2017年10月30日 (月)

舎人皇子の「ますらをふり」の戀歌

 

舎人皇子の御歌

                            

ますらをや 片戀せむと 嘆けども 醜(しこ)のますらを なほ戀にけり

 

舎人皇子が舎人娘子に贈った「ますらをぶり」の戀歌。舎人皇子は、天武天皇第三皇子。天武天皇四年(六七六)~天平七年(七三五)。第四七代・淳仁天皇の父君。勅を奉じて『日本書紀』を選進した責任者であられる。薨去後、太政大臣を贈られた。舎人娘子は、伝未詳。

 

【ますらをや片戀せむ】ヤは反語(本来の意味とは反対の意味を含ませる表現法。多くは疑問の形で、例へば「これが嘆かずにいられるか」のやうに表す)。「堂々たる日本男児たるもの片思ひなどするものか」といふ意。自嘲的響きもある。「醜のますらを」は自己嫌悪感を表現してゐる。自分の不甲斐なさを嘆くと共に、戀心を表白してゐる。

 

 通釈は、「堂々たる日本男児たる者片戀などするものかと嘆いても、みっともない男児である私はやはり戀してしまふ」といふほどの意。

 

 日本男児たる者、常に國家を心に置き、大君に仕へ奉るべきだとするのが、この時代の男性の心意気であった。それなのに一人の女性に戀々とする自分自身を恥じて「醜の」と詠んだ。

 

 また、日本男児の戀は、女性から愛されて結ばれるのがあるべきなのだが、戀の相手がなかなか私のことを思ってくれないみっともない私はさうはいかない、といふ自嘲的な気持も込められてゐる。

 

 ただし、この歌は相手の女性に贈った歌であるから、本心から自分のことを「不甲斐ない奴」と思ってゐたわけではないし、自分の戀を嘆いてゐるわけでもない。また「醜」とは現代語の醜いとはやや違った意味であって、「かたくなに」「強い」といふ意味もある。防人の歌に「今日よりはかへりみなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」(今日以後他の一切を顧慮することなく、卑しき身ながら大君の御楯となって出発します。私は)といふ歌がある。

 

 この歌はもちろん相手の女性(舎人娘子)に訴へかけた戀歌であるが、「片戀」といふ言葉以外に直接的に相手に訴へかける言葉はない。しかし、それだけにこの歌を受け取る女性にとっては、「これほどまでに私のことを戀ひ慕って下さるのか」といふ心を起こさせる歌である。またそれを期待して詠んだ歌であるとも言へる。

 

 『萬葉集』とは「ますらをぶり」の歌集であると、近世(江戸中期)國學者の賀茂真淵が主張した。「ますらをぶり」とは、「男らしく」「日本男児らしく」といふほどの意で、「男性的で大らかな歌風」のことをいふ。さらに、『古今和歌集』は以後の歌風を「たをやめぶり」(女性的で優雅な歌風)と言った。『萬葉集』の「ますらをぶり」の歌とは、この舎人皇子の御歌や防人の歌などがその典型である。

 

 そして、真淵は「ますらをぶり」とは大和の國を都とした時代(白鳳・天平時代)即ち萬葉時代の歌風であり、「たをやめぶり」は京都の文化であるとした。しかし、『萬葉集』を「ますらをぶり」だけの歌集だとすることはできない。大伴家持の歌などにはむしろ平安朝の歌風に近い歌も数多くある。

 

 それはともかく、賀茂真淵は、和歌は「すめらみくにの上つ世の姿」、つまり萬葉時代に帰らなければならないと主張した。「ますらをぶり」の精神風土を尊重しなければいけないとした。それは平安時代以来続いた「たをやめぶり」への反発であった。

 

 真淵は現在の静岡県出身であり、東國の人であった。そして、徳川吉宗の子の田安宗武の和歌の師であったので、武家の美學を昂揚させようとして、「ますらをぶり」「萬葉ぶり」の復活を唱へたと思はれる。

 

 しかし、賀茂真淵の弟子の本居宣長は、『源氏物語』を高く評価し、「たをやめぶり」も日本の文化の大切な流れであるとした。

 

 武士が政権を壟断するやうになると、儒教の影響からか、武士たるもの、戀愛を文學にしてはならないといふやうな風潮が生まれた。語ってもいけないといはれた。「男女の愛」を文や歌に表現することは武士のやることではないとされるやうになった。

 

 しかし、神話時代や古代日本においては、武士の元祖のやうな方であられる須佐之男命や日本武尊は、戦ひの歌・「ますらをぶり」の歌と共に、戀愛の歌を大いに歌はれた。天智天皇・天武天皇そして藤原鎌足も戀歌を歌った。

 

 わが國のますらをは大いに戀愛をし、戀を歌った。須佐之男命が妻を娶られた時の喜びの歌である「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」(多くの雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を作る。ああその八重垣よ、といふほどの意)は、和歌の発祥とされてゐる。

 

 古事記・萬葉の世界では、「武」「歌」「戀」の三つは一体なのである。わが國文學は戀愛が大きな位置を占める。男女の愛情を尊んだ。『萬葉集』の戀愛歌・相聞歌を見ればそれは明らかである。

 

舎人娘子、和へ奉れる歌

 

歎きつつ ますらをのこの 戀ふれこそ わが結()ふ髪の 漬()ぢてぬれけれ

 

