2019年6月23日 (日)

維 新 と 和 歌

 

 文藝特に和歌は、常に現状を変革しよりよき状態を憧憬するものである。維新の志から生まれるのが和歌である。和歌を詠む者に維新変革への志があってこそ価値が和歌としての価値が生まれる。和歌が真に、命・言靈のあるものとなるのは、その和歌を詠む者に維新変革の意志があることによる。
 
現状に満足し変化を望まないといふ意味での平穏な暮らしの中からは和歌は生まれない。命が枯渇し言靈が失われた言語が氾濫する情報化時代の現代においてこのことは重要である。

 維新変革には悲劇と挫折を伴う。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳いあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。
 
維新とは懸命なる戦いであるが、単なる破壊でも暴力でもない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都という大変革を背景として生まれた。

 在原業平に象徴される平安朝の和歌は、藤原氏の専横への抵抗から生まれて来たと言える。後鳥羽院の覇者・北條氏の武家政治に対する戦いの時代には『新古今和歌集』が生まれた。

 幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放っている。さらに東洋の解放を目指した大いなる戦いであった大東亜戦争に殉じた将兵たちの辞世の歌は、万人をして慟哭せしめる不滅の価値を持つ。このように國家変革即ち維新と和歌は不可分である。

 それらの歌は、なべて日本國の精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されているのである。

 とりわけ『萬葉集』は、日本の伝統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であった。その國難を打開し、天皇中心の新國家体制の確立をはかったのが、大化改新である。こうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國体の素晴らしさを美事に歌いあげたし、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されている。

 そして「萬葉の精神」は明治維新という大変革に大きな影響を及ぼした。明治維新も西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際会して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 幕末期の日本的ナショナリズムは萬葉の時代・建武中興の時代とりわけその時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついていた。つまり、萬葉の精神と楠公精神の謳歌である。

 江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなった。

 民族の歴史と伝統の精神を変革の原理とする日本の維新は、維新を志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新というのである。

 そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。なぜなら、いにしえから伝えられた「五・七・五・七・七」という形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝だからである。 

 今日の日本もまた、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。こうした状況の中にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴える「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が必要なのである。

現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴えるものとしての和歌を詠んでいる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力というものの偉大さを今こそ実感すべきである。

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2019年6月21日 (金)

剣魂歌心の人・影山正治先生

 「劍魂歌心」は、維新運動に挺身する者のみならず日本男児の基本的姿勢であらねばならないが、影山正治先生の御生涯はまさに「劍魂歌心」そのものであり、身を以てそれを實践され生涯を終へられた。
 
 小生が、影山正治先生に初めてお目にかかったのは、昭和四十四年十一月八日、明治神宮弘心亭で開催された『大東塾創立三十周年記念歌會』に於てであった。雨の日であった。會場に入る前に、杉田幸三氏にご挨拶したこともよく覚えている。暫くすると影山先生が来られた。凛々しく颯爽とした方といふのが第一印象であった。

 その歌會での影山先生の歌は、
「友を想ふ友らの歌のやさしさよわれも友想ふしくしくに想ふ」

 であった。
 それから不二歌道會の歌會に参加するやうになり、夏期講習會にも二度ほど参加した。毎年一月三日に開催されてゐた不二歌道會新年懇親會などで、影山先生や長谷川幸男先生の前で長編歌謡浪曲「俵星玄蕃」など小生得意の歌を熱唱したのも楽しい思ひ出である。

 塾生ではなかった小生は、直接御指導を受ける機會はそれほど多くはなかったが、御著書によって實に多くのこと、といふよりも重大なこと、大切なことを學ばせて頂いた。

 小生が感銘を受けかつ今日に至るまで座右の書としてゐるのは、『維新者の信條』であり『みたみわれ』である。今でも、運動上のことで何か惱んだ時、真劍に考へなければならない時に繙くのがこの二つの書である。影山先生の思想と精神はこの二つの書に凝縮されてゐると思ふ。

 『維新者の信條』冒頭に収められた「維新の誓願」の、
「 天皇は神なり。生き給ふ神なり。萬世一系にして天壤無窮。大中至正にして無上絶對。萬物の大本。萬法の根源なり。天皇は今にます 天之御中主神、今にます 天照大神なり。天皇ましまして萬有あり。」
 といふ言葉に最も感銘した。

 そしてこの信仰は、小生が中學時代から信仰してゐた生長の家の谷口雅春先生の「天皇信仰」(『無門關の日本的解釋』所収)といふ文章の、
 「 天皇への歸一の道はすなはち忠なり。一切のもの 天皇より流れ出で 天皇に歸るなり。 天皇は 天照大御神と一體なり。天照大御神は 天之御中主神と一體なり。斯くして 天皇はすべての渾てにまします」
 と全く一致する。

 谷口・影山両先生のこの二つの御文章は古事記・萬葉以来のわが國民の天皇信仰・現御神信仰を端的に表現した言葉であると思ふ。
 『みたみわれ』では、

「十年を泣かざりされどわがこころ涙痕常にあらたなるかも」

 の一首が小生の魂に深く刻みつけられてゐる。

 『みたみわれ』は、昭和四十年代後半に、当時奉職してゐた二松學舎大學圖書館に所蔵されてゐたものを讀んだ。そして、昭和四十九年、讀後感想文を今は亡き原正壽氏が編集長をしてゐた『日本の動き』誌に掲載して頂いた。丁度復刻版が刊行される直前であったため、影山先生は非常に喜ばれ、『不二』誌への轉載を希望された。そして、

