2019年4月20日 (土)

「春の特別展・江戸時代の天皇」拝観記

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展示されていた「平成の書」

 

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東山天皇御即位・大嘗会祭図(貞享四年十一月十六日)

 

「春の特別展・江戸時代の天皇」は、「平成31年(2019)は天皇陛下の御退位と皇太子殿下の御即位が行われます。本展では、この御退位・御即位を記念し、江戸時代の天皇について取り上げます。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら天下人が登場し、それに続く江戸幕府による支配の中で、天皇・朝廷はどのように渡り合い、関係を構築していったのか。光格天皇による朝廷儀式の再興、江戸時代の元号の選定と改元などについて、当館所蔵の絵巻物や公家日記などを中心に御紹介いたします」(案内書)との趣旨で開催された。

 

桜町殿行幸図 文化14年(1817)3月22日、光格天皇が禁裏御所を出て、上皇の御所である「桜町殿」へ向かう行幸の行列を描いた、上下巻あわせて全長約45メートルに及ぶ長大な絵巻。天皇の乗物である「鳳輦(ほうれん)」や、行列見物の人々、京都所司代による警固の様子などが描かれている。

 

礼儀類典 常陸水戸藩主徳川光圀が『大日本史』編纂の過程で、朝廷古来の行事や儀式(朝儀)が衰退している状況を憂慮し、編纂させた書。書名は霊元上皇のご命名。光圀没後の宝永7年(1710)、ときの水戸藩主・徳川綱條から浄書本515巻が幕府へ献上された。画像は天皇の玉座である高御座(たかみくら)。紅葉山文庫旧蔵。

 

公武御用日記 江戸時代、朝廷と幕府をつなぐ朝廷側の窓口となったのは武家伝奏という役職に就いた公家であった。画像は文化14年(1817)から天保2年(1831)まで武家伝奏を勤めた広橋胤定の公武御用日記。広橋家旧蔵。

 

公事余筆 天命の大火災で禁裏御所・仙洞御所などが焼失したため、その再建・御所造営について造内裏御用掛・広橋伊光が記した文書。

 

寛政内裡潜幸之図 寛政二年聖護院の仮御所から新造内裏へ潜幸された時の御行列を描いた図。

 

翁草 江戸時代後期の随筆。神沢杜口 (貞幹。京都町奉行の与力) 著 天明の飢饉の時、三万人に上る民衆が御所の周囲をぐるぐる回り拝礼し祈願した「千度参り」のことなどが記されている文書。この千度参りにより幕府は民衆救済のための救米を行った。

 

等を拝観。

 

江戸時代初期に於ける徳川家康・秀忠による天皇朝廷圧迫の事實は許し難い思いがある。後陽成天皇・後水尾天皇は幕府の圧迫に対する戦いの御生涯であったと言っても言い過ぎではない。しかし徳川綱吉の時代以降、幕府はそれまでよりは朝廷を大切にするようになったようである。しかし、江戸時代を通じて、幕府は、畏れ多い表現であるが、朝廷を京都御所に封じ込めつづけた。しかも、徳川将軍・幕府の権力を強め、天皇朝廷を蔑にしたことは否定できない事実である。しかし、本展覧会を見ても時代が進むにつれて、朝廷に権威は高まって行った。そしてやがて尊王攘夷の倒幕運動へとつながって行く。「天皇中心帰一」の國體が明徴化されたのである。

 

以下は以前に書いた拙文である。

 

徳川幕府による朝廷圧迫について
第 一〇八代・後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天萬乗の大君として君臨あそばされ、修學院離宮の造営、學者文人藝術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。「後水尾天皇宸翰『忍』」は、聖護院門跡に傳わるものである。この宸翰は京都岩倉實相院門跡にも傳えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されていると拝する。實に力強い筆致である。

徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。徳川家康及び秀忠は基本的に尊皇心が非常に希薄であった。幕府は徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の傳統的権威を利用した。しかし、天皇・朝廷を京都に事實上の軟禁状態に置いた。

元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加えた。天皇・朝廷に対し奉り京都所司代が厳しい監視にあたった。江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられた後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の實相院だったと思うが、拝観した。

後水尾天皇は、
「思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は」
「葦原や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず」
といふ御製をのこされてゐる。

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害されたと言っても言い過ぎではない。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓に眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事實を以て証明される。

江戸時代の禁裏御料はたったの三萬石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一萬五千石を献上した後、家光が一萬五升四合、家宣が一萬一斗余を献上し、ようやく三萬石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高である。

幕末になり、幕府権力維持のために朝廷を利用せんとした幕府は、十四代将軍家茂は文久二年(一八六二)に十五萬俵献上し、十五代将軍・慶喜は慶応三年(一八六七)、山城一國に十三萬石を献上した。

