2017年12月12日 (火)

現代日本の汚れを祓い清め、正しき国の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である

常に全てを祓い清めて新生を繰り返し永遠の生命を甦らしめるという精神が、日本伝統信仰の根本である。日本は長い歴史を有する国であるが、ただ古さを誇りとするのではなく、伝統を顧みつつ常に新生を繰り返してきたところに素晴らしさがあるのである。支那・朝鮮も長い歴史を有している。しかし、それらの国々の古代民族信仰は皆滅びるか、大きく変質している。

 

ところがわが日本おいては、これだけ科学技術が進歩し物質文明が豊かになっている今日においても、古代信仰・民族信仰が脈々と生きており、伊勢の神宮をはじめとした全国各地の神社で毎日のようにお祭りが行われている。のみならず日本伝統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、国家の平安・国民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられている。そしてその祭り主たる日本天皇は日本国家の中心者として君臨あそばされている。このようにわが祖国日本は永遠の生命を保ちつつ革新を繰り返してきている国である。これが世界に誇るべき日本の素晴らしさである。

維新と言い、日本的変革と言うも、要は日本国そして日本国民一人一人を新生せしめ、清浄化し、天皇国日本の本来の姿そして「み民われ」としての日本国民本来の姿を回復することによって現状の革新を行うということである。大化改新も明治維新も建武の中興もそういう精神に基づいて断行された。

 

現代日本の汚れを祓い清め、正しき国の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。日本は伝統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>というのである。この場合の「復古」とは単に時間的過去に逆戻りすることではない。古代の伝統精神の新たなる発見である。古代からの日本の伝統精神を復活せしめ硬直し腐敗した現代を一新する。これが維新である。

 

『古事記』の編纂もかかる維新の精神の基づいて行われたのである。太安萬侶(おおのやすまろ)は古事記序文において「古を稽(かむがへ)て風猷を既に頽れたるに繩(ただ)したまひ、今を照して典教を絶えなむとするに補ひたまはずといふこと無かりき」(いつの時代にあっても、古いことを調べて、現代を指導し、これによって衰えた道徳を正し、絶えようとする徳教を補強しないということはありませんでした、というほどの意)と述べている。これが復古即革新の精神である。

 

大化改新も明治維新も、神武建国への回帰・神武建国の精神の復興がその原基であった。

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2017年12月 8日 (金)

『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは「祭政一致の國體」の開顕である

 

『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは、「祭政一致」の再興である。「祭政一致」とは、神をまつり神の御心のままに政治を行ふといふことである。

 

明治天皇は、明治元年十月十七日渙発の『祭政一致の道を復し氷川神社を親祭し給ふの詔』において「神祇を崇(たふと)び祭祀を重ずるは、皇國の大典にして、政教の基本なり。…方今更始の秋(とき)、新に東京を置き、親しく臨みて政を視る。将に先づ祀典を興し、綱紀を張り、以て祭政一致の道を復せむとす」と示された。

 

さらに、明治天皇は、明治三年正月三日『神靈鎮蔡の詔』を発せられ、神武天皇が橿原建都の後、神武天皇四年二月二十三日に発せられた『天神を祀り大孝を述べ給ふ詔』の大御心を継承されて、「朕、恭しく惟みるに、大祖の業を創(はじ)めたまふや、神明を崇敬し、蒼生を愛撫したまひ、祭政一致、由来する所遠し。朕、寡弱を以て、夙に聖緒を承け、日夜怵惕(じゅつてき)して、天職の或は虧(か)けむことを懼る。乃ち祇(つつしみ)てい天神・地祇・八神曁(およ)び列皇の神靈を、神祇官に鎮祭し、以て孝敬を申(の)ぶ。庶幾(こひねがは)くは、億兆をして矜式(きょうしき)する所有らしめむ」と宣せられた。

 

影山正治氏は、「『諸事神武創業ノ始ニ原カム』ことを御眼目とされた明治御維新は、何よりも先づ祭政一致の大道大義を明らかにすることを以てその根本第一義とされた」(『古事記要講』)と論じてゐる。

 

復古の精神即ち祭政一致の精神は具体的には次のやうな形で現れた。明治四年十二月十二日付の左院(明治初期の立法諮問機関)の『建議』に「一、天照大神の神殿を禁域の中央に造立し、國家の大事は神前に於て議定すべきこと。…文武百官拝任の日は必ず神殿に拝して誓文を奉り、神教を重んじて皇室と共に國民を保安するの誠心を表せしむべ事。」とある。

 

