2020年6月24日 (水)

高山彦九郎の歌に学ぶ

東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處(おほみやどころ)

高山彦九郎

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

「一天万乗の聖天子」「上御一人」の住まはれるにしては、あまりにも質素で小さい京都御所を拝しての実感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと伝はってくる。

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は大変に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、高山彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として高名をはせたといふ。

十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

二年間京都に滞留、この間多くの学者に学んだ。帰国後六年間家業に従ったのち、各地を遊歴して「勤皇論」を説いた。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友した。

そして、水戸、仙台、松前を回り、寛政三年(一七九一)、北陸路から再び京都に入った。岩倉具選(江戸時代中期・後期の日本の公卿。岩倉家七世の祖。篆刻を善くした。公卿としては主に後桜町上皇に仕へ、その院別当などを務めた)宅に寄留した。この時「奇瑞の亀」を献上したことにより、光格天皇から謁を賜った。

川田順氏は、「如何にして彦九郎が天顔に咫尺し奉るを得たか。…寛政三年春、近江國高島郡の一漁師が、湖水で緑毛龜を生捕った。大變な評判になったが、たまたま彦九郎も衆と共にこれを一見し、知人の志水南涯をして飼養せしめ、清原宣條(のぶえだ)等の公卿を經て、遂に叡覽に呈するに至った。龜に毛のあるものは文治の瑞兆なるが故である。かやうな機縁にて、匹夫の彦九郎は、窃に天顔を拝するを得たのであった」(『幕末愛國歌』)と記してゐる。

高山彦九郎が、光格天皇の龍顔を拝する栄に浴した感激を詠んだ歌が次の歌である。

「われをわれと しろしめすかや すべらぎの 玉の御聲の かかるうれしさ」

「わたくしをわたくしとお知りになるであらうか、天皇陛下の玉の御声を拝聴するうれしさはかぎりない」といふほどの意である。  

この歌は、「東山 のぼりてみれば あはれなり」の歌と共に草莽の臣の上御一人に対し奉る恋闕の情を歌った絶唱であり『愛国百人一首』にもとられてゐる。

彦九郎はこの後、九州各地を遊歴し、久留米に至り、寛政五年(一七九三)六月二十七日、時世を嘆じ自刃して果てた。時に四十七歳であった。

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2020年6月21日 (日)

徳川幕府を崩壊させたのは國民全体が古来より持っていた尊皇の心であった

正しく國史を概観すれば、万民の苦難を救い、さらに外國からの侵略の危機という有史以来未曾有の國難を打開するためには、天皇がわが國の統治者であるというわが國體の真姿を正しく開顕し、日本國民は天皇を唯一の君主として仰ぐという國民的自覚を高揚せしめ、天皇中心の政治体制を確立することが絶対要件であったのである。明治維新においては、天皇中心の國體を明らかにするには、徳川幕藩体制の打倒は必要欠くべからざることであった。公武合体路線や幕藩体制では國難が突破できなかったのである。

 徳川軍一万五千(會津・高松・浜田・大垣各藩及び旗本・新選組・見廻組等から構成)は、慶應四年一月二日、老中格・大河内正質(まさただ)を総督として京都に進発した。新政府軍(薩摩・長州・芸州・彦根・西大路各藩などで構成)がこれを迎え撃ち、鳥羽・伏見両方面で戦闘が開始された。戊辰戦争の勃発である。

一月四日には、議定・嘉彰親王が征討大将軍に補任され、錦旗と征討の節刀を賜り、洛南の東寺に陣を置いた。錦旗が新政府側に翻ったことは、旧幕府軍が朝敵・賊軍になったことを意味する。

 五日まで激戦が続いたが、南下した追討軍が翻す錦旗を遠望した旧幕府軍は浮き足立ち、藤堂藩・淀藩をはじめ御三家・紀伊藩など近畿各藩が新政府軍側についてしまった。これにより、旧幕府軍は陣形・士気ともに崩壊し、敗走する。皆、朝敵となるのを恐れたのである。

 そして、徳川慶喜は一月九日、大阪城を脱して海路江戸に向かった。これにより、新政府軍の勝利が決定的となった。

 鳥羽・伏見における薩長その他新政府軍と、旧幕府軍との兵力比は一対三で、旧幕府軍が圧倒的に有利であった。また、海軍力も財力も旧幕府軍が新政府軍より優勢であった。にもかかわらず、新政府軍が勝利を収めたのは、錦旗の威力すなわち現御神日本天皇の御稜威(神聖権威)によるとしか考えられない。天皇に反抗して戦いを行うことはできないという「尊皇精神」が旧幕府軍にあったから、戦いを続行できなかったのである。

