2020年8月 8日 (土)

『現行占領憲法』は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、日本國體破壊の元凶である

日本国の君主であり現御神であらせられる日本天皇は、政体上の「機関」ではない。また成文憲法によって規制せられる御存在ではない。まして戦勝国によって押し付けられた「占領憲法」下に置かれるご存在ではない。また、内閣、国会という権力機構によって規制される御存在でもない。

天皇に対し奉り、「祭祀、皇位継承、譲位」などへの国権の最高機関とされる国会の介入と規制、内閣という権力機構による「助言や承認」をすることはできないし、してはならない。

『現行占領憲法』は、西洋法思想に基づき、前文で「主權が國民にあることを宣言し」、第一条で「(天皇の・注)地位は、主權の存する日本國民の総意に基づく」と規定している。これを根拠にして日本は君主國家ではないとする意見が出て来る。こういう議論が起こるところに『現行憲法』の重大欠陥がある。憲法改正であろうと自主憲法制定であろうと、『現行占領憲法』の「國民主權」論を踏襲するのでは意味がない

『現行占領憲法』は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、日本國體破壊の元凶なのである。一日も早くこのような亡國憲法は全面否定されなければならない。

「現行憲法」第一条の、「(天皇の地位は・注)主權の存する日本國民の総意に基づく」という規定は、主權在民論・契約國家思想・權力國家思想に要約される西洋法思想に基づく規定である。西洋法思想における「主權」とは「領土や國民を支配する國家の權力」「國家として持つ最高獨立性」のことであり、憲法上最も重要な意味は「國家の意思を最終的に決定する權力」であるとされている(伊藤正己著『注釈憲法』)。

その西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定するのは重大なる國體隠蔽である。

特に、「主權」が、「天皇」にあるか「國民」にあるかを論議することは日本の傳統的な考え方・國體觀とは全く異質である。

わざわざこのような政体としての権力機構に関する規定を、祭祀国家・信仰共同体であるわが國の國體条項に書くこと自体が大いなる國體隠蔽なのである。この一点を以てしても、「現行占領憲法」はまさしく日本の傳統を破壊する憲法である。

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2020年8月 5日 (水)

「國民主権論」はわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口

「國民主権論」はわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口

 

 『日本國憲法』と称する『現行占領憲法』の<三原理>とは、「國民主権主義」「平和主義」「基本的人権の尊重」である。

 

 嘘と欺瞞に満ちた『現行憲法』の「前文」には「日本國民は、正当に選挙された代表者を通じて行動し、……ここに主権が國民にあることを宣言し…そもそも國政は、國民の厳粛な信託によるものであって、その権威は國民に由来し、その権力は國民のこれを代表者が行使し、その福利は國民がこれを享受する」と書かかれている。「國民の厳粛な信託」などというものが一体何処にあるのであろうか。

 

 『現行憲法』でいう「國民主権主義」の「主権」とは、「國家意思を最終的に決定する権限」を言う。主權在民論・契約國家思想・權力國家思想に要約される西洋法思想に基づく規定である。西洋法思想における「主權」とは「領土や國民を支配する國家の權力」「國家として持つ最高獨立性」のことであり、憲法上最も重要な意味は「國家の意思を最終的に決定する權力」であるとされている(伊藤正己著『注釈憲法』)。

 

 『現行占領憲法』の「國民主権主義」は、「戦前の我が國は天皇主権の國であり、天皇制権力のもとに軍國主義國家となり國民の権利は奪われ戦争に駆り立てられた」という思想に基づくものである。

 

しかしこれは全く誤れる思想である。我が國の歴史には、天皇が主権=國家の最高権力を独占的に掌握し独裁専制政治を行っていたなどということは全くない。『大日本帝國憲法』にも、「天皇に主権がある」とは全く書かれていない。
 
我が國は天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体である。西洋國家論で言うところの契約國家・権力國家ではない。我が國は君民一体の國柄である。西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」を奪い合ったという歴史は全くない。

 

「國家の意思を最終的に決定する権力」という意味での「主権」なる概念と言葉は、天皇中心の信仰共同体國家日本には全くそぐわない。天皇を中心とした信仰共同體である日本國は、権力支配組織ではない。だからわが國には西洋的主権論はあてはまらない。
 
西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定すること自體、大きな誤りであり國體を隠蔽し破壊につながる。
 
今日の多くの憲法学者やマスコミは「國民主権論」をわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口としようと躍起になっている。それが一般國民の常識となって浸透していることは実に以て根本的な非常識であり、國家存立の基礎を揺るがす凶事である。

 

「現行占領憲法」は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、國體破壊の元凶なのである。天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体國家日本の成文憲法に「國民主権」を記す必要は全くない。

 

 日本國という國家は、単なる権力機構・政治的支配機関ではない。もっと大らかにして神聖なる存在であり、精神的・道義的・信仰的・文化的存在である。人と人とが精神的に結合した共同體である。日本國はその生成の過程を見れば明らかな通り、天皇を祭祀主とする信仰共同體である。日本國は革命とか開拓によって人為的に造られた國ではなく、神が生みたもうた國であるという神話と信仰が古来からの國體思想である。

 

 國家を単なる権力機関として見ると、國家の神聖性・道義性が隠蔽され、日本國の文化も、伝統信仰も、文化も、道義も、さらには天皇皇室でさえ、全て権力機関としての國家の下に置かれ、その支配を受けなければならなくなる。そして権力機関としての國家のみが前面に出て、国家が國民と対立し、やがて國家の中で権力と國民の闘争が日常化する。現代日本は、まさにそうした状況に置かれつつある。

 

 今日においてさらに重大な問題は、日本國天皇の祭祀という共同體國家日本の存立の基本である<天皇の祭祀>が、憲法の制約下に置かれるようになっていることである。

 

 憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現していない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いているのである。天皇中心の日本國體を正しく成文化すべきである。それためには、天皇が日本の「君主」「統治者」であらせられることを明確に規定するべきである。

 

 日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている「現行憲法」が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。

 

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2020年8月 1日 (土)

宮澤憲法学が國體隠蔽の元凶である


 祭祀国家日本の祭り主であらせられる日本天皇は、常に国民の幸福を祈る祭り主なのであるから、国民と相対立するご存在ではないし、日本天皇は国民を力によって支配し隷従せしめるご存在ではない。国民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を国民に示し、また国民の意志を神に申し上げ、国民の幸福の実現を最高の使命とされるお方が天皇であらせられる。つまり天皇と民は「和」「共同」の関係にあるのであり、対立関係ではない。こうした天皇中心の日本の国柄を「君民一体の日本国体」というのである。このような日本の国柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで続いてきている。

ところが外国では、太古の王家も古代国家もそして古代民族信仰もとっくに姿を消し、その後に現れた王家は武力による征服者であり、その後に現れた国家は権力国家であり、その後に現れた信仰は排他的な教団宗教である。古代オリエントや古代シナにおいては、祭祀を中心とする共同体が武力征服王朝によって破壊されてしまった。共同体を奪われ祭りを喪失したよるべなき人々は、貨幣や武力に頼らざるを得なくなり、権力国家・武力支配国家を形成した。

 それに比してわが日本は、古代からの祭祀主を君主と仰ぐ共同体国家が、外国からの武力侵略によって破壊されることがなく、今日も続いている国なのである。皇室祭祀だけでなく、全国各地で一般国民が参加する祭祀が続けられている。まことにありがたき事実である。

 そして今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給う天皇を、現実の国家の君主と仰ぎ、国家と民族の統合統一の中心として仰いでいる。これは日本の麗しい自然と稲作生活が完全に滅びない限りつつくであろう。こうした事実が、西洋諸国やシナと日本国との決定的違いである。

 長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも国が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇という神聖権威を中心とする共同体精神があったからである。日本という国は太古以来の伝統を保持する世界で最も保守的な国でありながら、激しい変革を繰り返して来た国なのである。その不動の核が天皇である。

天皇国日本の「成文憲法」は、こうした日本國體の本義に基いて制定されなければならない。西洋権力国家において生れた「国民主権論」は排除されなければならない。

ところが、今日の政治家(保守を含む)、官僚には、日本の伝統と全く相容れない原理で成り立っている『現行占領憲法』によって日本國體の本義、國體精神よりも隠蔽することに躍起になっている。

日本の官僚は、東京大学法学部出身者が主流を占めている。そして東大法学部は、宮澤俊義という敗戦後戦勝国によって押し付けられた『占領憲法』を金科玉条にしている学者の学説に支配されている。これが今日の我国の憲法問題をおかしくしている元凶である。

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2020年7月 4日 (土)

「國民主権論」の憲法への明記はわが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある


 美濃部達吉氏は、「主権の観念は近世の初期以来、主としてフランスにおいて初めには君主主権説の形において君権の擁護のために主唱せられ、後には一転して國民主権説の形において社会契約説と相結合し、広く世界に大なる影響を及ぼし、ことに米國諸州の英本國よりの独立、米合衆國の成立、フランス革命等につきその思想的基礎を与えたのである。」(『日本國憲法原論』)

大石義雄氏は、「主権在民とは國民主権とかいう言葉は、日本の歴史にはなじまない言葉である。西洋の歴史は、君主退國民の政治闘争の歴史であるから、君主の手に握られていた主権が國民の手に移ったことを示す用語として、主権在民又は國民主権という言葉は、その歴史を示す言葉として適当である。しかし、日本では、皇室対國民の政治闘争の歴史がないのである。」(『憲法改正の根本問題』)と論じてゐる。

小森義峯氏は「國民主権の思想は、國家契約思想や天賦人権思想と結びつくものであり、それら一連の思想は、とりわけ近世初頭において、専制君主の横暴と抑圧に苦しめられていたという、君民対立・抗争の西洋の歴史と風土の中から生まれたものである。そして、それらの思想を言葉を換えて、一言で表わせば、キリスト教的自然法思想と称することができる。」(『正統憲法復元改正への道標』)

小室直樹氏は「主権理論を最初に明確な形で打ち出したのが、フランスの思想家ジャン・ボタンである。…ルイ十四世に代表される『絶対王権』が出現する…その絶対王権の出現にいわばお墨付きを与えたのがボダンの理論なのである。ボダンは、國家は何者にも縛られない『主権』を持っていると主張した。…それ以前の世界では、王といえども臣下の特権を無視することはできなかったし、また、信仰面ではキリスト教会の法王の足元にひれ伏さなければならなかった。さらに傳統主義から逃れることも出来なかった。だが、ボダンによれば、自由に法を制定・改廃することができる。まさにルイ十四世が言ったとおり、『朕は國家なり』なのだ。このボダンの理論によって、中世の王國ははじめて『國家』(stato)になることができた。近代國家の始まりである。」(『日本國憲法の問題点』)

このやうに、国民主権論は全くわが国の国柄とは相容れないのである。そもそも日本天皇が日本國の君主であらせられ、統治者であらせられるのは、天皇が絶対的な政治権力者であらせられといふことではない。それは、武家専横時代の歴史を見れば余りにも明らかである。日本國の政治権力者は藤原氏・平氏・源氏・北條氏・足利氏・徳川氏と転変を繰り返したが、大君・君主は神聖なる権威の保持者であらせられる上御一人・日本天皇であった。日本國の君主=天皇は、権力のあるなしには全く関はりなく君主であらせられ天皇であらせられる。ゆへに國民主権論を我が國の憲法の基本原理にするのは絶対に誤りであり、國體を隠蔽し、國柄を破壊することとなる。

