2017年10月16日 (月)

錦の御旗と徳川慶喜の尊皇心

 

「鳥羽伏見の戦ひ」と呼ばれる戦ひで、何故幕府軍は敗退してしまったのであらうか。史家たちかあげる原因は次の通りである。「①士気・戦意の違ひ。政府軍が士気・戦意共に勝っていた。②幕府方の戦争目的の曖昧さ。③幕府方の計画性と指揮能力の欠如。④新政府軍の武器が幕府軍の武器よりも優れていた。⑤幕府方内部の裏切りと内紛。⑤総大将たる徳川慶喜の戦意・統率力の欠如。」

 

そして、多くの史家は、開戦翌日の一月四日に、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたので、幕府軍の士気が萎えてしまったと論じてゐる。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことが、史家のいふところの「両軍の士気・戦意の喪失、幕府内部の所謂『内紛』、徳川慶喜の戦意欠如」の根本原因である。

 

錦の御旗とは、朝廷の軍即即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。

 

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

 

「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、国学者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ説がある。

 

明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。

 

明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ説は全く成り立たない。

 

仁和寺宮嘉彰親王は、新政府軍を率いて御所をご進発、午後には洛南の東寺に陣を置かれ、錦旗が掲げられた。

 

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。

 

一月五日、征討大将軍が鳥羽街道を錦旗を立てて南下すると、それを遠望した幕府軍は浮足立ち、淀城へ退却した。ところが、淀藩は幕府軍の淀城入場を拒んだ。

 

小生をして言はしむれば、津藩・淀藩の行動は決して裏切りではなく、上御一人日本天皇への恭順である。徳川慶喜の戦意喪失も決して臆病風に吹かれたのではなく、彼の尊皇精神がさうさせたのである。

 

『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の零位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし。」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

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2017年10月 7日 (土)

明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発した

「安政の大獄」によって断罪されたのは吉田松陰・梅田雲濱・橋本左内といふ勤皇の志士思想家だけでなかった。「大獄」によって福井藩主松平春嶽公・水戸藩主徳川齊昭公も処断されたのである。さらに、永井尚志、岩瀬忠震、川路聖謨、大久保忠寛、水野忠徳という有能な幕府官僚もその職を追はれた。

 

幕末における水戸藩の「尊皇攘夷思想」が端的に書かれた文章を紹介する。

 

天保十四年に、福井藩主松平春嶽公に対して、水戸藩主徳川齊昭公が示した「治国」についての文章には「一、国守身持心得方之事、天朝公辺への忠節を心懸、内は士民撫育之世話、外は夷狄奸賊防禦之手当為肝要候」と書かれてゐる。

 

国守即ち藩主として、朝廷・幕府へ忠節を尽くすこと、藩士と領民の面倒をよく見ること、そして外敵の侵略に対して国土を守る備えをすべきことを論じている。徳川斉昭は決して一部の歴史が言う「狂信的に攘夷論者」ではなかった。

 

明治維新における水戸烈公と松平春嶽公の貢献は非常に大きかった。しかも水戸藩は御三家の一つ、福井藩は徳川家康の長男と松平秀康を藩祖とする親藩筆頭である。

 

水戸学の泰斗・藤田東湖が、主君・徳川齊昭に奉った文章で次のやうに論じてゐる。

「先づは関東の弊風にて、日光等さへ御立派に候へば、山陵はいか様にても嘆き候者も少なき姿に御座候、…日光御門主〈輪王寺宮〉を平日御手に御附け遊ばされ、万一の節は、忽ち南北朝の勢をなし候意味、叡山へ対し東叡山御建立、其の外禁中諸法度等の意味、実に言語を絶し嘆かはしき次第、右等を以て相考へ候へば、京所司代などは、以心伝心の心得ぶり、密かに相傳り仕り候かも計りがたく、実意を考へつめて候へば、一日も寝席を安んじかね候次第」。

 

徳川幕府の朝廷への不敬を厳しく糾弾した文章である。こうした正統なる尊皇精神が徳川御三家の一つ水戸徳川家に存したということは実に以て驚くべき事である。明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発したのである。

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2017年10月 3日 (火)

独立不羈三千年来の大日本

 

