2018年4月18日 (水)

国民主権論は日本伝統と無縁

 「現行占領憲法」が第一章に「国民主権」の条項を置くことは、天皇国日本というわが国建国以来の道統を否定することである。

 

 日本の伝統的な考え方は、「天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体である」ということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が伝統破壊である。

 

 

 「現行占領憲法」制定時に、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

 

 「国民主権」の規定を審議した帝国議会では、政府は、「主権」とは「国家意思の実質的源泉」であり、「国民」とは「天皇を含む国民協同体」を指すとしていた。そして芦田均衆議院憲法改正案特別委員長は、欧米の「君主主権」と「主権在民」を対立的に捉えた主権二元論は、わが国においては採り得ないことを特に強調している。

 

 ところが宮沢俊義氏をはじめとした多くの憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張した。今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されているという。

 

彼らによれば、皇位の改廃は人民の意思によって可能なのであり、今上天皇の御即位に際してはその是非を国民投票に問うべしとする歴史学者まで現れた。わが国は君主国にあらずとか、元首は天皇にあらずとする珍説が学界に横行しているのが現状である。

 

 このような混乱の原因は、もともと多岐にわたる主権概念を憲法規定に持ち込んだことにある。「主権」の属性としての最高性、無制限性が言われる時、それは容易に伝統を無視した独裁専制に転化し得る。

 

 主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。ソ連邦も共産支那も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか、共産党最高指導者の個人専制恐怖政治が行われてきている。

 

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 

 日本では古来主権という言葉はなく、国家における政治作用の根本を言い表す言葉は「知らす」ないし「治らす」であり、言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。帝国憲法ではこれを「統治権」という言葉で表現した。

 

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説は、すなわちこれであった。

 

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達したのであるが、広く世界に及ぼしたのである。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然と言えよう。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたのである。

 

いずれにしても国民主権・君主主権という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本の伝統の天皇の国家統治の実相、日本国体とは全く異なる概念であり法律用語である。

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2018年4月16日 (月)

『現行占領憲法』の思想的欠陥

 

 『現行占領憲法』の三原理の一つである「基本的人権の尊重」の精神的支柱は「個の確立」「主体性の確立」であるが、「個」や「自我」というものを如何にとらえるかが大事である。正しき人間観・國家観の確立なくして、正しき「個の確立」も「主体性の確立」もあり得ない。道義精神なき「個の確立」は欲望民主主義に陥り、正しき國家観なき「個の確立」は利己主義となる。それが今日の日本の姿である。

 

 國民一人一人の福祉・自由・生活のゆとり・文化的生活そして平和を求めることは大事である。しかし、その前提になるのは、日本國という共同体であり、日本國民の自覚という同胞意識である。しかし、戦後日本は「愛國心」とか「國家への忠誠」ということを「悪」として軽視されてきた。むしろ「國のため」という意識は「軍国主義である」として否定された。

 

 戦後世代すなわち戦後教育を受けた世代が、わが國の政界・官界・財界などの指導層になった頃から、國家意識の喪失が深刻化して来たと思う。戦前の教育を受けて来た官僚・政治家・財界人が健在であった時期の日本は、戦後復興に努力し、経済大國として蘇生して来た。戦後復興を為し遂げたのは戦前の教育を受けた世代の人々である。ところが、そうした世代が第一線を退いて行くと共に、日本はおかしくなって来た。

 

 國家意識の喪失とは、「國家」とは何かという基本問題に対する理解がおかしいために起こって来た問題である。大東亜戦争の敗北によって、「國家悪」というものが強調され、國家は國民を抑圧し、國民を搾取する権力機構であり、國民あるいは人民・市民に相対立する存在であるという、考え方が支配的になった。そして、「國を愛する」とか「國家に忠誠を尽くす」ということは犯罪的行為であると言う考え方に國民の多くが汚染されてしまったのである。

 

 戦後日本は戦勝國によって西洋の國家観を押し付けられた。西洋の國家観は、契約思想に基づいている。西洋は、神と人間とが契約を結ぶキリスト教という宗教がその基盤にある。アメリカから押し付けられた『現行占領憲法』はまさにアメリカの国家観に基づいている。

 

國家もそれを構成する人々の合意と契約によって成り立っていると考えられている西洋近代國家論の歴史的淵源はキリスト教の聖書である。『旧訳聖書』とは神と人との古い契約のことであり、『新約聖書』とは新しい契約のことである。近代思想家のロックにしろ、ルソーにしろ、社會契約説を唱える場合、必ず聖書の契約を持ち出している。

 

