2018年11月10日 (土)

防人の歌のますらをぶり

 

 防人とは、国土防衛の兵士のことである。古代において、新羅が唐を背景としてわが国を侵略する危険があった。これに対してわが国は、太宰府を置いて、九州と壱岐・対馬二島を管理せしめ侵略軍を防がんとした。このために東国諸国の国民から選抜し、筑紫・壱岐・対馬で守備の任にあたらせた。それが防人である。

 

 『萬葉集』にはその防人たちが詠んだ歌が収められてゐる。防人の歌は、大伴家持が兵部少輔としての職掌柄、諸国の部領使たちに命じて防人たちの歌を収集したものである。 

 

 「大君の 命かしこみ 磯に触り 海原渡る 父母を置きて」

 

 助丁丈部造人麻呂<すけのよぼろはせつかべのみやつこひとまろ>の歌。「大君の仰せをかしこんで、任務を果たすため、磯に触れながら海原を渡ります。父母を国許に残しまして」といふ意。

君に忠・親の孝の道義精神が歌われている。「萬葉集」には、防人たちが家族や戀人たちとの離別の悲しさを歌った歌が数多く収められている。しかし、「大君の命」をかしこむ心は絶対である。それが「もののふ」のみならず日本国民の最高の倫理である。

 

 「今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」

 

 下野の国の防人・火長今奉部與曾布<かちゃういままつりべのよそふ>の歌。「防人としての任務につく今日からは、最早我が身のことは一切顧みないで、ふつつかながら大君にお仕へ申し上げる兵士として私は出発致しますといふ意。「醜」とは身の卑しさを言うよりも、大国主命に別名葦原色許男(しこお)の「しこ」と同様に勇猛と解釈する説もある。御楯は大君のために矢面に立つ者の意。

 

火長とは十人の兵隊の長。十人を一火として炊事を共にさせた。與曾布には大君の醜の御楯としての光栄・自負心・矜持・歓喜がある。故に父母・妻・子を顧みないのである。この歌も「海ゆかば…」と同様に千古万古に国民の胸に躍る決意の響きがある。

 

 阪東武者といわれる東人は、常に野にあって勇猛であった。武士の語源が「野に伏す」であることにも関連する。第四十八代・称徳天皇の神護景雲三年(七六九)に、朝廷守護のために東人を召された時の「詔」で、「この東人は常にいはく額には箭(や・矢)は立つとも背には立たじといひて、君を一心に護るものぞ」と宣せられた。東国武士は忠勇義烈であり、卑怯未練の振る舞いがないと仰せになっているのである。

 

東国武士が勇猛なのは、神代よりの伝統である。甲信越に勇者が出るのは、信濃の諏訪に建御名方神が祭られており、鹿島神宮に建御雷神、香取神宮に經津主神が祭られているからである。だから、東国人が防人として出発した時に、「鹿島の神を祈りつつ」と歌ったのだ。

 

 「あられ降り 鹿島の神を 祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に 吾は來にしを」

 常陸の国の防人大舎人部千文<おほとねりべのちふみ>の歌。「鹿島の神に祈   りつつ天皇の兵士として私は来たのだぞ」といふ意。

「あられ降り」は「鹿島」に掛る枕詞。あられが降るとかしましいからという意。

 「鹿島の神」即ち鹿島神宮は、茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する建御雷神(タケミカヅチ)を祭神とする。建御雷神は、邇邇藝命降臨の際、先に天降って国土を平定された軍神。敬神愛国武勇の歌。

 

「天地の 神を祈りて 幸矢(さつや)貫(ぬ)き 筑紫の島を さして行く吾は」

 下野の国の防人・火長大田部荒耳<おほたべのあらみみ>の歌。「天地の神に   祈って、矢を身に帯びて筑紫の方を目指して行くのであるといふ意。

 

 「幸矢」とは狩猟に用いて効果ある矢のこと。「貫き」とは矢を身に帯びること。これは天神地祇に祈りつつ勇気を振り起こして、防人として出発していく精神を歌っている。「さして行く吾は」に歌の調子を強くする効力がある。神の守りを信じて勇んで征途につくますらをの心がよく歌われている。

 

「今はこう」「今はこれまで」と悟った時、日本の武士は、まっしぐらに顧みることなく死ぬことを潔しとした。これが、日本的死生観である。武士道は仏教から発したものでもなく、儒教から発したものでもない。古事記・萬葉の歌々を見ても明らかな如く、日本伝統的な中核精神(神道)から発した。主君に対する忠誠と名誉が根幹である。新渡戸稲造は、吉田松陰の

 

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

 

といふ歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた」(「武士道」)と論じてゐる。

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2018年10月16日 (火)

「ますらをぶり」について

「ますらをぶり」は、大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 

「剣太刀 いよよ研ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さやけ)く負ひて 來しその名ぞ」

 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨け  よ)という意。研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。

 

 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」を詠んだ。「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。興奮した歌いぶり。

 

 この長歌と反歌には、三大思想が詠まれている。一、祖先を尊び家柄を重んじる。二、忠孝一本の思想。三、名を重んじ、家名を重んじる。反歌はそれを歌っている。これは、大伴一門の伝統的忠誠・尊皇思想を歌っただけでなく、わが国民精神を歌ったと言える。

 

 『族に喩す歌』には、史書が描かない真の歴史を歌いあげ、天孫降臨すなわち肇国のはじめからの精神を貫こうとした。それは、降臨された天孫に仕え、代々の天皇に仕えた大伴氏の勤皇の誇りであった。「剣太刀いよよ研ぐべし」という武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」という赤誠心詠んだ。この歌は、神代以来忠誠を旨として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促した。この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、心肝を吐露し、熱誠を披瀝した血の出るような声である。名を重んずる心が歌の句の間に溢れている。

 

