2019年4月27日 (土)

大伴家持・山上憶良の尊皇精神の歌


新元号「令和」の典拠になった『萬葉集』の巻五に収められた「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の中に作品がある大伴家持・山上憶良が日本民族の倫理観念の根底にある尊皇精神・武の精神を歌ってゐる。

劒(つるぎ)刀(たち) いよよ研(と)ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さや)けく負(お)ひて 來(き)にしその名ぞ
(四四六七)

 大伴家持が詠んだ短歌である。「劒太刀をいよいよ研ぐべきだ。昔から清らかに背負って来た(大伴氏といふ)その名なのだぞ」という意。「いよよ研ぐべし」は、大伴氏は武門の家柄であるから剣を研ぐのと同じように大伴氏の名も常に磨いて朽ちさせないようにすべきだという意がある。「研ぐべし」「負ひて來にしその名ぞ」という極めて断定的な強い表現になっているところに家持の毅然たる態度と意志がある。

山上憶良の尊皇精神の歌
山上憶良が日本民族の倫理観念の根底にある尊皇精神を歌った歌は次の歌である。

惑(まど)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首幷びに序

或る人あり、父母を敬ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履(だつし)よりも輕(いるかせ)にし。自ら倍俗先生(せにしゃう)と稱(なの)る。意氣は青雲の上に揚るといへども、身體はなほ塵俗の中に在り。いまだ修行得道の聖とあるに驗あらず。けだしくは、山澤(さんたく)に亡命する民ならむ。所以(かれ)三綱を指示し、更(また)五教を開き、遣(おく)るに歌をもちてし、その惑を反さしむ。歌に曰く、

父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞ道理(ことはり) もち鳥の かからはしもよ 行方(ゆくへ)知らねば穿沓(うけぐつ)を 脱(ぬ)ぎ棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)ぎて 行くちふ人は 石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月の下は 天(あま)雲(ぐも)の 向(むか)伏(ふ)す極(きは)み 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極み 聞こしをす 國のまほらぞ かにかくに 欲(ほ)しきまにまに 然(しか)にはあらじか       (八〇〇)

反歌

ひさかたの 天道(あまぢ)は遠し なほなほに 家に歸りて 業(なり)を爲(し)まさに (八〇一)

詞書の通釋は、「ある人がゐて、父母を尊敬することは知ってゐるが、孝養をつくすことを忘れ、妻子のことは顧みないで、脱ぎ捨てた履物のやうにこれを軽んじ、自らを倍俗先生(世俗に背を向けた隠遁者)と名乗る。意氣は空の青雲の上にも上らんばかりだが、身体はなほ世の塵の中にある。まだ修業をして道を極めた聖人になったしるしもない。言ふなれば山の中の澤に亡命した民であらうか。そこで、三綱(人間として守るべき、君臣・父子・夫婦の秩序)を示し、五教(人の守るべき五つの教へ。父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝)をさらに説くべく、この歌を贈ってその迷ひを直させることにする。その歌に曰く」。

長歌の通釋は、「父母を見れば尊いし、妻子を見ればいとしく可愛い、世の中はこれが当たり前のことではないか。もち鳥(鳥もちにかかった鳥)のやうに離れがたいものだ。行く末も分からないのだから、穴のあいた履物を脱ぎ捨てるやうに(家族を)捨てて行くといふ人は、石や木やうに非情の物から成り出て来た人なのか、お前の名を言ひなさい。天へ行ったならばお前の勝手にすればいいが、この地上には、大君がをられるのだ。この照らしてゐる日月の下は、天雲の横たはってゐる果てまでも、蟾蜍(ひきがえる)が這ひまはる果てまでも、大君が統治されるすぐれた國だ。あれこれと自分の欲望のままにそのやうにしてはいけないのではないか」。

反歌の通釋は、「天(日本の神々のゐます高天原のことではなく、支那の神仙思想が説くところのこの世が厭になった人間が逃避する場所のこと)への道のりは遠い。素直に家に帰って、家業にいそしみなさい」。

憶良の生きた時は、支那の老荘思想や仏教の無常感の影響で、家庭を顧みないで、俗世間を脱して暮らさうといふ人が増えて来たらしい。そこで、日本の傳統的倫理思想を説いて、その迷ひを払拭せしめやうとした作品である。天皇國日本に生きてゐる國民は、家族を捨てて現實から逃避するやうなことをしてはならないと歌ってゐるのである。『萬葉集』に歌はれた國民精神への回帰によって現代の危機を乗り越えなければならない。混迷の極にある現代においてこそ『萬葉集』の精神への回帰が大切である。

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2019年4月25日 (木)

『萬葉集』の時代背景

 『萬葉集』の時代(つまり推古天皇から淳仁天皇の御代まで)は、わが国が、支那の文化・政治制度・法制度を受容した時代である。支那の制度に習って、中央集権制度が整い、律令制度が敷かれ、制度文物が唐風化の時代を迎えた。

 権力闘争もあったが、大和朝廷の基礎が固められた時期である。つまり、天皇中心の國家体制が法律的・制度的に確立した時期である。

『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱・白村江の戦いなどという大国難・大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために「萬葉集」は編纂された。

萬葉時代の状況は、遣唐使の派遣などがあり、儒教仏教の伝来など支那や朝鮮から外来思想・宗教・政治制度の輸入が行われた。また、国内的には、大化改新という大変革、壬申の乱という国家の存亡にかかわる内戦のあった時期であり、対外的には百済救援の失敗による唐・新羅連合軍来襲の危機もあった。まさに内憂外患交々来たるといった状況であり、この時代は、今日のわが国と時代状況はよく似ている。

当時の日本は内憂外患を克服した。『萬葉集』はそういう時期におけるわが国の祖先の声・魂の表白である。今日の日本の混迷を打開するためにはやはり、『萬葉集』に回帰し『萬葉集』に歌われた国民精神を回復することが必要なのである。 