 「山も裂かんいきどほりあり捕らはれてひとり黙して國を思へば 
  巻頭の一首を録し 四宮正貴君に 正治」

 との御署名のある復刻版を頂戴した。これが一番嬉しい思ひ出である。

 影山先生は、維新者であり、歌人(うたびと)であり、そして何よりも「祷りの人」であられたと思ふ。その祷りは一死を以て貫かれた。

 であるがゆゑに、祖國日本の現状を見る時、影山先生の謦咳に接して御指導を頂き、かつ書籍や講演で多くのことを學ばせて頂いた小生が、先生の熱き祷りを受け繼いで、日本の真の再生、即ち「民族のもとついのちのふるさとへの回帰」のためにいかほどの努力をしたのかと自らに問へば、恥かしき思ひにうちひしがれるだけである。

 しかし、今日、祖國日本は累卵の危ふきにある。うちひしがれてゐてはならないのである。靈界におられる影山先生から「ほー、四宮君もまあまあやってゐるなあ」といふくらいのお言葉を頂けるやう祖國日本のためにできるだけの努力をさせて頂きたいと念願してゐる。

みはふりの庭に轟きし雷鳴は幾年経てもわが耳朶に鳴る

干されゐし血染めの衣目のうらに浮かびて今もわが胸を打つ

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2019年6月13日 (木)

全人格的な戀愛を文藝に表現したのは、東洋においてはわが國のみである。

全人格的な戀愛を文藝に表現したのは、東洋においてはわが國のみである。和歌において戀愛歌が占める位置は非常に大きい。歌の起源は戀愛であり、「やまと歌」の主流は戀歌である。古代日本文藝においては、戀が美の大きな要素・テーマになってゐる。和歌は戀愛の発想を離れることはできない。驚きとか新鮮な思ひは戀によって感じる場合が多かった。戀には喜びもあれば悲しみもあれば苦しみもある。現實生活を尊んだ古代日本人は、戀を歌ふことが多かった。戀は異性に対するものだけではない。上御一人日本天皇を恋ひ慕ふ心、これを「恋闕」と言ふ。

支那文學には愛欲をテーマにしたものはあっても、戀愛をテーマにしたものがあまり無いといふ。全人格的な戀とか愛を文藝に表現したのは、東洋においてはわが國のみであると言っていい。この場合の戀とは、英語でいふloveとは趣きが異なる。

そもそも「國生み」の時、伊耶那岐命、伊耶那美命が、天の御柱を回って、「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」と唱和したのが歌の起源とされてゐる。つまり、愛の交歓の歌が「やまと歌」の起源なのである。
さらに、須佐之男命が高天原から出雲の國に降り立ちまして、八岐大蛇を退治して櫛名田姫を助けて結婚された時に歌った「八雲たつ 八雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣つくる その八重垣を」といふ御歌が、「五七五七七」の短歌の起源と言はれてゐる。

どちらの歌も愛する異性と結ばれた喜びの心の訴へである。戀愛とやまと歌はきはめて密接である。

萩原朔太郎は「大和民族の文明は、實に和歌と戀愛とに始まった。日本人は、和歌によってその愛欲生活を藝術化することに、最初の文化的情操を紀元させた。『和歌』と『戀愛』と『大和心』は、日本歴史に於て三位一体の関係にある。和歌を離れて大和心は解説されず、また戀愛を忘れて和歌のポエジイは成立しない」(原文のまま・『朔太郎遺稿・下』)と述べてゐる。

和辻哲郎は、「上代において最も著しく表現せられているものは戀愛である。新鮮な驚異の情に充ちた上代人の心にとって、蒼空の神秘や運命の不可思議よりも、人の世の戀の力が最も詠嘆すべきものであったことは、注目に値する。戀の苦悶、戀の歓喜は、彼らがその全生活を投入するに値する最高の生の瞬間であった。だから彼らは、超自然的な力に対する恐怖と歓喜とを歌わずして、ただ人間的な生の喜びのみを歌う。…いかなる現世的な障礙(しょうげ)もこの炎を消すことはできない。死にさえも愛は勝つ。かくのごとき愛の強さがまことに上代の戀愛の特徴である。戀愛を制度の奴隷としたシナ─戀愛が淫楽に過ぎなかったシナにおいては─かくのごとき全人格的な愛の強さは描かれていない。」(『日本古代文化』)と論じてゐる。

『古事記』神代の巻の歌十一首の実に九首までが戀歌である。また、『記紀歌謡』百数十首中その大部分が戀歌である。『萬葉集』も戀歌が圧倒的に多い。

『萬葉集』においては、戀愛歌のことを「相聞歌」と言ひ、「雑歌」「挽歌」と共に『萬葉集』の三大部立の一つになってゐる。「相聞歌」は、「雑歌」「挽歌」と比べて最も多く、約一七五〇首にのぼる。

「相聞」とは互ひに安否を問ふて消息を通じ合ふといふ意味であり、漢籍では、贈答・音信・安否の確認などの意味でしばしば使用されてゐる。従って、元来は手紙のやり取りほどの意味であったといふ。

