2019年7月10日 (水)

「天地の公道」とはわが國古来より継承して来た一君萬民の理想政治の道


『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐるのは、封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものであるといふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。
明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。議會政治・公議を竭す政治は、「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統である。
和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。
議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。
「旧来の陋習」とは何か
江戸時代における「旧来の陋習」の一つは身分差別である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。
「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」と示されてゐる。
今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。
市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。
明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。
徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

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「天地の公道」とはわが國古来より継承して来た一君萬民の理想政治の道

『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐるのは、封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものであるといふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。

明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。議會政治・公議を竭す政治は、「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統である。

和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。

議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。

「旧来の陋習」とは何か

江戸時代における「旧来の陋習」の一つは身分差別である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。

「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」と示されてゐる。

今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。

市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。

明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。

徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

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2019年7月 8日 (月)

明治維新は全國民的な「復古即革新」運動だった

明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』のに示されてゐる。

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』には、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されてゐる。天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。

また、明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されてゐる。

さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。日本傳統信仰即ち天神地祇への祭祀を根本とし、神武創業の精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ふのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」である。

「復古即革新」といふ明治維新の精神は、公卿や武士や學者といふ当時の指導層のみが志向したのではない。全國民的な傳統回帰精神の勃興でありうねりであった。山口悌治氏は、「伊勢参宮運動が、明和八年には、四月八日から八月九日までの間に、二百七萬七千四百五十名。文政十三年には三月から五月までの三ヶ月間に四百萬人を超えたといふのである。明治維新は勤皇の志士達を中心とする下級武士達と私は思ってゐたが、實はこのやうな一般庶民の圧倒的な伊勢参宮運動が、覇道政権への抵抗として全國にその土台をすでに充分成熟せしめてゐたのである」(『萬葉の世界のその精神』)と論じてゐる。

さらに、慶応三年(一八六七)七、八月頃、には「ええじゃないか」といふ民衆運動が起こった。これは、伊勢神宮の神符等が降下したことを発端として乱舞を伴ふ民衆信仰的な民衆運動である。名称は、民衆が踊りながら唱へた文句が「ええじゃないか」「よいじゃないか」「いいじゃないか」等があったことに由来するといふ。発生地は、畿内、東海道を中心とした全國約三十カ國である。囃し言葉は、「日本國の世直りはええじゃないか」「今年は世直りええじゃないか」といふやうな世直しを期待する文句であった。伊勢参宮運動=お蔭参りの傳統を継承した世直しを希求する民衆運動である。

このやうに民衆の復古的・信仰的な世直し運動が明治維新の原動力の一つだったのである。まさに明治維新は全國民的な「復古即革新」運動だったのである。

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2019年7月 6日 (土)

明治維新と「錦の御旗」について

明治維新前夜、國家の独立と安定と統一を保持するには、神代以来の國體を体現者・継承者としての権威を保持する御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるやうになった。

開国も攘夷も、天皇中心の統一国家の建設によってこそ実現するのである。明治維新によってそれは現実のものとなった。わが国の近代統一国家への道は、尊皇攘夷・尊皇討幕思想がその原基であった。幕末の危機は徳川将軍家の力では乗り切れなかったのである。これは武家政権即ち覇道による国家支配の終焉を意味する。そして皇道政治=天皇統治の回復である。

武家政権はもともと軍事政権であり幕府といふ名も、「幕で覆った野戦の指揮所・司令部」といふ意味である。七百年もの間、軍事政権が国政を壟断して来たといふこと自体異常であり國體隠蔽であった。これを正したのが明治維新である。幕末期の国家的危機を打開せんとした人々は、徳川幕藩体制を否定し、新たなる国家体制を創出しなければならないと自覚した。そしてそれはわが国肇國以来の國體の回復による新たなる変革即ち復古即革新であった。

一般國民も、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだ。鳥羽・伏見の戦ひで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のやうに記してゐる。

「(注・慶應四年)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候」。

大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。草莽の志士の決起も、徳川慶喜の恭順も、江戸城無血開城も、天皇の御稜威よる。徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それは上御一人日本天皇の神聖権威であり、わが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

