2017年6月22日 (木)

わが國の伝統的倫理観念・國家観の興起が緊急の課題

 

 人間が本然的に持っている相互扶助の精神が発達拡大することにより國家が成立する。國家とは、人と人とがお互いに協力して生活していく共同体であるという本質を忘却し、國家を搾取機構・権力機構としてのみとらえれば、「國を愛する」とか「國に忠誠を尽くす」などという心は起こらない。まして生命を懸けて國を守ろうなどという気は起こらない。 

 

 また、個人の生活が、物質的・経済的条件のみで成り立っているのではなく、精神的信仰的道義的価値が無くしては成り立たないのと同様に、國家もまた決して経済的・物質的・政治権力的機構ではない。精神的・信仰的・道義的共同体である

 

國民の自由と民主的な政治の根底には、それを支える正しき國家観と共に正しき道義観念・哲學が必要である。しかし、わが國民は、戦後日本のいわゆる民主化が進行する過程において、伝統的権威や慣習に制約されることが少なくなった。それだけに、一層自己を統制することが必要である。

 

 戦前の日本には、『教育勅語』に集約される正しき道義観があったし、「忠君愛國」「敬神崇祖」という正しき信仰精神があった。しかし戦争に敗北したことにより、それらは「軍國主義」「封建道徳」の名を着せられて排撃されてしまった。そしてわが國は道義観の稀薄な「自由と民主主義」「個人の尊重」が声高に叫ばれて来たのである。

 

 わが國には「恥を知る」という倫理観がある。「日本文化は名と恥の文化である」と言われるほどに、わが國民は恥をかくことを嫌うし、名がすたること忌み嫌ってきた。恥をかかさせることに何よりも怒りを覚える國民であったし、恥ずべきことはしないことを何よりも重んじてきた國民である。

 

 ところが、今日の若者たちの中には浮浪者でも乞食でもないのに平気で地べたに座り込んで話をしたりものを食べている者がいる。こういう若者たちを<恥知らず>というのである。若者だけではない。政界・官界・財界のエリートたちも<恥知らず>が多くなってきている。だからわが國近年の外交は屈辱外交を繰り返しているのである。

 

 わが國は、阪神淡路大震災・東日本大震災の時、圧倒的多数の国民は、道義精神を発揮し、整然と秩序正しく行動し、お互いが助け合った。日本國はまだまだ道義精神を失ってはいないのである。

 

わが國のすぐれた伝統精神・倫理観念・國家観をより一層興起せしめねばならない。問題はその方法論である。一番大切なのは、家庭と學校における教育なのであるが、これがおかしくなっているのだから事は深刻なのである。

 

 家庭においては親たちが子供の鏡となるような生活を営むことが大事であるし、學校教育においてはわが國のすぐれた古典を教育すべきである。

 

 人間は伝統的な諸価値によって決定される正しい行動の規範に基づいて生活することによって、真の自由と幸福とを得ることができるのである。

 

 混迷の淵にある祖國日本を起死回生せしめるには、戦後民主主義を否定し、わが國の伝統的な國家観と道義精神をより興起せしめなければならない。それが文字通り専制と隷従、圧迫と偏狭を永遠に除去し、わが國國民が真の平和と自由を獲得する道である。

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2017年5月10日 (水)

武士道と教育

日本伝統の武道を学校教育に大いに取り入れるべきである。武道とは、相手を力でもって倒すという競技即ち単なる格闘技ではない。剣道・柔道・合気道・空手道・弓道といった武道は、道徳・倫理精神と共にあった。わが国の武道は、「礼に始まり、礼に終わる」という。「礼」とは単にお辞儀をするというのではない。人のふみ行うべき「道」のことであり、人倫生活上の定まった「形式」のことである。

 

武道を行う人を武士という。武家時代において国民の道義の標準を立て、民衆の模範となり民衆を指導したのが武士である。武士は、日本国民の善き理想であった。いかなる人間活動の道も、思想も、ある程度において武士道の刺激を受けた。武士は武家時代において、決して民衆を武力で支配した階級のみでなく、道義の手本でもあった。明治維新をはじめとしたわが国の変革を断行せしめた重要なる原動力の一つに武士道があった。

 

