2018年10月13日 (土)

今上陛下御製を拝し奉りて

「天皇陛下は皇居で祭祀を行はせられてゐればいい」といふ主張は、『國見』の意義を正しく理解してゐない主張であると思ふ。まして、たとへ國體護持、尊皇の思ひからの主張であっても、臣下國民による「天皇は皇居にゐて頂くだけで良い」といふ発言に接すると、大きな違和感を覚える。

 

『朝日新聞』本年五月二十二日号に次の記事が掲載された。「二〇一一年の東日本大震災発生の一九日後、天皇、皇后両陛下の被災地見舞いは三月三〇日、福島県から東京に避難した人々が身を寄せていた東京武道館から始まった。…石原慎太郎氏が都知事として迎えた。翌一二年に心臓手術をする陛下の健康状態を知り『被災地は若い男宮の皇太子、秋篠宮両殿下を名代に差し向けてはいかがでしょう』と進言した。陛下は黙って聞いていたが、被災者見舞いを終えて武道館を出るとき、石原氏に歩み寄り、こう告げた。『石原さん、東北は、私が自分で行きます』。それまで石原氏は、首都の知事でありながら、園遊會や宮中晩餐會にあまり顔を出さなかった。珍しく両陛下を迎えた石原氏は陛下の言葉にあぜんとし、絶句した。その後、考えを変えた。『あれから東北三県に行かれて、みな感動した。行っていただいてよかった』と。両陛下は、大きな災害が起きるたびに被災地を訪れ、被災者を見舞った」。

 

石原慎太郎氏は、ナショナリストではあるが、尊皇精神は稀薄な人であった。しかし、今上陛下の民を思はれる仁慈の大御心に、石原氏は大きな感動を覚えたのである。まことに有難き事實である。

 

今上陛下は、一昨年八月八日の「お言葉」で

 

「私が天皇の位についてから,ほぼ二八年,この間私は,我が國における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず國民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」

 

と仰せになった。

 

「國民の安寧と幸福を祈る」とはまさに宮中祭祀の御事であり、「國民の傍らに立ち國民の声に耳を傾け國民の思ひに寄り添ふ」とはまさに『御巡幸』『國見』の御事であると拝する。今上陛下は古代以来の天皇のご使命を果たして来られたのである。

 

今上天皇御製 平成十五年歌會始 「町」

我が國の 旅重ねきて 思ふかな 年経る毎に 町はととのふ

 

平成十六年歌會始 「幸」

人々の 幸願ひつつ 國の内 めぐりきたりて 十五年経つ

 

平成二十四年歌會始 「岸」

津波来()し 時の岸辺は 如何なりしと 見下ろす海は 青く静まる 

 

昭和三十四年四月十日、当時中学一年生であった私は、テレビで中継されていた宮中三殿賢所において執行された「結婚の儀」を拝した。その荘重さ、神々しさに感激したことを覚えている。そして印象に残ったのは、当時日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎氏が、参列者の一人として賢所にかしこまって座っていたことである。

 

いかなる政治的立場・宗教的立場に立とうとも、敬神崇祖・尊皇愛国は、日本国民の共通の国民精神である。今日の日本の混迷を救う基礎は、敬神崇祖・尊皇愛国の精神の回復である。

 

天皇には『私』をお持ちにならない。ひたすら民やすかれ、国安かれと祈られる。今上天皇様の宮中祭祀への情熱は御歴代を超えられるものがある。新嘗祭は衣冠束帯で二時間正座される。『天皇とは祭り主であらせられる』の一言に尽きる。

 

今上天皇が「祭」について詠ませられた御製を掲げさせていただく。

 

昭和三十二年

歌会始御題 ともしび

ともしびの静かにもゆる神嘉殿(しんかでん)琴はじきうたふ声ひくくひびく

 

昭和三十四年

結婚の儀を終へ伊勢神宮に参拝

木にかげる参道を来て垣内(かきうち)なり新しき宮に朝日かがやく

 

昭和四十五年

新嘗祭

松明(たいまつ)の火に照らされてすのこの上歩を進め行く古(いにしへ)思ひて

 

新嘗(にいなめ)の祭始まりぬ神嘉殿ひちきりの音静かに流るととあわ

 

ひちきりの音と合せて歌ふ声しじまの中に低くたゆたふ

 

歌ふ声静まりて聞ゆこの時に告文(つげぶみ)読ますおほどかなる御声(みこえ)

 

 