わが国の天皇及び皇室は、実に三千年の歴史を有する。明治維新前夜の国家的危機に際して、日本民族は自然に、日本國家・民族としての一體感・運命共同意識中心に古代からの國家の統一者である天皇を仰ぎ國内的統一を達成して國を救はんとしたのである。國民の同胞意識・連帯感、そして外敵に抗するナショナリズムの中心に、天皇を仰いだのである。

全国民の國體回復の尊皇精神が原動力となり、尊皇攘夷に燃える志士達の命懸けの活動が、明治維新を実現したのである。わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は天皇を中心とするわが國體の精神であった。特に政治・倫理・文化など國家民族形成の基本においてしかりであった。

わが國の君主は申すまでもなく、上御一人日本天皇であり、天皇はもっとも清浄な方であり、神聖なる方であらせられる。この方が政治・軍事・文化・宗教の最高権威者である。かうした日本の傳統精神は、七百年間の武家政権時代に於いても廃れることはなかった。国民の大部分は、徳川将軍や藩主・大名を日本国の「君主」と日本国の仰いではゐなかった。権力・武力は有されずとも、天皇を日本国の君主・大君として仰いだ。

だから、天皇を君主と仰ぐ國體を明らかにする大変革たる明治維新が全国民的支持によって断行し得たのである。今日も、政治の混乱・経済の停滞・道義の低下・外圧の危機が顕著になっている。これを克服するためには、日本民族としての主体性・帰属意識(民族的一体感・国民的同一性)、帰属する共同体としての民族というものが大事になってくる。支那・朝鮮からの武力侵攻の危機、国民精神の弛緩といふ内憂外患に晒されてゐる今日に於いて、明治維新の歴史に学び、国難を打開しなければならない。

「鳥羽伏見の戦ひ」と呼ばれる戦ひで、何故幕府軍は敗退してしまったのであらうか。史家たちかあげる原因は次の通りである。「①士気・戦意の違ひ。政府軍が士気・戦意共に勝っていた。②幕府方の戦争目的の曖昧さ。③幕府方の計画性と指揮能力の欠如。④新政府軍の武器が幕府軍の武器よりも優れていた。⑤幕府方内部の裏切りと内紛。⑤総大将たる徳川慶喜の戦意・統率力の欠如」

そして、多くの史家は、開戦翌日の一月四日に、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたので、幕府軍の士気が萎えてしまったと論じてゐる。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことが、史家のいふところの「両軍の士気・戦意の相違、幕府内部の所謂『裏切り』『内紛』、徳川慶喜の戦意・統率力欠如」の根本原因である。

「錦の御旗」とは、朝廷の軍即即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。史家の中には、「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、国学者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ説がある。

明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。

明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ理屈は全く成り立たない。

仁和寺宮嘉彰親王は、新政府軍を率いて御所をご進発、午後には洛南の東寺に陣を置かれ、錦旗が掲げられた。西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。

一月五日、征討大将軍が鳥羽街道を錦旗を立てて南下すると、それを遠望した幕府軍は浮足立ち、淀城へ退却した。ところが、淀藩は幕府軍の淀城入場を拒んだ。津藩・淀藩の行動は決して裏切りではなく、上御一人日本天皇への恭順である。徳川慶喜の戦意喪失も決して臆病風に吹かれたのではなく、彼の尊皇精神がさうさせたのである。

『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

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2019年6月29日 (土)

明治維新と徳川氏

日光東照宮の陽明門をはじめ各所に、後水尾天皇の御宸筆とされる勅額が掲げられている。戊辰戦争の折、日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の一つとして、土佐藩の板垣退助がこの勅額が掲げられていることを挙げたという。

幕府は徳川家康を神格化するために、天皇及び朝廷の神聖権威を利用したのである。後水尾上皇は、度重なる徳川幕府とりわけ、徳川秀忠の圧迫と不敬行為に耐えられ、朝廷の権威を守られた。京都のある寺院で、後水尾上皇御宸筆の『忍』という色紙を拝したことがある。徳川幕府の横暴に対する御心を示されたと拝される。

