2020年10月 3日 (土)

『百人一首』は和歌文學史上重大な意義を持つ

『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家であり歌人である藤原定家が、小倉山の山荘で選んだとされる百首の私撰和歌集である。戦國時代から江戸初期にかけて宮中・諸大名家で「かるた」として普及し始め、木版画の技術が発達すると元禄時代頃から絵入りの「歌がるた」の形で庶民に広まった。

以来、今日まで長い間、上は朝廷から下庶民に至るまで愛好された歌集が『百人一首』である。日本人が和歌といふ文藝をいかに愛して来たかが分かる。和歌といふ定型文藝が、日本人の感性・生活感覚に合致してゐるといふことであらう。

濱口博章氏は次のやうに論じてゐる。「現在、わが國の古典文學といえば、誰しも『萬葉集』『源氏物語』などの作品を思い浮かべるであろうが、高等教育の普及した当節でも、これを原文で読み味わうことは困難で、況や江戸時代の庶民となれば、思い半ばに過ぎるであろう」「契沖や真淵のようなすぐれた研究者が輩出しようとも『萬葉集』は一般人にとって縁なき存在で……これに引き換え、百人一首は全く大衆のものであった。目に一丁字のない庶民ですら、百人一首の二つや三つはそらんじていたであろう」「『古典』とは、人々によく知られ、後人の典型となるべき価値の定まったものと定義するならば、百人一首こそ『國民の古典』の名に恥じないもので、まさに『庶民の文學』というべきであろう」「百人一首は『かるた』によって一般大衆の間に流布していった。その結果、和歌に対する理解を深め、人々に培われて情操教育の材料となり、長く『美の心』を養って来たのである。これは他のいかなる文學作品にも見られない大きな特徴で、百人一首こそ真に『古典』と呼ぶにふさわしいものであろう」(『江戸庶民にとっての百人一首』)。

和歌は、時間的には古代人から現代人、空間的には上御一人から庶民までの「こころ」一つに結ぶ働きがある。日本人の思想精神を正確にあるがままに自己にものとするには、人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を學ぶことによって可能となる。

『百人一首』がわが國和歌文學史上重大な意義を持つのは、特に和歌を學ぶ人ではなく、一般庶民に自然に和歌を親しい存在にしたことである。

加太こうじ氏は、「『百人一首』をするのは小學校六年生ぐらいからで、十五、六歳から二十歳ぐらいにかけての若者が、明治中期から昭和初期にかけて熱中した。…百人一首の和歌は相聞歌=戀歌が多い。その戀歌は文學的情緒と相まって初戀の雰囲気をかき立てた。それ故当時はどこの町内にも百人一首のサークルがあって、」(『東京の原像』)と書いてゐる。

私は東京下町育ちの戦後っ子であり、いはゆる団塊の世代であるが、双六遊びや普通のカルタ取りをして遊んだが、『百人一首』は全くしたことがない。しかし、わが母は、私と生まれ育った町で生まれ育った東京下町生まれであり、『百人一首』をよくしたといふ。母は今でも『百人一首』に収められた歌を暗唱してゐる。

戦後になって、特に占領軍が禁止したと言ふわけでもなからうが、『百人一首』は衰退したといへるかもしれない。近代短歌ですら「第二藝術」「病人文學」「奴隷の韻律」などと批判されたのだから、『百人一首』が忘却されかけたのは当然かもしれない。それは、決して革新でも進歩でもなかった。ただの破壊であり断絶であった。

しかし、『百人一首』は全く廃れたといふことはなく、継承されて来た。最近は復活してゐる。『百人一首』を各家庭で復興させることにより、青少年たちが日常生活の中で感覚的に日本の古典・日本傳統美を理解することができると思ふ。

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2020年10月 1日 (木)

 舎人皇子のますらをぶりを詠んだ御歌

 舎人皇子の御歌
                            
ますらをや片戀せむと嘆けども醜(しこ)のますらをなほ戀にけり (一一七)

 舎人皇子が舎人娘子に贈った「ますらをぶり」の戀歌。舎人皇子は、天武天皇第三皇子。天武天皇四年(六七六)~天平七年(七三五)。第四七代・淳仁天皇の父君。勅を奉じて『日本書紀』を選進した責任者。没後、太政大臣を贈られた。諡号は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)。淳仁天皇の父である。奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるった。日本書紀の編集も総裁した。折口氏は「古来の風習として、貴種の皇子は、豪族に養はれた。舎人氏に扶育を受けられたので、御名も舎人親王。その家の嬢子と戯れあった筈だ」という。

舎人娘子は、伝未詳。

 「ますらをや片戀せむ」のヤは反語(本来の意味とは反対の意味を含ませる表現法。多くは疑問の形で、例えば「これが嘆かずにいられるか」のように表す)。ますらをとして片恋するものであらうか、ますらをは片戀するものではないといふ意。「堂々たる日本男児たるもの片思ひなどするものか」といふ意。自嘲的響きもある。

