2017年7月15日 (土)

 『萬葉集』と「武の心・もののふの心・ますらをぶり」の回復

 

 『萬葉集』の中心の時代は、天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてである。その時代は決して太平の世ではなかった。大化改新・壬申の乱といふ大変革・大建設の時代であり、支那朝鮮からの武力侵攻の危機もあった。「やまとうた・和歌」をはじめとした優れた文藝はさうした時代に生まれる。変革・建設・戦ひと「和歌」とは切っても切れない関係にある。

 

 今日のわが國も萬葉時代とまったく同じ内憂外患交々来たるといった危機的状況にある。それは逆に変革の時代でありさらなる発展の時代であるとも言へる。國家的危機を乗り越へ偉大なる変革を成し遂げた萬葉時代の日本民族精神に學び回帰すべきである。

 

 保田與重郎氏は、「わが國の歴史に於いてみても、國民思想の樹立の契機となる重大な問題は、壬申の亂を峠とする時代の國の人心と人倫の歸趨にある。…萬葉集に於ては、はるかに一般國民精神の動向を臣民に道に於てあまねくうつし、しかも最もよく國の倫理の大本を護持して、當時二百年前後にわたる海外文化の影響下の日本にあって、わが固有の文化の流れを傳へた歴史の精神が如何に己を持して動かなかったかを示す點で國の精神の重きを思はせて實に感謝に耐へないものがある」(『萬葉集の精神』)と論じてをられる。

 

『萬葉集』には大変革・大建設の時代の息吹きに満ち満ちた日本民族の精神が歌はれてゐる。『萬葉集』の中核精神は、國家の危急時に、わが國民が如何にして天皇を中心とする國體を守り、國民が神と天皇に仕へ奉ったかが表白されてゐる。歌の調べの美しさも、慟哭も、みなこの一点より解さねばならない。萬葉歌のみならず和歌を學ぶとは、和歌の道に傳はった日本傳統精神に回帰しそれを踏み行ふことなのである。

 

今日の日本において特に取り戻さなければならないのは萬葉時代以来の「武の心・もののふの心・ますらをぶり」である。

 

大東亜戦争敗北以後、「武の心・もののふの心・ますらをぶり」が否定され隠蔽され続けてきた。『現行占領憲法』の三原理のひとつに「平和主義」といふのがあるが、これは、「我が國は侵略戦争をした悪い國であった。ゆへに、日本及び日本國民は今後一切いかなることがあっても、武力・戦力・國軍は持たない、武力の行使はしない、戦争はしないことを決意する」といふ思想である。それは戦勝國による日本弱体化思想以外の何ものでもない。

 

國家を守る精神こそ、國民の道義精神の要の一つである。國防と道義は不離一体の関係にある。「國民」は、運命共同体であるところの國家を生命を賭けて守る使命感があってこそ、「國民」である。

 

崇高なる道義精神である「國家を生命を賭けて守る使命感・義務観念」を喪失し、利己主義・利益至上主義に陥り、自分さへよければ他人はどうなってもいいといふ考へ方に陥ってゐる現代の青少年によって、凶悪無比なる犯罪が繰返されてゐる。軍と武を否定した「平和と民主主義の國・戦後日本」には、眞の平和も、眞の道義も希薄になってゐるのである。 

 

平和の前提は、國家の独立・民族の自立である。國家の独立を維持し、民族の自立を守り、平和を維持し實現するために國防力・軍事力が不可欠である。そしてその根幹として、日本國民一人一人が「武の心・もののふの心・ますらをぶり」の回復がなければならない。 

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2017年6月13日 (火)

短歌の起源は素戔鳴尊の御歌

短歌の起源は素戔鳴尊の御歌

 

『古今和歌集』「仮名序」に、「人の世となりて すさのをの命よりぞ 三十文字あまり一文字はよみける すさのをの命は… 出雲の国に宮造りしたまふ時に  そのところに八色の雲の立つを見て よみたまへるなり」と記されている。

 

三十一字の短歌の始まりは、素戔鳴尊(伊邪那岐命・伊邪那美命の御子神。天照大神の弟神)の 

 

「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣つくる その八重垣を」

(多くの雲が立ちのぼる、その出雲の幾重もの垣に囲まれた宮殿よ。妻を中に籠もらせるために幾重もの垣を作る。その幾重もの垣に囲まれた宮殿よ)

