2019年7月16日 (火)

日本を亡國の淵から救い、立て直すために、「戦後民主主義」そして『現行占領憲法』を根底から否定しなければならない


日本國體と欧米の権力國家論との結合は不可能である。古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行われる祭祀を中核として、他の地方的な祭祀が全國的に統一されることによって実現したのである。日本國は権力者の武力によって統一された権力國家ではない。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生まれた國である。

古代日本の統一とは祭祀的・信仰的統一であり、日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の精神的な共同体である。
 
したがって、日本という國家は権力者が國民を支配するための機関すなわち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國でもない。さらに、天皇國日本は、世界の多くの國々のような征服や革命によって人為的に成立した國家ではない。だからわが國の國體を「萬邦無比」と言うのである。

「天皇制と民主主義は矛盾する。歴史の進歩にしたがって天皇制はなくなるし、なくすべきだ」と考える人がいる。こうした考えは、悠久の歴史を有する日本國を否定し破壊する考え方である。そして、こうした考え方に妥協して、いわゆる「民主主義」といわゆる「天皇制」を何とか矛盾なく結合させようとする考え方がある。「現行占領憲法」の「天皇条項」はそうした考え方によって書かれていると言えるのかもしれない。

この度の御代替わり、皇位継承の意義深い行事・儀式においても『現行占領憲法』によって伝統が破壊され隠蔽されたところが大いにあった。
 
「占領憲法」に象徴される「戦後民主主義」(欧米民主主義思想と言い換えてもよい)なるものが如何に日本國を堕落させ破壊したかは、今日の日本の現状を見れば火を見るよりも明らかである。

我々は日本を亡國の淵から救い、立て直すために、「戦後民主主義」そして『現行占領憲法』を根底から否定しなければならない。そして、「戦後民主主義」の否定は、日本の伝統的國家観・政治思想の復興によって行われる。言い換えると、日本國體精神が「戦後民主主義」否定の原理なのである。

日本國は決して「占領軍や共産主義勢力が目指した民主國家」になってはならない。日本國は天皇國である。「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)は決して善でも正義でも真理でもない。日本にとって百害あって一利無き亡國思想である。

欧米民主主義を建国以来理想として来た国がアメリカであるが、そのアメリカにおいて近年まで制度として黒人差別が行われてゐた。また奴隷制度も建国以来、長い間続けられてゐた。

国家を権力機構とみなし、君主と人民は対立する関係にあるとする「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)と「天皇制」との結合などということは全く必要のないことであるし、また不可能なことなのである。

しかし、わが國體精神・天皇の国家統治は、民の幸福実現を最高の目標としている。国民の幸福の実現こそが天皇の統治の目的である。わが国においては、古代より国民を「おほみたから(大御宝)」ときた。民を尊ぶことが天皇の御統治の基本である。日本伝統信仰おいては、人は神の分け御霊であり、人間は本来神の子として尊ばれるべき存在である。

歴代天皇は、すべて国民の幸福を祈られ、「おほみおや(大御親)」としての仁慈の大御心を以て「おほみたから」であるところの国民に限りない仁政を垂れたもうたのである。

近代に於いてのみならず、古代日本においても、国民のために政治が天皇の統治によって実現していた。『日本書紀』の「仁徳天皇紀」には次のように記されている。

「天皇の曰はく、『其れ天の君を立つるは、是百姓(おほみたから)の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢ゑ寒(こ)ゆるときには、顧みて身を責む、今百姓貧しきは、朕(われ)が貧しきなり。百姓富めるは朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは』とのたまふ」。

天皇が国民の幸福を祈られる祭祀を執行され、国民は天皇の大御宝であるという事が正しく実現され、萬機は公論によって決せられるという体制が真に確立する時、国民のための政治即ち民主政治が、言葉の上においてではなく、実際政治に於いて正しく実現するのである。天皇のまつりごとにこそ、真の民本政治なのである。

天皇は常に国民の幸福を祈られ、天皇統治とは国民を意志をお知りになることが基本である。わが國は天皇が民の幸福をわが幸福とされ民の不幸をわが不幸とされる君民一体の国柄である。これこそ真の民本政治でなくして何であろうか。

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2019年7月 2日 (火)

『現行憲法』はわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある―元号法などに関連して。

現行の「元号法」には次のように書かれている。

 

「昭和五十四年六月法律第四十三号
元号法
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」

 

本来は、明治の『登極令』に基づいて、天皇が勅定されるべきなのである。

 

安倍内閣は、この度の改元につき、上御一人の勅許・聴許を賜らずして、新帝御即位前に「新元号」を決定した。これは重大なる國體隠蔽である。

 

明治維新に際して明治大帝が「一世一元」の制を定められ、また昭和54年制定の「元号法」においても改元は皇位の継承があったとき、とされており、改元は「新帝の大権によるもの」と理解されるべきである。

 

従って安倍内閣が「経済界や国民生活の利便性」を考えて前倒しで新元号を公布するのは、臣下の分を弁えず、元号にかかる天皇大権を無視、干犯するものと批判されてもやむをえない。

 

報道によると、共産党の志位和夫委員長は本年(平成三十一年)二月二八日の記者会見で、「天皇一代に一つの元号とする『一世一元』制を定めた元号法の廃止を引き続き主張していく」と語ったという。そして、「元号は、時をも君主が支配するとの考えからきている。国民主権の原則になじまないと考えている」と述べた。

 

君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間だけでなく時間まで支配するという思想に基づく。「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。

 

しかし支配というのは日本天皇にはない。統治であり「きこしめす」である。『古事記』には、仁徳天皇の世を聖帝の世と言ふと記されてゐる。仁徳天皇は、高い山に登って四方の国をご覧になり、「国の内に炊煙が立たないのは国民が貧しいからだ。これから三年間国民から税金を取るのをやめよう」と仰せられた天皇で、「聖帝」と讃へられた。

 

