2017年1月22日 (日)

徳川光圀の尊皇精神 

 

徳川光圀は水戸藩第二代藩主。寛永五年(一六二八)に生まれ、元禄十三年(一七00)に没している。家康の孫である。

 

 光圀は明暦三年<一六五七>に歴史書・『大日本史』の編纂を命じた。完成したのは明治三十九年<一九0六>である。『大日本史』は、神武天皇から後小松天皇までの國史を漢文の紀伝體(歴史記述法の一つ。本紀(ほんぎ) ・列伝などの別を立てて記す)で編述し、その大義名分論に基づく歴史観は幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えた。編纂には二百五十年の歳月を費やして明治の御代になって完成した。紀伝、志表合せて三百九十七巻、目録五巻、計四百二巻。長年月に亘って、父祖の業がかくの如く継承されたことは、古今東西未曾有のない驚異的なことである。

 

 『大日本史』編纂は、一つの著述というより一つの學派の形成と言っていい。しかもそれは経済的にも大事業であった。光圀はそのため二百名以上の學者を四百石から百五十石くらいの禄で抱えた。

 

 ただし、『大日本史』の修史(歴史の編集)の方法は、支那の朱子學(朱子が大成した儒學。格物致知<物の道理をきわめつくして、自分の後天的の知をきわめること>を眼目とする実践道徳を唱えた)の史観の強い影響下にあった。『大日本史』が神武天皇の御代から始まり、神代のことが記されていないのは、「實に據って事を記す」という史観の建て前からで、「記紀」の神代の記述を史実と認めることができないという理由に基づいたと言われている。

 

 また明治維新の思想的原動力の一つは『楠公精神』(楠正成の勤皇精神とその行動)である。楠公崇拝の機運が高まったのは、徳川光圀が湊川に『嗚呼忠臣楠子之墓』と刻された石碑を建てたことが、与かって最も力があった。

 

 さらに光圀は、幕府に対して天皇御陵の修復を進言した。元禄及び享保の時代に幕府が幾分御陵修復を行ったのは光圀や柳沢吉保の進言によったものという。斉昭は光圀の志を継承し、天保四年(一八三三)藤田東湖の妹婿・桑原信毅を京都に送り、山陵調査に当たらしめている。斉昭は鷹司関白や幕府に対し、山陵修補を促した書簡を多く送っている。しかし幕府の対応は冷淡であった。水戸徳川家の尊皇精神は理論だけでなく実行を伴っていたのである。

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2017年1月18日 (水)

繼體天皇の御即位について

何とかして日本皇室の萬世一系・皇統連綿の伝統を否定したい反日歴史学者は、いろいろ想像を逞しくして、わが國古代に王朝の交替があったと主張する。そして葛城王朝・三輪王朝・河内王朝などという「王朝」なるものを設定している。

 

しかし、葛城氏や蘇我氏の権勢が強かったとしても、それは天皇の権威を背景としたものであった。

 

皇統の断絶が案じられた武烈天皇崩御の時も、大伴氏や物部氏という大臣・大連は、大きな権勢を持っていたのであるから、支那などであれば自ら王位を狙い新たな王朝を立てることはできた。にもかかわらず、わが国においては、応神天皇五世の御子孫男大迹尊(おおどののみこと)をお迎えして天皇の御位について頂いた。この事実は、当時すでに萬世一系皇統連綿の道統が継承され続けたことを証ししている。

 

また、『日本書紀』には先帝・武烈天皇の「無道の所業」が記されている。そして、武烈天皇には皇子がおられなかった。にもかかわらず、大和朝廷の打倒すなわち「易姓革命」という事態にならず、皇統に属する方を求めて、皇位をお継ぎ頂いた。これは、萬世一系・皇統連綿の道統が正しき継承され揺るがなかったことを証ししている。 

 

支那などの外國ではこういう状況下では革命が起り、臣下の中から力のある者が王者となり新しい王朝が建てられるのが常である。支那においては「有徳の人物」が天命を受けて「てんし」になるのであり、天子が徳を失えば位を他の人に譲らねばならなかった。これを「易姓革命思想」(支那古来の政治思想。徳のある者が徳のない君主を倒し、新しい王朝を立てること)・「有徳王君主思想」という。

 

しかし、わが國においては、こうした革命思想は最初から排除されていた。いかなることがあっても天皇・皇室打倒の革命は起らず、たとえご縁が遠くなっていても、皇統に属する御方に「天皇」の位についていただいた。

 

つまり、繼體天皇の御代において「日本の天皇(スメラミコト)になられる方は、天照大御神の「生みの御子」たる邇邇藝命、そしてその御子孫たる人皇初代・神武天皇の皇統に属する方でなければならない、という道統が継承され確立していたのである。

 言い換えると、わが國にはどのような事態になろうとも、天皇・皇室を排除して自分が日本國の支配者・統治者になろうとする者はいなかったのである。

 

わが國は、天皇を天照大御神の生みの御子=現御神と仰ぐ。どこまでも皇祖天照大御以来の皇統に属する御方に皇位を継承していただいてきたのである。それは古代から今日にいたるまでのわが國の揺るぎない道統である。