 萬葉の時代を具体的にいえば、①揺籃期=推古天皇の御代(聖徳太子の時代・六二八まで)から舒明天皇の御代。②初期萬葉=天智・天武両天皇の御代で大化改新(六四五)から壬申の乱(六七二)を中心とした時期。③白鳳萬葉期=持統天皇の御代である藤原京の時代から奈良遷都(七一0)までの時期。④平城萬葉期=奈良遷都から聖武天皇の御代前半の天平時代前期(七三三)まで時期。⑤天平萬葉期=聖武天皇の御代後半から天平時代後期(七五九まで)の淳仁天皇の御代までの時期。

 中西進氏は「『萬葉集』に収められた和歌の時代は、だいたい大化改新と呼ばれる事件のあった六四五年ころから始まるのと考えるのがよいと思っている。…さらにひろげれば、七世紀のはじめごろからで、…聖徳太子が…深く仏教に心を致した後に、十七条の憲法といった人間省察にみちた文章を作ることと、抒情歌の時代の到来とは、密接にかかわっていると思える。…聖徳太子の到達点も、仏教という渡来思想によって可能になったものであった。すなわち、こうした萬葉の出発は新たな文化の導入によって可能になったものであった。」(神々と人間)と論じている。

 『萬葉集』は、國家変革・激動・外患の危機の時期の歌集であり、國難の時期に如何に当時の日本人が日本國體精神を讚仰し道統を継承し、それを元基として國難を乗り越えたかが、『萬葉集』を読むと分かる。

 保田與重郎氏は、「萬葉集の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてであってこの時代の中間は、奈良朝初期の太平の御代であるが、前後にかなり多くの戦乱があった。…壬申の乱があり、…後期の聖武天皇の時代にも廣嗣の乱といふ大乱があり、……この歌集は決して太平の御代の國風を集めたものではない。…我々が萬葉集の精神を見るといふことは、さういふ國家の大事に当り、國民思想の根柢をつくやうな大事変のしきりに起る中で、古人が如何に國體の真髄を守り、神と天皇に仕へ奉ったかを見るのである。歌の調べの美しさも、慟哭も、嗚咽も、みなこの一点より解さねばならぬ。」(「萬葉集と軍歌」)と論じている。

 飛鳥・藤原時代は、天皇中心の国家体制建設の陣痛期であった。幾度か繰り返された痛ましい悲劇も、謂はばその一の犠牲であった。

しかし、白鳳朱鳥大宝と、大唐模倣の潤達明暢な宮廷内外の生活は、着々軌道に乗り、豪華瑰麗な幾多の造形芸術は開華し、溌剌たる国家の燃え上る鼓動を把握して、我が『萬葉集』二十巻の荘厳が現出した。萬葉集は要するに、皇統礼讃の文学であったのである。

 それとともに、わが國伝統文化が異質の文化(特に仏教・儒教という精神文化と唐の政治法律制度の受容)に遭遇した激動の時期であった。これに対するためのわが國伝統的精神文化の興起が、『記紀』『萬葉集』の編纂であった。

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2019年4月13日 (土)

「清明心」に憧れ「くらき心」「きたなき心」を嫌ふ日本人の心




大伴家持

「劒太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (四四六七・わが一族の傳統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく傳へてきた大君の辺にこそ死なめといふ大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)といふ意。

天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者・古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」といふ長歌を詠んだ。この歌はその反歌である。

「剣太刀いよよ研ぐべし」と、きはめて断定的な歌ひ方をしてゐる。興奮した歌ひぶり。「研ぐ」といふ言葉に「剣太刀を研ぐこと」と「家名を磨くこと」を掛けてゐる。

 長歌は、「ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より…」と天孫降臨から歌ひ起こし、神武天皇橿原奠都を歌ひ、わが國の歴史を述べ、天孫降臨すなはち肇國のはじめからの歴史精神を貫いてゐる。そして、「皇祖の 天の日嗣と つぎて来る 君の御代御代 隱さはぬ 赤き心を 皇方(すめらべ)に 極め盡して 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)と …… 清きその名ぞ 凡(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなごと)も 祖の名斷つな 大伴の 氏の名に負へる 丈夫(ますらを)の伴(とも)」と歌った。

 この家持の「族を喩す歌」には、二つの大きな思想精神が詠まれてゐる。一つは、天孫降臨以来の皇統連綿・萬世一系の御歴代天皇への絶對的忠誠であり、降臨された天孫邇邇藝命に仕へ、御歴代の天皇に仕へた大伴氏の勤皇の誇りである。二つは、祖先を尊び家柄・家名を重んじる精神である。「名を重んずる心」である。

反歌では特に家名を重んじる精神を歌ってゐる。「剣太刀いよよ研ぐべし」といふ武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」といふ赤誠心を詠んだ。

保田與重郎氏は、「彼(註・大伴家持)は喩族歌の中で、史官の描かない、時局情勢の描かぬ、眞の歴史を歌ひあげ、…その日の時局に對立して肇國の精神を貫かうとする思想であった。…天降りし天孫に仕へ奉ったといふことをいふ、皇方(スメラヘ)に仕へた勤皇の誇りだったのである。…彼は不平不満の中で、不平の詩歌を開くといふ類の東洋的詩人の域をつとに脱してゐたのである。」(『萬葉集の精神』)と論じてゐる。

大伴家持の『族に喩す歌』は、神代以来忠誠を一族の使命として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促し、大伴一門の傳統的忠誠・尊皇思想そして家名を重んじる精神を歌ってゐる。しかし、それだけでなく、わが國民全体が保持すべき尊皇精神と家名を重んじる廉恥の心を歌ったと言へる。

 そして、この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、真心を吐露し、赤誠を表白した血の出るやうな歌である。

家持の歌の「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが國の重要な道徳観念である。日本人は、「あいつは悪い奴だ」といはれるよりも、「あいつは汚い奴だ」といはれる方を厭ふ。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

また、天照大神が天の岩戸からお出ましになり、その御光が天下に輝きわたった時、八百萬神が一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へて、高天原みな笑ったと、『古語拾遺』に記されてゐる。日本國民は古来、「清けく明けく」(清明心)を最高の価値として来たのである。

