2018年2月24日 (土)

維新と和歌の復興

 民族の歴史と傳統の精神を変革の原理とする維新は、それを志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新といふ。

 

そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。

 

いにしへから傳へられた「五・七・五・七・七」といふ形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌が、「復古即革新」の文藝である。

 

現代日本においても和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指すわれわれは、和歌の力・言靈の力の偉大さを今こそ実感すべきである。

 

日本の傳統文芸の復興、日本文學の道統の回復とは、天皇皇室を中心として行れるべきである。とりわけ和歌は、古代より、「宮廷ぶり」を最も大切なものとしてきた。和歌の根底にあり続けたものは、御歴代天皇の御製である。和歌は、宮廷に始まり、その正統なる「しらべ」は宮廷の御歌にある。武家専横の時代にあっても、外来文化思想が隆盛をきはめた時代にあっても、日本民族の中核的な傳統精神・美感覚は宮廷において継承され保持されてきた。

 

阿部正路氏は、「日本の傳統の精神がもっとも荒れはてた現代にこそ新しい真の意味での勅撰集が編まれるべきではないのだろうか。それが具體化するかどうかに、日本の傳統の意志の行方が見定められることになるのだと考えられる。日本の和歌が、世界でもっとも長く傳統に輝き得たのは……勅撰集に明らかに見ることのできる、一系の天皇の、和歌に対するゆるぎない信頼の中においてこそ《悠久》の世界を具體化し得たのであった。」(『和歌文學発生史論』)と論じてゐる。まことに大切な主張である。

 

今日の日本はまさしく亡國の危機に瀕してゐる。現代の余りに情けない頽廃を是正しなければならない。今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてそれは祖國への愛・至尊への恋闕の思ひを歌ひあげる和歌の復興によって実現するのである。

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2018年1月24日 (水)

和歌はなぜ定型なのか

 

やまと歌の「五・七・五・七・七」といふ形は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられたといへる。これは「七・五調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるといふことである。

 

『萬葉集』の九十五%が、短歌(五・七・五・七・七)である。短歌形式を古代日本人は、自分たちの抒情の文藝形式として獲得した。『記紀』『萬葉』以来今日まで千数百年にわたって、短歌形式が日本人の生活の中に生きてきて断絶がなかったゐるといふ事実が非常に重要である。

 

それだけ、「五・七・五・七・七」の短歌形式には魅力があり、日本人の心を表現する形式として非常に適していたといふことになる。

 

和歌は、何ゆへ定型・韻律に則って歌はれるのか。それは日本人の生活が常にある一定の規則・リズムに則ってゐるからであらう。日本の四季は規則正しく変化する。したがって農業を基本としてきた我が国民の生活も規則正しいものとなってゐる。わが国においては四季の変化と農耕生活とが調和してをり、毎年一定の「型」が繰り返されてゐるといへる。規則正しい四季の変化と農耕を基本とする規則正しい生活が、定型詩である和歌が生んだといふことができる。

 

和歌は、人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であるから、規則正しい生活の中から、自然にある声調を生み、「五・七・五・七・七」の定型を生み出したのである。

 

田谷鋭氏は、短歌とは何かを論じて、「()短歌は日本古来からの定型詩で、その形式はわれわれに与えられたもの──民族の約束──として存在し、ほとんど黄金形式と言っていい完璧さを持っている。()短歌は意味と韻律の融合から成り立っていて、その持つ意味や韻律は無数の変化とその組み合わせから成り立っている」(『短歌とは』・「短歌」昭和五十六年一月号所収)と論じてゐる。

 

中河與一氏は、「大体ものに規格を与へるということは常に全体的意志があるのであって、三十一字を決定したといふこと自体に、古代人の聡明な民族的理由をわれわれは読まねばならぬのである。…それは初めから意図したものではなく、自然に民族の直感がさぐりあてたものといふべきである。かくて三十一字形式といふものは古代人の発明した実に見事な、芸術における全体的意図をもった形式となったのである。三十一字といふ一つの形式によることによって、民族を自然に結んだのであるが、その定着が何によってゐるかは誰にもわからない」 (『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

阿部正路氏は、「『平家物語』にあらわれた長歌は、七・五調を基調とした短歌の影響を受けながら発生したものであろう…夭折者の無念の思いは、こうした歌によって、こんにちもなお人々の心を動かしてやまないのである。その心をさそうのが、五音あるいは七音を基調とする律文学だったのである。…(四註・それは)言葉の長さの組み合わせではなく《しらべ》の組み合わせなのであって、それゆえにこそ《歌》なのである。…現行の『日本国憲法』の第八十二条の条文…美事に、五・七・五・七・七の五句七音の短歌なのである。…きわめて散文的な憲法の条文に、五句三十一音の韻律がそのまま重なり合っているという事実。この事実こそが、日本の言葉の一特色を典型的に指し示しているということができる。…短歌は、日本人の精神の最深部に常に確固として存在しつづけており、決して日本人と切り離すことのできない文学であり、精神領域であることを知る」(『和歌文学発生史論』)と論じてゐる。

 

