2020年9月22日 (火)

明治時代以後における尊皇攘夷運動

幕末に於いて、維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』で半国家・半植民地と化した日本が、「完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。

天皇を中心とした日本国を欧米列強の侵略支配から祖国を守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であった。それが尊皇攘夷の精神である。しかし、明治維新後に於いても、「不平等条約」が存続し、日本は西欧列強と対等の立場に立っているわけではなかった。それとどころか、文明開化に美名のもと、日本は欧化の風に侵された。

明治維新の理想を実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。そしてそれは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いであった。

民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。

近代日本というか明治新政府は、「脱亜入欧」「文明開化」「富國強兵・殖産興業」の道を突き進んだ。つまり、欧米の文化・文明を取り入れて日本を近代化し、國を富ませ、軍事力を強固にし、生産を増やし産業を発展させることを目指したのである。

明治初期に岩倉使節団に参加して欧米を視察した政府高官たちの基本的観念には、第一に、欧米の文明に対する高い評価があり、第二に、アジアに対する蔑視とは言わないまでも欧米に比較してアジアは未開であるという認識があり、第三に日本の発展は、アジアから脱して欧米に入ることによって達成されるという考え方である。そして大久保・岩倉などは、その能力がわが日本にはあると確信した。これはまた、『五箇条の御誓文』の「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」という大御心に沿うものであると考えたのであろう。
 
大久保利通は、明治七年に書いた『殖産興業に関する建議書』には、「必ずしも英國の事業に拘泥して、之を模倣す可きにあらずと雖も、君民一致し、其國天然の利に基き、財用を盛大にして國家の根抵を固(かと)ふするの偉績に至りては、我國今日大有為の秋に際して宜しく規範と為すべきなり、況や我邦の地形及天然の利は、英國と相類似するものにあるに於ておや、……」と記している。わが國と國柄および天然自然条件が類似する英國を規範として殖産興業につとめるべきであるという主張である。 

東洋の伝統を否定あるいは軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線は、反対者によって『西洋覇道路線』とも名付けられる。そしてこの路線は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。

さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。マルクス主義などの西洋革命思想による日本の変革運動がそれである。

こういった近代日本の体制側・反体制側に共通する「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。明治第二維新運動では、西郷隆盛、江藤新平、島田一郎などが命を捧げたが、未完に終わった。

その精神と行動を継承する在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動である玄洋社は、明治十四年二月、福岡に創設された。「皇室を敬体戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の三箇条を憲則に掲げた。

明治二十一年に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、そしてそれに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。    

そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的原因にも関わる今日的課題なのである。

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2020年9月19日 (土)

吉村寅太郎の遺詠

吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ
吉村寅太郎

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠である。吉野から東吉野村の丹生川上神社中社を目指して行くと、鷲家谷といふところにさしかかる。道路に面して左側に「天誅組終焉之地」と刻まれた石碑が建ってゐる。また、「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠」と題してこの歌の歌碑も建てられてゐる。

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公卿と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携し長州藩の協力を得て「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。これは、孝明天皇が神武天皇御陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現するといふ計画であったといふ。

八月十三日、朝廷より攘夷御親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成され、河内國の村役人らの参加を得て大和國で挙兵した。大和國五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。
 
しかし、「大和行幸・攘夷御親征」は、孝明天皇の御心ではなく、在京諸藩主に反対も多かったといふ。特に會津・薩摩両藩の間で意思統一が行はれ、「大和行幸の詔」は、孝明天皇の御本意ではなかったとして、八月十八日未明、大和行幸の延期が決定された。これにより、攘夷親征の先鋒を以て任じた天誅組は逆に「朝見を憚らず、勅諚を唱へ候段、國家の乱賊にて、朝廷より仰せつけられ候者には之無く候間、草々討ち取り鎮静これあるべく」(朝廷よりの京都守護職への達示)と断じられる存在となり、幕府軍の追討を受けることとなった。

天誅組は、吉野山間を転戦し、悪戦苦闘一か月、残った四十士によって、同年九月二十四日から二十七日にかけて彦根と紀州の藩兵を相手に最後の決戦が行はれ、三総裁以下十五人の志士が戦死した。鷲家谷はこの大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐる。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