「祭政一致」の制度を確立して、政治家・官僚はもちろん國民すべてが天神地祇へのかしこみの心を持って政治を行ひ、生活を営ませやうとした。神祇官の再興もその一環であった。

 

神祇官とは、律令制で、太政官と並ぶ中央最高官庁である。朝廷の祭祀をつかさどり、諸國の官社を総轄した。明治維新政府は、慶応四年(一八六八)閏四月、太政官七官の一として神祇官を再興し、神祇・祭祀をつかさどらしめた。明治四年(一八七一)八月八日にその規模を変じて神祇省と改称した。

 

「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

 

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道学」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの御精神・御自覚は全國民に示された。そして、復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ」と。

 

「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

 

要するに、明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだったのである。

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2017年12月 7日 (木)

明治維新の基本精神は「尊皇攘夷」「復古即革新」

 

明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主氏仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家体制を革新し外國からの侵略を防ぐといふ精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一体であるといふ「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといはれる所以である。鎌倉幕府以来の武家政治・強いもの勝ちの覇道政治を否定し天皇統治の皇道政治の回復を目指した変革が明治維新である。

 

かうした明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』の「勅語」に示されてゐる。

 

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』に、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(じげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されてゐる。

 

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。

 

また、明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』の「勅語」には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されてゐる。

 

さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

 

明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。日本傳統信仰即ち天神地祇への祭祀を根本とし、神武創業の精神の回帰しつつ、徹底した大変革を行ふのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」である。

 

「復古即革新」といふ明治維新の精神は、公卿や武士や学者といふ当時の指導層のみが志向したのではない。全國民的な傳統回帰精神の勃興でありうねりであった。

 

山口悌治氏は、「伊勢参宮運動が、明和八年には、四月八日から八月九日までの間に、二百七萬七千四百五十名。文政十三年には三月から五月までの三ヶ月間に四百萬人を超えたといふのである。明治維新は勤皇の志士達を中心とする下級武士達と私は思ってゐたが、實はこのやうな一般庶民の圧倒的な伊勢参宮運動が、覇道政権への抵抗として全國にその土台をすでに充分成熟せしめてゐたのである」(『萬葉の世界のその精神』)と論じてゐる。

 

さらに、慶応三年(一八六七)七、八月頃、には「ええじゃないか」といふ民衆運動が起こった。これは、伊勢神宮の神符等が降下したことを発端として乱舞を伴ふ民衆信仰的な民衆運動である。名称は、民衆が踊りながら唱へた文句が「ええじゃないか」「よいじゃないか」「いいじゃないか」等があったことに由来するといふ。発生地は、畿内、東海道を中心とした全國約三十カ國である。囃し言葉には、「日本國の世直りはええじゃないか」「今年は世直りええじゃないか」といふやうな世直しを期待する文句であった。伊勢参宮運動=お蔭参りの傳統を継承した世直しを希求する民衆運動である。

 

このやうな民衆の復古的・信仰的な世直し運動が明治維新の原動力の一つだったのである。まさに明治維新は全國民的な「復古即革新」運動だったのである。

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2017年12月 6日 (水)

「保守」とはなにか、「革新」とは何か

 

「保守」「革新」という区別があるが、定義がまことに曖昧だ。「保守」と言っても「現状維持」戦後体制擁護」という「保守」と、「國體護持」「戦後体制打倒」という「保守」がある。

 

近年は「真正保守」という言葉が出てきた。「天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体日本の國體」を守るのが真の保守である。それを「真正保守」と言うと思う。また、歴史問題で自虐的な思想を抱いていないことも大切である。

 

国防問題や外交問題でまともなことを言っている政治家でも、肝心要の國體や歴史問題で、全く期待を裏切るようなことを言う人がいる。実に困ったことである。そうした中にあって、平沼赳夫氏はまともであったが、ついに引退されてしまった。

 

尊皇精神を保持し、日本の傳統精神を重んじる政治家は、国防・安保・教育・憲法などのことでも正統な主張をする。ところが、尊皇精神が希薄で、日本の傳統精神について正しい理解がなく、歴史観もおかしい人は、他の事でもおかしな主張をする。また権力型政治家が多い。

 

所謂保守政治家と思われている人が実はそうではなかったという人が随分沢山いる。小沢一郎氏、加藤紘一氏そういう政治家だったと思う。この人たちはみな二世政治家である。即ち、父親が政治家だったから家業としての政治家を受け継いだだけで真の保守思想の持ち主ではなかったのである。小沢氏は、共産党・社民党などとも手を組んで反自民の急先鋒になった。

 

