2019年4月10日 (水)

高山彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」の歌

東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの 大宮處(おほみやどころ)

 

高山彦九郎

 

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

 

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

 

「一天万乗の聖天子」「上御一人」の住まはれるにしては、あまりにも質素で小さい京都御所を拝しての実感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと伝はってくる。

 

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は大変に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

 

高山 彦九郎(たかやま ひこくろう、延享四年五月八日(一七四七年六月一五日) – 寛政五年六月二八日(一七九三年八月四日)は、江戸時代後期の尊皇思想家である。上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に生れた。高山良左衛門正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。母はしげ。兄は高山正晴。妻はしも後にさき。子に高山義介ほか娘など。父の高山彦八正教家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として高名をはせたといふ。

 

彦九郎は、同時代に生きた林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人(「奇」は「優れた」という意味)。

 

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

 

二年間京都に滞留、この間多くの学者に学んだ。帰国後六年間家業に従ったのち、各地を遊歴して「勤皇論」を説いた。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友した。

 

そして、水戸、仙台、松前を回り、寛政三年(一七九一)、北陸路から再び京都に入った。岩倉具選(江戸時代中期・後期の日本の公卿。岩倉家七世の祖。篆刻を善くした。公卿としては主に後桜町上皇に仕へ、その院別当などを務めた)宅に寄留した。この時「奇瑞の亀」を献上したことにより、光格天皇から謁を賜った。

 

川田順氏は、「如何にして彦九郎が天顔に咫尺し奉るを得たか。…寛政三年春、近江國高島郡の一漁師が、湖水で緑毛龜を生捕った。大變な評判になったが、たまたま彦九郎も衆と共にこれを一見し、知人の志水南涯をして飼養せしめ、清原宣條(のぶえだ)等の公卿を經て、遂に叡覽に呈するに至った。龜に毛のあるものは文治の瑞兆なるが故である。かやうな機縁にて、匹夫の彦九郎は、窃に天顔を拝するを得たのであった」(『幕末愛國歌』)と記してゐる。

 

高山彦九郎が、光格天皇の龍顔を拝する栄に浴した感激を詠んだ歌が次の歌である。

 

「われをわれと しろしめすかや すべらぎの 玉の御聲の かかるうれしさ」

 

「わたくしをわたくしとお知りになるであらうか、天皇陛下の玉の御声を拝聴するうれしさはかぎりない」といふほどの意である。  

 

この歌は、「東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處(おほみやどころ)」の歌と共に、草莽の臣が上御一人に対し奉る恋闕の情を歌った絶唱であり『愛国百人一首』にも採られてゐる。

 

彦九郎はこの後、九州各地を遊歴し、久留米に至り、寛政五年(一七九三)六月二十七日、時世を嘆じ自刃して果てた。時に四十七歳であった。

 

 

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2019年2月 8日 (金)

蒲生君平について

 

千駄木の隣町台東区谷中には言うまでもなく歴史的・文化的に大事な寺院・建物・墓所などが沢山のこされている。

 

谷中の龍興山臨江寺というお寺には、蒲生君平のお墓がある。

明治二年(一八六九年)十二月には、その功績を賞され、明治天皇の勅命の下で宇都宮藩知事戸田忠友により宇都宮と東京谷中臨江寺に勅旌碑が建てられた。それには『忠節 蒲生君平墓 宇都宮藩知事戸田忠友奉行』と刻まれている。戸田氏の御墓も谷中霊園にある。

 

君平の作であろうと推定されている『幕罪略』(徳川幕府の罪を略述したという意であろう)という書物には、『狭小なる禁中に、天皇を禁錮し奉り、二百年行幸も之れ無き事』など二十箇条の幕罪を数えたてられているという。

 

蒲生君平は、明和五年(一七六八)下野国宇都宮新石町の生まれ。『太平記』を愛読し、楠木正成や新田義貞らの尊皇精神に感激する。ロシア軍艦の出現を聞き、寛政七年(一七九五)陸奥への旅に出る。さらに寛政十一年(一七九九)、三十二歳の時、天皇御陵の荒廃を嘆き、皇陵調査の旅に出る。享和元年(一八〇一)『山陵志』を完成する。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができたといふ。

 

さらに、文化四年(一八〇七)には、朝廷の官職についてまとめた『職官志』を著した。翌五年、北辺防備を唱へた『不恤緯(ふじゅつい)』を著す。そし文化十年(一八一三)江戸で四十六歳の生涯を閉じた。

