2019年5月19日 (日)

やまと歌・『萬葉集』の現代における価値


中河与一氏は、「古代人との心の交通といふことが次第に困難になる時、和歌形式こそはその形式が決定してゐるために、自由に古代人と心が通じあふことができるのである。すなはち三十一字を知ってゐさへすれば、われわれは…最も自然に、ほとんど何の困難もなく、古代人の心に想到するのである。和歌形式といふもののもつ最も重要な一つの意味がここにある…。」「(和歌は)は古代人と現代人とをむすぶだけではなく、さらに高貴の人々と低き人々とを連結した。吾等は萬葉集の中に天皇をはじめ皇統に属する方々の歌をよむと同時に、下って遊行笑婦の歌をさへそこに詠むのである。大體ヨーロッパに於ては藝術的趣味といふやうなものは、一部の階級にのみ属したものであるが、それが三十一字形式のためにわが國に於ては全體的に流通し、然もこれが民族全體を一つの発想に結びつけるところの役目をしてゐるのである。即ち三十一字は民族の縦と横とを結ぶものであって、その発想の永遠的な聡明さは世界の比類を見ないと云っていい。」(『中河与一歌論集』)と論じてをられる。

『萬葉集』の歌を讀むことによりを、今から千数百年昔の日本人のまごころの表白に今日のわれわれが共感し感動することができる。とくに『萬葉集』は貴族や武士や僧侶の歌だけではなく、上御一人から一般庶民・遊女の歌まで収められてゐる。

『萬葉集』の相聞歌を讀めば、古代日本人の戀心を知ることができ、防人の歌を讀めば戦争に赴く時の古代日本の若者たちの心を知ることができる。東歌を讀めば当時の東國庶民の天真の心を知ることができる。もちろん、天皇御製を拝承すれば、萬葉時代の天皇様の大御心を知ることができる。古代と現代の心の交通が和歌によって為される。このやうに和歌は、時間的に縦に貫く役割を果たす。時間を超越して神代と古代とを直結する文藝が和歌である。

一方、地位や貧富の差・老若男女の違ひ・地域や身分を超えた人と人との心の交通が和歌によって為される。和歌は、空間的に横に貫く役割を果たす。和歌は、地位や身分の上下や違ひも超越して日本人を結んでしまふのである。上御一人から下萬民を直結するものである。

つまり、時間と空間の中心点に和歌といふものが立ってゐるのである。時空を超越して、今と神代と直結する文藝、そして身分や貧富の差を超越して日本人を結びつける文藝、それが和歌である。永遠の時間と無限の空間を充たす文藝が和歌である。言ひ換へると日本民族を時間といふ縦軸と空間といふ横軸で一つに結び付ける文藝が和歌である。

上天皇から下民衆に至るまで創作し、神代より現代に至るまで創作し続けられてきた文藝が和歌である。すなはちわが日本の時間と空間を無限に充たす文藝である。

日本人のまごころの表白であり魂の訴へかけである『やまとうた』は、都や中央に住む権力者や勝利者の声ではなく(勿論さういふ人々の歌も含まれるが)、田舎や辺境に生活する庶民といはれる人々や疎外者・敗北者の声が重要な位置を占める。上御一人におかせられても、崇徳上皇・後鳥羽院・後醍醐天皇など辺境にお遷りになられた天皇の御製に感動を呼ぶ素晴らしい御歌が多い。

一時期、「小説」や「評論」を「第一藝術」とし、「和歌」や「俳句」を「第二藝術」としてこれを軽んずる傾向があった。また和歌を「奴隷の韻律」などとしてこれを否定する人もゐた。そして和歌や俳句はやがて滅びるとまでいはれた時期があった。しかし、和歌も俳句も未だに滅びてはゐない。

「第二藝術論」は、和歌が民衆に愛された定型詩であることを逆に証明してゐる。すなはち和歌や俳句は、一部の専門家のみによって創造される藝術・文藝ではないのである。和歌が、記紀・萬葉集時代から現代にいたるまで滅亡することなく継承され創造されてきたといふこと自體が、日本文藝における和歌の大きさを証明する。

和歌は傳統の継承と創造とは一體である。歌を詠む人は、先人の和歌を手本として學ぶ。和歌の原点を常に顧みながら新しい創造を行なってきた。即ち傳統と創造が一體になってゐる。ここに和歌文學の特質がある。日本人は傳統の継承から創造を學んだ。和歌はその典型である。傳統と創造が渾然一體となっているのが和歌である。

これは、皇位継承・伊勢の神宮の御遷宮と相似である。日本天皇の肉身はやがてお隠れになられるが、皇位は不滅であり皇統連綿であり萬世一系である。先帝がお隠れになると新帝が即位の大典を執行され大嘗祭を行はれることによって、新しき肉體であらせられながら邇邇藝命以来の靈統を継承される。伊勢の皇大神宮は、御祭神の天照大御神の御神靈は永遠であるが、神殿は二十年ごとに造り替へられる。

傳統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふのが、わが國の皇位であり、伊勢の神宮であり、和歌なのである。これは他國には見られないわが日本の特質である。まさにわが國體は萬邦無比なのである。

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが國に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は和歌と切り離し難く一體である。天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されるのである。

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに御歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

