2018年6月18日 (月)

「賊軍の総大将」の汚名を蒙った徳川慶喜の悲劇

 

 徳川第十五代将軍・徳川慶喜は天保八年(一八三七)九月二十九日、水戸藩九代目藩主・徳川斉昭の七男として、江戸小石川の水戸藩邸に生まれた。母は有栖川宮織仁親王の王女、登美宮吉子女王である。水戸藩は、二代藩主光圀以来、国史の振興につとめ、尊皇精神をその伝統として来た。とりわけ光圀は、三十五万石の所領のうち、八万石を国史振興即ち『大日本史』編纂の費用に充てたといわれる。

 

 しかし、徳川慶喜は徳川幕府打倒の武力戦であった戊辰戦争において、賊軍の総大将の汚名を蒙った。しかし慶喜は決して天皇に背くつもりもなかったし、背いたわけでもなかった。、

 

徳川斉昭が藩主になった当時の水戸藩には、藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎など天下に鳴り響く尊皇攘夷の学者がいた。長州の吉田松蔭もはるか水戸にまで来て教えを乞うたほどである。

 

安政五年(1858年)に大老となった井伊直弼は、勅許を得ずに「日米修好通商条約」を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問し翌・安政六年(1859年)に、父・徳川斉昭と共に、慶喜にも隠居謹慎処分が下る。この日は三卿の登城日であり、慶喜は斉昭や慶永と違って不時登城ではなく、罪状は不明のままの処分であった。

 

 さらに、勅許を得ずして屈辱的な開国を行うという暴挙を行い、それに抗議した多くの志士たちを弾圧した井伊直弼を、桜田門外において討ち取ったのは、徳川斉昭を慕う水戸脱藩浪士たちであった。これが、幕末期の尊皇攘夷運動の発火点となったのである。徳川斉昭の実子たる慶喜が、天皇に背くなどということはあり得ないことであった。

 

 徳川慶喜は、慶應二年(一八六六)十二月五日、征夷大将軍・内大臣に補任された。時に三十歳であった。ところが、攘夷の意志は極めて強く持っておられたけれども、「公武一和・公武合体」即ち「徳川幕府を存続させた上で、公家と武家とが協力して国難に当たるべし」と思し召されていた孝明天皇が、同年十二月二十五日に、御年・三十六歳で崩御された。そして、翌慶應三年(一八六七)睦仁親王(明治天皇)が御年十六歳で践祚された。これにより、朝廷内に徳川幕府を打倒して国難を打開せんとする勢力即ち倒幕派が勢力を強めた。その筆頭が岩倉具視であった。

                 

 こうした状況下にあって、徳川慶喜は、倒幕勢力の力を弱めるために、政体の根本的改革を断行しなければならないと痛感した。それが「大政奉還」である。この「大政奉還」は、土佐藩主・山内容堂(豊信)の建白によるものである。そしてその建白書は、この年の六月に長崎から京都へ向かう航海の途中、坂本龍馬が後藤象二郎(二人とも土佐藩士)に授けた有名な『船中八策』(新政府綱領八策)を手直ししたものであるという。

 

 その内容は、「一、天下の大政を議する全権は朝廷にあり。乃我皇国の制度法則、一切万機、必ず京都の議政所より出づべし。一、議政所上下を分ち、議事官は上公卿より下陪臣・庶民に至る迄、正明純良の士を撰挙すべし」などと書かれてあった。

 

そして、征夷大将軍が自発的に政権を朝廷に奉還し、徳川将軍は諸侯と同列に下り、合議を尽くすため新設する列藩会議の議長を慶喜が務める、というものであった。土佐藩としては、徳川家の政権参与の維持を図っている幕府側と倒幕を目指す薩摩・長州との妥協を計ったのである。

 

 そして、同年、十月十三日、京都にいた五十四藩の重臣を京都二条城に召集し、意見を聞いた上で、同十四日「大政奉還」の上書を奉呈し、翌十五日勅許された。慶喜は将軍職辞職も願い出たが、これは許されなかった。 