わが國の歴史には、天皇が主権=國家の最高権力を独占的に掌握し独裁専制政治を行ってゐたなどといふことは全くない。『大日本帝國憲法』にも、「天皇に主権がある」とは全く書かれてゐない。

 わが國は天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體である。西洋國家論で言ふところの契約國家・権力國家ではない。我が國は君民一體の國柄である。西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」を奪ひ合ったといふ歴史は全くない。天皇の政治的権力によって國民が圧迫されたこともない。

故に、君主と國民が対立関係にある國家ではない。國王と人民が主権争奪戦を繰り広げた歴史を持つのは欧米諸國である。従って「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などといふことを成文憲法に規定すること自體わが國の國柄とは相容れない。「國家の意思を最終的に決定する権力」という意味での「主権」なる概念と言葉は、天皇中心の信仰共同體國家日本には全くそぐはない。

西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定することは、大きな誤りであり國體を隠蔽し國體破壊につながる。「國民主権論」が憲法に書かれている事が、をわが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある。

小生は、小学校時代の國会見学で、参議院議場を見学したとき、担任の教師が、天皇陛下の玉座を指差して、「今にああいふものはなくなります」と言ったのを今でも鮮明に覚えてゐる。「國民主権」などといふ概念が憲法に盛り込まれている限り、かかる教育が行はれる危険があるのである。

日本國の統治の大権は建國以来天皇にある。そして天皇の統治大権は権力支配組織の支配権力ではなく、信仰共同體(人格國家)を「しろしめす」といふ意義である。天皇の日本國統治とは、決して権力によって支配されるといふことではない。

三潴信吾氏は「帝國憲法第一条の『統治ス』は、政治に限らず、國家・國民の活動の一切にわたっての根源者、総親たらせ給ふの意で、ここでいふ『統治』は権力作用たる『統治権』のことではない。日本古来の傳統的『やまとことば』で云ふ『しろしめす』のことである。」(『日本憲法要論』)と論じてゐる。

 それでは「やまとことば」の「しろしめす」(「しらしめす」ともいふ)とは一體いかなる意義なのであらうか。「しろしめす」は「知る」の尊敬語である「知らす」にさらに「めす」といふ敬意を添へる語を付けた言葉である。『續日本紀』に収められてゐる文武天皇の宣命には「現御神と大八島國知ろしめす天皇」とある。また『萬葉集』では「御宇天皇代」と書いて「あめのしたしらしめししすめらみことのみよ」と読んでゐる。この場合の「知る」とは単に知識を持ってゐるといふ意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握するといふほどの意であろう。

天皇が、天下の一切の物事を「お知りになる」ということは、<無私>の境地であられるといふことであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれているといふことである。<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。

 先に引用させていただいた文武天皇の宣命にはさらに「天津神の御子ながらも、天に坐す神の依さし奉りし随(まにま)に、聞こし看し(め)し来る此の天津日嗣高御座の業と現御神と大八島國知ろしめす倭根子天皇命の授け賜ひ負せ賜ふ…」と示されてゐる。また『萬葉集』巻十八所収の大伴家持の長歌に「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代…」とある。

 「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られて、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下をお知りになる(お治めになる)といふ、きわめて信仰的な意義があるのである。天皇の統治は決して権力行為ではない。

 『大日本帝國憲法』において「しらしめす」の漢語表現として「統治」といふ言葉を用いたのである。そしてこの「統」といふ言葉は統べる(統一する)といふ意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)とふ意である。明治天皇は、明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになってゐる。このお言葉こそまさしく「治める」の本質であると拝する。無私と慈愛といふまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

『大日本帝國憲法』の起草に当たった井上毅は「御國の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡持て天か下の民草をしろしめすという意義より成立したるものなり。かゝれば御國の國家成立の原理は、君民の約束のあらずして一の君徳なり。國家の始は君徳に基づくといふ一句は日本國家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「わが國の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」(『梧陰存稿』)と論じてゐる。

これは「社会契約論」否定の正統なる論議である。君主と民とは相対立しており國家は君と民、あるいは民同士の契約によって成立するなどといふ西洋法思想・國家観は、日本の國體観念・天皇観とは全く異質なものであると井上毅は説いてゐるのである。

 ただ、井上毅はここで「君徳」と言ってゐるが、日本天皇は人としての「徳」よりももっと深い「祭り主としての神聖権威」、日本傳統信仰の言葉で言えば「御稜威」(みいつ)によって國家を統治したもうのである。

御稜威とは天皇の有される神霊の威力といふべきものである。折口信夫氏は「御稜威」について、「みいつといふ語の語根いつといふ語は、稜威といふ字をあてる…いつのちわき・いつのをたけびなどといふ風につかってゐます…天子に傳り、これが内にある時は、その威力が完全に発現するところの権威の原動力なる魂の名でありました。」(『神々と民俗』)「天子には天皇霊といふべき偉大な霊魂が必要であって、これが這入ると、天子としての立派な徳を表されるものと考へられてゐました。その徳をみいつといふ語で表してゐます。…これは天皇靈の信仰上の名稱でした。」(『鳥の聲』)と論じてゐる。そしてその御稜威(天皇靈)は大嘗祭において新しき天皇のお體に入るとされる。

 歴代天皇には「人」としての徳がいかにあられやうと、歴聖一如の「御稜威」によって國家を統治したまうのである。今上天皇におかせられては、大嘗祭を執行されて現御神となられ、御稜威を保持されてゐることはいふまでもない。

