2018年11月11日 (日)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で三島氏は、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提に、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない。」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、新しい日本はまだまだ建設されていない。それどころか蹶起以来四十八年を経過した今日、三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっている。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。だから、三島氏は「文士」という言葉を使ったと思う。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として自殺するのではなく、言葉の正しい意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここで言う「身分の高貴さ」とは、階層的・職業的差別のことではなく、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れから来ている。

 

 三島氏の作品と人生における「文化意志」は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、「文武両道の実現」であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 詩歌などの『文』は、いうまでもなく『美』を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、『文』が求めてやまない『美』の極致である。三島氏はその「美の極致」を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言う。 

 

 『萬葉集』所収の「柿本人麿歌集」の「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)という歌も、相聞の心を戀闕心に置き換えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島氏の理想とした美を全く否定してきた。できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、「散華の美」とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方であろう。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動をいわゆる「源泉の感情」として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは「檄文」の冒頭に書かれている通りだ。

 

 戦後日本の救済・革命のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは三島氏の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。           

 

 三島氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。「鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会」以前の源泉の感情が死を決意させたと言える。

 

 三島氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は現代日本において自殺へ追い込まれている人々とは違って、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。生き長らえれば、三島氏の四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪したのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの「散華の美」を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。しかし、その後の時代の経過は、三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。その結果が今日の混迷である。

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2018年11月 9日 (金)

本是神州清潔之民

今年は台風がよく日本列島を直撃しました。わが国は台風がよく来ます。何故か、日本列島に近づくと方向を変え、支那大陸や朝鮮半島にはあまり上陸せず、わが國に上陸して北東方角へ去って行きます。

 

私は、日本人が清潔さを好む民族なのは、台風というものが日本によく来ることがその原因の一つではないかと考えています。強い風と雨が地上の穢れを吹き払い洗い清めてくれる台風は、自然に日本人の清潔さ・いさぎよさを好む精神を養成したのではないかと思うのです。勿論、台風によって多くの自然災害が起こります。しかしそのことも、日本人の強靭さ忍耐強さを養うこととなっているのではないでしょうか。

 

「本是神州清潔之民」という日本漢詩があるように、わが民族はすがすがしさ、清らかさ、清潔さを好みます。我が国伝統信仰には、『禊』という行事があります。また「大祓詞」という祝詞もあります。台風が多く、水が清らかな日本の風土に生きる日本民族なればこそ清潔を好むのであります。

 

「天の下 清くはらひて 上古(いにしへ)の 御まつりごとに 復(かへ)るよろこべ」

 

橘曙覧(江戸末期の歌人・國学者。越前の人)が維新の精神を詠んだ歌です。清明心(きよらけくあきらけき心)が日本民族の傳統的道義精神です。現状の穢れを祓ひ清め、神代のままの清く麗しい日本を回復することを喜び希求した歌です。維新すなはち復古即革新の精神をうたひあげてゐます。この歌の心が維新=日本的変革の根本精神であると思ひます。

 

常に全てを祓い清めて新生を繰り返し永遠の生命を甦らしめるという精神が、日本伝統信仰の根本であります。日本は長い歴史を有する国であるが、ただ古さを誇りとするのではなく、伝統を顧みつつ常に新生・祓清めを繰り返してきたところに素晴らしさがあるのです。

 

我が国の維新の道統もまさに清らかさを好む民族精神と一体なのであります。

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2018年11月 6日 (火)

國體の危機の時にこそ尊皇思想が興起し國難の時にこそ神國思想が勃興する

國體の危機の時にこそ尊皇思想が興起し國難の時にこそ神國思想が勃興する

 

大化改新と明治維新は共通する面が多い。この二つの変革で行はれたのは、外圧の排除であり、政治體制・法體制の整備であり、外國文明・文化の輸入である。大化改新後の律令國家體制は明治維新後の明治憲法體制と相似である。

 

中村元氏は次のごとくに論じてゐる。

「國家至上主義(ultra nationalism)は決して明治維新以後のある時期になって突然あらわれたものではない。その萌芽はきわめて古い時代から存する。…『大日本』という語は、傳教大師がしばしば用いているが、おそらく『大日本』という語の用いられた最初であろう。…日本の國土がシナに比してはるかに狭小であり、物質的な財力もシナよりはるかに劣っていることを、かれは熟知していた。シナに留學していたかれは、この事実を当時の何人よりも痛感していたはずである。それにもかかわらず、なお『大日本』と称したわけで、かれが日本を大乗相応の地と信じていたからである」

