2019年5月29日 (水)

永井荷風のわが町千駄木讃美と近代日本批判

「根津の低地から彌生ヶ岡と千駄木の高地を仰げば、こゝも亦絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津權現の方から團子坂の上へと通ずる一條の路がある。私は東京中の往來の中で、この道ほど興味ある處はないと思ってゐる。…千駄木の崖上から見る彼の廣漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄に包まれ一面に煙り渡った底から、數知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森の上には深い黄昏の微光をば夢のやうに殘してゐた。私はシヤワンの描いた聖女ジェネヴイエーブが靜に巴里の夜景を見下してゐる、かのパンテオンの壁畫の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。」

 

これは、永井荷風の随筆『日和下駄』(大正四年)の一節で、「千駄木の絶壁」の真下の駒込坂下町(千駄木三丁目)で育った私にとって、この文章はきはめて親しみ深いものがある。とりわけ、わが町を通る古道を「東京中の往來の中で、この道ほど興味ある處はないと思ってゐる」と評した荷風散人に無上の敬慕の念を抱く。

 

今日唯今も、私は、よく「千駄木の崖上から見る彼の廣漠たる市中の眺望」「數知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森」を眺めてゐる。荷風がこのやうな文章を書いたのは、彼が唯一尊敬してゐた先輩作家・森鷗外の住む観潮楼をよく訪問したからであらう。荷風は、わたくしにとって、最も親近感を抱き且つ尊敬する作家の一人である。

 

永井荷風は、近代日本の欧化主義に対して辛辣なる批判を行ひ激しい嫌悪を抱いた人である。グローバル時代とかいはれ、日本の傳統とか習慣とが侮蔑にされてゐる今日のおいてそれは大きな意味を持つ。永井荷風は、滔々たる西洋化・近代化の流れに圧倒されず、それを拒否し、江戸情緒・傳統文化をこよなくいとほしんだ人である。

 

永井荷風の近代批判の底流には、薩摩長州主導の明治政府への反感があった。それは、荷風の父・永井久一郎が尾張國愛知郡荒井村(現在の南区元鳴海町)の旧尾張徳川藩士の家の出で明治政府に出仕してゐたことと、母・恒(つね)は尾張徳川藩の儒学者として活躍した鷲津毅堂の娘であることによるといふのが通説である。しかし、尾張徳川藩は、江戸時代においても御三家筆頭の立場にあったが、尊皇の傳統を保持してゐた。また、戊辰戦争では新政府軍の一翼を担った。

 

荷風の薩長への反発は凄まじく次のやうな文章をのこしてゐる。曰く「江戸傳来の趣味性は九州の足軽風情が經營した俗悪蕪雜な明治と一致することが出來ず…」(『深川の唄』・明治四十二年)「薩長土肥の浪士は實行すべからざる攘夷論を唱へ、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を顛覆したれど、原(もともと)これ文華を有せざる蕃族なり。」(『東京の夏の趣味』・大正二年)「瓦解(注・徳川幕府崩壊のこと)この方日々變る世間の有様、九州四國の山猿が、洋服ステッキ高シャッポ、馬車に乗って馳けまはる、見るもの聞くもの癪の種。」(『開花一夜艸』・大正九年)。

 

よくもこれだけ罵倒に近い文章を書けたものと感心する。かうした傾向は晩年まで続く。

 

「岩倉全權大使米歐回覧覽記を讀む時、人をして失笑噴飯せしむるものあり。大使の一行にはその副使として木戸大久保伊藤等の諸氏あり。この人々わづか三四年前までは鎖國攘夷を以て日本の國是となし、徳川幕府が外國との修好貿易の條約をなしたるを憤り外國使節の客舎に火を放ちまたは江戸城に忍入りて放火などをなせしものなり。伊藤博文が御殿山の英國公使館に放火せし浪士の一人なりし事は英人サトウの著書、又英國大使フレーザー氏夫人の著書に詳なり。」(『斷腸亭日乗』昭和十二月十四日)

 

「今日戰亂の世にあたりて偶然明治初年の人情を追想すれば、その變遷の甚しき唯驚くのほかはなし。明治以後日本人の悪くなりし原因は、權謀に富みし薩長人の天下を取りし爲なること、今更のやうに痛嘆せらるゝなり。」(『斷腸亭日乗』昭和十九年十一月二十一日)「…浪士をして華族ならしめた新日本の軍國は北米合衆國の飛行機に粉碎されてしまった。儒教を基礎となした江戸時代の文化は滅びた後まで國の木鐸となった。薩長浪士の構成した新國家は我々に何を殘していったらう。まさか闇相場と豹變主義のみでもないだらう。」(『冬日の窓』昭和二十年)

 

「薩長の軍隊は戰勝の結果この都城(注・東京のこと)を占領し、諸侯の空屋敷を兵舎と官廰に當て、こゝに新しい政府を建設した。何の事はない。他人の建てた古家に住込んで手當り次第間に合せの手入れをしたやうなものである。」(『假寝の夢』・昭和二十一年)

 

永井荷風の明治新政府への反感と抵抗心は、必然的に明治維新以前即ち江戸時代への憧憬・回帰の心となる。また、上滑りにして表面的な西洋模倣が、日本固有の文化を埋没せしめていることへの憤怒も強くなった。

 

荷風は、明治三十六年十月から四十一年五月までの約五年間欧米に滞在した。帰國後、日本の欧米模倣文化に嫌悪感を覚え、それが明治新政府を主導した薩長藩閥への反感を増幅させたと考ヘられる。彼の眼から見れば、明治以後の日本の近代化・欧化が上滑りのものであり、猿真似の域を脱してゐないと實感したのであらう。

 

荷風は近代化・西欧化によって埋没され破壊されつつあった江戸時代の遺物に対する愛着と、日本の傳統的特質への崇拝の精神を抱いた。そして傳統破壊への怒りを根底にした荷風の近代日本への批判精神が、『深川の唄』『牡丹の客』『すみだ川』といった一連の江戸情緒、下町情緒を描いた作品を生んだ。それは多くの人々の共感を呼んだ。

