2020年9月 6日 (日)

「日出づる國」への誇り・祖國へ愛を歌った山上憶良の歌


 山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在りし時、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作れる歌

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴(おほとも)の 御津(みつ)の濱松 待ち戀ひぬらむ

 山上憶良が、支那にゐた時、祖國を恋ひ慕って作った歌。山上憶良は、斉明六年(六六〇)~天平五(七三三)年。萬葉集代表歌人の一人。大宝元年(七〇一)に三十五年ぶりに遣唐使が復活し、憶良は遣唐少録に任命された。翌大宝二年、四十二歳の時に渡唐。慶雲四年(七〇七)帰國。晩年の歌が多い。

【大唐】支那のこと。【本郷】祖國日本のこと。【いざ】人を誘ひ自らも行動を起こそうとする時に発する言葉。【子ども】年下あるいは目下の親しい人々に対する呼び掛けの言葉。【日本】日本全体を指す。【大伴の御津】大阪市南部から堺市にかけての一帯(摂南といふ)の難波の津(港)のこと。この辺りは大伴氏及びその配下の久米氏が領有してゐた地であったから「大伴の」といふ。ここから遣唐使の船や九州などに行く船が出発した。大唐にある憶良にとって、この港は祖國の門戸であった。

遣唐使が支那へ行くルートは、①今日の大阪から瀬戸内海を通って行き、壱岐・対馬に寄りながら朝鮮半島の西側を通って、山東半島に上陸するルート、②能登半島から出発して沿海州に上陸するルート、③長崎や鹿児島などから出発して支那の楊州や越州に上陸するルートがあったといふ。
 
「濱松待ち戀ひぬらむ」は、松が擬人化されてゐる。懐かしい祖國日本の海岸の松の風景を目に浮かべて歌ってゐる。また、「御津の濱松」は下の「待ち戀ひぬらむ」を出すための序詞といふ説もある。                           

 通釈は、「さあ、皆の者よ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の濱松も、さぞ待ちわびてゐるであらうから」といふ意。                             

 「日本」という漢字に「やまと」といふ傍訓を付したところにこの歌の重要性がある。「日本」とは「日の昇る國」といふ意味である。

 聖徳太子は、推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣隋使として支那に遣はされ、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」といふ「國書」を隋の煬帝に呈した。日本國の誇りを高らかに宣揚し、アジアの大帝國・隋に対して、対等どころか大いなる自尊心をもって相対された。その御精神が山上憶良に引き継がれてゐるのである。

 聖徳太子は外来宗教たる仏教を深く信仰せられた方であるが、素晴らしい日本人としての御自覚をお持ちになられてゐた。憶良もまた、唐において色々なことを学びこれから帰國しようといふ時に、「早く日本へ」と歌ひあげたのである。

 「早く日本へ」といふ言葉に、「日没する國」にゐる憶良の「日出づる國」への恋慕の思ひがにこめられてゐる。憶良は、唐との対比において日本を自覚し、祖國への愛・日本人としての誇りを歌ったのである。それは、わが国は、太陽の昇る国であり、太陽神たる天照大神を祖神として仰ぎ、天照大神の生みの子たる天皇を君主として戴く国であるといふ大いなる自覚である。
 
この歌は望郷の歌であると共に、祖国愛謳歌の歌である。今日のわが國政治家などの支那に対する卑屈な態度と比較すると、やはり民族勃興期・國家建設期の日本は素晴らしい人がゐたと言ふべきである。
                  
 また、憶良には、自分たちが早く日本へ帰りたいといふ思ひと共に、自分たちが学んだ学問を早く祖国へ持ち帰って祖国の役に立てたいといふ思ひもあったと思はれる。


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2020年8月29日 (土)

勅撰和歌集について

和歌は、天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが國に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は和歌と切り離し難く一體である。

天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されるのである。

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに御歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

言霊が籠る和歌(やまとうた)は、日本の最も純粋にして最も固有な文藝である。「和歌」は、「漢詩(からうた)」に対して用いられた言葉である。「やまとうた」といふ言葉を意識的に用い出した人は、紀貫之(平安前期の歌人、歌学者。三十六歌仙の一人。仮名文日記文学の先駆とされる『土佐日記』の作者である。加賀介、土佐守などを歴任。醍醐天皇の勅命で『古今和歌集』撰進の中心となった)といはれてゐる。

宇多天皇の御代の寛平五年二月、菅原道真の遣唐使廃止の奏状により、唐との交流が途絶へ、それまでの外来文化模倣を反省し、日本固有文化の自覚が強まり、和歌が勃興した。大陸崇拝から国民的自覚へと転換した。漢才の活用もその根底に和魂がなければならないといふ自覚が起きた。これを「国風文化」といふ。そして、漢文学への対抗として、延喜五年四月十八日に、勅撰『古今和歌集』が撰進された。

