2017年5月21日 (日)

『現行占領憲法』は根底から否定されなければならない

 

『現行占領憲法』には次のように書かれている。

 

「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 

第一項も現実無視の亡国条文である。国家防衛即ち自衛戦争は、最重要な「国権の発動」である。北朝鮮や共産支那などからの武力侵略は最も悪質なる「国際紛争」である。これを阻止するために「武力による威嚇又は武力の行使」を行うのは国家として当然の権利だ。第一項も亡国条文であることは明白だ。

 

従って、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という第二項は、国家の存立を根底から否定する条文である。自衛隊は誰が見ても、陸海空軍である。しかし、この条文がある限り「陸海空軍」と見做されないのである。「交戦権」を否定されているのに事実上「陸海空軍」があるというのは全くの欺瞞である。

 

安倍総理は、『現行憲法』の第九条をそのままにして、「自衛隊を憲法」に明記すると言う。これは、公明党の「加権」という主張を考慮したのと、一日も早く「自衛隊違憲論」の根拠をなくすための窮余の一策なのだろうが、このような欺瞞的「加憲」を行うべきではない。

 

『現行占領憲法』第九条を素直に讀めば、「自衛のためであろうと戦争は行わない」「一切の戦力・陸海空軍は持たない」という意味であることは明白だ。こんな憲法は根底から否定されなければならない。正々堂々「国家防衛」「国軍保持」を憲法に規定すべきである。

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2017年5月16日 (火)

「憲法守って國滅ぶ」という言葉が現実のものとな.る危険

 安倍晋三総理大臣は五月三日に開かれた「第19回公開憲法フォーラム」に寄せたメッセージで「私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。もちろん、九条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。」と語った。

 

さらに安倍総理は「読売新聞」五月三日号に掲載されたインタビューで、自民党が平成二十四年に作成した「憲法草案」では、第九条で「国防軍」の保持を明記していることについて、「党の目指すべき改正はあの通りだが、政治は現実であり、結果を出していくことが求められる。党の改正草案にこだわるべきではない」とし、第一項の「戦争放棄」、第二項の「戦力の不保持」を残しつつ、「自衛隊の存在を記述するということを議論してもらいたい」と語った。

 

では、「憲法前文」も「現行占領憲法」のままということであろう。これでは話にならない。今回の安倍総理の発言は、「加憲」を主張する公明党に賛成してもらいたいための発言であろう。

 

自民党の「改憲草案」には「第9条の2(国防軍)

1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」と書かれ、『国防軍』が明記されている。

安倍氏は「政治は現実であり、結果を出していくことが求められる。党の改正草案にこだわるべきではない」と主張しているが、「結果を出していく」ことにこだわるあまり、「原則」を全くなおざりにするのは間違いであり、将来に大きな禍根を残す。

 

「占領憲法」の「前文」を残したままの「憲法改正」は「改正」ではなく、「改悪」である。

 

「占領憲法」の「前文」に書かれている「人間相互の関係を支配する崇高な理想」などというものは、少なくとも南北朝鮮・支那・ロシアは全く持ち合わせていない。力がない国は侵略され、滅ぼされる。

 

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などということは、全くの空想・夢物語であるばかりでなく、きわめて危険な思想である。

 

わが国固有の領土南樺太・全千島を七十年近くも占拠したままのロシア、わが国固有の領土竹島を六十年以上にわたって占拠している韓国、そしてチベット・東トルキスタン・満洲・蒙古などを侵略支配し、台湾を併呑せんとし、尖閣諸島・沖縄などのわが国固有の領土・領海を浸略せんとしている共産支那、核開発を行いミサイル発射を繰り返しわが国国民を拉致している北朝鮮のどこに「公正と信義」があるのか。

 

さらに『現行憲法』「前文」に「日本国民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。

 

これは「日本は東條内閣の行為によって侵略戦争を起こしましたが、二度とそのような事はしないことをお誓いします。今後はアメリカ様、ソ連様、支那様など戦勝国の皆様の公正と信義に信頼して、侵略を行なった悪い国であるわが国とわが国民の生存と安全を保持してまいります。今後は何をされても決してお手向かいを致しません」という「詫び証文」である。

 

つまり、『現行占領憲法』は、日本國および日本國民は戦勝國に手向かった悪者であり、戦勝國は公正の信義の國であるという文字通りの嘘八百を基本精神にしているのだ。

 

