2018年8月 6日 (月)

亀山上皇御製を拝し奉りて

 

亀山天皇御製

 

「春(弘安御百首)

よもの海 浪をさまりて 長閑(のどか)なる 我が日の本に 春は來にけり

 

世のためも 風をさまれと 思ふかな 花のみやこの 春のあけぼの」

 

「石清水の社に御幸ありし時よませ給うける

石清水 たえぬながれは 身にうけて 吾が世の末を 神にまかせむ」

 

「神祇の心を詠ませ給うける

今もなほ 久しく守れ ちはやぶる 神の瑞垣(みづがき) 世々をかさねて」

 

「神祇

ゆくすゑも さぞなさかえむ 誓あれば 神の國なる 我が國ぞかし」

 

 

第九十代亀山天皇は、第八十八代・後嵯峨天皇の第七皇子、御名は恒仁。正元元年十一月二十六日(一二六〇年一月九日)御即位。文永十一年一月二六日(一二七四年三月六日)に皇子・後宇多天皇に譲位し、院政を始められた。『続拾遺集』の選進を命じられるなど和歌・漢詩文の興隆に御心を尽くされた。嘉元三年(一三〇五)に御年五十七歳で崩御された。

 

鎌倉時代には、二回の元寇・蒙古襲来が起こった。第一回の「文永の役」に際して、後深草上皇は、文永八年十月二五日に石清水八幡宮へ行幸されて異國調伏(ちょうぶく・内外の悪を打破すること。特に怨敵・魔物を降伏すること)を祈願された。十一月六日に蒙古軍撤退の知らせがもたらされると、八日に、亀山上皇は石清水八幡宮へ御自ら行幸され徹夜して勝利と國土安穏の感謝の祈りを捧げられた。翌九日には賀茂・北野両社へも行幸された。

 

二度目の「弘安の役」においても、朝廷から全國の二十二社への奉幣と異國調伏の祈祷の命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所において公卿殿上人、北面武士による「般若心経」三十萬巻の転讀などの祈祷が行はれた。亀山上皇はさらに、弘安四年六月石清水八幡宮に参籠され、六月四日には、「不断最勝王経」等を修して敵國調伏を祈祷され、七月一日には「仁王経」等を転讀され、七月四日には「一切経」を転讀され、敵國降伏を祈願あそばされた。

 

さらに、亀山上皇は、弘安四年六月、異國降伏御祈願のために勅使を伊勢大神宮に発遣せられ、宸筆の御願文を奉られた。

 

『増鏡』巻十二「老のなみ」には次のやうに記されてゐる。「伊勢の勅使に経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、眞讀(注・しんどく。経典を省略しないで全部讀むこと)の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、『我御代にしもかゝる亂出で來て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき』よし、御手づから書かせ給ひける…七月一日(注・閏)おびたゞしき大風吹きて、異國の船六萬艘、つは物のりて筑紫へよりたる、みな吹破()られぬれば、或は水に沈み、をのづから殘れるも、泣く泣く本國へ歸にけり。…さて為氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申をくりける。

 

勅として祈しるしの神かぜによせくる浪はかつくだけつつ 

 

かくて静まりぬれば、京にも東(あづま)にも、御心どもおちゐて、めでたさかぎりなし」

 

当時の日本國民は、亀山上皇の命懸けの御祈願を神仏が嘉され蒙古軍が玄界灘の底の藻屑と消えたと信じた。

 

元寇に際して、日本天皇の御命懸けの御祈祷を拝し奉り、日本國は「現御神日本天皇を君主と仰ぎ天地の神々が護り給ふ神の國」であるといふ「神國思想」が勃興し、まさに挙國一致で戦ひ、蒙古軍を二度にわたって撃退した。元寇は、まさに有史以来未曽有の國難であった。そしてその大國難を打開したのは、上御一人日本天皇の深い祈りと、日本國民の尊皇精神・神國思想であった。

 

國民唱歌『元寇』

「四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る/十萬余騎の敵 /國難ここに見る /弘安四年夏の頃」「天は怒りて海は /逆巻く大浪に /國に仇をなす /十余萬の蒙古勢は /底の藻屑と消えて /残るは唯三人(ただみたり) /いつしか雲はれて /玄界灘 月清し」