 

であると『古今和歌集』の「仮名序」は述べているのである。

 

素戔嗚尊は高天原から出雲の國に天降られた後、八岐大蛇(やまたのおろち・身が一つで頭と尾が八つある大蛇。出雲國の斐伊川上流にいたという)を退治され、大蛇に食べられようとしていた櫛名田比売(くしなだひめ)を助けられた。その比売を妻にして共に住まはれる須賀の宮を造営された時に、雲が立ちのぼった時に詠まれた御歌である。妻を獲得した喜びを素直に力強く吐露している。「魂の訴え」という「歌」の語源そのままの歌であり、内容的にもまさに「歌の起源」である。

 

このように短歌形式は神話時代から始まっているのである。この御歌は、伝承として歌の起源とされるだけでなく、歌われた時代が実際に非常に古い形式の歌とされる。

 

中西進氏は、「(素戔鳴尊の御歌は)一句が五音・七音にととのえられ、全體も短歌形式のものなので、作られた時代がずっと後だといわれている。そのとおりであるが、しかしだからといって祖形まで否定することはできない。むしろ新しい形をもっているのは、長い間歌いつがれた証拠であって、祖形はたいそう古いものというべきである」(『神々と人間』)と論じている。

 

「やまと歌」は日本民族のまごころの調べである。人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であり、それが自然にある声調を生み、五七五七七の定型詩=和歌を生み出したのである。

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2017年6月11日 (日)

勅撰和歌集編纂は文藝の面での国風文化再興の到達点

 

奈良時代から平安初期にかけて唐風文化・漢文学が隆盛を誇ってゐたが、その後唐風文化を摂取しながらも日本の風土や生活感情を重視する国風文化が再興して来た。

 

文藝の面での国風文化再興が『萬葉集』への関心の高まりであった。その到達点が『古今和歌集』などの勅撰和歌集の編纂である。『古今和歌集』も最初は『續萬葉集』と呼ばれてゐた。

 

「勅撰和歌集」編纂は、国家行事、天皇の国家統治の主要な柱として行はれた。中古・中世の日本文藝史の中核に位置するのが「勅撰和歌集」である。

 

「勅撰和歌集」とは、天皇や上皇または法皇の命により、和歌を蒐集し、奏覧(天子に奏上して御覧に入れること)を経て公にされた和歌集のことである。基本的に編纂時の時代の和歌の秀作が、その時代のすぐれた歌人によって選択蒐集され編纂されたもので、編纂時の和歌の世界の秀歌集とされる。

 

宇多天皇の第一皇子・醍醐天皇の勅宣による『古今和歌集』(延喜五年【九〇五】成立)が最初で、『新続古今和歌集』(永享十一年【一四三九】成立)までの五三四年間に、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『続(しょく)後撰和歌集』『続古今和歌集』『続拾遺和歌集』『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』『風雅和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』といふ二十一の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」といふ。このほかに南朝で編纂された『新葉和歌集』を準勅撰集とする。尚、『萬葉集』も勅撰和歌集とする説もある。

 

「勅撰和歌集」の基本的性格は、その序文に示される。最初の勅撰和歌集・『古今和歌集』の序文には次のやうに書かれてゐる。「今すべらぎの天の下しろしめすこと四つの時、九のかへりになむなりぬる。あまねき御うつくしみの浪 八洲のほかまで流れ ひろき御めぐみのかげ 筑波山の麓よりもしげくおはしまして よろづのまつりごとをきこしめすいとま もろもろの事を捨てたまはぬあまりに いにしへのことをも忘れじ 古りにしことをも興したまふとて 今もみそなはし、後の世にも伝はれとて…」(今上陛下が、天下を統治され始めてから、四季が巡ることは九回を数へました。至らぬところなき御慈しみの波は、日本の島々の外にまで流れ、広い御恵みの陰は筑波山の麓にゐるよりも頻りでござゐます。多くの政治を執られるおひまをさいて、色々なことをお捨てにならない結果、古いことも再興しやうと、今もご覧になり、後世に伝へやうとて…)と記されてゐる。

 

醍醐天皇の御世が九年に及び、天皇の仁慈が広く天下に満ち満ちた時に、古き良き事を再興し、さらに後世に伝へやうといふ目的で、『古今和歌集』が編纂されたといふことである。他の勅撰和歌集もその基本的性格は同じである。

 

