2018年8月 7日 (火)

橋本左内について

橋本 左内(はしもと さない、天保五年三月十一日(一八三四年四月十九日)―安政六年十月七日(一八五九年十一月一日))は、越前国福井藩士である。景岳と号し、諱は綱紀。父は橋本長綱、母は小林静境の娘。実弟は明治における陸軍軍医総監・男爵 橋本綱常。著書には十五歳の時に志を認めた『啓発録』がある。明治二十四年、贈正四位。

 

越前国に生まれる。嘉永二年(一八四九年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。

 

安政四年(一八五七年)以降、由利公正らと幕政改革に参加。第十四代征夷大将軍を巡る安政の将軍継嗣問題では春嶽を助け、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開した。

 

幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、開国か攘夷で揺れる幕末期に活躍した人物であり、英才である。

 

安政六年(一八五九年)、主君・松平春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、左内自身も安政の将軍継嗣問題に介入した事が問はれ、南紀派で大老となった井伊直弼が発令した安政の大獄で斬首された。享年二六。

 

左内の処刑は藩主松平慶永の身代りといふか井伊直弼の慶永公に対する圧迫策であるといはれてゐる。左内は井伊大老誅殺後、罪を許され、遺骸は福井に移された。

 

墓所は東京都荒川区の小塚原回向院と、福井県福井市の善慶寺とにある。小塚原回向院には『橋本景岳之碑』が建立されてゐる。小塚原回向院のある地は、江戸時代の刑場跡で、回向院は、寛文七年、本所回向院の住職・弟誉義観が行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺である。開創から刑場が廃止された明治元年までの二百二十余年間に二十四万の遺体が葬られたといふ。大部分は重罪者で、ここで行はれた刑は獄門・磔・火あぶりといふ極刑であり、処刑者の埋葬は簡単に土をかけるだけといふもので、悪臭が漂ひ、野犬・野鳥が群がったといふ。何とも恐ろしい話である。

 

回向院に入り行くとすぐ左に橋本左内の墓がある。その隣りには、『橋本景岳之碑』が建てられてゐる。明治十七年の建立で、三条実美篆額・重野安繹撰・巌谷修書。

 

左内は次のやうな詩を残してゐる。

 

「二十六年は夢の如くにして過ぐ 顧みて平昔を思へば感ますます多し 天祥の大節は嘗て心折(くじ)きぬ 土室猶吟ず正気の歌」

 

「常山の髪 侍中の血 日月も光をつつみ 山河も色を改む 生きては名臣となり 死しては列星となる」(支那古代の忠臣に倣って自分も生きているうちは謀反人と戦ひ、死んでも忠臣の名をとどめたいといふ意)である。

 

吉田松陰・橋本左内のお二人は同じ運命を辿りお互ひに尊敬してゐたのだが、生前一度も會ったことはなかったといふ。

 

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2018年7月29日 (日)

明治維新と祭政一致の道統の回復

 

『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは、「祭政一致」の再興である。「祭政一致」とは、神をまつり神の御心のままに政治を行ふといふことである。

 

明治天皇は、明治元年十月十七日渙発の『祭政一致の道を復し氷川神社を親祭し給ふの詔』において「神祇を崇(たふと)び祭祀を重ずるは、皇國の大典にして、政教の基本なり。…方今更始の秋(とき)、新に東京を置き、親しく臨みて政を視る。将に先づ祀典を興し、綱紀を張り、以て祭政一致の道を復せむとす」と示された。

 

さらに、明治天皇は、明治三年正月三日『神靈鎮蔡の詔』を発せられ、神武天皇が橿原建都の後四年二月二十三日に発せられた『天神を祀り大孝を述べ給ふ詔』の大御心を継承されて、「朕、恭しく惟みるに、大祖の業を創(はじ)めたまふや、神明を崇敬し、蒼生を愛撫したまひ、祭政一致、由来する所遠し。朕、寡弱を以て、夙に聖緒を承け、日夜怵惕(じゅつてき)して、天職の或は虧(か)けむことを懼る。乃ち祇(つつしみ)て天神・地祇・八神曁(およ)び列皇の神靈を、神祇官に鎮祭し、以て孝敬を申(の)ぶ。庶幾(こひねがは)くは、億兆をして矜式(きょうしき)する所有らしめむ」と宣せられた。

 

影山正治氏は、「『諸事神武創業ノ始ニ原カム』ことを御眼目とされた明治御維新は、何よりも先づ祭政一致の大道大義を明らかにすることを以てその根本第一義とされた」(『古事記要講』)と論じてゐる。

 

復古の精神即ち祭政一致の精神は具體的には次のやうな形で現れた。明治四年十二月十二日付の左院(明治初期の立法諮問機関)の『建議』に「一、天照大神の神殿を禁域の中央に造立し、國家の大事は神前に於て議定すべきこと。…文武百官拝任の日は必ず神殿に拝して誓文を奉り、神教を重んじて皇室と共に國民を保安するの誠心を表せしむべ事。」とある。

 

「祭政一致」の制度を確立して、政治家・官僚はもちろん國民すべてが天神地祇へのかしこみの心を持って政治を行ひ、生活を営ませやうとした。神祇官の再興もその一環であった。

 

神祇官とは、律令制で、太政官と並ぶ中央最高官庁である。朝廷の祭祀をつかさどり、諸國の官社を総轄した。明治維新政府は、慶応四年(一八六八)閏四月、太政官七官の一として神祇官を再興し、神祇・祭祀をつかさどらしめた。明治四年(一八七一)八月八日にその規模を変じて神祇省と改称した。

 

「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

 

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道學」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