折口信夫氏は、「日本人のもっている文學といふものには、常に典型といふものがあり…日本では、型を重んじてゐる。…歌舞伎芝居の型を見ますと、型を守って今の役者がしてゐるといふのは、その型を創始した役者より劣っているといふことではない。…技術をなぞって來たために、そこに傑れた技術が生れて來た…日本の短歌と演劇とは一つに言へないほど非常な力量が撥揮せられた。…典型をなぞってゆくといふことによって、更に大きな文學が生れて來る。」(『與謝野寛論』)と論じてゐる。

 

「型」を大切にするのは日本人の特性である。歌舞伎などの演劇の世界をはじめとして茶道・歌道・書道などにおいて型の継承が、非常に大切なものとされる。武道もしかりである。「型」を継承することは、単に旧態依然としたものを墨守するといふのではなく、新しい創造をともなふのである。典型をなぞっていくことによって新たなる進歩発展があるといふところに和歌の面白さがある。

 

これは和歌のみならず学問においてもいへる。「学ぶ」の語源は「まねぶ」であるといふ。先達・師匠の真似をすることにが「学ぶ」の原点である。

 

正岡子規に、「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」といふ歌がある。「花瓶にさしてある藤の花房が短いので、畳の上にとどかないでゐるなあ」といふ意味である。これは韻律を踏み定型になってゐるから文藝作品としての価値が生まれるのである。また、子規が死の床にあって詠んだ歌といふことだから感動を呼ぶのである。歌にはかういふ不思議さがある。

 

「自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころ」は、わが国文学の基本的情緒とされる「もののあはれを知る心」と同意義と考へてよいと思ふ。見るものにつけて聞くものにつけて自分の心が感動することを「もののあはれ」といふ。それが「五・七・五・七・七」といふ形式で表白され、読んだ人・聞いた人の魂を動かすといふのが「やまとうた」である。

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2018年1月 5日 (金)

「やまとうた」の本質

 

歌人の北久保麻里子さんは、『日本経済新聞』平成二十九年(昨年)十月二日号に掲載された「三十一文字世界の響け」という文章で、「三十一文字(みそひともじ)の韻律は、言語の意味を超えて人の心を揺さぶる。朗読を始めた瞬間、私という存在は消えて、ただ言葉の響きだけになるのが究極の形だろう。そのとき初めて、歌心が聴き手の魂に届くのだと思う。一生かかっても至り得ない境地かもしれないが、努力を続けて行きたい」と書いておられる。

 

和歌(やまとうた)は、日本の最も純粋な最も固有な文藝である。『うた』の語源は、神様に何事かを「訴へる」といふところから来てゐる。

 

『古今和歌集』の「仮名序」には、

 

「力も入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をも和(やは)らげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」(力を入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神をも感動させ、男女の間をも和ませ、猛々しい武士の心をも慰めるのが歌である)とある。

 

『古今和歌集』の「仮名序」は、紀貫之が執筆し、和歌とはいかなるものであるかが説かれた基本的な文献である。紀貫之は、平安前期の歌人、歌學者、三十六歌仙の一人。仮名文日記文學の先駆とされる『土佐日記』の作者。醍醐天皇の勅命による『古今和歌集』撰進の中心となった。

 

和歌は人のまごころを表白した歌が抒情詩である。和歌は日本民族のまごころのしらべである。人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であり、それが自然にある声調を生み、五七五七七の定型詩=和歌を生み出した。

 

歌を詠むのは、魂鎮め・鎮魂の行事である。和歌は、ふつふつと湧きあがってくる素直なる心・色々な思ひ・魂の叫びを三十一文字にして固め成して鎮める働きをする。

 

明治天皇御製

「鬼神も泣かするものは世の中の人のこころのまことなりけり」

「まごころを歌ひあげたる言の葉はひとたび聞けば忘れざりけり」

 

「鬼神の」の御製は、歌の力の偉大さを論じた『古今和歌集』の「仮名序」を踏まへられてゐると拝する。この御製で大事なのは、「人の心のまことなりけり」と示されてゐることである。単なる文藝作品なら虚構が許されるのかもしれないが、歌はそうではない。「人のこころのまこと」を歌はねばならない。自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころを歌はねばならない。

 

「自分の本当の心・素直な心・そのままのこころ・まごころ」は、わが國文學の基本的情緒とされる「もののあはれを知る心」と同意義と思ふ。見るものにつけて聞くものにつけて自分の心が感動することを「もののあはれ」といふ。それが「五・七・五・七・七」といふ形式で表白され、人の魂を動かすといふのが「やまとうた」である。

 

和歌には、五・七・五・七・七といふ音数律(音節の数によってつくられる詩歌のしらべ。五七調・七五調など五音と七音の組み合せによる場合が多い)以外には、決まりごとは無い。音数にしても許容範囲は広く、字余りはごく普通に見られる。連歌俳諧のやうな季語の制約もない。音数律といふ型をおおよそ踏まへてさへいれば、自由に詠んで良い。

 

 

「五・七・五・七・七」といふ定型は、まつりごと=祭祀に於いて自然に神ながらに整へられた。「五・七調」に日本人の魂をゆさぶる何ものかがあるのである。したがって、やまと歌は朗々と歌ひあげることが大切である。

 

 