「醜のますらを」は頑なで卑しい男子。自己嫌悪感を表現してゐる。自分の不甲斐なさを嘆くと共に、戀心を表白してゐる。

 通釈は、「堂々たる日本男児たる者片戀などするものかと嘆いても、みっともない男児である私はやはり戀してしまふ」といふほどの意。

折口氏訳「立派な男が片戀ひなどするものではない、と溜息づいては、反省するけれど、この手におへない一人前の男は、それにもかゝはらず、なほ焦がれてゐることだ」。
 
日本男児たる者、常に國家を心に置き、大君に仕へ奉るべきだとするのが、この時代の男性の心意気であった。それなのに一人の女性に戀々とする自分自身を恥じて「醜の」と詠んだ。
  
また、日本男児の戀は、女性から愛されて結ばれるのがあるべきなのだが、戀の相手がなかなか私のことを思ってくれないみっともない私はそうはいかない、といふ自嘲的な気持も込められてゐる。
 
ただし、この歌は相手の女性に贈った歌であるから、本心から自分のことを「不甲斐ない奴」と思ってゐたわけではないし、自分の戀を嘆いてゐるわけでもない。また「醜」とは現代語の醜いとはやや違った意味であって、「かたくなに」「強い」といふ意味もある。防人の歌に「今日よりはかへりみなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」(今日以後他の一切を顧慮することなく、卑しき身ながら大君の御楯となって出発します。私は)といふ歌がある。
 
この御歌はもちろん相手の女性(舎人娘子)に訴へかけた戀歌であるが、「片戀」といふ言葉以外に直接的に相手に訴へかける言葉はない。しかし、それだけにこの歌を受け取る女性にとっては、「これほどまでに私のことを戀ひ慕って下さるのか」といふ心を起こさせる歌である。またそれを期待して詠んだ歌であるともいへる。

折口氏は「必ずしも、片恋ひであると信じてゐる訣でなく、かういふ表現で、結婚を申し入れたのである」という。

 『萬葉集』とは「ますらをぶり」の歌集であると、近世(江戸中期)國學者の賀茂真淵が主張した。「ますらをぶり」とは、「男らしく」「日本男児らしく」といふほどの意で、「男性的で大らかな歌風」のことをいふ。さらに、『古今和歌集』は以後の歌風を「たをやめぶり」(女性的で優雅な歌風)といった。『萬葉集』の「ますらをぶり」の歌とは、この舎人皇子の御歌や防人の歌である。

 そして、真淵は「ますらをぶり」とは大和の國を都とした時代(白鳳・天平時代)すなわち萬葉時代の歌風であり、「たをやめぶり」は京都の文化であるとした。しかし、『萬葉集』を「ますらをぶり」だけの歌集だとすることはできない。大伴家持の歌などにはむしろ平安朝の歌風に近い歌も数多くある。

 それはともかく、賀茂真淵は、和歌は「すめらみくにの上つ世の姿」、つまり萬葉時代に帰らなければならないと主張した。「ますらをぶり」の精神風土を尊重しなければいけないとした。それは平安時代以来続いた「たをやめぶり」への反発であった。

 真淵は現在の静岡県出身であり、東國の人であった。そして、徳川吉宗の子の田安宗武の和歌の師であったので、武家の美學を昂揚させようとして、「ますらをぶり」「萬葉ぶり」を復活を唱へた。

 しかし、賀茂真淵の弟子の本居宣長は、『源氏物語』を高く評価し、「たをやめぶり」も日本の文化の大切な流れであるとした。

 儒教や仏教の影響からか、武士たるもの、戀愛を文學にしてはならないといふやうな風潮が生まれた。語ってもいけないといはれた。「男女の愛」を文や歌に表現することは武士のやることではないとされるやうになった。

 しかし、神話時代や古代日本においては、武士の元祖のやうな方であられる須佐之男命や日本武尊は、戦ひの歌・「ますらをぶり」の歌と共に、戀愛の歌を大いに歌はれた。天智天皇・天武天皇そして藤原鎌足も戀歌を歌った。

 わが國のますらをは大いに戀愛をし、戀を歌った。須佐之男命が妻を娶られた時の喜びの歌である「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」(多くの雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を作る。ああその八重垣よ、といふほどの意)は、和歌の発祥とされてゐる。

 古事記・萬葉の世界では、「武」「歌」「戀」の三つは一体なのである。     わが國文學は戀愛が大きな位置を占める。男女の愛情を尊んだ。『萬葉集』の戀愛歌・相聞歌を見ればそれは明らかである。

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2020年9月26日 (土)

持統天皇御製と四季の変化

夏から急に秋が来たよう気がする。晩夏とか初秋というものが感じられない。四季の変化がゆるやかではなくなった。

藤原敏行(平安時代前期の貴族・歌人・書家)に

「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(『古今和歌集』)