 

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2019年5月27日 (月)

永井荷風の憂へた状況は今日に於いてますます深く激しくなってゐる

今夕地元の先輩と語り合った永井荷風の事を記したい。明治四十一年、約五年間の欧米生活を終へて帰国した永井荷風が直面した明治日本の近代化の欺瞞性に対する反発がやがて憂悶の思ひとなり、さらに過去への追憶と現実に対する韜晦の心理に沈淪せしめた。これが荷風文学の基本であると思ふ。荷風は、日本を愛し、日本の傳統を尊んでゐた。荷風は廃滅していく江戸情緒・江戸趣味をこよなく愛し、西欧化・近代化から免れた日本の風景風物特に旧江戸市中のそれを描くことに熱中した。祖国への愛をさうした形で全うさせた。しかし、前述した如く、荷風は飛鳥・天平時代そしてそれ以前の古代日本、さらには神代への回帰といふ真の「復古」の自覚を欠いてゐた。『記紀萬葉』にはほとんど無関心であった。

荷風が回帰せんとした傳統は、日本民族の稲作生活から生まれた信仰と道徳即ち日本伝統信仰たる神道への回帰ではなく、近代化によって零落した江戸時代の文化であった。ゆゑに近代日本・欧化日本への激しい批判と抵抗は、風俗世態の方面に限られる傾向があった。

しかし荷風は、日本の風土と自然を愛し、西洋化による破壊に憤怒した。荷風は言ふ。「一国の道徳も風土の美を離れて成立ち難し。明治の新時代を作りたる人々の無考へなりし事萬事につけて情けなく被存候。…東京市の悪政に小生も既に義憤の極みを盡して今や早や口にする勇氣も失せ申候。…一国の風景は役人共の手にて破壊せられ一国の美術は外国の爲に購盡され候て餘りに情けなく痛嘆に至りに御座候。」(『大窪だより』大正二年)。

「日本都市の外觀と社会の風俗人情は遠からずして全く變ずべし。痛ましくも米国化すべし。…然れども日本の気候と天象と草木とは黒潮の流れに浸されたる火山質の島嶼が存する限り、永遠に初夏晩秋の夕日は猩々と緋の如く赤かるべし。永遠に中秋月夜の山水は藍の如く青かるべし。椿と紅梅の花に降る春の雪はまた永遠に友禅禪模様の染織の如く絢爛たるべし。婦女の頭髪は焼鏝をもて縮らさゞる限り、永遠に水櫛の鬢の美しさを誇るに適すべし。」(『江戸藝術論』・大正二年)。

現代日本のまさにかくの如き状況である。荷風は、いかに日本人の生活が西洋化しやうとも、美しき日本は永遠であると自らに言ひ聞かせてゐる。しかし悲しむべきは、現代日本は、グローバル化などと言って、政治・経済・文化などすべての面に於いて、明治日本よりも激しく日本の傳統や独自性を隠滅し破壊しアメリカ化しやうとしてゐる。

自然環境はそこに住む人々の思想・精神に大きな影響を与へる。日本の傳統精神は麗しき日本の自然から生まれて来たのである。ゆゑに日本の傳統を護らむとすれば日本の自然を護らねばならない。日本的変革即ち維新は、政治経済体制を変革するのみではない。その根本に精神の変革がなければならない。日本固有の美、伝統信仰、秀麗なる日本の山河・自然を愛する心を涵養することが根本である。西洋科学文明・グローバル化によって隠蔽されつつある日本の伝統美を護り再生せしめることこそ、現代救済の原理である。日本の自然美・伝統美をこよなく愛し、国語文化即ち美しき日本分を書きのこした永井荷風は、近代日本における偉大なる文人であったといはなければならない。

わが日本は、本来的にその持てる文化的力によって世界を救済すべき使命を有する国である。しかし、日本自らがその「文化的力」を忘却し隠蔽してゐるのである。荷風の憂へた状況は今日の日本に於いてますます深くそして激しくなってゐる。今日に於いてこそ、永井荷風の文明批評に学ぶことは多いと考へる。


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2019年4月27日 (土)

大伴家持・山上憶良の尊皇精神の歌


新元号「令和」の典拠になった『萬葉集』の巻五に収められた「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の中に作品がある大伴家持・山上憶良が日本民族の倫理観念の根底にある尊皇精神・武の精神を歌ってゐる。

劒(つるぎ)刀(たち) いよよ研(と)ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さや)けく負(お)ひて 來(き)にしその名ぞ
(四四六七)

 大伴家持が詠んだ短歌である。「劒太刀をいよいよ研ぐべきだ。昔から清らかに背負って来た(大伴氏といふ)その名なのだぞ」という意。「いよよ研ぐべし」は、大伴氏は武門の家柄であるから剣を研ぐのと同じように大伴氏の名も常に磨いて朽ちさせないようにすべきだという意がある。「研ぐべし」「負ひて來にしその名ぞ」という極めて断定的な強い表現になっているところに家持の毅然たる態度と意志がある。

山上憶良の尊皇精神の歌
山上憶良が日本民族の倫理観念の根底にある尊皇精神を歌った歌は次の歌である。

惑(まど)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首幷びに序

或る人あり、父母を敬ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履(だつし)よりも輕(いるかせ)にし。自ら倍俗先生(せにしゃう)と稱(なの)る。意氣は青雲の上に揚るといへども、身體はなほ塵俗の中に在り。いまだ修行得道の聖とあるに驗あらず。けだしくは、山澤(さんたく)に亡命する民ならむ。所以(かれ)三綱を指示し、更(また)五教を開き、遣(おく)るに歌をもちてし、その惑を反さしむ。歌に曰く、

