2017年4月22日 (土)

日本の伝統的美感覚『みやび』について

伏見天皇

 

のどかにもやがてなり行くけしきかな昨日の日影けふの春雨

 

「のどかにやがてなってゆく景色であるなあ。昨日の日の光も今日の春雨も」というほどの意。

 

『玉葉和歌集』に収められている。『玉葉和歌集』は、鎌倉後期の歌集。二〇巻。伏見天皇の命により京極(藤原)為兼が撰。勅撰和歌集の一四番目。鎌倉室町期の勅撰集の中で、歌風の清新さにおいて『風雅和歌集』とともに高く評価される。

 

第九十二代・伏見天皇は、後深草天皇の第一皇子。建治元年(1275)、十一歳の時、大覚寺統の後宇多天皇の皇太子となり、弘安十年(1287)、二十三歳で践祚。永仁六年(1298)、御子の後伏見天皇に譲位、院政を行わせられる。御幼少期より和歌を好まれ、その後、弘安三年(1280)より出仕した京極為兼を師範とする。勅撰集編纂を企画し、応長元年(1311)、為兼に単独撰進を命ずる。正和元年(1312)、十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』として奏覧。正和二年(1313)、出家され院政を後伏見院に譲られる。文保元年(1317)九月三日、崩御(御年五十三歳)。

 

国家と国民の平安を祈りつつ天下を治められる伏見天皇は、ある日のどかに移ろい行く自然の姿を素直に肯定され、殊の外麗しいものと感じられたのであろう。その実感が大らかに歌われている。日本の自然をいつくしまれる天皇の御心が優しく伝わってくる。

 

伏見天皇の天皇としての品格は自然に歌柄に反映し、大らかなお歌となっている。歌われた風景は、天地自然のいのちの中に生かされている人間を生き生きと伝えている。

 

日本天皇は、このような優しく美しいお心を持たれる御方なのである。決して権力や武力で民を押さえつけて日本国を支配される方ではないのである。

 

この御製に歌われているような優しく麗しい美感覚を「みやび」と言う。「みやび」は、日本人の傳統的な美感覚・日本的情緒とされている。この美感覚は、萬葉集末期の天平時代に生まれ、中古・中世には美の理想されるようになった。

 

近世の國学者本居宣長は、「みやび」こそ日本の傳統的情緒であるとして、「すべて人は、雅の趣をしらでは有るべからず」「すべて神の道は…理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおほらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞよくこれにかなへり」(『うひ山ぶみ』)と言っている。

 

「みやび」とは、宮廷風で上品なことと定義される。洗練された風雅であり優美さである。言い換えると、素朴さ、未分化の美からさらに発展し、人事の洗練された美を追求し、それを自らの生活に知的技巧的に表現する態度である。それは恋愛や和歌の創作に具体的に表現された。自然や恋愛生活すら鑑賞的な態度で眺め、それを美しく表現した。

 

ただし、「みやび」は、単に平安時代における貴族的風流というよりも、宮廷において伝えられた日本の傳統美への憧れである。その根底には、天皇の祭祀があった。ただ、

 

光孝天皇御製

 

君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪はふりつつ

 

「あなたに贈ろうと思い、春の野に出て若菜を摘む私の手には雪が降りつづいている」といふほどの意。

 

一国の君主にしてこのように優しくも美しい歌を詠まれることに、外国の国王・皇帝とは全く異なる日本天皇の素晴らしさがある。自然をいつくし見つつ、愛するものへの思いやりとが渾然として一体になっている。この御歌も「みやび」を詠んだ典型といえる。

 

「みやび」は、萬葉歌人によっても歌われている。

 

大伴家持

うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独りしおもへば

 

山部赤人

春の野に菫摘みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にける

 

明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ

 