 

 徳川一族の者としてそして徳川将軍家を相続した者として徳川慶喜に徳川家の国政参与を何とか存続せしめようとする意志があったことは確かである。しかし、彼が皇室・天皇を蔑ろにする意志は毛頭無かったこともまた確かである。

 

 「大政奉還」は、明治維新断行後の政体変革と比較すれば不徹底なものであるが、それでも、「天下の大政を議する全権は朝廷にあり」と書かれてあるように、天皇中心帰一の我が国の本来的な國體を明確にしている。また、議会政治形態を志向している。この二点において、徳川幕藩体制の根本的変革であったことは間違いない。    

 

 ただ、今すぐ大政を朝廷に奉還するとは言っても、朝廷側にはこれを受け入れる態勢はなかった。慶應三年十一月十七日の朝廷より征夷大将軍及び諸侯に対して下された大政改革の諮問に「政権の儀、武家へ御委任以来数百年。朝廷に於て廃絶の旧典、即今行き届かせられ難き儀は十目の視る所に候。…」と書かれてある通りである。これがまた徳川慶喜の狙い目だったという説もある。たとえ徳川氏が朝廷に「大政奉還」をしても、朝廷には実際の政治を司る能力がないのだから、自然に徳川将軍家・幕府が政治権力行使を継続する以外にないと踏んでいたという説である。実際に徳川慶喜は、側近の西周などに「大政奉還」後の具体的な政権構想を立てさせていたという。

 

 しかし、事態は徳川家にとってそう甘いものではなかった薩摩・長州そして岩倉具視等倒幕派の公家たちは、「何としても徳川幕藩体制を打倒せずんば非ず」という強固な意志を持っていた

   

 徳川慶喜が「大政奉還」の上書を朝廷に提出したその日(慶應三年十月十四日)に、倒幕の密勅が下されていた。

 

 一方、大阪・京都に駐屯する徳川幕府方兵力は一万を超している。そして、倒幕を目指して色々と画策していた薩・長・土・芸諸藩をこれまた「何としても討たずんば非ず」という強固な意志を持っていた。まさに我が日本は内戦開始直前の状況となったのである。

 

 そして、慶應三年十二月八日、薩摩・広島・尾張・越前の諸藩の兵が突然御所の宮門を固め、徳川幕府寄りの公家を排除した上で、岩倉具志が衣冠束帯に威儀を正して参内し、明治天皇に聖断あらせられた「王政復古」の大号令を発せられたき旨を奏上した。

 

 その「王政復古」の大号令といわれる「王政復古御沙汰書」には、「徳川内府従前御委任大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然、聞こし召され候……王政復古、国威挽回の御基立ち為され度く候間、自今摂関・幕府等廃絶、……諸事神武創業の始に原(もと)づき、…至当の公議を竭(つく)し、……」「近年物価格別騰貴、如何ともすべからざる勢、富者は益(ますます)富を累(かさ)ね、貧者は益窘急(差し迫った状態になること)に至り候趣、畢竟(つまるところ)政令正からざるより致す所、民は王者の大宝、百事御一新の折柄、旁(かたがた)宸衷(天皇の御心)を悩ませられ候。……」と示されている。

 

 徳川幕藩体制を廃絶し、神武天皇の国家御統治の真姿を回復し、さらに公議を尽くして国政を運営すべきであると示されているのである。これは神武天皇建国の理想に立ち返ることによって国難を打開し国政を刷新するということである。復古即革新即ち維新である。また、国民を宝と思し召され民の苦しみを救いたいという日本天皇の大御心にそった政治を行うべしと宣言されているのである。ここに明治維新の基本精神が示されている。限り無く民を慈しむ御精神が天皇統治の基本である。

 

