2017年8月 3日 (木)

『現行憲法』の部分改正について

憲法はただ憲法を改正すればいい、新しい憲法を作ればいいといふことではない。『現行占領憲法』の欠陥を根本的に否定しなければならない。

 

『現行占領憲法』の最大の欠陥は、その原理にある。『現行占領憲法』の三原理の一つとされる「國民主権・主権在民」といふ思想は、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。祭祀國家であり君民一體の國柄であるわが日本にはまったく適合しない思想であり、革命=國體破壊につながる思想である。

 

「國民主権論」「主権在民論」は「人類普遍の原理」を詐称してゐるがさうではない。欧米における革命・政治変革から生まれてきた思想であり、日本國體とは絶対に相容れない思想である。

 

日本天皇の國家統治の本質は、権力・武力による國家・國民支配ではない。天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。そして、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが國の建國以来の國體であり歴史である。

 

日本國は信仰共同體・祭祀國家であり國民が契約を結んで人工的に作った國ではない。そして祭祀主である天皇は國民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。精神的一體関係にある。これを「一君萬民・君民一體の國柄」といふ。これが日本肇國以来の國柄であり國體である。

 

つまり、日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした国民主権論や西洋近代の成文法とは基本的に相容れないのである。

『占領憲法』第一条には「 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。これは天皇の御地位そして日本國體は国民の多数意思によって廃絶できるという革命思想である。

 

さらに第九十八条には「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と書かれている。建国以来、上御一人が発せられた「詔勅」を否定していると解釈できる。

 

つまり『現行占領憲法』は「革命憲法」であり、「國體隠蔽憲法」なのである。このやうなものは根底から否定しなければならない。國会の三分の二以上の賛成、有権者の二分の一以上の賛成で、一部改正を行ふと、『現行占領憲法』は占領軍の押しつけではないといふことになる。第九条のみの部分改正だと、『現行占領憲法』の「革命思想」「國體破壊思想」を占領軍の押しつけではなく「国民の意志」として肯定することとなる。

| | トラックバック (0)

2017年7月28日 (金)

日本國體を隠蔽している「現行占領憲法」を否定すべし

『現行占領憲法』には「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書かれている。

 

「象徴」という言葉は、天皇の空間的統一性・統合性をある程度表現してはいるが、天皇の時間的連続性・伝統性は全く表現されていない。言い換えると、「象徴」という表現は、何ゆえ天皇は国家国民を統合される御存在であるのかという理由が示されていないのである。

 

天皇は、日本國及び日本国民の歴史と傳統、そして日本国民の普遍意志=過去・現在・将来にわたる日本国民の伝統的な普遍意思を体現されるご存在である。天皇が日本国の本来の統治者・君主として仰がれてきたという事実と、天皇が日本国の歴史と傳統そして国民の普遍意志の体現者である事実とは、不可分の関係にある。

 

『現行憲法』の「天皇は象徴である」という規定は、この不可分の関係を無視し、あわせて日本伝統信仰(神道)の最高祭祀主としての天皇の地位と権能を否定し去っている。

 

『現行占領憲法』は、経過的暫定の制度として彼らの言う「天皇制」を承認し、やがては廃止を理想とした米国占領軍の意図を反映したものだからこういう規定になったのである。

 

三島由紀夫氏は、天皇のご本質について「天皇は、われわれの歴史的連続性、文化的統一性、民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴」(『反革命宣言』)「われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すもの」(『反革命宣言補註』)「国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇」(『文化防衛論』)と論じてゐる。

 

『現行占領憲法』第一条の規定は、天皇の歴史的連続性・伝統性を否定し、天皇の尊厳性を隠蔽している。天皇が、日本国及び日本国民を統合される御存在であるのは、天皇が歴史的伝統性・時間的連続性を継承され体現される御存在であるからである。「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」といふ規定は、天皇のご本質の半面しか表現していない。天皇の空間的統一性は表現されているが、歴史的伝統性・時間的連続性が表現されていないのである。

 

さらに言えば、『現行占領憲法』は『国生み神話』『天壌無窮神勅』、『萬葉集』に歌われた伝統的國體精神を全く継承してゐない。

 

『現行占領憲法』は最も大切な『大日本帝国憲法』の第一条から第三条までの國體条項を抹消した。さらに、『占領憲法』は、『大日本帝国憲法』には無かった「国民主権」を明示した上「天皇の神聖性」の規定を削除した。