この自由な発想の「生みの親」は實に、洋學者でもなければお雇ひ外國人でもない。實に國學者・玉松操であった。『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ。」

「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

 

要するに、明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだったのである。

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2018年7月 5日 (木)

水戸天狗黨の悲劇

 

水戸市松本町に回天神社が鎮座する。れは、安政の大獄から戊辰戦争に至る勤皇殉難志士千七百八十五名の御霊を祀る神社である。拝殿は昭和四十四年の造営。

 

 幕末期の水戸藩は内部抗争が激しかった。尊皇攘夷派の中でも、水戸藩の中核思想たる『水戸學』に解釈を巡って激派と鎮派が真っ向から対立した。そして、安政五年(一八五八)八月八日、朝廷は幕府が勅許を得ずして『日米修好通商条約』に調印したことを非難し、徳川斉昭などが雄藩と共に幕政一新を断行せよと命ずる「勅諚」を水戸藩に下し、各藩にも伝達せよと命じられた。井伊直弼の主導する幕府はこの勅諚の返納を水戸藩に迫った。この問題についてどう対処するかで激派と鎮派が対立した。

 

 激派の主張は、「水戸家の本領は大義名分を重んずることにある。朝廷より賜りたる勅諚は各藩に伝達せねば違勅なる」というものであり。鎮派の主張は、「幕命に背くことは東照宮(家康)以来の伝統に反する」というものであった。

 

 激派の一部志士は、脱藩して井伊直弼を江戸桜田門外で誅殺した。そして、井伊直弼誅殺を行った水戸の志士たちに対して、天下の尊壤の志士の期待が集まった。

 

文久三年(一八六三)八月、「攘夷祈願・親征軍議の大和行幸」(天皇御自ら大和の神武天皇御陵などに参拝され、攘夷を祈願し、鳳輦を伊勢に進め奉り、東に向かって討幕の大事を行うという計画)が中止され、朝廷は公武一和で(朝廷と幕府が一體となって)國難に当たろうとする政情となった。しかし、これに反発する動きとして「大和天誅組の変」や「但馬の変」が起こった。

 

 藤田小四郎(藤田東湖の四男)ら尊攘派の水戸藩士は天誅組などの動きに呼応して、挙兵して攘夷の先駆たらんとし、元治元年(一八六四)三月二十七日、ついに「前藩主徳川斉昭の遺志を継承する」と称して、脱藩して筑波山に兵を挙げ、水戸藩佐幕派(諸生黨)及び幕府軍と戦った。当初は七十二名であった。彼らは白木の輿に、烈公の霊位を祀り、「贈従二位大納言源烈公神主」と大書した白布の幟を掲げ、これを軍神と奉戴して進軍した。

 

 これを「筑波山挙兵」或いは「天狗黨の乱」という。「天狗黨」という名称の由来は、水戸藩内の保守派・佐幕派である「門閥派」が家格の低い者たちの集まりである「尊攘派」が「鼻を高くして威張り散らす」として蔑みの念を込めて「尊攘派」を「天狗派」と呼んだことによるという。尊攘派の激派は、「天狗は義勇に通じるもの」だとして自ら「天狗黨」と名乗るようになったという。

 

 水戸天狗黨挙兵の檄文には、「東照宮(徳川家康のこと)、大猷公(家光のこと)には別して、深く御心を尽せられ、数百年の太平の基を開き遊ばされ候も、畢竟(つまるところ)尊皇攘夷の大義に本づかれ候儀にて、徳川家の大典、尊皇攘夷より重きは之なき様相成候は、実に勇々しき儀ならずや、……其志誓って東照宮の遺訓を奉じ、姦邪誤國の罪を正し、醜虜外窺の侮を禦ぎ、天朝、幕府の鴻恩に酬んとするに在り」と記されている。

 

この文に水戸藩の尊皇攘夷論の大きな矛盾というかジレンマがある。果たして家康が尊皇の至誠を持っていたかどうか疑問である。徳川家康を宗(祖先)と仰ぐ水戸藩の尊皇攘夷運動が、関ヶ原で徳川氏を敵として戦った薩摩や長州の徹底した幕府打倒の姿勢とは違った形になったのはこういうところにその原因があると思われる。

 

 小四郎らの筑波義軍は奮戦したが及ばず、衷情を天聴に達すべく、十月二十三日に幕軍の重圍を突破して軍団を組織し、武田耕雲斎(水戸藩元執政)を総大将として、十一月一日大子(現在の茨城県久慈郡大子町)を出発、同志一千余名を連れて道を下野・上野・信濃・美濃に取り、転じて十二月十一日越前に向かった。大雪道を埋め、糧食給せず、難渋を極めたと伝えられる。

 

 当時、禁裡御守衛総督に任じられていた徳川慶喜は、小四郎や耕雲斎らが熱烈に支持し尊敬していた斉昭の実子である。耕雲斎たちは慶喜なら自分たちの心情と行動を理解して貰えると思い、慶喜のいる京都に向かったのである。

 

しかし慶喜は、「常野浮浪脱走の徒の追討」を奏請し、同年十二月三日、京都を発して近江に宿った。筑波義軍を征討すべく立ち向かってくる軍勢の総督が、義軍が頼みとして来た慶喜だったのである。耕雲斎らは再三にわたって嘆訴状を慶喜に提出したが容れられず、筑波義軍・八百二十三名は加賀藩に降った。

 

