2018年5月28日 (月)

憲法改正は『現行占領憲法』の正統性を認めることになる

「天皇の国家統治の大権」そして「日本国政府の國家統治の権限」が、連合國最高司令官の隷属の下に置かれていた異常状態下における「憲法改正」は、『大日本帝国憲法』及び国際法違反であった。従って、日本が独立を回復した時点で「『大日本帝国憲法』の改正」即ち「『占領憲法』押しつけ」の無効を宣言し、確認すべきであった。当時の政府及ぶーび国会が無効の確認及び宣言を行わなかったのは大きな過ちであった。

 

「無効」と「破棄」とは断然異なる。破棄論は「上諭」「御名御璽」を破棄することとなる。「『現行占領憲法』には正統性は決してない。改正手続きを踏んだ上で『大日本帝国憲法』に復するというのは『現行占領憲法』の正統性を認めることとなる。無効を確認し宣言し、『大日本帝国憲法』に回帰することが正道である。

 

明治維新によって『禁中並びに公家諸法度』という國體隠蔽の「不敬法度」が無効となったごとく、今日においても国家の根本的変革が行われ『大日本帝国憲法』復元が実現されるべきである。

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2018年5月27日 (日)

『現行占領憲法』無効確認、『大日本帝国憲法』復元が法理論的に全く正しい

今日、憲法改正論議が起きているが前途遼遠である。「現行憲法無効・大日本帝国憲法復元は不可能である」という意見がある。では『現行憲法』改正が可能なのであろうか。昭和二十一年十一月三日に公布され、昭和二十二年五月三日に施行されてから現在まで一言半句改正されていない。「百年河清を俟つ」という言葉があるが、『現行占領憲法は、七十一年河清を俟っても改正されない。

 

本来正統性のない『現行占領憲法』を改正するということは、『現行占領憲法』の正統性を認める事になる。つまり、憲法改正は、本来正統性が無く無効であるところの『現行憲法』が有効であることを承認することになり、日本の歴史伝統の継承、國體精神の継承について、大きな禍根を将来に残してしまう。『現行憲法』は絶対にしてはならないことだ。

 

『現行占領憲法』が戦勝国の押しつけられた敗戦直後は、天皇の統治大権は連合國最高司令官の隷属下にあった。昭和二十年八月十日『ポツダム宣言』を受諾するにあたってわが國政府がアメリカに対し「ポツダム宣言の条項は受諾するも、天皇の國家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に受諾す」との最後の申し入れを行ったのに対し、アメリカのバーンズ國務長官は「天皇および日本國政府の國家統治の権限は、降伏条項實施のため、必要と認むる措置をとる連合國最高司令官の制限の下に置かれるものとする」と回答してきた。

 

英語の原文は、「The authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander for the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate these terms of surrender.」である。

 

「制限の下に置かれる」といふのはあくまでも日本外務省の訳語であって、英語の原文は「subject to」であり、正しい訳語は「従属の下に置かれる」あるいは「隷属の下に置かれる」である。

 

三潴信吾氏は、「(バーンズ回答は)戰時國際法に基く彼等の權利を示したものである。この『従屬』の意義を明確にすべきであって、これ、政府が國民の憎悪感を和げんとして『制限』と譯し、『日本國憲法』は單に一部機能を制限された日本の主権の下に、少なくも日米合作で制定したものの如く擬装したことは言語道断である」(『日本憲法要論』)と論じている。

 

また、同年九月六日付の米國政府の『マッカーサー元帥あての指令』に「一、天皇および日本國政府の國家統治の権限は、連合國最高司令官としての貴官に従属する。…われわれと日本との関係は契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである。…二、日本國の管理は、日本國政府を通じて行われる。ただし、これは、そのやうな措置が満足すべき成果をおさめうる限度内においてとする。このことは、必要があれば直接に行動する機関の権利を妨げるものではない。」(桶谷秀昭氏著『昭和精神史』より引用)と書かれてゐる。

 