 

ゆえに、『大日本帝国憲法』を改正した憲法であるとする『現行占領憲法』は、『大日本帝国憲法』の改正限界を大きく超えて國體の基本を隠蔽してしまったのである。その上、日本の國體に全く合致しない西洋の悪しき普遍主義に毒されている。

 

『現行占領憲法』は國家の存立の基本を隠蔽しているのであるからこれを全面否定しなければならない。

| | トラックバック (0)

2017年7月25日 (火)

『大日本帝国憲法』は肇国以来の日本國體を成文化した憲法

 

わが日本は国家の本質と君主たる天皇の御本質が建国以来、信仰的に厳然と確立している。これを法律的に言えば、不文法によって定まっているということであろう。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立国の基本)に反する規定をしてはならない。西洋から輸入した近代法思想に基づく成文憲法によってこの立国の基本を覆したり破壊してはならない。

 

 三潴信吾氏は、「法思想上には、不文憲法主義と成文憲法主義とがある。…(成文憲法主義は・注)ローマ法思想の流れを汲み、君主(統治者)と人民(被統治者)との間、又は各人相互の間の不信、性悪観に基づくものである…近代のヨーロッパに於ける成文憲法の制定も、マグナ・カルタ以来の歴史が示す如く、専制君主と人民との間の不信感に発した、人権保障の約束証文に由来するものであって、これは権力國家観への移行の段階に於いて現はれたものである。」「憲法の基盤となる立國法とは、國体法とも称されるが、不文憲法として、成文憲法のある場合にも、必ずその基礎を成すものである。…立國法はその國の立國と同時に、その成立事實と不可分に存立するものであって、立國の精神的または道徳的理想を根幹として、その國の最も基本的な伝統的秩序を樹立するものである。」「憲法はその國の統治権力作用の拠って立つべき立國の理想目的に抵触したりそれを支へる人類普遍の原理を侵すことはできない。」(日本憲法要論)と論じておられる。

 

 つまり天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本国体は憲法などの世俗 的な法律を超越しており、憲法などの法律は、皇室にかかわることに干渉することはできないのである。

 

 日本国は信仰共同体であり国民が契約を結んで人工的に作った国ではない。そして祭祀主である天皇は国民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。こうした日本の基本的国柄は成文憲法が制定される以前即ち明治初期以前から確立している。

 

 信仰共同体日本においては成文憲法は「第二の規定」である。西洋の契約思想や人間不信を基盤とした成文法に神話の時代に発生し悠久の歴史を有する日本国体を規定すること自体不自然なことなのかも知れない。

 

 西洋の国々の君主は人民を征服し武力と権力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主権が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来るのである。こういう日本に全くなじまない西洋概念で日本国体を規定すること自体無理なのである。

 

 近代日本に於ける成文憲法たる「大日本帝国憲法」の制定においてはこのことを考慮し、第一条から第三条において立国の基本(即ち不文法に定められた日本国体の基本・天皇中心の信仰共同体日本の本姿)を明らかに規定した。

 

 しかし、日本天皇が日本国の君主・統治者であらせられるのは、日本の伝統信仰・歴史的な国体観念に基づくのであって、憲法に規定されているから天皇が君主であらせられるのではない。

 

 さらに、成文法以前の存在であるところの天皇中心の日本国体は成文法で規定する必要はなく、成文憲法には国の政治組織について規定するのみでよいという論議もある。言い換えれば成文憲法には國體については規定せず、政体のみのについて規定すればよいというのである。

 

 例えば、中川剛氏は「君主主権も不敬罪もヨーロッパ大陸の産物である。憲法を持つこと時代が、英米にはじまるものである。明治憲法はじつは極端なほど欧化政策の結果であった。明治憲法下の天皇制はむしろ伝統をねじ曲げるものだった。近代国家としての体裁を整えるための、たてまえとしての性格の強かった明治憲法であるから、憲法が制定されたからといってただちに、天皇が西欧の絶対君主なみの統治権を掌握したわけではなかった。天皇は制度とは別に、依然として国民的つながりの中心としての文化的存在でありつづけた。政治的天皇と文化的天皇の二重性をそこに認めることができる。」(憲法を読む)と論じている。

 