 「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが国の重要な道徳観念である。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。「清明心」「清き心」の伝統は、日本の倫理思想の中に力強く生きている。清さとは、一面において清く明らかなさを求め、あっさりとしていて、名誉・利益などに執着しないさまである。

 

 天智天皇御製、

 

「渡津海の 豐旗雲に 入り日さし 今夜の月夜 清明(あきらけく)こそ」

(海空に、豊かに旗の如くたな引く雲、それに入り日がさしている。今夜の月夜は明らかなことであろう。)

 

 「清々しい」というほどの心にこの「清明」の文字をあてた心が大事である。清明(汚れなく・清く・くもりなく・明らけき心)にあこがれる心が日本人の心である。

 

 山上憶良の武の精神

 

「士(をのこ)やも 空(むな)しかるべき 萬代に  語り繼ぐべき名は立てずして」(九七八・男児たるものが空しく朽ち果ててよいものか。何時何時までも語り伝えられるに足りる名は立てないで)

 

 憶良は大宝年間に遣唐使として徒唐した。学問は漢和に亘り、聖武天皇が東宮の頃に侍講として奉仕し、筑前守となり、大伴旅人の知遇を受ける。七十歳で帰京、七十四歳で亡くなる時の辞世歌。

 

 名を立て、名を惜しみ、名を重んずる心が歌われている。「身を立て名をあげ…」という『仰げば尊し』が今歌われているかどうか。憶良が病に沈んで最後が近くなった時に胸中からほとばしり出た男子の本心を歌った慷慨悲憤の辞世。憶良は名をあげる機会に接しなかったことを悲しんでいる。しかし憶良は、こうした歌をのこしたことによって、名を後世にのこすことができた。人の胸を打つ。彼がいかに自分の名を揚げようと努力していたかが窺われる。

 

 聖武天皇の天平五年(七三三)のある日、藤原八束(不比等の第二子房前の第三子。大納言。後の摂関家は全て八束の門から出た。この歌のときは二十代後半から三十代と推測される)の使いのお見舞に謝して後暫くして涙を拭って悲しみ嘆じてこの歌を口ずさんだという。七十四歳の人生を振り返っての感慨である。春秋に富む藤原八束への激励であったかもしれない。

 わが国の武士道の徳目の一つに、「廉恥(心が清らかで、恥を知る心がつよいこと)心」があった。日本は名と恥の文化といわれている。

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2018年7月 1日 (日)

防人の心

 

 和歌は、天皇と国民をつなぐ大きな絆である。わが国最古にして最大の和歌集である萬葉集は、上は天皇から下は一般庶民の歌(遊女の歌もある)まで収録さている。萬葉歌の一首一首にわが国の古代人の信仰・思想・生活感情・美感覚があますところなく表現されている。萬葉集は、わが国の伝統精神・日本民族の中核精神を和歌という定型文学で表現した一大アンソロジーであり、わが国の伝統的な民族精神を知る上で、記紀と並んで、まことに大切な文献である。記紀はわが国民族精神が語られている文献であり、萬葉集はわが国民族精神が歌われている文献である。

 

 萬葉集巻二十には、九十三首の防人の歌が収められている。防人とは、唐・新羅のわが国への侵攻に備えるために、筑紫・壱岐・対馬に配置された兵士のことで、わが国が百済に送った救援軍が白村江で敗北した翌年の天智天皇二年(西暦六六三)に配置された。諸国の軍団の正丁(せいてい・二十一歳から六十歳の公用に奉仕した男子)のうちから選ばれて三年間の任務についた。天平二年以降は、特に勇壮を以て聞こえた東国(遠江以東の諸国)の兵士が専ら派遣された。大陸及び朝鮮半島との緊張関係は、約千三百年前から今日まで変わらずに続いているということである。

 

 防人の歌を収集し後世にのこすという偉大な事業を行ったのは大伴家持である。家持が、防人に関する事務を管掌する兵部少輔(ひょうぶのしょうふ・兵武賞の次官)の任にあった天平勝宝七年(七五五)に、筑紫に派遣される諸国の防人たちが難波に集結した。家持は防人たちの歌を収集しようと考え、諸国の部領使(ぶりょうし・防人を引率した役人)たちを煩わして防人たちの出発の日の詠、道中での感想を詠んだ歌を提出してもらった。中には、妻などの家族の歌を記憶していて、それを提出する防人もいたという。 

 

 防人の歌は、防人の率直な心境や東国庶民の生活感情を知り得る貴重な歌である。天皇国日本の永遠を願いながら遠く旅立つもののふの決意を表明した歌であり、生きて故郷へ帰ることができない覚悟した者たちの歌である。当時における辺境の地の素朴な歌ではあるが、日本文化・文学の基本である宮廷文化(みやび)への憧れの心があり、君への忠、親への孝、人への恋心が表白されている。

 

 一人一人がそれぞれの立場で個性的表現をしているが、全体として国のため大君のためにわが身を捧げるという共通の決意が歌われている。天皇への無限の尊崇・仰慕の念と敬神の心、そして愛する父母や妻子への思いが生々しい情感として歌われている。

 

 つまり、日本人の最も基本的にして永遠に変わることなき道義精神・倫理観を切々と歌っているのである。東国の庶民は都に生活する貴族などと比較すれば教養や学識においては劣るものがあるかもしれないが、天皇・国家・家族を思う心は純真で深いものがある。東国の庶民である防人の歌には、古代日本の豊かな精神・純粋な感性がある。

 

 「今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」 (防人の任を仰せつかった今日よりは、一切を顧みる事なく、不束ながら大君の尊い御楯として出発致します。私は)

 

 下野の(今日の栃木県)火長今奉部與曾布(かちょういままつりべのよそふ)の歌。火長とは十人の兵士を統率する長。

 

