2020年7月 7日 (火)

「有心」「無心」について

大伴書持(ふみもち)の歌

わが屋(や)戸(ど)に 月おし照れり ほととぎす 心あらば今夜(こよひ) 來(き)鳴(な)き響(とよ)もせ              (一四八〇)
 

【大伴書持】大伴家持の弟。天平十八年(七四六)没。金持はゐなかった。
【おし照れり】空高くから煌々と一面に照らしてゐる。【心あらば】思ひやりの心があれば。【鳴き響もせ】鳴き響かせておくれ。

通釈は、「私の家の庭に月が照ってゐる。ほととぎすよ、心があったならば、今夜来て、鳴き立てておくれ」といふ意。

ほととぎすに人の風流・情趣が分かる心を求めてゐる。大伴書持は大歌人家持の弟であるが、『萬葉集』には十二首の歌が収められてゐるだけである。風流を愛し、草花を愛した人。

中世の大歌人・西行に

「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮れ」(出家した心なき身にも、あはれの心はよく分かる。鴫【水鳥の一種】が飛び立つ秋の夕暮れには)

といふ歌がある。

出家した人は、悟りの境地を求め、戀とか愛とか美といふ世界から超脱してゐなければならないとされてゐる。「心なき身」とはさういふことである。出家し僧侶である西行は本来、喜怒哀楽の心・愛憎の心・五感の喜び即ち煩悩から超脱してゐなければならないが、澤から鴫が飛び立つ秋の夕暮れには、哀感・寂寥感を感ぜずにはゐられない。「心なき身」即ち現世的な感情を断絶しなければならない出家の身である西行にも、「もののあはれ」といふことは知ることができるなあ、といふ歌である。これが日本人としての自然な心であらう。

 「もののあはれ」とは物事に対してしみじみと感動する心のことである。単なる哀歓でも悲しみでもない。なかなか定義づけるのは難しい言葉である。

この大伴書持の歌は西行の歌ほど深い内容ではないが、日本人が古来「心」といふものを大切にしてきたことが分かる歌である。書持の歌の「心」は風流を愛する心である。

歌の学問上は、「有心」とは「深い心があること」「思慮分別があること」であり、大切なものとされる。書持の歌はこの心を歌った。

歌学上の「無心」とは「情趣を理解しない心、情趣をわきまへない心」といふ意味である。一方、仏教上の「無心」とは「一切の妄念を離れた心」として大切にされた。西行の「心なき身」の「心」とはこのことである。

醍醐天皇の御代の延喜十六年には『有心無心歌合』が行はれた。七夕の日に「有心」無心」の歌を互ひに歌はせて競はせた歌会である。天上の戀は「無心の戀」であり、地上の人間の戀は「有心の戀」と言はれたといふ。

平安時代には、「無心」とは思慮分別がない、世の常識を超えた心とされ、「有心」とは思慮分別があり常識をわきまへた心とされるようになったといふ。従ってこの歌は、「ほととぎすさん、思慮分別があれば月が煌々と照ってゐるわが家の庭に来て鳴いておくれ」と歌ったのである。

現代の言葉で言へば、「有心」とは、合理的、理知的な心といふことであらう。この言葉の意味は、歌学と仏教では大きく異なると言っていいだらう。

歌学における「有心」とは「真実のある歌を指すとともに、美的様式としてはつややかなもの言ふ」とされる。それが中世になると妖艶な美となる。この大伴書持の歌は、さういふ歌の淵源といふことになろう。一方、「無心」とは一言で言ふと枯淡の境地の事である。

この書持の歌の「心あらば」は、月が照って美しい夜であるのだから、さらに興を添へてほととぎすがわが庭に来て鳴いてくれることを求めたのである。ほととぎすを擬人化して、「心あらば」と求める新しい着想の歌。かういふ歌を、情趣をわきまへた歌、風流、艶の世界の歌と言ふ。やや大袈裟に言へば、新しい機軸・美感覚を打ち立てた歌と言っていい。

奈良朝後期になると、歌が型にはまって来て花鳥風月を型通りに歌ふ歌がやや多くなってゐる。しかし、この大伴書持の歌は、後世の「有心」の世界、艶の世界を詠んだ歌の端緒と言っていいであらう。

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2020年6月 7日 (日)

仁徳天皇の御製を拝し奉りて

仁徳天皇御製

「沖方(へ)には 小船連(つら)らく くろざやの まさづ子吾妹(わぎも) 國へ下らす」

「沖の方には小舟が続いてゐる。あれはまさづ子といふ私のいとしいあの子が國へ帰るのだ、といふ意)」

第十六代・仁徳天皇は、吉備(きび)の國の海部直(あまべのあたひ)の娘、名は黒日売(くろひめ)の容姿が美しいと聞こしめして、宮廷に召してお使ひになった。

しかしながら、『古事記』によると、仁徳天皇の皇后の磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)は大変嫉妬心の強い方であらせられ、天皇にお仕へする妃嬪(きひん)たちは宮殿の中に入ることもできなかった、そして皇后は妃嬪のことが話題になっただけでも床に寝転がり足をばたばたさせて嫉妬された。