幕末期、欧米列強の侵略の危機を打開し、日本の独立を維持するためには、徳川幕府が、天皇及び皇室の神聖権威に対抗すべく不遜不敬にも創出した「東照大権現」の神威では、とても國民的統一の信仰的核にはなり得なかった。やはり「尊皇攘夷の精神」でなればならなかった。

今谷明氏は、「東照大権現の神威は、武家階層はともかく、民衆レベルに浸透したとはとうてい考えられない。反面、大衆の間に天皇祖神を祭る伊勢の神威が高まっていくのは、よく知られているとおりである。伊勢と日光の勝負はもはやついて居た。」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

もともと戦國時代の武士の覇権争いの勝者・覇者にすぎなかった徳川氏は、覇者たるのを喪失したのである。端的に言えば、徳川氏は「征夷大将軍」(夷狄を征伐する大将軍)の任に堪えられなくなったのである。

現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いわゆる御蔭参り)が行われ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきていた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百万人に達したという。

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君万民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

越前は明治維新において、松平春嶽・由利公正・橋本左内等の功労者がいた。しかし、維新後、薩長土肥と比較して明治新政権で重きをなすことはなかった。越前ばかりでなく、水戸藩も、尾張藩も、明治維新に貢献したのだが、中枢からは外された。やはり徳川氏一門であったためであろう。

水戸藩は最も気の毒で、尊皇攘夷思想を鼓吹した水戸學は、維新断行の中心思想であったにもかかわらず、朝敵とされた最後の征夷大将軍・徳川慶喜が水戸出身であったこと、天狗党の乱など内紛が多かったことなどで、維新後、政府の主導権を握ることができなかった。

官軍が東北に進軍して行った際、薩摩軍が日光東照宮焼き討ちを主張したが、土佐の板垣退助が「東照宮には、後水尾天皇の勅額がある」と言って反対したと伝えられる。土佐藩祖・山内一豊が徳川家康から恩顧をこうむったことが影響しているのかも知れない。

江戸の町づくり、そして各藩の配置などを見ると、徳川家康・秀忠そして幕閣がいかに周到に計画したかが分かる。伊達が江戸に攻めてくることを防ぐために、仙台と江戸の間の水戸・会津・白河に御三家の一つと親藩大名を配置した。また加賀前田藩の動きを封じるために、越前に家康の長男・結城秀康を置き、彦根に井伊家を置いた。江戸においても前田藩邸のすぐ隣に、徳川四天王・徳川三傑の一人・榊原家の藩邸を置いた。また江戸城の周囲は御三家か親藩の大名屋敷で囲んだ。

福井松平藩のことで思い出すのは、もう三十年くらい前のことであるが、靖国神社のことで半蔵門の東条会館から日比谷公園までデモを行った時、私の隣を品の良い長身の老紳士が歩いていた。名刺交換をさせていただいたのだが、何と当時靖国神社宮司をされていた松平永芳先生(松平春嶽公の孫)であった。

江戸時代に、私のような庶民が、徳川親藩大名しかも御家門筆頭の殿さまと並んで江戸城の横を歩くなどということは絶対にあり得ないことだろうと感慨にふけった思い出がある。

福井は、戦災に遭ったうえに、戦争直後震災にも見舞われた。しかしそのためかどうかは分からないが、いわゆる飛島・鹿島・熊谷組という大手ゼネコンの発祥の地は福井県である。今日、北陸地方や山陰地方は、『裏日本』などと言われているが、支那や朝鮮との交流が盛んであった萬葉時代は今日で言うところの『表日本』だったというとになる。福井県は、現在でも、児童生徒の平均学力が全国第一位か二位であるという。

徳川家康のことを「東照大権現」と言う。東から日本の國を照らす神という意味であろう。皇室の祖先神・天照大御神を意識した神名である。臣下にこのような神号を付けるのは明らかに不敬である。

「権現」とは、仏が衆生を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れることで、神道の本地垂迹説においては、仏が衆生を救うために日本の神の姿となって現れた神のことという。東照大権現即ち徳川家康の本地(本来の姿)は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師瑠璃光如来であるとした。徳川家の菩提寺・上野寛永寺の本尊は薬師瑠璃光如来である。