『萬葉集』の「相聞歌」には、男女関係のみならず、親子・兄弟姉妹・友人など親しい間柄で贈答された歌が含まれる。相手を念頭において作った「相聞歌」は、対の関係における歌である。対の関係とは、主に男女関係だが、男同士でも、母と娘でも、兄弟でも、二人の親密な情愛の流れる関係である。

『萬葉集』「相聞歌」の男女間の戀愛歌は約一六七〇首あり、その他の関係の相聞歌は約八〇首。数の上で圧倒してゐる。従って、男女間の戀愛を歌った作品をまとめて「相聞歌」と呼称した。『古今和歌集』以後の勅撰和歌集における「戀歌」の部門に相当する。

今日、この「愛」といふ言葉がだいぶん汚れたものとなってゐる。萬葉歌では「私はあなたを愛する」とか「好き」といふ言葉は使はれない。さういふ観念的な言葉でしか戀心を表現できなくなった現代とは大きく異なる。

自然を詠んだ歌も、死者を弔ふ歌も、自然や死者への「愛の歌」と言って良い。『萬葉集』には、國土讃歌・自然讃美・神への信仰・祭り・天皇讃歌・戀愛・死者への哀惜などの歌が収められてゐる。基本的にはすべて「愛の歌」である。
岡潔氏は「この國の人たちは、自己本位の行為を善行だとは決して思わない。現にそのように生活している人たちも、内心それを肯定せず、その反対の行為を賛美することを惜しまない。だからこの國の善行は格調が非常に高い。たとえば、弟橘媛や莵道稚郎子の最期の行為がそれなのである。……この人たちのあの行為、この行為の上に、往昔の風鈴の妙音と同じ生命のメロディー(旋律)を聞く人は、私だけではないであろう」(『春風夏雨』)と述べてゐる。

祖國への愛も戀人への愛も家族への愛も、「愛するもののために自分を無にすること」が「愛」の窮極の姿である。これを「捨身無我」といふ。「捨身無我の「愛」とは「自他一体感」である。「愛」こそが、日本民族にとって「最高の美」であった。我が國土は前述した通り、伊邪那岐命・伊邪那美命の「むすび」によって生成された。『百人一首』も戀歌が圧倒的に多い。戀も和歌もまさに神代の昔からのものなのである。

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2019年6月 1日 (土)

和歌の勃興は祖国愛の勃興と一体である

 日本人として自然な心で天皇を仰慕し、國を思ひ、國土を讃美する歌は萬葉時代から現代まで数限り無くある。

 『萬葉集』は、日本の傳統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であり決して平穏無事な時代ではなかった。その國難を打開し、天皇中心の新國家體制の確立をはかったのが、大化改新である。

大化改新を断行した後、日本は天智天皇二年(六六三)に白村江の戦ひに敗れた。しかし、國家の統一を失はなかったのは、愛國心・ナショナリズムが燃え上がったからである。

かうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國體の素晴らしさを美事にうたひあげ、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されてゐる。だから『萬葉集』には柿本人麻呂などの天皇讃歌國土讃歌の歌や防人歌といふ國土防衛への決意の歌が収められてゐる。

平安時代になって、漢風文化が浸透して國風文化が軽視された時代が長くつづいた。『萬葉集』以後『新撰萬葉集』まで、約百三十年間(平安朝前期)、わが國の文學の主流は表面的には漢文學であった。漢詩の勅撰集は撰進されたが和歌の勅撰集の撰進はなかった。どうしてこのやうなことになったのか。

阿部正路氏は、「平安時代に入って、急に和歌が衰えた理由として、光仁天皇以後、近江朝系統が勢いを得て、帰化人の進出がいちじるしかったことや、和歌と縁の深かった大伴氏らの勢いが衰えたことなども挙げることができると同時に、新都による生活の変化や朝廷をめぐっての事が多く、内外共に尚武的實質的になったことなどをあげることができる。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。

ただし、和歌と尚武の心は相矛盾するものでないことは、須佐之男命・日本武尊の御事績を拝して明らかである。むしろ「剣魂歌心」といはれるやうに武の心と歌心は一體である。

今日の混迷状況を打開し変革するためには、長い歴史を有する日本民族が育み継承してきた伝統精神への回帰とそれを基盤とした愛国心(日本民族としての帰属意識)の昂揚が必要である。

大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や国難の打開は、必ず愛国心・尊皇心の興起と一体であった。

そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言えば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。日本人として自然な心で天皇を仰慕し、国を思い、国土を讃美する歌は萬葉時代から現代まで数限り無くある。

『萬葉集』において国家意識を明確に歌った歌としては次のやうな歌がある。

「いざ子どもはやく日本(やまと)へ大伴の御津(みつ)の濱松待ち戀ひぬらむ」

 「さあ、人々よ。早く日本へ帰らう。あの難波の大伴の郷の御津の濱松ではないが、残してきた家族が待ち焦がれているだらう」といふ意。

山上憶良が遣唐使として唐にゐた時、祖国を偲んで歌った歌。日本回帰の心が見事に美しく歌はれてゐる。憶良は唐との文化の対比において日本を自覚し祖国愛に目覚めたのである。

仁和三年(八八七)、宇多天皇が即位されると、天皇親政の復活と摂関藤原氏の抑制に力を尽くされると共に、遣唐使を廃止し、平安初期百年の間支那模倣の科挙の制度のための漢詩文全盛の陰になってゐた伝統的な和歌を復興するなど、支那崇拝を排して国民的自覚を明確にし、國體意識興起の復古維新を断行された。そして、延喜五年(九0五)醍醐天皇の命により紀貫之などによって、日本の伝統美・風雅を見事に結晶させた『古今和歌集』が撰進された。