何処の國の革命も変革も、洋の東西・時の今昔を問はず、外國との関連・外國からの圧力によって為し遂げられた。古代日本の大変革たる大化改新も支那・朝鮮からの侵攻の危機下に行はれた。ロシア革命も日露戦争・第一次世界大戦の影響下に行はれた。

 

明治維新もしかりである。アメリカなどの西欧列強は「征夷」の意志と力を喪失し弱体化した徳川幕府に付け入って武力による威圧で屈辱的な開港を日本に迫った。徳川幕府は、外圧を恐れかつ自らの権力を維持せんとしてそれを甘受しやうとした。

 

かうした状況下にあって、國家の独立と安定と統一を保持するために、日本の傳統と自主性を體現する最高の御存在たる天皇を中心とした國家に回帰した。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの傳統的君主である天皇を中心とする國家に回帰しなければならないといふことが全國民的に自覚されたのである。

 

戦國時代の覇者たる徳川氏は國家の「擬似的中心者」たるの資格を喪失した。天照大神そしてその地上的御顕現たる日本天皇の御稜威によってこそ日本は護られ独立を維持することができた。東照大権現=徳川家康以来の将軍家の権威では國難を打開できなかったのである。

 

吉田松陰は、安政六年四月七日付の北山安世宛書状で、「独立不羈(ふき・束縛されないこと)三千年来の大日本、一朝人の覇縛(きばく・つなぎしばること)を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。……今の幕府も諸侯ももはや酔人なれば扶持(ふじ・そばにゐていたすけささへること)の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。……草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を輔佐し奉れば、……神州に大功ある人と云ふべし」と書いた。

 

質の高い統合を実現してゐる國家に強大な外敵が出現した場合、民族的一體感・ナショナリズムが沸き起こるのは当然である。天皇中心の國體を明らかにして強力な統一國家を建設し外圧を撥ね除けようとしたのが明治維新である。

 

今日わが國は、政治の混乱・経済の停滞・道義の低下・外圧の危機が顕著になってゐる。そのうえ、未曽有の自然災害、原発事故災害も起こった。それは明治維新前夜よりも深刻な状況である。そして人々の心の中に恐怖と不安と空虚感が広まっている。これを克服するためには、日本民族としての主體性・帰属意識そして自信を回復する以外に無い。今こそ傳統的ナショナリズムが勃興すべき時である。

 

わが國の歴史を回顧すると、國家的危機の時こそ、尊皇精神・愛國心が勃興し、その危機を乗り切ってきた。白村江の戦ひに敗れ、唐新羅連合軍のわが國への侵攻の危機に見舞はれた時には、大化改新を断行し、天皇中心の國家體制を明徴化した。壬申の乱の後には、皇室祭祀および伊勢の神宮祭祀の制度が確立し『記紀』『萬葉集』が編纂され天皇中心の國家思想が正しく確立された。元寇の時には、それこそ全國民的に神國思想が勃興し國難を乗り切った。幕末の外患の危機に際しては、尊皇攘夷をスローガンとする明治維新が断行され、日本の独立を維持し近代國家として出発した。

 

今日の日本の危機的状況も、ナショナリズムの興起・日本傳統精神の復興により必ず打開し乗り切ることができると確信する。

 

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2017年9月19日 (火)

吉田松陰先生について

江戸時代に傳馬町牢屋敷があった。牢屋敷は慶長年間常盤橋際よりこの地に移り、明治八年五月に市ヶ谷囚獄が出来るまで二百七十年間存した。安政の大獄の時、この地で吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内などの勤皇の志士九十六名が処刑された。吉田松陰は安政六年七月傳馬町牢に囚はれ、同年十月二十七日三十歳にて最期を遂げた。

 

松陰はこの獄に二回囚はれた。最初は、安政元年三月、海外渡航を決意し、下田から米艦に乗船しようとして果たせず、傳馬町獄送りとなった。途中、播州赤穂藩主・浅野長矩及び大石内蔵助等赤穂義士の墓所のある高輪泉岳寺前で詠んだ歌が有名な、

 

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」

 

である。

 

松陰は、『安政の大獄』によって安政六年七月、再びこの獄に囚はれた。他の囚徒たちは松陰先生にたちまち感化され門人になったといふ。

 

