2019年3月 9日 (土)

菅原道真公について

本日参拝した湯島天満宮のご祭神は、菅原道真公である。多くの人々が参拝に来ていた。その多くは合格の御礼参りであろうと思はれる。

 

菅原道真公は学問の神様として崇められてゐるが、日本伝統精神を基軸とした学問の復興に努められた方で、且、尊皇精神の篤い方であった。次の歌をのこされてゐる。

 

 

このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

 

 

通釈「今度の旅は、神に捧げるための幣を用意することも出来なかった。しかし手向山の美しい紅葉を幣として捧げますので、どうか神よ、み心のままに受け取りたまへ」。

 

『古今和歌集』所収。

宇多上皇が、昌泰元年(八九八)十月、吉野宮瀧に行幸された際、ご一行が道祖神への供物を忘れてきたことに気付いた時に、供奉した菅原道真が詠んだ歌。『古今和歌集』『百人一首』に収められてゐる。

 

【このたびは】「旅」と「度」の掛詞で、「今度の旅は」といふ意。【幣】神に捧げるために色とりどりの絹を細かく切ったもの。旅の途中で道祖神に捧げた。【とりあへず】急いで旅立って来たので用意するひまがなかった。【手向山】山中で旅人が旅の無事を祈って道祖神に幣を捧げる所。普通名詞。【紅葉の錦】人間の織る錦の美しさを紅葉になぞらへた表現。【神のまにまに】神の御心のままに。

 

旧暦十月二十日は、吉野の宮瀧は、紅葉が散り乱れてゐたであらう。人が織った幣よりも見事に色づいた山の紅葉の方が美しいといふ意味がこめられてゐる。単に耽美的とか知的な表現といふよりも、紅葉が美しい吉野山の景色を神への捧げものとして詠み、吉野宮瀧全体を祭祀の場とした壮大なる歌である。

 

「神のまにまに」といふ結句の柔らかな調べがこの歌を親しみやすいものにしてゐる。

 

吉野は今日も自然の美しい地であり、日本民族そして皇室の歴史と伝統を伝へてゐる地である。特にこの歌が詠まれた宮瀧は、斉明天皇の御代に離宮が造営されて以来、歴代天皇が度々行幸された。天皇が離宮に行かれるのは、単に遊びに行かれたのではなく、歴史的由緒のある神聖な吉野の地で、川水で御祓をされ祭祀をされるためであった。

 

宮瀧には、吉野川流域で最大の「宮滝遺跡」がある。ここから出土した縄文時代後期の土器に「宮滝式」の名称が付けられ、また遺跡の北側から飛鳥時代以後から平安時代初期の建物跡も発見されてゐる。

 

『萬葉集』の大歌人・柿本人麻呂は、持統天皇が、持統天皇五年(六九一)、吉野に行幸された時、壮大なる『吉野讃歌』を詠んだ。

 

菅原道真はさういふ伝統を継承して、神が宿る自然への祭祀といふ日本伝統信仰を荘厳にそしてはなやかに歌ったのである。

 

日本人は本来「自然には神霊が宿る」といふ信仰を持ってゐる。さうした日本傳統信仰は、日本の自然環境と日本人の農耕生活の中から自然に生まれた信仰である。それは今日的言葉で言へば大自然と人間との共生の精神でもある。

 

日本人は、自然の摂理に素直に随順し、人間と自然は相戦ひ相対立する関係にあるとは考へない。人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。さうした精神は、も「鎮守の森」に象徴される。「鎮守の森」ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精靈が生きており、秀麗な山には神が天降り、神の靈が宿ってゐると信じて来た。

 

「山びこ」(山の谷などで起こる声や音の反響)のことをこだま即ち「木霊」「木魂」と言ふ。山野の樹木に霊が宿るといふ信仰から出来た言葉である。まさに日本人は、山野に霊が宿ってゐると信じ、深山幽谷は古代人の眼から見れば、精霊の世界だった。この道真の歌はまさにさういふ信仰を歌ったのである。

 

菅原道真は優れた漢学者であり法華経の学者でもあった。言はば外来の最高の学問を身に付けた人であったが、道真が編纂した歴史書『類聚国史』(二百巻)は神祇・帝王のことが冒頭に記されてゐて、仏教のことについては外国関係のものとしてはるか後ろの方に輯録されてゐるといふ。道真はまた遣唐使の廃止を建言した人物でもある。つまり、国粋精神の持ち主であった。