父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞ道理(ことはり) もち鳥の かからはしもよ 行方(ゆくへ)知らねば穿沓(うけぐつ)を 脱(ぬ)ぎ棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)ぎて 行くちふ人は 石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月の下は 天(あま)雲(ぐも)の 向(むか)伏(ふ)す極(きは)み 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極み 聞こしをす 國のまほらぞ かにかくに 欲(ほ)しきまにまに 然(しか)にはあらじか       (八〇〇)

反歌

ひさかたの 天道(あまぢ)は遠し なほなほに 家に歸りて 業(なり)を爲(し)まさに (八〇一)

詞書の通釋は、「ある人がゐて、父母を尊敬することは知ってゐるが、孝養をつくすことを忘れ、妻子のことは顧みないで、脱ぎ捨てた履物のやうにこれを軽んじ、自らを倍俗先生(世俗に背を向けた隠遁者)と名乗る。意氣は空の青雲の上にも上らんばかりだが、身体はなほ世の塵の中にある。まだ修業をして道を極めた聖人になったしるしもない。言ふなれば山の中の澤に亡命した民であらうか。そこで、三綱(人間として守るべき、君臣・父子・夫婦の秩序)を示し、五教(人の守るべき五つの教へ。父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝)をさらに説くべく、この歌を贈ってその迷ひを直させることにする。その歌に曰く」。

長歌の通釋は、「父母を見れば尊いし、妻子を見ればいとしく可愛い、世の中はこれが当たり前のことではないか。もち鳥(鳥もちにかかった鳥)のやうに離れがたいものだ。行く末も分からないのだから、穴のあいた履物を脱ぎ捨てるやうに(家族を)捨てて行くといふ人は、石や木やうに非情の物から成り出て来た人なのか、お前の名を言ひなさい。天へ行ったならばお前の勝手にすればいいが、この地上には、大君がをられるのだ。この照らしてゐる日月の下は、天雲の横たはってゐる果てまでも、蟾蜍(ひきがえる)が這ひまはる果てまでも、大君が統治されるすぐれた國だ。あれこれと自分の欲望のままにそのやうにしてはいけないのではないか」。

反歌の通釋は、「天(日本の神々のゐます高天原のことではなく、支那の神仙思想が説くところのこの世が厭になった人間が逃避する場所のこと)への道のりは遠い。素直に家に帰って、家業にいそしみなさい」。

憶良の生きた時は、支那の老荘思想や仏教の無常感の影響で、家庭を顧みないで、俗世間を脱して暮らさうといふ人が増えて来たらしい。そこで、日本の傳統的倫理思想を説いて、その迷ひを払拭せしめやうとした作品である。天皇國日本に生きてゐる國民は、家族を捨てて現實から逃避するやうなことをしてはならないと歌ってゐるのである。『萬葉集』に歌はれた國民精神への回帰によって現代の危機を乗り越えなければならない。混迷の極にある現代においてこそ『萬葉集』の精神への回帰が大切である。

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2019年4月25日 (木)

『萬葉集』の時代背景

 『萬葉集』の時代(つまり推古天皇から淳仁天皇の御代まで)は、わが国が、支那の文化・政治制度・法制度を受容した時代である。支那の制度に習って、中央集権制度が整い、律令制度が敷かれ、制度文物が唐風化の時代を迎えた。

 権力闘争もあったが、大和朝廷の基礎が固められた時期である。つまり、天皇中心の國家体制が法律的・制度的に確立した時期である。

『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱・白村江の戦いなどという大国難・大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために「萬葉集」は編纂された。

萬葉時代の状況は、遣唐使の派遣などがあり、儒教仏教の伝来など支那や朝鮮から外来思想・宗教・政治制度の輸入が行われた。また、国内的には、大化改新という大変革、壬申の乱という国家の存亡にかかわる内戦のあった時期であり、対外的には百済救援の失敗による唐・新羅連合軍来襲の危機もあった。まさに内憂外患交々来たるといった状況であり、この時代は、今日のわが国と時代状況はよく似ている。

当時の日本は内憂外患を克服した。『萬葉集』はそういう時期におけるわが国の祖先の声・魂の表白である。今日の日本の混迷を打開するためにはやはり、『萬葉集』に回帰し『萬葉集』に歌われた国民精神を回復することが必要なのである。 

 萬葉の時代を具体的にいえば、①揺籃期=推古天皇の御代(聖徳太子の時代・六二八まで)から舒明天皇の御代。②初期萬葉=天智・天武両天皇の御代で大化改新(六四五)から壬申の乱(六七二)を中心とした時期。③白鳳萬葉期=持統天皇の御代である藤原京の時代から奈良遷都(七一0)までの時期。④平城萬葉期=奈良遷都から聖武天皇の御代前半の天平時代前期(七三三)まで時期。⑤天平萬葉期=聖武天皇の御代後半から天平時代後期(七五九まで)の淳仁天皇の御代までの時期。

 中西進氏は「『萬葉集』に収められた和歌の時代は、だいたい大化改新と呼ばれる事件のあった六四五年ころから始まるのと考えるのがよいと思っている。…さらにひろげれば、七世紀のはじめごろからで、…聖徳太子が…深く仏教に心を致した後に、十七条の憲法といった人間省察にみちた文章を作ることと、抒情歌の時代の到来とは、密接にかかわっていると思える。…聖徳太子の到達点も、仏教という渡来思想によって可能になったものであった。すなわち、こうした萬葉の出発は新たな文化の導入によって可能になったものであった。」(神々と人間)と論じている。

 『萬葉集』は、國家変革・激動・外患の危機の時期の歌集であり、國難の時期に如何に当時の日本人が日本國體精神を讚仰し道統を継承し、それを元基として國難を乗り越えたかが、『萬葉集』を読むと分かる。