 舎人娘子が舎人皇子に答へ奉った歌。皇子の名の「舎人」は乳母の氏の名であらうと見られるので、舎人娘子は舎人皇子の乳母兄弟であらうといふ説がある。

 【歎きつつ】嘆き続けて。【ますらをのこ】「ますらを」に「をのこ」を付けた言葉。【戀ふれこそ】「戀ふればこそ」。【漬ぢてぬれけれ】「ヒツ」は「水に漬かったやうにびしょり濡れる」。「ヌル」は「ひとりでにゆるんで解ける」。上の句は下の句の原因を歌ってゐる。

 

 通釈は、「嘆き続け、ますらをのあなたが戀をするからこそ、私の結った髪が濡れてほどけたのですね」といふほどの意。

 

 古代には「結んだ紐や結った髪がひとりでに解けるのは、誰かに戀されてゐるしるしだ」といふ民間信仰があった。

 

 この二首はお互ひの気持ちを十分に了解し合った中における贈答歌。しかし離れて住んでゐたので、舎人皇子は愛の切なさを「片戀」といふ言葉で表現したのであらう。

 

 娘子は、皇子の力強い愛の表白に満足し幸福感にひたってこの歌を返した。押さへがたい男女の愛を豊かに表現してゐる。しかし、軽薄に流れてはゐない。

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2017年10月 5日 (木)

『おごるなよ 月の丸さも ただ一夜』

本日は、満月であった。

夜空を見上げるとまんまるの月が煌々と照り輝いていた。暫くそれを眺めていた。そして次の歌を思ひ出した。

 

『たゞよへる 雲の彼方に まんまるに 澄み切る月ぞ わが相(すがた)なり』谷口雅春

 

『おごるなよ 月の丸さも ただ一夜』仙崖義梵

 

『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたる事も なしと思へば』藤原道長

 

谷口雅春氏の歌は、人間は本来神の子であり完全円満であるといふ生長の家の教義を詠んだ歌である。仙崖義梵は江戸時代の名僧で、これは、人間は謙虚さが大切であるといふことを詠んだ句である。藤原道長の歌はあまりにも有名であるが、好きな歌ではない。

 

個人的体験を述べれば、私が中學生の時に読んだ谷口雅春氏の著書『若人のための七八章』といふ本に「『たゞよへる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが相(すがた)なり』これは或る晩、月を眺めながら私の詠んだ歌であります。…雲が暗澹とたれ込めているように見えておっても…ほんとうはお月様に雲がかかったことはないのであります。實は地球に雲がかかっているために、この地球から見るからお月様に雲がかかっているように見えている。お月様のほんとうの相(すがた)、すなわち、實相は圓満玲瓏としてどこにも雲がかかっていないので、これがほんとうの相、すなわち實相というものであります。われわれの生命の實相、すなわち生命のほんとうの相というものは、實に圓満玲瓏なるものであって、いまだかつて雲がかかったことがない。…實相のほか何もない。…見えるすがたの奥にほんとうのお月様があるように、ほんとうの完全な生命(いのち)がある」と書かれてあった。

 

私が「月」を主題とする歌を讀んだのはこの文章が最初であったかと思ふ。

 

日本人は上代から今日に至るまで、月を愛で、月を拝み、月を歌って来た

お月様、お日様、お星様といふ言葉がある。日本人は自然を尊び愛し敬意を持ってゐることの証しする言葉である。英語にかういふ表現があるのであらうか。「ミスター・ムーン」「ミス・サン」「ミスター・スター」といふ言葉はないのではないか。

 

日本人は歌や俳句によく「月」を詠む。日・月・星の中でも、月が最も日本人に親しまれて来たと思はれる。日常生活において、「月」は最も親しい自然景物なのではないか。

 

月讀命は、神話物語に一回しか登場せず、全國の神社に祀られることは少なかったが、「月」は日本人の愛され続けてきた。日本人は「月」をこよなく愛した。古代以来、國民一人一人が生活の中で「月」に親しんできた。だらこそ、あらためて「神やしろ」に神として祀ることがなかったのでなからうか。

 

月讀命が神やしろに祀られることが比較的少なく、且つ、月讀命が神話物語にも一回しか登場しないにもかかはらず、『萬葉集』から現代日本の歌・歌謡に至るまで、「月」を題材とした作品は数多い。これは實に不思議である。「神としての月」はあまり祀られないのに、「月」そのものは古代から現代に至るまで日本人に親しまれ、愛され続けてゐる。

 

月を眺めて楽しむことを「月見」と言ふ。「月見」は、主に旧暦八月十五日から十六日の夜(八月十五夜)に行はれる。野口雨情作詞・本居長世作曲『十五夜お月さん』といふ童謡もある。この夜の月を「中秋の名月」と言ふ。

 

折口信夫氏は次のやうに論じてゐる。「月見の行事の心の底には、昔から傳ってゐるお月様を神様と感じる心が殘ってゐる。さういふ風に昔の人が、月夜見命などゝいふ神典の上の神とは別に、月の神を感じて居り、その月の神に花をさしあげるのが、月見といふのです。月見はお月さんのまつりのことです。……神が天から降りて來られる時、村里には如何にも目につく様に花が立てられて居り、そこを目じるしとして降りて來られるのです。昔の人はめいめいの信仰で自分自身の家へ神が來られるものと信じて、目につくやうに花を飾る訣なのです」(『日本美』)

