2019年11月18日 (月)

『記紀』に語られ『萬葉集』に歌われた日本国民精神に回帰し、それを現代において開顕せしめることが大切である

山上臣憶良、痾(やまひ)に沈みし時の歌一首

「士(をのこ)やも空(むな)しかるべき萬代に語り續(つ)ぐべき名は立てずして
  
右の一首は、山上憶良臣が痾に沈みし時、藤原朝臣八束、河邊朝臣東人をして、疾める状(さま)を問はしめき。ここに憶良臣、報(こたへ)の語已に畢り、須(しまらく)ありて涕を拭ひ、悲しみ嘆きて、この歌を口吟(うた)ひき」。

【士】男子のこと。【やも】は反語。【空しかるべき】ムナシは、何もしないこと。【萬代に】後々の世まで。【名は立てずして】名を立てないままで。【名】名声・名誉。
通釈は、「男児たる者、何もしないで空しく生涯を終えて良いものか。萬代までも語り継ぐに足りる名を立てないで」という意。

「痾に沈みし時」とは、重い病になった時。回復する見込みのない病になった時に、力を振り絞って詠んだ歌。

藤原朝臣八束は、霊亀元年(七一五年)―天平神護二年三月十二日(七六六年四月二五日))は、藤原北家の祖・参議藤原房前の三男。官位は正三位・大納言、贈太政大臣。後の摂関家になる人は、全てこの人の子孫といふう。聖武天皇の御信頼を得ていた。

河邊朝臣東人は、奈良時代の官吏。神護景雲元(七六七)年、正月十八日、従五位下。宝亀(ほうき)元年(七七〇)石見守(いはみのかみ)となる。

【報の語】病状を傳え、見舞いに感謝する言葉。

「後書き」の通釈は、「右の一首は、山上憶良臣が病気が重くなった時に、藤原朝臣八束が、河邊朝臣東人を遣わして容態を尋ねさせた。そこで憶良臣は返事し終わってしばらくしてから、涙を拭い、悲嘆して、この歌を口ずさんだ」という意。

 憶良はこの時、七十四歳。天平五年に薨去した。初句と二句で言いたいことを言い切って、一気呵成に歌っている。死の床にあっても、氣力が充実している。前半と後半が調和していて、緊張感がある。 

天平時代即ち聖武天皇の御代の官人は、何を生き甲斐をしていたかというと、名を立てることであった。男子として名を立てることを誇りとしていた。

憶良は、七十歳を過ぎて死期が迫っている時に、「特に名を立てることもしなかったなあ」と、反省し悔やんでいる。これまでの憶良の人生には、男児としての気概があったのか、ということへの反省を歌った。

「名と恥の文化」と言われるように、日本人は名誉を守りと恥辱を嫌うことを非常に大切にした。中世の武家社会の家訓には、名誉と恥辱を強調している。名誉を傷つけられ辱めを受けると、命懸けで戦うのが武士のみならず多くの日本人に共通する意識である。

「萬代に語り續ぐべき」と歌われているように、縦に永遠に続く生命は家名である。先祖から受け継いできている名誉とは即ち自分自身の名誉である。

フランシスコ・ザビエルの書簡に、日本人を誉めて、「私は色々外国を周って来たけれども、異教徒の中で、日本人ほど優れた民族を探すことはできない」「日本人は富よりも名誉を重んじる。これはヨーロッパでは見ることができない。しかも名誉への関心は武士に限ったことではなく、日本人一般に然りである。そして日本人は、侮蔑や軽侮の言葉を決して忍ぶことはできない。名誉への関心が強いから傲岸であるかというと、決してそんなことはなく、一般に善良で礼儀正しく、慇懃で道理にかなったことは何でも受け入れる」と書いている。

天照大神と須佐之男命の『誓約(うけひ)』の神話を拝しても、自分が嘘をついたと思われるのを一番嫌った。

名誉を重んじ恥を知るということが日本人の倫理観できわめて重要であった。憶良はそういう倫理観を歌っている。

憶良は、豊かな学識があったのにもかかわらず、人生においてそれをうまく生かし切れなかったという悔いがあったのかもしれない。しかし憶良は、東宮侍講、伯耆守、筑前守を歴任したのだから、官吏として不遇であったとは言えない。

「丈夫(ますらを)は名をし立つべし後の代に聞き繼(つ)ぐ人も語り續(つ)ぐがね」

大伴家持が、歌の道の先輩である山上憶良の「をのこやも…」の歌に和して詠んだ歌。憶良の慷慨悲憤の辞世に熱血児家持が感動して詠んだ。

【語り續ぐがね】ガネは意志や命令を表す文の下に現れその理由は目的を表す助詞。語り継ぐためにという意。

通釈は、「丈夫は名を立てるべきだ。後の世に伝え聞く人も語り伝えてくれるように」という意。

今日のわが國も、道義の頽廃・外圧の危機が顕著になり日本國民の心の中に不安と空虚感が広まっている。歴史と傅統の國日本は、崩壊しつつあると言っても過言ではない。終戦後、わが國に対する精神の奥底に達する破壊行為が、昭和二十年から六年八ヵ月の占領期間に行われた。大東亜戦争後の戦勝國による日本弱體化策謀が愈々その成果があがり花開き實を結んでいると言える。