 ただ「大日本帝国憲法」は、ただ単に西洋立憲制度を模倣したというのではなく日本の伝統信仰の体現者として国家を統治される天皇の御本質を成文法によって名文化しようと努力したものと言える。ともかく井上毅・伊藤博文などの先人たちは、日本の国体を根幹としつつ近代成文憲法を実に苦心して作りあげたのである。『大日本帝国憲法』は決してドイツから輸入した翻訳憲法ではなかった。

 

『大日本帝国憲法』は肇国以来の日本國體を成文化した憲法であり、國體条項である

「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス

第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」

 

に日本國體精神が明確に示されていると考える。

| | トラックバック (0)

2017年7月23日 (日)

天皇の御稜威と「大日本帝国憲法」

「大日本帝国憲法」は、ただ単に西洋立憲制度を模倣したというのではなく日本の伝統信仰の体現者として国家を統治される天皇の御本質を成文法によって名文化しようと努力したものといえる。

 

 葦津珍彦氏は「帝国憲法制定の歴史について、これを伊藤博文とか、井上毅等の官僚政治家が、西欧(とくにドイツ、プロシャ、バイエルンなど)の憲法をまねて起案し制定したもののように解釈する学者が多い。しかしそれは非常に浅い皮相の見解であって、全く日本国民の政治思想史を無視したものといわねばならない。この近代憲法ができるまでの歴史条件としては、少なくとも弘化・嘉永ころからの激しい政治思想の展開を見なければならない。黒船が日本に対して開国をせまって来たころから、徳川幕府がそれまでの独裁専決の政治原則に自信を失って、外交政策については『会議』によって国是を固めようとすることになってきた。この会議政治の思想が生じてきたことは、そののちの政治思想に決定的な波紋を生じた。」(近代民主主義の終末)と論じておられる。

 

 「大日本帝国憲法」の起草に当たった井上毅は「御国の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡持て天か下の民草をしろしめすという意義より成立したるものなり。かゝれば御国の国家成立の原理は、君民の約束のあらずして一の君徳なり。国家の始は君徳に基づくといふ一句は日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「わが国の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」(梧陰存稿)と論じている。

 

 君主と民とは相対立しており国家は君と民、あるいは民同士の契約によって成立するなどという西洋法思想・国家観は、日本の国体観念・天皇観とは全く異質なものであると井上毅は説いているのである。

 

 ただし、井上毅はここで「君徳」と言っているが、日本天皇は人としての「徳」よりももっと深い「祭り主としての神聖権威」日本伝統信仰の言葉で言えば「御稜威」(みいつ)によって国家を統治したもうのである。御稜威とは天皇の有される神霊の威力というべきものである。

 

 折口信夫氏は「御稜威」について、「みいつといふ語の語根いつといふ語は、稜威といふ字をあてる…いつのちわき・いつのをたけびなどといふ風につかってゐます…天子に傳り、これが内にある時は、その威力が完全に発現するところの権威の原動力なる魂の名でありました。」(神々と民俗)「天子には天皇霊といふべき偉大な霊魂が必要であって、これが這入ると、天子としての立派な徳を表されるものと考へられてゐました。その徳をみいつといふ語で表してゐます。…これは天皇靈の信仰上の名稱でした。」(鳥の聲)と論じておられる。

 

歴代天皇には「人」としての徳がいかにあられようと歴聖一如の「御稜威」によって国家を統治したまうのである。今上天皇におかせられても、大嘗祭を執行されて現御神となられ御稜威を保持されていることは言うまでもない。昭和天皇もしかりである。つまり「昭和二十一年元旦の詔書」において、天皇が神格を否定され『人間宣言』をされたなどということは、「みまつり」という厳粛なる事実によって否定されるのである。

| | トラックバック (0)

2017年7月11日 (火)

『占領憲法』について

戦後日本は「国民主権」「人命尊重」「人権擁護」「平和」を絶対的価値、最高の目標としてきた。それは『現行占領憲法』の基本原理となっている。しかし、戦後七十二年を経過して、人権が侵害され、人命が軽視され、国民の平和が侵される残虐無比の事件が日常茶飯事になるというまったく逆の結果を生み出した。

 

「人権擁護」とか「人命尊重」とか「平和」とかがいくら麗々しく憲法の原理として書かれていても、それは空念仏にすぎなかった。むしろそういう原理に基づく戦後教育は、自分さえよければ良いという観念を養い、他人や国のために尽くす、親に孝養を尽くすという人倫の根本を忘却せしめた。そして、己の権利のみを主張する精神が横溢した。こうしたことが今日の日本を作り出した。