大老井伊直弼の特命により死罪と決定された事を聞いた松陰は、父、叔父、兄に宛てて永訣の書を送ってゐる。安政六年十月十一日付けの堀江克之助に宛てた松陰の書状にあるのが、

 

「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらむ」

 

の一首である。

 

徳富蘇峰氏はこの歌について、「死するに際して、第一彼れの念頭に上りし者は、その父母にてありしなり。…かくの如き人にしてかくの如きことを作()す、不思議なる忠臣を考子の門に求むるの語、吾人実にその真なるを疑ふ能はず。」(吉田松陰)と述べてゐる。松陰はまさに忠孝一本の日本道義精神の実践者であったのである。

 

そして、松陰は同じ書状に「幕府正義は丸に御取用ひ之なく、夷狄は縦横自在に御府内を跋扈致し候へども、神國未だ地に墜ち申さず、上に、聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へば、天下の事も余り御力御落し之無き様願ひ奉り候」「日嗣之隆、与天壌無窮と有之候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば、正気重ねて発生の時、必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と記した。

 

松陰先生の偉大なのは、どんなに逆境にあっても、國體の無窮・上御一人の御稜威を信じて疑はず、祖國の将来を絶対に絶望されなかったことである。松陰は、天壌無窮の御神勅に絶対の信を置き、復古即革新すなはち日本肇國の大精神の回帰してこの國の危機を救はんとしたまことの維新者であった。

 

また、処刑の時の近づくのを知って十月二十五日より二十六日の黄昏にかかって書き上げたのが『留魂録』である。その冒頭に記した歌が

 

「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞ置かまし大和魂」

 

である。

 

また『留魂録』の最後には

 

「呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな」

「討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ」

 

等の歌が記されてゐる。これら松陰先生の辞世は文字通り古今の絶唱であり、日本民族の魂に刻まれる歌である。

 

この『留魂録』は同囚で八丈島送りになった沼崎吉五郎に託したが、二十年後、当時神奈川県令となってゐた松陰門下の野村靖に手渡したものが現在残ってゐる『留魂録』である。小生はその實物を萩の松陰神社にある松陰遺墨展示館で拝観した。

 

二十七日、刑の執行を受けるため揚屋(士分の牢獄)を出る時、松陰は、

 

「吾今國の為に死す 死して君親に負(そむ)かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」

 

の詩を朗唱し、刑場では「身はたとひ」の歌を朗唱して従容として刑についたと伝へられる。行年三十歳であった。

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2017年9月17日 (日)

維新について

維新」という言葉の出典は、『詩経』(支那最古の詩篇。孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる)の「大雅・文王篇」の一節である「周雖旧邦其命維新(周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり)」であるという。「周という国は、古い国であるが、新しき天命を受けている」というほどの意味であろう。

 

わが国では、藤田東湖が天保元年(1830年、)藩政改革への決意を述べる際に、「維新」という言葉をを引用して用いたのが最初とされている。

 

古くから続く国が、革新を繰り返し、新生するという意味である。日本民族が、天皇を祭祀主・君主と仰ぐ國體を護持しつつ、常に革新・改革を繰り返してきた歴史に合致した言葉なのである。

 

明治維新は、有史以来未曽有の変革ではあったが、國體は護持された。と言うよりも、日本國體の真の姿を回復することによって、大変革を成し遂げたのである。即ち、「復古即革新」である。

世の中の矛盾・不合理を徹底的に粉砕し、国民の幸福と国家の存立を確保する。それがただの破壊・破壊としないためには、日本国の道統を原理としなければならない。日本における革新とは、古きものの土台の上に立脚する。「古きもの」とは、単なる時間的過去ではない。「原初」「始原」「始まりの時」である。すなわち。天孫降臨・神武肇国への回帰である。

 

歴史のさびを落とすためにものの本質・原初に立ち戻るのである。神代への回帰である。維新とは、「高天原への回帰」であり「今即神代」の精神である。

 

今日の日本はまさに混迷を深めている。しかし、混迷を深め国家民族が危機に陥っている時にこそ、変革が行われる。それがわが国の歴史である。

 

大化改新・建武中興・明治維新という我が国の変革の歴史は、天皇を君主と仰ぐ國體意識・尊皇精神の興起が原基となって断行された。これを維新と言う。

 