 保田與重郎氏は、「萬葉集の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてであってこの時代の中間は、奈良朝初期の太平の御代であるが、前後にかなり多くの戦乱があった。…壬申の乱があり、…後期の聖武天皇の時代にも廣嗣の乱といふ大乱があり、……この歌集は決して太平の御代の國風を集めたものではない。…我々が萬葉集の精神を見るといふことは、さういふ國家の大事に当り、國民思想の根柢をつくやうな大事変のしきりに起る中で、古人が如何に國體の真髄を守り、神と天皇に仕へ奉ったかを見るのである。歌の調べの美しさも、慟哭も、嗚咽も、みなこの一点より解さねばならぬ。」(「萬葉集と軍歌」)と論じている。

 飛鳥・藤原時代は、天皇中心の国家体制建設の陣痛期であった。幾度か繰り返された痛ましい悲劇も、謂はばその一の犠牲であった。

しかし、白鳳朱鳥大宝と、大唐模倣の潤達明暢な宮廷内外の生活は、着々軌道に乗り、豪華瑰麗な幾多の造形芸術は開華し、溌剌たる国家の燃え上る鼓動を把握して、我が『萬葉集』二十巻の荘厳が現出した。萬葉集は要するに、皇統礼讃の文学であったのである。

 それとともに、わが國伝統文化が異質の文化(特に仏教・儒教という精神文化と唐の政治法律制度の受容)に遭遇した激動の時期であった。これに対するためのわが國伝統的精神文化の興起が、『記紀』『萬葉集』の編纂であった。

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2019年4月13日 (土)

「清明心」に憧れ「くらき心」「きたなき心」を嫌ふ日本人の心




大伴家持

「劒太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (四四六七・わが一族の傳統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく傳へてきた大君の辺にこそ死なめといふ大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)といふ意。

天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者・古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」といふ長歌を詠んだ。この歌はその反歌である。

「剣太刀いよよ研ぐべし」と、きはめて断定的な歌ひ方をしてゐる。興奮した歌ひぶり。「研ぐ」といふ言葉に「剣太刀を研ぐこと」と「家名を磨くこと」を掛けてゐる。

 長歌は、「ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より…」と天孫降臨から歌ひ起こし、神武天皇橿原奠都を歌ひ、わが國の歴史を述べ、天孫降臨すなはち肇國のはじめからの歴史精神を貫いてゐる。そして、「皇祖の 天の日嗣と つぎて来る 君の御代御代 隱さはぬ 赤き心を 皇方(すめらべ)に 極め盡して 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)と …… 清きその名ぞ 凡(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなごと)も 祖の名斷つな 大伴の 氏の名に負へる 丈夫(ますらを)の伴(とも)」と歌った。

 この家持の「族を喩す歌」には、二つの大きな思想精神が詠まれてゐる。一つは、天孫降臨以来の皇統連綿・萬世一系の御歴代天皇への絶對的忠誠であり、降臨された天孫邇邇藝命に仕へ、御歴代の天皇に仕へた大伴氏の勤皇の誇りである。二つは、祖先を尊び家柄・家名を重んじる精神である。「名を重んずる心」である。

反歌では特に家名を重んじる精神を歌ってゐる。「剣太刀いよよ研ぐべし」といふ武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」といふ赤誠心を詠んだ。

保田與重郎氏は、「彼(註・大伴家持)は喩族歌の中で、史官の描かない、時局情勢の描かぬ、眞の歴史を歌ひあげ、…その日の時局に對立して肇國の精神を貫かうとする思想であった。…天降りし天孫に仕へ奉ったといふことをいふ、皇方(スメラヘ)に仕へた勤皇の誇りだったのである。…彼は不平不満の中で、不平の詩歌を開くといふ類の東洋的詩人の域をつとに脱してゐたのである。」(『萬葉集の精神』)と論じてゐる。

大伴家持の『族に喩す歌』は、神代以来忠誠を一族の使命として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促し、大伴一門の傳統的忠誠・尊皇思想そして家名を重んじる精神を歌ってゐる。しかし、それだけでなく、わが國民全体が保持すべき尊皇精神と家名を重んじる廉恥の心を歌ったと言へる。

 そして、この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、真心を吐露し、赤誠を表白した血の出るやうな歌である。

家持の歌の「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが國の重要な道徳観念である。日本人は、「あいつは悪い奴だ」といはれるよりも、「あいつは汚い奴だ」といはれる方を厭ふ。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

また、天照大神が天の岩戸からお出ましになり、その御光が天下に輝きわたった時、八百萬神が一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へて、高天原みな笑ったと、『古語拾遺』に記されてゐる。日本國民は古来、「清けく明けく」(清明心)を最高の価値として来たのである。

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2019年4月 1日 (月)

『萬葉集』に収められた「梅花の歌三十二首(みそぢまりふたつ)幷(ならび)に序」について

大伴旅人と山上憶良が梅の花を詠んだ歌

 

『萬葉集』に収められた「梅花の歌三十二首(みそぢまりふたつ)幷(ならび)に序」について

 