阿部正路氏は、「『今すべらぎの天の下しろしめすこと』が大切にされている…紀貫之がかかわった『新撰和歌集』や藤原清輔がかかわった『續詞花集』は、撰上される前に主上が崩御されたために勅撰和歌集とならなかった事実は、勅撰和歌集成立の絶対条件として『今すべらぎの天の下しろしめすこと』が欠かすことのできないものであることを物語る。今皇の御意志こそは、勅撰和歌集成立の最大の要件なのである」(『和歌文学発生史論』)と論じてゐる。

 

日本人の魂は、今、よすがなく彷徨っているやうに思へる。さまよへる魂を鎮め、鎮魂し、再生させる事が必要である。それは、言霊が籠り、天地(あめつち)を動かし目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせる「やまとうた」の復活によって実現すると信ずる。やまと歌・言霊の復活が大切である。今日においてまさに「国風文化」が復興しなければならない。今の時代に於いてこそ、特に「勅撰和歌集」が撰上されるべきと考える。

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2017年6月10日 (土)

辞世の歌に学ぶ

 

 この世を去るに臨み、自己の感懐を三十一文字に託して表白することは、日本古来の風儀である。これを辞世の歌という。「人の将に死せんとする、その言や善し」といわれて来た通り、人は死に臨んだ時こそ、その真心を訴え・魂の心底からの叫びを発するのである。死に望んだはそしてそれは多くの人々の共感を呼ぶ。

 

日本武尊の辞世

 

 本朝最古の辞世歌は、日本武尊の次の御歌である。

 

 嬢子(をとめ)の 床の辺(べ)に 吾( わ)が置きし その大刀はや

 

 命は東征の帰路、能煩野(のぼの・今日の三重県山中)に至って病が重くなりたまい、この歌を詠まれてお隠れになった。「乙女の床のそばに私が置いてきた太刀、その太刀よ」というほどの意。英雄にして大いなる歌人(うたびと)であられた命の辞世の歌にふさわしいロマンと勇者の世界が歌われている。文字通り「剣魂歌心」の御歌である。

 

大津皇子の辞世

 

 萬葉集に収められた辞世の歌でもっとも有名なのは、大津皇子の次の御歌である。

 

 百伝(ももづたふ)磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 

 天武天皇の第三皇子であられた大津皇子が、天武天皇崩御直後の朱鳥元年(六八六)、謀反の罪に問われ、死を賜った時の御歌である。「(百伝ふは枕詞)磐余の池に鳴く鴨を今日を見納めとして自分は死んで行くことであろう」というほどの意である。死に臨んでの再び見ることのできない光景に自らの全生命を集約させた歌いぶりで、詠むものに大きな感動を与える。「雲隠り」と詠んだところに、肉体は滅びても生命は永遠であるという日本人の伝統的な信仰が表れている。この信仰が「七生報国」の精神につながるのである。

 

楠木正行の辞世

 

 かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる

 

 これは、南朝の忠臣楠木正行が足利高氏の大軍を河内の四条畷に迎え撃ち、壮烈な戦死を遂げる直前、同志と共に、後醍醐天皇の吉野の御陵に参拝し、そのふもとにある如意輪堂の壁板に矢立硯で書き留めた辞世の一首で、再び生還しないという悲壮なる決定(けつじょう)を詠んだ歌である。この時正行は鬢の髪を少し切って仏殿に投げ入れ敵陣に向かったという。湊川楠公戦死の場面と、この正行最後の参内の場面とは、『太平記』の中でも最も人の心を動かし、涙をさそう段である。

 四條畷の戦いは、正平三年(一三四八)正月五日の早朝開始され、楠木勢は北進し、高師直の軍に肉迫し、師直もあわやと思われたのであったが、遂に楠木勢は力尽き、正行と舎弟正時とは立ちながら刺し違えて、同じ枕に臥したという。

 

吉田松陰の辞世

 

 幕末勤皇の志士の辞世の歌は数多い。その代表的な歌が、吉田松陰の次の歌であろう。 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 

 安政の大獄によって幕府に捕らえられた松陰は死罪の判決を受け、安政六年(一八五九)十月二十七日、従容として斬首の刑を受けたのである。松陰先生時に歳三十。先生は獄中において「親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何ときくらん」「呼び出しの声まつ外に今の世に待つべきことのなかりけるかな」という歌も詠まれている。さらに松陰は、