昭和四十九年

歌会始御題 朝

神殿へすのこの上をすすみ行く年の始の空白み初む

 

昭和五十年

歌会始御題 祭り

神あそびの歌流るるなか告文(つげぶみ)の御声聞え来新嘗の夜

 

 

平成二年

大嘗祭

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ 

 

平成十七年

歳旦祭

明け初むる賢(かしこ)(どころ)の庭の面()は雪積む中にかがり火赤し

 

平成十七年

歳旦祭

明け初むる賢所(かしこどころ)の庭の面()は雪積む中にかがり火赤し

 

平成六年

豊受大神宮参拝

白石(しらいし)を踏み進みゆく我が前に光に映()えて新宮(にひみや)は立つ

 

平成二年

大嘗祭

父君のにひなめまつりしのびつつ我がおほにへのまつり行なふ

 

戦争直後の、戦勝国による皇室弱体化策謀は、六十年を経た今日、花開き実を結びつつあると言っても過言ではない。まことに由々しきことである。しかし、神の御加護は必ずある。これまでの国史を顧みても、「壬申の乱」「南北朝の争乱」など大変な危機的状況を克服してきた。日本皇室は永遠であり、皇統はまさに天壌無窮である。われわれ日本国民は、そのことを固く信じつつ、その信の上に立って、最近特に巧妙になってきた國體隠蔽・國體破壊の策謀を断固として粉砕していかねばならない。

 

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2018年10月 9日 (火)

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠

吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ

吉村寅太郎

 

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠である。吉野から東吉野村の丹生川上神社中社を目指して行くと、鷲家谷といふところにさしかかる。道路に面して左側に「天誅組終焉之地」と刻まれた石碑が建ってゐる。また、「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠」と題してこの歌の歌碑も建てられてゐる。

 

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公卿と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携し長州藩の協力を得て「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。これは、孝明天皇が神武天皇御陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現するといふ計画であったといふ。

 

八月十三日、朝廷より攘夷御親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成され、河内國の村役人らの参加を得て大和國で挙兵した。大和國五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。
 

しかし、「大和行幸・攘夷御親征」は、孝明天皇の御心ではなく、在京諸藩主に反対も多かったといふ。特に會津・薩摩両藩の間で意思統一が行はれ、「大和行幸の詔」は、孝明天皇の御本意ではなかったとして、八月十八日未明、大和行幸の延期が決定された。これにより、攘夷親征の先鋒を以て任じた天誅組は逆に「朝見を憚らず、勅諚を唱へ候段、國家の乱賊にて、朝廷より仰せつけられ候者には之無く候間、草々討ち取り鎮静これあるべく」(朝廷よりの京都守護職への達示)と断じられる存在となり、幕府軍の追討を受けることとなった。

 

天誅組は、吉野山間を転戦し、悪戦苦闘一か月、残った四十士によって、同年九月二十四日から二十七日にかけて彦根と紀州の藩兵を相手に最後の決戦が行はれ、三総裁以下十五人の志士が戦死した。鷲家谷はこの大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

 

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐる。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

 

吉村寅太郎は、天保八年(一八三七)生まれの土佐國土佐郡津野山郷の庄屋の家に生まれる。城下に出て武市半平太に剣を学び尊攘思想に傾倒する。文久元年(一八六一)土佐勤王党に加盟。文久二年京都に出て、同志と図り尊皇攘夷運動に挺身した。

 

吉村寅太郎は、天誅組に中心人物の一人として参画した。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受け歩行困難となったが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、駕籠で担がれ東吉野村木津川より山を越え、最後の決戦地・鷲家谷までたどり着いた。

 

かかる戦ひのさなか、明日をも知れぬ命を思ひ、吉村寅太郎が詠んだ歌が次の歌である。

 

「曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと」

 

吉村寅太郎は、文久三年九月二十七日、鷲家谷にて、幕府方藤堂藩兵の銃弾によって二十六歳で最期を遂げた。凄惨なる戦ひが行はれた旧暦九月二十日過ぎと言へば晩秋である。このあたりの山々は見事に紅葉してゐたのであらう。散る間際の紅葉は、戦ひの時に寅太郎が敵を刀で討った時に迸った真紅の血潮の色に見えたのであらう。何とも凄まじい歌、凄惨な歌ではあるが、不思議と残虐さは感じられない。むしろ潔い戦闘精神が感じられる。

 

寅太郎が脱藩して上京する際、母上が寅太郎に贈った歌が、

 

「四方に名を揚げつつ帰れ帰らずばおくれざりしと母

に知らせよ」

 