国風文化勃興の中心人物が、菅原道真と紀貫之である。保田與重郎氏は、「やまとうたを稱へて、他国に対して和歌を主張するといふことは、貫之に始り、これが貫之の英雄たる本質である。」(『やまとうた考』)と論じてゐる。

紀貫之が執筆した『古今和歌集』の「仮名序」は、和歌とはいかなるものであるかが説かれた基本的な文献である。

それには、「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁(しげ)きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出(いだ)せるなり」(やまとうたは、人の心を種にたとへると、それから生じて出た無数の葉のやうなものである。この世に生きてゐる人は、様様な事に遭遇するので、心に思った事を、見た事聞いた事に託して言ひ表はすものである。)「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)と論じられてゐる。

「天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ」といふのは決して誇張ではなく、古代・中古においては本当にそう信じられてゐたのである。つまり歌を詠むのは、魂鎮め・鎮魂の行事である。和歌は、ふつふつと湧きあがってくる素直なる心・色々な思ひ・魂の叫びを、「三十一文字」にして固め成して鎮める働きをする。人間のまごころを表白する抒情詩である。日本民族の人智のさかしらを超えたまごころの調べである。

古代から現代に至る日本人の思想精神を正確にあるがままに自己にものとするには、古代の人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を詠むことによって可能となる。

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2020年8月26日 (水)

元明天皇御製に学ぶ


 和銅元年戊申、天皇の御製の歌
                              
     
ますらをの 鞆(とも)の音すなり もののふの おほまへつぎみ 楯立つらしも 

 和銅元年は西暦七〇八年。第四三代・元明天皇(天智天皇第四皇女・持統天皇の異母妹)の御製。

元明天皇は、斉明天皇七年(六六一)-養老五年(七二一)。草壁皇子の妃となり、文武・元正両天皇をお生みになる。二十九歳の時、夫君・草壁皇子が薨去され、さらに皇子の文武天皇が崩御されると、御年・四十七歳で天皇に即位された。在位八年二ヵ月で、皇女・元正天皇に譲位される。

 「ますらを」は、武人のこと。漢字で益荒男(ますます荒々しい男)と書く。人並み外れて強い男といふ意。

 「鞆」は、弓を射る時に用いる皮製の防具で、左手の指の内側に巻きつけて弦が当たるのを防いだ。「鞆の音すなり」は、兵士たちが弓を引く練習をしてゐる音がするといふ意である。

 「もののふ」は、宮廷に仕へる文武百官。「おほまへつぎみ」は、大臣のこと。「楯」は、矢・刀・鉾などを防ぐ防具。

 「おほまへつぎみ」とは太政大臣・左右大臣・内大臣の総称。この時の右大臣は、石上麻呂(いそのかみのまろ)。そして石上氏は元来、武の力で天皇にお仕へして来た物部氏であったので、この御歌の「もののふのおほまへつぎみ」を、石上麻呂とする説がある。物部氏は石上神宮の鎮座する辺りの氏族であり、朝廷の武を司ったといふ。

 大和朝廷の武器庫のあったところに鎮座し、建甕槌神(たけみかづちのかみ)が中洲(なかつくに)を平定した時(出雲の國譲り)に帯びた神剣の御霊である「布都御魂大神」(ふつのみたまおほかみ)を、御祭神としているお宮が石上神宮である。

 しかし、通説では「おほまへつぎみ」を、石上麻呂と特定せず、広く元明天皇の侍臣をいふとしてゐる。

 通釈は、「勇敢な兵士たちの鞆の音がする。もののふの大臣が楯を立てて戦ひの準備をしてゐるらしい」といふほどの意。               

 「楯を立てる」とは、戦争の準備をしてゐるといふことである。緊迫感のある歌。しかも、女帝の御歌であるところに注目点がある。

 この御製が歌はれた年の翌年の和銅二年(七〇九)三月に、陸奥・越後の蝦夷を撃つための軍が派遣された。この御製は、東國警備・蝦夷討伐準備のための兵馬の訓練をしてゐる様子或いは狩りへ出発する光景を歌はれたものといふのが通説てある。

 しかし、この御製に和した次の御名部皇女の御歌を拝すれば、そのやうなことを歌はれた御歌ではないとする説もある。

 この御歌が詠まれたのは、文武天皇が崩御され、元明天皇が御即位あそばされた翌年であるから、何か政情不安があったのかもしれない。

 梅原猛氏は、物部氏の系統である石上麻呂は、元明天皇の奈良への遷都の御計画に反対して不気味な動きをしてゐたと説く。石上麻呂の配下の兵士たちが朝早く楯を立てて出陣の準備をしてゐるといふのである。