安倍氏の祖父岸信介氏が安保改定を推し進めた時、衆議院の安保特別委員長としてこれに協力したのが、小沢氏の父小沢佐重喜氏である。この時、小沢佐重喜氏は左翼革命勢力の攻撃にさらされ、湯島にあった自宅にもデモ隊が押し掛けるような事態になった。

 

小沢一郎氏は、そうした経験から、岸氏に対して特別の思いがあると思われる。だから、小沢氏はその著書で「戦時中の指導者が戦後政治の中枢に戻ったことは納得がいかない。無責任である」という意味のことを書いた。しかし、戦後日本の復興は戦前の世代の人々の努力によるのである。また、小沢氏の主張を突き詰めれば、「昭和天皇退位論」にもつながるし、大東亜戦争否定論にもつながる。

 

また、今日のエリート官僚に多くは「中道左派」と言われている。戦後の偏向教育を受けて優秀な成績を収めたのであるからそれは当然のことかもしれない。

 

「保守」とは何かの定義が問題である。現状維持という意味では真の保守ではない。小生は真の保守とは「國體護持」であると考える。尊皇愛国・國體護持の姿勢こそが「保守」であると信ずる。であれば、今日の自民党議員の中にも、そして元自民党の議員の中にも「真の保守」とは言えないような人がいる。「天皇に人権はない。譲位などさせるな」「昭和天皇は『A級戦犯』をアメリカに差し出した」などと声高に主張する亀井静香氏はその典型である。

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2017年11月25日 (土)

明治維新の基本精神は「復古即革新」「保守即変革」であった

 

わが国史上最大の変革であった明治維新はまさに国民の心の底に潜む伝統精神を呼び覚ましこれを核として変革を断行した変革であった。明治維新の基本精神は、「尊皇攘夷」即ち肇國以来の天皇を君主氏仰ぐ國體の本姿および日本民族の傳統信仰を回復して國家體制を革新し外國からの侵略を防ぐという精神である。それは復古即ち神代への回帰は現實の革新と一體であるという「復古即革新」の理念である。維新は革命ではないといわれる所以である。

 

こうした明治維新の根本精神は、『王政復古の大号令』と『五箇条の御誓文』に示されている。

 

明治天皇が慶応三年(一八六七)十二月九日に発せられた『王政復古の大号令』には、「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ、縉紳(しんしん:公家)、武弁、堂上、地下(ぢげ)ノ別ナク、至当ノ公議ヲ竭(つく)シ、天下ト休戚(きゅうせき)ヲ同シク遊(あそば)サルヘキ叡慮ニ付キ、各(おのおの)勉勵、舊来ノ驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ、盡忠報國ノ誠ヲ以テ奉公致スヘク候事。」と示されている。

 

明治天皇が慶応四年(一八六八)三月十四日、天神地祇に新しい國家の方針を誓はれた『五箇条の御誓文』には、「我國未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬(ちんみずから)ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ」と示されている。

 

さらに、『五箇条の御誓文』の制定にあたって、明治天皇が神祇に捧げられた祭文中には、「今ヨリ天津神ノ御言寄(コトヨサシ)ノ随(ママ)に、天下ノ政ヲ執行(トリオコナ)ハムトシテ…」と示されてゐる。

 

天皇國日本の原初即ち神武創業に回帰することが明治維新の基本精神であった。明治維新は、神武創業への回帰、道統の継承、「祭政一致」の回復が第一義であった。そしてこうした伝統回帰の精神を基盤として、外国の文化・文明を大胆に取り入れた変革が行われた。

 

葦津珍彦氏は、「明治維新は日本の近代的統一国家を生み出した精神を、近代的ナショナリズムをよぶとすれば、その精神の基礎となったのは、日本民族の天皇意識(國體意識)であった」と論じている。

 

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする御精神と「我國未曽有ノ変革」といふ御自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

 

神武建国の昔に回帰せんとした明治維新は単なる政治変革ではなかった。日本の伝統への回帰を目指したのである。そして日本の道統への回帰がそのまま現状の変革になった。「維新とは復古即革新である」とはそういう意味である。

 

日本が、大胆に外来文化・文明を受容しながらも、傳統文化を喪失することなく日本の独自性を護ることが出来た強靭性を持っていたのは、天皇・皇室のご存在があったからである。近代化・文明開化においても、天皇・皇室が、積極的に外来文化・文明の受容を推進するご意志を示された。

 

明治天皇は明治維新の基本理念が示された『五箇条の御誓文』(明治元年三月十四日)において、

「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」

智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」

と示された。

 