 

「皇室典範」改定・皇位継承は、外来思想に拘泥されることなく、あくまでもわが國の歴史と伝統に基いて行なわれなければならない。祭祀國家の祭祀主たるスメラミコトの御位即ち「天津日嗣の高御座」の御継承は、祭祀主・上御一人の大御心に従い奉るべきである。権力機関である衆参両院や政府が決めるべきではない。

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2016年12月25日 (日)

天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體國家日本の本質

 日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

 したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國でもない。さらに、世界の多くの國々のやうな征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

 

 日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊んだ。そして、古代日本人は太陽神・天照大神を最も尊貴なる神として崇めた。

 

 天照大神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる天皇は、天照大神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。そして、天照大神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。

 

 そして、祭り主たる天皇を、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者として仰いだ。

 

 つまり、古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。つまり、古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體(神の國)なのである。

 

 天皇による日本の祭祀的統一といふ歴史を背景として成立した『日本神話』には、天皇の御祖先である邇邇藝命が高天原から地上に天降られる時に、天照大神からの御命令(御神勅)が下されたと記されてゐる。

 

 それには、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ皇孫よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の靈統を継ぐ者が栄えるであらうことは、天地と共に永遠で窮まりないであらう、といふほどの意)と示されている。

 

 さらに、「吾が高天原に所御(きこしめす)斎庭の穂(いなほ)を以ちて、また吾が兒(みこ)に御(まか)せまつるべし」(私の高天原に作っている神に捧げる稲を育てる田の稲穂を私の子に任せよう、といふほどの意)といふ御命令を下された。

 

 天孫降臨神話の意味するところは、穀物を實らせる根源の力である太陽神の靈力を受けた天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(アメニギシ・クニニギシ・アマツヒコ・ヒコホノ・ニニギノミコト)が、地上に天降り稲穂を實らせるといふことである。それがわが日本の始まりなのである。そして、天照大神の神靈をそのまま受け継がれた「生みの子」たる邇邇藝命及びその御子孫が永遠に統治される國が日本であるといふことを端的に表現してゐるのである。

 

 天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命という御名前は、「天地に賑々しく實ってゐる太陽神の御子であり立派な男児である稲穂の靈の賑々しい命」といふほどの意である。邇邇藝命とは、太陽神の御子であるとともに稲穂の神の神格化である。この國の人々の生命の糧である稲穂が毎年豊かに實るやうに、といふ古代日本人に共通する切なる願ひが天孫降臨神話を生んだのである。   

「日の御子」は日本の祭祀と政治と軍事を統べる最高のお方

 

 『魏志倭人傳』には、「一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事へ、能(よ)く衆を惑す」と書かれ、古代日本に祭祀主としてヒミコ(日の御子)といふ女王がをられたと記されてゐる。

 

 『魏志倭人傳』とは、支那の『三國志』のうちの『魏書東夷傳』の中の倭人(日本人のこと)に関する約二千字ほどの記事のことである。ここに書かれてゐることは古代日本の史實そのままではない。三世紀前半に日本に渡来した支那人(魏の國の人)の見聞に基づいてゐるらしく推測される。しかし、その頃の日本の九州(筑紫)に来た支那人が「水行十日陸行一月」の遠隔地即ち大和地方のことを傳聞したことをもととしてゐるといふ。ゆゑにその頃のことをいくらか反映して記されてゐると思はれる。          

 

 古代日本の「祭祀」を「鬼道」などと蔑視し、祭り主たる「日の御子」に「卑弥呼」(いよいよ卑しいと呼ぶ)などといふ侮蔑的な文字が当てられてゐるが、「日の御子」とは、太陽神の御子といふ意味である。そして神を祭り、神の意志を民に傳へ、民の願ひを神に申し上げることのできる靈能を有する人が、政治的統治者となったのである。「日の御子」は古代日本の祭祀と統治と軍事を統べる最高のお方なのである。

 

 そして「日の御子」は太陽神を地上においてそのまま體現される御方であるから、現御神(現實に現れた神)と仰がれることになったのである。

 

 このやうに、三世紀の日本は既に天皇・大和朝廷によって統一されてをり、天照大神信仰・現御神日本天皇仰慕の心による中核とする信仰共同體としての國家の統一が成立してゐた。大和や河内などにある天皇陵をはじめとした多くの古墳は、信仰共同體の精神的エネルギーの結晶である。祭り主天皇の神聖なる権威を崇める心が美しい前方後円墳を作り出したのである。

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2016年11月19日 (土)

『大日本帝国憲法』第一条について

伊藤博文は、その著『憲法義解』において、「恭て按するに天皇の宝祚は之を祖宗に承け之を子孫に伝ふ国家統治権の存する所なり而して憲法に殊に大権を掲けて之を条章に明記するは憲法に依て新設の義を表するに非すして固有の國体は憲法に由て益々鞏固なることを示すなり」と論じた。

 