吉村寅太郎は、天保八年(一八三七)生まれの土佐國土佐郡津野山郷の庄屋の家に生まれる。城下に出て武市半平太に剣を学び尊攘思想に傾倒する。文久元年(一八六一)土佐勤王党に加盟。文久二年京都に出て、同志と図り尊皇攘夷運動に挺身した。

吉村寅太郎は、天誅組に中心人物の一人として参画した。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受け歩行困難となったが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、駕籠で担がれ東吉野村木津川より山を越え、最後の決戦地・鷲家谷までたどり着いた。

かかる戦ひのさなか、明日をも知れぬ命を思ひ、吉村寅太郎が詠んだ歌が次の歌である。

「曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと」

吉村寅太郎は、文久三年九月二十七日、鷲家谷にて、幕府方藤堂藩兵の銃弾によって二十六歳で最期を遂げた。凄惨なる戦ひが行はれた旧暦九月二十日過ぎと言へば晩秋である。このあたりの山々は見事に紅葉してゐたのであらう。散る間際の紅葉は、戦ひの時に寅太郎が敵を刀で討った時に迸った真紅の血潮の色に見えたのであらう。何とも凄まじい歌、凄惨な歌ではあるが、不思議と残虐さは感じられない。むしろ潔い戦闘精神が感じられる。

寅太郎が脱藩して上京する際、母上が寅太郎に贈った歌が、

「四方に名を揚げつつ帰れ帰らずばおくれざりしと母
に知らせよ」

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に

最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」
を實感させる歌である。

吉村寅太郎は、明治二四年(一八八一)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

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吉村寅太郎の遺詠

吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ
吉村寅太郎

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠である。吉野から東吉野村の丹生川上神社中社を目指して行くと、鷲家谷といふところにさしかかる。道路に面して左側に「天誅組終焉之地」と刻まれた石碑が建ってゐる。また、「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠」と題してこの歌の歌碑も建てられてゐる。

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公卿と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携し長州藩の協力を得て「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。これは、孝明天皇が神武天皇御陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現するといふ計画であったといふ。

八月十三日、朝廷より攘夷御親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成され、河内國の村役人らの参加を得て大和國で挙兵した。大和國五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。
 
しかし、「大和行幸・攘夷御親征」は、孝明天皇の御心ではなく、在京諸藩主に反対も多かったといふ。特に會津・薩摩両藩の間で意思統一が行はれ、「大和行幸の詔」は、孝明天皇の御本意ではなかったとして、八月十八日未明、大和行幸の延期が決定された。これにより、攘夷親征の先鋒を以て任じた天誅組は逆に「朝見を憚らず、勅諚を唱へ候段、國家の乱賊にて、朝廷より仰せつけられ候者には之無く候間、草々討ち取り鎮静これあるべく」(朝廷よりの京都守護職への達示)と断じられる存在となり、幕府軍の追討を受けることとなった。

天誅組は、吉野山間を転戦し、悪戦苦闘一か月、残った四十士によって、同年九月二十四日から二十七日にかけて彦根と紀州の藩兵を相手に最後の決戦が行はれ、三総裁以下十五人の志士が戦死した。鷲家谷はこの大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐる。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

吉村寅太郎は、天保八年(一八三七)生まれの土佐國土佐郡津野山郷の庄屋の家に生まれる。城下に出て武市半平太に剣を学び尊攘思想に傾倒する。文久元年(一八六一)土佐勤王党に加盟。文久二年京都に出て、同志と図り尊皇攘夷運動に挺身した。

吉村寅太郎は、天誅組に中心人物の一人として参画した。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受け歩行困難となったが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、駕籠で担がれ東吉野村木津川より山を越え、最後の決戦地・鷲家谷までたどり着いた。

かかる戦ひのさなか、明日をも知れぬ命を思ひ、吉村寅太郎が詠んだ歌が次の歌である。

「曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと」

吉村寅太郎は、文久三年九月二十七日、鷲家谷にて、幕府方藤堂藩兵の銃弾によって二十六歳で最期を遂げた。凄惨なる戦ひが行はれた旧暦九月二十日過ぎと言へば晩秋である。このあたりの山々は見事に紅葉してゐたのであらう。散る間際の紅葉は、戦ひの時に寅太郎が敵を刀で討った時に迸った真紅の血潮の色に見えたのであらう。何とも凄まじい歌、凄惨な歌ではあるが、不思議と残虐さは感じられない。むしろ潔い戦闘精神が感じられる。