萬葉時代と同様あるいはそれ以上の激動と危機の時期にある今日においてこそ、『記紀』に語られ『萬葉集』に歌われた日本国民精神に回帰し、それを現代において開顕せしめることが大切である。それこそが、現代の危機打開の最高の方策である。 

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2019年10月14日 (月)

今日思ったこと

テレビのニュースなどを見ていて、この人が出て来るとムシャクシャする、腹が立つという人が何人かいます。共産党の議員はみんなそうですが、中でも、幹部会委員長 志位和夫、書記局長 小池晃の二人です。立憲民主党では代表代行 長妻昭、幹事長 福山哲郎、幹事長代行 辻元清美です。最近これに愛知県知事 大村秀章が加わりました。テレビ仮面に物をぶつけたくなります。


以前は、テレビなどに登場されると安心感を覚える政治家がいました。平沼赳夫氏、奥野誠亮氏、そして都知事の頃の石原慎太郎氏です。最近はとんとそういう政治家はいなくなりました。さみしいことです。

和田政宗、城内実両氏などが期待できるかと思います。河村たかし名古屋市長には頑張ってもらいたいと思います。

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2019年9月 6日 (金)

戦後日本全体を覆ってきた精神は「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」

 三島由紀夫氏は言う。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である。」と(反革命宣言)。

 革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろそうという精神が國民に横溢している。それを煽り続けているのがマスコミである。

 三島由紀夫氏は、『瀧ヶ原分とん地は第二の我が家』(昭和四五年九月二五日発表)という文章で、「ここでは…利害關係の何もからまない眞の人情と信頼を以て遇され、娑婆ではつひに味はふことのない男の涙というものを味はった。私にとってはここだけが日本であった。娑婆の日本が失ったものがことごとくここにあった。日本の男の世界の嚴しさと美しさがここだけに活きてゐた。われわれは直接、自分の家族の運命を氣づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運營について憂へた。……ぢかに足で踏みしめる富士山麓の日本の大地の足ざはりを以て、日本の危機と困難と悲運について考へることができた。……私は、ここで自己放棄の尊さと嚴しさを教へられ、思想と行爲の一體化を、精神と肉體の綜合の厳しい本道を教へられた。」

 これは、自決直前の昭和四十五年九月十日から十二日まで、陸上自衛隊富士學校瀧ヶ原分屯地學生五十名と共に体験入隊した時の文章である。

 三島氏は、祖國防衛のために一身を捧げる訓練をする自衛隊の中にのみ、「利害關係の何もからまない眞の人情と信頼」「自己放棄の尊さ」即ち眞の倫理精神、道義精神が生きており、戦後日本が失ったものがことごとくあるとし、自衛隊分屯地の中だけが日本である、と断じている。この三島氏の文章は、現代社會の腐敗・混乱・堕落の根源にあるものを示唆している。

 軍と武を否定した「平和と民主主義の國・戦後日本」には、眞の日本も、眞の道義精神も、武士道も、大和魂も、なくなっているでのある。    

 三島氏はさらに言う。「文學・藝術の故郷は非合法の行動の暗い深淵に求められていくことになるであらう。…法はあくまでも近代社會の約束であり、人間性は近代社會や法を越えてさらに深く、さらに廣い。かつて太陽を浴びてゐたものが日陰に追ひやられ、かつて英雄の行爲として人々の稱贊を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになった」(行動學入門)と。

 長い日本の歴史の中で、須佐之男命・日本武尊という神話時代の英雄、さらに中古中世の鎮西八郎為朝、源義経、さらに近世・幕末における赤穂四十七士、井伊直弼を撃った水戸脱藩浪士の行動、さらに大東亜戦争における特攻隊員を始めとした兵士たちの行為などは、「英雄」と讃えられた。しかし、戦後日本は、そうした英雄の行為を「非合法」「反ヒューマニズム」として裁き日蔭に追いやった。

 「國のため敵を撃つ」「大君の御為に身命を捧げる」「仇なすものを討つ」などということは、「平和と民主主義」と絶対相容れない「行為」として、「日蔭」に追いやられ続けている。

 大和魂・武士道を否定し、「生命の尊重」が最高の道徳とされ、「平和と民主主義」を謳歌している今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかった凶悪にして残虐なる犯罪、凶悪なる殺人事件が続発している。

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台状で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴えられた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまい、頽廃と残虐の時代になってしまった。

 『檄文』に曰く「軍の名を用ゐない軍として、日本人は魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである」。

 魂の腐敗と國家の欺瞞は、軍國主義國家であったという戦前の日本にはあり得なかったような、人命軽視という言葉すら空しくなるような、残虐なる殺人が日常茶飯事になった現代社會を現出させた。

われわれ神洲清潔の民は、強者の立場をとらなければならない。「一人立つ」の精神がなければならない。眞の独立自尊の精神がなければならない。「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、大和魂=日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。須佐之男命・日本武尊そして防人以来の武士道精神・もののふの心に回帰しなければならない。以上は、自分自身への叱咤激励として書いた文である。        