といふ歌がある。近現代においても「小さい秋見つけた」「春が来た」といやうな詩がある。

第四十一代・持統天皇は次のやうな御製を詠ませられた。

「春過ぎて 夏來たるらし 白たへの 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山」(『萬葉集』)

持統天皇御製には簡単明瞭に季節の変化を歌はれてゐる。「白い衣」「新緑」「初夏の光」といふ明るいイメージがこの御歌に満ち溢れてゐる。生命の喜び・自然の美しさを讃へてゐる。

保田與重郎氏は「春が終り夏がくるといふ季節のうつりを歌ふことは、直接日本のくらしから生れる歌の心である」「遷都といふ大事業のあとゆゑ、格別のおよろこびを民情に即して感じられたのであらう。季節の移りに即して、まづ生活と生業を第一と思ふことは、『萬葉集』の多くの歌を味ふ時の肝心である。我國の古代生活に於ては、産業と祭祀は一体である。天孫降臨の時、皇孫尊は天神から斎穂(稲の種子・米)を授けられた。これを地上にも植ゑ、高天原で行ってゐると同じやうに農事を行ふやうにと教へさとされた。さうされると、地上も高天原と同じ神々の國となること、違ふことなしといふことが、わが日本の建國の理念である。…祭りには、米作りの農が先行し、そのことと一体だった。わが神話が、原始民族の宗教祭儀と大きく異なってゐる眼目はこゝにあって、このことは『萬葉集』の根本精神として一貫してゐる」(『萬葉の歌』)と論じてゐる。

「夏來たるらし」「衣ほしたり」といふ歯切れのいい調べを重ね、最後に「天の香具山」と体現止めをして格調が高い。天皇は並びなき方であらせられるので、その御歌には他の歌にはない大らかさ・広らかさ・力強さがある。

『日本書紀』は持統天皇の御事を「沈着(しめやか)にして大度(おほきなるのり)有(ま)します」(沈着な御性格で広い度量をお持ちであった)と記してゐる。まさにこの御製にかうした持統天皇の素晴らしい御性格が見事にあらはれてゐると言ってよいだらう。

藤原の宮(藤原京)は、持統・文武・元明天皇の都。明日香清御原宮から遷都され平城京遷都までの十六年間続いた都。支那式の条坊制を採用したわが國最初の都城といふ。

持統天皇は、藤原京を造営され遷都された後、人々が安穏に暮らしてゐることへの安堵感からこの御歌を詠まれたと拝することもできる。

さらに、季節の移りに即して民草が衣を干すといふ生活と生業を歌はれたのであり、民を思ふ大御心のほどが拝される。

天孫降臨の時、天孫瓊瓊杵尊は天津神から齋穂(稲の種子)を託された。そして稲穂を地上において多く実らせることによって地上を高天原と同じ理想の國にすることを命令された。

これがわが國建國の理念であり、天皇國家統治の基本である。神の御命令を正しく実行し多くの産物が生産されたことを神に御報告される行事が、天皇の祭祀である。そして地上で産物の豊饒を実現される事が最大の御使命である。その産物とは稲穂であり布であった。この御製は産物である白い布が神聖なる天香具山に干されてゐる事を喜ばれた御歌であり、天皇の國家統治の御精神が歌はれてゐるのである。

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2020年9月 6日 (日)

「日出づる國」への誇り・祖國へ愛を歌った山上憶良の歌


 山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在りし時、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作れる歌

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴(おほとも)の 御津(みつ)の濱松 待ち戀ひぬらむ

 山上憶良が、支那にゐた時、祖國を恋ひ慕って作った歌。山上憶良は、斉明六年(六六〇)~天平五(七三三)年。萬葉集代表歌人の一人。大宝元年(七〇一)に三十五年ぶりに遣唐使が復活し、憶良は遣唐少録に任命された。翌大宝二年、四十二歳の時に渡唐。慶雲四年(七〇七)帰國。晩年の歌が多い。

【大唐】支那のこと。【本郷】祖國日本のこと。【いざ】人を誘ひ自らも行動を起こそうとする時に発する言葉。【子ども】年下あるいは目下の親しい人々に対する呼び掛けの言葉。【日本】日本全体を指す。【大伴の御津】大阪市南部から堺市にかけての一帯(摂南といふ)の難波の津(港)のこと。この辺りは大伴氏及びその配下の久米氏が領有してゐた地であったから「大伴の」といふ。ここから遣唐使の船や九州などに行く船が出発した。大唐にある憶良にとって、この港は祖國の門戸であった。

遣唐使が支那へ行くルートは、①今日の大阪から瀬戸内海を通って行き、壱岐・対馬に寄りながら朝鮮半島の西側を通って、山東半島に上陸するルート、②能登半島から出発して沿海州に上陸するルート、③長崎や鹿児島などから出発して支那の楊州や越州に上陸するルートがあったといふ。
 