 

内憂外患交々来たるといった状況の今こそ、日本國民はこの唱歌の心意気を発揮しなければならない。

 亀山上皇の御徳をお慕ひして、福岡市の東公園には、亀山上皇の御尊像が建てられてゐる。また福岡の筥崎宮には、亀山上皇御宸筆と云はれる勅額「敵國降伏)の御文字が掲げられてゐる。

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2018年8月 2日 (木)

明治天皇御製に学ぶ―やまと歌の本質

明治天皇御製

 

ことのはのまことのみちを月花のもてあそびとはおもはざらなむ

 

明治四十年、御歳五十六歳の砌、 『述懐』と題された御製である。

 

「ことのはのまことのみち」とは、やまと歌のことである。日本人にとって歌を詠むとは、ただ単に花鳥風月の美を愛で、それを五七五七七の歌にするといふ遊びでは決してない、といふ事を教へられた御製である。

 

徳川幕府が、朝廷に対する規制的意図を持って制定した『禁中並びに公家諸法度』(別名『禁中方御条目十七箇条』)に「和歌は、光孝天皇より未だ絶えず、綺語たりと雖も、我が國の習俗なり。棄て置くべからず」などと記されてゐる。

 

「綺語」とは、美しく表現した言葉といふ意味であると共に、仏教の「十悪」の一つで真実に反して飾り立てた言葉といふ意味である。徳川幕府は、やまと歌をまさに「月花のもてあそび」と思ってゐたのである。徳川幕府が、和歌といふ日本伝統文学に対する理解がいかに浅かったかを証明してゐる文言である。

 

『禁中並びに公家諸法度』は、徳川家康が黒衣の宰相といはれた悪名高い金地院崇伝(世人から「大欲山気根院僭上寺悪國師」とあだ名されたといふ)に命じて起草させた。わが國和歌の道統について正しい理解がないのは当然といふべきである。明治天皇のこの御製は、『禁中並びに公家諸法度』を厳しく批判された御歌と拝することが可能である。

 

明治天皇は、同じ年、『歌』と題されて、

 

「まごころをうたひあげたる言の葉はひとたびきけばわすれざりけり」

 

と詠ませられてゐる。

 

また、明治三十七年には、『歌』と題されて、

 

「世の中のことあるときはみな人もまことの歌をよみいでにけり」

「天地をうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」

 

と詠ませられてゐる。

 

これらの御製は、やまと歌の本質について歌はれてゐる。和歌は決して遊びごとでもないし単なる美辞麗句を連ねたものでもない。まさに「まごころをうたひあげたる言の葉」なのであり、「世の中のことあるときによみいでる」ものなのであり「天地をうごかす」力を持つものである。神代の昔に発生し日本の道統を継承する最高の文藝が和歌である。

 

『古今和歌集・仮名序』(紀貫之)に「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

 

歌の語源は「訴へる」である。物事に感動して何事かを訴へた声調・調べ(音律の調子を合わせ整へること)のある言葉を歌といふ。そして、五七五七七といふ一定の形式と調べが自然に生まれた。

 

日本國民の心・思想・精神は、和歌によって表白せられ傳承されて来た。幕末維新期の志士の歌などを見てもそれは明白である。 

 

わが國は元寇・明治維新・大東亜戦争など國家的危機の時に尊皇愛國の精神が燃え上がった。そしてやまと歌が勃興した。それが『萬葉集』であり、幕末維新の志士の歌であり、大東亜戦争で散華した英靈の歌である。

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2018年7月26日 (木)

後鳥羽上皇御製

 

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

 

 

「人が愛しくも思はれ、また恨めしく思はれる。味気ない世の中だと思ふが故に、悩んでゐるこの私には」

 

『後鳥羽院御集』に収められてゐる。

 

【あぢきなく】形容詞「あぢきなし」の連用形で、「思ふようにならない」「面白くない」「理想通りではない」といふ意。【世を思ふ】世間・天下のことを思ひわずらふといふ意。【もの思ふ】自分の心に沸き上がるさまざまな思ひのこと。

 