 このときの状況を西郷隆盛は、慶應四年一月三日付けの大久保利通に宛てた書状で、次のように書いている。

 「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。追討将軍の儀如何にて御座候や。明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候間、何卒御尽力成し下され度く合掌奉り候」。

 尊皇の大義名分を基とした正しき國史『大日本史』を編纂し、尊皇攘夷運動の発火点となった水戸藩の出身であり、烈公・水戸斉昭の実子である徳川慶喜が、錦旗に歯向かうことなどできよう筈がなかったのである。

 鳥羽・伏見の戦い・大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家もいる。現に新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。

後年、慶喜はその心情を次のように語ったという。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。

 慶應四年(一八六八)一月十九日、フランス公使・ロッシュは、江戸に帰って来た徳川慶喜に面會し、「再挙」(新政府軍に再度武力戦を挑むこと)を促した。しかし慶喜はこれを拒絶し、次のように語ったという。曰く「わが邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過(あやま)たば末代まで朝敵の悪名免れ難し。……よし従来の情義によりて当家に加担する者ありとも、斯くては國内各地に戦争起りて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民其害を受けん。これ最も余の忍びざる所なり。されば唯当家衰運の然らしむ所と覚悟し、初より皇室に対し二心なき旨を幾度も申し披(ひら)き、天披を待つの外なきことなり。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として市民の父母となり國を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。此上尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊威に対して既に忠臣にあらず、まして皇國に対しては逆賊たるべし。……」(『徳川慶喜公伝』)。
 
また、徳川慶喜は渋沢栄一に次のように語ったと書かれている。「(鳥羽・伏見の戦いで仼)やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては、(慶喜は仼)益(ますます)驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刄向かうべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑(會津と桑名)を諭して帰國せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよといひ放ちしこそ一期の不覚なれ。』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」(『徳川慶喜公伝』)。
 
『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。
 
要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。
 
さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。鳥羽・伏見の戦いで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のように記している。
 
「(慶應四年仼)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候。」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。
 
徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それはわが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

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2020年4月28日 (火)

明治維新と水戸藩の「尊皇攘夷思想」

井伊直弼を斃したのは水戸学を学んだ水戸脱藩の志士達であった。幕末における水戸藩の「尊皇攘夷思想」が端的に書かれた文は次の文である。

天保十四年に、福井藩主松平春嶽公に対して、水戸藩主徳川齊昭公が示した「治国」についての文章に「一、国守身持心得方之事、天朝公辺への忠節を心懸、内は士民撫育之世話、外は夷狄奸賊防禦之手当為肝要候」。

国守即ち藩主として、朝廷へ忠節を尽くすこと、藩士と領民の面倒をよく見ること、そして外敵の侵略に対して国土を守る備へをすべきことを論じてゐる。明治維新における水戸烈公と松平春嶽公の貢献は非常に大きかった。しかも水戸藩は御三家の一つ、福井藩は徳川家康の長男と松平秀康を藩祖とする親藩筆頭である。

水戸学の泰斗・藤田東湖が、主君・徳川齊昭に奉った文章で次のように論じてゐる。

「先づは関東の弊風にて、日光等さへ御立派に候へば、山陵はいか様にても嘆き候者も少なき姿に御座候、…日光御門主〈輪王寺宮〉を平日御手に御附け遊ばされ、万一の節は、忽ち南北朝の勢をなし候意味、叡山へ対し東叡山御建立、其の外禁中諸法度等の意味、実に言語を絶し嘆かはしき次第、右等を以て相考へ候へば、京所司代などは、以心伝心の心得ぶり、密かに相傳り仕り候かも計りがたく、実意を考へつめて候へば、一日も寝席を安んじかね候次第」。

徳川幕府の朝廷への不敬を厳しく糾弾した文章である。かうした正統なる尊皇精神が徳川御三家の一つ水戸徳川家に存したといふことは実に以て驚くべき事である。明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発したのである。

水戸学の精神が記された文章が『弘道館記』である。水戸藩の藩校・弘道館は藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与へた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終へるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救ふための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもなどでもかうした教育振興策が講じられた。

弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。
東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。
『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されてゐる。

『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬ひ、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されてゐる文である。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

藤田東湖は「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べてゐる。

徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したといふ事実は驚嘆に値する。

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2020年4月26日 (日)

孝明天皇と明治維新

孝明天皇は、御名は統仁(おさひと)と申し上げ、仁孝天皇の第四皇子。弘化三年二月(一八四六)践祚。翌年御即位。慶応二年(一八六六)十二月二十五日、御年三十六歳で崩御。二十年にわたる御在位期間は、まさに内憂外患交々来たる大国難の時期であった。孝明天皇は、神仏に国家の危機打開を祈願されるばかりでなく、德川幕府を叱咤督励し、国民を激励された。

