2021年1月13日 (水)

靖国神社ご祭神について

幕末から明治十年頃までの激動の歴史の過程で、かつての賊軍が官軍にかつての官軍が賊軍になった、否、ならざるを得なかった悲劇があった。

小堀桂一郎氏の言ふ「旧敵に対して復讐せず、かつての叛逆者を粛清も訴追もしない。臣民の全てが『おおみたから』であることこそ、神武天皇以来の日本の皇室の倫理伝統」「伝統的な温情と和解の心」は、わが國史を貫いてゐる美風である。

であるならば、戊辰戦争で幕府方として戦死した人々、西南戦争で西郷軍として戦ひ戦死した人々の御靈が靖國神社に祀られるべきと考へるのは決して不思議ではない。

しかし、「國事に殉ずる」といふことと、「朝敵」「賊軍」であったかどうかの判別は難しい。「錦の御旗」「官軍」に抗すれば「朝敵」「賊軍」である。戊辰戦争、そして明治第二維新運動における「神風連の変」「萩の変」「佐賀の変」「西南戦争」における反政府軍の戦死者も、「國事」に殉じたのであるが、官軍・政府軍に抗したことは事實である。

維新前の徳川幕府が瑕疵のない正義であったとは言へないやうに、明治新政府も瑕疵のない正義であったとは言へない。ここが難しいところである。

太田黒伴雄、前原一誠、江藤新平、西郷隆盛は、上御一人日本天皇に背くなどといふ思ひは微塵もなかった。むしろ、國家のために蹶起したといふ切なる思ひがあった。それは、「蛤御門の変」における久坂玄瑞など、「天誅組の変」の吉村寅太郎など、幕府と戦った人々が、朝廷に抗したなどとは全く思ってゐなかったのと同じである。

従って、「蛤御門の変」における長州軍の戦死者、「天誅組」の戦死者が靖國神社に祀られてゐるとすれば、明治第二維新運動における反政府軍の戦死者が靖國神社ら祀られるべきである。

戊辰戦争における「賊軍」の総大将とされた徳川慶喜は、明治二年(一八六九)九月二十八日、謹慎を解除され、明治五年(一八七二年)一月六日、従四位に復帰した。明治十三年(一八八〇)五月十八日、正二位に昇叙、明治二十一年(一八八八)、従一位に昇叙された。そして、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控へる資格が与へられた。天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の薨去に際しては、勲一等旭日桐花大綬章を賜った。

政府軍に攻撃され、最後まで抵抗せざるを得なかった松平容保は、明治五年(一八七二)一月、三十八歳の時に蟄居を許された。さらに、明治九年(一八七六)十一月一日、従五位に叙位。明治十三年(一八八〇)二月、四十六歳の時に、官職である日光東照宮の宮司に任じられた。明治二十年(一八八七)十二月二十六日従三位に昇叙。明治二十六年(一八九三年)十二月四日、正三位に昇叙。同年十二月五日、薨去した。

「神風連」関係者は大正十三年二月十一日に名誉回復が為され、太田黒伴雄等には正五位が贈られた。前原一誠には、大正五年四月十一日、従四位が贈られた。江藤新平には、明治二十二年、『大日本帝國憲法』発布に伴ふ大赦令公布により賊名を解かれ、大正五年四月十一日、正四位が贈られた。西郷隆盛には、明治二十二年二月十一日、江藤と同じく『大日本帝國憲法』発布に伴ふ大赦で赦され、正三位が贈られた。
このやうに、戊辰戦争、明治第二維新運動において、政府軍に抗した戦った人々は、賊軍の汚名は取り除かれてゐる。有名な『抜刀隊の歌』には「吾は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ」と歌はれてゐるが、今日、西郷隆盛を「天地容れざる朝敵」などと思ってゐる人はゐない。明治維新の傑物、大功労者として尊敬されてゐる。さうした方々は、「賊名」を取り除かれた時点で靖國神社に合祀されるべきであったと思ふ。