「日本が神國であるということは、謡曲においても自明のこととして考えられている。日蓮はこのような見解をはっきりと採用している。『日本國は神國なり』(『月水御書』)『夫れ此國は神國なり。神は非礼を稟(う)けたまはず』(『与北条時宗書』)などという。」「日蓮によれば、宗教そのものは國家に奉仕すべきものである。『日本國一萬三千三十七の寺、並に三千一百三十二の神は、國家安穏の為に崇められて候』(『諌暁八幡抄』)…日蓮が問題としていたのは、どこまでも日本の問題であった。」(『日本人の思惟方法』)と。

 

神國思想は、内憂外患交々来たるといふ時代であった中世において謳歌されたが、その淵源は、日本神話の天地生成神話にあることは言ふまでもない。

 

「神國」という語が文献にあらはれたのは、『日本書紀』の「神功皇后の巻」に新羅の王が日本軍を迎へて「吾聞東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。其國神兵也。」と述べたと書かれてゐるのが最初である。

 

『平家物語』(鎌倉前期の軍記物語)には、「さすが我朝は辺地粟散の地の境(註・辺鄙な所にある粟を散らしたやうな小國といふ意)とは申しながら天照大神の御子孫、國の主とし…猥(みだのがは)しく法皇を傾け参らせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。日本は是神國也。神は非礼を受け給はず。」と書かれてゐる。

 

日本國が天照大御神の御子孫が統治される神國であるといふ思想は、武家政権が確立した鎌倉時代においても変る事なく継承されてゐるのである。『平家物語』は琵琶法師によって広く世間に広められた物語であり、天皇を君主と仰ぐ神國思想は、当時の國民の共通の認識であったと考へられる。

 

鎌倉時代中期以後の民衆の意識が反映されているといふ「謡曲」には、天皇を君主と仰ぐ日本國の理想と傳統が濃厚に示されてゐる。『弓八幡』といふ作品では「君が代は千代に八千代にさざれ石の、巖となりて苔のむす、…君安全に民敦く、関の戸ざしもささざりき」とあり、天皇が統治する日本國の平和と開放性を称へてゐる。

 

和辻哲郎氏は、「関の戸を閉ざさないということは、天皇の統治のもとに全國が統一され、どこにも武力による対立がないことを指し示す」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。この時代において、天皇を中心とする統一國家意識が正しく確立されてゐたのである。

 

 そして、蒙古襲来により日本國民はナショナリズムを燃え立たせ神國意識を益々強固ものとした。

 

「西の海寄せくる波も心せよ神の守れるやまと島根ぞ」(春日若宮社の神職・中臣祐春の歌。『異國のこと聞こえ侍るに神國たのもしくて』との詞書がある。日本國が神國であるとの信念を吐露した歌)

 

「勅として祈るしるしの神風に寄せ来る浪ぞかつくだけつる」(藤原定家の孫・藤原為氏が亀山上皇の勅使として蒙古撃退・敵國降伏を祈願するために伊勢にお参りした時の歌)

 

といふ歌が生まれた。

 

禅宗の僧侶・宏覚も蒙古襲来といふ國難の時期にあって六十三日間蒙古撃退の祈願を行ひその祈願文の最後には、

 

「末の世の末の末まで我國はよろづの國にすぐれたる國」

といふ歌を記した。

 

文永の役の翌年の建治元年(一二七五)、当時五十四歳の日蓮が、国家的危機の真最中に書いた『撰時鈔下』に、「日本国と申すは、天照大神の日天にてましますゆへなり」と書いてゐる。そして、『神国王御書』では日本は「八万の国に超たる国」である論じ、その理由として「此の日本国は外道一人無し。其の上神は又第一天照大神、第二八幡大菩薩、第三山王等の三千餘社、晝夜に我国を護り朝夕に国家を視(みそなはし) 給ふ。其の上天照大神は内侍所と申す明鏡に浮べ影内裏に崇められ給ふ」と論じてゐる。

 