二度目のペリー来航があった嘉永七年(一八五四)、孝明天皇は次の御製をお詠みになった。

「あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(とつくに)の船」(嘉永七年。ペリー来航の翌年)

安政五年(一八五八)一月、德川幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外国の勢威を恐れた屈辱的な開国をお許しにならなかった。同年六月幕府は、井伊直弼主導の下、朝廷の意向に反して、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印した。また将軍継嗣の決定でも、独断専行した。

孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公実記』の「米国条約調印二付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の「勅書」において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何国迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神国日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことはあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

さらに、孝明天皇が、同年八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下国家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

そして、孝明天皇は、

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」(御詠年月未詳)

との御製を詠ませられた。武蔵野の原とは、徳川幕府のことである。

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の国家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主体はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事実中の大事実をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

征夷の実力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一国家建設=明治維新の開始であった。

吉田松陰は、同年七月十三日に、長州藩主に提出した『講大義』において、それまでの幕府容認の姿勢を転換して、「…幕府ハ…墨使ニ諂事シ、天下ノ至計ト為ス。国患ヲ思ハズ、国辱ヲ顧ミズ、而シテ天勅ヲ奉ゼズ、神人皆憤ル。コレヲ大義ニ準ジ、討滅誅戮シテ然ル後ニ可ナリ。少シモ宥スベカラザルナリ」と論じ、討幕の姿勢を明らかにした。

全国的規模で「幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷のご命令を無視して開国した」との批判が巻き起こってしまった。幕府の違勅とそれに対する孝明天皇の震怒が、倒幕運動を急激に大きくしたのである。思想的・理論的な「尊皇統幕思想」は脈々と継承されてゐたが、全国の志士が決起したのは、幕府が勅命に反して『日米修好通商条約』を批准したこと、そしてそのことに対し、ひたすら國の行く手を憂ひ給ふ孝明天皇が震怒されたことによるのである。

幕府批判の動きが活発化すると、井伊直弼は、「安政の大獄」を起して弾圧した。憤激した尊皇攘夷の志士たちにより、安政六年三月三日に井伊直弼誅殺の「桜田門外の変」が起った。

孝明天皇はこの年の七月二十六日に、

「こと國もなづめる人も殘りなく攘ひつくさむ神風もがな」

といふ御製を詠ませられた。
また、次のやうな御製ものこされてゐる。

「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」(年月不祥)

井伊直弼誅殺後、孝明天皇は、文久二年五月十一日付渙発の『時局を御軫念の御述懐の勅書』(別名「時局御軫念の御述懐一帖」)では次のやうにお示しになった。

「惟に因循姑息、舊套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内疲弊の極、卒には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏まば、朕、實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕實に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して、以て報ぜん事を計れ。」

幕府が攘夷を決行しなければ、神武天皇、神功皇后の御事績に倣ひ、孝明天皇御自ら、軍事的行動を起こされると宣せられたのである。幕府は恐懼し、「勅書」を体して「奉勅攘夷」を貫くことを堅く誓約した。

小田村寅二郎氏は、この『時局御軫念の御述懐一帖』について、「この御文章は、ここに謹撰申上げた悲痛極りない御製の数々と共に、幕末を語るすべての日本人が必読すべきものとしてぜひごらんいただきたいと思ふ。」(『歴代天皇の御歌』)と論じてゐる。

孝明天皇の國を憂ひ民を思はれる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新であった。君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守らうといふ國粋精神が日本の独立を守った。そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。

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2020年4月15日 (水)

孝明天皇御製を拝し奉りて

万延元年(一八六〇)三月三日に井伊直弼が誅殺された。

孝明天皇はこの年の七月二十六日に、

「こと國もなづめる人も殘りなく攘ひつくさむ神風もがな」

といふ御製を詠ませられた。

また、次のやうな御製ものこされてゐる。

「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」(年月不祥)

孝明天皇は、翌年の文久二年(一八六一)五月十一日付渙発の『時局を御軫念の御述懐の勅書』(別名「時局御軫念の御述懐一帖」)では次のやうにお示しになった。

「惟に因循姑息、舊套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内疲弊の極、卒には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏まば、朕、實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕實に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して、以て報ぜん事を計れ。」

徳川幕府が攘夷を決行しなければ、神武天皇、神功皇后の御事績に倣ひ、孝明天皇御自ら、軍事的行動を起こされると宣せられたのである。幕府は恐懼し、「勅書」を体して「奉勅攘夷」を貫くことを堅く誓約した。

小田村寅二郎氏は、この『時局御軫念の御述懐一帖』について、「この御文章は、ここに謹撰申上げた悲痛極りない御製の数々と共に、幕末を語るすべての日本人が必読すべきものとしてぜひごらんいただきたいと思ふ」(『歴代天皇の御歌』)と論じてゐる。