天平二年(ふたとせといふとし)正月(むつき)の十三日(とをかまりみかのひ)、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)(太宰府長官・大伴旅人の邸宅)に萃(あつ)まるは、宴會を申(の)ぶるなり。時に初春の令(よ)き月、気淑(よ)く風和(なご)み、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい・古代の装身具で匂ひ袋のやうなものといふ)の後の香を薫らす。加以(しかのみならず)、曙の嶺に雲移りては、松、羅(うすもの)を掛けて盖(きぬかさ)を傾け、夕岫(ゆうべのくき)(山の頂き)に霧結びては、鳥、穀(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には故(もと)つ鴈(かり)歸る。ここに天を蓋(きぬがさ)にし、地を座(しきゐ)にして、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏(うら)に忘れ、(一室の中で言葉を忘れるほど楽しく興じること)衿を煙霞の外に開き、(着物の襟をそのに向かって開く。心をくつろがせることの形容)淡然として自ら放(ほしきまま)に、快然として自ら足りぬ。若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)せり。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を賦(よ)みて聊か短詠(みじかうた)を成(な)すベし。」
(梅花の歌三十二首と序。天平二年正月十三日、太宰府長官大伴旅人の邸宅に集まって、宴会を開く。時に、正月のめでたい月にして、気は良く、風は和み、梅は鏡の前の白粉のやうに白く咲き、蘭は匂ひ袋のやうに香ってゐる。そればかりではなく、夜明けの山に雲がかかってきて、松はその雲をベールのやうに纏ひ絹で張った傘をさしかけたやうに見え、夕方の山の頂には霧がかかり、鳥はその霧に封じ込められて、林の中を迷ってゐる。庭には今年生まれた新しき蝶が舞ひ、空には去年渡来した雁が巣に帰って行く。そこで、天を屋根にし、地を座席にして、互ひに膝を近付け酒の盃を回す。一室の内では言ふ言葉を忘れるほど楽しく和やかに語り合ひ、外の大気に向かっては心をくつろがせ、心がさっぱりとして皆が自ら気楽に振る舞ひ、心楽しく満足する。もしも文筆に拠らないではどうやってこの楽しい情感を述べつくすことが出来やうか。漢詩に落梅の詩篇が記されてゐる。それは昔も今も変らない。どうか庭園の梅を題にしてともかくも短歌を作らうではないか、といふほどの意)。

 

天平二年(七三〇)正月十三日に、大伴旅人の屋敷に、旅人の部下の官人たち三十数人が集まって宴会を開いた。その経緯を序文に記してゐる。いかに旅人が漢文の知識があったかが分かる。旅人を中心とした風雅な和歌の世界である。これを筑紫歌壇といふ。

 

太宰府の管轄下には、九国(西海道のうち筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の九国の総称)二島(壱岐・対馬)あった。

 

三十二首のうち二首の歌について書いてみたい。

 

 

春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 筑前守山上大夫 (八一八)

 

筑前守山上大夫は、山上憶良(奈良前期の官人・歌人。大宝
二年(七〇二)渡唐し、帰国後、伯耆守(ほうきのかみ)・東
宮侍講・筑前守を歴任)。
「春されば」は、春になると。「宿」は、住まひとしての家
屋。特に草木が植えられた庭園のある家を指す事が多い。
「見つつや」は、見ながら。自分の現在の動作を詠嘆的に述
べてゐる。
通釋は、「春になると、真っ先に咲く家の梅の花を一人見な
がら春の日を暮らすのでせうか」。
かういふ歌を獨詠といふ。自分で自分に歌って聞かせてゐる
歌。一人で見ることを強調してゐる。美の中に陶酔するので
はなく、少しひねった感覚である。憶良は憶良らしく自分
の世界に浸って、多くの人々が集まってゐる宴会でかういふ
歌を詠んだ。
この当時、梅は外来の花であって、珍木として尊重されたと
いふ。旅人と憶良は支那文學・漢詩の影響を強く受けた。だ
から梅に対する人一倍の愛着があったといへる。
「花ひとり見つつや春日暮らさむ」に、憶良のさみしさも表
現されてゐる。家族などと一緒に楽しく梅花を鑑賞したいと
いふ心もあるが、孤独を愛する心もあったのかもしれない。
あるいは、孤独感・疎外者意識を意図的に表現したとも言へ
る。憶良が七十一歳の時の歌。

 

 

わが苑(その)に梅の花散る久かたの天(あめ)より雪の流れ来るかも      
                 主人(あるじ) (八二二)

 

この歌会の主催者であった大伴旅人の歌。
これらの歌は即席の題詠である。「わが苑に」は、私の家の
庭に。「久かたの」は、天に掛かる枕詞。の「天(あめ)より雪の流
れ来るかも」は、天から雪が降って来るのであらうか。雪が
降ることを流れ来ると表現した。梅の花を行きと見る趣向で
ある。
通釋は、「わが庭に梅の花が散る。天から雪が流れて来るの
であらうか。」といふ意。
梅の花が散るのを見て、雪が流れて来ると歌ってゐる。雪と
梅を取り合はせる表現は支那の六朝文學(支那で、後漢の滅
亡後、隋の統一まで呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝)
の漢詩にもあり、珍しくはないのであるが、この歌の場合は歌柄が大きい。名門の棟梁としての風格がにじみ出てゐる歌である。大らかでこせついたところがなく、気品と風格がある。旅人が六十六歳の時の歌。
雪が風に乗って流れるやうに降って来るといふ情景。世俗を
超越してゐるやうな雰囲気が出てゐる。奥らと違って美の中
に素直に陶酔してゐる。
山上憶良は、「花ひとり見つつや春日暮らさむ」と歌って、
自己の人間性を出してゐる。同じ時代で、同じ場所で歌って、
同じ貴族でありながら、違ふ資質を持ってゐる。
平安時代頃までは、日本が愛でた花は梅であった。当時、梅
は外来の花であり、エキゾチックな感覚の花であった。時代
が下ると桜が愛されるやうになる。梅を鑑賞しながら、風雅
の世界に遊んでゐる歌。

 

 

員外(かずよりほか)、故郷(くに)を思(しぬ)ふ(歌(うた)両首(ふたつ)

 

雲に飛ぶ藥はむよは都見ばいやしき吾(あ)が身また變(を)若ちぬべ
し                     (八四八)

 