徳川慶喜の曾孫にあたられる徳川康久宮司は、『中國新聞』平成二十八年六月十日号所載のインタビュー記事で、聞き手による「将来、賊軍とされている方々を合祀することはあり得ますか」との問ひに答へて、「無理だ。日本が近代統一國家として生まれ変わる明治維新の過程で、國家のために命をささげられた方々のみ靈を慰め、事績を後世に伝えるというのが前身の東京招魂社を建てられた明治天皇のおぼしめし。政府に弓を引いた者はご遠慮すべきだろう」と語られてゐる。慎み深いご意見である。靖國神社がこのやうな意向である以上、私は、靖國神社に対して政治家などが多人数で「申し入れ」を行ひ、新聞に意見広告を載せ、「合祀」を強硬に主張すべきではないと思ふ。これは政治権力の神社への介入になる危険がある。

日本國民の大多数は、白虎隊や西郷隆盛に対して尊敬の念を抱いてはゐても、「賊徒」「賊軍」だなどと思ってはゐない。松平容保、徳川慶喜に対しても然りである。上野山の彰義隊士の墓、會津飯盛山の白虎隊の墓地や鹿児島の南洲墓地は今日も香華が絶へない。

江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。

慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野山を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって茶毘に付された。

正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。

日本國民は、伝統的な寛容性によって、歴史の過程において一時期「賊軍」の汚名を着せられた方々に対して、慰靈の誠を捧げて来てゐる。靖國神社に祭祀さなければ、日本の「寛容性」「伝統的な温情と和解の心」が實現しないといふ事はない。

日本民族は古来、「人間死んだら神様」といふ言葉があるやうに、祖靈を神と崇め、祭って来た。祖靈・死者の魂を尊びこれをお祭りすることは、日本民族の傳統信仰の基本であり、道義心・倫理觀の根幹であるからである。

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2021年1月12日 (火)

大西郷の尊皇精神と明治維新

今日、北朝鮮のミサイル攻撃・共産支那の軍事的圧迫という日本は大きな危機に瀕している。古代日本の大変革たる大化改新は、支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻と言う外圧危機下に行はれた。明治維新もまた西欧列強の外圧の危機下に行われた。
今日の日本のこの国家的危機に際して、一大変革の時期が到来したと考えるべきである。その意味においても、明治維新三傑の筆頭にあげられる大西郷の精神に思いを致すべきと考える。
明治維新の基本精神は「尊皇攘夷」である。天皇を君主と仰ぎ、國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。そしてそれは、吉田松陰先生と並んで明治維新最大の功労者である大西郷の精神でもある。

西郷隆盛は、文久二年(1862年)、薩摩藩主の父・島津久光の逆鱗に触れ、沖永良部島に流された時に『獄中有感(獄中感有り)』と題する次の詩を詠んだ。

「朝蒙恩遇夕焚坑   朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人生浮沈似晦明   人生の浮沈晦明に似たり
縦不回光葵向日   たとひ光を回らさざるも葵は日に向ふ
若無開運意推誠   もし運開くなきも意は誠を推す
洛陽知己皆為鬼   洛陽の知己皆鬼となり
南嶼俘囚独竊生   南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何疑天付与   生死何ぞ疑はん天の付与なるを
願留魂魄護皇城   願はくは魂魄を留めて皇城を護らん」

勝海舟ゆかりの洗足池(東京都大田区)に西郷隆盛の遺徳を顕彰する留魂碑が建立されてゐる。その碑には西郷自筆のこの「獄中有感」の詩が刻まれてゐる。

この詩は、「朝に主君の恩遇を受けたと思うと夕には生き埋めにされる。人生の浮き沈みは、昼と夜の交代に似ている。葵(ヒマワリ)は太陽が照らなくても、いつも太陽の方を向いている。もし自分の運が開けなくても、誠の心を抱き続けたい。京都の同志たちは皆、国難に殉じている南の島の囚人となった私ひとりが生き恥をさらしている。人間の生死は天から与えられたものであることは疑いない。願うことは死んでも魂は地にとどまって皇城(天皇の御所)を守護したい」といふほどの意である。

平泉澄氏はこの詩について「西郷の詩として傳へられるもの百数首、その中に於いて最も重要なるものとして、私は此の詩をあげたい。その一生の間、厄難多く、島流しにあふ事も前後三回に及んだが、運命の浮沈いかにあらうとも、皇城を仰ぐ忠誠の一念はかわるものでは無い」「末句『願はくは魂魄を留めて皇城を護らん』といふに至っては、皇国の道義、発揮せられて余蘊なく、日本男児の真面目、描出して明々白々なるを見る」(『首丘の人大西郷』)と論じてゐる。

