2018年7月17日 (火)

日本民族の國を愛する心の特質

日本民族の國を愛する心の特質は、「尊皇愛國」といふ言葉もあるやうに、萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

 

日本人にとって愛する祖國とは本来的には天皇の御代すなはち『君が代』なのである。これが日本の愛國心の特質である。ゆえに『國歌・君が代』こそ最大の愛國歌といふことができる。

 

日本における愛國心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

 

そして、防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際して勃興したのも國體精神である。日本における愛國心・ナショナリズムは尊皇精神・國體観念と一體である。

 

大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や國難の打開は、必ず愛國心・尊皇心の興起と一體であった。

 

維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。神話時代における戦ひの神々すなはち須佐之男命・日本武尊の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しく歓喜に溢れたものでもある。

 

わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都といふ大変革を背景として生まれた。

 

伴信友は、日本傳統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふ」と言ってゐる。そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。

 

愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。大化改新における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍将兵の歌を見ればそれは明らかである。 

 

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2018年7月13日 (金)

三島由紀夫氏の武士道と散華の美

 三島由紀夫氏は、『美しい死』(昭和四二年八月)という文章で、「武士道の理想は美しく死ぬことであった」ということを前提にして、「ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬこともむづかしいといふところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、金が人生の至上價値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もっとも往生際の悪い病氣である癌で死ぬまで待つほかはない。」「武士が人に尊敬されたのは、少なくとも武士には、いさぎよい美しい死に方が可能だと考へられたからである。……死を怖れず、死を美しいものとするのは、商人ではない」と論じている。

 

 さらに、『維新の若者』という文章では、「今年こそ、立派な、さはやかな、日本人らしい『維新の若者』が陸續と姿を現はす年になるだらうと信じてゐる。日本がこのままではいけないことは明らかで、戰後二十三年の垢がたまりにたまって、經濟的繁榮のかげに精神的ゴミためが累積してしまった。われわれ壮年も若者に伍して、何ものをも怖れず、歩一歩、新らしい日本の建設へと踏み出すべき年が來たのである」(昭和四四年一月)と論じている。

 

 残念ながら、三島由紀夫氏の自決以来四十八年を経過した今日、三島氏の言った「新らしい日本」はまだまだ建設されていない。それどころか三島氏が嫌悪した「現代日本の困難な状況」はますますひどくなっているように思える。

 

 三島氏にとって、「武」と「死」とは同義語であったのだろう。三島氏がドナルド・キーン氏に宛てた遺書で、「ずっと以前から、小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました」と書いた。今はこの「文士」という言葉すら死語になってしまった。商人を「商士」とは言わない。「文士」という言葉には、文を書くことに最高の価値を求め、他を顧みない男児というほどの意味が含まれる。「士」とは立派な男子という意味である。三島氏は「文士」という言葉を使った。

 

 三島氏は、一般の庶民・民衆として「自殺」するのではなく、言葉の真の意味において「身分の高貴さ」を顕示しつつ死ぬことに憧れていた。ここで言う「身分の高貴さ」とは、職業的差別のことではなく、死を恐れない武士の高貴さことである。文士ではなく武士として死にたいというのは戦時下における三島氏の武士(国のために身を捧げる軍人)への憧れがその淵源であろう。

 

 三島氏の作品と人生における文化意志は、文武両道・散華の美であった。三島氏は、「『文武両道』とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであった。……本当の文武両道が成り立つのは死の瞬間しかないだろう。」(『太陽と鉄』)と論じている。

 

 三島由紀夫氏は自己の実人生でそれを実現した。三島由紀夫氏が生涯の理想としたのは、「文武両道」の実現であった。それは三島氏にとって最高の美の実現であり、日本の傳統的文化意志の継承であり、創造であった。

 

 日本民族の文化意志において、切腹はまさに美の実現であった。『忠臣蔵』の浅野内匠頭や大石蔵之助等四十七士の切腹を、江戸時代以来のわが國の庶民大衆が讃美し続けているように、切腹とは、日本人にとって「美」であった。それは武における美の実現の最高の形態と言っていい。

 

