2018年10月15日 (月)

千駄木庵日乗十月十四日

終日在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆、明日及び十五日に行うインタビューの準備など。毎日数種類の処方箋を服用していますが、呑んだ後猛烈な睡魔が襲ってきます。

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2018年9月25日 (火)

徳川慶喜について

 

 鳥羽・伏見の戦い・大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家がいる。新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」とある。

 

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。後年、慶喜はその心情を次のように語ったという。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。  

 

 『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。 

 

 要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。慶喜が維新後すぐに朝敵の汚名を取り除かれたのは当然であった。

 

さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。

 

水戸藩は明治維新の戦いにおいて多くの犠牲を出した。安政の大獄で先覚者が処刑され、桜田門外の変・英國大使館襲撃・坂下門外の変・天誅組挙兵・生野挙兵そして筑波挙兵に幾百人の水戸藩の志士が参画し血を流し命を捧げている。

 

だが、水戸藩は長州や薩摩のように倒幕の主勢力になることはできなかった。つまり明治維新政権の廟堂(政治をつかさどる所)に立つことはできなかった。むしろ水戸藩出身の徳川慶喜は朝敵とされた。

 

明治天皇は明治八年(一八七五)四月四日、桜の花のま盛りに、東京小梅村(現在の墨田区)の徳川昭武(水戸藩第十一代藩主・斉昭の十八男、最後の藩主)の屋敷をお訪ねになり、光圀・斉昭らの遺墨を御覧になり、

 

「花ぐはし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我はとひけり」

 

と詠ませられた。

 

『大日本史』を淵源とする水戸學の大義名分論、尊皇攘夷思想が明治維新の思想的原動力であったこと、そして光圀・斉昭の功績のみならず、斉昭の子にして徳川第十五代将軍となった徳川慶喜が、大政奉還を断行し、鳥羽伏見の戦い以来、フランス公使ロッシュの徹底抗戦の勧告を退けて、一意恭順を守り、外國からの侵略に対する日本立國の危険を除去した慶喜の尊皇愛國の心を嘉賞されたと拝する。    

  

徳川慶喜は、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。そして同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控える資格が与えられた。麝香間祇侯は、天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の死去に際しては、旭日大綬章を賜った。

 

ただこのような慶喜晩年の栄誉は、彼自身の功績によると共に、多くの天誅組を始め水戸藩尊攘の志士の犠牲があったからである。

 

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2018年9月24日 (月)

『錦の御旗』と鳥羽伏見の戦ひ

本日(平成三十年九月二十三日)放送されたNHK大河ドラマ『西郷どん』で、鳥羽伏見の戦いで官軍が掲げた錦の御旗について、岩倉具視と大久保利通が独断で、勝手に作り上げたものと描かれていた。しかしこれは史実とは全く異なる。

 

慶應四年正月二日、徳川慶喜は、大軍を率い、大阪から上洛せんとし、その先鋒は三日の午後、伏見京橋に着いた。そこで、これを阻止せんとする薩摩藩との間にこぜりあひが起った。その折りしも、鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮に砲陣をしいていた薩摩藩の大山弥助(後の元帥大山巌)の指揮により、御香宮と大手筋をはさんで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始した。

 

一方、奉行所では會津の大砲隊頭の林権助が表門を固め、傳習隊は南北両門を守り、土方歳三の率ゐる百五十余名の新選組は裏門の防備に当っていた。官軍の撃ち出した砲弾が、新選組の頭上に飛んできたので直ちに砲門をひらいて、これに応戦し、ついに朝幕の間に戦闘の火蓋が切られた。

 

今まで重苦しく静まり返っていたこのあたりは、砲煙弾雨に包まれ、忽ちにして修羅場と化した。そこで新選組の永倉新八は、十余名の決死隊をつくり、二間余の土塀を乗り越えて突撃したが、この時奉行所は砲弾のために火を発し、林権助は砲弾に斃れ幕軍の死傷者数知れず、早くも浮き足立ったが、久保田備前守の率ゐる三百の傳習隊は、官軍の前衛部隊を奇襲して墨染まで撃退した。

 

