2018年12月10日 (月)

「現行占領憲法」が、「天皇の祭祀」「神社神道」を一般の教団宗教と一緒くたにしてゐるのが根本的誤り

政教分離とは、西洋におけるキリスト教会と政治権力の分離であって、信仰と國の分離ではない。アメリカ大統領就任式には牧師が来るし聖書に手を置いて宣誓する。「現行憲法」は日本の伝統とは全く相いれない権力国家観・契約国家論に基づいてゐる。日本の伝統とか文化は全く書かれていない。

 

政教分離などといふ「現行占領憲法」の規定は、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体君主国家日本の國體に全く合致しない。このやうな規定のある憲法を戴いてゐることが、我が国の道義が頽廃する原因である。

 

日本伝統信仰・祭祀宗教たる日本神道が日本民族の道義の根幹である。ところが「現行占領憲法」が、天皇の祭祀・神社神道を一般の宗教法人と一緒くたにしてゐる。これが根本的誤りなのである。

 

日本国といふ信仰共同体の根幹が神社であり祭祀である。そのことは、一宗教法人・教団宗教が政治権力を掌握し行使することは全く次元が異なるのである。

 

 

憲法二〇条で定める政教分離の原則をめぐっては、津市が市体育館の起工式を神道祭式で行ったことに対して、反日勢力が市長に工費返還を求めた訴訟で、最高裁が昭和五十二年に出した判決がある。そこでは、「國家と宗教との完全な分離を実現する事は、実際上不可能に近い」とした上で、憲法で禁止している「宗教的活動」とは、その「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に限られるとして、いわゆる<目的効果基準>を示した。妥当な判決である。

 

「政教分離」とは國や行政が宗教と全く関わってはいけないという事ではない。それは不可能である。そこにたとえ何らかの宗教的側面があったとしても、行為の本来の目的が別にあったならば、「政教一致」にはならない。

 

國家や行政が宗教と全く関わってはいけないと言うのなら、善通寺市・天理市・金光町という自治体名をつけることは違憲になる。また、刑務所で特定の教団宗教に属する僧侶などが行っている「教誨」は公共の施設の中で宗教活動を行うのであるから明白なる違憲行為となる。さらに、東京都慰靈堂(都有財産・関東大震災及び戦災で亡くなった方々を慰靈する施設)で都知事などが出席して仏式で行われる「慰靈大法要」も明確に違憲である。

 

総理の靖國神社参拝は、戦没者慰靈が目的である。靖國神社という宗教法人を援助し助長するためではない。また他の宗教法人を圧迫するためでもない。したがって「現行憲法」下においても、総理の靖國神社参拝は合憲である。今後も正々堂々と参拝は続けられるべきである。

 

しかし、「現行占領憲法」に重大な欠陥がある事も事実である。敬神崇祖の伝統、美風にそって全國民が等しく英靈に対して感謝と慰靈の真心を捧げるという最も大切なことを禁じていると解釈できる「現行憲法」は悪法である。そうした憲法は一日も早く否定しなければならない。

 

日本という國は祭祀國家であり信仰共同体である。ゆえに、日本國を神道と切り離すことは不可能である。政教分離などという原則をわが國の神道祭式による公的な慰靈行為に適用してこれを禁止しようとすることが大きな間違いなのである。

 

政教分離の原則というのは、激しい宗教戦争を繰り返してきた西欧や中近東の國々において、政治権力と特定の教会・教団が結びついて他の教会・教団を弾圧し圧迫する事のないようにするために考え出された原則である。

 

わが國には、歴史を紐解けば明らかなように、一神教の世界のような激しくも残虐なる宗教戦争はなかったし、特定の教団が政治権力を壟断して他の教団を弾圧したり圧迫した歴史はなかった。

 

わが國の長い宗教史・精神史・思想史においては、儒教などの支那思想や仏教そしてキリスト教における日本の伝統と著しく異なる思想は自然にすたれて行き、わが國傳統信仰と融合したというのが事実である。

 

大東亜戦争で散華した二百十三万余英靈の人柱の上に今日の日本がある。そして英靈たちは今日唯今も祖國日本を護って下さっているのである。靖國の英靈に対しわれわれ今に生きる日本國民が感謝と慰靈の誠を捧げることが、日本國及び日本國民永遠の平和の基礎である。

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2018年10月 7日 (日)

『現行占領憲法』の「国民主権」「政教分離」は、日本國體・皇室の道統とは相容れない

『現行占領憲法』は、日本の傳統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立ってゐる。

 