 

 吾今国ノ為ニ死ス 死シテ君親ニ背ズ 悠々タリ天地ノ事 鑑賞明神ニアリ

 

という詩も遺した。門下生は師・松陰の死に奮い立ち、その意志を継ぐべく、覚悟も新たに激動の時代を・維新回天の聖業に邁進するのである。

 

乃木大将御夫妻の辞世

 

 明治四十五年七月三十日暁、明治天皇は、御歳六十一歳をもって崩御あそばされた。後に軍神と仰がれた乃木希典大将は、大正元年九月十二日の御大葬当日、次のような遺言を書いて殉死をとげた。「自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ、自殺候段恐入候儀、其罪ハ不軽存候、然ル処、明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ、其後死処得度心掛候モ其機ヲ得ズ。皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候モ無余日候折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覚悟相定候事ニ候」と。乃木大将は今もって西南戦争の際の軍旗喪失の責任を感じ、皇恩の厚きに感謝している。そして、次のような辞世を遺された。

 

 うつし世を神さりましし大君のみあとしたひてわれはゆくなり

 

 神あかりあかりましぬる大君のみあとはるかにおろがみまつる

 

 さらに静子夫人も、

 

 いでましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢うふぞかなしき

 

 との辞世を遺して大将と行を共にされた。時に大将六十四歳、夫人は五十四歳であった。日本殉死史上最後の人といわれる。

 平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬で、小生は二重橋前にて、轜車をお見送り申し上げたのであるが、その時乃木静子夫人の辞世の歌が思い出され、涙が溢れて止どまらなかった。轜車の御出発はまさしく「かへります日」の無い御幸の御出発であったのである。        

 

三島由紀夫・森田必勝両烈士の辞世

 

 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾年耐へて今日の初霜

 

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

 昭和四十五年十一月二十五日午前十一時、楯の会隊長三島由紀夫氏と、隊員森田必勝氏、小賀正義氏、小川正洋氏、古賀浩靖氏の計六名は、東京市谷の自衛隊において、東部方面総監の身柄を拘束し、「自衛隊国軍化」「憲法改正」「道義建設」などを自衛隊員に訴えた。そしてその後、三島・森田両氏は壮烈な自決を遂げた。この二首はその時の三島氏の辞世の歌である。

 さらに、森田必勝氏は、

 

 今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは

 

 という辞世を詠んだ。戦後の自決事件でこれほど大きな衝撃をもたらしたものはない。三島氏は「散るをいとふ世にも人にもさきがけて」と詠んでおられる。戦後日本は、経済至上主義・営利至上主義の道をひたすら歩み続け、欺瞞的な平和主義にとっぷりとつかってきた。肉体生命以上の価値を認めず、誤れる「生命尊重」を標榜し、無上の価値即ち国のため・大君のため・大義のために潔く散る精神精神を忘却してしまったのである。かかる状況に耐えかねた三島・森田両氏等は「今こそ生命尊重以上の価値を諸君の目に見せてやる」(檄文)と訴えたのである。

 

 現代日本は、日本武尊・大津皇子・楠木正行・吉田松陰・乃木御夫妻・三島森田両烈士の自決の精神こそ「生命尊重以上の価値」であった。「物で栄えて心で滅びる」といった状況を呈しつつある今日こそ、そうした精神に回帰すべき時である。

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2017年5月30日 (火)

日本武尊は武人の典型であると共に詩人の典型であらせられた

 

 

本朝最古の辞世歌は、日本武尊の次の御歌である。

 

「嬢子(をとめ)の 床の辺(べ)に 吾( わ)が置きし その大刀はや」(乙女の床のそばに私が置いてきた太刀、その太刀よ、といふほどの意)

 

日本武尊が、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)に草薙の劔を預けて出発され、熊煩野(三重県亀山市といふ)で急病になられた時の辞世の御歌である。守護霊たる神剣を愛する美夜受姫に預け、病になってしまったご自分の命を見つめながら歌った哀切極まりない絶唱である。慎みの欠如・傲慢さから剣を置いて素手でも勝てると言って出発したのが間違ひのもとといふ物語である。

 

英雄にして大いなる歌人(うたびと)であられた日本武尊の辞世の歌にふさわしいロマンと勇者の世界が歌はれてゐる。文字通り「剣魂歌心」の御歌である。

 