『日本思想体系・古事記』の「補注」において佐伯有清氏は、「(聖帝の注)『聖』とは、耳と呈(貞即ち正)から成り、耳聡く聞き分ける人、神秘的な洞察力のある人物。農耕社会では時候の推移を洞察して農事を指導することが、対立する主張を聴取して調整することと共に、王たるべき者の責務であるから、聖と王とは結びつきやすい」と論じてゐる。また『角川当用漢字字源辞典』(加藤常賢・山田勝美著)によれば、「意味を表わす『耳』と『口』と、音を表す『壬』とからなる形声字。…耳の穴がよく開いていて普通人の耳に聞こえない神の声の聞こえる意。…古代社会においては、普通人の聞きえない神の声を聞き分けうる人を『聖』と呼んだものであろう」と言ふ。

 

一般人が聞きえないことを聞く人といふのは、聴覚器官が普通の人より発達している人といふことではなく、神霊の声を聞く人といふことであり、祭り主といふことである。神の声を聞いて民に伝、民の声を聞いて神に申し上げるといふ神と人とをつなぐ役目を果たされる祭り主が天皇のなのである。

 

また、<やまとことば>の「ひじり」(漢字では「聖」と書く)とは、「日を知る人」の意である。日とは文字通り太陽のことであり、天体の運行に通暁してゐる人のことである。天体の運行即ち暦は農業にとってきはめて重要である。これを知ってゐる人が農耕国家の君主たる資格を持つ。また「日」は「霊」であり、「ひじり」は「霊力を有する神聖な存在」といふ意味でもある。 

 

本居宣長は、「日知り」を「日の如くして天下を知らしめすといふ意なるべし」としている。「日の神・太陽の神の如くわけへだて無く天下を統治される天皇の御代」を「日知りの御代」と言ったのである。

 

ともかく、日本伝統の「ひじり」についての考へと支那の「聖」といふ字の意義とが結合して「聖帝」といふ考へが生まれたのである。民の心を知りたまひ(しろしめす)聞きたまふ(きこしめす)ことが天皇の国家統治の基本なのである。 

 

共産党など左翼は、『現行占領憲法』においても「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」とされてゐる天皇陛下の君臨を否定しているのだ。日共・志位和夫は今日においても明確な國體破壊思想を持っているのである。

西暦は言うまでもなく、イエス・キリストが生まれた日が基準である。元号を否定し西暦を使用する日共・志位和夫は、「イエス・キリストが時を支配する」ことを肯定しているのである。即ち彼らは、日本国民であることを否定しているのだ。

キリスト教国ではない日本には日本の時の基準があって然るべきである。占領軍・戦勝国が日本弱体化のために国民の皇室尊崇の心を希薄化しようとした占領政策にのっとった『現行占領憲法』によって、我が國は大きな危機に瀕してゐるのである。

「現行占領憲法」がある限り、わが国の國體が隠蔽されてゐるどころか破壊される危険がある

国家の根幹に関はる問題の根底にあるのはやはり憲法である。この憲法がある限り、わが国の國體は隠蔽されてゐるどころか破壊される危険がある。否、すでに破壊されつつあるとも言へる。それは皇位継承・ご譲位に関する政府や国会の動きを見ても明らかである。政府・国会は日本の伝統よりも『現行占領憲法』を重視しているのだ。

「現行占領憲法」の最大の欠陥はその基本原理にある。憲法を論ずるにあたって最も重要な前提は、西洋成文憲法は「権力に対する制限規範」だといふことである。イングランド最悪の王と言はれるジョン王と諸侯との間で一二一五年に結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、「国王も法の下にある」といふ原則=「法は王権に優越する」といふ「法治主義」を確立したとされる。「権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。その為に成文憲法が必要とする」といふ考へ方である。

そもそも「現行憲法」において、政治的権力を有されないとされる日本天皇は、「権力の制限規範」たる憲法の制約は受けられない。日本天皇は、「権力の制限規範」たる憲法を超越しておられる。

専制君主と人民との間の不信感に発した人権保障の約束証文が西洋成文憲法の起源なのである。従って西洋成文憲法には「君主と人民とは相対立する関係、支配被支配の関係にある」といふ思想が根底にある。そこから「国民主権論」が生まれてきた。この「国民主権論」が戦勝国アメリカによってわが国に押し付けられたのである。

「主権在民」「国民主権論」は、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に依拠する原理である。故にわが國の国柄とは絶対に相容れない。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。日本國は一君万民・君民一体の國柄である。「主権」が「君主にあるのか、国民にあるのか」などといふことを成文憲法に規定すること自体、わが国の国柄を破壊し隠蔽する事となる。

「國家の意思を最終的に決定する権限」といふ意味での「主権」なる概念と言葉は、天皇中心の信仰共同体國家日本には全くそぐはない。わが國には西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」=主権を奪い合った歴史は全くない。天皇を中心とした信仰共同體・祭祀国家である日本國は権力支配組織ではない。だからわが國には西洋的主権論はあてはまらない。

「現行占領憲法」が占領軍の押し付けであるといふのは、制定過程が占領軍の強圧によるといふだけではなく、基本原理たる「国民主権論」「主権在民思想」が占領軍の押し付けなのである。

しかるに、政権党たる自民党・政府・サヨク政党は、アメリカの押し付けである「現行占領憲法」の「国民主権論」を否定しないどころか金科玉条にしている。

ともかく、西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」は徹底的に払拭されるべきである。成文法として日本國の憲法に規定することは大きな誤りである。「國民主権論」が憲法に書かれてゐる事がわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある。戦後日本の不安定の根本原因は実にここにある。

 

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2019年5月25日 (土)

自虐史観の払拭=大東亜戦争の意義の恢弘と占領憲法無効・正統憲法への回帰とは一体の運動である

石川県護國神社境内に建立されてゐる『大東亜聖戦大碑』は平成十二年八月四日に建立された。草地貞吾元陸軍大佐(関東軍参謀作戦班長)の書。高さ十二㍍。『銘』には草地氏の「大東亜 おほみいくさは 萬世の 歴史を照らす 鏡なりけり」といふ歌が刻まれてゐる。またこの碑建立に貢献された個人・団体の名が刻まれてゐる。背面には「八紘為宇」と刻まれてゐる。