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2019年9月 5日 (木)

萬葉集に見るもののふの心

 萬葉集と武と変革

 萬葉集の中心の時代は天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてであって、決して太平の世ではなかった。大化改新・壬申の乱・白村江の戦いという大変革・大建設・大国難の時代に生まれた。変革・建設・国難と和歌とは切っても切れない関係にある。萬葉集には大変革・大建設・大国難の時代の息吹きに満ち満ちた日本民族の精神があった。萬葉の精神とは、国家の大事・国民精神の根柢をつくような大事しきりに起こる中で、わが国民が如何にして國體の神髄を守り、神と天皇に仕え奉ったかが表白されている。歌の調べの美しさも、慟哭も、みなこの一点より解さねばならない。したがって、歌を学ぶとは、歌の道に伝わった日本伝統精神を踏み行うことなのである。
 
 もののふとは
 
もののふとは、武人・武士のことやまとことば(和語すなわち漢語や西洋などからの外来語に対し、日本固有の語)で言った言葉であり、雅語(和歌などに使う、平安時代風の言葉)的表現である。

「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「物部」の音韻が変化した語が「もののふ」である。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。物部氏という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だったという。

物部の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(群れ・組。世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。古代日本では、霊的力即ち巫術(呪術(じゆじゆつ) の一つ。超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動するもの)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧するものが「もののふ」(物部)であった。

もののふのみち(漢語<昔、中国から伝来して日本語となった語。更に広く、漢字で組み立てて音(おん)で読む語>でいうと武士道)は、物部、大伴の二氏によって明確なる史実として表現せられた。

物部氏は饒速日命の後裔で武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。これが後世武士の起こる濫觴とされている。用命天皇の崩御直後(用命二年・五八七)、仏教受容を唱えた蘇我氏の馬子と物部守屋が争い破れて物部氏は滅びた。大伴氏については後に述べる。

なお、「もののふ」を漢語(漢字で組み立てて音(おん)で読む語。↔和語)では、「武士」(ぶし)というのは、折口信夫の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕える者であるからという。

もののふの道(武士道)とは、古代日本(古事記・萬葉)においては、宮廷を守護すること即ち皇室に忠誠を尽くすという精神である。それが原義である。後に述べる日本武尊の御生涯、そして笠金村の次の歌にそれは明らかである。(笠金村は伝未詳。作歌年代の明らかな歌は、霊亀元年(七一五・元正天皇の御代)から天平五年(七三三・聖武天皇の御代)まで)

「もののふの臣(おみ)の壮士(をとこ)は大君の任(まけ)のまにまに聞くといふものぞ」
(三六九・軍人として朝廷に仕える男は、大君の仰せの通りに御命令の通りに聞き従うものであるぞ)

大伴宿禰三中(系統未詳。遣新羅副使・摂津班田使<律令制下民に授けられた田んぼである口分田を民に分かち与えるために派遣された官吏>などを歴任。宿禰とは、天武天皇の代に定めた八色姓(やくさのかばね) の第三。もと、臣下を親しんで言った呼び名。姓とは、わが国の上代で、氏族の尊卑を表すための階級的称号。臣(おみ)・連(むらじ) ・宿禰(すくね) など数十種がある。)が、部下であった丈夫部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)が首を縊って自殺した時に詠んだ歌には、次のように歌われている。

「天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(もののふ)と いはるる人は 天皇(すめろぎ)の 神の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ちさもらひ 内の重に 仕へ奉(まつ)りて 玉かづら いや遠長く 祖(おや)の名も 繼ぎゆくものと 母父(おもちち)に 妻に子供に 語らひて 立ちし日より…」
(四四二・天雲の垂れ伏す遠い国のもののふといわれる人は、天皇が神の如くにおられる皇居で、外の回りを立って警備し、奥庭におそばでお仕え申し上げ、(玉かづら・長居に掛る枕詞)ますます長く祖先の名を継ぎ行くものなのだと、父母に、妻に子供に語って出発した日より…) 

故郷を出発する時の朝廷奉仕の確固たる覚悟が、上司の三中によって歌われている。「天雲の 向伏(むかふ)す国」は、「遠い国」につく慣用句で自殺した丈夫部龍麻呂の出身地のこと。東国の出身であったらしい。

「もののふ」はこの場合は原文(萬葉仮名)に「武士」とあり、皇居を警備する武官を念頭に置いた。天皇の神の御門は現御神信仰に基づく言葉。

「さもらふ」は様子を伺い機を待つという意であるが、この「さもらひ」の女性語が「さむらふ」(目上の人に側に仕えること)。この言葉から「さむらひ」(武士)という言葉が生まれた。

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2019年4月 3日 (水)

千駄木庵日乗四月二日

午前は、諸事。

 

午後は専門家来宅。ケーブルテレビなどのメンテナンス。

 

この後は、在宅して、原稿執筆の準備、原稿執筆など。

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2019年1月27日 (日)