寅太郎が脱藩して上京する際、母上が寅太郎に贈った歌が、

「四方に名を揚げつつ帰れ帰らずばおくれざりしと母
に知らせよ」

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に

最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」
を實感させる歌である。

吉村寅太郎は、明治二四年(一八八一)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

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2020年9月 3日 (木)

「復古の精神」を忘却した人たちによって行はれた「未曽有の変革」は西洋の物真似にすぎなくなった

神武創業への回帰、道統の継承、祭政一致の回復といふ明治維新の第一義を隠蔽し忘却せしめた要因は、西欧列強の軍事的侵略から祖國を守るための近代化・西洋化・工業化にのみ専念した事にある。そして「文明開化」が日本の傳統を破壊する事態になる危険さへ生じた。

「復古の精神」を軽視あるいは忘却した者たちによって行はれた「未曽有の変革」は、西洋の物真似と権力の徳川幕府から新たなる権力者への移動にすぎなくなった。少なくとも、傳統を重んじる人たちからはさういふ批判が生まれた。それが西南戦争・神風連の変などの第二維新運動である。

岩倉具視の諮問に対して、王政復古の基礎を「諸事神武創業ノ始ニ原カム」すべしと答へた國學者・玉松操は、維新後堂上に列せられたが、岩倉らの主導する明治新政府の欧化政策を批判し、「我不明にした奸雄の為め誤られたり」と嘆息し、明治三年、官を辞し閉居した。

矢野玄道(やのはるみち。明治二十年逝去。幕末の動乱期に國學関係の多くの著書をあらはし、國學を講じてその振興に努めながら、京都を中心に王政復古運動に専念し、維新後は國家構想をまとめた意見書『献芹詹語』を岩倉具視を通じて明治政府へ提出し、政治の改革にも功績を残した國學者)は、明治新政府の「文明開化」「欧化政策」を憂慮し、次のやうな歌を詠んだ。

「事により彼が善き事もちふともこゝろさへにはうちかたぶくな」

「其のわざを取り用ふれば自ら心もそれにうつる恐れあり」

「潔き神國の風けがさじとこゝろくだくか神國の人」

「橿原の宮に還ると思ひしはあらぬ夢にてありけるものを」

大正十三年に永井荷風は「開港は幕府を瓦解せしめたり。尊王攘夷とは薩長志士の呼號する處なりき。幕府倒れて薩長の世とはなるや攘夷の志士皆洋服を著て平然たり。變節も亦甚しと言ふべし。薩長藩閥の勢力今猶衰へず、變節の風天下に滿つ亦怪しむに足らず。日本はその昔永く支那を手本としけるが維新の際佛蘭西を師とし忽ち變返って英米に親しみ又何時となく獨逸に學び陸軍の軍服など初めは佛蘭西風なりしを獨逸風に改め佛蘭西とさへ云へば危險思想の本場にあらざれば背倫不徳の淫國の如く言ひなせしが獨逸敗北と見て取るや俄に飛行機の師匠を佛蘭西から呼び迎へてドイツのドの字も言はず景氣のいゝ處につく事宛ら娼妓の如しと云はれても吾等辦解の辭なきを如何せん」(『麻布襍記』)と書いてゐる。

幕臣の子孫である永井荷風らしい薩長主導の近代日本に対する酷評と言ってよいと思ふ。

西洋の機械的世界観における「進歩」とは、人間が利用しやすいやうに自然を作りかへることである。つまりは自然の破壊である。自然を神として仰ぐ傳統信仰とは全く相反する世界観である。日本近代の矛盾は神の喪失にあった。

明治維新後の急速な西欧化・近代化は、國内的にも対外的にも多くの矛盾と苦痛を生んだ。「和魂洋才」といふ言葉が生まれたが、すべではないが明治新政府の権力者・指導層(學者・経済人など)が西欧の模倣に汲々として肝心の和魂が忘却され隠蔽される事態となった。すなはち、「明治維新の理想」と「中央集権近代國家建設」との乖離が日本近代の歴史に大きな影をもたらした。わが國は近代化によって世界の強國になったが、豊葦原瑞穂の國=信仰共同體日本は隠蔽された原因はここにあった考へる。

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2020年8月11日 (火)