影山正治氏はこの詩について、「寺田屋事件に於て有馬新七らを失ひ、月照を失ひ、齊彬公を失ひ、東湖を失ひ、その他多くの先輩盟友既に無く、一人南島の獄中に沈思回想して無言の慟哭をなして居るのだ。…『生死何ぞ疑はん天の付与なるを、願はくば魂魄を留めて皇城を護らん』南洲五十年の全生命、凝ってこの一句に結晶してゐる。かくて五十年の生命は悠久無限の大生命に飛躍したのだ」(『大西郷の精神』)と論じてゐる。

「願くば魂魄を留めて皇城を護らん」こそ、「大西郷の精神」の根幹・尊皇攘夷精神である。

共産支那や南北朝鮮の「傲慢無礼」なわが国領土に対する侵略策謀・反日政策・対日侮蔑外交が繰り返されてゐる今日、わが國民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない。

今日の危機的状況を打開するためには、南洲精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革を断行しなければならないと信ずる。

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2020年12月30日 (水)

徳川慶喜の尊皇心


 鳥羽・伏見の戦い・大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家もいる。現に新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。後年、慶喜はその心情を次のように語ったという。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。

 慶應四年(一八六八)一月十九日、フランス公使・ロッシュは、江戸に帰って来た徳川慶喜に面會し、「再挙」(新政府軍に再度武力戦を挑むこと)を促した。しかし慶喜はこれを拒絶し、次のように語ったという。曰く「わが邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過(あやま)たば末代まで朝敵の悪名免れ難し。……よし従来の情義によりて当家に加担する者ありとも、斯くては國内各地に戦争起りて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民其害を受けん。これ最も余の忍びざる所なり。されば唯当家衰運の然らしむ所と覚悟し、初より皇室に対し二心なき旨を幾度も申し披(ひら)き、天披を待つの外なきことなり。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として市民の父母となり國を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。此上尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊威に対して既に忠臣にあらず、まして皇國に対しては逆賊たるべし。……」(『徳川慶喜公伝』)。

 また、徳川慶喜は渋沢栄一に次のように語ったと書かれている。「(鳥羽・伏見の戦いで仼)やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては、(慶喜は仼)益(ますます)驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刄向かうべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑(會津と桑名)を諭して帰國せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよといひ放ちしこそ一期の不覚なれ。』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」(『徳川慶喜公伝』)。

 『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。

 要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。

 さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。鳥羽・伏見の戦いで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のように記している。

 「(慶應四年仼)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候。」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。

 徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それはわが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

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2020年11月18日 (水)

明治維新の基本精神は「復古即革新」「保守即変革」であった

わが国史上最大の変革であった明治維新はまさに国民の心の底に潜む伝統精神を呼び覚ましこれを核として変革を断行した変革であった。明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主氏仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家體制を革新し外國からの侵略を防ぐという精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一體であるという「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといわれる所以である。

こうした明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』に示されている。

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』には、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されている。

明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されている。
さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。そしてこうした伝統回帰の精神を基盤として、外国の文化・文明を大胆に取り入れた変革が行われた。

葦津珍彦氏は、「明治維新は日本の近代的統一国家を生み出した精神を、近代的ナショナリズムをよぶとすれば、その精神の基礎となったのは、日本民族の天皇意識(國體意識)であった」と論じている。


明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

神武建国に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではなかった。日本の伝統への回帰を目指したのである。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になった。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味である。

日本が、大胆に外来文化・文明を受容しながらも、傳統文化を喪失することなく日本の独自性を護ることが出来た強靭性を持っていたのは、天皇・皇室のご存在があったからである。近代化・文明開化においても、天皇・皇室が、積極的に外来文化・文明の受容を推進するご意志を示された。

明治天皇は明治維新の基本理念が示された『五箇条の御誓文』(明治元年三月十四日)において、
「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」
智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」
と示された。

さらに、御製において
「よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな」
「世の中の人におくれをとりぬべしすゝまむときに進まざりせば」
と詠まれた。