國體護持を祈る憲法学者は、國體に沿って『現行憲法』を解釈して、「主権が國民に存するであれば、國民の中に天皇も含まれる」とし、また「國民の総意とは今現在生きてゐる國民だけでなく、神武建國以来未来永劫ずっと続くところの日本國民全員の総意、ルソーのいふ普遍意思のやうなものだから、『天皇制』は永遠に持続する。」と主張してゐる。
日本國體にそって解釈すれば、『現行憲法』のいふ「國民の総意」とは、決してある時点における國民各個人の集合による多数決の総計結果ではなく、永遠の過去から永遠の未来にわたる日本國民の普遍的な意志即ち日本國體精神のことである。したがって、わが國が革命によって國體が否定されるか、日本國が地上から何らかの事情によって消滅しないかぎり永遠に変る事はないとすることができる。

憲法をはじめとした成文法及び國家機関の正統性は、天皇を中心とする日本國體の上に立脚してゐるところにある。天皇の正統性は成文憲法に立脚するのでは断じてない。成文憲法は、あくまでも不文憲法=日本國體にのっとって解釈すべきである。

『現行憲法』上の「國民の総意」は選挙人である國民及びその代表者の國会議員の多数意思(=多数決の総計)ではない。言ひ換へると、天皇の御地位は、共和國の大統領のように國民の投票によって選ばれた御存在ではない。申すも恐れ多いことであるが、現行憲法下で、「天皇選出の選挙」が行なはれた事は一度もない。

『現行憲法』の「國民の総意」とは三千年の長い歴史の中で、遠い祖先から継承され培はれてきた「日本國民の傳統的な普遍意思」といふ解釈が、日本國體に合致した解釈である。『日本國憲法』が、形式上は日本國體に基いて制定された『大日本帝國憲法』を改正した憲法であるとされてゐる以上、さういふ解釈以外あり得ない。

大野健雄氏(元宮内庁総務課長)は「総意に基づくというのは、この天皇の御地位は肇國以来子々孫々の末に至るまで、國民の総意を以てお護りしてきたし将来もするのであるぞ、という過去の事實と将来の決意を中外に宣明したものと解すべきである。金森國務相も…議會において『現在の瞬間に生きている日本國民ではなくて…過去及び将来の人をも併せ考えうる考え方である』と言い又『過去、現在、未来という区別なく一つの総意である』と述べているのは、その意味である」(『天皇のまつり』)と論じてゐる。

『現行占領憲法』の「(天皇の御地位は)主権の存する日本國民の総意に基く」といふ条文を、憲法九十六条の「憲法改正は各議院の総議員の三分の二以上の賛成、國民の過半数の賛成を必要とする」といふ条文に基き、「國民の多数意思によって『天皇制』は廃止され得る」と解釈するのは誤りである。

しかし、本来「國民主権論」は、前述した通り日本國體とは合致しない欧米近代の革命思想である。解釈論争が生じてしまふやうな「國民主権論」を憲法の基本原理とすることは國體破壊の道を開く危険がある。

葦津珍彦氏は、「将来の憲法改正においては、君民対決の連想を誘発させる『國民主権』の語を削り、日本國君民一致の精神に基づき『統治権の総攬者(統合し掌握する者)としての天皇の』の地位を復元すべきものと思ふ。」(『天皇・神道・憲法』)と論じてゐる。

日本の傳統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立ってゐる『現行憲法』が長く続けば続くほど、麗しい傳統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。現行占領憲法は一刻も早く破棄し、日本國の建國以来の國柄へ回帰し、現代の混迷を打開しなければならない。

憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現してゐない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いてゐるのである。正しき自主憲法を制定するに当たっては、天皇中心の日本國體を正しく成文化すべきである。『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり國家とは國民同士が契約して成立するものであると考へる西洋法思想・西洋國家観に貫かれており、日本國體の根幹を正しく規定してゐない。むしろ『現行憲法』は國體破壊もしくは隠蔽の元凶になっている。「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行はれている。
 今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現実の國家元首と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでゐる。これは日本の麗しい自然と稲作生活が完全に滅びない限りつつくであろう。長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。

外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」がわが國の國家傳統の破壊しやうとしてゐる。それが一般國民の常識となって浸透してゐることは實に以て、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

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2020年5月14日 (木)

『占領憲法』第一条の規定は、天皇の歴史的連続性・伝統性を否定している

ある神社が発行する「社誌」には、ある高名な学者が次のやうに論じてゐる。
「天皇は古代以来、…その時々の政治上の最上位者を『任命』するお立場にあられた。今も、内閣総理大臣と最高裁判所長官を『任命』し、『国権の最高機関』たる国会をより上位の立場から『召集』される。まさに公的秩序の頂点におられる。今の憲法では、それを『日本国の象徴』と表現している。そのお立場を表示されるのが、この儀式(四宮注・「即位礼正殿の儀」)の意義だ」「大嘗祭は『稲作』という伝統的かつ前近代では最も普遍的な生業を仲立ちとして〝天皇と国民のつながり〟を皇位継承のたびに確認する意味を持っていた。それはまさに『国民統合の象徴』にふさわしい祭儀と言うことができる」「大嘗祭固有の意義とは…天皇が歴史的に国民結合の中心であられたこと、今も現に『国民統合の象徴』であられることを〝証明〟するのが、他の儀礼が持ち得ない大嘗祭だけの意義と言える」。

この学者が、『現行占領憲法』で「表現している」と言ふ「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」の前提は、「主権が国民に存する」といふこと即ち日本國體とは絶対に相容れない「国民主権論」である。

『現行占領憲法』の国民主権論に基づく「象徴天皇論」は日本國體とは縁もゆかりもない。従って「大嘗祭固有の意義とは、天皇が歴史的に国民結合の中心であられたこと、今も現に『国民統合の象徴』であられることを証明する」などといふことは金輪際あり得ない。