平安時代の人々の心の中核には天皇仰慕の心と神代への回帰の心とがあった。

在原業平は

「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ」
「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」

と詠んでゐる。

さらに国歌『君が代』の典拠である

「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」

も『古今和歌集』の「賀歌」である。
 
武士の勃興によって王朝文化が滅びゆかんとする乱世変革の時代に、後鳥羽上皇の命により元久二年(一二〇五)に撰進されたのが『新古今和歌集』である。

「もろこしも天の下にぞありときく照る日の本を忘れざらなむ」

 成尋法師という人が延久四年(一〇七二)支那に渡った時に、その母が詠んだ歌。「唐土も同じ天の下にあると聞いてゐます。天に照る日の本である日本を忘れないで下さい」といふ意。息子が仏道修行に行く支那も日の本の国たるわが天日の光が照らしてゐるのだから、日本人としての誇りを忘れるなとよびかけてゐるのである。聖徳太子の御精神に相通ずる誇らかな愛国精神の歌である。

このやうにわが国の愛国精神は、いかなる時代にあっても、脈々と和歌といふ文藝によって継承されて来たのである。

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2019年5月31日 (金)

愛國心・尊皇心は理論や教条よりも和歌によってよく表白されてきた

「愛國心」とは個人が運命共同體として結集し拡大された鞏固なる歴史的存在意識であるといふ。「愛國心」といふ言葉が使はれ出したのはおそらく明治以降であらう。「愛國心」および「ナショナリズム」といふ言葉は、明治以後外國との交渉や競争が激しくなってきてから使はれるやうになったと言へる。これはいふまでもなく「やまとことば」ではない。漢語である。

 日本民族の國を愛する心の特質は、「尊皇愛國」といふ言葉もあるやうに萬邦無比といはれる日本國體精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

日本人にとって愛する祖國とは本来的には天皇の御代すなはち『君が代』なのである。これが日本の愛國心の特質である。ゆえに『國歌・君が代』こそ最大の愛國歌といふことができる。

 日本における愛國心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

 そして、防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際しも國體精神が勃興した。

 大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や國難の打開は、必ず愛國心・尊皇心の興起と一體であった。

 維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。神話時代における戦ひの神々すなはち須佐之男命・日本武尊の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しく歓喜に溢れたものでもある。

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都といふ大変革を背景として生まれた。

 伴信友は、日本傳統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふ」と言っている。そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。

愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。大化改新における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍将兵の歌を見ればそれは明らかである。 

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2019年5月19日 (日)

やまと歌・『萬葉集』の現代における価値


中河与一氏は、「古代人との心の交通といふことが次第に困難になる時、和歌形式こそはその形式が決定してゐるために、自由に古代人と心が通じあふことができるのである。すなはち三十一字を知ってゐさへすれば、われわれは…最も自然に、ほとんど何の困難もなく、古代人の心に想到するのである。和歌形式といふもののもつ最も重要な一つの意味がここにある…。」「(和歌は)は古代人と現代人とをむすぶだけではなく、さらに高貴の人々と低き人々とを連結した。吾等は萬葉集の中に天皇をはじめ皇統に属する方々の歌をよむと同時に、下って遊行笑婦の歌をさへそこに詠むのである。大體ヨーロッパに於ては藝術的趣味といふやうなものは、一部の階級にのみ属したものであるが、それが三十一字形式のためにわが國に於ては全體的に流通し、然もこれが民族全體を一つの発想に結びつけるところの役目をしてゐるのである。即ち三十一字は民族の縦と横とを結ぶものであって、その発想の永遠的な聡明さは世界の比類を見ないと云っていい。」(『中河与一歌論集』)と論じてをられる。

『萬葉集』の歌を讀むことによりを、今から千数百年昔の日本人のまごころの表白に今日のわれわれが共感し感動することができる。とくに『萬葉集』は貴族や武士や僧侶の歌だけではなく、上御一人から一般庶民・遊女の歌まで収められてゐる。

『萬葉集』の相聞歌を讀めば、古代日本人の戀心を知ることができ、防人の歌を讀めば戦争に赴く時の古代日本の若者たちの心を知ることができる。東歌を讀めば当時の東國庶民の天真の心を知ることができる。もちろん、天皇御製を拝承すれば、萬葉時代の天皇様の大御心を知ることができる。古代と現代の心の交通が和歌によって為される。このやうに和歌は、時間的に縦に貫く役割を果たす。時間を超越して神代と古代とを直結する文藝が和歌である。

一方、地位や貧富の差・老若男女の違ひ・地域や身分を超えた人と人との心の交通が和歌によって為される。和歌は、空間的に横に貫く役割を果たす。和歌は、地位や身分の上下や違ひも超越して日本人を結んでしまふのである。上御一人から下萬民を直結するものである。

つまり、時間と空間の中心点に和歌といふものが立ってゐるのである。時空を超越して、今と神代と直結する文藝、そして身分や貧富の差を超越して日本人を結びつける文藝、それが和歌である。永遠の時間と無限の空間を充たす文藝が和歌である。言ひ換へると日本民族を時間といふ縦軸と空間といふ横軸で一つに結び付ける文藝が和歌である。