明治天皇は「皇基ヲ振起スヘシ」「あしきをすてて」と示されている。日本近代化にあたって、大いに欧米をはじめとして外國文化・文明を取り入れ學ぶとしても、それは無原則に取り入れるのでない。あくまでも、わが國の傳統に合致せずわが國の國柄を破壊する要素のある悪しき事はこれを排除するのである。
つまり、日本文化の独自性・傳統を維持しつつ外来文化文明を包摂して来たのである。「和魂漢才」「和魂洋才」はわが國の古代からの文化道統である。
日本傳統精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ったのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」「保守即変革」である。未曽有の危機にある現代においてこそ、この理念が継承されるべきである。

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2020年11月15日 (日)

歴史は繰り返す

歴史は繰り返すと言はれる。今日の日本も幕末当時と同じやうに、内憂外患交々来たるといった状況になってゐる。日本人の英知と行動力によって、この厄介な状況を正しく克服し、乗り切り、発展していかねばならない。

屈辱的な戦勝国支配体制はまだまだ打倒されてゐない。これを克服し乗り切るためには、祖国日本の回復、日本の道統の回復、日本国家・日本民族の総合的力量の回復が断行されねばならない。そして真の独立と自由を回復しなければならない。

そのためには、アメリカとの関係、支那との関係をどうするか、日本の対米自立は実現可能か、共産支那の我が国に対する圧迫をどう撥ね退けるか、これが今の日本にとって極めて重大な課題である。戦後日本の「吉田ドクトリン」「護憲安保体制」を続けるわけにはいかない。

今日わが日本そして日本国民は、共産支那・ロシア・南北朝鮮の圧迫に押し潰されないために、確固たる祖国愛・国家意識を回復しなければならない。

アメリカ覇権主義そして中華帝國主義さらには北朝鮮の暴虐の渦中にあって、わが日本は、祖国の独立と安全を守るために必死になって戦はなければならない。にもかかはらず、残念ながら、国民の多くは日本の傳統精神、國體精神を忘却し、内部から破壊されつつある。

今日の日本も内憂外患を除去するために、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じように、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち平成維新を断行しなければならない。日本は、「尊皇攘夷」「神武創業への回帰」といふ明治維新の理想に回帰すべきである。

幕末期の『黒船来航』は、グローバリズムの威力だと言はれてゐる。確かにさうであらう。その時、日本国民は朝野を上げて「国家意識」に目覚め、「尊皇攘夷」の精神で国家を確信し、その後、「尊皇開国」の精神で近代化を遂げ、危機を乗り切った。今の日本人も、明治維新そして遠くは大化改新に学ばねばならない。

国家的危機が迫る今日こそ日本がさらなる飛躍を遂げる機会である。明治維新・大化改新と同じやうに、国家的危機が迫る状況の今日こそ、祖国日本が飛躍しさらなる発展を実現する機会である。

明治維新において、わが国は國民の同胞意識・連帯感、そして外敵に抗するナショナリズムの中心に天皇を仰いだ。徳川幕府を打倒し天皇中心の日本國本来の在り方に回帰して國難を打開した。

現代における維新も、基本原理は全く変らない。国内の反国体勢力を一掃し、天皇帰一の國體を明らかにして、外圧の危機を打開しなければならない。全国民が真に日本民族としての運命共同意識を強く保持し燃え立たせ得る精神的な基盤に依拠しなければならない。さうした精神的基盤は、神代以来の神聖権威の体現者・保持者であらせられる日本天皇への尊崇の念即ち尊皇精神である。

わが民族は、今日の混迷も必ずこれを打開して正しき日本の姿を回復するに違ひない。しかしそのためには、歴史を回顧して明らかな如く、真に国家の伝統精神を継承する者たちの必死の努力精進が必要である。

わが国の麗しい山河、かけがへのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖国日本への限り無い愛と、国民同胞意識を回復しなければならない。

「傳統精神」「國體精神」「神話の精神」は、急速な科学の進歩と世界の統合化やグローバル化によって人類の中に吸収されて消滅することはあり得ない。歴史的に形成されてきた傳統精神は永遠に生き続ける。天皇がその体現者であられる日本傳統精神が現代の危機を打開し将来の日本及びアジアそして地球の救済の力となり得る。