「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う國の儀式などの挙行に係る基本方針について」の「第一 各式典の挙行に係る基本的な考え方について」には「各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の傳統等を尊重したものとすること」と書かれてゐる。

 

「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の傳統等を尊重したものとする」といふことにそもそも無理がある。

 

『現行占領憲法』は、日本國體・皇室の傳統とは相容れない「國民主権」と「政教分離」(祭祀と統治の分離をも意味する)を基本理念としてゐる。従って、憲法の趣旨の沿ふことと、皇室の傳統を尊重する事とはどうしても矛盾してしまふのである。

 

『現行占領憲法』は、「君主と人民とは相対立する存在であり、國家は國民同士が契約して成立する」といふ西洋法思想・西洋國家観に貫かれており、日本國體の根幹を正しく規定してゐない。それどころか『現行憲法』は國體破壊もしくは隠蔽の元凶になってゐる。

 

『現行占領憲法』の「政教分離」「國民主権」の原則は、「天皇の國家統治と祭祀との一体」「君民一体」といふ國體の根幹、皇室の傳統を否定してゐる。このやうな「憲法」と皇室の傳統とを整合性を求めることは本来できない。また整合性を求める必要も無い。

 

祭祀國家日本の祭り主であらせられる日本天皇は、常に國民の幸福と五穀の豊穣そして國家國民の平和と幸福を祈る御存在であらせられるのであるから、外國の専制君主のやうな國民と相対立する御存在ではないし、國民を力によって支配し隷従せしめる御存在ではない。

 

國民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を國民に示し、また國民の意志を神に申し上げ、國民の幸福の實現を最高の使命とされるお方が天皇である。つまり天皇と民は「和」「共同」の関係にあるのであり、対立関係ではない。かうした天皇中心の日本の國柄を「君民一体の日本國體」と言ふのである。また、天皇の祭祀は私的行為では絶対にない。祭祀と天皇の國家統治とは分かち難く一体である。

 

「憲法」に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現してゐない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いてゐるのである。

 

この度の「ご譲位」そして「皇室典範改正の議論」においても、「憲法との整合性」「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行はれてゐる。

 

外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」がわが國の國家傳統を隠蔽し破壊してゐる。これは、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

 

葦津珍彦氏は、「将来の憲法改正においては、君民対決の連想を誘発させる『國民主権』の語を削り、日本國君民一致の精神に基づき『統治権の総攬者(統合し掌握する者)としての天皇』の地位を復元すべきものと思ふ。」(『天皇・神道・憲法』)と論じてゐる。

 

今日、政治の混乱・道義の低下・外圧の危機が顕著になってゐる。そして人々の心の中に不安と空虚感が広まってゐる。これを克服するためには、日本民族としての主体性の回復が大事になってくる。

 

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は常に、天皇を中心とする國體精神であった。特に政治・倫理・文化・生産・軍・教育など國家民族の基本において然りであった。

 

大化改新・明治維新の歴史を見て明らかなやうに、急速な変化と激動の中でわが國が祖先から受け継いだ傳統を守り、かつ変革を為し遂げた核は、天皇のご存在であった。

 

わが國の歴史始まって以来、日本といふ統一された國家を体現する核が天皇であった。どのやうな困難な時期においても、日本國家・日本民族が常に傳統を守り統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その中心の核が天皇であった。國家的危機にある今日こそ、日本國體精神の回復が大切なのである。

 

 天皇の御存在・歴史を貫く天皇の傳統的神聖権威は、まさに「天壤無窮」である。しかし、それは日本を弱體化せんとして戦勝國・アメリカによって國際法を蹂躙して戦争直後に押しつけられた『現行占領憲法』の「規定」によって隠蔽され続けてゐる。

 

日本國體の道統、皇室の傳統とりわけ「天津日嗣の高御座の繼承」といふ神聖不可侵の事柄の正しき傳統あるべき姿の隠蔽、無視、改変の原因は『現行占領憲法』である。『現行占領憲法』は、「天壤無窮の神勅」に示された「天皇は日本の永遠の統治者であらせられる」といふ國體の本姿を隠蔽してゐる。「諸悪の因」は『現行占領憲法』にあるのである。

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2018年8月27日 (月)