 

今日の日本を混迷に陥れている根本原因である『現行占領憲法』の「国民主権」という國體破壊思想、「恒久平和主義」といふ名の侵略誘発の敗北思想、「基本的人権の尊重」という欲望民主主義・利己思想という三原理に要約される「戦後精神」を徹底的に祓い清めなければならない。日本國の根幹を揺るがせ、日本国民の道義心を低下せしめている『現行憲法』の三原理を肯定したままで一部の条項を変えるだけの「改憲」では駄目である。

 

戦勝國によって押し付けられた理念であり、わが國の國體と合致せず、戦勝國に対する敗戦国日本の詫び証文である現行占領憲法前文に書かれた「三原則」を訂正しないのでは、憲法改正でも自主憲法制定でもない。「現行占領憲法」の「三原理」を継承しつつ憲法改正が行われると、日本を混迷に陥れた「三原則」が戦勝国の押し付けではなく、國民の意志によってこれを憲法理念とすることとなる。まさに亡國のはじまりである。

 

今日、「現行憲法」の「三原理」が「不磨の大典」のように論じられている。近年各方面から出された「改憲草案」はそのほとんどが「現行憲法」の「三原理」を継承している。

しかし、「現行憲法」の「主権在民論」こそ、日本の國體を隠蔽し破壊する元凶である。「現行憲法」の「平和主義」こそ、日本の国防体制確立を阻害し日本国をして他国の属国たらしめる元凶である。「現行憲法」の道義精神不在の「人権論」こそ、国民の頽廃の元凶である。「現行憲法三原理」の否定なくして「憲法改正」にも「自主憲法制定」にもならない。

| | トラックバック (0)

2017年7月 2日 (日)

『現行占領憲法』改正では駄目。

「現行占領憲法」は、「大日本帝国憲法」の第一条から第三条に成文化された最も大切な國體法を抹消した。「占領憲法」は、「大日本帝国憲法」には無かった「国民主権」を明示した上「天皇の神聖性」の規定を削除した。

 

 「大日本帝国憲法」を改正した憲法であるとする「現行占領憲法」は、「大日本帝国憲法」の改正限界を大きく超えて國體の基本を隠蔽してしまったのである。その上、日本の國體に全く合致しない西洋の悪しき普遍主義に毒されている。

 

 成文憲法が国家の存立の基本を破壊もしくは否定するのであれば、これを否定しなければならない。「現行占領憲法」はまさしくそういう憲法である。

 

『現行占領憲法』に日本國體と絶対に相容れない「国民主権論」が取り入れられたことは、単なる「日本弱体化」などではない。近年の「皇室典範改定」「天皇御譲位」に関する論議や実際の動きを見ていて、『現行占領憲法』が日本國體破壊の導火線であったと思い知った。『皇室典範』が『憲法』の下位法となり、衆参両院で改定できるようになったことは、重大なる國體破壊である。

 

『現行憲法』には、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。

 

天皇は、主権者たる国民の総意によってその地位にあるのだから、国民の代表者たる衆参両院議員、そして議員によって指名され選出された内閣の決定に、天皇及び皇族は従わねばならない」という考え方が今日大手を振って歩いている。

 

「国民の総意」の「国民」について、現在の生きている日本国民ではなく、過去現在未来にわたる『日本国民』であるという説がある。「占領憲法」を出来得る限り『日本國體』に合致させようという解釈である。しかし、現実には、衆参両院議員の過半数に意思によって『皇室典範』が改定されてしまうのである。それどころではない。衆参両院議員の三分の二の意思によって、「天皇を君主と仰ぐ日本國體」すら廃絶される危険すらある。そんなことはあり得ないという意見もあるだろうが、可能性は皆無ではない。

 

まさに「諸悪の因は現行憲法」なのである。ともかく、国民主権論という國體破壊思想をわが国から祓い清めねばならない。

 

『現行占領憲法』に如何に亡國的なことが書かれていても、「現行憲法は戦勝國が無理矢理押しつけたものであり、正統なる憲法ではない」として全面的に否定する事ができた。しかし、『現行占領憲法の』の国民主権思想そして國體条項をそのままにして、第九条などを改正する、その「改正憲法」は、アメリカの押しつけではなく、「國民の意志」によって定められたこになる。

 

「現行占領憲法」無効確認・全面否定、「正統憲法」回復が正しいと信ずる。

| | トラックバック (0)