 またこの「王政復古御沙汰書」には、「百事御一新」という言葉がある。徳川幕藩体制を打倒し、国政を根本的に改革することを目指したからこのような言葉が使われたのである。明治維新は文字通り「世直し」だったのである。

 

 徳川慶喜は、徳川宗家を継承した人として、徳川家による政治参与の体制を守ろうとした。水戸学の尊皇攘夷の精神を旨としている慶喜ではあったが、そこに限界があったのである。

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2018年6月17日 (日)

明治維新の意義

歴史の見方というのは色々ある。明治維新そして維新後の近代化について、色々な論議がある。薩長藩閥政治に対する批判は多くの人々から出されている。私が好きな作家である永井荷風の近代批判は、すさまじいまでの反薩長政府に貫かれている。荷風は、明治新政府を「足軽政府」と罵り、「薩摩長州は実行不可能な攘夷を言い立てて幕府を追い詰め権力を奪取した」と断定している。

 

たしかに薩長が絶対的正義であり、徳川を絶対的な悪とすることはできない。また維新変革の過程のみならず、近代化の過程に於いて、色々な矛盾や非道なこともあったであろう。

私は、生まれも育ちも東京である。父は徳島から上京して来た人だが、母方は関東の人間である。荷風の言うことに共感する部分もある。

 

しかし、やはり徳川幕藩体制を打倒し、天皇を中心として国家体制をつくり、近代化を推し進めたことは否定することはできないと思う。正しかったと思う。

 

日本国は神代以来、天皇が統治される国である。中心がしっかりと確立されていなければ、欧米列強の東亜侵略の危機を打開し統一と団結と安定を保つことはできなかったに違いない。

 

京都御所に天皇を押し込め、徳川氏が覇者として政治の実権を握っていた体制は許すべからざるものであった。すなわち天皇・朝廷を蔑にして国家の中心が二つあるかの如き体制は打倒されなければならなかった。

 

徳川将軍家は、京都の朝廷の権威を借りて、自己の権威を確立した。徳川家康を東照大権現と称し、家康を祭る神社を東照宮と称したのは、明らかに、日本天皇の神聖権威の模倣であるばかりでなく冒瀆であり國體隠蔽である。

 

しかし、その「東照大権現」の権威では国家的危機を打開することは出来なかった。神代以来天皇の神聖権威を精神的基盤としなければ、国家的危機を打開できなかった。だからこそ「尊皇攘夷」というスローガンで、国民が一致結束したのである。

 

明治維新は、無血革命ではなったが、フランス革命、ロシア革命などの外国の革命と比較すれば殆ど「無血」と言って良かった。維新変革は政治闘争・権力闘争・武力闘争の側面がある。色々詳しく調べれば、薩長側にも非があったのは致し方のない事と思う。そうした薩長批判は共感することも多い。とくに松平容保及び会津藩は気の毒であった。

 

しかし、私はどうしても納得ではないのは、井伊直弼を高く評価する説、錦の御旗はニセモノだったという説である。さらに許し難いのは、ここに書くのもはばかられるが、「孝明天皇暗殺説」である。これらの説に対しては、徹底的に反論しなければならないと考えている。

 

井伊直弼などの幕閣が、幕藩體制維持のために反動的政策をとった事がかえって維新を早める結果となったのであり、井伊直弼が主導した幕閣が開明派だったなどということはあり得ない。また開国政策を決定したのは井伊ではなく阿部正弘である。

 

井伊幕閣が勅許を得ずして開國したこと、そして勤皇の士を弾圧したことが明治維新の発火点になったのである。

 

維新は旧體制の打倒であるから、政権強奪と言っても全く間違いではない。行き過ぎもあれば残忍酷薄なこともあったてあろう。それは新政府方も旧幕府方もお互いの事であって、親政府方のみを責めるべきではない。

 

西南雄藩が新政府の主導権を握ったのは彼等が維新の推進力だったからであり、政権強奪と決め付けることはできない。新政権には旧幕臣も多く参加している。

 