『現行占領憲法』には「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。

「象徴」という言葉は、天皇の空間的統一性・統合性をある程度表現してはいるが、天皇の時間的連続性・伝統性は全く表現されていない。言い換えると、「象徴」という表現は、何ゆえ天皇は国家国民を統合される御存在であるのかという理由が示されていないのである。

天皇は、日本國及び日本国民の歴史と傳統、そして日本国民の普遍意志=過去・現在・将来にわたる日本国民の伝統的な普遍意思を体現されるご存在である。天皇が日本国の本来の統治者・君主として仰がれてきたという事実と、天皇が日本国の歴史と傳統そして国民の普遍意志の体現者である事実とは、不可分の関係にある。

『現行憲法』の「天皇は象徴である」という規定は、この不可分の関係を無視し、あわせて日本伝統信仰(神道)の最高祭祀主としての天皇の地位と権能を否定し去っている。

『現行占領憲法』は、経過的暫定の制度として彼らの言う「天皇制」を承認し、やがては廃止を理想とした米国占領軍の意図を反映したものだからこういう規定になったのである。

三島由紀夫氏は、天皇のご本質について「天皇は、われわれの歴史的連続性、文化的統一性、民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴」(『反革命宣言』)「われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すもの」(『反革命宣言補註』)「国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇」(『文化防衛論』)と論じてゐる。

『現行占領憲法』第一条の規定は、天皇の歴史的連続性・伝統性を否定し、天皇の尊厳性を隠蔽している。天皇が、日本国及び日本国民を統合される御存在であるのは、天皇が歴史的伝統性・時間的連続性を継承され体現される御存在であるからである。

「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」といふ規定は、天皇のご本質の半面しか表現していない。天皇の空間的統一性は表現されているが、歴史的伝統性・時間的連続性が表現されていない。

さらに言えば、『現行占領憲法』は『国生み神話』『天壌無窮神勅』、『萬葉集』に歌われた伝統的國體精神を全く継承してゐない。

『現行占領憲法』は最も大切な『大日本帝国憲法』の第一条から第三条までの國體条項を抹消した。さらに、『占領憲法』は、『大日本帝国憲法』には無かった「国民主権」を明示した上「天皇の神聖性」の規定を削除した。

ゆえに、『大日本帝国憲法』を改正した憲法であるとする『現行占領憲法』は、『大日本帝国憲法』の改正限界を大きく超えて國體の基本を隠蔽してしまったのである。その上、日本の國體に全く合致しない西洋の悪しき普遍主義に毒されている。

『現行占領憲法』は國家の存立の基本を隠蔽しているのであるからこれを全面否定しなければならない。

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2020年5月 4日 (月)

真に國體精神に基づく憲法を回復しなければならない

今日は、押し付け憲法・占領憲法が施行された日だという。しかし、新型コロナウイルスの猖獗により、全く話題にならなかった。

百年河清を俟つという言葉があるが七十二年河清を待っても駄目だった。「現行占領憲法」の改正すべき項目を項目ごとに国会で改正を発議し、国民投票を行うと、全ての改正を行うのに、三十年くらいかかるという。とてもそんな悠長なことはやっていられない。改正するなら全面改正でなければならない。

ところが、自民党は「ワン・イシュー(一つの論点)でやる。パッケージ(ひとつに包装する)ではなく一つ一つ丁寧にやる」と言ってしまった。前面改正をしないのであれば、各方面から出されている「改憲試案」というのが無意味ということになりかねない。

手続きにおいても、「現行憲法」の無効を確認し、全く別の自主憲法を制定するか、「帝国憲法」を復元する方が時間も費用もかからない。効率的である。

三潴信吾氏執筆の「憲法問題に対する基本的態度」(昭和三十七年発表)と題する論文に極めて重大なことが論じられているので紹介する。

「およそ一国の憲法典が憲法典として成立するための要件を二点に要約することが出来る。即ち、一、自主的に制定されること。二、国家傳統(立国法、國體法又は不文法)に立脚すること。…日本国憲法制定の当時は、国家としての占領下にあり、国民は重大な飢餓と住居難に直面し、おびただしい未帰還者、追放者、処刑者があり、物心両面にわたり未曾有の恐怖、不安、混乱状態にあったのであるから、国家の自主、自由の志向や行動などは到底思ひもよらなかったのである。…我々は、日本国憲法を、…断じて憲法として認め難い。人々は或は云ふ。天皇の裁可を得て、天皇の詔書によって公布された正式の憲法であり、又帝国議会の議決を経て、憲法上の改正手続を正式にとったものであると。しかし、吾人は、その底に、『ポツダム宣言の受諾』と『占領』との重大事実のあったことを見逃してはならない。『総司令官の下に従属せしめられた』天皇や議会、それは、畏れながら『管理天皇』であり、『管理議会』であったのであり、占領中の詔書は『管理詔書』であったのであって、『萬世一系の天皇』のそれではあり得なかったのである。マ司令官と仮に一体たらせ給ふた天皇のそれに他ならない。従って、最高司令官も、占領も、すべてが消滅したる今日に於ても尚且これを憲法として、詔書として有効ならしむべき何等の筋合も無いものである。即ち、日本国憲法は今日に於て、全く憲法典としての資格自要件を欠如して居るから、看板だけを以てこれを憲法なりと云ふわけに行かない。…ただ、日本の主権回復後に於てもこれを、他の法律や命令等の諸々の国法に対し、より高次の国法(その意味での最高法規)として、自主制定の憲法の確立するまでの過渡期を担ってゐる『臨時基本法』として黙認されてゐるに過ぎない。その意味での最高法規ではあるが、憲法では絶対にあり得ない。…主権の回復後既に十二年。一日も速やかにわが国家伝統に立脚した憲法を回復しなければならない」。