しかし、國家社會が人間と人間との契約によって成り立つという考え方は、全く架空の観念でありフィクションである。原始社會において人間が社會や國家を作ろうと合意して契約を結ぶなどという馬鹿げたことはあり得ない。家庭・社會・共同体で育てられない人間は狼少年になる以外にない。

 

ところが、この「社會契約説」はアメリカ合衆國という國を作り出すためには大きな役割を果たした。アメリカという國は建國以前は、全く法律のない「新天新地」であり、言ってみれば無法地帯であった。そこには天から天降った君主もいなければ、総督もいなかった。だから、植民者が自らが自らを治める以外になかった。こうしたことが契約國家論がアメリカにおいて受け容れられた原因である。

 

 メイフラワー号(一六二0年にイギリスからアメリカに上陸した清教徒の船。清教徒とは、十六世紀後半、イギリス國教會に反抗して起こった新教徒の一派。清浄に生活することを主張した。ピューリタン)で結ばれた『メイフラワー憲章』には、「主権在民」「信託による統治」「法の下における平等」が謳われていた。『現行占領憲法』の原理の淵源がここにある。

 

 今日のアメリカは「自由民主主義國家」の見本のように言われているが、かつては、メイフラワー号で渡米して来た清教徒たちの子孫が特権階級となっていた。メイフラワー号の子孫にしても、最初から船に乗っていた純粋な清教徒は四十一名とその家族だけで、途中から乗船した残りの人たちはいわゆる「ならず者」「刑余者」であった。清教徒たちはセインツ(聖者)として尊敬され、残りの者たちはデヴィル(悪魔)として差別された。

 

 そして、アメリカで一六四一年に制定された『マサチューセッツ法』では、「第一条 異神(キリスト教以外の神)を信じたものは死刑。第二条 魔女も死刑。第三条 神も死刑」と規定されていた。また「インディアンと一緒に住んだ者は三年の懲役」という規定もあったという。さらに、マサチューセッツでは、知事をはじめとした役人は必ず何処かの教會に属するクリスチャンでなければならなかった。

 

 これは一神教の排他独善性、残虐性が如実に現れた法律である。アメリカがキリスト教國家であるイタリアやドイツには原爆は落とさなかったが、非キリスト教國家であるわが國には原爆を二発も落とし、東京に大規模な焼夷弾攻撃を行い、大虐殺を敢行したのも、一神教の排他独善性、残虐性及び有色人種への差別意識にその原因があると思われる。また先住民の駆逐、奴隷制度などの有色人種に対する迫害、虐待も行われた。

 

 「現行占領憲法」の骨格となっている思想である「自由と民主主義」、そして「契約國家論」の淵源である「アメリカ建國の精神」及びキリスト教というものは、このような恐ろしき性格を有していたことを我々は正しく知っておくべきである。    

      

 

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2018年4月15日 (日)

國體と憲法

「成文憲法」は「権力の制限規範である」と言はれる。であるならば、「國政に関する権能を有しない」とされる天皇が、「成文憲法」の制約を受けることはあり得ない。

 

『現行占領憲法』第四条に「天皇は、この憲法の定める國事に関する行為のみを行ひ、國政に関する権能を有しない」と書かれてゐる。『現行憲法』上、天皇は権力者ではあらせられない。故に、天皇は「権力の制限規範」である「成文憲法」の制約を受けられない。天皇は、「成文憲法」を超越した御存在である。

「成文憲法」及び「成文法」そしてそれに基づく政治権力機関は、権力者ではあらせられない天皇を制約する権能・権限は全くない。

 

「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄は、世俗の法律問題・政治権力問題ではない。即ち決して『現行占領憲法』が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。政治権力や「成文法」によって、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」を規制し拘束し奉ることがあってはならない。

 

「成文法」が基となって國體が成立するのではない。國體が基となって「成文法」が成立するのである。

 

「皇位継承」とは、「天津日嗣の高御座」の繼承である。普通一般の國家の國家元首・権力者交代とは全く次元を異にする。即ち政治権力問題とは全く性格を異にする。故に「皇位継承」について「成文法」及び権力機関が干渉し制約することはできない。

 

「皇位継承について天皇のご意志を伺はなくていい」といふ議論は全く間違ってゐる。日本國體・日本の傳統の根幹に関はることなのであるから、日本の傳統の継承者であらせられる天皇の御意志に添ひ奉るべきである。

 

「皇位継承」「御譲位」をはじめ「天皇・皇室」に関はる一切の事柄は、憲法・政府・國会の制約や規制を受けることはあり得ないしあってはならない。また、憲法・政府・國会は天皇・皇室とそして日本國體に関することに介入し規制してはならない。