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2020年11月 9日 (月)

「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である

「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である

以下は何回か書いたことですが大変重要と思うので再度掲載させていただきます。
臣下國民に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因
今日のわが國の議會政治は、とても「公議を竭(つく)」してゐるとは言へない。また健全に機能してはゐない。政党間・政治家同士の醜い権力闘争が繰り返されてゐる。國會中継を見ればわかる通り、相手を議論で打ち負かし、相手の言葉の揚げ足を取り、自分の意見に従はせようとすることに汲々としてゐる。

かうした事の根本原因は、わが國の道統である「尊皇精神」「天皇へのかしこみの心」が、政治家にも國民にも官僚にも希薄になってゐるからにほかならない。

後藤田正晴氏は、「國務大臣などの政治家は天皇の臣下ではない」といふ意識の持ち主であった。後藤田氏は平成十二年十二月五日号の『日本経済新聞』で、中央省庁の再編に関するインタビューに答へて、「まず大臣といふ名前を変えたらどうか。誰の臣下ですか?。行政の長なんだから『長官』でいい」と述べた。

これは、天皇を君主と仰ぐ建國以来のわが國體を否定し、『現行占領憲法』体制下においてもわが國は立憲君主制であるといふ自明の理を否定する許し難い発言である。社民党・共産党・極左分子がこのやうな発言をするのならまだしも、警察庁長官・内閣官房長官・自治大臣・内閣副総理を歴任し、官僚・政治家の頂点、即ち政治権力の頂点に立ったと言っていい人物が、このやうな発言をしたのである。

肇國以来今日に至るまでわが國の歴史を貫き、将来にも継続する無私の御存在・倫理的御存在が天皇である。天皇は、倫理道義の鏡として祭祀主として君臨されてゐる。

新渡戸稲造氏がその著『武士道』において、「我々にとりて天皇は、法律國家の警察の長ではなく、文化國家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうのである」と論じてゐる。

「天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもう」日本天皇は、権力や武力の暴走、権力者の私欲による権力と武力の行使を制限し抑制される権威をお持ちになる。天皇は権力や武力と無縁の御存在ではない。むしろ権力や武力に対して道義性を与へられる。中世・近世・近代を通じて武家権力や軍に対してさういふおはたらきをされた来た。その事を『大日本帝國憲法』は「天皇は統治権の総攬者」と表現したのだと考へる。

閣僚は、天皇の臣下ではないなどといふ主張は、かうした日本の正しい伝統を根底から否定する考へ方である。片岡啓治氏が「明治維新で求められた新時代とは、その後の現實に起こるような西欧化による近代の形成ではなかった」といふ指摘を思ひ起こさざるを得ない。 

わが國の傳統的倫理・道義は、〈神に対する真心の奉仕〉〈神人合一の行事〉である祭祀として継承されてきた。日本人の實際生活において行じられる祭祀そのものが倫理精神・道義感覚の具体的な現れである。信仰共同体國家日本の祭祀の中核は「天皇の祭祀」である。したがって、日本國家の祭祀主であらせられる天皇は、日本道義精神・倫理観念の体現者であらせられる。

江戸時代中期の不世出の國学者・思想家・詩人賀茂真淵は、「…さて臣たちも神を崇めば、心の内に、きたなき事を隱す事を得ず、すめらぎを恐るれば、みのうえに、あしきふるまひをなしがたし、よりて、此の二つの崇みかしこみを、常わするまじきてふ外に、世の治り、身のとゝのはんことはなきをや」(『賀茂翁遺草』)と説いてゐる。

議會政治は、多数決を基本とする。多数決を誤りなく機能させるためには、國民及び國民によって選出された議員が、権力闘争や利害の対立を抑制し、道義精神、理性を正しく発揮しなければならない。「人間は政治的動物だ」などと言って、道義道徳・理性を忘却してはならない。

日本の傳統の継承者であらせられ、常に神々を祭り、國民の幸福を神に祈られている神聖君主・日本天皇へのかしこみの心を國民全体が持つことが、日本の全ての面での安定の基礎である。