天皇の国家統治の大権を成文憲法に明記するのは、「新設の義を表するに非すして固有の國体は憲法に由て益々鞏固なることを示すなり」と論じてゐるところが大事である。天皇は、「成文憲法」に基づいて国家を統治されるのではないことを明確に示したのである。

 

「第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」

 

この条文について伊藤博文は、「皇統一系宝祚の隆は天地と与に窮なし本条首めに立国の大義を掲け我か日本帝国は一系の皇統と相依て終始し古今永遠に亘り一ありて二なく常ありて変なきことを示し以て君民の関係を万世に昭かにす。統治は大位に居り大権を統へて国土及臣民を治むるなり古典に天祖の勅を挙けて瑞穂国是吾子孫可王之地宣爾皇孫就而治焉と云へり」と論じ、天皇の国家統治は、『天壌無窮の御神勅』に基づくことを明示した。

 

『大日本帝国憲法』において「しらしめす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いた。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

 

 

「治める」ということについて大原康男氏は「『ヲサ』『ヲサム』を『すべて散在してるものを一つにまとめること、或ははなれてゐるものを一つにすること』とする…『乱れた糸の筋を揃え、秩序正しく物みなその所を得る』という意義を有する漢語の『治』と『正しい位置を与える』意のregieren床の『をさむ』は、語義において相通ずるものをもっているといえよう。『ヲサム』は『一定の階層秩序と強制の体系』を内容とする普遍的“統治”概念語であるということができる」(現御神考試論)と論じておられる。

 

すなわち、天皇が日本国を治められるのは、日本国の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものにその所を得さしめることなのである。明治天皇の『天下億兆一人も其處を得ざる時、皆朕が罪なれば、…』(明治元年三月十四日に示された『明治維新の御宸翰』)という御精神こそ天皇統治の本質であると拝する。

 

さらに明治陛下はその御宸翰で、『朕身骨を労し心志を苦め艱難の先に立、古(いにしえ)列祖の盡させ給ひし蹤(あと)を履み治蹟を勤めてこそ始て天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし』と仰せになっている。

 

日本天皇は、『朕は国家なり』と言うような国家国民を私物化する西洋的な絶対専制君主とは全くその本質を異にする。日本天皇は天津神の御委任により「天職を奉じて」日本国に君臨されているである。故に天皇は常に無私の心で統治されるのである。無私の心とは神の御心のままということである。さらに御歴代の天皇の踏み行われた道を継承されることを心がけられるのである。そのことがそのまま億兆の民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となるのである。

 

明治天皇の外祖父中山忠能前権大納言は、明治天皇御即位に当たって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、…」と言上したという。

 

天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではないのである。日本天皇の無私の精神および神聖なる権威はかかる御精神から発生するのである。

 

支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらえ、天子たる皇帝はは民衆を上から見下ろし支配すると考えている。しかしわが国においては、天子たる天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、天皇は一大家族国家の中心であると考えている。簡単に言えば支那においては天子は権力と武力によって国民を支配し、日本においては天皇の信仰的権威によって国民を慈しむのである。この違いは支那と日本の国家の成り立ちとその後の歴史の違いによると思われる。 

 

天皇が日本伝統信仰的中心者として君臨するということは、現実政治に全く関わりを持たれないということではない。むしろ無私にして清らかな天皇の御存在が国家の中心にいまし、常に国家の平安と国民の幸福を神に祈る祭祀を続けられているということが、政治のみならず日本国のあらゆる物事の安定と調和と統一の核となり、道義性の維持の基となって来た。その尊い事実が天皇の国家統治そのものなのである。

 

混迷の極にある現代日本を救うには、統治者としての天皇の御本姿を回復することが大切であると考える。復古即革新=維新とはそういうことを言うのである。 

 

ともかく井上毅・伊藤博文などの先人たちは、日本の國體を根幹としつつ近代成文憲法を実に苦心して作りあげたのである。大日本帝国憲法は決してドイツから輸入した翻訳憲法ではなかったのである。大日本帝国憲法は、明治維新の輝かしい歴史の所産であり、日本国民の政治的良識の結晶であった。

 

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2016年11月11日 (金)

国学について

 

 日本民族の倫理精神と日本の国の歴史と文学を研究し、結合した学問を築こうとする学問が、国学である。そしてその学問は徳川時代中期に発生し幕末という国難の時期に大成した。外圧という有志以来未曾有の危機をどう打開するかという情熱・慷慨の志の上に立っている学問であって単なる知識を求める学問ではない。実行と変革を目指す学問である。もっとも日本らしい学問といっていい。

 

 日本民族の生活を対象とし、日本人の生活の奥底に流れている倫理観というか道義精神というものを探求する学問が国学である。つまり日本の文学・歴史・国語の中から理想を見出し、さらに理想を今日において実現しようとするのである。

 

 しかもその理想は日本一国に限定されるものではなく、世界に通用する理想として学問的に樹立しようとしたのである。国学が外国からの侵略をどう防ぐかという国家的状況の中で生まれた学問だからそれは当然のことであろう。つまり、日本の伝統的な精神によって世界に寄与しようという広大な精神によって打ち立てられた学問が国学なのである。そういう意味で、国学は日本の独自性を探求する学問であると共に、その普遍性をも目指したといっていい。