 

天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である

「國王と雖も法の下にあるといふのが『法の支配』の原点である」といふ考へ方がある。これは、イギリスの法思想であると言ふ。

 

わが國は権力國家ではなく祭祀國家であり、天皇は権力者ではなく祭り主である。わが國の國體は祭政一致である。天皇は法の上にをられるとか下にをられるとかではなく、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」(のり)なのである。

 

日本天皇が、神を祭る時にうかがった神の意志を民に告げることを『ノル(告る・宣る)』と申し上げる。これがわが國の「法」(ノリ)の原点である。現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。

わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を民に傳へる『のりごと』である。「法(のり)」は「宣(のり)」である。天皇は、権力や成文法を超越された神聖なるご存在である。今上陛下の一昨年八月二十二日の「玉音」はまさに「詔」である。

 

『現行占領憲法』第一条に「天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本國民の総意に基く」とある。この条文は、天皇の歴史的連続性・伝統性を否定し、天皇の尊厳性を隠蔽してゐる。大変畏れ多い表現であるが、天皇・皇室が政治権力者・官僚の「操り人形」になる危険がある。否、現実にさうなりつつある。

さらに『現行占領憲法』には「國會は國権の最高機関」と書かれてゐる。「主権に存する日本國民」から選出され「國権の最高機関」を構成する衆参両院議員は最高権力者であり、天皇は、衆参両院議員よりも「下の地位」にあるといふ解釈が成り立つ。横田耕一はさういふ解釈である。

かかる解釈によって、衆参両院において信任された内閣は、天皇よりも「上」の存在だといふ思想が、意識するにせよしないにせよ、衆参両院議員に植ゑつけられる。國會議員に「主権の存する國民に選ばれ國権の最高機関の一員たる衆参両院議員は最高権力者だ。天皇は象徴にすぎない」などといふ意識が生まれる。これが、権力者・國民が皇室尊崇の念を喪失する原因である。そして、権力者は「かしこみの心」を無くし権力の乱用・腐敗が起こる。

 

「國民の総意」の「國民」について、現在の生きてゐる日本國民ではなく、過去現在未来にわたる『日本國民』であるといふ説がある。『現行占領憲法』を出来得る限り『日本國體』に合致させようといふ解釈である。しかし、現実には、衆参両院議員の過半数に意思によって『皇室典範』が改定されてしまふ。それどころではない。衆参両院議員の三分の二の意思によって、「天皇を君主と仰ぐ日本國體」すら廃絶される危険すらある。そんなことはあり得ないという意見もあるだらうが、可能性は皆無ではない。

 

占領軍・戦勝國が今日の事態を想定してゐたかどうかは別として、日本弱体化しようとした占領政策に則った『現行占領憲法』によって、國體破壊が実現し、革命は行はれたと極言することもできる。「國民主権論」「天皇の御地位は國民の総意に基づく」といふ國體破壊思想が憲法に書かれてゐる事が、わが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある。まさに「諸悪の因は現行憲法」なのである。

 

ともかく『現行占領憲法』の「天皇条項」は日本伝統的國體精神を隠蔽してゐる。『現行占領憲法』をわが國から祓ひ清めねばならない。そして、天孫降臨・神武肇國以来の國體精神の道統を回復する事が最も大切である。

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2018年4月14日 (土)

國民主権論は日本國體と相容れない

 

『現行占領憲法』の三原理の一つであり第一条にも明記されてゐる「國民主権主義」は、「君主主権主義」に対する「抗議概念」であるとされる。そして、「政治的主権の保持者は國民であって君主ではないことを主張する」とされてゐる。これは、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。

 

『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものと考へる西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となってゐる。

 

日本國は信仰共同體・祭祀共同體であり、天皇はその祭祀主である。従って、天皇は國民と対立し、國民を力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係ではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。信仰的・精神的一體関係にある。これを「君民一體の國體」と言ふ。これが日本肇國以来の國柄であり國體であり歴史である。

 

従って「國家の意思を最終的に決定する権力」といふ意味での「主権」なる概念と言葉は「天皇中心の信仰共同體國家日本」には全く相容れない。

 

天皇の祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共闘体として悠久の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本國の特質であり尊厳性である。これを「萬邦無比の日本國體」と言ふ。

 

故に、「國家の意思を最終的に決定する権力」即ち「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などといふことを「成文憲法」に規定することはわが國の國體・歴史と相容れない。西洋法思想・國家思想である「國民主權論」を日本國の憲法に規定することは國體を隠蔽し國體破壊につながる。

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2018年3月27日 (火)