三潴信吾氏は、『現行占領憲法』は「憲法」ではないとされ、「有効ならしむべき何等の筋合も無い」と断じているのである。そして、「一日も速やかにわが国家伝統に立脚した憲法を回復しなければならない」と論じてゐる。即ちこの文章は、『現行占領憲法』無効、『大日本帝国憲法』回復を論じているのである。
『現行占領憲法』を改正するということは、無効であるところの『現行憲法』が有効であることを承認することになり、日本の歴史伝統の継承、國體精神の継承について、大きな禍根を将来に残してしまう。しかも、改憲は煩雑にして時間のかかる作業である。

『現行占領憲法』が無効である事実を確認し、速やかに『大日本帝国憲法』を回復・復元するべきである。それこそが「現行憲法改正」とは比較にならない正道であると信ずる。

「現行占領憲法」は、「大日本帝国憲法」の第一条から第三条に成文化された最も大切な国体法を抹消した。「占領憲法」は、「大日本帝国憲法」には無かった「国民主権」を明示した上「天皇の神聖性」の規定を削除した。

 ゆえに、「大日本帝国憲法」を改正した憲法であるとする「現行占領憲法」は、「大日本帝国憲法」の改正限界を大きく超えて國體の基本を隠蔽してしまったのである。その上、日本の國體に全く合致しない西洋の悪しき普遍主義に毒されている。

 田尾憲男氏は、「これからの憲法改正に向けての国民のとるべき道は、明治の先人が諸外国の憲法を参考にしながら君民一致で作り上げた帝国憲法とその立憲精神をこそ憲法改正の最も大切な指針とすべきです。その際、原典の帝国憲法の条文に一旦立ち戻り、現憲法とよく較べ合せて学習してみることが大事です。GHQが帝国憲法を変革して新規に付け加えたわが國の國體にふさわしくない条文や文言を削除して書き直し、既に定着している良いものは残し置き、およそ一国の憲法として備えるべきものを欠き、またその後の事情で新たに必要とする事項については、さらに追加新設も考えていくべきです。そういったやり方で、与野党を問わず、いったん全条文の見直しを行ったうえで、あるべき『日本国らしい憲法』をめざすのが本筋の改正方法だと言えます。法手続き的には、現憲法は、不本意ではあっても、帝国憲法を改正したものであり、これからの改憲は、帝国憲法の再改正にほかならないからです。敗戦占領下の混乱時に米国人の手によって、一週間余で作成された現憲法をありがたがって、それを改正の出発点としてしまっては、日本の國體を顕現することは到底できない」と論じている。(「國體から見た大御心と臣民の道」・二二号所収『伝統と革新』)

『現行占領憲法』は『大日本帝国憲法』を改正したとされる。しかし、『大日本帝国憲法』第七十五条には「憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」とある。

『現行憲法』制定当時、戦勝国アメリカにより「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」(「ポツダム受諾に関する八月十日付日本国政府申入」に対する米英ソ支の政府を代表したバーンズ国務長官の回答)とされてゐた。

英語の原文は、「The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate these terms of surrender.」である。「subject to」をわが國外務省は「制限の下」と訳したが、正しくは「隷属下」である。

つまり、「摂政」が置かれるどころか、天皇陛下の統治の大権が外国の軍人・マッカーサーの隷属下に置かれていたのである。このような状況下において行われた『憲法改正』は、違法であり、無効である。つまり、『現行占領憲法』は法的に全く正統性が無いのである。ゆえに、無効が確認され、『大日本帝国憲法』が復元するというのが法理論的に全く正しいと考える。

成文憲法が国家の存立の基本を破壊もしくは否定するのであれば、これを破棄しなければならない。「現行占領憲法」はまさしくそういう憲法である。

 「現行占領憲法」に貫かれている「国家=権力支配組織」とする西洋法思想は、日本の国柄とは絶対に相容れない。なぜなら日本国は権力国家(統治権力組織)でも利益国家でもなく天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀国家・信仰共同体であるからである。

「現行占領憲法」を改正するというのでは、國體隠蔽という根本的欠陥を是正することはできない。やはり、「帝国憲法」復元改正が正しいと信ずる。真に國體精神に基づく憲法を回復しなければならないのである。

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2020年4月29日 (水)

『現行占領憲法』の「似非平和主義」は悪徳の思想である

今日、ロシア、共産支那そして南北朝鮮のわが国に対する軍事的圧迫・恫喝はますますひどくなっている。これを断固として跳ね返すことが国家緊急の課題である。

ニコライ・ベルジャーエフ(注・ロシアの哲学者。マルキストであったが、ロシア革命を経て転向し、反共産主義者となる。神秘主義に基づき文化や歴史の問題を論じた。十月革命後にパリに亡命。1874年-1948年)は次のように論じている。

「戦争を大なる悪、大なる罪として弾劾せざるをえないにしても、別な極端に堕して断然抽象的な平和主義に懸命になることはいましめなければならない。われわれの世界が現存しているこの悪の状態においては、戦争はより小なる罪禍である得る。帝国主義的征服戦争、圧制戦争が絶対的に悪いにしても、解放戦争、自衛戦争はたんに義認されるのみでなく神聖とみなされる。…忍耐は一美徳ではある。しかし忍耐がかえって悪を鼓舞することに役立つ場合には、悪徳に変わりうるわけである。…戦争の完全放棄は、人間社会の精神状況の変化と社会秩序の改革の結果としてのみ可能である」(『神と人間の実存的弁証法』)。

この主張は、『現行占領憲法』の「似非平和主義」への批判になっている。

『現行占領憲法』前文の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章こそ「極端に堕した断然抽象的な平和主義」である。