磐姫皇后の嫉妬を恐れた黒日売は船に乗って故郷に逃げ帰らうされた。その船を見て天皇が、お詠みになった御製が、

「沖方(へ)には 小船連(つら)らく くろざやの まさづ子吾妹(わぎも) 國へ下らす」

である。

この仁徳天皇の御製をお聞きになった磐姫皇后はさらにお怒りになって、人を遣って船から黒日売を下ろして徒歩で帰らせたといふ。かうした皇后の嫉妬物語は古代日本の大らかな精神が表れてゐる感じがする。

一方、『萬葉集』に収められてゐる磐姫皇后の仁徳天皇をお慕ひする御歌は実に悲しい歌である。

「君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」
 (君の御旅行は日数が長くなった。山を尋ねて迎へに行かうか、ひたすらお待ちしようか、といふ意)

「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを」
(これほどまでにあたなを慕ってゐるのならば、高山の岩を枕にして死んでしまった方がよい、といふ意)

「ありつつも 君をば待たむ うちなびく 我が黒髪に 霜の置くまでに」 
(このままで君をお待ちしませう。垂らしたままの私の黒髪が白髪になるまで、といふ意)

「秋の田の 穂の上に霧(き)らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ」 
(秋の田の稲穂の上にかかってゐる朝霞のやうに、いつになったら私の恋は晴れるのでせうか、といふ意)」

いづれの歌も萬葉恋歌の傑作である。これらの歌の悲しくも切ない恋心と,『古事記』に記された激しい嫉妬をされる皇后のお姿は対照的である。

「岩」といふ字が名前についてゐる女性には精神的・靈的に力が強い人が多い。その代表的ご存在が磐姫皇后であられる。鶴屋南北の『東海道四谷怪談』に出てくる靈的力の強い女性の名前は「お岩」である。

古代人は、岩といふものを非常に神秘的に考へた。地下と地上とをつなぐものと考へた。大きな岩を墓に用いるのは、地下の靈が地上に出て来るのを押さへる役目を持たせたからといふ説もある。

岩には死んだ人の靈が籠ると信じた。墓石には「新たなる使命を帯びて地上に再び蘇るまでそこに鎮まっていただきたい」といふ祈りが込められてゐる。
萬葉時代は、かかる古墳時代の信仰がまだ生き生きと生きてゐたのである。古墳時代の信仰を継承してゐる歌人が柿本人麻呂である。

 「岩」は「いはふ」から出た言葉である。「いは(齋)ふ」は、神に対して穢れと思はれることを謹み、淨め、敬虔な態度を持して神を祀ることである。また、さういふ態度をとって穢れに乗じてくる邪悪を避けようとする行ひをも言ふ。つまり、身を清めて神を祭ることを齋(いは)ふといふ。そして、人々が集まって籠る所をいへ(家)といふやうになった。
                      
 岩や石には神仏や死んだ人の魂が籠ってゐると信じそれを拝むやうになった。特に巨岩は威力があり人格化され意志を持ち人間に語りかける靈妙なものと信じた。
 
 『國歌君が代』の「君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」は、石は靈が籠ってゐるので次第に成長して岩となるといふ信仰が歌はれてゐる。「天皇の御代は、千代に八千代に小さな石が次第に成長して大きくなり大きな岩となって苔がむすまで永遠であっていただきたい」といふ意である。

 「いは」のイは接頭語で、「いのち」「いきる」といふ言葉がある通り生命力を意味する。
           
「岩戸」とは、大地のイメージであり、母のイメージである。大地の母に回帰する信仰の神話物語が、天照大神の岩戸隠れであらう。

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2020年5月29日 (金)

天香具山と今即神代・神人一體の信仰

日本人には、麗しい山を神と仰ぐ信仰がある。これを神奈備信仰といふ。大和地方では大和三山・三輪山・二上山など、東國地方では富士山・筑波山など、九州地方では高千穂峰・阿蘇山が尊い神の山として仰がれる。

天香具山は、上に「天」が付けられてゐるやうに高天原から天降って来た山で、「天と地とをつなぐ山」として神聖視され、大和三山の中でもとりわけ尊い山とされる。現代風に言へば、天と地とをつなぐアンテナで、神事を行ふ際、神の降臨を仰ぐために立てる榊である「ひもろぎ」と同じ性格を持つ。

「鎮守の森」といはれるやうに神社には多くの樹木があるのは、その樹木に神が降臨すると信ずるからと言はれてゐる。わが國傳統信仰においては「神代」「高天原」と「地上」とは交流し、隔絶してゐない。日本傳統信仰は「今即神代・神人一體」の信仰である。

「香具」(かぐ)とは「輝く」を短くした言葉である。「かぐや姫」とは「輝く御姫様」といふ意である。香具山は輝く山・神聖な山として信仰の対象となってゐる。「天香具山」とは「天に通じる輝く山」といふ意で、高天原と直結する山と信じられたのである。

高天原にある天香具山について、『古事記』には、天照大神が天の岩戸に隠れになった時、大神に岩戸からお出ましを願ほうとした八百萬命が相談して、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)が取って来た天香具山の男鹿の肩胛骨を波波迦の木で焼いて占ひを行ひ、天香具山に茂った賢木(さかき)に勾玉(まがたま)や鏡などを付けて捧げ持ち、天宇受売命(あめのうづめみこと)が天香具山の日影蔓(ひかげかづら)を手襁(たすき)に懸け、真拆(まさき)を鬘(かずら)として、天香具山の小竹の葉を手に持ち、岩戸の前で桶を踏み鳴らして神憑りしたと傳へられてゐる。