 もっとも代表的な防人の歌である。「醜」とは醜いという意ではなく、大君に対し奉り自分を謙遜して言った言葉で、「不束ながら」或いは「数ならぬ」という意。葦原醜男神(あしはらのしこおのかみ・大己貴神の別名)の「醜」と同じ用法で、「力の籠った、荒々しい強さを持ったものの意」とする説もある。

 

 「御楯」は楯は矢・矛・槍から身を守る武具であるが、大君及び大君が統治あそばされる日本国土を守る兵士のこと。大君にお仕えする兵士であるから「御」という尊称をつけた。

 

 出征する時の勇壮・凜然とした固い決意を格調高く歌っている。この歌の心は一言で言えば上御一人に対する「捨身無我」である。そうしたきわめて清らかにして篤い尊皇の心がふつふつと伝わってくる。しかも、押し付けがましいところがない、さわやかな堂々たる歌いぶりの重厚な歌、と評価されている。                   

 

 このほかにも、防人の歌には感動を呼ぶ歌が多い。そのいくつかを記してみたい。

 

 「わが妻はいたく戀ひらし飲む水に影さへ見えて世に忘られず」

 (私の妻はとてもわたしを恋い慕っているらしい。飲む水にも妻の面影が見えてとても忘れられない)   

 

 「父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)く在(あ)れていひし言葉ぜ忘れかねつる」(父母が私の頭を掻き撫ぜて無事であれよと言った言葉を忘れることができない)  

 

 「わが母の袖持ちなでてわが故に泣きし心を忘らえぬかも」(わが母が着物の袖を持って涙を拭いながら出発する私のために泣いて下さった心を忘れることができない)

 

 「防人に行くは誰(た)が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しき物思(もひ)もせず」(防人の妻の歌。防人に召されて行くのは誰の夫ですかと物思いもしないで尋ねている人はうらやましいことです)

 

 これらの歌は自分の父母や妻や夫を切々と思う歌である。素直な感情を何の技巧も用いる事なくそのまま歌っているのでなおさら大きな感動を呼ぶ。

 

 「あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に吾は來にしを」  

 (鹿島の社に鎮まります建御雷神に武運長久を祈り続けて天皇の兵士として私は来たのだ)

 

 常陸の國那珂郡の防人・大舎人部千文(おおとねりべのちぶみ)の歌。「あられ」は鹿島に掛る枕詞。あられが降る音はかしましいので鹿島に掛けた。「鹿島の神」は鹿島神宮に祭られている武神・建御雷神(たけみかづちのかみ・武甕槌神とも書く)の御事。建御雷神は、天孫降臨に先立って出雲に天降られ、大国主命に国譲りを交渉せられた神であらせられる。鹿島神宮の御創祀は、神武天皇御即位の年と伝えられる。「皇御軍」は天皇の兵士という意味。天皇の兵士・皇軍という意識は、近代になってつくり上げられたのではなく、千三百年の昔よりわが日本の庶民に受け継がれてきているのである。

 

 同じく大舎人部千文の歌に、

            

 「筑波嶺(つくばね)のさ百合の花の夜床(ゆどこ)にも愛(かな)しけ妹ぞ晝もかなしけ」(筑波山の百合の花のように夜の床の中でもいとしい妻は、昼間でも愛しくてたまらない)

 

 まことに素直にして率直に自己の心情を吐露した歌である。そしてそれを萬葉集という公の歌集に、政府高官たる大伴家持の手によって堂々と収められたのである。今日の頽廃的な肉体文学・性欲文学と全く異なった健康的な歌である。

 

 この二首は、敬神愛国の「公の思い」と、妻を愛する「私の思い」とが、一人の作者によって歌われている。ここに萬葉の歌の素晴らしさがある。古代日本決して権力国家ではなかった。天皇を中心とした大らかな信仰共同体がわが日本の本来の姿即ちわが國體なのである。

 

 「天地の神を祈りて幸矢(さつや)貫(ぬ)き筑紫の島をさして行く吾は」

 (天神地祇に祈りを捧げ、武具を整えて筑紫を目指して行くのだ。私は。)

 

 下野の國の防人の歌。「幸矢」は、山の幸を獲る矢すなわち狩猟に用いる矢のこと。「貫き」は、矢を靫(ゆぎ・矢を入れて背に負う器具)に入れること。

 この歌は、「あられ降り鹿島の神を祈りつつ」と同じく、敬神愛国の精神を吐露した歌である。防人の歌は、尊皇敬神の志を述べながら、同時に父母を慕い妻子を愛する自然の人間感情を素直に歌っている。ここに古代日本人らしい「まことごころ」の大らかさ・深さがある。

 

 日本武士道の淵源は、記紀に記された須佐之男命・神武天皇・日本武尊の御事績にある。この御精神の継承し踏み行ったのが防人たちだったのである。

 

 防人の歌に限らず萬葉歌は、理論・理屈ではなく、日本人の魂に訴える「歌」によって、日本人の中核精神・伝統信仰・倫理観を今日の我々に教えてくれているのである。まことに有難きことと言わねばならない。また、当時は既に聖徳太子の時代の後であるから仏教がわが国に浸透していたはずであるが、萬葉集全体、特に防人の歌には、崇仏の歌が全く無い。    

                                

 尊皇愛国・国のために身を捧げることが日本人の道義の基本である。萬葉集とりわけ防人の歌には、日本民族の道義精神・倫理観の中核たる、「天皇仰慕・忠誠の精神」「神への尊敬の思い」「父母への孝行の心」が素直に純真に高らかに歌われている。現代日本の混迷を打開し、道義の頽廃を清め祓い、祖国を再生せしめる方途は、萬葉の精神への回帰にあると確信する。

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2018年3月22日 (木)