 

日本の伝統を重んじる精神があったればこそ外国文化を正しく学び自己のものとすることができたのである。道真はまさに主体性と開放性とを併せ有する日本文化のあり方を体現した人物であった。

 

菅原道真公 承和十二年(八四五)~延喜(九〇三)。平安初期の公卿・漢学者・政治家。元慶元年(八七七)文章博士。昌泰二年(八九九)右大臣。左大臣藤原時平たちの讒言により、延喜元年(九〇一)大宰権帥に左遷され、延喜三年、配所で没した。

 

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2018年6月 3日 (日)

今こそやまとことばの復興・言霊の力による国の再生が図られなければならない

 

人間の心を表現する言葉ほど大切なものはない。言葉のない生活は考えられない。言葉は、人と人とを結合させ人と人との間をつなぎ相互に理解を成立させるものであると思ふ。言葉は、共同体において生活する人間が、お互ひに理解し合ふための表現形式である。言葉は、人間生活そのものを体現するのであり、人間が共に生活する共同体は基本的に言葉によって形成される。「言葉の乱れは世の乱れ」といはれる所以である。今の日本は乱れてゐる。乱世である。その原因は、言葉の乱れにあると考へる。

 

人間は一人では生きていけない。ドイツの法学者・オットー・ギールケ「人の人たるの所以は人と人との結合にあり」と言ったといふ。和辻哲郎氏は、「人間とは人と人との間である」「理性はただ言語において、また言語とともに、自らを形成する。したがってそれは、共同体の活動そのものの中から自覚されてくるとともに、またそれ自身の活動によって共同体を形成し発展せしめるものである。…『人』が動物と異なる急所は、言語である。」(『近代歴史学の先駆者』)と論じてゐる。

 

自己が他者と共に生きてゐる場である「共同体」において人と人とが結ばれる。その基本に言葉がある。言葉は人間の精神生活の共同意識を成立させる。そして、言葉は個人及び共同体の歴史と文化を継承する。

 

言葉は、辞書によると「人が声に出して言ったり文字に書いて表したりする、意味のある表現」であり「その社会に認められた意味を持っているもの」と定義される。なんとも無味乾燥な定義である。

 

言葉は人間が相互理解のために使用する手段ではない。人がものを考へるといふ行為自体、すでに心の中で言葉を発してゐる。我々は言葉なくしてはものを考へることはできない。したがって、言葉とは「人が声に出して言ったり文字に書いて表したりする、意味のある表現」だけではない。この定義だと、盲目の人、話し言葉を発することができない人、文字を書くことかできない人には言葉がないといふことなる。思惟即ち心の中における思考も言葉である。言葉は、人間生活すべての根幹であり、言葉のない人間、言葉を離れた人間はあり得ない。言葉は人間と共に生きるものである。言葉は単なる意思の伝達のための道具ではないといふのは真実である。

現代日本はまさに国家的危機に瀕している。今こそ、言葉を正さねばならない。やまとことばの復興、言霊の力による国の再生が図られなければならない。一切の改革・変革の基本に、言霊の復興がなければならない。

 

情報とは言葉である。今の日本は情報・言葉は洪水のごとく氾濫し、濫用されている。森本和夫氏は、「スターリンによって、『生産用具、たとえば機会と違わない』といわれた言語が、ますますその方向を突き進んで、いまや生産用具の主座にすわろうとしている。それこそ“情報社会″と呼ばれるものの意味であろう」(『沈黙の言語』)と論じている。

 

言葉が意志伝達の手段としか考えられなくなり、人間が言葉への畏れを無くした時、人氾濫し濫用された時、文化と道義は頽廃し、人間は堕落する。それが現代社会である。

 

言葉への畏れを喪失するということは、言葉を単なる情報伝達の手段と考えることである。「言葉は意志伝達の手段、人間の扱う道具だ」という観念が、国語の軽視と破壊の原因である。言葉が単なる情報伝達の手段であるのなら、なるべく便利で簡単で負担が少ない方が良いということになる。漢字制限はそういう安易な便宜主義・目先の理由によって行われたと考える。

 

それは言霊の喪失である。現代ほど言霊が軽視されている時代はない。文藝においてすら言霊を喪失している。そして日本人の魂は、今、よすがなく彷徨っているように思える。さまよえる魂を鎮め、鎮魂し、再生させるために、やまとことば・言霊の復活が大切である。それは、言霊が籠り、天地(あめつち)を動かし目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思わせる「やまと歌」の復活である。今日において、まさに、「国風文化」が復興しなければならない。