「現行憲法」には、天皇及び日本國家の時間的連続性・歴史的伝統性がまったく書かれていない

「日本國憲法」では、「天皇は日本國の象徴であり、國民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本國民の総意に基づく」というのが第一条であります。日本の伝統的な考え方における天皇は、「日本の統治者、統べ治める方である」と仰がれた方です。天地開闢以来、國家の統治者たる天皇の地位は変わらないものであるのを、「現行憲法」では隠蔽して、単なるシンボルとしての象徴と強調している。即ち非常に限定的な存在として規定された。

 

 天皇陛下は日本國民を一つに統合する中心的存在、空間的に國家と國民を統一、統合するという御役目を持っています。「現行憲法」もそれを否定できず、「天皇は日本國の象徴であり、國民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本國民の総意に基づく」と規定したのです。しかし、なにゆえ天皇が空間的に國家と國民を統合されるのかが、今の「憲法」には書いていない。

 

 國家・人間は空間的存在であると共に時間的存在であります。時間と空間、縦軸と横軸の中心にあるのが人間であり、國家です。「現行憲法」には、天皇及び日本國家の時間的連続性・歴史的伝統性がまったく書かれていない。

 

 天皇は時間的連続性、歴史的伝統性を保持しておられます。そしてそのことが、まさに日本を統一、統合できる神聖な御方である根拠なのです。

 

 天皇が日本國の歴史と伝統、また日本國民の過去、現在、未来、将来における日本國民の伝統的な意思というものを体現される方ということが、「憲法」に明確に規定される必要があると思います。

 

 「現行占領憲法」はその当時のアメリカ占領軍の中でも、左派、共産主義者に近い人が起草したといわれています。将来的には日本の君主制を廃止すべきであるという企みのもとに作られたのではないでしょうか。

 

ともかく、「國民統合の象徴」という言葉だけでは、天皇の御本質は正しく明示されない。やはり「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という「帝國憲法」の規定が正しいのです。憲法には萬世一系という歴史的伝統性が明示されなければなりません。

 

 「大日本帝國憲法」では第一条から第三条までが國體条項で、第四条以降が政体を定めています。天皇は政体においては、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」お役目である。天皇は元首であり、憲法に則って統治権を総攬しこれを行うということです。

 

 では「元首」とは何か。辞書によると、「國の首長、國家の統治者、君主」と書いている。また、「國際法上、外國に対して一國を代表する資格を持つ國家機関。君主國では君主、共和國では大統領」という定義になっております。日本はどう考えても君主國ですから、元首は天皇であると憲法に明記した方がいいわけですが、解釈改憲ならぬ解釈革命を行おうとする勢力は、「元首は天皇ではなく内閣総理大臣だ」「閣僚全部だ」と訳のわからないことを言っております。

 

ただ、英語の表記だと「ザ ヘッド オブ ステイツ」です。「ステイツ」は権力機構のことを意味し、天皇の地位は権力機構の長、を指してしまいます。どうも天皇を単なる政治的権力者にしてしまうような危険があります。しかし政体の規定として言えば、天皇は「元首」であるということになります。

 

 國家機関も成文憲法も、天皇を中心とする日本國體を基礎として成立するものであります。天皇を祭主として仰ぐ信仰共同体、祭祀國家が日本の本質でありますから、そこにおいて一億二千萬の國民が共同生活を営むための機構、制度、法律などの「政体」は日本の立國の精神、國體精神に立脚していなければならない。そういう前提を確立した成文憲法でなければならないのであります。

 

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2018年7月30日 (月)

わが国の「近隣諸国」は何んともすさまじい国が多い

韓国は前大統領、元大統領の二人が投獄されている。その前の大統領は自殺した。韓国は、初代大統領李承晩がハワイに亡命して以来、歴代大統領の多くが、殺されたり、逮捕されたりして来た。何んとも不幸な国と言うしかない。

 

最高権力者・国家元首だった人がその地位を去ると、逮捕されたり、亡命するというのは一体どういうことなのか。

 

共産支那もかつて、国家主席だった劉少奇が、「文革」という名のすさまじい権力闘争で、毛沢東及びその一派によってなぶり殺しにされた。毛沢東夫人・江青は、旦那が死ぬと逮捕され。獄中で自殺した。そして今日唯今、新皇帝・習近平によって粛清の嵐が吹きすさび、多くの権力者が投獄されている。

 

北朝鮮は、「民主主義人民共和国」と名乗りながら、何んと独裁政治体制であるだけでなく独裁者が世襲制である。そして邪魔者はたとえ親族と雖も残虐なる方法で殺されている。しかも、政府の政策として、テロをやったり、他国民を拉致したり、偽札を作ったり、麻薬を売ったりしている。

