2020年4月12日 (日)

徳川幕府による朝廷圧迫について


第一〇八代・後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天萬乗の大君として君臨あそばされ、修學院離宮の造営、學者文人藝術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。後水尾天皇宸翰『忍』は、聖護院門跡に傳わるものである。この宸翰は京都岩倉實相院門跡にも傳えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されていると拝する。實に力強い筆致である。

徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。徳川家康及び秀忠は基本的に尊皇心が非常に希薄であった。幕府は徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の傳統的権威を利用した。

しかし、天皇・朝廷を京都に事實上の軟禁状態に置いた。元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加えた。天皇・朝廷に対し奉り彦根藩及び京都所司代が厳しい監視にあたった。

江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられた後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の實相院だったと思うが、拝観した。

後水尾天皇は、

『思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は』
『葦原や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず』

といふ御製をのこされてゐる。

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害された。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。

徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓に眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事實を以て証明される。

江戸時代の禁裏御料はたったの三萬石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一萬五千石を献上した後、家光が一萬五升四合、家宣が一萬一斗余を献上し、ようやく三萬石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高である。

幕末になり、幕府権力維持のために朝廷を利用せんとした幕府は、十四代将軍家茂は文久二年(一八六二)に十五萬俵献上し、十五代将軍・慶喜は慶応三年(一八六七)、山城一國に十三萬石を献上した。

天皇崩御の際の『布令』を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その實態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

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2019年12月30日 (月)

「國見」は天皇統治において重大意味を持つ祭祀

 「國見」とは、天皇陛下がただ単に景色を眺められるのではなく、天皇が國を見渡して五穀の豊饒と民の幸福をお祈りし祝福する行事である。

 「目は口ほどにものを言ひ」といふ言葉もあるごとく「見る」といふのは対象物を認識する上で大切な行為である。天皇統治の事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)といふ。

荒木博之氏は、「上代人にとって<見る>とは『対象物の神性に感応し、その対象物を飽かず見ることによって、その神性をその清浄さをおのれが本性にとりこむこと」(日本人の心情論理)と解した。この論を引用して大原康男氏は「<見る>は…単に空間とかかわる視覚に尽きるものではなく、そこには鎮魂儀礼の要素が含まれている…」と論じられてゐる。(現御神考試論)

 天皇が神聖なる天香具山に登られて「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀である。そして、新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。

祭祀主であり現御神であらせられる天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國土が國が始まった時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。

天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。

つまり、「國見」は大嘗祭と同一の意義があり、天の神の地上における御代理即ち現御神(あきつみかみ)たる天皇が、國土に稲穂を豊かに實らせるといふ天の神から命じられた最大の御使命を實現するといふ天皇の統治にとって重大意味を持つ祭祀なのである。           

 昭和五十四年十二月四日、昭和天皇は奈良県に御行幸あらせられた。翌四日、萬葉學者・犬養孝氏の御案内で、高市郡明日香村の甘橿丘にお登りになり、大和盆地を双眼鏡で一望された。この時、犬養氏は、この舒明天皇の御製など五首を朗詠した。犬養氏の「昭和の國見ですね」とふ言葉に、先帝陛下は声を立ててお笑ひになったと承る。そして、次のやうな御製を詠ませられた。

「丘に立ち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ」

 昭和五十九年十二月、再び奈良県に御行幸になり、翌昭和六十年の新年歌會始に「旅」といふ御題で賜った御歌が、

「遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく」

である。

 農業國家・稲作國家である日本は、國民生活は旱魃や洪水などの自然環境によって大きく支配される。したがって、集団の統率者は常に祭りを行って、自然の恵みを願ひ感謝しそして自然災害が起こらないやうに神に祈る祭祀を行ふことがことが大きな使命であった。

ゆゑに、祭祀は、天皇の重要な御使命であった。日本においては宗教と政治、祭祀と政治は一体であるべきである。これを<祭政一致>といふ。

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2019年8月29日 (木)

立憲民主党が今回の参院選で徳川家広氏を公認したことへの疑問

部落解放同盟は立憲民主党の有力な支持団体の一つであり、同党に組織内候補を出してゐる。本年(平成三十一年)三月二日に開催された「部落解放同盟第七六回全國大會」で立憲民主党の福山哲郎幹事長が挨拶し、「水平社設立百年を二〇二二年に迎える。それまでに何とかもう一度政権交代を果たし、人権委員會百周年を迎えられるよう頑張りたい」と述べた。立憲民主党は「天皇制無化」を志向してゐる団体に支持を要請したのである。