 

大化改新という大変革・壬申の乱といふ大動乱の時に『萬葉集』が生まれ、平安中期の国風文化勃興の時に『古今和歌集』が生まれたように、畏れ多いが、国難に晒されてゐる今日においても、偉大なる「勅撰和歌集」が撰進されるべきであると信ずる。それが言霊の復活であり、世の乱れを正す大いなる方途である。

 

日本天皇を「すめらみこと」と申し上げる。「すめらみこと」とは、天つ神の「みことのり」「神勅」を地上において実現される最高に尊いお方という意味である。日本の「言葉」で最も大切な言葉は、天皇の「みことのり」(詔勅)である。

 

「詔を承りては、必ず謹む」精神即ち「承詔必謹」が日本国民の最高絶対の道義精神であり、国家永遠の隆昌の基本である。

 

「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が必要なのである。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴えるものとしての和歌を詠んでいる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが日本が再生した時代である。和歌の力というものの偉大さを今こそ実感すべきである。

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2018年1月 4日 (木)

日本文化と現代の混迷

 

暇を見つけてはいろいろな展覧会に行くようにしています。心が洗われ、安らぎを得ることがあるからです。また歴史などの勉強にもなります。つくづく思うのは、書道・絵画・彫刻・工芸などいずれの分野においても日本人は優秀であり、日本人の創造した文化は素晴らしいということであります。外国から文化・文明を輸入し、それを洗練させ、より高度なものにするというのが日本の特質であります。日本民族は包容力・摂取力があるということであります。その包容力の中核に、日本独自の文化感覚があるのであります。

 

また、日本の芸術・文芸は、皇室・宮廷を中心に継承されてきています。日本皇室は三島由紀夫氏の言われたとおり、「文化の中核」なのであります。天皇・皇室がなくなれば、日本は日本でなくなるのであります。

 

混迷の時期にある現代世界において、東西両文明の融合、物質文明と精神文化の調和、各民族宗教の融和による現代の救済を実現するために、強靱ではあるが柔軟性と寛容性に富む日本文化伝統が大きな役目を果たすと考えられます。さらに、日本の宗教的柔軟性・無限包容力は、地球上の様々な民族や国々や宗教や文化が互いにその独自性を保持しつつ融和し調和していくために大きな働きをするのではないでしょうか。

 

日本民族は、アジアの中にあり、アジアの各地の文化を吸収して来ました。そして日本へ輸出した国においてすでに衰退してしまった文化を今日においても温存させ発展させ洗練させてきました。今後もそうでありましょう。

 

これまでの日本は外国から文化を輸入することが多く、外国へ輸出することは少なかった。今日の世界は、文化・文明そして思想・宗教が行き詰まりを見せ、混迷の時期を迎えています。こうした時期において日本は、これからは日本の文化的特質をによって世界的混迷打開のために貢献するべきでありましょう。

今こそ、神話時代から今日に至るまで続いている日本文化の融合性・包摂性を、政治・思想・教育・外交というあらゆる面において積極的に開顕していくべき時であると思います。今日世界は新しい時代を迎えようとしています。それは日本の時代であります。

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2017年11月28日 (火)

天皇・皇室は日本文化の包摂性の核心

 

 日本民族が異文化との交流を持つ以前の時代の精神、即ち純日本精神ともいうべき精神は、異文化との交流が活発になり日本民族が異文化の影響を強く受けるようになっても決して消滅することはなかった。消滅するどころかますます強靱になっていった。

 

 日本は多くの外来思想を摂取したが、決して無批判取り入れたのではない。むしろ日本の主体性・独自性を高めるために外来思想を借用したといってもいいくらいである。

 

 日本の農耕文化を基底にした信仰共同体の祭り主・日本天皇が、日本の文化的・宗教的中心に存在したという尊い事実が、日本が実に積極的に次々と大陸から外来文化を受け入れても、日本の独自性を喪失しなかった最も大きな原因である。天皇及び皇室が日本文化の独自性の核として不動に存在していたがゆえに、外来文化を積極的に受入れ融合しても日本の独自性を喪失することはなかったのである。

 