 加賀藩は筑波義軍の従容たる態度に同情し、武士を遇する態度で臨んだが、翌慶應元年(一八六五)二月、幕府若年寄・田沼玄番頭意尊(たぬまげんばのかみおきたか)指揮下の幕府軍が到着すると待遇は一変した。幕府は筑波義軍を敦賀船町にあった十六棟の鰊肥料蔵に禁固した。鰊蔵の窓は全て釘で打ち付けられ、日の当たらない寒冷と臭穢の中で、全員が足枷をかけられ、土間に筵を強いて起居の場とし、夜具も与えられず、蔵の中央に樽を据えて用便の場所とし、わずかな穴から一日人の二個の握り飯を供されるという残虐非道処遇にあった。そして武田耕雲斎など三百五十三名が斬首という極刑に処された。斬首を免れた者も、鰊蔵で錮死、水戸に帰った者も獄死した。耕雲斎の家族は三歳の幼児まで殺されたという。

 

 自分を頼って来た水戸藩士を極刑に処した徳川慶喜のやり方は彼の人望を下落せしめ、志士をして徳川幕府打倒の道をいよいよ急がしめる端緒となったといわれる。大久保一蔵(後の利通)は幕府が残酷無比の極刑を行ったことを知り、「是ヲ以テ幕府滅亡ノ表ト察セラレ候」と書いている。もっとも大久保自身も維新後に、政敵・江藤新平を佐賀の乱の首謀者として梟首という残虐な刑に処するのである。歴史はめぐるというべきか。

 

 武田耕雲斎は次のような歌をのこしている。

 

「雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪」

「かたしきて寢ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪」

 

この時、耕雲斎は六十一歳の高齢であった。

 

 水戸の回天神社の隣に回天館がある。これは、昭和三十五年、天狗黨の志士たちが拘禁された鰊蔵が解體されることとなり、それを惜しむ水戸市民有志が一棟を敦賀市から譲り受け水戸市常盤神社境内に移築し、さらに平成元年回天神社境内に移築したものである。館内は天狗黨ゆかりの遺品・資料などが展示されている。

     

 扉にはこの蔵で非業の最期を遂げた志士の絶筆がのこっている。また精神的に異常をきたした志士が頭を打ち付けた柱、血糊の付いた壁などがそのまま残されている。

 

故梶山静六氏の「回天 法務大臣梶山静六」と書かれた書が掲げられていた。これは、梶山氏が茨城選出の國會議員だから掲げられているのではない。梶山氏の祖先は天狗黨の志士であったからである。

 

水戸の人に中には、「水戸の人間は天狗黨を死地に追いやった慶喜に恨みを持っているから、あの番組は見ない」と言う人もいる。以前、東京谷中墓地の徳川慶喜の墓に参った時にも、偶然居合わせた老人が、徳川慶喜に対する恨み言を言っていたことを思い出す。

 

 回天神社の隣には、「水戸殉難志士之墓」があり、一定の形の墓石三百七十四基が整然と並んでいる。

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2018年7月 3日 (火)

孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である

 

朝廷は、外國の勢威を恐れた屈辱的な開國に反対した。また開國反対の世論が巻き起った。しかし、井伊直弼の主導する徳川幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷の「攘夷」のご命令を無視して『日米通商条約』を締結した。この事によって尊皇倒幕の声が全国から澎湃として巻き起った。

 

第百二十一代・孝明天皇御製を拝する。

 

あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(とつくに)の船

 

戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり

 

この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新だった。

 

安政五年六月十九日、井伊の主導する幕府は、勅許を得ずして『日米通商条約』を締結した。その前々日の六月十七日、孝明天皇が発せられた『大神宮に外患調伏を祈禳し給ふの宣命』には、

 

「嘉永の年より以往(このかた)、蛮夷屡来れども、殊に墨夷(米夷)は魁主と為て、深くわが國と和親を請ふ所、後年併呑の兆、又邪教の伝染も亦恐る可し。若し要(もとめ)に逆へば、戦争に曁(およ)ぶ可き由を曰(まを)す。實に安危の間、決し難く思ひ煩ふ所、東武(註・幕府)に於いて應接に及び、方今差し拒む可きの慮(こころ)もなく、時勢の變革を以て、貿易通交を許容せむと欲す。是れ輙ち天下國家の汚辱、禍害遠からずと、晝とも無く夜とも無く、寤(さ)めても憂へ寐ても憂ふ。若し兵船来たるべくあらば、皇太神早く照察を垂れ給ひ、殊に神徳の擁護を以て、蒙古の旧蹤の如く、神風を施し給ひ、賊船を漂ひ没(しづ)ましめ、鎮護の誓を愆(かだ)はずして、天變地妖の怪在る可きなりとも、消し除き給ひて、…國體を誤らずして、禍乱を除き給ひ、四海静謐、萬民娯楽、永く戎狄の憂なく、五穀豊熟にして、寶位(あまつひつぎ)動(ゆる)ぎ無く、常磐に堅磐に、夜守日守に幸へ給へと、恐み恐みも申し賜はしく申す」(アメリカを主とした外国がわが国との和親を求めて来たが、後年になってわが国を併呑しやうとしてゐる兆しがある。また邪教の伝染も危険である。わが国が開国を拒否したら武力を行使すると言ってゐる。実に危険である。ところが徳川幕府は時代が変ったのだとして貿易交通を許容しやうとしてゐる。これは国家の汚辱であり害である。わたくしは昼も夜も寝ても覚めても心配してゐる。もし外国が攻めて来たら、天照大御神は明らかに察知されて、神徳の擁護によって蒙古来襲の古事のやうに、神風を吹かせ給ひ、賊船を沈没させ、国家鎮護のお誓ひに違はず、天変地妖を消し除き給ひて、國體を誤らず、禍乱を除き給ひ、世界平和、萬民幸福、永遠に外敵の憂ひ無く、五穀豊饒にして、天皇の御位も揺らぐことなく、永遠に堅固に夜も昼も護り給へと恐れながら申し上げます、といふほどの意)