幕末期における現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いはゆる御蔭参り)が行はれ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきてゐた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百萬人に達したといふ。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないといふことが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君萬民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないといふことが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君萬民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

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2018年4月28日 (土)

「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である

 

片岡啓治氏は明治維新について、「新しい時代を開くとは、日本の太古に還ることだったのである。…古代に還るとは、決して古くさい死物を復活させるというようなことではなく、王と民とが一体となって睦あい、政(まつりごと)と祭(まつり)とが一つに溶けあい、一君のもとに萬民が平等に暮らす、そのような社會への復帰が夢みられたのであり、そのような世の中をよみがえらせるためにこそ、〈世直し〉が求められたのであった。…そこで求められた新時代とは、その後の現實に起こるような西欧化による近代の形成ではなかったのである」(『維新幻想』)と論じた。

 

外圧の危機が主なる原因となって断行された明治維新といふ未曾有の大変革は、一君萬民の日本國體の開顕と一体であった。そして明治天皇が神々に誓はれた『五箇条の御誓文』の精神を体して、明治維新の大変革が行はれたのである。

廃藩置県、身分制度撤廃、徴兵制實施、『大日本帝國憲法』発布などの維新後の大変革・大建設事業は、明治天皇の勅命によって行はれた。わが國に天皇・皇室といふ御存在がなかったならば、明治維新といふ大変革は實現しなかった。日本の傳統の体現者たる日本天皇によって、有史以来未曾有の変革が行はれたのである。また、「諸事神武創業之始ニ原」くこと、即ち一君萬民の國體の開顕が新時代の変革そのものなのである。我國においては、「一君萬民」の國體精神、天皇の御存在こそが維新変革の中心であり原基なのである。

 

今日のわが國の議會政治は、とても「公議を竭」しているとは言へない。また健全に機能してはゐない。政党間・政治家同士の醜い権力闘争が繰り返されてゐる。國會中継を見ればわかる通り、相手を議論で打ち負かし、相手の言葉の揚げ足を取り、自分の意見に従はせようとすることに汲々としてゐる。

 

かうした事の根本原因は、わが國の道統である「尊皇精神」「天皇へのかしこみの心」が、政治家にも國民にも官僚にも希薄になってゐるからにほかならない。

 

後藤田正晴氏は、「國務大臣などの政治家は天皇の臣下ではない」といふ意識の持ち主であった。後藤田氏は平成十二年十二月五日号の『日本経済新聞』で、中央省庁の再編に関するインタビューに答へて、「まず大臣といふ名前を変えたらどうか。誰の臣下ですか?。行政の長なんだから『長官』でいい」と述べた。

これは、天皇を君主と仰ぐ建國以来のわが國體を否定し、『現行占領憲法』体制下においてもわが國は立憲君主制であるといふ自明の理を否定する許し難い発言である。社民党・共産党・極左分子がこのやうな発言をするのならまだしも、警察庁長官・内閣官房長官・自治大臣・内閣副総理を歴任し、官僚・政治家の頂点、即ち政治権力の頂点に立ったと言っていい人物が、このやうな発言をしたのである。

 

肇國以来今日に至るまでわが國の歴史を貫き、将来にも継続する無私の御存在・倫理的御存在が天皇である。天皇は、倫理道義の鏡として祭祀主として君臨されてゐる。

 

新渡戸稲造氏がその著『武士道』において、「我々にとりて天皇は、法律國家の警察の長ではなく、文化國家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうのである」と論じてゐる。

 

「天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもう」日本天皇は、権力や武力の暴走、権力者の私欲による権力と武力の行使を制限し抑制される権威をお持ちになる。天皇は権力や武力と無縁の御存在ではない。むしろ権力や武力に対して道義性を与へられる。中世・近世・近代を通じて武家権力や軍に対してさういふおはたらきをされた来た。その事を『大日本帝國憲法は』は「天皇は統治権の総攬者」と表現したのだと考へる。