 

 

 

 

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2017年10月30日 (月)

舎人皇子の「ますらをふり」の戀歌

 

舎人皇子の御歌

                            

ますらをや 片戀せむと 嘆けども 醜(しこ)のますらを なほ戀にけり

 

舎人皇子が舎人娘子に贈った「ますらをぶり」の戀歌。舎人皇子は、天武天皇第三皇子。天武天皇四年(六七六)~天平七年(七三五)。第四七代・淳仁天皇の父君。勅を奉じて『日本書紀』を選進した責任者であられる。薨去後、太政大臣を贈られた。舎人娘子は、伝未詳。

 

【ますらをや片戀せむ】ヤは反語(本来の意味とは反対の意味を含ませる表現法。多くは疑問の形で、例へば「これが嘆かずにいられるか」のやうに表す)。「堂々たる日本男児たるもの片思ひなどするものか」といふ意。自嘲的響きもある。「醜のますらを」は自己嫌悪感を表現してゐる。自分の不甲斐なさを嘆くと共に、戀心を表白してゐる。

 

 通釈は、「堂々たる日本男児たる者片戀などするものかと嘆いても、みっともない男児である私はやはり戀してしまふ」といふほどの意。

 

 日本男児たる者、常に國家を心に置き、大君に仕へ奉るべきだとするのが、この時代の男性の心意気であった。それなのに一人の女性に戀々とする自分自身を恥じて「醜の」と詠んだ。

 

 また、日本男児の戀は、女性から愛されて結ばれるのがあるべきなのだが、戀の相手がなかなか私のことを思ってくれないみっともない私はさうはいかない、といふ自嘲的な気持も込められてゐる。

 

 ただし、この歌は相手の女性に贈った歌であるから、本心から自分のことを「不甲斐ない奴」と思ってゐたわけではないし、自分の戀を嘆いてゐるわけでもない。また「醜」とは現代語の醜いとはやや違った意味であって、「かたくなに」「強い」といふ意味もある。防人の歌に「今日よりはかへりみなくて大君の醜(しこ)の御楯と出で立つ吾は」(今日以後他の一切を顧慮することなく、卑しき身ながら大君の御楯となって出発します。私は)といふ歌がある。

 

 この歌はもちろん相手の女性(舎人娘子)に訴へかけた戀歌であるが、「片戀」といふ言葉以外に直接的に相手に訴へかける言葉はない。しかし、それだけにこの歌を受け取る女性にとっては、「これほどまでに私のことを戀ひ慕って下さるのか」といふ心を起こさせる歌である。またそれを期待して詠んだ歌であるとも言へる。

 

 『萬葉集』とは「ますらをぶり」の歌集であると、近世(江戸中期)國學者の賀茂真淵が主張した。「ますらをぶり」とは、「男らしく」「日本男児らしく」といふほどの意で、「男性的で大らかな歌風」のことをいふ。さらに、『古今和歌集』は以後の歌風を「たをやめぶり」(女性的で優雅な歌風)と言った。『萬葉集』の「ますらをぶり」の歌とは、この舎人皇子の御歌や防人の歌などがその典型である。

 

 そして、真淵は「ますらをぶり」とは大和の國を都とした時代(白鳳・天平時代)即ち萬葉時代の歌風であり、「たをやめぶり」は京都の文化であるとした。しかし、『萬葉集』を「ますらをぶり」だけの歌集だとすることはできない。大伴家持の歌などにはむしろ平安朝の歌風に近い歌も数多くある。

 

 それはともかく、賀茂真淵は、和歌は「すめらみくにの上つ世の姿」、つまり萬葉時代に帰らなければならないと主張した。「ますらをぶり」の精神風土を尊重しなければいけないとした。それは平安時代以来続いた「たをやめぶり」への反発であった。

 

 真淵は現在の静岡県出身であり、東國の人であった。そして、徳川吉宗の子の田安宗武の和歌の師であったので、武家の美學を昂揚させようとして、「ますらをぶり」「萬葉ぶり」の復活を唱へたと思はれる。

 

 しかし、賀茂真淵の弟子の本居宣長は、『源氏物語』を高く評価し、「たをやめぶり」も日本の文化の大切な流れであるとした。

 

 武士が政権を壟断するやうになると、儒教の影響からか、武士たるもの、戀愛を文學にしてはならないといふやうな風潮が生まれた。語ってもいけないといはれた。「男女の愛」を文や歌に表現することは武士のやることではないとされるやうになった。

 

 しかし、神話時代や古代日本においては、武士の元祖のやうな方であられる須佐之男命や日本武尊は、戦ひの歌・「ますらをぶり」の歌と共に、戀愛の歌を大いに歌はれた。天智天皇・天武天皇そして藤原鎌足も戀歌を歌った。

 

 わが國のますらをは大いに戀愛をし、戀を歌った。須佐之男命が妻を娶られた時の喜びの歌である「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」(多くの雲が湧く。出で立つ雲の幾重もの垣。妻ぐるみ中に籠めるやうに幾重もの垣を作る。ああその八重垣よ、といふほどの意)は、和歌の発祥とされてゐる。

 