さらに、御製において

「よきをとりあしきをすてゝ外國におとらぬ國となすよしもがな」

「世の中の人におくれをとりぬべしすゝまむときに進まざりせば」

と詠まれた。

 

明治天皇は「皇基ヲ振起スヘシ」「あしきをすてて」と示されている。日本近代化にあたって、大いに欧米をはじめとして外國文化・文明を取り入れ學ぶとしても、それは無原則に取り入れるのでない。あくまでも、わが國の傳統に合致せずわが國の國柄を破壊する要素のある悪しき事はこれを排除するのである。

つまり、日本文化の独自性・傳統を維持しつつ外来文化文明を包摂して来たのである。「和魂漢才」「和魂洋才」はわが國の古代からの文化道統である。

 

日本傳統精神に回帰しつつ、徹底した大変革を行ったのが、明治維新の基本精神であった。まさに「復古即革新」「保守即変革」である。未曽有の危機にある現代においてこそ、この理念が継承されるべきである。

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2017年11月21日 (火)

建武中興は覇道を排し皇道を根幹とした理想国家建設をめざした変革

 

建武の中興について時代錯誤だアナクロニズムだといふ批判があるが、決してさうではない。武家の軍事力・権力=覇道を排し、天皇・皇室の神聖権威=皇道を根幹とした理想国家建設をめざした一大変革が建武中興である。

 

また、「後醍醐天皇は宋学の影響を受け、支那の専制君主に倣って自らも日本国の専制君主にならうとした」「後醍醐天皇やその近臣らは支那への関心や朱子学(宋学)的な君臣名分論の影響を受けていたとされ、宋代の官制との比較などから、君主独裁政治を目指していた」といふ説がある。

 

しかし、後醍醐天皇が目指されたのは、単なる天皇権力の回復ではないし、天皇専制独裁政治の実現を目指されたのではない。摂関政治・院政・武家の専横を排され、上御一人日本天皇を唯一の君主と仰ぐ肇国以来の「一君萬民の國體の真姿回復」を目指されたのである。これが建武の中興において後醍醐天皇が目指された理想である。

 

後醍醐天皇は、臣下たる武家幕府が、皇位継承にまで介入して来るといふ異常事態を是正し、皇位継承は天皇のご意志によってのみ決せられるべきであるといふ國體の真姿回復につとめられた。それは朱子学の「大義名分論」と共通する思想精神であった。

 

和辻哲郎氏は、「建武中興の事業は短期間で終わったが、その与えた影響は非常に大きかった。…建武中興が表現しているのは、武士勃興以前の時代の復活である。神話伝説の時代には、天皇尊崇や清明心の道徳が著しかった。…しかし鎌倉時代の倫理思想の主導音は、…武者の習いであり、…慈悲の道徳であった。建武中興は、この主導音を押えて、それ以前の伝統的なものを強く響かせはじめたのである。だからこのあと、武家の執権が再びはじまってからも、幕府の所在地が鎌倉から京都に移ったのみではない。文化の中心が武家的なものから公家的なものに移ったのである。…室町時代は日本のルネッサンスの時代であるということができる。…そのルネッサンスを開始したのは、建武中興の事業であった。」(『日本倫理思想史』)と論じておられる。

 

これはもっとも正統なる建武中興への評価であると思ふ。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例たるべし」と仰せになり、大胆な改革を実施せんとせられた。この言葉は単に、後醍醐天皇の定められた「新儀」を以て全ての「旧儀」に代へるといふものではない。旧儀についても、用いられるべきものとさうでないものとを弁別し、且つ、将来にわたって用いられるべき「先例」を、後醍醐天皇の大御心によって決定せられるといふことである。

 

そして後醍醐天皇の断行された建武中興は、公家のみならず武家や一般民衆からも大きな支持を得た変革であった。故に、各地に反幕府勢力が挙兵し、足利・千葉などの有力御家人から土豪・水軍・野伏などが変革の戦ひに参加したのである。「建武中興はいはゆる大覚寺統の政治権力専断を目指したアナクロニズムだ」などといふ批判は全く当らない。

 

ただし、後醍醐天皇は、武家による政治権力の壟断は否定せられたが、「武」を否定されたわけではない。久保田収氏は次のごとくに論じてゐる。「文武二道が別々となって、そのために武家政治が実現したことにかんがみ、文武の道をつねに一つにしようとするのが、中興時の方針であった。武の精神を重視されたことは、元弘四年正月二十九日に『建武』と改元されたことからも明らかである。…文と併せて武を重んぜられたのであり、征夷大将軍任命についても、このことを顧慮せられたのであった。この方針は地方の要地に対する御子覇権という点にもみられる。」(『建武中興』)

