2018年11月26日 (月)

三島由紀夫氏の自決は「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現した

 

 昭和四十五年十一月二十五日、三島氏が自決した際の『檄文』で「待った」という言葉を繰り返した。彼は自然死・病死を待ち切れなかったのである。

 

 三島氏は、『魔群の通過』(昭和二四年)という小説で、自殺願望で作家志望の「主人公・曽我」が他人から自殺について「自然に死ぬのを待ったっておなじことじゃないか?」と言われた時の返答として主人公に、「それが待てますか?」「僕だって胃癌の遺傳を持ってゐるんです。待てれば雜作がないんですよ」「しかし待てますか?」と言わせている。

 

 三島氏は何もかも待ち切れず、武士として、儀式に則って死んだのである。三島氏には、美しい自決の舞台が整っていなければならなかった。あの市谷台上こそ、その舞台であった。

 

『假面の告白』には次のように書かれている。「私は他人の中で晴れ晴れと死にたいと思った。」「人生は舞臺のやうなものであると誰しもいふ。しかし私のやうに、少年期のをはりごろから、人生は舞臺だといふ意識にとらはれつづけた人間が数多くゐるとは思はれない。」と。三島氏は事實この通りに形式を踏んだ死を選んだ。『葉隱入門』(昭和四二)で三島由紀夫氏は、「死を心に當てて萬一のときには死ぬはうに片づくばかりだと考へれば、人間は行動を誤ることはない。」「切腹といふ積極的な自殺は、西洋の自殺のやうに敗北ではなく、名譽を守るための自由意思の極限的なあらはれである。」「生きてゐるものが死と直面するとは何であらうか。『葉隱』はこの場合に、ただ行動の純粹性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定してゐる。それを『犬死などといふ事は、上方風の打ち上がりたる武士道』だと呼んでゐる。」「われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覺に、いつも陥りたがる。しかし『葉隱』が示してゐるのは、もっと容赦のない死であり、花も實もない無駄な犬死さへも、人間の死としての尊嚴を持ってゐるといふことを主張してゐるのである。」と論じている。これは明らかに死の賛美である。死に理屈は要らないとする。死はただ美しいのである。

 

 三島氏が「死」にもっとも接近した機会は、昭和二十年、二十歳の時に、軍隊への召集であった。だが、即日帰郷となってその機会は失われた。それが三島氏の大きな心の傷・負い目・負の遺産となったと言われている。

 

 三島氏は、『假面の告白』で「私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。營門をあとにすると私は駈け出した。荒涼とした冬の坂が村のはうへ降りてゐた。…ともかくも『死』ではないもの、何にまれ『死』ではないもののはうへ、私の足は駈けた。」と書いている。それは「死にたい人間が死から拒まれるといふ奇妙な苦痛」(『假面の告白』)であったという。

 

 以来戦後一貫して三島氏は死に憧れ続け、今日生きていても明日は生きているという保証はない世界に憧れた。虚弱體質ゆえの死からの脱出が、戦後頑健な肉體を作ることを實行させ、さらに「死ではない方」への疾走が、「死」への疾走になっていったのかも知れない。三島氏の若き頃からの「死への願望」がいよいよ極まって極限状況になった時、前述した「日本の傳統的文化意志」が三島氏の精神に甦った。別の言い方をすれば、日本の神々の御稜威が三島氏を通して発現した。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であった。三島氏は、ドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。文士は、「散らぬ桜」を創作し続ける人である。三島氏は文士としての自己の使命は果たし終え、「散る桜」すなわち武士として死んでいくことを決意したのである。

 

 三島氏は文士という言葉をよく使った。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文人」を「文士」ということはあるが、「商人」を「商士」とはいわない。「士」とは立派な男子という意味である。「文士」とは文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。

 三島氏は、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。この「身分の高貴さ」とは、「死を恐れない武士」のことである。

 

 日本民族の傳統的な文化意志において、切腹はまさに美の實現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の實現の最高の形態と言って良い。

 詩歌などの「文」は、いうまでもなく「美」を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、「文」が求めてやまない「美」の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け割腹自決によって最終的に實現したと言える。

 

 愛するものへ命を捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と言える。

 

割腹自決は名誉ある死であると共に、克己心が必要な苦しい死である。三島氏が理想とした美の極致としての自決は、絶望と苦しさからの逃避のための自殺とは全く別次元のものである。

 

三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

戦後の「平和と民主主義」の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。そして、できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、「おのれの美學」のために死ぬなどということはない。

 