これらの歌は、「ひやび」の窮極である評価されている。天平時代の美感覚が、その後の日本人の美の伝統の起源となったことを示す。紀貫之は赤人を高く評価し、平安時代には赤人の歌は「歌の理想」として尊ばれた。中古中世の日本人にとって和歌とは、人々の魂の表白・訴えであると共に、人々の生活の美的規範ともなった。その規範が「ひやび」であったと言える。

 

優雅にして品格のある美感覚を今日にまで継承されているご存在が皇室である。

| | トラックバック (0)

2017年4月 9日 (日)

和歌と維新

和歌の勉強をしている時が、一番心が落ち着きます。また心清められる思いがします。和歌の勉強をし、歌を詠むことが、人生の喜びであります。

 

明治維新の歴史を見ると、うたごころ・萬葉集への回帰が、日本的変革=維新の原点でありました。神武建国の昔に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではありませんでした。日本の道統への回帰でした。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になるのです。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味であると思います。

 

 ゆえに、明治維新において日本人の精神即ち『やまとごころ』の表白であるやまと歌が生まれたのです。明治維新を命懸けで戦った人々は多くのすぐれた歌をのこした。

 

明治維新は日本民族の魂の甦りです。そこにやまと歌が生まれるのは必然であります。現代における維新もやまとうたの甦りと一体であらねばなりません。

 

 愛國尊皇維新の眞心を張りつめた精神で訴えんとする時、やはり日本傳統の文學形式即ち和歌で表現されることが多かったのです。漢詩にもすぐれたものもありますが、和歌が日本人の真心を表現するのに最も適した文芸であるからでありましょう。

 

 明治維新において神武建國への回帰が新しい日本建設の基本理念になった如く、現代維新も復古即革新が基本である。日本の大いなる道と大いなる命にいかに目覚めるかが、今日の変革の基本です。

 

その意味において、現代において維新を目指す者は、明治維新を目指して戦った先人たちの志を自己自身の上に回想しわが血を沸き立たせることが大切なのだと思います。そのためにも先人たちの詠んだ詩歌を學ぶべきであります。

 

 

近代においてわが國にも共産主義革命思想が流入し、共産主義革命運動が起りました。しかし、共産主義革命運動においては、美しい日本の歌は決して生まれませんでした。共産主義革命は日本の道統を否定した変革だからでありましょう

 

民族の歴史と傳統の精神を変革の原理とする維新は、それを志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現します。これを復古即革新即ち維新と言います。

 

そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのであります。

 

いにしえから傳へられた「五・七・五・七・七」という表現形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝であります。

 

現代日本においても和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ないと思います。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではありません。維新を目指すわれわれは、和歌の力・言靈の力の偉大さを今こそ実感すべきです。

| | トラックバック (0)

2017年4月 4日 (火)

維 新 と 和 歌

 

 

 文藝特に和歌は、常に現状を変革しよりよき状態を憧憬するものである。維新の志から生まれるのが和歌である。和歌を詠む者に維新変革への志があってこそ価値が和歌としての価値が生まれる。和歌が真に、命・言靈のあるものとなるのは、その和歌を詠む者に維新変革の意志があることによる。

 

 現状に満足し変化を望まない暮らしの中からは和歌は生まれない。命が枯渇し言靈が失われた言語が氾濫する情報化時代の現代においてこのことは重要である。

 

 維新変革には悲劇と挫折を伴う。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳いあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。

 

 維新とは懸命なる戦いであるが、単なる破壊でも暴力でもない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。

 

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都という大変革を背景として生まれた。

 

 在原業平に象徴される平安朝の和歌は、藤原氏の専横への抵抗、そして当時横溢していた支那風文化への抵抗から生まれて来たと言える。後鳥羽院の覇者・北條氏の武家政治に対する戦いの時代には『新古今和歌集』が生まれた。

 

 幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放っている。さらに東洋の解放を目指した大いなる戦いであった大東亜戦争に殉じた将兵たちの辞世の歌は、万人をして慟哭せしめる不滅の価値を持つ。このように國家変革即ち維新と和歌は不可分である。

 

 それらの歌は、なべて日本國の精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されているのである。

 