ますらをぶり=武士道と剣とは一體である

もののふのこころ・ますらをぶりとは、清明心と表裏一體の精神であり、天皇のため國のためにわが身を捧げるという「捨身無我」の雄々し精神でもある。その精神の体現者が景行天皇の皇子・日本武尊であらせられる。「たけるのみこと」とは猛々しさを表す御名である。

 

日本武尊の捨身無我の精神は、後世の武士にも強く生かされる。日本武尊は、武士道精神・日本倫理思想の祖であらせられる。

 

日本武尊御歌

 

「孃女(おとめ)の 床の辺(へ)に 吾が置きし つるぎの大刀 その大刀はや」(乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ)

 

日本武尊は、景行天皇の命により九州の熊襲建を平定して大和に帰られるが、さらに東國平定を命令され、それを終えた帰りに、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)に、叔母君であった倭姫命から授けられた草薙の劔を預けて出発され、熊煩野(三重県亀山市という)で急病になった時の辞世の御歌である。

 

愛する美夜受姫に預けた守護霊たる神剣から離れていく自分の命を見つめながら歌った哀切極まりない絶唱である。剣を置いて出発されたのが間違いのもとという神話傳説である。この御歌は乙女への愛と武の心が渾然一體となっている。そしてその奥に天皇への戀闕の心がある。

 

この御歌には、恋愛詩と英雄詩が一つに結合融和して現れている。この精神こそ、戦いにも強く恋にも強い大和民族の原質的民族性で、日本武士道の本源となっている。そのご精神をやまと歌で表白されたのである。これを「剣魂歌心」という。日本武尊は、上代日本の武人の典型であると共に詩人の典型であらせられた。日本の英雄は歌を愛した。ますらをぶりは優美さを否定するものではない。

 

新渡戸稲造氏は、吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という歌を引用して、「武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、國民および個人を動かしてきた」(武士道)と論じている。新渡戸稲造氏はさらに、「(注・武士道」については)精々口傳により、もしくは数人の有名なる武士や學者の筆によって傳えられたる僅かの格言があるに過ぎない。むしろそれは語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる立法たることが多い」と論じてゐる。

天皇の日本國統治のご精神は「三種の神器」に表象されている。「三種の神器」は、皇霊が憑依すると信じられ、日本天皇の國家統治言い換えれば日本民族の指導精神の象徴である。「三種の神器」は皇位の「みしるし」であり、御歴代の天皇は、御即位と共にこの神器を継承されてきた。

 

鏡(八咫鏡・やたのかがみ)は「澄・祭祀・明らかなること・美意識・和御魂・太陽崇拝」の精神を表象し、剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)は「武・軍事・たけきこと・克己心・荒御魂・鉄器文化」の精神を表象し、玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)は「和・農業・妙なること・豊かさの精神・幸御魂・海洋文化」を表象している。祭祀・軍事・農業を司りたまう天皇の御権能が「三種の神器」にそれぞれ表象されている。また、知(鏡)・仁(玉)・勇(剣)とも解釈される。これは別々の観念として傳えられているのではなく、三位一體(三つのものが本質において一つのものであること。また、三者が(心を合わせて)一體になること)の観念である。

 

とりわけ「剣」は武勇、そして克己の精神を象徴している。『日本書紀』の「仲哀天皇紀」に、天皇の軍が筑紫に進軍したのを歓迎して筑紫の県主五十迹手が、「この十握剣(とつかのつるぎ)を堤(ひきさげ)て、天下(あめのした)を平(む)けたまへ」と奏上したと記されている。剣は天下を平らげる武力を表しているのである。

 

前述した日本武尊の御歌を拝して明らかな如く、古代日本における劔・矛・弓などの武器は、鎮魂の祭具であり神事的意味を持つ。八千矛神(多くの矛を持つ神)は武神であると共に呪術的機能を持った神であった。弓は弦を鳴らして鎮魂する。

 

ますらをぶり=武士道と剣とは一體である。剣は殺傷の武器(いわゆる人斬り包丁)ではない。日本刀=剣は製作過程からして既に神道祭式の宗教儀式になっている。刀鍛冶は職人にして単なる職人ではなく、朝から斎戒沐浴して仕事(これも仕えまつるということ)にかかる。仕事場に榊を立て、しめ縄を張り巡らせて、その中で仕事をする。

 

剣の製作は、神の魂が籠るものを作るのであるから神事であるのは当然である。わが國においては武器が、倫理精神の象徴・神社における礼拝の対象となっているのである。「刀は忠義と名誉の象徴」「刀は武士の魂」として大切にされたのもその根源はこうした信仰にある。

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2018年3月17日 (土)

国家的危機と武の精神の勃興

「三種の神器」に「剣」があるのを拝しても明らかなごとく、皇室の道統・日本天皇の国家統治は、武の精神と一体である。また上御一人日本天皇は軍の最高の統率者であらせられる。神武天皇・天武天皇・聖武天皇という諡号を拝して、それはあまりにも明白である。応神天皇は、八幡宮として祀られ、武の神・軍神として今日に至るまで崇められている。日本天皇及び朝廷は、わが国の伝統的な武の精神の体現者であらせられる。軍においてもその頂点にお立ちになるのが本来のお姿である。

 

しかし、中古時代以降、朝廷において「武の精神」が希薄になったことが、武家による政治の壟断の原因であると言ってよい。後鳥羽上皇・後醍醐天皇は、隠蔽され衰微していた天皇の国家統治と武の精神の一体性の復興を目指されたのである。

 

元弘四年(一九九四)正月二十九日、「建武」と改元されたのは、武の精神の復興を目指されたからである。建武中興は、武家による政権壟断以前の時代の精神の復興であった。すなわち復古即革新である。今日の日本においても、建武中興・明治維新の理想が実現されねばならない。

 