中河与一氏は「和歌が國風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた、主に公家を中心とする文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本に於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した。」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を傳統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとして和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ實感すべきである。

そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を學ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2019年5月12日 (日)

『萬葉集』の時代背景


 『萬葉集』の時代(つまり推古天皇から淳仁天皇の御代まで)は、わが国が、支那の文化・政治制度・法制度を受容した時代である。支那の制度に倣って中央集権制度が整ひ、律令制度が敷かれ、制度文物が唐風化の時代を迎へた。
 権力闘争もあったが、大和朝廷の基礎が固められた時期である。つまり、天皇中心の國家体制が法律的・制度的に確立した時期である。
『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱・白村江の戦ひなど大国難・大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために『萬葉集』は編纂された。
萬葉時代の状況は、遣唐使の派遣などがあり、儒教仏教の伝来など支那や朝鮮から外来思想・宗教・政治制度の輸入が行はれた。また、国内的には、大化改新といふ大変革、壬申の乱といふ国家の存亡にかかはる内戦のあった時期であり、対外的には百済救援の失敗による唐・新羅連合軍来襲の危機もあった。まさに内憂外患交々来たるといった状況であり、この時代は、今日のわが国と時代状況はよく似てゐる。
しかし当時の日本は内憂外患を克服した。『萬葉集』はさういふ時代におけるわが国の祖先の声・魂の表白である。今日の日本の混迷を打開するためには、『萬葉集』に回帰し『萬葉集』に歌はれた国民精神を回復することが必要なのである。 
 萬葉の時代を具体的にいへば、①揺籃期=推古天皇の御代(聖徳太子の時代・六二八まで)から舒明天皇の御代。②初期萬葉=天智・天武両天皇の御代で大化改新(六四五)から壬申の乱(六七二)を中心とした時期。③白鳳萬葉期=持統天皇の御代である藤原京の時代から奈良遷都(七一0)までの時期。④平城萬葉期=奈良遷都から聖武天皇の御代前半の天平時代前期(七三三)まで時期。⑤天平萬葉期=聖武天皇の御代後半から天平時代後期(七五九まで)の淳仁天皇の御代までの時期。
中西進氏は「『萬葉集』に収められた和歌の時代は、だいたい大化改新と呼ばれる事件のあった六四五年ころから始まるのと考えるのがよいと思っている。…さらにひろげれば、七世紀のはじめごろからで、…聖徳太子が…深く仏教に心を致した後に、十七条の憲法といった人間省察にみちた文章を作ることと、抒情歌の時代の到来とは、密接にかかわっていると思える。…聖徳太子の到達点も、仏教という渡来思想によって可能になったものであった。すなわち、こうした萬葉の出発は新たな文化の導入によって可能になったものであった」(神々と人間)と論じている。
 『萬葉集』は、國家変革・激動・外患の危機の時期の歌集であり、國難の時期に如何に当時の日本人が日本國體精神を讚仰し道統を継承し、それを元基として國難を乗り越えたかが、『萬葉集』を読むと分かる。
 保田與重郎氏は、「萬葉集の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてであってこの時代の中間は、奈良朝初期の太平の御代であるが、前後にかなり多くの戦乱があった。…壬申の乱があり、…後期の聖武天皇の時代にも廣嗣の乱といふ大乱があり、……この歌集は決して太平の御代の國風を集めたものではない。…我々が萬葉集の精神を見るといふことは、さういふ國家の大事に当り、國民思想の根柢をつくやうな大事変のしきりに起る中で、古人が如何に國體の真髄を守り、神と天皇に仕へ奉ったかを見るのである。歌の調べの美しさも、慟哭も、嗚咽も、みなこの一点より解さねばならぬ。」(「萬葉集と軍歌」)と論じている。
 飛鳥・藤原時代は、天皇中心の国家体制建設の陣痛期であった。幾度か繰り返された痛ましい悲劇も、謂はばその一の犠牲であった。
しかし、白鳳・朱鳥・大宝と、大唐模倣の潤達明暢な宮廷内外の生活は着々軌道に乗り、豪華瑰麗な幾多の造形芸術は開華し、溌剌たる国家の燃え上る鼓動を把握して、我が『萬葉集』二十巻の荘厳が現出した。『萬葉集』は要するに、皇統礼讃の文学であったのである。
 それとともに、わが國伝統文化が異質の文化(特に仏教・儒教といふ精神文化と唐の政治法律制度の受容)に遭遇した激動の時期であった。これに対するためのわが國伝統的精神文化の興起が、『記紀』『萬葉集』の編纂であった。即ち、大唐模倣から日本国の独自文化の興隆をもたらした歌集が『萬葉集』なのである。

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2019年5月11日 (土)

大伴家持のますらをふりの歌

『萬葉集』には、確かに優雅にして麗しい歌が多く収められてゐるが、日本の伝統的な「ますらをぶり」の精神を歌った歌も収められてゐる。

ますらをとは、丈夫・武士・健男・益荒夫と書く。強く堂堂とした、りっぱな男子。ますらたけを。人並み優れて強い男子を誉めて言ふ。つまり英雄のことである。

賀茂真淵は、歌の調べとしての「ますらをぶり」は、清(さや)けく、明るく、のどかしきこととし、ますらをのてぶりをもって人のまごころの素直な表現であるとしている。

ますらをぶりは、大伴旅人の子である大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 「剣太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)という意。