 

この折口氏の論述で注目されるのは、日本人の多くは、月夜見命といふ神典の上の神とは別に、月の神を感じていたとしてゐることである。これは一体どういふことか。

 

上代から今日に至るまで、日本人は月を愛で、月を拝み、月を歌って来た。しかしそれは、『記紀』に登場する「月夜見命」を拝んだり祭ったり歌ったりしてきてゐるのではなく「めいめいの信仰」で神と仰いだと、折口氏は言ふのである。

 

自然は美しい。特に「月」は、日本人に愛されてゐる。歌に俳句によく詠まれる。月が人間にやすらぎを与へるからであらう。月の不可思議な光は、恋に悩めるものを慰め、労はってくれる。それは日本人特有の信仰精神と美意識に深くかかはる。古来日本人は、夜空に浮かぶ月を見て格別の詩情をそそられ、月もまた何事かを地上の人間に語りかけて来た。われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどといふ傲慢な考へ方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。自然に宿る神々に畏敬の念を持つことが大切である。

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2017年9月28日 (木)

日本人の言靈信仰が「やまと歌」を生んだ

日本人の伝統精神がやまと歌の形で表現されている日本最大の歌集『萬葉集』には「言霊」「事霊」といふ言葉が数多く出て来る。

 

『萬葉集』の原文には、「言霊」を「事霊」と書いてゐる歌がある。萬葉人にとって「言」と「事」は一体であった。これを「言事不二」と言ふ。言葉は事物そのものであるといふことであり、さらに言へば、全ての存在が言葉であるといふことである。

 

谷口雅春師は次のやうに説いてゐる。「日本的思惟に従うならば、日本人は『存在』の根元を神より發したものとしてこれを把える。日本人には『存在』はコト()であり、神はミコトであり、ミコトとは御言(みこと)であり、〝言事不二〟であり、命を漢字にて表現するのに『命』(いのち)なる文字をもってをする。存在の根本生命であるものは〝コトバ〟であることを直感的に知ってゐのだが日本民族なのである」(『古事記と現代の預言』)

 

日本民族は「ことば」を大切にし、「ことば」に不可思議にして靈的な力があると信じ、言葉を神聖視した。言葉に内在する霊的力が人の幸不幸を左右すると信じた。日本には「一言主神」といふ神様もをられる。この神様は、「吾は悪事も一言、善事も一言、言ひ離(さか)つ神。葛城の一言主の大神なり」(『古事記』)といふ神である。

 

山口悌治氏は「言霊信仰は、一言でいへば、善き言葉を述べれば善き事が現れ、悪しき言葉を吐けば禍ひを招く――といふ信仰に基いてゐる。われわれの先祖は、明るく清く美しい言葉をもって神々を祭り、日月万象を仰ぎ、国土を讃め、五穀の豊穣を祈り、すべてに感謝し、善き言葉の幸(さき)はへを信じて、言霊の幸はふ國と称へて来たのである。そして悪しき言葉を忌み慎んで来たのである」(『万葉の世界と精神』 後篇)と論じてゐる。

 

わが國は「言靈のさきはふ國」と言はれる。「日本は言葉の靈が豊かに栄える國である」といふ意味である。日本人は、言葉に靈が宿ると信じ、言葉は生命を持ち、言葉を唱へることによってその靈力が発揮されると信じた。わが國においては、「ことば」は何よりも大切な神への捧げものとされた。神様に祝詞を唱え、仏様のお経をあげるといふ宗教行為も、言葉に霊的な力があると信じてゐるから行はれるのである。

 

折口信夫氏は、「(言靈信仰とは)古くから傳ってゐる言葉の持ってゐる靈力・魂といふものを考へてゐるのであり、それが言靈、つまり言語の精靈である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・靈魂があると考へた。それが言靈である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の靈魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる靈魂が働きかけると信じてゐたのである」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

紀貫之が執筆した『古今和歌集』の「仮名序」に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」と書かれてゐる。

 

「御託宣」「神示」は神靈が籠り神威が表白された言葉である。「祝詞」は人間が神への訴へかけた言葉であり、「歌」も人間の魂の他者への訴へである。「祝詞」にも「やまと歌」にも靈が込められてゐる。「祝詞」を唱えへ「やまと歌」を歌ふと、そこに宿る言靈が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言靈の幸はふ」といふことである。

 

折口信夫氏は、「日本の詞は霊妙不可思議な作用を持って居て、短歌や其外總べての文学はそこに生まれて来ます。…一つの文章を唱へると其詞章の中に潜んで居る一種霊的な精神がそれを唱へかけられた人に働きかけるのです。或は人でなくても自然一般の現象でも構ひません。言語精霊が不思議な作用を表すといふことが言霊がさきはふといふ意です。それを一所懸命失はないやうに伝承して来たのが日本文学の始まりです」(『神道の改革』)と論じてゐる。

 

神に対してだけでなく、恋人や親や死者や自然や国土など他者に対する魂の訴へかけが、日本文藝の起源である。日本人の言靈信仰が「やまと歌」を生んだのである。日本古典の全てが、言霊の文学と言っても良いのである。その言霊によって護られ栄ゆく国が日本国なのである。

 