『現行占領憲法』の「主権在民論」は日本國體を隠蔽し破壊する元凶

 

「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三つが『現行占領憲法』の「三原理」とされてゐる。しかし、『現行憲法』の「主権在民論」「國民主権主義」は、日本の國體とは絶対に相容れない思想である。

 

「國民主権主義」は「君主主権主義」に対する「抗議概念」であるとされ、政治的主権の保持者は國民であって君主ではないことを主張するとされてゐる。これは、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。つまり、『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものと考へる西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となってゐるのである。

 

「君主主権」とか「國民主権」とか言ふ場合の「主権」は、西洋法思想の影響下にある國法學では一般に、「國家における最高の政治権力」と解せられてゐる。

國家の意思を最終的に決定する權力としての「主權」が「君主にあるのか、國民にあるのか」といふ対立概念は、天皇中心の信仰共同體國家・祭祀國家たる日本には全く相容れない。

 

西洋の國法學説でいふ「主権」とは、近代中央集権國家がフランスに初めて成立する過程において、國王の権力の伸長を國内外に主張し、絶対王制を正当化するための理論的武器となったものであるといふ。それは「朕は國家なり」といふ言葉でも明らかな如く、國王は何ら制約を受けない最高絶対の権力者とされ、國民は國王に絶対服従するものとされ、國王と國民とは二極の対立概念として理解されてゐる。つまり「主権」の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として主張されたのである。

 

しかるにその後、フランス革命が起こり、専制君主の圧政から國民が自由を獲得するための旗印として唱へられたのが「國民主権論」であった。

 

以上のような「國民主権・主権在民論」は、祭祀國家であり、天皇を祭り主と仰ぎ、君民一體の國柄であるわが日本には全く適合しない思想であり、革命=國體破壊につながる思想である。

 

そもそも日本天皇が日本國の君主であらせられ、統治者であらせられるのは、天皇が絶対的な政治権力者であらせられといふことではない。それは、武家専横時代の歴史を見れば余りにも明らかである。日本國の政治権力者は藤原氏・平氏・源氏・北條氏・足利氏・徳川氏と転変を繰り返したが、大君・君主は神聖なる権威の保持者であらせられる上御一人・日本天皇であった。

 

日本國の君主=天皇は、権力のあるなしには全く関はりなく君主であらせられ天皇であらせられる。ゆへに國民主権論を我が國の憲法の基本原理にするのは絶対に誤りであり、國體を隠蔽し、國柄を破壊することとなる。

 

わが國の歴史には、天皇が主権=國家の最高権力を独占的に掌握し独裁専制政治を行ってゐたなどといふことは全くない。『大日本帝國憲法』にも、「天皇に主権がある」とは全く書かれてゐない。

 

わが國は天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體である。西洋國家論で言ふところの契約國家・権力國家ではない。我が國は君民一體の國柄である。西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」を奪ひ合ったといふ歴史は全くない。天皇の政治的権力によって國民が圧迫されたこともない。

 

故に、君主と國民が対立関係にある國家ではない。國王と人民が主権争奪戦を繰り広げた歴史を持つのは欧米諸國である。従って、「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などといふことを成文憲法に規定すること自體わが國の國柄とは相容れない。「國家の意思を最終的に決定する権力」といふ意味での「主権」なる概念と言葉は、「天皇中心の信仰共同體國家日本」には全く相容れない。

 

西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定することは、大きな誤りであり國體を隠蔽し國體破壊につながる。「國民主権論」が憲法に書かれてゐる事が、わが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある。

 

さらに言へば、「主権在民・國民主権論」は自由民主政治體制とは別個の概念である。ソ連邦も共産支那も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか、スターリンや毛沢東の個人専制恐怖政治が行はれた。「主権在民」「國民主権」を憲法に書き込めば「自由民主國家」になるなどといふことは金輪際あり得ない。「共和國」といふ名の付いた國家=「中華人民共和國」「朝鮮民主主義人民共和國」が全く「自由民主國家」ではないのと同様である。

 

神話時代からの悠久の歴史を有する日本の天皇中心の國柄を隠蔽し、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした國家観を「成文憲法」に規定した『現行占領憲法』には全く正統性がないのである。「國民主権論」を第一原理とする『現行占領憲法』は國體破壊の元凶である。かかる憲法を根幹にした「立憲主義」は國體破壊・伝統破壊に直結する。

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2018年3月26日 (月)

正統性のない『現行占領憲法』に基づく「立憲主義」には正統性がまったく無い

 

『現行占領憲法』には内容的にも制定過程においても全く正統性がない。

 