軍事と祭祀-神功皇后と斉明天皇の子ご事績を仰ぎ奉りて

神功皇后が新羅に進軍される時、航海の神であられる底筒男・中筒男・上筒男の三柱の神(住吉大神)が御託宣をお下しになり、「今まことにその國を求めむと思ほさば、天つ神地(くに)つ祇(かみ)、また山の神と河海の諸神(もろかむ)たちまでに悉に幣帛(ぬさ)奉り、我が御魂を船の上にませて、真木の灰を瓠(ひさご)に納()れ、また箸と葉盤(ひらで)とを多(さは)に作りて、皆皆大海に散らし浮けて、度(わた)りますべし」(『古事記』・天地の神たち、また山の神、海河の神たちにことごとく幣帛を奉り、私の御魂を御船の上にお祭り申し上げ、木の灰を瓠に入れ、また箸と皿とをたくさん作って、ことごとく大海に散らし浮かべてお渡りなさるが良い)と討伐の方法を示された。

 

斎明天皇が率いられた軍團が百済救援のために船出をする時も、これと同じやうな祭事が行なはれたのであらう。

 

文學の発生は、神への祝詞・唱へ言である。神にものごとを訴へ祈る人間のひたすらなる営為が歌を発生させたのである。

 

古代日本では、祭事を以て戦場に臨み、敵軍を守る精靈を圧伏した。古代のいくさは武の戦ひであったと共に、祈り・靈力の戦ひであったといへる。戦士を「もののふ」といふ。「もののふ」の「もの」は、「物の怪」「物語」「物狂ひ」「物忌み」の「もの」と同じで「靈」のことである。古代における戦ひは、靈力を以て敵を圧倒することが第一であった。

 

折口信夫氏は、「後代の軍人は、武器をもつ事を主として考へてゐるやうに見えるが、ものゝふは、神の爲事をしたのであって、力の根元は神にあった。『ものゝふ』といひ、或は『ものゝべ』といひ、同じ語の音韻變化から、後に分れては来てゐるが、もとは、意味が動揺してゐた。この團體は、神に仕へる時には、靈魂を扱ふ團體とも稱せられるべきものとなり、宮廷の生活に妨げを爲す魂(もの)防ぐ爲事を持った。『ものゝふ・ものゝべ』の『もの』は即、靈魂を指して居るのである。『べ』(部)は、職業團體を意味する」(『農民短歌史序説』)と論じてゐる。

 

『陸海軍人に下し給へる勅諭』に「神武天皇躬つから大伴・物部の兵ともを率ゐ」と示されてゐるやうに、物部氏は軍事を担当する氏族であったが、それは同時に日本傳統信仰の祭祀も重要な役目であった。だから、佛教の流入に反対したのである。

 

ともかく、わが國においては、靈的力・信仰の力が軍事力の基礎である。それは古代のみならず今日に至る迄のわが國の傳統である。

 

斎明天皇は、皇極天皇の重祚であらせられる。皇極天皇は、祭り主としてのご使命を強く発揮あそばされ、日本の神々への祭祀を盛んに行なはれた。神を祭り、神に祈り、神のお告げどおりに多くの建設を行はれ、百済大寺・飛鳥板蓋宮・吉野離宮そして壮大な祭祀場などを造営された。

 

皇極天皇が即位された年(五九四)の六月以来、わが國は旱魃に悩まされた。七月には、民衆も僧侶も雨乞ひの祈りを行ったが、効果はなかった。そこで、八月に、皇極天皇が南淵の川上に行幸され、雨乞ひの祈りを天に捧げられると、雷鳴と共に雨が降って来たといふ。その雨は五日間も降り続き、民衆は大喜びで、皇極天皇への敬慕の思ひが高まったと傳へられる。

 

斎明天皇七年七月、斎明天皇は、出陣中の九州福岡の朝倉宮で崩御された。御年六十八歳であらせられた。

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2018年11月10日 (土)

防人の歌のますらをぶり

 

 防人とは、国土防衛の兵士のことである。古代において、新羅が唐を背景としてわが国を侵略する危険があった。これに対してわが国は、太宰府を置いて、九州と壱岐・対馬二島を管理せしめ侵略軍を防がんとした。このために東国諸国の国民から選抜し、筑紫・壱岐・対馬で守備の任にあたらせた。それが防人である。

 

 『萬葉集』にはその防人たちが詠んだ歌が収められてゐる。防人の歌は、大伴家持が兵部少輔としての職掌柄、諸国の部領使たちに命じて防人たちの歌を収集したものである。 

 

 「大君の 命かしこみ 磯に触り 海原渡る 父母を置きて」

 

 助丁丈部造人麻呂<すけのよぼろはせつかべのみやつこひとまろ>の歌。「大君の仰せをかしこんで、任務を果たすため、磯に触れながら海原を渡ります。父母を国許に残しまして」といふ意。

君に忠・親の孝の道義精神が歌われている。「萬葉集」には、防人たちが家族や戀人たちとの離別の悲しさを歌った歌が数多く収められている。しかし、「大君の命」をかしこむ心は絶対である。それが「もののふ」のみならず日本国民の最高の倫理である。

 