かうしたナショナリズムの勃興がやがて建武中興へとつながっていく。このやうに日本民族は古代から・中古・中世・近世へと脈々と神國思想及びそれと一體のものとしての尊皇心を継承して来たのである。

 

『神皇正統記』(南北朝時代の史論。北畠親房著。延元四年成立)の冒頭には、「大日本者神國(おほやまとはかみのくに)也、天祖(あまつみおや)ハジメテ基(もとゐ)ヲヒラキ、日神(ひのかみ)ナガク統ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝(いてう)ニハ其タグヒナシ。此故ニ神國ト云(いふ)也。」とある。

 

この文章に「わが國は、神が護り給ふ國であるだけでなく、天照大御神の生みの御子が統治し給ふ國である」といふわが國の傳統的國家観・天皇観が端的に示されてゐる。國體の危機の時にこそ尊皇思想が興起し、國難の時にこそ神國思想が勃興するのである。今日のおいてもさうであるし、さうであらねばならない。

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2018年10月29日 (月)

日本國體精神と危機打開

 

わが国の歴史は、外圧と対峙し、それを克服し、国家民族の独立と栄光を維持し発展させてきた歴史である。

 

その最大の要因は、天皇・皇室を祭祀主と仰いで國の統一と安定を確保するといふ強靭なる日本國體精神である。日本民族が外圧を除去し、外来文化・文明を自由に柔軟に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤の中核は、天皇・皇室のご存在である。

 

ナショナリズムとは、外國からの圧力・干渉を排して國家の独立を維持する思想および運動と定義される。運命共同體意識と言ひ換へても良いと思ふ。これは、國家民族の危機の時に澎湃として沸き起こってくるものであり、ごく自然な感情である。危険視したり不潔であるとすることはできない。わが國の歴史を回顧すれば明らかなことであるが、國民の強烈なナショナリズムの沸騰が、民族の独立を守り國家の存立を維持した。

 

言ふまでもないが、ナショナリズムは日本にだけ存在するものではない。世界各國に共通して勃興し存在する。その國・民族・共同體が危機に瀕した時に興起する國家防衛・独立確保の主張と行動である。

 

ナショナリズムは、歴史意識・傳統信仰と深く結びついてゐる。といふよりも不離一體である。自己の意識の中に民族の歴史を蘇らせることによって、ナショナリズムが形成される。國家的危機に際會した時、それを撥ね退けんとしてその國民がその國の歴史意識・傳統精神を根底に置いて運命共同體意識を結集し、勃興する精神と行動がナショナリズムである。民族の歴史を國民一人一人の精神の中で甦らせ、自己の倫理観・道義観の基本に置くことによって民族の主體性が形成される。

 

わが國が、西欧列強の侵略・植民地支配を受けることなく独立国家として近代化を遂げ発展し得たのは、「尊皇攘夷」を基本思想とした明治維新といふまさに「有史以来未曾有の大変革」を行ったからである。そしてそれが成功した根本的原因は、わが國は肇國以来、天皇を神聖君主と仰ぐ國體観・國家観が確立されていたからである。

 

今日わが國は外圧の危機が顕著になってゐる。これを克服するためには、日本民族としての主體性・帰属意識を回復する以外に無い。今こそ、日本民族の國體精神・歴史意識・傳統精神を我々一人一人の精神の中で甦らせ、國民一人一人の倫理観・道義感の基本に置き、日本民族精神・日本的ナショナリズムが勃興すべき時である。

 

『大西郷遺訓』に次のやうな言葉がある。

 

「正道を踏み國を以て斃(たお)るるの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮(いしゅく)し、圓滑(えんかつ)を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮(けいぶ)を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん」。

 

「國の陵辱(りょうじょく)せらるるに當(あた)りては、縱令國を以て斃るる共、正道を踐(ふ)み、義を盡すは政府の本務也。然るに平日金穀理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれ共、血の出る事に臨めば、頭を一處に集め、唯目前の苟安(こうあん)を謀るのみ、戰(いくさ)の一字を恐れ、政府の本務を墜(おと)しなば、商法支配所と申すものにて更に政府には非ざる也」。

 

「大西郷の精神」とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現です。西洋列強の侵略から祖国を守り天皇中心・四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものである。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからである。

 

さらに『大西郷遺訓』には次のやうな言葉がある。

 