さらに戦ひの時においても、「言霊の力」は大いなる力を発揮する。景行天皇が、日本武尊に東国の荒ぶる神どもをば「言向け和せ」と命じられた。言霊を発することによって相手を平定せよといふご命令である。相手に対して発した言霊は、相手の魂を和らげるのである。つまり、敵対して来る者たちの魂を和ましめるのが言霊である。

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2017年9月 4日 (月)

天皇・皇室と和歌

 

和歌は、傳統の継承と創造とが一體となっている文藝である。歌を詠む人は、先人の和歌を手本として學ぶ。和歌の原点を常に顧みながら新しい創造を行なってきた。ここに和歌文學の特質がある。日本人は傳統の継承から創造を學んだ。和歌はその典型である。

 

これは、皇位継承・伊勢の神宮の御遷宮と相似である。日本天皇の肉身はやがてお隠れになられるが、皇位は不滅であり皇統連綿であり萬世一系である。先帝がお隠れになると新帝が即位の大典を執行され大嘗祭を行はれる。それによって、新しき玉體であらせられながら邇邇藝命以来の靈統を継承される。伊勢の皇大神宮は、御祭神の天照大御神の御神靈は永遠であるが、神殿は二十年ごとに造り替へられる。

 

永遠の傳統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふのが、わが國の皇位であり、伊勢の神宮であり、和歌なのである。これは他國には見られないわが日本の特質である。まさにわが國體は萬邦無比なのである。

 

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが國に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

 

天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は和歌と切り離し難く一體である。天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されるのである。

 

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

 

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに御歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

 

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

 

中河与一氏は「和歌が國風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた日本回帰の文化の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本に於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって維新の情念を傳統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。

 

和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとして和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ實感すべきである。

 

そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を學ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2017年9月 2日 (土)

伏見天皇御製に歌われた「みやび」

 

伏見天皇御製 

 

 

 

むつきのはじめつかた雨ふる日よませ給うける 

 

 

 

のどかにも やがてなり行く けしきかな 昨日の日影 けふの春雨

 

 

 

「のどかにやがてなってゆく景色であるなあ。昨日の日の光も今日の春雨も」というほどの意。

 

 

 

「むつき」(睦月)は陰暦正月の異名。睦び月。この御製は『玉葉和歌集』に収められている。『玉葉和歌集』は、鎌倉後期の歌集。二〇巻。伏見天皇の命により京極(藤原)為兼が撰。勅撰和歌集の第一四番目。鎌倉室町期の勅撰集の中で、歌風の清新さにおいて『風雅和歌集』とともに高く評価される。

 

 

 

第九十二代・伏見天皇は、後深草天皇の第一皇子。建治元年(1275)、御年十一歳のとき、後宇多天皇の皇太子となり、弘安十年(1287)、御年二十三歳で践祚。永仁六年(1298)、御子の後伏見天皇に譲位、院政を敷かれた。御幼少の頃よりより和歌を好まれ、その後、弘安三年(1280)より出仕した京極為兼を師範とする。勅撰集編纂を企画し、応長元年(1311)、為兼に単独撰進を命ぜられた。正和元年(1312)、十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』として奏覧。正和二年(1313)に出家され、院政を後伏見院に譲られる。文保元年(1317)九月三日、崩御(御年五十三歳)。

 

 

 

国家と国民の平安を祈りつつ天下を治められる伏見天皇は、ある日、のどかに移ろい行く自然の姿を素直に肯定され、殊の外麗しいものと感じられたのであろう。その実感が大らかに歌われている。日本の自然をいつくしまれる天皇の大御心が優しく伝わってくる。

 

 

 

伏見天皇の上御一人としてのご品格は自然に歌柄に反映し、大らかなお歌となっている。歌はれた風景は、天地自然のいのちの中に生かされている人間を生き生きと伝えている。

 

 

 

自由で柔軟な歌で、自然を慈しまれる天皇のみ心がよく表現されている。日本の天皇様は、このような優しく美しいお心を持たれる御方なのである。決して権力や武力で民を押さえつけて日本国を支配される方ではないのである。

 

 

 

この御製に歌われているような優しく麗しい美感覚を「みやび」という。「みやび」は、日本人の傳統的な美感覚・日本的情緒とされている。この美感覚は、萬葉集末期の天平時代に生まれ、中古・中世には美の理想されるようになった。

 

 

 

近世の國学者本居宣長は「みやび」こそ日本の傳統的情緒であるとして、「すべて人は、雅の趣をしらでは有るべからず」「すべて神の道は…理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおほらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞよくこれにかなへり」(『うひ山ぶみ』)と言っている。

 

 

 

「みやび」とは、宮廷風で上品なことと定義される。洗練された風雅であり優美さである。言い換えると、素朴さ、未分化の美からさらに発展し、人事の洗練された美を追求し、それを自らの生活に知的技巧的に表現する態度である。それは恋愛や和歌の創作に具体的に表現された。自然や恋愛生活すら鑑賞的な態度で眺め、それを美しく表現した。

 

 

 

ただし、「みやび」は、単に平安時代における貴族的風流というよりも、宮廷において伝えられた日本の傳統美への憧れである。その根底には、天皇の祭祀があった。

 

 

 

「みやび」は、萬葉歌人によっても歌われている。

 

 

 

大伴家持

 

「うらうらに 照れる春日に 雲雀(ひばり)あがり 情(こころ)悲しも独りしおもへば」

 

 

 

山部赤人

 