2017年6月25日 (日)

『占領憲法』の「前文」及び第九条を残したままの「憲法改正」は「改正」ではなく「改悪」である

『現行占領憲法』第九条を素直に讀めば、「自衛のためであろうと戦争は行わない」「一切の戦力・陸海空軍は持たない」といふ意味であることは明白だ。この第九条がある限り誰が見ても陸海空軍である自衛隊は「陸海空軍」と見做されないのである。「交戦権」を否定されてゐるのに事実上「陸海空軍」があるというふのは全くの欺瞞である。

 

したがって、「現行憲法」がある限り、自衛隊は憲法上軍として認知されず、何時までも誰かが言った「違憲合法」といふ絶対矛盾の存在であり続けなければならない。つまり國防に関してはわが國は法治國家ではないのである。こんな憲法は根底から否定されなければならない。

 

正々堂々「国家防衛」「国軍保持」を憲法に規定すべきである。自衛隊を國軍として正しく規定し、國家には独立と安全を保つために自衛権・交戦権を有すると明確に憲法に規定すべきである

 

自民党の「改憲草案」には「第9条の2(国防軍)1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」と書かれ、『国防軍』が明記されてゐる。

 

今回の安倍総理のメッセージ・発言は現在の政治情勢下において一日も早く「憲法」に「国家防衛の實力組織」を明文化しようとの意思に基づく已むを得ざる選択であったらう。また「加憲」を主張する公明党に賛成してもらいたいための発言であらう。安倍総理の本心は「自主憲法制定」であると信ずる。であればこそ、正道を堂々と歩んで欲しいのである。

 

安倍総理の『現行憲法』の第九条をそのままにして、「自衛隊を「憲法」に明記すると言ふ主張は、一日も早く「自衛隊違憲論」の根拠をなくすための窮余の一策なのだらうが、このやうな欺瞞的「加憲」を行ふべきではない。

 

安倍氏は「政治は現実であり、結果を出していくことが求められる。党の改正草案にこだわるべきではない」と主張しているが、「結果を出していく」ことにこだわるあまり、「原則」を全くなおざりにするのは間違いであり、将来に大きな禍根を残す。

『占領憲法』の「前文」及び第九条を残したままの「憲法改正」は「改正」ではなく、「改悪」である。

『占領憲法』に如何に亡国的なことが書かれてゐても、「現行憲法は戦勝国が無理矢野押しつけたものであり、正統なる憲法ではない」として全面的に否定する事かできた。しかし、詫び証文である「前文」そして第九条の第一項第二項をそのままにして『憲法改正』を行ふと、この「詫び証文」及び「亡国条項」がアメリカの押しつけではなく、「国民の意志」になる。これこそまさに亡国への道である。「憲法守って國滅ぶ」といふ言葉がまさに現実のものとなるのである。

| | トラックバック (0)

2017年6月19日 (月)

「現行占領憲法」の「平和と民主主義」は、『敗者の思想』『弱者の思想』である

明治維新の後、攘夷が開国となり、鹿鳴館時代を現出した。それは攘夷のための開国であった。即ちわが国は西欧列強の侵略を排除するために西洋科学技術・近代資本主義を取り入れて近代化を遂げた。日清・日露戦争に勝利し、大清帝国・ロシア帝国によるわが国に対する圧迫と属国化の危機を排除した。

 

しかしその後、西太平洋での覇権確立を目論んだアメリカは、わが国に対する敵対姿勢を明確にして、外交的・軍事的に圧迫し続けた。そして遂に大東亜戦争に突入し、わが国は敗北した。

 

大東亜戦争後、わが国は戦時中の「鬼畜米英」から大転換して「アメリカ万歳」となり、『憧れのハワイ航路』が大ヒットする国になった。変はり身が早い。これが良いことなのか。日本の柔軟性・強靭性なのか。ともかく戦後はアメリカの事実上の従属国になった。そして、「繁栄」と「平和」を謳歌して来た。

 

しかし、いつまでもアメリカの従属国のままでいいはずがない。その上、共産支那・北朝鮮による軍事的脅威がまます高まっている。「天は自ら助くる者を助く」といふ言葉がある。祖国日本の回復、日本の道統の回復、日本国家・日本民族の総合的力量の回復が断行されねばならない。

 

『元寇』の一節を記す。

 