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に

 

最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」

を實感させる歌である。

 

吉村寅太郎は、明治二四年(一八八一)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

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2018年8月20日 (月)

與謝野晶子のロマン精神の歌

 

海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女(をとめ)となりし父母(ちちはは)の家

與謝野晶子

 

「海が恋しい。潮騒が遠くで鳴り響いているのを聞きながら育ち乙女となった父母の家が恋しい」というほどの意。

 

『恋衣』の中の一首。初出『明星』明治三十七年(一九〇四)八月号。晶子二十七歳の時の作。明治三十四年に上京し、東京での生活が約三年経過した時の歌。

 

與謝野晶子は、大阪堺の出身。本名晶(しょう)。旧姓鳳。寛の妻。新詩社に加わり「明星」に詩歌を発表。大胆な官能の解放を歌い、その奔放で情熱的な作風は浪漫主義運動に一時代を画し、また、古典の研究にも業績を残した。著書は、「みだれ髪」「小扇」「白桜集」「新訳源氏物語」など。明治十一年(一八七八)~昭和十七年(一九四二)

 

「父母の家」とは、泉州堺の故郷の家のことである。晶子は、「海恋し」の初句切れによって少女時代への懐旧の情をロマン的に強く叙している。晶子にとって望郷の念とはすなわち海への憧れであった。

「父母の家」で聞いていた潮騒の音を東京で思い出し、懐かしく思っているのである。

 

潮騒の音と望郷の思いと一体化させるという文芸感覚は、当時においては新鮮であった。「海」は、『古事記』『萬葉集』によく登場したが、中古・中世では「海」を主題とする文藝は少なくなった。遣唐使派遣が行われなくなり、海外に行く人も減った中古時代以降、日本人は海との接触が少なくなったからであろうか。

 

「海」を歌うというのは、近代日本におけるロマン精神の開花であり、新しい時代の新しい文藝感覚である。それは同時に「古事記・萬葉時代」への回帰でもあった。

 

日本人は太古から自分が今生きている世界とは異なる世界すなわち異郷への憧れの心・「他界」へのロマン精神を持っていた。日本人は、遠くはるかな水平線の彼方に聖なる神々の世界があると信じた。その世界を「常世」「妣(はは)の国」という。そこは不老長寿の世界であり、創造の本源世界と信じられた。龍宮界伝説はその典型である。「海」は「生み」に通じるのである。

 

この歌は、望郷の念を歌うと共に、「父母の家」と歌うことによって、日本人が古来から持っている「常世」「妣の国」=生命の本源への回帰・永遠の世界への憧れの思いが自然に表白されているのである。

 

與謝野晶子の歌風は、自由奔放であった。文字通り「自由なる人永久に海を愛さむ」(ボードレール・近代フランスの詩人)なのである。

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2018年8月 6日 (月)

亀山上皇御製を拝し奉りて

 

亀山天皇御製

 

「春(弘安御百首)

よもの海 浪をさまりて 長閑(のどか)なる 我が日の本に 春は來にけり

 

世のためも 風をさまれと 思ふかな 花のみやこの 春のあけぼの」

 

「石清水の社に御幸ありし時よませ給うける

石清水 たえぬながれは 身にうけて 吾が世の末を 神にまかせむ」

 

「神祇の心を詠ませ給うける

今もなほ 久しく守れ ちはやぶる 神の瑞垣(みづがき) 世々をかさねて」

 

「神祇

ゆくすゑも さぞなさかえむ 誓あれば 神の國なる 我が國ぞかし」

 

 

第九十代亀山天皇は、第八十八代・後嵯峨天皇の第七皇子、御名は恒仁。正元元年十一月二十六日(一二六〇年一月九日)御即位。文永十一年一月二六日(一二七四年三月六日)に皇子・後宇多天皇に譲位し、院政を始められた。『続拾遺集』の選進を命じられるなど和歌・漢詩文の興隆に御心を尽くされた。嘉元三年(一三〇五)に御年五十七歳で崩御された。

 

鎌倉時代には、二回の元寇・蒙古襲来が起こった。第一回の「文永の役」に際して、後深草上皇は、文永八年十月二五日に石清水八幡宮へ行幸されて異國調伏(ちょうぶく・内外の悪を打破すること。特に怨敵・魔物を降伏すること)を祈願された。十一月六日に蒙古軍撤退の知らせがもたらされると、八日に、亀山上皇は石清水八幡宮へ御自ら行幸され徹夜して勝利と國土安穏の感謝の祈りを捧げられた。翌九日には賀茂・北野両社へも行幸された。