『大日本帝国憲法』第七十五条には、『憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス』とある。「摂政」が置かれるどころか、天皇陛下の統治の大権が外国の軍人・マッカーサーの隷属下に置かれていた状況下において行われた『憲法改正』は、違法であり、無効である。つまり、『現行占領憲法』は法的に全く正統性が無いのである。ゆえに、その無効が確認され、『大日本帝国憲法』が復元するというのが法理論的に全く正しいと考える。

 

衆参両院に於いて、『現行占領憲法』が無効である事実を確認し、速やかに『大日本帝国憲法』を回復・復元するべきである。それこそが「現行憲法改正」とは比較にならない正道であると信ずる。

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2018年5月25日 (金)

國民主権論は日本國體と相容れない

 

『現行占領憲法』の三原理の一つであり第一条にも明記されてゐる「國民主権主義」は、「君主主権主義」に対する「抗議概念」である。そして、「政治的主権の保持者は國民であって君主ではないことを主張する」とされてゐる。これは、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。

 

『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものと考へる西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となっている。

 

日本國は信仰共同體・祭祀共同體であり、天皇はその祭祀主である。従って、天皇は國民と対立し、國民を力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係ではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。信仰的・精神的一體関係にある。これを「君民一體の國體」と言ふ。これが日本肇國以来の國體であり歴史である。

 

従って「國家の意思を最終的に決定する権力」という意味での「主権」なる概念と言葉は「天皇中心の信仰共同體國家日本」とは全く相容れない。

 

天皇の祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同体として悠久の時間的連続・歴史と傳統を有してきたことが日本國の特質であり尊厳性である。これを「萬邦無比の日本國體」と言う。

 

故に、「國家の意思を最終的に決定する権力」即ち「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などということを「成文憲法」に規定することは、わが國の國體・歴史傳統と相容れない。西洋法思想・國家思想である「國民主權論」を日本國の憲法に規定することは國體を隠蔽し國體破壊につながる。

 

三島由紀夫氏は、「(現行憲法の第一条と二条の矛盾は仼)第一条に於て、天皇といふ、超個人的・傳統的・歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保證者たる機能を、『國民主權』といふ、個人的・非傳統的・非歴史的・空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである。これは、『一君万民』といふごとき古い傳承觀念を破壊して、むりやりに、西欧的民主主義理念と天皇制を接着させ、移入の、はるか後世の制度によって、昔からの制度を正當化しようとした、方法論的誤謬から生まれたものである。それは、…キリスト教に基づいた西洋の自然法理念を以て、日本の傳来の自然法を裁いたものであり、……われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する權利を有する」(『問題提起(日本國憲法)』)と論じておられる。

 

 小生は、現行憲法の最大の欠陥は憲法三原理にあると考える。憲法三原理が、國體破壊もしくは隠蔽の元凶になっており、「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行われている。戦後日本そして今日の日本の混迷の原因は、この三原理にあるといっても過言ではない。

 

 特に、わが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口となる危険がある「國民主權論」が、一般國民の常識となって浸透していることは実に以て國家存立の基礎を揺るがす凶事である。西洋思想に基づく「國民主權論」を憲法の原理としたままでは、真の憲法改正・自主憲法制定にならない。

 

 「現行占領憲法」は、西洋法思想に基づき、前文で「主權が國民にあることを宣言し」、第一条で「(天皇の・注)地位は、主權の存する日本國民の総意に基づく」と規定している。これを根拠にして日本は君主國家ではないとする意見が出て来る。こういう議論が起こるところに「現行憲法」の重大欠陥がある。

 

 今日一般的になっている「國民主權」の定義は次のようなものである。「憲法上最も重要な意味は、國家の意思を最終的に決定する權力ことである」「日本國憲法も、明治憲法における天皇主權を廃止して、この普遍の原理を採用した」(伊藤正己著『注釈憲法』)。「日本國の國家意思を最終的に決定する權限を持つ者は日本國を構成している日本國民でなければならないという基本原則を意味する」(『現代憲法學の論点』)。