「多々良浜辺の戎夷(えみし) /そは何 蒙古勢 /傲慢無礼もの /倶(とも)に天を戴かず/いでや進みて忠義に /鍛えし我が腕(かいな) /ここぞ国のため /日本刀を試しみん」

 

「外交は華麗に礼装した軍事である」という言葉がある通り、日本が今日の国難を乗り切るためには、防衛力の強化は不可欠である。対米自立・日米対等関係の樹立は、核武装と同義語である。

 

「現行占領憲法」の「平和と民主主義」は、『敗者の思想』『弱者の思想』である。國のために戦うという『強者の思想』を否定し、武力は放棄する、軍隊は持たないという思想である。また、國家の独立・平和・歴史・傳統が侵略者から蹂躙されても、「戦争は無い方が良い、人命尊重だ」と言って、戦うことを忌避する『弱者の思想』である。また、「戦勝国には一切お手向い致しません」という『敗者の思想』である。

 

 

共産支那は、わが国を支配下に置こうと思っているのだ。共産支那に対する警戒を怠ってはならない。というよりも、共産支那からの軍事攻撃を未然に防止するために、日本国は核武装しなければならない。国防体制強化に反対する民進・社民・共産は、事実上共産支那の手先になっているのだ。

 

支那の覇権拡大を防ぎアジアの平和を守るためにも、そして対米自立を実現するためにも、日本は核武装すべきだ。そのためには日本国民の意識変革が必要である。

 

『現行占領憲法』の「前文」に書かれているいわゆる「平和主義」は現実無視の危険千万な思想であることが明白である。また前述したように『敗者の思想』『弱者の思想』である。

 

国防の基本に祖国に対する誇りがなければならない。東京裁判史観・自虐史観・大東亜戦争侵略論によるマインドコントロール・呪縛から脱却しなければならない。

| | トラックバック (0)

2017年6月15日 (木)

『現行憲法』の「基本的人権の尊重」について

 絶対君主が人民の権利を奪い抑圧した西洋の歴史から生まれた天賦人権思想である。「現行憲法」の「基本的人権の尊重」の「基本的人権」とは、人間として生活するために当然に認められなければならない基本的権利のことであるという。その権利は國家に先立って人間が生まれながらにして持っているとされる。これを「天賦人権」という。そして「基本的人権」は、普遍性・不可侵性・永久性・固有性という根本的性格を持つものとされる。ゆえに、基本的人権はなにものにも優先されなければならないとされる。

 

 こうした思想は、絶対君主が人民の権利を奪い抑圧した西洋の歴史から生まれた「國家と個人は対立する権力機構である」という概念に基づく。これは國家を信仰共同体として把握する日本の國體精神とは無縁の思想である。

 

 近代西洋憲法は、人民と國家を対立するものととらえ、さらに國家権力の干渉を排除し、個人の自由を確保することを目指している。たしかに権力によって個人の自由や権利が理不尽に抑圧され蹂躙されることはあってはならない。戦前の我が國においてこれに近いことが行われたことも事実である。しかし、日本國の國家観・君民一体の國體を西洋の絶対君主支配下の体制と同様なものとしてこれを排除し否定してはならない。

 

 ところが、『現行占領憲法』の立法意思は、まさに戦前の日本というよりも建國以来の日本の伝統を否定するところにあった。これは、「戦前の我が國は國民の自由が侵害され基本的人権が蹂躙された暗黒國家であった」という思想に基づいている。そして國家と個人とは相対立するものという思想に基づいて「基本的人権の尊重」を<憲法三原理>の一つとしたのである。

 

 人権尊重・個の尊重を全てに優先させることはかえって人権を蹂躙し、個人をの尊厳性を奪うことになるのは、今日の我が國の現象を見れば明らかである。今日の日本の教育荒廃・家庭崩壊・凶悪犯罪の増加の根本原因は、「自分さえよければ他人はどうなっても構わない」という観念が蔓延しているところにある。これは「個の尊重」「人権尊重」を絶対視して、共同体・家族・家庭と個人との共生を軽視してきた結果である。

 

 また「個人の権利」のみを強調する『現行憲法』の規定によって、祖先を敬い親に孝行するという日本國民道徳の基本が踏み行うことが困難になってきつつある。

 