 

二度目の「弘安の役」においても、朝廷から全國の二十二社への奉幣と異國調伏の祈祷の命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所において公卿殿上人、北面武士による「般若心経」三十萬巻の転讀などの祈祷が行はれた。亀山上皇はさらに、弘安四年六月石清水八幡宮に参籠され、六月四日には、「不断最勝王経」等を修して敵國調伏を祈祷され、七月一日には「仁王経」等を転讀され、七月四日には「一切経」を転讀され、敵國降伏を祈願あそばされた。

 

さらに、亀山上皇は、弘安四年六月、異國降伏御祈願のために勅使を伊勢大神宮に発遣せられ、宸筆の御願文を奉られた。

 

『増鏡』巻十二「老のなみ」には次のやうに記されてゐる。「伊勢の勅使に経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、眞讀(注・しんどく。経典を省略しないで全部讀むこと)の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、『我御代にしもかゝる亂出で來て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき』よし、御手づから書かせ給ひける…七月一日(注・閏)おびたゞしき大風吹きて、異國の船六萬艘、つは物のりて筑紫へよりたる、みな吹破()られぬれば、或は水に沈み、をのづから殘れるも、泣く泣く本國へ歸にけり。…さて為氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申をくりける。

 

勅として祈しるしの神かぜによせくる浪はかつくだけつつ 

 

かくて静まりぬれば、京にも東(あづま)にも、御心どもおちゐて、めでたさかぎりなし」

 

当時の日本國民は、亀山上皇の命懸けの御祈願を神仏が嘉され蒙古軍が玄界灘の底の藻屑と消えたと信じた。

 

元寇に際して、日本天皇の御命懸けの御祈祷を拝し奉り、日本國は「現御神日本天皇を君主と仰ぎ天地の神々が護り給ふ神の國」であるといふ「神國思想」が勃興し、まさに挙國一致で戦ひ、蒙古軍を二度にわたって撃退した。元寇は、まさに有史以来未曽有の國難であった。そしてその大國難を打開したのは、上御一人日本天皇の深い祈りと、日本國民の尊皇精神・神國思想であった。

 

國民唱歌『元寇』

「四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る/十萬余騎の敵 /國難ここに見る /弘安四年夏の頃」「天は怒りて海は /逆巻く大浪に /國に仇をなす /十余萬の蒙古勢は /底の藻屑と消えて /残るは唯三人(ただみたり) /いつしか雲はれて /玄界灘 月清し」

 

内憂外患交々来たるといった状況の今こそ、日本國民はこの唱歌の心意気を発揮しなければならない。

 亀山上皇の御徳をお慕ひして、福岡市の東公園には、亀山上皇の御尊像が建てられてゐる。また福岡の筥崎宮には、亀山上皇御宸筆と云はれる勅額「敵國降伏)の御文字が掲げられてゐる。

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2018年8月 2日 (木)

明治天皇御製に学ぶ―やまと歌の本質

明治天皇御製

 

ことのはのまことのみちを月花のもてあそびとはおもはざらなむ

 

明治四十年、御歳五十六歳の砌、 『述懐』と題された御製である。

 

「ことのはのまことのみち」とは、やまと歌のことである。日本人にとって歌を詠むとは、ただ単に花鳥風月の美を愛で、それを五七五七七の歌にするといふ遊びでは決してない、といふ事を教へられた御製である。

 

徳川幕府が、朝廷に対する規制的意図を持って制定した『禁中並びに公家諸法度』(別名『禁中方御条目十七箇条』)に「和歌は、光孝天皇より未だ絶えず、綺語たりと雖も、我が國の習俗なり。棄て置くべからず」などと記されてゐる。

 

「綺語」とは、美しく表現した言葉といふ意味であると共に、仏教の「十悪」の一つで真実に反して飾り立てた言葉といふ意味である。徳川幕府は、やまと歌をまさに「月花のもてあそび」と思ってゐたのである。徳川幕府が、和歌といふ日本伝統文学に対する理解がいかに浅かったかを証明してゐる文言である。

 

『禁中並びに公家諸法度』は、徳川家康が黒衣の宰相といはれた悪名高い金地院崇伝(世人から「大欲山気根院僭上寺悪國師」とあだ名されたといふ)に命じて起草させた。わが國和歌の道統について正しい理解がないのは当然といふべきである。明治天皇のこの御製は、『禁中並びに公家諸法度』を厳しく批判された御歌と拝することが可能である。