文久三年(一八六三年)には、孝明天皇の賀茂神社・石清水八幡宮に御幸され、攘夷祈願を行はれた。今でこそ、石清水八幡宮にはケーブルカーに乗って男山を登りゆき参拝できるが、江戸時代末期はたとへ輿で登られたとしても大変な難行苦行であったと思はれる。

さらに、孝明天皇は、

「戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり」(御詠年月不詳)

といふ御製をのこされた。この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。この御製を拝した多くの志士たちが尊皇攘夷の戦ひに決起した。

宮部鼎蔵(熊本藩士。尊攘派志士として、京都を中心に活躍。諸藩の有志たちと協議を重ね尊攘派運動を推進したが、池田屋事件にて自刃)は、孝明天皇の御製にこたへ奉り、次の歌を詠んだ。

「いざ子ども馬に鞍置け九重の御階(みはし)の桜散らぬその間に」

維新の志士の孝明天皇への赤誠・戀闕の心が、尊皇倒幕の行動を起こさしめた。

徳富蘇峰氏は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない。長州でもない。其他の大名でもない。又当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。…孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であろうが、関白であろうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇を和歌御會記及御年譜』「序」)と論じてゐる。

孝明天皇の國を憂ひ民を思はれる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新であった。君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守らうといふ國粋精神が日本の独立を守った。そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。

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2020年3月27日 (金)

支那の易姓革命思想を否定し皇統の無窮を説いた藤田東湖

藤田東湖は『弘道館記述義』(『弘道館記』の解説書。弘化三年(一八四六)一月三十日に脱稿)で、「然れば則ち唐虞(唐は七世紀初めから十世紀初めまで、古代支那王朝として最も文明の発展をとげた國。虞は支那古代、舜(しゅん) が尭(ぎょう) から譲られて帝位にあった王朝の名)の道、悉く神州に用ふべきか。曰く、否。…決して用ふべからざるもの二つあり。曰く禅譲(帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること)なり。曰く放伐(徳を失った君主を討伐して追ひ払ふこと。「禅譲」と共に、支那の易姓(えきせい)革命思想による考へ方)なり。…赫赫たる神州は、天祖の天孫に命ぜしにより、皇統綿々、緒(物事のはじまり)を無窮に傳へ、天位の尊きこと、猶ほ日月の踰ゆべからざるがごとし…萬一禅譲の説を唱ふる者あらば、凡そ大八洲の臣民、鼓を鳴して之を攻めて可なり。…若し彼の長ずるところを資り、併せて其の短に及べば、遂に我が萬國に冠絶する所以のものを失はん」と論じてゐる。

 支那の有徳王君主思想・革命思想を否定し、皇統の無窮を説いてゐる。さらに、支那思想の悪しきところを取り入れたならば、わが國の國體が破壊されるとしてゐる。ここに「水戸學」とりわけ藤田東湖の尊皇思想の真骨頂がある。

藤田東湖は、『弘道館記』冒頭の「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須由も離るべからざるものなり。」といふ言葉を解説して、「その(注・『道』の)實のごときは、すなはち未だ始めより天神に原(もと)づかずんばあらず。…神代は邈(ばく)たりといへども、古典の載するところ、彰名較著、また疑ふべからず」「天神は生民の本にして、天地は萬物の始めなり。然らばすなはち生民の道は、天地に原づき、天神に本づくや、また明らかなり」(『弘道館記述義』)と論じてゐる。

日本人の踏み行ふべき「道」の實體は、天津神の御事跡に具體的に示されてゐる、日本の倫理道徳は、神話の神々の世界に事實を以て示されてゐる、といふほどの意であらう。

さらに、藤田東湖は武の精神の尊さを、「その勇武に至っては、すなはち皆これを天性に根ざす。これ國體の尊厳なる所以なり。そもそも所謂勇武とは、ただ勁悍(けいかん)猛烈、以てその威を逞しうするのみにあらず。蓋しまた必ず忠愛の誠に発するなり。」(『弘道館記述義』)と論じて、素盞鳴尊・日本武尊の御事跡に触れてゐる。

會澤正志斎の『新論』と藤田東湖の『弘道館記述義』は、水戸學を代表する文献として、全國に広く傳写された。嘉永六年(一八五三)ペリーが来航し、砲艦外交で我が國を恫喝するに至り、水戸學の「尊皇攘夷」の精神は、國家的危機打開の思想的基盤となった。

明治維新の基本精神たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の一節「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」より発したのである。

藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、萬方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、實に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べてゐる。