また、神武天皇が御東征を終へられ大和に都を開かれる時のお祭りで用いられた神具の土器は、天香具山の土で作られたと傳へられてゐる。

國土には地の靈(國魂)が籠ってゐるといふ信仰があり、大和の都を開かれるにあたっては、大和の國の靈(國魂)を鎮めなければならない。そのために大和の地の國魂が宿ってゐると共に、天と地とをつなぐ神聖なる天香具山の土を、土器にして祭祀に用いたのである。それによって、神武天皇は大和國を治められる靈的なお力を備へられたのである。天香具山の土を手に入れることが大和全體を掌握することになるといふ信仰である。

折口信夫氏は、「天香具山の名は天上の山の名である。同時に地上の祭時に當って、天上と一つの聖地-天高市(アメタケチ)-と考へられた土地の中心が此山であった。だから平常にも聖なる地として天なる称號をつけて呼ぶ様になったのだ」「大和なる地名は、當然宮廷のある地を意味する。天は、宮廷の真上にあり、宮廷のある處は、天の真下である。即ち、國語に於ける天が下(アメガシタ)の確かな用語例は、宮廷及び宮廷の所在を示すことになる。だから、宮廷の存在なる狭義の大倭は、天が下であり、同時に天其物と觀じることが出来た。天香具山は、地上に於ける聖地の中心であった。即ち、大倭の中心である。この山の埴土(きめの細かい黄赤色の粘土)は、大倭の國魂の象徴にもなる…。」(『大倭宮廷の靱業期』)論じてゐる。

折口氏の説によると、天皇のゐます宮は「天」(高天原)・「聖地」であり、その中心が天香具山なのであり、このやうな神聖な所を神座(カミクラ・神のゐますところ)と言ふ。

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2020年5月19日 (火)

『萬葉集』とは如何なる歌集か

 『萬葉集』は、全二十巻・約四千五百首。少なくとも五、六人多ければ十数人の手によって、時を異にして編纂されたといわれている。にもかかわらず、全体としてはかなり統一がとられている。

 「原萬葉集」といわれている巻一と巻二は「勅撰和歌集」という説が有力である。「勅撰和歌集」とは、天皇の綸旨または上皇の院宣によって和歌を収集する事業を起こし、完了して無事奏覧を経て流布される歌集のことである。

 他は巻によって編者が異なり、全二十巻をまとめたのは大伴家持(養老二年<七一八>~延暦四年<七八五>。少納言・参議・春宮太夫)であり、橘諸兄(天武二年(六八四)~天平宝字元年(七五七)。大納言・右大臣・左大臣を歴任)がその助力したという説が有力である。

 内容は、大歌所(天皇御即位の儀式で奏される國風歌舞の演奏を担当する機関)に集められていた古歌集・個人歌集・歌謡・民謡などを集大成したといわれている。

 『萬葉集』全体が、純粋な勅撰集とはいえないまでも、平安朝の人は、『萬葉集』を勅撰と受け取っていた。

 「記紀・萬葉」と並び称される所以は、萬葉集が記紀と並んでわが國の文字通りの「古典」だからである。それは、ただ単に江戸時代以前の歌集という意味の「古典」ではなく、天皇國日本形成の精神即ち日本國體精神をうたいあげた歌集という意味の「真の古典」である。

 さらに『萬葉集』は、『源氏物語』と並んでわが國の文學書として世界の誇るべきものといわれている。折口信夫氏は、「誠実な、強健な、その上、最純粋な、そして新鮮な抒情詩たる為には、萬葉以上の歌風は、わが文芸の上に現はれてゐなかった…。」(「萬葉維新」)と論じている。

 大伴家持は、日本の国の国柄の素晴らしさを後世に伝えなければいけないという使命感を持って、『萬葉集』の編纂に関わり、自らも歌を数多く詠んだのである。『萬葉集』は平穏無事の時代に編纂されたのではない。大化改新・壬申の乱などという大変革・大建設の時代に、日本の国の理想・國體の本姿を語り伝へるために『萬葉集』は編纂された。

 しかし、支那と比較すればわが国は平穏に歴史を経過して来た。支那は「易姓革命」といって、王室の姓が変わる革命が繰り返された。「易姓革命」とは、儒教の政治思想の一つで、天子は天命により天下を治めてゐるのであって、天子に不徳の者が出れば、天命は別の有徳の者に移り、王朝が交代するといふ思想である。

わが国の天皇統治の道統には一切さういふ思想はない。天皇その方が天の神の地上における御代理・御顕現であり、現御神(うつし身として現れられた神)である。天皇の御意志そのものが天命なのである。一系の天子が永遠にわが国を治められるのである。だから支那のやうな王朝の交代とそれに伴ふ国家の分裂や興亡は起こらなかったのである。