戦後日本は、戦勝国の日本弱体化政策によって、武士道が軽視された。戦後の一時期は、映画・演劇のチャンバラさえ上映・上演してはいけないとされた。その影響が今に続いて、現代日本は武の心が希薄になっている。そして誤れる「平和思想」「人権思想」が横行し、自分さえ良ければいい。物さえ豊かであればいいという考え方に支配されている。  

 

人権重視・人命尊重が声高に叫ばれ、武道は封建道徳・軍国主義といわれて排除されて続け七十年以上を経過した今日の日本は、軍国主義時代だったといわれる戦前の日本ではとても考えられないような凶悪なる青少年犯罪が日常茶飯事になっている。これは武の精神・武士道を否定した戦後日本が如何に間違った道を歩んだかを証明している。

 

武士道は、忠誠・名誉・尚武・勇気などを重んずる。武士の倫理観は、忠孝、廉恥(心が清らかで、名を惜しみ恥を知る心がつよいこと)、義勇、侠(一身を顧みずに弱い者を助けること)、自己の責務を果たすこと、といわれている。

 

今日の日本に一番欠けているのが、このような武士道精神ではなかろうか。わが国はグローバルスタンダードなどと言っていたずらに外国の真似をして外国と同じになるのではなく、日本人としての倫理観に磨きをかけるべきである。

 

特に政治家と官僚と財界人と教育者とマスコミ人にそれが求められる。武の精神をなくした政治家はしっかりとした判断を下せなくなっている。確固とした人生観・見識・倫理観を持たない悪しき民主主義即ち『皆がやっているからそれでいいという』という精神・習慣を改めなければならない。わが国の伝統的倫理精神たる武士道を今に生かさなければならない。

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2017年4月18日 (火)

小堀桂一郎氏の「教育勅語」に関する卓見

 

小堀桂一郎氏は、『教育勅語』について次のように論じておられます。

 

 

 

「冒頭の〈朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ〉といふのは、釋してみれば、我が國の歴史はまさに宏遠の語がふさはしいほどに古く、その宏遠の昔に皇室の御先祖が既に『徳』なるものを樹立してをられたのだ、と説いてゐる。徳の據って立つ理を言ふのではなく、その徳が行はれてきた歳月の長さに注目させようとしてゐる。次いで〈我カ臣民克ク孝ニ克ク忠ニ億兆世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體の精華ニシテ教育ノ淵源亦實二此ニ存ス〉といふのは、皇祖以下歴代の皇宗が樹て給うたところの徳は臣民が素直に受容れるところとなり、國史を通じて一貫してその美點を實現せしめてきた、の心であり、ここでは〈世々厥ノ美ヲ濟セルハ〉が字眼である。つまり有史以来今日迄、その徳が動揺したことがない、その徳が有効を立證するのは偏にその連續性であり、その徳の有つ不朽の生命力である、との論理が述べられる。これが日本といふ國の國體の精華、即ちその性格が最も特徴的に表現されてゐる點であって、國民教育の淵源は實にこの國體の神髄のうちに其れを求めることができる――」

 

 

 

「明治四十一年にこの勅語の外國語譯 (英・獨・仏・華) が文部省によって作成され、國際社會への紹介と普及が試みられた時、主に想定されてゐたキリスト教文化圏の何れの國に於いても否定的反應に遭遇したことは無かった。…戰後西ドイツの…コンラート・アデナウアーがこの勅語の獨譯文を公邸の執務室の壁に貼って日夜熟讀玩味してゐたといふ逸話は本当のことである」

 

 

 

「教育勅語撰録者達に神道を宗教の一派として捉へる理解はなかった。神道とはその名の表す通り『道』であり、〈斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓にして〉とある通りの『道』なのであって、教祖や祖師の唱へた教義・教理ではなく、言語化されぬままに千何百年かの長い歳月を國民全體によって履み行はれてきた生き方の事なのである」

 

 

 