 

蒲生君平は次の歌をのこしてゐる。

 

「比叡の山 見おろすかたぞ あはれなる 今日九重の 數し足らねば」

 

「比叡山より見おろす方向を拝すると悲しい。平安時代には九重(支那の王城は門を九重につくったところから、御所、宮中のことを言ふ)と歌はれた数には足らない狭小な御所なので」といふほどの意。

この歌は、年代的に考へて、高山彦九郎の志を継承し倣って詠んだと思はれる。その「志」とは言ふまでもなく、徳川幕府専横の時代にあって、上御一人、一天万乗の君がをられる京の御所が余りにも狭小であることに慟哭し、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」である。

 

川田順氏はこの蒲生君平の歌について、「勿體なくも宮闕は荒廢して天子の歴史的御座所たる舊観を備へない。九重の數は足らずして、てのひらほどの大宮所と拜せられる。山陵の荒廢を慨して志を立てた君平である。況んや、現に至尊まします所の宮殿が此の御有様なるを見て、涙滂沱たらざるを得んや」(『幕末愛國歌』)と論じてゐる。

 

徳川幕府専横の時代に、尊皇の志を立て、且つ実践した高山彦九郎・蒲生君平の御所の狭小さを嘆く歌は、大きな悲痛と慟哭が巨大な悲しみを以て讀む者の胸に迫って来る。

 

蒲生君平の「皇陵復興の志」は脈々と受け継がれて、水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(烈公)は、天保五年(一八三四)、幕府に対して山陵修補事業を建白した。文久二年(一八六二)、宇都宮藩が幕府より天皇陵補修を建白し、宇都宮藩は幕府より天皇陵補修の命を受け、家老・戸田忠至が山陵奉行に任じられた。蒲生君平が山陵復興の志を抱いて山陵探索の旅に出た寛政八(一七九六)年から六十九年の歳月が経って、慶應元(一八六五)年に、宇都宮藩による山陵修補事業が完成した。

 

尊皇精神に篤い人物が「奇人」と言はれること自体、徳川幕藩体制下の日本において、天皇・朝廷が軽視され、抑圧されてゐた証左であらう。

 

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2019年1月15日 (火)

孝明天皇の震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた

 

安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印し、無断調印の責任を、堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外に追放した。

 

第百二十一代孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公實記』の「米國条約調印ニ付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の『勅書』において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

 

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、實に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

 

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

 

孝明天皇は、

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」

 

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

 

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の國家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主體はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事實中の大事實をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

 

征夷の實力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させる原因となった。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

 

吉田松陰は、同年七月十三日に、長州藩主に提出した『講大義』において、それまでの幕府容認の姿勢を転換して、「…幕府ハ…墨使ニ諂事シ、天下ノ至計ト為ス。國患ヲ思ハズ、國辱ヲ顧ミズ、而シテ天勅ヲ奉ゼズ、神人皆憤ル。コレヲ大義ニ準ジ、討滅誅戮シテ然ル後ニ可ナリ。少シモ宥スベカラザルナリ」と論じ、討幕の姿勢を明らかにした。

 

井伊幕閣の違勅行為により、全國的規模で「幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷のご命令を無視して開國した」との批判が巻き起こった。幕府の違勅とそれに対する孝明天皇の震怒が、倒幕運動を急激に大きくした。思想的理論的尊皇統幕思想は脈々と継承されてゐた。幕府が勅命に反して『日米修好通商条約』を批准したこと、そしてそのことに対し、ひたすら國の行く手を憂ひ給ふ孝明天皇が震怒されたことにより、現實に尊皇討幕を目指して全國の志士が決起したのである。

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2019年1月14日 (月)

『船中八策』『航海遠略策』『薩土盟約』などの國家変革策

『船中八策』『航海遠略策』『薩土盟約』などの國家変革策

 

幕末期の國家的危機を打開せんとした人々は、徳川幕藩體制を否定し、新たなる國家體制を創出しなければならないと自覚した。そしてそれはわが國肇國以来の國體の回復による新たなる変革即ち復古即革新であった。

 

慶應三年(一八六七)六月、土佐藩船「夕顔」船上で坂本龍馬に発案によりまとめられた國家変革策『戦中八策』には、「一、天下ノ政権ヲ朝廷二奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」とある。

 