「春の野に 菫(すみれ)摘みにと 来し吾ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」

 

 

 

「明日よりは 春菜(はるな)摘まむと 標()めし野に 昨日も今日も雪は降りつつ」

 

 

 

これらの歌は、「ひやび」の窮極であると評価されている。天平時代の美感覚が、その後の日本人の美の伝統の起源となったことを示している。

 

 

 

紀貫之は山部赤人を高く評価し、平安時代には赤人の歌は「歌の理想」として尊ばれた。中古中世の日本人にとって和歌とは、人々の魂の表白・訴えであると共に、人々の生活の美的規範ともなった。その規範が「ひやび」であったといえる。

 

 

 

日本の傳統美への回帰とは原始・粗野の時代に帰ることではない。優雅にして品格のある美感覚への回帰である。みやびの伝統を今日にまで継承されているご存在が皇室である。

 

 

 

 

 

 

 

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2017年8月29日 (火)

中河与一と柿本人麿

 中河与一は、「ある小説(注・「愛戀無限」)の中に人麿の歌を引き、それが機縁となって、私は再び萬葉集の中に這入ってしまった。この驚嘆すべき歌集の中にこそ、日本人の本當の藝術と生き方とがある事をいよいよ信念しだしたからである。」(「萬葉の精神」昭和十二年)と述べてゐる。

 

それは、近代日本文学の自然主義・リアリズムを否定するものとしての「萬葉への回帰」であった。天皇から東国庶民にいたるまでの古代日本人の歌がおさめられてゐる「萬葉集」には、日本民族の古代精神がおほらかにうたひあげられてゐる。

 

中河与一は「萬葉人はギリシア人と同じく、人間生活を肯定し、神を尊敬し、慾望を讃美し、佛教思想の影響はあっても、直情によって戀愛し、悲しみ、現實を生き、とりわけ美と共にあることを何よりも誇りとした。燦然たる唐文化の影響を烈しく吸収しながらその中に最も日本的な性格を屹立した」(「萬葉の精神」)と論じた。

 

そして、柿本人麻呂の

 

「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」

 

といふ歌を讃美して次のやうに説く。「雄大の響鳴、哀婉の思慕、湧きあがる自然への人格的合同、現人神としての天智天皇によせたつまつる尊崇の同情、そのリズムの中にある美しさには、堪へがたいまでの嘆きが呼吸してゐる。誠に彼等こそは美を中心として生活し、思想し、政治し、歌ったやうに思はれる。それ故に天皇より庶民にいたるまでが、二十巻の歌集に同居して楽しげに殘り、吾々をして、その時代を思はすのである。私は今日の文學が何よりも取りかへさなければならならぬものは、萬葉にあった精神であると思ってゐる。」(「萬葉の精神」)。

 

 「淡海の海」は琵琶湖。「夕波千鳥」は人麻呂の造語で、夕波の上を飛んでゐる千鳥。「心もしのに」のは「しのに」は、ぐったりして・しほれる意。心の奥処に向かって沈んで行く沈痛な悲しみを表現してゐる。「いにしへ」とは、行ってしまった彼方といふ意で、近江の朝廷が盛んであった頃すなはち天智天皇の御代のこと。

 

 通釈は、「近江の海の夕波千鳥よ。お前が鳴くと、心のうちひしがれて過ぎにし昔ことが偲ばれるなあ」といふ意。

 

「ミ」「ナ」の言霊によって調べが生きてゐる。夕波千鳥はの色は白色であった思はれる。琵琶湖の波の上に白い千鳥が鳴きながら飛んでゐる。琵琶湖の薄暮も白のイメージである。さうした寂しさ・喪失観・漂泊感が實によく歌はれてゐる。 

 

 上の句はすべて名詞である。そして「汝が鳴けば」と対象に呼び掛けて包み込んでゐる。ここにこの歌の技巧の素晴らしさがある。悲痛の深さ、切實さがよく出て、荘重な調べとなり、慟哭となってゐる。 

 

名詞を二つ並べた表現の後に、「汝が鳴けば」と千鳥に呼び掛ける主情的表現を置いて、冷たい湖上の景色を心の中に包み込んでしまふところにこの歌の良さがある。

 

冷たく寂しい湖の景色を心の中に包み込んで、「いにしへ」への思ひを歌ってゐる。湖上の千鳥はさういふ悲しい思ひの表象である。人麻呂の名歌の一つ。

 湖畔に佇みながら夕波千鳥の姿を見て感動を覚へ、懐旧の情を歌った。中河与一が説く「湧きあがる自然への人格的合同」の歌であり、斎藤茂吉のいふ「實相観入・自然観入」の歌であると思ふ。「淡海の海」と「夕波千鳥」と作者である人麻呂が、対立せず一體になってゐる。                                   

 

歌ってゐる内容はきはめて重々しく沈鬱なのだが、しらべは余情を伴った心地よいものとなってゐる。

 

これらの人麻呂の歌の背景には「壬申の乱」といふ歴史がある。だからこそ人麻呂の心は深く切なるものとなってゐるのである。「壬申の乱」によって滅びてしまった近江の都への懐旧の情・悲しみが歌はれてゐる。

 