後鳥羽上皇は、武家政権たる鎌倉幕府が次第に朝廷から政治の実権を奪ひつつあることを憂へられた。「あぢきなく 世を思ふ」とは、さういふことを表現されたのである。「もの思ひ」が和歌によく歌はれる「恋の悩み」ではなく、政治的対立・緊張に関する悩みであるが故に「あぢきない」といふやや乾燥した言葉を用ゐられたのかもしれない。

 

鎌倉の武家政権が朝廷を蔑ろにしてゐると感じられる情勢下にあって、元来繊細なる御心を持ち、慈悲深く、人を愛する心が深かった後鳥羽上皇は、人を恨む心を持たれる事があった。そのことを率直に歌はれたのであらう。

 

上の句で「人」といふ言葉を重ね、下の句で「思ふ」といふ言葉を重ねることによって切迫感、切実さが表現されてゐる。

 

つまり、世を憂へられるが故に増してくる他者への愛憎の念を制御できないことを見つめられてゐる御歌である。きはめて繊細にして複雑な心理描写・自己反省の御歌であると拝する。

 

この御製は、「承久の変」の結果、後鳥羽上皇が隠岐島に遷幸された後の御心境を詠まれた御歌ではない。「承久の変」よりも九年前の建暦二年(一二一二)、御年三十三歳の時の御作である。武家政権による「道統の隠蔽」「王朝文化破壊」を上御一人としてお嘆きになった御歌である。王朝時代から武家時代に移る過渡期の天皇としての深い悩み・憂ひを歌はれた。

 

藤原定家は、この御製を『百人一首』に収めた。『百人一首』の冒頭の二首は、天智天皇と持統天皇の御製である。掉尾の二首は、この後鳥羽上皇の御製と順徳天皇の御製である。これは何を意味するか。

 

天智天皇は、蘇我氏を討ち滅ぼして大化改新を断行され、皇室中心の国家体制を確立された天皇であらせられ、持統天皇は宗教・政治・法制・文化など全ての面で天皇を君主と仰ぐ国家を盤石のものにされた天皇であらせられる。

 

一方、後鳥羽上皇は、天に二日無き天皇日本国の國體が隠蔽されることを食い止めんとして「承久の変」を戦はれ、敗北された天皇であられる。順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子で、十四歳で第八十四代の天皇に即位され、父君と共に「承久の変」を戦はれたが、佐渡に潜幸された天皇であられる。

 

『百人一首』に収められた順徳天皇の御製は、

 

「ももしきや 古き軒端のしのぶにも なほあまりある 昔なりけり」(御所の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけ、朝廷が栄えた昔が懐かしく思はれて、いくら偲んでも偲びきれないことだ、といふ意)

 

である。

 

藤原定家は、王朝時代の終焉を悲しみ、さらに恩顧を受けた後鳥羽上皇・順徳天皇の御霊をお慰めするために『百人一首』を作った。『百人一首』は後鳥羽上皇・順徳天皇の御霊を鎮魂する歌集であると共に、「王朝文化」の精華を後世にのこす歌集であった。

 

後鳥羽院上皇(治承四年一一八〇~延応元年一二三九)は、高倉天皇の第四皇子で御名は尊成(たかひら)。源平の戦ひが終わり、平氏が安徳天皇を奉じて西へ下った寿永二年(一一八三)に五歳で践祚。その後、十九歳で位を譲り院政を執られる。承久三年(一一九八)「承久の変」に敗れ、隠岐へ遷られ在島十九年にして、崩御。悲劇の天皇であらせられる。『新古今和歌集』を編纂され、「千五百番歌合」などを催し、ご自身も多くの名歌をのこされた。

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2018年7月14日 (土)

在原業平の歌に詠まれた日本人の他界観

 

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを       在原業平

 

在原業平は平安時代初期の歌人。六歌仙の一人。平城天皇の孫・阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女・伊都内親王。在原姓を賜って臣籍に降下された。

『三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。『伊勢物語』の主人公は業平その人であると古くから信じられた。

 

この歌は、「病してよわくなりにける時、よめる」といふ詞書がある。

 

通釈は、「最後には行かなければならないあの世への道だとは、以前から聞いてはゐたけれど、まさか昨日今日その道を行くことになるとは思はなかったなあ」といふ意。

 