「王を尊び民を憐れむは学問の本旨なり」「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を行ひ、職務に精勵して、人民の標準となり、下民をしてその勤労を感謝せしむるに至らざれば、政令は行はれ難し」

 

「萬民の上に位する者」即ち政治権力者は「王(天皇陛下)を尊び民を憐れむ心」を正しく確立しなければならない。今日及び将来の日本においても、祭祀主たる日本天皇の精神的権威が、政治権力を浄化し、権力者にかしこみの心を持たさしめ、国家・国民の幸福をはかることが出来る。これが、わが国建国以来の「祭政一致」の理想であり、万邦無比の日本國體の素晴らしさである。

 

尊皇精神こそが、日本国安泰の基礎である。天皇を君主と仰ぐ日本國體の護持とその理想実現こそが、日本国永遠の隆昌の基礎である。従って、尊皇精神希薄な権力者は断じてこれを排除しなければならない。また、皇室を貶める学者文化人評論家も厳しく糾弾しなければならない。国家革新や維新などを主張しても、尊皇精神がなければ、日本国を正しい姿を回復することは出来ない。

 

現代日本は、國民の皇室尊崇の念が薄れつつあり、伝統信仰が顧みられなくなりつつある。これが今日の國家の弱体化の原因であり、このままでは國家崩壊につながる。今日においては、民族の正氣・日本の心を回復せしめなければ日本は危うい。

 

外患に当って、「神祭・神事」が盛んになるのは、わが國の伝統である。現代においてこそ、祭祀主日本天皇の真姿が開顕されるべきである。今こそ天皇を中心とした國家の回復を目指す皇道大維新運動を繰り広げねばならない。

 

今日の日本も内憂外患を除去するために、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じように、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革を断行しなければならないと信ずる。

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2018年10月24日 (水)

来島恒喜氏について

来島恒喜は、明治二十二年(一八八九年)十月十八日、外務省からの帰路にあった大隈外務大臣に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。来島は爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害した。享年二十九歳であった。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。

 

的野半助氏著『来島恒喜』には、「来島恒喜が自刃するや、東京埋葬と郷里埋葬との両説ありしが、終に両説を採りて之を東京、福岡に葬ることと爲れり。初め恒喜の遺骸は、翌暁(午前三時)麹町区役所に於て假にこれを青山共同墓地に埋葬せしが、(友人たちが)青山龍泉寺に於て弔祭の典を挙げ…遺髪は谷中共同墓地に葬れり。会葬者三百名。東京では官憲を憚って質素にした。一周年忌に、頭山満自ら資を投じて墓石を建つ。勝海舟これに題して「来島恒喜之墓」と曰ふ。蓋し頭山は来島恒喜が海舟の教えを受けたことありしを以て海舟の揮毫を乞いしなりという」と書かれている。

 

毎年、祥月命日には、其の志を継ぐ人々によって、盛大な法要が営まれた。毎年その日になると、匿名の人から立派な生花が届けられた。初めのうちは誰ともわからなかったが、熱心な人が探索した結果、大隈重信その人であることが判明した。この命日ごとの献花は、大隈重信没後には、嗣子信常侯爵(平戸藩主松浦詮の子で、大隈重信の養子)によって長く続けられたという。

 

遺骨は福岡に帰り、崇福寺に葬られる。会葬者は頭山満・新藤喜平太・平岡浩太郎をはじめとした玄洋社の同志ら五千有余名。

 

この日、頭山が来島の棺の前で讀んだ弔辞の中で、「天下の諤々は君が一撃に若かず」という一句が、聞く人の心に深く印象づけられ、後世まで伝えられる言葉となった。

 

事実、あれほど天下を騒がせた条約改正論議も、来島の爆弾と一撃でぴたりと鎮まり、内閣は総辞職し、改正は延期された。

 

『玄洋社』憲則三章には、

「第一条 皇室を敬戴すべし。

「第二条 本国を愛重すべし。

「第三条 人民の権利を固守すべし」

 

とある。民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。即ち「不平等条約」の破棄である。

 

維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』という不平等条約の桎梏下に置かれ、半植民地と化した日本が、「完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。それが尊皇攘夷である。明治維新の戦いの大きな目的はそれであった。近代の言葉で言えば。ナショナリズム・民族主義の勃興である。