しかも「東照大権現」という神号は、後水尾天皇の勅許によってつけられた。つまり徳川幕府は、前述したように、天皇の権威によって徳川家康の神格化を行ったのである。しかもその神格化は、明らかに、天皇の権威に対抗するものであった。日光東照宮は、伊勢皇大神宮に対抗するものである。そして大名に東照宮を建立することを半ば強制し全国の五百社を超える東照宮が作られた。

しかし、幕末の国家的危機において、日本国民は、皇祖天照大神に国難打開を祈り、天照大御神の生みの御子即ち現御神たる天皇中心の國體を明らかにすることによって、国難を打開し、明治維新を断行した。東照大権現の権威はその時、日本国民の大きな精神的支柱とはなり得なかった。そもそも征夷大将軍たる徳川氏は、その職責である夷狄を征伐する力を喪失したのである。

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2019年6月26日 (水)

 『大久保利通斬奸状』について

 『大久保利通斬奸状』には、「石川県氏族島田一良等叩頭昧死(こうとうまいし・頭を地面につけてお辞儀をし、死を覚悟して注)、仰ぎて天皇陛下に奏し、伏して三千余万の人衆に普告す。」という文句で始まり、「一良等方今皇國の時状を熟察するに、凡て政令・法度、上天皇陛下の聖旨に出づるに非ず、下衆庶人民の公義によるに非ず、独り要路官吏数人の憶断専決する所に在り、……」とある。

 これは『民撰議院設立建白書』の冒頭と同意義の文章であるが、要するに、上は天皇陛下の大御心、下は國民の意志を無視して、一部権力者の専断によって政治が行われている状況を批判しているのである。これは、大久保等によるいわゆる有司専制政治が明治維新の理念を宣明せられた『五箇条の御誓文』の「広く会議を興し万機公論に決すべし」との大御心に反する政治であるという主張である。

いわゆる『朝鮮遣使問題』に関わる明治六年の政変がその具体的事例であった。つまり適法且つ正当な手続きを経て行われた閣議決定が大久保・岩倉等によって一方的に覆され、しかもそれが既成事実となって罷り通ったことへの批判である。

「独り要路官吏数人の憶断専決」とは、大久保利通を中心とした当時の権力中枢にいる者の政治を指しているのであるが、西郷隆盛・木戸孝允亡き後は、大久保利通がず抜けた力を持った。日本人は、権力が一個人の集中してそれが絶対化することを好まない傾向がある。

 『斬奸状』にはさらに、次のように記されている。 
 まず大久保利通等政府権力者の罪については、「曰く、公議を杜絶し、民権を抑圧し、もって政事を私する、其の罪第一なり。曰く、法令漫施(一貫した方針がなく法律を定めること注)、請托公行(公務員が内々で特別の配慮をすることが公然と行われること注)恣に威福を張る(威力で押さえ付け人を思いのままに従わせること注)其の罪第二なり。不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、國財を徒費する、其の罪三なり。曰く、慷慨忠節の士を疏斥(疎んじ退けること注)し、憂國敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成する、其の罪四なり。曰く、外國交際の道を誤り、國権を失墜する、其の罪五なり。」と五つの罪状を挙げている。

 「公議を杜絶し」とは多くの人々が参加する議論の場を閉ざしているということである。西郷隆盛等が下野した直後の明治六年十月には、「新聞紙条目」(讒謗律)を制定して、政府批判の言論を封殺せんとし、十一月には内務省を設置して「内政安定」を図ると共に警察権力を強化して反政府の動きを圧迫しようとした。また、板垣退助・江藤新平等が連名で提出した『民撰議院設立建白書』を、時期尚早であるとして否定した。大久保・岩倉は西洋を視察して、「言論の自由」の意義や「議会制度」の機能をよく知っていた。知っていたが故に、当時の日本においてこれを取り入れることは時期尚早であると断じ、先手を取って新聞発行などの言論の自由要求の動きを、権力と法律による規制を以て対したのである。