『現占領行憲法』の「平和主義」とは、有り体に言えば「日本は軍隊や武力を持たせるとなにをするかわからない」という戦勝国側の考え方が根底にある。そして「わが國以外の國はすべて公正と信義を持っているのだから、日本を侵略しようなどという國は何処にも存在しない」という虚構が作られた。その虚構の上にわが國の國防という基本國策が立てられているのだ。これを一刻も早く否定しない限り、わが国は自分自身の手で祖国を守ることはできないのである。

 

『現行占領憲法』にいかに間違ったこと亡国的なことが書かれていても、この「憲法」なるものは、戦勝国が無理やり押しつけたものであり、正統なる憲法ではないとして、全面的に否定することができた。

 

しかし、詫び証文である「前文」をそのままにして『憲法改正』を行うと、この「詫び証文」がアメリカの押しつけではなく、国民の意志ということになる。これこそまさに亡国への道である。「憲法守って國滅ぶ」という言葉がまさに現実のものとなるのである。

 

今回の安倍総理のメッセージ・発言は現在の政治情勢化において一日も早く「憲法」に「国家防衛の實力組織」を明文化しようとの意思に基づく已むを得ざる選択であったろう。安倍氏の本心は「自主憲法制定」であると信ずる。であればこそ、正道を堂々と歩んで欲しいのである。

 

 

 

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2017年5月13日 (土)

自衛隊を國軍として正しく規定し、國家には独立と安全を保つために自衛権・交戦権を有すると明確に憲法に規定すべきである

本日開催された「アジア問題懇話会」において、金田秀昭氏(岡崎研究所理事・元海将)は、安倍総理の憲法に関する提言について、「公明党。日本維新の会の二つの政党に乗ってくれる話にしたいので『加憲』という方向を見せたのであろうが、第九条の第一項と第二項をそのままにして第三項に『自衛隊』の存在書き加えることはできるはずがない。石破さんが怒っているように、自民党の改憲草案には『国防軍』が明記されている。妙な形で筋道が立てられてしまったと思う」と語られた。全く同感ある。

 

 昨日も書いたが、「占領憲法」の「平和主義」「国際協調」とは、「我が國は侵略戦争をした悪い國であった。今後は武力・戦力・國軍を持たない。侵略阻止のための武力行使はしないし、国防戦争もしない」という敗北思想である。

 

有り体に言えば「日本は軍隊や武力を持たせるとなにをするかわからない」という観念が根底にある。そして「わが國以外の國はすべて公正と信義を持っているのだから、日本を侵略しようなどという國は何処にも存在しない」という虚構が作られた。その虚構の上にわが國の國防という基本國策が立てられているのだ。

 

 「占領憲法」の『前文』の精神に基づいて、第九条の「國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権はこれを認めない」を読めば、この規定は、「現行憲法」が自衛権・國防軍の存在を否定していると解釈するのが至当である。

 

「前項の目的」とは「國際紛争を解決する手段」のことであり、それは「侵略戦争」を意味するから、自衛のための戦力は否定していない、などという議論は、曲解である。

 

 『現行憲法』は「戦勝國による日本占領基本文書」であり、二度と再びわが國が米英支ソに対して立ち向かうことのないようにすることを目的として押しつけられたのだから、「交戦権」も「戦力」も「陸海空軍」も持つことを許されなかったのである。

 

 しかし、現実にわが國に存在する自衛隊は事実としては、立派な陸海空軍によって構成される國軍であり、武力の行使又は威嚇を行う組織であり、戦力も交戦権の保持している。

 

 そして、この自衛隊という名前の陸海空軍によって、わが國の安全・独立・治安が守られている。この事実は、自衛隊が違憲であるか否かに関わらず、厳然たる事実である。そしてそのことは、国民大多数の合意になっている。「現行占領憲法」が如何に現実を無視しており、空文となっているかは火を見るよりも明らかである。

 

 吉田茂総理(当時)は、昭和二十一年六月に國會で「第九条第二項において、一切の軍備と國の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」と述べている。これが『現行占領憲法』の立法意志であり、まともな解釈である。

 

 したがって、「現行憲法」がある限り、自衛隊は憲法上軍として認知されず、何時までも誰かが言った「違憲合法」という絶対矛盾の存在であり続けなければならないのである。國防に関してはわが國は法治國家ではない。

 

「現行憲法」を守り続けるということはこの欺瞞的状況を変えないということである。

 

平和の前提は、國家の独立・民族の自立である。國家の独立を維持し、民族の自立を守り、平和を維持し実現するために國防力・軍事力が不可欠である。

 