 

天皇を君主と仰ぐ日本国を欧米列強の侵略支配から守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であり尊皇攘夷の実現である。

 

明治維新の理想が完全に実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。

 

それは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いである。来島恒喜の大隈重信爆殺未遂はその大きな動きであった。

 

大隈重信を中心とする当時の政府の「条約改正案」の要点は、

「一、 外国人は日本国内のいずれの地域も自由に旅行し、通商し、居住し、またはあるある物件を所有することが出来る。

「二、 外国人の居留地は、今後何年かは現在のまま存続するが、そのうち廃止する。

「三、 外国人が日本国内を自由に旅行できるようになる前に、日本の高等裁判所は、相当数の外国人法官を任命すること。」

 

というものであった。条約改正反対論者は、条約改正に反対なのではなかった。改正ならどんな改正でもいいというものではない。日本の裁判に外国人法官を参加させることは、日本の独立を侵害するものと考えた。現行憲法改正に関する動きと似ている。

 

頭山満の基本点考えは、明治二十二年八月一日、松方正義内務大臣に面会して述べた次の言葉に明らかである。

 

「条約案は、金甌無欠の國體を毀損するものなり。今日の策は、他無し、条約改正を中止するに在るのみ。万一、条約案にして成立することあらば、閣下は独り今日の国家に対して、其の責任を辞すること能はざるのみならず、永劫未来、子々孫々に対して其責任を辞すること能はざるなり。苟も閣下にして、其責任を忘れて条約改正に賛成することあらば、余は国民と共に鼓を鳴らして其罪を問はざる可からず。余は国論を代表して閣下の決心如何を聞かんと欲する者なり」と。辞色甚だ決するものゝ如し。松方之を聞き、儼然襟を正しうして曰く『余は誓て足下の言に負かざらんことを期す』と。其後松方が閣議に於て固く条約改正中止の意見を執り、大隈案に反対するに至りしもの、頭山の遊説與りて力ありとなりと云ふ。」(的野半助氏著『来島恒喜』)

 

そして、同年十一月に開かれた愛国五団体の会議の席で頭山は「格別意見は持たない。しかし自分は、政府をして断じて屈辱的条約締結をなさしめない事に決めた」と述べた。この簡潔一語に潜む凛冽な殺気に満座は静まり返った。(頭山統一『筑前玄洋社』)

 

しかし黒田首相、大隈外相の意志は固かった。来島恒喜は条約改正を阻止するためには大隈重信に対して直接行動に訴えるしかないと決意した。それ以外に道は無いと考えた。

 

改正反対論者は、政府の条約改正の動きと共に、鹿鳴館の欧化主義、欧米外国人に対する屈辱的や阿諛叩頭、保安条例などによる自由民権運動への弾圧、その他政府に対する不満がその背景というか奥底にあった。

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2018年10月20日 (土)

「山河を亡ぼすなかれ」とは「國體を亡ぼすなかれ」と同義である

 

野村秋介氏は、河野邸焼き打ち事件、経団連事件、朝日新聞本社における自決といふ当時の社会を震撼させた文字通り命懸けの三つの直接行動を実行した。戦前戦後を通じて、このような人物はいない。

 

敵に対する或は悪に対する闘争心は激しいものがあった。過激と言えば、野村氏ほど過激な発想を持ち、それを実行した人はいない。しかしその半面、野村氏は人の心の痛みがわかる實に心優しい人であった。私は親しくさせて頂いて、野村氏ほど他人に対して優しく思いやりのある人はあまりいないと思った。本当の志士とはまさに野村氏のような人であろうと思った。

 

野村氏が自決した時、「すめらみこと弥栄」を唱えられたと聞いて本当に感銘した。我々の運動の原点は「天皇陛下万歳」で「ありすめらみこと弥栄」である。

「僕も(注・大島渚氏に)言ったんだ。『…私の心の原点は萬葉集なんだ。萬葉集ぐらい面白い世界はない。セックスあり、恋あり、歌あり、自分の奥さんの兄さんを恋し、セックスする。それも一般庶民じゃなく、天皇さまがやっている」(「天皇の理念と権力悪の打倒」・『いま君に牙はあるか』所収)

 