吉村寅太郎烈士の辞世について

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公家と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携して、「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。長州藩も協力の姿勢をとった。これは、孝明天皇が神武天皇陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現しやうするといふ計画である。

八月十三日、孝明天皇より攘夷親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、明治天皇の前侍従中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成された。河内国の村役人らの参加を得て大和国で挙兵した。五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。

 しかし、「大和行幸・攘夷御親征」には在京諸藩主に反対多く、会津・薩摩両藩間で尊攘派排撃の密議がなされ、八月十八日未明、「大和行幸の詔」は孝明天皇の御本意ではなかったとして、大和行幸の延期を決定した。これにより、天誅組は幕軍の追討を受けることとなった。

天誅組は、吉野山間を転戦し、同年九月二十四日から二十七日東吉野村にて三総裁以下十五志士が戦死した。ここ鷲家は、大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐた。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

吉村寅太郎烈士は、天保八年(一八三七)生まれの土佐藩士。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受けたが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、東吉野村木津川より山を越えてこの地までたどり着いたが、文久三年九月二十七日、幕府方藤堂勢藩士に囲まれ彼等の銃弾によって二十七歳で最後を遂げた。

 「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠
吉野山風にみだるるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ」

と刻まれた吉村寅太郎の辞世碑が建てられてゐる。凄惨なる
戦ひが行はれた頃、このあたりの山々は見事に紅葉してゐた
のであらう。

吉村寅太郎烈士の土佐藩脱藩の際、母上が贈った歌が、

「四方に名を揚げつつ帰れ 帰らずば おくれざりしと母
に知らせよ」

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に
最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」
を實感させるところの歴史にのこる歌である。

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2020年6月24日 (水)

高山彦九郎の歌に学ぶ

東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處(おほみやどころ)

高山彦九郎

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

「一天万乗の聖天子」「上御一人」の住まはれるにしては、あまりにも質素で小さい京都御所を拝しての実感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと伝はってくる。

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は大変に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、高山彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として高名をはせたといふ。

十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

二年間京都に滞留、この間多くの学者に学んだ。帰国後六年間家業に従ったのち、各地を遊歴して「勤皇論」を説いた。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友した。

そして、水戸、仙台、松前を回り、寛政三年(一七九一)、北陸路から再び京都に入った。岩倉具選(江戸時代中期・後期の日本の公卿。岩倉家七世の祖。篆刻を善くした。公卿としては主に後桜町上皇に仕へ、その院別当などを務めた)宅に寄留した。この時「奇瑞の亀」を献上したことにより、光格天皇から謁を賜った。

川田順氏は、「如何にして彦九郎が天顔に咫尺し奉るを得たか。…寛政三年春、近江國高島郡の一漁師が、湖水で緑毛龜を生捕った。大變な評判になったが、たまたま彦九郎も衆と共にこれを一見し、知人の志水南涯をして飼養せしめ、清原宣條(のぶえだ)等の公卿を經て、遂に叡覽に呈するに至った。龜に毛のあるものは文治の瑞兆なるが故である。かやうな機縁にて、匹夫の彦九郎は、窃に天顔を拝するを得たのであった」(『幕末愛國歌』)と記してゐる。

高山彦九郎が、光格天皇の龍顔を拝する栄に浴した感激を詠んだ歌が次の歌である。

「われをわれと しろしめすかや すべらぎの 玉の御聲の かかるうれしさ」

「わたくしをわたくしとお知りになるであらうか、天皇陛下の玉の御声を拝聴するうれしさはかぎりない」といふほどの意である。  

この歌は、「東山 のぼりてみれば あはれなり」の歌と共に草莽の臣の上御一人に対し奉る恋闕の情を歌った絶唱であり『愛国百人一首』にもとられてゐる。

彦九郎はこの後、九州各地を遊歴し、久留米に至り、寛政五年(一七九三)六月二十七日、時世を嘆じ自刃して果てた。時に四十七歳であった。

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2020年6月21日 (日)

徳川幕府を崩壊させたのは國民全体が古来より持っていた尊皇の心であった

正しく國史を概観すれば、万民の苦難を救い、さらに外國からの侵略の危機という有史以来未曾有の國難を打開するためには、天皇がわが國の統治者であるというわが國體の真姿を正しく開顕し、日本國民は天皇を唯一の君主として仰ぐという國民的自覚を高揚せしめ、天皇中心の政治体制を確立することが絶対要件であったのである。明治維新においては、天皇中心の國體を明らかにするには、徳川幕藩体制の打倒は必要欠くべからざることであった。公武合体路線や幕藩体制では國難が突破できなかったのである。

