2017年12月 5日 (火)

「もっとも害を与える人は、もっとも善いことをしようと努めている人だ」

オスカー・ワイルド(一八五四~一九〇〇。イギリスの劇作家・小説家。世紀末文学の代表的作家で、芸術至上主義者。代表作に戯曲『サロメ』がある)に、「もっとも害を与える人は、もっとも善いことをしようと努めている人だ」という言葉がある。「自分の行っていることが正義だ」と信じ込み実行する勢力や個人、とりわけ権力者が、殺戮を行い、世の中を暗黒にし、独裁政治を生み、國民から自由と繁栄を奪うという意味であろう。

 

自由で幸福な世の中とは、公正(フェア)な世の中ではあっても、ある人の唱える「正義」を絶対のものとして民衆に押しつける世の中ではない。独裁者は必ず「正義」を旗印として独裁政権を手に入れる。レーニン、スターリン、ヒトラー、毛沢東、カストロ、金日成などは皆そうだった。習近平・金正恩のも然りだ。

 

真に正義を尊重し正義の実現を目指す人は、そしてそれが権力を持つ人であればなおさら、自由で柔軟で大らかな精神を持っていなければならない。正義や人間の幸福は法律や権力のみによって実現されるものではない。法律や権力のみによって実現された正義の世の中とはロボットが動く世の中と同じである。

 

「正義」の呪文を唱えながら自由を否定する狂気は、暗黒と専制と殺戮の世の中をもたらす。それが一七八九年革命直後のロベスピエール独裁下のフランスであり、革命後の旧ソ連であり、共産支那であり、南北分断後の北朝鮮である。行き過ぎた教条に支配されることなく、自然に國民を正しき道を歩ましめることが必要である。

 

「モリカケ問題」とやらで、正義の味方面をして安倍総理を非難攻撃している日本共産党・立憲民主党は、「もっとも害を与える人は、もっとも善いことをしようと努めている人だ」の典型であろう。

| | トラックバック (0)

2017年12月 4日 (月)

立憲民主党の動きとエーリッヒ・フロムの主張

ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者エーリッヒ・フロム(1900323 - 1980318)は、その著『自由からの闘争』(1941年刊行)で「近代ヨーロッパおよびアメリカの歴史は、ひとびとをしばりつけていた政治的・経済的・精神的な枷から、自由を獲得しようとする努力に集中されている。自由を求める戦いは、抑圧されたひとびとによって戦われた。かれらは守るべき特権をもっているものたちに対抗して、新しい自由を求めた。そしてある階級が支配からの自由を求めて自分自身のために戦ったとき、かれらは人間の自由そのもののために戦っているかのように信じこんでいた。…しかし長いあいだ現実につづいた自由を求める戦いのなかで、ある段階では抑圧に抗して戦った階級も、勝利を獲得し新しい特権をまもらなければならないときがくると、自由の敵に味方した」「私は社会主義が欺瞞的な言葉となったロシアを忘れる事ができない。というのは、生産手段の社会化はすでに実施されているけれども、実際に強力な官僚制が巨大な人民大衆を操っているからである。これは必然的に、たとえ政府の支配が大多数の民衆の経済的利益に有効であろうとも、自由や個人主義の発達を妨害する。こんにちほど、言葉が真理をかくすために悪用されることはかつてなかった。協調の裏切りは宥和とよばれ、軍事的侵略は攻撃にたいする防御としてカムフラージュされ、弱小国家の征服は友好条約の名でおこなわれ、全人民の残虐な抑圧は社会主義の名のもとにおこなわれる。デモクラシー、自由、個人主義という言葉もまた、この悪用の対象になる」と論じている。

 

わが国の最近の「リベラル」を標榜する政治勢力は、フロムのこの主張をよくかみしめるべきである。リベラルを標榜しつつ共産党と共闘して自民党政権と戦うことはフロムの言う「自由の敵に味方する」ことになるのである。

 

フロムの「軍事的侵略は攻撃にたいする防御としてカムフラージュされ、弱小国家の征服は友好条約の名でおこなわれ、全人民の残虐な抑圧は社会主義の名のもとにおこなわれる」という主張は、まさにロシア(旧ソ連)、共産支那のやったことを予見している。

 