 古事記・萬葉の世界では、「武」「歌」「戀」の三つは一体なのである。わが國文學は戀愛が大きな位置を占める。男女の愛情を尊んだ。『萬葉集』の戀愛歌・相聞歌を見ればそれは明らかである。

 

舎人娘子、和へ奉れる歌

 

歎きつつ ますらをのこの 戀ふれこそ わが結()ふ髪の 漬()ぢてぬれけれ

 

 舎人娘子が舎人皇子に答へ奉った歌。皇子の名の「舎人」は乳母の氏の名であらうと見られるので、舎人娘子は舎人皇子の乳母兄弟であらうといふ説がある。

 【歎きつつ】嘆き続けて。【ますらをのこ】「ますらを」に「をのこ」を付けた言葉。【戀ふれこそ】「戀ふればこそ」。【漬ぢてぬれけれ】「ヒツ」は「水に漬かったやうにびしょり濡れる」。「ヌル」は「ひとりでにゆるんで解ける」。上の句は下の句の原因を歌ってゐる。

 

 通釈は、「嘆き続け、ますらをのあなたが戀をするからこそ、私の結った髪が濡れてほどけたのですね」といふほどの意。

 

 古代には「結んだ紐や結った髪がひとりでに解けるのは、誰かに戀されてゐるしるしだ」といふ民間信仰があった。

 

 この二首はお互ひの気持ちを十分に了解し合った中における贈答歌。しかし離れて住んでゐたので、舎人皇子は愛の切なさを「片戀」といふ言葉で表現したのであらう。

 

 娘子は、皇子の力強い愛の表白に満足し幸福感にひたってこの歌を返した。押さへがたい男女の愛を豊かに表現してゐる。しかし、軽薄に流れてはゐない。

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2017年10月 5日 (木)

『おごるなよ 月の丸さも ただ一夜』

本日は、満月であった。

夜空を見上げるとまんまるの月が煌々と照り輝いていた。暫くそれを眺めていた。そして次の歌を思ひ出した。

 

『たゞよへる 雲の彼方に まんまるに 澄み切る月ぞ わが相(すがた)なり』谷口雅春

 

『おごるなよ 月の丸さも ただ一夜』仙崖義梵

 

『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の欠けたる事も なしと思へば』藤原道長

 

谷口雅春氏の歌は、人間は本来神の子であり完全円満であるといふ生長の家の教義を詠んだ歌である。仙崖義梵は江戸時代の名僧で、これは、人間は謙虚さが大切であるといふことを詠んだ句である。藤原道長の歌はあまりにも有名であるが、好きな歌ではない。

 

個人的体験を述べれば、私が中學生の時に読んだ谷口雅春氏の著書『若人のための七八章』といふ本に「『たゞよへる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが相(すがた)なり』これは或る晩、月を眺めながら私の詠んだ歌であります。…雲が暗澹とたれ込めているように見えておっても…ほんとうはお月様に雲がかかったことはないのであります。實は地球に雲がかかっているために、この地球から見るからお月様に雲がかかっているように見えている。お月様のほんとうの相(すがた)、すなわち、實相は圓満玲瓏としてどこにも雲がかかっていないので、これがほんとうの相、すなわち實相というものであります。われわれの生命の實相、すなわち生命のほんとうの相というものは、實に圓満玲瓏なるものであって、いまだかつて雲がかかったことがない。…實相のほか何もない。…見えるすがたの奥にほんとうのお月様があるように、ほんとうの完全な生命(いのち)がある」と書かれてあった。

 

私が「月」を主題とする歌を讀んだのはこの文章が最初であったかと思ふ。

 

日本人は上代から今日に至るまで、月を愛で、月を拝み、月を歌って来た

お月様、お日様、お星様といふ言葉がある。日本人は自然を尊び愛し敬意を持ってゐることの証しする言葉である。英語にかういふ表現があるのであらうか。「ミスター・ムーン」「ミス・サン」「ミスター・スター」といふ言葉はないのではないか。

 

日本人は歌や俳句によく「月」を詠む。日・月・星の中でも、月が最も日本人に親しまれて来たと思はれる。日常生活において、「月」は最も親しい自然景物なのではないか。

 

月讀命は、神話物語に一回しか登場せず、全國の神社に祀られることは少なかったが、「月」は日本人の愛され続けてきた。日本人は「月」をこよなく愛した。古代以来、國民一人一人が生活の中で「月」に親しんできた。だらこそ、あらためて「神やしろ」に神として祀ることがなかったのでなからうか。

 

月讀命が神やしろに祀られることが比較的少なく、且つ、月讀命が神話物語にも一回しか登場しないにもかかはらず、『萬葉集』から現代日本の歌・歌謡に至るまで、「月」を題材とした作品は数多い。これは實に不思議である。「神としての月」はあまり祀られないのに、「月」そのものは古代から現代に至るまで日本人に親しまれ、愛され続けてゐる。

 

月を眺めて楽しむことを「月見」と言ふ。「月見」は、主に旧暦八月十五日から十六日の夜(八月十五夜)に行はれる。野口雨情作詞・本居長世作曲『十五夜お月さん』といふ童謡もある。この夜の月を「中秋の名月」と言ふ。

 