私は永年『萬葉集』を勉強させていただいているので、野村氏のこの言葉に深く共感する。

 

野村秋介氏は、「ぼくたちは、新しい日本なんて全然いってない。一番古い日本を守りたいわけ。そのためには常に新しくならなきゃいけない、といってるんです。ぼくは天皇制擁護派じゃないんです。天皇擁護派で『制』を抜くわけ。ぼくは天皇派だからね」(太田竜氏との対談「天皇・民族そして革命とは何か」・『友よ山河を亡ぼすなかれ』所収)と語っている。

 

天皇を祭祀主と仰ぐ日本國體は、決して政治制度はない。「國體護持」とは、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されている「天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体」「母なる大地」である祖国日本を護持することである。「一番古い日本を守りたいわけ。そのためには常に新しくならなきゃいけない」といふ言葉は。まさに復古即革新即ち維新の根本原理である。

 

野村氏はまた、「ぼくにとっての陛下は日本の美しい山河と同義なんです。かりに日本が砂漠だらけで、山紫水明の風土がなければ、当然古神道も生れなかったし、神道に象徴される陛下の思想っていうのは生まれなかったと思う。」(座談会「残奸の思想を語る」・『友よ山河を亡ぼすなかれ』所収)と語っている。

さらに野村氏は、自決の際に遺した「天の怒りか、地の声か」という文章で次のように語った。

 

「私は寺山修司の

『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし

身捨つるほどの祖国ありや』

という詩と十数年にわたって心の中で対峙し続けてきた。そして今『ある!』と腹の底から思うようになっている。私には親も妻も子も、友もいる。山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである。寺山は『ない』と言った。私は『ある』と言う」。

 

日本傳統信仰たる神道とは自然崇拝と祖霊崇拝が大きな二つの軸である。野村氏が最後の言葉で言われた「山川草木、石ころの一つひとつに至るまで私にとっては、すべて祖国そのものである」の精神はまさにこの日本傳統信仰を述べたのである。それは「いのちあるもの拝む精神」である。そしてそれが、日本天皇の大御心なのである。天地自然の神々を祭りたまう天皇こそが、「日本なるもの」の体現者であらせられる。野村秋介氏が言われた「山河を亡ぼすなかれ」とは、「國體を亡ぼすなかれ」とまったく同義である。

 

野村秋介氏のご冥福とお祈りさせていただくと同時に、まさに存亡の危機にあるわが祖国日本を天上よりお護り下さいと切に祈らせていただきます。

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2018年9月30日 (日)

維新について

 今日の危機的状況を打開するためには、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち平成維新を断行しなければならないと信ずる。

 

明治維新前夜は、アメリカなどの西欧列強が徳川幕府の弱体化に付け入って武力による圧迫を以て屈辱的な開港を日本に迫って来た。徳川幕府は、外圧を恐れかつ自らの権力=徳川幕藩體制を維持せんとしてそれを甘受しやうとした。かうした状況を打開し、王政復古すなはち天皇中心の國體を明らかにして強力な統一國家を建設し外圧を撥ね除けやうとしたのが明治維新である。

 

何処の國の革命も変革も、洋の東西・時の今昔を問はず、またその変革の是非を問はず、外國との関連・外國からの圧力によって為し遂げられたと言へる。古代日本の大変革たる大化改新も支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻の危機下に行はれた。ロシア革命も日露戦争・第一次世界大戦の影響下に行はれた。辛亥革命は阿片戦争が影響した。アメリカ独立革命は言ふまでもなくイギリスとの戦ひであった。明治維新もまたしかりである。

 

わが國のやうに建国以来三千年の歴史を有し高度な統合を実現してゐる國家に強大な外敵が出現した場合、民族的一體感・ナショナリズムが沸き起こるのは当然である。西洋列強の日本に対する圧迫が強まった時、これを撥ね除けるために藩といふ地域そして士農工商といふ身分制度を乗り越えて、天皇を中心とした日本國家・民族の一体感・運命共同意識を回復して外敵に当たろうとしたのである。

 

國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

 

「攘夷」とは夷狄(野蛮な外國)を撃ち攘ふといふことである。西欧列強といふ侵略者、異質の文化に直面した日本民族の國民的自覚と祖國防衛・独立維持の情念の噴出である。アメリカやロシアの軍艦の来航といふ國家的危機に直面して、國防意識が全國民的に高まった時に、自然に発生し燃え上がった激しき情念である。