臣下國民に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因である。現代日本は、肝心要の「一君萬民の國體」が隠蔽されてゐるのである。これは、『現行占領憲法』にその大きな原因がある。

しかしわが國には、國家的危機を傳統の復活・回帰によって打開して来た歴史がある。現代もさうした時期である。わが國の傳統の根幹は「天皇中心の國體」である。

「天皇中心の國體」とは、「神話の世界以来の信仰に基づき一系の血統と道統を保持し継承される天皇による國家統治」といふことである。そして天皇の國家統治は、権力・武力による人民支配ではなく、祭祀主としての宗教的権威による統治(統べ治める)である。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である。

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2020年11月 7日 (土)

明治維新の目的、明治日本の精神は、明治天皇が渙発された御詔勅、御製、『大日本帝国憲法』に明確に示されている


明治維新の断行によって、日本国は各藩並立の幕藩体制を超克して、天皇中心の統一國家の真姿に回帰することによって外國の侵略から祖國を守る体制を確立した。つまり、幕末の祖國の危機に際して、日本民族は自然に、日本國家・民族としての一体感・運命共同意識中心に古代からの國家の統一者である天皇を仰いだのである。國民の同胞意識・連帯感、そして外敵に抗するナショナリズムの中心には天皇がゐまさねばならなかったのである。明治維新後の近代日本における「一君萬民」の國體明徴化そして皇軍創設は、かかる精神に基づくのである。

片岡啓治氏は明治維新について、「新しい時代を開くとは、日本の太古に還ることだったのである。…古代に還るとは、決して古くさい死物を復活させるというようなことではなく、王と民とが一体となって睦あい、政(まつりごと)と祭(まつり)とが一つに溶けあい、一君のもとに萬民が平等に暮らす、そのような社會への復帰が夢みられたのであり、そのような世の中をよみがえらせるためにこそ、〈世直し〉が求められたのであった。…そこで求められた新時代とは、その後の現實に起こるような西欧化による近代の形成ではなかったのである」(『維新幻想』)と論じた。

外圧の危機が主なる原因となって断行された明治維新といふ未曾有の大変革は、一君萬民の日本國體の開顕と一体であった。そして明治天皇が神々に誓はれた『五箇条の御誓文』の精神を体して、明治維新の大変革が行はれた。

廃藩置県、身分制度撤廃、徴兵制實施、『大日本帝國憲法』発布などの維新後の大変革・大建設事業は、明治天皇の勅命によって行はれた。わが國に天皇・皇室といふ御存在がなかったならば、明治維新といふ大変革は實現しなかった。日本の傳統の体現者たる祭祀主・日本天皇の御聖徳によって、有史以来未曾有の変革が行はれたのである。また、「諸事神武創業之始ニ原」くこと、即ち一君萬民の國體の開顕が新時代の変革そのものなのである。我國においては、「一君萬民」の國體精神、天皇の御存在こそが維新変革の中心であり原基なのである。


ところが、今日のわが國の議會政治は、とても「公議を竭」しているとは言へない。また健全に機能してはゐない。政党間・政治家同士の醜い権力闘争が繰り返されてゐる。國會中継を見ればわかる通り、相手を議論で打ち負かし、相手の言葉の揚げ足を取り、自分の意見に従はせようとすることに汲々としてゐる。

かうした事の根本原因は、わが國の道統である「尊皇精神」「天皇へのかしこみの心」が、政治家にも國民にも官僚にも希薄になってゐるからにほかならない。

明治維新の目的、明治日本の精神は、明治天皇が渙発された御詔勅、御製、『大日本帝国憲法』に明確に示されている。近代日本はこれによって出発し、力強く歩んで来た。このことを我々は深く学ぶべきである。これを復古即革新と言う。

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2020年11月 6日 (金)

長州藩直目付長井雅楽の『航海遠略策』について

長州藩直目付長井雅楽は、文久元年(一八六一)五月に藩主毛利慶親に提出した建言書・『航海遠略策』で次のやうに論じてゐる。

 