 

明治天皇は、同じ年、『歌』と題されて、

 

「まごころをうたひあげたる言の葉はひとたびきけばわすれざりけり」

 

と詠ませられてゐる。

 

また、明治三十七年には、『歌』と題されて、

 

「世の中のことあるときはみな人もまことの歌をよみいでにけり」

「天地をうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」

 

と詠ませられてゐる。

 

これらの御製は、やまと歌の本質について歌はれてゐる。和歌は決して遊びごとでもないし単なる美辞麗句を連ねたものでもない。まさに「まごころをうたひあげたる言の葉」なのであり、「世の中のことあるときによみいでる」ものなのであり「天地をうごかす」力を持つものである。神代の昔に発生し日本の道統を継承する最高の文藝が和歌である。

 

『古今和歌集・仮名序』(紀貫之)に「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

 

歌の語源は「訴へる」である。物事に感動して何事かを訴へた声調・調べ(音律の調子を合わせ整へること)のある言葉を歌といふ。そして、五七五七七といふ一定の形式と調べが自然に生まれた。

 

日本國民の心・思想・精神は、和歌によって表白せられ傳承されて来た。幕末維新期の志士の歌などを見てもそれは明白である。 

 

わが國は元寇・明治維新・大東亜戦争など國家的危機の時に尊皇愛國の精神が燃え上がった。そしてやまと歌が勃興した。それが『萬葉集』であり、幕末維新の志士の歌であり、大東亜戦争で散華した英靈の歌である。

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2018年7月26日 (木)

後鳥羽上皇御製

 

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

 

 

「人が愛しくも思はれ、また恨めしく思はれる。味気ない世の中だと思ふが故に、悩んでゐるこの私には」

 

『後鳥羽院御集』に収められてゐる。

 

【あぢきなく】形容詞「あぢきなし」の連用形で、「思ふようにならない」「面白くない」「理想通りではない」といふ意。【世を思ふ】世間・天下のことを思ひわずらふといふ意。【もの思ふ】自分の心に沸き上がるさまざまな思ひのこと。

 

後鳥羽上皇は、武家政権たる鎌倉幕府が次第に朝廷から政治の実権を奪ひつつあることを憂へられた。「あぢきなく 世を思ふ」とは、さういふことを表現されたのである。「もの思ひ」が和歌によく歌はれる「恋の悩み」ではなく、政治的対立・緊張に関する悩みであるが故に「あぢきない」といふやや乾燥した言葉を用ゐられたのかもしれない。

 

鎌倉の武家政権が朝廷を蔑ろにしてゐると感じられる情勢下にあって、元来繊細なる御心を持ち、慈悲深く、人を愛する心が深かった後鳥羽上皇は、人を恨む心を持たれる事があった。そのことを率直に歌はれたのであらう。

 

上の句で「人」といふ言葉を重ね、下の句で「思ふ」といふ言葉を重ねることによって切迫感、切実さが表現されてゐる。

 

つまり、世を憂へられるが故に増してくる他者への愛憎の念を制御できないことを見つめられてゐる御歌である。きはめて繊細にして複雑な心理描写・自己反省の御歌であると拝する。

 

この御製は、「承久の変」の結果、後鳥羽上皇が隠岐島に遷幸された後の御心境を詠まれた御歌ではない。「承久の変」よりも九年前の建暦二年(一二一二)、御年三十三歳の時の御作である。武家政権による「道統の隠蔽」「王朝文化破壊」を上御一人としてお嘆きになった御歌である。王朝時代から武家時代に移る過渡期の天皇としての深い悩み・憂ひを歌はれた。

 

藤原定家は、この御製を『百人一首』に収めた。『百人一首』の冒頭の二首は、天智天皇と持統天皇の御製である。掉尾の二首は、この後鳥羽上皇の御製と順徳天皇の御製である。これは何を意味するか。

 

天智天皇は、蘇我氏を討ち滅ぼして大化改新を断行され、皇室中心の国家体制を確立された天皇であらせられ、持統天皇は宗教・政治・法制・文化など全ての面で天皇を君主と仰ぐ国家を盤石のものにされた天皇であらせられる。

 

一方、後鳥羽上皇は、天に二日無き天皇日本国の國體が隠蔽されることを食い止めんとして「承久の変」を戦はれ、敗北された天皇であられる。順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子で、十四歳で第八十四代の天皇に即位され、父君と共に「承久の変」を戦はれたが、佐渡に潜幸された天皇であられる。