 

「尊皇攘夷」の起源は、貝塚茂樹氏によると、北狄や南蛮の侵略にあった古代支那(周の末期)の都市國家群・支那民族が、危機を乗り越えやうとした時の旗幟(きし)である。ただし支那の場合は、「尊皇」ではなく「尊王」である。

 日本國の長い歴史の中で、「攘夷」の精神は静かに表面に出ず脈々と継承され生き続けたのであるが、白村江の戦いの敗北・元寇・幕末・大東亜戦争といふ外患の時期においてこの精神が昂揚した。

 

 大化改新と明治維新は共通する面が多い。それは外圧の排除であり、政治体制・法体制の整備であり、外國文明・文化の受容である。大化改新後の律令國家体制は明治維新後の明治憲法体制と相似である。

 

維新のことを日本的変革といふ。日本の伝統精神に基づいた変革が維新であり、日本の本来あるべき姿即ち天皇中心の國體を開顕する変革が維新である。維新と革命の違ひは変革の原理を天皇とするか否かである。ゆゑに明治維新は革命ではない。

 

また、神武建國の精神に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではない。日本の道統への回帰である。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になるのである。これを「維新とは復古即革新である」と言ふ。

 

徳川幕藩体制から天皇中心の統一國家への転生は、体制変革のみならず、精神の変革がその根底にあった。日本國家の発展と安定の基礎は、天皇中心の信仰共同体としての日本國體が、現実の國家運営の基盤として正しく開顕してゐることにある。

 

 近代のみならずわが國の歴史が始まって以来、日本國家を統合する<核>が天皇であった。急速な変化と激動の中で、わが國が祖先から受け継いだ伝統を護り、かつ変革を為し遂げた<核>が、天皇のご存在であった。わが國は、どのやうな困難な時期においても、常に伝統を守り、統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その<核>が天皇であった。

 

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。

事実、明治維新断行後、天皇を統治者として仰ぎつつ、封建的身分制度は廃止され、廃藩置県によって統一國家が建設され、帝國憲法の発布・議会政治が開始された。そしてわが国は、欧米列強の支配下に置かれることはなかった。

 

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は、外来文化・宗教・文明を受容しても、その中核には、天皇を中心とするわが國體精神があった。特に政治・倫理・文化など國家民族形成の基本においてしかりであった。

 

日本人は優秀である。その優秀さは、勤勉性、高い道義心、協力と献身の精神の旺盛さ、謹厳実直さなど色々挙げられるだらう。

 

わが國の祭祀主は、上御一人日本天皇であり、天皇はもっとも清浄な御方であり、現御神であらせられる。天皇が政治・軍事・文化・宗教の最高権威者であらせられる。天皇帰一の國體の開顕が維新である。内憂外患交々来たると言った状況にある今日こそ、維新断行の時である。

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2018年7月17日 (火)

日本民族の國を愛する心の特質

日本民族の國を愛する心の特質は、「尊皇愛國」といふ言葉もあるやうに、萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

 

日本人にとって愛する祖國とは本来的には天皇の御代すなはち『君が代』なのである。これが日本の愛國心の特質である。ゆえに『國歌・君が代』こそ最大の愛國歌といふことができる。

 

日本における愛國心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

 

そして、防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際して勃興したのも國體精神である。日本における愛國心・ナショナリズムは尊皇精神・國體観念と一體である。

 

大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や國難の打開は、必ず愛國心・尊皇心の興起と一體であった。

 

維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。神話時代における戦ひの神々すなはち須佐之男命・日本武尊の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しく歓喜に溢れたものでもある。

 

わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都といふ大変革を背景として生まれた。

 

伴信友は、日本傳統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふ」と言ってゐる。そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。

 

愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。大化改新における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍将兵の歌を見ればそれは明らかである。 

 

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2018年7月13日 (金)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 三島由紀夫氏は、『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提にして、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない。」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、三島由紀夫氏の自決以来四十八年を経過した今日、三島氏の言った「新らしい日本」はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっているように思える。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。商人を「商士」とは言わない。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」という言葉を使った。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として「自殺」するのではなく、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここで言う「身分の高貴さ」とは、職業的差別のことではなく、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れがその淵源であろう。