桑木崇秀氏(陸軍軍医としてインパール作戦に参加。ビルマ英霊顕彰會副會長)はこの大碑の意義について、「大東亜戦争が英霊のお蔭で白色人種の植民地を解放し、萬民平等の世界をつくった―――そのことを日本人は世界に誇るべきであるのに、日本は侵略戦争をした、アジアに迷惑をかけたなどと謝罪ばかりしている。広島でも、國際法無視のアメリカの原爆にやられたのに、『二度と過ちは繰り返しません』などと、まるで日本が悪かったように反省している。…こうした日本の空気を、日本人の心を一新しようというのが、この聖戦大碑建立の意義であろう」(平成十二年八月二十五日 『戦友連』三七九号)と述べてゐる。

すぐそばに『清水澄博士顕彰之碑』建てられてゐる。清水澄博士は、明治元年金沢市に生まれ、東京帝國大學法科を卒業後、學習院大學教授となり、明治三十八年法學博士の學位取得し、宮内省、東宮御學問所の御用掛を拝命された。大正天皇、昭和天皇に御進講され、行政裁判所長官、枢密院顧問官を経て、敗戦後、最後の枢密院議長に任ぜられた憲法學者である。

碑文には大要次のやうに記されてゐる。「憲法學者清水澄博士(金沢市東山三丁目御出身)は占領軍司令部が強制した日本國憲法施行の日、日本國の天皇制(原文のまま)の将来を憂慮され、幽界よりわが國體の護持と皇室の御安泰、今上陛下の御在位を祈願しようと自決を決意され、憂國の至誠極まる所、汨羅(べきら)の淵に身を投じた楚の國の忠臣屈原の故事に倣い、九月二十五日、熱海の錦ヶ浦の波涛に愛國赤心の躯幹を投ぜられた。敗戦日本の正気阻喪の惨状は正視するに耐え難いものが連続的に生起した。博士はわが國の傳統・文化の変革し行く姿を見、祖國の将来を憂慮され、ことに建國以来、國の生命、民族の中心として連綿と存在する皇室の上に思いをいたされ、身の置き処が無かったのである。東京の青山墓地に眠る博士の墓石に記された嗣子虎雄氏の碑文の中に『ケダシソノ生涯ハ君國ニ対スル忠誠ノ念ヲモッテ終始シ』とある如く、博士の衷情はただ一つ祖國の道義を萬代に堅持せんがための至情以外の何ものでもなかった。新憲法下ここに三十年、博士の憂慮された如く、この間政治 経済 文化 その他あらゆる分野において、正統の道義は地に落ち、全て自己中心の個人主義の思想が瀰漫し、國の傳統と民族の歴史に背反すること夥しく、まさに祖國の危機と言わざるを得ない。この亡國的惨状打開の途は、國の歴史と傳統に基づく民族の正気の恢弘、維新以外にあり得ない。云々 昭和五十二年九月 林屋亀次郎」。

汨羅は支那湖南省北部を流れる湘江の支流。江西省修水県の西南を源とし、西流して湘水に入る。

林屋亀次郎氏は、明治十九年金沢市生まれ。昭和五十五年逝去。昭和二十二年以来、参議院議員三期。

 清水澄博士の『自決ノ辞』には次のやうに記されてゐた。
「新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ
元枢密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法實施ノ日認ム
 追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ」。
 
今日、「碑文」に書かれた憂慮すべき状況は愈々益々深刻になってきてゐる。憲法改正が現實の問題として論じられて来てはゐるが、肝心要の國體については、欧米の権力國家観・契約國家論に基づく『國民主権』といふ日本國體に合致しない『原理』を踏襲するのでは、真の「憲法改正」でもないし「自主憲法制定」でもない。現行占領憲法には「天皇条項」は第一章であるのに、これを第二章に移し、第一章を「國民主権」にするなどといふのはまさに國體隠蔽であり憲法改悪である。

日本天皇は権力・武力を以って國家國民を支配される御存在ではない。また、天皇と國民は権力的対立関係にあるのではない。天皇と國民は精神的信仰的一体関係にある。これを君民一体の國柄といふ。主権が君主にあるとか國民にあるとかといふことは、わが國の國體には全く無関係なのである。したがって、「國民主権」などということを憲法に麗々しく憲法に記す必要はさらさらない。そのやうなことを記すことは天皇を権力者と仰ぎ奉ることになり、重大な國體破壊である。

『清水澄博士顕彰之碑』のすぐ近くに『大東亜聖戦大碑』が建立された事は實に意義深いことである。自虐史観の払拭=大東亜戦争の意義の恢弘と占領憲法無効・正統憲法への回帰とは一体の運動である。

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2019年5月21日 (火)

『現行占領憲法』は根底から全面的に否定されなければならない



『現行占領憲法』には次のように書かれている。

「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

第一項は現実無視の亡国条文である。国家防衛即ち自衛戦争は、最重要な「国権の発動」である。北朝鮮や共産支那などからの武力侵略は最も悪質なる「国際紛争」である。これを阻止するために「武力による威嚇又は武力の行使」を行うのは国家として当然の権利だ。これを否定する第一項は亡国条文であることは明白だ。

従って、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という第二項は、国家の存立を根底から否定する条文である。自衛隊は誰が見ても、陸海空軍である。しかし、この条文がある限り「陸海空軍」と見做されないのである。また「交戦権」が否定されているのに事実上「陸海空軍」があるというのは全くの欺瞞である。

安倍総理は、『現行憲法』の第九条をそのままにして、「自衛隊を憲法」に明記すると言う。これは、公明党の「加権」という主張を考慮したのと、一日も早く「自衛隊違憲論」の根拠をなくすための窮余の一策なのだろうが、このような欺瞞的「加憲」を行うべきではない。

『現行占領憲法』第九条を素直に讀めば、「自衛のためであろうと戦争は行わない」「一切の戦力・陸海空軍は持たない」という意味であることは明白だ。こんな憲法は根底から否定されなければならない。正々堂々「国家防衛」「国軍保持」を憲法に規定するべきである。