「員外」とは、梅花三十二首の枠の外の歌といふ意。作者は
旅人か憶良かどちらかであるが、いづれかは判定できない。
「雲に飛ぶ藥」とは、飲めば天に飛んでいくことができると
いふ仙薬。支那の傳説に基づく表現。
「よは」は、~するよりは。「都見ば」は、都を見たならば。
「變(を)若ちぬべし」は、若返るであらう。
通釋は「雲に飛ぶ仙薬を飲むよりは、都を見たならば、つま
らないわが身も、また若返るに違ひない」といふ意。
旅人にしても憶良にしても、「都に早く帰りたい、仙薬を飲
むよりも、都に帰ることができれば、年老いたわが身も若返
ることができると」いふ歌。都への憧れの気持ちの激しさを
詠んだ歌。 
大伴旅人に「わが盛また變(を)若(ち)ちめやもほとほとに寧樂の
京(みやこ)を見ずかなりなむ」(三三一・私が若く元気だった頃が戻
って来ることがあらうか。ひょっとして奈良の都を再び見る
ことなくこのまま人生を終えてしまふのか)といふ歌がある。
しかし、旅人は太宰府に三年間ゐただけで都に帰る。
憶良は旅人を中心とする「筑紫歌壇」で重要な役目を果た
してゐる。大伴旅人と山上憶良は、旅人が憶良の上司であり、
年齢は憶良の方が十歳ほど上であり、歌風も全くと言ってい
いほど異なるが、とても仲が良かった。旅人は、傳統的貴族
であり、憶良は學才によって登用された貴族であった。冷た
い対立関係はなく、お互ひに信頼し合ってゐたと考へられる。

 

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2019年3月 3日 (日)

「日出づる國」への誇り・祖國へ愛を歌った山上憶良の歌

 

 山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在りし時、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作れる歌

 

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴(おほとも)の 御津(みつ)の濱松 待ち戀ひぬらむ

 

 山上憶良が、支那にゐた時、祖國を恋ひ慕って作った歌。山上憶良は、斉明六年(六六〇)~天平五(七三三)年。萬葉集代表歌人の一人。大宝元年(七〇一)に三十五年ぶりに遣唐使が復活し、憶良は遣唐少録に任命された。翌大宝二年、四十二歳の時に渡唐。慶雲四年(七〇七)帰國。晩年の歌が多い。 

 

「大唐」は支那のこと。「本郷」は祖國日本のこと。「いざ」は、人を誘ひ自らも行動を起こそうとする時に発する言葉。「子ども」は、年下あるいは目下の親しい人々に対する呼び掛けの言葉。

 

「日本」は日本全体を指す。「大伴の御津」は、大阪市南部から堺市にかけての一帯(摂南といふ)の難波の津(港)のこと。この辺りは大伴氏及びその配下の久米氏が領有してゐた地であったから「大伴の」といふ。ここから遣唐使の船や九州などに行く船が出発した。唐にゐた憶良にとって、この港は祖國の門戸であった。

 

遣唐使が支那へ行くルートは、①今日の大阪から瀬戸内海を通って行き、壱岐・対馬に寄りながら朝鮮半島の西側を通って、山東半島に上陸するルート、②能登半島から出発して沿海州に上陸するルート、③長崎や鹿児島などから出発して支那の楊州や越州に上陸するルートがあったといふ。

 

「濱松待ち戀ひぬらむ」は、松が擬人化されてゐる。懐かしい祖國日本の海岸の松の風景を目に浮かべて歌ってゐる。また、「御津の濱松」は下の「待ち戀ひぬらむ」を出すための序詞といふ説もある。                           

 

「さあ、皆の者よ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の濱松も、さぞ待ちわびてゐるであらうから」といふ意。                             

 

「日本」という漢字に「やまと」といふ傍訓を付したところにこの歌の重要性がある。「日本」とは「日の昇る國」といふ意味である。

 

聖徳太子は、推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣隋使として支那に遣はされ、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」といふ國書を隋の煬帝に呈した。日本國の誇りを高らかに宣揚し、アジアの大帝國・隋に対して、対等どころか大いなる自尊心をもって相対された。その御精神が憶良に引き継がれてゐるのである。

 

聖徳太子は外来宗教たる仏教を信仰せられ、日本に広く受容することに貢献された方であるが、素晴らしい日本人としての御自覚・自負心をお持ちになられてゐたのである。憶良もまた、唐において色々なことを学びこれから帰國しようといふ時に、「早く日本へ」と歌ひあげたのである。

 

「早く日本へ」といふ言葉に、「日没する國」にゐる憶良の「日出づる國」への恋慕の思ひがにこめられてゐる。憶良は、唐との対比において日本を自覚し、祖國への愛・日本人としての誇りを歌ったのである。それは、わが国は、太陽の昇る国であり、太陽神たる天照大神を祖神として仰ぎ、天照大神の生みの子たる天皇を君主として戴く国であるといふ大いなる自覚である。

 

この歌は望郷の歌であると共に、日本精神・愛国精神謳歌の歌である。聖徳太子や山上憶良の精神は、支那や朝鮮に対する卑屈な態度とることが多い今日政治家に見習ってもらいたい。やはり民族勃興期・國家建設期の日本は素晴らしい人がゐたと言ふべきである。

                  

また、憶良には、自分たちが早く日本へ帰りたいといふ思ひと共に、自分たちが学んだ学問を早く祖国へ持ち帰って祖国の役に立てたいといふ思ひもあったと思はれる。

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2019年2月22日 (金)

「やまと心」「清明心」について

 

 

 日本民族固有の精神、または、儒教・佛教などが入ってくる以前からの、日本人本来のものの見方・考え方の基底にある感性を『大和心』或いは『大和魂』という。別の言い方をすれば、外来の學問や宗教思想=漢學・佛教教學の知識以前の本来的な日本人の心が大和魂・大和心である。

 

 平安時代になって、それまでより以上に支那思想が崇拝され、佛教が興隆した。そうした時期に「大和魂(やまとたましひ)」という言葉が使われるようになった。「大和魂」という言葉が一番最初に出てくる文献は、紫式部の『源氏物語』である。「大和心」という言葉は赤染衛門の歌に最初に出て来るという。紫式部も赤染衛門両者も女性である。

 

 儒教や佛教の教理・経典を重んずるあまり、日本古来からの素直なる精神・清明心が覆いくらままされつつあったことに対する反省として、この時期に大和魂・大和心という言葉が使われるようになったのであろう。

 

 その『大和心』を短歌形式で表白した歌が次の歌である。

 

「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山櫻花」

 