「濱松待ち戀ひぬらむ」は、松が擬人化されてゐる。懐かしい祖國日本の海岸の松の風景を目に浮かべて歌ってゐる。また、「御津の濱松」は下の「待ち戀ひぬらむ」を出すための序詞といふ説もある。                           

 通釈は、「さあ、皆の者よ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の濱松も、さぞ待ちわびてゐるであらうから」といふ意。                             

 「日本」という漢字に「やまと」といふ傍訓を付したところにこの歌の重要性がある。「日本」とは「日の昇る國」といふ意味である。

 聖徳太子は、推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣隋使として支那に遣はされ、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」といふ「國書」を隋の煬帝に呈した。日本國の誇りを高らかに宣揚し、アジアの大帝國・隋に対して、対等どころか大いなる自尊心をもって相対された。その御精神が山上憶良に引き継がれてゐるのである。

 聖徳太子は外来宗教たる仏教を深く信仰せられた方であるが、素晴らしい日本人としての御自覚をお持ちになられてゐた。憶良もまた、唐において色々なことを学びこれから帰國しようといふ時に、「早く日本へ」と歌ひあげたのである。

 「早く日本へ」といふ言葉に、「日没する國」にゐる憶良の「日出づる國」への恋慕の思ひがにこめられてゐる。憶良は、唐との対比において日本を自覚し、祖國への愛・日本人としての誇りを歌ったのである。それは、わが国は、太陽の昇る国であり、太陽神たる天照大神を祖神として仰ぎ、天照大神の生みの子たる天皇を君主として戴く国であるといふ大いなる自覚である。
 
この歌は望郷の歌であると共に、祖国愛謳歌の歌である。今日のわが國政治家などの支那に対する卑屈な態度と比較すると、やはり民族勃興期・國家建設期の日本は素晴らしい人がゐたと言ふべきである。
                  
 また、憶良には、自分たちが早く日本へ帰りたいといふ思ひと共に、自分たちが学んだ学問を早く祖国へ持ち帰って祖国の役に立てたいといふ思ひもあったと思はれる。


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2020年8月29日 (土)

勅撰和歌集について

和歌は、天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが國に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は和歌と切り離し難く一體である。

天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されるのである。

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに御歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

言霊が籠る和歌(やまとうた)は、日本の最も純粋にして最も固有な文藝である。「和歌」は、「漢詩(からうた)」に対して用いられた言葉である。「やまとうた」といふ言葉を意識的に用い出した人は、紀貫之(平安前期の歌人、歌学者。三十六歌仙の一人。仮名文日記文学の先駆とされる『土佐日記』の作者である。加賀介、土佐守などを歴任。醍醐天皇の勅命で『古今和歌集』撰進の中心となった)といはれてゐる。

宇多天皇の御代の寛平五年二月、菅原道真の遣唐使廃止の奏状により、唐との交流が途絶へ、それまでの外来文化模倣を反省し、日本固有文化の自覚が強まり、和歌が勃興した。大陸崇拝から国民的自覚へと転換した。漢才の活用もその根底に和魂がなければならないといふ自覚が起きた。これを「国風文化」といふ。そして、漢文学への対抗として、延喜五年四月十八日に、勅撰『古今和歌集』が撰進された。

国風文化勃興の中心人物が、菅原道真と紀貫之である。保田與重郎氏は、「やまとうたを稱へて、他国に対して和歌を主張するといふことは、貫之に始り、これが貫之の英雄たる本質である。」(『やまとうた考』)と論じてゐる。

紀貫之が執筆した『古今和歌集』の「仮名序」は、和歌とはいかなるものであるかが説かれた基本的な文献である。

それには、「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁(しげ)きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出(いだ)せるなり」(やまとうたは、人の心を種にたとへると、それから生じて出た無数の葉のやうなものである。この世に生きてゐる人は、様様な事に遭遇するので、心に思った事を、見た事聞いた事に託して言ひ表はすものである。)「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)と論じられてゐる。

「天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ」といふのは決して誇張ではなく、古代・中古においては本当にそう信じられてゐたのである。つまり歌を詠むのは、魂鎮め・鎮魂の行事である。和歌は、ふつふつと湧きあがってくる素直なる心・色々な思ひ・魂の叫びを、「三十一文字」にして固め成して鎮める働きをする。人間のまごころを表白する抒情詩である。日本民族の人智のさかしらを超えたまごころの調べである。

古代から現代に至る日本人の思想精神を正確にあるがままに自己にものとするには、古代の人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を詠むことによって可能となる。

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2020年8月26日 (水)

元明天皇御製に学ぶ


 和銅元年戊申、天皇の御製の歌
                              
     
ますらをの 鞆(とも)の音すなり もののふの おほまへつぎみ 楯立つらしも 

 和銅元年は西暦七〇八年。第四三代・元明天皇(天智天皇第四皇女・持統天皇の異母妹)の御製。

元明天皇は、斉明天皇七年(六六一)-養老五年(七二一)。草壁皇子の妃となり、文武・元正両天皇をお生みになる。二十九歳の時、夫君・草壁皇子が薨去され、さらに皇子の文武天皇が崩御されると、御年・四十七歳で天皇に即位された。在位八年二ヵ月で、皇女・元正天皇に譲位される。