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2019年4月 1日 (月)

『萬葉集』に収められた「梅花の歌三十二首(みそぢまりふたつ)幷(ならび)に序」について

大伴旅人と山上憶良が梅の花を詠んだ歌

 

『萬葉集』に収められた「梅花の歌三十二首(みそぢまりふたつ)幷(ならび)に序」について

 

天平二年(ふたとせといふとし)正月(むつき)の十三日(とをかまりみかのひ)、帥(そち)の老(おきな)の宅(いへ)(太宰府長官・大伴旅人の邸宅)に萃(あつ)まるは、宴會を申(の)ぶるなり。時に初春の令(よ)き月、気淑(よ)く風和(なご)み、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい・古代の装身具で匂ひ袋のやうなものといふ)の後の香を薫らす。加以(しかのみならず)、曙の嶺に雲移りては、松、羅(うすもの)を掛けて盖(きぬかさ)を傾け、夕岫(ゆうべのくき)(山の頂き)に霧結びては、鳥、穀(うすもの)に封(こ)めらえて林に迷ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には故(もと)つ鴈(かり)歸る。ここに天を蓋(きぬがさ)にし、地を座(しきゐ)にして、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏(うら)に忘れ、(一室の中で言葉を忘れるほど楽しく興じること)衿を煙霞の外に開き、(着物の襟をそのに向かって開く。心をくつろがせることの形容)淡然として自ら放(ほしきまま)に、快然として自ら足りぬ。若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情(こころ)を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)せり。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を賦(よ)みて聊か短詠(みじかうた)を成(な)すベし。」
(梅花の歌三十二首と序。天平二年正月十三日、太宰府長官大伴旅人の邸宅に集まって、宴会を開く。時に、正月のめでたい月にして、気は良く、風は和み、梅は鏡の前の白粉のやうに白く咲き、蘭は匂ひ袋のやうに香ってゐる。そればかりではなく、夜明けの山に雲がかかってきて、松はその雲をベールのやうに纏ひ絹で張った傘をさしかけたやうに見え、夕方の山の頂には霧がかかり、鳥はその霧に封じ込められて、林の中を迷ってゐる。庭には今年生まれた新しき蝶が舞ひ、空には去年渡来した雁が巣に帰って行く。そこで、天を屋根にし、地を座席にして、互ひに膝を近付け酒の盃を回す。一室の内では言ふ言葉を忘れるほど楽しく和やかに語り合ひ、外の大気に向かっては心をくつろがせ、心がさっぱりとして皆が自ら気楽に振る舞ひ、心楽しく満足する。もしも文筆に拠らないではどうやってこの楽しい情感を述べつくすことが出来やうか。漢詩に落梅の詩篇が記されてゐる。それは昔も今も変らない。どうか庭園の梅を題にしてともかくも短歌を作らうではないか、といふほどの意)。

 

天平二年(七三〇)正月十三日に、大伴旅人の屋敷に、旅人の部下の官人たち三十数人が集まって宴会を開いた。その経緯を序文に記してゐる。いかに旅人が漢文の知識があったかが分かる。旅人を中心とした風雅な和歌の世界である。これを筑紫歌壇といふ。

 

太宰府の管轄下には、九国(西海道のうち筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の九国の総称)二島(壱岐・対馬)あった。

 

三十二首のうち二首の歌について書いてみたい。

 

 

春さればまづ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ 筑前守山上大夫 (八一八)

 

筑前守山上大夫は、山上憶良(奈良前期の官人・歌人。大宝
二年(七〇二)渡唐し、帰国後、伯耆守(ほうきのかみ)・東
宮侍講・筑前守を歴任)。
「春されば」は、春になると。「宿」は、住まひとしての家
屋。特に草木が植えられた庭園のある家を指す事が多い。
「見つつや」は、見ながら。自分の現在の動作を詠嘆的に述
べてゐる。
通釋は、「春になると、真っ先に咲く家の梅の花を一人見な
がら春の日を暮らすのでせうか」。
かういふ歌を獨詠といふ。自分で自分に歌って聞かせてゐる
歌。一人で見ることを強調してゐる。美の中に陶酔するので
はなく、少しひねった感覚である。憶良は憶良らしく自分
の世界に浸って、多くの人々が集まってゐる宴会でかういふ
歌を詠んだ。
この当時、梅は外来の花であって、珍木として尊重されたと
いふ。旅人と憶良は支那文學・漢詩の影響を強く受けた。だ
から梅に対する人一倍の愛着があったといへる。
「花ひとり見つつや春日暮らさむ」に、憶良のさみしさも表
現されてゐる。家族などと一緒に楽しく梅花を鑑賞したいと
いふ心もあるが、孤独を愛する心もあったのかもしれない。
あるいは、孤独感・疎外者意識を意図的に表現したとも言へ
る。憶良が七十一歳の時の歌。

 

 

わが苑(その)に梅の花散る久かたの天(あめ)より雪の流れ来るかも      
                 主人(あるじ) (八二二)

 

この歌会の主催者であった大伴旅人の歌。
これらの歌は即席の題詠である。「わが苑に」は、私の家の
庭に。「久かたの」は、天に掛かる枕詞。の「天(あめ)より雪の流
れ来るかも」は、天から雪が降って来るのであらうか。雪が
降ることを流れ来ると表現した。梅の花を行きと見る趣向で
ある。
通釋は、「わが庭に梅の花が散る。天から雪が流れて来るの
であらうか。」といふ意。
梅の花が散るのを見て、雪が流れて来ると歌ってゐる。雪と
梅を取り合はせる表現は支那の六朝文學(支那で、後漢の滅
亡後、隋の統一まで呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝)
の漢詩にもあり、珍しくはないのであるが、この歌の場合は歌柄が大きい。名門の棟梁としての風格がにじみ出てゐる歌である。大らかでこせついたところがなく、気品と風格がある。旅人が六十六歳の時の歌。
雪が風に乗って流れるやうに降って来るといふ情景。世俗を
超越してゐるやうな雰囲気が出てゐる。奥らと違って美の中
に素直に陶酔してゐる。
山上憶良は、「花ひとり見つつや春日暮らさむ」と歌って、
自己の人間性を出してゐる。同じ時代で、同じ場所で歌って、
同じ貴族でありながら、違ふ資質を持ってゐる。
平安時代頃までは、日本が愛でた花は梅であった。当時、梅
は外来の花であり、エキゾチックな感覚の花であった。時代
が下ると桜が愛されるやうになる。梅を鑑賞しながら、風雅
の世界に遊んでゐる歌。