交戦権を否定した憲法を持っているわが国は未だに独立主権国家ではないということである。これでは、アメリカ・共産支那・朝鮮半島に対してまともな外交が出来ないのは当然である。アメリカの軍事力の庇護のもとにあり、支那や朝鮮から軍事的恫喝を受け続ける国が、現行憲法体制下の日本なのである。現行憲法無効宣言は国家緊急の課題である。

「九条の会」など自主憲法制定・現行憲法改正に反対する勢力は、日本が共産支那・朝鮮の属国であることを望んでいるとしか思えない。すなわち売国勢力である。私の知っているある政治家はある時、中曽根内閣官房長官時代の後藤田正晴氏に「改憲を早く行うべきだ」と言ったら、後藤田氏は色をなして「五一五、二二六で警察官が軍に殺されたんだ」と言ったという。(私的な会話なのでその政治家の氏名を書くことは控える)こういう手合いが官僚や自民党には多い。ある元官僚が「今の東大出身の官僚はリベラル左派が多い」と語っていたのを思い出す。

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2019年4月12日 (金)

国家存立の基礎を揺るがす国民主権論

天皇と国民と国土は霊的・魂的に一体の関係にある。今日、何かと言うと「国民主権」ということが強調される。この「国民主権」というのは、君主と国民が政治権力を争った西洋において生まれた思想である。

日本国においては、君主と国民とは対立関係にあるのではないし国家と国民も対立関係にあるのではないことは、日本神話に示されてゐる。神話とは、現実の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。日本国の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。

村岡典嗣氏は、「(国家の神的起源思想の特色として・註)国家成立の三要素たる国土、主權者及び人民に對する血族的起源の思想が存する。即ち皇祖神たる天照大神や青人草の祖たる八百万神はもとより、大八洲の国土そのものまでも、同じ諾册二神から生れでたはらからであるとの考へである。吾人は太古の国家主義が実に天皇至上主義と道義的關係に於いて存し、天皇即国家といふのが太古人の天皇觀であったことを知る。皇祖神が国土、人民とともに二神から生れ、而も嫡子であると考へられたのはやがて之を意味するので、換言すれば天皇中心の国家主義といふに外ならない。」「日本の國家を形成せる國土(即ち大八洲)と元首(天照大神)と、而してまた國民(諸神)とが、同じ祖神からの神的また血的起源であるといふことである」(『日本思想氏研究』四)と論じてゐる。

岐美二神はお互ひに「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」(『本当にいい女ですね』『本当にいい女ですね』)と唱和されて、国生みを行はれた。二神の「むすび」「愛」によって国土が生成されたのである。国土ばかりではなく、日本国民の祖たる八百萬の神々もそして自然物も全て岐美二神のよって生まれたのである。

国土も自然も人も全てが神の命のあらはれであり、神霊的に一体なのである。これが我が国太古からの国土観・人間観・自然観である。

日本神話においては、天地が神によって創造されたのではなく、岐美二神の「愛・むすび」によって国土が生まれた。つまり神と国土・自然・人間は相対立し支配被支配の関係にあるのではなく、神霊的に一体の関係にあるのである。ここに日本神話の深い意義がある。神と人とが契約を結び、神は天地を創造し支配するといふユダヤ神話と全く異なる。

伊耶那岐命は伊耶那美命に「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(註・かれ。だからの意)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に、刺し塞ぎて、国土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまふた。

伊耶那岐命が「国土を生みなさむ」と申されてゐるところに日本神話の素晴らしさがある。中西進氏は、「(世界各地の神話は・註)人類最初の男女神は、人間を生んでいる。國を生むのではない。ところが、日本神話ではそれが國生みに結び付けられ、国土創造の話に転換されている。これは日本神話の特色で…」(『天つ神の世界』)と論じられてゐる。

岐美二神は、単に大地の創造されたのではなく、国土の生成されたのである。太古の日本人は劫初から、国家意識が確立してゐたのである。世界の他の国よりも我が国は国家観念が強かったといへる。この場合の「国家」とは権力機構としての国家ではないことは言ふまでもない。

日本国と全く国柄・歴史が異なる西洋の憲法思想たる国民主権論をわが國の憲法思想にしてはならない

天皇と国民と国土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。霊的魂的に一体の関係にある。これを「君民一体の国柄」といふ。

しかるに今日の多くの政治家や学者やマスコミは、相変らず外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」をとり、わが國の國家傳統の破壊しやうとしてゐる。それが一般國民の常識となって浸透してゐることは實に以て、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

さらに憲法論においても、重大な問題がある。西洋成文憲法は権力に対する制限規範である。「権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』といふ原則=『法は王権に優越する』といふ法治主義を確立した」とされる。

しかし、日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。神聖なる権威による統治である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ない。また、わが國の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

「現行占領憲法」は、その法思想・理念もアメリカの押し付けであるから、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に貫かれてゐる。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。『現行憲法』は、わが國體とは相容れない。日本国と全く国の成り立ち・国柄・歴史が異なる西洋の憲法思想をわが國の憲法思想にしてはならない。

「日本神話の精神」は西洋思想の行きづまりを原因とする世界的危機打開の力を持つ。何故、日本国は神聖なる国であるのか、それは「日本国は神が生みたまふた神の國である」といふ「神話の精神」によるのである。何故、天皇は神聖なる御存在であるのか、それは「天皇は天照大神の地上に於ける御代理であらせられる」といふ「神話の精神」によるのである。また、何故天皇が日本國の統治者であらせられるのか、それは「天皇は天照大神より日本國を統治せよと御命令を受けておられる」といふ「神話の精神」によるのである。古代から今日に至るまで様々な時代の変遷があったが、このことは決して変はることはないのである。

「神話の精神」と言ふと非科學的だとか歴史的事実ではないと主張してこれを否定する人がゐる。しかし、神話において語られてゐるのは、一切のものごとの生成の根源であり古代人の英知の結晶であり、神話的真実である。神話には日本民族の中核的思想精神・根本的性格(國家観・人間観・宇宙観・神観・道義観・生活観など)が語られてゐる。そして「日本神話の精神」は西洋科学技術文明及び排他独善の一神教を淵源とする闘争的な西洋政治思想の行きづまりが原因となった全世界的危機を打開する力を持ってゐる。
 