 

 つまり、「主權とは國政を決定する權利であり、主權が國民にあるか君主にあるかによって、國民主權、または君主主權と呼ばれる」というのが今日の憲法學の定説になっている。

 

 西洋法思想とりわけローマ法においては、權力支配組織たる國家には「主權、人民、國土」の三要素があり、「主權」の憲法上最も重要な意味は、最高絶対排他的な支配權力・國家の意思を最終的に決定する權力とされる。かかる「主權」論から、「主權は國民にある」とか「君主にある」とかという対立的な考え方が発生するのである。

 

 長谷川三千子氏は、十八世紀にできた近代成文憲法における國民主權というのは宗教戦争が繰り広げられたヨーロッパで生まれた闘争的概念であるとされ、次のように論じておられる。

 

 「フランス革命を起こした人間たちは、自分たちの革命をどう正當化したのかーそのときに採用されたのが、國民主權という考え方なんですね。……自分たち國民が國の中枢に座って、自分たちが考えたことは何でも通る、そういう力を我々は持っているんだ、ということを宣言してしまった。これがフランス革命を通じて出来上がってきた國民主權という考え方なんです。…血なまぐさい、國民と國王とが首をはね合うような戦争の歴史の記憶が、憲法の上に投影されてしまいますと、國民主權という言葉は、ものすごく闘争的な概念となってしまう。……日本國憲法第一条にある『主權の存する國民』という言葉を、近代成文憲法の傳統に従った読み方で読みますと、國民主權なんだからどうしてこの國民は、すぐに天皇の首をちょん切らないんだ、という話になってしまうんです。つまり、本當に我が國の、國の體(てい)に基づいて憲法を考えるとしたら、この主權という言葉から徹底的に洗い直していかなければいけない」(『主權をどう考えるか』)。

 

 西洋の國々の君主は、人民を征服し武力と權力によってこれを支配服従せしめていた存在であった。そして君主と人民は相対立存在であった。だから、主權が君主にあるとか人民にあるとかという君主と人民の対立概念が出て来たのである。 

 

 わが國は三千年前に建國された天皇を中心とする信仰共同體國家・祭祀國家である。欧米のような契約國家でもなければ權力國家でもない。ゆえに、君主と國民が対立関係にある國家ではない。

 

つまり、「現行憲法」は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものであると考える西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となっているのである。

 

 天皇の國家統治を、西洋の絶対君主の暴力的支配と同一視し、國家は個人に対する暴力的抑圧装置であるとし、天皇及び國家は「人民」と相対立する存在であるという考え方に立って制定されたのが現行憲法である。そして、「民主化」「個人の幸福」のためには、天皇の「地位」を低め「權能」を弱めることが必要であるという意識のもとに、欧米の政治思想であり、対立闘争の概念である「國民主權論」が採用されているのである。

 

 天皇中心の信仰共同體國家・祭祀國家たる日本には全くなじまない「主權」が「君主にあるのか、國民にあるのか」という対立概念に基づく「國民主權」を、成文憲法に書くことは、わが國の國柄とは相容れない。西洋概念で日本國體を規定することはあってはならない。西洋法思想・國家論である「國民主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定することは國體破壊につながる。 

 

 神話時代からの悠久の歴史を有する日本の天皇中心の國柄を、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした西洋の憲法概念に基づいて成文憲法に規定することは重大な誤りである。「主權」が、「天皇」にあるか「國民」にあるかを、論議すること自體、日本の傳統的な考え方・國體觀とはなじまない。この一点を以てしても、現行占領憲法はまさしく日本の傳統を破壊する憲法である。 

 

 わが國は、信仰的・祭祀的統一によって形成された國家である。そしてその祭祀主が天皇であらせられるのである。祭祀國家として約三千年の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本國の本質であり、日本國體の尊厳性なのである。日本國は、國家の意思を最終的に決定する權力としての主權を持つ國民の意思によって形成された國家、すなわち契約國家・集合國家・權力國家・統治システムとしての國家ではない。 