 

 

員外(かずよりほか)、故郷(くに)を思(しぬ)ふ(歌(うた)両首(ふたつ)

 

雲に飛ぶ藥はむよは都見ばいやしき吾(あ)が身また變(を)若ちぬべ
し                     (八四八)

 

「員外」とは、梅花三十二首の枠の外の歌といふ意。作者は
旅人か憶良かどちらかであるが、いづれかは判定できない。
「雲に飛ぶ藥」とは、飲めば天に飛んでいくことができると
いふ仙薬。支那の傳説に基づく表現。
「よは」は、~するよりは。「都見ば」は、都を見たならば。
「變(を)若ちぬべし」は、若返るであらう。
通釋は「雲に飛ぶ仙薬を飲むよりは、都を見たならば、つま
らないわが身も、また若返るに違ひない」といふ意。
旅人にしても憶良にしても、「都に早く帰りたい、仙薬を飲
むよりも、都に帰ることができれば、年老いたわが身も若返
ることができると」いふ歌。都への憧れの気持ちの激しさを
詠んだ歌。 
大伴旅人に「わが盛また變(を)若(ち)ちめやもほとほとに寧樂の
京(みやこ)を見ずかなりなむ」(三三一・私が若く元気だった頃が戻
って来ることがあらうか。ひょっとして奈良の都を再び見る
ことなくこのまま人生を終えてしまふのか)といふ歌がある。
しかし、旅人は太宰府に三年間ゐただけで都に帰る。
憶良は旅人を中心とする「筑紫歌壇」で重要な役目を果た
してゐる。大伴旅人と山上憶良は、旅人が憶良の上司であり、
年齢は憶良の方が十歳ほど上であり、歌風も全くと言ってい
いほど異なるが、とても仲が良かった。旅人は、傳統的貴族
であり、憶良は學才によって登用された貴族であった。冷た
い対立関係はなく、お互ひに信頼し合ってゐたと考へられる。

 

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2019年3月 3日 (日)

「日出づる國」への誇り・祖國へ愛を歌った山上憶良の歌

 

 山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在りし時、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作れる歌

 

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴(おほとも)の 御津(みつ)の濱松 待ち戀ひぬらむ

 

 山上憶良が、支那にゐた時、祖國を恋ひ慕って作った歌。山上憶良は、斉明六年(六六〇)~天平五(七三三)年。萬葉集代表歌人の一人。大宝元年(七〇一)に三十五年ぶりに遣唐使が復活し、憶良は遣唐少録に任命された。翌大宝二年、四十二歳の時に渡唐。慶雲四年(七〇七)帰國。晩年の歌が多い。 

 

「大唐」は支那のこと。「本郷」は祖國日本のこと。「いざ」は、人を誘ひ自らも行動を起こそうとする時に発する言葉。「子ども」は、年下あるいは目下の親しい人々に対する呼び掛けの言葉。

 

「日本」は日本全体を指す。「大伴の御津」は、大阪市南部から堺市にかけての一帯(摂南といふ)の難波の津(港)のこと。この辺りは大伴氏及びその配下の久米氏が領有してゐた地であったから「大伴の」といふ。ここから遣唐使の船や九州などに行く船が出発した。唐にゐた憶良にとって、この港は祖國の門戸であった。

 

遣唐使が支那へ行くルートは、①今日の大阪から瀬戸内海を通って行き、壱岐・対馬に寄りながら朝鮮半島の西側を通って、山東半島に上陸するルート、②能登半島から出発して沿海州に上陸するルート、③長崎や鹿児島などから出発して支那の楊州や越州に上陸するルートがあったといふ。

 

「濱松待ち戀ひぬらむ」は、松が擬人化されてゐる。懐かしい祖國日本の海岸の松の風景を目に浮かべて歌ってゐる。また、「御津の濱松」は下の「待ち戀ひぬらむ」を出すための序詞といふ説もある。                           

 

「さあ、皆の者よ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の濱松も、さぞ待ちわびてゐるであらうから」といふ意。                             

 

「日本」という漢字に「やまと」といふ傍訓を付したところにこの歌の重要性がある。「日本」とは「日の昇る國」といふ意味である。

 

聖徳太子は、推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣隋使として支那に遣はされ、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」といふ國書を隋の煬帝に呈した。日本國の誇りを高らかに宣揚し、アジアの大帝國・隋に対して、対等どころか大いなる自尊心をもって相対された。その御精神が憶良に引き継がれてゐるのである。

 

聖徳太子は外来宗教たる仏教を信仰せられ、日本に広く受容することに貢献された方であるが、素晴らしい日本人としての御自覚・自負心をお持ちになられてゐたのである。憶良もまた、唐において色々なことを学びこれから帰國しようといふ時に、「早く日本へ」と歌ひあげたのである。

 

「早く日本へ」といふ言葉に、「日没する國」にゐる憶良の「日出づる國」への恋慕の思ひがにこめられてゐる。憶良は、唐との対比において日本を自覚し、祖國への愛・日本人としての誇りを歌ったのである。それは、わが国は、太陽の昇る国であり、太陽神たる天照大神を祖神として仰ぎ、天照大神の生みの子たる天皇を君主として戴く国であるといふ大いなる自覚である。

 

この歌は望郷の歌であると共に、日本精神・愛国精神謳歌の歌である。聖徳太子や山上憶良の精神は、支那や朝鮮に対する卑屈な態度とることが多い今日政治家に見習ってもらいたい。やはり民族勃興期・國家建設期の日本は素晴らしい人がゐたと言ふべきである。