 徳川軍一万五千(會津・高松・浜田・大垣各藩及び旗本・新選組・見廻組等から構成)は、慶應四年一月二日、老中格・大河内正質(まさただ)を総督として京都に進発した。新政府軍(薩摩・長州・芸州・彦根・西大路各藩などで構成)がこれを迎え撃ち、鳥羽・伏見両方面で戦闘が開始された。戊辰戦争の勃発である。

一月四日には、議定・嘉彰親王が征討大将軍に補任され、錦旗と征討の節刀を賜り、洛南の東寺に陣を置いた。錦旗が新政府側に翻ったことは、旧幕府軍が朝敵・賊軍になったことを意味する。

 五日まで激戦が続いたが、南下した追討軍が翻す錦旗を遠望した旧幕府軍は浮き足立ち、藤堂藩・淀藩をはじめ御三家・紀伊藩など近畿各藩が新政府軍側についてしまった。これにより、旧幕府軍は陣形・士気ともに崩壊し、敗走する。皆、朝敵となるのを恐れたのである。

 そして、徳川慶喜は一月九日、大阪城を脱して海路江戸に向かった。これにより、新政府軍の勝利が決定的となった。

 鳥羽・伏見における薩長その他新政府軍と、旧幕府軍との兵力比は一対三で、旧幕府軍が圧倒的に有利であった。また、海軍力も財力も旧幕府軍が新政府軍より優勢であった。にもかかわらず、新政府軍が勝利を収めたのは、錦旗の威力すなわち現御神日本天皇の御稜威(神聖権威)によるとしか考えられない。天皇に反抗して戦いを行うことはできないという「尊皇精神」が旧幕府軍にあったから、戦いを続行できなかったのである。

 このときの状況を西郷隆盛は、慶應四年一月三日付けの大久保利通に宛てた書状で、次のように書いている。

 「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。追討将軍の儀如何にて御座候や。明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候間、何卒御尽力成し下され度く合掌奉り候」。

 尊皇の大義名分を基とした正しき國史『大日本史』を編纂し、尊皇攘夷運動の発火点となった水戸藩の出身であり、烈公・水戸斉昭の実子である徳川慶喜が、錦旗に歯向かうことなどできよう筈がなかったのである。

 鳥羽・伏見の戦い・大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家もいる。現に新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。

後年、慶喜はその心情を次のように語ったという。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。

 慶應四年(一八六八)一月十九日、フランス公使・ロッシュは、江戸に帰って来た徳川慶喜に面會し、「再挙」(新政府軍に再度武力戦を挑むこと)を促した。しかし慶喜はこれを拒絶し、次のように語ったという。曰く「わが邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過(あやま)たば末代まで朝敵の悪名免れ難し。……よし従来の情義によりて当家に加担する者ありとも、斯くては國内各地に戦争起りて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民其害を受けん。これ最も余の忍びざる所なり。されば唯当家衰運の然らしむ所と覚悟し、初より皇室に対し二心なき旨を幾度も申し披(ひら)き、天披を待つの外なきことなり。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として市民の父母となり國を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。此上尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊威に対して既に忠臣にあらず、まして皇國に対しては逆賊たるべし。……」(『徳川慶喜公伝』)。
 
また、徳川慶喜は渋沢栄一に次のように語ったと書かれている。「(鳥羽・伏見の戦いで仼)やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては、(慶喜は仼)益(ますます)驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刄向かうべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑(會津と桑名)を諭して帰國せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよといひ放ちしこそ一期の不覚なれ。』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」(『徳川慶喜公伝』)。
 
『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。
 
要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。
 
さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。鳥羽・伏見の戦いで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のように記している。
 
「(慶應四年仼)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候。」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。
 
徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それはわが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

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2020年4月28日 (火)

明治維新と水戸藩の「尊皇攘夷思想」

井伊直弼を斃したのは水戸学を学んだ水戸脱藩の志士達であった。幕末における水戸藩の「尊皇攘夷思想」が端的に書かれた文は次の文である。

天保十四年に、福井藩主松平春嶽公に対して、水戸藩主徳川齊昭公が示した「治国」についての文章に「一、国守身持心得方之事、天朝公辺への忠節を心懸、内は士民撫育之世話、外は夷狄奸賊防禦之手当為肝要候」。