 

 理想を求めるということは、現状の変革を目指すということである。ゆえに、国学は変革の学問である。実際国学は水戸学と共に明治維新の変革の原理となった。

 

 国学が日本人の生活の奥底に流れている倫理観というか道義精神というものを探求しようとしたということは、言い換えれば、日本の『道』を求めたということである。神話の世界から発する日本民族の『道』というものを探求した学問が国学なのである。その『道』とは、古代日本人の生活における「しきたり」といってもよいかもしれない。国学はそうしたことを対象とする学問である。

 

 神話の世界から発する日本民族の『道』は、今日、「神道」という言葉で表現されている。神道とは、日本本来の信仰精神・生活規範であり、国学はそのことを学ぶのである。日本民族のみならず世界各民族の文学も芸術も道徳もそして生活全般も、その民族の信仰生活がその起源となっている。

 

 近世国学者は、抽象的・概念的な考え方に陥った儒教や仏教の教条万能・議論偏重の思想傾向を排撃した。そして素直なる心を持って我らの祖先の行いを見、自分もそれに身を以て実行しようという志を持つ生活観を持つべきだと主張した。 

 

 それでは、国学における「道」、「神道」の「道」とはいかなる道であろうか。それは「教条」や「掟」ではない。「神のみ心のままに行う」ということである。日本の神の「行い」をそのまま踏み行うことである。

 

 小林秀雄氏は次のように論じておられる。「『道といふこと』とは、論(あげつら)はうにも論ひやうもない、『神代の古事(ふるごと)』であった。『古事記』といふ『まそみの鏡』の面にうつし出された、『よく見よ』と言ふより他はない『上つ代の形』であった。…『上つ代の形』とは、たゞ『天つ神の御心』のまゝであらうとする、『上つ代』の心の『ありやう』、『すがた』た他ならず…。」(『本居宣長』)

 

 つまり、神のみ心のままであろうとする「かたち」の継承が「道」といっていいのかもしれない。

 

 日本語には古来、西洋でいう「知識」とか「認識」という名詞は存在しなかったという。日本人は、単に知識を求めたのではなく、「道」を求めたのである。それが日本の学問だったのである。「道を学び問う」事を大切にしたのである。

 

 「道」とは人が歩む道である。人が歩むという具体的な行いが、学問という精神的な事柄を言い表す場合にも用いられたという事は、日本人はそれだけ「実践・行い」ということを重んじたということである。具体的に道を歩むという行いの姿を以て精神的な道を探求することを表現したのである。知行合一の『陽明学』が日本人に好まれたのはこういうことが原因になっているのかもしれない。

 

 日本民族は、思想や精神を理屈として言挙げしなかった。『日本思想とはこういう思想である』と説明しがたいから、理解に苦しむという人が多い。しかし、日本の思想とは「道」であるから、日本の文芸や武道や茶道などあらゆる行為に自然に現れているのである。言葉で説明できる思想精神はそれだけ狭く限定されたものである。

 

 したがって、日本の道すなわち倫理精神・信仰精神は、教条的な形で理論として伝えられているのではなく、言葉の芸術である文芸(和歌や物語)によって伝えられている。『萬葉集』はその典型である。

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2016年10月23日 (日)

日本國家・日本傳統文化は、人類の理想の日本における顕現である

 麗しき國日本は、村落共同體から出発して、次第にその範囲を広め、日本という國家を形成した。その本質は、地縁・血縁によって結ばれただけでなく、稲作生活から生まれた祭祀を基本とする傳統信仰によって結合している共同體である。その信仰共同體の祭り主が天皇(すめらみこと)なのである。故に日本という國とはいかなる國であるかと問われれば、「天皇中心の信仰共同體である」と答えるのが正しいのである。

 

 我々日本人が理想とする國家とは、麗しい天皇中心の信仰共同體とこれを統治する政治機構が包含され一體となったものである。    

 

 國家が、暴力装置・支配と被支配との関係の機関的存在であるとして扱われ、國家に對する愛が薄れ共同體意識が無くなりつつある現代において、このことを正しく認識することは非常に重要であり最大の課題であると言える。

 

 今日、グローバリズムという言葉があるように國家とか民族を軽視あるいは否定する傾向が現れている。しかし、世界・地球・人類に共通して存在する思想・精神は、それぞれの國家・民族固有の思想・精神として発現する。言語一つとって見てもしかりである。世界共通語などというものは本来存在しない。各民族・各國にそれぞれ特有な言語すなわち國語がある。英語が世界で通用している便利な言葉だからといって、英語だけに世界の言語が統一されることはあり得ない。

 

 一定の共同體を形成する人々に共有される言語、生活様式、倫理観を総称して「文化」というのであり、固有の文化を共有する人々のことを「民族」と言うのである。

 