琵琶湖のことをある人は「悲しみの器」と表現した。日本人の悲しみの涙がたまってゐる器といふ意味であらう。琵琶湖はまさに悲しみの歴史を綴ってゐる。湖畔にあった近江朝廷は「壬申の乱」で滅びた。木曽義仲も琵琶湖畔で討ち死にする。織田信長に滅ぼされた浅井長政の居城だった小谷城も琵琶湖畔にあった。秀吉に滅ぼされた豊臣秀次の居城だった長浜城も琵琶湖畔にあった。琵琶湖畔には「滅びの歴史」が綴られてをり、中河言ふやうに「堪へがたいまでの嘆きが呼吸してゐる」のである。

 

中河与一の「萬葉への回帰」は、愛と永遠を志向し、現實以上のものを求める中河の浪漫精神である。中河は「萬葉の精神」への回帰に「近代の超克」「現実の救済」を見出したのであった。

 

「萬葉への回帰」によって西洋から流入したイデオロギーとしての「近代合理主義」「必然論」「無神論」による汚濁を救はむとする中河与一の姿勢は、反近代の民族的躍動であり文芸及び思想の革新であった。

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2017年6月13日 (火)

短歌の起源は素戔鳴尊の御歌

短歌の起源は素戔鳴尊の御歌

 

『古今和歌集』「仮名序」に、「人の世となりて すさのをの命よりぞ 三十文字あまり一文字はよみける すさのをの命は… 出雲の国に宮造りしたまふ時に  そのところに八色の雲の立つを見て よみたまへるなり」と記されている。

 

三十一字の短歌の始まりは、素戔鳴尊(伊邪那岐命・伊邪那美命の御子神。天照大神の弟神)の 

 

「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣つくる その八重垣を」

(多くの雲が立ちのぼる、その出雲の幾重もの垣に囲まれた宮殿よ。妻を中に籠もらせるために幾重もの垣を作る。その幾重もの垣に囲まれた宮殿よ)

 

であると『古今和歌集』の「仮名序」は述べているのである。

 

素戔嗚尊は高天原から出雲の國に天降られた後、八岐大蛇(やまたのおろち・身が一つで頭と尾が八つある大蛇。出雲國の斐伊川上流にいたという)を退治され、大蛇に食べられようとしていた櫛名田比売(くしなだひめ)を助けられた。その比売を妻にして共に住まはれる須賀の宮を造営された時に、雲が立ちのぼった時に詠まれた御歌である。妻を獲得した喜びを素直に力強く吐露している。「魂の訴え」という「歌」の語源そのままの歌であり、内容的にもまさに「歌の起源」である。

 

このように短歌形式は神話時代から始まっているのである。この御歌は、伝承として歌の起源とされるだけでなく、歌われた時代が実際に非常に古い形式の歌とされる。

 

中西進氏は、「(素戔鳴尊の御歌は)一句が五音・七音にととのえられ、全體も短歌形式のものなので、作られた時代がずっと後だといわれている。そのとおりであるが、しかしだからといって祖形まで否定することはできない。むしろ新しい形をもっているのは、長い間歌いつがれた証拠であって、祖形はたいそう古いものというべきである」(『神々と人間』)と論じている。

 

「やまと歌」は日本民族のまごころの調べである。人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であり、それが自然にある声調を生み、五七五七七の定型詩=和歌を生み出したのである。

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2017年6月11日 (日)

勅撰和歌集編纂は文藝の面での国風文化再興の到達点

 

奈良時代から平安初期にかけて唐風文化・漢文学が隆盛を誇ってゐたが、その後唐風文化を摂取しながらも日本の風土や生活感情を重視する国風文化が再興して来た。

 

文藝の面での国風文化再興が『萬葉集』への関心の高まりであった。その到達点が『古今和歌集』などの勅撰和歌集の編纂である。『古今和歌集』も最初は『續萬葉集』と呼ばれてゐた。

 

「勅撰和歌集」編纂は、国家行事、天皇の国家統治の主要な柱として行はれた。中古・中世の日本文藝史の中核に位置するのが「勅撰和歌集」である。

 

「勅撰和歌集」とは、天皇や上皇または法皇の命により、和歌を蒐集し、奏覧(天子に奏上して御覧に入れること)を経て公にされた和歌集のことである。基本的に編纂時の時代の和歌の秀作が、その時代のすぐれた歌人によって選択蒐集され編纂されたもので、編纂時の和歌の世界の秀歌集とされる。

 

宇多天皇の第一皇子・醍醐天皇の勅宣による『古今和歌集』(延喜五年【九〇五】成立)が最初で、『新続古今和歌集』(永享十一年【一四三九】成立)までの五三四年間に、『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『続(しょく)後撰和歌集』『続古今和歌集』『続拾遺和歌集』『新後撰和歌集』『玉葉和歌集』『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』『風雅和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』『新後拾遺和歌集』『新続古今和歌集』といふ二十一の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」といふ。このほかに南朝で編纂された『新葉和歌集』を準勅撰集とする。尚、『萬葉集』も勅撰和歌集とする説もある。

 