国守即ち藩主として、朝廷へ忠節を尽くすこと、藩士と領民の面倒をよく見ること、そして外敵の侵略に対して国土を守る備へをすべきことを論じてゐる。明治維新における水戸烈公と松平春嶽公の貢献は非常に大きかった。しかも水戸藩は御三家の一つ、福井藩は徳川家康の長男と松平秀康を藩祖とする親藩筆頭である。

水戸学の泰斗・藤田東湖が、主君・徳川齊昭に奉った文章で次のように論じてゐる。

「先づは関東の弊風にて、日光等さへ御立派に候へば、山陵はいか様にても嘆き候者も少なき姿に御座候、…日光御門主〈輪王寺宮〉を平日御手に御附け遊ばされ、万一の節は、忽ち南北朝の勢をなし候意味、叡山へ対し東叡山御建立、其の外禁中諸法度等の意味、実に言語を絶し嘆かはしき次第、右等を以て相考へ候へば、京所司代などは、以心伝心の心得ぶり、密かに相傳り仕り候かも計りがたく、実意を考へつめて候へば、一日も寝席を安んじかね候次第」。

徳川幕府の朝廷への不敬を厳しく糾弾した文章である。かうした正統なる尊皇精神が徳川御三家の一つ水戸徳川家に存したといふことは実に以て驚くべき事である。明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発したのである。

水戸学の精神が記された文章が『弘道館記』である。水戸藩の藩校・弘道館は藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与へた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終へるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救ふための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもなどでもかうした教育振興策が講じられた。

弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。
東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。
『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されてゐる。

『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬ひ、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されてゐる文である。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

藤田東湖は「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べてゐる。

徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したといふ事実は驚嘆に値する。

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2020年4月26日 (日)

孝明天皇と明治維新

孝明天皇は、御名は統仁(おさひと)と申し上げ、仁孝天皇の第四皇子。弘化三年二月(一八四六)践祚。翌年御即位。慶応二年(一八六六)十二月二十五日、御年三十六歳で崩御。二十年にわたる御在位期間は、まさに内憂外患交々来たる大国難の時期であった。孝明天皇は、神仏に国家の危機打開を祈願されるばかりでなく、德川幕府を叱咤督励し、国民を激励された。

二度目のペリー来航があった嘉永七年(一八五四)、孝明天皇は次の御製をお詠みになった。

「あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(とつくに)の船」(嘉永七年。ペリー来航の翌年)

安政五年(一八五八)一月、德川幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外国の勢威を恐れた屈辱的な開国をお許しにならなかった。同年六月幕府は、井伊直弼主導の下、朝廷の意向に反して、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印した。また将軍継嗣の決定でも、独断専行した。

孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公実記』の「米国条約調印二付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の「勅書」において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何国迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神国日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことはあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

さらに、孝明天皇が、同年八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下国家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

そして、孝明天皇は、

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」(御詠年月未詳)

との御製を詠ませられた。武蔵野の原とは、徳川幕府のことである。

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の国家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主体はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事実中の大事実をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

征夷の実力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一国家建設=明治維新の開始であった。

吉田松陰は、同年七月十三日に、長州藩主に提出した『講大義』において、それまでの幕府容認の姿勢を転換して、「…幕府ハ…墨使ニ諂事シ、天下ノ至計ト為ス。国患ヲ思ハズ、国辱ヲ顧ミズ、而シテ天勅ヲ奉ゼズ、神人皆憤ル。コレヲ大義ニ準ジ、討滅誅戮シテ然ル後ニ可ナリ。少シモ宥スベカラザルナリ」と論じ、討幕の姿勢を明らかにした。

全国的規模で「幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷のご命令を無視して開国した」との批判が巻き起こってしまった。幕府の違勅とそれに対する孝明天皇の震怒が、倒幕運動を急激に大きくしたのである。思想的・理論的な「尊皇統幕思想」は脈々と継承されてゐたが、全国の志士が決起したのは、幕府が勅命に反して『日米修好通商条約』を批准したこと、そしてそのことに対し、ひたすら國の行く手を憂ひ給ふ孝明天皇が震怒されたことによるのである。