 

『百人一首』に収められた順徳天皇の御製は、

 

「ももしきや 古き軒端のしのぶにも なほあまりある 昔なりけり」(御所の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけ、朝廷が栄えた昔が懐かしく思はれて、いくら偲んでも偲びきれないことだ、といふ意)

 

である。

 

藤原定家は、王朝時代の終焉を悲しみ、さらに恩顧を受けた後鳥羽上皇・順徳天皇の御霊をお慰めするために『百人一首』を作った。『百人一首』は後鳥羽上皇・順徳天皇の御霊を鎮魂する歌集であると共に、「王朝文化」の精華を後世にのこす歌集であった。

 

後鳥羽院上皇(治承四年一一八〇~延応元年一二三九)は、高倉天皇の第四皇子で御名は尊成(たかひら)。源平の戦ひが終わり、平氏が安徳天皇を奉じて西へ下った寿永二年(一一八三)に五歳で践祚。その後、十九歳で位を譲り院政を執られる。承久三年(一一九八)「承久の変」に敗れ、隠岐へ遷られ在島十九年にして、崩御。悲劇の天皇であらせられる。『新古今和歌集』を編纂され、「千五百番歌合」などを催し、ご自身も多くの名歌をのこされた。

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2018年7月14日 (土)

在原業平の歌に詠まれた日本人の他界観

 

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日けふとは思はざりしを       在原業平

 

在原業平は平安時代初期の歌人。六歌仙の一人。平城天皇の孫・阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女・伊都内親王。在原姓を賜って臣籍に降下された。

『三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。『伊勢物語』の主人公は業平その人であると古くから信じられた。

 

この歌は、「病してよわくなりにける時、よめる」といふ詞書がある。

 

通釈は、「最後には行かなければならないあの世への道だとは、以前から聞いてはゐたけれど、まさか昨日今日その道を行くことになるとは思はなかったなあ」といふ意。

 

死に直面した時の驚きの心を詠んだ歌であるが、嘆きや悲壮感や無常感を露骨に表現することなく、素直にして平らかな心で歌ってゐる。現代に生きる我々にも違和感なく、時代を超えて訴へるものを持ってゐる。故に古来、辞世歌として最も親しまれてゐる。業平は五十六歳で没した。

 

死後の世界は、まだ行ったこともなく見たこともないが、やがては必ず行くことになる「他界」である。従って人が死んだことを「他界した」といふ。そして死んだ人は草葉の蔭から生きてゐる人を見守ったり祟ったりする。といふことは、死後の世界と現世は遮断してゐないで交流し連動してゐるといふことである。伊耶那岐命と伊耶那美命の黄泉国の神話も死後の世界と現世との交流が描かれてゐる。 

 

日本人は基本的に、肉体は滅びても魂はあの世で生き続けるといふ信仰を持ってゐる。死後の世界は、次第に理想化・光明化されてゆき、神々の住み給ふ世界と信じられるやうになった。何故なら、自分の親や愛する人などが、あの世に行って苦しんでゐるなどと考へることに耐へられないからである。

 

古代日本人は生活全般が信仰心を基本としてゐた。天地萬物に神や霊が宿ってをり、森羅萬象は神や霊の為せるわざであると信じてゐた。だから「他界」にも神や霊が生きてゐると信じた。しかし、反面、穢れた「他界」も想定された。そこには鬼や妖怪や魑魅魍魎が住んでゐると信じられた。

 

素晴らしい聖なる世界・清らかな他界は高天原と呼ばれ、穢れた他界・恐ろしき他界は夜見の国・根の国と呼ばれた。これが後に仏教の輪廻転生思想と結合し、西方極楽浄土及び地獄の思想が多くの日本人に信じられるやうになったと思はれる。

 

春秋二回のお彼岸は今日仏教行事になってゐるが、本来的には日本人の他界信仰・祖霊信仰から生まれた日本固有行事である。春と秋の昼と夜の長さが同じ日に「あの世」から「この世」へ祖先の霊が訪ねて来ると信じてきたのである。「彼岸」とは向かふ岸といふ意味であり、日本人の「他界観念=よその世界・まだ行くことのできぬ世界に憧れる心」とつながる。

 

業平のこの歌は、古代から傳はってゐる日本人の他界観を踏まへて、安穏の境地とは言へないまでも平常心で死を迎へたいといふ心を歌ったのではあるまいか。

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2018年7月11日 (水)