 詩歌などの「文」は、言うまでもなく「美」を求める。切腹や特攻隊の自爆などに見える「散華の美」とは、「文」が求めてやまない「美」の極致である。三島氏はその美の極致を少年期より求め続け、割腹自決によって実現したと言える。

 

 愛するものへいのちを捧げることを、清水文雄氏は、「『死』をもてみやびする」と表現した。相聞の心を戀闕にかえれば三島氏の自決も、「死をもてみやびしたのだ」と、岡保生氏は言った。

               

 『萬葉集』に収められた「柿本人麿歌集」の

 

「戀するに死(しに)するものにあらませばわが身は千(ち)たび死にかへらまし」(萬葉集・二三九〇)

 

という歌は、相聞の心を戀闕心に変えれば、まさに「七生報国」の楠公精神を歌った歌である。

 

 切腹とは名誉ある死である。しかも実に克己心が必要な苦しい死である。これは、現代日本の自殺の横行とは全く別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。

 戦後の『平和と民主主義』の時代は、三島由紀夫氏の理想とした美を全く否定してきた。今の世の中は、できるだけ平和のうちに長生きし、苦しまないで死ぬことを希求する。戦後の政治も文化も、散華の美とは全く対極にある。責任を取って自決するなどということはあってはならないしあるべきではない。そして、人生に行き詰まり、絶望して死を選ぶ人は多いが、おのれの美學のために死ぬなどということはない。

 

 「大君の御為・國の為に、責任を取って自決するなどということ、七度生きて国に報いるなどという精神はあってはならないしあるべきではない」というのが、今日の考え方である。

 

 大正十四年(一九二五)一月生まれの三島氏は、終戦の時二十歳であった。三島氏は、戦争で死ぬことができなかったという思い、死に遅れたという悔恨(かいこん)の思いを持ち続けた。感受性の強い三島氏にとって、十代後半における祖國への献身・天皇のために身を捧げることの美しさへの感動を源泉の感情として生涯持ち続けたと推測される。戦後日本が虚妄と偽善と醜悪さと道義の頽廃に満たされ続けたから、それはより激しいものとなったであろう。三島氏はそういう意味で、戦後を否定し拒否した。それは『檄文』の冒頭に書かれている通りである。

 

 三島由紀夫氏は、戦後日本の救済・親の革新のために、日本の文化的同一性と連続性の体現者たる神聖君主・日本天皇への回帰を求めた。一切の頽廃を清め、虚妄を打破するために、道義の回復を求めた。それは彼の少年時代の「源泉の感情」への回帰であった。祖國への献身、天皇への捨身である。

                                   

 三島氏由紀夫氏の自決の決意は、檄文の「共に立って義のために共に死ぬのだ。……日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の國、日本だ」に示されている。それは十代の三島氏が信じたものであったに違いない。鼻をつまんで通りすぎただけの戦後社会以前の源泉の感情が自決を決意させたと言える。

 

 三島氏は芥川龍之介の自殺にふれて、「文學者の自殺を認めない」と断言した。三島氏の自決は自殺ではない。いわんや文學者の自殺ではない。

 

 三島由紀夫氏が理想とした美の極致としての自決は、現代日本の自殺の横行とは別次元の話である。絶望と苦しさからの逃避のための自殺ではない。三島氏は現代日本において自殺へ追い込まれている人々とは違って、「世俗的成功」と「文學的名声」を獲得していた人である。四十五歳からの人生は安穏であったに違いない。

 

 三島氏は、死に遅れたというよりも生き残った人々が生活し構築した戦後社会を醜悪なるものとして嫌悪し、許せなかったのであろう。そして國のため天皇の御為に身を捧げた青年たちの散華の美を憧憬しその人たちの後を追ったのであろう。もののふの崇高さと誇りと美を体現した自決であった。

 

しかし、自決後四十八年を経過して、時代の激動は三島氏の自決と叫びと訴えを忘却した。結果がこの混迷である。今日こそ、霊となった三島氏の復活が求められる。  

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2018年4月13日 (金)