 それはともかく、この御製には、天皇として責任を強く感じられてゐる気迫が漲ってゐる。「鞆の音すなり」に強い緊迫感溢れる響きがある。

 通説に従へば、この歌は狩りの準備か軍事訓練の際の御製であり、天皇の御命令に従って、東北へ出発する兵士たちの心を思はれて、平安と無事を祈られた御歌である。

御名部皇女が妹君・元明天皇を励まされた御歌 

   
 御名部皇女(みなべのひめみこ)の和(こた)へ奉(まつ)れる御歌
          
わが大君 ものな思ほし 皇神(すめがみ) の嗣(つ)ぎて賜へる 吾無(われな)けなくに

 御名部皇女が元明天皇の御製にお答へした御歌。御名部皇女は、天智天皇の皇女にして元明天皇の同母姉君である。母は、曽我石川麻呂の娘・宗我嬪。高市皇子の室となり、藤原氏の讒言によって滅ぼされた長屋王をお生みになった。
 
「わが大君」は、元明天皇の御事。たとへ実の姉君であっても、妹に対して「わが大君」と呼びかけられたのである。「ものな思ほし」のナは禁止の副詞。「もの思ふ」は思ひ悩む意。

 「皇神」は皇祖神の御事。スメは、「アマテラススメオホミカミ」(天照皇大神)「スメラミコト」(天皇)「スメミマノミコト」(皇御孫命)のスメと同じ。「スメラ」とは最高・最貴の語の語根であって、「皇神」は神聖な神・皇祖神の御血統であることを端的に意味する言葉。「スメラ」は、「澄む」といふ形容詞から発生したとされる。「濁りなき高貴さの属性」に力点を置いた尊称で、「政治的・宗教的に聖別された状態」を意味するといふ。

 「嗣ぎて賜へる」のツギテは継ぎ手か。「後継ぎを賜った」といふ意と思はれる。御名部皇女と高市皇子との間の御子・長屋王は、当時三十三歳。一方、文武天皇の皇子・首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)はまだ八歳であらせられた。

 長屋王は有力な皇位継承者であられたので、その母君であられる御名部皇女がこのやうな御歌を歌はれたのである。元明天皇を励まされた背景には、有力な皇位継承者・長屋王を皇子にお持ちになってゐる自信があったからであだといはれてゐる。しかし、長屋王は、前述した通り、聖武天皇御即位の後、藤原氏の讒言によって滅ぼされる。

 「吾無けなくに」は、私がゐないわけではない、といふ意。
 
通釈は、「わが大君よ、ご心配なさいますな。皇祖神から後継ぎを賜ってゐる私がをりますから」といふほどの意。つまり、「わが大君よ、何も心配なさいますな。皇祖神の御血統を継承する長屋王が居りますから」と申し上げて、何事かを心配されておられる元明天皇を励まされてゐるのである。

 この元明天皇が抱かれた「ご心配」とは一体どういふ事なのかが問題なのである。妹君の「ますらをの鞆の音すなりもののふのおほまへつぎみ楯立つらしも」といふ御製に答へ奉って、姉君が「わが大君ものな思ほし皇神の嗣ぎて賜へる吾無けなくに」と歌はれた二首の御歌のしらべの緊迫感を拝すれば、「おほまへつぎみ」の軍事的行動の準備とは、単に蝦夷の不穏な動きへの準備よりも重大な不穏な動きへの準備とする説が有力になって来る。

 歌の配列も、このお二方の御歌の前に、後に滅ぼされる長屋王の「宇治間山」の御歌が置かれてゐる事も何か意味があるやうに思はれる。

 『萬葉集』は大伴家持が編纂したといふ説が有力である。家持及び大伴氏は、藤原氏に対抗し、藤原氏から圧迫を受けてゐた。『萬葉集』は藤原氏への批判といふか反発の思ひがその奥底に流れてゐるといふのである。ゆゑに、歌の配列も意味深長なものになってゐるといふのである。

 また、保田與重郎氏は、本居宣長の「嗣ぎて賜へる吾無けなくに」の「吾」は「君」の誤記であるといふ説に賛同してゐる。さうすると、「皇神の嗣ぎて賜へる」は「皇祖神から与へられられ継承されてきた」といふ意になり、「あなたは皇祖神の血統を継ぐ天皇なのだから心配することはない」といふ意味になる。

 保田氏は、「『皇神の継ぎて賜へる』といふのは、皇位はすべて天つ神皇祖神の議(はか)り定められしものだといふ天降りの思想を現されたものにて、御位は天つ神々の定め賜ふものゆゑ、大御心にかけて思ひ案ぜられるやうなことは何一つもあるわけがありませぬ。……大御心安らかにませと、お力づけ、またお慰め申された御歌である」(わが萬葉集)と説かれてゐる。

 文学作品や歴史書に限らず、重要な文献は一字違っただけで、意味が全く変わってしまふ。文献学が如何に大事かが明らかである。

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2020年8月20日 (木)