「背後に斯道の貫通を彷彿と感じさせながら而も明らさまな言葉を以てそれを説いてゐるわけではない。修身教科書の工まずして巧妙な方法を説き明してくれる一の比喩的表現がある。西行法師が伊勢大神宮の御祭日に際して詠んだ感懐として人口に膾炙する、〈何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさのなみだこぼるる〉である。伊勢の杜の奥におはしますものの何者であるかを人は知らない。知らないでもよい。…説き明かす必要はない。ただ〈かたじけなさの涙こぼるる〉の感慨に共感でき、そのかたじけなさを共有できる感性を有してゐれば、そこに立派に聖なるものに對する畏怖と敬虔の感情が湧出する。これは凡そ人間の宗教心といふものの原型であり、道徳の根柢である。この宗教的感情と道徳心とは要するに同じものであり、一切の宗教の教義、あらゆる世教の學理を超えた普遍性を持つ。道徳教育の重要な一點は、この〈かたじけなさ〉の感情、言葉で指し示すことはできず、又その必要もない〈なにもの〉かの聖なる存在に向けての畏怖と敬虔の情を育成することである。それは占領基本法が禁止する宗教教育でないことは慥かであるが、然し必要にして十分な宗教心を育成する道徳教育の模範型だと称してよいものである」(『「國家理性」考』)

 

 

 

付け加へることはありません。卓見と存じます。

 

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2017年4月 7日 (金)

「一君万民」の思想が差別をなくし國民的和合を実現する

 

「自由」とは、他人の「自由」を侵害しないところに存在するものであり、「人権」も他人の「人権」を十分に尊重するところに存在するのであり、「公平性」は勤勉さ・有能さ・善良さの上に成り立つのである。「平和」とは他人に守ってもらうのではなく自分の努力で築き上げるものである。

 

自由・人権・公平・平和もその根底に、わが國の傳統に根ざした道義精神・自主独立の精神があってはじめて正しく実現するのである。

 

ところが今日のわが國は、自國の傳統に対する誇りを喪失してしまっているから、自由とは「勝手気まま」となり、人権は「エゴイズムと欲望の充足」となり、公平よりも平等を強調し「自分より能力のあるもの・勤勉なものを引きずり下ろす精神」が横溢し、平和とは「祖國が侵略されても戦わない敗北主義」と成り果てている。これではわが國亡國への道を歩まざるを得ない。

 

しかいわが國には建國以来三千年という光輝ある歴史と傳統がある。「愚者は歴史を経験するのみだが、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。今日の國難を打開するために歴史に学ばねばならない。わが國には大化改新・建武中興・明治維新という國難を乗り切った歴史がある。その歴史に学ばねばならない。そして日本の國柄、歴史と傳統に回帰し開顕しなければならない。

 

人間を欲望充足の動物と考え、國家を権力機構・搾取機関と考えているかぎり、國家と個人は永遠にそして絶対的に相対立する関係となる。人権問題を考える場合、その根本において、人間とは如何なる存在であるのか、國家とは何かが、正しく把握されなければならない。

 

人間は絶対的にして永遠の宇宙大生命の地上における自己実現である。國家とは人々が共同して生活する精神的結合体である。ゆえに、人も國家も本来的には倫理的存在である。個としての人間は共同体なくして生きていくことはできない。歴史と傳統という縦(時間)の思想、共同体における共生という横(空間)の思想を回復しなければ個人も共同体も滅亡せざるを得ない。

 

歴史からも共同体からも切り離された個人は存在し得ない。歴史傳統の体現者であり國民統合の中心者を否定することが國家および國民の破壊をもたらすのである。

 

「人権」という言葉がこれまで左翼にからめ取られ、天皇を君主と仰ぐわが國の國柄の否定・傳統破壊の道具としてまで用いられてきた。戦後の「差別撤廃運動」はそのまま「天皇制否定運動」でもあった。しかし、天皇を君主と仰ぐ日本國体の開顕こそが、真の差別撤廃の原基である。

 

全國水平社設立の中心人物西光万吉氏の「人間に光あれ、人の世に熱あれ」のあの叫びをもう一度深く思うべきである。光のある人間を生み、熱のある世の中を実現するには、正しき人間観と國家観の確立がなされなければならない。そして西光万吉氏が主張した「高次タカマノハラの展開」(高天原が天照大神を中心に八百万の神々が同胞として生活していたように、地上においても祭祀主天皇を中心として全國民が同胞として生活する理想世界の実現)が今日においても光を放つ思想であると信ずる。

 

わが國の傳統たる「一君万民」の思想そして「天皇の民」の自覚が、差別をなくし國民的和合を実現するのである。

 

日本國の傳統的國家観・君民一体の國體を、西洋の絶対君主支配下の体制と同様なものとしてこれを排除し否定してはならない。天皇および天皇を中心とする國柄を「差別の根源」として否定することは誤りである。天皇を中心とする國柄を護っていくことによって國民としての権利・生命・福祉・安全が真に守られ尊重されるのである。

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