 三島氏の自決の決意は、『檄文』の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ」という言葉に示されている。

 

「義のために共に死ぬ」という覚悟は、大東亜戦争中即ち十代の三島氏が信じたものであったに違いない。それは三島氏自身が言った「鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会」以前の時代の「源泉の感情」である。その感情が三島氏に死を決意させたと言える。

 

三島氏は、大東亜戦争において死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪した。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬した。「もののふ」の崇高さと誇りと美を體現したのが三島氏の自決であった。

 

三島氏は、「戦争で死ぬことができなかった。死に遅れた」という悔恨を持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を「源泉の感情」として生涯持ち続けたと推測される。

 

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2018年11月24日 (土)

三島由紀夫氏における日本傳統的文化意志の発現

 

 

人に圧倒的な感動を与える永遠の価値のある美を、死を免れることのできない地上に生きる人間が創造することは、超人間的な力・神秘的な力・肉體人間以上の力が必要となる。神秘的な力が人にとりつくことによって偉大なる藝術作品が誕生する。もちろん藝術の創作には人間の努力や才能が基本である。しかし、悠久の価値を持つ藝術の創作は努力や才能だけでは不可能である。

 

 「語部」(かたりべ・日本で上代、朝廷に仕えて、古い傳承を暗唱して語るのを職とした人)は、そういう神秘的な存在の力がとりついて「神話」を物語った。そもそも「物語」(ものがたり)の語源は、「もの」(靈的實質・神々の御稜威)を「かたったもの」である。

 

 彫刻・絵画・文藝など偉大なる藝術作品は、一個の肉體人間の能力以上のものがその人を通して発現して創造される。「一個の肉體人間の能力以上のもの」「日本の傳統的に文化意志」である。

 

わが國文學史上、神々の御稜威・日本の文化意志を身を以て発現した人々が数多いる。その代表的存在は、古代における稗田阿禮・柿本人麻呂、中古における紫式部・和泉式部、近世における松尾芭蕉、近代における斉藤茂吉・折口信夫といった人々であろう。戦後日本においては三島由紀夫である。

 

三島由紀夫氏における神々の御稜威・日本の文化意志の発現は、文藝創作の範疇を超えた。文藝創作ではなし得ないことを肉體的行動によって成就した。三島氏においては、小説・戯曲・評論という「文」のみではなく「行動」によって神々の御稜威の発現が行われたのである。三島氏は文字通り文武両道・剣魂歌心の實践者であった。

 

 三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の實現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。三島氏は自己の實人生でそれを實現した。

 

ここで三島氏の言う「散る花」とは肉體のことであり、「散らぬ花」とは文藝のことである。人の肉體は何時か滅んでも、人がのこした藝術作品は不滅だということであろう。

 

 

三島由紀夫氏辞世

 

 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜

 

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

森田必勝氏辞世

 

 今日にかけてかねて誓ひしわが胸の思ひを知るは野分(のわき)のみか は

 

 「益荒男が」の歌は、「日本男児が腰に差している太刀の刀が鞘に合わないために持ち歩くと音がすることに幾年も耐えてきたが今日初霜が降りた」という意である。しかし、「鞘鳴り」というのは単に音がするという物理的な意味ではない。日本には古代から刀には魂(多くの場合蛇・雷の靈、須佐之男命の八岐大蛇退治の神話がある)が宿っているという信仰があった。鞘が鳴るというのはその刀剣に宿っている靈が発動するという意味である。刀が靈力を発揮したくて発動するのを何年間も耐えたということである。三島氏自身『檄文』にあるところの「我々は四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ」という三島氏自身の叫びに呼応する歌なのである。

 

 「散るをいとふ」の歌は、「散ることを嫌がっている世の中にも人にも先駆けて散っていくのこそ花であると吹く小夜嵐(夜に吹く強い風)」という意味である。これは端的に言って「散華の美」を歌っている。今の世の中は、繁栄と生命尊重にうつつを抜かして、命を絶つとか國のために生命を捧げるということを嫌がっているが、生命以上の価値即ち日本の傳統と文化そしてその體現者であらせられるところの天皇陛下の御為に命を捧げることこそ真の美しき生き方であり死に方である、という歌である。

 

 「今日にかけて」の歌は、「今日という日にかけたかねてから誓っていた私の胸の思いを知るのは野分(のわき・秋から初冬にかけて吹く強い風)のみであろうか、いやそうではない」という意。誰も分かってはくれないのではないかという孤独感を持ちながらも、いやそうではない誰かは分かってくれると信じて散っていく森田必勝氏の悲しくも切ない心を歌っている。