 

 日本國家の生成は記紀神話に傳えられている。記紀によると、國家成立の三要素たる國土・君主・國民は、伊耶那岐命・伊耶那美命二神から生まれ出た存在であり、命の源を一つにする「はらから」である。天皇と國民の関係は、支配・被支配の関係ではないのである。祭祀主たる天皇は、國民を支配し隷従させたのではなく、信仰的權威(これを御稜威という)によって統率し統一したのである。

 

 「現行占領憲法」は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、國體破壊の元凶なのである。一日も早くこのような亡國憲法は無効としなければならない。

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2018年5月24日 (木)

天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である

 

「國王と雖も法の下にあるといふのが『法の支配』の原点である」といふ考へ方がある。これは、イギリスの法思想であると言ふ。

 

わが國は権力國家ではなく祭祀國家であり、天皇は権力者ではなく祭り主である。わが國の國體は祭政一致である。天皇は「法の上にをられる」とか「下にをられる」とかではなく、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」(のり)なのである。

 

日本天皇が、神を祭る時にうかがった神の意志を民に告げることを『ノル(告る・宣る)』と申し上げる。これがわが國の「法」(ノリ)の起源である。現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。

 

わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を民に傳へる『のりごと』である。「法(のり)」は「宣(のり)」である。「法(のり)」は「宣」「憲」「則」「矩」「規」「法」である。わが國における「法(のり)」の原義は、「天皇が宣せられた御命令」である。天皇は、権力や成文法を超越された神聖なるご存在である。今上陛下の一昨年八月二十二日の「玉音」はまさに「詔」である。

 

「詔書」は、やまと言葉で「みことのり」と申し上げる。「のり」の「のる」の名詞形であり、「天皇の御命令」をおごそかに宣言されるといふ意である。『承詔必謹』が日本国民の道義精神の根幹である。「天皇の大御心・みことのりを謹んで承る」が、天皇国日本の臣下国民のあるべき姿であり、道義精神の基本である。

 

「まつり」とは、自己を無にして神に仕へるといふ意である。臣下・國民は、現御神であり祭祀主であらせられる上御一人の「みことのり」を承った時には、自己を無にして必ず謹んで承らなければならない。

 

天皇國日本の存立および日本國民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と國民の「尊皇精神」である。神聖君主・日本天皇の大御心に臣下國民が「清らけき心」「明けき心」で随順し奉ることが、日本國永遠の隆昌の基礎であり、日本國民の倫理精神の基礎である。

 

まごごろをつくし、清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が、わが國の尊皇精神である。わが國の道義精神の中核は、日本國の祭祀主であられ、最高の神聖なる御存在であられる天皇に對し奉り清らけく明らけく仕へまつる心=清明心である。

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2018年4月18日 (水)

国民主権論は日本伝統と無縁

 「現行占領憲法」が第一章に「国民主権」の条項を置くことは、天皇国日本というわが国建国以来の道統を否定することである。

 

 日本の伝統的な考え方は、「天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体である」ということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が伝統破壊である。

 

 

 「現行占領憲法」制定時に、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

 

 「国民主権」の規定を審議した帝国議会では、政府は、「主権」とは「国家意思の実質的源泉」であり、「国民」とは「天皇を含む国民協同体」を指すとしていた。そして芦田均衆議院憲法改正案特別委員長は、欧米の「君主主権」と「主権在民」を対立的に捉えた主権二元論は、わが国においては採り得ないことを特に強調している。

 

 ところが宮沢俊義氏をはじめとした多くの憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張した。今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されているという。

 

彼らによれば、皇位の改廃は人民の意思によって可能なのであり、今上天皇の御即位に際してはその是非を国民投票に問うべしとする歴史学者まで現れた。わが国は君主国にあらずとか、元首は天皇にあらずとする珍説が学界に横行しているのが現状である。

 

 このような混乱の原因は、もともと多岐にわたる主権概念を憲法規定に持ち込んだことにある。「主権」の属性としての最高性、無制限性が言われる時、それは容易に伝統を無視した独裁専制に転化し得る。