 言葉は文化そのものである。國家・民族は共通の言語(國語)を使う者によって成立する。各國各民族の國語を基礎とし言葉と一體である文化は、各民族・各國家特有のものとして創造され継承されてきている。各民族・各國家の固有の文化を否定することは、世界の文化・地球の文化全體を否定することになる。

 

 和辻哲郎氏は、「人倫の實現は、個人がいきなり抽象的な人類の立場に立つことによって、なされ得るものではない。それは個人がいきなり人類語を話そうとするようなものである。人倫は常に一定の形態を持つ共同體において、すなわち家族とか民族とかの形態において、實現される。」(近代歴史哲學の先駆者)「絶對精神がただそれぞれの特殊な民族精神としてのみ働くということ、すなわち特殊的形態において己を現わすのではない普遍的精神というごときものは抽象的思想に過ぎぬ。…真の絶對者はあらゆる特殊相對をも己とするものでなくてはならない。…生ける主體的全體性が特殊的民族的となることなしに活動したことは、かつて一度もなかったし、またあり得ぬであろう。」(続日本精神史研究)と論じている。     

                        

 人間は、民族とか國家とかを離れて存在するものではない。必ず何処かの民族に属し何処かの國の國民である。抽象的な世界人類というものは存在し得ない。血統・風土・地域性・言語・歴史・傳統・文化というものを離れた人間などというものは存在し得ないからである。

 

 日本國家・日本傳統文化は、人類の理想の日本における顕現なのである。天皇國家日本の真姿顕現こそが世界的理想國家・真の自由なる國家の建設である。日本國に日本民族として生を享けた誇りと喜びを回復しなければならない。       

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2016年10月17日 (月)

天皇を祭祀主・君主と仰ぐ信仰共同體國家日本

 

 日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

 したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

 

 日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大御神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊ばれた。そして、古代日本人は太陽神・天照御神を最も尊貴なる神として崇めた。天照大御神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。

 

 天照大御神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる日本天皇は、天照御神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。祭り主たる天皇は、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者・君主として仰がれた。

 

 古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

天皇国日本は、そこに住む人々の共同の意識・倫理観・信仰精神と共にある。祭祀主たる天皇は権力者でもないし権力機関でもない。その共同体に生活する国民は、天皇の大御宝と尊ばれ、神の子として育まれ、美しいものへの憧憬憬の心を育てられて生きてきた。

 

その信仰共同体としての国は、母なる大地であり、まさに祖国であり母国である。日本国は、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されてゐるのである。

 

祭祀主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理即ち現御神であらせられるのであって、國民が作った成文法によって制限され、規制される存在ではない。

 

伊藤博文は、明治十五年の岩倉具視宛の書簡で、「…我皇室の如きは、二千五百有余年、邦国の体裁を固定せざる以前に於て、既に君主の地位を占む。豈に国憲を定め国会を起すの時に至り、始めて君主たる事を認めらるゝを俣たんや。」(『伊藤博文傳』中巻)と書いてゐる。

 

成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇國日本の道統を破壊したり否定した制約したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇國日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。戦勝國によって押し付けられた『占領憲法』の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない。天皇の「詔」「大御心」が最高最尊の「法」である。「成文憲法」は「権力の制限規範である」と言はれる。であるならば、「國政に関する権能を有しない」とされる天皇が、『現行占領憲法』の制約を受けることはあり得ない。

 

 ともかく日の神を祭る祭祀共同体が我が国の起源であり本質である。権力・武力によって統一されたり建国された國ではないのであるから、欧米の諸国家とはその成り立ちが全く異なるのである。ゆゑに、欧米国家観によって我が國體を規定してはならない。

 

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2016年10月15日 (土)

天皇と国民と国土は霊的・魂的に一体の関係にある

日本国家の神話的起源思想の特色は、国家成立の三要素たる君主、国土、人民が、神霊的・血統的に一体であるところにある。即ち「皇祖神たる天照大神」と「国土」と「国民の祖たる八百万神」が、伊耶那岐命・伊耶那美命から生れでた「はらから」といふ精神にある。

 

『古事記』の「国生み神話」には次のやうに語られてゐる。伊耶那岐命は伊耶那美命に「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(註・かれ。だからの意)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に、刺し塞(ふた)ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまふた。

伊耶那岐命が「国土(くに)を生みなさむ」と申されてゐるところに日本神話の素晴らしさがある。中西進氏は、「(世界各地の神話は・註)人類最初の男女神は、人間を生んでいる。國を生むのではない。ところが、日本神話ではそれが國生みに結び付けられ、国土創造の話に転換されている。これは日本神話の特色で…」(『天つ神の世界』)と論じられてゐる。

 

岐美二神は、単に大地の創造されたのではなく、国土の生成されたのである。太古の日本人は劫初から、国家意識が確立してゐたのである。世界の他の国よりも我が国は国家観念が強かったといへる。この場合の「国家」とは権力機構としての国家ではないことは言ふまでもない。

 