 「法令漫施、請托公行恣に威福を張る」とは、政府権力者の権力を利用した腐敗堕落・犯罪のもみ消しなどを指している。井上馨や山県有朋の汚職疑惑そして黒田清隆による夫人殺害事件であろう。「不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、國財を徒費する」というのはあるいは一方的な議論かもしれないが、近代化を急ぐ政府の様々な建設事業に対する反発が強かったのであろう。「憂國敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成する」とは、「佐賀の乱」(明治七年)「萩の乱」(明治九年)「西南戦争」(明治十年)などの第二維新の決起が政府当局の挑発によって起こったことを指していると思われる。「外國交際の道を誤り、國権を失墜する」とは、政府の対支那・対韓國外交姿勢を指していることは言うまでもない。

 さらに、「勅命を矯(た)め(形を変えること・転じて自分たちの都合の良いように勅命を利用する意か注)、國憲を私し、王師(天皇の軍注)を弄し(もてあそび注)、志士・憂國者を目するに反賊を以てし、甚だしきに至りては隠謀・蜜策を以て、忠良節義の士を害せんと欲す。」と書かれてある。これは大久保等の政治に対する痛烈なる批判である。

つまり、「勅命を矯め國憲を私し」とは、明治六年の政変における大久保岩倉等の隠謀を指していると思われる。「王師を弄し」とは大久保岩倉等が政権維持のために天皇の軍を利用したことを指す。
 
続いて、「内は以て天下を玩物視し、人民を奴隷視し、外は外國に阿順し、邦権を遺棄し、遂に以て皇統の推移、國家の衰頽、生民の塗炭を致すや、照々乎として掌を指すか如し。」「前途政治を改正し、國家の興起することは、即ち 天皇陛下の明と、闔國(こうこく・國全体の意注)人衆の公議とに在り。願はくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を起し、公議を取り、以て皇統の隆盛、國家の永久、人民の安寧を致すべし。一良等区々(とるにたらないという意。謙遜して言っている。注)の微衷以て貫徹するを得ば、死して而して瞑す。」と書かれている。 これは結論の部分の文章である。八年四月の詔旨とは、明治八年四月十四日渙発の『元老院・大審院を設置し、地方官招集の詔』のことである。この詔には「…朕今誓文の意を拡充し、元老院を設け、立法の源を広め、大審院を置き、以て審判の権を鞏(かた)くし、また地方官を召集し、以て民情に通じ、公益を図り、漸時に國家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に、其慶に頼らんと欲す。」と示されている。

島田は、特にこの詔書の「國家立憲の政体を立て」との聖旨を重く受けた止めた。島田らは、明治天皇の『五箇条の御誓文』の聖旨に基づき、『國会』を開設し民意を集めて政治を行うべきである、と論じているのである。つまり立憲君主体制の確立が彼らの最大の主張である。つまり、島田一郎の大久保利通暗殺は、後の自由民権運動の端緒となったのである。

島田らはこの『斬奸状』を各新聞社に送り、國民一般に彼らの意図を知らせようとした。大久保斬殺は、言論が封殺された状況下における止むに止まれぬ行動であったし、島田らは自分たちの命と引換に権力者を撃ち、世論を喚起し、第二維新実現を目指したのである。

 大久保の死によって、政府における薩摩の力は減退し、長州(即ち伊藤博文・山県有朋・井上馨等)が力を持つようになった。それ以上に、この事件がきっかけとなって自由民権運動・第二維新運動が益々活発化した。そして、明治二十二年の大日本帝國憲法発布、二十三年の國会開設へと時代は進むのである。
 
紀尾井町事件の精神はまた、その後の維新運動・愛國運動へと継承されたことは、明治十四年に頭山満等によって設立された『玄洋社』の「憲則」第三条に「人民の権利を固守すべし」とあることによって明らかである。 

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2019年6月21日 (金)

吉田松陰先生曰く「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羇縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや」

幕府打倒・天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

 

吉田松陰は「征夷は天下の賊なり。今を措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と主張した。

 

