2017年4月18日 (火)

小堀桂一郎氏の「教育勅語」に関する卓見

 

小堀桂一郎氏は、『教育勅語』について次のように論じておられます。

 

 

 

「冒頭の〈朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ〉といふのは、釋してみれば、我が國の歴史はまさに宏遠の語がふさはしいほどに古く、その宏遠の昔に皇室の御先祖が既に『徳』なるものを樹立してをられたのだ、と説いてゐる。徳の據って立つ理を言ふのではなく、その徳が行はれてきた歳月の長さに注目させようとしてゐる。次いで〈我カ臣民克ク孝ニ克ク忠ニ億兆世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體の精華ニシテ教育ノ淵源亦實二此ニ存ス〉といふのは、皇祖以下歴代の皇宗が樹て給うたところの徳は臣民が素直に受容れるところとなり、國史を通じて一貫してその美點を實現せしめてきた、の心であり、ここでは〈世々厥ノ美ヲ濟セルハ〉が字眼である。つまり有史以来今日迄、その徳が動揺したことがない、その徳が有効を立證するのは偏にその連續性であり、その徳の有つ不朽の生命力である、との論理が述べられる。これが日本といふ國の國體の精華、即ちその性格が最も特徴的に表現されてゐる點であって、國民教育の淵源は實にこの國體の神髄のうちに其れを求めることができる――」

 

 

 

「明治四十一年にこの勅語の外國語譯 (英・獨・仏・華) が文部省によって作成され、國際社會への紹介と普及が試みられた時、主に想定されてゐたキリスト教文化圏の何れの國に於いても否定的反應に遭遇したことは無かった。…戰後西ドイツの…コンラート・アデナウアーがこの勅語の獨譯文を公邸の執務室の壁に貼って日夜熟讀玩味してゐたといふ逸話は本当のことである」

 

 

 

「教育勅語撰録者達に神道を宗教の一派として捉へる理解はなかった。神道とはその名の表す通り『道』であり、〈斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓にして〉とある通りの『道』なのであって、教祖や祖師の唱へた教義・教理ではなく、言語化されぬままに千何百年かの長い歳月を國民全體によって履み行はれてきた生き方の事なのである」

 

 

 

「背後に斯道の貫通を彷彿と感じさせながら而も明らさまな言葉を以てそれを説いてゐるわけではない。修身教科書の工まずして巧妙な方法を説き明してくれる一の比喩的表現がある。西行法師が伊勢大神宮の御祭日に際して詠んだ感懐として人口に膾炙する、〈何事のおはしますをばしらねどもかたじけなさのなみだこぼるる〉である。伊勢の杜の奥におはしますものの何者であるかを人は知らない。知らないでもよい。…説き明かす必要はない。ただ〈かたじけなさの涙こぼるる〉の感慨に共感でき、そのかたじけなさを共有できる感性を有してゐれば、そこに立派に聖なるものに對する畏怖と敬虔の感情が湧出する。これは凡そ人間の宗教心といふものの原型であり、道徳の根柢である。この宗教的感情と道徳心とは要するに同じものであり、一切の宗教の教義、あらゆる世教の學理を超えた普遍性を持つ。道徳教育の重要な一點は、この〈かたじけなさ〉の感情、言葉で指し示すことはできず、又その必要もない〈なにもの〉かの聖なる存在に向けての畏怖と敬虔の情を育成することである。それは占領基本法が禁止する宗教教育でないことは慥かであるが、然し必要にして十分な宗教心を育成する道徳教育の模範型だと称してよいものである」(『「國家理性」考』)

 

 

 

付け加へることはありません。卓見と存じます。

 

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2017年4月 7日 (金)

「一君万民」の思想が差別をなくし國民的和合を実現する

 

「自由」とは、他人の「自由」を侵害しないところに存在するものであり、「人権」も他人の「人権」を十分に尊重するところに存在するのであり、「公平性」は勤勉さ・有能さ・善良さの上に成り立つのである。「平和」とは他人に守ってもらうのではなく自分の努力で築き上げるものである。

 

自由・人権・公平・平和もその根底に、わが國の傳統に根ざした道義精神・自主独立の精神があってはじめて正しく実現するのである。

 

ところが今日のわが國は、自國の傳統に対する誇りを喪失してしまっているから、自由とは「勝手気まま」となり、人権は「エゴイズムと欲望の充足」となり、公平よりも平等を強調し「自分より能力のあるもの・勤勉なものを引きずり下ろす精神」が横溢し、平和とは「祖國が侵略されても戦わない敗北主義」と成り果てている。これではわが國亡國への道を歩まざるを得ない。

 

しかいわが國には建國以来三千年という光輝ある歴史と傳統がある。「愚者は歴史を経験するのみだが、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。今日の國難を打開するために歴史に学ばねばならない。わが國には大化改新・建武中興・明治維新という國難を乗り切った歴史がある。その歴史に学ばねばならない。そして日本の國柄、歴史と傳統に回帰し開顕しなければならない。

 

人間を欲望充足の動物と考え、國家を権力機構・搾取機関と考えているかぎり、國家と個人は永遠にそして絶対的に相対立する関係となる。人権問題を考える場合、その根本において、人間とは如何なる存在であるのか、國家とは何かが、正しく把握されなければならない。

 

人間は絶対的にして永遠の宇宙大生命の地上における自己実現である。國家とは人々が共同して生活する精神的結合体である。ゆえに、人も國家も本来的には倫理的存在である。個としての人間は共同体なくして生きていくことはできない。歴史と傳統という縦(時間)の思想、共同体における共生という横(空間)の思想を回復しなければ個人も共同体も滅亡せざるを得ない。

 

歴史からも共同体からも切り離された個人は存在し得ない。歴史傳統の体現者であり國民統合の中心者を否定することが國家および國民の破壊をもたらすのである。

 

「人権」という言葉がこれまで左翼にからめ取られ、天皇を君主と仰ぐわが國の國柄の否定・傳統破壊の道具としてまで用いられてきた。戦後の「差別撤廃運動」はそのまま「天皇制否定運動」でもあった。しかし、天皇を君主と仰ぐ日本國体の開顕こそが、真の差別撤廃の原基である。

 

全國水平社設立の中心人物西光万吉氏の「人間に光あれ、人の世に熱あれ」のあの叫びをもう一度深く思うべきである。光のある人間を生み、熱のある世の中を実現するには、正しき人間観と國家観の確立がなされなければならない。そして西光万吉氏が主張した「高次タカマノハラの展開」(高天原が天照大神を中心に八百万の神々が同胞として生活していたように、地上においても祭祀主天皇を中心として全國民が同胞として生活する理想世界の実現)が今日においても光を放つ思想であると信ずる。

 

わが國の傳統たる「一君万民」の思想そして「天皇の民」の自覚が、差別をなくし國民的和合を実現するのである。

 

日本國の傳統的國家観・君民一体の國體を、西洋の絶対君主支配下の体制と同様なものとしてこれを排除し否定してはならない。天皇および天皇を中心とする國柄を「差別の根源」として否定することは誤りである。天皇を中心とする國柄を護っていくことによって國民としての権利・生命・福祉・安全が真に守られ尊重されるのである。

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