 

「閣僚は、天皇の臣下ではない」などといふ主張は、かうした日本の正しい伝統を根底から否定する考へ方である。片岡啓治氏が「明治維新で求められた新時代とは、その後の現實に起こるような西欧化による近代の形成ではなかった」といふ指摘を思ひ起こさざるを得ない。 

 

わが國の傳統的倫理・道義は、〈神に対する真心の奉仕〉〈神人合一の行事〉である祭祀として継承されてきた。日本人の實際生活において行じられる祭祀そのものが倫理精神・道義感覚の具体的な現れである。信仰共同体國家日本の祭祀の中核は「天皇の祭祀」である。したがって、日本國家の祭祀主であらせられる天皇は、日本道義精神・倫理観念の体現者であらせられる。

江戸時代中期の不世出の國学者・思想家・詩人賀茂真淵は、「…さて臣たちも神を崇めば、心の内に、きたなき事を隱す事を得ず、すめらぎを恐るれば、みのうえに、あしきふるまひをなしがたし、よりて、此の二つの崇みかしこみを、常わするまじきてふ外に、世の治り、身のとゝのはんことはなきをや」(『賀茂翁遺草』)と説いてゐる。

 

議會政治は、多数決を基本とする。多数決を誤りなく機能させるためには、國民及び國民によって選出された議員が、権力闘争や利害の対立を抑制し、道義精神、理性を正しく発揮しなければならない。「人間は政治的動物だ」などと言って、道義道徳・理性を忘却してはならない。

 

日本の傳統の継承者であらせられ、常に神々を祭り、國民の幸福を神に祈られている神聖君主・日本天皇へのかしこみの心を國民全体が持つことが、日本の全ての面での安定の基礎である。

 

臣下國民に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因である。現代日本は、肝心要の「一君萬民の國體」が隠蔽されてゐるのである。これは、『現行占領憲法』にその大きな原因がある。

 

しかしわが國には、國家的危機を傳統の復活・回帰によって打開して来た歴史がある。現代もさうした時期である。わが國の傳統の根幹は「天皇中心の國體」である。

 

「天皇中心の國體」とは、神話の世界以来の信仰に基づき一系の血統と道統を保持し継承される天皇による國家統治といふことである。そして天皇の國家統治は、権力・武力による人民支配ではなく、祭祀主としての宗教的権威による統治(統べ治める)である。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である。

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2018年4月25日 (水)

『五箇条の御誓文』に示された「天地の公道」「旧来の陋習」について

 

慶応四年(明治元年)三月十四日、明治天皇が、百官・公家・諸侯を率いられて京都御所紫宸殿に出御あらせられ、御自ら天神地祇をお祀りになり、維新の基本方針を天地の神々にお誓ひになった御文である『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐる。

 

この御文について、「封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものである」といふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。

 

明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統の継承であり回帰である。

 

和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。

 

議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。

 

江戸時代における「旧来の陋習」の一つは「身分差別」である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。

 

「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」と示されてゐる。

 

今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。

 

市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。

 

明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等』が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。

 

徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

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2018年3月15日 (木)

『五箇条の御誓文』は、維新日本出発の基礎であり、近代日本の基本精神である

 

『五箇条の御誓文』は、百五十年前の慶應四年(この年の九月八日明治に改元。一八六八年)三月十四日、明治天皇が、百官・公家・諸侯を率いられて京都御所紫宸殿に出御あらせられ、御自ら天神地祇をお祀りになり、維新の基本方針を天地の神々にお誓ひになった御文である。

 

『五箇条の御誓文』には

「一、広ク會議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ我国未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」

と示されてゐる。

 

『五箇条の御誓文』は、維新日本出発の基礎であり、近代日本の基本精神と言っても過言ではない。

 