研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。
 
 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から詠んだ「族を喩す歌」である。「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。興奮した歌いぶり。
 ますらを(丈夫・武士・健男・益荒夫と書く。強く堂堂とした、りっぱな男子。ますらたけお。人並み優れて強い男子を誉めて言う。つまり英雄のこと。「~ぶり」▽雅語的)賀茂真淵は、歌の調べとしての「ますらをぶり」は、清(さや)けく、明るく、のどかしきこととし、ますらをのてぶりをもって人のまごころの素直な表現であるとしている。ますらをぶりは、大伴家持の『族に喩す歌』に表白されている。

 「剣太刀いよよ研ぐべし古(いにしへ)ゆ清(さやけ)く負ひて來しその名ぞ」
 (わが一族の伝統の刀をいよいよ研ぐべきである。古来より清くさやけく伝えてきた大  君の辺にこそ死なめという大伴氏の名であるぞ。祖の名を曇らすことなきように磨けよ)という意。研ぐという言葉に剣太刀を研ぐと家名を磨くことを掛けている。

 家持は、旅人の子で、奈良朝末期の人。大伴氏は、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して、武装して供奉してより、代々武を以て朝廷に奉仕した。中央地方の諸官を歴任。晩年は中納言・東宮太夫。藤原氏の権勢が強まるに中にあって、神代以来の名門の悲運を身に負った人生であった。そうした生涯にあって家持は、神ながらの精神・日本の伝統精神を守ろうとし、

私権を以て世を覆おうとする者たちに対して悲憤して止まなかった。 

 この歌は、天平勝宝八年(七五六)聖武天皇が崩御されると間もなく、大伴氏の有力者古慈悲が朝廷を誹謗した廉で解任された。家持は氏の上としての責任感から「族を喩す歌」と言ふ長歌の反歌である。
「剣太刀いよよ研ぐべし」ときわめて断定的な歌い方をしている。高潮したした歌いぶりである。

 この反歌には、三大思想が詠まれている。一、祖先を尊び家柄を重んじる。二、忠孝一本の思想。三、名を重んじ、家名を重んじる。反歌はそれを歌っている。これは、大伴一門の伝統的忠誠・尊皇思想を歌っただけでなく、わが国民精神を歌ったと言える。 

『族に喩す歌』には、史書が描かない真の歴史を歌いあげ、天孫降臨すなわち肇国のはじめからの精神を貫こうとした。それは、降臨された天孫に仕え、代々の天皇に仕えた大伴氏の勤皇の誇りであった。

「剣太刀いよよ研ぐべし」という武門の名誉そして「赤き心を皇辺に極めつくして止へ来る」という赤誠心詠んだ。この歌は、神代以来忠誠を旨として来た大伴氏の家柄を詠じて、一族の奮起を促した。この歌は、決して口先だけの生易しい歌ではなく、氏の長者としての責任の重大さを痛感して、心肝を吐露し、熱誠を披瀝した血の出るような声である。名を重んずる心が歌の句の間に溢れている。
 
「さやけく」とは「清明心」である。「清明心(清く明らかなこと・きよらけくあきらけき心)」は、神話時代以来わが国の重要な道徳観念である。天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「しかあらば、汝が心の清く明きは何をもって知らむ」と仰せられた。「清明心」「清き心」の伝統は、日本の倫理思想の中に力強く生きている。清さとは、一面において清く明らかなさを求め、あっさりとしていて、名誉・利益などに執着(しゆうじやく)しないさまである。

 天智天皇御製に、
「渡津海の豐旗雲に入り日さし今夜の月夜清明(あきらけく)こそ」
(海空に、豊かに旗の如くたな引く雲、それに入り日がさしている。今夜の月夜は明らかなことであろう。)
 がある。「清々しい」というほどの心にこの「清明」の文字をあてた心が大事である。清明(汚れなく・清く・くもりなく・明らけき心)にあこがれる心が日本人の心である。

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2019年5月 7日 (火)

「萬葉集」の掉尾を飾るに相応しい大伴家持の名歌

 大伴家持は、日本の国の国柄の素晴らしさを後世に伝えなければいけないという使命感を持って、「萬葉集」の編纂に関わり、自らも歌を数多く詠んだのである。「萬葉集」は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱などという大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために「萬葉集」は編纂された。

 しかし、支那と比較すればわが国は平穏に歴史を経過して来た。支那は「易姓革命」といって、王室の姓が変わる革命が繰り返された。「易姓革命」とは、儒教の政治思想の一つで、天子は天命により天下を治めてゐるのであって、天子に不徳の者が出れば、天命は別の有徳の者に移り、王朝が交代するといふ思想である。わが国の天皇統治の道統には一切さういふ思想はない。天皇その方が天の神の地上における御代理・御顕現であり、現御神(うつし身として現れられた神)である。天皇の御意志そのものが天命なのである。一系の天子が永遠にわが国を治められるのである。だから支那のやうな王朝の交代とそれに伴ふ国家の分裂や興亡は起こらなかったのである。      

 三年春正月、因幡國の廳(まつりごとどころ)に、国郡の司等に饗(あ へ)を賜へる宴の歌一首
                      
                  
新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)
                (四五一六)          