死に直面した時の驚きの心を詠んだ歌であるが、嘆きや悲壮感や無常感を露骨に表現することなく、素直にして平らかな心で歌ってゐる。現代に生きる我々にも違和感なく、時代を超えて訴へるものを持ってゐる。故に古来、辞世歌として最も親しまれてゐる。業平は五十六歳で没した。

 

死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」である。従って人が死んだことを「他界した」といふ。そして死んだ人は草葉の蔭から生きてゐる人を見守ったり祟ったりする。といふことは、死後の世界と現世は遮断してゐないで交流し連動してゐるといふことである。伊耶那岐命と伊耶那美命の黄泉国の神話も死後の世界と現世との交流が描かれてゐる。 

 

日本人は基本的に、肉体は滅びても魂はあの世で生き続けるといふ信仰を持ってゐる。死後の世界は、次第に理想化・光明化されてゆき、神々の住み給ふ世界と信じられるやうになった。何故なら、自分の親や愛する人などが、あの世に行って苦しんでゐるなどと考へることに耐へられないからである。

 

古代日本人は生活全般が信仰心を基本としてゐた。天地萬物に神や霊が宿ってをり、森羅萬象は神や霊の為せるわざであると信じてゐた。だから「他界」にも神や霊が生きてゐると信じた。しかし、反面、穢れた「他界」も想定された。そこには鬼や妖怪や魑魅魍魎が住んでゐると信じられた。

 

素晴らしい聖なる世界・清らかな他界は高天原と呼ばれ、穢れた他界・恐ろしき他界は夜見の国・根の国と呼ばれた。これが後に仏教の輪廻転生思想と結合し、西方極楽浄土及び地獄の思想が多くの日本人に信じられるやうになったと思はれる。

 

春秋二回のお彼岸は今日仏教行事になってゐるが、本来的には日本人の他界信仰・祖霊信仰から生まれた日本固有行事である。春と秋の昼と夜の長さが同じ日に「あの世」から「この世」へ祖先の霊が訪ねて来ると信じてきたのである。「彼岸」とは向かふ岸といふ意味であり、日本人の「他界観念=よその世界・まだ行くことのできぬ世界に憧れる心」とつながる。

 

業平のこの歌は、古代から傳はってゐる日本人の他界観を踏まへて、安穏の境地とは言へないまでも平常心で死を迎へたいといふ心を歌ったのではあるまいか。

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2018年7月11日 (水)

時により 過ぐれば民の なげきなり 八大龍王 雨やめ給へ 源實朝

 

時により 過ぐれば民の なげきなり 八大龍王 雨やめ給へ

源實朝

 

建暦元年(一二一一)七月、大洪水が起こり、大きな災害がもたらされた時、鎌倉幕府第三代征夷大将軍・源實朝が、「雨を止めてくれ」と八大龍王に訴へた歌。實朝二十歳の時の歌。『金塊集』所収。

 

「八大龍王」とは、『法華経(序品)』に登場する仏法守護の善神で、龍族の「八王」のことと言ふ。特に、「八王」の中の娑伽羅龍(しゃからりゅう)は雨を司る。實朝が、征夷大将軍として民の難儀を救ひたいといふ、切なる心を龍王に訴へた歌。

 

「訴へる」は「歌(うた)」と同系語で、「歌」の語源は「訴へる」である。「やまと歌」とは、感動をそのまま素直に訴へる文藝であり、その歌を鑑賞する人もその訴への感動を共有する。自己の感動を定型に集約して表現する文藝が「やまと歌」である。「やまと歌」とは、「書く」ものでもないし、「つぶやく」ものでもない。「訴へる」ものであり、「歌ふ」ものである。そして鑑賞する人に感動を与へるものである。

 

實朝は、長雨に困窮する民衆のために、為政者として一心に龍王に祈ったのである。民を救ひたいといふ魂の底からの念願を強い気迫で訴へたこの歌は、まさに「やまと歌」の典型である。

 

通釈は、「雨は人間生活に欠かせない天の恵みですが、時によっては降りすぎると民の嘆きになります。八大龍王よ、どうか雨をおやめ下さい」。

 