折口信夫氏は次のやうに論じてゐる。「月見の行事の心の底には、昔から傳ってゐるお月様を神様と感じる心が殘ってゐる。さういふ風に昔の人が、月夜見命などゝいふ神典の上の神とは別に、月の神を感じて居り、その月の神に花をさしあげるのが、月見といふのです。月見はお月さんのまつりのことです。……神が天から降りて來られる時、村里には如何にも目につく様に花が立てられて居り、そこを目じるしとして降りて來られるのです。昔の人はめいめいの信仰で自分自身の家へ神が來られるものと信じて、目につくやうに花を飾る訣なのです」(『日本美』)

 

この折口氏の論述で注目されるのは、日本人の多くは、月夜見命といふ神典の上の神とは別に、月の神を感じていたとしてゐることである。これは一体どういふことか。

 

上代から今日に至るまで、日本人は月を愛で、月を拝み、月を歌って来た。しかしそれは、『記紀』に登場する「月夜見命」を拝んだり祭ったり歌ったりしてきてゐるのではなく「めいめいの信仰」で神と仰いだと、折口氏は言ふのである。

 

自然は美しい。特に「月」は、日本人に愛されてゐる。歌に俳句によく詠まれる。月が人間にやすらぎを与へるからであらう。月の不可思議な光は、恋に悩めるものを慰め、労はってくれる。それは日本人特有の信仰精神と美意識に深くかかはる。古来日本人は、夜空に浮かぶ月を見て格別の詩情をそそられ、月もまた何事かを地上の人間に語りかけて来た。われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどといふ傲慢な考へ方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。自然に宿る神々に畏敬の念を持つことが大切である。

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2017年9月28日 (木)

日本人の言靈信仰が「やまと歌」を生んだ

日本人の伝統精神がやまと歌の形で表現されている日本最大の歌集『萬葉集』には「言霊」「事霊」といふ言葉が数多く出て来る。

 

『萬葉集』の原文には、「言霊」を「事霊」と書いてゐる歌がある。萬葉人にとって「言」と「事」は一体であった。これを「言事不二」と言ふ。言葉は事物そのものであるといふことであり、さらに言へば、全ての存在が言葉であるといふことである。

 

谷口雅春師は次のやうに説いてゐる。「日本的思惟に従うならば、日本人は『存在』の根元を神より發したものとしてこれを把える。日本人には『存在』はコト()であり、神はミコトであり、ミコトとは御言(みこと)であり、〝言事不二〟であり、命を漢字にて表現するのに『命』(いのち)なる文字をもってをする。存在の根本生命であるものは〝コトバ〟であることを直感的に知ってゐのだが日本民族なのである」(『古事記と現代の預言』)

 

日本民族は「ことば」を大切にし、「ことば」に不可思議にして靈的な力があると信じ、言葉を神聖視した。言葉に内在する霊的力が人の幸不幸を左右すると信じた。日本には「一言主神」といふ神様もをられる。この神様は、「吾は悪事も一言、善事も一言、言ひ離(さか)つ神。葛城の一言主の大神なり」(『古事記』)といふ神である。

 

山口悌治氏は「言霊信仰は、一言でいへば、善き言葉を述べれば善き事が現れ、悪しき言葉を吐けば禍ひを招く――といふ信仰に基いてゐる。われわれの先祖は、明るく清く美しい言葉をもって神々を祭り、日月万象を仰ぎ、国土を讃め、五穀の豊穣を祈り、すべてに感謝し、善き言葉の幸(さき)はへを信じて、言霊の幸はふ國と称へて来たのである。そして悪しき言葉を忌み慎んで来たのである」(『万葉の世界と精神』 後篇)と論じてゐる。

 

わが國は「言靈のさきはふ國」と言はれる。「日本は言葉の靈が豊かに栄える國である」といふ意味である。日本人は、言葉に靈が宿ると信じ、言葉は生命を持ち、言葉を唱へることによってその靈力が発揮されると信じた。わが國においては、「ことば」は何よりも大切な神への捧げものとされた。神様に祝詞を唱え、仏様のお経をあげるといふ宗教行為も、言葉に霊的な力があると信じてゐるから行はれるのである。

 

折口信夫氏は、「(言靈信仰とは)古くから傳ってゐる言葉の持ってゐる靈力・魂といふものを考へてゐるのであり、それが言靈、つまり言語の精靈である。祝詞には勿論これがあると信じてゐた。…言葉そのものに威力・靈魂があると考へた。それが言靈である。それは唱辭(トナヘゴト)以外、…抒情詩其他のものゝ上に皆あると信じたのである。古い物語を語るとその内の靈魂が動き出す、歌を歌ひかけると、その歌のうちにひそんでゐる靈魂が働きかけると信じてゐたのである」(『古代人の信仰』)と論じてゐる。

 

紀貫之が執筆した『古今和歌集』の「仮名序」に「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」と書かれてゐる。

 

「御託宣」「神示」は神靈が籠り神威が表白された言葉である。「祝詞」は人間が神への訴へかけた言葉であり、「歌」も人間の魂の他者への訴へである。「祝詞」にも「やまと歌」にも靈が込められてゐる。「祝詞」を唱えへ「やまと歌」を歌ふと、そこに宿る言靈が発動し偉大なる力を発揮すると日本人は信じた。神・人・天地自然にまでその力が及ぶのである。これが「言靈の幸はふ」といふことである。