 とりわけ『萬葉集』は、日本の伝統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であった。その國難を打開し、天皇中心の新國家体制の確立をはかったのが、大化改新である。こうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國体の素晴らしさを美事に歌いあげたし、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されている。そして「萬葉の精神」は明治維新という大変革に大きな影響を及ぼした。

 

明治維新は、西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配という内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際会して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 

 幕末期の日本的ナショナリズムは萬葉の時代・建武中興の時代とりわけその時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついていた。それが、萬葉の精神と楠公精神の謳歌である。

 

江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなった。

 

 民族の歴史と伝統の精神を変革の原理とする日本の維新は、維新を志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新というのである。

 

そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。なぜなら、いにしえから伝えられた「五・七・五・七・七」という形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝だからである。 

 

今日の日本も文字通り内憂外患交々来るといった状況である。こうした状況の中にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴える「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が必要なのである。

 

現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴えるものとしての和歌を詠んでいる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力というものの偉大さを今こそ実感すべきである。

 

| | トラックバック (0)

2017年3月31日 (金)

この頃詠みし歌

          

 

わが母は我の手を握り眠りたまふいかに愛しきその寝顔かな

 

眼もうつろになりたまひたるわが母をなすすべもなく見つめゐるのみ

 

点滴も酸素吸入も効果なくつひに逝きたりわが母上は

 

全くも意識なくなりしわが母のみ顔に近づき声かけてゐる

 

肉体はよし滅びても魂はとことはなりと母を祈れり

 

素晴らしき安住の地にわが母はのぼりましたり春浅き日に

 

父も母もこの世を去りて我一人生きてゆくなりさみしけれども

 

食欲が減退してゆくわが母に不安の思ひをつのらせし日々

 

先祖の御霊に経誦しまつり今日もまた我のひと日は終らむとする

 

九十七歳を目前にして逝きませし母の生みし子は古希迎へたり

 

七十歳となりにし夜に九十七歳で逝きたる母の御霊拝ろがむ

 

我を生み育てたまひしわが母の御霊拝ろがむ古稀迎へし日

 

彼岸会に父母の御霊の前に座し經誦しまつる静かなる時

 

母の友が二人来りて花を供へ手を合はせくれし春の朝かな

 

春風が吹き来る丘に鎮まれる四宮家の墓に花供へたり

 

春彼岸先祖の墓に手を合はせ御守護を祈る時清々し

 

春の風に紫煙流るる墓所の前先祖の御霊に祈り捧げる

 

春の雨やわらかに降る町を歩み母を恋ほしむ心切なり

 

わが父と同じ戦地で戦ひし宮柊二氏の歌を讀みゐる

 

通ひ行きし施設にはもう母は居まさずわが部屋に白き骨壺がある

 

事務的に臨終を告げる医師の言葉聞きつつ無念の思ひ湧き来る

 

永遠に生きたまへといふわが祈り空しくなりし二月二十六日

 

父母の御霊は永久に生きたまひわれを守らすと信じ生き行く

 

佳き人よりの便り有難し母の逝去を悼みてわれを慰めくれぬ

 

            ○

百薬の長と気違ひ水との価値判断どちらも真実と思ひつつゐる

 

部屋内に積み上げられし雑誌新聞如何にせんかと溜息をつく

 

キャンキャンと声張りあげるをみなあり蓮舫といふ厭はしきかな

 

空見上げわが町に銭湯の煙突がなくなりし事をさみしみてをり

 

はるかなる過去となりたり郡上踊り見つつ過ごせし旅の思ひ出

 

さみしげな響きに聞こえし郡上踊り歌の友らと聞きし思ひ出

 

エスカレーターで登り来たりし丘の上小さき美術館を経巡りてをり(泉屋博古館分館)

 

すれ違ひし知り人は気が付かぬふりをして去り行きにける地下鉄のホーム

 

朝日影まぶしく光るを仰ぎつつ祝詞唱ふる朝清々し

 