 冷戦終結後、わが國を取り巻く軍事・安保情勢はかえって厳しくなってきている。また國際社会はわが國が主権國家として安全保障問題・平和維持に主体的に取り組み、積極的な貢献することを期待している。國防戦争・自衛戦争まで悪として否定し、憲法に國防が明確に規定されてないという欺瞞的にして危険な状況を一刻も早く是正することが必要である。

 

「現行憲法」の無効を確認して、自衛隊を國軍として正しく規定し、國家には独立と安全を保つために自衛権・交戦権を有すると明確に憲法に規定すべきである。

 

 また、國の独立と安全を守ること即ち國防は、最も重要な國家機能である。多くの國では憲法で國民と國を守る義務を定め、また軍保有とその指揮系統を明確に規定している。國家存立の基本たる國防が、「解釈改憲」で成り立っている状況は何としても是正されるべきだ。

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「現行占領憲法」廃止あるいは無効確認を断行する状況を作り上げるべきである

 戦後日本は大東亜戦争の敗北による「反戦意識」、そしてそれに伴う戦勝国の日本弱体化政策により、“戦争否定”というよりも“国家防衛否定”の思想が未だに蔓延している。そして「亡国憲法」がある限り、平和は守られるという馬鹿馬鹿しい幻想を抱いている人が未だに存在する。国家防衛体制の構築・増強を「悪」であるとして否定している人が多い。国家の独立と尊厳を守る気概を悪と断じているのである。

 

 「現行占領憲法」は諸悪の根源であり、これが存在する限り戦後が終わらないばかりでなく、わが国は国家存立の基盤である自主防衛体制の確立すら正しく実現することはできない。

 

 「現行憲法」は、占領憲法といわれているように終戦直後に戦勝国の恫喝によって押し付けられた。従って、大東亜戦争は日本の一方的侵略であったという自虐史観の論理で汚染されている。その結果、日本国は、内には祖国への誇りを喪失し、外には国際社会から軽侮と不信を受け続けてきた。

 

 「現行憲法」は、再び日本がアメリカなどの戦勝国に歯向かう国にならないよう仕組まれたものである。つまり、「現行憲法」の条文を守れば守るほど、日本国家の国防・政治・教育・社会・家庭が混乱するようになっているのだ。

 

 今日は、民族と民族・国家と国家がエゴをむき出しにした対立・闘争の時代である。わが国は最早、国家意志を曖昧にしたまま、世界の傍観者であり続けることはできなくなった。

 

 「現行憲法」が如何に亡国憲法であるかはその「前文」を見れば明らかである。「現行占領憲法」前文には、「諸国民の公正と信義に信頼してわれらの生存と安全を保持しようと決意した」と書かれているが、これほど現実を無視した文章はない。

 

今日、公正と信義などという抽象概念で世界は動いていない。良くも悪くも「武力による解決」が行われている。

 

北方領土を奪取して返さないロシア・竹島を奪取して返さない韓国・わが国国民を拉致しスパイ船を派遣して破壊活動を行いミサイルをわが国上空に飛ばしている北朝鮮・尖閣沖縄を侵略しようとしている共産中国という「公正」も「信義」も全く持ち合わせていない国に取り囲まれているのが日本なのだ。

 

 こうした状況下に置かれたわが国が、「諸国民の公正と信義に信頼してわれらの生存と安全を保持しようと決意」するだけで、一切の軍事力を放棄していたら、わが国はそうした周辺諸国の餌食になるだけである。現実にわが国は戦七十年以上、周辺諸国に馬鹿にされ領土を奪われたままではないか。

 

 さらに「前文」には、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と書かれている。これは大東亜戦争のことを言っているのだが、あの戦いは政府のみの行為ではない。一億国民が火の玉となって戦ったアジア解放の聖戦であったのだ。

 

 「現行憲法」前文の主旨は、日本国及び日本国政府は悪者であり、他国は公正と信義のある国であるということを前提にしているのだ。こんな詫び証文のような「前文」を持つ憲法を、戦争が終わってから七十年以上も経過している今日、後生大事に抱えているのは文字通り国恥である。

 

他の国の国民は全て「公正と信義」なるものを持っているのだから、日本にはわが国を侵略しようなどという「公正と信義に反する敵国」はあり得ないということになる。そういう嘘八百・虚構が「平和主義」などと言われているのだ。

 

 この「前文」の精神に基づいて、憲法「本文」を読めば、「第九条」は、「日本国による防衛戦争」も否定していると考えるのが妥当だ。

 