岐美二神はお互ひに「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」(『本当にいい女ですね』『本当にいい女ですね』)と唱和されて、国生みを行はれた。二神の「むすび」「愛」によって国土が生成されたのである。国土ばかりではなく、日本国民の祖たる八百萬の神々もそして自然物も全て岐美二神の「むすび」よって生まれたのである。日本神話においては、天地が神によって創造されたのではなく、岐美二神の「愛・むすび」によって国土が生まれたのである。日本といふ国家は、人の魂が結び合って生まれてきた生命体なのである。日本民族の農耕を中心とする伝統的生活のから培はれた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命体が日本国なのである。そしてその〈むすび〉の中核が日本伝統信仰の祭祀主である天皇である。これが「祭祀国家」「信仰共同体」としての日本なのである。

 

「むすび」の語源は、「生()す」である。「草が生す」「苔が生す」といはれる通りである。つまり命が生まれることである。故に親から生まれた男の子を「むすこ」(生す子)と言ひ、女の子を「むすめ」(生す女)と言ふのである。

 

「むすび」とは命と命が一体となり緊密に結合することである。米のご飯を固く結合させたものが「おむすび」である。そして日本伝統信仰ではその米のご飯には生命・魂が宿ってゐると信じてきた。

 

「庵を結ぶ」といふ言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集めこれらを結び合はせて作られた。結婚も男と女の結びである。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」と言ふ。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。日本の家庭も〈むすび〉によって成立しているのである。日本国土は、伊邪那岐命と伊邪那美命との「むすび」によって生成されたのである。

 

『古事記』にはさらに、「伊耶那伎大神…筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。…左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照大神」と語られてゐる。

 

皇祖神であらせられる天照大神は、伊耶那伎大神から生まれた神なのである。つまり、国土自然の神々、日本国の君主であらせられる天皇の祖先神たる天照大神も、日本国民の祖たる八百萬の神々と同じく伊耶那伎大神から生まれたのである。

 

日本神話では、神と、国・自然・人間は相対立し支配被支配の関係にあるのではなく、同じ神から生まれ、生命的・霊的に「はらから」の関係にあるのである。これが我が国太古からの国土観・人間観・自然観である。

 

ここに日本神話の深い意義がある。神と人とが契約を結び、神は天地と人間を創造し支配するといふユダヤ神話と全く異なる。

 

この神話物語は、日本国においては、君主と国民と国とは対立関係にあるのではなく、同じ神から生まれた「はらから」の関係にあることを示してゐる。

 

村岡典嗣氏は、「(国家の神的起源思想の特色として・註)国家成立の三要素たる国土、主權者及び人民に對する血族的起源の思想が存する。即ち皇祖神たる天照大神や青人草の祖たる八百万神はもとより、大八洲の国土そのものまでも、同じ諾册二神から生れでたはらからであるとの考へである。吾人は太古の国家主義が実に天皇至上主義と道義的關係に於いて存し、天皇即国家といふのが太古人の天皇觀であったことを知る。皇祖神が国土、人民とともに二神から生れ、而も嫡子であると考へられたのはやがて之を意味するので、換言すれば天皇中心の国家主義といふに外ならない。」「日本の國家を形成せる國土(即ち大八洲)と元首(天照大神)と、而してまた國民(諸神)とが、同じ祖神からの神的また血的起源であるといふことである。」(『日本思想氏研究』四)と論じてゐる。

 

国家成立の三要素たる国土・君主・国民は、伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在であり、命の源を一つにする「はらから」である。天皇と国民と国土は霊的・魂的に一体の関係にある。天皇と国民と国土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。霊的魂的に一体の関係にある。これを「君民一体の国柄」といふ。

 

神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。また、神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。わが国は、信仰的・祭祀的統一によって形成された国家である。そしてその祭祀主が天皇であらせられるのである。

 

祭祀国家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本国の本質であり、日本國體の尊厳性なのである。わが國體が万邦無比と言われる所以もここにある。

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2016年10月 6日 (木)

欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という思想は、日本の國體を破壊する

 日本國體は、「一君万民・君民一体」である。天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体であるということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が國體に合致しない。

 

 「現行憲法」を国会で審議した時、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

 

 「国民主権」の規定を審議した帝国議会では、政府は、「主権」とは「国家意思の実質的源泉」であり、「国民」とは「天皇を含む国民協同体」を指すとしていた。そして芦田均衆議院憲法改正案特別委員長は、欧米の「君主主権」と「主権在民」を対立的に捉えた主権二元論は、わが国においては採り得ないことを特に強調している。

 

 ところが宮沢俊義氏をはじめとした曲学阿世の憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張し、今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されている。今日の多くの「憲法改正試案」もこの考え方に沿っている。

 

そして、皇位の改廃は人民の意思によって可能なのであり、先の今上天皇の御即位に際してはその是非を国民投票に問うべしとする歴史学者まで現れた。わが国は君主国にあらずとか、元首は天皇にあらずとする珍説が学界に横行しているのが現状である。

 

 このような混乱の原因は、もともと多岐にわたる主権概念を憲法規定に持ち込んだことにある。この規定が被治者である個々の国民が主権者であるかのごとき誤解を与えている。「主権」の属性としての最高性、無制限性が言われる時、それは容易に伝統を無視した独裁専制に転化し得る。