 

 主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。ソ連邦も共産支那も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか、共産党最高指導者の個人専制恐怖政治が行われてきている。

 

 主権という言葉ほど多種多様に用いられているものはないが、君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。

 

 日本では古来主権という言葉はなく、国家における政治作用の根本を言い表す言葉は「知らす」ないし「治らす」であり、言葉自体から見ても、権力的な臭みはなかった。帝国憲法ではこれを「統治権」という言葉で表現した。

 

 主権の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として、君主主義の形で主張された。それは封建諸侯やカトリック教会の勢力を制圧して、統一国家を形成するためには有効なる手段であった。君権至上主義や王権神受説も、これがために唱えられ、これがために利用されたのである。しかるにその後、専制君主の圧政から国民が自由を獲得するためには、別の旗印が必要になった。フランス革命の思想的根拠をなした国民主権説は、すなわちこれであった。

 

 国民主権説は、西洋の社会契約説、国家契約説と結合して発達したのであるが、広く世界に及ぼしたのである。君主主権といい国民主権といい、いずれも一つの政治目的に利用されて発達したものであるから、主権を権力中心の概念として見たのも当然と言えよう。そしてその根底には「力は法の上にあり、法は強者の権利である」という思想が流れていたのである。

 

いずれにしても国民主権・君主主権という言葉も意味内容も、西洋の国家観念・法思想から生まれてきたのであるから、日本の伝統の天皇の国家統治の実相、日本国体とは全く異なる概念であり法律用語である。

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2018年4月16日 (月)

『現行占領憲法』の思想的欠陥

 

 『現行占領憲法』の三原理の一つである「基本的人権の尊重」の精神的支柱は「個の確立」「主体性の確立」であるが、「個」や「自我」というものを如何にとらえるかが大事である。正しき人間観・國家観の確立なくして、正しき「個の確立」も「主体性の確立」もあり得ない。道義精神なき「個の確立」は欲望民主主義に陥り、正しき國家観なき「個の確立」は利己主義となる。それが今日の日本の姿である。

 

 國民一人一人の福祉・自由・生活のゆとり・文化的生活そして平和を求めることは大事である。しかし、その前提になるのは、日本國という共同体であり、日本國民の自覚という同胞意識である。しかし、戦後日本は「愛國心」とか「國家への忠誠」ということを「悪」として軽視されてきた。むしろ「國のため」という意識は「軍国主義である」として否定された。

 

 戦後世代すなわち戦後教育を受けた世代が、わが國の政界・官界・財界などの指導層になった頃から、國家意識の喪失が深刻化して来たと思う。戦前の教育を受けて来た官僚・政治家・財界人が健在であった時期の日本は、戦後復興に努力し、経済大國として蘇生して来た。戦後復興を為し遂げたのは戦前の教育を受けた世代の人々である。ところが、そうした世代が第一線を退いて行くと共に、日本はおかしくなって来た。

 

 國家意識の喪失とは、「國家」とは何かという基本問題に対する理解がおかしいために起こって来た問題である。大東亜戦争の敗北によって、「國家悪」というものが強調され、國家は國民を抑圧し、國民を搾取する権力機構であり、國民あるいは人民・市民に相対立する存在であるという、考え方が支配的になった。そして、「國を愛する」とか「國家に忠誠を尽くす」ということは犯罪的行為であると言う考え方に國民の多くが汚染されてしまったのである。

 

 戦後日本は戦勝國によって西洋の國家観を押し付けられた。西洋の國家観は、契約思想に基づいている。西洋は、神と人間とが契約を結ぶキリスト教という宗教がその基盤にある。アメリカから押し付けられた『現行占領憲法』はまさにアメリカの国家観に基づいている。

 

國家もそれを構成する人々の合意と契約によって成り立っていると考えられている西洋近代國家論の歴史的淵源はキリスト教の聖書である。『旧訳聖書』とは神と人との古い契約のことであり、『新約聖書』とは新しい契約のことである。近代思想家のロックにしろ、ルソーにしろ、社會契約説を唱える場合、必ず聖書の契約を持ち出している。