明治維新の基本精神

 江戸時代に徳川家が独占してきた役職である征夷大将軍とは「夷」(えびす・えみし=日本に仇なすもの)を征討する大将軍という意味である。ところが幕府はペリーがやって来たら慌てふためいて、有効に対策を講ずることに苦慮した。そればかりか井伊直弼は、そして天皇陛下のお許しを得ないでアメリカと屈辱的な國交を結んでしまった。そこで、徳川氏は征夷大将軍の役目を果たすことができないということになって、徳川幕府を倒して、天皇中心の國家を再生せしめた大変革が、明治維新である。

 

 わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』に「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されている。

 

 「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 

 また、慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 

 明治天皇は、

 

 「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」

 「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 

 と詠ませられている。    

 

 明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 

 明治維新の基本精神たる「神武創業への回帰」とは、「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。

 

これが『五箇条の御誓文』に示された「旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ」である。

 

わが国史上最大の変革であった明治維新はまさに国民の心の底に潜む伝統精神を呼び覚ましこれを核として変革を断行した変革であった。明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主氏仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家體制を革新し外國からの侵略を防ぐという精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一體であるという「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといわれる所以である。

 

明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されている。

 

さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

 

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。そしてこうした伝統回帰の精神を基盤として、外国の文化・文明を大胆に取り入れた変革が行われた。

 

葦津珍彦氏は、「明治維新は日本の近代的統一国家を生み出した精神を、近代的ナショナリズムをよぶとすれば、その精神の基礎となったのは、日本民族の天皇意識(國體意識)であった」と論じている。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

神武建国の昔に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではなかった。日本の伝統への回帰を目指したのである。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になった。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味である。

 

日本が、大胆に外来文化・文明を受容しながらも、傳統文化を喪失することなく日本の独自性を護ることが出来た強靭性を持っていたのは、天皇・皇室のご存在があったからである。近代化・文明開化においても、天皇・皇室が、積極的に外来文化・文明の受容を推進するご意志を示された。

 

明治天皇は明治維新の基本理念が示された『五箇条の御誓文』(明治元年三月十四日)において、

「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」

智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」

と示された。

 

さらに、御製において

「よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな」

「世の中の人におくれをとりぬべしすゝまむときに進まざりせば」

と詠まれた。

 

明治天皇は「皇基ヲ振起スヘシ」「あしきをすてて」と示されている。日本近代化にあたって、大いに欧米をはじめとして外國文化・文明を取り入れ學ぶとしても、それは無原則に取り入れるのでない。あくまでも、わが國の傳統に合致せずわが國の國柄を破壊する要素のある悪しき事はこれを排除するのである。

つまり、日本文化の独自性・傳統を維持しつつ外来文化文明を包摂して来たのである。「和魂漢才」「和魂洋才」はわが國の古代からの文化道統である。

 

日本傳統精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ったのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」「保守即変革」である。未曽有の危機にある現代においてこそ、この理念が継承されるべきである。

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2018年4月 8日 (日)

維新と和歌

 

 

 文藝特に和歌は、常に現状を変革しより良き状態を憧憬するものである。維新の志から生まれるのが和歌である。和歌を詠む者に維新変革への志があってこそ価値が和歌としての価値が生まれる。和歌が真に、命・言靈のあるものとなるのは、その和歌を詠む者に維新変革の意志があることによる。

 

 現状に満足し変化を望まないといふ意味での平穏な暮らしの中からは和歌は生まれない。

 

 命が枯渇し言靈が失はれた言語が氾濫する情報化時代の現代においてこのことは重要である。

 

 維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。

 

 維新とは懸命なる戦いひであるが、単なる破壊でも暴力でもない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。

 

 わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都・唐新羅連合軍侵攻の危機という大変革・大建設・大危機を背景として生まれた。

 

 国風文化再興の時代に生れたのが『古今和歌集』である。また在原業平に象徴される平安朝の和歌は、藤原氏の専横への抵抗から生まれて来たと言へる。後鳥羽院の覇者・北條氏の武家政治に対する戦いの時代には『新古今和歌集』が生まれた。

 

 幕末維新の時代には、尊皇攘夷を目指した志士たちの詩歌は永遠不滅の光彩を放ってゐる。さらに東洋の解放を目指した大いなる戦ひであった大東亜戦争に殉じた将兵たちの辞世の歌は、萬人をして慟哭せしめる不滅の価値を持つ。このやうに國家変革即ち維新と和歌は不可分である。