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その實態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

 

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2019年4月 9日 (火)

『宮嶋 茂樹 写真展:THE CADETS 防衛大学校の日々』を参観して

本日参観した『宮嶋 茂樹 写真展:THE CADETS 防衛大学校の日々』は、「報道写真家、宮嶋 茂樹氏が1年半以上にわたって取材し続けた、防衛大学校。海と山に囲まれた自然豊かな環境下の広大な敷地で、約2000人が集団生活を送りながら4年間学んでいます。高い倍率を突破して入学した学生たちは、毎日厳しい訓練と授業を受けて幹部自衛官を目指す。今まで知られることのなかった防大生らの学生生活の一部を垣間見ることができる写真展です」との趣旨で開催された。(案内書)

 

若き防大生の訓練の様子などを記録した写真展である。街で見かける今の若者たちとは全く異なる清々しい表情にまず驚いた。訓練の厳しさも大変なものだと認識した。これからの自衛隊の指揮官として活躍するであろう若者たちの姿に感銘した。

 

訓練の厳しさと装備そして何より訓練に耐え抜く防大生を写真で見て思ったのは、自衛隊という呼称ではあるが、やはり立派なそして正真正銘の国軍であると思う。

 

日本というのは変った国で、防衛大学、習志野空挺部隊、北富士演習場、横須賀などの我々が報道などで垣間見ることができる自衛隊の訓練を見て、「あれは軍隊の訓練ではない」と言わねばならない。何故なら「現行憲法」に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。戦力を保持しない」と書かれているからである。

 

以前はもっとひどく、陸上自衛隊が装備する「戦車」は「戦車」ではなく「特車」と言わねばならなかった。戦力が無くてどうやって國を侵略者から守ることができるのであろうか。

 

さらに不思議なのは、反米を叫ぶ連中が、アメリカから押し付けられた「亡国憲法」擁護を叫んでいることである。「アメリカは日本から出て行け」と叫びつつ、アメリカ製憲法を押し戴いていることに何の矛盾を感じない人々の心理を私は到底理解する事ができない。

 

わが国おいて「正義の味方ヅラ」をして「人権」だの「平和」だの「日本は侵略戦争をした」だのと騒いでいる連中が平和を守っているのではない。厳しい訓練を耐えている自衛隊が日本の独立と平和を守っているである。ともかく今の日本は嘘と矛盾に満ち溢れている。

 

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2019年4月 7日 (日)

『特別展 御即位三〇年記念 両陛下と文化交流』展参観記

本日参観した『特別展 御即位三〇年記念 両陛下と文化交流』展は、「本展は、宮内庁が所管する皇室ゆかりの作品の中から、天皇陛下御即位の儀式に際して東山魁夷、高山辰雄が平成2年(1990)に制作した「悠紀・主基地方風俗歌屛風」や、天皇皇后両陛下が外国御訪問の際にお持ちになって紹介された作品などを展示するものです。両陛下がお伝えになった日本文化を通して、海外の様々な人々が、わが国への理解と交流を深めてきました。御即位30年という記念すべき年に、両陛下が担われた文化交流についてご紹介します。」との趣旨で開催された。(案内書)

 

東山魁夷筆(悠紀地方風俗歌屛風)、高山辰雄筆(主基地方風俗歌屛風) 平成2年(1990)」 「小栗判官絵巻(おぐりはんがんえまき) 巻第十、第十五 岩佐又兵衛筆 江戸時代・17 世紀」 「花鳥十二ヶ月図(かちょうじゅうにかげつず) 酒井抱一筆 江戸時代・文政6年(1823)」 「養蚕天女(ようさんてんにょ) 高村光雲作 大正13年(1924)」 「赤縮緬地吉祥文様刺繍振袖(あかちりめんじきっしょうもんようししゅうふりそで) 天皇陛下御年二歳祝賀のお品 昭和10年(1935)」  「両陛下御記念のボンボニエール 両陛下古希記念」などを拝観。

 

皇室関連の美術展を参観する度に思うのであるが、日本の文化・美術は皇室を中心に継承されてきたということである。まことに有難き限りである。わが国の國體の素晴らしさは實にここにある。天皇・皇室は決して権力者ではない。「元号」を天皇陛下が勅定あそばされるという伝統について、「天皇は空間国土のみならず時間をも支配するからである」という説がある。

 

しかし、天皇は国土国民を支配されるのではない統治されるのである。そして統治をやまと言葉で「シロシメス」「キコシメス」と言うのでもわかる通り、上御一人が天の神の御心を知り給い国民の広く知らせる、ということであり、上御一人が国民の心を知り給い天の神に申上げるといふ意である。つまり祭祀である。