國家的危機においてはわが國は、天皇を中心とした國家的統一すなわち國體の本来の姿・あるべき姿に回帰する運動、そして天皇及びご皇室を中心にして「ますらをぶり」「剣魂」「もののふの心」が勃興した。

 

 承久の変・元寇・建武中興・幕末の時期に起こった動きがその典型である。元寇の時には「神國思想」が謳歌され、欧米列強による侵略の危機に遭遇した幕末においては「尊皇攘夷思想」が謳歌された。これは危機にさらされたときに必ず起こるわが國の伝統である。

 

 また、須佐之男命・神武天皇・日本武尊以来の日本皇室の武の精神・ますらをぶりは平安時代から明治の御代までの間断絶していたのではない。承久の変を起こされた後鳥羽上皇は御自ら、馬競べ・狩猟・水練・刀剣のご製作に励まれ、建武中興を断行された後醍醐天皇及び護良親王などの皇子方は率先して幕府方と戦われるなど、大いにますらをぶり・武の精神を発揮された。

 

幕末期の尊皇攘夷運動は、孝明天皇の「戈とりてまもれ宮人こゝのへのみはしのさくら風そよぐなり」という「ますらをぶり」の大御歌にこたえたてまつらむとした多くの志士たちによって実行されたのである。

 

 戦後日本は誤った<平和主義>に侵されて、軍事・防衛を忌避し自衛隊を日陰者扱いにした。そして、天皇及びご皇室は軍(自衛隊)から引き離された状況が続いている。

 

 しかし、危機的状況を迎えた今日において、天皇を中心とする國體への回帰による危機突破という日本的愛国精神が勃興して来なければならない。それがわが國の歴史伝統である。    

 

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2018年2月20日 (火)

武士道精神・もののふの心の回復

 戦後日本は、「平和と民主主義」「人権尊重」「生命尊重」「個の尊重」を最高の価値とし押し頂いた。「平和と民主主義」は、弱者の思想である。國のために戦うという強者の思想を否定し、武力は放棄する、軍隊は持たない、國家の独立・平和・歴史・伝統が侵略者から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦うことを忌避する弱者の思想である。

 

 弱者であるから徒党を組む。即ち集團で運動をせざるを得ない。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式の生き方しかできないのである。

 

 弱者は弱者なるがゆえに、常に「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象を常に見つけ出し、あるいは作り出さずにはおれない。これが「いじめ」である。「いじめ」とは、小學生・中學生の専売特許ではない。中川官房長官攻撃なども、マスコミ・野党による「いじめ」である。「中川スキャンダルを仕組んだのは加藤紘一周辺だ」という噂さえ流れている。

 

 「戦後民主主義・平和主義」の「守り手」・「弱者の味方」を以て任ずるマスコミは、「知る権利」「知らせる義務」とやらを振り回し、カメラやマイクを持って「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の対象となっている特定の人物を追いかけ回し、盗聴した電話交信記録まで持ち出して特定人物を責め苛む。これまで、こういうやり方でどれだけ多くの人々が血祭りにあげられ、「魔女狩り」の対象になってきたであろうか。小學生・中學生のいじめは、大人のこうしたやり方を真似しているに過ぎないのである。

 

 三島由紀夫氏は言う。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である。」と(反革命宣言)。

 

 革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろそうという精神が國民に横溢している。それを煽り続けているのがマスコミである。

 

 三島由紀夫氏は、『瀧ヶ原分とん地は第二の我が家』(昭和四五年九月二五日発表)という文章で、「ここでは…利害關係の何もからまない眞の人情と信頼を以て遇され、娑婆ではつひに味はふことのない男の涙というものを味はった。私にとってはここだけが日本であった。娑婆の日本が失ったものがことごとくここにあった。日本の男の世界の嚴しさと美しさがここだけに活きてゐた。われわれは直接、自分の家族の運命を氣づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運營について憂へた。……ぢかに足で踏みしめる富士山麓の日本の大地の足ざはりを以て、日本の危機と困難と悲運について考へることができた。……私は、ここで自己放棄の尊さと嚴しさを教へられ、思想と行爲の一體化を、精神と肉體の綜合の厳しい本道を教へられた。」

 

 これは、自決直前の昭和四十五年九月十日から十二日まで、陸上自衛隊富士學校瀧ヶ原分屯地學生五十名と共に体験入隊した時の文章である。

 

 三島氏は、祖國防衛のために一身を捧げる訓練をする自衛隊の中にのみ、「利害關係の何もからまない眞の人情と信頼」「自己放棄の尊さ」即ち眞の倫理精神、道義精神が生きており、戦後日本が失ったものがことごとくあるとし、自衛隊分屯地の中だけが日本である、と断じている。この三島氏の文章は、現代社會の腐敗・混乱・堕落の根源にあるものを示唆している。そして、軍と武を否定した「平和と民主主義の國・戦後日本」には、眞の日本も、眞の道義精神もなくなっていると三島氏は考えたのである。

 

 三島氏はさらに言う。「文學・藝術の故郷は非合法の行動の暗い深淵に求められていくことになるであらう。…法はあくまでも近代社會の約束であり、人間性は近代社會や法を越えてさらに深く、さらに廣い。かつて太陽を浴びてゐたものが日陰に追ひやられ、かつて英雄の行爲として人々の稱贊を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになった」(行動學入門)と。

 

 長い日本の歴史の中で、須佐之男命・日本武尊という神話時代の英雄、さらに中古中世の鎮西八郎為朝、源義経、楠正成、さらに近世・幕末における赤穂四十七士、井伊直弼を撃った水戸脱藩浪士の行動、さらに大東亜戦争における特攻隊員を始めとした兵士たちの行為などは、「武士」と讃えられた。しかし、戦後日本は、そうした武士の行為を「非合法」「反ヒューマニズム」として裁き日蔭に追いやった。