 

 それらの歌は、なべて日本國の精神を包み込んで表白し、それぞれの時代性と変革の状況において個性を以て表現されてゐるのである。

 

 とりわけ『萬葉集』は、日本の伝統精神の文學的結晶である。萬葉の時代は、外には朝鮮半島の問題があり、内には蘇我氏の専横があり、文字通り内憂外患の時代であった。その國難を打開し、天皇中心の新國家体制の確立をはかったのが、大化改新である。

 

かうした時代において、柿本人麿は天皇の神聖性と日本國体の素晴らしさを美事に歌ひあげたし、大伴家持は漢心(からごころ)の蔓延への抵抗として『萬葉集』を編纂した。この時代の旭日昇天の清新なる日本民族の精神は『萬葉集』に結晶されてゐる。

 

そして「萬葉集の精神」は明治維新といふ大変革に大きな影響を及ぼした。明治維新も西欧列強の日本侵略の危機と徳川幕府の皇室軽視・封建支配といふ内憂外患を打開するため「尊皇攘夷」を基本理念として断行された大変革である。「尊皇攘夷」は、國家的危機に際会して燃え上がったところの日本的ナショナリズムを一言で表現した言葉である。

 

 幕末期の日本的ナショナリズムは萬葉の時代・建武中興の時代とりわけその時代の尊皇精神への憧憬の心と結びついてゐた。つまり、「萬葉集の精神」と「楠公精神」の謳歌である。

 

 江戸時代前・中期において『萬葉集』は學問の対象ではあったが、和歌創作の規範とはならなかった。しかし幕末期の國學者たちが『萬葉集』の精神を復興せしめた。その「文藝復興」が明治維新の精神的原動力の一つとなった。

 

 民族の歴史と伝統の精神を変革の原理とする日本の維新は、維新を志す者が、自らの精神と行動に、憧憬すべき時代の先人たちと同じ決意と歓喜と行動の源泉を甦らしめることによって実現する。これを復古即革新即ち維新といふのである。

 

 そのために日本民族の持つ清潔な精神的血統と道統を継承する文藝である和歌を學び、和歌を詠むことが大切になるのである。なぜなら、いにしゑから伝へられた「五・七・五・七・七」といふ形式を保持しつつ、その形式によって新しき精神を表白するところの和歌は「復古即革新」の文藝だからである。

 

 今日の日本もまた、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況の中にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が必要なのである。

 

現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来てゐる民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでいる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ実感すべきである。

 

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2018年2月16日 (金)

孝明天皇の震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた

孝明天皇の震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた

 

安政五年(一八五八)一月、幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外國の勢威を恐れた屈辱的な開國をお許しにならなかった。同年六月、大老就任直後の井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印し、無断調印の責任を、堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外に追放した。

 

第百二十一代孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公實記』の「米國条約調印ニ付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の『勅書』において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

 

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、實に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

 

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

 

孝明天皇は、

 

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」

 

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

 

大橋訥庵(江戸後期の儒学者。文久二年、坂下門外の変の思想的指導者として捕縛され、拷問により死去)は、「幕府果して能く天朝を崇敬し、征夷の大任を顧みて、蛮夷の凌辱を受ることなく、神州に瑕瑾を付けず、然ればそれより大功と云ふ者なきゆえ、天朝にて眷顧を加へて優遇し玉ふべき、固より論なし。然るに後世の幕府のさまは、余りに勢威の盛大なるより、天朝を物の数とも思はず、恭遜の道を失ひ尽して、悖慢の所行甚だ多し。且や近年に至るに及んで故なく夷蛮に腰を屈して、國の醜辱を世界に顕し、開闢以来になき瑕瑾を神州に付けたれば、其罪細少のことと云んや。」(『文久元年九月政権恢復秘策』・徳川幕府が、天皇・朝廷を崇敬し征夷大将軍の使命を正しく果たしてゐれば、外敵の凌辱を受けることなく、神國日本を傷つけることもない。さうであれば大変な功績である。しかし今の幕府はあまりに威勢が大きいので、朝廷をものの数とも思わず、朝廷に対して慎み深くする道を失ひ、驕慢の所業が甚だ多い。しかも近年理由もなく外敵に屈して、國が辱めを受けることを世界に示し、日本國始まって以来無かったやうな傷を神國日本に付けた。その罪は小さいなどと言ふことはできない、といふ意)と論じた。