 「ますらを」は、武人のこと。漢字で益荒男(ますます荒々しい男)と書く。人並み外れて強い男といふ意。

 「鞆」は、弓を射る時に用いる皮製の防具で、左手の指の内側に巻きつけて弦が当たるのを防いだ。「鞆の音すなり」は、兵士たちが弓を引く練習をしてゐる音がするといふ意である。

 「もののふ」は、宮廷に仕へる文武百官。「おほまへつぎみ」は、大臣のこと。「楯」は、矢・刀・鉾などを防ぐ防具。

 「おほまへつぎみ」とは太政大臣・左右大臣・内大臣の総称。この時の右大臣は、石上麻呂(いそのかみのまろ)。そして石上氏は元来、武の力で天皇にお仕へして来た物部氏であったので、この御歌の「もののふのおほまへつぎみ」を、石上麻呂とする説がある。物部氏は石上神宮の鎮座する辺りの氏族であり、朝廷の武を司ったといふ。

 大和朝廷の武器庫のあったところに鎮座し、建甕槌神(たけみかづちのかみ)が中洲(なかつくに)を平定した時(出雲の國譲り)に帯びた神剣の御霊である「布都御魂大神」(ふつのみたまおほかみ)を、御祭神としているお宮が石上神宮である。

 しかし、通説では「おほまへつぎみ」を、石上麻呂と特定せず、広く元明天皇の侍臣をいふとしてゐる。

 通釈は、「勇敢な兵士たちの鞆の音がする。もののふの大臣が楯を立てて戦ひの準備をしてゐるらしい」といふほどの意。               

 「楯を立てる」とは、戦争の準備をしてゐるといふことである。緊迫感のある歌。しかも、女帝の御歌であるところに注目点がある。

 この御製が歌はれた年の翌年の和銅二年(七〇九)三月に、陸奥・越後の蝦夷を撃つための軍が派遣された。この御製は、東國警備・蝦夷討伐準備のための兵馬の訓練をしてゐる様子或いは狩りへ出発する光景を歌はれたものといふのが通説てある。

 しかし、この御製に和した次の御名部皇女の御歌を拝すれば、そのやうなことを歌はれた御歌ではないとする説もある。

 この御歌が詠まれたのは、文武天皇が崩御され、元明天皇が御即位あそばされた翌年であるから、何か政情不安があったのかもしれない。

 梅原猛氏は、物部氏の系統である石上麻呂は、元明天皇の奈良への遷都の御計画に反対して不気味な動きをしてゐたと説く。石上麻呂の配下の兵士たちが朝早く楯を立てて出陣の準備をしてゐるといふのである。

 それはともかく、この御製には、天皇として責任を強く感じられてゐる気迫が漲ってゐる。「鞆の音すなり」に強い緊迫感溢れる響きがある。

 通説に従へば、この歌は狩りの準備か軍事訓練の際の御製であり、天皇の御命令に従って、東北へ出発する兵士たちの心を思はれて、平安と無事を祈られた御歌である。

御名部皇女が妹君・元明天皇を励まされた御歌 

   
 御名部皇女(みなべのひめみこ)の和(こた)へ奉(まつ)れる御歌
          
わが大君 ものな思ほし 皇神(すめがみ) の嗣(つ)ぎて賜へる 吾無(われな)けなくに

 御名部皇女が元明天皇の御製にお答へした御歌。御名部皇女は、天智天皇の皇女にして元明天皇の同母姉君である。母は、曽我石川麻呂の娘・宗我嬪。高市皇子の室となり、藤原氏の讒言によって滅ぼされた長屋王をお生みになった。
 
「わが大君」は、元明天皇の御事。たとへ実の姉君であっても、妹に対して「わが大君」と呼びかけられたのである。「ものな思ほし」のナは禁止の副詞。「もの思ふ」は思ひ悩む意。

 「皇神」は皇祖神の御事。スメは、「アマテラススメオホミカミ」(天照皇大神)「スメラミコト」(天皇)「スメミマノミコト」(皇御孫命)のスメと同じ。「スメラ」とは最高・最貴の語の語根であって、「皇神」は神聖な神・皇祖神の御血統であることを端的に意味する言葉。「スメラ」は、「澄む」といふ形容詞から発生したとされる。「濁りなき高貴さの属性」に力点を置いた尊称で、「政治的・宗教的に聖別された状態」を意味するといふ。

 「嗣ぎて賜へる」のツギテは継ぎ手か。「後継ぎを賜った」といふ意と思はれる。御名部皇女と高市皇子との間の御子・長屋王は、当時三十三歳。一方、文武天皇の皇子・首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)はまだ八歳であらせられた。