天皇を君主と仰ぐ日本の国柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで続いてきてゐる。ところが外国では、太古の王家も古代国家もそして古代民族信仰もとっくに姿を消し、その後に現れた王家は武力による征服者であり、その後に現れた国家は権力国家であり、その後に現れた信仰は排他的な教団宗教である。古代オリエントや古代シナにおいては、祭祀を中心とする共同体が武力征服王朝によって破壊されてしまった。共同体を奪はれ祭りを喪失したよるべなき人々は、貨幣や武力に頼らざるを得なくなり、権力国家・武力支配国家を形成した。

 それに比してわが日本は、古代からの祭祀主を中心とする共同体国家が、外国からの武力侵略によって破壊されることがなく、今日も続いている唯一の国なのである。皇室祭祀だけでなく、全国各地で一般国民が参加する祭祀が続けられてゐる。まことにありがたき事実である。

 我が国は、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現実の国家の君主と仰ぎ、国家と民族の統一の中心として仰いでゐる。かうした事実は西洋諸国やシナと日本国との決定的違ひである。

 長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも国が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同体精神があったからである。日本国は太古以来の伝統を保持する世界で最も保守的な国でありながら、常に新たなる変革を繰り返して来た国なのである。その不動の核が天皇である。天皇国日本を愛する心を養ふことこそが日本国永遠の隆昌と世界の真の平和の基礎である。

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2019年2月18日 (月)

國防に関してはわが國は法治國家ではない

『現行占領憲法』第九条には「1・日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠実に希求し、國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権は、これを認めない」と書かれてゐる。

 

この条文を素直に讀めば、『現行占領憲法』は自衛権・國防軍の存在を否定してゐると解釈するのが至当である。

 

昨日も書いたが、憲法学の解釈ではどうかは知らないが、ごく当たり前の國語の解釈を以てすれば、國家防衛即ち自衛戦争は最重要な「國権の発動」である。北朝鮮や共産支那などからの武力侵略は最も悪質なる「國際紛争」である。これを阻止するために「國権の発動たる戦争」「武力による威嚇又は武力の行使」を行ふのは國家として当然の権利だ。それを一切否定する『現行憲法』第九条第一項が亡國条文であることは明白だ。

 

従って、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権は、これを認めない」といふ第二項は、國家の存立を根底から否定する条文である。

 

「前項の目的」とは「國際紛争を解決する手段」のことであり、それは「侵略戦争」を意味するから、自衛のための戦力は否定していないといふ解釈は『現行占領憲法』の「前文」の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というまったく他力本願の精神に立脚すれは全く成り立たない。

 

『現行憲法』は「戦勝國による日本占領基本文書」であり、二度と再びわが國が米英支ソといふ戦勝國に対して立ち向かふことのないようにすることを目的として押しつけられたのだから、「交戦権」も「戦力」も「陸海空軍」も持つことを許されなかったのである。

 

しかし、その後の國際関係に変化によりアメリカの意向で創設され、現実にわが國に存在する自衛隊は、立派な「陸海空軍」であり、武力の行使又は威嚇を行う実力組織であり、戦力も交戦権も保持している。「戦力」「交戦権」を持たない「軍」はあり得ない。

 

そして、この自衛隊といふ名称の「陸海空軍」によって、わが國の安全と独立が守られてゐる。この事実は、自衛隊が違憲であるか否かに関はらず、厳然たる事実である。そしてそのことは、「國民大多数の合意になってゐる」と言はれる。『現行占領憲法』が如何に現実を無視してをり、空文となってゐるかは火を見るよりも明らかである。

 

吉田茂内閣総理大臣(当時)は、昭和二十一年六月に國會で「第九条第二項において、一切の軍備と國の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」と述べた。これが『現行占領憲法』の立法意志であり、まともな解釈である。

 

『現行占領憲法』第九条を素直に讀めば、「自衛のためであらうと戦争はしない」「一切の戦力・陸海空軍は持たない」といふ意味であることは明白だ。前述した通り「前文」の精神に立脚すればそれは当然である。

 

第九条がある限り誰が見ても陸海空軍である自衛隊は「陸海空軍」と見做されないのである。「交戦権」を否定されてゐるのに事実上「陸海空軍」があるといふのは全くの矛盾である。

 

したがって、「現行憲法」がある限り、いくら加憲をしても、自衛隊はあくまでも自衛隊であって、自衛隊は憲法上「國軍」として認知されず、何時までも誰かが言った「違憲合法」といふ絶対矛盾の存在であり続けなければならない。つまり國防に関してはわが國は法治國家ではないのである。こんな憲法は根底から否定されなければならない。

 

『現行占領憲法』の「前文」には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し…」「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの生存と安全を保持しようと決意した」と書かれている。これは明らかに「軍備撤廃」「非武装」宣言である。

 

この『前文』の精神に基づいて、『現行占領憲法』第九条の「國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権はこれを認めない」を読めば、この規定は、「現行憲法」が自衛権・國防軍の存在を否定していると解釈するのが至当である。

 

「前項の目的」とは「國際紛争を解決する手段」のことであり、それは「侵略戦争」を意味するから、自衛のための戦力は否定していない、などという議論は、「前文」に照らして考えれば苦しい読み方であり、曲解である。

 

『現行憲法』は「戦勝國による日本占領基本文書」であり、二度と再びわが國が米英支ソに対して立ち向かうことのないようにすることを目的として押しつけられたのだから、「交戦権」も「戦力」も「陸海空軍」も持つことを許されなかったのである。

 

しかし、現実にわが國に存在する自衛隊を見て、「戦争をするための組織でなく、國際紛争を解決するために武力による威嚇や行使を行う組織ではなく、陸海空軍ではなく、戦力も交戦権も持っていない」などと思っている人はいない。やはり自衛隊は事実として「陸海空軍」である。

 