 

折口信夫氏は、「日本の詞は霊妙不可思議な作用を持って居て、短歌や其外總べての文学はそこに生まれて来ます。…一つの文章を唱へると其詞章の中に潜んで居る一種霊的な精神がそれを唱へかけられた人に働きかけるのです。或は人でなくても自然一般の現象でも構ひません。言語精霊が不思議な作用を表すといふことが言霊がさきはふといふ意です。それを一所懸命失はないやうに伝承して来たのが日本文学の始まりです」(『神道の改革』)と論じてゐる。

 

神に対してだけでなく、恋人や親や死者や自然や国土など他者に対する魂の訴へかけが、日本文藝の起源である。日本人の言靈信仰が「やまと歌」を生んだのである。日本古典の全てが、言霊の文学と言っても良いのである。その言霊によって護られ栄ゆく国が日本国なのである。

 

さらに戦ひの時においても、「言霊の力」は大いなる力を発揮する。景行天皇が、日本武尊に東国の荒ぶる神どもをば「言向け和せ」と命じられた。言霊を発することによって相手を平定せよといふご命令である。相手に対して発した言霊は、相手の魂を和らげるのである。つまり、敵対して来る者たちの魂を和ましめるのが言霊である。

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2017年9月 4日 (月)

天皇・皇室と和歌

 

和歌は、傳統の継承と創造とが一體となっている文藝である。歌を詠む人は、先人の和歌を手本として學ぶ。和歌の原点を常に顧みながら新しい創造を行なってきた。ここに和歌文學の特質がある。日本人は傳統の継承から創造を學んだ。和歌はその典型である。

 

これは、皇位継承・伊勢の神宮の御遷宮と相似である。日本天皇の肉身はやがてお隠れになられるが、皇位は不滅であり皇統連綿であり萬世一系である。先帝がお隠れになると新帝が即位の大典を執行され大嘗祭を行はれる。それによって、新しき玉體であらせられながら邇邇藝命以来の靈統を継承される。伊勢の皇大神宮は、御祭神の天照大御神の御神靈は永遠であるが、神殿は二十年ごとに造り替へられる。

 

永遠の傳統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふのが、わが國の皇位であり、伊勢の神宮であり、和歌なのである。これは他國には見られないわが日本の特質である。まさにわが國體は萬邦無比なのである。

 

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが國に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

 

天皇の國家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の國家御統治と一體である。天皇國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給ふために實に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の國家統治は和歌と切り離し難く一體である。天皇の國家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって國民と國土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって國民と國土を統治されるのである。

 

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも國をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

 

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに御歴代の天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまふことを國家統治の基本とされてきた事を証しする。

 

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を讀むことによって可能となる。

 

中河与一氏は「和歌が國風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた日本回帰の文化の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本に於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって維新の情念を傳統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。

 

和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとして和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ實感すべきである。

 

そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を學ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治體制の革新のみではなく、國民精神の革新・日本の傳統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2017年9月 2日 (土)

伏見天皇御製に歌われた「みやび」

 

伏見天皇御製 

 

 

 

むつきのはじめつかた雨ふる日よませ給うける 

 

 

 

のどかにも やがてなり行く けしきかな 昨日の日影 けふの春雨

 

 

 

「のどかにやがてなってゆく景色であるなあ。昨日の日の光も今日の春雨も」というほどの意。

 

 

 

「むつき」(睦月)は陰暦正月の異名。睦び月。この御製は『玉葉和歌集』に収められている。『玉葉和歌集』は、鎌倉後期の歌集。二〇巻。伏見天皇の命により京極(藤原)為兼が撰。勅撰和歌集の第一四番目。鎌倉室町期の勅撰集の中で、歌風の清新さにおいて『風雅和歌集』とともに高く評価される。

 

 

 

第九十二代・伏見天皇は、後深草天皇の第一皇子。建治元年(1275)、御年十一歳のとき、後宇多天皇の皇太子となり、弘安十年(1287)、御年二十三歳で践祚。永仁六年(1298)、御子の後伏見天皇に譲位、院政を敷かれた。御幼少の頃よりより和歌を好まれ、その後、弘安三年(1280)より出仕した京極為兼を師範とする。勅撰集編纂を企画し、応長元年(1311)、為兼に単独撰進を命ぜられた。正和元年(1312)、十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』として奏覧。正和二年(1313)に出家され、院政を後伏見院に譲られる。文保元年(1317)九月三日、崩御(御年五十三歳)。

 

 

 

国家と国民の平安を祈りつつ天下を治められる伏見天皇は、ある日、のどかに移ろい行く自然の姿を素直に肯定され、殊の外麗しいものと感じられたのであろう。その実感が大らかに歌われている。日本の自然をいつくしまれる天皇の大御心が優しく伝わってくる。

 

 

 

伏見天皇の上御一人としてのご品格は自然に歌柄に反映し、大らかなお歌となっている。歌はれた風景は、天地自然のいのちの中に生かされている人間を生き生きと伝えている。

 