 大伴家持が四十二歳の時の賀歌(お祝いの歌)で、「萬葉集」最後の歌である。天平宝字三年(七五九)の正月(太陽暦では二月二日)、因幡の國(鳥取県東部)の國廳(行政を扱う役所)で、因幡守(今日の県知事)であった家持が、恒例により郡長などの部下に正月の宴を与へた時に詠んだ歌。

 「いや重け吉事」の「重け」はあとからあとから絶える事なく続くこと。「新しい年のはじめの初春の今日降る雪の積もるやうに良きことが積もれよ」といふほどの意。

 元旦に雪が降るのは瑞兆で、その年は豊作であるといはれてゐた。しんしんと雪が降り積もるやうにめでたきことも重なれよといふ願望を歌った。雪の降る眼前の光景を見て歌った平明で清潔で堂々たる「萬葉集」の掉尾を飾るに最も相応しい名歌である。

 人麻呂の時代即ち初期萬葉の時代は、壬申の乱などがあったが、それでも神ながらなる日本を讃える歌を歌った。しかし、家持の時代になると、仏教しかも悪い意味の祈信仰が浸透し、藤原仲麻呂の専横・僧道鏡の出現など日本国の本来の大らかさ・明るさ・さやけさ・清らかさが隠蔽されつつあった。

 家持と同族であった大伴古慈悲とか大伴古麻呂という人たちは、橘奈良麻呂と一緒に、称徳天皇の寵を得て専横をきはめてゐた藤原仲麻呂打倒のクーデターに関ってみんな粛清されてしまった。そして直接クーデター計画に関わらなかった家持も因幡國に左遷されたのである。家持は後に、都に戻る。

 しかし、家持は、年の初めにかういふめでたい歌を詠んだ。「言事不二」という言葉がある。「言葉と事実と一致する、言葉と事実は二つではない一つである」「言葉に出したことは実現する」といふ意味である。聖書にも「言葉は神なりき。よろずものこれによりて成る」と書かれてゐる。家持が、「いや重け吉事」と歌ったのは、めでたい言葉を発することによって吉事が本当に事実として実現すると信じたのである。

 そして、「萬葉集」の最後の歌にこれを収め、一大歌集の締めくくりにしたところに、なにがしかの意味があると考えるべきである。国が混乱し、世の有様は悲痛であり慟哭すべきものであっても、また自分の一族が危機に瀕してゐても、否、だからこそ、天皇国日本の国の伝統を愛し讃へ、日本の国の永遠の栄えと安泰を祈る心の表白であらう。

 また、「萬葉集」編者(家持自身と言われる)は、祝言性豊かなこの歌を全巻の最後に置き、「萬葉集」を万世の後まで伝えやうとする志を込めたといはれてゐる。我々は「萬葉集」という名称に、無限の力と祈りとを実感するのである。

 ともかくこの歌は、わが国の数多い和歌の中でもとりわけて尊くも意義深い歌である。

 この歌は、淳仁天皇が御即位された翌年の正月に詠まれた歌で、「萬葉集」の歌で最も作歌年代の新しい歌である。また家持の歌としてもこの歌が年代が最も新しい。この歌の後に家持が詠んだ歌は「萬葉集」に収録されてゐない。ということは、因幡國から都に戻った家持は、藤原仲麻呂打倒計画にまたまた巻き込まれ、今度は薩摩守に左遷されるが、再び都に戻り、参議兼東宮大夫、東北鎮撫の総帥持節征東将軍などを歴任し、延暦四年(七八五)、六十四歳でこの世を去ってゐる。

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2019年5月 6日 (月)

山上憶良の「好去好来の歌」に歌われた言霊信仰

好去(かうこ)好来(かうらい)の歌

神代より 言ひ傳て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の國は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言靈(ことだま)の 幸(さき)はふ國と 語り繼ぎ 言ひ繼がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人多(さは)に 滿ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神ながら 愛(めで)の盛りに 天(あめ)の下 奏(まを)したまひし 家の子と 選び給ひて 勅旨(おほみこと) 戴き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海原(うなばら)の 邊(へ)にも沖にも 神留(づま)り 領(うしは)きいます 諸(もろもろ)の 大御神等(たち) 船(ふなの)舳(へ)に 導き申(まを)し 天地の 大御神たち 倭の 大國靈(おおくにたま) ひさかたの 天(あま)の御(み)虚(そら)ゆ 天(あま)がけり 見渡し給ひ 事了(をは)り 還らむ日には また更(さら)に 大御神たち 船の舳(へ)に 御手(みて)打ち懸けて 墨繩(すみなは)を 延(は)へたるごとく あちかをし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津(みつ)の濱びに 直(ただ)泊(はて)に 御(み)船は泊(は)てむ つつみなく 幸(さき)くいまして 早歸りませ                                       
(八九四)

山上憶良が、遣唐使の出発に当たってその無事を祈り祝福した歌である。天平五年(七三三)三月三日、大唐大使・多治比(たぢひの)真人(まひと)広(ひろ)成(なり)に謹上した長歌。多治比(たぢひの)真人(まひと)広(ひろ)成(なり)は、下野守・越前守などを歴任し、天平五年難波より、唐に向かって出発し、七年三月に帰朝し、天平十一年に死去。