幕府批判の動きが活発化すると、井伊直弼は、「安政の大獄」を起して弾圧した。憤激した尊皇攘夷の志士たちにより、安政六年三月三日に井伊直弼誅殺の「桜田門外の変」が起った。

孝明天皇はこの年の七月二十六日に、

「こと國もなづめる人も殘りなく攘ひつくさむ神風もがな」

といふ御製を詠ませられた。
また、次のやうな御製ものこされてゐる。

「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」(年月不祥)

井伊直弼誅殺後、孝明天皇は、文久二年五月十一日付渙発の『時局を御軫念の御述懐の勅書』(別名「時局御軫念の御述懐一帖」)では次のやうにお示しになった。

「惟に因循姑息、舊套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内疲弊の極、卒には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏まば、朕、實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕實に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して、以て報ぜん事を計れ。」

幕府が攘夷を決行しなければ、神武天皇、神功皇后の御事績に倣ひ、孝明天皇御自ら、軍事的行動を起こされると宣せられたのである。幕府は恐懼し、「勅書」を体して「奉勅攘夷」を貫くことを堅く誓約した。

小田村寅二郎氏は、この『時局御軫念の御述懐一帖』について、「この御文章は、ここに謹撰申上げた悲痛極りない御製の数々と共に、幕末を語るすべての日本人が必読すべきものとしてぜひごらんいただきたいと思ふ。」(『歴代天皇の御歌』)と論じてゐる。

孝明天皇の國を憂ひ民を思はれる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新であった。君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守らうといふ國粋精神が日本の独立を守った。そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。

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2020年4月15日 (水)

孝明天皇御製を拝し奉りて

万延元年(一八六〇)三月三日に井伊直弼が誅殺された。

孝明天皇はこの年の七月二十六日に、

「こと國もなづめる人も殘りなく攘ひつくさむ神風もがな」

といふ御製を詠ませられた。

また、次のやうな御製ものこされてゐる。

「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」(年月不祥)

孝明天皇は、翌年の文久二年(一八六一)五月十一日付渙発の『時局を御軫念の御述懐の勅書』(別名「時局御軫念の御述懐一帖」)では次のやうにお示しになった。

「惟に因循姑息、舊套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内疲弊の極、卒には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏まば、朕、實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕實に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して、以て報ぜん事を計れ。」

徳川幕府が攘夷を決行しなければ、神武天皇、神功皇后の御事績に倣ひ、孝明天皇御自ら、軍事的行動を起こされると宣せられたのである。幕府は恐懼し、「勅書」を体して「奉勅攘夷」を貫くことを堅く誓約した。

小田村寅二郎氏は、この『時局御軫念の御述懐一帖』について、「この御文章は、ここに謹撰申上げた悲痛極りない御製の数々と共に、幕末を語るすべての日本人が必読すべきものとしてぜひごらんいただきたいと思ふ」(『歴代天皇の御歌』)と論じてゐる。

文久三年(一八六三年)には、孝明天皇の賀茂神社・石清水八幡宮に御幸され、攘夷祈願を行はれた。今でこそ、石清水八幡宮にはケーブルカーに乗って男山を登りゆき参拝できるが、江戸時代末期はたとへ輿で登られたとしても大変な難行苦行であったと思はれる。

さらに、孝明天皇は、

「戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり」(御詠年月不詳)

といふ御製をのこされた。この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。この御製を拝した多くの志士たちが尊皇攘夷の戦ひに決起した。

宮部鼎蔵(熊本藩士。尊攘派志士として、京都を中心に活躍。諸藩の有志たちと協議を重ね尊攘派運動を推進したが、池田屋事件にて自刃)は、孝明天皇の御製にこたへ奉り、次の歌を詠んだ。

「いざ子ども馬に鞍置け九重の御階(みはし)の桜散らぬその間に」

維新の志士の孝明天皇への赤誠・戀闕の心が、尊皇倒幕の行動を起こさしめた。

徳富蘇峰氏は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない。長州でもない。其他の大名でもない。又当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。…孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であろうが、関白であろうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇を和歌御會記及御年譜』「序」)と論じてゐる。

孝明天皇の國を憂ひ民を思はれる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新であった。君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守らうといふ國粋精神が日本の独立を守った。そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。

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