國難の時期こそ、「勅撰和歌集」の撰進が行われるべきである。

國難の時期こそ、「勅撰和歌集」の撰進が行われるべきである。

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。

天皇が和歌を詠ませられると共に、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。

天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。

天皇の國家統治は、何回も主張するが、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されてきたのである。

阿部正路氏は、「日本の傳統の最も荒れ果てた現代にこそ新しい真の意味での勅撰集が編まれるべきではないだろうか。それが具体化するかどうかに、日本の傳統の意志の行方が見定められることになるのだと考える。…勅撰集に明らかに見ることのできる、一系の天皇の、和歌に対するゆるぎない信頼の中においてこそ《悠久》の世界を具体化し得たのであった」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。

國難の時期である今日において、まさに、「國風文化」が復興しなければならない。大化改新といふ大変革、白村江の戦い・壬申の乱といふ大動乱・大国難の時に『萬葉集』が生まれ、平安中期の國風文化勃興の時に『古今和歌集』が生まれ、承久の變の時に『新古今和歌集』が生まれたやうに、國難に晒されてゐる今日において、偉大なる「勅撰和歌集」が撰進されるべきであると信ずる。それが言霊の復活であり、世の乱れを正す大いなる方途である。

『萬葉集』は日本の傳統精神の文藝的結晶である
「やまとうた(和歌))は、日本の最も純粋にして最も固有な文藝である。「やまとうた」は、「まつりごと」から発生した。日本では太古から、天地自然の中に生きてゐる天地の神に、五穀の豊饒や民の幸福を祈る「まつりごと」が行はれてきた。その「まつりごと」において祭り主が神憑りの状態で「となへごと」が発した。それが度々繰り返され一定の形をとるやうになったのが「やまとうた」(和歌)の起源である。

「和歌」は、「漢詩(からうた)」に対して用いられた言葉である。「やまとうた」といふ言葉を意識的に用い出した人は、紀貫之(平安前期の歌人、歌學者。三十六歌仙の一人。仮名文日記文學の先駆とされる『土佐日記』の作者。加賀介、土佐守などを歴任。醍醐天皇の勅命で『古今和歌集』撰進の中心となり、「仮名序」を執筆した)である。

和歌は、大化改新・白村江の戦・壬申の乱が起った國家激動の時代における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、後鳥羽上皇の承久の変における『新古今和歌集』といふやうに國體意識の勃興と切り離せない。「勅撰和歌集」の撰進とは言霊の復活である。

少なくとも衆参両院議員、中央省庁の役人は、やまと歌を詠み、「歌会始」において、天皇陛下にご覧いただくべきである。それが古代日本以来の伝統である。

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2020年8月19日 (水)

〈日本なるもの〉の回復の時代に生まれた歌集が『古今和歌集』である

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂された。『古今和歌集』は仮名で書かれた仮名序と真名序の二つの序文を持つが、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜12年(912年)ごろとの説もある。

撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人である。序文では友則が筆頭にあげられているが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。

『古今和歌集』は、勅命により国家の事業として和歌集を編纂するという伝統を確立した作品でもあり、八代集・二十一代集の第一に数えられる。平安時代中期以降の国風文化確立にも大きく寄与し、『枕草子』では古今集を暗唱することが当時の貴族にとって教養とみなされたことが記されている。収められた和歌のほかにも、仮名序は後世に大きな影響を与えた歌論として文学的に重要である。

『古今和歌集』は上で触れた『枕草子』で見られるように古くからその評価は高く、『源氏物語』においてもその和歌が多く引用されている。また歌詠みにとっては和歌を詠む際の手本としても尊ばれ、藤原俊成はその著書『古来風躰抄』に、「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べており、これは『古今和歌集』が歌を詠む際の基準とすべきものであるということである。この風潮は明治に至っても続いた。ただし江戸時代になるとその歌風は賀茂真淵などにより、『万葉集』の「ますらをぶり」と対比して「たをやめぶり」すなわち女性的であると言われるようになる。

清和天皇・陽成天皇の御代頃から、大陸崇拝熱はさめはじめ、國民的自覚・愛國心が勃興してくる。漢才の活用も根底に和魂がなければその価値を正しく発揮できないといふ思想が起こってくる。

 仁和三年(八八七)、宇多天皇が即位されると、天皇親政の復活と摂関藤原氏の抑制に力を尽くされた。寛平五年(八九三)二月、菅原道真の遣唐使廃止の奏状が提出され、翌年遣唐使を廃止された。唐との交流が途絶へ、それまでの外来文化模倣が反省され、日本固有文化が尊重されるやうになった。