この御歌は乙女への愛と武の心が渾然一體となってゐる。そしてその奥に天皇への戀闕の心がある。日本武尊の悲劇の根本にあるのは、武人の悲劇である。神との同居を失ひ、神を畏れなくなった日、神を失って行く一時期の悲劇である。

 

もののふのこころ・ますらをぶりとは、清明心と表裏一體の精神であり、天皇のため國のためにわが身を捧げるといふ「捨身無我」の雄々しい精神でもある。その精神の体現者が日本武尊であらせられる。「たけるのみこと」とは猛々しさを表す御名である。

 

日本武尊は、武士道精神の祖であらせられる。戦闘的恬澹・捨身無我の精神は後世の武士に強く生かされる。

 

日本武尊の御歌には、恋愛詩と英雄詩が一つに結合融和してゐる。この精神こそ、戦ひにも強く恋にも強い大和民族の原質的民族性で、日本武士道の本源となってゐる。日本武尊は、上代日本の武人の典型であると共に詩人の典型であらせられた。日本の英雄は歌を愛した。ますらをぶりは優美さを否定するものではない。

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2017年5月29日 (月)

維新と和歌 

 

 文藝特に和歌は、常に現状を変革しよりよき状態を憧憬するものである。維新の志から生まれるのが和歌である。和歌を詠む者に維新変革への志があってこそ価値が和歌としての価値が生まれる。和歌が真に、命・言靈のあるものとなるのは、その和歌を詠む者に維新変革の意志があることによる。現状に満足し変化を望まないといふ意味での平穏な暮らしの中からは和歌は生まれない。命が枯渇し言靈が失われた言語が氾濫する情報化時代の現代においてこのことは重要である。

 

 維新変革には悲劇と挫折を伴う。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳いあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。

 

 維新とは懸命なる戦いであるが、単なる破壊でも暴力でもない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。

 

 わが國の文藝史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都という大変革を背景として生まれた。

 

 在原業平に象徴される平安朝の和歌は、藤原氏の専横への抵抗から生まれて来たと言える。後鳥羽院の覇者・北條氏の武家政治に対する戦いの時代には『新古今和歌集』が生まれた。

 

 幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放っている。さらに東洋の解放を目指した大いなる戦いであった大東亜戦争に殉じた将兵たちの辞世の歌は、万人をして慟哭せしめる不滅の価値を持つ。このように國家変革即ち維新と和歌は不可分である。

 

 それらの歌は、なべて日本國の精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されているのである。

 

 とりわけ『萬葉集』は、日本の伝統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であった。その國難を打開し、天皇中心の新國家体制の確立をはかったのが、大化改新である。こうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國体の素晴らしさを美事に歌いあげたし、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されている。

 

 そして「萬葉の精神」は明治維新という大変革に大きな影響を及ぼした。明治維新も西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際会して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 

 幕末期の日本的ナショナリズムは萬葉の時代・建武中興の時代とりわけその時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついていた。つまり、萬葉の精神と楠公精神の謳歌である。

 

 江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなった。

 

 民族の歴史と伝統の精神を変革の原理とする日本の維新は、維新を志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新というのである。

 

 そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。なぜなら、いにしえから伝えられた「五・七・五・七・七」という形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝だからである。 

 

 今日の日本もまた文字通り内憂外患交々来るといった状況である。こうした状況の中にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴える「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が必要なのである。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴えるものとしての和歌を詠んでいる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力というものの偉大さを今こそ実感すべきである。

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2017年4月22日 (土)

日本の伝統的美感覚『みやび』について

伏見天皇

 

のどかにもやがてなり行くけしきかな昨日の日影けふの春雨

 

「のどかにやがてなってゆく景色であるなあ。昨日の日の光も今日の春雨も」というほどの意。

 

『玉葉和歌集』に収められている。『玉葉和歌集』は、鎌倉後期の歌集。二〇巻。伏見天皇の命により京極(藤原)為兼が撰。勅撰和歌集の一四番目。鎌倉室町期の勅撰集の中で、歌風の清新さにおいて『風雅和歌集』とともに高く評価される。

 