天皇を君主と仰ぐ日本の國柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで続いてきてゐる。ところが、古代オリエントや古代支那をはじめとする諸外國においては、祭祀を中心とする共同體は武力征服王朝によって破壊されてしまった。古代民族信仰・祭祀宗教は姿を消し、その後に現れた信仰は外来宗教である。また、太古の王家も古代國家も姿を消し、その後に現れた支配者は武力による征服者であり、國家は権力國家である。

それに比してわが日本は、神話の世界が今日唯今現實に生きてゐる國である。すなはち、わが日本は、古代祭祀宗教の祭祀主たる神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現實の君主と仰ぎ、共同體國家と民族の中心者として仰いでゐる殆ど世界唯一の國である。

かうした事實が、日本國と西洋諸國やシナとの決定的な違ひである。それは、會澤正志斎が『新論』において、「神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣、世宸極を御し、終古易らず。」と説き、北畠親房が『神皇正統記』において、「大日本者神國他。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。」と説いてゐる通りである。

日本が長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、常に新たなる変革を繰り返して来た國である。その不動の核が天皇である。天皇國日本を愛する心を養ふことこそが日本國永遠の隆昌と世界の真の平和の基礎である。

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2020年3月23日 (月)

水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(烈公・寛政十二<一八〇〇>~萬延元年<一八六〇>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与へた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終へるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

藩政改革に燃えた徳川斉昭は、天保十二年(一八四一)に弘道館を創立した。弘道館が創設されやうとしてゐた時期は、丁度阿片戦争が勃発し、イギリスの東亜侵略がますます活発化してゐた。支那が侵されれば次はわが國である。水戸における尊皇攘夷の精神の興起はまさにさうした危機的状況における國家防衛精神の勃興であった。

弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来たるといった情勢にあった幕末のわが國の危機を救ふための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩、そして後に幕府體制維持のために奮闘した會津藩もかうした教育振興策が講じられた。

徳川斉昭が天保三年(一八三八)三月、弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられてゐるといふ。

藤田東湖は、文化三年(一八〇六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館記述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛へられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されてゐるやうに、『館記』の草案は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいといふ志で書かれた。

『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなはっている大道)にして、生民の須由も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、蕃夷戎狄、之を以て率服(服従)す。……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教へ(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考へ)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の靈も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されてゐる。

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬ひ、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせやうとしたのである。『館記』には水戸學の精神が端的に表現されてゐる。

荒川久壽男氏は「烈公の新政は…尊皇と民政と國防の三大眼目に集中する。これは言葉をかえれば藤田東湖が、日本の政治の最大焦点を、敬神・愛民・尚武の三点に要約したところでもあった。しかしながら、この三事三点を貫き、その根底をなすものは正しい學問と教育でなければならぬ。正しい學問と教育があってはじめて尊皇にも目覚め、愛國の意識も育ち、人間尊重の政治も行われる。ここに烈公は水戸藩の學問教育の振興を目ざし、水府大學ともいうべき弘道館の建設を計画した。」(『維新前夜』)と論じてゐる。

「水戸學」は支那思想を重んじたが、無批判に支那思想を受け入れたのではない。『弘道館記』に「神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り」とある通り、神州の道を第一とし、儒教は第二と考へた。しかしながら、外来思想・文化・文明を一切排斥するといふ考へ方ではなかった。

藤田東湖はその著『常陸帯』で、「皇朝の風俗萬國にすぐれて貴しと雖も、文字を初め萬事の開けぬるは漢土の勝れぬる所なり。其勝れたる所を取りて皇朝の助とせん事何の耻ることや有るべき、銃砲は西北の夷狄より渡りぬるものなれども、之を取りて用る時は夷狄を防ぐべき良器なり。漢土の教を取りて用る事これに同じと、我君常に宣ふは御卓見と申すべし」と論じた。

日本は、古来、外来文化・文明を包摂してきた。そのことが日本文化・文明をより洗練せしめ高度にものにしてきた。しかし、その根底には、日本傳統精神を厳然として固守する根本姿勢があった。

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2020年3月20日 (金)

「水戸學」と吉田松陰

『新論』が尊皇攘夷運動に与へた影響は計り知れないものがある。明治維新の思想的原動力の一つは、吉田松陰の思想である。その吉田松陰は、未だ印刷されず、筆写されたものが次第に世の中に広まってゐた『新論』を幼少の頃読んで感激した。松陰は、嘉永四年(一八五一)の暮に、水戸に赴き、翌嘉永五年一月二十日までの滞在二十四日間に、會澤正志斎・豊田天功などを訪問した。