『萬葉集』という名称は、色々な説がある。万(よろづ)の葉を集めたという説がある。「葉」とは「言の葉」のことであるとして「多くの人の言葉を集めた」という説である。一方、「葉」を時代と解釈して、「万代まで天皇の御代が続くことを祈る」といふ意味であるといふ説がある。いづれにしてもめでたい歌集であるといふ意味であるには変りはない。この頃は和歌を「言の葉」といふことはなかったといはれてゐるし、『萬葉集』の歌の内容や配列などを見ると、後者の説が有力である。

 「萬葉」とは、・万世に伝わるべき歌集・多くの人々の言の葉を集めた歌集、などの説がある。・が有力といわれている。理由は、萬葉集の名称をつけるに当たって、漢籍の用例にしたがっているとすれば、漢籍において萬葉の語は数多の木の葉を意味し、詩歌には用いない。しかし漢籍では、萬葉という言葉を、万代・万世に意味に用いる例は甚だ多いからである。

 巻一巻頭歌と巻二十最終歌を読むと、萬葉とは、天皇國日本・日本國體の永遠(天壤無窮・皇位不滅)を祈り、祝福する意味であると考えられる。

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2020年5月17日 (日)

舎人皇子が詠まれた「ますらをぶり」の戀歌


  
ますらをや 片戀せむと 嘆けども 醜(しこ)のますらを なほ戀にけり

 舎人皇子が舎人娘子に贈った「ますらをぶり」の戀歌。舎人皇子は、天武天皇第三皇子。天武天皇四年(六七六)~天平七年(七三五)。第四七代・淳仁天皇の父君。勅を奉じて『日本書紀』を選進した責任者。没後、太政大臣を贈られた。舎人娘子は、伝未詳。

 「ますらをや片戀せむ」のヤは反語(本来の意味とは反対の意味を含ませる表現法。多くは疑問の形で、例えば「これが嘆かずにいられるか」のように表す)。「堂々たる日本男児たるもの片思ひなどするものか」といふ意。自嘲的響きもある。「醜のますらを」は自己嫌悪感を表現してゐる。自分の不甲斐なさを嘆くと共に、戀心を表白してゐる。

 通釈は、「堂々たる日本男児たる者片戀などするものかと嘆いても、みっともない男児である私はやはり戀してしまふ」といふほどの意。

 日本男児たる者、常に國家を心に置き、大君に仕へ奉るべきだとするのが、この時代の男性の心意気であった。それなのに一人の女性に戀々とする自分自身を恥じて「醜の」と詠んだ。

 また、日本男児の戀は、女性から愛されて結ばれるのがあるべきなのだが、戀の相手がなかなか私のことを思ってくれないみっともない私はそうはいかない、といふ自嘲的な気持も込められてゐる。

 ただし、この歌は相手の女性に贈った歌であるから、本心から自分のことを「不甲斐ない奴」と思ってゐたわけではないし、自分の戀を嘆いてゐるわけでもない。また「醜」とは現代語の醜いとはやや違った意味であって、「かたくなに」「強い」といふ意味もある。防人の歌に「今日よりはかへりみなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」(今日以後他の一切を顧慮することなく、卑しき身ながら大君の御楯となって出発します。私は)といふ歌がある。

 この歌はもちろん相手の女性(舎人娘子)に訴へかけた戀歌であるが、「片戀」といふ言葉以外に直接的に相手に訴へかける言葉はない。しかし、それだけにこの歌を受け取る女性にとっては、「これほどまでに私のことを戀ひ慕って下さるのか」といふ心を起こさせる歌である。またそれを期待して詠んだ歌であるともいへる。

 『萬葉集』とは「ますらをぶり」の歌集であると、近世(江戸中期)國學者の賀茂真淵が主張した。「ますらをぶり」とは、「男らしく」「日本男児らしく」といふほどの意で、「男性的で大らかな歌風」のことをいふ。さらに、『古今和歌集』は以後の歌風を「たをやめぶり」(女性的で優雅な歌風)といった。『萬葉集』の「ますらをぶり」の歌とは、この舎人皇子の御歌や防人の歌である。

 そして、真淵は「ますらをぶり」とは大和の國を都とした時代(白鳳・天平時代)すなわち萬葉時代の歌風であり、「たをやめぶり」は京都の文化であるとした。しかし、『萬葉集』を「ますらをぶり」だけの歌集だとすることはできない。大伴家持の歌などにはむしろ平安朝の歌風に近い歌も数多くある。

 それはともかく、賀茂真淵は、和歌は「すめらみくにの上つ世の姿」、つまり萬葉時代に帰らなければならないと主張した。「ますらをぶり」の精神風土を尊重しなければいけないとした。それは平安時代以来続いた「たをやめぶり」への反発であった。

 真淵は現在の静岡県出身であり、東國の人であった。そして、徳川吉宗の子の田安宗武の和歌の師であったので、武家の美學を昂揚させようとして、「ますらをぶり」「萬葉ぶり」の復活を唱へた。

 しかし、賀茂真淵の弟子の本居宣長は、『源氏物語』を高く評価し、「たをやめぶり」も日本の文化の大切な流れであるとした。

 儒教や仏教の影響からか、武士たるもの、戀愛を文學にしてはならないといふやうな風潮が生まれた。語ってもいけないといはれた。「男女の愛」を文や歌に表現することは武士のやることではないとされるやうになった。