 「…御國體相立たず、彼が凌辱軽侮を受け候ふては、鎖も真の鎖にあらず、開も真の開に之無く、然らば開鎖の実は御國體の上に之有るべく、…鎖國と申す儀は三百年来の御掟にて、島原一乱後、別して厳重仰せつけられ候事にて、其以前は異人共内地へ滞留差し免(ゆる)され、且つ天朝御隆盛の時は、京師へ鴻臚館(註・外國使節を接待した宿舎)を建て置かれ候事もある由に候へば、全く皇國の御旧法と申すにてもこれなく候はん。伊勢神宮の御宣誓に、天日の照臨する所は皇化を布き及し賜ふ可(べ)しとの御事の由に候へば、…天日の照臨なし賜へる所は悉く知す(註・統治する)可き御事にて、鎖國など申す儀は決して神慮に相叶はず、人の子の子孫たるもの、上下となく其祖先の志を継ぎ、事を述るを以て孝と仕り候儀にて、往昔神后三韓を征伐し賜ひ(註・神功皇后が朝鮮に遠征されたこと)候も、全く神祖の思し召しを継せ賜へる御事にて、莫大の御大孝と今以て称し奉り候。……仰ぎ願はくは、神祖の思し召しを継がせ賜ひ、鎖國の叡慮思し召し替られ、皇威海外に振ひ、五大洲の貢悉く皇國へ捧げ来らずば赦さずとの御國是一旦立たせ賜はば、禍を転じて福と為し、忽ち點夷(註・小さな外國)の虚喝(註・虚勢を張った脅かし)を押へ、皇威を海外に振ひ候期も亦遠からずと存じ奉り候…」。

 

大和朝廷の頃は、外國との交際も盛んであり、太陽の照るところは全て天皇の統治される地であるといふのが日本の神の御心であるから、鎖國政策は、日本の神の御心に反しており日本の伝統ではないから転換すべきである、そして、外圧といふ禍を転じて福と為し、天皇の御稜威を世界に広めるべきであると論じてゐる。天照大御神の神威を体し鎖國を止めて、海外への発展の道を開くべしといふ気宇壮大な主張である。鎖國は、八紘為宇のわが國建國の精神に悖るといふ正論である。この正論は明治維新の断行によって実現した。

 

この長井雅楽の文書は五月十二日に毛利慶親より三条愛(さねなる)に提出された。これに対して、孝明天皇は、

 

「六月二日長門藩主・毛利慶親の臣・長井雅楽を以てへたまひたる」と題されて、

 

國の風ふきおこしてもあまつ日をもとの光にかへすをぞ待つ

 

との御製を賜った。孝明天皇は決して頑なな攘夷論者・鎖國論者ではあらせられなかったことを証しする。わが國の主体性を確立したうえでの開國・海外発展・外國との交際は否定しておられなかったのである。

 

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2020年9月22日 (火)

明治時代以後における尊皇攘夷運動

幕末に於いて、維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』で半国家・半植民地と化した日本が、「完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。

天皇を中心とした日本国を欧米列強の侵略支配から祖国を守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であった。それが尊皇攘夷の精神である。しかし、明治維新後に於いても、「不平等条約」が存続し、日本は西欧列強と対等の立場に立っているわけではなかった。それとどころか、文明開化に美名のもと、日本は欧化の風に侵された。

明治維新の理想を実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。そしてそれは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いであった。

民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。

近代日本というか明治新政府は、「脱亜入欧」「文明開化」「富國強兵・殖産興業」の道を突き進んだ。つまり、欧米の文化・文明を取り入れて日本を近代化し、國を富ませ、軍事力を強固にし、生産を増やし産業を発展させることを目指したのである。

明治初期に岩倉使節団に参加して欧米を視察した政府高官たちの基本的観念には、第一に、欧米の文明に対する高い評価があり、第二に、アジアに対する蔑視とは言わないまでも欧米に比較してアジアは未開であるという認識があり、第三に日本の発展は、アジアから脱して欧米に入ることによって達成されるという考え方である。そして大久保・岩倉などは、その能力がわが日本にはあると確信した。これはまた、『五箇条の御誓文』の「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」という大御心に沿うものであると考えたのであろう。
 