 長屋王は有力な皇位継承者であられたので、その母君であられる御名部皇女がこのやうな御歌を歌はれたのである。元明天皇を励まされた背景には、有力な皇位継承者・長屋王を皇子にお持ちになってゐる自信があったからであだといはれてゐる。しかし、長屋王は、前述した通り、聖武天皇御即位の後、藤原氏の讒言によって滅ぼされる。

 「吾無けなくに」は、私がゐないわけではない、といふ意。
 
通釈は、「わが大君よ、ご心配なさいますな。皇祖神から後継ぎを賜ってゐる私がをりますから」といふほどの意。つまり、「わが大君よ、何も心配なさいますな。皇祖神の御血統を継承する長屋王が居りますから」と申し上げて、何事かを心配されておられる元明天皇を励まされてゐるのである。

 この元明天皇が抱かれた「ご心配」とは一体どういふ事なのかが問題なのである。妹君の「ますらをの鞆の音すなりもののふのおほまへつぎみ楯立つらしも」といふ御製に答へ奉って、姉君が「わが大君ものな思ほし皇神の嗣ぎて賜へる吾無けなくに」と歌はれた二首の御歌のしらべの緊迫感を拝すれば、「おほまへつぎみ」の軍事的行動の準備とは、単に蝦夷の不穏な動きへの準備よりも重大な不穏な動きへの準備とする説が有力になって来る。

 歌の配列も、このお二方の御歌の前に、後に滅ぼされる長屋王の「宇治間山」の御歌が置かれてゐる事も何か意味があるやうに思はれる。

 『萬葉集』は大伴家持が編纂したといふ説が有力である。家持及び大伴氏は、藤原氏に対抗し、藤原氏から圧迫を受けてゐた。『萬葉集』は藤原氏への批判といふか反発の思ひがその奥底に流れてゐるといふのである。ゆゑに、歌の配列も意味深長なものになってゐるといふのである。

 また、保田與重郎氏は、本居宣長の「嗣ぎて賜へる吾無けなくに」の「吾」は「君」の誤記であるといふ説に賛同してゐる。さうすると、「皇神の嗣ぎて賜へる」は「皇祖神から与へられられ継承されてきた」といふ意になり、「あなたは皇祖神の血統を継ぐ天皇なのだから心配することはない」といふ意味になる。

 保田氏は、「『皇神の継ぎて賜へる』といふのは、皇位はすべて天つ神皇祖神の議(はか)り定められしものだといふ天降りの思想を現されたものにて、御位は天つ神々の定め賜ふものゆゑ、大御心にかけて思ひ案ぜられるやうなことは何一つもあるわけがありませぬ。……大御心安らかにませと、お力づけ、またお慰め申された御歌である」(わが萬葉集)と説かれてゐる。

 文学作品や歴史書に限らず、重要な文献は一字違っただけで、意味が全く変わってしまふ。文献学が如何に大事かが明らかである。

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2020年8月20日 (木)

國難の時期こそ、「勅撰和歌集」の撰進が行われるべきである。

國難の時期こそ、「勅撰和歌集」の撰進が行われるべきである。

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。

天皇が和歌を詠ませられると共に、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。

天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。

天皇の國家統治は、何回も主張するが、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されてきたのである。

阿部正路氏は、「日本の傳統の最も荒れ果てた現代にこそ新しい真の意味での勅撰集が編まれるべきではないだろうか。それが具体化するかどうかに、日本の傳統の意志の行方が見定められることになるのだと考える。…勅撰集に明らかに見ることのできる、一系の天皇の、和歌に対するゆるぎない信頼の中においてこそ《悠久》の世界を具体化し得たのであった」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。

國難の時期である今日において、まさに、「國風文化」が復興しなければならない。大化改新といふ大変革、白村江の戦い・壬申の乱といふ大動乱・大国難の時に『萬葉集』が生まれ、平安中期の國風文化勃興の時に『古今和歌集』が生まれ、承久の變の時に『新古今和歌集』が生まれたやうに、國難に晒されてゐる今日において、偉大なる「勅撰和歌集」が撰進されるべきであると信ずる。それが言霊の復活であり、世の乱れを正す大いなる方途である。

『萬葉集』は日本の傳統精神の文藝的結晶である
「やまとうた(和歌))は、日本の最も純粋にして最も固有な文藝である。「やまとうた」は、「まつりごと」から発生した。日本では太古から、天地自然の中に生きてゐる天地の神に、五穀の豊饒や民の幸福を祈る「まつりごと」が行はれてきた。その「まつりごと」において祭り主が神憑りの状態で「となへごと」が発した。それが度々繰り返され一定の形をとるやうになったのが「やまとうた」(和歌)の起源である。