 近世の國學者・本居宣長の歌である。「大和心をどういうものかと人に問われたら、朝日に美しく映える山櫻だと答えよう」というほどの意である。

 

 「朝日ににほふ山櫻花」は何とも美しい。それが大和心なのだと宣長は言う。朝日に美しく映えている山櫻は理屈なしに美しい。そういう感覚的な美しさを大和心に譬えているのである。そして宣長は、日本人の性格=大和心の本質をなすものは、理知ではなく、素直なる心、鋭敏な感受性を備えた純粋感情であるとした。

 

 神の生みたまいし美しい國に生まれた日本人は、美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」「無我の心」が、日本民族固有の感性・日本人本来の心なのである。それは、理智・理屈・理論ではない。一切の先入観を取り除いた心である。これを別の言葉で「もののあはれ」という。

 

 大和心即ち日本伝統精神は、誰かによって作られた思想體系や理論體系ではなく、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

 

 本居宣長は、『たまかつま五の巻』において、「つひにゆく道とはかねて聞しかどきのふけふとは思はざりしを、契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也、後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことしからずして、いとにくし、……この朝臣(注・在原業平)は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の偽りをあらはして死ぬる也といへるは、ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(『最後には行かなくてはならない死出の道だとは。かねて聞いて知っていたけれど、昨日今日と差し迫っていようとは思わずにいたもの』という歌について、契沖は言った。この歌は人の真實の心であって、教訓とするにもよい歌である。後々の世の人は、死のうとする間際になってものものしい歌を詠み、あるいは道を悟ったことなどを詠む。真實はそうではないので、大変気に入らない。……在原業平朝臣は、一生の真實がこの歌に表現され、後の世の人は一生の偽りを表現して死ぬのだと言ったのは、僧侶の言葉にも似ないで大変に尊いことだ。やまとだましいの人は、僧侶ではあっても、このようにことがあるのだ、というほどの意)と論じている。

 

 『伊勢物語』の結びに据えられている在原業平の「つひにゆく」の歌は、死に直面した時の心をこれ以上素直な言葉はなかろうと思わせるくらい素直に表現している。まさにそのままの心・自然な心・真心の表白である。その真心・そのままの心・素直な心が「やまとだましい」であると宣長は言うのである。

 

「真心」とは、一切の偽りも影も嘘もない、清らかで明るい心である。清らかで明るい心を「清明心」という。それが日本精神即ち大和心である。

 

天智天皇は、「清明心」を次のように歌われている。

 

「わたつみの 豐旗雲に 入日さし 今夜(こよひ)の月夜 清明(あきらけ)くこそ」(大海原のはるかの大空に、大きく豊かな旗のように棚引く雲に入り日がさしている。今宵の月はきっと清らかで明るいであろう)というほどの意である。

 

 何とも大らかで豊かな大御歌である。この天智天皇の大御心こそが日本人の本来的に持っている精神、即ち「大和心」なのである。そして、「清明」という漢字が用いられている。日本人は清らかで明るい心を好むのである。天智天皇は、「夕日」の美しさを見て、美しい月明を期待しておられるのである。 

    

 清明心とは、冴え渡る月の如くに神々しく、清々しく、美しい心である。それが大和魂・大和心である。

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2019年2月19日 (火)

日本人はなぜ桜の花を好むのか

 

 

桜のことを詠んだ代表的な歌は近世の國学者・本居宣長の次の歌である。

 

 敷島の大和心を人問はば 朝日ににほふ山桜花

 

 「大和心をどういうものかと人に問われたら、朝日に美しく映える山桜だと答えよう」というほどの意である。

 

 神の生みたまいし美しい國に生まれた日本人は、美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」「無我の心」が、日本民族固有の精神である。それは、理智・理屈・理論ではない。一切の先入観を取り除いた心である。大和心即ち日本伝統精神は、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

 

 「朝日ににほふ山桜花」の美しさは神々しさの典型である。宣長は、日の神の神々しさを讃えている。そこにわが國民信仰の根幹である太陽信仰(天照大神への信仰)があり、神の命に対する畏敬の念がある。

 

 「真心」とは、一切の偽りも影も嘘もない、清らかで明るい心である。これを「清明心」という。それが即ち大和心である。

 

 日本人はただ単に感覚的に美しいものを好むのではない。日本人の「真心」は一種の厳粛さ・神々しさを伴う。古代日本人にとって、桜の花に限らずすべての花や草木は宗教的・神秘的存在であった。

 

「花」(ハナ)の語源は、端(ハナ)即ち、物の突き出した所、はし(端)であると共に、幣(ハタ)・旗(ハタ)であったという。「幣」とは、神に祈る時に捧げ、また祓いに使う、紙・麻などを切って垂らしたもので、幣帛(へいはく)・御幣(ごへい) とも言う。日本人は、桜の花を素直に美しく感ずる思いと共に、桜の花にある神秘性・神々しさというものに畏敬の念を持った。

 

 日本の伝統的な行事である「お花見」の起源は、生命の盛りである花の下に人間が入ることによって、花の精気が人間に移り、自分自身の生命を豊かにするという信仰である。

 

 日本人は、桜に滅びの美しさを見た。桜はすぐに散ってしまうから、人はなおさらその美しさを感ずるのである。桜が咲いている姿にすぐに散ってしまう影を感じる。桜は、「三日見ぬ間の桜かな」という言葉があるように他の花々よりも咲いている時間が非常に短い。また、雨や風に当たればすぐに散ってしまう。日本人はそういう桜花の「潔さ」をとりわけ好む。これを「散華の美」という。

 

 日本人は、未練がましく現世の命に恋々としないという精神を抱いている。こうした心は、「七生報國」の楠公精神そして神風特別攻撃隊の「散華の精神」に継承されてゆく。 日本人が最も美しいと感じる窮極的なものは、花そのものや花の命と共に、花の命が開き且つ散る「時」なのである。

 