 

 「今日の初霜」「小夜嵐」「野分」という季節感のある言葉を用いて志を述べているのは、三島・森田両烈士がまさに日本文藝・敷島の道の道統を正しく継承しておられたことを証ししている。

 

 和歌は、日本傳統精神を保持し継承する文藝である。和歌の形式(五七五七七)とそこから生まれる「しらべ」が日本人の心情を訴えるのにもっとも適している。

 

 『萬葉集』以来、歌は「祭り」であり「祈り」であり「鎮魂」である。本居宣長は「物のあはれにたへぬところより、ほころび出て、をのづから文(注・あや。言葉の飾った言い回し。表現上の技巧)ある辭が、歌の根本にして、眞の歌なり。」(『石上私淑言』・いそのかみささめごと。歌論書)と述べている。

 

「もののあはれ」即ち物事に対する感動・自己の魂の訴えを一定の「カタ」におさめて美しく表現するのが歌である。そうした特質を持つ和歌の中で、萬感の思いを全靈を傾けて表白しようという切なさにおいて成立しているのが、「相聞」と「辞世」と「挽歌」である。とりわけ「辞世」は文字通り命を賭した歌である。              

 

現代の危機の一つとして、言葉の乱れということが言われている。これは、情報化社會といわれ活字媒體のみならず様々な情報傳達機能が発達した現代において、言葉を発することが、苦しむこともなくきわめて安易になっていることが原因になっていると思われる。これが現代の腐敗・堕落・混迷の原因の一つである。そして、言葉までもが商品化している。「言靈のさきはふ國」といわれてきた日本において、現代のように言靈があまりにも安易に語られて過ぎている時代はかつて無かった。

 

死に臨んだ時の「言葉」「歌」は即ち「辞世」は命懸けの言靈である。昭和四十五年十一月二十五日の三島由紀夫・森田必勝両氏の自決の際の「辞世」はまさに命懸けの言葉である。

 

「生命尊重のみで魂が死んでしまっている戦後日本」において、三島由紀夫氏自身が放逐された「疎外者」だった。文學もそして変革も、疎外者・流離者から生まれる。現實から受け入れられない人、疎外された人、あるいは現實を嫌悪し拒否する人、自ら現實から脱出した人がすぐれた文學を創造し変革を行う。

 

三島氏は、戦後日本の救済・革新のために、日本の文化的同一性と連続性の體現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは彼の少年時代の〈源泉の感情=祖國への献身、天皇への捨身無我〉への回帰である。

 

 三島氏は歴史の中に生きた高貴な魂であった。日本の文化意志・日本の神々の御稜威を身を以て體現した三島氏の魂は決して過去の存在ではなく、今日の日本の日本人の魂を奮い立たせ覚醒せしめる今日の存在である。そういう意味で三島氏自身もまた日本の神々になられたのである。

  

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2018年9月20日 (木)

和歌は、日本の時間と空間を無限に充たす文藝である

 

中河与一氏は、「古代人との心の交通といふことが次第に困難になる時、和歌形式こそはその形式が決定してゐるために、自由に古代人と心が通じあふことができるのである。すなはち三十一字を知ってゐさへすれば、われわれは…最も自然に、ほとんど何の困難もなく、古代人の心に想到するのである。和歌形式といふもののもつ最も重要な一つの意味がここにある…。」「(和歌は)は古代人と現代人とをむすぶだけではなく、さらに高貴の人々と低き人々とを連結した。吾等は萬葉集の中に天皇をはじめ皇統に属する方々の歌をよむと同時に、下って遊行笑婦の歌をさへそこに詠むのである。大體ヨーロッパに於ては藝術的趣味といふやうなものは、一部の階級にのみ属したものであるが、それが三十一字形式のためにわが國に於ては全體的に流通し、然もこれが民族全體を一つの発想に結びつけるところの役目をしてゐるのである。即ち三十一字は民族の縦と横とを結ぶものであって、その発想の永遠的な聡明さは世界の比類を見ないと云っていい。」(『中河与一歌論集』)と論じてをられる。

 

『萬葉集』の歌を讀むことによりを、今から千数百年昔の日本人のまごころの表白に今日のわれわれが共感し感動することができる。とくに『萬葉集』は貴族や武士や僧侶の歌だけではなく、上御一人から一般庶民・遊女の歌まで収められてゐる。

 