然し、翌四日征討大将軍に任じられた仁和寺宮嘉彰親王が薩、長、藝、の三藩の兵を率ゐ、錦の御旗を翻して陣頭に立たれ、威風堂々と進軍してきたので、官軍は俄に勇み立ち、幕軍を一気に淀まで撃退した。また、一時は苦戦に陥った鳥羽方面の官軍も錦の御旗に士気を盛り返して、幕軍に淀から更に橋本まで追撃したので、幕軍はついに力尽きて大阪へ敗走した。

 

「鳥羽伏見の戦ひ」で、幕府軍が敗退した根本原因は、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことにより、幕府軍の士気が萎えてしまったからである。

 

錦の御旗は、朝廷の軍即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして、天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。大河ドラマでは後醍醐天皇が朝廷方の軍に与へられたと描かれてゐたが、これも史実とは異なる。

 

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

 

史家の中には、「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、國學者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ者がゐる。以ての外の妄説である。

 

明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ理屈は全く成り立たない。

 

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも實に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。

 

大久保利通はその日記で次のやうに記してゐる。「(注・慶應四年)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(注・天皇の軍)を迎へて、有難々々といへる声、感涙に及び候」。大久保利通の尊皇心が吐露されてゐる文章である。

 

『徳川慶喜公傳』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰國せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり國を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊位に対して既に忠臣にあらず、まして皇國に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。水戸學の道統を継承したのである。ただしわが國に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本國を統治されるのが本来の姿である。一君萬民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

 

明治維新における草莽の志士の決起も、徳川慶喜の恭順も、江戸城無血開城も、天皇の御稜威よる。徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それは上御一人日本天皇の神聖権威であり、わが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

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2018年8月24日 (金)

孝明天皇と石清水八幡宮

 

 

頻繁に外国船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に宣命を捧げられた。その宣命には、

 

「近時相模国御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。それ交易は、昔より信を通ぜざる国に濫りに許したまふことは、國體にも関わりれば、たやすく許すべきことにもあらず。…肥前国にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情実の知り難きをイかには為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す。」と示された。

 

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外国船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏で、国民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

 

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの勅書も下された。

 

孝明天皇が、外患に際して日本国の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本国の独立の維持の基盤となったのである。

 

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

 

国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の根幹である。孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

 

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川武家政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉状態に置き奉ったのである。

 

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

 

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまふ。慶喜は、天皇に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう神前へは行かずに済ませてしまったといふ。病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓ひを回避したので慶喜の政略であったといはざるを得ない。

 

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。中でも大阪から京都に「夥しく登り」、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。民衆は天皇に強い仰慕の思ひを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本国の唯一の君主であることを自覚したのであった。

 

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本国の統治者であらせられるといふ天皇のご本質を顕現せられのたのであった。

 

言ひ換へれば、賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

 

孝明天皇は、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神仏習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「八幡山かみもここにぞあとたれてわが國民をまもるかしこさ」

 

文久二年(一八六二)十月十六日の「石清水御法楽」には、「薄風」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「夕嵐吹くにつけても花薄あだなるかたになびくまじきぞ」

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2018年8月 7日 (火)

橋本左内について

橋本 左内(はしもと さない、天保五年三月十一日(一八三四年四月十九日)―安政六年十月七日(一八五九年十一月一日))は、越前国福井藩士である。景岳と号し、諱は綱紀。父は橋本長綱、母は小林静境の娘。実弟は明治における陸軍軍医総監・男爵 橋本綱常。著書には十五歳の時に志を認めた『啓発録』がある。明治二十四年、贈正四位。

 

越前国に生まれる。嘉永二年(一八四九年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し蘭方医学を学んだ後、水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜や横井小楠らと交流する。越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。

 

安政四年(一八五七年)以降、由利公正らと幕政改革に参加。第十四代征夷大将軍を巡る安政の将軍継嗣問題では春嶽を助け、一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開した。

 

幕政改革、幕藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち、開国か攘夷で揺れる幕末期に活躍した人物であり、英才である。

 

安政六年(一八五九年)、主君・松平春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、左内自身も安政の将軍継嗣問題に介入した事が問はれ、南紀派で大老となった井伊直弼が発令した安政の大獄で斬首された。享年二六。

 

左内の処刑は藩主松平慶永の身代りといふか井伊直弼の慶永公に対する圧迫策であるといはれてゐる。左内は井伊大老誅殺後、罪を許され、遺骸は福井に移された。

 