龍神は水の神様である。日本人は水の湧く場所を龍神がをられる所と信じて祀り、水辺で稲作を行ってきた。そして龍神が祭られてゐる神祠に、水の恵みに感謝し、雨乞ひの祷りを捧げることは古来行はれてきた。

 

反面、實朝の歌にある通り、雨が降りすぎると洪水になる。それだけでなく、大雨と共に発生する稲妻や雷鳴は恐ろしいものである。落雷によって被害も蒙るので、古代人は経験によって、水神と雷神は一つの神として信じた。

 

雷が龍神として信じられるやうになったのは、稲妻の姿が、龍のやうにのたうちまはりながら光を発するからであらう。

 

さらに、稲妻と落雷炸裂の音のすさまじさは、火焔の立つ刀剣を連想させた。故に、剣の神霊・鍛冶の神ともなった。

 

須佐之男命が退治した八俣大蛇(やまたのおろち)は、斐伊川の氾濫による洪水の象徴であり、奇稲田姫(くしなだひめ)は稲の田の象徴であると言ふ。また、八俣大蛇の体の中から出現した草薙剣は、雷神・水神たる龍神・蛇神の象徴である。日本神話は古代日本人の生活から生まれてゐることがわかる。

 

雷神が、雨や水を支配する神として崇められたのは、雷雨が稲の成熟にきはめて適した良い条件をもたらすものと信じられたことによる。だから、雷電を稲妻・稲光・稲つるびと言った。

 

このことは、雷の空中放電によって、二酸化窒素を生じ、さらに雨に降れば、硝酸と亜硝酸になって、水田に降りそそぎ、窒素肥料になるといふやうに、科學的に証明されてゐるといふ。

 

「稲妻」とは、空中に自然に起こる放電に伴って、空を走る光のことであり、「いなびかり」とも言ふが、これで害虫が死に、稲が豊作になるので、「稲の妻(つま)」に見立てたと言ふ。

 

また、雷の発生しやすい高温多湿の気象状況は、稲の成長にきはめて適してゐる。古代人は、多年の経験によって、雷神を水の神・稲の豊饒をもたらす神として信仰したのである。

 

源實朝は、武人であり、征夷大将軍である。しかし、やさしき心根を持つ人であった。それは彼が、「ものいはぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ」「いとほしや見るに涙もとどまらず親のなき子の母をたづぬる」といふも歌を詠んだことによっても分かる。

 

その實朝が、鶴岡八幡宮で兄・源頼家の子・公暁に「親の仇」として暗殺されてしまった事は、何とも大きな歴史上の悲劇であった。後鳥羽上皇への忠誠心篤い實朝が殺されなければ、『承久の変』は起らなかったと思はれるからである。

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2018年3月11日 (日)

國民精神の革新・日本の傳統精神の復興の中核が和歌の復興である

 

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

 

中河与一氏は「和歌が國風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた、主に公家を中心とする文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本に於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を傳統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとして和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ實感すべきである。

 

そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を學ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2018年3月 3日 (土)

「やまと歌」の定型について

 

「五・七・五・七・七」といふ定型は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられたといへる。これは「五・七調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるといふことである。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったといふ事實が非常に重要である。

 

それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。

 

和歌は、何ゆゑ定型・韻律に則って歌はれるのか。それは日本人の生活が常にある一定の規則・リズムに則ってゐるからであらう。日本の四季は規則正しく変化する。したがって農業を基本としてきた我が國民の生活も規則正しいものとなってゐる。わが國においては四季の変化と農耕生活とが調和してをり、毎年一定の「型」が繰り返されてゐるといへる。規則正しい四季の変化と農耕を基本とする規則正しい生活が、定型詩である和歌が生んだといふことができる。

和歌は、人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であるから、規則正しい生活の中から、自然にある声調を生み、「五・七・五・七・七」の定型を生み出したのである。

 

田谷鋭氏は、短歌とは何かを論じて、「()短歌は日本古来からの定型詩で、その形式はわれわれに与えられたもの──民族の約束──として存在し、ほとんど黄金形式と言っていい完璧さを持っている。()短歌は意味と韻律の融合から成り立っていて、その持つ意味や韻律は無数の変化とその組み合わせから成り立っている。」(『短歌とは』・「短歌」昭和五十六年一月号所収)と論じてゐる。