現実を無視した『現行占領憲法』の「似非平和主義」はまさにベルジャーエフの云う通り、「忍耐がかえって悪を鼓舞することに役立つ場合には、悪徳に変わりうる」のである。『現行占領憲法』の「似非平和主義」は悪徳の思想である。

今日の国際社会は「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」などということはない。「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視して」いる。

冒頭に記したようにもロシア・共産支那・南北朝鮮は、「専制と隷従、圧迫と偏狭」を地上に拡散し、「自国のことのみに専念して他国を無視」している国々である。そんな国々に「公正と信義」などというものはカケラもない。存在しないのもに「信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」などということは全く危険千万の考えであり祖国を滅亡へと導く。だから「現行占領憲法」を「亡国憲法」と言うのである。

「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めて」などということとは全く逆のこと、即ち「戦争を好み、専制と隷従、圧迫と偏狭」を自国民そして隣国に強い、「帝国主義的征服戦争、圧制戦争」を行う共産支那・北朝鮮を「近隣国家」に持つわが国は、義認されるのみでなく神聖とみなされる自衛戦争を行う権利があるである。わが国の憲法にはそのことが正しく書かれていなければならない。

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2020年2月22日 (土)

正統性が無い憲法に基く「立憲主義」は、祖國を亡國への道を歩ましめる

「立憲主義」とは、「政府の統治を憲法に基づき行ふ原理で、政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれてゐることに依拠する」といふ考へ方であるといふ。しかし、その基づくべき憲法が如何なるものかが問題である。

『現行占領憲法』は、日本を永久に弱體化しておくために戦勝國=アメリカ占領軍が日本に押しつけられた全く正統性の無い憲法である。正統性の無い『現行憲法』に立脚して「立憲主義」を主張することは間違ってゐる。正統性が無い憲法に基く「立憲主義」は、祖國を亡國への道を歩ましめる。それはまさに「憲法護って國滅ぶ」といふ事態になる。

『立憲主義』とは近代憲法の基本原則であると言ふ。しかし『現行占領憲法』はGHQによって作られた。これによって政府を縛るのが『立憲主義』と言ふは根本的に間違ってゐる。

今日わが國で施行されてゐる憲法がまっとうな憲法、正統性のある憲法なら「立憲主義」は肯定される。しかし、『現行占領憲法』は最初から正統性は無かった。

そこで、『日本國憲法』といふ名称の『現行占領憲法』に如何に正統性がないかを少しく論じてみたい。

『現行憲法』が『大日本帝國憲法』を改正したものだなどといふこと自體が欺瞞である。天皇の統治大権が占領軍最高司令官即ちマッカーサーの隷属の下にあった占領期間中の改憲は「摂政を置くの間之を変更することを得ず」といふ『帝國憲法』の条項に明確に違反してゐる。

大変畏れ多いことであるが、「天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下(「subject to」)ニ置カルルモノトス」(バーンズ回答・正しくは「隷属ノ下」と訳されるべきといふのが定説である)とされてゐる時期の「天皇のご裁可」「天皇による公布」は、天皇陛下が自由に表明された御意志即ち「大御心」によるものとは異なる。

「摂政」が置かれてゐる時の憲法改正すら否定されてゐるのに、天皇の統治大権を隷属下に置く存在=連合国最高司令官が存在する時期に憲法改正が行はれていいはずがないのである。『現行占領憲法』には内容的にも制定過程においても全く正統性がない。

『占領憲法』は、十七世紀、十八世紀の欧米の市民革命の基礎理論であった「社會契約論」に立脚してゐる。

中川剛氏は次のやうに論じてゐる。「日本國憲法が、一七・一八世紀の欧米の市民革命の理論的基礎となった社會契約論に立脚して起草された。…アメリカの独立宣言や連邦憲法が、当時の革命思想であった社會契約論によって起草されたため、占領軍総司令部の憲法案起草者にとっても、社會契約の考え方が基本枠組みとして採用され…憲法の基本原理についてさえ、傳統にも文化にも手がかりを求めることができず外國の理論に典拠を探さなくてはならないという恐るべき知的状況が出現するに至った」(『憲法を読む』)。

國の生成・成り立ちが欧米とは全く異なり、市民革命も経験してゐないわが日本國に、西洋國家思想たる「社會契約論」を基礎にした憲法が押し付けられたのである。この一点を以てしても『現行占領憲法』に正統性がないことは明白である。

日本の國家観と西洋國家観とは根本的に異なる。日本國は、「数多くの個としての人間」が寄り集まって契約を締結して人為的・人工的に作った権力機構・契約國家(これを「國家法人説」と言ひ換へてもいいと思ふ)とはその本質が全く異なる。「國家法人説」を日本國に当て嵌めることはできない。

「國家法人説」とは、國家を法的な主體としての法人と考へる理論である。そして「法人」とは「自然人以外で法律上の権利義務の主體となることができるもの。一定の目的の下に結合した人の集団あるいは財産についてその資格が認められてゐる集団」とされてゐる。

つまり、國家は人間が集まって文字通り人為的に作られたといふのが西洋の國家観である。國家とは、社団法人や財団法人のやうに多くの人々が一定の目的のために契約を結び人為的に造られたものだといふのが「契約國家論」「國家法人説」なのである。

天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體たる日本は断じてそのやうな國家ではない。日本といふ國家は、國民の魂が結び合って生まれてきた生命體である。日本民族の農耕を中心とする傳統的生活の中から培はれた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命體が日本國である。そしてその〈むすび〉の中核が日本傳統信仰の祭祀主である天皇である。

「むすび」の語源は、「生(ム)す」である。「草が生す」「苔が生す」といはれる通りである。つまり命が生まれることである。結婚も男と女の「結び」である。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」といふ。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。故に母から生まれた男の子を「むすこ」(生す子)と言ひ、女の子を「むすめ」(生す女)と言ふのである。