 

これは、徳川幕府が、天皇・朝廷を軽んじて来たのに、肝心要の外敵を征伐するといふ「征夷大将軍」の使命を果たすことができないといふ、まさに徳川幕府最大の罪を追及した激烈な文章である。明治維新といふ尊皇倒幕・尊皇攘夷の一大変革の基礎理論を主張してゐる。

 

梁川星厳(江戸末期の漢詩人。梅田雲濱・吉田松陰などと交流があったため、「安政の大獄」で逮捕されるはずであったが、「大獄」の直前に逝去)は、徳川幕府がペリーの恫喝に恐怖し、何ら為すところなく、安政五年(一八五八)に『日米修好通商条約』を調印したことに憤り、次の詩を詠んだ。

 

「紀事

當年の乃祖(だいそ)氣憑陵(ひょうりょう)、

風雲を叱咤し地を卷きて興る。

今日能はず外釁(がいきん)を除くこと、

征夷の二字は是れ虚稱。」

(その昔、なんじ(徳川氏)の祖先(家康)の意気は、勢いを盛んにして、人を凌(しの)いでゐた。大きな声で命令を下し、風雲を得て、地を巻き上げて、勢いよく興った。今日(こんにち、)外敵を駆除することができなければ、徳川氏の官職である征夷大将軍の「征夷」の二字は、偽りの呼称呼び方になる、といふ意)

 

徳富蘇峰氏はこの詩を引用して、「(ペリー来航は・注)一面外國の勢力のはなはだ偉大なるを教え、一面徳川幕府の無能・無力なるを教え、かくのごとくにして徳川幕府は恃むに足らず、恐るるに足らず、したがって信ずるには足らざることの不言の教訓を、實物をもって示した…(天皇は・注)現つ神の本面目に立ち還りここにはじめて京都における朝廷自身が、實際の政治に関与し給う端緒を開き来った。…政権の本源は朝廷にあることを朝廷自身はもとより、さらに一般國民にも漸次これを會得せしめ」(『明治三傑』)た、と論じでゐる。

 

もともと戦國時代の武士の覇権争ひの勝者・覇者であった徳川氏は、その力を喪失してしまへば、國の支配者たるの地位も失ふのである。今日の外患の危機も、日本國民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく體得し、強い愛國心を持つことによって打開できると確信する。

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2018年1月26日 (金)

後醍醐天皇の大御心と建武中興

覇道を排し皇道を根幹とした理想国家建設をめざした変革が建武中興であった。建武の中興について時代錯誤だアナクロニズムだといふ批判が喧しいが、決してさうではない。武家の軍事力・権力=覇道を排し、天皇・皇室の神聖権威=皇道を根幹とした理想国家建設をめざした一大変革が建武中興である。

 

また、「後醍醐天皇は宋学の影響を受け、支那の専制君主に倣って自らも日本国の専制君主にならうとした」「後醍醐天皇やその近臣らは支那への関心や朱子学(宋学)的な君臣名分論の影響を受けていたとされ、宋代の官制との比較などから、君主独裁政治を目指していた」といふ説がある。

 

しかし、後醍醐天皇が目指されたのは、単なる天皇権力の回復ではないし、天皇専制独裁政治の実現を目指されたのではない。摂関政治・院政・武家の専横を正され、上御一人日本天皇を唯一の君主と仰ぐ肇国以来の「一君萬民の國體の真姿回復」を目指されたのである。これが建武の中興において後醍醐天皇が目指された理想である。

 

後醍醐天皇は、臣下たる武家幕府が、皇位継承にまで介入して来るといふ異常事態を是正し、皇位継承は天皇のご意志によってのみ決せられるべきであるといふ國體の真姿回復につとめられた。

 