 

 

自由で柔軟な歌で、自然を慈しまれる天皇のみ心がよく表現されている。日本の天皇様は、このような優しく美しいお心を持たれる御方なのである。決して権力や武力で民を押さえつけて日本国を支配される方ではないのである。

 

 

 

この御製に歌われているような優しく麗しい美感覚を「みやび」という。「みやび」は、日本人の傳統的な美感覚・日本的情緒とされている。この美感覚は、萬葉集末期の天平時代に生まれ、中古・中世には美の理想されるようになった。

 

 

 

近世の國学者本居宣長は「みやび」こそ日本の傳統的情緒であるとして、「すべて人は、雅の趣をしらでは有るべからず」「すべて神の道は…理屈は、露ばかりもなく、ただゆたかにおほらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞよくこれにかなへり」(『うひ山ぶみ』)と言っている。

 

 

 

「みやび」とは、宮廷風で上品なことと定義される。洗練された風雅であり優美さである。言い換えると、素朴さ、未分化の美からさらに発展し、人事の洗練された美を追求し、それを自らの生活に知的技巧的に表現する態度である。それは恋愛や和歌の創作に具体的に表現された。自然や恋愛生活すら鑑賞的な態度で眺め、それを美しく表現した。

 

 

 

ただし、「みやび」は、単に平安時代における貴族的風流というよりも、宮廷において伝えられた日本の傳統美への憧れである。その根底には、天皇の祭祀があった。

 

 

 

「みやび」は、萬葉歌人によっても歌われている。

 

 

 

大伴家持

 

「うらうらに 照れる春日に 雲雀(ひばり)あがり 情(こころ)悲しも独りしおもへば」

 

 

 

山部赤人

 

「春の野に 菫(すみれ)摘みにと 来し吾ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」

 

 

 

「明日よりは 春菜(はるな)摘まむと 標()めし野に 昨日も今日も雪は降りつつ」

 

 

 

これらの歌は、「ひやび」の窮極であると評価されている。天平時代の美感覚が、その後の日本人の美の伝統の起源となったことを示している。

 

 

 

紀貫之は山部赤人を高く評価し、平安時代には赤人の歌は「歌の理想」として尊ばれた。中古中世の日本人にとって和歌とは、人々の魂の表白・訴えであると共に、人々の生活の美的規範ともなった。その規範が「ひやび」であったといえる。

 

 

 

日本の傳統美への回帰とは原始・粗野の時代に帰ることではない。優雅にして品格のある美感覚への回帰である。みやびの伝統を今日にまで継承されているご存在が皇室である。

 

 

 

 

 

 

 

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2017年8月29日 (火)

中河与一と柿本人麿

 中河与一は、「ある小説(注・「愛戀無限」)の中に人麿の歌を引き、それが機縁となって、私は再び萬葉集の中に這入ってしまった。この驚嘆すべき歌集の中にこそ、日本人の本當の藝術と生き方とがある事をいよいよ信念しだしたからである。」(「萬葉の精神」昭和十二年)と述べてゐる。

 

それは、近代日本文学の自然主義・リアリズムを否定するものとしての「萬葉への回帰」であった。天皇から東国庶民にいたるまでの古代日本人の歌がおさめられてゐる「萬葉集」には、日本民族の古代精神がおほらかにうたひあげられてゐる。

 

中河与一は「萬葉人はギリシア人と同じく、人間生活を肯定し、神を尊敬し、慾望を讃美し、佛教思想の影響はあっても、直情によって戀愛し、悲しみ、現實を生き、とりわけ美と共にあることを何よりも誇りとした。燦然たる唐文化の影響を烈しく吸収しながらその中に最も日本的な性格を屹立した」(「萬葉の精神」)と論じた。

 

そして、柿本人麻呂の

 

「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」

 

といふ歌を讃美して次のやうに説く。「雄大の響鳴、哀婉の思慕、湧きあがる自然への人格的合同、現人神としての天智天皇によせたつまつる尊崇の同情、そのリズムの中にある美しさには、堪へがたいまでの嘆きが呼吸してゐる。誠に彼等こそは美を中心として生活し、思想し、政治し、歌ったやうに思はれる。それ故に天皇より庶民にいたるまでが、二十巻の歌集に同居して楽しげに殘り、吾々をして、その時代を思はすのである。私は今日の文學が何よりも取りかへさなければならならぬものは、萬葉にあった精神であると思ってゐる。」(「萬葉の精神」)。

 

 「淡海の海」は琵琶湖。「夕波千鳥」は人麻呂の造語で、夕波の上を飛んでゐる千鳥。「心もしのに」のは「しのに」は、ぐったりして・しほれる意。心の奥処に向かって沈んで行く沈痛な悲しみを表現してゐる。「いにしへ」とは、行ってしまった彼方といふ意で、近江の朝廷が盛んであった頃すなはち天智天皇の御代のこと。

 

 通釈は、「近江の海の夕波千鳥よ。お前が鳴くと、心のうちひしがれて過ぎにし昔ことが偲ばれるなあ」といふ意。

 