 

しかし、國家社會が人間と人間との契約によって成り立つという考え方は、全く架空の観念でありフィクションである。原始社會において人間が社會や國家を作ろうと合意して契約を結ぶなどという馬鹿げたことはあり得ない。家庭・社會・共同体で育てられない人間は狼少年になる以外にない。

 

ところが、この「社會契約説」はアメリカ合衆國という國を作り出すためには大きな役割を果たした。アメリカという國は建國以前は、全く法律のない「新天新地」であり、言ってみれば無法地帯であった。そこには天から天降った君主もいなければ、総督もいなかった。だから、植民者が自らが自らを治める以外になかった。こうしたことが契約國家論がアメリカにおいて受け容れられた原因である。

 

 メイフラワー号(一六二0年にイギリスからアメリカに上陸した清教徒の船。清教徒とは、十六世紀後半、イギリス國教會に反抗して起こった新教徒の一派。清浄に生活することを主張した。ピューリタン)で結ばれた『メイフラワー憲章』には、「主権在民」「信託による統治」「法の下における平等」が謳われていた。『現行占領憲法』の原理の淵源がここにある。

 

 今日のアメリカは「自由民主主義國家」の見本のように言われているが、かつては、メイフラワー号で渡米して来た清教徒たちの子孫が特権階級となっていた。メイフラワー号の子孫にしても、最初から船に乗っていた純粋な清教徒は四十一名とその家族だけで、途中から乗船した残りの人たちはいわゆる「ならず者」「刑余者」であった。清教徒たちはセインツ(聖者)として尊敬され、残りの者たちはデヴィル(悪魔)として差別された。

 

 そして、アメリカで一六四一年に制定された『マサチューセッツ法』では、「第一条 異神(キリスト教以外の神)を信じたものは死刑。第二条 魔女も死刑。第三条 神も死刑」と規定されていた。また「インディアンと一緒に住んだ者は三年の懲役」という規定もあったという。さらに、マサチューセッツでは、知事をはじめとした役人は必ず何処かの教會に属するクリスチャンでなければならなかった。

 

 これは一神教の排他独善性、残虐性が如実に現れた法律である。アメリカがキリスト教國家であるイタリアやドイツには原爆は落とさなかったが、非キリスト教國家であるわが國には原爆を二発も落とし、東京に大規模な焼夷弾攻撃を行い、大虐殺を敢行したのも、一神教の排他独善性、残虐性及び有色人種への差別意識にその原因があると思われる。また先住民の駆逐、奴隷制度などの有色人種に対する迫害、虐待も行われた。

 

 「現行占領憲法」の骨格となっている思想である「自由と民主主義」、そして「契約國家論」の淵源である「アメリカ建國の精神」及びキリスト教というものは、このような恐ろしき性格を有していたことを我々は正しく知っておくべきである。    

      

 

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2018年4月15日 (日)

國體と憲法

「成文憲法」は「権力の制限規範である」と言はれる。であるならば、「國政に関する権能を有しない」とされる天皇が、「成文憲法」の制約を受けることはあり得ない。

 

『現行占領憲法』第四条に「天皇は、この憲法の定める國事に関する行為のみを行ひ、國政に関する権能を有しない」と書かれてゐる。『現行憲法』上、天皇は権力者ではあらせられない。故に、天皇は「権力の制限規範」である「成文憲法」の制約を受けられない。天皇は、「成文憲法」を超越した御存在である。

「成文憲法」及び「成文法」そしてそれに基づく政治権力機関は、権力者ではあらせられない天皇を制約する権能・権限は全くない。

 

「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄は、世俗の法律問題・政治権力問題ではない。即ち決して『現行占領憲法』が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。政治権力や「成文法」によって、「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」を規制し拘束し奉ることがあってはならない。

 