和辻哲郎氏は、「建武中興の事業は短期間で終わったが、その与えた影響は非常に大きかった。…建武中興が表現しているのは、武士勃興以前の時代の復活である。神話伝説の時代には、天皇尊崇や清明心の道徳が著しかった。…しかし鎌倉時代の倫理思想の主導音は、…武者の習いであり、…慈悲の道徳であった。建武中興は、この主導音を押えて、それ以前の伝統的なものを強く響かせはじめたのである。だからこのあと、武家の執権が再びはじまってからも、幕府の所在地が鎌倉から京都に移ったのみではない。文化の中心が武家的なものから公家的なものに移ったのである。…室町時代は日本のルネッサンスの時代であるということができる。…そのルネッサンスを開始したのは、建武中興の事業であった。」(『日本倫理思想史』)と論じておられる。

 

これはもっとも正統なる建武中興への評価であると思ふ。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例たるべし」と仰せになり、大胆な改革を実施せんとせられた。この言葉は単に、後醍醐天皇の定められた「新儀」を以て全ての「旧儀」に代へるといふものではない。旧儀についても、用いられるべきものとさうでないものとを弁別し、且つ、将来にわたって用いられるべき「先例」を、後醍醐天皇の大御心によって決定せられるといふことである。

 

そして後醍醐天皇の断行された建武中興は、公家のみならず武家や一般民衆からも大きな支持を得た変革であった。故に、各地に反幕府勢力が挙兵し、足利・千葉などの有力御家人から土豪・水軍・野伏などが変革の戦ひに参加したのである。「建武中興はいはゆる大覚寺統の政治権力専断を目指したアナクロニズムだ」などといふ批判は全く当らない。

 

後醍醐天皇は、武家による政治権力の壟断は否定せられたが、「武」を否定されたわけではない。

 

久保田収氏は次のごとくに論じてゐる。「文武二道が別々となって、そのために武家政治が実現したことにかんがみ、文武の道をつねに一つにしようとするのが、中興時の方針であった。武の精神を重視されたことは、元弘四年正月二十九日に『建武』と改元されたことからも明らかである。…文と併せて武を重んぜられたのであり、征夷大将軍任命についても、このことを顧慮せられたのであった。この方針は地方の要地に対する御子派遣という点にもみられる。」(『建武中興』)

 

後醍醐天皇が、護良親王を征夷大将軍・兵部卿に任じられたり、皇子を要地に派遣されたのは、天皇・朝廷が兵馬の大権を把握する正しいあり方を回復されたのである。

 

天皇を神聖君主と仰ぐ國體を回復し、古代日本の理想の世を回復することによって内憂外患を打開せんとした建武中興の意義は非常に大きい。

 

後醍醐天皇御製

 

さしてゆく 笠置の山を いでしより 天が下には かくれがもなし

 

都だに さびしかりしを 雲晴れぬ よしのの奥の さみだれのころ

 

ふしわびぬ 霜さむき夜の 床はあれて 袖にはげしき 山嵐のかぜ

 

霜の身を 草の枕に おきながら 風にはよもと たのむはかなさ

 

あだにちる 花を思ひの 種として この世にとめぬ 心なりけり

 

 

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2018年1月24日 (水)

和歌の復興と維新

 

 

日本人の伝統精神を理解し継承するには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大切である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を読むことによって可能となる。

 

中河与一氏は「和歌が国風(四註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた日本回帰の文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した。」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人はとても少ない。

 

真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。

 

そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。

 

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

 

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2018年1月18日 (木)

歴史に学ぶということの意義を全く知らない野田聖子

報道によると野田聖子総務相は十五日、金沢市での講演で、明治維新から今年で150年となることに触れ、「明治維新をなぞっても次の日本は描けない。私たちはここで決別しないといけない」と述べ、「現在の高齢化率は明治維新の頃を大幅に上回っており、社会の姿が全く違う」と指摘し、「あの時は良かったということで、明治維新をもう一度というわけにはいかない」と語ったという。また、「明治は一握りの強い人が国を支える社会だった」とする一方で、「人が抱えている不自由を取り除くことが、これからの日本にとって極めて重要。弱者をなくしていく時代をつくっていかなければいけない」と強調したという。