墓所は東京都荒川区の小塚原回向院と、福井県福井市の善慶寺とにある。小塚原回向院には『橋本景岳之碑』が建立されてゐる。小塚原回向院のある地は、江戸時代の刑場跡で、回向院は、寛文七年、本所回向院の住職・弟誉義観が行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺である。開創から刑場が廃止された明治元年までの二百二十余年間に二十四万の遺体が葬られたといふ。大部分は重罪者で、ここで行はれた刑は獄門・磔・火あぶりといふ極刑であり、処刑者の埋葬は簡単に土をかけるだけといふもので、悪臭が漂ひ、野犬・野鳥が群がったといふ。何とも恐ろしい話である。

 

回向院に入り行くとすぐ左に橋本左内の墓がある。その隣りには、『橋本景岳之碑』が建てられてゐる。明治十七年の建立で、三条実美篆額・重野安繹撰・巌谷修書。

 

左内は次のやうな詩を残してゐる。

 

「二十六年は夢の如くにして過ぐ 顧みて平昔を思へば感ますます多し 天祥の大節は嘗て心折(くじ)きぬ 土室猶吟ず正気の歌」

 

「常山の髪 侍中の血 日月も光をつつみ 山河も色を改む 生きては名臣となり 死しては列星となる」(支那古代の忠臣に倣って自分も生きているうちは謀反人と戦ひ、死んでも忠臣の名をとどめたいといふ意)である。

 

吉田松陰・橋本左内のお二人は同じ運命を辿りお互ひに尊敬してゐたのだが、生前一度も會ったことはなかったといふ。

 

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2018年7月29日 (日)

明治維新と祭政一致の道統の回復

 

『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは、「祭政一致」の再興である。「祭政一致」とは、神をまつり神の御心のままに政治を行ふといふことである。

 

明治天皇は、明治元年十月十七日渙発の『祭政一致の道を復し氷川神社を親祭し給ふの詔』において「神祇を崇(たふと)び祭祀を重ずるは、皇國の大典にして、政教の基本なり。…方今更始の秋(とき)、新に東京を置き、親しく臨みて政を視る。将に先づ祀典を興し、綱紀を張り、以て祭政一致の道を復せむとす」と示された。

 

さらに、明治天皇は、明治三年正月三日『神靈鎮蔡の詔』を発せられ、神武天皇が橿原建都の後四年二月二十三日に発せられた『天神を祀り大孝を述べ給ふ詔』の大御心を継承されて、「朕、恭しく惟みるに、大祖の業を創(はじ)めたまふや、神明を崇敬し、蒼生を愛撫したまひ、祭政一致、由来する所遠し。朕、寡弱を以て、夙に聖緒を承け、日夜怵惕(じゅつてき)して、天職の或は虧(か)けむことを懼る。乃ち祇(つつしみ)て天神・地祇・八神曁(およ)び列皇の神靈を、神祇官に鎮祭し、以て孝敬を申(の)ぶ。庶幾(こひねがは)くは、億兆をして矜式(きょうしき)する所有らしめむ」と宣せられた。

 

影山正治氏は、「『諸事神武創業ノ始ニ原カム』ことを御眼目とされた明治御維新は、何よりも先づ祭政一致の大道大義を明らかにすることを以てその根本第一義とされた」(『古事記要講』)と論じてゐる。

 

復古の精神即ち祭政一致の精神は具體的には次のやうな形で現れた。明治四年十二月十二日付の左院(明治初期の立法諮問機関)の『建議』に「一、天照大神の神殿を禁域の中央に造立し、國家の大事は神前に於て議定すべきこと。…文武百官拝任の日は必ず神殿に拝して誓文を奉り、神教を重んじて皇室と共に國民を保安するの誠心を表せしむべ事。」とある。

 

「祭政一致」の制度を確立して、政治家・官僚はもちろん國民すべてが天神地祇へのかしこみの心を持って政治を行ひ、生活を営ませやうとした。神祇官の再興もその一環であった。

 

神祇官とは、律令制で、太政官と並ぶ中央最高官庁である。朝廷の祭祀をつかさどり、諸國の官社を総轄した。明治維新政府は、慶応四年(一八六八)閏四月、太政官七官の一として神祇官を再興し、神祇・祭祀をつかさどらしめた。明治四年(一八七一)八月八日にその規模を変じて神祇省と改称した。