窓の外に鳥が来ることなくなりてややにさみしき思ひするなり

 

爽やかに生きたきものを人の世の荒波激し昨日も今日も

 

佳き人の握りし寿司を頬張りて今日のひと日の喜びとする

 

渇きたる日々続き来て雨降ればわが心こそうるほひにけり

 

パス待てどなかなか来ない夕暮にベンチに腰掛け人通りを見る

 

待てば必ずバスは来たるに何とてか焦る心を持て余しゐる

 

久しぶりに会ひたる友と春の日の下で楽しく語らひにけり

 

春の日の光あまねき神苑に友と語らふひと時ぞ良し

 

靖國の宮の館の講堂で般若心経を誦する不思議さ

 

若き僧侶が靖國の宮で講演す山岡鉄舟を語らむがため

 

何となく心しほれて過ごしゐる夜のしじまの温風機の音

 

愛らしき幼子の笑顔の汚れなさわが腹を叩き喜びてゐる

 

幼子の無垢なる笑顔を見つめつつ新しき命を寿ぎてゐる

 

汚れなき幼子の笑みは疲れたる我の心を慰めくれる

 

幼き命これからこの世を生きてゆく幸多かれとただに祈れり

 

春の雨降りしきる夜にタクシーを待てど来らぬ春日町の角

 

春雨に濡れて歩めば昔見し芝居の台詞を思ひ出しをり

 

あざやかな新国劇の大殺陣を父上と見しは半世紀前

 

父上に連れられ行きし明治座で新国劇を見し遠き思ひ出

 

浜町明治座島田辰巳の立ち回り今も鮮やかに目に浮かび来る

 

今日もまた机に向かひものを書くわが生活は恙なくして

 

新しき朝日の光眩しくてわが身を照らすさきはへの時

 

チュチュチュチュと鳴き声立てて小さき木に群がる雀を愛ほしみつつ見る

 

春の日の巷の樹木にチュチュと鳴く雀の群れの愛ほしさかな

 

三分咲きの桜の木々を眺めつつ谷中の町を急ぎ歩めり

 

春の風そよそよと吹く真昼間に友と語らふひと時ぞ良し

 

懐かしき人々の顔が浮かび来る早春の日の午後のまどろみ

| | トラックバック (0)

2017年3月27日 (月)

今日こそ、「やまと歌・言霊の復活」・「国風文化の復興」が大切である

「やまとうた(和歌))は、日本の最も純粋にして最も固有な文藝である。「やまとうた」は、「まつりごと」から発生した。日本では太古から、天地自然との中に生きてゐる天地の神に、五穀の豊饒や民の幸福を祈る「まつりごと」が行はれてきた。その「まつりごと」において祭り主が神憑りの状態で「となへごと」が発した。それが度々繰り返され一定の形をとるやうになったのが「やまとうた」(和歌)の起源である。

 

「和歌」は、「漢詩(からうた)」に対して用いられた言葉である。「やまとうた」といふ言葉を意識的に用い出した人は、紀貫之(平安前期の歌人、歌学者。三十六歌仙の一人。仮名文日記文学の先駆とされる『土佐日記』の作者である。加賀介、土佐守などを歴任。醍醐天皇の勅命で『古今和歌集』撰進の中心となり、「仮名序」を執筆した)である。

 

和歌は、大化改新・白村江の戦・壬申の乱が起った国家激動の時代における『萬葉集』、平安時代の国風文化復興期における『古今和歌集』、後鳥羽上皇の承久の変における『新古今和歌集』といふやうに国家意識の勃興と切り離せない。

 

大化改新の後、天智天皇二年(六六三)に白村江の戦ひがあり、國家意識・愛國心が燃え上がった。かうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國體の素晴らしさを神話的発想でうたひあげた。そして、大伴家持は支那文化が流入する時代にあって日本固有の文化を謳歌すべく『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されてゐる。

 