と示されてゐる。

 

孝明天皇は、天照大神・邇邇藝命・神武天皇以来の連綿たる皇統の神聖権威を体現され、内憂外患交々来たるといった困難な情勢に先頭に立って立ち向はれたのである。攘夷断行といふ孝明天皇の強いご意志・大御心が國民意識を呼び覚まし、沸騰させ、強靭なナショナリズムとなり、短期間のうちに明治維新といふ大変革をもたらしたのである。

 

勅許を待たずに『日米通商条約』を締結した幕府への孝明天皇のお怒りは激しく、安政五年七月一日に次のやうな御製を詠ませられた。

 

しげりあひ繁り合ひたる萩すすきあるに甲斐なき武蔵野の原

 

「あるに甲斐なき武蔵野の原」とは、「夷」(外國)征伐できず条約を結んでしまった徳川幕府は、信頼するに足らないといふ意味であり、言ひ換へれば、徳川氏は征夷大将軍たるの資格を喪失したといふ意である。

 

さらに、孝明天皇は、幕府の専断を嘆かせ給ひ、六月二十八日には御退位の『密勅』を下し給ふた。それには、「(徳川幕府は)縦令ひ治世続き候とて(外國に)敵し難き旨申し候ては、実に征夷之官職紛失、歎箇敷事に候。所詮条約許容之儀は如何致し候とも、神州之瑕瑾、天下危亡之基、(御名)に於ては何処迄も許容難致候。」と示されてゐる。孝明天皇は、徳川幕府はその使命たる征夷を成し遂げることができない事を歎かれ、条約締結は神國の大きな傷となるとされたのである。

 

「征夷大将軍」とはいかなる役目を持つかについて、平田篤胤は次のやうに述べてゐる。「東西南北のエビスどもの、御國へ対し奉り不届きをせぬやうまた不届き無礼があったならば、相糾し、打平らげよと云ふ大将軍に御任じおかれてさし置かるる、大切なる徳川の御家に坐すによって、征夷大将軍とは申し奉るでござる。」(『伊吹於呂志』)

 

上御一人・孝明天皇が、「徳川氏は征夷大将軍の使命を果たすことができなくなった」と思し召された事の意味は大きい。

 

さらに八月五日には、重ねて攘夷の勅諭を下され、その中で徳川幕府に対して「厳重に申せば違勅、実意に申せば不信の至りに之無きや」と仰せられた。

 

八月七日には、幕府の非を戒め、國論の一致・挙國体制確立を望まれる『御趣意書』を下された。これを『戊午の密勅』と申し上げる。これが契機となり、安政の大獄、桜田門外の変、禁門の変、征長の変、薩長同盟・大政奉還、戊辰戦争へと歴史が進み明治維新が成就するのである。

 

宇都宮藩士・大橋訥庵(幕末の攘夷思想家。江戸の富商大橋家の養子。朱子学を学び攘夷論を主張。のち老中安藤信正暗殺を企てて捕へられ、幽居中病死。)はその著『政権恢復秘策』(文久元年九月)において、「今上ハ英明ニマシマシテ、夷狄猖獗ヲ憂憤シ玉ヒ、日夜宸襟を苦シメ玉フト云フコトハ、草莽マデモ聞エ渡リテ、誰モ彼モ有難キコトヨト涙ヲ流シ、カカル澆季(註・末世)ノ世ニ当リ、神州ノ危キ折カラニ、英明ノ天子出玉フテ、國土ヲ憂憤シ玉フハ、古ヘノ天祖ノ勅ニ、宝祚之隆当与天壌無窮ト宣ヒツルシルシナラント、人ミナ心強キコトニ思ヒ、神州ノ夷狄トナラザル恃ミハ、只天子ノ宸断ニアリ…一声ノ霹靂ノ轟クガ如ク、攘夷ノ詔勅ヲ下シ玉ハゞ、一人モ感動セザル者ナク、海内一時ニ饗応センコト、断々乎トシテ疑ヒナケレバ、是レゾ誠ニ今日第一ノ急務ニ非ズヤ。」と論じた。

 

全國の志士が身命を賭して尊皇倒幕に奮起したのは、孝明天皇の幕府に対する震怒がその根本要因である。そして孝明天皇の震怒が志士を奮起せしめたのは、神代以来のわが國の天皇信仰に基づくのである。つまり、孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である。徳川将軍家の統治能力が弱まったから相対的に朝廷の権威と権力が増したなどといふのは一面的な世俗的解釈である。國家存亡の危機に際して日本民族の三千年来の現御神信仰・尊皇精神が興起したのである。

 

徳富蘇峰は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない、また当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。……孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。すなわち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御陰であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇和歌御會記及び御年譜』の「序」)と喝破しておられる。

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2018年6月28日 (木)

『五箇条の御誓文』に示された「天地の公道」とはわが國が古来より継承して来た一君萬民の理想政治の道

 

『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐるのは、封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものであるといふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。

 

明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。議會政治・公議を竭す政治は、「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統である。

 

和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。

 

議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。

 

「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。

 

江戸時代における「旧来の陋習」の一つは身分差別である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。

 

「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」。

 

今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。

 

市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。

 

明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。

 

徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

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2018年6月26日 (火)

明治維新の基本精神について

 

明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。

 

「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 

慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 

明治天皇は、さらに、

 

「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」

 

「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 

と詠ませられている。    

 

明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

明治維新は、「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。

 