 

「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

 

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道學」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

この自由な発想の「生みの親」は實に、洋學者でもなければお雇ひ外國人でもない。實に國學者・玉松操であった。『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ。」

「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

 

要するに、明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだったのである。

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2018年7月 5日 (木)

水戸天狗黨の悲劇

 

水戸市松本町に回天神社が鎮座する。れは、安政の大獄から戊辰戦争に至る勤皇殉難志士千七百八十五名の御霊を祀る神社である。拝殿は昭和四十四年の造営。

 

 幕末期の水戸藩は内部抗争が激しかった。尊皇攘夷派の中でも、水戸藩の中核思想たる『水戸學』に解釈を巡って激派と鎮派が真っ向から対立した。そして、安政五年(一八五八)八月八日、朝廷は幕府が勅許を得ずして『日米修好通商条約』に調印したことを非難し、徳川斉昭などが雄藩と共に幕政一新を断行せよと命ずる「勅諚」を水戸藩に下し、各藩にも伝達せよと命じられた。井伊直弼の主導する幕府はこの勅諚の返納を水戸藩に迫った。この問題についてどう対処するかで激派と鎮派が対立した。

 

 激派の主張は、「水戸家の本領は大義名分を重んずることにある。朝廷より賜りたる勅諚は各藩に伝達せねば違勅なる」というものであり。鎮派の主張は、「幕命に背くことは東照宮(家康)以来の伝統に反する」というものであった。

 

 激派の一部志士は、脱藩して井伊直弼を江戸桜田門外で誅殺した。そして、井伊直弼誅殺を行った水戸の志士たちに対して、天下の尊壤の志士の期待が集まった。

 

文久三年(一八六三)八月、「攘夷祈願・親征軍議の大和行幸」(天皇御自ら大和の神武天皇御陵などに参拝され、攘夷を祈願し、鳳輦を伊勢に進め奉り、東に向かって討幕の大事を行うという計画)が中止され、朝廷は公武一和で(朝廷と幕府が一體となって)國難に当たろうとする政情となった。しかし、これに反発する動きとして「大和天誅組の変」や「但馬の変」が起こった。

 

 藤田小四郎(藤田東湖の四男)ら尊攘派の水戸藩士は天誅組などの動きに呼応して、挙兵して攘夷の先駆たらんとし、元治元年(一八六四)三月二十七日、ついに「前藩主徳川斉昭の遺志を継承する」と称して、脱藩して筑波山に兵を挙げ、水戸藩佐幕派(諸生黨)及び幕府軍と戦った。当初は七十二名であった。彼らは白木の輿に、烈公の霊位を祀り、「贈従二位大納言源烈公神主」と大書した白布の幟を掲げ、これを軍神と奉戴して進軍した。

 

 これを「筑波山挙兵」或いは「天狗黨の乱」という。「天狗黨」という名称の由来は、水戸藩内の保守派・佐幕派である「門閥派」が家格の低い者たちの集まりである「尊攘派」が「鼻を高くして威張り散らす」として蔑みの念を込めて「尊攘派」を「天狗派」と呼んだことによるという。尊攘派の激派は、「天狗は義勇に通じるもの」だとして自ら「天狗黨」と名乗るようになったという。

 

 水戸天狗黨挙兵の檄文には、「東照宮(徳川家康のこと)、大猷公(家光のこと)には別して、深く御心を尽せられ、数百年の太平の基を開き遊ばされ候も、畢竟(つまるところ)尊皇攘夷の大義に本づかれ候儀にて、徳川家の大典、尊皇攘夷より重きは之なき様相成候は、実に勇々しき儀ならずや、……其志誓って東照宮の遺訓を奉じ、姦邪誤國の罪を正し、醜虜外窺の侮を禦ぎ、天朝、幕府の鴻恩に酬んとするに在り」と記されている。

 

この文に水戸藩の尊皇攘夷論の大きな矛盾というかジレンマがある。果たして家康が尊皇の至誠を持っていたかどうか疑問である。徳川家康を宗(祖先)と仰ぐ水戸藩の尊皇攘夷運動が、関ヶ原で徳川氏を敵として戦った薩摩や長州の徹底した幕府打倒の姿勢とは違った形になったのはこういうところにその原因があると思われる。