 萩谷朴氏は、「宇多天皇が即位されると、その御一代の政策は、親政の復活と摂関藤原氏の抑圧とに、すべての努力が傾注されることになった。…傳統的な和歌の國風を振作することによって、國體意識を明確にし、摂関藤原氏がひとり政権を壟断すべきでないことを政官界に徹底せしめようという、復古維新の文化政策であった。このために菅原道真が指導者となって、平安朝初期百年の間、科挙(註・支那で行はた官吏の登用試験。隋・唐代に始まり、清代の末期に廃止)の制度のためにする漢詩文全盛の蔭に、男子貴族知識層にはほとんど無縁のものとなっていた和歌の詠作を急速に奨励することとなり、…歌合(註・歌を左右に分け、その詠んだ歌を各一首づつ組み合せて、判者が批評、優劣を比較して勝負を判定する)が盛んに催れ、勅撰和歌集の編纂が企てられ、歌物語が流行することとなった」(『王朝の歌人・紀貫之』)と論じてゐる。

 漢風文化隆盛時代の文藝創作者は概ね男性であって、記紀萬葉時代あれほど活躍してゐた女性の影が薄くなってゐた。女性が復活するのは國風文化が復興した後である。言ひ換へると國風文化復興には女性が深く関ってゐたのである。藤原氏の権力壟断・漢風の隆盛・女性の蔑視は、日本傳統精神の衰退であり隠蔽なのである。

ただ、國風文化衰退の時代であっても、和歌がまったく詠まれなかったといふことはあり得ない。和歌とりわけ恋歌は決して衰退しなかったと考へる。ただ漢風文化が社會的に重んじられてゐたがために、和歌が表面に出なかったといふことであらう。和歌が中絶したといふことは全くあり得ない。
 
わが日本の本来的な精神傳統は、記紀萬葉の世界に明らかなやうに健康的であり開放的であり女性を蔑視してゐない。そこが支那との大きな違ひである。

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2020年8月14日 (金)

和歌の復興と維新


日本人の思想精神を正確に自己のものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を読むことによって可能となる。

佳人にして作家の中河与一氏は「和歌が国風(四宮註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した。」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ実感すべきである。

そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2020年7月22日 (水)

大伴家持の『酒を讃むる歌』について


                          
  太宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首

驗(しるし)なき 物を思はずは 一坏(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし   (三三八)

 大伴旅人の歌。大伴旅人は、天智天皇四年(六六五)~天平三年(七三一)。父は大伴麻呂。母は巨勢郎女。子には家持ちがゐる。和銅三年、左将軍正五位上。没時は大納言従二位。神亀の末年、太宰帥として筑紫に赴任。                  

 「驗なき」は、やってもしょうがない、効験のない、効果のない、役に立たないの意。シルシは効能、効き目の意。「物を思はずは」は、心配するくらいなら、くよくよするのなら。ズハは、何々するくらいならいっそのこと何々とした方がいいといふほどの意。「濁れる酒」は、粕を濾過してゐない酒。「飲むべくあるらし」のラシは、断定的な内容を若干不確実として断定を避けた用法。

 通釈は、「しても甲斐のない心配をするのなら、いっそのこと、一杯の濁り酒を飲んだほうがましだ」といふ意。

 旅人が濁り酒を詠んだ背後には、濁り酒を飲む自分こそが賢人なのだと主張があるのである。「くよくよしなさんな、酒でも飲みなさい」といふ歌で、現代人にもぴったり来る。

 わが國古代においは、祭祀に用いられた酒は神聖な飲み物であった。神嘗祭(新暦十月十七日に行ふ祭事。その年の新米を神に供へる)では新米と共に新酒も供へられる。

 神事には直會といふ行事がある。祭りの後、祭りの参加者が神饌や神酒のおろし物をいただき分かち飲食する行事である。神様が飲食された物を参加者もいただくといふことで、神人合一の境地に入るのである。

 『日本書紀』に、崇神天皇八年の条によると、疫病流行の國難に際し、崇神天皇は國土開拓経営の神であられる大物主大神の御加護を得るべく、大田田根子を神主として祭りを行われた。その祭祀に芳潤無比な神酒が供へられた。その神酒を崇上天皇に献上したときに、諸大夫たちが神宮で詠んだ歌が、

 「此の神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久(いくひさ)  幾久」(この神酒は私の神酒ではない。倭の國を生成された大物主大神が醸造された神 酒である。幾代までも久しく栄えよ、栄えよ、といふ意)
である。

 そして大物主大神は、酒の神とも讃へられてゐる。わが國最古の神社といはれる三輪神社の御祭神である。三輪に掛る枕詞は「味酒(うまさけ)」である。古代には酒は神聖な飲み物として尊ばれたのである。

 しかしこの旅人の一連の酒の歌は、さういふ伝統的な酒への信仰を歌ってはゐない。独酌の楽しさを歌ったともいへる。酒は、神聖な飲み物としての価値を残しながらも、嗜好品として多くの人々に飲まれるやうになったのである。