自衛隊は國際紛争を解決することを目的とした立派なそして強力なる陸海空軍であり、武力の行使又は威嚇を行う組織であり、戦力も交戦権も保持している。

 

そして、この自衛隊という名前の陸海空軍によって、わが國の安全・独立・治安が守られている。『現行占領憲法は空文化しているりは火を見るよりも明らかである。

 

しかし、『現行憲法』がある限り、成文法上、自衛隊は「軍」として認知されず、何時までも「違憲合法」という絶対矛盾の存在であり続けなければならないのである。國防に関してはわが國は真の法治國家ではない。

 

國家の独立を維持し、民族の自立を守り、平和を維持し実現するために國防力・軍事力が不可欠である。

 

國防戦争・自衛戦争まで悪として否定し、憲法に國防・国軍が明確に規定されてないという状況を一刻も早く是正することが必要である。國軍を正しく規定し、國家には独立と安全を保つために自衛権・交戦権を有すると明確に規定した憲法にすべきである。

 

また、國の独立と安全を守ること即ち國防はきわめて重要な國家機能であり国家存立の基本である。多くの國では憲法で國民の國を守る義務を定め、また軍保有とその指揮系統を明確に規定している。國家存立の基本たる國防が、嘘と欺瞞の「解釈改憲」で成り立っている状況は何としても是正されるべきだ。「現行占領憲法」の全面否定が急務である。それが現実を理想に近づける政治の役目である。昨日の下村博文自民党憲法改正推進本部長の発言は間違ってゐる。

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2019年2月17日 (日)

『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』のは亡国への道-下村発言に思う

 

 

 自民党の下村博文憲法改正推進本部長は本年(平成三十一年)二月十六日、那覇市で講演し、平成二十四年にまとめた『自民党改憲草案』にある九条改憲は実現困難との見方を示した。戦力不保持と交戦権否認を定めた九条二項の削除と「国防軍」創設を明記している点に触れ「専守防衛の自衛隊の性格を普通の軍隊にするもので、各政党や国民の理解は得られない。残念ながら不可能だ」と述べた。

 

  国会発議や国民投票で賛成を得る必要があると指摘し「われわれは学者でなく政治家。リアリストでなければいけない」と強調。党が昨年まとめた、九条二項を維持する自衛隊明記案により「自衛隊違憲論に終止符を打つ」と理解を求めた。しもむらしは「われわれは学者でなく政治家。リアリストでなければいけない」と言うが、それでは『自民党改憲草案』は政治がつくったのではないのか。現実を理想に近づけるのが政治家の役目である。

 

下村氏は安倍総理総裁の側近である。そして改憲推進の中心的政治家である。言ってみれば、安倍晋三氏と同じように「真正保守」の政治家として期待され信頼もされてきた。しかるにこんな発言を行ったのである。安倍自民党、安倍内閣は真正保守のではなくなった。そして安倍自民党・安倍内閣は「戦後レジームからの脱却」という大義も忘却したのである。情けない話である。

 

大体、第九条第二項のという欺瞞的な条項の抹消、破棄なくして真の改正にはならない。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」なとと云う規定を持つ憲法は独立国の憲法とは言い難い。自衛隊習志野空挺部隊の演習、そして北富士演習場における陸上自衛隊の演習、さらに、海上自衛隊の横須賀警備区などの訓練を見れば火を見るよりも明らかな通り、自衛隊は立派な戦力であり、正真正銘の国軍である。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」などと書いている『現行憲法』が欺瞞であり嘘を書いているのである。

 

真正保守と言われる安倍自民党が、国家存立の基礎である国防・安保でこんな嘘と欺瞞がまかり通っていることを是正しようとしないのはまったくおかしい。

 

「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 

第一項も現実無視の亡国条文である。国家防衛即ち自衛戦争は、最重要な「国権の発動」である。北朝鮮や共産支那などからの武力侵略は最も悪質なる「国際紛争」である。これを阻止するために「武力による威嚇又は武力の行使」を行うのは国家として当然の権利だ。これを否定する第一項は亡国条文であることは明白だ。

 

従って、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という第二項は、国家の存立を根底から否定する条文である。自衛隊は誰が見ても、陸海空軍である。しかし、この条文がある限り「陸海空軍」と見做されないのである。また「交戦権」が否定されているのに事実上「陸海空軍」があるというのは全くの欺瞞である。

 

『現行占領憲法』第九条を素直に讀めば、「自衛のためであろうと戦争は行わない」「一切の戦力・陸海空軍は持たない」という意味であることは明白だ。こんな憲法は根底から否定されなければならない。正々堂々「国家防衛」「国軍保持」を憲法に規定するべきである。

 

安倍内閣・安倍自民党は、「憲法前文」も「現行占領憲法」のままということであろう。これでは話にならない。

 

下村氏が実現困難と断じた自民党の「改憲草案」には「第9条の2(国防軍)

1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」と書かれ、『国防軍』が明記されている。

 

「現行憲法」第九条の平和主義とは「敗戦」「自虐」史観に基づく考え方である。弱者の思想であり敗者の思想である、「占領憲法」の「前文」を残したままの「憲法改正」は「改正」ではなく、「改悪」である。

 

「占領憲法」の「前文」に書かれている「人間相互の関係を支配する崇高な理想」などというものは、少なくとも南北朝鮮・支那・ロシアは全く持ち合わせていない。力がない国は侵略され、滅ぼされる。

 

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などということは、全くの空想・夢物語であるばかりでなく、きわめて危険な思想である。

 

わが国固有の領土南樺太・全千島を七十年以上も占拠したままのロシア、わが国固有の領土竹島を六十年以上にわたって占拠している韓国、そしてチベット・東トルキスタン・満洲・蒙古などを侵略支配し、台湾を併呑せんとし、尖閣諸島・沖縄などのわが国固有の領土・領海を浸略せんとしている共産支那、核開発を行いミサイル発射を繰り返しわが国国民を拉致している北朝鮮のどこに「公正と信義」があるのか。

 

さらに『現行憲法』「前文」に「日本国民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。

 