 

天皇は日本国の支配者ではあらせられず祭祀主であらせられる。祭祀は日本文化・美術の根源にある。歴代の天皇陛下は常に美の継承を大切にされてきた。祭祀とやまと歌は日本天皇の国家ご統治の基礎にあるのである。そしてそこから日本の文化・美術が生まれ発展してきた。大和絵はやまと歌と密接に関係する。

 

こうしたことを今回の展覧会特に『悠紀地方風俗歌屛風』、『主基地方風俗歌屛風』を拝観してあらためて認識させていただいた。

 

本展覧会図録の解説書『皇室ゆかりの品々を伝えゆく』という文章において、太田彩さん(宮内庁三の丸尚蔵館)は「王政復古後の明治四年(一八七一)にお壊れた明治の即位礼が、奈良時代以降、連綿と継承されてきた礼服と呼ばれる装束に代表される中国式の装束や設(しつら)えではく、日本の古式に則った形に改められたことは、大嘗祭に用いられる悠紀主基屏風のありかたに大きな影響を与えている。中國的な『本文』と屏風は廃止され、わが国の室内調度として伝統的な和歌屏風である『和絵』屏風のみとし、その数も悠紀と主基の各国で、六曲一双の形に改められた」と書いておられる。

 

伝統への回帰・継承が外来文化文明の包容摂取の基本であったのである。そしてその中心は皇室であった。

 

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2019年3月29日 (金)

『奇想の系譜展-江戸絵画ミラクルワールド』参観記

本日参観した『奇想の系譜展-江戸絵画ミラクルワールド』は、「本展は、1970年に刊行された美術史家・辻惟雄による『奇想の系譜』に基づく、江戸時代の「奇想の絵画」の決定版です。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳に、白隠慧鶴、鈴木其一を加えた8人の代表作を一堂に会し、重要文化財を多数含む展示となっています。豊かな想像力、奇想天外な発想にみちた江戸絵画の魅力を紹介。現代の目を通した新しい「奇想の系譜」を発信します」(案内書)との趣旨で開催された。

 

曽我蕭白《雪山童子図》明和元年(1764)頃、三重・継松寺蔵 鈴木其一《百鳥百獣図》天保14年(1843年)米国・キャサリン&トーマス・エドソンコレクション 伊藤若冲《旭日雄鶏図》 伊藤若冲《象と鯨図屏風》寛政九年 長沢芦雪《山姥図》寛政九年 岩佐又兵衛《達磨図》 狩野山雪《蘭亭曲水図屏風》 白隠慧鶴《南無地獄大菩薩》 歌川国芳《七浦大漁繁昌之図》嘉永六年などを参観。

 

確かに異常なくらい個性的作品が集められた感がある。江戸時代の文化は幅が広く奥行きが深いことを実感した。しかし私は、他の人の作品と比較して、伊藤若冲の作品が一番すぐれていると思った。奇を衒うという言葉があるが、そういう作品があったように思うが、伊藤若冲の絵画は決してそうではない。見事と言うほかはない美しさがある。随分前に皇居の三の丸尚蔵館で初めて見たとき非常に感動した思い出がある。

 

曽我蕭白の虎の絵は猫を少しおっかなく描いたという感じである。日本に虎が生息していないからであろうか。しかし、像や鯨はリアルに描かれていたように思う。伊藤若冲は鶏を描いた作品が多かった。余程鶏を描くのが好きだったのであろう。小生は、鶏を食べるのは好きだが絵に描くことはない。

 

常盤御前が殺される場面が描かれた絵画、旅人を泊めては殺してしまう老婆を描いた絵画は何とも凄惨であった。現代絵画にもこんな作品があると思う。美しいばかりが藝術ではないと言われればそういうことかと納得せざるを得ないが、あまり家に飾りたくはない。

 

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2019年3月19日 (火)

『深見東州・バースデー書画展』開幕式における登壇者の発言

は次の通り。

 

亀井静香氏「八十二歳の亀井です。深見先生は『現代のダビンチ』と言っても表現しきれない人。宗教家として人の心を救済される。世界の平和のために今後ともご活躍ください」。

 

高村正彦氏「七十七歳の若造の高村です。深見氏の宗教・文化・芸術活動に感謝。半田先生という人間が書と絵画に表現されている」。

 

下村博文氏「深見先生は『現代のダビンチ』をはるかに超えている。深見先生のパワフルと明るさに私たちは助けられている。新たなる人類の希望を作って頂きたい」。

 