 「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」

 

 下野の国の防人・火長今奉部與曾布<かちゃういままつりべのよそふ>の歌。「防人としての任務につく今日からは、最早我が身のことは一切顧みないで、ふつつかながら大君にお仕へ申し上げる兵士として私は出発致しますといふ意。「醜」とは身の卑しさを言うよりも、大国主命に別名葦原色許男(しこお)の「しこ」と同様に勇猛と解釈する説もある。御楯は大君のために矢面に立つ者の意。

 

火長とは十人の兵隊の長。十人を一火として炊事を共にさせた。與曾布には大君の醜の御楯としての光栄・自負心・矜持・歓喜がある。故に父母・妻・子を顧みないのである。この歌も「海ゆかば…」と同様に千古万古に国民の胸に躍る決意の響きがある。

 

 阪東武者といわれる東人は、常に野にあって勇猛であった。武士の語源が「野に伏す」であることにも関連する。第四十八代・称徳天皇の神護景雲三年(七六九)に、朝廷守護のために東人を召された時の「詔」で、「この東人は常にいはく額には箭(や・矢)は立つとも背には立たじといひて、君を一心に護るものぞ」と宣せられた。東国武士は忠勇義烈であり、卑怯未練の振る舞いがないと仰せになっているのである。

 

東国武士が勇猛なのは、神代よりの伝統である。甲信越に勇者が出るのは、信濃の諏訪に建御名方神が祭られており、鹿島神宮に建御雷神、香取神宮に經津主神が祭られているからである。だから、東国人が防人として出発した時に、「鹿島の神を祈りつつ」と歌ったのだ。

 

 「あられ降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に 吾は來にしを」

 常陸の国の防人大舎人部千文<おほとねりべのちふみ>の歌。「鹿島の神に祈   りつつ天皇の兵士として私は来たのだぞ」といふ意。

「あられ降り」は「鹿島」に掛る枕詞。あられが降るとかしましいからという意。

 「鹿島の神」即ち鹿島神宮は、茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する建御雷神(タケミカヅチ)を祭神とする。建御雷神は、邇邇藝命降臨の際、先に天降って国土を平定された軍神。敬神愛国武勇の歌。

 

「天地の 神を祈りて 幸矢(さつや)貫(ぬ)き 筑紫の島を さして行く吾は」

 下野の国の防人・火長大田部荒耳<おほたべのあらみみ>の歌。「天地の神に   祈って、矢を身に帯びて筑紫の方を目指して行くのであるといふ意。

 

 「幸矢」とは狩猟に用いて効果ある矢のこと。「貫き」とは矢を身に帯びること。これは天神地祇に祈りつつ勇気を振り起こして、防人として出発していく精神を歌っている。「さして行く吾は」に歌の調子を強くする効力がある。神の守りを信じて勇んで征途につくますらをの心がよく歌われている。

 

「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本の武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。武士道は仏教から発したものでもなく、儒教から発したものでもない。古事記・萬葉の歌々を見ても明らかな如く、日本伝統的な中核精神(神道)から発した。主君に対する忠誠と名誉が根幹である。新渡戸稲造は、吉田松陰の

 

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

 

といふ歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた」(「武士道」)と論じてゐる。

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2018年10月16日 (火)

「ますらをぶり」について

「ますらをぶり」は、大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 

「剣太刀 いよよ研ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さやけ)く負ひて 來しその名ぞ」

 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨け  よ)という意。研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。

 

 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」を詠んだ。「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。興奮した歌いぶり。

 

 この長歌と反歌には、三大思想が詠まれている。一、祖先を尊び家柄を重んじる。二、忠孝一本の思想。三、名を重んじ、家名を重んじる。反歌はそれを歌っている。これは、大伴一門の伝統的忠誠・尊皇思想を歌っただけでなく、わが国民精神を歌ったと言える。

 

 『族に喩す歌』には、史書が描かない真の歴史を歌いあげ、天孫降臨すなわち肇国のはじめからの精神を貫こうとした。それは、降臨された天孫に仕え、代々の天皇に仕えた大伴氏の勤皇の誇りであった。「剣太刀いよよ研ぐべし」という武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」という赤誠心詠んだ。この歌は、神代以来忠誠を旨として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促した。この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、心肝を吐露し、熱誠を披瀝した血の出るような声である。名を重んずる心が歌の句の間に溢れている。

 

 「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが国の重要な道徳観念である。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。「清明心」「清き心」の伝統は、日本の倫理思想の中に力強く生きている。清さとは、一面において清く明らかなさを求め、あっさりとしていて、名誉・利益などに執着しないさまである。

 

 天智天皇御製、

 

「渡津海の 豐旗雲に 入り日さし 今夜の月夜 清明(あきらけく)こそ」

(海空に、豊かに旗の如くたな引く雲、それに入り日がさしている。今夜の月夜は明らかなことであろう。)

 

 「清々しい」というほどの心にこの「清明」の文字をあてた心が大事である。清明(汚れなく・清く・くもりなく・明らけき心)にあこがれる心が日本人の心である。

 

 山上憶良の武の精神

 