あってはならないことだが、リベラルを標榜する勢力が、自民党を打倒した後、共産党主導の専制国家が現出する危険があるのである。枝野幸男は、「われわれは保守だ」とか「右でも左でもない、前へ」などと言っているそうだか、國體破壊の革命政党とたとえ院内であろうと共闘することのどこが「保守」なのか、何処が「左でもない」のか、冗談も休み休み言ってもらいたい。

| | トラックバック (0)

2017年12月 3日 (日)

國體破壊を目的とする日本共産党

日本共産党は、大正十一年(一九二二)七月十五日、ソ連の世界侵略共産化のための謀略組織であるコミンテルン日本支部として結成された組織であり、本来ソ連の手先なのである。「自主独立」などということは口が裂けても言えないのだ。

 

結党以来、「天皇制打倒」を叫んできた日共が、何故今ごろになって、「天皇制は憲法上の制度であり、存廃は将来、情勢が熟した時に国民の総意によって解決される」などということを言い出したのか。それは言うまでもなく、天皇・皇室を敬愛している圧倒的多数の国民を騙すための方便である。

 

日本共産党という共産主義革命を目指す政党が「君主制」を肯定することは絶対にありえない。われわれは決して騙されてはならない。

 

日共の「綱領」をよく読めばそれは明らかである。「綱領」には、「憲法上の制度であり、存廃は将来、情勢が熟した時に国民の総意によって解決される」と書かれている。つまり、「天皇制は窮極的には廃止したいのだが、今は情勢が熟していないので、共産党が権力を握るまでは廃止しない」と当たり前のことを言ったまでのことである。共産党は権力を掌握したら、いわゆる「天皇制」を否定した「共産主義憲法」を制定するのである。共産党が「天皇中心の日本國體」を容認したわけでは絶対にない。

 

それは、「綱領」の『前文』に「党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴になるという現制度は、民主主義及び人間平等の原則と両立するものではなく…民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」と明確に書かれていることによっても明らかである。

 

共産主義革命によって君主制が打倒された国々は、民主主義も人間平等もまったく実現していない。それどころか、独裁専制政治による差別虐待の体制になっている。この事実を見れば、共産党が目指す國體破壊がいかに誤っているかを証明している。

| | トラックバック (0)

2017年12月 1日 (金)

共産主義は自由を圧殺する

レーニンは、「プロレタリア独裁とは、直接に暴力に依拠し、どんな法律にも束縛されない権力のことである。プロれタリアートの革命的独裁とは、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの暴力によって戦いとられ支持されるところのどんな法律にも束縛されない権力でもある」と論じた。

 

これが共産主義革命思想の根幹なのである。共産党は、「リベラル」どころか「自由」とは圧殺する政党であることは明白である。人間が本来的に享受すべき「自由」を圧殺する思想・システムが共産主義なのである。法の支配も三権分立も立憲政治も根底から否定されるのだ。

 

共産主義集団の指導者、共産主義国家の独裁者が、反対者に対して苛酷にして残虐なる弾圧・粛清を行ってきているのは、かかる理論に基づくのである。習近平も金正恩もその典型である。

 

共産主義は「平等」を求めるという。平等の社會を実現するためには、暴力を厭わないし、人間の自由も圧殺する。従って、「自由」と「平等」は相矛盾する。ゲーテは、「平等と自由を共に約束する立法者は、夢みる空想家であるか、それともペテン師である」と言った。共産主義と自由は最初から理念的に無縁なのである。

 

向坂逸郎氏は、「社会主義社会は、むろん計画社会である。しかし、封建社会と違っているのは国民が生産手段を社会の所有にして、意識して計画的に運営するという点である。国民によって選ばれた中央機関によって計画される、組織された社会である」(『資本論入門』)と論じている。

 

旧ソ連も共産支那も北朝鮮も「国民によって選ばれた中央機関」によって計画され組織された社会ではない。第一まともな選挙制度が無い。共産党幹部が組織し統制する権力機関・官僚によって動かされる社会が社会主義社会である。

 

それは、強力なる官僚国家であり、一党独裁の統制社会である。そして権力の移動は選挙ではなく、暴力・テロ・粛清によって行われる。国民の自由は圧殺される。しかも共産主義が目指すところの「平等」もまったく実現しない。一部の党幹部が肥え太り、富裕階層を形成している。これが共産国家の実態である。

| | トラックバック (0)

2017年11月27日 (月)

日本共産党はリベラルでは絶対にない

 今回の衆院選では、自民、公明、希望、維新4党を「保守」、共産、立民、社民三党を「リベラル」という色分けが偏向メディアよって行われた。この色分けは、対決の構図を作るための色分けにすぎなかった。