平澤勝栄氏「私の地元の葛飾区にアトリエを構えた彫刻家の平櫛田中は『六十、七十 はなたれ小僧、はなたれ娘、人間盛りは百から、百から』と言ったが、深見先生にはこれからもずっと活躍して頂きたい。私は亀井先生に似ていると言われる。中身が似ていると言われるのはうれしいが、顔かたちが似ていると言われるのはショック」。

 

原口一博氏「今の平澤先生の祝辞を聞いて、平沢先生が閣僚になれない理由が分かった。深見先生とお会いすると生きていてよかったと思う。世の中に光があったと思わせていただく」。

 

前原誠司氏「出口王仁三郎の書には圧倒される。何かが降臨したような迫力がある。深見先生の作品にもそれを感じる」。

 

鈴木宗男氏「天才は生まれつき。天才に勝つには努力が必要」。

 

海江田万里氏「深先生の書は顔真卿の書に匹敵する」。

 

藤岡弘氏「あるホテルの玄関で偶然深見先生と出会って私に似ておられるのに驚いた。すごい才能を持っておられる。先生との出会いで人生が変わるような気がする」

 

深見東州氏「日本料理、華道、造園、建築は茶道から発達してきた。茶道は最高の贅沢。魂から出てくる言葉でやり取りとするのが禅問答。頭からではない。雑念妄想の無い『無位眞人』の世界の魂が出てくる。陰がきわまると陽がやって来る。生活を藝術にしたのが茶道。不立文字、柳緑花紅、分別の知恵を越えた悟り。室町時代は老荘思想がベース。日本のおもてなしの原点は茶道のおもてなし。白隠が一番活躍したのは七十代になってから。著作を表し、お弟子をとった。本格的に活躍する時は、七十代、八十代、九十代。刻々の唯今に生きる」。

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2019年2月 8日 (金)

『御即位30年・御成婚60年記念特別展 御製・御歌でたどる両陛下の30年』展を拝観して

本日拝観させていただいた『御即位30年・御成婚60年記念特別展 御製・御歌でたどる両陛下の30年』展は、

 

「本展は,天皇陛下のご即位30年を記念するとともに,天皇皇后両陛下のご成婚60年を祝して,ご即位後の両陛下の歌会始における御製と御歌を紹介し,それぞれの御歌の情景や関連する行事等の写真を展示することによって,両陛下の30年にわたる歩みを振り返ろうとするものです。

 

天皇陛下は,平成2888日のおことばにおいて,『私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。』と述べられました。また,天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすために各地を巡って多くの人々と触れ合われたことについて,『天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。』と述べられました。

 

両陛下の御歌には,先の大戦の犠牲者,苦難の歴史を歩んできた沖縄の人々,大震災等の自然災害による被災者,外国に暮らす日系人,それぞれの地域に暮らす様々な人々への思いが溢れ,国の平穏と国民の幸せを祈り続けてこられたお姿が凝縮しています。また,ご夫婦としての細やかなご配慮やご家族への愛情,静かな日々のお過ごしを詠まれた御歌からは,思わず心が和み,癒やされる余韻が伝わってきます。

 

本展では,この他にも両陛下のご著書や皇后陛下のご養蚕により修復された文化財,両陛下が相互にお取り交わしになった記念のお品も紹介しています。

 

本展の開催が,多くの人々の心の支えとなり,希望となってこられた両陛下の30年間に及ぶご活動を思い起こす一助となることを願いつつ,ここに,これまで温かくお見守りいただいた両陛下への感謝の意を表する次第です。」

 

との趣旨で開催された。

 

「平成30年御製『語』御懐紙」「平成21年御歌『生』御懐紙」「皇后陛下より

天皇陛下へ捧げられた『布目象眼魚文書鎮』」「天皇陛下より皇后陛下に賜った『糸箪笥』」「天皇皇后両陛下の御著書」「天皇皇后両陛下御肖像」(野田弘志氏作)「天皇陛下御撮影のお写真」「皇后陛下御撮影のお写真」、そして御即位以来本年までの「御歌会始」のために詠ませられた御製と御歌、それらの御製・御歌に関連する御真影、御行事のお写真などを拝観した。

 

御製、御歌そして御真影、お写真を拝観し、平成の御代を偲ばせて頂いた。皆すべて有難くも素晴らしい御製・御歌であるが、特に感銘した御製・御歌を記させていただきます。

 

平成二年「晴」

御製

父君を見舞ひて出づる晴れし日の宮居の道にもみぢばは照る

 

平成三年「森」

御歌

いつの日か森となりはて陵(みささぎ)を守らむ木木かこの武蔵野に

 