「九条第一項」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」は、不戦条約をそのまま文章にしたもので日本のみではない。しかし、「第二項」の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。交戦権はこれを認めない」というのは日本以外に無い条項である。

 

「前項の目的」とは「国際紛争を解決する手段」であり「自衛」ではないというのは苦しい読み方であり曲解と言っていい。

 

「現行憲法」は占領の基本文書であり、前述した二度と再びわが国が戦勝国に立ち向かうことのないようにすることを目的として押しつけられたのだから、「交戦権」も「戦力」も与えられなかったのである。

 

 要するに、「現行占領憲法」には国防が定められていないのである。このことが日本という国家を駄目にしたのである。国防は国家の生命だ。こんな亡国的文書が「憲法」としてまかり通っている限り、戦後は終わらず、日本は独立国家ではない状況が続くのである。

 

「現行憲法」は、「戦勝国の戦勝国による戦勝国のための憲法」なのである。「現行占領憲法」は占領行政基本法であるから占領終了後廃止すべきであった。「現行占領憲法」は、日本が主権を持っていなかった時期に戦勝国によって押しつけられたのだから、主権を回復した時に廃止すべきだった。

      

 致命的な欠陥を持つ「現行占領憲法」に対して、「改正すべきである」という論議が起こり、各方面から憲法改正案が出されている。しかし、一条一条を取り上げて改正を論じたり、その是非をあげつらっているだけでは、何の解決にもならない。

 

 部分改正論は、一時一局の問題の解決がその目的とされており、日本の真の自主独立、戦後の敗北思想からの解放を目的としたものではない。

 

「現行占領憲法」はその根本において日本弱体化のための憲法なのである。これを全面的に廃止するか効力を失わしめて、正統憲法に回帰しなければならない。

 

 国防という国家存立の基本が、いわゆる「解釈改憲」で成り立っている状況は何としても是正されなければならない。

        

 ともかくも、戦後日本が被った化けの皮を剥がすことが大事である。戦勝国から押し戴いた憲法を廃止しなければ主権独立はない。日本国が真の独立国家となるためには「現行憲法」の廃止・無効確認が断行されるべきである。条文の改正では駄目である。総理大臣は宰相として「現行占領憲法」廃止あるいは無効確認を断行する状況を作り上げるべきである。

 

 

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2017年5月 8日 (月)

占領憲法の否定と防衛体制の強化

 

國のために戦うという『強者の思想』を否定し、戦争は放棄する、軍隊は持たない、という思想は『弱者の思想』である。また、國家の独立・平和・歴史・傳統が侵略者から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦うことを忌避する『弱者の思想』である。

 

『現行占領憲法』体制下の魂の腐敗と國家の欺瞞は、「軍國主義國家」であったという戦前の日本にはあり得なかったような、「人命軽視」という言葉すら空しくなる残虐なる殺人が日常茶飯事になった社會を現出させた。

 

韓国や共産支那は、わが国を「和解しえない敵国」と思っているとしか考えられない。韓国や共産支那に対する警戒を怠ってはならない。

 

共産支那からの軍事攻撃を未然に防止するために、日本国は核武装しなければならない。それこそがまさに『核抑止力』である。国防体制の強化に反対する勢力即ち亡国政党・偏向メディアは、共産支那の手先になっているのだ。

 

支那の覇権拡大を防ぎアジアの平和を守るためにも、そして対米自立を実現するためにも、日本は核武装すべきと思う。そのためには日本国民の意識変革が必要である。

 

『現行占領憲法』の「前文」に書かれているいわゆる「平和主義」は現実無視の危険千万な思想であることは明白である。

 

国防の基本に祖国に対する誇りがなければならない。東京裁判史観・自虐史観・大東亜戦争侵略論によるマインドコントロール・呪縛から脱却しなければならない。

 

『現行占領憲法』の「前文」には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し…」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの生存と安全を保持しようと決意した」と書かれている。これは「東条内閣の行為によって行われた侵略戦争は二度と致しません。日本国および日本国民が安全を守るのも生存していくのもアメリカ様・ソ連様・中国様というような公正と信義のある国に一切委ねます」という意味である。これは「詫び証文」である。

 

『現行占領憲法』の「平和主義」とは、「我が國は侵略戦争をした悪い國であった。今後は、武力・戦力・國軍は持たないし武力の行使はしないし戦争はしない」という思想である。

 