第九十二代・伏見天皇は、後深草天皇の第一皇子。建治元年(1275)、十一歳の時、大覚寺統の後宇多天皇の皇太子となり、弘安十年(1287)、二十三歳で践祚。永仁六年(1298)、御子の後伏見天皇に譲位、院政を行わせられる。御幼少期より和歌を好まれ、その後、弘安三年(1280)より出仕した京極為兼を師範とする。勅撰集編纂を企画し、応長元年(1311)、為兼に単独撰進を命ずる。正和元年(1312)、十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』として奏覧。正和二年(1313)、出家され院政を後伏見院に譲られる。文保元年(1317)九月三日、崩御(御年五十三歳)。

 

国家と国民の平安を祈りつつ天下を治められる伏見天皇は、ある日のどかに移ろい行く自然の姿を素直に肯定され、殊の外麗しいものと感じられたのであろう。その実感が大らかに歌われている。日本の自然をいつくしまれる天皇の御心が優しく伝わってくる。

 

伏見天皇の天皇としての品格は自然に歌柄に反映し、大らかなお歌となっている。歌われた風景は、天地自然のいのちの中に生かされている人間を生き生きと伝えている。

 

日本天皇は、このような優しく美しいお心を持たれる御方なのである。決して権力や武力で民を押さえつけて日本国を支配される方ではないのである。

 

この御製に歌われているような優しく麗しい美感覚を「みやび」と言う。「みやび」は、日本人の傳統的な美感覚・日本的情緒とされている。この美感覚は、萬葉集末期の天平時代に生まれ、中古・中世には美の理想されるようになった。

 

近世の國学者本居宣長は、「みやび」こそ日本の傳統的情緒であるとして、「すべて人は、雅の趣をしらでは有るべからず」「すべて神の道は…理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおほらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞよくこれにかなへり」(『うひ山ぶみ』)と言っている。

 

「みやび」とは、宮廷風で上品なことと定義される。洗練された風雅であり優美さである。言い換えると、素朴さ、未分化の美からさらに発展し、人事の洗練された美を追求し、それを自らの生活に知的技巧的に表現する態度である。それは恋愛や和歌の創作に具体的に表現された。自然や恋愛生活すら鑑賞的な態度で眺め、それを美しく表現した。

 

ただし、「みやび」は、単に平安時代における貴族的風流というよりも、宮廷において伝えられた日本の傳統美への憧れである。その根底には、天皇の祭祀があった。ただ、

 

光孝天皇御製

 

君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪はふりつつ

 

「あなたに贈ろうと思い、春の野に出て若菜を摘む私の手には雪が降りつづいている」といふほどの意。

 

一国の君主にしてこのように優しくも美しい歌を詠まれることに、外国の国王・皇帝とは全く異なる日本天皇の素晴らしさがある。自然をいつくし見つつ、愛するものへの思いやりとが渾然として一体になっている。この御歌も「みやび」を詠んだ典型といえる。

 

「みやび」は、萬葉歌人によっても歌われている。

 

大伴家持

うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独りしおもへば

 

山部赤人

春の野に菫摘みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける

 

明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ

 

これらの歌は、「ひやび」の窮極である評価されている。天平時代の美感覚が、その後の日本人の美の伝統の起源となったことを示す。紀貫之は赤人を高く評価し、平安時代には赤人の歌は「歌の理想」として尊ばれた。中古中世の日本人にとって和歌とは、人々の魂の表白・訴えであると共に、人々の生活の美的規範ともなった。その規範が「ひやび」であったと言える。

 

優雅にして品格のある美感覚を今日にまで継承されているご存在が皇室である。

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2017年4月 9日 (日)

和歌と維新

和歌の勉強をしている時が、一番心が落ち着きます。また心清められる思いがします。和歌の勉強をし、歌を詠むことが、人生の喜びであります。

 

明治維新の歴史を見ると、うたごころ・萬葉集への回帰が、日本的変革=維新の原点でありました。神武建国の昔に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではありませんでした。日本の道統への回帰でした。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になるのです。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味であると思います。

 

 ゆえに、明治維新において日本人の精神即ち『やまとごころ』の表白であるやまと歌が生まれたのです。明治維新を命懸けで戦った人々は多くのすぐれた歌をのこした。

 

明治維新は日本民族の魂の甦りです。そこにやまと歌が生まれるのは必然であります。現代における維新もやまとうたの甦りと一体であらねばなりません。

 

 愛國尊皇維新の眞心を張りつめた精神で訴えんとする時、やはり日本傳統の文學形式即ち和歌で表現されることが多かったのです。漢詩にもすぐれたものもありますが、和歌が日本人の真心を表現するのに最も適した文芸であるからでありましょう。