『薩土盟約』 (慶応三年(一八六七) 年六月、兵庫開港勅許の直後、薩摩藩討幕派西郷隆盛、小松帯刀と、土佐藩公議政體派の坂本龍馬,後藤象二郎らの間に結ばれた盟約)には、「方今、皇國ノ國體制度ヲ糺正シ万國ニ臨テ不恥。是第一義トス。其要、王制復古、宇内ノ形勢ヲ参酌シ、天下後世ニ至テ猶其遺憾ナキノ大条理ヲ以テ処セン。國ニ二王ナシ、政権一君ニ帰ス、是其大条理。我皇家綿々一系、万古不易、然ニ古郡県ノ政変ジテ今封建ノ體ト成ル。大政遂ニ幕府ニ帰ス、上皇帝在ヲ不知。是ヲ地球上ニ考フルニ、其國體如玆者アラン歟。然則制度一新、政権朝ニ帰シ、諸侯會議、人民共和、然後庶幾以テ万國ニ臨テ不恥。是ヲ以テ初テ我皇國ノ國體特立スル者ト云ベシ。…一、天下ノ大成ヲ議定スル全権ハ朝廷ニ在リ。我皇國ノ制度法則、一切ノ万機、京師(けいし・皇都のこと)ノ議事堂ヨリ出(いづる)ヲ要ス」とある。

 

倒幕を目指した人々のみならず、徳川将軍ですら、次のやうに論じた。慶應三年(一八六七)六月十四日第十五代将軍・徳川慶喜が朝廷に奉呈した『大政奉還の上表文』には「臣慶喜謹而皇國時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外國之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇國ヲ保護仕候得ハ必ス海外万國ト可並立候臣慶喜國家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候以上」とある。

 

長州藩直目付長井雅楽(うた)は、文久元年(一八六一)五月に藩主毛利慶親に提出した建言書・『航海遠略策』で次のやうに論じてゐる。

「…御國體相立たず、彼が凌辱軽侮を受け候ふては、鎖も真の鎖にあらず、開も真の開に之無く、然らば開鎖の實は御國體の上に之有るべく、…鎖國と申す儀は三百年来の御掟にて、島原一乱後、別して厳重仰せつけられ候事にて、其以前は異人共内地へ滞留差し免(ゆる)され、且つ天朝御隆盛の時は、京師へ鴻臚館(註・外國使節を接待した宿舎)を建て置かれ候事もある由に候へば、全く皇國の御旧法と申すにてもこれなく候はん。伊勢神宮の御宣誓に、天日の照臨する所は皇化を布き及し賜ふ可(べ)しとの御事の由に候へば、…天日の照臨なし賜へる所は悉く知す(註・統治する)可き御事にて、鎖國など申す儀は決して神慮に相叶はず、人の子の子孫たるもの、上下となく其祖先の志を継ぎ、事を述るを以て孝と仕り候儀にて、往昔神后三韓を征伐し賜ひ(註・神功皇后が朝鮮に遠征されたこと)候も、全く神祖の思し召しを継せ賜へる御事にて、莫大の御大孝と今以て称し奉り候。……仰ぎ願はくは、神祖の思し召しを継がせ賜ひ、鎖國の叡慮思し召し替られ、皇威海外に振ひ、五大洲の貢悉く皇國へ捧げ来らずば赦さずとの御國是一旦立たせ賜はば、禍を転じて福と為し、忽ち點夷(註・小さな外國)の虚喝(註・虚勢を張った脅かし)を押へ、皇威を海外に振ひ候期も亦遠からずと存じ奉り候…」。

 

大和朝廷の頃は、外國との交際も盛んであり、太陽の照るところは全て天皇の統治される地であるといふのが日本の神の御心であるから、鎖國政策は、日本の神の御心に反してをり日本の傳統ではないから転換すべきである、そして、外圧といふ禍を転じて福と為し、天皇の御稜威を世界に広めるべきであると論じてゐる。天照大御神の神威を體し鎖國を止めて、海外への発展の道を開くべしといふ気宇壮大な主張である。鎖國は、八紘為宇のわが國建國の精神に悖るといふ正論である。この正論は明治維新の断行後の開國政策によって實現した。

この長井雅楽の文書は五月十二日に毛利慶親より三条愛(さねなる)に提出された。

 

これに対して、孝明天皇は、「六月二日長門藩主・毛利慶親の臣・長井雅楽を以て慶親へたまひたる」と題されて、

 