 

 「國のため敵を撃つ」「大君の御為に身命を捧げる」「仇なすものを討つ」などということは、「平和と民主主義」と絶対相容れない「行為」として、「日蔭」に追いやられ続けている。

 

 「天皇祭祀主と仰ぐの神の國」がわが國體であるが、この萬邦無比の國體を護ることが最高の道義なのである。天皇の統治したまえるわが國は、言葉の眞の意味において「平和國家」である。神武肇國の御精神・聖徳太子の十七条憲法・明治天皇御製を拝すれば、それは明らかである。また、御歴代の天皇は常に國家と國民の平安を祈られてきた。しかし、そうしたわが國の伝統は、「武」「軍」「戦い」を否定しているのではない。

 

 天皇の日本國御統治は「三種の神器」に表象されている。「三種の神器」は皇位の「みしるし」であり、御歴代の天皇は、御即位と共にこの神器を継承されてきた。鏡(八咫鏡・やたのかがみ)は祭祀、剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)は軍事、玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)は農業、をそれぞれ表象している。祭祀・軍事・農業を司りたまう天皇の御権能が「三種の神器」にそれぞれ表象されている。

 

 剣は武勇、そして克己の精神を象徴している。『日本書紀』の「仲哀天皇紀」に、天皇の軍が筑紫に進軍したのを歓迎して筑紫の県主五十迹手が、「この十握剣(とつかのつるぎ)を堤(ひきさげ)て、天下(あめのした)を平(む)けたまへ」と奏上したと記されている。剣は天下を平らげる武力を表しているのである。

 

 武を否定し、「生命の尊重」が最高の道徳としされ、「平和と民主主義」を謳歌している今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかった凶悪にして残虐なる犯罪、殺人事件が続発している。

 

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台状で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴えられた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまい、頽廃と残虐の時代になってしまった。

 

 『檄文』に曰く「軍の名を用ゐない軍として、日本人は魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである」。

 

 魂の腐敗と國家の欺瞞は、軍國主義國家であったという戦前の日本にはあり得なかったような、人命軽視という言葉すら空しくなるような、残虐なる殺人が日常茶飯事になった現代社會を現出させた 

 國家を守ることこそ、國民の道義精神の要である。軍と國家、國防と道義は不離一体の関係にある。國を守る使命、言い換えれば、兵役の義務・國防の義務がない國民は、國民とはいえない。國民は運命共同体であるところの國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念があってこそ、國民である。

 

 現代日本の青少年の多くは、崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」が希薄になってゐるように見える。

 

 われわれ神洲清潔の民は、強者の立場をとらなければならない。「一人立つ」の精神がなければならない。眞の独立自尊の精神がなければならない。「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。須佐之男命・日本武尊そして防人以来の武士道精神・もののふの心に回帰しなければならない。

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2018年1月30日 (火)

「もののふの道」とは

 

 「もののふ」とは、武人・武士のことをやまとことば(和語すなはち漢語や西洋などからの外来語に對し、日本固有の語)で表現した言葉であり、雅語(上品な言葉。正しくてよい言葉。特に、和歌などに使ふ、平安時代風の言葉)的表現である。

 

 「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「物部(もののべ)」の音韻が変化した語であるといふ。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。物部氏という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だった。

 

 「物部」の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(群れ・組。世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。 

 

物部氏は饒速日命の後裔にして武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。用命天皇崩御直後(用命天皇二年・五八七)、仏教受容を唱へた蘇我氏と物部守氏が戦ひ、物部氏は滅びた。

 

霊的力即ち巫術(超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動するもの)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧する役目を帯びた者たちが「もののふ」(物部)であったと傳へられてゐる。

 

折口信夫氏は、「(古代日本では)多くは巫術を以て戰場に臨み、敵軍を守る精靈を抑壓する者だったらう。大體、男軍其ものが既に、軍靈を使って、敵軍の守護靈を壓倒することを第一義にして居た。其爲に戰士のことを靈部(物部)と言ったのである」(『大倭朝廷の刱業期』と論じてゐる。

 

『日本書紀』の神武天皇御東征の折の長髄彦(ながすねひこと)との一戦の条に「…神祇(あまつやしろくにつやしろ)を禮(ゐやま)ひ祭(いは)ひて、日神の威(みいきほひ)を背(そびら)に負ひたてまつりて、影(みかげ)のままに壓躡(おそひふ)まむに若かじ。かからば則ち曽て刃に血ぬらずして、虜(あだ)必ず自らに敗れなむ」と記されてゐる。

 

古代日本における戦ひは靈力の戦ひであったのであり、それに従事する士が「もののふ(靈部)」であった。とりわけ上御一人の「みいくさ」は、日の神の御神靈を祭りその神威を背負ひて神のまにまに戦はれたのである。

 

「神武」「天武」「文武」「聖武」といふ御歴代天皇の御諡号は、文武對立の武ではなく神威と一体の武である。

 

日本の武士が戦場に於いてお互ひに名乗りをあげたのは、互ひに名乗り合ふことによって相手方の靈を圧伏する意義があったと思はれる。

 

「もののふのみち」(支那から傳来してわが國の言葉となった「漢語」でいふと「武士道」)は、物部、大伴の二氏によって明確なる史實として表現せられた。

 

 なほ、「もののふ」を漢語で「武士」(ぶし)といふのは、折口信夫氏の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕へる者であるからといふ

 

 もののふの道(武士道)とは、古代日本(古事記・萬葉時代)においては、天皇・朝廷に忠誠を尽しお護り申し上げる精神そのものである。それが原義である。日本武尊の御生涯を拝してもそれは明らかである。

 