吉田松陰は、安政五年(一八五八)正月十九日、月性(幕末の勤皇僧。周防妙円寺住職。攘夷海防を論じた)に宛てた書簡で、前年の安政四年に米駐日総領事ハリスが、江戸城に登城し、幕府に米公使江戸駐在を認めさせたことを憂えて、「ミニストル(公使のこと)を江都(江戸のこと)におき、萬國(ここでは國内各藩のこと)の通商、政府に拘らず勝手に出来候へば、神州も實に是きりに御座候。何とも一措置なくては相済み申すべきや。幾重に思ひかへ候ても、此時大和魂を発せねば最早時はこれ無き様覚へ申し候」と記し、大和魂を発揮して幕府の軟弱外交を糾弾すべきことを論じた。

 

井伊幕閣幕が勅許を得ずして「日米修好通商条約」を締結したことを知った吉田松陰は激怒した。同年七月十三日、松陰が長州藩主に提出した意見書『大義を議す』において「墨夷(注・アメリカ)の謀は、神州の患たること必せり。…ここを以て天子震怒し、勅を下して墨使を断ちたまふ。是れ幕府宜しく蹜蹙(注・恐れ縮こまる)遵奉之れ暇あらざるべし。今は則ち然らず。傲然自得、以て墨夷に諂事(注・へつらふこと)して天下の至計と為し、國患を思はず、國辱を顧みず、而して天勅を奉ぜず、是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮して可なり。少しも許すべからざるなり」「征夷は天下の賊なり。今を措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と主張し討幕の姿勢を明らかにした。

 

まことに上御一人日本天皇の勅命を蔑ろにしてアメリカに諂った徳川幕閣を、天人共に許さざる存在であり、天下の賊なりと断定した激烈な文章である。

 

松陰は、日本國體を護り、國家の独立を守るために、徳川幕閣に天誅を加へねばならないと決意した。京都に上り、朝廷に圧力をかけ、朝議の操作を成さんとし、また、京都所司代・酒井忠義に命じて尊攘の公卿や志士たちを弾圧捕縛した老中・間部詮勝(まなべあきかつ・越前國鯖江藩第七代藩主)誅殺を企てた。かうしたことが、長州藩政府の咎めるところとなり、野山の獄に入れられた。

 

松陰は、囹圄の身になっても、倒幕の志を変えることはなく、ますます燃え盛った。松陰は、同年四月七日、野山の獄から北山安世に宛てた手紙に「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羇縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。…今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望外なし」と書いた。

 

幕府も諸藩も頼むに足らず、全國の在野の同志が決起して外國からの脅威を撃ち祓ふ以外に道はないと主張したのである。

 

吉田松陰は、「安政の大獄」で処刑される直前、同囚の堀江克之助に与へた手紙の中で「天照の神勅に、『日嗣の隆えまさむこと、天壌と窮りなかるべし』と之あり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。唯今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と書かれた。

 

処刑の直前といふ絶望的状況にあっても、なほ、日本國體に対する絶対的信を保持せられた松陰先生に対し無上の尊敬の念を抱く。

 

今日、日本はまさに危機に瀕してゐる。しかし、神は必ず日本國と日本皇室を守り給ふ。『天壌無窮の神勅』に示されてゐるやうに、天照大御神の「生みの御子」であらせられる日本天皇がしろしめすわが日本國は永遠に不滅である。されば、現御神日本天皇の大御心を体し、日本伝統精神に回帰することによって、いかなる危機もこれを乗り切り、神國日本の真姿が回復すると確信する。

 

松陰先生は次の辞世をのこされてゐる。

 

討たれたる われをあはれと 見む人は 君を崇めて 夷(えみし)攘へよ

 

この歌には、まさに『尊皇攘夷の精神』が表白されてゐるのである。そして松陰の辞世の精神を継承した人々によって、明治維新の大業が成就したのである。

 

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2019年6月18日 (火)

井伊直弼は決して開国の功労者ではない

井伊直弼は國學とりわけ江戸中期の本居学を学んだ。井伊家は南朝への忠義に励んだ家柄であったとも言われ、直弼は「尊皇精神」の篤い人物であったとも言われている。直弼がペリー来航の翌年嘉永七年(安政元年)に伊勢皇大神宮に祈願した願文には攘夷の意志が込められている。