 

「寛容」「自由」とは無原則ではない。「寛容」「自由」を否定する思想を厳しく否定する思想である。「リベラル」などと言われている勢力が「自由」を否定する勢力であることを正しく認識すべきである。思想抹殺的態度への徹底的不寛容が「自由」であり真の「リベラル」である。

 

三島由紀夫氏は、「一党独裁というもの(注・共産党のこと)は終極的に天皇を否定するだろう、天皇を否定するれば、我々の文化の全体性を映す鏡がなくなるだろう、天皇は最終的に破壊されれば、我々の文化のアイデンティティはなくなるだろう、そういう危機感を持った時に、天皇に排除する力がないのだから我々が立ち上がって排除する。それが私は天皇に対する忠義だと思っております」(『文化防衛論』)と論じた。

 

天皇のいまさない國に文化は生まれない。日本伝統文化は破壊される。日本文化そして国民の自由を破壊する勢力には不寛容でなければならない。日本文化の中核である天皇・國體を否定する思想は徹底的に否定すべきである。

 

また、自由のない國に文化は生まれない。ロマノフ王朝時代のロシアには文化はあった。プーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイという巨匠・文豪が生まれた。チャイコフスキー、ムソルグスキー、ボロディン、コルサコフ等の音楽家が活躍した。ソ連の七十年間の独裁専制体制下においては、そうした文豪・大作曲家は生まれなかった。そしてロシアの文化は疲弊した。

 

ただし、音楽の世界でただ一人と言っていい世界的作曲家がいた。ショスタコビッチである。そのショスタコビッチも共産党権力によって迫害され弾圧された。私はかつて次の歌を詠んだ。

 

「重き曲 ショスタコビッチ 第五番 自由圧殺の 響きとし聞く」

 

共産主義政党及び国家の権力が、国民の権利・自由を圧迫し制限し奪うのは、階級闘争による権力奪取によって平等な社会を作るという幻想に基く。そして「権力は必ず腐敗する。絶対的権力は絶対的の腐敗する」という原則通りの事態を生む。それはソ連・共産支那・北朝鮮の歴史と現実が証明している。

 

「ブルジョワ民主主義(ブルジョワ【中産階級・市民階級】による民主主義を指す用語。主に社会主義や共産主義などの立場から、自由主義【資本主義】社会の議会制民主主義に対して批判的な意味を持って使用されている)はプロレタリア民主主義によって乗り越えられるべきであり、ソ連は地球上において唯一のプロレタリア民主主義を旗印とする国であるから、この国こそは、民主主義共同戦線の尊き星である」という幻想は、スターリン独裁体制下のソ連、毛沢東独裁体制下の共産支那の暴虐と侵略、北朝鮮の金日成・金正日・金正恩三代の暴虐よって完全に打ち砕かれた。

 

ところがわが日本にはいまだに共産主義に幻想を抱いている人たちが存在する。特にメディアの中に存在する。そういう者共が日本をおかしくしているのだ。

 

共産主義の言う「生産手段の公有化」とは、経済の国家権力による統制である。それは、政治・文化・宗教・思想などあらゆるものに対する国家権力による統制となる。そして国民の自由は失われる。

 

マルクスやレーニンは、国家は廃絶すると説いたが、共産主義革命の成功した國は、全く逆の結果を招いた。レーニンは、「われわれは、目標としての国家の廃止の問題については、けっして無政府主義者とくいちがっていない。われわれは、この目標を達成するために、搾取者に反対して国家権力という道具、手段、方法を一時的に使用する必要があると主張する。それはちょうど、階級を揚棄するためには被抑圧階級の一時的独裁が必要なのと同様である」(『国家と革命』)と論じた。

 

しかし権力を奪取した共産党は、ロシアにおいても支那においても北朝鮮においても、「一時的」では全くなく、長い間独裁権力を振い続けてきている。「国家は死滅し廃絶する」と言いながら、国家権力を強大化専制化してきた。

マルクスレーニン主義は科学的社会主義などでは微塵もなく、まさに空想的非科学的思想である。そしてそれが二十世紀おいて人類に塗炭の苦しみをもたらした。

 

自由を圧殺してきた思想が共産主義であり、自由を圧殺してきた政党が共産党であり、自由を圧殺してきた国家が共産国家である。それは歴史が証明している。

 