時により 過ぐれば民の なげきなり 八大龍王 雨やめ給へ 源實朝

 

時により 過ぐれば民の なげきなり 八大龍王 雨やめ給へ

源實朝

 

建暦元年(一二一一)七月、大洪水が起こり、大きな災害がもたらされた時、鎌倉幕府第三代征夷大将軍・源實朝が、「雨を止めてくれ」と八大龍王に訴へた歌。實朝二十歳の時の歌。『金塊集』所収。

 

「八大龍王」とは、『法華経(序品)』に登場する仏法守護の善神で、龍族の「八王」のことと言ふ。特に、「八王」の中の娑伽羅龍(しゃからりゅう)は雨を司る。實朝が、征夷大将軍として民の難儀を救ひたいといふ、切なる心を龍王に訴へた歌。

 

「訴へる」は「歌(うた)」と同系語で、「歌」の語源は「訴へる」である。「やまと歌」とは、感動をそのまま素直に訴へる文藝であり、その歌を鑑賞する人もその訴への感動を共有する。自己の感動を定型に集約して表現する文藝が「やまと歌」である。「やまと歌」とは、「書く」ものでもないし、「つぶやく」ものでもない。「訴へる」ものであり、「歌ふ」ものである。そして鑑賞する人に感動を与へるものである。

 

實朝は、長雨に困窮する民衆のために、為政者として一心に龍王に祈ったのである。民を救ひたいといふ魂の底からの念願を強い気迫で訴へたこの歌は、まさに「やまと歌」の典型である。

 

通釈は、「雨は人間生活に欠かせない天の恵みですが、時によっては降りすぎると民の嘆きになります。八大龍王よ、どうか雨をおやめ下さい」。

 

龍神は水の神様である。日本人は水の湧く場所を龍神がをられる所と信じて祀り、水辺で稲作を行ってきた。そして龍神が祭られてゐる神祠に、水の恵みに感謝し、雨乞ひの祷りを捧げることは古来行はれてきた。

 

反面、實朝の歌にある通り、雨が降りすぎると洪水になる。それだけでなく、大雨と共に発生する稲妻や雷鳴は恐ろしいものである。落雷によって被害も蒙るので、古代人は経験によって、水神と雷神は一つの神として信じた。

 

雷が龍神として信じられるやうになったのは、稲妻の姿が、龍のやうにのたうちまはりながら光を発するからであらう。

 

さらに、稲妻と落雷炸裂の音のすさまじさは、火焔の立つ刀剣を連想させた。故に、剣の神霊・鍛冶の神ともなった。

 

須佐之男命が退治した八俣大蛇(やまたのおろち)は、斐伊川の氾濫による洪水の象徴であり、奇稲田姫(くしなだひめ)は稲の田の象徴であると言ふ。また、八俣大蛇の体の中から出現した草薙剣は、雷神・水神たる龍神・蛇神の象徴である。日本神話は古代日本人の生活から生まれてゐることがわかる。

 

雷神が、雨や水を支配する神として崇められたのは、雷雨が稲の成熟にきはめて適した良い条件をもたらすものと信じられたことによる。だから、雷電を稲妻・稲光・稲つるびと言った。

 

このことは、雷の空中放電によって、二酸化窒素を生じ、さらに雨に降れば、硝酸と亜硝酸になって、水田に降りそそぎ、窒素肥料になるといふやうに、科學的に証明されてゐるといふ。

 

「稲妻」とは、空中に自然に起こる放電に伴って、空を走る光のことであり、「いなびかり」とも言ふが、これで害虫が死に、稲が豊作になるので、「稲の妻(つま)」に見立てたと言ふ。

 

また、雷の発生しやすい高温多湿の気象状況は、稲の成長にきはめて適してゐる。古代人は、多年の経験によって、雷神を水の神・稲の豊饒をもたらす神として信仰したのである。

 

源實朝は、武人であり、征夷大将軍である。しかし、やさしき心根を持つ人であった。それは彼が、「ものいはぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ」「いとほしや見るに涙もとどまらず親のなき子の母をたづぬる」といふも歌を詠んだことによっても分かる。

 

その實朝が、鶴岡八幡宮で兄・源頼家の子・公暁に「親の仇」として暗殺されてしまった事は、何とも大きな歴史上の悲劇であった。後鳥羽上皇への忠誠心篤い實朝が殺されなければ、『承久の変』は起らなかったと思はれるからである。

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2018年3月11日 (日)

國民精神の革新・日本の傳統精神の復興の中核が和歌の復興である

 