『萬葉集』の相聞歌を讀めば、古代日本人の戀心を知ることができ、防人の歌を讀めば戦争に赴く時の古代日本の若者たちの心を知ることができる。東歌を讀めば当時の東國庶民の天真の心を知ることができる。もちろん、天皇御製を拝承すれば、萬葉時代の天皇様の大御心を知ることができる。古代と現代の心の交通が和歌によって為される。このやうに和歌は、時間的に縦に貫く役割を果たす。時間を超越して神代と古代とを直結する文藝が和歌である。

 

一方、地位や貧富の差・老若男女の違ひ・地域や身分を超えた人と人との心の交通が和歌によって為される。和歌は、空間的に横に貫く役割を果たす。和歌は、地位や身分の上下や違ひも超越して日本人を結んでしまふのである。上御一人から下萬民を直結するものである。

 

つまり、時間と空間の中心点に和歌といふものが立ってゐるのである。時空を超越して、時間的には今と神代と直結する文藝、そして空間的には身分や貧富の差を超越して日本人を結びつける文藝、それが和歌である。永遠の時間と無限の空間を充たす文藝が和歌である。言ひ換へると日本民族を時間といふ縦軸と空間といふ横軸で一つに結び付ける文藝が和歌である。

 

上天皇から下民衆に至るまで創作し、神代より現代に至るまで創作し続けられてきた文藝が和歌である。すなはちわが日本の時間と空間を無限に充たす文藝である。

 

日本人のまごころの表白であり魂の訴へかけである『やまとうた』は、都や中央に住む権力者や勝利者の声ではなく(勿論さういふ人々の歌も含まれるが)、田舎や辺境に生活する庶民といはれる人々や疎外者・敗北者の声が重要な位置を占める。上御一人におかせられても、崇徳上皇・後鳥羽院・後醍醐天皇など辺境にお遷りになられた天皇の御製に感動を呼ぶ素晴らしい御歌が多い。

 

一時期、「小説」や「評論」を「第一藝術」とし、「和歌」や「俳句」を「第二藝術」としてこれを軽んずる傾向があった。また和歌を「奴隷の韻律」などとしてこれを否定する人もゐた。そして和歌や俳句はやがて滅びるとまでいはれた時期があった。しかし、和歌も俳句も未だに滅びてはゐない。

 

「第二藝術論」は、和歌が民衆に愛された定型詩であることを逆に証明してゐる。すなはち和歌や俳句は、一部の専門家のみによって創造される藝術・文藝ではないのである。和歌が、記紀・萬葉集時代から現代にいたるまで滅亡することなく、日本国民全体によって継承され創造されてきたといふこと自體が、日本文藝における和歌の大きさを証明する。

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2018年6月22日 (金)

安部龍太郎氏と

   

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安部龍太郎氏と

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2018年6月 4日 (月)

山上憶良が遣唐使への餞の歌に詠んだわが日本独特の「言靈信仰」

山上憶良は「好去(かうこ)好來(かうらい)の歌」と言ふ遣唐使への餞に詠んだ長歌で、

 

「神代より 言ひ傳來()らく そらみつ 倭(やまと)の國は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言靈(ことだま)の 幸(さき)はふ國と 語り繼ぎ 言ひ繼がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり」【神代以来、言ひ傳へられてきたことだが、天皇國日本の神の威徳が厳然としてゐる國、言葉の精靈が働いて幸福にして下さる國であると、語り継ぎ、言ひ継いできた。今の世の中の人も悉く、目の前に見てゐるし知ってゐる】

 

と歌った。 

 

日本民族は、言葉を神聖視してきた。日本人は、萬物は言葉=神によって成ってゐると信じた。即ち言葉が事物の本質であるといふことを本然的に信じてゐた。

 

「言靈の幸はふ國」とは「日本は言葉の靈が栄える國であり、言葉の靈の力によって生命が豊かに栄える國である」といふ意味である。日本人は、言葉に靈が宿ると信じ、言葉には生命を持ち、言葉を唱へることによってその靈の力が発揮されると信じた。

 

『御託宣』『神示』は神靈が籠り神威が表白された言葉である。『祝詞』は人間が神への訴へかけた言葉であり、『歌』も人間の魂の他者への訴へである。『祝詞』にも『歌』にも靈が籠められてゐる。『祝詞』を唱へ『歌』を歌ふと、そこに宿る言靈が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言靈の幸はふ」といふことである。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教は、神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、題目や称名念仏など特定の言葉を唱へることが基本的行事である。

 