日本共産党が「リベラル政党」などというのは全く嘘である。日本共産党こそ、日本国民から自由を奪う専制独裁主義政党である。そして日本の文化を破壊する政党である。こういう政党に対して、我々国民は徹底して不寛容でなければならない。

 

| | トラックバック (0)

2017年11月 2日 (木)

國體破壊を目指す日本共産党

 

日本共産党の「綱領」には、「(「天皇制」は)憲法上の制度であり、存廃は将来、情勢が熟した時に国民の総意によって解決される」と書かれている。つまり、「天皇制は窮極的には廃止したいのだが、今は情勢が熟していないので、共産党が権力を握るまでは廃止しない」「天皇制廃止論が多数になれば憲法を改正して天皇制を廃止する」という事である。日本共産党が権力を掌握したら、日本國體は破壊されるのである。それは「綱領」の『前文』に「党は、一人の個人あるいは一つの家族が『国民統合』の象徴になるという現制度は、民主主義及び人間平等の原則と両立するものではなく…民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ」と明記されていることによっても明らかである。

 

「天皇制廃止」を目指す日本共産党は、日本國體破壊せんとする政党であり、国民の自由と繁栄を奪う政党である。共産党は「国民が主人公の政治を実現する」などと宣伝している。しかし、共産主義革命によって君主制が打倒された国々は、民主主義も人間平等もまったく実現していない。それどころか、独裁専制政治による差別虐待の体制になっている。共産支那や北朝鮮の実態を見ればそれはあまりにも明らかである。この事実を見れば、共産党の主張は全く誤りであることは明白である。共産主義国家とは、共産党の独裁者が主人公になり、国民は永遠に虐げられる社会であることは、歴史と現実が証明している。

 

日本共産党のみならず、これまで世界中の共産党および共産主義政治組織は、「君主制は資本主義体制の背骨である」としてこれを打倒することを目標としてきた。それは、ロシア革命においてロマノフ王朝を打倒し、皇帝一族を惨殺して以来の恐ろしき体質である。

 

しかし、共産主義革命が行なわれ、君主制が廃止された国では、君主制以上の独裁専制政治が行なわれた。ロシアでは共産革命の後、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフという党最高指導者による独裁専制政治が行なわれた。

 

支那も、辛亥革命で清朝は打倒されたが、共産革命の後、毛沢東・鄧小平・江沢民・習近平による独裁専制政治が行なわれてきている。

 

ロシアや支那の君主制と、わが国の「天皇中心の國體」とは、全くその本質を異にしており、同列に論じることは出来ない。しかし、ロシアと支那は君主制打倒の後、党独裁の専制政治が行なわれたことは歴史的事実である。

 

北朝鮮は文字通り、「金日成王朝」と言われているように、金日成・金正日・金正恩の三代にわたる残酷・凶暴なる専制政治が行なわれている。北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」などという長ったらしい国名を付けているが、決して「人民が主人公の民主主義国家」ではなく、金正恩一族のみが専横を極め金一族を批判する国民は迫害され粛清される国である。また、金一族を批判しなくとも国民が栄養失調で死んで行く国なのだ。

 

共産主義体制とは、プロレタリア独裁=共産党独裁=党最高指導者専制という政治である。『君主制度の国は民主的でなく国民の自由は奪われ、国民が差別されるが、共産主義国家は民主的であり国民平等の社会が実現する』というのはまったく大ウソである。共産主義体制の国こそ、国民の自由と繁栄は奪われ、共産党幹部以外の国民は差別され虐げられる反民主的な専制国家なのだ。

 

もしわが国において戦争直後、共産革命が成功していたらどうなっていたか。徳田球一が独裁者となり、共産党による専制政治が行なわれ、悲惨な国となっていたであろう。そしてその後、徳田と野坂参三と宮本顕治による凄惨な権力闘争が繰り広げられ、数多くの人々が粛清され、殺され、収容所に送られたであろう。そればかりではなく、そうした権力闘争に旧ソ連や共産支那や北朝鮮が介入し、内乱となり、日本国の独立すら失われた可能性もある。ともかく、今日の日本のような自由民主体制と繁栄は実現しなかったことは火を見るよりも明らかである。

 

『気を付けよう、甘い言葉と暗い道』という標語があるが、共産主義者の「平和」「戦争反対」「民主主義」などという甘い言葉に騙されると、文字通り「暗い道」「悲惨な道」を歩むことになるのである。

 

| | トラックバック (0)