「國の風ふきおこしてもあまつ日をもとの光にかへすをぞ待つ」

 

との御製を賜った。孝明天皇は決して頑なな攘夷論者・鎖國論者ではあらせられなかったことを証しする。わが國の主體性を確立したうえでの開國・海外発展・外國との交際を目指してをられたのである。

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2019年1月13日 (日)

明治維新の素晴らしさ

 

今月七日にも書いたが、ロシア・支那・朝鮮という三つの國の歴史や現実を色々考えてみると、この三つの國は、わが国とは基本的の異なる国柄と歴史を持つであると思う。基本的に、国民の生命・自由民主政治・議会政治・民権・他国との平和的関係というものを全く無視する国であるということだ。

これはこの三つの國の建国以来の長い歴史が生み出した極めて不幸にして悲惨な事実なのである。専制政治、独裁政治しか経験した事がない國である。それは、この三つの國に生まれ生活する国民にとってはきわめて不幸なことであるばかりでなく、近隣国家にとってもきわめて迷惑なことなのである。

わが国は、この三つの國とはまともな外交関係を構築することができない事を正しく認識すべきだ。近代以後の歴史そして現実を見てそれは火を見るよりも明らかなことだ。

つまり、ロシア・支那・朝鮮はまともな国ではないということである。私はそう断定しても間違いではないと思う。否、断定すべきであると思う。

 

同じユーラシア大陸の東に位置する国々でありながら、なぜこのような違いがあるのか。いろいろ考えてみたのだが、ロシアも支那も朝鮮も近代において大変革を経験してゐない国であることに気が付いた。ロシアは帝政打倒のロシア革命を経験し、支那は同じく帝政で党の辛亥革命そして第二次大戦後に共産革命を経験しているけれども、その後、自由民主体制、議会政治体制は全く確立しなかった。そして個人あるいは一党による独裁専制政治が続いてきている。そして民衆の生命も財産もそして政治的自由もまったく蹂躙され続けている。

 

わが国は、明治維新という有史以来未曽有の大変革を断行したが、肇国以来の國體が破壊されることは無かった。國體が破壊されなかったどころか、天皇を君主・祭祀主と仰ぐ君民一体の國體を明らかにすることが、現状の大変革となり、国家の危機を打開した。それが明治維新である。

 

明治神宮編『大日本帝国憲法制定史』には「(徳川慶喜が提出した『大政奉還の上表文』の勅許により・注)鎌倉幕府以来七百年の伝統的な武門政治の制度は、急流のやうに変革されて行ったがこの間の思想の潮流としていちじるしいことは、『この国際的緊急時に際しては、日本国は天皇統治の統一国家としての本質を明らかにして、公議公論によって国政を決し、光栄ある国の独立を守らねばならない』との政治思想の原則が、あらゆる政派藩閥の別と対立との上にあって、何人にも抗し難い政治原則として確立されてゐた、といふことである」と論じられてゐる。

 

ロシア革命はロマノフ王朝を打倒し皇帝一族を皆殺しにした。支那革命もまた清朝を廃絶した。朝鮮森長を發絶し、過去と全く断絶した革命を行って伝統を破壊したが、その後もまた独裁専制政治が続いて今日に至ってゐる。

 

わが国の明治維新は、『大日本帝国憲法制定史』に論じられてゐる通り「天皇統治の統一国家としての本質を明らかにして、公議公論によって国政を決し、光栄ある国の独立を守る」ことができた。明治維新がいかに素晴らしい変革であったかはこの事実によって明らかである。

 

慶応四年(明治元年)三月十四日、明治天皇が、百官・公家・諸侯を率いられて京都御所紫宸殿に出御あらせられ、御自ら天神地祇をお祀りになり、維新の基本方針を天地の神々にお誓ひになった御文である『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐる。

この御文について、「封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものである」といふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。

明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統の継承であり回帰である。

和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。

議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。

江戸時代における「旧来の陋習」の一つは「身分差別」である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。

「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」と示されてゐる。

今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。

市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。

明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等』が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。

徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

 

 

 

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2019年1月 6日 (日)

ペリーの開國要求に屈した徳川幕府はその正統性が根底から崩れはじめた

安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。

同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印した。

 

梁川星厳は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

 