古代から現代に至る日本人の思想精神を正確にあるがままに自己にものとするには、いにしへの人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた「和歌」を詠むことによって可能となる。

 

三島由紀夫氏は『古今和歌集』について、「ぼくは日本の文化というものの一番の古典主義の絶頂は『古今和歌集』だという考えだ。…ことばが完全に秩序立てられて、文化がそこにあるという考えなんです。あそこに日本語のエッセンスが全部生きているんです。そこから日本語というのは何百年、何千年たっても一歩も出ようとしないでしょう。…あとどんな俗語使おうが、現代語を使おうが、あれが言葉の古典的な規範なんですよ。」(『守るべきものの価値』)と語ってゐる。

 

明治天皇は

「世の中のことあるときはみな人もまことの歌をよみいでにけり」「天地をうごかすばかり言の葉のまことの道をきはめてしがな」

「まごころをうたひあげたる言の葉はひとたびきけばわすれざりけり」

と詠ませられてゐる。

 

和歌は決して遊びごとでもないし単なる美辞麗句を連ねたものでもない。まさに「まごころをうたひあげたる言の葉」なのであり、「世の中のことあるときによみいでる」ものなのであり「天地をうごかす」力を持つものである。神代の昔に発生し日本の道統を継承する最高の文藝が和歌である。

 

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

 

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられると共に、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに御歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

 

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。

 

天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されてきたのである。

国難の時期である今日において「勅撰和歌集」が撰進されるべきである

 

阿部正路氏は、「日本の伝統の最もはれはてた現代にこそ新しい真の意味での勅撰集が編まれるべきではないだろうか。それが具体化するかどうかに、日本の伝統の意志の行方が見定められることになるのだと考える。…勅撰集に明らかに見ることのできる、一系の天皇の、和歌に対するゆるぎない信頼の中においてこそ《悠久》の世界を具体化し得たのであった」(『和歌文学発生史論』)と論じてゐる。

 

国難の時期である今日において、まさに、「国風文化」が復興しなければならない。大化改新といふ大変革・壬申の乱といふ大動乱の時に『萬葉集』が生まれ、平安中期の国風文化勃興の時に『古今和歌集』が生まれたやうに、畏れ多いが、国難に晒されてゐる今日において、偉大なる「勅撰和歌集」が撰進されるべきであると信ずる。それが言霊の復活であり、世の乱れを正す大いなる方途である。

 

やまと歌は、君民一体の國體の基本である。やまと歌を詠むことは政治や行政に潤ひを与へると共に真の大和心を興起させる基である。今日の官僚・国会議員などにも、「歌会始」の際、和歌か漢詩を詠進させる制度を設けるべきではないか。

 

日本人の魂は、今、よすがなく彷徨っているやうに思へる。さまよへる魂を鎮め、鎮魂し、再生させる事が必要である。それは、言霊が籠り、天地(あめつち)を動かし目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせる「やまとうた」の復活によって実現すると信ずる。やまと歌・言霊の復活が大切である。今日においてまさに「国風文化」が復興しなければならない。

| | トラックバック (0)

2017年3月13日 (月)

母への挽歌

 

二日前には冗談を言ひしわが母は 今日は冷たき体となりぬ

 

両手にてわが手を握り微笑みし母を恋ほしむ生みの子われは

 

あまりにもむごき現実 さっきまで生きてゐし母はついに逝きたり

 

冷たくなりし母の額に手を当てて永久の訣(わか)れをかみしめている

 

明るくて優しき母と語らひし日々が思ひ出となるさみしさよ

 

母上を失ひし悲しみ深くして茂吉の歌を繰り返しを讀む

 

葬儀社の人がてきぱき仕事する姿を見つつ悲しみまさる

 

悲しさと悔しさ満つるわが心 母の遺体に真向ひをれば

 

わが母が静かに横たはる前に立ちわれは經を読む静かにぞ読む

 

再びは目覚めたまはぬわが母の遺体に向かひ経讀みまつる

 