これは「日本は東條内閣の行為によって侵略戦争を起こしましたが、二度とそのような事はしないことをお誓いします。今後はアメリカ様、ソ連様、支那様など戦勝国の皆様の公正と信義に信頼して、侵略を行なった悪い国であるわが国とわが国民の生存と安全を保持してまいります。今後は何をされても決してお手向かいを致しません」という「詫び証文」である。

 

つまり、『現行占領憲法』は、日本國および日本國民は戦勝國に手向かった悪者であり、戦勝國は公正の信義の國であるという文字通りの嘘八百を基本精神にしているのだ。

 

『現占領行憲法』の「平和主義」とは、有り体に言えば「日本は軍隊や武力を持たせるとなにをするかわからない」という戦勝国側の考え方が根底にある。そして「わが國以外の國はすべて公正と信義を持っているのだから、日本を侵略しようなどという國は何処にも存在しない」という虚構が作られた。その虚構の上にわが國の國防という基本國策が立てられているのだ。これを一刻も早く否定しない限り、わが国は自分自身の手で祖国を守ることはできないのである。

 

『現行占領憲法』にいかに間違ったこと亡国的なことが書かれていても、この「憲法」なるものは、戦勝国が無理やり押しつけたものであり、正統なる憲法ではないとして、全面的に否定することができた。しかしも加憲ということが行われると、『現行占領憲法』『亡国憲法』が国民の意思によって制定された憲法となり正統性を持つこととなる。これは断じて阻止しなければならない。

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2019年2月12日 (火)

最近考えた問題

最近考えた問題を書きます。

 

一、自衛隊が違憲でなければ加憲の必要はないのではないか。私は、自衛隊はどう考えても違憲であると思う。しかし、憲法が間違っているのだから、そんな憲法は一日も早く無効にして、自衛隊を正しく国軍にすればいいのである。加憲すると、日本國體を隠蔽している『現行憲法』が「日本国民の自由に表明した意思」によって制定されたことになる。即ちいわゆる自主憲法になるのではないか思う。

 

二、「退位」では「皇統連綿」を否定することになりはしないか。「天津日嗣の継承」即ち「譲位」であるべきではないか。

 

三、政府も国会も、皇室や日本の伝統よりも『現行憲法』の規定を重んじる姿勢を貫いている。「憲法は権力の制限規範」とされている。日本天皇は、祭祀国家日本の祭祀主であらせられ、本来政治権力者ではあらせられない。『現行占領憲法』にも、「第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と書かれている。権力者ではあらせられない日本天皇は、「権力の制限規範」である『現行憲法』によって規制される御存在ではあり得ない。天皇・皇室は「憲法」を超越した御存在である。

 

四、「大嘗祭を国費で賄うことは憲法に抵触する」という意見がある。しかし、『現行憲法』第二十条では、「宗教上の行為、祝典、儀式または行事」などについては、「国及びその機関」の関与を禁止していない。憲法でいふ「宗教的活動」とは「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」(昭和五十二年・津地鎮祭訴訟最高裁判決文)です。つまり、政府などの権力機構が特定宗教の教義を宣布し、国民に特定教団に対する信仰を押し付け、特定の教団の活動を規制する事を禁止しているのである。大嘗祭の「目的」がそうした特別な「宗教的意義」を持つものでなく、また「効果」として「特定の宗教に対する「援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる」ようなことがないことはあまりにも明らかである。第一、皇室は宗教団体ではない。大嘗祭は、天皇の御即位と一体の伝統的祭祀であり権力行為ではない。。よって大嘗祭の「公的斎行」は「権力の制限規範」である憲法上何ら抵触しない。

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2018年12月10日 (月)

「現行占領憲法」が、「天皇の祭祀」「神社神道」を一般の教団宗教と一緒くたにしてゐるのが根本的誤り

政教分離とは、西洋におけるキリスト教会と政治権力の分離であって、信仰と國の分離ではない。アメリカ大統領就任式には牧師が来るし聖書に手を置いて宣誓する。「現行憲法」は日本の伝統とは全く相いれない権力国家観・契約国家論に基づいてゐる。日本の伝統とか文化は全く書かれていない。

 

政教分離などといふ「現行占領憲法」の規定は、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体君主国家日本の國體に全く合致しない。このやうな規定のある憲法を戴いてゐることが、我が国の道義が頽廃する原因である。

 

日本伝統信仰・祭祀宗教たる日本神道が日本民族の道義の根幹である。ところが「現行占領憲法」が、天皇の祭祀・神社神道を一般の宗教法人と一緒くたにしてゐる。これが根本的誤りなのである。

 

日本国といふ信仰共同体の根幹が神社であり祭祀である。そのことは、一宗教法人・教団宗教が政治権力を掌握し行使することは全く次元が異なるのである。

 

 

憲法二〇条で定める政教分離の原則をめぐっては、津市が市体育館の起工式を神道祭式で行ったことに対して、反日勢力が市長に工費返還を求めた訴訟で、最高裁が昭和五十二年に出した判決がある。そこでは、「國家と宗教との完全な分離を実現する事は、実際上不可能に近い」とした上で、憲法で禁止している「宗教的活動」とは、その「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に限られるとして、いわゆる<目的効果基準>を示した。妥当な判決である。

 

「政教分離」とは國や行政が宗教と全く関わってはいけないという事ではない。それは不可能である。そこにたとえ何らかの宗教的側面があったとしても、行為の本来の目的が別にあったならば、「政教一致」にはならない。

 

國家や行政が宗教と全く関わってはいけないと言うのなら、善通寺市・天理市・金光町という自治体名をつけることは違憲になる。また、刑務所で特定の教団宗教に属する僧侶などが行っている「教誨」は公共の施設の中で宗教活動を行うのであるから明白なる違憲行為となる。さらに、東京都慰靈堂(都有財産・関東大震災及び戦災で亡くなった方々を慰靈する施設)で都知事などが出席して仏式で行われる「慰靈大法要」も明確に違憲である。

 

総理の靖國神社参拝は、戦没者慰靈が目的である。靖國神社という宗教法人を援助し助長するためではない。また他の宗教法人を圧迫するためでもない。したがって「現行憲法」下においても、総理の靖國神社参拝は合憲である。今後も正々堂々と参拝は続けられるべきである。