 

中河与一氏は、「大體ものに規格を与へるということは常に全體的意志があるのであって、三十一字を決定したといふこと自體に、古代人の聡明な民族的理由をわれわれは讀まねばならぬのである。…それは初めから意図したものではなく、自然に民族の直感がさぐりあてたものといふべきである。かくて三十一字形式といふものは古代人の発明した實に見事な、藝術における全體的意図をもった形式となったのである。三十一字といふ一つの形式によることによって、民族を自然に結んだのであるが、その定着が何によってゐるかは誰にもわからない。」 (『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

阿部正路氏は、「『平家物語』にあらわれた長歌は、七・五調を基調とした短歌の影響を受けながら発生したものであろう…夭折者の無念の思いは、こうした歌によって、こんにちもなお人々の心を動かしてやまないのである。その心をさそうのが、五音あるいは七音を基調とする律文學だったのである。…(四註・それは)言葉の長さの組み合わせではなく《しらべ》の組み合わせなのであって、それゆえにこそ《歌》なのである。…現行の『日本國憲法』の第八十二条の条文…美事に、五・七・五・七・七の五句七音の短歌なのである。…きわめて散文的な憲法の条文に、五句三十一音の韻律がそのまま重なり合っているという事實。この事實こそが、日本の言葉の一特色を典型的に指し示しているということができる。…短歌は、日本人の精神の最深部に常に確固として存在しつづけており、決して日本人と切り離すことのできない文學であり、精神領域であることを知る。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。

 

折口信夫氏は、「日本人のもっている文學といふものには、常に典型といふものがあり…日本では、型を重んじてゐる。…歌舞伎芝居の型を見ますと、型を守って今の役者がしてゐるといふのは、その型を創始した役者より劣っているといふことではない。…技術をなぞって來たために、そこに傑れた技術が生れて來た…日本の短歌と演劇とは一つに言へないほど非常な力量が撥揮せられた。…典型をなぞってゆくといふことによって、更に大きな文學が生れて來る。」(『與謝野寛論』)と論じてゐる。

 

「型」を大切にするのは日本人の特性である。歌舞伎などの演劇の世界をはじめとして茶道・歌道・書道などにおいて型の継承が、非常に大切なものとされる。武道もしかりである。「型」を継承することは、単に旧態依然としたものを墨守するといふのではなく、新しい創造をともなふのである。典型をなぞっていくことによって新たなる進歩発展があるといふところに和歌の面白さがある。

 

これは和歌のみならず學問においてもいへる。「學ぶ」の語源は「まねぶ」であるといふ。先達・師匠の真似をすることが「學ぶ」の原点である。

 

正岡子規に、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」といふ歌がある。「花瓶にさしてある藤の花房が短いので、畳の上にとどかないでゐるなあ」といふ意味である。これは韻律を踏み定型になってゐるから文藝作品としての価値が生まれるのである。また、子規が死の床にあって詠んだ歌といふことだから感動を呼ぶのである。歌にはかういふ不思議さがある。

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2018年2月24日 (土)

維新と和歌の復興

 民族の歴史と傳統の精神を変革の原理とする維新は、それを志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新といふ。

 

そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。

 

いにしへから傳へられた「五・七・五・七・七」といふ形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝である。

 

現代日本においても和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指すわれわれは、和歌の力・言靈の力の偉大さを今こそ実感すべきである。

 

日本の傳統文芸の復興、日本文學の道統の回復とは、天皇皇室を中心として行れるべきである。とりわけ和歌は、古代より、「宮廷ぶり」を最も大切なものとしてきた。和歌の根底にあり続けたものは、御歴代天皇の御製である。和歌は、宮廷に始まり、その正統なる「しらべ」は宮廷の御歌にある。武家専横の時代にあっても、外来文化思想が隆盛をきはめた時代にあっても、日本民族の中核的な傳統精神・美感覚は宮廷において継承され保持されてきた。

 