 そしてあまりにも酒を飲む人が多くなり、色々弊害が起こってきたので、禁酒令とは行かなくても「役人は都の中で宴會をあまりしてはならない。ただし一人二人の親しい者同士で飲むくらいならよろしい」あるいは「旱魃などで民が苦しんでゐる時は飲酒をしてはいけない」といふ『お触れ』が出たくらいである。この一連の歌にはさういふ時代背景がある。
                         
 大伴旅人は、現世を忘却して竹林の中で濁り酒を飲むといふ世捨て人的な世界にひかれてゐた。自分の憂ひを払ふために酒をのみといふ心境は、旅人自身の心境に結びついてゐた。旅人は筑紫に赴任した直後に愛妻を失ってゐる。また、大伴氏は次第に藤原氏に政治的権力を奪はれつつあった。またもともと旅人は酒が好きだった。だからかういふ世界に沈淪するのであらう。

 さらにこの「酒を讃むる歌」を詠んで胸の中の鬱屈した思ひを晴らそうとしたのである。酒は神に捧げる神聖な飲み物であるといふ日本古来の考へ方からは脱却してゐる。

当時においては特異な歌。道教の影響が強い。世の中の常識や通俗的な倫理を風刺し嘲笑した歌。この「酒を讃むる歌」十三首は漢籍に出典がある。旅人は、支那の思想文學の中で特に道教にひかれたといはれてゐる。

 道教は、支那固有の宗教であり、不老長寿をめざす神仙の世界に憧れる民間信仰である。儒教の現世主義とは全く異なる思想である。老子・荘子の思想とも結びついてゐるといふ。神秘主義と言ってもいい。日本神道(神ながらの道)とも共通点があるといはれてゐる。

 『萬葉集』には酒を主題にして歌は非常に少なく、この一連の旅人の歌くらいである。この『萬葉集』に収められた酒を主題にした歌は、今日に於いても大きな意味を持ってゐると思ふ。

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2020年7月 7日 (火)

「有心」「無心」について

大伴書持(ふみもち)の歌

わが屋(や)戸(ど)に 月おし照れり ほととぎす 心あらば今夜(こよひ) 來(き)鳴(な)き響(とよ)もせ              (一四八〇)
 

【大伴書持】大伴家持の弟。天平十八年(七四六)没。金持はゐなかった。
【おし照れり】空高くから煌々と一面に照らしてゐる。【心あらば】思ひやりの心があれば。【鳴き響もせ】鳴き響かせておくれ。

通釈は、「私の家の庭に月が照ってゐる。ほととぎすよ、心があったならば、今夜来て、鳴き立てておくれ」といふ意。

ほととぎすに人の風流・情趣が分かる心を求めてゐる。大伴書持は大歌人家持の弟であるが、『萬葉集』には十二首の歌が収められてゐるだけである。風流を愛し、草花を愛した人。

中世の大歌人・西行に

「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮れ」(出家した心なき身にも、あはれの心はよく分かる。鴫【水鳥の一種】が飛び立つ秋の夕暮れには)

といふ歌がある。

出家した人は、悟りの境地を求め、戀とか愛とか美といふ世界から超脱してゐなければならないとされてゐる。「心なき身」とはさういふことである。出家し僧侶である西行は本来、喜怒哀楽の心・愛憎の心・五感の喜び即ち煩悩から超脱してゐなければならないが、澤から鴫が飛び立つ秋の夕暮れには、哀感・寂寥感を感ぜずにはゐられない。「心なき身」即ち現世的な感情を断絶しなければならない出家の身である西行にも、「もののあはれ」といふことは知ることができるなあ、といふ歌である。これが日本人としての自然な心であらう。

 「もののあはれ」とは物事に対してしみじみと感動する心のことである。単なる哀歓でも悲しみでもない。なかなか定義づけるのは難しい言葉である。

この大伴書持の歌は西行の歌ほど深い内容ではないが、日本人が古来「心」といふものを大切にしてきたことが分かる歌である。書持の歌の「心」は風流を愛する心である。

歌の学問上は、「有心」とは「深い心があること」「思慮分別があること」であり、大切なものとされる。書持の歌はこの心を歌った。

歌学上の「無心」とは「情趣を理解しない心、情趣をわきまへない心」といふ意味である。一方、仏教上の「無心」とは「一切の妄念を離れた心」として大切にされた。西行の「心なき身」の「心」とはこのことである。

醍醐天皇の御代の延喜十六年には『有心無心歌合』が行はれた。七夕の日に「有心」無心」の歌を互ひに歌はせて競はせた歌会である。天上の戀は「無心の戀」であり、地上の人間の戀は「有心の戀」と言はれたといふ。