「成文法」が基となって國體が成立するのではない。國體が基となって「成文法」が成立するのである。

 

「皇位継承」とは、「天津日嗣の高御座」の繼承である。普通一般の國家の國家元首・権力者交代とは全く次元を異にする。即ち政治権力問題とは全く性格を異にする。故に「皇位継承」について「成文法」及び権力機関が干渉し制約することはできない。

 

「皇位継承について天皇のご意志を伺はなくていい」といふ議論は全く間違ってゐる。日本國體・日本の傳統の根幹に関はることなのであるから、日本の傳統の継承者であらせられる天皇の御意志に添ひ奉るべきである。

 

「皇位継承」「御譲位」をはじめ「天皇・皇室」に関はる一切の事柄は、憲法・政府・國会の制約や規制を受けることはあり得ないしあってはならない。また、憲法・政府・國会は天皇・皇室とそして日本國體に関することに介入し規制してはならない。

 

天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である

「國王と雖も法の下にあるといふのが『法の支配』の原点である」といふ考へ方がある。これは、イギリスの法思想であると言ふ。

 

わが國は権力國家ではなく祭祀國家であり、天皇は権力者ではなく祭り主である。わが國の國體は祭政一致である。天皇は法の上にをられるとか下にをられるとかではなく、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」(のり)なのである。

 

日本天皇が、神を祭る時にうかがった神の意志を民に告げることを『ノル(告る・宣る)』と申し上げる。これがわが國の「法」(ノリ)の原点である。現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。

わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を民に傳へる『のりごと』である。「法(のり)」は「宣(のり)」である。天皇は、権力や成文法を超越された神聖なるご存在である。今上陛下の一昨年八月二十二日の「玉音」はまさに「詔」である。

 

『現行占領憲法』第一条に「天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本國民の総意に基く」とある。この条文は、天皇の歴史的連続性・伝統性を否定し、天皇の尊厳性を隠蔽してゐる。大変畏れ多い表現であるが、天皇・皇室が政治権力者・官僚の「操り人形」になる危険がある。否、現実にさうなりつつある。

さらに『現行占領憲法』には「國會は國権の最高機関」と書かれてゐる。「主権に存する日本國民」から選出され「國権の最高機関」を構成する衆参両院議員は最高権力者であり、天皇は、衆参両院議員よりも「下の地位」にあるといふ解釈が成り立つ。横田耕一はさういふ解釈である。

かかる解釈によって、衆参両院において信任された内閣は、天皇よりも「上」の存在だといふ思想が、意識するにせよしないにせよ、衆参両院議員に植ゑつけられる。國會議員に「主権の存する國民に選ばれ國権の最高機関の一員たる衆参両院議員は最高権力者だ。天皇は象徴にすぎない」などといふ意識が生まれる。これが、権力者・國民が皇室尊崇の念を喪失する原因である。そして、権力者は「かしこみの心」を無くし権力の乱用・腐敗が起こる。

 

「國民の総意」の「國民」について、現在の生きてゐる日本國民ではなく、過去現在未来にわたる『日本國民』であるといふ説がある。『現行占領憲法』を出来得る限り『日本國體』に合致させようといふ解釈である。しかし、現実には、衆参両院議員の過半数に意思によって『皇室典範』が改定されてしまふ。それどころではない。衆参両院議員の三分の二の意思によって、「天皇を君主と仰ぐ日本國體」すら廃絶される危険すらある。そんなことはあり得ないという意見もあるだらうが、可能性は皆無ではない。

 

占領軍・戦勝國が今日の事態を想定してゐたかどうかは別として、日本弱体化しようとした占領政策に則った『現行占領憲法』によって、國體破壊が実現し、革命は行はれたと極言することもできる。「國民主権論」「天皇の御地位は國民の総意に基づく」といふ國體破壊思想が憲法に書かれてゐる事が、わが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある。まさに「諸悪の因は現行憲法」なのである。

 