上天皇から下民衆に至るまで創作し、神代より現代に至るまで創作し続けられてきた文藝が和歌である。すなはちわが日本の時間と空間を無限に充たす文藝である。

日本人のまごころの表白であり魂の訴へかけである『やまとうた』は、都や中央に住む権力者や勝利者の声ではなく(勿論さういふ人々の歌も含まれるが)、田舎や辺境に生活する庶民といはれる人々や疎外者・敗北者の声が重要な位置を占める。上御一人におかせられても、崇徳上皇・後鳥羽院・後醍醐天皇など辺境にお遷りになられた天皇の御製に感動を呼ぶ素晴らしい御歌が多い。

一時期、「小説」や「評論」を「第一藝術」とし、「和歌」や「俳句」を「第二藝術」としてこれを軽んずる傾向があった。また和歌を「奴隷の韻律」などとしてこれを否定する人もゐた。そして和歌や俳句はやがて滅びるとまでいはれた時期があった。しかし、和歌も俳句も未だに滅びてはゐない。

「第二藝術論」は、和歌が民衆に愛された定型詩であることを逆に証明してゐる。すなはち和歌や俳句は、一部の専門家のみによって創造される藝術・文藝ではないのである。和歌が、記紀・萬葉集時代から現代にいたるまで滅亡することなく継承され創造されてきたといふこと自體が、日本文藝における和歌の大きさを証明する。

和歌は傳統の継承と創造とは一體である。歌を詠む人は、先人の和歌を手本として學ぶ。和歌の原点を常に顧みながら新しい創造を行なってきた。即ち傳統と創造が一體になってゐる。ここに和歌文學の特質がある。日本人は傳統の継承から創造を學んだ。和歌はその典型である。傳統と創造が渾然一體となっているのが和歌である。

これは、皇位継承・伊勢の神宮の御遷宮と相似である。日本天皇の肉身はやがてお隠れになられるが、皇位は不滅であり皇統連綿であり萬世一系である。先帝がお隠れになると新帝が即位の大典を執行され大嘗祭を行はれることによって、新しき肉體であらせられながら邇邇藝命以来の靈統を継承される。伊勢の皇大神宮は、御祭神の天照大御神の御神靈は永遠であるが、神殿は二十年ごとに造り替へられる。

傳統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふのが、わが國の皇位であり、伊勢の神宮であり、和歌なのである。これは他國には見られないわが日本の特質である。まさにわが國體は萬邦無比なのである。

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが國に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は和歌と切り離し難く一體である。天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されるのである。

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに御歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

中河与一氏は「和歌が國風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた、主に公家を中心とする文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本に於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した。」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を傳統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとして和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ實感すべきである。

そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を學ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2019年5月12日 (日)

『萬葉集』の時代背景


 『萬葉集』の時代(つまり推古天皇から淳仁天皇の御代まで)は、わが国が、支那の文化・政治制度・法制度を受容した時代である。支那の制度に倣って中央集権制度が整ひ、律令制度が敷かれ、制度文物が唐風化の時代を迎へた。
 権力闘争もあったが、大和朝廷の基礎が固められた時期である。つまり、天皇中心の國家体制が法律的・制度的に確立した時期である。
『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱・白村江の戦ひなど大国難・大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために『萬葉集』は編纂された。
萬葉時代の状況は、遣唐使の派遣などがあり、儒教仏教の伝来など支那や朝鮮から外来思想・宗教・政治制度の輸入が行はれた。また、国内的には、大化改新といふ大変革、壬申の乱といふ国家の存亡にかかはる内戦のあった時期であり、対外的には百済救援の失敗による唐・新羅連合軍来襲の危機もあった。まさに内憂外患交々来たるといった状況であり、この時代は、今日のわが国と時代状況はよく似てゐる。
しかし当時の日本は内憂外患を克服した。『萬葉集』はさういふ時代におけるわが国の祖先の声・魂の表白である。今日の日本の混迷を打開するためには、『萬葉集』に回帰し『萬葉集』に歌はれた国民精神を回復することが必要なのである。 
 萬葉の時代を具体的にいへば、①揺籃期=推古天皇の御代(聖徳太子の時代・六二八まで)から舒明天皇の御代。②初期萬葉=天智・天武両天皇の御代で大化改新(六四五)から壬申の乱(六七二)を中心とした時期。③白鳳萬葉期=持統天皇の御代である藤原京の時代から奈良遷都(七一0)までの時期。④平城萬葉期=奈良遷都から聖武天皇の御代前半の天平時代前期(七三三)まで時期。⑤天平萬葉期=聖武天皇の御代後半から天平時代後期(七五九まで)の淳仁天皇の御代までの時期。
中西進氏は「『萬葉集』に収められた和歌の時代は、だいたい大化改新と呼ばれる事件のあった六四五年ころから始まるのと考えるのがよいと思っている。…さらにひろげれば、七世紀のはじめごろからで、…聖徳太子が…深く仏教に心を致した後に、十七条の憲法といった人間省察にみちた文章を作ることと、抒情歌の時代の到来とは、密接にかかわっていると思える。…聖徳太子の到達点も、仏教という渡来思想によって可能になったものであった。すなわち、こうした萬葉の出発は新たな文化の導入によって可能になったものであった」(神々と人間)と論じている。
 『萬葉集』は、國家変革・激動・外患の危機の時期の歌集であり、國難の時期に如何に当時の日本人が日本國體精神を讚仰し道統を継承し、それを元基として國難を乗り越えたかが、『萬葉集』を読むと分かる。
 保田與重郎氏は、「萬葉集の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてであってこの時代の中間は、奈良朝初期の太平の御代であるが、前後にかなり多くの戦乱があった。…壬申の乱があり、…後期の聖武天皇の時代にも廣嗣の乱といふ大乱があり、……この歌集は決して太平の御代の國風を集めたものではない。…我々が萬葉集の精神を見るといふことは、さういふ國家の大事に当り、國民思想の根柢をつくやうな大事変のしきりに起る中で、古人が如何に國體の真髄を守り、神と天皇に仕へ奉ったかを見るのである。歌の調べの美しさも、慟哭も、嗚咽も、みなこの一点より解さねばならぬ。」(「萬葉集と軍歌」)と論じている。
 飛鳥・藤原時代は、天皇中心の国家体制建設の陣痛期であった。幾度か繰り返された痛ましい悲劇も、謂はばその一の犠牲であった。
しかし、白鳳・朱鳥・大宝と、大唐模倣の潤達明暢な宮廷内外の生活は着々軌道に乗り、豪華瑰麗な幾多の造形芸術は開華し、溌剌たる国家の燃え上る鼓動を把握して、我が『萬葉集』二十巻の荘厳が現出した。『萬葉集』は要するに、皇統礼讃の文学であったのである。
 それとともに、わが國伝統文化が異質の文化(特に仏教・儒教といふ精神文化と唐の政治法律制度の受容)に遭遇した激動の時期であった。これに対するためのわが國伝統的精神文化の興起が、『記紀』『萬葉集』の編纂であった。即ち、大唐模倣から日本国の独自文化の興隆をもたらした歌集が『萬葉集』なのである。