平成五年「空」

御製

外国の旅より帰る日の本の空赤くして富士の峯立つ

御歌

とつくにの旅いまし果て夕映ゆるふるさとの空に向かひてかへる

 

平成十二年「時」

御製

大いなる世界の動き始まりぬ父君のあと継ぎし時しも

 

平成十四年「春」

御歌

光返すもの悉くひかりつつ早春の日こそ輝かしけれ

 

平成十六年「幸」

御製

人々の幸願ひつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ

御歌

(さき)くませ真幸(まさき)くませと人びとの声渡りゆく御幸(みゆき)の町に

 

平成十九年「月」

御製

務め終ヘ歩み速めて帰る道月の光は白く照らせり

御歌

年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて

 

平成二十六年「静」

御歌

み遷りの近き宮居に仕ふると瞳静かに娘()は言ひて発つ

 

平成二十七年「本」

御製

夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

 

平成二十八年「人」

御製

戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ

 

平成三十一年「光」

御歌

今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇(さうび)のみな美しく

 

 

 

やや暫くぶりに三の丸尚蔵館を拝観させていただき有難かった。三十年間の両陛下のご事績をお回顧させていただくことができた。天皇陛下がわが国の君主として君臨あそばされることは、大御歌と一体である。御製・大御歌によって我々国民は陛下の大御心を知ることができる。そして天皇皇后両陛下は、常に国民の幸せと国家の安穏・世界の平和祈られておられることを実感できる。これが我が国の国柄國體の素晴らしさである。

 

三の丸尚蔵館を拝観させていただき何時も思うことなのであるが、あまりにも狭いということである。今回の展覧会ももっと広い会場で開催されれば、もっと多くの御物やお写真などを拝観することが出来るのにという思いを強くした。

と共に日本皇室の質素さをあらためて思い知った。

 

天皇皇后両陛下の萬壽無窮、皇室の彌榮を衷心よりお祈りさせていただきます。

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2018年12月 8日 (土)

『特別展 皇室ゆかりの美術―宮殿を彩った日本画』展参観記

本日参観した『特別展 皇室ゆかりの美術宮殿を彩った日本画』展は、「当館創立者の山﨑種二(やまざきたねじ)は、1968(昭和43)年に完成された皇居宮殿を飾った美術品に感銘を受け、より多くの人々にこの優れた作品をご覧いただきたいという願いから、山口蓬春(やまぐちほうしゅん)、上村松篁(うえむらしょうこう)、橋本明治(はしもとめいじ)、東山魁夷(ひがしやまかいい)ら宮殿装飾を手掛けた日本画家たちに同趣向の作品制作を依頼しました。このたび、山種美術館では、これら当館所蔵の皇居宮殿にちなんだ作品を4年ぶりに一挙公開するとともに、皇室ゆかりの美術をご紹介する展覧会を開催いたします。加えて、天皇の手になる書・宸翰(しんかん)や宮家に伝来した絵巻、皇族から下賜された美術工芸品、野口小蘋(のぐちしょうひん)、下村観山(しもむらかんざん)、西村五雲(にしむらごうん)らによる宮家旧蔵の日本画など、皇室とゆかりの深い作品をご覧いただきます。さらに、1890(明治23)年に皇室による美術の保護奨励の目的で設置された帝室技芸員制度にも注目します。橋本雅邦(はしもとがほう)、竹内栖鳳(たけうちせいほう)、上村松園(うえむらしょうえん)らの日本画から、川之邊一朝(かわのべいっちょう)、並河靖之(なみかわやすゆき)、濤川惣助(なみかわそうすけ)、香川勝廣(かつがわかつひろ)らの工芸作品、そして黒田清輝(くろだせいき)や和田英作(わだえいさく)らの洋画まで、帝室技芸員に任命された作家たちの優品を通して、近代の美術家たちが皇室とどのように関わってきたかを振り返ります」との趣旨で開催された。(案内書)

 

後陽成天皇《和歌巻》、有栖川宮熾仁親王《和歌懐紙》、土佐光信《うたたね草紙絵巻》、伝 海北友雪《太平記絵巻 巻第12》、下村観山《老松白藤》、《犬張子形ボンボニエール》、《釣灯籠形ボンボニエール》、橋本明治《朝陽桜》、 東山魁夷《満ち来る潮》、竹内栖鳳《双鶴》、 山元春挙《火口の水》、 川合玉堂《鵜飼》、 横山大観《富士山》、上村松園《牡丹雪》、並河靖之《花鳥図花瓶》、 香川勝廣《菊に蝶図花瓶》、小堀鞆音《秋色鵜飼》,横山大観《飛泉》、安田靫彦《萬葉和歌》、山口蓬春《新宮殿杉戸楓4分の1下絵》、下村観山《寿老》などを参観。