 

 主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。旧ソ連も共産支那も北朝鮮も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか個人専制恐怖政治が行わている。

 

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 日本では古来主権という言葉はなく、国家における政治作用の根本を言い表す言葉は「知らす」ないし「治らす」であり、言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。「帝国憲法」ではこれを統治権という言葉で表現した。

 

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説は、すなわちこれであった。

 

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達したのであるが、広く世界に及ぼしたのである。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然と言えよう。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたのである。いずれにしても国民主権・君主主権という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本の伝統の天皇の国家統治の実相、日本国体とは全く異なる概念であり法律用語である。

 

 国民主権ということが国民一人一人が主権者だとすれば、日本には一億二千万人に主権者がいることになり、国家の意思はばらばらで、あたかも精神分裂症患者のようなもので、国家としての体をなさない。

 

 西洋流の国家観によれば、君主主権と国民主権とは相対立するもので両立し得ない観念である。君主と人民との闘争に終始した西洋の歴史からすれば、これは当然のことと言えよう。西洋の国法学説は、この観点に立って展開されてきたのである。

 

 西洋の国法学説でいう主権とは、近代中央集権国家がフランスに初めて成立する過程において国王の権力の伸長を国内外に主張し、絶対王政を正当化するための理論的武器となったものである。それは「朕は国家なり」という言葉でも明らかな如く、国王は何ら制約を受けない最高絶対の権力者とされ、国民は国王に信者の如く絶対服従するものとされ、国王と国民とは二極の対立概念として理解されているのである。

 

 西洋の国民主権論は、もっとも徹底した「反君主制」の理論として確立されたのである。そしてかかる反君主制の思想が、敗戦後戦勝国によって憲法の中に盛り込まれたのである。まさに國體破壊である。

 

 こういう史的・思想的背景を持つ西洋の主権概念は、日本国体とは絶対に相容れない。なぜなら日本では、古来西洋のような闘争の歴史は無かったからである。日本の歴史と伝統は、天皇を中心として君民一体となって民族共同体・信仰共同体を形成し発展させてきた。天皇と国民、国家と国民の関係は、相対立するものではなくして、不可分一体の関係にある。天皇主権と国民主権を、氷炭相容れない対立関係と見るのは、西洋流の考え方に立っており、日本の伝統とは相容れない。

 

 我々がここで確認しておきたいことは、国民主権は決して人類普遍の原理ではないということである。前述したように、国民主権という考え方は国王・皇帝と国民が対立し抗争した歴史を持つ西洋諸国の考え方である。十七世紀のヨーロッパにおける国王と人民との争いの中で、ルソーが理論化した考え方が国民主権であるといわれている。国王の権力の淵源は国民の委託にあるのだから国民に主権があり、国民の意向に反する君主は何時でも打倒できるという考えである。

 

 主権という言葉は西洋の国法学の影響により、国家における最高の政治権力と一般に解せられており、権力至上主義の臭みが濃厚である。しかしこれは、わが国の歴史と伝統に全く相容れない。

 

 日本国は欧米の国家のような契約国家ではなく、信仰共同体であり、民族共同体である。日本天皇の統治の伝統は、神聖なる御存在であらせれる日本天皇の仁慈の大御心である。決して権力ではなかった。

 

日本國體の特質は次の二点に要約されよう。

 (一)、日本は建国以来天皇を中心として全国民が統合され、同じ運命、同じ使命を担う民族共同体・信仰共同体として生成発展してきたこと。

 (二)、天皇と国民との関係は、天皇の権力支配によって成り立っているのではなくて、君民一体、君民一如、一君万民の歴史的、精神的、倫理的つながりを不可欠の内容としていること。

 

 「現行憲法」や各種の憲法改正試案における国民主権は西洋的意味で用いられており、日本国体の道統と相反するものである。

 

 美濃部達吉氏はその著『憲法概論』において、国民主権を定義して、主権は国家意思を構成する最高の源泉であり、その源泉を国民とすると「国民主権」となり、この源泉を天皇とすると「天皇主権」となる、と論じている。しかし、日本においては天皇と国民は、権力的・政治的に対立する存在ではなく、信仰的・精神的に一体の存在だったのである。それを敢えて相対立する存在ととらえて、国民主権をわざわざ第一章に置くというのは、国体破壊・伝統無視につながる。

 

 「国民」とは国の伝統をその感性と理性の双面において継承する人々の集合体のことであり、この集合体のうちに蓄積されていると考えられる伝統精神が法に根本規範を与える。即ち日本國體の基盤の上に成文憲法が成立するのである。

 

 「主権」は「なにものにも制限されることのない最高権力」であり、歴史のうちに蓄積されていく根本規範そのものにある、という考え方がある。知性においても徳性においても不完全たるを免れ得ない国民が主権を持つというのは衆愚政治への危険が伴う。

 