 山口悌治氏は「主体性と開放性を両面に持った日本民族の精神構造。…その構造の『核』となってゐるものが、日本民族の神話なのである。…特殊性と普遍性といってもいいし、…ナショナルなものとインターナショナルなものとの関係ともいへる。…これらは次元を異にして互ひに矛盾してゐるものではない。本来一つのものが二つに分れて機能し、二つの機能が一つに作用し合って生々発展の無限の契機を生み出すのである」「(日本人が注)仏教を生きるとは、インドをおのれの祖先と感ずることではなくて、仏法をこの国に実現して仏国土となすことだったのである。儒学を骨肉とするとはシナをおのれの祖先と感ずることではなくて、王道国家をこの国に現成するといふことだったのである。」(『萬葉の世界と精神』)と論じておられる。

 

 この主体性と開放性を両面に持った日本民族の精神構造の『核』となってゐる日本民族の<神話>とは、『古事記』『日本書紀』という文献にのこされている神話のみではなく、今日に生きている神話である<祭祀>とりわけ<天皇の祭祀>でもある。信仰共同体日本の祭り主・日本天皇の御存在が、特殊性と普遍性、ナショナルなものとインターナショナルなものを統一し包み込む中心であり、日本文化の包摂性の原点である。

 

 倉前盛通氏は日本文化の独自性の保持能力のことを『情報制御装置』と表現して次のように論じておられる。「国家も生物と同じように、自動制御装置なしには生き残れない。日本において、このような自動制御装置の源泉になったものは、…日本民族固有の高度化された“自然祭祀”であった…何でも新しいものに飛びつく新しがり屋であり、何でも外国のものを崇拝する外国かぶれの癖があり、…外国の単語を会話の端にはさんで喜んでいるような、まるで自主性のない民族に見えながら、日本人ほど古代からの共同体祭祀を守り続けてきた民族はない」(『艶の発想』)

 この信仰共同体の祭り主が天皇であらせられる。外来の文化も思想も、日本の独自性・日本の伝統信仰が厳然としてあるがゆえに寛容に包容したのである。日本の独自性を保守し伝統を大切にすることが、外国から新しいものを取り入れる素地だったのである。日本伝統精神はあくまでも護り抜くという自主精神が、如何なる外来文化をも受入れそれを包摂・融合する拠り所となっていたのである。その自主精神の体現者が天皇であらせられる。

 

 日本の独自性を保守し伝統を大切にすることの中心点に千古一貫して皇室の存在があった。日本の最も古き伝統の保持者たる皇室が新しき外来文化文明を消化したのである。

 

 三世紀に大陸から多くの文明が渡来した。それはまず皇室にもたらされ、やがて全国に普及した仏教がその最もよい例である。壬申の乱は唐文化の輸入に熱心であった近江朝廷と日本古代信仰を重視した天武天皇のとの戦いであったといわれる。しかし、天武天皇は、乱の後の天武天皇二年(六七三)に、壬申の乱の戦没者慰霊のため、飛鳥の川原寺において一切経の写経をなさしめた。天武天皇は、『古事記』の編纂を命じられ、神道精神を基本にした政治を行われた。しかし一方でこうして外来宗教たる仏教も重んじられた。以後、朝廷においては儒教・仏教という外来宗教・思想そしてそれに基づく様々な制度を用いるようになった。

 

 とりわけ仏教は、皇室によって全国に普及した。持統天皇の御代(西暦六八六~六九六)に全国に六四八の寺院がつくられた。天平十三年(七四一)には、聖武天皇により全国に国分寺・国分尼寺建立の勅命が下された。また東大寺大仏の造立も行われた。このように仏教は日本伝統信仰の祭祀主である天皇によって公認され全国に広められた。

 

 天皇及び皇室は、日本の保守の中心であるとともに革新の中心でもあったのである。明治以後の近代化も、『五箇条の御誓文』を拝しても明らかなように日本文化の保守の中心である天皇の大号令によって行われた。日本的変革即ち維新の原理が<復古即革新>とされるのは実にこういうことなのである。そして大化の改新・明治維新を見れば明らかな通り、日本の変革のすなわち維新の原点には常に天皇がいましたのである。

 

 日本の文化伝統は決して偏狭なものではなく、大らかにして開放的、そして革新の気に満ちたものである。そして日本天皇は民族の独自性・求心力の核であったが、それと同時に世界性・開放性・変革性の中心でもあったのである。

  

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2017年7月12日 (水)