「當年乃祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、

風雲を叱咤し地を卷きて興る。

今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、

征夷の二字は是れ虚稱。」

(その昔、徳川氏の祖先の家康の意気は、勢いを盛んにして、人を凌いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。 今日、外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

 

梁川星厳は江戸末期の漢詩人。寛政元年六月十八日(一七八九年七月十日)―安政五年九月二日(一八五八年十月八日))。美濃國安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。

 

江戸に出て、夫人で星巌と同じく詩人であった紅蘭と共に、神田お玉が池で「玉池吟社」といふ塾を開き、漢詩の講義のみならず國事に関する講義を行った。

梁川星厳は、天保八年(一八三七)、大阪で、幕府の政治を糺さんと蹶起した大塩平八郎に共感した。さらに、一八三九年、清朝が阿片戦争に敗れ、多額の賠償金を払はされるのみならず、香港の割譲までしたことを知った星厳は、大きな衝撃を受けた。

 

星巌は、五十歳を過ぎて憂國の情愈々熾烈となり、京の都に移り住み、鴨川のほとり居を構へ、京都における尊皇攘夷運動の中心人物となった。

 

徳富蘇峰氏は「(注・ペリー来航は)日本國民に向かって、一面外國の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるに足らざることの不言の教訓を、実物を以て示した…これがために二百五十年間全く冬眠状態であった京都の眠りを覚まし、たとえて言えば従来神殿に鎮座ましましたるものが、現つ神の本面目に立ち還り、ここにはじめて京都における朝廷自身が、実際の政治に関与し給う端緒を開き来った…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般国民にも漸次これを会得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じてゐる」(『明治三傑』)と論じてゐる。徳富蘇峰氏の「現つ神の本面目に立ち還り」といふ指摘は重要である。

 

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、国の支配者たるの地位も失ふのである。

 

外交問題とくに国家民族の独立維持・国家防衛といふ国家の大事に自ら決定し、実行することができなくて、京都の朝廷にお伺いを立て、各藩諸侯らに諮問するに至って、徳川幕府は完全に幕府としての資格を失った。従って、この後の幕府はその存立及び権力行使の正統性を喪失したと言っても過言ではない。『安政の大獄』などの維新勢力弾圧は、全く正統性の無い権力による悪逆非道の暴挙であった。

 

征夷大将軍の「征夷」とは、「夷を征討する」の意である。源頼朝が政権を掌握して、朝廷より「征夷大将軍」に任ぜられ、建久三年(一一九二)七月、鎌倉に幕府を開いた。それ以来、いはゆる「兵馬の権」握るものを表す名として「征夷大将軍」の名が用いられるようになった。

 

江戸時代に於いて「征夷大将軍」は、実質的に天下の覇者であり、支配者であったが、天皇との関係に於いては、君臣関係であった。

 

江戸時代初期の陽明学者・熊沢蕃山はその著『三輪物語』(巻七)において、禰宜からの「他の國には、誰にても、天下を取る人が王と成り給ふに、日本にては、かく天子の御筋一統にして、天下を知り給ふ人も臣と称し、将軍といひて、天下の権を取り給ふは、如何なる故にておはしますや」との質問に対して、公達をして、「天照皇神武の御徳により、人々心に神明あることを知りて、礼儀の風俗起れり、此の厚恩は天よりも高く、海よりも深し、……此の國のあらんかぎりは、天照皇の御子孫を國の王とあふぎ奉り、居べからざるを道理の至極とす」と答へさせてゐる。

 

また、慶応元年六月二十九日の「ジャパン・ヘラルド」(文久元年【一八六一】に、横浜で最初に発行された週刊新聞)には「古来大君(注・征夷大将軍の事)を日本全國一統の君主と思ひしは誤りにして、日本全國の大権は御門(注・天皇の御事)に在り、而して大君は日本の守護を承る大将軍なり。…(注・大君は)御門より官位を受け、且國政の大任を託せられてこれを子孫に伝へたる者にして、全く独立の君主とは謂ふべからず、然れども大君を以て全く日本の君といふも不可なる言無し、諸大名悉く大君の命令に従ふ…」と書いてゐる。(石井良助氏著『天皇の生成および不親政の伝統』参照)

 

「征夷大将軍」の「夷」とは、第一義的には外敵のことである。征夷大将軍の最も重要な使命・責任を果たせくなってゐることがペリー来航によって明らかとなった。つまり、「日本の守護を承る大将軍」たるの資格を喪失し始めたのである。

 