七十六歳となってゐた會澤正志斎は、当時二十二歳の松陰に漢學だけでなく、日本の學問も學ぶやうに諭したといふ。以後松陰は、神典・國史・素行學・水戸學を懸命に學んだといふ。松陰は、『東北遊日記』に、「會沢を訪ふこと数次、率(おおむ)ね酒を設く。…會々(たまたま)談論の聴くべきものあれば、必ず筆を取りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記してゐる。

徳富蘇峰は、「彼(注・松陰)の尊王論は水戸派の尊王論にあらず。その淵源各々同じからずして、毫も水戸派の議論に負う鮮(すくな)きが如しといえども、その實未だ必ず然りというべからず。然も王覇の弁、華夷の説、神州の神州たる所以、二百年来水戸人士のこれを講ずる精かつ詳。後水戸學の宿儒會沢、豊田の諸氏に接し、その談論を聞き、喟然(きぜん)として嘆じて曰く『身皇國に生れ、皇國の皇國たる所以を知らず、何を以て天地の間に立たん』と。…帰来急に『六國史』を取ってこれを読み、古の聖君英主海外蕃夷を懾服したるの雄略を観て、慨然として曰く、『吾今にして皇國の皇國たる所以を知れり』と。」(『吉田松陰』・仮名遣ひは『岩波クラシックス』の原文のまま)と論じてゐる。

吉田松陰はさらに、嘉永四年(一八五一)九月二十三日付の兄・杉梅太郎宛書簡に、「水府公明訓一斑抄、今晩写終り申候。凡六則 仁心を本とすべき事 奢侈を禁ずべき事 諫言を用ゆべき事 刑は刑なきに期すべき事  仏法を信ずべからざる事 夷狄を近(ちかづ)くべからざる事 通篇御気象被伺感服敬服。」と記した。

『水府公明訓一斑抄』とは、徳川斉昭が弘化二年(一八四五)に論じた人君が注意すべき要件を論じた文である。「水戸學」の思想が、松陰に多大な影響を与へたことは確かである。然るに悲しいかな、戊辰戦争に於いては、徳川斉昭の子息である徳川慶喜と長州とは仇敵の関係になってしまった。歴史の悲劇と言ふべきである。

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2020年3月17日 (火)

會澤正志斎の尊皇攘夷思想

「後期水戸學」といはれる學問は、幕末期の内憂外患の國家的危機をいかに克服するかについて、尊皇思想・大義名分論に基づく主張を行った。そしてそれは全國的に大きな影響を与へ、尊皇攘夷運動の思想的基盤の一つとなった。

 會澤正志斎(天明二年-文久三年、一七八二年~一八六三年。水戸城下の農民であった會沢恭敬(郡奉行下属の役人として市五郎を名乗る)の長男として生まれた。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎。寛政三(一七九一)年、十歳で藤田幽谷に師事。彰考館に入り、『大日本史』編纂に従事。幽谷の逝去後、彰考館総裁となる。文政七(一八二四)年五月、水戸藩内大津浜(北茨城市大津町)に英人十二人が上陸した際「筆談役」として応接。文政八(一八二五)年、『新論』を脱稿した。八十二歳で逝去。)の代表的著作である『新論』は、幕末の尊皇攘夷論の基本的文献である。

文政八年(一八二五)幕府が「異國船打払令」を発した前後の騒然たる情勢を背景として成った『新論』は、文字通り國家的危機に際しての憂國慨世の書である。幕末勤皇論に對する影響は、頼山陽の『日本外史』に比肩されるといふ。

『新論』はその冒頭に「國體」といふ項目を置き、日本國體の本義と外患の危機への對処を論じた。曰く、「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)宸極(しんきょく・天子の御位)を御し、終古易(かは)らず。固(もと)より大地の元首にして、萬國の綱紀(すべての國々を統轄するもの)なり。誠によろしく宇内に照臨し、皇化(天皇の聖徳による感化)の曁(およぶ)所、遠邇(遠い所と近い所)あることなかるべし。しかるに今、西荒の蛮夷(西洋の野蛮人)、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸國を蹂躙し、眇視跛履(自分の力のほどを顧みず無理に事を為さんとすること)、敢へて上國(尊い國。わが國のこと)を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕れるや」。

さらに、「國體上」において「天地の剖判し(注・天と地が初めて分かれる、天地開闢)し、始めて人民ありしより、天胤(注・天照大御神のご血統を継承するご子孫)、四海に君臨し、一姓歴歴として、未だ嘗て一人も敢へて天位を覬覦(きゆ・身分不相応なことをうかがひねらふこと)するものあらずして、以て今日に至れるは、豈にそれ偶然ならんや。夫れ君臣の義は、天地の大義なり。」「天祖(注・天照大御神)、肇めて鴻基(大いなる基盤・肇國の基礎)を建てたまふや、位はすなはち天位、徳はすなはち天徳にして、以て天業を経綸し、細大のこと、一も天にあらざるものなし。徳を玉に比し、明を鏡に比し、威を剣に比して、天の仁を體し、天の明に則り、天の意を奮ひて、以て萬邦に照臨したまへり。」「その本に報い祖を尊ぶの義は、大嘗に到りて極れり。夫れ嘗とは、始めて新穀を嘗めて、天神に饗するなり。天祖、嘉穀の種を得て、以為(おもへ)らく以て蒼生を生活すべしと、すなはちこれを御田に植ゑたまふ。また口に繭を含みて、始めて蚕を養ふの道あり、これを萬民衣食の原(もと)となし、天下を皇孫に傳ふるに及んで、特にこれを授くる斎庭(ゆにわ)の穂を以てしたまふ。…」と論じてゐる。

天孫降臨の繰り返しであり、現御神日本天皇のご本質が顕現される「み祭り」である「大嘗祭」と天照大御神の「齋庭の穂の御神勅」の御事を論じてゐる。水戸學は神代を無視したなどといふのは全くの妄説である。『新論』は、言ふまでもなく、幕末期の國難に際會して、國家の革新を論じた書であるが、以上のやうに神代のことから説き起こし日本國體思想を論じてゐる。即ち、「復古即革新」といふ日本的変革の本義が論じられてゐるのである。

「國體」に続き、「形勢」「虜情」「守禦」「長計」の五項目を立て、世界情勢と欧米列強の東亜侵略の方策を述べて、これに對する防衛體制を緊急措置と根本對策の両面から論じた。特に、國民皆兵がわが國の傳統であり、武家時代に専門の兵が出現し都城に集中せしめたのは誤りであるとし、兵を土着させて全國至る所に兵力を充實させれば、外夷もわが國に近づかなくなると論じた。この兵制改革論は、全國統一的立場での軍備を主張する点において、實質的に徳川幕藩體制解體につながる論議である。國體論のみならず、國防論においても、徳川幕藩體制の矛盾を指摘したのが「水戸學」であった。

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2020年3月16日 (月)

藤田幽谷の「大義名分論」

「水戸學」といはれる學問をまとまったかたちで確立した學者は藤田幽谷(安永三年-文政九・一七七四~一八二六。水戸の古衣商の家の出。立原翠軒に學び、のち彰考館総裁。郡奉行を兼務した。五十三歳で没した。藤田東湖の父)とされる。幽谷は寛政三年(一七九一)に『正名論』を著はして、徳川幕藩體制下における朝廷と幕府の関係を正し、天に二日がないやうに、日本國の君主・統治者は上御一人日本天皇であるといふ國體の本義を論じた。そして君臣上下の名分を厳格に維持することが國家安定の要であるとする考へ方を示し、尊皇論に理論的根拠を与へたされる。

藤田幽谷は『正名論』において次のやうに論じてゐる。「甚しいかな、名分の天下國家において、正しく且つ厳ならざるべからざるや。それはなほ天地の易ふべからざるごときか。天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり、苟しくも君臣の名正しからずして、上下の分、厳ならざればすなはち尊卑は位を易へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴(ぼう)して、亡ぶること日なけむ。」「(注・孔子)曰く『天に二日なく、土に二王なし』と。一に統べらるるを言ふなり。蓋し嘗(こころ)みに古今治乱の迹(あと)を観るに、天命は常なく、徳に順(したが)ふ者は昌(さか)え、徳に逆ふ者は亡ぶ。」「赫々たる日本、皇祖開闢より天を父とし地を母として、聖子・神孫、世(よよ) 明徳を継ぎて、以て四海に照臨したまふ。四海の内、これを尊びて天皇と曰ふ。八洲の広き、兆民の衆(おほ)き、絶倫の力、高世の智ありといへども、古より今に至るまで、未だ嘗て一日として庶姓の天位を奸(おか)す者あらざるなり。君臣の名、上下の分、正しく且つ厳なるは、なほ天地の易ふべからざるがごときなり。ここを以て皇統の悠遠、國祚の長久は、舟車の至る所、人力の通ずる所、殊庭(しゅてい・別世界や人跡未踏の地のこと)絶域も、未だ我が邦のごときものあらざるなり。」「天朝は、開闢以来、皇統一姓にして、これを無窮に傳へ、神器を擁し宝図を握り、礼楽旧章(古来の制度や禮式)、率由して改めず。」「今夫(そ)れ幕府は天下國家を治むるものなり。上、天子を戴き、下、諸侯を撫するは覇主の業なり。その天下國家を治むるものは、天子の政を摂するなり。…幕府、天子の政を摂するも、またその勢のみ。異邦(支那のこと)の人、言あり、『天皇は國事に与(あづか)らず、ただ國王の供奉を受くるのみ』と。蓋しその實を指せるなり。然りといへども、天に二日なく、土に二王なし。皇朝自(おのづ)から真天子あれば、すなはち幕府はよろしく王を称すべからず。」と。