 

しかし、「現行占領憲法」に重大な欠陥がある事も事実である。敬神崇祖の伝統、美風にそって全國民が等しく英靈に対して感謝と慰靈の真心を捧げるという最も大切なことを禁じていると解釈できる「現行憲法」は悪法である。そうした憲法は一日も早く否定しなければならない。

 

日本という國は祭祀國家であり信仰共同体である。ゆえに、日本國を神道と切り離すことは不可能である。政教分離などという原則をわが國の神道祭式による公的な慰靈行為に適用してこれを禁止しようとすることが大きな間違いなのである。

 

政教分離の原則というのは、激しい宗教戦争を繰り返してきた西欧や中近東の國々において、政治権力と特定の教会・教団が結びついて他の教会・教団を弾圧し圧迫する事のないようにするために考え出された原則である。

 

わが國には、歴史を紐解けば明らかなように、一神教の世界のような激しくも残虐なる宗教戦争はなかったし、特定の教団が政治権力を壟断して他の教団を弾圧したり圧迫した歴史はなかった。

 

わが國の長い宗教史・精神史・思想史においては、儒教などの支那思想や仏教そしてキリスト教における日本の伝統と著しく異なる思想は自然にすたれて行き、わが國傳統信仰と融合したというのが事実である。

 

大東亜戦争で散華した二百十三万余英靈の人柱の上に今日の日本がある。そして英靈たちは今日唯今も祖國日本を護って下さっているのである。靖國の英靈に対しわれわれ今に生きる日本國民が感謝と慰靈の誠を捧げることが、日本國及び日本國民永遠の平和の基礎である。

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2018年10月 7日 (日)

『現行占領憲法』の「国民主権」「政教分離」は、日本國體・皇室の道統とは相容れない

『現行占領憲法』は、日本の傳統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立ってゐる。

 

「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う國の儀式などの挙行に係る基本方針について」の「第一 各式典の挙行に係る基本的な考え方について」には「各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の傳統等を尊重したものとすること」と書かれてゐる。

 

「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の傳統等を尊重したものとする」といふことにそもそも無理がある。

 

『現行占領憲法』は、日本國體・皇室の傳統とは相容れない「國民主権」と「政教分離」(祭祀と統治の分離をも意味する)を基本理念としてゐる。従って、憲法の趣旨の沿ふことと、皇室の傳統を尊重する事とはどうしても矛盾してしまふのである。

 

『現行占領憲法』は、「君主と人民とは相対立する存在であり、國家は國民同士が契約して成立する」といふ西洋法思想・西洋國家観に貫かれており、日本國體の根幹を正しく規定してゐない。それどころか『現行憲法』は國體破壊もしくは隠蔽の元凶になってゐる。

 

『現行占領憲法』の「政教分離」「國民主権」の原則は、「天皇の國家統治と祭祀との一体」「君民一体」といふ國體の根幹、皇室の傳統を否定してゐる。このやうな「憲法」と皇室の傳統とを整合性を求めることは本来できない。また整合性を求める必要も無い。

 

祭祀國家日本の祭り主であらせられる日本天皇は、常に國民の幸福と五穀の豊穣そして國家國民の平和と幸福を祈る御存在であらせられるのであるから、外國の専制君主のやうな國民と相対立する御存在ではないし、國民を力によって支配し隷従せしめる御存在ではない。

 

國民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を國民に示し、また國民の意志を神に申し上げ、國民の幸福の實現を最高の使命とされるお方が天皇である。つまり天皇と民は「和」「共同」の関係にあるのであり、対立関係ではない。かうした天皇中心の日本の國柄を「君民一体の日本國體」と言ふのである。また、天皇の祭祀は私的行為では絶対にない。祭祀と天皇の國家統治とは分かち難く一体である。

 

「憲法」に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現してゐない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いてゐるのである。

 

この度の「ご譲位」そして「皇室典範改正の議論」においても、「憲法との整合性」「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行はれてゐる。

 

外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」がわが國の國家傳統を隠蔽し破壊してゐる。これは、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

 

葦津珍彦氏は、「将来の憲法改正においては、君民対決の連想を誘発させる『國民主権』の語を削り、日本國君民一致の精神に基づき『統治権の総攬者(統合し掌握する者)としての天皇』の地位を復元すべきものと思ふ。」(『天皇・神道・憲法』)と論じてゐる。

 

今日、政治の混乱・道義の低下・外圧の危機が顕著になってゐる。そして人々の心の中に不安と空虚感が広まってゐる。これを克服するためには、日本民族としての主体性の回復が大事になってくる。

 

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は常に、天皇を中心とする國體精神であった。特に政治・倫理・文化・生産・軍・教育など國家民族の基本において然りであった。

 

大化改新・明治維新の歴史を見て明らかなやうに、急速な変化と激動の中でわが國が祖先から受け継いだ傳統を守り、かつ変革を為し遂げた核は、天皇のご存在であった。

 

わが國の歴史始まって以来、日本といふ統一された國家を体現する核が天皇であった。どのやうな困難な時期においても、日本國家・日本民族が常に傳統を守り統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その中心の核が天皇であった。國家的危機にある今日こそ、日本國體精神の回復が大切なのである。

 

 天皇の御存在・歴史を貫く天皇の傳統的神聖権威は、まさに「天壤無窮」である。しかし、それは日本を弱體化せんとして戦勝國・アメリカによって國際法を蹂躙して戦争直後に押しつけられた『現行占領憲法』の「規定」によって隠蔽され続けてゐる。

 

日本國體の道統、皇室の傳統とりわけ「天津日嗣の高御座の繼承」といふ神聖不可侵の事柄の正しき傳統あるべき姿の隠蔽、無視、改変の原因は『現行占領憲法』である。『現行占領憲法』は、「天壤無窮の神勅」に示された「天皇は日本の永遠の統治者であらせられる」といふ國體の本姿を隠蔽してゐる。「諸悪の因」は『現行占領憲法』にあるのである。

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