「御家門筆頭」とされる越前福井藩主・松平慶永ですら、ペリーの開國要求に屈した幕府に対し「征夷大将軍の御重任は御名のみにて、上は天朝御代々、神祖(注・家康のこと)御始御歴世様方え対され、下は諸大名萬民迄えも、御信義地を払い云々」(『安政元年二月三十日、阿部正弘宛建白書』)と批判した。まさに徳川幕府の正統性が根底から崩れ始めたのである。

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2019年1月 4日 (金)

明治維新=尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論

 

第百二十一代・孝明天皇は、安政五年(一八五八)の『日米通商条約』締結に震怒あそばされた。『岩倉公実記』の「米國条約調印二付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなり」と深く幕府の専断を嘆かせたまひ、同年六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の「勅書」において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

 

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、実に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

 

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

 

孝明天皇は、

 

あぢきなや またあぢきなや 蘆原の たのむにかひなき武蔵野の原

 

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

 

「征夷」の実力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させる原因となった。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

 

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の國家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主体はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事実中の大事実をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

 

大橋訥庵(江戸後期の儒学者。文久二年、坂下門外の変の実質的指導者として捕縛され、拷問により死去)は、「幕府果して能く天朝を崇敬し、征夷の大任を顧みて、蛮夷の凌辱を受ることなく、神州に瑕瑾を付けず、然ればそれより大功と云ふ者なきゆえ、天朝にて眷顧を加へて優遇し玉ふべき、固より論なし。然るに後世の幕府のさまは、余りに勢威の盛大なるより、天朝を物の数とも思はず、恭遜の道を失ひ尽して、悖慢の所行甚だ多し。且や近年に至るに及んで故なく夷蛮に腰を屈して、國の醜辱を世界に顕し、開闢以来になき瑕瑾を神州に付けたれば、其罪細少のことと云んや」(『文久元年九月政権恢復秘策』)と論じた。

 

「徳川幕府が、天皇・朝廷を崇敬し、征夷大将軍の使命を正しく果たしてゐれば、外敵の凌辱を受けることなく、神國日本を傷つけることもない。さうであれば大変に功績である。しかし今の幕府はあまりに威勢が大きいので、朝廷をものの数とも思はず、恭しく慎み深きする道を失ひ、驕慢の所業が甚だ多い。しかも近年理由もなく外敵に屈して、國が辱めを受けることを世界に示し、日本國始まって以来無かったような傷を神國日本に付けた。その罪は小さいなどと言ふことはできない」といふ意である。

 

これは、徳川幕府が、朝廷を軽視して来た上に、肝心要の外敵を征伐するという「征夷大将軍」の使命を果たすことができない罪を追及した激烈な文章である。まさに、幕府の最大の罪を追及したのである。明治維新といふ尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論を主張してゐるのである。

 

幕末の國家的危機において、日本國民は、皇祖天照大神に國難打開を祈り、天照大御神の生みの御子即ち現御神たる天皇中心の國體を明らかにすることによって、國難を打開し、明治維新を断行した。

 

全國民が真に日本民族としての運命共同意識を強く保持し燃え立たせ得る精神的な基盤に依拠しなければならない。

 

さうした精神的基盤は、神代以来の神聖権威の体現者・保持者であらせられる日本天皇への尊崇の念即ち尊皇精神であらねばならない。

 

梁川星厳は、尊皇攘夷思想の志士たちと交流を深め、鴨川のほとりの「鴨沂(おうき)小隠」と名付けられた梁川星厳の家には、佐久間象山・横井小楠・頼三樹三郎・梅田雲浜・吉田松陰・宮部鼎蔵が訪れた。また、反幕府の廷臣たちとも交流した。

 

安政五年の井伊直弼の「違勅調印」に憤った越前、水戸、薩摩の尊皇の志士は、活発な反幕閣・井伊排撃運動を展開した。彼等は公卿と結び、朝廷の威光によって形成を挽回しようとした。その運動に京の都において協力した人物たちが、井伊派から「悪謀の四天王」と言はれた池内大学、梅田雲浜、頼三樹三郎、梁川星厳の四人であった。近衛忠熙、三条實萬などを動かして、水戸藩に密勅を下し、幕府の罪を責めるといふ方針のもとに一致協力した。

 