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2019年5月11日 (土)

大伴家持のますらをふりの歌

『萬葉集』には、確かに優雅にして麗しい歌が多く収められてゐるが、日本の伝統的な「ますらをぶり」の精神を歌った歌も収められてゐる。

ますらをとは、丈夫・武士・健男・益荒夫と書く。強く堂堂とした、りっぱな男子。ますらたけを。人並み優れて強い男子を誉めて言ふ。つまり英雄のことである。

賀茂真淵は、歌の調べとしての「ますらをぶり」は、清(さや)けく、明るく、のどかしきこととし、ますらをのてぶりをもって人のまごころの素直な表現であるとしている。

ますらをぶりは、大伴旅人の子である大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 「剣太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)という意。

研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。
 
 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から詠んだ「族を喩す歌」である。「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。興奮した歌いぶり。
 ますらを(丈夫・武士・健男・益荒夫と書く。強く堂堂とした、りっぱな男子。ますらたけお。人並み優れて強い男子を誉めて言う。つまり英雄のこと。「~ぶり」▽雅語的)賀茂真淵は、歌の調べとしての「ますらをぶり」は、清(さや)けく、明るく、のどかしきこととし、ますらをのてぶりをもって人のまごころの素直な表現であるとしている。ますらをぶりは、大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 「剣太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)という意。研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、

私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。 

 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」と言ふ長歌の反歌である。
「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。高潮したした歌いぶりである。

 この反歌には、三大思想が詠まれている。一、祖先を尊び家柄を重んじる。二、忠孝一本の思想。三、名を重んじ、家名を重んじる。反歌はそれを歌っている。これは、大伴一門の伝統的忠誠・尊皇思想を歌っただけでなく、わが国民精神を歌ったと言える。 

『族に喩す歌』には、史書が描かない真の歴史を歌いあげ、天孫降臨すなわち肇国のはじめからの精神を貫こうとした。それは、降臨された天孫に仕え、代々の天皇に仕えた大伴氏の勤皇の誇りであった。

「剣太刀いよよ研ぐべし」という武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」という赤誠心詠んだ。この歌は、神代以来忠誠を旨として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促した。この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、心肝を吐露し、熱誠を披瀝した血の出るような声である。名を重んずる心が歌の句の間に溢れている。
 
「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが国の重要な道徳観念である。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。「清明心」「清き心」の伝統は、日本の倫理思想の中に力強く生きている。清さとは、一面において清く明らかなさを求め、あっさりとしていて、名誉・利益などに執着(しゆうじやく)しないさまである。

 天智天皇御製に、
「渡津海の豐旗雲に入り日さし今夜の月夜清明(あきらけく)こそ」
(海空に、豊かに旗の如くたな引く雲、それに入り日がさしている。今夜の月夜は明らかなことであろう。)
 がある。「清々しい」というほどの心にこの「清明」の文字をあてた心が大事である。清明(汚れなく・清く・くもりなく・明らけき心)にあこがれる心が日本人の心である。

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2019年5月 7日 (火)

「萬葉集」の掉尾を飾るに相応しい大伴家持の名歌

 大伴家持は、日本の国の国柄の素晴らしさを後世に伝えなければいけないという使命感を持って、「萬葉集」の編纂に関わり、自らも歌を数多く詠んだのである。「萬葉集」は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱などという大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために「萬葉集」は編纂された。