 

まともに論評するのも馬鹿馬鹿しい主張である。しかし、野田聖子は総務大臣という現職の閣僚である。しかも、次の自民党総裁選に出馬すると息巻いている人だ。

 

「明治維新をなぞっても次の日本は描けない」とはどういう意味か。「なぞる」とは「すでに書かれている詩や文をそのまま真似する」という意味と辞書に書かれている。明治維新百五十年の意義を確認し学ぶとは、「そのまま真似する」ということではない。

 

幕末明治初期と同じように内憂外患交々来たるといった今日の危機的状況を打開するために、德川幕藩体制を解体し、鎖国体制から脱却し、士農工商の身分差別を廃止して、内憂外患を打開して祖国の独立を護り抜き、近代化を為し遂げて祖国を発展させた明治維新の歴史を振り返り、今日に於いて生かすべきところは生かすということである。

 

「明治維新をもう一度というわけにはいかない」などと言っているが、明治維新によって、德川幕藩体制も存在せず、鎖国体制もなくなり、士農工商の身分差別のなくなった今日において、「明治維新をもう一度」などということがあろうはずがない。

 

天皇を君主と仰ぐ日本國體を正しく開顕してこそ、日本國の主体性の確立が行われ、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができるのである。それが明治維新の基本理念である「尊皇攘夷」である。「尊皇攘夷」という基本理念は今日においても極めて大切である。というよりも「尊皇攘夷」は今日における国家変革即ち維新の基本理念であらねばならない。

 

明治維新は単なる政治変革ではなかった。日本の伝統への回帰を目指したのである。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になった。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味である。

 

日本が、大胆に外来文化・文明を受容しながらも、傳統文化を喪失することなく日本の独自性を護ることが出来た強靭性を持っていたのは、天皇・皇室のご存在があったからである。近代化・文明開化においても、天皇・皇室が、積極的に外来文化・文明の受容を推進するご意志を示された。

 

明治天皇は明治維新の基本理念が示された『五箇条の御誓文』(明治元年三月十四日)において、

 

「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」

智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」

 

と示された。

 

さらに、御製において、

 

「よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな」

「世の中の人におくれをとりぬべしすゝまむときに進まざりせば」

 

と詠まれた。

 

明治天皇は「皇基ヲ振起スヘシ」「あしきをすてて」と示されている。日本近代化にあたって、大いに欧米をはじめとして外國文化・文明を取り入れ學ぶとしても、それは無原則に取り入れるのでない。あくまでも、わが國の傳統に合致せずわが國の國柄を破壊する要素のある悪しき事はこれを排除するのである。

 

つまり、日本文化の独自性・傳統を維持しつつ外来文化文明を包摂して来たのである。「和魂漢才」「和魂洋才」はわが國の古代からの文化道統である。

 

日本傳統精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ったのが、明治維新であった。まさに「復古即革新」「保守即変革」である。未曽有の危機にある現代においてこそ、この理念が継承されるべきである。

「明治維新から決別する」とは何事か!。明治維新以来百五周年の光輝あるわが国の歴史を否定し侮辱する妄論である。

 

野田聖子という人は全く歴史を学ぶ事の意義を知らないのである。冒頭にも書いたが、こういう人の言うことにまともに反論し批判するのも馬鹿馬鹿しい限りであるが敢て書かせてもらった。ともかくこんな人を総理にしてはならないとつくづく思った。

 

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2018年1月11日 (木)

維新=日本的変革の根本精神

 

「天の下 清くはらひて 上古(いにしへ)の 御まつりごとに 復(かへ)るよろこべ」

 

橘曙覧(江戸末期の歌人・国学者。越前の人)の歌である。

 

清明心(きよらけくあきらけき心)が日本民族の伝統的道義精神である。現状の穢れを祓ひ清め、神代のままの清く麗しい日本を回復することを喜び希求した歌である。

 

維新すなはち復古即革新の精神をうたひあげてゐる。この歌の心が維新=日本的変革の根本精神であると思ふ。

 