慶応三年十二月九日(一八六八年一月三日)に江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置による新政府の樹立を宣言した『王政復古の大号令』は、明治維新の構想を明示した大宣言であるが、それには「諸事神武創業之始ニ原キ、縉紳武弁堂上地下之無別、至当之公議竭シ、天下ト休戚ヲ同ク可被遊叡慮ニ付、各勉励、旧来驕惰之汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国之誠ヲ以テ可致奉公候事」と示された。

 

諸事神武創業に回帰することを大眼目とし、公議を竭(つく)して天下と休戚(喜びと悲しみ、幸福と不幸)を同じくし、旧習を洗ひ清めて、国民の身分差別をなくし、国民が倦むことなく明るく幸せに暮らす一君万民の理想国家を建設することが「王政復古」即ち明治維新の理想であることが明示された。

 

「公議を竭す政治」の実現は、明治維新の大きな目的の一つであった。万延元年六月に岩倉具視が提出した『上申書』に「誠に皇国危急の秋に際して、憂慮に堪へず候。之に依り其の匡済(注・悪をただし、乱れを救ふこと)の長計を愚考仕り候には、関東へご委任の政柄(注・政治を行ふ上での権力)を隠然と朝廷へ御収復遊ばされ候御方略に為されられる拠り、先づ億兆の心を御収攬(注・人の心などをとらへて手中におさめること)、其帰向する所を一定為し致し候て、輿議(注・世論)公論(注・公けの議論)に基き、御国是を儼然と御確立遊ばされ候半(そうらは)では、相成り難しと存じ奉り候」と論じた。

 

徳川幕府に委任してゐた国政に関する権能を朝廷に収復し、さらに国民全体の意志をよく確認し、世論や公論をよく聞いて国是を確立すべきであるといふ意見である。井伊大老天誅直後において、すでに、天皇中心の政治、議会政治・国民世論重視の姿勢が唱へられたのである。

 

慶応三年十月三日、山内豊信(土佐藩第十五代藩主、隠居後の号は容堂)が幕府に提出した『建白書』に添へられた『上書』には「一、天下の体制ヲ議スル全権ハ朝廷ニアリ。乃チ我皇国ノ制度法則一切万機必ズ京師ノ議政所ヨリ出ツベシ。一、議政所上下ヲ分チ議事官ハ上公卿ヨリ下陪臣庶民二至ル迄正明純良ノ士ヲ撰挙スベシ」と書かれてゐた。

 

朝廷中心の政治・議会政治の実現が説かれてゐる。この「上書」は坂本龍馬の『船中八策』を参考にしてものと言はれる。

 

『船中八策』とは、慶応三年六月九日土佐藩船「夕顔」で長崎を出航、十二日に兵庫に入航するまでに、坂本龍馬の発案により、長岡謙吉(土佐藩士。海援隊隊員)が筆記したもので、「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事」「一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事」とある。朝廷中心の政治と議会政治実現と共に「無窮の大典」即ち「憲法」制定をも提言してゐる。

 

「朝廷中心の政治」「公議を竭す政治」の実現は、德川幕府打倒を目指した側のみならず、幕末期の徳川幕府においても論じられてゐた。

 

慶應四年十月十四日に提出された『大政奉還の表』には「當今、外國の交際日に盛んなるにより、愈々朝權一途に出で申さず候ひては、綱紀立ち難く候間、從來の舊習を改め、政權を朝廷に歸し奉り、廣く天下の公議を盡くし、聖斷を仰ぎ、同心協力、共に皇國を保護仕り候得ば、必ず海外萬國と並び立つ可く候。臣慶喜、國家に盡くす所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら、猶見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く可き旨、諸侯へ相達し置き候。之れに依りて此の段、謹んで奏聞仕り候」と書かれてゐた。

 

天皇中心の日本國體の回復即ち天に二日無き一君万民の国家実現と萬民の公議による政治が、幕府側からも論じられたのである。

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2018年2月11日 (日)