「神武創業への回帰」という明治維新の根本精神は、危機的状況にあった祖國日本を再生せしめるための精神的基盤確立であったのである。近代日本の発展はまさに神武創業への回帰がその基礎となったのである。これを「復古即革新」(=いにしえに回帰することが現在の革新であるという理念)という。

今日の日本も、幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面している。今日においてこそ神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

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橋本左内辞世の漢詩

 

変革の時代には、必ず旧体制を守らんとするいはゆる守旧派が必ずと言っていいほど登場する。明治維新前夜のわが國に於いては、井伊直弼がそれであった。

 

井伊直弼は、征夷大将軍が英明であるべきかどうかを問ふことなく、血統が近い人物を将軍として旧来の幕府政治を保守しようとした。保守と言ふよりも「守旧」と言ふべきであらう。井伊直弼の「守旧」姿勢そしてそれに伴う「安政の大獄」さらに井伊直弼誅殺が幕府崩壊を早めたのである。

 

安政五年(一八五八年)七月五日、井伊の主導する『安政の大獄』により、主君・松平春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた。橋本左内自身も将軍継嗣問題に介入した事が問はれ、安政六年十月七日、傳馬町の獄で処刑された。「公儀憚らざるいたし方、右始末不届付」との理由であった。

 

享年二十六歳であった。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。明治二十四年(一八九一年)に贈正四位。

 

左内の処刑は藩主松平慶永の身代りといふか井伊直弼の松平慶永に対する圧迫策であった。遺骸は小塚原回向院に葬られた。

 

小塚原回向院のある地は、江戸時代の刑場で、回向院は、寛文七年、本所回向院の住職・弟誉義観が行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺である。開創から刑場が廃止された明治元年までの二百二十余年間に二十四万の遺体が葬られたといふ。大部分は重罪者で、ここで行はれた刑は獄門・磔・火あぶりといふ極刑であり、処刑者の埋葬は簡単に土をかけるだけといふもので、悪臭が漂ひ、野犬・野鳥が群がったといふ。何とも恐ろしい話である。

 

橋本左内は井伊大老誅殺後、罪を許され、遺骸は福井に移された。従って、左内の墓所は、福井市の善慶寺に隣接する左内公園と、長州の吉田松陰などとともに南千住の回向院にもある。明治二十六年になって、墓石はこの地に戻された。

 

小塚原回向院に入り行くとすぐ左に橋本左内の墓があり、その隣りには『橋本景岳之碑』が建てられてゐる。明治十七年の建立で、三条実美篆額・重野安繹撰・巌谷修書。

 

橋本左内は、安政六年十月二日、江戸小伝馬町の獄舎に入牢、五日後の七日に処刑されるが、その五日間で、次のやうな辞世の詩を残してゐる。

 

「二十六年は夢の如くにして過ぐ 顧みて平昔を思へば感ますます多し 天祥の大節は嘗て心折(くじ)きぬ 土室猶吟ず正気の歌」

(二十六年の歳月は夢のやうに過ぎてしまった。平和だった昔のことを思ふと感ずるところがますます多い。支那の南宋末期に出た忠臣・文天祥は、元軍と戦ひ、囚はれの身となっても強い意思と信念を貫いて「正気の歌」を詠んだ。私はそれを讀んでとてもかなはないと思ったが、今、処刑されるにあたって、獄中において「正気の歌」を吟じたい、といふ意)

 

「苦冤洗ひ難く恨み禁じ難し 俯すれば則ち悲痛、仰げば乃ち吟ず 昨夜城中霜始めて殞つ 誰か知る松柏後凋の心」

(藩主・春嶽公の無実を晴らすこともできず、痛恨を禁じ難い。俯すれば悲痛の思ひを苛まれ、仰げば吟ずるのみである。昨夜江戸城下にしもがはじめて降りた。松柏のやうに苦難に耐えて節操を守る心を誰が知るであらうか)

 

 同じ時期に、吉田松陰も小伝馬町の獄舎につながれていたが、二人はついに面接することは出来なかった。しかし、橋本左内は次の漢詩を松陰に贈ってゐる。

 

「曾て英籌を聴き、鄙情を慰む 君を要して久しく同盟を計らんと欲す 碧翁狡弄何ぞ恨みを限らん 春帆太平を颿らざらしむ」

(優れた計画を聴き、かねがね感心してゐました。君と共に長い期間同盟を計画したいと欲してゐました。青い目の狡い男【ペリーの事】は太平洋を渡らせなかった)

 

 吉田松陰・橋本左内のお二人は同じ運命を辿りお互ひに尊敬してゐたのだが、生前一度も會ったことはなかった。

 

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2018年6月18日 (月)

「賊軍の総大将」の汚名を蒙った徳川慶喜の悲劇

 

 徳川第十五代将軍・徳川慶喜は天保八年(一八三七)九月二十九日、水戸藩九代目藩主・徳川斉昭の七男として、江戸小石川の水戸藩邸に生まれた。母は有栖川宮織仁親王の王女、登美宮吉子女王である。水戸藩は、二代藩主光圀以来、国史の振興につとめ、尊皇精神をその伝統として来た。とりわけ光圀は、三十五万石の所領のうち、八万石を国史振興即ち『大日本史』編纂の費用に充てたといわれる。

 

 しかし、徳川慶喜は徳川幕府打倒の武力戦であった戊辰戦争において、賊軍の総大将の汚名を蒙った。しかし慶喜は決して天皇に背くつもりもなかったし、背いたわけでもなかった。、

 

徳川斉昭が藩主になった当時の水戸藩には、藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎など天下に鳴り響く尊皇攘夷の学者がいた。長州の吉田松蔭もはるか水戸にまで来て教えを乞うたほどである。