 

どの作品も「美しい」の一語に尽きる。皇室・朝廷と日本文化は一体である。日本の伝統的な美術も文藝も皇室なくして継承されてこなかった。美術・工芸品は古代の正倉院御物から発してまさに皇室の歴史と共にある。彫刻は聖武天皇ご創建の東大寺の毘盧遮那仏像、建築物は聖徳太子ご創建の法隆寺がその元初であり今に伝えられている。和歌文学の伝承と創造は『萬葉集』以来勅撰和歌集がその中心である。

 

天皇御自ら書を書かれ、さらに歌も詠まれた。修学院離宮・桂離宮の御造営など建築・作庭も行わせられた。近代以後は、「歌会始」の儀執行、帝室技芸員の任命による美術工芸の保護奨励が行われた。そして戦後は、日本芸術院の創設・文化勲章授与などが行われ、日本皇室と文化の全く一体の歴史は今日まで脈々と受け継がれている。本日の参観であらためてそのことを認識させていただいた。

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2018年9月29日 (土)

『没後50年 藤田嗣治展』参観記

本日参観した『没後50年 藤田嗣治展』は、「「明治半ばの日本で生まれ、80年を超える人生の約半分をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得して欧州の土となった画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)。2018年は、エコール・ド・パリの寵児のひとりであり、太平洋戦争期の作戦記録画でも知られる藤田が世を去って50年目にあたります。この節目に、日本はもとよりフランスを中心とした欧米の主要な美術館の協力を得て、画業の全貌を展覧する大回顧展を開催します。本展覧会は、『風景画』『肖像画』『裸婦』『宗教画』などのテーマを設けて、最新の研究成果等も盛り込みながら、藤田芸術をとらえ直そうとする試みです。藤田の代名詞ともいえる『乳白色の下地』による裸婦の代表作、初来日となる作品やこれまで紹介されることの少なかった作品も展示されるなど、見どころが満載の展覧会です。」(案内書)との趣旨で開催された。

 

《目隠し遊び》1918、《タピスリーの裸婦》1923年、《自画像》1929年、《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》1922年、《狐を売る男》1933、《夏の漁村(房州太海)1937、《争闘()1940年、《アッツ島玉砕》1945、《サイパン島同胞臣節を全うす》1945、《私の夢》1947、《カフェ》1949、《フルール河岸 ノートルダム大聖堂》1950、《礼拝》1962-63などを参観。

 

《夏の漁村(房州太海)》は、安房國長尾藩の家老をつとめた藤田の祖先のゆかりの地である。小生の子供の頃、近所の方が太海に海の家を借りていたのでよく行った。《アッツ島玉砕》《サイパン島同胞臣節を全うす》は所謂戰爭がであるが、決して戦意を高揚させる絵ではないと思った。厳しくも凄惨なる戦場を描いている。戦時中この作品を見た人は、絵に向かって拝礼したという。

 

前にも書いたが藤田嗣治は、戦時中軍の要請で戦地に赴き、多くの戦争画を描いたところから、戦後になって、占領軍に媚を売り自己保身を図る画壇の人々によって、「戦争協力者」として指弾された。戦争画を描いた人々は他にも数多くいたのに、左翼によって「人身御供」にされたと言っていいだろう。これは、藤田嗣治が戦前はフランスにおいても高く評価され、戦時中帰国した時にも戦争画が高く評価されたことに対する画壇の一部の人々と言うよりも多くの人々の藤田に対する嫉妬があったからと言われる。

 

昭和二十二年の《私の夢》という作品は、全裸で眠る女性の周囲に闇が押し寄せ、古風な衣装をつけた猿、梟、鼠・狐などの動物たちが全裸の乳白色で描かれた全裸の女性を取り囲み今にも女性の体を引き裂こうとしているかのごとき不気味な作品である。

 

近藤史人氏はこの作品について、「藤田が日本を離れる前々年、一九四七年に制作された『私の夢』という作品がある。戦後初めて東京都美術館で開かれた展覧会に出品された絵である。中央には裸の女性が、周囲には人間の衣装をつけた猿や犬、兎など動物たちが描かれている。後にこの絵について藤田は中河与一への手紙の中でこう述べている。〈この二年間、戦争中の疲れを静かに休めて初めてとりかかった最初の作でした。やっと気分も落ち着いた或る頃、私か見ました夢を描いてみたのでした。人が裸で居て、獣が着物を着ていました。人間は頽廃して禽獣にも劣るという世相への皮肉かと言われましたが、ただこんな夢を見たまでと答えました〉こうした日本との複雑な関係は、やがて藤田に『帰化』という重大なる決断を指せる伏線となった」(『藤田嗣治「異邦人」の生涯』)と書いている。