天皇を原基とし原理とするが故に、醜い政治権力闘争ではなくなる。美しく荘厳なる変革となる。それが他国の革命との絶対的違いである。つまり、天皇を祭祀主と仰ぐ神聖国家・道義国家の再生が、日本的変革即ち維新の本質なのである。尊皇精神なき維新はあり得ない。

 

維新とは、祭政一致の清明なる「まつりごと」の回復である。教条や政治理論に基づく体制変革ではない。醜悪な国になりつつある祖国日本を救済する大変革それが維新である。今こそ、維新断行の時である。

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2017年9月11日 (月)

真の攘夷精神とは

保田與重郎氏は、「攘夷論が封建的鎖國論と、發想の異なるところを考へるべきである。けだし勤皇志士の攘夷論は、八紘爲宇の神勅を奉じ、しかる故に神州の聖天子と神州の尊貴に立脚して攘夷馭戎を論じ行じたのである。…この大自信には敵の実力を軽んじるとか蔑るといふやうな、つまらぬ危惧は何らないのである。…我々の先人はたゞ天つ神のことよさせ給うた神勅を無限の生命の原理とし、御世の萬世一系を信念とし、淡々として難に赴いたのである。」(『「橿ノ下」私抄』)と論じてゐる。

 

真の攘夷精神とは、そして明治維新の理想とは、八紘為宇の建國の理想実現であった。明治維新の基本理念である「攘夷」とはかたくなな排外思想ではないし、德川幕府の基本政策たる「鎖国」とも全く異なるものである。明治維新後に、新政府が攘夷から一転して開國に踏み切った背景には、幕末期から開國思想があったからである。表面的には、明治政府が徳川幕府と同じ開國政策を取るのなら、幕府を倒す必要はなかったと思へるかもしれない。しかし、決してさうではなかった。開國政策に転換するにせよしないにせよ、それを実行する主体的力量を日本といふ國家が持たなければならなかった。徳川将軍家にはそれが最早なくなってゐた。だから徳川幕府は打倒されねばならなかった。

 

 徳川幕府は開設以来鎖國政策を取り、頑なに外國との接触を拒否してゐた。にもかかはらず、アメリカの恫喝に遭遇すると、屈辱的な開港を行ってしまった。明治維新の志士たちはかうした徳川幕府の軟弱な姿勢を批判し否定したのであって、外國との交渉・開港を一切否定したのではない。ここが徳川幕府の従来通りの鎖國政策と維新者の攘夷精神との決定的な違ひである。

 

 吉田松陰や坂本龍馬らは、日本の自主性を保持し日本の真の発展に資する外國との交渉を望んだ。だから、松陰や龍馬など多くの維新の志士たちは外國の文物を学ぶことに熱心であった。

 

吉田松陰が安政三年三月二十七日夜、金子重輔と一緒に下田来泊のペリーの米艦にて米國に渡航せんとしたことは、攘夷とは排外・鎖國を可とするのではなく、日本が外國の支配下に入ることを拒み、独立を維持するために、外國の進歩した文物を学ぶことを要するといふ開明的な考へ方であったことを証しする。

 

 かうした下地があったからこそ、徳川幕藩体制が崩壊し、明治維新が断行された後の日本では、外國との交際を一切行はないといふ頑なな攘夷論は姿を消し、外國の侵略を撃退し日本の自主独立を守るために西欧の文物を学ばなければならないといふ強い意志を持った。これを「開國攘夷」と言ふ。ここに日本民族の柔軟性・優秀性がある。

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2017年8月31日 (木)

明治維新における「七生報國」の精神

 

「七生報國」の楠公精神は、後世にきはめて大きな影響を与へた。明治維新で活躍した多くの志士は、殆ど例外なく楠公に対する感激と崇敬とを抱いてゐた。維新の志士たちの楠公仰慕の心は非常に強いものがあった。明治維新の戦ひにおいて、楠公精神・七生報國の精神は志士たちによって継承され、且つ、實践された。楠公への仰慕の心、「七生報國」の精神の継承が、明治維新は成就の一大原動力であった。楠公の絶対尊皇精神が、明治維新の戦ひに挺身した志士たちの精神的基盤であった。

歌人であり國學者でもあった橘曙覽は次の歌をのこした。

 

湊川御墓の文字は知らぬ子も膝をりふせて嗚呼といふめり

 