 しかし、支那と比較すればわが国は平穏に歴史を経過して来た。支那は「易姓革命」といって、王室の姓が変わる革命が繰り返された。「易姓革命」とは、儒教の政治思想の一つで、天子は天命により天下を治めてゐるのであって、天子に不徳の者が出れば、天命は別の有徳の者に移り、王朝が交代するといふ思想である。わが国の天皇統治の道統には一切さういふ思想はない。天皇その方が天の神の地上における御代理・御顕現であり、現御神(うつし身として現れられた神)である。天皇の御意志そのものが天命なのである。一系の天子が永遠にわが国を治められるのである。だから支那のやうな王朝の交代とそれに伴ふ国家の分裂や興亡は起こらなかったのである。      

 三年春正月、因幡國の廳(まつりごとどころ)に、国郡の司等に饗(あ へ)を賜へる宴の歌一首
                      
                  
新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)
                (四五一六)          

 大伴家持が四十二歳の時の賀歌(お祝いの歌)で、「萬葉集」最後の歌である。天平宝字三年(七五九)の正月(太陽暦では二月二日)、因幡の國(鳥取県東部)の國廳(行政を扱う役所)で、因幡守(今日の県知事)であった家持が、恒例により郡長などの部下に正月の宴を与へた時に詠んだ歌。

 「いや重け吉事」の「重け」はあとからあとから絶える事なく続くこと。「新しい年のはじめの初春の今日降る雪の積もるやうに良きことが積もれよ」といふほどの意。

 元旦に雪が降るのは瑞兆で、その年は豊作であるといはれてゐた。しんしんと雪が降り積もるやうにめでたきことも重なれよといふ願望を歌った。雪の降る眼前の光景を見て歌った平明で清潔で堂々たる「萬葉集」の掉尾を飾るに最も相応しい名歌である。

 人麻呂の時代即ち初期萬葉の時代は、壬申の乱などがあったが、それでも神ながらなる日本を讃える歌を歌った。しかし、家持の時代になると、仏教しかも悪い意味の祈信仰が浸透し、藤原仲麻呂の専横・僧道鏡の出現など日本国の本来の大らかさ・明るさ・さやけさ・清らかさが隠蔽されつつあった。

 家持と同族であった大伴古慈悲とか大伴古麻呂という人たちは、橘奈良麻呂と一緒に、称徳天皇の寵を得て専横をきはめてゐた藤原仲麻呂打倒のクーデターに関ってみんな粛清されてしまった。そして直接クーデター計画に関わらなかった家持も因幡國に左遷されたのである。家持は後に、都に戻る。

 しかし、家持は、年の初めにかういふめでたい歌を詠んだ。「言事不二」という言葉がある。「言葉と事実と一致する、言葉と事実は二つではない一つである」「言葉に出したことは実現する」といふ意味である。聖書にも「言葉は神なりき。よろずものこれによりて成る」と書かれてゐる。家持が、「いや重け吉事」と歌ったのは、めでたい言葉を発することによって吉事が本当に事実として実現すると信じたのである。

 そして、「萬葉集」の最後の歌にこれを収め、一大歌集の締めくくりにしたところに、なにがしかの意味があると考えるべきである。国が混乱し、世の有様は悲痛であり慟哭すべきものであっても、また自分の一族が危機に瀕してゐても、否、だからこそ、天皇国日本の国の伝統を愛し讃へ、日本の国の永遠の栄えと安泰を祈る心の表白であらう。

 また、「萬葉集」編者(家持自身と言われる)は、祝言性豊かなこの歌を全巻の最後に置き、「萬葉集」を万世の後まで伝えやうとする志を込めたといはれてゐる。我々は「萬葉集」という名称に、無限の力と祈りとを実感するのである。

 ともかくこの歌は、わが国の数多い和歌の中でもとりわけて尊くも意義深い歌である。

 この歌は、淳仁天皇が御即位された翌年の正月に詠まれた歌で、「萬葉集」の歌で最も作歌年代の新しい歌である。また家持の歌としてもこの歌が年代が最も新しい。この歌の後に家持が詠んだ歌は「萬葉集」に収録されてゐない。ということは、因幡國から都に戻った家持は、藤原仲麻呂打倒計画にまたまた巻き込まれ、今度は薩摩守に左遷されるが、再び都に戻り、参議兼東宮大夫、東北鎮撫の総帥持節征東将軍などを歴任し、延暦四年(七八五)、六十四歳でこの世を去ってゐる。

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2019年5月 6日 (月)

山上憶良の「好去好来の歌」に歌われた言霊信仰

好去(かうこ)好来(かうらい)の歌

神代より 言ひ傳て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の國は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言靈(ことだま)の 幸(さき)はふ國と 語り繼ぎ 言ひ繼がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 滿ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神ながら 愛(めで)の盛りに 天(あめ)の下 奏(まを)したまひし 家の子と 選び給ひて 勅旨(おほみこと) 戴き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海原(うなばら)の 邊(へ)にも沖にも 神留(づま)り 領(うしは)きいます 諸(もろもろ)の 大御神等(たち) 船(ふなの)舳(へ)に 導き申(まを)し 天地の 大御神たち 倭の 大國靈(おおくにたま) ひさかたの 天(あま)の御(み)虚(そら)ゆ 天(あま)がけり 見渡し給ひ 事了(をは)り 還らむ日には また更(さら)に 大御神たち 船の舳(へ)に 御手(みて)打ち懸けて 墨繩(すみなは)を 延(は)へたるごとく あちかをし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津(みつ)の濱びに 直(ただ)泊(はて)に 御(み)船は泊(は)てむ つつみなく 幸(さき)くいまして 早歸りませ                                       
(八九四)