 

安政五年(1858年)に大老となった井伊直弼は、勅許を得ずに「日米修好通商条約」を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問し翌・安政六年(1859年)に、父・徳川斉昭と共に、慶喜にも隠居謹慎処分が下る。この日は三卿の登城日であり、慶喜は斉昭や慶永と違って不時登城ではなく、罪状は不明のままの処分であった。

 

 さらに、勅許を得ずして屈辱的な開国を行うという暴挙を行い、それに抗議した多くの志士たちを弾圧した井伊直弼を、桜田門外において討ち取ったのは、徳川斉昭を慕う水戸脱藩浪士たちであった。これが、幕末期の尊皇攘夷運動の発火点となったのである。徳川斉昭の実子たる慶喜が、天皇に背くなどということはあり得ないことであった。

 

 徳川慶喜は、慶應二年(一八六六)十二月五日、征夷大将軍・内大臣に補任された。時に三十歳であった。ところが、攘夷の意志は極めて強く持っておられたけれども、「公武一和・公武合体」即ち「徳川幕府を存続させた上で、公家と武家とが協力して国難に当たるべし」と思し召されていた孝明天皇が、同年十二月二十五日に、御年・三十六歳で崩御された。そして、翌慶應三年(一八六七)睦仁親王(明治天皇)が御年十六歳で践祚された。これにより、朝廷内に徳川幕府を打倒して国難を打開せんとする勢力即ち倒幕派が勢力を強めた。その筆頭が岩倉具視であった。

                 

 こうした状況下にあって、徳川慶喜は、倒幕勢力の力を弱めるために、政体の根本的改革を断行しなければならないと痛感した。それが「大政奉還」である。この「大政奉還」は、土佐藩主・山内容堂(豊信)の建白によるものである。そしてその建白書は、この年の六月に長崎から京都へ向かう航海の途中、坂本龍馬が後藤象二郎(二人とも土佐藩士)に授けた有名な『船中八策』(新政府綱領八策)を手直ししたものであるという。

 

 その内容は、「一、天下の大政を議する全権は朝廷にあり。乃我皇国の制度法則、一切万機、必ず京都の議政所より出づべし。一、議政所上下を分ち、議事官は上公卿より下陪臣・庶民に至る迄、正明純良の士を撰挙すべし」などと書かれてあった。

 

そして、征夷大将軍が自発的に政権を朝廷に奉還し、徳川将軍は諸侯と同列に下り、合議を尽くすため新設する列藩会議の議長を慶喜が務める、というものであった。土佐藩としては、徳川家の政権参与の維持を図っている幕府側と倒幕を目指す薩摩・長州との妥協を計ったのである。

 

 そして、同年、十月十三日、京都にいた五十四藩の重臣を京都二条城に召集し、意見を聞いた上で、同十四日「大政奉還」の上書を奉呈し、翌十五日勅許された。慶喜は将軍職辞職も願い出たが、これは許されなかった。 

 

 徳川一族の者としてそして徳川将軍家を相続した者として徳川慶喜に徳川家の国政参与を何とか存続せしめようとする意志があったことは確かである。しかし、彼が皇室・天皇を蔑ろにする意志は毛頭無かったこともまた確かである。

 

 「大政奉還」は、明治維新断行後の政体変革と比較すれば不徹底なものであるが、それでも、「天下の大政を議する全権は朝廷にあり」と書かれてあるように、天皇中心帰一の我が国の本来的な國體を明確にしている。また、議会政治形態を志向している。この二点において、徳川幕藩体制の根本的変革であったことは間違いない。    

 

 ただ、今すぐ大政を朝廷に奉還するとは言っても、朝廷側にはこれを受け入れる態勢はなかった。慶應三年十一月十七日の朝廷より征夷大将軍及び諸侯に対して下された大政改革の諮問に「政権の儀、武家へ御委任以来数百年。朝廷に於て廃絶の旧典、即今行き届かせられ難き儀は十目の視る所に候。…」と書かれてある通りである。これがまた徳川慶喜の狙い目だったという説もある。たとえ徳川氏が朝廷に「大政奉還」をしても、朝廷には実際の政治を司る能力がないのだから、自然に徳川将軍家・幕府が政治権力行使を継続する以外にないと踏んでいたという説である。実際に徳川慶喜は、側近の西周などに「大政奉還」後の具体的な政権構想を立てさせていたという。

 

 しかし、事態は徳川家にとってそう甘いものではなかった薩摩・長州そして岩倉具視等倒幕派の公家たちは、「何としても徳川幕藩体制を打倒せずんば非ず」という強固な意志を持っていた

   

 徳川慶喜が「大政奉還」の上書を朝廷に提出したその日(慶應三年十月十四日)に、倒幕の密勅が下されていた。

 

 一方、大阪・京都に駐屯する徳川幕府方兵力は一万を超している。そして、倒幕を目指して色々と画策していた薩・長・土・芸諸藩をこれまた「何としても討たずんば非ず」という強固な意志を持っていた。まさに我が日本は内戦開始直前の状況となったのである。

 

 そして、慶應三年十二月八日、薩摩・広島・尾張・越前の諸藩の兵が突然御所の宮門を固め、徳川幕府寄りの公家を排除した上で、岩倉具志が衣冠束帯に威儀を正して参内し、明治天皇に聖断あらせられた「王政復古」の大号令を発せられたき旨を奏上した。

 