 

 三島氏の作品と人生における文化意志は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島由紀夫氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、「文武両道」の実現であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 日本民族の文化意志において、切腹はまさに美の実現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって「美」であった。それは武における美の実現の最高の形態と言っていい。

 

 詩歌などの「文」は、言うまでもなく「美」を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、「文」が求めてやまない「美」の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

 愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言った。

               

 『萬葉集』に収められた「柿本人麿歌集」の

 

「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)

 

という歌は、相聞の心を戀闕心に変えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島由紀夫氏の理想とした美を全く否定してきた。今の世の中は、できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、散華の美とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方である。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を源泉の感情として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは『檄文』の冒頭に書かれている通りである。

 

 三島由紀夫氏は、戦後日本の救済・親の革新のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは彼の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。

                                   

 三島氏由紀夫氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会以前の源泉の感情が自決を決意させたと言える。

 

 三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

 三島由紀夫氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は現代日本において自殺へ追い込まれている人々とは違って、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪し、許せなかったのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの散華の美を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。

 

しかし、自決後四十八年を経過して、時代の激動は三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。結果がこの混迷である。今日こそ、霊となった三島氏の復活が求められる。  

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2018年4月13日 (金)

明治維新の基本精神

 江戸時代に徳川家が独占してきた役職である征夷大将軍とは「夷」(えびす・えみし=日本に仇なすもの)を征討する大将軍という意味である。ところが幕府はペリーがやって来たら慌てふためいて、有効に対策を講ずることに苦慮した。そればかりか井伊直弼は、そして天皇陛下のお許しを得ないでアメリカと屈辱的な國交を結んでしまった。そこで、徳川氏は征夷大将軍の役目を果たすことができないということになって、徳川幕府を倒して、天皇中心の國家を再生せしめた大変革が、明治維新である。

 

 わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』に「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されている。

 

 「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 

 また、慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 

 明治天皇は、

 

 「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」

 「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 

 と詠ませられている。    

 

 明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

 明治維新の基本精神たる「神武創業への回帰」とは、「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。

 

これが『五箇条の御誓文』に示された「旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ」である。

 

わが国史上最大の変革であった明治維新はまさに国民の心の底に潜む伝統精神を呼び覚ましこれを核として変革を断行した変革であった。明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主氏仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家體制を革新し外國からの侵略を防ぐという精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一體であるという「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといわれる所以である。

 

明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されている。

 

さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

 

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。そしてこうした伝統回帰の精神を基盤として、外国の文化・文明を大胆に取り入れた変革が行われた。

 

葦津珍彦氏は、「明治維新は日本の近代的統一国家を生み出した精神を、近代的ナショナリズムをよぶとすれば、その精神の基礎となったのは、日本民族の天皇意識(國體意識)であった」と論じている。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

神武建国の昔に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではなかった。日本の伝統への回帰を目指したのである。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になった。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味である。

 

日本が、大胆に外来文化・文明を受容しながらも、傳統文化を喪失することなく日本の独自性を護ることが出来た強靭性を持っていたのは、天皇・皇室のご存在があったからである。近代化・文明開化においても、天皇・皇室が、積極的に外来文化・文明の受容を推進するご意志を示された。

 

明治天皇は明治維新の基本理念が示された『五箇条の御誓文』(明治元年三月十四日)において、

「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」

智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」

と示された。

 

さらに、御製において

「よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな」

「世の中の人におくれをとりぬべしすゝまむときに進まざりせば」

と詠まれた。

 

明治天皇は「皇基ヲ振起スヘシ」「あしきをすてて」と示されている。日本近代化にあたって、大いに欧米をはじめとして外國文化・文明を取り入れ學ぶとしても、それは無原則に取り入れるのでない。あくまでも、わが國の傳統に合致せずわが國の國柄を破壊する要素のある悪しき事はこれを排除するのである。

つまり、日本文化の独自性・傳統を維持しつつ外来文化文明を包摂して来たのである。「和魂漢才」「和魂洋才」はわが國の古代からの文化道統である。

 

日本傳統精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ったのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」「保守即変革」である。未曽有の危機にある現代においてこそ、この理念が継承されるべきである。

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