平安時代には、「無心」とは思慮分別がない、世の常識を超えた心とされ、「有心」とは思慮分別があり常識をわきまへた心とされるようになったといふ。従ってこの歌は、「ほととぎすさん、思慮分別があれば月が煌々と照ってゐるわが家の庭に来て鳴いておくれ」と歌ったのである。

現代の言葉で言へば、「有心」とは、合理的、理知的な心といふことであらう。この言葉の意味は、歌学と仏教では大きく異なると言っていいだらう。

歌学における「有心」とは「真実のある歌を指すとともに、美的様式としてはつややかなもの言ふ」とされる。それが中世になると妖艶な美となる。この大伴書持の歌は、さういふ歌の淵源といふことになろう。一方、「無心」とは一言で言ふと枯淡の境地の事である。

この書持の歌の「心あらば」は、月が照って美しい夜であるのだから、さらに興を添へてほととぎすがわが庭に来て鳴いてくれることを求めたのである。ほととぎすを擬人化して、「心あらば」と求める新しい着想の歌。かういふ歌を、情趣をわきまへた歌、風流、艶の世界の歌と言ふ。やや大袈裟に言へば、新しい機軸・美感覚を打ち立てた歌と言っていい。

奈良朝後期になると、歌が型にはまって来て花鳥風月を型通りに歌ふ歌がやや多くなってゐる。しかし、この大伴書持の歌は、後世の「有心」の世界、艶の世界を詠んだ歌の端緒と言っていいであらう。

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2020年6月 7日 (日)

仁徳天皇の御製を拝し奉りて

仁徳天皇御製

「沖方(へ)には 小船連(つら)らく くろざやの まさづ子吾妹(わぎも) 國へ下らす」

「沖の方には小舟が続いてゐる。あれはまさづ子といふ私のいとしいあの子が國へ帰るのだ、といふ意)」

第十六代・仁徳天皇は、吉備(きび)の國の海部直(あまべのあたひ)の娘、名は黒日売(くろひめ)の容姿が美しいと聞こしめして、宮廷に召してお使ひになった。

しかしながら、『古事記』によると、仁徳天皇の皇后の磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)は大変嫉妬心の強い方であらせられ、天皇にお仕へする妃嬪(きひん)たちは宮殿の中に入ることもできなかった、そして皇后は妃嬪のことが話題になっただけでも床に寝転がり足をばたばたさせて嫉妬された。

磐姫皇后の嫉妬を恐れた黒日売は船に乗って故郷に逃げ帰らうされた。その船を見て天皇が、お詠みになった御製が、

「沖方(へ)には 小船連(つら)らく くろざやの まさづ子吾妹(わぎも) 國へ下らす」

である。

この仁徳天皇の御製をお聞きになった磐姫皇后はさらにお怒りになって、人を遣って船から黒日売を下ろして徒歩で帰らせたといふ。かうした皇后の嫉妬物語は古代日本の大らかな精神が表れてゐる感じがする。

一方、『萬葉集』に収められてゐる磐姫皇后の仁徳天皇をお慕ひする御歌は実に悲しい歌である。

「君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」
 (君の御旅行は日数が長くなった。山を尋ねて迎へに行かうか、ひたすらお待ちしようか、といふ意)

「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを」
(これほどまでにあたなを慕ってゐるのならば、高山の岩を枕にして死んでしまった方がよい、といふ意)

「ありつつも 君をば待たむ うちなびく 我が黒髪に 霜の置くまでに」 
(このままで君をお待ちしませう。垂らしたままの私の黒髪が白髪になるまで、といふ意)

「秋の田の 穂の上に霧(き)らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ」 
(秋の田の稲穂の上にかかってゐる朝霞のやうに、いつになったら私の恋は晴れるのでせうか、といふ意)」

いづれの歌も萬葉恋歌の傑作である。これらの歌の悲しくも切ない恋心と,『古事記』に記された激しい嫉妬をされる皇后のお姿は対照的である。

「岩」といふ字が名前についてゐる女性には精神的・靈的に力が強い人が多い。その代表的ご存在が磐姫皇后であられる。鶴屋南北の『東海道四谷怪談』に出てくる靈的力の強い女性の名前は「お岩」である。

古代人は、岩といふものを非常に神秘的に考へた。地下と地上とをつなぐものと考へた。大きな岩を墓に用いるのは、地下の靈が地上に出て来るのを押さへる役目を持たせたからといふ説もある。

岩には死んだ人の靈が籠ると信じた。墓石には「新たなる使命を帯びて地上に再び蘇るまでそこに鎮まっていただきたい」といふ祈りが込められてゐる。
萬葉時代は、かかる古墳時代の信仰がまだ生き生きと生きてゐたのである。古墳時代の信仰を継承してゐる歌人が柿本人麻呂である。