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

 

中河与一氏は「和歌が國風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた、主に公家を中心とする文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本に於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を傳統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとして和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ實感すべきである。

 

そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を學ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2018年3月 3日 (土)

「やまと歌」の定型について

 

「五・七・五・七・七」といふ定型は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられたといへる。これは「五・七調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるといふことである。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったといふ事實が非常に重要である。

 

それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。

 

和歌は、何ゆゑ定型・韻律に則って歌はれるのか。それは日本人の生活が常にある一定の規則・リズムに則ってゐるからであらう。日本の四季は規則正しく変化する。したがって農業を基本としてきた我が國民の生活も規則正しいものとなってゐる。わが國においては四季の変化と農耕生活とが調和してをり、毎年一定の「型」が繰り返されてゐるといへる。規則正しい四季の変化と農耕を基本とする規則正しい生活が、定型詩である和歌が生んだといふことができる。

和歌は、人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であるから、規則正しい生活の中から、自然にある声調を生み、「五・七・五・七・七」の定型を生み出したのである。

 

田谷鋭氏は、短歌とは何かを論じて、「()短歌は日本古来からの定型詩で、その形式はわれわれに与えられたもの──民族の約束──として存在し、ほとんど黄金形式と言っていい完璧さを持っている。()短歌は意味と韻律の融合から成り立っていて、その持つ意味や韻律は無数の変化とその組み合わせから成り立っている。」(『短歌とは』・「短歌」昭和五十六年一月号所収)と論じてゐる。

 

中河与一氏は、「大體ものに規格を与へるということは常に全體的意志があるのであって、三十一字を決定したといふこと自體に、古代人の聡明な民族的理由をわれわれは讀まねばならぬのである。…それは初めから意図したものではなく、自然に民族の直感がさぐりあてたものといふべきである。かくて三十一字形式といふものは古代人の発明した實に見事な、藝術における全體的意図をもった形式となったのである。三十一字といふ一つの形式によることによって、民族を自然に結んだのであるが、その定着が何によってゐるかは誰にもわからない。」 (『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

阿部正路氏は、「『平家物語』にあらわれた長歌は、七・五調を基調とした短歌の影響を受けながら発生したものであろう…夭折者の無念の思いは、こうした歌によって、こんにちもなお人々の心を動かしてやまないのである。その心をさそうのが、五音あるいは七音を基調とする律文學だったのである。…(四註・それは)言葉の長さの組み合わせではなく《しらべ》の組み合わせなのであって、それゆえにこそ《歌》なのである。…現行の『日本國憲法』の第八十二条の条文…美事に、五・七・五・七・七の五句七音の短歌なのである。…きわめて散文的な憲法の条文に、五句三十一音の韻律がそのまま重なり合っているという事實。この事實こそが、日本の言葉の一特色を典型的に指し示しているということができる。…短歌は、日本人の精神の最深部に常に確固として存在しつづけており、決して日本人と切り離すことのできない文學であり、精神領域であることを知る。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。

 

折口信夫氏は、「日本人のもっている文學といふものには、常に典型といふものがあり…日本では、型を重んじてゐる。…歌舞伎芝居の型を見ますと、型を守って今の役者がしてゐるといふのは、その型を創始した役者より劣っているといふことではない。…技術をなぞって來たために、そこに傑れた技術が生れて來た…日本の短歌と演劇とは一つに言へないほど非常な力量が撥揮せられた。…典型をなぞってゆくといふことによって、更に大きな文學が生れて來る。」(『與謝野寛論』)と論じてゐる。

 

「型」を大切にするのは日本人の特性である。歌舞伎などの演劇の世界をはじめとして茶道・歌道・書道などにおいて型の継承が、非常に大切なものとされる。武道もしかりである。「型」を継承することは、単に旧態依然としたものを墨守するといふのではなく、新しい創造をともなふのである。典型をなぞっていくことによって新たなる進歩発展があるといふところに和歌の面白さがある。

 

これは和歌のみならず學問においてもいへる。「學ぶ」の語源は「まねぶ」であるといふ。先達・師匠の真似をすることが「學ぶ」の原点である。

 

正岡子規に、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」といふ歌がある。「花瓶にさしてある藤の花房が短いので、畳の上にとどかないでゐるなあ」といふ意味である。これは韻律を踏み定型になってゐるから文藝作品としての価値が生まれるのである。また、子規が死の床にあって詠んだ歌といふことだから感動を呼ぶのである。歌にはかういふ不思議さがある。

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