井伊直弼の配下、長野主膳は、水戸藩への降勅の実現に大きく貢献したのが梅田雲浜と梁川星厳であるとして、この二人を捕縛せんとした。雲浜は捕縛されたが、星厳は捕縛直前にコレラに罹り病死した。

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2018年11月15日 (木)

「君が代」「國」を思ふ心を歌った幕末志士の歌

明治維新は、西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際會して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 

日本における最も大きな変革は明治維新である。國家変革即ち維新と和歌は不可分であるから、「萬葉の精神」は明治維新に大きな影響を及ぼした。幕末期の日本的ナショナリズムは、萬葉時代・建武中興の時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついてゐた。

 

江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなったのである。

 

幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放ってゐる。それらの歌は、なべて日本國の傳統精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されてゐる。

 

幕末の動乱期に「尊皇攘夷」の戦ひに挺身した人々の述志の歌は憂國の至情が表白され、「魂の訴へ」といふ和歌の本質そのものの歌ばかりである。

 

「君が代」「國」を思ふ心を直截に歌った幕末の歌を挙げさせていただく。

 

藤田東湖(水戸藩主徳川斉昭と肝胆相照らし熱烈な尊皇攘夷論を主張し尊攘運動に大きな影響を与へた)の歌。

 

かきくらすあめりかひとに天つ日のかがやく邦のてぶり見せばや

(心をかき乱すやうなアメリカ人がやって来たが、天つ日が照り輝く日本の國風を見せてやればよい、といふ意)

 

民族の魂の甦りであり日本の道統への回帰である維新の精神を、最もよく表白した歌は伴林光平の次の歌である。

 

度會(わたらひ)の宮路(みやぢ) に立てる五百枝杉(いほえすぎ) かげ踏むほどは神代なりけり

 

光平は、幕末の志士で國學者。河内國志紀郡の人。初め浄土真宗の僧となったが、加納諸平・中村良臣・伴信友らに師事して國學を修め、還俗。荒廃せる山陵再興を志し畿内を巡る。天誅組の大和義挙に参加して捕へられ京都六角の獄にて刑死。年五十二。著『南山踏雲録』など。文化十年〈一八一三〉~元治元年〈一八六四〉。

 

伴林光平は、伊勢参宮の時の実感を詠んだ。伊勢の神宮は度會郡に鎮まりましますゆへに伊勢の参道のことを「度會の宮路」と申し上げる。「五百枝杉」とは、枝葉の茂る杉のこと。

 

「伊勢の神宮に茂る杉の木陰を踏み行くと今がまさしく神代であると思はれ、自分自身も神代の人のやうに思はれる」といふほどの意である。

「今即神代」が日本傳統信仰の根本である。伊勢の神宮に行くと今日においても誰でもこの思ひを抱く。

 

近代歌人もこれと同じ思ひを歌に詠んでゐる。若き日に社會主義革命思想に傾斜した土岐善麿も伊勢の神宮において「おのづから神にかよへるいにしへの人の心をまのあたり見む」と詠んでゐる。窪田空穂は「遠き世にありける我の今ここにありしと思ふ宮路を行けば」と詠んでゐる。

 

今を神代へ帰したいといふ祈り即ち「いにしへを恋ふる心」がそのまま現状への変革を志向する。しかも光平のこの歌は、それを理論理屈ではなく、日本人の美的感覚と文芸の情緒に訴へてゐる。だからこそ多くの人々に日本の道統への回帰を生き生きと自然に神ながらに促すのである。

 

光平は「いにしへを恋ふる歌」を詠み、さうした絶対的な信念に根ざしつつ現実の変革への実際行動を起こした。それが文久三年(一八六三)の天誅組の義挙への参加である。

 

同年八月十三日、孝明天皇は、攘夷祈願のため大和に行幸され畝傍の神武天皇山陵に親拝される旨の勅が下った。これを好機として一部の公家や勤皇の志士たちは倒幕を決行せんとし、「天誅組」を名乗って決起した。ところが八月十八日に政変が起こって朝議が一変し、大和行幸は中止となった。決起した志士たちは逆境に陥り、壊滅させられてしまった。伴林光平は天誅組に記録方兼軍義方として参加したが、捕へえられ、元治元年二月十六日京都にて斬罪に処せられた。 

 

光平の歌でもっとも人口に膾炙している歌は、

 

君が代はいはほと共に動かねばくだけてかへれ沖つしら浪

 