 

後醍醐天皇が護良親王を征夷大将軍・兵部卿に任じられたり、皇子を要地に派遣されたのは、天皇・朝廷が兵馬の大権を把握する正しいあり方を回復されたのである。

 

天皇を神聖君主と仰ぐ國體を回復し、古代日本の理想の世を回復することによって、蒙古の侵攻といふ対外的危機と荘園制秩序の崩壊といふ対内的危機=内憂外患を打開せんとした建武中興の意義は非常に大きい。

 

後醍醐天皇御製

 

さしてゆく笠置の山をいでしより天が下にはかくれがもなし

 

都だにさびしかりしを雲晴れぬよしのの奥のさみだれのころ

 

ふしわびぬ霜さむき夜の床はあれて袖にはげしき山嵐のかぜ

 

霜の身を草の枕におきながら風にはよもとたのむはかなさ

 

あだにちる花を思ひの種としてこの世にとめぬ心なりけり

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2017年11月 4日 (土)

今こそ尊皇攘夷の精神を興起せしめるべし

戦後、わが國は、「ナショナリズム・愛國心」といふ言葉は「対外侵略戦争に結びつく」として封印されて来た。しかし、表面的には封印されてゐたとしても、日本民族のナショナリズム・愛國心は戦後六十年間、枯渇することなく脈脈と傳へられてきた。自國を愛する心が絶えてなくなってしまふなどといふことはあり得ない。

 

ナショナリズムとは、外國からの圧力・干渉を排して國家の独立を維持する思想および運動である。それは、運命共同體意識と言ひ換へても良い。これは、國家民族の危機の時に澎湃として沸き起こってくる自然な感情である。

 

ナショナリズムは、歴史意識・傳統信仰と深く結びついてゐる。國家的危機に際會した時、それを撥ね退けんとしてその國民がその國の歴史意識・傳統精神を根底に置いて運命共同體意識を結集し、勃興する精神と行動がナショナリズムである。

 

幕末期に起ったナショナリズムは、古代・中古・中世・近世を通じて継承されてきた日本傳統精神を継承し根底に置いたものであった。

 

「尊皇攘夷」といふ言葉は、幕末期に起った日本ナショナリズムを端的に且つ正しく言ひ表してゐる。「尊皇攘夷」といふ言葉の起源は、北狄や南蛮の侵略にあった古代支那(周の末期)の都市國家群・支那民族が、危機を乗り越えやうとした時の旗幟である。

 

わが國の幕末期における「攘夷精神」とは、西欧列強といふ侵略者、異質の文化に直面した日本國民の國民的自覚と祖國防衛・独立維持の情念の噴出であり結集である。そしてそれは「日本は天皇を中心とした神の國である」といふ國體観に立脚してゐた。だから「尊皇攘夷」と言った。

 

日本國の長い歴史の中で、「神國思想」「尊皇攘夷」の精神は静かに脈々と継承され生き続けて来た。それが國難・外圧・内憂などの國家的危機に際會すると激しく表面に噴出した。

 

わが國における「尊皇攘夷」の精神は幕末期において初めて勃興したのではない。白村江の戦ひ、元寇、そして幕末といふ三度にわたる外患の時期において勃興した。

 

わが國における攘夷とは、時代を無視した頑なな排外思想ではない。また日本のナショナリズムとは決して回顧的なものではない。将来へ向けて日本民族が独立を維持するための精神である。

 

吉田松陰をはじめ多くの維新の先人たちは、世界の状況・時代の趨勢を正しく把握しやうとした。松陰は敵たるアメリカを認識せんとしてアメリカ渡航を実行しやうとした。吉田松陰が安政三年三月二十七日夜、金子重輔と一緒に下田来泊のペリーの米艦にて米國に渡航せんとしたのは、攘夷とは排外・鎖國を専らとするのではなく、日本が外國の支配下に入ることを拒み、独立を維持するために、外國の進歩した文物を學ぶことを要するといふ開明的な考へ方に基づくものであった。維新後の開國政策の下地はこの頃からあった。

 

わが國が、西欧列強の侵略・植民地支配を受けることなく近代化を遂げ発展し得たのは、「尊皇攘夷」を基本思想とした明治維新といふまさに「有史以来未曾有の大変革」を行ったからである。

 

そしてそれが成功した根本的原因は、わが國は肇國以来、天皇を神聖君主と仰ぐ國體観・國家観が確立されてゐたからである。古来、わが國が外國文化・文明を柔軟に包摂して来たのは、日本民族の根底に強靭なる傳統信仰があったからである。