明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」であった

 わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。

 

 「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 

 明治天皇は、さらに、

 

 「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」

 「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 

 と詠ませられている。    

 明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

 明治維新の基本精神たる「神武創業への回帰」とは、「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。

 

 そして、明治維新の大事業の一環として紀元節が制定された。

 

 『日本書紀』には、「辛酉年(かのととりのとし)の春正月(はるむつき)の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)、天皇(すめらみこと)橿原宮(かしはらのみや)に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇の元年(はじめのとし)とす」と記されている。

 

 神武天皇即位の日が正月朔日(むつきついたち)であるのは、むつき(正月)の始めにおいて、神も天地も人も新生するという上古以来の日本人の信仰に基づく。そして、明治六年、この日を太陽暦に換算した二月十一日を『紀元節』とした。

 

 明治維新後に行われた紀元節の制定は、「神武創業への回帰」という根本精神・明治天皇の大御心の実現であると共に、危機的状況にあった祖國日本を再生せしめるための精神的基盤確立であったのである。近代日本の発展はまさに神武創業への回帰がその基礎となったのである。これを「復古即革新」(=いにしえに回帰することが現在の革新であるという理念)という。

 

 今日の日本も、幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面していると言っても過言ではない。今日においてこそ神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

 

 紀元節の奉祝は、正しき國家観を恢弘し、日本國を道義國家として新生せしめる精神と一体であらねばならない。

                           

 「紀元節」の歌に、「天津日繼ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある。この「天津日繼ぎの高御座」」(天津日嗣とも書く)とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所のことである。

 

 「天津日繼ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(靈)を繼承される」ということである。日本天皇は天の神(天照大神・日の大神)の靈統を繼承され、神の御心のままに(神ながらに)日本國を治められるのである。

 

 平野孝國氏は「このツギの思想は、元来個人の肉体を超えて繼承される系譜と見てよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、『宮廷のツギは日を修飾して、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義で、口だてによって風誦せられたものである』という折口信夫説(古代研究・國文学篇)が、本義に近いものである」(大嘗祭の構造)と論じておられる。つまり、皇位の繼承は肉体的な血統のみによるのではなく、日の神の神靈を繼承するという神代以来の信仰に基づくのである。

 

 さらに「高御座」について折口信夫氏は、「高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。…御即位式に昇られる高御座は、…天が下の神聖な場所、天上と同一な価値を持って居る場所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天の帝(みかど)といふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持って居るところ、といふ意味である。…高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる」(大嘗祭の本義)と論じておられる。

 

 天皇が高御座に昇られることによって、天皇は天上の神と一体になられ、地上の國がそのまま天上の國となるのである。別の言葉でいえば、今が神代になり神代が今になるのである。日本伝統信仰においては、天と地とが隔絶した存在とはとらえていないのである。高天原を地上に持ち来たし、日本國を高天原のように清らかにして神聖なる理想國にすることが天皇の御使命である。

 

 今上天皇におかせられても、神代以来の伝統を繼承され、御即位の大礼において天津日繼ぎの高御座にお立ちになった。これは天の神の御代理(現御神)の御地位にお立ちになったということを意味するのである。「御即位の大礼」は、天照大神が皇孫邇邇藝命を天津日繼の高御座に即け給い、神器を授け給ひ、神勅を下し給ひしことを、新たに繰り返す行事である。

 

 このように、天皇の國家御統治の御精神は、常に、新たなる國家の生命の甦り、言い換えると國家の新生・再生を常に希求されているのである。しかもこの新生・再生は、それまでの伝統を断絶して行われるのではない。無限の過去から無限の未来にわたるまで、天皇による日本國の新生・再生、命の甦りは繰り返されるのである。ここに日本天皇の國家と統治そして日本國體の特質がある。

 