 「岩」は「いはふ」から出た言葉である。「いは(齋)ふ」は、神に対して穢れと思はれることを謹み、淨め、敬虔な態度を持して神を祀ることである。また、さういふ態度をとって穢れに乗じてくる邪悪を避けようとする行ひをも言ふ。つまり、身を清めて神を祭ることを齋(いは)ふといふ。そして、人々が集まって籠る所をいへ(家)といふやうになった。
                      
 岩や石には神仏や死んだ人の魂が籠ってゐると信じそれを拝むやうになった。特に巨岩は威力があり人格化され意志を持ち人間に語りかける靈妙なものと信じた。
 
 『國歌君が代』の「君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」は、石は靈が籠ってゐるので次第に成長して岩となるといふ信仰が歌はれてゐる。「天皇の御代は、千代に八千代に小さな石が次第に成長して大きくなり大きな岩となって苔がむすまで永遠であっていただきたい」といふ意である。

 「いは」のイは接頭語で、「いのち」「いきる」といふ言葉がある通り生命力を意味する。
           
「岩戸」とは、大地のイメージであり、母のイメージである。大地の母に回帰する信仰の神話物語が、天照大神の岩戸隠れであらう。

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2020年5月29日 (金)

天香具山と今即神代・神人一體の信仰

日本人には、麗しい山を神と仰ぐ信仰がある。これを神奈備信仰といふ。大和地方では大和三山・三輪山・二上山など、東國地方では富士山・筑波山など、九州地方では高千穂峰・阿蘇山が尊い神の山として仰がれる。

天香具山は、上に「天」が付けられてゐるやうに高天原から天降って来た山で、「天と地とをつなぐ山」として神聖視され、大和三山の中でもとりわけ尊い山とされる。現代風に言へば、天と地とをつなぐアンテナで、神事を行ふ際、神の降臨を仰ぐために立てる榊である「ひもろぎ」と同じ性格を持つ。

「鎮守の森」といはれるやうに神社には多くの樹木があるのは、その樹木に神が降臨すると信ずるからと言はれてゐる。わが國傳統信仰においては「神代」「高天原」と「地上」とは交流し、隔絶してゐない。日本傳統信仰は「今即神代・神人一體」の信仰である。

「香具」(かぐ)とは「輝く」を短くした言葉である。「かぐや姫」とは「輝く御姫様」といふ意である。香具山は輝く山・神聖な山として信仰の対象となってゐる。「天香具山」とは「天に通じる輝く山」といふ意で、高天原と直結する山と信じられたのである。

高天原にある天香具山について、『古事記』には、天照大神が天の岩戸に隠れになった時、大神に岩戸からお出ましを願ほうとした八百萬命が相談して、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)が取って来た天香具山の男鹿の肩胛骨を波波迦の木で焼いて占ひを行ひ、天香具山に茂った賢木(さかき)に勾玉(まがたま)や鏡などを付けて捧げ持ち、天宇受売命(あめのうづめみこと)が天香具山の日影蔓(ひかげかづら)を手襁(たすき)に懸け、真拆(まさき)を鬘(かずら)として、天香具山の小竹の葉を手に持ち、岩戸の前で桶を踏み鳴らして神憑りしたと傳へられてゐる。

また、神武天皇が御東征を終へられ大和に都を開かれる時のお祭りで用いられた神具の土器は、天香具山の土で作られたと傳へられてゐる。

國土には地の靈(國魂)が籠ってゐるといふ信仰があり、大和の都を開かれるにあたっては、大和の國の靈(國魂)を鎮めなければならない。そのために大和の地の國魂が宿ってゐると共に、天と地とをつなぐ神聖なる天香具山の土を、土器にして祭祀に用いたのである。それによって、神武天皇は大和國を治められる靈的なお力を備へられたのである。天香具山の土を手に入れることが大和全體を掌握することになるといふ信仰である。

折口信夫氏は、「天香具山の名は天上の山の名である。同時に地上の祭時に當って、天上と一つの聖地-天高市(アメタケチ)-と考へられた土地の中心が此山であった。だから平常にも聖なる地として天なる称號をつけて呼ぶ様になったのだ」「大和なる地名は、當然宮廷のある地を意味する。天は、宮廷の真上にあり、宮廷のある處は、天の真下である。即ち、國語に於ける天が下(アメガシタ)の確かな用語例は、宮廷及び宮廷の所在を示すことになる。だから、宮廷の存在なる狭義の大倭は、天が下であり、同時に天其物と觀じることが出来た。天香具山は、地上に於ける聖地の中心であった。即ち、大倭の中心である。この山の埴土(きめの細かい黄赤色の粘土)は、大倭の國魂の象徴にもなる…。」(『大倭宮廷の靱業期』)論じてゐる。

折口氏の説によると、天皇のゐます宮は「天」(高天原)・「聖地」であり、その中心が天香具山なのであり、このやうな神聖な所を神座(カミクラ・神のゐますところ)と言ふ。

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