 

今日わが國は、國難に際会している。それは明治維新前夜よりも深刻な状況である。これを克服するためには、日本民族としての主體性・帰属意識を回復する以外に無い。今こそナショナリズムが勃興すべき時である。日本民族の歴史意識・傳統精神を國民一人一人の精神の中で甦らせるべきである。

 

わが國の歴史を回顧すると、國家的危機の時こそ、尊皇精神・愛國心が勃興し、その危機を乗り切ってきた。白村江の戦ひに敗れ、唐新羅連合軍のわが國への侵攻の危機に見舞はれた前後に、天皇中心の國家體制を明徴する変革が行われた。壬申の乱の後に、皇室祭祀および伊勢の神宮祭祀の制度が確立し『記紀』及び『萬葉集』が編纂され天皇中心の國家思想が正しく確立された。元寇の時には、それこそ全國民的に神國思想が勃興し國難を乗り切った。幕末の外患の危機に際しては、「尊皇攘夷」をスローガンとする明治維新が断行され、日本の独立を維持し近代國家として出発した。

 

日本ナショナリズムの基礎となるものは、天皇中心の國體を護持する精神である。今こそ天皇を中心とした國家の回復を目指す維新運動を繰り広げねばならない。今日の日本の危機的状況も、ナショナリズムの興起・日本傳統精神の復興により必ず打開し乗り切ることができると確信する。尊皇精神無き攘夷はあり得ないしあってはならない。

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2017年10月27日 (金)

『紀尾井坂の変』=大久保利通斬殺事件について

 

明治維新の後、「維新の理想未だ成らず」との思ひで展開された戦ひを明治第二維新運動と言ふ。明治新政府は、欧米列強のアジア侵略植民地化を目のあたりにして、わが國の独立を維持し発展せしめるべく、「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」の政策を推し進めた。さらに、大久保利通を中心とした一部の人々の専制政治が行はれた。それはそれで止むを得ないことであり、全面的に否定はできない。しかし、維新日本において最も大切な事、即ち神代以来の日本の伝統への回帰・神武創業の精神の恢弘といふ大命題との大きな矛盾をもたらした。この矛盾を解決し、維新の理想をあくまでも貫徹せんとする運動が明治第二維新運動である。

 

その具体的な動きが、西南戦争・佐賀の乱をはじめとした各地の武装蜂起であり、明治七年(一八七四)一月十四日の赤坂喰違付近での高知県士族の武市熊吉らによる岩倉具視襲撃事件であり、明治十一年五月十四日の紀尾井坂における島田一良らによる大久保利通斬殺事件(紀尾井坂の変)である。

 

大久保利通は当時の最高権力者として「富国強兵」「殖産興業」「脱亜入欧」路線を強力に推し進めた。明治六年の政変から大久保の死に至る迄の数年間は、大久保を中心とした独裁政治と言って良かった。これを〈有司専制政治〉と言ふ。

 

大久保利通は、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らを下野せしめた後、三条実美・岩倉といふ公卿勢力を擁し、大隈重信・伊藤博文・黒田清隆・川路利良らを手足とし、欧米の文化・文明を取り入れた近代日本の建設に邁進し、これに抵抗する勢力をあらゆる手段を用いて排除した。特に川路利良=警察権力を使ひ卑劣な手段を用いた挑発行為・密偵政治は多くの人々の憎悪を招いた。

 

 大久保利通が第二維新運動の標的となったのは、直接的には大久保が西郷隆盛・江藤新平といった人々を卑劣な策略を用いて死地に追いやった後、専制的な寡頭政治を行なったことであらう。そして、大久保の政治(強権政治・欧化政策)が明治維新の理想を隠蔽する邪悪なものとされたからであらう。

 

 『大久保利通斬奸状』には次のやうに書かれてゐる。

「方今我皇国の現状を熟察するに、凡そ政令法度、上天皇陛下の聖旨に出るに非ず、下衆庶人の公議によるに非ず、独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り。…今日要路官吏の行事を親視するに…狡詐貪婪上を蔑し下を虐し、遂に以て無前の國恥、千載の民害を致す者あり。今其罪状を条挙する左の如し。曰く、公議を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する。其罪一なり。…曰く慷慨忠節の士を疎斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し以て内乱を醸成する其罪四なり。…曰く外国交際の道を誤り以て国権を失墜するそれ罪五なり。公議は国是を定る所以、民権は国威を立る所以なり。今之を杜絶し之を抑圧するは則ち国家の興起を疎隔するなり。法令は国家の大典、人民の標準なり、今之を謾施しするは則ち上王網を蔑棄し、下民心を欺誣するなり、…勅令を矯め、国権を私し、王師を弄し、志士憂国者を目するに反賊を以てす。甚だしきに至りては陰謀密策を用ひて以て忠良節義の徒を害せんと欲す。…一良等今天意を奉じ民望に随ひ、利刃を揮ひて大姦利通を斃す、…前途政治を改正し、国家を興起するの事は、則ち天皇陛下の聖明闔国人衆の公議に在り。願くは明治一新の御誓文に基き八年四月の詔旨に由り、有司専制の弊害を改め、速かに民会を興し公議を取り、皇統の隆盛国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す…」