 

「近隣諸国」という言葉があるが、わが国の「近隣諸国」は何んともすさまじい国が多い。

 

私は、日本は良い国だとしみじみ思うし、率直に言って、日本に生まれて良かったと思う。

 

しかし、『現行占領憲法』に書かれている「平和を愛する諸国民の公正と信義」などというものは少なくともわが國のいわゆる「近隣国家」には全く存在しないのである。また「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国」などはわが國の「近隣国家」には存在しないのである。

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2018年5月28日 (月)

憲法改正は『現行占領憲法』の正統性を認めることになる

「天皇の国家統治の大権」そして「日本国政府の國家統治の権限」が、連合國最高司令官の隷属の下に置かれていた異常状態下における「憲法改正」は、『大日本帝国憲法』及び国際法違反であった。従って、日本が独立を回復した時点で「『大日本帝国憲法』の改正」即ち「『占領憲法』押しつけ」の無効を宣言し、確認すべきであった。当時の政府及ぶーび国会が無効の確認及び宣言を行わなかったのは大きな過ちであった。

 

「無効」と「破棄」とは断然異なる。破棄論は「上諭」「御名御璽」を破棄することとなる。「『現行占領憲法』には正統性は決してない。改正手続きを踏んだ上で『大日本帝国憲法』に復するというのは『現行占領憲法』の正統性を認めることとなる。無効を確認し宣言し、『大日本帝国憲法』に回帰することが正道である。

 

明治維新によって『禁中並びに公家諸法度』という國體隠蔽の「不敬法度」が無効となったごとく、今日においても国家の根本的変革が行われ『大日本帝国憲法』復元が実現されるべきである。

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2018年5月27日 (日)

『現行占領憲法』無効確認、『大日本帝国憲法』復元が法理論的に全く正しい

今日、憲法改正論議が起きているが前途遼遠である。「現行憲法無効・大日本帝国憲法復元は不可能である」という意見がある。では『現行憲法』改正が可能なのであろうか。昭和二十一年十一月三日に公布され、昭和二十二年五月三日に施行されてから現在まで一言半句改正されていない。「百年河清を俟つ」という言葉があるが、『現行占領憲法は、七十一年河清を俟っても改正されない。

 

本来正統性のない『現行占領憲法』を改正するということは、『現行占領憲法』の正統性を認める事になる。つまり、憲法改正は、本来正統性が無く無効であるところの『現行憲法』が有効であることを承認することになり、日本の歴史伝統の継承、國體精神の継承について、大きな禍根を将来に残してしまう。『現行憲法』は絶対にしてはならないことだ。

 

『現行占領憲法』が戦勝国の押しつけられた敗戦直後は、天皇の統治大権は連合國最高司令官の隷属下にあった。昭和二十年八月十日『ポツダム宣言』を受諾するにあたってわが國政府がアメリカに対し「ポツダム宣言の条項は受諾するも、天皇の國家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に受諾す」との最後の申し入れを行ったのに対し、アメリカのバーンズ國務長官は「天皇および日本國政府の國家統治の権限は、降伏条項實施のため、必要と認むる措置をとる連合國最高司令官の制限の下に置かれるものとする」と回答してきた。

 

英語の原文は、「The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate these terms of surrender.」である。

 

「制限の下に置かれる」といふのはあくまでも日本外務省の訳語であって、英語の原文は「subject to」であり、正しい訳語は「従属の下に置かれる」あるいは「隷属の下に置かれる」である。

 

三潴信吾氏は、「(バーンズ回答は)戰時國際法に基く彼等の權利を示したものである。この『従屬』の意義を明確にすべきであって、これ、政府が國民の憎悪感を和げんとして『制限』と譯し、『日本國憲法』は單に一部機能を制限された日本の主権の下に、少なくも日米合作で制定したものの如く擬装したことは言語道断である」(『日本憲法要論』)と論じている。

 

また、同年九月六日付の米國政府の『マッカーサー元帥あての指令』に「一、天皇および日本國政府の國家統治の権限は、連合國最高司令官としての貴官に従属する。…われわれと日本との関係は契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである。…二、日本國の管理は、日本國政府を通じて行われる。ただし、これは、そのやうな措置が満足すべき成果をおさめうる限度内においてとする。このことは、必要があれば直接に行動する機関の権利を妨げるものではない。」(桶谷秀昭氏著『昭和精神史』より引用)と書かれてゐる。

 