「和歌」は、「漢詩(からうた)」に対して用いられた言葉である。「やまとうた」といふ言葉を意識的に用い出した人は、紀貫之(平安前期の歌人、歌學者。三十六歌仙の一人。仮名文日記文學の先駆とされる『土佐日記』の作者。加賀介、土佐守などを歴任。醍醐天皇の勅命で『古今和歌集』撰進の中心となり、「仮名序」を執筆した)である。

和歌は、大化改新・白村江の戦・壬申の乱が起った國家激動の時代における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、後鳥羽上皇の承久の変における『新古今和歌集』といふやうに國體意識の勃興と切り離せない。「勅撰和歌集」の撰進とは言霊の復活である。

少なくとも衆参両院議員、中央省庁の役人は、やまと歌を詠み、「歌会始」において、天皇陛下にご覧いただくべきである。それが古代日本以来の伝統である。

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2020年8月19日 (水)

〈日本なるもの〉の回復の時代に生まれた歌集が『古今和歌集』である

『古今和歌集』(こきんわかしゅう)とは、平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂された。『古今和歌集』は仮名で書かれた仮名序と真名序の二つの序文を持つが、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)4月18日に奏上された。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜12年(912年)ごろとの説もある。

撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人である。序文では友則が筆頭にあげられているが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之であり、友則は途上で没したと考えられている。

『古今和歌集』は、勅命により国家の事業として和歌集を編纂するという伝統を確立した作品でもあり、八代集・二十一代集の第一に数えられる。平安時代中期以降の国風文化確立にも大きく寄与し、『枕草子』では古今集を暗唱することが当時の貴族にとって教養とみなされたことが記されている。収められた和歌のほかにも、仮名序は後世に大きな影響を与えた歌論として文学的に重要である。

『古今和歌集』は上で触れた『枕草子』で見られるように古くからその評価は高く、『源氏物語』においてもその和歌が多く引用されている。また歌詠みにとっては和歌を詠む際の手本としても尊ばれ、藤原俊成はその著書『古来風躰抄』に、「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べており、これは『古今和歌集』が歌を詠む際の基準とすべきものであるということである。この風潮は明治に至っても続いた。ただし江戸時代になるとその歌風は賀茂真淵などにより、『万葉集』の「ますらをぶり」と対比して「たをやめぶり」すなわち女性的であると言われるようになる。

清和天皇・陽成天皇の御代頃から、大陸崇拝熱はさめはじめ、國民的自覚・愛國心が勃興してくる。漢才の活用も根底に和魂がなければその価値を正しく発揮できないといふ思想が起こってくる。

 仁和三年(八八七)、宇多天皇が即位されると、天皇親政の復活と摂関藤原氏の抑制に力を尽くされた。寛平五年(八九三)二月、菅原道真の遣唐使廃止の奏状が提出され、翌年遣唐使を廃止された。唐との交流が途絶へ、それまでの外来文化模倣が反省され、日本固有文化が尊重されるやうになった。

 萩谷朴氏は、「宇多天皇が即位されると、その御一代の政策は、親政の復活と摂関藤原氏の抑圧とに、すべての努力が傾注されることになった。…傳統的な和歌の國風を振作することによって、國體意識を明確にし、摂関藤原氏がひとり政権を壟断すべきでないことを政官界に徹底せしめようという、復古維新の文化政策であった。このために菅原道真が指導者となって、平安朝初期百年の間、科挙(註・支那で行はた官吏の登用試験。隋・唐代に始まり、清代の末期に廃止)の制度のためにする漢詩文全盛の蔭に、男子貴族知識層にはほとんど無縁のものとなっていた和歌の詠作を急速に奨励することとなり、…歌合(註・歌を左右に分け、その詠んだ歌を各一首づつ組み合せて、判者が批評、優劣を比較して勝負を判定する)が盛んに催れ、勅撰和歌集の編纂が企てられ、歌物語が流行することとなった」(『王朝の歌人・紀貫之』)と論じてゐる。

 漢風文化隆盛時代の文藝創作者は概ね男性であって、記紀萬葉時代あれほど活躍してゐた女性の影が薄くなってゐた。女性が復活するのは國風文化が復興した後である。言ひ換へると國風文化復興には女性が深く関ってゐたのである。藤原氏の権力壟断・漢風の隆盛・女性の蔑視は、日本傳統精神の衰退であり隠蔽なのである。

ただ、國風文化衰退の時代であっても、和歌がまったく詠まれなかったといふことはあり得ない。和歌とりわけ恋歌は決して衰退しなかったと考へる。ただ漢風文化が社會的に重んじられてゐたがために、和歌が表面に出なかったといふことであらう。和歌が中絶したといふことは全くあり得ない。
 
わが日本の本来的な精神傳統は、記紀萬葉の世界に明らかなやうに健康的であり開放的であり女性を蔑視してゐない。そこが支那との大きな違ひである。

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2020年8月14日 (金)

和歌の復興と維新


日本人の思想精神を正確に自己のものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を読むことによって可能となる。