『占領憲法』は、十七世紀、十八世紀の欧米の市民革命の基礎理論であった「社會契約論」に立脚してゐる。

 

中川剛氏は次のやうに論じてゐる。「日本國憲法が、一七・一八世紀の欧米の市民革命の理論的基礎となった社會契約論に立脚して起草された。…アメリカの独立宣言や連邦憲法が、当時の革命思想であった社會契約論によって起草されたため、占領軍総司令部の憲法案起草者にとっても、社會契約の考え方が基本枠組みとして採用され…憲法の基本原理についてさえ、傳統にも文化にも手がかりを求めることができず外國の理論に典拠を探さなくてはならないという恐るべき知的状況が出現するに至った」(『憲法を読む』)

 

國の生成・成り立ちが欧米とは全く異なり、市民革命も経験してゐないわが日本國に、西洋國家思想たる「社會契約論」を基礎にした憲法が押し付けられたのである。この一点を以てしても『現行占領憲法』に正統性がないことは明白である。

 

日本の國家観と西洋國家観とは根本的に異なる。日本國は、「数多くの個としての人間」が寄り集まって契約を締結して人為的・人工的に作った権力機構・契約國家(これを「國家法人説」と言ひ換へてもいいと思ふ)とはその本質が全く異なる。「國家法人説」を日本國に当て嵌めることはできない。

 

「國家法人説」とは、國家を法的な主體としての法人と考へる理論である。そして「法人」とは「自然人以外で法律上の権利義務の主體となることができるもの。一定の目的の下に結合した人の集団あるいは財産についてその資格が認められてゐる集団」とされてゐる。

 

つまり、國家は人間が集まって文字通り人為的に作られたといふのが西洋の國家観である。國家とは、社団法人や財団法人のやうに多くの人々が一定の目的のために契約を結び人為的に造られたものだといふのが「契約國家論」「國家法人説」なのである。

 

天皇中心の信仰共同體たる日本は断じてそのやうな國家ではない。日本といふ國家は、國民の魂が結び合って生まれてきた生命體である。日本民族の農耕を中心とする傳統的生活の中から培はれた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命體が日本國である。そしてその〈むすび〉の中核が日本傳統信仰の祭祀主である天皇である。

 

「むすび」の語源は、「生()す」である。「草が生す」「苔が生す」といはれる通りである。つまり命が生まれることである。結婚も男と女の「結び」である。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」といふ。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。故に母から生まれた男の子を「むすこ」(生す子)と言ひ、女の子を「むすめ」(生す女)と言ふのである。

 

「庵を結ぶ」といふ言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集め、それらを結び合はせて作られた。日本の家庭も〈むすび〉によって成立してゐる。

 

日本に憲法を押し付けたアメリカ合衆國は、一七七六年七月四日に独立を宣言して「社會契約論」「國家法人説」を基礎して「人為的に造られた國」である。

「生まれる」と「造られる」とでは絶対的な違ひがある。「生む」は日本傳統信仰の「國生み」観念であり、「造る」はキリスト教の「天地創造」の観念である。伊耶那岐命・伊耶那美命は日本國土をお生みになったのであり、キリスト教の神(ゴッド)は人間を造ったのである。キリスト教の神はなぜか國家は造らなかった。

 

日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想・國家法人説や、人間不信を基盤とした國民主権論や西洋近代の成文法、そしてさうした思想が基礎になってゐる『現行占領憲法』の「國家観」とは、絶対的に相容れないのである。『現行占領憲法』に正統性がない最大の理由はここにある。

 

その上、『現行占領憲法』は戦勝國アメリカの占領下に、強制的に押し付けられた憲法である。従って、この『現行占領憲法』には内容的・思想的にも、制定過程においても全く正統性がないのである。

 

正統性のない『現行占領憲法』に基づく「立憲主義」もまた正統性が無いのである。従って、「立憲主義」を立党の基本精神とする立憲民主党にも全く正統性が無いのである。

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2018年3月21日 (水)

『現行占領憲法』の「平和主義」について

『現行占領憲法』の「前文」を残したままの「憲法改正」では真の「改正」にはならない。『占領憲法』の「前文」に書かれてゐる「人間相互の関係を支配する崇高な理想」などといふもの持ち合はせてゐる國は少ない。少なくとも南北朝鮮・支那・ロシアは持ち合はせてゐない。

 

また「前文」の「平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」などといふのは、現実をまったく無視した全くの空想・夢物語であるばかりでなく、きはめて危険な思想である。

 