 

伝統を重んじつつ革新を志向する堂々たる名文である。もっともっと長文であり、大切な事が書かれているが、誌面の都合でごく一部しか書けないことを遺憾とする。これはいはれるやうな不平士族の時代錯誤思想ではない。当時のわが國の矛盾・正すべきところを厳しく指摘したすぐれた文章である。

 

閣議で一度決した西郷隆盛韓国派遣を、大久保及び岩倉具視が策略を用いて覆したことを批判してゐる。大久保と岩倉は、閣議決定といふ「公議」を無視し、陰謀を用いて西郷隆盛の対韓使節派遣を葬り去った。これは「万機公論に決すべし」との明治天皇の大御心に反する行為である。故にこの『斬奸状』において『五箇条の御誓文』に示された「広く会議を興し万機公論に決すべし」との国是、そして『五箇条の御誓文』に基づく『元老院・大審院設置、地方官召集の詔』を実現し奉れと論じたのである。さらに大久保及び川路利良が卑劣な手段で佐賀の乱、西南戦争を挑発したことを批判してゐるのである。

 

この斬奸状の主張は時代錯誤どころが先進的な思想である。しかも天皇を戴く国家の伝統を正しく継承してゐる。ここに書かれてゐる主張こそ、明治第二維新の思想である。明治維新の不徹底・未完成を正し、天皇中心の國體をより明らかにすることによって国民の権利を拡張し国家の独立と尊厳性を維持せんとする思想である。民権といはゆる国権は矛盾するものではないのである。

 

葦津珍彦氏はこの紀尾井坂の変の『斬奸状』の内容及び『玄洋社憲則第三条』に「人民の権利を固守すべし」とあることについて、「人民権利の主張と、純然たる国粋の精神とを直結した一つの典型として思想史上、注目すべき文書」と論じてゐる。(『大アジア主義と頭山満』)

 

さらに徳富蘇峰氏は、紀尾井坂の変について、「大久保の死に依る影響中、さらに大なるものは、これによって民権論者の擡頭を促進せしためることであった。…大久保去って後は、薩長何物ぞ、藩閥政治何物ぞ。かくのごとくして自由民権の運動は、今や積雪堅氷の下に圧せられたる草木が、一時に天日を迎ふるがごとく、生色を発揮し来たった。」(『明治三傑』)と論じてゐる。

 

なほ、島田一良ら六烈士を裁いたのは玉乃世履(たまのせいり・初代大審院院長)である。玉乃の墓所は島田一良らの墓所と同じく東京谷中墓地にある。玉乃は六烈士の一人・長連豪を「其人格の美なる晧晧たる秋月の如し、世は連豪の人格に心酔したり」と語ったといふ。

 

「紀尾井坂の変」のその前後の歴史は、今日の日本の混迷打開のために学ぶべき多くのことを語ってゐるやうに思へる。国家の根幹に関る問題をはじめ憲法問題・外交問題そして「変革と直接行動(テロ)」について、重要な示唆を与へてゐると考へる。

 

紀尾井坂の変の影響の最も大なるものは、自由民権運動、民選議会開設・憲法制定の動きの活発化である。紀尾井坂の変の直後、頭山満は土佐に板垣退助を訪問し、その決起を要請した。翌明治十二年、民権の主張は全国的に展開されるやうになり、大阪会議が開かれ、明治十四年には国会開設・憲法制定を公約せしめた。

 

明治維新前後の時代におけるテロの有効性は、桜田門外の変及びこの紀尾井坂の変によって明らかである。

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2017年10月25日 (水)

『天壌無窮の御神勅』と吉田松陰

 

吉田松陰は、「安政の大獄」に於いて処刑される直前の安政六年十月二十日付の故郷の父母や叔兄に宛てた手紙において、「幕府正議は丸に御取用ひ之なく、夷狄は縦横自在に御府内を跋扈致し候へども、神國未だ地に墜ち申さず、上に、聖天子あり、下に忠魂義魄充々致し候へば、天下の事も余り御力落し之なく候様願ひ奉り候。」と書き記した。