「庵を結ぶ」といふ言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集め、それらを結び合はせて作られた。日本の家庭も〈むすび〉によって成立してゐる。

日本に憲法を押し付けたアメリカ合衆國は、一七七六年七月四日に独立を宣言して「社會契約論」「國家法人説」を基礎して「人為的に造られた國」である。
「生まれる」と「造られる」とでは絶対的な違ひがある。「生む」は日本傳統信仰の「國生み」観念であり、「造る」はキリスト教の「天地創造」の観念である。伊耶那岐命・伊耶那美命は日本國土をお生みになったのであり、キリスト教の神(ゴッド)は人間を造ったのである。キリスト教の神はなぜか國家は造らなかった。

日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想・國家法人説や、人間不信を基盤とした國民主権論や西洋近代の成文法、そしてさうした思想が基礎になってゐる『現行占領憲法』の「國家観」とは、絶対的に相容れないのである。『現行占領憲法』に正統性がない最大の理由はここにある。

その上、『現行占領憲法』は戦勝國アメリカの占領下に、強制的に押し付けられた憲法である。従って、この『現行占領憲法』には内容的・思想的にも、制定過程においても全く正統性がないのである。

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2020年2月10日 (月)

日本は神話時代より継承されてきた神聖なる國である。「成文憲法」には、この事が正しく書かれてゐなければならない。

日本民族の歴史的一貫性、理想、道義、倫理性、傳統を継承し体現するのが真の國家である。

いはゆる自由民主体制は、國民一人一人の高い倫理精神が土台になってゐなければならない、さうでなければ、闘争・破壊・腐敗が蔓延し、國民の幸福は實現しない。

ドイツの哲学者ヤスパースは、「自由というものは、神とも道とも涅槃とも、大きな充實した空とも、本然の存在とも呼ばれる超越的存在を私たちが経験する場所としてのみあり得ます」と語ったといふ。(昭和二十七年日本ヤスパース協会への「年頭の辞」・武藤光朗氏著『革命思想と實存哲学』より引用)

道義精神・倫理観のない國家は、権力組織に過ぎない。日本民族の歴史的一貫性、理想、道義、倫理性、傳統を継承し体現するのが真の國家である。さういふ國家に対してこそ、愛國心・國家意識が湧く。愛國心・國家意識は、共に懐かしむことができる歴史意識、傳統精神、道義精神、神話を持つことによって育まれる。

わが日本國民の生活は本来、精神的にも物質的にも、悠久の太古より継承された歴史・傳統・祭祀・信仰に積み重ねの上に形成されてゐる。グローバル化時代などと言はれてゐる今日こそ、その事を正しく認識すべきである。祭祀國家日本の本姿開顕、信仰共同体へ回帰してこそ、真の自由・真の民主政治が實現し國民の幸福が達成できる。

わが國は、ある特定の時代に人為的に作られた國家ではない。神話時代より継承されてきた神聖なる國である。「成文憲法」には、この事が正しく書かれてゐなければならない。

日本の國生み神話は、無名の大地の生成ではなく、國土の生成であるところに大きな意義がある。伊耶那岐命・伊耶那美命による國土生成の神話は、大八島國といふ統一した國土が生まれる物語である。そしてその中心の神が、天照大御神であり、天照大御神の靈統の継承者・地上における御代理が日本天皇である。

日本國民の天皇に対する帰属意識は、権力・武力に対する恐れに基づくのではない。従って、西洋傳来の「成文憲法」が「権力への制限規範」であるのならば、さうした「成文憲法」に権力者では本来あらせられない天皇に関する「条項」があること自体不自然と言へる。現御神・祭祀主であらせられる天皇陛下の御本質への回帰が第一であり天孫降臨・神武建國以来の道統を開顕する事が最も大切である。皇室の御事及び憲法はそこから考へねばならない。

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2020年2月 9日 (日)

国民主権論は日本伝統を破壊する

 「現行占領憲法」が第一章に「国民主権」の条項を置くことは、天皇国日本というわが国建国以来の道統を否定することである。

 日本の伝統的な考え方は、「天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体である」ということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が伝統破壊である。

 「現行占領憲法」制定時に、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

 「国民主権」の規定を審議した帝国議会では、政府は、「主権」とは「国家意思の実質的源泉」であり、「国民」とは「天皇を含む国民協同体」を指すとしていた。そして芦田均衆議院憲法改正案特別委員長は、欧米の「君主主権」と「主権在民」を対立的に捉えた主権二元論は、わが国においては採り得ないことを特に強調している。

 ところが宮沢俊義氏をはじめとした多くの憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張した。今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されているという。

「『国民』とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わった」という学説によれば、「皇位の改廃は人民の意思によって可能である」ということになる。今上天皇の御即位に際してはその是非を国民投票に問うべしとした歴史学者まで現れた。わが国は君主国にあらずとか、元首は天皇にあらずとする説が学界に横行している。

 このような混乱の原因は、本来西洋思想であり多岐にわたる主権概念を憲法規定に持ち込んだことにある。「主権」の属性としての最高性、無制限性が言われる時、それは容易に伝統を無視した独裁専制に転化し得る。

 主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。ソ連邦も共産支那も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか、共産党最高指導者の個人専制恐怖政治が行われてきている。

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 日本では古来主権という言葉はなく、国家における政治作用の根本を言い表す言葉は「知らす」ないし「治らす」であり、また「聞こしめす」である。言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。「大日本帝国憲法」ではこれを「統治権」という言葉で表現した。

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説がこれであった。

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達したのであるが、広く世界に及ぼした。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然と言えよう。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたのである。

いずれにしても「国民主権・君主主権」という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本の伝統の天皇の国家統治の実相、日本国体とは全く異なる概念であり用語である。

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