 しかし、神話時代や古代日本においては、武士の元祖のやうな方であられる須佐之男命や日本武尊は、戦ひの歌・「ますらをぶり」の歌と共に、戀愛の歌を大いに歌はれた。天智天皇・天武天皇そして藤原鎌足も戀歌を歌った。

 わが國のますらをは大いに戀愛をし、戀を歌った。須佐之男命が妻を娶られた時の喜びの歌である

「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」(多くの雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を作る。ああその八重垣よ、といふほどの意)

は、和歌の発祥とされてゐる。

 古事記・萬葉の世界では、「武」「歌」「戀」の三つは一体なのである。わが國文學は戀愛が大きな位置を占める。男女の愛情を尊んだ。『萬葉集』の戀愛歌・相聞歌を見ればそれは明らかである。                    

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2020年5月16日 (土)

持統天皇御製を拝し奉る


 第四十一代・持統天皇の御製。

藤原(ふじはら)宮御宇(のみやにあめのしたしらしめしし)天皇代(すめらみことのみよ) 高天原(たかまのはら)廣野(ひひろの)姫(ひめの)天皇(すめらみこと)

春過ぎて 夏來(き)たるらし 白たへの 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山  (二八)

 持統天皇は、天智天皇第二皇女。天武天皇の皇后。藤原宮は、持統・文武・元明天皇の宮廷。

通釋は、「春が過ぎて夏が来たらしい。天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあ」といふほどの意。

 「春過ぎて」のスグは、盛りが過ぎる、経過するなどの意。すっかり春が行ってしまったの意。「来たるらし」のキタルは、手許に来た、此処に来たといふ風な意。ラシは自信を持った想像を言ふ。「…に違ひない」といふ意。この歌の場合の想像の根拠は、「白たへの衣ほしたり」である。

「白たへの」は、「衣」「「たすき」「ひれ」「ひも」など、布で作ったものにかかる掛かる言葉。タヘは楮(こうぞ・くわ科の落葉低木)の樹皮で作った白い布。「衣」は、洗濯して干した衣。「ほしたり」のタリは、現在完了助動詞。乾してあるといふ意。

「天の香具山」は、奈良県橿原市にある山。大和中央平原部に位置し、藤原京東南約一㎞にある。海抜一四八mの山。麓からは四八m。「天」を冠するのは、高天原の香具山が地上に降って来たからとされ、「大和三山」(奈良盆地南部にある天香具山・畝傍山(うねびやま)・耳(みみ)成山(なしやま)の総称。藤原京を三角状に囲む。)の中でも特に神聖視された。

高天原にも香具山があり、天岩戸開きの時には、香具山の種々の物が使はれた。また神武天皇が橿原に都を開かれる直前の丹生川の祭事においても大和天香具山の土で祭器を作られた。古代祭祀では、地上の祭りも、天上において行ふのと同じ意義があった。「今即神代」「高天原を地上へ」といふ信仰である。
 
持統天皇が藤原京の宮殿から、初夏になって爽やかな日の下の青々とした新緑の天香具山で、民草が白い布の衣服の虫干してゐる風景を眺めて、「春が過ぎて夏が来た」といふ季節感を歌はれた明るく大らかな御歌。『百人一首』にも収められてゐる。

 季節感がこの歌の主題である。四季の変化への感動を歌ってゐる。初句と二句で夏が来た感動を歌ひ、三句と四句でその感動を起こさせた対象を歌った。そして結句で天香具山といふ具体的な場所を歌ってゐる。

 日本人の生活はきはめて規則正しい四季の変化の中で営まれる。故に日本人は季節の変化に敏感で季節感を非常に大事にする。ゆゑにわが國の詩歌には季節の移り変りを歌った秀歌が多い。この御製はその代表である。

「夏來たるらし」「衣ほしたり」といふ歯切れのいい調べを重ね、最後に「天の香具山」と体現止めをして格調が高い。天皇は並びなき方であらせられるので、その御歌には格別の大らかさ・力強さがある。「白い衣」「新緑」「初夏の光」といふ明るいイメージがこの御歌に満ち溢れてゐる。生命の喜び・自然の美しさを讃へてゐる。
 
『日本書紀』は持統天皇の御事を「沈着(しめやか)にして大度(おほきなるのり)有(ま)(ま)します」(沈着な御性格で広い度量をお持ちであった)と記してゐる。まさにこの御製にかうした持統天皇の素晴らしい御性格が見事にあらはれてゐる。

 持統天皇はこの御製で、四季の変化や景色を詠まれただけではなく、「壬申の乱」による混乱も収束し、理想に近い都である藤原京を造営された喜びと将来への希望を民の生活に即して歌はれたと拝することもできる。季節の移りに即して民草が衣を干すといふ生活と生業を歌はれたのであり、民を思ふ大御心のほどがしのばれる。

天孫降臨の時、天孫瓊瓊杵尊は天津神から齋穂を託され、稲穂を地上において多く実らせることを命令された。これがわが肇國の理念であり、天皇國家統治の基本である。地上で産物の豊饒を実現される事が、天皇の最大の御使命である。この御製は、民の生産品である白い布が神聖なる天香具山に干されてゐる事を喜ばれた御歌であり、天皇の國家統治の御精神が歌はれてゐるのである。