天と地に絶對的な区別がある如く、君と臣下にも絶對的な区別がある。天に太陽が二つは存在しない如く、地上に二人の君主はあってはならない。わが國は、天地開闢以来、皇祖天照大御神のご子孫であり三種の神器を持される日本天皇が世を照らして来た。一般の姓を持つ者即ち臣下が君主となることは絶對になかった。このことは天地がひっくり返ることがないのと同じく絶對に変えてはならない傳統である。今日、徳川幕府が世を治めてゐるのは徳川氏の武力が強かったことによるのであり、天皇のご代理なのである。支那人が天皇は名目上の君主であると言ふ。しかし、天に二つの太陽がなく、地上に二人の王はゐない。わが日本には本当の天子様がをられるのだから、幕府は王と名乗ってはならない、といふほどの意である。

荒川久壽男氏は、「彼(注・幽谷)によればわが民族にとって皇室とは天より生まれて天そのものであり、それゆえに日本の君臣の名分道義は相對流転の世界をこえて天地とともに永遠絶對なるものであった。ここに日本が四海萬國に冠たるゆえん、換言すれば日本が最も典型的なる君主國、道義國家たるゆゑんがある、さう幽谷は説くのである。まさに儒教的政治原理を踏まえつつそれをこえて皇國の原理にたった千古の達識といふほかはない。」(『水戸史學の現代的意義』)と論じでゐる。

『正名論』に「赫々たる日本、皇祖開闢より天を父とし地を母として、聖子・神孫、世(よよ) 明徳を継ぎて、以て四海に照臨したまふ。」と書かれてゐるやうに、幽谷の國體観は、日本國は、皇祖神・伊邪那岐命伊邪那美命の二神の國生み、天照大神のご神勅による天孫瓊瓊杵尊の御降臨、神武天皇の橿原建都以来の天皇を君主・統治者と仰ぐ國であるといふことである。

この『正名論』は、幽谷の青年時代(十七歳といふ)の著述で、時の老中松平定信の求めに応じて書かれたといふ。青年時代の論文とはいへ、天皇中心帰一の日本國體の本姿を説いた高邁なる論文であり、明治維新の國體明徴化の源泉思想の一つである。

『水戸學』の「大義名分論」に基づく「尊皇思想」は「儒教的名分論」といはれる。たしかに朱子學を摂取した思想である。しかし、儒教の「名分論」は、「君、君たり。臣、臣たり。」(『論語』顔淵篇)といふ言葉がある通り、君主は君主らしく、臣下は臣下らしくするべしといふ意味であり、道徳論・規範論である。したがって君主が君主らしくなくなったら、これを打倒してもよいといふ革命思想を孕んでゐる。

ところが、藤田幽谷すなはち「水戸學」の「大義名分論」は、「古より今に至るまで、未だ嘗て一日として庶姓の天位を奸(おか)す者あらざるなり。君臣の名、上下の分、正しく且つ厳なるは、なほ天地の易べからざるがごときなり」と説いてゐる通り、革命思想は絶對にこれを否定してゐる。だからこそ幽谷は、「天に二日なく、土に二王なし。皇朝自(おのづ)から真天子あれば、すなはち幕府はよろしく王を称すべからず。」と論じて、徳川幕藩體制下における國體隠蔽を深く憂慮し批判したのである。

「『大日本史』の修史の方法は、『通鑑綱目』を典範とし朱子學の強い影響下にあった。光圀が『大日本史』を、神武天皇の御代から始め、神代のことが記されてゐないのは、『實に據って事を記す』といふ史観の建て前からで、『記紀』の神代の記述を史實と認めることができないといふ理由に基づいた」(小林秀雄氏『本居宣長』)といふ論議がある。しかし、水戸學が神代を認めなかったといふことは絶對にない。

『水戸學』は儒教を大いに取り入れてゐるけれども、その本質においては、純粋なる日本國體精神を継承し現實にそれを回復顕現せしめやうとしてゐるのである。精神においては純日本、その學問的表現において支那思想を借りた、と言っていいと思ふ。

『古事記』冒頭の天地開闢の神話から論じ、皇祖天照大御神の皇孫(生みの御子)たる天皇が日本の君主であられるといふのが、わが日本の絶對に変革すべからざる國體であるといふ思想が「水戸學」である。「水戸學」は、神代以来の連綿たる日本國體を明らかにすることが、名分を正すといふことであり、道義國家を顕現することであり、天下が正しく治まるこどてあることを説いたのである。 

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