である。「天皇國日本は巌のやうに不動であるから日本を侵略しやうとする國々は沖の白波のやうに砕けて帰ってしまへ」といふ意。京都にて斬刑に処せられる際の辞世の歌と傳へられる。死への恐怖などといふものは微塵もないこれほど堂々としたこれほど盤石な精神の満ちたこれほど力強い辞世の歌は他にあるまい。

 

「君が代はいはほと共に動かぬ」といふ信念は光平の「神代即今」「今即神代」といふ深い信仰が基盤になってゐるのである。草莽の志士たる光平をはじめとした天誅組の烈士たちの熱い祈りと行動が、王政復古そして維新の原動力となったのである。

 

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

 

 吉田松陰の安政元年、二十五歳の時の歌である。江戸獄中より郷里の兄杉梅太郎に宛てた手紙に記されてゐたといふ。同年三月、伊豆下田にてアメリカ艦船に乗り込まんとして果たせず、江戸へ護送される途中、四月十五日高輪泉岳寺前を通過した時詠んだ。赤穂義士は吉良上野之介義央を討てば死を賜ることとなるのは分かってゐても、やむにやまれぬ心で主君の仇を討った。松陰自身もまさしくやむにやまれぬ心で米艦に乗らうとした。ゆへに赤穂義士に共感したのである。幕末志士の歌で結句を「大和魂」にした歌は多いが、この歌が最も多くの人々の心を打つ。あふれるばかりの思ひとはりつめた精神が五・七・五・七・七という定型に凝縮されてゐる。かかる思ひは和歌によってしか表現され得ないであらう。

 

 片岡啓治氏は「詩的精神、いわば自己自身であろうとし、もっとも固有な心情そのものであろうとする心のあり方が自らを語ろうとするとき、日本にもっとも固有な詩の形式を借りたのは当然であろう。そこには、自己自身であり、日本に同一化することがそのまま詩でありうるという、文學と現実の幸福な一致がある」(『維新幻想』)と論じてゐる。

 

日本固有の文學形式によって自己の真情が吐露できるといふことは、日本人が神から与へられた伝統である

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2018年10月15日 (月)

千駄木庵日乗十月十四日

終日在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、明日及び十五日に行うインタビューの準備など。毎日数種類の処方箋を服用していますが、呑んだ後猛烈な睡魔が襲ってきます。

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2018年9月25日 (火)

徳川慶喜について

 

 鳥羽・伏見の戦い・大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家がいる。新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」とある。

 

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。後年、慶喜はその心情を次のように語ったという。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。  

 

 『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。 

 

 要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。慶喜が維新後すぐに朝敵の汚名を取り除かれたのは当然であった。

 

さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。

 

水戸藩は明治維新の戦いにおいて多くの犠牲を出した。安政の大獄で先覚者が処刑され、桜田門外の変・英國大使館襲撃・坂下門外の変・天誅組挙兵・生野挙兵そして筑波挙兵に幾百人の水戸藩の志士が参画し血を流し命を捧げている。

 

だが、水戸藩は長州や薩摩のように倒幕の主勢力になることはできなかった。つまり明治維新政権の廟堂(政治をつかさどる所)に立つことはできなかった。むしろ水戸藩出身の徳川慶喜は朝敵とされた。

 

明治天皇は明治八年(一八七五)四月四日、桜の花のま盛りに、東京小梅村(現在の墨田区)の徳川昭武(水戸藩第十一代藩主・斉昭の十八男、最後の藩主)の屋敷をお訪ねになり、光圀・斉昭らの遺墨を御覧になり、

 

「花ぐはし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり」

 

と詠ませられた。

 

『大日本史』を淵源とする水戸學の大義名分論、尊皇攘夷思想が明治維新の思想的原動力であったこと、そして光圀・斉昭の功績のみならず、斉昭の子にして徳川第十五代将軍となった徳川慶喜が、大政奉還を断行し、鳥羽伏見の戦い以来、フランス公使ロッシュの徹底抗戦の勧告を退けて、一意恭順を守り、外國からの侵略に対する日本立國の危険を除去した慶喜の尊皇愛國の心を嘉賞されたと拝する。    

  

徳川慶喜は、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。そして同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控える資格が与えられた。麝香間祇侯は、天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の死去に際しては、旭日大綬章を賜った。

 

ただこのような慶喜晩年の栄誉は、彼自身の功績によると共に、多くの天誅組を始め水戸藩尊攘の志士の犠牲があったからである。

 

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