 人間は余程の例外を除いて一人では生きていけない。人は多くの人間との関係性・共同生活があってはじめて生存できる。「人」は、自分自身であるとともに他者でもありさらには共同生活を営む場の全体のことでもある。それは「人」という言葉は、「人を馬鹿にするな」と言う場合は自分自身のことであり、「人の物を取る」と言う場合は「他者」のことであり、「人聞きが悪い」と言う場合は世間のことであることによっても分かる。

 

 人間が人間として生活するためには、多くの人々によって成立する共同体が必要不可欠なのである。したがって共同体としての國家を敵視したり、國家を破壊すれば人間が幸福になると考えるのは誤りである。

 

 國民意識の喪失とは歴史と伝統の喪失と同意義である。國民とは國の伝統・歴史・形・共通の規範を認識している。伝統・歴史・形・共通の規範の中で人権・自由が真に生かされる。伝統・歴史・形・共通の規範を欠いた裸の人間の権利とは欲望である。

 

 我が國は「基本的人権の尊重」という美名のもとに、自己の欲望と他者の欲望とのぶつかり合いの世の中となりつつある。人々は、快と不快だけで生き、目に見える至近の距離の世界のみで生きるようになる。「欲望こそ全て」と考える。そして教育荒廃・家庭崩壊が起こり、悪平等が花開き、凶悪犯罪が増加している。

 

 社會全体の品格、國家の品格の中に自分があり得るということ、個と共同体國家との連結を一切見ることができない。日本列島に住む人々は、動物の群れと同じにようになり、國家も人も滅び去ることとなるのである。                   

 

| | トラックバック (0)

2017年6月14日 (水)

國防が「解釈改憲」で成り立っている状況は何としても是正されるべし

 

 『現行占領憲法』の「前文」には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し…」「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの生存と安全を保持しようと決意した」と書かれている。これは明らかに「軍備撤廃」「非武装」宣言である。

 

 この『前文』の精神に基づいて、『現行占領憲法』第九条の「國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権はこれを認めない」を読めば、この規定は、現行憲法が自衛権・國防軍の存在を否定していると解釈するのが至当である。

 

 「前項の目的」とは「國際紛争を解決する手段」のことであり、それは「侵略戦争」を意味するから、自衛のための戦力は否定していない、などという議論は、苦しい読み方であり、曲解である。

 

 『現行憲法』は「戦勝國による日本占領基本文書」であり、二度と再びわが國が米英支ソに対して立ち向かうことのないようにすることを目的として押しつけられたのだから、「交戦権」も「戦力」も「陸海空軍」も持つことを許されなかったのである。

 

 しかし、現実にわが國に存在する自衛隊を見て、「戦争をするための組織でなく、國際紛争を解決するために武力による威嚇や行使を行う組織ではなく、陸海空軍ではなく、戦力も交戦権も持っていない」などと思っている人はいない。

 

 自衛隊は立派な陸海空軍によって構成される國際紛争を解決することを目的とした軍であり、武力の行使又は威嚇を行う組織であり、戦力も交戦権も保持している。

 

 そして、この自衛隊という名前の陸海空軍によって、わが國の安全・独立・治安が守られている。『現行占領憲法』が如何に現実を無視しており、空文となっているかは火を見るよりも明らかである。

 

 吉田茂総理(当時)は、昭和二十一年六月に國會で「第九条第二項において、一切の軍備と國の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」と述べている。これが『現行占領憲法』のまともな解釈である。

 

 したがって、『現行憲法』がある限り、自衛隊は軍として認知されず、何時までも「違憲合法」という絶対矛盾の存在であり続けなければならないのである。國防に関してはわが國は真の法治國家ではない。

 

國家の独立を維持し、民族の自立を守り、平和を維持し実現するために國防力・軍事力が不可欠である。

         

 冷戦終結後、わが國を取り巻く軍事・安保情勢はかえって厳しくなった。またわが國は主権國家としてアジア及び世界の安全保障問題・平和維持に主体的に取り組み、積極的な貢献すべきである。

 

國防戦争・自衛戦争まで悪として否定し、憲法に國防が明確に規定されてないという状況を一刻も早く是正することが必要である。國軍を正しく規定し、國家には独立と安全を保つために自衛権・交戦権を有すると明確に規定した憲法にすべきである。

 

 また、國の独立と安全を守ること即ち國防は重要な國家機能である。多くの國では憲法で國民の國を守る義務を定め、また軍保有とその指揮系統を明確に規定している。國家存立の基本たる國防が、「解釈改憲」で成り立っている状況は何としても是正されるべきだ。

| | トラックバック (0)