 その「王政復古」の大号令といわれる「王政復古御沙汰書」には、「徳川内府従前御委任大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然、聞こし召され候……王政復古、国威挽回の御基立ち為され度く候間、自今摂関・幕府等廃絶、……諸事神武創業の始に原(もと)づき、…至当の公議を竭(つく)し、……」「近年物価格別騰貴、如何ともすべからざる勢、富者は益(ますます)富を累(かさ)ね、貧者は益窘急(差し迫った状態になること)に至り候趣、畢竟(つまるところ)政令正からざるより致す所、民は王者の大宝、百事御一新の折柄、旁(かたがた)宸衷(天皇の御心)を悩ませられ候。……」と示されている。

 

 徳川幕藩体制を廃絶し、神武天皇の国家御統治の真姿を回復し、さらに公議を尽くして国政を運営すべきであると示されているのである。これは神武天皇建国の理想に立ち返ることによって国難を打開し国政を刷新するということである。復古即革新即ち維新である。また、国民を宝と思し召され民の苦しみを救いたいという日本天皇の大御心にそった政治を行うべしと宣言されているのである。ここに明治維新の基本精神が示されている。限り無く民を慈しむ御精神が天皇統治の基本である。

 

 またこの「王政復古御沙汰書」には、「百事御一新」という言葉がある。徳川幕藩体制を打倒し、国政を根本的に改革することを目指したからこのような言葉が使われたのである。明治維新は文字通り「世直し」だったのである。

 

 徳川慶喜は、徳川宗家を継承した人として、徳川家による政治参与の体制を守ろうとした。水戸学の尊皇攘夷の精神を旨としている慶喜ではあったが、そこに限界があったのである。

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2018年6月17日 (日)

明治維新の意義

歴史の見方というのは色々ある。明治維新そして維新後の近代化について、色々な論議がある。薩長藩閥政治に対する批判は多くの人々から出されている。私が好きな作家である永井荷風の近代批判は、すさまじいまでの反薩長政府に貫かれている。荷風は、明治新政府を「足軽政府」と罵り、「薩摩長州は実行不可能な攘夷を言い立てて幕府を追い詰め権力を奪取した」と断定している。

 

たしかに薩長が絶対的正義であり、徳川を絶対的な悪とすることはできない。また維新変革の過程のみならず、近代化の過程に於いて、色々な矛盾や非道なこともあったであろう。

私は、生まれも育ちも東京である。父は徳島から上京して来た人だが、母方は関東の人間である。荷風の言うことに共感する部分もある。

 

しかし、やはり徳川幕藩体制を打倒し、天皇を中心として国家体制をつくり、近代化を推し進めたことは否定することはできないと思う。正しかったと思う。

 

日本国は神代以来、天皇が統治される国である。中心がしっかりと確立されていなければ、欧米列強の東亜侵略の危機を打開し統一と団結と安定を保つことはできなかったに違いない。

 

京都御所に天皇を押し込め、徳川氏が覇者として政治の実権を握っていた体制は許すべからざるものであった。すなわち天皇・朝廷を蔑にして国家の中心が二つあるかの如き体制は打倒されなければならなかった。

 

徳川将軍家は、京都の朝廷の権威を借りて、自己の権威を確立した。徳川家康を東照大権現と称し、家康を祭る神社を東照宮と称したのは、明らかに、日本天皇の神聖権威の模倣であるばかりでなく冒瀆であり國體隠蔽である。

 

しかし、その「東照大権現」の権威では国家的危機を打開することは出来なかった。神代以来天皇の神聖権威を精神的基盤としなければ、国家的危機を打開できなかった。だからこそ「尊皇攘夷」というスローガンで、国民が一致結束したのである。

 

明治維新は、無血革命ではなったが、フランス革命、ロシア革命などの外国の革命と比較すれば殆ど「無血」と言って良かった。維新変革は政治闘争・権力闘争・武力闘争の側面がある。色々詳しく調べれば、薩長側にも非があったのは致し方のない事と思う。そうした薩長批判は共感することも多い。とくに松平容保及び会津藩は気の毒であった。

 

しかし、私はどうしても納得ではないのは、井伊直弼を高く評価する説、錦の御旗はニセモノだったという説である。さらに許し難いのは、ここに書くのもはばかられるが、「孝明天皇暗殺説」である。これらの説に対しては、徹底的に反論しなければならないと考えている。

 

井伊直弼などの幕閣が、幕藩體制維持のために反動的政策をとった事がかえって維新を早める結果となったのであり、井伊直弼が主導した幕閣が開明派だったなどということはあり得ない。また開国政策を決定したのは井伊ではなく阿部正弘である。

 

井伊幕閣が勅許を得ずして開國したこと、そして勤皇の士を弾圧したことが明治維新の発火点になったのである。

 

維新は旧體制の打倒であるから、政権強奪と言っても全く間違いではない。行き過ぎもあれば残忍酷薄なこともあったてあろう。それは新政府方も旧幕府方もお互いの事であって、親政府方のみを責めるべきではない。

 

西南雄藩が新政府の主導権を握ったのは彼等が維新の推進力だったからであり、政権強奪と決め付けることはできない。新政権には旧幕臣も多く参加している。

 

幕末期における現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いはゆる御蔭参り)が行はれ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきてゐた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百萬人に達したといふ。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないといふことが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君萬民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないといふことが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君萬民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

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2018年4月28日 (土)

「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である

 

片岡啓治氏は明治維新について、「新しい時代を開くとは、日本の太古に還ることだったのである。…古代に還るとは、決して古くさい死物を復活させるというようなことではなく、王と民とが一体となって睦あい、政(まつりごと)と祭(まつり)とが一つに溶けあい、一君のもとに萬民が平等に暮らす、そのような社會への復帰が夢みられたのであり、そのような世の中をよみがえらせるためにこそ、〈世直し〉が求められたのであった。…そこで求められた新時代とは、その後の現實に起こるような西欧化による近代の形成ではなかったのである」(『維新幻想』)と論じた。