 

中河与一もまた「戰爭協力者」として指弾され、文壇から事実上追放された。藤田と中河とは若い頃からの友人であった。何とも不思議な縁と言わざるを得ない。

 

戦後の糾弾の動きを嫌悪した藤田は、フランスに赴き、二度と帰国することはなかった。そしてアメリカ・ヨーロッパで大活躍し、世界的画家として地位を不動のものとした。日本の西洋画家として藤田嗣治以上の人はいないのではないか。

 

藤田は、日本国籍を捨ててフランスに帰化し、カソリックの洗礼を受けても、亡くなるまで日本を愛していた。味噌汁を飲み、浪曲のテープを聴きくことが多かったと言う。気の毒なことである。

 

晩年の《礼拝》という作品は、聖母マリアの左右に修道士姿の藤田夫妻が描かれているだが、何となく滑稽に見えるのは不謹慎であろうか。

 

私は、これまで藤田嗣治の大きな展覧会を三回見たが、今回は、はじめて見る作品が多くもっとも充実していたと思う。

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2018年8月 8日 (水)

『特別展「縄文―1万年の美の鼓動」』を参観して

本日参観した『特別展「縄文―1万年の美の鼓動」』は、「縄文時代が始まったとされる約13000年前。狩猟や漁撈、採集を行っていた縄文時代の人びとが、日々の暮らしのなかで工夫を重ねて作り出したさまざまな道具は、力強さと神秘的な魅力にあふれています。本展では『縄文の美』をテーマに、縄文時代草創期から晩期まで、日本列島の多様な地域で育まれた優品を一堂に集め、その形に込められた人びとの技や思いに迫ります。縄文時代1万年にわたる壮大な『美のうねり』をご体感ください」(案内書)との趣旨で開催された。

 

「木製網籠縄文ポシェット」(重文)「土製耳飾り」(重文)「火焔型土器」(国宝)「土偶・縄文のビーナス」(国宝)「遮光器土偶」(重文)「人形装飾付有孔鰐付土器」(重文) 合掌土偶」(国宝) 「ハート形土偶」(重文)「石棒」(重文)などを参観。

 

縄文時代は一万三千年前が一万年続いたと言ふのだから、まさに悠久の太古の美術品である。美術品というよりも、古代日本人の生命力・魂のエネルギーが吹き出した結晶のやうに思へる。古代日本人と日本の大地が生み出した力強さが感じられた。弥生時代は洗練された文化であり縄文時代は素朴な文化といふ先入観があったが、まったくさうではないと思った。縄文時代の土偶も装飾品もきわめて手の込んだ造形であり、技術である。古代日本人の造形力の豊かさを実感した。

 

「土偶」は精霊を表現したものと言ふが、女性像が多いので、農作物の豊饒を祈る地母神崇拝のための人形と解釈されることが多いといふ。「遮光器土偶」はアメリカ映画の「グレムリン」を彷彿させるものがあったが神秘的な像であった。合掌土偶」と言ふのを見たが、大いなるものに手を合わせ祈るといふ風習は太古以来のものであるらしい。「動物型土製品」と言ふのもいくつか展示されてゐたが。蛇や猪が多かった。この二つは良い意味でも悪い意味でも畏怖の対象であったのであらう。「ハート形土偶」(重文)は岡本太郎氏の「太陽の塔」に似ていた。「石棒」(重文)は男性性器をかたどっている。生産の豊穣を祈る祭器である。「国生み神話」を思い出した。

 

一万年以上前に造られたものではあるが、時間を超えた感動を与えるのが縄文文化であると実感した。今日このような迫力のある芸術作品はあるであらうか。

 

この『縄文展』では、日本の天地自然には神が生きていたまうということを実感した。そして日本国の生成は、まことに麗しい歴史であることを実感した。神々への祭りと祈りが国家生成の根本になっていることを実感しました。太古の日本人は、豊かなる日本の自然と共に生き、自然に宿る神々を祭り、神々に祈りつつ生きていたと思う。神国日本というのは決して嘘ではない。

 

 

 

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2018年6月17日 (日)