「好去(かうこ)好来(かうらい)の歌」とは、無事に出発し無事に帰国して下さ
いと祈る歌といふ意。

【皇神(すめがみ)】天照大御神。【嚴(いつく)しき】は厳然としておられる。【言靈(ことだま)】言葉に宿る靈。【多(さは)に】数が多い。【高光る】日に掛かる枕詞。天皇は日の神たる天照大御神の御子であるとの信仰に基づく言葉。【日の朝廷(みかど)】日の大神の御子即ち天皇のいます宮殿。

【神ながら】は、神であられるままに、神の御心のままに。天皇を神として讃え、天皇の御行為は神の行為であるとする。この場合の天皇の御行為は広成を遣唐大使に任命した事をいふ。【愛(めで)の盛り】メヅは愛する意。【天(あめ)の下 奏(まを)したまひし】天下のまつりごとを執行される意。【罷(まか)りいませ】罷ルは貴人のもとから退出する意。

【神留(づま)り】カムは神として行動すること。ツマルは留まる意。【領(うしは)きいます】ウシハクは、領有すること。【船の舳(へ)】舳先近くに設けられた板の間。【倭の 大國靈(おおくにたま)】ヤマトは日本国、クニタマは国土の精霊。天理市に鎮座する大和神社のご祭神。【天(あま)がけり】大空を飛翔して。

【墨繩(すみなは)を 延(は)へたるごとく】墨縄は、大工道具の一つである墨壺に付属した糸。真っ直ぐなことの譬に常用された言葉。【あちかをし】地名チカに掛かる枕詞。語義未詳。【値嘉(ちか)】長崎県南・北松浦郡、五島列島、平戸島及びその周辺の島々の総称。五島列島の西端福江島の三井楽湾が、遣唐使船の発着地であった。

【大伴の 御津(みつ)の濱】難波三津の地。「大伴」は現在の大阪市から堺市にかけての広範囲な地域の総称。古く大伴氏の領地であった。【御津】大阪市の上町台地の一角を指したというが所在不明。【び】ほとり、あたり。【直(ただ)泊(はて)に】寄り道せずまっすぐに。【つつみ】ケガ。【幸(さき)く】無事に。

通釈は、「神代以来、言い伝えられてきたことだが、大和の國は日本国を統治される神の威徳が厳然としている國、言葉の精霊が働いて助けて下さる國であると、語り継ぎ、言い継いできた。今の世の中の人も悉く、目の前に見ていし知ってい。人々は数多くあふれている、高く光る日の神の朝廷、神の御心のままに、慈愛の心を盛んにして、天下の政治を担当された家柄の子としてお選びになり、天皇のご命令を戴いて、唐の遠い所に派遣され行ってしまうで、海原の岸にも沖にも、神として留まって支配される諸々の大御神たちは、船の舳先で導き申し上げ、天地の大御神たち、大和の大国魂の神は、天のみ空から天を飛翔し見渡しになられる仕事を終え、朝する日には、またさらに大御神たちは船の舳先に御手をかけて導き、墨縄を張ったよに、値嘉(ちか)の崎から大伴の三津の浜辺に、寄り道もせず、御舟は到着するでしょう。つつがなくご無事で早く御帰りなさいませ」。

「倭(やまと)の國は 皇神(すめがみ)の 嚴(いつく)しき國 言靈(ことだま)の 幸(さき)はふ國」であるから、神々の守護によって、遣唐使の務めを無事に終えて、無事に帰朝するという信仰を歌ひあげた歌。壮大なる國誉め歌であると共に、神々のご加護のもとに、遣唐使としての使命を果たさんとする友に対する雄々しき激励の歌である。

山上憶良は遣唐使の先輩として、その困難さ、危険性を熟知していた。だからこそ、わが国の国威を損なうことなく、その使命を果たすために、日本人としての自覚、天皇の臣下としての使命感を確立し、さらに日本の神々のご守護を信じて、海を渡り唐に赴くことを祈ったのである。支那の思想・文藝に強い影響を受けた憶良であったが、日本天皇への仰慕の心、そして日本の神々への信は、きわめて深いものがあったことが分かる歌。

この歌について保田與重郎氏は、「憶良は、實は専ら儒佛の思想を喜んだ人で、その方では當時の代表的な文人であるが、その人が歌った歌の中に、言靈の幸ふ國を云ひこれを今の目のまへに見たと歌ひ、聞いたと云うてゐるのは、却って、かういふ傾向の人の言葉だけに、尊い道のありさまを云ふものである。…萬葉集のありがたさは、かういふ道のありさまを示してゐるところにある。」(『言靈私観』)と論じてゐる。 

古代日本人は、言葉の大切さ、偉大さを強く自覚し信じ、言葉の靈力によって、幸福がもたらされている國が大和の國であると信じていたことが、「人麻呂歌集」の歌と憶良の歌によって理解される。

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2019年4月 6日 (土)

柿本人麻呂の現御神信仰の歌

萬葉の大歌人・柿本人麻呂は、「輕(かるの)皇子(みこ)の安騎(あきの)野(の)に宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」といふ長歌の冒頭で、 

 

「やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと…」と歌ってゐる。「やすらけくたいらけく四方八方を御統治あそばされるわが大君、高く照らすわが日の神の皇子は、神様であるままに、神様らしく振る舞はれるべく」といふ意である。

 

これは、現御神日本天皇の御本質を表現してゐる。日本天皇は武力で空間を制圧して國家を治められてゐるのではなく、天照大御神の御子、地上におけるご代理としての神聖なる権威によって治められてゐる。そしてその根幹の行事が天地の神々を祭られる<天皇の祭祀>である。

 

稲作生活を営む日本民族にとって太陽はなくてはならぬ存在であるので、わが國では、日の神信仰(太陽信仰)は特に強固である。故に、日本の最尊最貴の神は日の神たる天照大御神なのである。その日の神の御子が「祭り主・日本天皇」であらせられる。
 
天皇は國民を統率し國民を代表して、神に祈り神を祭り、神の御命令を民に伝へる役目を果たされる。ゆへに、民から拝すれば地上における神の御代理即ち現御神であらせられる。

天皇が日の神の御子として國家を統治されるといふ御自覚は、「記紀」「萬葉」の昔だけでなく、御歴代の天皇に一貫してゐる。

 

 聖徳太子は隋の煬帝に出した國書(國の元首が、その國の名をもって出す外交文書)に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と記し、「日本天皇は日の神の御子である」といふ信仰を高らかにうたひあげた。当時の先進國・隋に対して、このやうな堂々とした國書を提出したのである。

 

 聖徳太子の偉大なる御事績を拝して明らかな如く、「天皇は日の神の御子であるといふ思想は七世紀中頃、即ち大化改新以後につくりあげられた」といふ説は、大きな誤りである。
 
第一一六代・桃園天皇(江戸中期)は、

 

「もろおみの 朕(われ)をあふぐも 天てらす 皇(すめら)御神(みかみ)の 光とぞ思ふ」

 

といふ御製を詠ませられてゐる。

 

 天皇が御即位の大礼において、高御座に上られ、天下万民の前にお姿を現されるお姿は、「冕冠・大袖」である。「冕冠」は、『古事談』によると、応神天皇以来のものとされ、中央に金烏を描いた放射状の日像(ひがた)を立てる。これはまさしく日の御子のお姿である。つまり即位式において、天皇が高御座に登られるのは、新しい太陽神の地上における御誕生なのである。また、大嘗祭における鎮魂のみ祭りも、「日の神」として天皇のご神格の再生の祭りと承る。

 

 

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2019年4月 3日 (水)

山上憶良の尊皇精神の歌

新元号「令和」の典拠になった『萬葉集』の巻五に収められた「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の中に作品がある山上憶良が日本民族の倫理観念の根底にある尊皇精神を歌った歌は次の歌である。

 

惑(まど)へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首幷びに序

 

或る人あり、父母を敬ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履(だつし)よりも輕(いるかせ)にし。自ら倍俗先生(せにしゃう)と稱(なの)る。意氣は青雲の上に揚るといへども、身體はなほ塵俗の中に在り。いまだ修行得道の聖とあるに驗あらず。けだしくは、山澤(さんたく)に亡命する民ならむ。所以(かれ)三綱を指示し、更(また)五教を開き、遣(おく)るに歌をもちてし、その惑を反さしむ。歌に曰く、

 

父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)し 世の中は かくぞ道理(ことはり) もち鳥の かからはしもよ 行方(ゆくへ)知らねば穿沓(うけぐつ)を 脱(ぬ)ぎ棄(つ)るごとく 踏み脱(ぬ)ぎて 行くちふ人は 石木(いはき)より 成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす 日月の下は 天(あま)雲(ぐも)の 向(むか)伏(ふ)す極(きは)み 谷蟆(たにぐく)の さ渡る極み 聞こしをす 國のまほらぞ かにかくに 欲(ほ)しきまにまに 然(しか)にはあらじか       (八〇〇)

 

反歌

 

ひさかたの 天道(あまぢ)は遠し なほなほに 家に歸りて 業(なり)を爲(し)まさに (八〇一)

 

詞書の通釋は、「ある人がゐて、父母を尊敬することは知ってゐるが、孝養をつくすことを忘れ、妻子のことは顧みないで、脱ぎ捨てた履物のやうにこれを軽んじ、自らを倍俗先生(世俗に背を向けた隠遁者)と名乗る。意氣は空の青雲の上にも上らんばかりだが、身体はなほ世の塵の中にある。まだ修業をして道を極めた聖人になったしるしもない。言ふなれば山の中の澤に亡命した民であらうか。そこで、三綱(人間として守るべき、君臣・父子・夫婦の秩序)を示し、五教(人の守るべき五つの教へ。父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝)をさらに説くべく、この歌を贈ってその迷ひを直させることにする。その歌に曰く」。

 

長歌の通釋は、「父母を見れば尊いし、妻子を見ればいとしく可愛い、世の中はこれが当たり前のことではないか。もち鳥(鳥もちにかかった鳥)のやうに離れがたいものだ。行く末も分からないのだから、穴のあいた履物を脱ぎ捨てるやうに(家族を)捨てて行くといふ人は、石や木やうに非情の物から成り出て来た人なのか、お前の名を言ひなさい。天へ行ったならばお前の勝手にすればいいが、この地上には、大君がをられるのだ。この照らしてゐる日月の下は、天雲の横たはってゐる果てまでも、蟾蜍(ひきがえる)が這ひまはる果てまでも、大君が統治されるすぐれた國だ。あれこれと自分の欲望のままにそのやうにしてはいけないのではないか」。