 

しかし、外圧によって幕藩体制は揺らぎ、翌安政元年(一八五四年)の「日米和親条約」で幕府の「祖法」としての鎖国体制は崩れ始めた。

 

そし幕閣でも諸大名の間でも、開国派と攘夷派の対立抗争が惹起した。開国政策は特に譜代大名によって推進された。その譜代大名の筆頭が彦根藩主・井伊直弼だった。

 

攘夷を強く主張したのは、德川御三家の一つ徳川斉昭そして松平慶永【春嶽。越前藩主】、島津斉彬【薩摩藩主】らによって代表される家門大名、外様大名であった。かてて加えてこの対立は第十三代将軍徳川家定の継嗣問題と絡んで一層先鋭となり、家門・外様大名派(これを一橋派と言ふ)が、「年長、英明、人望」を将軍継嗣の原則として一橋慶喜【よしのぶ。斉昭第七子】を擁立したのに対し、直弼ら譜代大名の派(これを南紀派と言ふ)は、「皇国の風儀」と「血脈」を強調して紀州藩主徳川慶福【よしとみ。のち家茂(いえもち)】を推した。

 

 安政五年(1858)に井伊直弼が大老に就任して、将軍継嗣には慶福を決定し、さらに勅許を得ないまま「日米修好通商条約」に調印した。そして尊皇攘夷運動に火がついた。これに対して直弼は徹底した弾圧策をとり、翌年にかけていわゆる安政の大獄を引き起こした。

 

直弼のこの弾圧政策は、万延元年(一八六〇)三月三日の「桜田門外の変」といふ彼の横死を招いた。幕府の実質的独裁者であった大老が江戸城の真ん前で殺されたことは、德川幕府の権威失墜を招いた。

 

しかも南紀派だとか一橋派とか言っても所詮は幕府内部の内輪爭ひである。その結果、大老暗殺といふ前代未聞の不祥事を招いたのであるから、これ以上の権威失墜はない。

 

井伊直弼は「皇国の風儀」「國體」といふ言葉をよく使ってゐた。しかし彼の言ふ「皇国の風儀」「國體」とは、天皇朝廷を尊ぶ姿勢は保持してはいたが、幕藩体制の上に天皇朝廷を形だけ奉りながら、「政治的実権」は全く剥奪した体制をであった。

 

そして「禁中ならびに公家諸法度」に規制された朝廷の在り方を否定する者は、國體破壊・皇国の風儀を否定する者と断じてこれを弾圧したのである。井伊直弼主導下の幕閣は、「孝明天皇を遠島にし奉る」と朝廷を脅迫し奉ったとさえ言われているのである。それが「安政の大獄」の本質と言っていい。

 

井伊直弼は決して開国の功労者ではなく逆賊であると断じて何ら間違いではない。井伊の行ったことは、孝明天皇の勅命を無視した欧米列強との不平等条約の締結にすぎないのである。

 

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2019年6月 9日 (日)

村上佛山の漢詩を読みて思ふ

村上佛山は(江戸後期-明治時代の漢詩人。文化七年生まれ。豊前(ぶぜん)京都(みやこ)郡稗田村。現在の福岡県行橋市の人)は次の詩を詠んだ。

「 落花紛紛  雪紛紛,
雪を踏み 花を蹴(け)りて  伏兵起る。
白晝斬り取る  大臣の頭(かうべ),
噫(ああ) 時事知る べきのみ。
落花紛紛  雪紛紛,
或ひは恐る天下の多事此(ここ)に兆(きざ)すを」

「桜田門外の変」はながく続いた徳川幕藩体制の致命傷となり、時勢は急転直下維新へと向って行った。

桜田門外の変=井伊直弼誅殺は、直接行動の有効性を天下に示した。そして、幕末期は、「天誅」といふ名の直接行動が多く起るやうになった。これは明治期に至るまで続いた。井伊直弼打倒とは即ち尊皇であり攘夷であった。