                  

また、憶良には、自分たちが早く日本へ帰りたいといふ思ひと共に、自分たちが学んだ学問を早く祖国へ持ち帰って祖国の役に立てたいといふ思ひもあったと思はれる。

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2019年2月22日 (金)

「やまと心」「清明心」について

 

 

 日本民族固有の精神、または、儒教・佛教などが入ってくる以前からの、日本人本来のものの見方・考え方の基底にある感性を『大和心』或いは『大和魂』という。別の言い方をすれば、外来の學問や宗教思想=漢學・佛教教學の知識以前の本来的な日本人の心が大和魂・大和心である。

 

 平安時代になって、それまでより以上に支那思想が崇拝され、佛教が興隆した。そうした時期に「大和魂(やまとたましひ)」という言葉が使われるようになった。「大和魂」という言葉が一番最初に出てくる文献は、紫式部の『源氏物語』である。「大和心」という言葉は赤染衛門の歌に最初に出て来るという。紫式部も赤染衛門両者も女性である。

 

 儒教や佛教の教理・経典を重んずるあまり、日本古来からの素直なる精神・清明心が覆いくらままされつつあったことに対する反省として、この時期に大和魂・大和心という言葉が使われるようになったのであろう。

 

 その『大和心』を短歌形式で表白した歌が次の歌である。

 

「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山櫻花」

 

 近世の國學者・本居宣長の歌である。「大和心をどういうものかと人に問われたら、朝日に美しく映える山櫻だと答えよう」というほどの意である。

 

 「朝日ににほふ山櫻花」は何とも美しい。それが大和心なのだと宣長は言う。朝日に美しく映えている山櫻は理屈なしに美しい。そういう感覚的な美しさを大和心に譬えているのである。そして宣長は、日本人の性格=大和心の本質をなすものは、理知ではなく、素直なる心、鋭敏な感受性を備えた純粋感情であるとした。

 

 神の生みたまいし美しい國に生まれた日本人は、美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」「無我の心」が、日本民族固有の感性・日本人本来の心なのである。それは、理智・理屈・理論ではない。一切の先入観を取り除いた心である。これを別の言葉で「もののあはれ」という。

 

 大和心即ち日本伝統精神は、誰かによって作られた思想體系や理論體系ではなく、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

 

 本居宣長は、『たまかつま五の巻』において、「つひにゆく道とはかねて聞しかどきのふけふとは思はざりしを、契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也、後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことしからずして、いとにくし、……この朝臣(注・在原業平)は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の偽りをあらはして死ぬる也といへるは、ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(『最後には行かなくてはならない死出の道だとは。かねて聞いて知っていたけれど、昨日今日と差し迫っていようとは思わずにいたもの』という歌について、契沖は言った。この歌は人の真實の心であって、教訓とするにもよい歌である。後々の世の人は、死のうとする間際になってものものしい歌を詠み、あるいは道を悟ったことなどを詠む。真實はそうではないので、大変気に入らない。……在原業平朝臣は、一生の真實がこの歌に表現され、後の世の人は一生の偽りを表現して死ぬのだと言ったのは、僧侶の言葉にも似ないで大変に尊いことだ。やまとだましいの人は、僧侶ではあっても、このようにことがあるのだ、というほどの意)と論じている。

 

 『伊勢物語』の結びに据えられている在原業平の「つひにゆく」の歌は、死に直面した時の心をこれ以上素直な言葉はなかろうと思わせるくらい素直に表現している。まさにそのままの心・自然な心・真心の表白である。その真心・そのままの心・素直な心が「やまとだましい」であると宣長は言うのである。

 

「真心」とは、一切の偽りも影も嘘もない、清らかで明るい心である。清らかで明るい心を「清明心」という。それが日本精神即ち大和心である。

 

天智天皇は、「清明心」を次のように歌われている。

 

「わたつみの 豐旗雲に 入日さし 今夜(こよひ)の月夜 清明(あきらけ)くこそ」(大海原のはるかの大空に、大きく豊かな旗のように棚引く雲に入り日がさしている。今宵の月はきっと清らかで明るいであろう)というほどの意である。

 

 何とも大らかで豊かな大御歌である。この天智天皇の大御心こそが日本人の本来的に持っている精神、即ち「大和心」なのである。そして、「清明」という漢字が用いられている。日本人は清らかで明るい心を好むのである。天智天皇は、「夕日」の美しさを見て、美しい月明を期待しておられるのである。 

    

 清明心とは、冴え渡る月の如くに神々しく、清々しく、美しい心である。それが大和魂・大和心である。

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2019年2月19日 (火)

日本人はなぜ桜の花を好むのか

 

 

桜のことを詠んだ代表的な歌は近世の國学者・本居宣長の次の歌である。

 

 敷島の大和心を人問はば 朝日ににほふ山桜花

 

 「大和心をどういうものかと人に問われたら、朝日に美しく映える山桜だと答えよう」というほどの意である。

 

 神の生みたまいし美しい國に生まれた日本人は、美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」「無我の心」が、日本民族固有の精神である。それは、理智・理屈・理論ではない。一切の先入観を取り除いた心である。大和心即ち日本伝統精神は、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

 

 「朝日ににほふ山桜花」の美しさは神々しさの典型である。宣長は、日の神の神々しさを讃えている。そこにわが國民信仰の根幹である太陽信仰(天照大神への信仰)があり、神の命に対する畏敬の念がある。

 

 「真心」とは、一切の偽りも影も嘘もない、清らかで明るい心である。これを「清明心」という。それが即ち大和心である。

 

 日本人はただ単に感覚的に美しいものを好むのではない。日本人の「真心」は一種の厳粛さ・神々しさを伴う。古代日本人にとって、桜の花に限らずすべての花や草木は宗教的・神秘的存在であった。

 

「花」(ハナ)の語源は、端(ハナ)即ち、物の突き出した所、はし(端)であると共に、幣(ハタ)・旗(ハタ)であったという。「幣」とは、神に祈る時に捧げ、また祓いに使う、紙・麻などを切って垂らしたもので、幣帛(へいはく)・御幣(ごへい) とも言う。日本人は、桜の花を素直に美しく感ずる思いと共に、桜の花にある神秘性・神々しさというものに畏敬の念を持った。