 

 小四郎らの筑波義軍は奮戦したが及ばず、衷情を天聴に達すべく、十月二十三日に幕軍の重圍を突破して軍団を組織し、武田耕雲斎(水戸藩元執政)を総大将として、十一月一日大子(現在の茨城県久慈郡大子町)を出発、同志一千余名を連れて道を下野・上野・信濃・美濃に取り、転じて十二月十一日越前に向かった。大雪道を埋め、糧食給せず、難渋を極めたと伝えられる。

 

 当時、禁裡御守衛総督に任じられていた徳川慶喜は、小四郎や耕雲斎らが熱烈に支持し尊敬していた斉昭の実子である。耕雲斎たちは慶喜なら自分たちの心情と行動を理解して貰えると思い、慶喜のいる京都に向かったのである。

 

しかし慶喜は、「常野浮浪脱走の徒の追討」を奏請し、同年十二月三日、京都を発して近江に宿った。筑波義軍を征討すべく立ち向かってくる軍勢の総督が、義軍が頼みとして来た慶喜だったのである。耕雲斎らは再三にわたって嘆訴状を慶喜に提出したが容れられず、筑波義軍・八百二十三名は加賀藩に降った。

 

 加賀藩は筑波義軍の従容たる態度に同情し、武士を遇する態度で臨んだが、翌慶應元年(一八六五)二月、幕府若年寄・田沼玄番頭意尊(たぬまげんばのかみおきたか)指揮下の幕府軍が到着すると待遇は一変した。幕府は筑波義軍を敦賀船町にあった十六棟の鰊肥料蔵に禁固した。鰊蔵の窓は全て釘で打ち付けられ、日の当たらない寒冷と臭穢の中で、全員が足枷をかけられ、土間に筵を強いて起居の場とし、夜具も与えられず、蔵の中央に樽を据えて用便の場所とし、わずかな穴から一日人の二個の握り飯を供されるという残虐非道処遇にあった。そして武田耕雲斎など三百五十三名が斬首という極刑に処された。斬首を免れた者も、鰊蔵で錮死、水戸に帰った者も獄死した。耕雲斎の家族は三歳の幼児まで殺されたという。

 

 自分を頼って来た水戸藩士を極刑に処した徳川慶喜のやり方は彼の人望を下落せしめ、志士をして徳川幕府打倒の道をいよいよ急がしめる端緒となったといわれる。大久保一蔵(後の利通)は幕府が残酷無比の極刑を行ったことを知り、「是ヲ以テ幕府滅亡ノ表ト察セラレ候」と書いている。もっとも大久保自身も維新後に、政敵・江藤新平を佐賀の乱の首謀者として梟首という残虐な刑に処するのである。歴史はめぐるというべきか。

 

 武田耕雲斎は次のような歌をのこしている。

 

「雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪」

「かたしきて寢ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪」

 

この時、耕雲斎は六十一歳の高齢であった。

 

 水戸の回天神社の隣に回天館がある。これは、昭和三十五年、天狗黨の志士たちが拘禁された鰊蔵が解體されることとなり、それを惜しむ水戸市民有志が一棟を敦賀市から譲り受け水戸市常盤神社境内に移築し、さらに平成元年回天神社境内に移築したものである。館内は天狗黨ゆかりの遺品・資料などが展示されている。

     

 扉にはこの蔵で非業の最期を遂げた志士の絶筆がのこっている。また精神的に異常をきたした志士が頭を打ち付けた柱、血糊の付いた壁などがそのまま残されている。

 

故梶山静六氏の「回天 法務大臣梶山静六」と書かれた書が掲げられていた。これは、梶山氏が茨城選出の國會議員だから掲げられているのではない。梶山氏の祖先は天狗黨の志士であったからである。

 

水戸の人に中には、「水戸の人間は天狗黨を死地に追いやった慶喜に恨みを持っているから、あの番組は見ない」と言う人もいる。以前、東京谷中墓地の徳川慶喜の墓に参った時にも、偶然居合わせた老人が、徳川慶喜に対する恨み言を言っていたことを思い出す。

 