 

外圧の危機が主なる原因となって断行された明治維新といふ未曾有の大変革は、一君萬民の日本國體の開顕と一体であった。そして明治天皇が神々に誓はれた『五箇条の御誓文』の精神を体して、明治維新の大変革が行はれたのである。

廃藩置県、身分制度撤廃、徴兵制實施、『大日本帝國憲法』発布などの維新後の大変革・大建設事業は、明治天皇の勅命によって行はれた。わが國に天皇・皇室といふ御存在がなかったならば、明治維新といふ大変革は實現しなかった。日本の傳統の体現者たる日本天皇によって、有史以来未曾有の変革が行はれたのである。また、「諸事神武創業之始ニ原」くこと、即ち一君萬民の國體の開顕が新時代の変革そのものなのである。我國においては、「一君萬民」の國體精神、天皇の御存在こそが維新変革の中心であり原基なのである。

 

今日のわが國の議會政治は、とても「公議を竭」しているとは言へない。また健全に機能してはゐない。政党間・政治家同士の醜い権力闘争が繰り返されてゐる。國會中継を見ればわかる通り、相手を議論で打ち負かし、相手の言葉の揚げ足を取り、自分の意見に従はせようとすることに汲々としてゐる。

 

かうした事の根本原因は、わが國の道統である「尊皇精神」「天皇へのかしこみの心」が、政治家にも國民にも官僚にも希薄になってゐるからにほかならない。

 

後藤田正晴氏は、「國務大臣などの政治家は天皇の臣下ではない」といふ意識の持ち主であった。後藤田氏は平成十二年十二月五日号の『日本経済新聞』で、中央省庁の再編に関するインタビューに答へて、「まず大臣といふ名前を変えたらどうか。誰の臣下ですか?。行政の長なんだから『長官』でいい」と述べた。

これは、天皇を君主と仰ぐ建國以来のわが國體を否定し、『現行占領憲法』体制下においてもわが國は立憲君主制であるといふ自明の理を否定する許し難い発言である。社民党・共産党・極左分子がこのやうな発言をするのならまだしも、警察庁長官・内閣官房長官・自治大臣・内閣副総理を歴任し、官僚・政治家の頂点、即ち政治権力の頂点に立ったと言っていい人物が、このやうな発言をしたのである。

 

肇國以来今日に至るまでわが國の歴史を貫き、将来にも継続する無私の御存在・倫理的御存在が天皇である。天皇は、倫理道義の鏡として祭祀主として君臨されてゐる。

 

新渡戸稲造氏がその著『武士道』において、「我々にとりて天皇は、法律國家の警察の長ではなく、文化國家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうのである」と論じてゐる。

 

「天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもう」日本天皇は、権力や武力の暴走、権力者の私欲による権力と武力の行使を制限し抑制される権威をお持ちになる。天皇は権力や武力と無縁の御存在ではない。むしろ権力や武力に対して道義性を与へられる。中世・近世・近代を通じて武家権力や軍に対してさういふおはたらきをされた来た。その事を『大日本帝國憲法は』は「天皇は統治権の総攬者」と表現したのだと考へる。

 

「閣僚は、天皇の臣下ではない」などといふ主張は、かうした日本の正しい伝統を根底から否定する考へ方である。片岡啓治氏が「明治維新で求められた新時代とは、その後の現實に起こるような西欧化による近代の形成ではなかった」といふ指摘を思ひ起こさざるを得ない。 

 

わが國の傳統的倫理・道義は、〈神に対する真心の奉仕〉〈神人合一の行事〉である祭祀として継承されてきた。日本人の實際生活において行じられる祭祀そのものが倫理精神・道義感覚の具体的な現れである。信仰共同体國家日本の祭祀の中核は「天皇の祭祀」である。したがって、日本國家の祭祀主であらせられる天皇は、日本道義精神・倫理観念の体現者であらせられる。

江戸時代中期の不世出の國学者・思想家・詩人賀茂真淵は、「…さて臣たちも神を崇めば、心の内に、きたなき事を隱す事を得ず、すめらぎを恐るれば、みのうえに、あしきふるまひをなしがたし、よりて、此の二つの崇みかしこみを、常わするまじきてふ外に、世の治り、身のとゝのはんことはなきをや」(『賀茂翁遺草』)と説いてゐる。

 

議會政治は、多数決を基本とする。多数決を誤りなく機能させるためには、國民及び國民によって選出された議員が、権力闘争や利害の対立を抑制し、道義精神、理性を正しく発揮しなければならない。「人間は政治的動物だ」などと言って、道義道徳・理性を忘却してはならない。

 

日本の傳統の継承者であらせられ、常に神々を祭り、國民の幸福を神に祈られている神聖君主・日本天皇へのかしこみの心を國民全体が持つことが、日本の全ての面での安定の基礎である。

 

臣下國民に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因である。現代日本は、肝心要の「一君萬民の國體」が隠蔽されてゐるのである。これは、『現行占領憲法』にその大きな原因がある。

 

しかしわが國には、國家的危機を傳統の復活・回帰によって打開して来た歴史がある。現代もさうした時期である。わが國の傳統の根幹は「天皇中心の國體」である。

 

「天皇中心の國體」とは、神話の世界以来の信仰に基づき一系の血統と道統を保持し継承される天皇による國家統治といふことである。そして天皇の國家統治は、権力・武力による人民支配ではなく、祭祀主としての宗教的権威による統治(統べ治める)である。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である。

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