 

 日本の伝統的な行事である「お花見」の起源は、生命の盛りである花の下に人間が入ることによって、花の精気が人間に移り、自分自身の生命を豊かにするという信仰である。

 

 日本人は、桜に滅びの美しさを見た。桜はすぐに散ってしまうから、人はなおさらその美しさを感ずるのである。桜が咲いている姿にすぐに散ってしまう影を感じる。桜は、「三日見ぬ間の桜かな」という言葉があるように他の花々よりも咲いている時間が非常に短い。また、雨や風に当たればすぐに散ってしまう。日本人はそういう桜花の「潔さ」をとりわけ好む。これを「散華の美」という。

 

 日本人は、未練がましく現世の命に恋々としないという精神を抱いている。こうした心は、「七生報國」の楠公精神そして神風特別攻撃隊の「散華の精神」に継承されてゆく。 日本人が最も美しいと感じる窮極的なものは、花そのものや花の命と共に、花の命が開き且つ散る「時」なのである。

 

 日本人は、花とは見事に咲き潔く散って行くべきであると考えた。人間もまたそうあらねばならないとした。この世に恋々として生き延びるのはそれ自体が汚れた行為であり、潔くないし、醜いと考えた。

 

 しかし、桜の花の命は、はかなくそして見事に散ってしまえば、それで消滅してしまうのではない。桜の花は散ってしまうのであるが、来年の春になると必ずまた美しく咲く。つまり、花が散るというのは花の命が消滅したのではなく、花の命は必ず甦るのである。肉体は滅びても人の命は永遠である。ただ現世における命には限りがあるということなのである。

 

 桜の花は散ってもまた来年の春に甦る。滅亡の奥に永遠の命がある。それが楠正成公の「七生報國」(七度生まれて國に報いる)の精神である。理屈なしに素直に國のため大君のために命を捨てるという純粋なる精神もまた大和心なのである。生命の永遠を信じているからこそ、潔く散ることをいとわないのである。

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2018年11月26日 (月)

三島由紀夫氏の自決は「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現した

 

 昭和四十五年十一月二十五日、三島氏が自決した際の『檄文』で「待った」という言葉を繰り返した。彼は自然死・病死を待ち切れなかったのである。

 

 三島氏は、『魔群の通過』(昭和二四年)という小説で、自殺願望で作家志望の「主人公・曽我」が他人から自殺について「自然に死ぬのを待ったっておなじことじゃないか?」と言われた時の返答として主人公に、「それが待てますか?」「僕だって胃癌の遺傳を持ってゐるんです。待てれば雜作がないんですよ」「しかし待てますか?」と言わせている。

 

 三島氏は何もかも待ち切れず、武士として、儀式に則って死んだのである。三島氏には、美しい自決の舞台が整っていなければならなかった。あの市谷台上こそ、その舞台であった。

 

『假面の告白』には次のように書かれている。「私は他人の中で晴れ晴れと死にたいと思った。」「人生は舞臺のやうなものであると誰しもいふ。しかし私のやうに、少年期のをはりごろから、人生は舞臺だといふ意識にとらはれつづけた人間が数多くゐるとは思はれない。」と。三島氏は事實この通りに形式を踏んだ死を選んだ。『葉隱入門』(昭和四二)で三島由紀夫氏は、「死を心に當てて萬一のときには死ぬはうに片づくばかりだと考へれば、人間は行動を誤ることはない。」「切腹といふ積極的な自殺は、西洋の自殺のやうに敗北ではなく、名譽を守るための自由意思の極限的なあらはれである。」「生きてゐるものが死と直面するとは何であらうか。『葉隱』はこの場合に、ただ行動の純粹性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定してゐる。それを『犬死などといふ事は、上方風の打ち上がりたる武士道』だと呼んでゐる。」「われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覺に、いつも陥りたがる。しかし『葉隱』が示してゐるのは、もっと容赦のない死であり、花も實もない無駄な犬死さへも、人間の死としての尊嚴を持ってゐるといふことを主張してゐるのである。」と論じている。これは明らかに死の賛美である。死に理屈は要らないとする。死はただ美しいのである。

 

 三島氏が「死」にもっとも接近した機会は、昭和二十年、二十歳の時に、軍隊への召集であった。だが、即日帰郷となってその機会は失われた。それが三島氏の大きな心の傷・負い目・負の遺産となったと言われている。

 

 三島氏は、『假面の告白』で「私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。營門をあとにすると私は駈け出した。荒涼とした冬の坂が村のはうへ降りてゐた。…ともかくも『死』ではないもの、何にまれ『死』ではないもののはうへ、私の足は駈けた。」と書いている。それは「死にたい人間が死から拒まれるといふ奇妙な苦痛」(『假面の告白』)であったという。

 

 以来戦後一貫して三島氏は死に憧れ続け、今日生きていても明日は生きているという保証はない世界に憧れた。虚弱體質ゆえの死からの脱出が、戦後頑健な肉體を作ることを實行させ、さらに「死ではない方」への疾走が、「死」への疾走になっていったのかも知れない。三島氏の若き頃からの「死への願望」がいよいよ極まって極限状況になった時、前述した「日本の傳統的文化意志」が三島氏の精神に甦った。別の言い方をすれば、日本の神々の御稜威が三島氏を通して発現した。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であった。三島氏は、ドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。文士は、「散らぬ桜」を創作し続ける人である。三島氏は文士としての自己の使命は果たし終え、「散る桜」すなわち武士として死んでいくことを決意したのである。

 

 三島氏は文士という言葉をよく使った。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文人」を「文士」ということはあるが、「商人」を「商士」とはいわない。「士」とは立派な男子という意味である。「文士」とは文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。

 三島氏は、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。この「身分の高貴さ」とは、「死を恐れない武士」のことである。

 

 日本民族の傳統的な文化意志において、切腹はまさに美の實現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の實現の最高の形態と言って良い。