山上憶良が、遣唐使の出発に当たってその無事を祈り祝福した歌である。天平五年(七三三)三月三日、大唐大使・多治比(たぢひの)真人(まひと)広(ひろ)成(なり)に謹上した長歌。多治比(たぢひの)真人(まひと)広(ひろ)成(なり)は、下野守・越前守などを歴任し、天平五年難波より、唐に向かって出発し、七年三月に帰朝し、天平十一年に死去。

「好去(かうこ)好来(かうらい)の歌」とは、無事に出発し無事に帰国して下さ
いと祈る歌といふ意。

【皇神(すめがみ)】天照大御神。【嚴(いつく)しき】は厳然としておられる。【言靈(ことだま)】言葉に宿る靈。【多(さは)に】数が多い。【高光る】日に掛かる枕詞。天皇は日の神たる天照大御神の御子であるとの信仰に基づく言葉。【日の朝廷(みかど)】日の大神の御子即ち天皇のいます宮殿。

【神ながら】は、神であられるままに、神の御心のままに。天皇を神として讃え、天皇の御行為は神の行為であるとする。この場合の天皇の御行為は広成を遣唐大使に任命した事をいふ。【愛(めで)の盛り】メヅは愛する意。【天(あめ)の下 奏(まを)したまひし】天下のまつりごとを執行される意。【罷(まか)りいませ】罷ルは貴人のもとから退出する意。

【神留(づま)り】カムは神として行動すること。ツマルは留まる意。【領(うしは)きいます】ウシハクは、領有すること。【船の舳(へ)】舳先近くに設けられた板の間。【倭の 大國靈(おおくにたま)】ヤマトは日本国、クニタマは国土の精霊。天理市に鎮座する大和神社のご祭神。【天(あま)がけり】大空を飛翔して。

【墨繩(すみなは)を 延(は)へたるごとく】墨縄は、大工道具の一つである墨壺に付属した糸。真っ直ぐなことの譬に常用された言葉。【あちかをし】地名チカに掛かる枕詞。語義未詳。【値嘉(ちか)】長崎県南・北松浦郡、五島列島、平戸島及びその周辺の島々の総称。五島列島の西端福江島の三井楽湾が、遣唐使船の発着地であった。

【大伴の 御津(みつ)の濱】難波三津の地。「大伴」は現在の大阪市から堺市にかけての広範囲な地域の総称。古く大伴氏の領地であった。【御津】大阪市の上町台地の一角を指したというが所在不明。【び】ほとり、あたり。【直(ただ)泊(はて)に】寄り道せずまっすぐに。【つつみ】ケガ。【幸(さき)く】無事に。

通釈は、「神代以来、言い伝えられてきたことだが、大和の國は日本国を統治される神の威徳が厳然としている國、言葉の精霊が働いて助けて下さる國であると、語り継ぎ、言い継いできた。今の世の中の人も悉く、目の前に見ていし知ってい。人々は数多くあふれている、高く光る日の神の朝廷、神の御心のままに、慈愛の心を盛んにして、天下の政治を担当された家柄の子としてお選びになり、天皇のご命令を戴いて、唐の遠い所に派遣され行ってしまうで、海原の岸にも沖にも、神として留まって支配される諸々の大御神たちは、船の舳先で導き申し上げ、天地の大御神たち、大和の大国魂の神は、天のみ空から天を飛翔し見渡しになられる仕事を終え、朝する日には、またさらに大御神たちは船の舳先に御手をかけて導き、墨縄を張ったよに、値嘉(ちか)の崎から大伴の三津の浜辺に、寄り道もせず、御舟は到着するでしょう。つつがなくご無事で早く御帰りなさいませ」。

「倭(やまと)の國は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言靈(ことだま)の 幸(さき)はふ國」であるから、神々の守護によって、遣唐使の務めを無事に終えて、無事に帰朝するという信仰を歌ひあげた歌。壮大なる國誉め歌であると共に、神々のご加護のもとに、遣唐使としての使命を果たさんとする友に対する雄々しき激励の歌である。

山上憶良は遣唐使の先輩として、その困難さ、危険性を熟知していた。だからこそ、わが国の国威を損なうことなく、その使命を果たすために、日本人としての自覚、天皇の臣下としての使命感を確立し、さらに日本の神々のご守護を信じて、海を渡り唐に赴くことを祈ったのである。支那の思想・文藝に強い影響を受けた憶良であったが、日本天皇への仰慕の心、そして日本の神々への信は、きわめて深いものがあったことが分かる歌。

この歌について保田與重郎氏は、「憶良は、實は専ら儒佛の思想を喜んだ人で、その方では當時の代表的な文人であるが、その人が歌った歌の中に、言靈の幸ふ國を云ひこれを今の目のまへに見たと歌ひ、聞いたと云うてゐるのは、却って、かういふ傾向の人の言葉だけに、尊い道のありさまを云ふものである。…萬葉集のありがたさは、かういふ道のありさまを示してゐるところにある。」(『言靈私観』)と論じてゐる。 

古代日本人は、言葉の大切さ、偉大さを強く自覚し信じ、言葉の靈力によって、幸福がもたらされている國が大和の國であると信じていたことが、「人麻呂歌集」の歌と憶良の歌によって理解される。

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