「士(をのこ)やも 空(むな)しかるべき 萬代に  語り繼ぐべき名は立てずして」(九七八・男児たるものが空しく朽ち果ててよいものか。何時何時までも語り伝えられるに足りる名は立てないで)

 

 憶良は大宝年間に遣唐使として徒唐した。学問は漢和に亘り、聖武天皇が東宮の頃に侍講として奉仕し、筑前守となり、大伴旅人の知遇を受ける。七十歳で帰京、七十四歳で亡くなる時の辞世歌。

 

 名を立て、名を惜しみ、名を重んずる心が歌われている。「身を立て名をあげ…」という『仰げば尊し』が今歌われているかどうか。憶良が病に沈んで最後が近くなった時に胸中からほとばしり出た男子の本心を歌った慷慨悲憤の辞世。憶良は名をあげる機会に接しなかったことを悲しんでいる。しかし憶良は、こうした歌をのこしたことによって、名を後世にのこすことができた。人の胸を打つ。彼がいかに自分の名を揚げようと努力していたかが窺われる。

 

 聖武天皇の天平五年(七三三)のある日、藤原八束(不比等の第二子房前の第三子。大納言。後の摂関家は全て八束の門から出た。この歌のときは二十代後半から三十代と推測される)の使いのお見舞に謝して後暫くして涙を拭って悲しみ嘆じてこの歌を口ずさんだという。七十四歳の人生を振り返っての感慨である。春秋に富む藤原八束への激励であったかもしれない。

 わが国の武士道の徳目の一つに、「廉恥(心が清らかで、恥を知る心がつよいこと)心」があった。日本は名と恥の文化といわれている。

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2018年7月 1日 (日)

防人の心

 

 和歌は、天皇と国民をつなぐ大きな絆である。わが国最古にして最大の和歌集である萬葉集は、上は天皇から下は一般庶民の歌(遊女の歌もある)まで収録さている。萬葉歌の一首一首にわが国の古代人の信仰・思想・生活感情・美感覚があますところなく表現されている。萬葉集は、わが国の伝統精神・日本民族の中核精神を和歌という定型文学で表現した一大アンソロジーであり、わが国の伝統的な民族精神を知る上で、記紀と並んで、まことに大切な文献である。記紀はわが国民族精神が語られている文献であり、萬葉集はわが国民族精神が歌われている文献である。

 

 萬葉集巻二十には、九十三首の防人の歌が収められている。防人とは、唐・新羅のわが国への侵攻に備えるために、筑紫・壱岐・対馬に配置された兵士のことで、わが国が百済に送った救援軍が白村江で敗北した翌年の天智天皇二年(西暦六六三)に配置された。諸国の軍団の正丁(せいてい・二十一歳から六十歳の公用に奉仕した男子)のうちから選ばれて三年間の任務についた。天平二年以降は、特に勇壮を以て聞こえた東国(遠江以東の諸国)の兵士が専ら派遣された。大陸及び朝鮮半島との緊張関係は、約千三百年前から今日まで変わらずに続いているということである。

 

 防人の歌を収集し後世にのこすという偉大な事業を行ったのは大伴家持である。家持が、防人に関する事務を管掌する兵部少輔(ひょうぶのしょうふ・兵武賞の次官)の任にあった天平勝宝七年(七五五)に、筑紫に派遣される諸国の防人たちが難波に集結した。家持は防人たちの歌を収集しようと考え、諸国の部領使(ぶりょうし・防人を引率した役人)たちを煩わして防人たちの出発の日の詠、道中での感想を詠んだ歌を提出してもらった。中には、妻などの家族の歌を記憶していて、それを提出する防人もいたという。 

 

 防人の歌は、防人の率直な心境や東国庶民の生活感情を知り得る貴重な歌である。天皇国日本の永遠を願いながら遠く旅立つもののふの決意を表明した歌であり、生きて故郷へ帰ることができない覚悟した者たちの歌である。当時における辺境の地の素朴な歌ではあるが、日本文化・文学の基本である宮廷文化(みやび)への憧れの心があり、君への忠、親への孝、人への恋心が表白されている。

 

 一人一人がそれぞれの立場で個性的表現をしているが、全体として国のため大君のためにわが身を捧げるという共通の決意が歌われている。天皇への無限の尊崇・仰慕の念と敬神の心、そして愛する父母や妻子への思いが生々しい情感として歌われている。

 

 つまり、日本人の最も基本的にして永遠に変わることなき道義精神・倫理観を切々と歌っているのである。東国の庶民は都に生活する貴族などと比較すれば教養や学識においては劣るものがあるかもしれないが、天皇・国家・家族を思う心は純真で深いものがある。東国の庶民である防人の歌には、古代日本の豊かな精神・純粋な感性がある。

 

 「今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」 (防人の任を仰せつかった今日よりは、一切を顧みる事なく、不束ながら大君の尊い御楯として出発致します。私は)

 

 下野の(今日の栃木県)火長今奉部與曾布(かちょういままつりべのよそふ)の歌。火長とは十人の兵士を統率する長。

 