 回天神社の隣には、「水戸殉難志士之墓」があり、一定の形の墓石三百七十四基が整然と並んでいる。

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2018年7月 3日 (火)

孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である

 

朝廷は、外國の勢威を恐れた屈辱的な開國に反対した。また開國反対の世論が巻き起った。しかし、井伊直弼の主導する徳川幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷の「攘夷」のご命令を無視して『日米通商条約』を締結した。この事によって尊皇倒幕の声が全国から澎湃として巻き起った。

 

第百二十一代・孝明天皇御製を拝する。

 

あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(とつくに)の船

 

戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり

 

この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新だった。

 

安政五年六月十九日、井伊の主導する幕府は、勅許を得ずして『日米通商条約』を締結した。その前々日の六月十七日、孝明天皇が発せられた『大神宮に外患調伏を祈禳し給ふの宣命』には、

 

「嘉永の年より以往(このかた)、蛮夷屡来れども、殊に墨夷(米夷)は魁主と為て、深くわが國と和親を請ふ所、後年併呑の兆、又邪教の伝染も亦恐る可し。若し要(もとめ)に逆へば、戦争に曁(およ)ぶ可き由を曰(まを)す。實に安危の間、決し難く思ひ煩ふ所、東武(註・幕府)に於いて應接に及び、方今差し拒む可きの慮(こころ)もなく、時勢の變革を以て、貿易通交を許容せむと欲す。是れ輙ち天下國家の汚辱、禍害遠からずと、晝とも無く夜とも無く、寤(さ)めても憂へ寐ても憂ふ。若し兵船来たるべくあらば、皇太神早く照察を垂れ給ひ、殊に神徳の擁護を以て、蒙古の旧蹤の如く、神風を施し給ひ、賊船を漂ひ没(しづ)ましめ、鎮護の誓を愆(かだ)はずして、天變地妖の怪在る可きなりとも、消し除き給ひて、…國體を誤らずして、禍乱を除き給ひ、四海静謐、萬民娯楽、永く戎狄の憂なく、五穀豊熟にして、寶位(あまつひつぎ)動(ゆる)ぎ無く、常磐に堅磐に、夜守日守に幸へ給へと、恐み恐みも申し賜はしく申す」(アメリカを主とした外国がわが国との和親を求めて来たが、後年になってわが国を併呑しやうとしてゐる兆しがある。また邪教の伝染も危険である。わが国が開国を拒否したら武力を行使すると言ってゐる。実に危険である。ところが徳川幕府は時代が変ったのだとして貿易交通を許容しやうとしてゐる。これは国家の汚辱であり害である。わたくしは昼も夜も寝ても覚めても心配してゐる。もし外国が攻めて来たら、天照大御神は明らかに察知されて、神徳の擁護によって蒙古来襲の古事のやうに、神風を吹かせ給ひ、賊船を沈没させ、国家鎮護のお誓ひに違はず、天変地妖を消し除き給ひて、國體を誤らず、禍乱を除き給ひ、世界平和、萬民幸福、永遠に外敵の憂ひ無く、五穀豊饒にして、天皇の御位も揺らぐことなく、永遠に堅固に夜も昼も護り給へと恐れながら申し上げます、といふほどの意)

と示されてゐる。

 

孝明天皇は、天照大神・邇邇藝命・神武天皇以来の連綿たる皇統の神聖権威を体現され、内憂外患交々来たるといった困難な情勢に先頭に立って立ち向はれたのである。攘夷断行といふ孝明天皇の強いご意志・大御心が國民意識を呼び覚まし、沸騰させ、強靭なナショナリズムとなり、短期間のうちに明治維新といふ大変革をもたらしたのである。

 

勅許を待たずに『日米通商条約』を締結した幕府への孝明天皇のお怒りは激しく、安政五年七月一日に次のやうな御製を詠ませられた。

 

しげりあひ繁り合ひたる萩すすきあるに甲斐なき武蔵野の原

 

「あるに甲斐なき武蔵野の原」とは、「夷」(外國)征伐できず条約を結んでしまった徳川幕府は、信頼するに足らないといふ意味であり、言ひ換へれば、徳川氏は征夷大将軍たるの資格を喪失したといふ意である。

 