「勅撰和歌集」の基本的性格は、その序文に示される。最初の勅撰和歌集・『古今和歌集』の序文には次のやうに書かれてゐる。「今すべらぎの天の下しろしめすこと四つの時、九のかへりになむなりぬる。あまねき御うつくしみの浪 八洲のほかまで流れ ひろき御めぐみのかげ 筑波山の麓よりもしげくおはしまして よろづのまつりごとをきこしめすいとま もろもろの事を捨てたまはぬあまりに いにしへのことをも忘れじ 古りにしことをも興したまふとて 今もみそなはし、後の世にも伝はれとて…」(今上陛下が、天下を統治され始めてから、四季が巡ることは九回を数へました。至らぬところなき御慈しみの波は、日本の島々の外にまで流れ、広い御恵みの陰は筑波山の麓にゐるよりも頻りでござゐます。多くの政治を執られるおひまをさいて、色々なことをお捨てにならない結果、古いことも再興しやうと、今もご覧になり、後世に伝へやうとて…)と記されてゐる。

 

醍醐天皇の御世が九年に及び、天皇の仁慈が広く天下に満ち満ちた時に、古き良き事を再興し、さらに後世に伝へやうといふ目的で、『古今和歌集』が編纂されたといふことである。他の勅撰和歌集もその基本的性格は同じである。

 

阿部正路氏は、「『今すべらぎの天の下しろしめすこと』が大切にされている…紀貫之がかかわった『新撰和歌集』や藤原清輔がかかわった『續詞花集』は、撰上される前に主上が崩御されたために勅撰和歌集とならなかった事実は、勅撰和歌集成立の絶対条件として『今すべらぎの天の下しろしめすこと』が欠かすことのできないものであることを物語る。今皇の御意志こそは、勅撰和歌集成立の最大の要件なのである」(『和歌文学発生史論』)と論じてゐる。

 

日本人の魂は、今、よすがなく彷徨っているやうに思へる。さまよへる魂を鎮め、鎮魂し、再生させる事が必要である。それは、言霊が籠り、天地(あめつち)を動かし目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせる「やまとうた」の復活によって実現すると信ずる。やまと歌・言霊の復活が大切である。今日においてまさに「国風文化」が復興しなければならない。今の時代に於いてこそ、特に「勅撰和歌集」が撰上されるべきと考える。

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2017年6月10日 (土)

辞世の歌に学ぶ

 

 この世を去るに臨み、自己の感懐を三十一文字に託して表白することは、日本古来の風儀である。これを辞世の歌という。「人の将に死せんとする、その言や善し」といわれて来た通り、人は死に臨んだ時こそ、その真心を訴え・魂の心底からの叫びを発するのである。死に望んだはそしてそれは多くの人々の共感を呼ぶ。

 

日本武尊の辞世

 

 本朝最古の辞世歌は、日本武尊の次の御歌である。

 

 嬢子(をとめ)の 床の辺(べ)に 吾( わ)が置きし その大刀はや

 

 命は東征の帰路、能煩野(のぼの・今日の三重県山中)に至って病が重くなりたまい、この歌を詠まれてお隠れになった。「乙女の床のそばに私が置いてきた太刀、その太刀よ」というほどの意。英雄にして大いなる歌人(うたびと)であられた命の辞世の歌にふさわしいロマンと勇者の世界が歌われている。文字通り「剣魂歌心」の御歌である。

 

大津皇子の辞世

 

 萬葉集に収められた辞世の歌でもっとも有名なのは、大津皇子の次の御歌である。

 

 百伝(ももづたふ)磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 

 天武天皇の第三皇子であられた大津皇子が、天武天皇崩御直後の朱鳥元年(六八六)、謀反の罪に問われ、死を賜った時の御歌である。「(百伝ふは枕詞)磐余の池に鳴く鴨を今日を見納めとして自分は死んで行くことであろう」というほどの意である。死に臨んでの再び見ることのできない光景に自らの全生命を集約させた歌いぶりで、詠むものに大きな感動を与える。「雲隠り」と詠んだところに、肉体は滅びても生命は永遠であるという日本人の伝統的な信仰が表れている。この信仰が「七生報国」の精神につながるのである。

 

楠木正行の辞世

 

 かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる

 

 これは、南朝の忠臣楠木正行が足利高氏の大軍を河内の四条畷に迎え撃ち、壮烈な戦死を遂げる直前、同志と共に、後醍醐天皇の吉野の御陵に参拝し、そのふもとにある如意輪堂の壁板に矢立硯で書き留めた辞世の一首で、再び生還しないという悲壮なる決定(けつじょう)を詠んだ歌である。この時正行は鬢の髪を少し切って仏殿に投げ入れ敵陣に向かったという。湊川楠公戦死の場面と、この正行最後の参内の場面とは、『太平記』の中でも最も人の心を動かし、涙をさそう段である。

 四條畷の戦いは、正平三年(一三四八)正月五日の早朝開始され、楠木勢は北進し、高師直の軍に肉迫し、師直もあわやと思われたのであったが、遂に楠木勢は力尽き、正行と舎弟正時とは立ちながら刺し違えて、同じ枕に臥したという。

 

吉田松陰の辞世

 

 幕末勤皇の志士の辞世の歌は数多い。その代表的な歌が、吉田松陰の次の歌であろう。 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

 

 安政の大獄によって幕府に捕らえられた松陰は死罪の判決を受け、安政六年(一八五九)十月二十七日、従容として斬首の刑を受けたのである。松陰先生時に歳三十。先生は獄中において「親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何ときくらん」「呼び出しの声まつ外に今の世に待つべきことのなかりけるかな」という歌も詠まれている。さらに松陰は、

 

 吾今国ノ為ニ死ス 死シテ君親ニ背ズ 悠々タリ天地ノ事 鑑賞明神ニアリ

 