維新とは、「今即神代」「高天原を地上へ」の實現である。それは、「常世」への憧れの心と一体である。混迷せる現実の世界から祓ひ清め、清浄なる国を建設せんとする変革運動もまた、日本人が伝統的に抱いてきた他界即ち理想国への憧憬の精神にほかならない。

 

大化改新・明治維新・明治維新は、全て「今を神代へ」「神武建国への回帰」といふ理想のもとに断行された。今日我々の目ざす維新変革もまたさうであらねばならない。

 

 現代日本の汚れを祓ひ清め、正しき國の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。

 

「神話」には時間を超えた永遠の価値がある。日本民族の傳統的思想精神の結晶である「神話」への回帰こそが、現代の混迷を打開する方途である。

 

天皇中心の祭祀國家の理想に近づく努力をし続けることが、闘争戦争絶え間無き現實社會を改善する方途である。道義國家・人倫國家・祭祀國家としての日本への回帰こそが、道義的に生きる共同體を建設する方途である。

 

 日本は傳統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>と言ふ。復古とは、時間的過去、過ぎ去った昔に帰ることではない。久遠の今、天地生成、天孫降臨、神武肇國に回帰することである。

 

今日においてこそ、尊皇攘夷の維新が断行されなければならない。復古(尊皇)即革新(攘夷)を實現しなければならない。

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2018年1月 7日 (日)

徳川慶喜と鳥羽・伏見の戦ひ

徳川慶喜が松平容保などを従へて、大阪城を離れ、船で江戸に帰ったことについて、最近のテレビドラマや歴史番組で虚実取り混ぜて面白おかしく描かれ論じられている。

 

『トンヤレ節』が、「音に聞えし關東武士 どつちへ逃げたと問ふたれば トコトンヤレ、トンヤレナ 城も氣慨も 捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐるのは、徳川慶喜にとっていささか酷ではないかと私は思ふ。

 

徳富蘇峰はその著『明治三傑』において次のやうに論じてゐる。「彼(注・慶喜)が維新の際に戦い得べき陸海の兵を有しながらあたかも平家軍が富士川の羽音に潰送し去ったごとく、目覚ましき戦闘を交ず、ほとんど無血開城をなし、自ら恭順して官軍に無条件降伏をなしたるは、いかにも幕府軍からいえば歯痒き極みであるが、しかも後年慶喜はその心事を語って曰く、『予は幼き時より、わが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸藩は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤に抽んでねばならぬ。』と。予は常にこの遺訓を服膺したが、いったん誤まって朝敵の汚名を受け、悔恨おのずから禁ぜず、ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである』と。…薩長が容易にその目的を達したるについては、けいきのこの無抵抗主義が、与って大にいるとはいわざるも、また力ありということを認めねばならぬ。」と。

 

また『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は、鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の零位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

 

内憂外患の除去のためには天に二日なき天皇中心帰一国家建設が絶対に必要であった。鳥羽・伏見の戦ひで錦旗を畏んだのは幕府軍だけではない。一般國民も、現御神日本天皇の御稜威を畏んだ。

 

孝明天皇様の賀茂行幸・石清水行幸によって、一般民衆の尊皇精神が興起し、御一人日本天皇を日本国の君主と仰ぐ、一君萬民の國體が明らかに回復された。

 

鳥羽・伏見の戦ひで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のやうに記してゐる。

 

「(注・慶應四年)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。

 

内憂外患の除去、国際関係の危機打開のためには天に二日なき天皇中心帰一の統一国家建設が絶対に必要であった。東洋制覇の野望に燃える欧米列強に対抗するには、鎖国や世襲的階級制度を墨守してゐては、とても国難を打開することは不可能であった。徳川幕府は、攘夷を断行するにせよ、開国を断行するにせよ、これを断行する主體的能力のある政権ではなくなったといふことである。

変革は武力なくしては達成できない。しかし、わが国伝統精神に基づく変革即ち日本的変革=維新は、神代以来の天皇の神聖権威とそれに畏こむ臣下国民の尊皇精神がその原基なのである。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、神代以来の國體を体現者・継承者としての権威を保持する御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるやうになったのである。開国も攘夷も、天皇中心の統一国家の建設によってこそ実現するのである。明治維新によってそれは現実のものとなった。

 

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