 伝統を貫き根本規範を完全に具現している人々という意味における「国民」ではなく、今日ただ今実際に生存している人々という意味における「国民」に主権が存するとする「現行憲法」や各種の憲法改正試案は、「多数参加にに基づく多数決」として民主主義方式が「多数者の専制」という名の衆愚政治へ堕ちていく危険に対して無警戒でありすぎる。

 

 天皇の御地位が、「国民の総意に基づく」とすると、天皇の御地位は現在における多数派の国民の意志に基づき、国民の代表者からなる国会で議決すれば、天皇の地位はいかようにでも左右できるという見解が成り立つ。

 

 憲法上の「国民」とは、「過去の死者、現在の生者、未来の子孫のすべて、そして日本の伝統精神の継承者としての国民」、「日本の伝統を貫いて存在し日本国家における根本規範を完全に具現しているものとしての国民」と定義し、現在生きている国民の多数派が日本の天皇中心の国体及び伝統精神を軽々しく踏みにじることないようにすべきである。

 一国の憲法はそれを構成する民族の伝統的規範意識を踏まえたものであることが不可欠の条件であるとされている。欧米の古い憲法が生きた憲法として欧米においては効力を持っているのに対し、欧米の憲法を真似て制定した新興国の憲法が画餅化しているのはこのためである。

 

 「現行占領憲法」は、戦勝国たるアメリカに強制され、制定された。そして「憲法三原理」なるものとりわけ「国民主権」の考え方は、欧米においてのみ通用するものであり、天皇国日本には通用しないし、通用させてはならない。

 

 日本國體は、天皇を永遠にして神聖不可侵の君主と仰ぎ一君万民・君民一体である。欧米の歴史的所産である主権在民・国民主権という思想は、日本の國體を破壊する。日本国の國體を正しく宣明した正統憲法を回復すべきである。

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2016年10月 3日 (月)

大橋訥庵・梁川星厳の幕府批判と徳富蘇峰の正論

大橋訥庵(江戸後期の儒学者。文久二年、坂下門外の変の実質的指導者として捕縛され、拷問により死去)は、「幕府果して能く天朝を崇敬し、征夷の大任を顧みて、蛮夷の凌辱を受ることなく、神州に瑕瑾を付けず、然ればそれより大功と云ふ者なきゆえ、天朝にて眷顧を加へて優遇し玉ふべき、固より論なし。然るに後世の幕府のさまは、余りに勢威の盛大なるより、天朝を物の数とも思はず、恭遜の道を失ひ尽して、悖慢の所行甚だ多し。且や近年に至るに及んで故なく夷蛮に腰を屈して、国の醜辱を世界に顕し、開闢以来になき瑕瑾を神州に付けたれば、其罪細少のことと云んや。」(『文久元年九月政権恢復秘策』・徳川幕府が、天皇・朝廷を崇敬し征夷大将軍の使命を正しく果たしてゐれば、外敵の凌辱を受けることなく、神国日本を傷つけることもない。さうであれば大変な功績である。しかし今の幕府はあまりに威勢が大きいので、朝廷をものの数とも思わず、朝廷に対して慎み深くする道を失ひ、驕慢の所業が甚だ多い。しかも近年理由もなく外敵に屈して、国が辱めを受けることを世界に示し、日本国始まって以来無かったやうな傷を神国日本に付けた。その罪は小さいなどと言ふことはできない、といふ意)と論じた。

 

これは、徳川幕府が、天皇・朝廷を物の数とも思はず、軽んじて来たのに、肝心要の外敵を征伐するといふ「征夷大将軍」の使命を果たすことができないといふ、まさに徳川幕府最大の罪を追及した激烈な文章である。明治維新といふ尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論を主張してゐる。

 

梁川星厳(江戸末期の漢詩人。梅田雲浜・吉田松陰などと交流があったため、「安政の大獄」で逮捕されるはずであったが、大獄の直前に逝去)は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

 

「紀事

當年の祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、

風雲を叱咤し地を卷きて興る。

今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、

征夷の二字は是れ虚稱。」

(その昔、なんじ(徳川氏)の祖先(家康)の意気は、勢いを盛んにして、人を凌(しの)いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。 今日(こんにち、)外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

 

徳富蘇峰氏はこの詩を引用して、「(ペリー来航は・注)一面外国の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府は恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるには足らざることの不言の教訓を、実物をもって示した…(天皇は・注)現つ神の本面目に立ち還りここにはじめて京都における朝廷自身が、実際の政治に関与し給う端緒を開き来った。…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般国民にも漸次これを会得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じでゐる。

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、国の支配者たるの地位も失ふのである。

 

外交問題とくに国家民族の独立維持・国家防衛といふ国家の大事に自ら決定し、実行することができなくて、京都の朝廷にお伺いを立て、各藩諸侯らに諮問するに至って、徳川幕府は完全に幕府としての資格を失った。従って、この後の幕府はその存立及び権力行使の正統性を喪失したと言っても過言ではない。『安政の大獄』などの維新勢力弾圧は、全く正統性の無い権力による悪逆非道の暴挙であった。

 

今日の外患の危機も、日本国民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく体得し、強い愛国心を持つことによって打開できると確信する。

 

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