『大日本帝国憲法』第七十五条には、『憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス』とある。「摂政」が置かれるどころか、天皇陛下の統治の大権が外国の軍人・マッカーサーの隷属下に置かれていた状況下において行われた『憲法改正』は、違法であり、無効である。つまり、『現行占領憲法』は法的に全く正統性が無いのである。ゆえに、その無効が確認され、『大日本帝国憲法』が復元するというのが法理論的に全く正しいと考える。

 

衆参両院に於いて、『現行占領憲法』が無効である事実を確認し、速やかに『大日本帝国憲法』を回復・復元するべきである。それこそが「現行憲法改正」とは比較にならない正道であると信ずる。

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2018年5月25日 (金)

國民主権論は日本國體と相容れない

 

『現行占領憲法』の三原理の一つであり第一条にも明記されてゐる「國民主権主義」は、「君主主権主義」に対する「抗議概念」である。そして、「政治的主権の保持者は國民であって君主ではないことを主張する」とされてゐる。これは、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。

 

『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものと考へる西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となっている。

 

日本國は信仰共同體・祭祀共同體であり、天皇はその祭祀主である。従って、天皇は國民と対立し、國民を力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係ではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。信仰的・精神的一體関係にある。これを「君民一體の國體」と言ふ。これが日本肇國以来の國體であり歴史である。

 

従って「國家の意思を最終的に決定する権力」という意味での「主権」なる概念と言葉は「天皇中心の信仰共同體國家日本」とは全く相容れない。

 

天皇の祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同体として悠久の時間的連続・歴史と傳統を有してきたことが日本國の特質であり尊厳性である。これを「萬邦無比の日本國體」と言う。

 

故に、「國家の意思を最終的に決定する権力」即ち「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などということを「成文憲法」に規定することは、わが國の國體・歴史傳統と相容れない。西洋法思想・國家思想である「國民主權論」を日本國の憲法に規定することは國體を隠蔽し國體破壊につながる。

 

三島由紀夫氏は、「(現行憲法の第一条と二条の矛盾は仼)第一条に於て、天皇といふ、超個人的・傳統的・歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保證者たる機能を、『國民主權』といふ、個人的・非傳統的・非歴史的・空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである。これは、『一君万民』といふごとき古い傳承觀念を破壊して、むりやりに、西欧的民主主義理念と天皇制を接着させ、移入の、はるか後世の制度によって、昔からの制度を正當化しようとした、方法論的誤謬から生まれたものである。それは、…キリスト教に基づいた西洋の自然法理念を以て、日本の傳来の自然法を裁いたものであり、……われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する權利を有する」(『問題提起(日本國憲法)』)と論じておられる。

 

 小生は、現行憲法の最大の欠陥は憲法三原理にあると考える。憲法三原理が、國體破壊もしくは隠蔽の元凶になっており、「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行われている。戦後日本そして今日の日本の混迷の原因は、この三原理にあるといっても過言ではない。

 

 特に、わが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口となる危険がある「國民主權論」が、一般國民の常識となって浸透していることは実に以て國家存立の基礎を揺るがす凶事である。西洋思想に基づく「國民主權論」を憲法の原理としたままでは、真の憲法改正・自主憲法制定にならない。

 

 「現行占領憲法」は、西洋法思想に基づき、前文で「主權が國民にあることを宣言し」、第一条で「(天皇の・注)地位は、主權の存する日本國民の総意に基づく」と規定している。これを根拠にして日本は君主國家ではないとする意見が出て来る。こういう議論が起こるところに「現行憲法」の重大欠陥がある。

 

 今日一般的になっている「國民主權」の定義は次のようなものである。「憲法上最も重要な意味は、國家の意思を最終的に決定する權力ことである」「日本國憲法も、明治憲法における天皇主權を廃止して、この普遍の原理を採用した」(伊藤正己著『注釈憲法』)。「日本國の國家意思を最終的に決定する權限を持つ者は日本國を構成している日本國民でなければならないという基本原則を意味する」(『現代憲法學の論点』)。

 

 つまり、「主權とは國政を決定する權利であり、主權が國民にあるか君主にあるかによって、國民主權、または君主主權と呼ばれる」というのが今日の憲法學の定説になっている。

 

 西洋法思想とりわけローマ法においては、權力支配組織たる國家には「主權、人民、國土」の三要素があり、「主權」の憲法上最も重要な意味は、最高絶対排他的な支配權力・國家の意思を最終的に決定する權力とされる。かかる「主權」論から、「主權は國民にある」とか「君主にある」とかという対立的な考え方が発生するのである。