桜田門外の変参加者佐野竹之助は次の辞世を詠んだ。

「敷島のにしきの御旗もちささげ皇軍(すめにみいくさ)の魁(さきかげ)やせん」

国家変革は、一国の体制を打倒するか擁護するかのぎりぎりのところまで高まると、直接行動は不可欠となる。それは桜田門外の変であった。ただ直接行動の有効性などと言う政治的意義ではなく、桜田烈士そしてそれに続いた尊攘の志士達の篤い尊皇の思ひが根本にあったのである。


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2019年6月 8日 (土)

桜田門外の変について


桜田門外の変の三月後の万延元年六月に、岩倉具視が、孝明天皇の諮問に応へて奉った「上書」には次のやうに論じられた。

「関東の覇権はもはや地に墜ち候て、昔日の強盛にはこれなく、井伊掃部頭は大老の重職に居り候て自己の首領さえ保護仕りがたく、路頭に於て、浪人の手に相い授け申し候。これ明確たる一証に御座候。かように覇権の地に墜ちたる関東に御依頼遊ばされ候て、内憂外患を防遏(ぼうあつ)仕り、皇威御更張と申す儀は、世俗の諺に申し候、長竿を以て天上の星をたたき落とすが如き者に御座候て、徒労多く実効を見る事能はざる義と存じ奉り候。因て関東え御委任の政柄を、隠然と朝廷え御収復遊ばされ候方略に拠り為されられ、輿議公論に基き、御国是を御確立遊ばされ候儀、天下の爲長計過ぎざるの儀と存じ奉り候」。

桜田門外の変=井伊直弼誅殺は、直接行動の有効性を天下に示した。そして、幕末期は、「天誅」といふ名の直接行動が多く起るやうになった。これは明治期に至るまで続いた。その基本的行動原理は即ち尊皇であり攘夷であった。

桜田門外の変参加した志士・佐野竹之助は次の辞世を詠んだ。

「敷島のにしきの御旗もちささげ皇軍(すめにみいくさ)の魁(さきかげ)やせん」

まさに、安政の大獄と桜田門外の変は、明治維新実現の魁であり第一歩であり発火点となったのである。

内憂外患の危機にある今日こそ、我々は日本民族の歴史とその精神を学び、それを現代に生かさねばならない。それは日本民族の歴史に久遠に通じてゐるところの「道」を学ぶことである。歴史に学ぶとは、先人の志と事績を学ぶことである。歴史は抽象的な理論ではなく事実に即して「日本の道」「日本の伝統精神」を明らかにする。

わが國には、対外的危機感が伝統精神の復活・回帰の熱望を呼び覚してきた歴史がある。現代もさうした時期である。民族の歴史を我々一人一人の精神の中で甦らせて、自己の倫理観・道義感の基本に置くことによって民族意識が形成される。民族主義・愛國心・ナショナリズムと歴史意識とは不離一体である。

そして日本の民族精神の勃興は、天皇中心の國體の開顕と一体である。天皇中心の國體とは、「神話の世界以来の傳統信仰に基づく一系の道統と血統を保持し継承される現御神日本天皇を君主と仰ぐ國家の真姿」である。日本天皇は、肇國以来今日に至るまで、神話の世界からの道統である祭祀を行ってをられる。

天皇は日本伝統信仰の祭祀主であらせられ、生きた体現者であらせられる。天皇の國家統治は、「権力・武力による人民と領土支配」ではなく、祭祀主としての宗教的権威による国家と國民の統一・統合といふことである。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。

天皇を神聖君主と仰ぐ日本國體は、古代から今日に至るまで如何なる政体の変化があっても、わが國の歴史を貫いて来た。この國體の本来の姿・あるべき姿に回帰し開顕する運動は國家的危機において興起した。特に欧米列強の侵略の脅威が迫った幕末において、「尊皇攘夷」を思想的原理として危機の打開が目指された。

西洋列強の日本に対する圧迫といふ有史以来未曾有の危機に際会した時、「藩といふ地域」そして「士農工商といふ身分制度」を乗り越え打破して、天皇を中心とした統一國家・民族の一體感・運命共同意識を、醸成し回復することによって危機を撥ね退け国家民族の独立を守った。それが明治維新である。

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