遠くへと行きたまひたるわが母を呼び返すすべのなき悲しさよ

 

もう二度と語らふことの難ければ母の動画を繰り返し見る

 

ついにして声をかけても応(こた)へなき母となりたり悲しみの極み

 

(えにし)ありし人ら集ひてわが母の遺影に御手を合はせたまへり

 

やさしき笑みの母の遺影を見つめつつ安らかな眠りをただに祈れり

 

母の柩(ひつぎ)運びて行けりこの世から去りたまひ行くを悲しみにつつ

 

余りにも少なき遺骨に胸迫る小さき体の母にしあれば

 

これの世を去りたまひたるわが母の御霊は永久に我を守らす

 

わが母よこの世を去りしわが母よ 永久に守らせわれの行く手を

 

母と二人語らひし日々は去り行きてやさしき笑みの遺影を仰ぐ

 

父の遺影の隣に置きし母の遺影やさしき笑みで我を見つめる

 

花を飾り華やげる如き仏壇にわが父母の笑顔の遺影

 

父母は御霊となりて生みの子の我を護らすことを信ぜん

 

毎朝毎夕母の遺影を拝ろがみて懐かしむこととなりしさみしさ

 

やさしくも愛しかりにしわが母を思ひ出すなり思ひ出すなり

 

慈母の笑み浮かべる母の写し絵を見つめつつ我の胸熱くなる

 

尽きせぬはわが思ひかも 花を供へ父母の遺影に手を合はす時

 

やさしき笑みの母の遺影を拝ろみがみて心安らかになりにけるかも

 

| | トラックバック (0)

2017年2月21日 (火)

防人の心

 和歌は、天皇と国民をつなぐ大きな絆である。わが国最古にして最大の和歌集である萬葉集は、上は天皇から下は一般庶民の歌(遊女の歌もある)まで収録さている。萬葉歌の一首一首にわが国の古代人の信仰・思想・生活感情・美感覚があますところなく表現されている。萬葉集は、わが国の伝統精神・日本民族の中核精神を和歌という定型文学で表現した一大アンソロジーであり、わが国の伝統的な民族精神を知る上で、記紀と並んで、まことに大切な文献である。記紀はわが国民族精神が語られている文献であり、萬葉集はわが国民族精神が歌われている文献である。

 

 萬葉集巻二十には、九十三首の防人の歌が収められている。防人とは、唐・新羅のわが国への侵攻に備えるために、筑紫・壱岐・対馬に配置された兵士のことで、わが国が百済に送った救援軍が白村江で敗北した翌年の天智天皇二年(西暦六六三)に配置された。諸国の軍団の正丁(せいてい・二十一歳から六十歳の公用に奉仕した男子)のうちから選ばれて三年間の任務についた。天平二年以降は、特に勇壮を以て聞こえた東国(遠江以東の諸国)の兵士が専ら派遣された。大陸及び朝鮮半島との緊張関係は、約千三百年前から今日まで変わらずに続いているということである。

 

 防人の歌は、防人の率直な心境や東国庶民の生活感情を知り得る貴重な歌である。天皇国日本の永遠を願いながら遠く旅立つもののふの決意を表明した歌であり、生きて故郷へ帰ることができない覚悟した者たちの歌である。当時における辺境の地の素朴な歌ではあるが、日本文化・文学の基本である宮廷文化(みやび)への憧れの心があり、君への忠、親への孝、人への恋心が表白されている。

 

 一人一人がそれぞれの立場で個性的表現をしているが、全体として国のため大君のためにわが身を捧げるという共通の決意が歌われている。天皇への無限の尊崇・仰慕の念と敬神の心、そして愛する父母や妻子への思いが生々しい情感として歌われている。

 

 つまり、日本人の最も基本的にして永遠に変わることなき道義精神・倫理観を切々と歌っているのである。東国の庶民は都に生活する貴族などと比較すれば教養や学識においては劣るものがあるかもしれないが、天皇・国家・家族を思う心は純真で深いものがある。東国の庶民である防人の歌には、古代日本の豊かな精神・純粋な感性がある。