大久保利通は、明治七年に書いた『殖産興業に関する建議書』には、「必ずしも英國の事業に拘泥して、之を模倣す可きにあらずと雖も、君民一致し、其國天然の利に基き、財用を盛大にして國家の根抵を固(かと)ふするの偉績に至りては、我國今日大有為の秋に際して宜しく規範と為すべきなり、況や我邦の地形及天然の利は、英國と相類似するものにあるに於ておや、……」と記している。わが國と國柄および天然自然条件が類似する英國を規範として殖産興業につとめるべきであるという主張である。 

東洋の伝統を否定あるいは軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線は、反対者によって『西洋覇道路線』とも名付けられる。そしてこの路線は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。

さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。マルクス主義などの西洋革命思想による日本の変革運動がそれである。

こういった近代日本の体制側・反体制側に共通する「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。明治第二維新運動では、西郷隆盛、江藤新平、島田一郎などが命を捧げたが、未完に終わった。

その精神と行動を継承する在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動である玄洋社は、明治十四年二月、福岡に創設された。「皇室を敬体戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の三箇条を憲則に掲げた。

明治二十一年に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、そしてそれに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。    

そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的原因にも関わる今日的課題なのである。

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2020年9月19日 (土)

吉村寅太郎の遺詠

吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ
吉村寅太郎

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠である。吉野から東吉野村の丹生川上神社中社を目指して行くと、鷲家谷といふところにさしかかる。道路に面して左側に「天誅組終焉之地」と刻まれた石碑が建ってゐる。また、「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠」と題してこの歌の歌碑も建てられてゐる。

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公卿と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携し長州藩の協力を得て「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。これは、孝明天皇が神武天皇御陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現するといふ計画であったといふ。

八月十三日、朝廷より攘夷御親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成され、河内國の村役人らの参加を得て大和國で挙兵した。大和國五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。
 
しかし、「大和行幸・攘夷御親征」は、孝明天皇の御心ではなく、在京諸藩主に反対も多かったといふ。特に會津・薩摩両藩の間で意思統一が行はれ、「大和行幸の詔」は、孝明天皇の御本意ではなかったとして、八月十八日未明、大和行幸の延期が決定された。これにより、攘夷親征の先鋒を以て任じた天誅組は逆に「朝見を憚らず、勅諚を唱へ候段、國家の乱賊にて、朝廷より仰せつけられ候者には之無く候間、草々討ち取り鎮静これあるべく」(朝廷よりの京都守護職への達示)と断じられる存在となり、幕府軍の追討を受けることとなった。

天誅組は、吉野山間を転戦し、悪戦苦闘一か月、残った四十士によって、同年九月二十四日から二十七日にかけて彦根と紀州の藩兵を相手に最後の決戦が行はれ、三総裁以下十五人の志士が戦死した。鷲家谷はこの大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐる。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

吉村寅太郎は、天保八年(一八三七)生まれの土佐國土佐郡津野山郷の庄屋の家に生まれる。城下に出て武市半平太に剣を学び尊攘思想に傾倒する。文久元年(一八六一)土佐勤王党に加盟。文久二年京都に出て、同志と図り尊皇攘夷運動に挺身した。

吉村寅太郎は、天誅組に中心人物の一人として参画した。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受け歩行困難となったが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、駕籠で担がれ東吉野村木津川より山を越え、最後の決戦地・鷲家谷までたどり着いた。

かかる戦ひのさなか、明日をも知れぬ命を思ひ、吉村寅太郎が詠んだ歌が次の歌である。

「曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと」

吉村寅太郎は、文久三年九月二十七日、鷲家谷にて、幕府方藤堂藩兵の銃弾によって二十六歳で最期を遂げた。凄惨なる戦ひが行はれた旧暦九月二十日過ぎと言へば晩秋である。このあたりの山々は見事に紅葉してゐたのであらう。散る間際の紅葉は、戦ひの時に寅太郎が敵を刀で討った時に迸った真紅の血潮の色に見えたのであらう。何とも凄まじい歌、凄惨な歌ではあるが、不思議と残虐さは感じられない。むしろ潔い戦闘精神が感じられる。

寅太郎が脱藩して上京する際、母上が寅太郎に贈った歌が、

「四方に名を揚げつつ帰れ帰らずばおくれざりしと母
に知らせよ」

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に

最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」
を實感させる歌である。

吉村寅太郎は、明治二四年(一八八一)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

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