阿部正路氏は、「日本の傳統の精神がもっとも荒れはてた現代にこそ新しい真の意味での勅撰集が編まれるべきではないのだろうか。それが具體化するかどうかに、日本の傳統の意志の行方が見定められることになるのだと考えられる。日本の和歌が、世界でもっとも長く傳統に輝き得たのは……勅撰集に明らかに見ることのできる、一系の天皇の、和歌に対するゆるぎない信頼の中においてこそ《悠久》の世界を具體化し得たのであった。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。まことに大切な主張である。

 

今日の日本はまさしく亡國の危機に瀕してゐる。現代の余りに情けない頽廃を是正しなければならない。今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてそれは祖國への愛・至尊への恋闕の思ひを歌ひあげる和歌の復興によって実現するのである。

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2018年1月24日 (水)

和歌はなぜ定型なのか

 

やまと歌の「五・七・五・七・七」といふ形は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられたといへる。これは「七・五調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるといふことである。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったゐるといふ事実が非常に重要である。

 

それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。

 

和歌は、何ゆへ定型・韻律に則って歌はれるのか。それは日本人の生活が常にある一定の規則・リズムに則ってゐるからであらう。日本の四季は規則正しく変化する。したがって農業を基本としてきた我が国民の生活も規則正しいものとなってゐる。わが国においては四季の変化と農耕生活とが調和してをり、毎年一定の「型」が繰り返されてゐるといへる。規則正しい四季の変化と農耕を基本とする規則正しい生活が、定型詩である和歌が生んだといふことができる。

 

和歌は、人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であるから、規則正しい生活の中から、自然にある声調を生み、「五・七・五・七・七」の定型を生み出したのである。

 

田谷鋭氏は、短歌とは何かを論じて、「()短歌は日本古来からの定型詩で、その形式はわれわれに与えられたもの──民族の約束──として存在し、ほとんど黄金形式と言っていい完璧さを持っている。()短歌は意味と韻律の融合から成り立っていて、その持つ意味や韻律は無数の変化とその組み合わせから成り立っている」(『短歌とは』・「短歌」昭和五十六年一月号所収)と論じてゐる。

 

中河與一氏は、「大体ものに規格を与へるということは常に全体的意志があるのであって、三十一字を決定したといふこと自体に、古代人の聡明な民族的理由をわれわれは読まねばならぬのである。…それは初めから意図したものではなく、自然に民族の直感がさぐりあてたものといふべきである。かくて三十一字形式といふものは古代人の発明した実に見事な、芸術における全体的意図をもった形式となったのである。三十一字といふ一つの形式によることによって、民族を自然に結んだのであるが、その定着が何によってゐるかは誰にもわからない」 (『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

阿部正路氏は、「『平家物語』にあらわれた長歌は、七・五調を基調とした短歌の影響を受けながら発生したものであろう…夭折者の無念の思いは、こうした歌によって、こんにちもなお人々の心を動かしてやまないのである。その心をさそうのが、五音あるいは七音を基調とする律文学だったのである。…(四註・それは)言葉の長さの組み合わせではなく《しらべ》の組み合わせなのであって、それゆえにこそ《歌》なのである。…現行の『日本国憲法』の第八十二条の条文…美事に、五・七・五・七・七の五句七音の短歌なのである。…きわめて散文的な憲法の条文に、五句三十一音の韻律がそのまま重なり合っているという事実。この事実こそが、日本の言葉の一特色を典型的に指し示しているということができる。…短歌は、日本人の精神の最深部に常に確固として存在しつづけており、決して日本人と切り離すことのできない文学であり、精神領域であることを知る」(『和歌文学発生史論』)と論じてゐる。

 

折口信夫氏は、「日本人のもっている文學といふものには、常に典型といふものがあり…日本では、型を重んじてゐる。…歌舞伎芝居の型を見ますと、型を守って今の役者がしてゐるといふのは、その型を創始した役者より劣っているといふことではない。…技術をなぞって來たために、そこに傑れた技術が生れて來た…日本の短歌と演劇とは一つに言へないほど非常な力量が撥揮せられた。…典型をなぞってゆくといふことによって、更に大きな文學が生れて來る。」(『與謝野寛論』)と論じてゐる。

 