 

反歌の通釋は、「天(日本の神々のゐます高天原のことではなく、支那の神仙思想が説くところのこの世が厭になった人間が逃避する場所のこと)への道のりは遠い。素直に家に帰って、家業にいそしみなさい」。

 

憶良の生きた時は、支那の老荘思想や仏教の無常感の影響で、家庭を顧みないで、俗世間を脱して暮らさうといふ人が増えて来たらしい。そこで、日本の傳統的倫理思想を説いて、その迷ひを払拭せしめやうとした作品である。天皇國日本に生きてゐる國民は、家族を捨てて現實から逃避するやうなことをしてはならないと歌ってゐる。

 

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2019年3月24日 (日)

言葉は神であり、霊である

言葉・言語は、文化の基礎であり、文化は言葉によって成り立つ。言葉は文化そのものである。言葉は神であり霊なのである。人間生活は言葉によって成り立つと言っても過言ではない。

『聖書』の『ヨハネによる福音書』の冒頭に、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」と記されてゐる。

一切の最始原は言葉であり、神は言葉であり、萬物は言葉=神によって成ってゐる即ち言葉が事物の本質であるといふ宣言である。すべての存在は言語・言葉を通じて表現される。神も「神」といふ言葉がなければ存在が表現されない。

「言葉がすべての事物の本質である」といふ思想は、仏教においても説かれてゐる。弘法大師・空海は、「内外の風気(ふうき)わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」「それ如来の説法は必ず文字による」「五大にみな響きあり。十界に言語を具す。六塵ことごとく文字なり。法身はこれ實相なり」(「『聲字即實相義』)と論じてゐる。声字即ち言葉が世界と存在者の實相そのものであるといふのである。

道元は、「いはゆる経巻は、盡十方界これなり。経巻にあらざる時処なし。」(『正法眼蔵』第二十四『仏経』)「峰の色溪の響きもみなながら我釈迦牟尼の声と姿と」(『傘松道詠』)と説いてゐる。森羅万象すべてが仏の言葉だといふのである。

『ヨハネによる福音書』の「言葉」も、空海のいふ「聲字」も、道元のいふ「経巻」「聲」も、人間の発する「音」や人間が書く「字」に限定されるのではなく、大宇宙の萬有一切をさしてゐる。大宇宙の萬有一切が神の言葉であり、仏の言葉であるとするのである。

日本の國は、「言霊の幸はふ國」といはれる。日本は、言葉の霊が栄える国であり、言葉の霊の力によって生命が豊かに栄える国である、といふ意味である。

日本民族は、言葉を神聖視し、萬物は言葉=神によって成ってゐると信じた。即ち言葉が事物の本質であるといふことを本然的に信じてゐた。

『祝詞』は人間が神への訴へかけた言葉であり、『歌』は人間の魂の他者への訴へである。祝詞にも歌にも霊が込められてゐる。祝詞を唱へ歌を歌ふと、そこに宿る言霊が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言霊の幸はふ」といふことである。日本文藝の起源はここにある。

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2019年3月17日 (日)

『百人一首』は和歌文學史上重大な意義を持つ

 

『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家であり歌人である藤原定家が、小倉山の山荘で選んだとされる百首の私撰和歌集である。戦國時代から江戸初期にかけて宮中・諸大名家で「かるた」として普及し始め、木版画の技術が発達すると元禄時代頃から絵入りの「歌がるた」の形で庶民に広まった。

 

以来、今日まで長い間、上は朝廷から下庶民に至るまで愛好された歌集が『百人一首』である。日本人が和歌といふ文藝をいかに愛して来たかが分かる。和歌といふ定型文藝が、日本人の感性・生活感覚に合致してゐるといふことであらう。

 

濱口博章氏は次のやうに論じてゐる。「現在、わが國の古典文學といえば、誰しも『萬葉集』『源氏物語』などの作品を思い浮かべるであろうが、高等教育の普及した当節でも、これを原文で読み味わうことは困難で、況や江戸時代の庶民となれば、思い半ばに過ぎるであろう」「契沖や真淵のようなすぐれた研究者が輩出しようとも『萬葉集』は一般人にとって縁なき存在で……これに引き換え、百人一首は全く大衆のものであった。目に一丁字のない庶民ですら、百人一首の二つや三つはそらんじていたであろう」「『古典』とは、人々によく知られ、後人の典型となるべき価値の定まったものと定義するならば、百人一首こそ『國民の古典』の名に恥じないもので、まさに『庶民の文學』というべきであろう」「百人一首は『かるた』によって一般大衆の間に流布していった。その結果、和歌に対する理解を深め、人々に培われて情操教育の材料となり、長く『美の心』を養って来たのである。これは他のいかなる文學作品にも見られない大きな特徴で、百人一首こそ真に『古典』と呼ぶにふさわしいものであろう」(『江戸庶民にとっての百人一首』)

 