わが國固有の領土南樺太・全千島を七十年近くも占拠したままのロシア、わが國固有の領土竹島を六十年以上にわたって占拠してゐる韓國、そしてチベット・東トルキスタン・満洲・蒙古などを侵略支配し、台湾を併呑せんとし、尖閣諸島・沖縄などのわが國固有の領土・領海を浸略せんとしてゐる共産支那、核開発を行ひミサイル発射を繰り返し、わが國民を拉致してゐる北朝鮮、これらの國のどこに「公正と信義」があるのか。

 

さらに『現行憲法』「前文」に「日本國民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し…平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。

 

これは「日本は東條内閣の行為によって侵略戦争を起こしましたが、二度とそのやうな事はしないことをお誓ひします。今後はアメリカ様、ソ連様、支那様など戦勝國の皆様の公正と信義に信頼して、侵略を行なった悪い國であるわが國とわが國民の生存と安全を保持してまいります。今後は何をされても決してお手向かひを致しません」といふ「詫び証文」である。

 

つまり、『現行占領憲法』は、「日本國および日本國民は戦勝國に手向かった悪者であり、戦勝國は公正の信義の國である」といふ認識を基本精神にしてゐるのである。

 

『現占領行憲法』の「平和主義」とは、有り体に言へば「日本は軍隊や武力を持たせると何をするか分からない」といふ戦勝國側の考へ方が根底にある。そして「わが國以外の國はすべて公正と信義を持ってゐるのだから、日本を侵略しようなどといふ國は何処にも存在しない」といふ虚構が作られた。その虚構の上にわが國の國防といふ基本國策が立てられてゐるのである。

 

『占領憲法』の「平和主義」「國際協調」とは、「我が國は侵略戦争をした悪い國であった。今後は武力・戦力・國軍を持たない。侵略阻止のための武力行使はしないし、國防戦争もしない」といふ自虐思想・敗北思想である。

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2018年3月20日 (火)

國防に関してはわが國は法治國家ではない

 

『現行占領憲法』の「前文」の精神に基づいて、「第九条 1・日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠実に希求し、國権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2・前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権は、これを認めない」を讀めば、『現行占領憲法』は自衛権・國防軍の存在を否定してゐると解釈するのが至当である。

 

憲法学の専門用語の解釈ではどうかは知らないが、ごく当たり前の國語の解釈を以てすれば、國家防衛即ち自衛戦争は最重要な「國権の発動」である。北朝鮮や共産支那などからの武力侵略は最も悪質なる「國際紛争」である。これを阻止するために「國権の発動たる戦争」「武力による威嚇又は武力の行使」を行ふのは國家として当然の権利だ。それを一切否定する『現行憲法』第九条第一項が亡國条文であることは明白だ。

 

従って、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。國の交戦権は、これを認めない」といふ第二項は、國家の存立を根底から否定する条文である。「前項の目的」とは「國際紛争を解決する手段」のことであり、それは「侵略戦争」を意味するから、自衛のための戦力は否定してゐないといふ解釈は「前文」の精神に立脚すれは全く成り立たない。

 

『現行憲法』は「戦勝國による日本占領基本文書」であり、二度と再びわが國が米英支ソといふ戦勝國に対して立ち向かふことのないようにすることを目的として押しつけられたのだから、「交戦権」も「戦力」も「陸海空軍」も持つことを許されなかったのである。

 

しかし、その後の國際関係に変化によりアメリカの意向で創設され、現実にわが國に存在する自衛隊は、立派な「陸海空軍」であり、武力の行使又は威嚇を行ふ実力組織であり、戦力も交戦権も保持してゐる。「戦力」「交戦権」を持たない「軍」はあり得ない。

 

そして、この自衛隊といふ名称の「陸海空軍」によって、わが國の安全と独立が守られてゐる。この事実は、自衛隊が違憲であるか否かに関はらず、厳然たる事実である。そしてそのことは、「國民大多数の合意になってゐる」と言はれる。『現行占領憲法』が如何に現実を無視してをり、空文となってゐるかは火を見るよりも明らかである。

 

吉田茂内閣総理大臣(当時)は、昭和二十一年六月に國會で「第九条第二項において、一切の軍備と國の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」と述べた。これが『現行占領憲法』の立法意志であり、まともな解釈である。

 

『現行占領憲法』第九条を素直に讀めば、「自衛のためであらうと戦争はしない」「一切の戦力・陸海空軍は持たない」といふ意味であることは明白だ。前述した通り「前文」の精神に立脚すれはそれは当然である。

 

第九条がある限り誰が見ても陸海空軍である自衛隊は「陸海空軍」と見做されないのである。「交戦権」を否定されてゐるのに事実上「陸海空軍」があるといふのは全くの矛盾である。