 

 明治維新において神武建國への回帰が新しい日本建設の基本理念になった如く、現代維新も復古即革新が基本である。日本の大いなる道と大いなる命にいかに目覚めるかが、今日の変革の基本です。

 

その意味において、現代において維新を目指す者は、明治維新を目指して戦った先人たちの志を自己自身の上に回想しわが血を沸き立たせることが大切なのだと思います。そのためにも先人たちの詠んだ詩歌を學ぶべきであります。

 

 

近代においてわが國にも共産主義革命思想が流入し、共産主義革命運動が起りました。しかし、共産主義革命運動においては、美しい日本の歌は決して生まれませんでした。共産主義革命は日本の道統を否定した変革だからでありましょう

 

民族の歴史と傳統の精神を変革の原理とする維新は、それを志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現します。これを復古即革新即ち維新と言います。

 

そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのであります。

 

いにしえから傳へられた「五・七・五・七・七」という表現形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝であります。

 

現代日本においても和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ないと思います。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではありません。維新を目指すわれわれは、和歌の力・言靈の力の偉大さを今こそ実感すべきです。

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2017年4月 4日 (火)

維 新 と 和 歌

 

 

 文藝特に和歌は、常に現状を変革しよりよき状態を憧憬するものである。維新の志から生まれるのが和歌である。和歌を詠む者に維新変革への志があってこそ価値が和歌としての価値が生まれる。和歌が真に、命・言靈のあるものとなるのは、その和歌を詠む者に維新変革の意志があることによる。

 

 現状に満足し変化を望まない暮らしの中からは和歌は生まれない。命が枯渇し言靈が失われた言語が氾濫する情報化時代の現代においてこのことは重要である。

 

 維新変革には悲劇と挫折を伴う。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳いあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。

 

 維新とは懸命なる戦いであるが、単なる破壊でも暴力でもない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。

 

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都という大変革を背景として生まれた。

 

 在原業平に象徴される平安朝の和歌は、藤原氏の専横への抵抗、そして当時横溢していた支那風文化への抵抗から生まれて来たと言える。後鳥羽院の覇者・北條氏の武家政治に対する戦いの時代には『新古今和歌集』が生まれた。

 

 幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放っている。さらに東洋の解放を目指した大いなる戦いであった大東亜戦争に殉じた将兵たちの辞世の歌は、万人をして慟哭せしめる不滅の価値を持つ。このように國家変革即ち維新と和歌は不可分である。

 

 それらの歌は、なべて日本國の精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されているのである。

 

 とりわけ『萬葉集』は、日本の伝統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であった。その國難を打開し、天皇中心の新國家体制の確立をはかったのが、大化改新である。こうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國体の素晴らしさを美事に歌いあげたし、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されている。そして「萬葉の精神」は明治維新という大変革に大きな影響を及ぼした。

 

明治維新は、西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際会して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 

 幕末期の日本的ナショナリズムは萬葉の時代・建武中興の時代とりわけその時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついていた。それが、萬葉の精神と楠公精神の謳歌である。

 

江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなった。

 

 民族の歴史と伝統の精神を変革の原理とする日本の維新は、維新を志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新というのである。

 

そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。なぜなら、いにしえから伝えられた「五・七・五・七・七」という形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝だからである。 

 

今日の日本も文字通り内憂外患交々来るといった状況である。こうした状況の中にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴える「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が必要なのである。

 

現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴えるものとしての和歌を詠んでいる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力というものの偉大さを今こそ実感すべきである。

 

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2017年3月31日 (金)

この頃詠みし歌

          

 

わが母は我の手を握り眠りたまふいかに愛しきその寝顔かな

 

眼もうつろになりたまひたるわが母をなすすべもなく見つめゐるのみ

 

点滴も酸素吸入も効果なくつひに逝きたりわが母上は

 

全くも意識なくなりしわが母のみ顔に近づき声かけてゐる

 

肉体はよし滅びても魂はとことはなりと母を祈れり

 

素晴らしき安住の地にわが母はのぼりましたり春浅き日に

 

父も母もこの世を去りて我一人生きてゆくなりさみしけれども

 

食欲が減退してゆくわが母に不安の思ひをつのらせし日々

 

先祖の御霊に経誦しまつり今日もまた我のひと日は終らむとする

 