『さゞれ石―佐々木誠の木彫展』を参観して

本日参観した『さゞれ石―佐々木誠の木彫展』は、「天神地祇という言葉が、佐々木誠氏のこれまでの作品名に幾つか見られる。皇祖たる天神(あまつかみ)系氏族と、土地の守、氏神たる地祇(くにつかみ)系氏族―それらは太陽(/あま)と土・水(地、海/あま)との関係にも置き換えられる―の調和と統合ゆえに、日本の歴史の連綿―さゞれ石のごとくーはある。こんにち文明間の衝突は、ここに回避の知恵もあろうが、それは久しく覆い隠されているかのようだ。佐々木氏の仕事は、その知恵を顕現させることにもなるのではないか。作品から滲む敬虔さと、頂門の一針たる絶対的ちから、そして、『代()くだれりとて自ら苟(いやし)むべからず。天地の始は今日を始とする理なり(神皇正統記)』―氏はかつて正統記の一文を展覧会タイトルとした―とのやむにやまれぬ決意をもって」(田中壽幸氏が書いた推薦文)との趣旨で開催された。「久延毘古(くえびこ)」「沙々禮石(さゞいし)」「鏡」などの作品を参観。

 

日本の神話や歴史精神を制作の源泉とする木彫作品であり、迫力がある。「鏡」という作品はそのままご神体と思えるようであった。どの作品も神秘的力というか霊力を発散しているように感じられた。

 

佐々木誠氏は、昭和39年東京生まれ。日本神話から造形をイメージし制作を続けている彫刻家。これまで、「彫刻創型展」で文部大臣賞「彫刻創型展」で創型会賞を受賞し、湯島の羽黒洞で「祖形-ヒトガタ-」展などを開催した。小生が講師を務める『萬葉古代史研究会』にも参加しておられる。

 

佐々木誠氏も「やまと歌」を詠まれる。『さゞれ石』と題する佐々木の長歌を紹介する。

 

「奉祷 皇國彌榮 

苔むせる 巖(いは)が根響(とよ)み かぎろひの 磐(いは)さけ耀(ひか)り 靈(たま)(ゆら)ぐ 稜威(いつ)の神さび 凝(こゞ)しかも さゞれ石(いは)は 天地の 神祇(かみ)の氣吹(いぶき)ぞ あやに畏し

反歌

さゞれ石 むすぶ祈りは 皇神(すめらぎ)の 御代の榮えを 萬代までに」

 

日本の傳統信仰・神話と「やまと歌」を根幹にした魂の籠った彫刻を創作している人はそれほど多くはないと思う。有難いことである。

 

田中壽幸氏は推薦文で「天神地祇」について書かれてゐる。日本民族は太古より「天地の神」を信仰して来た。わが國の神は、根源は一つであるが、天の神・地の神、陽の神・陰の神に、ご使命・ご系統が分かれてゐる。

 

 

 

 天照大神の系統の神様が天の神である。天照大神の御孫であらせられ、地上に天降られて地上を統治される神が、皇室の御祖先である邇邇藝命である。また、天照大神の弟君である須佐之男命の子孫の神が國土の神であり邇邇藝命に「國譲り」をされた大國主命である。そして、神武天皇をはじめとした御歴代の天皇は、天の神・地の神の霊威を身に帯びられて國家を統治されて来てゐる。

 

 

 

 全國各地に、天照大神をお祀りした神社、須佐之男命をお祀りした神社が数多くあ鎮座してゐるやうに、わが國民は、天の神・地の神(天神地祇)を共に敬って来た。農耕生活を営む上において、天の恵み(太陽)と地の恵み(土と水)は欠かすことができないので、わが國の祖先は天神地祇を篤く信仰したのであらう。

 

 

 

 「天神地祇」と言ふやうに、日本人は、天の神・地の神を対立して考へず、一体のものとしてとらへた。天の神・地の神として全てを包み込んでしまひ、漏れ落ちることがないといふのが日本人の伝統信仰である。

 

 

 

 地の神である須佐之男命も、天の神である天照大神の弟神であられる。天の神も地の神も根源的には姉と弟であり一つなのである。

 

そして、須佐之男命は、天照大神に反抗されて高天原で大暴れするけれども、出雲の國に天降ると、豊饒の神となって、民を助ける。日本人は「天と地」・「善と悪」を厳しく峻別するといふ考へ方はなく、「悪」も見直し・聞き直しをすれば「善」となるといふ寛容にして大らかな精神を持ってゐる。

 

 

 

 キリスト教などの一神教では天と地とは隔絶した存在であり、人間がこの世から天國へ行くのは簡単ではない。イエス・キリストを神の一人子として受け容れ、信仰し、他の宗教を捨て、原罪を悔い改めなければならない。

 

 

 

 しかし、わが國の伝統信仰においては、天と地とは隔絶した存在ではないととらへてきた。わが國が四方を海に囲まれてゐて、水平線をよく見ることができる。水平線の彼方は海と空とが一体になってゐる。故に空のことも「天(アマ)」と言ひ、海のことも「アマ」と言ふ。日本人は、天地は一如であると観察してゐたのである。

 

 

 

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