という詩も遺した。門下生は師・松陰の死に奮い立ち、その意志を継ぐべく、覚悟も新たに激動の時代を・維新回天の聖業に邁進するのである。

 

乃木大将御夫妻の辞世

 

 明治四十五年七月三十日暁、明治天皇は、御歳六十一歳をもって崩御あそばされた。後に軍神と仰がれた乃木希典大将は、大正元年九月十二日の御大葬当日、次のような遺言を書いて殉死をとげた。「自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ、自殺候段恐入候儀、其罪ハ不軽存候、然ル処、明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ、其後死処得度心掛候モ其機ヲ得ズ。皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候モ無余日候折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覚悟相定候事ニ候」と。乃木大将は今もって西南戦争の際の軍旗喪失の責任を感じ、皇恩の厚きに感謝している。そして、次のような辞世を遺された。

 

 うつし世を神さりましし大君のみあとしたひてわれはゆくなり

 

 神あかりあかりましぬる大君のみあとはるかにおろがみまつる

 

 さらに静子夫人も、

 

 いでましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢うふぞかなしき

 

 との辞世を遺して大将と行を共にされた。時に大将六十四歳、夫人は五十四歳であった。日本殉死史上最後の人といわれる。

 平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬で、小生は二重橋前にて、轜車をお見送り申し上げたのであるが、その時乃木静子夫人の辞世の歌が思い出され、涙が溢れて止どまらなかった。轜車の御出発はまさしく「かへります日」の無い御幸の御出発であったのである。        

 

三島由紀夫・森田必勝両烈士の辞世

 

 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾年耐へて今日の初霜

 

 散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

 

 昭和四十五年十一月二十五日午前十一時、楯の会隊長三島由紀夫氏と、隊員森田必勝氏、小賀正義氏、小川正洋氏、古賀浩靖氏の計六名は、東京市谷の自衛隊において、東部方面総監の身柄を拘束し、「自衛隊国軍化」「憲法改正」「道義建設」などを自衛隊員に訴えた。そしてその後、三島・森田両氏は壮烈な自決を遂げた。この二首はその時の三島氏の辞世の歌である。

 さらに、森田必勝氏は、

 

 今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは

 

 という辞世を詠んだ。戦後の自決事件でこれほど大きな衝撃をもたらしたものはない。三島氏は「散るをいとふ世にも人にもさきがけて」と詠んでおられる。戦後日本は、経済至上主義・営利至上主義の道をひたすら歩み続け、欺瞞的な平和主義にとっぷりとつかってきた。肉体生命以上の価値を認めず、誤れる「生命尊重」を標榜し、無上の価値即ち国のため・大君のため・大義のために潔く散る精神精神を忘却してしまったのである。かかる状況に耐えかねた三島・森田両氏等は「今こそ生命尊重以上の価値を諸君の目に見せてやる」(檄文)と訴えたのである。

 

 現代日本は、日本武尊・大津皇子・楠木正行・吉田松陰・乃木御夫妻・三島森田両烈士の自決の精神こそ「生命尊重以上の価値」であった。「物で栄えて心で滅びる」といった状況を呈しつつある今日こそ、そうした精神に回帰すべき時である。

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2017年5月30日 (火)

日本武尊は武人の典型であると共に詩人の典型であらせられた

 

 

本朝最古の辞世歌は、日本武尊の次の御歌である。

 

「嬢子(をとめ)の 床の辺(べ)に 吾( わ)が置きし その大刀はや」(乙女の床のそばに私が置いてきた太刀、その太刀よ、といふほどの意)

 

日本武尊が、尾張で結ばれた美夜受姫(みやずひめ)に草薙の劔を預けて出発され、熊煩野(三重県亀山市といふ)で急病になられた時の辞世の御歌である。守護霊たる神剣を愛する美夜受姫に預け、病になってしまったご自分の命を見つめながら歌った哀切極まりない絶唱である。慎みの欠如・傲慢さから剣を置いて素手でも勝てると言って出発したのが間違ひのもとといふ物語である。

 

英雄にして大いなる歌人(うたびと)であられた日本武尊の辞世の歌にふさわしいロマンと勇者の世界が歌はれてゐる。文字通り「剣魂歌心」の御歌である。

 

この御歌は乙女への愛と武の心が渾然一體となってゐる。そしてその奥に天皇への戀闕の心がある。日本武尊の悲劇の根本にあるのは、武人の悲劇である。神との同居を失ひ、神を畏れなくなった日、神を失って行く一時期の悲劇である。

 

もののふのこころ・ますらをぶりとは、清明心と表裏一體の精神であり、天皇のため國のためにわが身を捧げるといふ「捨身無我」の雄々しい精神でもある。その精神の体現者が日本武尊であらせられる。「たけるのみこと」とは猛々しさを表す御名である。

 

日本武尊は、武士道精神の祖であらせられる。戦闘的恬澹・捨身無我の精神は後世の武士に強く生かされる。

 

日本武尊の御歌には、恋愛詩と英雄詩が一つに結合融和してゐる。この精神こそ、戦ひにも強く恋にも強い大和民族の原質的民族性で、日本武士道の本源となってゐる。日本武尊は、上代日本の武人の典型であると共に詩人の典型であらせられた。日本の英雄は歌を愛した。ますらをぶりは優美さを否定するものではない。

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