楠公のお墓が荒廃してゐるのを嘆いた義公・水戸光國が、元禄五年(一六九二)、佐々助三郎宗淳を湊川に派遣して石碑を建て、「嗚呼忠臣楠子之墓」と自筆で題した。その楠公のお墓に刻まれた文字を仰げば、子供といへども感激して墓前に屈んで「嗚呼」と唱へるであらうといふ意。

吉田松陰は、安政三年(一八五六)『七生説』を書いて、正成が七度人間と生まれて國賊を滅ぼすことを誓ったことについて、「楠公兄弟は、徒(たゞ)に七生のみにあらず、初めより未だ嘗て死せざるなり。是より其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起せざる者は無ければ、則ち楠公の後、復た楠公を生ずる者、固より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや」と論じた。

また、吉田松陰の『留魂録』には次の歌がある。

七たひも生かえりつゝ夷をそ攘はんこゝろ吾忘れめや

 

楠公の崇拝者として知られ『今楠公』といはれたといふ真木和泉守保臣は、天保十年、二十七歳の時、次の歌を詠んだ。

 

すめる世も濁れる世にも湊川絶えぬ流れの水や汲ままし

 

さらに、西郷隆盛は次のやうな漢詩をのこしてゐる。

 

 

 

「楠公題図(楠公の図に題す

 

 

 

奇策明籌不可謨(奇策の明籌、謨(はか)るべからず)

 

正勤王事是真儒(正に王事に勤る、是真儒)

 

懐君一子七生語(懐(おも)ふ、君が一子七生の語)

 

抱此忠魂今在無(この忠魂を抱くもの、今在りや無しや)」。

 

 

 

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2017年8月24日 (木)

天皇を祭祀主と仰ぐド道義国家の回復こそが戦後からの訣別である

 

今日もっとも大切なのは、わが國の道統を重んじ、日本の伝統的文化を大切にする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識を回復しなければならないといふことである。

 

わが國は神話時代(神代)以来の伝統精神すなはち日本國民の歩むべき道がある。それに回帰することによって現代の混迷を打開すべきである。

 

日本伝統精神の本質は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心である。そして祖先の御霊を尊ぶ心である。

 

わが國の伝統精神における最も大切な行事は祭祀である。祭祀は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の実践である。祭祀が自然を破壊し、人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると確信する。

 

天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来てゐる。稲作生活から生まれた神話の精神を、祭祀といふ現実に生きた行事によって今日ただ今も継承し続けてきてをられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。

 

天皇は日本国の祭祀主として、新嘗祭、春季皇霊祭、秋季皇霊祭などの多くの祭祀を行わせられている。そしてその祭祀は、自然に宿る神々と皇祖皇宗のご神霊へのお祭りである。天皇は、敬神崇祖の最高の実践者であらせられるのである。

 

祭祀は、自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると確信する。また祭祀は、大自然の荒ぶる神々を鎮める。日本伝統精神の価値は今日まことに大切なものとなっている。天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家の本姿を回復することが現代の救済である。

 

天地自然に神の命が生きているという信仰が日本の伝統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同体が日本國の本姿である。それを現代において回復することが、大切なのである。これが道義の頽廃が根本原因である現代の様々な危機的状況を打開する唯一の方途である。

 

日本天皇の「祭祀の精神」を仰ぎ奉ることが、わが國の道義の中心である。祭祀主・日本天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。「戦後」からの真の訣別は、天皇中心の道義國家の本姿を回復する以外にない。

 

わが國の麗しい山河、かけがえのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識を回復しなければならない。我が國は神話時代(神代)以来の伝統精神すなわち日本國民の歩むべき道がある。それに回帰することによって現代の混迷を打開すべきである。

「天皇中心の道義國家」の回復こそが「戦後」からの真の訣別である。

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2017年8月20日 (日)

安倍晋三総理は、「戦後レジームからの脱却」という信念を今こそ明らかにして奮闘してもらいたい。

安倍晋三総理は、最近「戦後レジームからの脱却」ということをあまり主張なくなった。「レジーム」とは体制の事だ。七〇年代、活発に展開された民族派学生運動の中心スローガンは、「戦後体制打倒」「ヤルタポツダム体制打倒」であった。安倍氏のブレーンには、民族派学生運動で活躍した人たちがいる。

