精神の影響を受けて自然への畏敬の念を失ってしまった人が多いが、古来、日本人は自然を神として拝み尊んでいた。日本の神々は,天地自然そのものに宿っている。また祖霊を神と崇める。これは一種の神秘思想と言っていい。そうした日本民族が継承してきた伝統的な正しき信仰精神を正しく継承し現代において生かす事が必要なのである。

 

 日本の伝統信仰は自然神秘思想であることは間違いないが、全てを神や仏という絶対者の支配に任せ、科学的思考・合理的思考を拒絶するという考え方ではない。

 

 日本の古代から継承されてきた「道」は、実に真に合理的にして科学的な考え方である。ただ人間の作り出した科学技術や人間が発見した<合理的法則>というものが全てを解決するという傲慢な考え方を否定するのである。

 

 「神への回帰」「自然への畏敬」という精神性を重視した世界観・文明観を確立することが、これからの人類の生存のために不可欠である。であるがゆえに、神道(神ながらの道)という精神伝統を保持する日本が、新しい文明を切り開いていく可能性が非常に高いのである。

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2016年12月30日 (金)

「やまと歌」の起源について

韻律即ち和歌は神から授かったと言はれてゐる。和歌の原点・起源は祝詞である。神にものごとを訴へる言葉が自然に韻律を整へるやうになった。神懸かりした女性(巫女・シャーマン)が神のお告げとして語ったり歌ったりした言葉が韻律を持った。それが発達して「やまと歌」になった。

 

「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。

 

高崎正秀氏は、「歌は空(ウツ)・現(ウツツ)・うつろ・うつけなどと同義で、神憑りの夢幻的な半狂乱の恍惚状態を指すことから出た語であり、同時にまた、裏・占・心(ウラ)訴(ウタ)ふなどとも同系語で、心の中の欲求を神に愁訴するものであった。」(『伊勢物語の意義』)と論じてをられる。

 

わが國の文藝の起源は神への祭祀における舞ひ踊りと共に歌はれた「歌」であることは、出土してきてゐる土偶によって分かるといふ。

 

ことばを大切にしことばに不可思議にして靈的な力があると信じたがゆへに「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、歌は何よりも大切な神への捧げものとされたのである。それが祝詞となったのである。祝詞も声調・調べが整ってゐる。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教において神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、特定の言葉を唱へることが基本的行事である。すべて言葉を唱へる行事である。祈りとは、経典や聖書、祈りの言葉そして題目や念仏も同じである。

 

歌をはじめとした日本文藝の起源は、神への訴へかけである。和歌は神聖な文藝であると考へられていた。神に対してだけでなく、自然や恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源なのである。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。

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