もののふの道(武士道)とは、「尊皇心」「祖先を崇拝する心」「父母に對する孝の心」そして「名誉心(名を惜しむ心)」などがその内容となってゐる。名誉を重んずる心は、自己の一身を忠義・戀闕の對象(天皇・祖先・親・家)に捧げることに十分なる理由を与へた。

 

 かうした日本の傳統的倫理観念が、人並み優れて強い男子といふ武士(もののふ)に、節度・忍従・帰服の心を付与した。「武」によって立つ者に道徳を与へたのは尊皇精神を中核とする日本傳統倫理精神であった。

 

新渡戸稲造氏は、「仏教の与え得ざりしものを、神道が豊かに供給した。神道の教義によりて刻みこまれたる主君に對する忠誠、祖先に對する尊敬、ならびに親に對する孝行は、他のいかなる宗教によっても教えられなかったほどのものであって、これによって武士の傲慢なる性格に服従性が賦与せられた。」(『武士道』)と論じてをられる。

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2018年1月19日 (金)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 

 『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で三島由紀夫氏は、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提にして、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである。」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、新しい日本はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっている。

 

 三島由紀夫氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」といふ言葉を使った。

 

 三島由紀夫氏は、言葉の真の意味において「高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここでいう「高貴さ」とは、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れから来ていると思う。

 

 三島氏の作品と人生における文化意志は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、文武両道の実現であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 日本民族の文化意志において、切腹はまさに美の実現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって『美』であった。それは武における美の実現の最高の形態と言っていい。

 

 詩歌などの『文』はいうまでもなく『美』を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える散華の美とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

 愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。               

 

 柿本人麿歌集の「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)

 

という歌も、相聞の心を戀闕心に変えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、散華の美とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方である。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を源泉の感情として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは「檄文」の冒頭に書かれている通りである。

 

 戦後日本の救済・革命のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは三島由紀夫氏の少年時代の源泉の感情への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。

                                   

 三島由紀夫氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。三島氏が「鼻をつまんで通りすぎた」だけの戦後社会以前の源泉の感情が死を決意させたと言える。

 

 三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

 三島由紀夫氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪したのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの散華の美を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。

 

 しかし、自決後四十八年以上を経過して、時代の激動は三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。その結果が今日の混迷である。今こそ、霊となった三島氏の復活が求められる。  

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2018年1月12日 (金)

大和魂と武士道

 

 戦後日本は、「平和と民主主義」「人権尊重」「生命尊重」「個の尊重」を最高の価値として押し戴いた。「平和と民主主義」は、國のために戦うという強者の思想を否定し、武力は放棄する、軍隊は持たない、國家の独立・主権・領土・平和・歴史・傳統が侵略的意図を持った外國から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦うことを忌避する弱者の思想である。

 

 國家を守ることは、國民の道義精神の要である。國防と道義は不離一體の関係にある。國を守る使命、言い換えれば、兵役の義務・國防の義務がない國民は、真の國民とはいえない。運命共同體であるところの國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念があってこそ、真の國民である。

 

 現代日本人の中には、崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」を喪失し、利己主義・利益至上主義に陥り、自分さえよければ他人はどうなってもいいという考え方に陥ってい人がいる。

 

 外國人参政権付与も、國民としての義務に「兵役の義務」がきちんと憲法に書かれていないから起こる問題である。税金さえ納めていれば國民であるというまさに利益至上主義的考え方が、「定住外國人も税金を納めているから参政権を付与すべきだ」という考えを生むのである。      

 

 われわれ神洲清潔の民は、強者の立場をとらなければならない。「一人立つ」の精神がなければならない。眞の独立自尊の精神がなければならない。「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、もののふの心・大和魂=日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。須佐之男命・日本武尊そして防人以来の武士道精神・もののふの心に回帰しなければならない      。 

 

 李登輝氏は次の如くにいう。「まことに残念なことには、一九四五年(昭和に十年)以降の日本においては、……『大和魂』や『武士道』といった、日本・日本人特有の指導理念や道徳規範が、根底から否定され、足蹴にされ続けてきたのです。……いま日本を震撼させつつある學校の荒廃や少年非行、凶悪犯罪の横行、…などこれからの國家の存亡にもかかわりかねないさまざまなネガティヴな現象も、『過去を否定する』日本人の自虐的価値観と決して無縁ではない、……『日本および日本人の醇風美俗』や『敷島の大和心』、もっと単刀直入に言えば『武士道』について声を大にして大覚醒を呼びかけ、この書を世に問わねばならなかったのです。」(『「武士道」解題』)と。

 

 「武士道」とは、字義的には武士が守るべき道を意味する。中世以後発生した武士階級の間に発達した道徳律すなわち道徳的原理の規範のことといわれている。規範ではあるが、聖書やコーランや論語のように特定の人物によって書かれた教義書はない。

 

 武士道は、忠誠・名誉・尚武・勇気などを重んずる。その内容を詳しく言えば、(一)、忠孝を第一とし、(二)、廉恥(心が清らかで、名を惜しみ恥を知る心がつよいこと)を重んじ、(三)、義勇に励み、(四)、狂暴を挫いて孤弱を扶け、(五)、自己の責務を果たすということという。一言にして言えば、何に臨んで死を畏れず、一命を賭して君に仕えることである。

 

 和辻哲郎氏は、武士道の内容について、「(注・武士の)献身の道徳の中核とは…利己主義の克服、無我の実現である。…享楽を欲する自我の没却、主君への残りなき献身、それが武士たちにとっての三昧境であり、従ってそれ自身に絶対的価値を持つものであった。…『武者の習い』の確信が無我の実現にある。」(『日本倫理思想史』)と論じている。

 

 無我の心とは大和魂・そのままの心・もののあはれを感じる心と通じる。合理的な思考や判断以前の素直なる心=大和魂が武士道の奥底にある。武士道とは本来すめらみことに対する無我の献身であった。しかし、中世に至って力の強い者が弱い者を倒して獲得する地位である武士団の棟梁に対する忠誠という「私的」なものになってしまった。そこから覇道が生まれる。