「型」を大切にするのは日本人の特性である。歌舞伎などの演劇の世界をはじめとして茶道・歌道・書道などにおいて型の継承が、非常に大切なものとされる。武道もしかりである。「型」を継承することは、単に旧態依然としたものを墨守するといふのではなく、新しい創造をともなふのである。典型をなぞっていくことによって新たなる進歩発展があるといふところに和歌の面白さがある。

 

これは和歌のみならず学問においてもいへる。「学ぶ」の語源は「まねぶ」であるといふ。先達・師匠の真似をすることにが「学ぶ」の原点である。

 

正岡子規に、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」といふ歌がある。「花瓶にさしてある藤の花房が短いので、畳の上にとどかないでゐるなあ」といふ意味である。これは韻律を踏み定型になってゐるから文藝作品としての価値が生まれるのである。また、子規が死の床にあって詠んだ歌といふことだから感動を呼ぶのである。歌にはかういふ不思議さがある。

 

「自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころ」は、わが国文学の基本的情緒とされる「もののあはれを知る心」と同意義と考へてよいと思ふ。見るものにつけて聞くものにつけて自分の心が感動することを「もののあはれ」といふ。それが「五・七・五・七・七」といふ形式で表白され、読んだ人・聞いた人の魂を動かすといふのが「やまとうた」である。

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2018年1月 5日 (金)

「やまとうた」の本質

 

歌人の北久保麻里子さんは、『日本経済新聞』平成二十九年(昨年)十月二日号に掲載された「三十一文字世界の響け」という文章で、「三十一文字(みそひともじ)の韻律は、言語の意味を超えて人の心を揺さぶる。朗読を始めた瞬間、私という存在は消えて、ただ言葉の響きだけになるのが究極の形だろう。そのとき初めて、歌心が聴き手の魂に届くのだと思う。一生かかっても至り得ない境地かもしれないが、努力を続けて行きたい」と書いておられる。

 

和歌(やまとうた)は、日本の最も純粋な最も固有な文藝である。『うた』の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。

 

『古今和歌集』の「仮名序」には、

 

「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

 

『古今和歌集』の「仮名序」は、紀貫之が執筆し、和歌とはいかなるものであるかが説かれた基本的な文献である。紀貫之は、平安前期の歌人、歌學者、三十六歌仙の一人。仮名文日記文學の先駆とされる『土佐日記』の作者。醍醐天皇の勅命による『古今和歌集』撰進の中心となった。

 

和歌は人のまごころを表白した歌が抒情詩である。和歌は日本民族のまごころのしらべである。人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であり、それが自然にある声調を生み、五七五七七の定型詩=和歌を生み出した。

 

歌を詠むのは、魂鎮め・鎮魂の行事である。和歌は、ふつふつと湧きあがってくる素直なる心・色々な思ひ・魂の叫びを三十一文字にして固め成して鎮める働きをする。

 

明治天皇御製

「鬼神も泣かするものは世の中の人のこころのまことなりけり」

「まごころを歌ひあげたる言の葉はひとたび聞けば忘れざりけり」

 

「鬼神の」の御製は、歌の力の偉大さを論じた『古今和歌集』の「仮名序」を踏まへられてゐると拝する。この御製で大事なのは、「人の心のまことなりけり」と示されてゐることである。単なる文藝作品なら虚構が許されるのかもしれないが、歌はそうではない。「人のこころのまこと」を歌はねばならない。自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころを歌はねばならない。

 

「自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころ」は、わが國文學の基本的情緒とされる「もののあはれを知る心」と同意義と思ふ。見るものにつけて聞くものにつけて自分の心が感動することを「もののあはれ」といふ。それが「五・七・五・七・七」といふ形式で表白され、人の魂を動かすといふのが「やまとうた」である。

 

和歌には、五・七・五・七・七といふ音数律(音節の数によってつくられる詩歌のしらべ。五七調・七五調など五音と七音の組み合せによる場合が多い)以外には、決まりごとは無い。音数にしても許容範囲は広く、字余りはごく普通に見られる。連歌俳諧のやうな季語の制約もない。音数律といふ型をおおよそ踏まへてさへいれば、自由に詠んで良い。

 

 

「五・七・五・七・七」といふ定型は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられた。「五・七調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるのである。したがって、やまと歌は朗々と歌ひあげることが大切である。

 

 

 

 

 

 

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