 

 長谷川三千子氏は、十八世紀にできた近代成文憲法における國民主權というのは宗教戦争が繰り広げられたヨーロッパで生まれた闘争的概念であるとされ、次のように論じておられる。

 

 「フランス革命を起こした人間たちは、自分たちの革命をどう正當化したのかーそのときに採用されたのが、國民主權という考え方なんですね。……自分たち國民が國の中枢に座って、自分たちが考えたことは何でも通る、そういう力を我々は持っているんだ、ということを宣言してしまった。これがフランス革命を通じて出来上がってきた國民主權という考え方なんです。…血なまぐさい、國民と國王とが首をはね合うような戦争の歴史の記憶が、憲法の上に投影されてしまいますと、國民主權という言葉は、ものすごく闘争的な概念となってしまう。……日本國憲法第一条にある『主權の存する國民』という言葉を、近代成文憲法の傳統に従った読み方で読みますと、國民主權なんだからどうしてこの國民は、すぐに天皇の首をちょん切らないんだ、という話になってしまうんです。つまり、本當に我が國の、國の體(てい)に基づいて憲法を考えるとしたら、この主權という言葉から徹底的に洗い直していかなければいけない」(『主權をどう考えるか』)。

 

 西洋の國々の君主は、人民を征服し武力と權力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主權が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来たのである。 

 

 わが國は三千年前に建國された天皇を中心とする信仰共同體國家・祭祀國家である。欧米のような契約國家でもなければ權力國家でもない。ゆえに、君主と國民が対立関係にある國家ではない。

 

つまり、「現行憲法」は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものであると考える西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となっているのである。

 

 天皇の國家統治を、西洋の絶対君主の暴力的支配と同一視し、國家は個人に対する暴力的抑圧装置であるとし、天皇及び國家は「人民」と相対立する存在であるという考え方に立って制定されたのが現行憲法である。そして、「民主化」「個人の幸福」のためには、天皇の「地位」を低め「權能」を弱めることが必要であるという意識のもとに、欧米の政治思想であり、対立闘争の概念である「國民主權論」が採用されているのである。

 

 天皇中心の信仰共同體國家・祭祀國家たる日本には全くなじまない「主權」が「君主にあるのか、國民にあるのか」という対立概念に基づく「國民主權」を、成文憲法に書くことは、わが國の國柄とは相容れない。西洋概念で日本國體を規定することはあってはならない。西洋法思想・國家論である「國民主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定することは國體破壊につながる。 

 

 神話時代からの悠久の歴史を有する日本の天皇中心の國柄を、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋の憲法概念に基づいて成文憲法に規定することは重大な誤りである。「主權」が、「天皇」にあるか「國民」にあるかを、論議すること自體、日本の傳統的な考え方・國體觀とはなじまない。この一点を以てしても、現行占領憲法はまさしく日本の傳統を破壊する憲法である。 

 

 わが國は、信仰的・祭祀的統一によって形成された國家である。そしてその祭祀主が天皇であらせられるのである。祭祀國家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本國の本質であり、日本國體の尊厳性なのである。日本國は、國家の意思を最終的に決定する權力としての主權を持つ國民の意思によって形成された國家、すなわち契約國家・集合國家・權力國家・統治システムとしての國家ではない。 

 

 日本國家の生成は記紀神話に傳えられている。記紀によると、國家成立の三要素たる國土・君主・國民は、伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在であり、命の源を一つにする「はらから」である。天皇と國民の関係は、支配・被支配の関係ではないのである。祭祀主たる天皇は、國民を支配し隷従させたのではなく、信仰的權威(これを御稜威という)によって統率し統一したのである。

 

 「現行占領憲法」は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、國體破壊の元凶なのである。一日も早くこのような亡國憲法は無効としなければならない。

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2018年5月24日 (木)

天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である

 

「國王と雖も法の下にあるといふのが『法の支配』の原点である」といふ考へ方がある。これは、イギリスの法思想であると言ふ。

 

わが國は権力國家ではなく祭祀國家であり、天皇は権力者ではなく祭り主である。わが國の國體は祭政一致である。天皇は「法の上にをられる」とか「下にをられる」とかではなく、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」(のり)なのである。

 

日本天皇が、神を祭る時にうかがった神の意志を民に告げることを『ノル(告る・宣る)』と申し上げる。これがわが國の「法」(ノリ)の起源である。現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。