 

したがって、「現行憲法」がある限り、自衛隊は憲法上「國軍」として認知されず、何時までも誰かが言った「違憲合法」といふ絶対矛盾の存在であり続けなければならない。つまり國防に関してはわが國は法治國家ではないのである。こんな憲法は根底から否定されなければならない。

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2018年2月20日 (火)

日本國體と成文憲法

神話の時代に発生し悠久の歴史を有する日本国体=信仰共同体日本は真姿は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋近代の「成文法」を超越している。

 

西洋の国々の君主は人民を征服し武力と権力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主権が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来るのである。こういう日本に全くなじまない西洋概念で日本國體を規定すること自体國體隠蔽である。

 

近代日本に於ける「成文憲法」たる「大日本帝国憲法」の制定においてはこのことを考慮し、第一条から第三条において立国の基本、日本國體の基本・天皇中心の信仰共同体日本の本姿を明らかに示した。

 

日本天皇が日本国の君主・統治者・祭祀主であらせられるのは、日本の伝統信仰・歴史的な國體観念に基づくのであって、憲法に規定されているからではない。

 

「成文法」を超越した「天皇中心の日本國體」を「成文法」で規定する必要はなく、成文憲法には国の政治組織について規定するのみでよいという論議もある。言い換えれば「成文憲法」には國體については規定せず、政体のみについて規定すればよいという意見である。これも一理あると考える。

 

例えば、中川剛氏は「君主主権も不敬罪もヨーロッパ大陸の産物である。憲法を持つこと時代が、英米にはじまるものである。明治憲法はじつは極端なほど欧化政策の結果であった。明治憲法下の天皇制はむしろ伝統をねじ曲げるものだった。近代国家としての体裁を整えるための、たてまえとしての性格の強かった明治憲法であるから、憲法が制定されたからといってただちに、天皇が西欧の絶対君主なみの統治権を掌握したわけではなかった。天皇は制度とは別に、依然として国民的つながりの中心としての文化的存在でありつづけた。政治的天皇と文化的天皇の二重性をそこに認めることができる。」(『憲法を読む』)と論じている。

 

ただ、『大日本帝国憲法』はただ単に西洋立憲制度を模倣したというのではなく日本の伝統信仰の体現者として国家を統治される天皇の御本質を成文法によって名文化しようと努力したものと言える。

 

葦津珍彦氏は「帝国憲法制定の歴史について、これを伊藤博文とか、井上毅等の官僚政治家が、西欧(とくにドイツ、プロシャ、バイエルンなど)の憲法をまねて起案し制定したもののように解釈する学者が多い。しかしそれは非常に浅い皮相の見解であって、全く日本国民の政治思想史を無視したものといわねばならない。この近代憲法ができるまでの歴史条件としては、少なくとも弘化・嘉永ころからの激しい政治思想の展開を見なければならない。黒船が日本に対して開国をせまって来たころから、徳川幕府がそれまでの独裁専決の政治原則に自信を失って、外交政策については『会議』によって国是を固めようとすることになってきた。この会議政治の思想が生じてきたことは、そののちの政治思想に決定的な波紋を生じた。」(『近代民主主義の終末』)と論じておられる。

 

『大日本帝国憲法』の起草に当たった井上毅は「御国の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡持て天か下の民草をしろしめすという意義より成立したるものなり。かゝれば御国の国家成立の原理は、君民の約束にあらずして一の君徳なり。国家の始は君徳に基づくといふ一句は日本国家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「わが国の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」(『梧陰存稿』)と論じている。

 

君主と民とは相対立しており国家は君と民、あるいは民同士の契約によって成立するなどという西洋法思想・国家観=契約国家論は、日本の國體観念・天皇観とは全く異質なものであると井上毅は説いているのである。

 

ただ、井上毅はここで「君徳」と言っているが、日本天皇は人としての「徳」よりももっと深い「祭り主としての神聖権威」日本伝統信仰の言葉で言えば「御稜威」(みいつ)によって国家を統治したもうのである。御稜威とは天皇の有される信仰的権威と言うべきものである。

 

折口信夫氏は「御稜威」について、「みいつといふ語の語根いつといふ語は、稜威といふ字をあてる…いつのちわき・いつのをたけびなどといふ風につかってゐます…天子に傳り、これが内にある時は、その威力が完全に発現するところの権威の原動力なる魂の名でありました。」(『神々と民俗』)「天子には天皇霊といふべき偉大な霊魂が必要であって、これが這入ると、天子としての立派な徳を表されるものと考へられてゐました。その徳をみいつといふ語で表してゐます。…これは天皇靈の信仰上の名稱でした。」(『鳥の聲』)と論じておられる。