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2020年5月12日 (火)

「なにとなく 君に待たるる ここちして 出でし花野の 夕月夜かな」   与謝野晶子

なにとなく 君に待たるる ここちして 出でし花野の 夕月夜かな

与謝野晶子

明治三十四年刊行の『みだれ髪』に収められた歌。抑へきれない恋心を歌ってゐる。

「何となくあなたが待ってゐてくれるような心地がして出てきた花の咲いてゐる野原に夕月が出てゐます」といふほどの意。

人恋しさに耐へられず家を出て来ると、花が咲き乱れた夕暮時の野原の上に月が出てゐるといふ、何とも切なくも美しい光景である。上の句は作者の心、下の句は動作と情景が詠まれてゐる。花の咲く野原と夕月といふ取り合はせによって、若き頃の与謝野晶子の浪漫的気分が歌はれてゐる。耽美主義の歌の典型と言ってよい。

下二句は、倒置となり「夕月夜」を強調してゐる。「君」は、与謝野鉄幹の事かどうかは断定できないといふ。「恋に恋する」若き女性が生んだ空想の世界の歌かも知れない。「夕月夜」は、晶子自身がふったルビによって「ゆふづくよ」と古典的に読むのが正しいとされる。

清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき

同じく『みだれ髪』に収められた与謝野晶子の代表的名歌。「清水へ行こうと祇園をよぎって行く桜の花が咲いてゐる月夜、今夜逢ふ人は皆美しいなあ」といふ意。

この歌も夜桜と月の取り合はせが巧みで耽美的な歌である。与謝野晶子の歌には固有名詞を生かした歌が多いがこの歌も然りである。

月はロマン派・耽美派の歌人に好まれるようだ。京都の情緒をたっぷり湛へた美しい作品になってゐる。

日本は、日の本の國と言はれるのに、なぜか太陽を歌った詩歌は少ない。『萬葉集』の時代から今日まで日本人は歌や俳句によく「月」を詠んできた。日・月・星の中でも、月が最も日本人に親しまれて来たと思はれる。日常生活において、「月」は最も親しい自然景物なのではないか。

日本の自然は美しい。特に「月」は、日本人に愛されてゐる。月が人間にやすらぎを与へるからであらう。月の不可思議な光は、恋に悩めるものを慰め、労はってくれる。それは日本人特有の信仰精神と美意識に深くかかはる。古来日本人は、夜空に浮かぶ月を見て格別の詩情をそそられ、月もまた何事かを地上の人間に語りかけて来た。

月の不可思議な光りは、恋に悩める人を慰め、労はり、更には恋心を増幅させた。

ただ月は高尚な美感覚や恋愛の心のみを語りかる自然景物ではない。きはめて庶民的・開放的な自然景物でもある。だからこそ、一般庶民大衆に愛され親しまれてきたのである。

福岡県に傳はる民謡で全國の人々に愛誦されてゐる『炭坑節』は「月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ) 三池炭坑の 上に出た あんまり煙突が 高いので さぞやお月さん けむたかろ(サノヨイヨイ)」である。

また月は貴婦人の世界のみに登場するのではない。昔の任侠の世界を歌った歌にも登場し親しまれてきた。『名月赤城山』『大利根月夜』『勘太郎月夜唄』といふ歌謡曲の歌詞を見ればそれは明らかである。

「月」が歌ひこまれた歌謡曲は數限りがないほどある。曲名に「月」がついたヒット曲は、『月がとっても青いから』『月の法善寺横丁』『お月さん今晩は』『月よりの使者』『月光値千金』『三日月娘』『夕月』などがある。曲名に「月」といふ言葉がなくとも、『青い背広で』には「月も青春 泣きたい心」、「王将」には「月も知ってる おいらの意気地」、『旅の夜風』には「月の比叡を 独り行く」、『チャンチキおけさ』には「月がわびしい 路地裏で」など歌詞に月が登場する歌は枚挙にいとまがない。

お月様、お日様、お星様といふ言葉がある。日本人は自然を尊び愛し敬意を持ってゐることの証しする言葉である。英語にかういふ表現があるのであらうか。「ミスター・ムーン」「ミス・サン」「ミスター・スター」といふ言葉はないのではないか。

日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていくべきである。人間の力が自然を征服するなどといふ傲慢な考へを持たず、古来、太陽を天照大神、月を月讀命と呼んだように、自然に「神」を見なければならない。自然に宿る神々に畏敬の念を持つことが大切であらう。

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2020年4月30日 (木)

民族の魂の甦りであり日本の道統への回帰である維新の精神を表白した歌は伴林光平の歌

民族の魂の甦りであり日本の道統への回帰である維新の精神を、最もよく表白した歌は伴林光平の次の歌である。

 「度會(わたらひ)の 宮路(みやぢ) に立てる 五百枝杉(いほえすぎ) かげ踏むほどは 神代なりけり」

 伊勢参宮の時の実感を詠んだ歌である。伊勢の神宮は度會郡に鎮まりましますゆえに伊勢の参道のことを「度會の宮路」と申し上げる。「五百枝杉」とは、枝葉の茂る杉のこと。「伊勢の神宮に茂る杉の木陰を踏み行くと今がまさしく神代であると思われ、自分自身も神代の人のように思われる」というほどの意である。