 

下野(今日の栃木県)の火長今奉部與曾布(かちょういままつりべのよそふ)の歌「今日よりは顧(かへり)みなくて大君の醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つ吾は」 (防人の任を仰せつかった今日よりは、一切を顧みる事なく、不束ながら大君の尊い御  楯として出発致します、私は、という意)

 

火長とは十人の兵士を統率する長。もっとも代表的な防人の歌である。「醜」とは醜いという意ではなく、大君に対し奉り自分を謙遜して言った言葉で、「不束ながら」或いは「数ならぬ」という意。葦原醜男神(あしはらのしこおのかみ・大己貴神の別名)の「醜」と同じ用法で、「力の籠った、荒々しい強さを持ったものの意」とする説もある。

 

 「御楯」は楯は矢・矛・槍から身を守る武具であるが、大君及び大君が統治あそばされる日本国土を守る兵士のこと。大君にお仕えする兵士であるから「御」という尊称をつけた。

 

出征する時の勇壮・凜然とした固い決意を格調高く歌っている。この歌の心は一言で言えば上御一人に対する「捨身無我」である。そうしたきわめて清らかにして篤い尊皇の心がふつふつと伝わってくる。しかも、押し付けがましいところがない、さわやかな堂々たる歌いぶりの重厚な歌、と評価されている。                   

 

 常陸の國那珂郡の防人・大舎人部千文(おおとねりべのちぶみ)の歌。

「あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に吾は來にしを」(鹿島の社に鎮まります建御雷神に武運長久を祈り続けて天皇の兵士として私は来たの  だ、という意)

 

 「あられ」は鹿島に掛る枕詞。あられが降る音はかしましいので鹿島に掛けた。「鹿島の神」は鹿島神宮に祭られている武神・建御雷神(たけみかづちのかみ・武甕槌神とも書く)の御事。建御雷神は、天孫降臨に先立って出雲に天降られ、大国主命に国譲りを交渉せられた神であらせられる。鹿島神宮の御創祀は、神武天皇御即位の年と伝えられる。「皇御軍」は天皇の兵士という意味。天皇の兵士・皇軍という意識は、近代になってつくり上げられたのではなく、千三百年の昔よりわが日本の庶民に受け継がれてきているのである。

 

 この鹿島神宮は、初代徳川頼房公以来、水戸徳川家が崇敬の誠を捧げていた。今に残る日本三大楼門の一と言われる楼門は寛永十一年に頼房公が寄進したものである。幕末の徳川斉昭は、『大日本史』を奉納し、安政四年には、鹿島神宮の御分霊を水戸弘道館に勧請し、鹿島神社を創建した。山崎氏は、その筆名を「常陸太郎」と称されていた。

 

 日本武士道の淵源は、記紀に記された須佐之男命・神武天皇・日本武尊の御事績にある。この御精神の継承し踏み行ったのが防人たちだったのである。

 

 防人の歌に限らず萬葉歌は、理論・理屈ではなく、日本人の魂に訴える「歌」によって、日本人の中核精神・伝統信仰・倫理観を今日の我々に教えてくれているのである。まことに有難きことと言わねばならない。また、当時は既に聖徳太子の時代の後であるから仏教がわが国に浸透していたはずであるが、萬葉集全体、特に防人の歌には、崇仏の歌が全く無い。  

 

 尊皇愛国・国のために身を捧げることが日本人の道義の基本である。萬葉集とりわけ防人の歌には、日本民族の道義精神・倫理観の中核たる、「天皇仰慕・忠誠の精神」「神への尊敬の思い」「父母への孝行の心」が素直に純真に高らかに歌われている。現代日本の混迷を打開し、道義の頽廃を清め祓い、祖国を再生せしめる方途は、萬葉の精神への回帰にあると確信する。

| | トラックバック (0)