つまり、『現行占領憲法』は、日本國および日本國民は戦勝國に手向かった悪者であり、戦勝國は公正の信義の國であるという文字通りの嘘八百を基本精神にしているのだ。

 

わが國固有の領土南樺太・全千島を七十年近くも占拠したままのロシア、そしてチベット・東トルキスタン・満洲・蒙古などを侵略支配し台湾及び尖閣諸島などのわが國固有の領土・領海を侵略せんとしている共産支那、竹島を占拠し条約を踏み躙る韓国、わが国民を拉致し核開発行いミサイル発射を繰り返す北朝鮮のどこに「公正と信義」という立派なものがあるというのか。

 

『現占領行憲法』の「平和主義」とは、有り体に言えば「日本は軍隊や武力を持たせるとなにをするかわからない」という戦勝国側の考え方が根底にある。そして「わが國以外の國はすべて公正と信義を持っているのだから、日本を侵略しようなどという國は何処にも存在しない」という虚構が作られた。その虚構の上にわが國の國防という基本國策が立てられているのだ。これを一刻も早く否定しない限り、わが国は自分自身の手で祖国を守ることはできないのである。

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2017年5月 7日 (日)

吉田茂氏の尊皇精神と憲法観

三日から五日まで高知県に行って来ました。

 

高知空港で吉田茂氏の銅像を仰いだ。また高知城に建立されている板垣退助像の背面には、吉田茂署の説明文が刻まれていた。

 

『憲法懇話會』で憲法学者の三潴信吾氏が「吉田茂首相には自主憲法制定の意志があった。昭和二十八年の主権回復と共に、吉田氏は自由党として自主憲法制定をするとはっきり言って、自主憲法制定の組織を作るように岸信介氏に命じた。吉田茂は憲法に手を付ける意図がなかったというのは真っ赤な嘘」と語っておられた。

 

奥野誠亮先生は、歴代総理大臣で一番記憶に残る人として、奥野先生が高知県警察部長時代に接点があった吉田茂を挙げて、吉田氏が、色紙に描かれたダルマの墨絵に「新憲法 棚のだるまも 赤面し 素淮(注・吉田氏の号)」と添え書きした思い出を語られ、「ここから吉田さんの心境が読み取れる」と語られていた。

 

また吉田氏が尊皇政治家であった事は、今上陛下の立太子の礼の時の壽詞で『臣茂』と奏上した事でも分明である。

 

「占領憲法」には「主権在民」と規定され、曲學阿世の憲法學者にの中には「日本の元首は内閣総理大臣だ」などと論ずる輩もいるのに、吉田氏は天皇の臣下としての自覚と矜持を持っていた政治家であり、まさに昭和の忠臣と言って良いであろう。

 

だからこそ、昭和天皇は昭和三十年に次のような御歌を詠ませられているのである。

 

「 小田原に往復の折、吉田茂元首相の家の前を通りて詠める

 

往きかへり 枝折戸を見て 思ひけり しばし相見ぬ あるじいかにと  」

 

 昭和天皇と吉田茂元総理との関係はまさに、「君臣水魚の交わり」に近い麗しい関係だったのではないかと、小生は考える。

 

 

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2017年4月 8日 (土)

『禁中並公家諸法度』と『現行占領憲法』

敗戦後、天皇の統治大権は連合國最高司令官の隷属下にあった。昭和二十年八月十日『ポツダム宣言』を受諾するにあたってわが國政府がアメリカに対し「ポツダム宣言の条項は受諾するも、天皇の國家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に受諾す」との最後の申し入れを行ったのに対し、アメリカのバーンズ國務長官は「天皇および日本國政府の國家統治の権限は、降伏条項實施のため、必要と認むる措置をとる連合國最高司令官の制限の下に置かれるものとする」と回答してきた。

 

「制限の下に置かれる」といふのはあくまでも日本外務省の訳語であって、英語の原文は「subject to」であり、正しい訳語は「従属の下に置かれる」あるいは「隷属の下に置かれる」である。

 

三潴信吾氏は、「(バーンズ回答は)戰時國際法に基く彼等の權利を示したものである。この『従屬』の意義を明確にすべきであって、これ、政府が國民の憎悪感を和げんとして『制限』と譯し、『日本國憲法』は單に一部機能を制限された日本の主権の下に、少なくも日米合作で制定したものの如く擬装したことは言語道断である」(『日本憲法要論』)と論じてゐる。

 