 我が國國民は毎年毎年同じように春から始まって冬に終わる周期的な生活を営んでいる。四季の移り変わりが規則正しく周期的であるので、お祭りも、農漁業などのなりわいも、周期的に繰り返される行事が多い。春夏秋冬の一年の暦の一巡りで、冬が終わり元の春に戻り新たな出発が行われるのである。

 

 そして、我が國民は、暦の移り変わる時、即ち新たなる年を迎えた時に、生活も万物も全て再び新生するという感覚を持つのである。その時が旧暦の睦月一日すなわち紀元節の今日である。

 

 日本民族は物事は周期的に新生を繰り返すという生活感覚を自然に持っていた。御歴代の天皇が、神武創業の精神=物事の初め・國家統治の理想(すなわち)に回帰することによって革新を断行するという維新の精神は、ここから発生してきた。

 

 だからこそ、維新は「復古即革新」といわれて来たのである。「復古」とは決して反動ではないし、回顧主義でもない。古きがゆえに良いというのではない。「復古即革新」とは、いにしえの理想の復興によって現在を新たならしめることである。  

 

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2018年1月21日 (日)

水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

 

水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(烈公・寛政十二<一八〇〇>~萬延元年<一八六〇>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与へた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終へるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

 

藩政改革に燃えた徳川斉昭は、天保十二年(一八四一)に弘道館を創立した。弘道館が創設されやうとしてゐた時期は、丁度阿片戦争が勃発し、イギリスの東亜侵略がますます活発化してゐた。支那が侵されれば次はわが國である。水戸における尊皇攘夷の精神の興起はまさにさうした危機的状況における國家防衛精神の勃興であった。

 

弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来たるといった情勢にあった幕末のわが國の危機を救ふための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

 

 幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩、そして後に徳川幕府のために奮闘した會津藩もかうした教育振興策が講じられた。

 

 徳川斉昭が天保三年(一八三八)三月、弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられてゐるといふ。

 

 藤田東湖は、文化三年(一八〇六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館記述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛へられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

 

 東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されてゐるやうに、『館記』の草案は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいといふ志で書かれた。

 

 『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなはっている大道)にして、生民の須由も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、蕃夷戎狄、之を以て率服(服従)す。……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教へ(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考へ)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の靈も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されてゐる。

 

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬ひ、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせやうとしたのである。『館記』には水戸學の精神が端的に表現されてゐる。

 

荒川久壽男氏は「烈公の新政は…尊皇と民政と國防の三大眼目に集中する。これは言葉をかえれば藤田東湖が、日本の政治の最大焦点を、敬神・愛民・尚武の三点に要約したところでもあった。しかしながら、この三事三点を貫き、その根底をなすものは正しい學問と教育でなければならぬ。正しい學問と教育があってはじめて尊皇にも目覚め、愛國の意識も育ち、人間尊重の政治も行われる。ここに烈公は水戸藩の學問教育の振興を目ざし、水府大學ともいうべき弘道館の建設を計画した。」(『維新前夜』)と論じてゐる。

 

「水戸學」は支那思想を重んじたが、無批判に支那思想を受け入れたのではない。『弘道館記』に「神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り」とある通り、神州の道を第一とし、儒教は第二と考へた。しかしながら、外来思想・文化・文明を一切排斥するといふ考へ方ではなかった。

 

藤田東湖はその著『常陸帯』で、「皇朝の風俗萬國にすぐれて貴しと雖も、文字を初め萬事の開けぬるは漢土の勝れぬる所なり。其勝れたる所を取りて皇朝の助とせん事何の耻ることや有るべき、銃砲は西北の夷狄より渡りぬるものなれども、之を取りて用る時は夷狄を防ぐべき良器なり。漢土の教を取りて用る事これに同じと、我君常に宣ふは御卓見と申すべし」と論じた。

 

日本は、古来、外来文化・文明を包摂してきた。そのことが日本文化・文明をより洗練せしめ高度にものにしてきた。しかし、その根底には、日本傳統精神を厳然として固守する根本姿勢があった。

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