 

そしてその御稜威(天皇靈)は大嘗祭において新しき天皇のお体に入るとされる。

 

歴代天皇には「人」としての徳がいかにあられようと歴聖一如の「御稜威」によって国家を統治したまうのである。今上天皇におかせられても、大嘗祭を執行されて現御神となられ御稜威を保持されていることはいうまでもない。昭和天皇もしかりである。つまり昭和二十一年元旦の詔書において、天皇が神格を否定され『人間宣言』をされたなどということは、「みまつり」という厳粛なる事実によって否定されるのである。

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2017年11月14日 (火)

天皇國體と成文憲法

西洋成文憲法は「権力に対する制限規範」であるという。イングランド最悪の王と言われるジョン王と諸侯との間で結ばれた『マグナ・カルタ』(大憲章)が西洋成文憲法の起源であり、『国王も法の下にある』といふ原則=『法は王権に優越する』といふ法治主義を確立した、とされる。「権力は放っておくと濫用されるので、為政者の手を縛る必要がある。その為に成文憲法が必要とする」という考え方である。これが西洋成文憲法の根底にある思想である。

 

しかし、日本天皇の国家統治の本質は、権力・武力による国家・国民支配ではない。天皇の祭祀主としての神聖なる権威による統治(すべおさめる。しろしめす。きこしめす)である。むしろ、天皇の神聖なる権威が権力者・為政者の権力濫用を抑制するのである。それがわが国の建国以来の國體であり歴史である。また、天皇の「仰せごと・みことのりが」わが國における最高の法である。天皇が成文法の下にあるなどといふ事は絶対にあり得ない。また、わが國の最高の成文憲法は、「天壌無窮の御神勅」である。

 

日本国は信仰共同体であり国民が契約を結んで人工的に作った国ではない。そして祭祀主である天皇は国民と対立してこれを力によって支配する御存在ではない。これが日本肇国以来の国柄であり國體である。

 

西洋憲法思想では、前述したように、「憲法は権力に対する制限規範である」され、権力は放っておくと濫用されるので為政者の手を縛る必要から成文憲法が必要であるとされる。このような性格を持つ成文憲法によって、神話時代より悠久の歴史を有する祭祀国家・日本を規定すること自体不自然なことなのである。

 

つまり、日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋近代の成文法とは基本的に相容れないのである。また西洋の国家観である「国家法人説」とは相容れないのである。

 

わが日本は国家の本質と君主たる天皇の御本質が建国以来、信仰的に厳然と確立している。これを法律論的に言えば、不文法によって定まっているということである。故に成文憲法でそれを変革することはできないし、成文憲法は不文憲法(立国の基本)に反する規定をしてはならない。西洋から輸入した近代法思想に基づく国家観や成文憲法によって立国の基本即ち日本國體を隠蔽したり破壊してはならない。

 

換言すると、天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本國體は、成文憲法などの世俗的な法律を超越しており、成文憲法などの権力機関で制定された法律は、國體及び皇室にかかわることに干渉することはできないのである。

 

「現行占領憲法」は、その法思想・理念もアメリカの押し付けであるから、「マグナ・カルタ」を起源とする西洋成文憲法思想に貫かれている。日本天皇は、権力を濫用して国民を苦しめるジョン王などの西洋専制君主とは全くその本質を異にする。「現行憲法」は、わが國體とは相容れない。

 

また、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄は、世俗の法律問題・政治問題ではない。即ち決して『現行憲法』が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。政治権力や成文法によって、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」を規制し拘束し奉るようなことがあってはならない。

 

わが國においては、成文法が基となって國體が成立するのではない。國體が基となって成文法が成立するのである。

 

天皇は、権力や成文法を超越された神聖なるご存在である。従って、天皇陛下の「詔」は、臣下國民が従ひ奉るべき絶対の「法」である。今上陛下の昨年八月二十二日の「玉音」はまさに「詔」である。安倍晋三内閣総理大臣をはじめわが國の政府・政治家はこの事を正しく認識し、陛下の大御心にこたへ奉るべきである。

 

繰り返し言ふ。成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇國日本の道統を破壊したり否定した制約したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇國日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。

 

戦勝國によって押し付けられた『占領憲法』の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない。天皇の「詔」「大御心」が最高最尊の「法」である。「成文憲法」は「権力の制限規範である」と言はれる。であるならば、「國政に関する権能を有しない」とされる天皇が、『現行占領憲法』の制約を受けることはあり得ない。

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