また、同年九月六日付の米國政府の『マッカーサー元帥あての指令』に「一、天皇および日本國政府の國家統治の権限は、連合國最高司令官としての貴官に従属する。…われわれと日本との関係は契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである。…二、日本國の管理は、日本國政府を通じて行われる。ただし、これは、そのやうな措置が満足すべき成果をおさめうる限度内においてとする。このことは、必要があれば直接に行動する機関の権利を妨げるものではない。」(桶谷秀昭氏著『昭和精神史』より引用)と書かれてゐる

 

以上の事實によって、天皇の統治大権が連合國最高司令官たるマッカーサーの従属下にあったのは明白である。ただし、この場合の「統治大権」とは『大日本帝國憲法』第四条の「統治権力」であって、信仰共同體日本の祭祀主たる天皇の御統治といふ信仰的精神的権威と御権能までが、マッカーサー連合國最高司令官の隷属下に置かれたのではない。それは、征夷大将軍が「統治権力」を行使してゐた徳川幕藩體制下においても、天皇が日本國の祭祀主としての精神的信仰的君主の権威と御権能を保持されてゐたのと同じである。

 

徳川幕府は、元和元年(一六一五)七月十七日『禁中並公家諸法度』(『禁中方御条目』ともいふ)を定めた。徳富蘇峰氏は「(『禁中並公家諸法度』は)公家に向かって、その統制権を及ぼしたるのみでなく、皇室にまで、その制裁を及ぼしたるもので、いわば公家はもとより、皇室さえも、徳川幕府の監督・命令を仰がねばならぬ立場となったことを、法文上において確定したものだ。すなわちこの意味において、武家諸法度に比して、さらに重大なる意義がある」(『近世日本國民史・家康時代概観』)と論じてゐる。

 

その第一条には、「天子諸藝能の事。第一御學問なり。」と記されてゐる。そして「和歌は光孝天皇より未だ絶えず。綺語たりと雖も、我が國の習俗なり。棄置く可からず」などとも書かれてゐる。

 

徳富蘇峰氏はこの条文について、「天皇は治国平天下の学問を為さず、ただ花鳥風月の学問を為し給うべしとの、意味にて受け取るを、正しき解釈とせねばならぬ。」(同書)と論じてゐる。

 

肇國以来、天皇の御地位は、本来成文法の規定を超越してゐる。わが日本は國家の本質と君主たる天皇の御本質が建國以来、信仰的に厳然と確立してゐる。成文憲法でそれを変革することはできない。日本天皇が日本國の君主・統治者であらせられるのは、日本の傳統信仰・歴史的な國體観念に基づくのであって、成文法に規定されてゐるからではない。つまり天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本國體は憲法などの世俗的な法律を超越しており、憲法などの世俗の成文法は、皇室にかかはることに干渉することは本来できない。

 

成文法おいて、天皇の御事が具體的に記されたのはこの『法度』が初めてであるといふ。天皇と朝廷はこの『法度』によって幕府の制定した成文法の枠組みの中に入れられてしまった。「御學問第一」などといふことをあへて成文法化して規定した上に、日本國の君主であらせられ統治者であらせられる天皇本来の國家統治の御権限については何も記されゐないのは、天皇が「政治的権力」を有してをられない事を「成文法」として規定したものである。すなはち、「天皇は實際の政治権力には関与されず、ただ宮廷において御學問をされておればよい」と読むのがこの『法度』の正しい理解であらう。天皇の統治大権は、幕府権力によってそれこそ制限されたのである。この『法度』の實際の制定権力である江戸幕府への「大政委任」の成文法的根拠を与へた。

 

このやうに見て来ると、『禁中並公家諸法度』は、外来権力ではないが武家権力によって「制定」せられた点、およびその内容が日本國體を隠蔽してゐるといふ点において、『現行占領憲法』と似てゐる。『禁中並公家諸法度』は江戸時代を通じて一切改訂されなかったが、徳川幕府が打倒された後、まさに無効となった。『現行占領憲法』も、『禁中並公家諸法度』と同じく、講和発効・占領解除後に当然無効となってゐるべきである。

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2017年4月 6日 (木)

故三潴信吾氏の國體論・憲法論

以前掲載した文章ですが、大事なことですので、再度掲載いたします。

            〇

平成十一年五月八日に開かれた『憲法懇話会』にて、故三潴信吾氏が「自主憲法制定の基本方針」と題して講義され、次のように語られた。

 

「吉田茂首相は自主憲法制定の意志があった。『二十八年の主権回復と共に、自由党として自主憲法制定をする』とはっきり言って、自主憲法制定の組織を作るように岸信介氏に命じた。吉田茂は憲法に手を付ける意図がなかったというのは真っ赤な嘘。高柳委員會以前に自由党の憲法調査會があった。