「今即神代」が日本伝統信仰の根本である。伊勢の神宮に行くと今日においても誰でもこの思いを抱く。近代歌人のこれと同じ思いを歌に詠んでいる。

若き日に社会主義革命思想に傾斜した土岐善麿も伊勢の神宮において、

「おのづから神にかよへるいにしへの人の心をまのあたり見む」

と詠んでいるし、窪田空穂は

「遠き世にありける我の今ここにありしと思ふ宮路を行けば」と詠んでいる。

 今を神代へ帰したいという祈り即ち「いにしえを恋うる心」がそのまま現状への変革を志向するのである。しかも光平のこの歌は、それを理論理屈ではなく、日本人の美的感覚と文芸の情緒に訴えているのだ。だからこそ多くの人々に日本の道統への回帰を生き生きと自然に神ながらに促すのである。

 光平は「いにしえを恋うる歌」を詠みつつそうした絶対的な信念に根ざしつつ現実の変革への行動を起こした。それが文久三年(一八六三)の天誅組の義挙への参加である。

同年八月十三日攘夷祈願のため大和に行幸され畝傍の神武天皇山陵に親拝される旨の勅が下った。これを好機として一部の公家や勤皇の志士たちは倒幕を決行せんとし、「天誅組」を名乗って決起した。ところが八月十八日に政変が起こって朝議が一変し、大和行幸は中止となった。決起した志士たちは逆境に陥り、壊滅させられてしまった。伴林光平は天誅組に記録方兼軍義方として参加したが、捕らえられ、元治元年二月十六日京都にて斬罪に処せられた。光平の歌でもっとも人口に膾炙している歌は、
 
 「君が代は いはほと共に 動かねば くだけてかへれ 沖つしら浪」

 である。京都にて斬刑に処せられる際の辞世の歌と伝えられる。死への恐怖などというものは微塵もないこれほど堂々としたこれほど盤石な精神の満ちたこれほど力強い辞世の歌は他にあるまい。

 「君が代はいはほと共に動かぬ」という信念は光平の「神代即今」「今即神代」という深い信仰が基盤になっているのである。草莽の志士たる光平をはじめとした天誅組の烈士たちの熱い祈りと行動が、王政復古そして維新の原動力となったのである。

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2020年3月22日 (日)

允恭天皇の御製を拝し奉りて

「天皇、井のほとりの櫻の華をみそなはして、歌よみしてのたまはく

花細(ぐは)し 櫻の愛めで こと愛では 早くは愛でず 我が愛づる子ら

皇后、聞(きこ)しめして、且(また)大きに恨みたまふ」

第十九代・允恭(いんぎょう)天皇の御製である。允恭天皇は、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子、御母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)である。
允恭天皇が允恭天皇八年春二月、藤原に御幸され、櫻の花をご覧になり、衣通郎姫の消息を案じられた御歌である。

天皇が、井戸のほとりの櫻をご覧になって、歌をお詠みになって仰せになった。

【通釈】なんと繊細な花の美しさ、櫻の美事さよ。どうせ愛でるのだったら、もっと早く愛でればよかったのに、さうしなかったのが惜しいよ。愛しい姫よ。

【語釈】◇花細し 櫻の繊細な美しさを讃える詞。櫻の枕詞とも見られる。

『日本書紀』巻第十三。櫻に寄せて衣通郎姫を讃へた御歌。皇后大中姫がこの歌を聞皇后大中姫がこの歌を聞いて嫉妬され、姉に遠慮した衣通郎姫は王宮を離れることを請ふたため、天皇は河内に茅渟宮を造り、郎姫を住まはせたといふ。

森田康之助氏は、「櫻をかくの如く愛でいとしむと言ふのであれば、いっさうのこと、もっと早くから愛でていればよかったのにといふ、悔やみの情の表白なのである。衣通郎女への思ひの深さが、心の襞にしみじみと喰ひ入る以前の、それこそそのにげない触れあひをもったにすぎぬところの。そもそもの馴れそめのときから、すなはち端(はな)から心ひかれるものがあったといふ、その微妙な感情をばこの「「花細し」といふ言葉づかひに、暗示するものがあるやうに思はれる」(『日本思想のかたち』所収「花の精神史」)と論じておられる。

櫻の季節となって来たが、日本人は、古代より櫻の花を愛でてきた。それは梅の花を愛でる歴史よりもずっと古いことをこの御製を拝して明らかである。

 神の生みたまひし美しい國に生まれた日本人は、美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」「無我の心」が、日本民族固有の精神である。それは、理智・理屈・理論ではない。一切の先入観を取り除いた心である。大和心即ち日本伝統精神は、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

日本人はただ単に感覚的に美しいものを好むのではない。日本人の「真心」は一種の厳粛さ・神々しさを伴ふ。古代日本人にとって、櫻の花に限らずすべての花や草木は宗教的・神秘的存在であった。

「花」(ハナ)の語源は、端(ハナ)即ち、物の突き出した所、はし(端)であると共に、幣(ハタ)・旗(ハタ)であったといふ。「幣」とは、神に祈る時に捧げ、また祓いに使ふ、紙・麻などを切って垂らしたもので、幣帛(へいはく)・御幣(ごへい) とも言ふ。日本人は、櫻の花を素直に美しく感ずる思ひと共に、櫻の花にある神秘性・神々しさといふものに畏敬の念を持った。