和歌は、時間的には古代人から現代人、空間的には上御一人から庶民までの「こころ」一つに結ぶ働きがある。日本人の思想精神を正確にあるがままに自己にものとするには、人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を學ぶことによって可能となる。

 

『百人一首』がわが國和歌文學史上重大な意義を持つのは、特に和歌を學ぶ人ではなく、一般庶民に自然に和歌を親しい存在にしたことである。

 

加太こうじ氏は、「『百人一首』をするのは小學校六年生ぐらいからで、十五、六歳から二十歳ぐらいにかけての若者が、明治中期から昭和初期にかけて熱中した。…百人一首の和歌は相聞歌=戀歌が多い。その戀歌は文學的情緒と相まって初戀の雰囲気をかき立てた。それ故当時はどこの町内にも百人一首のサークルがあった」(『東京の原像』)と書いてゐる。

 

私は東京下町育ちの戦後っ子であり、いはゆる団塊の世代であるが、双六遊びや普通のカルタ取りをして遊んだが、『百人一首』は全くしたことがない。しかし、今年九十三歳になるわが母は、私と生まれ育った東京下町の同じ町で生まれ育った。『百人一首』をよくしたといふ。母は『百人一首』に収められた歌を暗唱してゐた。

 

戦後になって、特に占領軍が禁止したと言ふわけでもなからうが、『百人一首』は衰退したと言へるかもしれない。近代短歌ですら「第二藝術」「病人文學」「奴隷の韻律」などと批判されたのだから、『百人一首』が忘却されかけたのは当然かもしれない。それは、決して革新でも進歩でもなかった。ただの破壊であり断絶であった。

 

しかし、『百人一首』は全く廃れたといふことはなく、継承されて来た。最近は復活の兆しもある。『百人一首』を各家庭で復興させることにより、青少年たちが日常生活の中で感覚的に日本の古典・日本傳統美を理解することができると思ふ。

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2018年11月16日 (金)

日本民族の道義心・倫理觀の根幹

「矢弾盡き天地染めて散るとても魂がへり魂がへりつゝ皇國(みくに)護らむ」

 

牛島満

 

牛島満陸軍中将が、昭和二十年六月二十三日午前四時三十分、沖縄県摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で割腹自決された時の辞世歌である。真にも悲しくも深く切なる歌である。自決した後も、魂は祖国に帰ってきて日本を護るといふ決意を示された歌である。

 

牛島司令官はまた、

「秋を待たで枯れゆくしまの青草は皇國(みくに)の春によみがへらなむ」

 

といふ辞世も遺されてゐる。

 

摩文仁の丘は、沖縄戦で日本軍および沖縄県民が最後の最後まで戦った地である。今は多くの慰霊塔が建てられ、平和記念公園になってゐる。美しい沖縄の天地に囲まれ整へられた公園であるが、戦争の悲しい歴史は消し去ることは出来ない。摩文仁岳の西端には、牛島司令官そして長勇参謀長など日本軍第三十二軍将兵の御霊を慰霊する『黎明之塔』も建てられてゐる。

 

日本人は、死んだらご先祖が草葉の陰から子孫を守って下さるといふ信仰がある。靖國神社そして各県の護國神社に鎮まりまします護國の英靈は今日唯今もわが祖國をお護り下さってゐるのである。

 

 それは皇后陛下が「終戰記念日」と題されて、

 

「海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたの御靈國護るらむ」

 

 と、詠ませられてゐる御歌を拝しても明らかである。

 

 國家も國民も現に今生きてゐる者たちのみによって成り立ってゐるわけではない。わが國建國以来、この國に生まれこの國に生きこの國に死んでいった人々の御靈、とりわけ國のために命を捧げた尊い英靈たちの御蔭によって今日のわが國そしてわが國民の存在があることを忘却してはならない。

 

死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」(よその世界・まだ行くことのできぬ世界)である。従って人が死んだことを「他界した」と言ふ。亡くなった人は草葉の蔭から生きてゐる人を見守るといふことは、死後の世界と現世は遮断してゐないで交流し連動してゐるといふことである。それは『古事記』に記されてゐる伊耶那岐命と伊耶那美命の黄泉(よみの)(くに) の「神話」に明らかである。

 

死後の世界は、次第に理想化・光明化されて行き、神々の住みたまふ世界と信じられるようになった。なぜなら、自分の親や愛する人などが、あの世に行って苦しんでゐるなどと考えへることに耐へられないからである。しかし、反面、穢れた他界も想定された。そこには鬼や妖怪や魑魅魍魎が住んでゐると信じられた。素晴らしい聖なる世界・清らかな「他界」は高天原と呼ばれ、穢れた他界・恐ろしき「他界」は夜見の国・根の国と呼ばれた。

 

春秋二回のお彼岸は、本来的には日本人の他界信仰・祖霊信仰から生まれた日本固有行事である。春と秋の昼と夜の長さが同じ日に「あの世」から「この世」へ祖先の霊が訪ねて来ると信じてきた。「彼岸」とは向かふ岸といふ意味であり、日本人の他界観念とつながる。

 

この世を去った方々の御靈に感謝すると共に、現世に生きる者たちを護りたまへと祈ることが、わが國の傳統信仰として今日まで生き続けてゐる。それは、日本民族の道義心・倫理觀の根幹である。

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