 

日本の祭政一致が外國人にはよく分からなかったので、祭祀は皇室の私的行事であり、國家公共機関がやってはならないとした。明治のはじめに立憲政体になった時、神祇官を太政官の下に置いたのが間違い。

 

『帝國憲法』には『万世一系の天皇が統治する』と書かれている。憲法は祖宗の皇統・國體に基づく政体規定。天皇条項は『祖宗の皇統としての天皇』を明確にすべし。美濃部達吉氏は『天皇は政体においては一つの機関だ』と言った。國體の天皇を機関だと言ったのではない。美濃部氏は戦後『帝國憲法の第一条・第二条は変えるべきはではない』と言った。憲法はステート(國家権力機関)の基礎法。ステート(権力機構としての国家)と成文憲法の拠って立つ基盤が國體。

 

西欧デモクラシーは数だけで考えるから衆愚政治になる。質をチェックする必要があるので上下両院が設けられた。衆議院は量、貴族院は質に重点を置いた。数を質で評価する機関が枢密院。宮中に内大臣府があり、天皇の大御心を基として質的柱が立っていた。

 

國會は内閣が招集し、最高裁に違憲立法審査権があるのだから、國會を國権の最高機関と言うのはおかしい。

 

皇祖皇宗へのお祭りは決して私事ではない。國家の行事としての祭祀である。

 

エンペラーの語源は最高権力者であるから天皇をエンペラーと訳してはならない。

 

英國・デンマーク・オランダという王制の國に行って『貴國は民主主義國家ではない』と言ったら笑われる。

 

現行憲法には、『帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる』とあるにもかかわらず、『日本國民は…主権が國民にあることを宣言し、この憲法を確定する』と書かれているように、天皇が公布せしめたのに國民が確定したという嘘が最初から書いてある」

と語られた。  

 

千駄木庵主人曰く。「君主制國家が民主國家ではない。君主制はやがてなくなる」という議論は現実によって完膚なきまでに否定されている。民主主義・人民を國家の名称にまで用いている國(朝鮮民主主義人民共和國)が世界中で最も独裁的・侵略的な國であり人民が貧困と飢えに喘ぎ餓死している。ロシア・支那・ラオス・イラン・朝鮮などを見て明らかなように王制・君主制を打倒した國は民主國家になるどころか全く正反対の独裁専制國家になっている。三潴先生には本当に色々貴重なこと大切なこと教えて頂いた。心よりご冥福を祈らせていただきます。

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2017年2月 8日 (水)

『占領憲法』の無効を確認し、『大日本帝国憲法』を復元改正するのが正しい

 日本國體と相容れない西洋憲法思想 憲法学の定説では、「西洋成文憲法は権力に対する制限規範である。権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』という原則=『法は王権に優越する』という法治主義を確立した」とされる。

 

日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。神聖なる権威による統治である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。

 

また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどという事は絶対にあり得ない。また、わが國の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

 

「現行占領憲法」は、その法思想・理念もアメリカの押し付けであるから、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に貫かれている。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。「現行憲法」は、わが國體とは相容れない。

 

日本国は、神話の世界から「天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体」たる傳統を保持している。そうした日本の国柄・國體を西洋の国家思想で定義する事は誤りである。

 

「現行占領憲法」は、アメリカ憲法の模倣である。欧米の契約思想・権力国家観に基づいている。日本國體に基づいた憲法ではない。 わが国には本来、権力国家ではないし、主権が国民にある とか君主にあるというような「二元論」は無かった。

 

「現行憲法」の原理を否定しなければ「現行占領憲法」の改正にも ならなければ 自主憲法制定にもならない。法理論上、「『大日本帝国憲法』を復元し、改正すべきところは改正すのが正しいと思う。日本国と全く国の成り立ち・国柄・歴史が異なる西洋の憲法思想をわが國の憲法思想にしてはならない。そしてそういう日本国の國體と歴史に合致しない法思想で成り立っている「現行占領憲法」の無効を一刻も早く確認すべきである。

 

『大日本帝国憲法』第七十四条には「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」とある。また明治天皇が明治二十二年二月十一日に勅定された『皇室典範』六十二条には、「将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族會議及枢密顧問ニ諮詢シテ勅定スヘシ」と書かれてゐる。

 