そして、今回の参院選では、静岡選挙区で徳川宗家の当主・徳川家広氏を公認候補にした。徳川家広氏の父は徳川宗家第十八代当主、元日本郵船副社長で徳川記念財団理事長の徳川恆孝氏。血統的には松平容保の男系の玄孫にあたり、水戸徳川家の藩祖徳川頼房の長子松平頼重の男系子孫である。また徳川家達の玄孫、島津久光の来孫、島津忠義の玄孫、鍋島閑叟の来孫、鍋島直大の玄孫、池田詮政の玄孫でもある。徳川氏の血統を引く人であるばかりでなく、徳川時代の有力封建領主の系統をひく人でもある。そして選挙の時は立憲民主党静岡総支部長の肩書であった。
 
徳川家広氏は、「目指すのは、約二百五十年間戦乱のなかった江戸幕府の平和政策の復活であり、江戸は平和主義で、民の世話を焼く福祉國家的発想がありました。そして何より立憲主義を非常に大切にしていたのです」と発言したといふ。つまり彼は旧来の陋習を打ち破り、國民の身分差別をなくし、國民が倦むことなく明るく幸せに暮らす一君萬民の理想國家を建設せんとした明治維新を否定したのである。江戸時代が立憲主義を大切にし平和主義で福祉國家だったななどと言ふ考へ方は噴飯ものである。

江戸時代の身分差別制度の思想根拠は仏教にあった。徳川幕府の支配原理はこれによる。仏教の「因果応報思想」「輪廻転生思想」が身分差別を正当化した。

明治維新後、「解放令」が出た後も身分差別が完全にはむ解消されなかったのは徳川時代三百年の仏教思想の影響が消えなかったからである。仏教が國體隠蔽の原因である。

わが國に外来思想が無い時は固定化した身分差別は無かった。神道思想及び天皇中心の國體精神が身分差別制度の原因といふ考へ方は全く大嘘である。

「部落差別」は、その根底にある思想だけでなく制度的も仏教寺院が利用された。「穢多・非人」の宗門人別帳が作成されたことが部落差別制度の確立である。徳川幕府は、仏教寺院に全ての民衆を所属させる寺請制度を創設し、宗旨の確認と戸籍把握を全國化した。この徳川幕府による戸籍整備事業は寛文十年(一六七〇)頃にほぼ完成したといはれ、以後、「穢多・非人」もこれに記載されたことによって、身分制度が確立した。

川元祥一氏は、「徳川政権下では、…賤民層、おもに『穢多・非人』を中心とした身分が世襲的に固定され、『武士・平人・賤民』の三つの身分階層が形成されます」「秀吉の朝鮮侵略によって近世身分制度の原点『武士・百姓』がつくられ、徳川政権のキリシタン弾圧によって江戸時代身分制度の全体が形成された」「厳密な『宗旨改帳』『宗門人別改帳』(註・村民がキリシタンではなく、寺院の檀徒(だんと)であることを証明する帳簿です。毎年村ごとに作成され領主に提出されたので、戸籍の役割も果たしていました。当時の家族構成や婚姻による各地との結びつきなどがうかがえる史料です)がつくられた。ここで注意すべきは『穢多』『非人』を軸にした賤民層が、世襲的身分として顕在化したことです」(『部落差別の謎を解く』)と論じてゐる。

徳川幕藩体制確立以前は、差別された人々も職業や住む場所が変れば、差別・蔑視から逃れることができた。つまり固定した制度としての賤民は存在しなかった。ところが、かうした中世以前のあり方を不可能にしたのが、江戸時代初頭に『宗旨改帳』『宗門人別改帳』といふ実質的な戸籍の作成である。部落差別は、制度面でも日本國體精神・神道精神は全く関係ないのである。また、古代律令制とも無関係である。

松本治一郎氏は、大正十三年(一九二三年)に九州水平社の委員長となる。大正十四年(一九二五年)に、全國水平社中央委員會議長に就任した松本氏は、被差別部落民が苦しんでゐるのは徳川幕府に責任があるとの思想から、昭和二年(一九二七年)、徳川家達公爵への爵位返上勧告闘争を指導した。水平社の主張は「天皇のもと平等であるべき萬民の間に差別が出来たのは徳川家の責任である」といふものであった。

後、松本氏は徳川公爵暗殺未遂の罪によって懲役四ヶ月の実刑判決を受け、下獄した。なほ、この闘争に影響された人物が後に徳川邸に放火、全焼させた。部落解放同盟の前身全國水平社がかつて激しく糾弾した徳川宗家の子孫・徳川家広氏を、部落解放同盟が有力支持団体である立憲民主党が参院選候補者として公認した事を、松本治一郎氏はあの世でどう考へてゐるであらうか。

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