 詩歌などの「文」は、いうまでもなく「美」を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、「文」が求めてやまない「美」の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け割腹自決によって最終的に實現したと言える。

 

 愛するものへ命を捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と言える。

 

割腹自決は名誉ある死であると共に、克己心が必要な苦しい死である。三島氏が理想とした美の極致としての自決は、絶望と苦しさからの逃避のための自殺とは全く別次元のものである。

 

三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

戦後の「平和と民主主義」の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。そして、できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、「おのれの美學」のために死ぬなどということはない。

 

 三島氏の自決の決意は、『檄文』の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ」という言葉に示されている。

 

「義のために共に死ぬ」という覚悟は、大東亜戦争中即ち十代の三島氏が信じたものであったに違いない。それは三島氏自身が言った「鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会」以前の時代の「源泉の感情」である。その感情が三島氏に死を決意させたと言える。

 

三島氏は、大東亜戦争において死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪した。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬した。「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現したのが三島氏の自決であった。

 

三島氏は、「戦争で死ぬことができなかった。死に遅れた」という悔恨を持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を「源泉の感情」として生涯持ち続けたと推測される。

 

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2018年11月24日 (土)

三島由紀夫氏における日本傳統的文化意志の発現

 

 

人に圧倒的な感動を与える永遠の価値のある美を、死を免れることのできない地上に生きる人間が創造することは、超人間的な力・神秘的な力・肉體人間以上の力が必要となる。神秘的な力が人にとりつくことによって偉大なる藝術作品が誕生する。もちろん藝術の創作には人間の努力や才能が基本である。しかし、悠久の価値を持つ藝術の創作は努力や才能だけでは不可能である。

 

 「語部」(かたりべ・日本で上代、朝廷に仕えて、古い傳承を暗唱して語るのを職とした人)は、そういう神秘的な存在の力がとりついて「神話」を物語った。そもそも「物語」(ものがたり)の語源は、「もの」(靈的實質・神々の御稜威)を「かたったもの」である。

 

 彫刻・絵画・文藝など偉大なる藝術作品は、一個の肉體人間の能力以上のものがその人を通して発現して創造される。「一個の肉體人間の能力以上のもの」「日本の傳統的に文化意志」である。

 

わが國文學史上、神々の御稜威・日本の文化意志を身を以て発現した人々が数多いる。その代表的存在は、古代における稗田阿禮・柿本人麻呂、中古における紫式部・和泉式部、近世における松尾芭蕉、近代における斉藤茂吉・折口信夫といった人々であろう。戦後日本においては三島由紀夫である。

 

三島由紀夫氏における神々の御稜威・日本の文化意志の発現は、文藝創作の範疇を超えた。文藝創作ではなし得ないことを肉體的行動によって成就した。三島氏においては、小説・戯曲・評論という「文」のみではなく「行動」によって神々の御稜威の発現が行われたのである。三島氏は文字通り文武両道・剣魂歌心の實践者であった。

 

 三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の實現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。三島氏は自己の實人生でそれを實現した。

 

ここで三島氏の言う「散る花」とは肉體のことであり、「散らぬ花」とは文藝のことである。人の肉體は何時か滅んでも、人がのこした藝術作品は不滅だということであろう。

 

 

三島由紀夫氏辞世

 

 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜

 

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

森田必勝氏辞世

 

 今日にかけてかねて誓ひしわが胸の思ひを知るは野分(のわき)のみか は

 

 「益荒男が」の歌は、「日本男児が腰に差している太刀の刀が鞘に合わないために持ち歩くと音がすることに幾年も耐えてきたが今日初霜が降りた」という意である。しかし、「鞘鳴り」というのは単に音がするという物理的な意味ではない。日本には古代から刀には魂(多くの場合蛇・雷の靈、須佐之男命の八岐大蛇退治の神話がある)が宿っているという信仰があった。鞘が鳴るというのはその刀剣に宿っている靈が発動するという意味である。刀が靈力を発揮したくて発動するのを何年間も耐えたということである。三島氏自身『檄文』にあるところの「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ」という三島氏自身の叫びに呼応する歌なのである。

 

 「散るをいとふ」の歌は、「散ることを嫌がっている世の中にも人にも先駆けて散っていくのこそ花であると吹く小夜嵐(夜に吹く強い風)」という意味である。これは端的に言って「散華の美」を歌っている。今の世の中は、繁栄と生命尊重にうつつを抜かして、命を絶つとか國のために生命を捧げるということを嫌がっているが、生命以上の価値即ち日本の傳統と文化そしてその體現者であらせられるところの天皇陛下の御為に命を捧げることこそ真の美しき生き方であり死に方である、という歌である。

 

 「今日にかけて」の歌は、「今日という日にかけたかねてから誓っていた私の胸の思いを知るのは野分(のわき・秋から初冬にかけて吹く強い風)のみであろうか、いやそうではない」という意。誰も分かってはくれないのではないかという孤独感を持ちながらも、いやそうではない誰かは分かってくれると信じて散っていく森田必勝氏の悲しくも切ない心を歌っている。

 

 「今日の初霜」「小夜嵐」「野分」という季節感のある言葉を用いて志を述べているのは、三島・森田両烈士がまさに日本文藝・敷島の道の道統を正しく継承しておられたことを証ししている。

 

 和歌は、日本傳統精神を保持し継承する文藝である。和歌の形式(五七五七七)とそこから生まれる「しらべ」が日本人の心情を訴えるのにもっとも適している。

 

 『萬葉集』以来、歌は「祭り」であり「祈り」であり「鎮魂」である。本居宣長は「物のあはれにたへぬところより、ほころび出て、をのづから文(注・あや。言葉の飾った言い回し。表現上の技巧)ある辭が、歌の根本にして、眞の歌なり。」(『石上私淑言』・いそのかみささめごと。歌論書)と述べている。

 