今日、『皇室典範』改正論議が喧しい。また、天皇の御譲位について国会で議論されようとしている。本来、『皇室典範』は勅定であり、決して議会や政府が容喙してはならないのである。また、天皇の御地位に関しても議会や政府が容喙してはならない。

 

井上毅は、「皇室典範を以て國會の議に附するときは、人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」と述べてゐる。

 

今日の状況はまさに井上毅の言った通り「人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」といふ状況になってゐる。

 

戦後、『皇室典範』が『憲法』の下位法になり、皇位繼承といふ皇室の重大事が権力機構である衆参両院で多数決によって決められてしまふようになったのは、重大なる傳統破壊・國體隠蔽であり、厳密・厳格に言へば「國體破壊」への道を切り開くものである。 

         

また『大日本帝国憲法』第七十五条には「憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」とある。『現行占領憲法』は『大日本帝国憲法』を改正したとされる。

 

しかし、当時、戦勝国アメリカにより「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」(「ポツダム受諾に関する八月十日付日本国政府申入」に対する米英ソ支の政府を代表したバーンズ米国務長官の回答)とされてゐた。英語の原文は、「The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate these terms of surrender.」である。「subject to」をわが國外務省は「制限の下」と訳したが、正しくは「隷属下」である。

 

つまり、「摂政」が置かれるどころか、天皇陛下の統治の大権が外国の軍人・マッカーサーの隷属下に置かれていたのである。このような状況下において行われた『憲法改正』は、違法であり、無効である。つまり、『現行占領憲法』は法的に全く正統性が無いのである。ゆえに、無効が確認され、『大日本帝国憲法』が復元するというのが法理論的に全く正しいと考える。

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2017年2月 7日 (火)

現行憲法の欠陥と正統憲法の回復

「現行憲法」の最大の欠陥はその原理にある。憲法を論ずるにあたって最も重要な前提は、西洋成文憲法は「権力に対する制限規範」だということである。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で一二一五年に結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』といふ原則=『法は王権に優越する』という「法治主義」を確立したとされる。「権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。その為に成文憲法が必要とする」という考え方である。

 

つまり、専制君主と人民との間の不信感に発した人権保障の約束証文が西洋成文憲法の起源なのである。したがって西洋成文憲法には「君主と人民とは相対立する関係、支配被支配の関係にある」という思想が根底にある。そこから「国民主権論」が生まれてきた。この「国民主権論」が戦後アメリカ占領軍によって日本に押し付けられたのである。

 

「現行占領憲法」が占領軍の押し付けであるというのは、制定過程が占領軍の強圧によるものというだけではなく、基本理念たる「国民主権論」「主権在民思想」が占領軍の押し付けだということである。

 

しかるに、政権党たる自民党およびわが國の代表的新聞である読売新聞の「憲法改正試案」は、現行占領憲法の原理を踏襲している。「自民党憲法草案」も「読売新聞憲法改正試案」も、「現行占領憲法」の「国民主権論」を踏襲し、「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基く」としている。しかも自民党改憲試案の前文には、「日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する」と書かれている。アメリカの押し付けである現行憲法の基本原理を、日本国民の意思と決意に基づき新憲法の原理とするというのである。

 

「主権在民」「国民主権論」は、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に依拠する原理である。故にわが國の国柄とは絶対に相容れない。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。日本國は君民一体の國柄である。「主権」が「君主にあるのか、国民にあるのか」などということを成文憲法に規定すること自体、わが国の国柄を破壊し隠蔽する事となる。

 

「國家の意思を最終的に決定する権限」という意味での「主権」なる概念と言葉は、天皇中心の信仰共同体國家日本には全くそぐわない。西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」=主権を奪い合ったという歴史は全くない。天皇を中心とした信仰共同體である日本國は権力支配組織ではない。だからわが國には西洋的主権論はあてはまらない。

 

西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定することは大きな誤りである。「國民主権論」が憲法に書かれている事がわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある。戦後日本の不安定の根本原因は実にここにある。

 

日本国は天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体である。國民が契約を結んで人工的に作った國ではない。そして祭祀主である天皇は國民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。日本天皇の國家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ない。

 

わが日本は国家の本質と君主たる天皇の御本質が建国以来、信仰的に厳然と確立している。これを法律論的に言えば、不文法によって定まっているということである。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立国の基本)に反する規定をしてはならない。

 

日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋近代の成文法とは基本的に相容れない。「国民主権論」払拭し、神話時代からの悠久の歴史を有する日本國體を正しく成文規定した憲法の回復しなければならない。

 

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