さらに、孝明天皇は、幕府の専断を嘆かせ給ひ、六月二十八日には御退位の『密勅』を下し給ふた。それには、「(徳川幕府は)縦令ひ治世続き候とて(外國に)敵し難き旨申し候ては、実に征夷之官職紛失、歎箇敷事に候。所詮条約許容之儀は如何致し候とも、神州之瑕瑾、天下危亡之基、(御名)に於ては何処迄も許容難致候。」と示されてゐる。孝明天皇は、徳川幕府はその使命たる征夷を成し遂げることができない事を歎かれ、条約締結は神國の大きな傷となるとされたのである。

 

「征夷大将軍」とはいかなる役目を持つかについて、平田篤胤は次のやうに述べてゐる。「東西南北のエビスどもの、御國へ対し奉り不届きをせぬやうまた不届き無礼があったならば、相糾し、打平らげよと云ふ大将軍に御任じおかれてさし置かるる、大切なる徳川の御家に坐すによって、征夷大将軍とは申し奉るでござる。」(『伊吹於呂志』)

 

上御一人・孝明天皇が、「徳川氏は征夷大将軍の使命を果たすことができなくなった」と思し召された事の意味は大きい。

 

さらに八月五日には、重ねて攘夷の勅諭を下され、その中で徳川幕府に対して「厳重に申せば違勅、実意に申せば不信の至りに之無きや」と仰せられた。

 

八月七日には、幕府の非を戒め、國論の一致・挙國体制確立を望まれる『御趣意書』を下された。これを『戊午の密勅』と申し上げる。これが契機となり、安政の大獄、桜田門外の変、禁門の変、征長の変、薩長同盟・大政奉還、戊辰戦争へと歴史が進み明治維新が成就するのである。

 

宇都宮藩士・大橋訥庵(幕末の攘夷思想家。江戸の富商大橋家の養子。朱子学を学び攘夷論を主張。のち老中安藤信正暗殺を企てて捕へられ、幽居中病死。)はその著『政権恢復秘策』(文久元年九月)において、「今上ハ英明ニマシマシテ、夷狄猖獗ヲ憂憤シ玉ヒ、日夜宸襟を苦シメ玉フト云フコトハ、草莽マデモ聞エ渡リテ、誰モ彼モ有難キコトヨト涙ヲ流シ、カカル澆季(註・末世)ノ世ニ当リ、神州ノ危キ折カラニ、英明ノ天子出玉フテ、國土ヲ憂憤シ玉フハ、古ヘノ天祖ノ勅ニ、宝祚之隆当与天壌無窮ト宣ヒツルシルシナラント、人ミナ心強キコトニ思ヒ、神州ノ夷狄トナラザル恃ミハ、只天子ノ宸断ニアリ…一声ノ霹靂ノ轟クガ如ク、攘夷ノ詔勅ヲ下シ玉ハゞ、一人モ感動セザル者ナク、海内一時ニ饗応センコト、断々乎トシテ疑ヒナケレバ、是レゾ誠ニ今日第一ノ急務ニ非ズヤ。」と論じた。

 

全國の志士が身命を賭して尊皇倒幕に奮起したのは、孝明天皇の幕府に対する震怒がその根本要因である。そして孝明天皇の震怒が志士を奮起せしめたのは、神代以来のわが國の天皇信仰に基づくのである。つまり、孝明天皇の天津日嗣の御稜威が明治維新の原基である。徳川将軍家の統治能力が弱まったから相対的に朝廷の権威と権力が増したなどといふのは一面的な世俗的解釈である。國家存亡の危機に際して日本民族の三千年来の現御神信仰・尊皇精神が興起したのである。

 

徳富蘇峰は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない、また当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。……孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であらうが、関白であらうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。すなわち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御陰であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇和歌御會記及び御年譜』の「序」)と喝破しておられる。

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2018年6月28日 (木)

『五箇条の御誓文』に示された「天地の公道」とはわが國が古来より継承して来た一君萬民の理想政治の道

 

『五箇条の御誓文』に、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」と示されてゐるのは、封建社會の陋習を打破して欧米諸國家に追ひつかうとする姿勢を示したものであるといふ議論がある。しかし、「天地の公道」とは文字通り「天地の公道」であって欧米精神や欧米の諸制度のことではない。わが國古来より継承して来た「一君萬民の理想政治の道」のことである。