「もののあはれ」即ち物事に対する感動・自己の魂の訴えを一定の「カタ」におさめて美しく表現するのが歌である。そうした特質を持つ和歌の中で、萬感の思いを全靈を傾けて表白しようという切なさにおいて成立しているのが、「相聞」と「辞世」と「挽歌」である。とりわけ「辞世」は文字通り命を賭した歌である。              

 

現代の危機の一つとして、言葉の乱れということが言われている。これは、情報化社會といわれ活字媒體のみならず様々な情報傳達機能が発達した現代において、言葉を発することが、苦しむこともなくきわめて安易になっていることが原因になっていると思われる。これが現代の腐敗・堕落・混迷の原因の一つである。そして、言葉までもが商品化している。「言靈のさきはふ國」といわれてきた日本において、現代のように言靈があまりにも安易に語られて過ぎている時代はかつて無かった。

 

死に臨んだ時の「言葉」「歌」は即ち「辞世」は命懸けの言靈である。昭和四十五年十一月二十五日の三島由紀夫・森田必勝両氏の自決の際の「辞世」はまさに命懸けの言葉である。

 

「生命尊重のみで魂が死んでしまっている戦後日本」において、三島由紀夫氏自身が放逐された「疎外者」だった。文學もそして変革も、疎外者・流離者から生まれる。現實から受け入れられない人、疎外された人、あるいは現實を嫌悪し拒否する人、自ら現實から脱出した人がすぐれた文學を創造し変革を行う。

 

三島氏は、戦後日本の救済・革新のために、日本の文化的同一性と連続性の體現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは彼の少年時代の〈源泉の感情=祖國への献身、天皇への捨身無我〉への回帰である。

 

 三島氏は歴史の中に生きた高貴な魂であった。日本の文化意志・日本の神々の御稜威を身を以て體現した三島氏の魂は決して過去の存在ではなく、今日の日本の日本人の魂を奮い立たせ覚醒せしめる今日の存在である。そういう意味で三島氏自身もまた日本の神々になられたのである。

  

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2018年9月20日 (木)

和歌は、日本の時間と空間を無限に充たす文藝である

 

中河与一氏は、「古代人との心の交通といふことが次第に困難になる時、和歌形式こそはその形式が決定してゐるために、自由に古代人と心が通じあふことができるのである。すなはち三十一字を知ってゐさへすれば、われわれは…最も自然に、ほとんど何の困難もなく、古代人の心に想到するのである。和歌形式といふもののもつ最も重要な一つの意味がここにある…。」「(和歌は)は古代人と現代人とをむすぶだけではなく、さらに高貴の人々と低き人々とを連結した。吾等は萬葉集の中に天皇をはじめ皇統に属する方々の歌をよむと同時に、下って遊行笑婦の歌をさへそこに詠むのである。大體ヨーロッパに於ては藝術的趣味といふやうなものは、一部の階級にのみ属したものであるが、それが三十一字形式のためにわが國に於ては全體的に流通し、然もこれが民族全體を一つの発想に結びつけるところの役目をしてゐるのである。即ち三十一字は民族の縦と横とを結ぶものであって、その発想の永遠的な聡明さは世界の比類を見ないと云っていい。」(『中河与一歌論集』)と論じてをられる。

 

『萬葉集』の歌を讀むことによりを、今から千数百年昔の日本人のまごころの表白に今日のわれわれが共感し感動することができる。とくに『萬葉集』は貴族や武士や僧侶の歌だけではなく、上御一人から一般庶民・遊女の歌まで収められてゐる。

 

『萬葉集』の相聞歌を讀めば、古代日本人の戀心を知ることができ、防人の歌を讀めば戦争に赴く時の古代日本の若者たちの心を知ることができる。東歌を讀めば当時の東國庶民の天真の心を知ることができる。もちろん、天皇御製を拝承すれば、萬葉時代の天皇様の大御心を知ることができる。古代と現代の心の交通が和歌によって為される。このやうに和歌は、時間的に縦に貫く役割を果たす。時間を超越して神代と古代とを直結する文藝が和歌である。

 

一方、地位や貧富の差・老若男女の違ひ・地域や身分を超えた人と人との心の交通が和歌によって為される。和歌は、空間的に横に貫く役割を果たす。和歌は、地位や身分の上下や違ひも超越して日本人を結んでしまふのである。上御一人から下萬民を直結するものである。

 

つまり、時間と空間の中心点に和歌といふものが立ってゐるのである。時空を超越して、時間的には今と神代と直結する文藝、そして空間的には身分や貧富の差を超越して日本人を結びつける文藝、それが和歌である。永遠の時間と無限の空間を充たす文藝が和歌である。言ひ換へると日本民族を時間といふ縦軸と空間といふ横軸で一つに結び付ける文藝が和歌である。

 

上天皇から下民衆に至るまで創作し、神代より現代に至るまで創作し続けられてきた文藝が和歌である。すなはちわが日本の時間と空間を無限に充たす文藝である。

 

日本人のまごころの表白であり魂の訴へかけである『やまとうた』は、都や中央に住む権力者や勝利者の声ではなく(勿論さういふ人々の歌も含まれるが)、田舎や辺境に生活する庶民といはれる人々や疎外者・敗北者の声が重要な位置を占める。上御一人におかせられても、崇徳上皇・後鳥羽院・後醍醐天皇など辺境にお遷りになられた天皇の御製に感動を呼ぶ素晴らしい御歌が多い。

 

一時期、「小説」や「評論」を「第一藝術」とし、「和歌」や「俳句」を「第二藝術」としてこれを軽んずる傾向があった。また和歌を「奴隷の韻律」などとしてこれを否定する人もゐた。そして和歌や俳句はやがて滅びるとまでいはれた時期があった。しかし、和歌も俳句も未だに滅びてはゐない。

 

「第二藝術論」は、和歌が民衆に愛された定型詩であることを逆に証明してゐる。すなはち和歌や俳句は、一部の専門家のみによって創造される藝術・文藝ではないのである。和歌が、記紀・萬葉集時代から現代にいたるまで滅亡することなく、日本国民全体によって継承され創造されてきたといふこと自體が、日本文藝における和歌の大きさを証明する。

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