 

わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を民に傳へる『のりごと』である。「法(のり)」は「宣(のり)」である。「法(のり)」は「宣」「憲」「則」「矩」「規」「法」である。わが國における「法(のり)」の原義は、「天皇が宣せられた御命令」である。天皇は、権力や成文法を超越された神聖なるご存在である。今上陛下の一昨年八月二十二日の「玉音」はまさに「詔」である。

 

「詔書」は、やまと言葉で「みことのり」と申し上げる。「のり」の「のる」の名詞形であり、「天皇の御命令」をおごそかに宣言されるといふ意である。『承詔必謹』が日本国民の道義精神の根幹である。「天皇の大御心・みことのりを謹んで承る」が、天皇国日本の臣下国民のあるべき姿であり、道義精神の基本である。

 

「まつり」とは、自己を無にして神に仕へるといふ意である。臣下・國民は、現御神であり祭祀主であらせられる上御一人の「みことのり」を承った時には、自己を無にして必ず謹んで承らなければならない。

 

天皇國日本の存立および日本國民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と國民の「尊皇精神」である。神聖君主・日本天皇の大御心に臣下國民が「清らけき心」「明けき心」で随順し奉ることが、日本國永遠の隆昌の基礎であり、日本國民の倫理精神の基礎である。

 

まごごろをつくし、清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が、わが國の尊皇精神である。わが國の道義精神の中核は、日本國の祭祀主であられ、最高の神聖なる御存在であられる天皇に對し奉り清らけく明らけく仕へまつる心=清明心である。

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2018年4月18日 (水)

国民主権論は日本伝統と無縁

 「現行占領憲法」が第一章に「国民主権」の条項を置くことは、天皇国日本というわが国建国以来の道統を否定することである。

 

 日本の伝統的な考え方は、「天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体である」ということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が伝統破壊である。

 

 

 「現行占領憲法」制定時に、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

 

 「国民主権」の規定を審議した帝国議会では、政府は、「主権」とは「国家意思の実質的源泉」であり、「国民」とは「天皇を含む国民協同体」を指すとしていた。そして芦田均衆議院憲法改正案特別委員長は、欧米の「君主主権」と「主権在民」を対立的に捉えた主権二元論は、わが国においては採り得ないことを特に強調している。

 

 ところが宮沢俊義氏をはじめとした多くの憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張した。今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されているという。

 

彼らによれば、皇位の改廃は人民の意思によって可能なのであり、今上天皇の御即位に際してはその是非を国民投票に問うべしとする歴史学者まで現れた。わが国は君主国にあらずとか、元首は天皇にあらずとする珍説が学界に横行しているのが現状である。

 

 このような混乱の原因は、もともと多岐にわたる主権概念を憲法規定に持ち込んだことにある。「主権」の属性としての最高性、無制限性が言われる時、それは容易に伝統を無視した独裁専制に転化し得る。

 

 主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。ソ連邦も共産支那も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか、共産党最高指導者の個人専制恐怖政治が行われてきている。

 

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 

 日本では古来主権という言葉はなく、国家における政治作用の根本を言い表す言葉は「知らす」ないし「治らす」であり、言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。帝国憲法ではこれを「統治権」という言葉で表現した。

 

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説は、すなわちこれであった。

 

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達したのであるが、広く世界に及ぼしたのである。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然と言えよう。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたのである。

 

いずれにしても国民主権・君主主権という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本の伝統の天皇の国家統治の実相、日本国体とは全く異なる概念であり法律用語である。

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2018年4月16日 (月)

『現行占領憲法』の思想的欠陥

 

 『現行占領憲法』の三原理の一つである「基本的人権の尊重」の精神的支柱は「個の確立」「主体性の確立」であるが、「個」や「自我」というものを如何にとらえるかが大事である。正しき人間観・國家観の確立なくして、正しき「個の確立」も「主体性の確立」もあり得ない。道義精神なき「個の確立」は欲望民主主義に陥り、正しき國家観なき「個の確立」は利己主義となる。それが今日の日本の姿である。

 

 國民一人一人の福祉・自由・生活のゆとり・文化的生活そして平和を求めることは大事である。しかし、その前提になるのは、日本國という共同体であり、日本國民の自覚という同胞意識である。しかし、戦後日本は「愛國心」とか「國家への忠誠」ということを「悪」として軽視されてきた。むしろ「國のため」という意識は「軍国主義である」として否定された。

 