 

明治維新において、議會政治實現が目指されたのは、神代以来の傳統への回帰であり、決して欧米模倣ではない。議會政治・公議を竭す政治は、「天の岩戸開き神話」の天安河原における八百萬の神々の「神集ひ」以来のわが日本の傳統である。

 

和辻哲郎氏は、「(注・古代日本における)集団の生ける全体性を天皇において表現するということは、集団に属する人々が自ら好んでやり出したことであって、少数の征服者の強制によったものではない。その際全体意志の決定をどういうふうにしてやったかは正確にはわからないが、神話にその反映があるとすれば『河原の集會』こそまさにそれであった。そこでは集団の全員が集まり、特に思考の力を具現せる神をして意見を述べさせるのである。これは集會を支配する者が思考の力であることを示している。全体意志を決定する者は集會とロゴス(注・言語、論理、真理)なのである」(『國民統合の象徴』)と論じてゐる。

 

議會政治は神代以来の傳統であり、近代になってわが國に西洋がら輸入されたものではないことは、明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって明らかである。

 

「議會政治實現」とは神代への回帰なのである。明治維新における徳川幕府独裁専制政治打倒、一君萬民國家の建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新である。

 

江戸時代における「旧来の陋習」の一つは身分差別である。明治十一月二十八日に渙発された『徴兵の告諭』には次のやうに示されてゐる。

 

「我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり…固より後世(注・江戸時代のこと)の双刀を帯び、武士と称し厚顔坐食し、甚しきに至ては人を殺し、官、その罪を問はざる者の如きに非ず。…然るに大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(注・明治四年)に及び遠く郡県の古に復す。世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。是に於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず、均しく皇國一般の民にして、國に奉ずるの道も固より其別なかるべし」。

 

今日喧しく言はれてゐる「人権」といふ言葉が、明治五年に発せられた明治天皇の「告諭」にすでに示されてゐる事實に驚かざるを得ない。維新後の新しき世における「士」とは、士農工商の「士」ではなく、兵役に服する國民すべてが「士」であると明示された。一君萬民・萬民平等の理想を、ここに明確に、明治天皇御自ら示されたのである。

 

市井三郎氏はこのことについて「この徴兵の告諭は、明治二年以来華族・士族・平民という新しい呼称が制定されはしたが、それが幕藩体制下のような身分差別を意味するものではないことを、最も明瞭に宣明したものでした。…『王政復古』が『一君萬民』思想を介して、『四民平等』と深く結びついていたことを確認しておかねばなりません。当時の基準からすれば、『一君萬民』というイデオロギーによって、何百年にわたる封建的身分差別を、一挙に撤廃する手がうたれたことはみごとといわざるをえません。…明治日本は、階層間の移動の高さでは、西洋をはるかに凌駕するにいたるのです」(『思想から見た明治維新』)と論じてゐる。

 

明治四年八月二十八日、『穢多(えた)非人の称を廃止、平民との平等が布告され、明治五年八月、農民の間の身分差別が禁じられて職業自由が宣言され、同じ月、学制の公布によって全國民の平等な義務教育が法的理念になる。

 

徳川幕藩体制といふ封建社會においては全國で二百四を数へた各藩が分立してゐたが、「一君萬民」の國體を明らかにした明治維新といふ大変革によって、廃藩置県が行はれ、「大日本國」といふ統一國家意識が回復し、階級制度、身分差別、各藩分立の撤廃が図られた。さらに、自由民権運動が活発化し、民撰議院設立・憲法制定が實現してゆく。これは、欧米の模倣とか欧米思想の影響ではなく、わが國國體精神の回復なのである。

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2018年6月26日 (火)

明治維新の基本精神について

 

明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。

 

「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 

慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 

明治天皇は、さらに、

 

「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」

 

「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 

と詠ませられている。    

 

明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

明治維新は、「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。

 

「神武創業への回帰」という明治維新の根本精神は、危機的状況にあった祖國日本を再生せしめるための精神的基盤確立であったのである。近代日本の発展はまさに神武創業への回帰がその基礎となったのである。これを「復古即革新」(=いにしえに回帰することが現在の革新であるという理念)という。

今日の日本も、幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面している。今日においてこそ神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

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