佳人にして作家の中河与一氏は「和歌が国風(四宮註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した。」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ実感すべきである。

そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2020年7月22日 (水)

大伴家持の『酒を讃むる歌』について


                          
  太宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首

驗(しるし)なき 物を思はずは 一坏(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし   (三三八)

 大伴旅人の歌。大伴旅人は、天智天皇四年(六六五)~天平三年(七三一)。父は大伴麻呂。母は巨勢郎女。子には家持ちがゐる。和銅三年、左将軍正五位上。没時は大納言従二位。神亀の末年、太宰帥として筑紫に赴任。                  

 「驗なき」は、やってもしょうがない、効験のない、効果のない、役に立たないの意。シルシは効能、効き目の意。「物を思はずは」は、心配するくらいなら、くよくよするのなら。ズハは、何々するくらいならいっそのこと何々とした方がいいといふほどの意。「濁れる酒」は、粕を濾過してゐない酒。「飲むべくあるらし」のラシは、断定的な内容を若干不確実として断定を避けた用法。

 通釈は、「しても甲斐のない心配をするのなら、いっそのこと、一杯の濁り酒を飲んだほうがましだ」といふ意。

 旅人が濁り酒を詠んだ背後には、濁り酒を飲む自分こそが賢人なのだと主張があるのである。「くよくよしなさんな、酒でも飲みなさい」といふ歌で、現代人にもぴったり来る。

 わが國古代においは、祭祀に用いられた酒は神聖な飲み物であった。神嘗祭(新暦十月十七日に行ふ祭事。その年の新米を神に供へる)では新米と共に新酒も供へられる。

 神事には直會といふ行事がある。祭りの後、祭りの参加者が神饌や神酒のおろし物をいただき分かち飲食する行事である。神様が飲食された物を参加者もいただくといふことで、神人合一の境地に入るのである。

 『日本書紀』に、崇神天皇八年の条によると、疫病流行の國難に際し、崇神天皇は國土開拓経営の神であられる大物主大神の御加護を得るべく、大田田根子を神主として祭りを行われた。その祭祀に芳潤無比な神酒が供へられた。その神酒を崇上天皇に献上したときに、諸大夫たちが神宮で詠んだ歌が、

 「此の神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久(いくひさ)  幾久」(この神酒は私の神酒ではない。倭の國を生成された大物主大神が醸造された神 酒である。幾代までも久しく栄えよ、栄えよ、といふ意)
である。

 そして大物主大神は、酒の神とも讃へられてゐる。わが國最古の神社といはれる三輪神社の御祭神である。三輪に掛る枕詞は「味酒(うまさけ)」である。古代には酒は神聖な飲み物として尊ばれたのである。

 しかしこの旅人の一連の酒の歌は、さういふ伝統的な酒への信仰を歌ってはゐない。独酌の楽しさを歌ったともいへる。酒は、神聖な飲み物としての価値を残しながらも、嗜好品として多くの人々に飲まれるやうになったのである。

 そしてあまりにも酒を飲む人が多くなり、色々弊害が起こってきたので、禁酒令とは行かなくても「役人は都の中で宴會をあまりしてはならない。ただし一人二人の親しい者同士で飲むくらいならよろしい」あるいは「旱魃などで民が苦しんでゐる時は飲酒をしてはいけない」といふ『お触れ』が出たくらいである。この一連の歌にはさういふ時代背景がある。
                         
 大伴旅人は、現世を忘却して竹林の中で濁り酒を飲むといふ世捨て人的な世界にひかれてゐた。自分の憂ひを払ふために酒をのみといふ心境は、旅人自身の心境に結びついてゐた。旅人は筑紫に赴任した直後に愛妻を失ってゐる。また、大伴氏は次第に藤原氏に政治的権力を奪はれつつあった。またもともと旅人は酒が好きだった。だからかういふ世界に沈淪するのであらう。

 さらにこの「酒を讃むる歌」を詠んで胸の中の鬱屈した思ひを晴らそうとしたのである。酒は神に捧げる神聖な飲み物であるといふ日本古来の考へ方からは脱却してゐる。

当時においては特異な歌。道教の影響が強い。世の中の常識や通俗的な倫理を風刺し嘲笑した歌。この「酒を讃むる歌」十三首は漢籍に出典がある。旅人は、支那の思想文學の中で特に道教にひかれたといはれてゐる。

 道教は、支那固有の宗教であり、不老長寿をめざす神仙の世界に憧れる民間信仰である。儒教の現世主義とは全く異なる思想である。老子・荘子の思想とも結びついてゐるといふ。神秘主義と言ってもいい。日本神道(神ながらの道)とも共通点があるといはれてゐる。

 『萬葉集』には酒を主題にして歌は非常に少なく、この一連の旅人の歌くらいである。この『萬葉集』に収められた酒を主題にした歌は、今日に於いても大きな意味を持ってゐると思ふ。

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