 

 武士道は中世に起こったものではない。また、儒教や仏教から発したものでもない。記紀・萬葉の歌を見ても明らかな如く、日本傳統的な中核精神(神道)から発した國及びすめらみことに対する忠誠と名誉を重んじ恥を知る心が根幹である。

 

 倉前盛通氏は、「肝心の生死の際の覚悟のほどは、合理的な儒教論とは全く縁のないエモーショナルなものによっていた。“もののあはれ”というか“日本的死生観”というか、混沌の中からもえいでて結ばれいのちを得たものが、解(ほど)けてふたたび混沌の中に隠れていくという生死の見定めは、儒教でも仏教でもなかった。」「武士の生死の覚悟は禅によって定まるものではない。もちろん、論理の虚構を排する禅の哲學は、『さかしらに言挙げせず』の傳統的自然観に結びつきやすかったこともあろう。しかし『今はこれまで』の意志決定は、涅槃や達磨という形而上學的で普遍的な法概念によって把えられるものではなかったであろう。原始の混沌がいまに生きている日本の精神風土、古代の神々の息吹きが残っている風土であるからこそ、論理の枠組みから外れた情動の激しい発露として、武士の死に方が生じてきたのである。…武士道が仏教から生じたものものならば、なぜ禅の盛んであった宋に武士道が生じなかったのであろうか。」(『艶の発想』)と論じている。

 

 大和魂・もののあはれ・日本的死生観が日本武士道の根底にあったのである。ゆえに、日本の武士の祖は、須佐之男命であり倭建命であり神武天皇であらせられる。

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2018年1月10日 (水)

「剣魂歌心」がわが國の武人の伝統

劒太刀(つるぎたち) いよよ研()ぐべし 古(いにしへ)ゆ 清(さや)けく負ひて 來にしその名ぞ   

                          

 『萬葉集』に収められた大伴家持の歌である。「劒太刀をいよいよ研ぐべきだ。昔から清らかに背負って来た(大伴氏といふ)その名なのだぞ」といふほどの意。

 

「いよよ研ぐべし」は、大伴氏は武門の家柄であるから剣を研ぐのと同じやうに大伴氏の名も常に磨いて朽ちさせないやうにすべきだといふ意がある。「族に喩す歌」の結論のやうにことが歌はれてゐる。

 

「研ぐべし」「負ひて來にしその名ぞ」といふやうに極めて断定的な強い表現になってゐるところに家持の毅然たる態度と意志がある。

 

 須佐之男命・日本武尊以来、日本のもののふ・ますらをは、常に剣・太刀を持ち「やまとうた」を詠む伝統がある。武門の名門の棟梁たる大伴家持もその典型である。

 

 「剣魂歌心」とは日本のもののふのあるべき姿を言った言葉であって、剣を持つ者の魂と歌を詠む者の心は一つであるといふほどの意である。剣を持つ者は歌を詠まねばならないし、歌を詠む者は剣を持たねばならないと言ってもよいであらう。

 

 この「剣魂歌心」の元祖的御存在が、須佐之男命であらせられる。そしてその次が景行天皇の皇子・日本武尊であらせられる。

 

 天照大神の御弟君であらせられる須佐之男命は、出雲の國で八俣の大蛇を退治されて、稲田姫をお助けになり、お二人が結ばれて共にお住まひになる宮を造られた時、

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

 

 といふ歌を詠まれた。「おびただしい雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を造る。ああその八重垣よ」といふほどの意であるが、この歌は和歌の発祥といはれてゐる。

 

須佐之男命は猛々しい武人であらせられると共に、わが國の伝統文芸である和歌の元祖的御存在でもあらせられるのである。

 

日本武尊は、御父君・景行天皇の御命令で東夷の反乱を水火の難を冒して平定し給ひ、その御東征の帰途、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)のもとに、草薙の剣を置いて来る。そして、伊服岐山(いぶきやま)の神を平定されようとするのだが、剣を置いてきたことが命の運命を悲劇にする。そして、能煩野(のぼの・今日の三重県鈴鹿郡)で病となられ薨じられる時、

                      

 孃子(をとめ)の 床の辺()に 吾が置きし つるぎの大刀 その大刀はや

   

 といふ歌を詠まれた。「乙女の床のそばに私の置いてきた太刀、あの太刀よ」といふほどの意。その草薙の剣を美夜受姫は永く祭られる。その神社が熱田神宮である。

 

 日本武尊のこの御歌について、萩原朔太郎氏は、「ホーマー的ヒロイックな叙事詩(英雄詩)の情操と、ハイネ的スヰートな叙情詩(恋愛詩)の詩操と、二つの對蹠的な詩情が、一つに結合融和して現はれてゐる。そしてこの一つの精神こそ、所謂『戰にも強く戀に持つ良い』天孫大和民族の原質的な民族性で、奈良朝以後に於ける日本武士道の本源となってゐる。」(朔太郎遺稿)と論じている。

 

保田與重郎氏は、「武人としてのその名顕な日本武尊の辞世にむしろ耐へがたい至情を味ふのである。わが神典期の最後の第一人者、この薄命の武人、光栄の詩人に於ては、完全に神典の自然な神人同一意識と、古典の血統意識とが混沌してゐた。」(戴冠詩人の御一人者)と論じてゐる。   

                   

 須佐之男命も日本武尊もわが國の武人の典型であられると共に、わが國の詩人の典型であらせられた。まさしく「剣魂歌心」がわが國の伝統なのである。そしてその心は皇室によって継承されてきたのである。大伴家持もこのやうなわが國の武人・詩人の伝統を継承してこの長歌と短歌を詠んだのである。

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