 

松陰は、安政六年六月二十四日に江戸に到着。長州藩邸の獄につながれる。七月九日、幕府評定所の呼び出しがあり、幕吏の尋問を受け、伝馬町の獄に入れられ、以後、幕吏の尋問を受けた。

 

八月十三日付の久保清太郎・久坂玄随宛の松陰の手紙には「天下の事追々面白くなるなり。挫する勿れ。神州必ず不滅なり」と書かれてゐる。

 

十月十一日付の堀江克之助宛の手紙には、「天照の神勅に『日嗣之隆(あまつひつぎのさかえまさんこと)、与天壌無窮(あめつちときはまりなかるべし)』と之有り候。神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正氣重ねて発生の時は必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と記し、

「皇神(すめかみ)の誓おきたる國なれば正しき道のいかで絶べき」

「道まもる人も時には埋もれどもみちしたゑねばあらわれもせめ」

の二首の歌を書いた。

 

松陰は、安政六年四月頃、萩獄中に於いて記した『坐獄日録』に、「吾幼にして漢籍にのみ侵淫して、尊き皇國の事に甚だ疎ければ、事々恥思ふも多けれど、試みに思ふ所と見聞する所を挙げて自ら省み且同志の人々へも示すなり。抑々皇統綿々千万世に伝りて、変易なきこと偶然に非ずして、即ち皇道の基本亦爰にあるなり。蓋し天照大神の神器を天孫瓊瓊杵尊に伝へ給へるや、宝祚之隆与天壌無窮の御誓あり。されば、漢土天竺の臣道は、吾知らず、皇國に於ては、宝祚素より無窮なれば、臣道も亦無窮なること深く思を留むべし」と記してゐる。純日本精神への回帰である。

 

吉田松陰は、『天壌無窮の神勅』に絶対的な信を置いていた。これらの手紙・日記は、獄中にあってもなほ「神州不滅」を信ずる松陰の不撓不屈の精神が表白されており、松陰の偉大さを証明してあまりあるものである。

 

松陰はこれらの手紙で祖國がいかなる危機に遭遇していようとも「天壌無窮の神勅」は絶対に相違することはないという揺るぎない絶対的信を、松陰のその死の直前に吐露している。

 

天照大御神が、瓊瓊杵尊に下された『天壌無窮の神勅』には「葦原千五百秋瑞穂の國は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」と、天皇を統治者と仰ぐ日本の國體が端的に示されている。

 

死罪となり死地に赴くという絶望的状況にあって、天皇國日本は永遠不滅であると確信する吉田松陰は、真の愛の尊皇愛國の士であった。  

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2017年10月16日 (月)

錦の御旗と徳川慶喜の尊皇心

 

「鳥羽伏見の戦ひ」と呼ばれる戦ひで、何故幕府軍は敗退してしまったのであらうか。史家たちかあげる原因は次の通りである。「①士気・戦意の違ひ。政府軍が士気・戦意共に勝っていた。②幕府方の戦争目的の曖昧さ。③幕府方の計画性と指揮能力の欠如。④新政府軍の武器が幕府軍の武器よりも優れていた。⑤幕府方内部の裏切りと内紛。⑤総大将たる徳川慶喜の戦意・統率力の欠如。」

 

そして、多くの史家は、開戦翌日の一月四日に、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたので、幕府軍の士気が萎えてしまったと論じてゐる。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことが、史家のいふところの「両軍の士気・戦意の喪失、幕府内部の所謂『内紛』、徳川慶喜の戦意欠如」の根本原因である。

 

錦の御旗とは、朝廷の軍即即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。

 

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

 

「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、国学者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ説がある。

 

明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。

 

明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ説は全く成り立たない。

 

仁和寺宮嘉彰親王は、新政府軍を率いて御所をご進発、午後には洛南の東寺に陣を置かれ、錦旗が掲げられた。

 

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。

 

一月五日、征討大将軍が鳥羽街道を錦旗を立てて南下すると、それを遠望した幕府軍は浮足立ち、淀城へ退却した。ところが、淀藩は幕府軍の淀城入場を拒んだ。

 

小生をして言はしむれば、津藩・淀藩の行動は決して裏切りではなく、上御一人日本天皇への恭順である。徳川慶喜の戦意喪失も決して臆病風に吹かれたのではなく、彼の尊皇精神がさうさせたのである。

 

『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

 

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の零位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし。」と言明したといふ。

 

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

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