 もっとも代表的な防人の歌である。「醜」とは醜いという意ではなく、大君に対し奉り自分を謙遜して言った言葉で、「不束ながら」或いは「数ならぬ」という意。葦原醜男神(あしはらのしこおのかみ・大己貴神の別名)の「醜」と同じ用法で、「力の籠った、荒々しい強さを持ったものの意」とする説もある。

 

 「御楯」は楯は矢・矛・槍から身を守る武具であるが、大君及び大君が統治あそばされる日本国土を守る兵士のこと。大君にお仕えする兵士であるから「御」という尊称をつけた。

 

 出征する時の勇壮・凜然とした固い決意を格調高く歌っている。この歌の心は一言で言えば上御一人に対する「捨身無我」である。そうしたきわめて清らかにして篤い尊皇の心がふつふつと伝わってくる。しかも、押し付けがましいところがない、さわやかな堂々たる歌いぶりの重厚な歌、と評価されている。                   

 

 このほかにも、防人の歌には感動を呼ぶ歌が多い。そのいくつかを記してみたい。

 

 「わが妻はいたく戀ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず」

 (私の妻はとてもわたしを恋い慕っているらしい。飲む水にも妻の面影が見えてとても忘れられない)   

 

 「父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)く在(あ)れていひし言葉ぜ忘れかねつる」(父母が私の頭を掻き撫ぜて無事であれよと言った言葉を忘れることができない)  

 

 「わが母の袖持ちなでてわが故に泣きし心を忘らえぬかも」(わが母が着物の袖を持って涙を拭いながら出発する私のために泣いて下さった心を忘れることができない)

 

 「防人に行くは誰(た)が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しき物思(もひ)もせず」(防人の妻の歌。防人に召されて行くのは誰の夫ですかと物思いもしないで尋ねている人はうらやましいことです)

 

 これらの歌は自分の父母や妻や夫を切々と思う歌である。素直な感情を何の技巧も用いる事なくそのまま歌っているのでなおさら大きな感動を呼ぶ。

 

 「あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に吾は來にしを」  

 (鹿島の社に鎮まります建御雷神に武運長久を祈り続けて天皇の兵士として私は来たのだ)

 

 常陸の國那珂郡の防人・大舎人部千文(おおとねりべのちぶみ)の歌。「あられ」は鹿島に掛る枕詞。あられが降る音はかしましいので鹿島に掛けた。「鹿島の神」は鹿島神宮に祭られている武神・建御雷神(たけみかづちのかみ・武甕槌神とも書く)の御事。建御雷神は、天孫降臨に先立って出雲に天降られ、大国主命に国譲りを交渉せられた神であらせられる。鹿島神宮の御創祀は、神武天皇御即位の年と伝えられる。「皇御軍」は天皇の兵士という意味。天皇の兵士・皇軍という意識は、近代になってつくり上げられたのではなく、千三百年の昔よりわが日本の庶民に受け継がれてきているのである。

 

 同じく大舎人部千文の歌に、

            

 「筑波嶺(つくばね)のさ百合の花の夜床(ゆどこ)にも愛(かな)しけ妹ぞ晝もかなしけ」(筑波山の百合の花のように夜の床の中でもいとしい妻は、昼間でも愛しくてたまらない)

 

 まことに素直にして率直に自己の心情を吐露した歌である。そしてそれを萬葉集という公の歌集に、政府高官たる大伴家持の手によって堂々と収められたのである。今日の頽廃的な肉体文学・性欲文学と全く異なった健康的な歌である。

 

 この二首は、敬神愛国の「公の思い」と、妻を愛する「私の思い」とが、一人の作者によって歌われている。ここに萬葉の歌の素晴らしさがある。古代日本決して権力国家ではなかった。天皇を中心とした大らかな信仰共同体がわが日本の本来の姿即ちわが國體なのである。

 

 「天地の神を祈りて幸矢(さつや)貫(ぬ)き筑紫の島をさして行く吾は」

 (天神地祇に祈りを捧げ、武具を整えて筑紫を目指して行くのだ。私は。)

 

 下野の國の防人の歌。「幸矢」は、山の幸を獲る矢すなわち狩猟に用いる矢のこと。「貫き」は、矢を靫(ゆぎ・矢を入れて背に負う器具)に入れること。

 この歌は、「あられ降り鹿島の神を祈りつつ」と同じく、敬神愛国の精神を吐露した歌である。防人の歌は、尊皇敬神の志を述べながら、同時に父母を慕い妻子を愛する自然の人間感情を素直に歌っている。ここに古代日本人らしい「まことごころ」の大らかさ・深さがある。

 

 日本武士道の淵源は、記紀に記された須佐之男命・神武天皇・日本武尊の御事績にある。この御精神の継承し踏み行ったのが防人たちだったのである。

 

 防人の歌に限らず萬葉歌は、理論・理屈ではなく、日本人の魂に訴える「歌」によって、日本人の中核精神・伝統信仰・倫理観を今日の我々に教えてくれているのである。まことに有難きことと言わねばならない。また、当時は既に聖徳太子の時代の後であるから仏教がわが国に浸透していたはずであるが、萬葉集全体、特に防人の歌には、崇仏の歌が全く無い。    