九十七歳を目前にして逝きませし母の生みし子は古希迎へたり

 

七十歳となりにし夜に九十七歳で逝きたる母の御霊拝ろがむ

 

我を生み育てたまひしわが母の御霊拝ろがむ古稀迎へし日

 

彼岸会に父母の御霊の前に座し經誦しまつる静かなる時

 

母の友が二人来りて花を供へ手を合はせくれし春の朝かな

 

春風が吹き来る丘に鎮まれる四宮家の墓に花供へたり

 

春彼岸先祖の墓に手を合はせ御守護を祈る時清々し

 

春の風に紫煙流るる墓所の前先祖の御霊に祈り捧げる

 

春の雨やわらかに降る町を歩み母を恋ほしむ心切なり

 

わが父と同じ戦地で戦ひし宮柊二氏の歌を讀みゐる

 

通ひ行きし施設にはもう母は居まさずわが部屋に白き骨壺がある

 

事務的に臨終を告げる医師の言葉聞きつつ無念の思ひ湧き来る

 

永遠に生きたまへといふわが祈り空しくなりし二月二十六日

 

父母の御霊は永久に生きたまひわれを守らすと信じ生き行く

 

佳き人よりの便り有難し母の逝去を悼みてわれを慰めくれぬ

 

            ○

百薬の長と気違ひ水との価値判断どちらも真実と思ひつつゐる

 

部屋内に積み上げられし雑誌新聞如何にせんかと溜息をつく

 

キャンキャンと声張りあげるをみなあり蓮舫といふ厭はしきかな

 

空見上げわが町に銭湯の煙突がなくなりし事をさみしみてをり

 

はるかなる過去となりたり郡上踊り見つつ過ごせし旅の思ひ出

 

さみしげな響きに聞こえし郡上踊り歌の友らと聞きし思ひ出

 

エスカレーターで登り来たりし丘の上小さき美術館を経巡りてをり(泉屋博古館分館)

 

すれ違ひし知り人は気が付かぬふりをして去り行きにける地下鉄のホーム

 

朝日影まぶしく光るを仰ぎつつ祝詞唱ふる朝清々し

 

窓の外に鳥が来ることなくなりてややにさみしき思ひするなり

 

爽やかに生きたきものを人の世の荒波激し昨日も今日も

 

佳き人の握りし寿司を頬張りて今日のひと日の喜びとする

 

渇きたる日々続き来て雨降ればわが心こそうるほひにけり

 

パス待てどなかなか来ない夕暮にベンチに腰掛け人通りを見る

 

待てば必ずバスは来たるに何とてか焦る心を持て余しゐる

 

久しぶりに会ひたる友と春の日の下で楽しく語らひにけり

 

春の日の光あまねき神苑に友と語らふひと時ぞ良し

 

靖國の宮の館の講堂で般若心経を誦する不思議さ

 

若き僧侶が靖國の宮で講演す山岡鉄舟を語らむがため

 

何となく心しほれて過ごしゐる夜のしじまの温風機の音

 

愛らしき幼子の笑顔の汚れなさわが腹を叩き喜びてゐる

 

幼子の無垢なる笑顔を見つめつつ新しき命を寿ぎてゐる

 

汚れなき幼子の笑みは疲れたる我の心を慰めくれる

 

幼き命これからこの世を生きてゆく幸多かれとただに祈れり

 

春の雨降りしきる夜にタクシーを待てど来らぬ春日町の角

 

春雨に濡れて歩めば昔見し芝居の台詞を思ひ出しをり

 

あざやかな新国劇の大殺陣を父上と見しは半世紀前

 

父上に連れられ行きし明治座で新国劇を見し遠き思ひ出

 

浜町明治座島田辰巳の立ち回り今も鮮やかに目に浮かび来る

 

今日もまた机に向かひものを書くわが生活は恙なくして

 

新しき朝日の光眩しくてわが身を照らすさきはへの時

 

チュチュチュチュと鳴き声立てて小さき木に群がる雀を愛ほしみつつ見る

 

春の日の巷の樹木にチュチュと鳴く雀の群れの愛ほしさかな

 

三分咲きの桜の木々を眺めつつ谷中の町を急ぎ歩めり

 

春の風そよそよと吹く真昼間に友と語らふひと時ぞ良し

 

懐かしき人々の顔が浮かび来る早春の日の午後のまどろみ

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