「言霊のさきはふ國」日本

日本民族は、言葉を神聖視してきた。日本人は、萬物は言葉=神によって成ってゐると信じた。即ち言葉が事物の本質であるといふことを本然的に信じてゐた。

 

日本の國は、「言霊の幸はふ國」といはれる。日本は、言葉の霊が栄える国であり、言葉の霊の力によって生命が豊かに栄える国である、といふ意味である。日本人は、言葉に霊が宿ると信じ、言葉には生命を持ち、言葉を唱へることによってその霊の力が発揮されると信じた。

 

『御託宣』『神示』は神霊が籠り神威が表白された言葉である。『祝詞』は人間が神への訴へかけた言葉であり、『歌』も人間の魂の他者への訴へである。祝詞にも歌にも霊が込められてゐる。祝詞を唱へ歌を歌ふと、そこに宿る言霊が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言霊の幸はふ」といふことである。日本文藝の起源はここにある。

 

日本の古代信仰のみならずあらゆる宗教は、神や仏に対して祈りを捧げたり経典を読誦したり、題目や称名念仏など特定の言葉を唱へることが基本的行事である。

 

折口信夫氏は、「(言霊信仰とは)古くから傳っている言葉の持ってゐる霊力・魂というものを考へてゐるのであり、それが言霊、つまり言語の精霊である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・霊魂があると考へた。それが言霊である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の霊魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる霊魂が働きかけると信じてゐたのである。」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

「言霊のさきはふ國」といはれるわが國においては、祝詞や歌は何よりも大切な神への捧げものとされた。日本文藝の起源は、神への訴へかけである。やまとうた・和歌は神聖な文藝であると考へられてゐた。神に対してだけでなく、恋人や親や死者など他者に対する何事かを訴へかけが、日本文藝の起源である。

 

他者に対して何事かを訴へるものが「歌」であり、何事かを語りかけるものが「物語」である。「うた」の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。神に自分の心・神への願ひ事を訴へることが歌の起源である。

 

日本では太古から、天地自然の奥に生きてをられる天地の神に、五穀の豊饒や民の幸福を祈るまつりごとが行はれてゐた。そのまつりごとにおいて祭り主が神憑りの状態で「となへごと」が発した。神憑りの状態から発せられた「となへごと」が度々繰り返された結果、一定の形をとるやうになったのが祝詞である。それが「やまとうた」(和歌)の起源である。

 

祭祀における「となへごと」は「やまとうた」のみならずわが國の文藝全体の起源である。「やまとうた」はまつりごとから発生したのである。日本人の言霊信仰が歌などの日本文藝を生んだといへる。

 

「敷島の日本(やまと)の國は言霊のさきはふ國ぞまさきくありこそ (敷島の大和の國は言霊の力によって、幸福がもたらされてゐる国です。どうか栄えて下さい、といふほどの意)」

 

これは、『萬葉集』柿本人麻呂歌集に収められてゐる歌である。この歌は言霊の霊力が発揮されて、人の幸福が実現することを祈り予祝した歌である。

 

山上憶良の「好去好来(かうこかうらい)歌」(遣唐使の出発に当たってその無事を祈り祝福した歌)には、

 

「神代より 言ひ傳(つ)て来らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言霊の 幸はふ國と 語り繼ぎ 言ひ繼がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり…。(神代以来言い伝えられて来たことですが、そらみつ大和の國は皇神の威徳が厳然としてゐる國であり、言霊が幸をもたらす国であると、語り継ぎ、言ひ継いでき来ました。それは今の世の人もことごとく目の当たりに見て知っゐます…、といふほどの意)」

 

と歌はれてゐる。この憶良の歌について保田與重郎氏は、「憶良は、實は専ら儒佛の思想を喜んだ人で、その方では當時の代表的な文人であるが、その人が歌った歌の中に、言霊の幸ふ國を云ひこれを今の目のまへに見たと歌ひ、聞いたと云うてゐるのは、却って、かういふ傾向の人の言葉だけに、尊い道のありさまを云ふものである。…萬葉集のありがたさは、かういふ道のありさまを示してゐるところにある。」(『言霊私観』)と論じてゐる。 

古代日本人は、言葉の大切さ、偉大さを本然的に強く自覚し信じ、言葉の霊力によって、幸福がもたらされてゐる国が大和の国であると信じてゐたことが、この二首の歌によって理解できる。

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