「ミ」「ナ」の言霊によって調べが生きてゐる。夕波千鳥はの色は白色であった思はれる。琵琶湖の波の上に白い千鳥が鳴きながら飛んでゐる。琵琶湖の薄暮も白のイメージである。さうした寂しさ・喪失観・漂泊感が實によく歌はれてゐる。 

 

 上の句はすべて名詞である。そして「汝が鳴けば」と対象に呼び掛けて包み込んでゐる。ここにこの歌の技巧の素晴らしさがある。悲痛の深さ、切實さがよく出て、荘重な調べとなり、慟哭となってゐる。 

 

名詞を二つ並べた表現の後に、「汝が鳴けば」と千鳥に呼び掛ける主情的表現を置いて、冷たい湖上の景色を心の中に包み込んでしまふところにこの歌の良さがある。

 

冷たく寂しい湖の景色を心の中に包み込んで、「いにしへ」への思ひを歌ってゐる。湖上の千鳥はさういふ悲しい思ひの表象である。人麻呂の名歌の一つ。

 湖畔に佇みながら夕波千鳥の姿を見て感動を覚へ、懐旧の情を歌った。中河与一が説く「湧きあがる自然への人格的合同」の歌であり、斎藤茂吉のいふ「實相観入・自然観入」の歌であると思ふ。「淡海の海」と「夕波千鳥」と作者である人麻呂が、対立せず一體になってゐる。                                   

 

歌ってゐる内容はきはめて重々しく沈鬱なのだが、しらべは余情を伴った心地よいものとなってゐる。

 

これらの人麻呂の歌の背景には「壬申の乱」といふ歴史がある。だからこそ人麻呂の心は深く切なるものとなってゐるのである。「壬申の乱」によって滅びてしまった近江の都への懐旧の情・悲しみが歌はれてゐる。

 

琵琶湖のことをある人は「悲しみの器」と表現した。日本人の悲しみの涙がたまってゐる器といふ意味であらう。琵琶湖はまさに悲しみの歴史を綴ってゐる。湖畔にあった近江朝廷は「壬申の乱」で滅びた。木曽義仲も琵琶湖畔で討ち死にする。織田信長に滅ぼされた浅井長政の居城だった小谷城も琵琶湖畔にあった。秀吉に滅ぼされた豊臣秀次の居城だった長浜城も琵琶湖畔にあった。琵琶湖畔には「滅びの歴史」が綴られてをり、中河言ふやうに「堪へがたいまでの嘆きが呼吸してゐる」のである。

 

中河与一の「萬葉への回帰」は、愛と永遠を志向し、現實以上のものを求める中河の浪漫精神である。中河は「萬葉の精神」への回帰に「近代の超克」「現実の救済」を見出したのであった。

 

「萬葉への回帰」によって西洋から流入したイデオロギーとしての「近代合理主義」「必然論」「無神論」による汚濁を救はむとする中河与一の姿勢は、反近代の民族的躍動であり文芸及び思想の革新であった。

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2017年6月13日 (火)

短歌の起源は素戔鳴尊の御歌

短歌の起源は素戔鳴尊の御歌

 

『古今和歌集』「仮名序」に、「人の世となりて すさのをの命よりぞ 三十文字あまり一文字はよみける すさのをの命は… 出雲の国に宮造りしたまふ時に  そのところに八色の雲の立つを見て よみたまへるなり」と記されている。

 

三十一字の短歌の始まりは、素戔鳴尊(伊邪那岐命・伊邪那美命の御子神。天照大神の弟神)の 

 

「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣つくる その八重垣を」

(多くの雲が立ちのぼる、その出雲の幾重もの垣に囲まれた宮殿よ。妻を中に籠もらせるために幾重もの垣を作る。その幾重もの垣に囲まれた宮殿よ)

 

であると『古今和歌集』の「仮名序」は述べているのである。

 

素戔嗚尊は高天原から出雲の國に天降られた後、八岐大蛇(やまたのおろち・身が一つで頭と尾が八つある大蛇。出雲國の斐伊川上流にいたという)を退治され、大蛇に食べられようとしていた櫛名田比売(くしなだひめ)を助けられた。その比売を妻にして共に住まはれる須賀の宮を造営された時に、雲が立ちのぼった時に詠まれた御歌である。妻を獲得した喜びを素直に力強く吐露している。「魂の訴え」という「歌」の語源そのままの歌であり、内容的にもまさに「歌の起源」である。

 

このように短歌形式は神話時代から始まっているのである。この御歌は、伝承として歌の起源とされるだけでなく、歌われた時代が実際に非常に古い形式の歌とされる。

 

中西進氏は、「(素戔鳴尊の御歌は)一句が五音・七音にととのえられ、全體も短歌形式のものなので、作られた時代がずっと後だといわれている。そのとおりであるが、しかしだからといって祖形まで否定することはできない。むしろ新しい形をもっているのは、長い間歌いつがれた証拠であって、祖形はたいそう古いものというべきである」(『神々と人間』)と論じている。

 

「やまと歌」は日本民族のまごころの調べである。人知のさかしらを超えて自然に生まれてくる『素直な心』(まごころ・もののあはれ)の表白であり、それが自然にある声調を生み、五七五七七の定型詩=和歌を生み出したのである。

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