折口信夫氏は、「(言靈信仰とは)古くから傳ってゐる言葉の持ってゐる靈力・魂といふものを考へてゐるのであり、それが言靈、つまり言語の精靈である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・靈魂があると考へた。それが言靈である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の靈魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる靈魂が働きかけると信じてゐたのである」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

「言靈のさきはふ國」と言はれるわが國においては、『祝詞』や『歌』は何よりも大切な神への捧げものとされた。日本文藝の起源は、神への訴へかけである。「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。

 

やまとうた・和歌は神聖な文藝であると考へられてゐた。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝とりわけ「やまと歌」の起源である。他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。

 

古代日本人は、言葉の大切さ、偉大さを本然的に強く自覚し信じ、言葉の靈力によって、幸福がもたらされてゐる國が大和の國であると信じてゐた。

 

山上憶良は、唐といふ外國に対する「皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國」たる天皇國日本の國家意識の表白として、遣唐使への餞の歌にわが日本独特の「言靈信仰」を歌ったのである。山上憶良が近代的意味での「社会派歌人であった」とか、「支那文化にとっぷりとつかった歌人であった」といふ決め付けは訂正されねばならない。

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2018年4月 9日 (月)

日本文藝の起源

 

『うた』の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。

 

高崎正秀氏は、「歌は空(ウツ)・現(ウツツ)・うつろ・うつけなどと同義で、神憑りの夢幻的な半狂乱の恍惚状態を指すことから出た語であり、同時にまた、裏・占・心(ウラ)訴(ウタ)ふなどとも同系語で、心の中の欲求を神に愁訴するものであった。」(『伊勢物語の意義』)と論じてをられる。

 

わが國の文藝の起源は神への祭祀における舞ひ踊りと共に歌はれた「歌」であることは、出土してきてゐる土偶によって分かるといふ。

 

ことばを大切にし、ことばに不可思議にして靈的な力があると信じたがゆゑに「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、歌は何よりも大切な神への捧げものとされたのである。それが祝詞となったのである。祝詞も声調・調べが整ってゐる。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教において神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、特定の言葉を唱へることが基本的行事である。すべて言葉を唱へる行事である。祈りとは、経典や聖書、祈りの言葉そして題目や念仏も同じである。

 

歌をはじめとした日本文藝の起源は、神への訴へかけである。和歌は神聖な文藝であると考へられていた。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源なのである。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。

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2017年12月24日 (日)

わが國の傳統的な美感覚「もののあはれ」とは

「あはれ」という言葉は、「もののあはれ」という日本人特有の美感覚の基である。「もののあはれ」の「もの」は、外界の事物。「あはれ」は、自分の感情。日本の文學精神の主流になった感性であり、自然・芸術・恋愛など人生の出来事に触発されて生ずるしみじみとした趣き・情感のことと定義される。「もののあはれ」という言葉が最初に登場したのは『土佐日記』の船出の悲しさを語ったところである。

 

藤原俊成(『新古今和歌集』の代表的歌人)は、

 

「恋せずば人は心もなかるべしもののあはれもこれよりぞ知る」(恋をしないのは人の心がないのと同じだ。もののあはれも恋をすることによって知る、という意)

 

と詠んだ。近世の國學者・本居宣長はこの俊成の歌を解説して、「大方歌の道はあはれの一言に帰す。さればこの道の極意を尋ぬるにまたあはれの一言よりほかになし。伊勢物語も源氏物語もあらゆる物語もその本意を尋ぬればあはれの一言にてこれをおほふべし」と論じてゐる。

 

宣長は「もののあはれ」は日本文芸の一番大事な基本精神であると説いた。宣長は、「よきことにまれ、あしきことにまれ、心の動きてああはれと思はるることがもののあはれ」と説いた。そして宣長自身

 

「ことしあればうれしたのしと時々に動くこころぞ人のまごころ」(『玉鉾百首』)

 

と詠んだ。

 

紀貫之が執筆した『古今和歌集』の序は、「鬼神をもあはれと思はせるものが和歌である」と説いている。「もののあはれを知る心」とは、外界の事物に対する自分の心の態度のことであり、自然な心の動である。それが日本文芸の原点である。

 

しかし「もののあはれ」をやや客観的に見て美しい調べにして表現しなければ芸術としての歌にはならない。自分の情念を客観視して調べに乗せて表現し他者に美しく傳へ他者をも感動させる文藝、それが和歌である。

文藝とは哲理や理論・教条を説くものではない。「もののあはれ」を訴えるものである。人間が物事に感動した思ひといふものを、和歌や物語の形式で美しく表現する、それが文芸である。

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