日本の伝統的な行事である「お花見」の起源は、生命の盛りである花の下に人間が入ることによって、花の精気が人間に移り、自分自身の生命を豊かにするといふ信仰である。

 日本人は、櫻に滅びの美しさを見た。櫻はすぐに散ってしまふから、人はなおさらその美しさを感ずるのである。櫻が咲いてゐる姿にすぐに散ってしまふ影を感じる。櫻は、「三日見ぬ間の櫻かな」といふ言葉があるように他の花々よりも咲いてゐる時間が非常に短い。また、雨や風に当たればすぐに散ってしまふ。日本人はさういふ櫻花の「潔さ」をとりわけ好む。これを「散華の美」といふ。

 日本人は、未練がましく現世の命に恋々としないといふ精神を抱いてゐる。かうした心は、「七生報國」の楠公精神そして神風特別攻撃隊の「散華の精神」に継承されてゆく。

 日本人が最も美しいと感じる窮極的なものは、花そのものや花の命と共に、花の命が開き且つ散る「時」なのである。

 日本人は、花とは見事に咲き潔く散って行くべきであると考えた。人間もまたそうあらねばならないとした。この世に恋々として生き延びるのはそれ自体が汚れた行為であり、潔くないし、醜いと考えた。

 しかし、櫻の花の命は、はかなくそして見事に散ってしまえば、それで消滅してしまうのではない。櫻の花は散ってしまうのであるが、来年の春になると必ずまた美しく咲く。つまり、花が散るというのは花の命が消滅したのではなく、花の命は必ず甦るのである。肉体は滅びても人の命は永遠である。ただ現世における命には限りがあるということなのである。

 櫻の花は散ってもまた来年の春に甦る。滅亡の奥に永遠の命がある。それが楠正成公の「七生報國」(七度生まれて國に報いる)の精神である。理屈なしに素直に國のため大君のために命を捨てるという純粋なる精神もまた大和心なのである。生命の永遠を信じているからこそ、潔く散ることをいとわないのである。

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2020年2月28日 (金)

明治天皇御製とやまと歌

維新と和歌の復興とは一体である。何故なら、天皇の國家統治の基本に和歌があるからである。和歌は天皇の國家御統治と一體であるばかりでなく、日本の変革の時期、発展の時期に和歌が隆昌する。『萬葉集』は、大化の改新・壬申の乱から平安遷都に至る大変革・大建設の時代に詠まれた全國民の歌が収められてゐる。

天皇國家統治は、やまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は和歌と切り離し難く一體である。

天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されるのである。傳統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふ理念が、わが國の皇位継承であり、伊勢の神宮の御遷宮であり、和歌なのである。これは他國には見られないわが日本の特質である。まさにわが國體は萬邦無比なのである。

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが國において幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

明治天皇は、『歌』と題されて、

「まごころを うたひあげたる 言の葉は ひとたびきけば わすれざりけり」
「世の中の ことあるときは みな人も まことの歌を よみいでにけり」
「天地をうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」
「ことのはの まことのみちを 月花の もてあそびとは おもはざらなむ」

と詠ませられてゐる。

これらの御製は、やまと歌の本質について歌はれてゐる。和歌は決して遊びごとでもないし単なる美辞麗句を連ねたものでもない。まさに「まごころをうたひあげたる言の葉」なのであり、「世の中のことあるときによみいでる」ものなのであり「天地をうごかす」力を持つものである。神代の昔に発生し日本の道統を継承する最高の文藝が和歌である。

『古今和歌集・仮名序』(紀貫之)に「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

歌の語源は「訴へる」である。物事に感動して何事かを訴へた声調・調べ(音律の調子を合わせ整へること)のある言葉を歌といふ。そして、五七五七七といふ一定の形式と調べが自然に生まれた。

日本國民の心・思想・精神は、和歌によって表白せられ傳承されて来た。幕末維新期の志士の歌などを見てもそれは明白である。

わが國は元寇・明治維新・大東亜戦争など國家的危機の時に尊皇愛國の精神が燃え上がった。そしてやまと歌が勃興した。それが『萬葉集』であり、幕末維新の志士の歌であり、大東亜戦争で散華した英靈たちの歌である。

明治天皇御製

「とこしへに 民やすかれと いのるなる わがよをまもれ伊勢のおほかみ」(明治二十八年・日清戦争)
「民草の うへやすかれと いのる世に 思はぬことの おこりけるかな」(明治三十七年・日露戦争)
「暁の ねざめのとこに おもふこと 國と民との うへのみにして」(明治三十八年・日露戦争)
「千萬の 民とともにも たのしむに ますたのしみは あらじとびおもふ」(明治四十三年)

明治天皇は、御生涯において、九萬三千三十二首の御製を詠ませられた。畏れ多いが、歴代天皇の中で比を見ない。明治維新断行、そして近代日本建設といふ未曽有の変革と発展は、明治天皇の偉大なる神聖権威のもとに推進せられた。そしてそれはやまと歌の隆昌と一体であったのである。

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