 

「真正保守」という言葉がある。本物の保守という意味であろう。偽物の保守とは現状維持・戦後体制維持勢力だ。真正保守とは一言で言えば「國體護持」である。それはあるべき日本の眞姿の回復と言い換えてもいい。そしてその日本の眞姿の回復はそのまま現状の革新なのである。「維新とは復古即革新である」と言われる所以である。「復古」の「古」とは時間的過去のことではない。日本のあるべき姿、天皇国日本の眞姿の事である。

 

今日、日本國體・日本の眞姿を隠蔽しているのが「戦後レジーム」「戦後体制」である。「戦後体制打倒」「戦後レジームからの脱却」とは、つまりは「維新」という事だ。

 

わが國は悠遠の歴史を有している。三千年に及ぶ歴史を貫いて来たわが日本の傳統精神、民族の精神的核に立ち返って、現状を正しく観察し、変革の方途を見出す精神が維新である。

 

我が國は過去において何回か國家的危機に際會し、見事に乗り越えて来た。外圧によって國家の独立が危殆に瀕した時、強烈な民族精神・尊皇精神が勃興し、変革を断行し、危機を打開して来た。

 

大化改新は唐新羅連合軍侵攻の危機があった時に行はれた。元寇=蒙古襲来の時、日本國民は愛國心を燃え立たせ神國意識を強固なものとした。それは建武中興へとつながった。明治維新は欧米列強による侵略の危機があった時に行はれた。

 

今日においてもわが國の本来の姿に回帰することによって、危機を乗り越えていかねばならない。必ず乗り越えることができると確信する。

 

民族の歴史と傳統精神を基本原理とする日本の革新即ち維新は、それを志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって實現する。

 

わが日本國民が護るべき最高のものは傳統精神であり、変えるべきものは国家民族の真姿を隠蔽する全ての事象である。

安倍晋三総理は、「戦後レジームからの脱却」という信念を今こそ明らかにして奮闘してもらいたい。

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2017年8月 9日 (水)

統治者としての天皇の御本姿を回復することが復古即革新=維新である

日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)ということである。そして祭祀によって神と人とが合一する。天皇の「祭祀」そして「無私の大御心」が日本國民の道義の規範なのである。

 

人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。

 

日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の継承者たる天皇の大御心・御意志にまつろう(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」ということである。神の意志を地上において実現する使命を持つお方が天皇であらせられるのである。

 

現御神信仰の公的表現は、宣命詔勅に「現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されている。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く」と示されている。

 

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の実践者であらせられるのである。

 

天皇が日本国を統治されるのは、日本国の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものにその所を得さしめることである。明治天皇の『天下億兆一人も其處を得ざる時、皆朕が罪なれば、…』(明治元年三月十四日に示された『明治維新の御宸翰』)という御精神こそ天皇統治の本質であると拝する。

 

さらに明治陛下はその「御宸翰」で、「朕身骨を労し心志を苦め艱難の先に立ち、古列祖の盡させ給ひし蹤を履み、治蹟を勤めてこそ、始て天職を奉じて、億兆の君たる所に背かざるべし」と仰せになっている。

 

明治天皇の外祖父中山忠能前権大納言は、明治天皇御即位に当たって、「そもそも皇国は天照皇大神の御国で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といえども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、…」と言上した。

 

日本天皇は、『朕は国家なり』と言うような国家国民を私物化する西洋的な絶対専制君主とは全くその本質を異にする。日本天皇は天津神の御委任により「天職を奉じて」日本国に君臨されているである。故に天皇は常に無私の心で統治されるのである。

 

無私の心とは神の御心のままということである。天皇は、皇祖皇宗が踏み行われた道を継承されることを心がけられるのである。そのことがそのまま億兆の民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となるのである。

 

天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではないのである。日本天皇の無私の精神および神聖なる権威はかかる御精神から発生するのである。

 

支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらえ、天子たる皇帝は民衆を上から見下ろし支配すると考えている。

 

しかしわが国においては、天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、国土もまた天の神が生みたもうたのである。

 

混迷の極にある現代日本を救うには、統治者としての天皇の御本姿を回復することが大切であると考える。復古即革新=維新とはそういうことを言うのである。 

 

 

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