 戦後世代すなわち戦後教育を受けた世代が、わが國の政界・官界・財界などの指導層になった頃から、國家意識の喪失が深刻化して来たと思う。戦前の教育を受けて来た官僚・政治家・財界人が健在であった時期の日本は、戦後復興に努力し、経済大國として蘇生して来た。戦後復興を為し遂げたのは戦前の教育を受けた世代の人々である。ところが、そうした世代が第一線を退いて行くと共に、日本はおかしくなって来た。

 

 國家意識の喪失とは、「國家」とは何かという基本問題に対する理解がおかしいために起こって来た問題である。大東亜戦争の敗北によって、「國家悪」というものが強調され、國家は國民を抑圧し、國民を搾取する権力機構であり、國民あるいは人民・市民に相対立する存在であるという、考え方が支配的になった。そして、「國を愛する」とか「國家に忠誠を尽くす」ということは犯罪的行為であると言う考え方に國民の多くが汚染されてしまったのである。

 

 戦後日本は戦勝國によって西洋の國家観を押し付けられた。西洋の國家観は、契約思想に基づいている。西洋は、神と人間とが契約を結ぶキリスト教という宗教がその基盤にある。アメリカから押し付けられた『現行占領憲法』はまさにアメリカの国家観に基づいている。

 

國家もそれを構成する人々の合意と契約によって成り立っていると考えられている西洋近代國家論の歴史的淵源はキリスト教の聖書である。『旧訳聖書』とは神と人との古い契約のことであり、『新約聖書』とは新しい契約のことである。近代思想家のロックにしろ、ルソーにしろ、社會契約説を唱える場合、必ず聖書の契約を持ち出している。

 

しかし、國家社會が人間と人間との契約によって成り立つという考え方は、全く架空の観念でありフィクションである。原始社會において人間が社會や國家を作ろうと合意して契約を結ぶなどという馬鹿げたことはあり得ない。家庭・社會・共同体で育てられない人間は狼少年になる以外にない。

 

ところが、この「社會契約説」はアメリカ合衆國という國を作り出すためには大きな役割を果たした。アメリカという國は建國以前は、全く法律のない「新天新地」であり、言ってみれば無法地帯であった。そこには天から天降った君主もいなければ、総督もいなかった。だから、植民者が自らが自らを治める以外になかった。こうしたことが契約國家論がアメリカにおいて受け容れられた原因である。

 

 メイフラワー号(一六二0年にイギリスからアメリカに上陸した清教徒の船。清教徒とは、十六世紀後半、イギリス國教會に反抗して起こった新教徒の一派。清浄に生活することを主張した。ピューリタン)で結ばれた『メイフラワー憲章』には、「主権在民」「信託による統治」「法の下における平等」が謳われていた。『現行占領憲法』の原理の淵源がここにある。

 

 今日のアメリカは「自由民主主義國家」の見本のように言われているが、かつては、メイフラワー号で渡米して来た清教徒たちの子孫が特権階級となっていた。メイフラワー号の子孫にしても、最初から船に乗っていた純粋な清教徒は四十一名とその家族だけで、途中から乗船した残りの人たちはいわゆる「ならず者」「刑余者」であった。清教徒たちはセインツ(聖者)として尊敬され、残りの者たちはデヴィル(悪魔)として差別された。

 

 そして、アメリカで一六四一年に制定された『マサチューセッツ法』では、「第一条 異神(キリスト教以外の神)を信じたものは死刑。第二条 魔女も死刑。第三条 神も死刑」と規定されていた。また「インディアンと一緒に住んだ者は三年の懲役」という規定もあったという。さらに、マサチューセッツでは、知事をはじめとした役人は必ず何処かの教會に属するクリスチャンでなければならなかった。

 

 これは一神教の排他独善性、残虐性が如実に現れた法律である。アメリカがキリスト教國家であるイタリアやドイツには原爆は落とさなかったが、非キリスト教國家であるわが國には原爆を二発も落とし、東京に大規模な焼夷弾攻撃を行い、大虐殺を敢行したのも、一神教の排他独善性、残虐性及び有色人種への差別意識にその原因があると思われる。また先住民の駆逐、奴隷制度などの有色人種に対する迫害、虐待も行われた。

 

 「現行占領憲法」の骨格となっている思想である「自由と民主主義」、そして「契約國家論」の淵源である「アメリカ建國の精神」及びキリスト教というものは、このような恐ろしき性格を有していたことを我々は正しく知っておくべきである。    

      

 

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