 日本人は、花とは見事に咲き潔く散って行くべきであると考えた。人間もまたそうあらねばならないとした。この世に恋々として生き延びるのはそれ自体が汚れた行為であり、潔くないし、醜いと考えた。

 

 しかし、桜の花の命は、はかなくそして見事に散ってしまえば、それで消滅してしまうのではない。桜の花は散ってしまうのであるが、来年の春になると必ずまた美しく咲く。つまり、花が散るというのは花の命が消滅したのではなく、花の命は必ず甦るのである。肉体は滅びても人の命は永遠である。ただ現世における命には限りがあるということなのである。

 

 桜の花は散ってもまた来年の春に甦る。滅亡の奥に永遠の命がある。それが楠正成公の「七生報國」(七度生まれて國に報いる)の精神である。理屈なしに素直に國のため大君のために命を捨てるという純粋なる精神もまた大和心なのである。生命の永遠を信じているからこそ、潔く散ることをいとわないのである。

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2018年11月26日 (月)

三島由紀夫氏の自決は「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現した

 

 昭和四十五年十一月二十五日、三島氏が自決した際の『檄文』で「待った」という言葉を繰り返した。彼は自然死・病死を待ち切れなかったのである。

 

 三島氏は、『魔群の通過』(昭和二四年)という小説で、自殺願望で作家志望の「主人公・曽我」が他人から自殺について「自然に死ぬのを待ったっておなじことじゃないか?」と言われた時の返答として主人公に、「それが待てますか?」「僕だって胃癌の遺傳を持ってゐるんです。待てれば雜作がないんですよ」「しかし待てますか?」と言わせている。

 

 三島氏は何もかも待ち切れず、武士として、儀式に則って死んだのである。三島氏には、美しい自決の舞台が整っていなければならなかった。あの市谷台上こそ、その舞台であった。

 

『假面の告白』には次のように書かれている。「私は他人の中で晴れ晴れと死にたいと思った。」「人生は舞臺のやうなものであると誰しもいふ。しかし私のやうに、少年期のをはりごろから、人生は舞臺だといふ意識にとらはれつづけた人間が数多くゐるとは思はれない。」と。三島氏は事實この通りに形式を踏んだ死を選んだ。『葉隱入門』(昭和四二)で三島由紀夫氏は、「死を心に當てて萬一のときには死ぬはうに片づくばかりだと考へれば、人間は行動を誤ることはない。」「切腹といふ積極的な自殺は、西洋の自殺のやうに敗北ではなく、名譽を守るための自由意思の極限的なあらはれである。」「生きてゐるものが死と直面するとは何であらうか。『葉隱』はこの場合に、ただ行動の純粹性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定してゐる。それを『犬死などといふ事は、上方風の打ち上がりたる武士道』だと呼んでゐる。」「われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覺に、いつも陥りたがる。しかし『葉隱』が示してゐるのは、もっと容赦のない死であり、花も實もない無駄な犬死さへも、人間の死としての尊嚴を持ってゐるといふことを主張してゐるのである。」と論じている。これは明らかに死の賛美である。死に理屈は要らないとする。死はただ美しいのである。

 

 三島氏が「死」にもっとも接近した機会は、昭和二十年、二十歳の時に、軍隊への召集であった。だが、即日帰郷となってその機会は失われた。それが三島氏の大きな心の傷・負い目・負の遺産となったと言われている。

 

 三島氏は、『假面の告白』で「私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。營門をあとにすると私は駈け出した。荒涼とした冬の坂が村のはうへ降りてゐた。…ともかくも『死』ではないもの、何にまれ『死』ではないもののはうへ、私の足は駈けた。」と書いている。それは「死にたい人間が死から拒まれるといふ奇妙な苦痛」(『假面の告白』)であったという。

 

 以来戦後一貫して三島氏は死に憧れ続け、今日生きていても明日は生きているという保証はない世界に憧れた。虚弱體質ゆえの死からの脱出が、戦後頑健な肉體を作ることを實行させ、さらに「死ではない方」への疾走が、「死」への疾走になっていったのかも知れない。三島氏の若き頃からの「死への願望」がいよいよ極まって極限状況になった時、前述した「日本の傳統的文化意志」が三島氏の精神に甦った。別の言い方をすれば、日本の神々の御稜威が三島氏を通して発現した。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であった。三島氏は、ドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。文士は、「散らぬ桜」を創作し続ける人である。三島氏は文士としての自己の使命は果たし終え、「散る桜」すなわち武士として死んでいくことを決意したのである。

 

 三島氏は文士という言葉をよく使った。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文人」を「文士」ということはあるが、「商人」を「商士」とはいわない。「士」とは立派な男子という意味である。「文士」とは文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。

 三島氏は、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。この「身分の高貴さ」とは、「死を恐れない武士」のことである。

 

 日本民族の傳統的な文化意志において、切腹はまさに美の實現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の實現の最高の形態と言って良い。

 詩歌などの「文」は、いうまでもなく「美」を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、「文」が求めてやまない「美」の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け割腹自決によって最終的に實現したと言える。

 

 愛するものへ命を捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と言える。

 

割腹自決は名誉ある死であると共に、克己心が必要な苦しい死である。三島氏が理想とした美の極致としての自決は、絶望と苦しさからの逃避のための自殺とは全く別次元のものである。

 

三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

戦後の「平和と民主主義」の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。そして、できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、「おのれの美學」のために死ぬなどということはない。

 

 三島氏の自決の決意は、『檄文』の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ」という言葉に示されている。

 

「義のために共に死ぬ」という覚悟は、大東亜戦争中即ち十代の三島氏が信じたものであったに違いない。それは三島氏自身が言った「鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会」以前の時代の「源泉の感情」である。その感情が三島氏に死を決意させたと言える。

 

三島氏は、大東亜戦争において死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪した。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬した。「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現したのが三島氏の自決であった。

 

三島氏は、「戦争で死ぬことができなかった。死に遅れた」という悔恨を持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を「源泉の感情」として生涯持ち続けたと推測される。

 

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