                                

 尊皇愛国・国のために身を捧げることが日本人の道義の基本である。萬葉集とりわけ防人の歌には、日本民族の道義精神・倫理観の中核たる、「天皇仰慕・忠誠の精神」「神への尊敬の思い」「父母への孝行の心」が素直に純真に高らかに歌われている。現代日本の混迷を打開し、道義の頽廃を清め祓い、祖国を再生せしめる方途は、萬葉の精神への回帰にあると確信する。

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2018年3月22日 (木)

ますらをぶり=武士道と剣とは一體である

もののふのこころ・ますらをぶりとは、清明心と表裏一體の精神であり、天皇のため國のためにわが身を捧げるという「捨身無我」の雄々し精神でもある。その精神の体現者が景行天皇の皇子・日本武尊であらせられる。「たけるのみこと」とは猛々しさを表す御名である。

 

日本武尊の捨身無我の精神は、後世の武士にも強く生かされる。日本武尊は、武士道精神・日本倫理思想の祖であらせられる。

 

日本武尊御歌

 

「孃女(おとめ)の 床の辺(へ)に 吾が置きし つるぎの大刀 その大刀はや」(乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ)

 

日本武尊は、景行天皇の命により九州の熊襲建を平定して大和に帰られるが、さらに東國平定を命令され、それを終えた帰りに、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)に、叔母君であった倭姫命から授けられた草薙の劔を預けて出発され、熊煩野(三重県亀山市という)で急病になった時の辞世の御歌である。

 

愛する美夜受姫に預けた守護霊たる神剣から離れていく自分の命を見つめながら歌った哀切極まりない絶唱である。剣を置いて出発されたのが間違いのもとという神話傳説である。この御歌は乙女への愛と武の心が渾然一體となっている。そしてその奥に天皇への戀闕の心がある。

 

この御歌には、恋愛詩と英雄詩が一つに結合融和して現れている。この精神こそ、戦いにも強く恋にも強い大和民族の原質的民族性で、日本武士道の本源となっている。そのご精神をやまと歌で表白されたのである。これを「剣魂歌心」という。日本武尊は、上代日本の武人の典型であると共に詩人の典型であらせられた。日本の英雄は歌を愛した。ますらをぶりは優美さを否定するものではない。

 

新渡戸稲造氏は、吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、國民および個人を動かしてきた」(武士道)と論じている。新渡戸稲造氏はさらに、「(注・武士道」については)精々口傳により、もしくは数人の有名なる武士や學者の筆によって傳えられたる僅かの格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる立法たることが多い」と論じてゐる。

天皇の日本國統治のご精神は「三種の神器」に表象されている。「三種の神器」は、皇霊が憑依すると信じられ、日本天皇の國家統治言い換えれば日本民族の指導精神の象徴である。「三種の神器」は皇位の「みしるし」であり、御歴代の天皇は、御即位と共にこの神器を継承されてきた。

 

鏡(八咫鏡・やたのかがみ)は「澄・祭祀・明らかなること・美意識・和御魂・太陽崇拝」の精神を表象し、剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)は「武・軍事・たけきこと・克己心・荒御魂・鉄器文化」の精神を表象し、玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)は「和・農業・妙なること・豊かさの精神・幸御魂・海洋文化」を表象している。祭祀・軍事・農業を司りたまう天皇の御権能が「三種の神器」にそれぞれ表象されている。また、知(鏡)・仁(玉)・勇(剣)とも解釈される。これは別々の観念として傳えられているのではなく、三位一體(三つのものが本質において一つのものであること。また、三者が(心を合わせて)一體になること)の観念である。

 

とりわけ「剣」は武勇、そして克己の精神を象徴している。『日本書紀』の「仲哀天皇紀」に、天皇の軍が筑紫に進軍したのを歓迎して筑紫の県主五十迹手が、「この十握剣(とつかのつるぎ)を堤(ひきさげ)て、天下(あめのした)を平(む)けたまへ」と奏上したと記されている。剣は天下を平らげる武力を表しているのである。

 

前述した日本武尊の御歌を拝して明らかな如く、古代日本における劔・矛・弓などの武器は、鎮魂の祭具であり神事的意味を持つ。八千矛神(多くの矛を持つ神)は武神であると共に呪術的機能を持った神であった。弓は弦を鳴らして鎮魂する。

 

ますらをぶり=武士道と剣とは一體である。剣は殺傷の武器(いわゆる人斬り包丁)ではない。日本刀=剣は製作過程からして既に神道祭式の宗教儀式になっている。刀鍛冶は職人にして単なる職人ではなく、朝から斎戒沐浴して仕事(これも仕えまつるということ)にかかる。仕事場に榊を立て、しめ縄を張り巡らせて、その中で仕事をする。

 

剣の製作は、神の魂が籠るものを作るのであるから神事であるのは当然である。わが國においては武器が、倫理精神の象徴・神社における礼拝の対象となっているのである。「刀は忠義と名誉の象徴」「刀は武士の魂」として大切にされたのもその根源はこうした信仰にある。

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