ともかく『現行占領憲法』の「天皇条項」は日本伝統的國體精神を隠蔽してゐる。『現行占領憲法』をわが國から祓ひ清めねばならない。そして、天孫降臨・神武肇國以来の國體精神の道統を回復する事が最も大切である。

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2018年4月14日 (土)

國民主権論は日本國體と相容れない

 

『現行占領憲法』の三原理の一つであり第一条にも明記されてゐる「國民主権主義」は、「君主主権主義」に対する「抗議概念」であるとされる。そして、「政治的主権の保持者は國民であって君主ではないことを主張する」とされてゐる。これは、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。

 

『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものと考へる西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となってゐる。

 

日本國は信仰共同體・祭祀共同體であり、天皇はその祭祀主である。従って、天皇は國民と対立し、國民を力によって支配する御存在ではない。天皇と國民と國土の関係は、対立関係・支配被支配の関係ではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。信仰的・精神的一體関係にある。これを「君民一體の國體」と言ふ。これが日本肇國以来の國柄であり國體であり歴史である。

 

従って「國家の意思を最終的に決定する権力」といふ意味での「主権」なる概念と言葉は「天皇中心の信仰共同體國家日本」には全く相容れない。

 

天皇の祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共闘体として悠久の時間的連続・歴史を有してきたことが最も大切な日本國の特質であり尊厳性である。これを「萬邦無比の日本國體」と言ふ。

 

故に、「國家の意思を最終的に決定する権力」即ち「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などといふことを「成文憲法」に規定することはわが國の國體・歴史と相容れない。西洋法思想・國家思想である「國民主權論」を日本國の憲法に規定することは國體を隠蔽し國體破壊につながる。

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2018年3月27日 (火)

『現行占領憲法』の「主権在民論」は日本國體を隠蔽し破壊する元凶

 

「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三つが『現行占領憲法』の「三原理」とされてゐる。しかし、『現行憲法』の「主権在民論」「國民主権主義」は、日本の國體とは絶対に相容れない思想である。

 

「國民主権主義」は「君主主権主義」に対する「抗議概念」であるとされ、政治的主権の保持者は國民であって君主ではないことを主張するとされてゐる。これは、君主と國民が絶対的に対立し、権力を奪ひ合った歴史を持つ欧米で生まれた思想である。つまり、『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり、國家とは國民同士が契約して成立するものと考へる西洋的法思想・國家觀・君主觀・權力論が基礎となってゐるのである。

 

「君主主権」とか「國民主権」とか言ふ場合の「主権」は、西洋法思想の影響下にある國法學では一般に、「國家における最高の政治権力」と解せられてゐる。

國家の意思を最終的に決定する權力としての「主權」が「君主にあるのか、國民にあるのか」といふ対立概念は、天皇中心の信仰共同體國家・祭祀國家たる日本には全く相容れない。

 

西洋の國法學説でいふ「主権」とは、近代中央集権國家がフランスに初めて成立する過程において、國王の権力の伸長を國内外に主張し、絶対王制を正当化するための理論的武器となったものであるといふ。それは「朕は國家なり」といふ言葉でも明らかな如く、國王は何ら制約を受けない最高絶対の権力者とされ、國民は國王に絶対服従するものとされ、國王と國民とは二極の対立概念として理解されてゐる。つまり「主権」の観念は、近世の初期以来、西洋わけてもフランスにおいて、君主の権力を擁護する手段として主張されたのである。

 

しかるにその後、フランス革命が起こり、専制君主の圧政から國民が自由を獲得するための旗印として唱へられたのが「國民主権論」であった。

 

以上のような「國民主権・主権在民論」は、祭祀國家であり、天皇を祭り主と仰ぎ、君民一體の國柄であるわが日本には全く適合しない思想であり、革命=國體破壊につながる思想である。

 

そもそも日本天皇が日本國の君主であらせられ、統治者であらせられるのは、天皇が絶対的な政治権力者であらせられといふことではない。それは、武家専横時代の歴史を見れば余りにも明らかである。日本國の政治権力者は藤原氏・平氏・源氏・北條氏・足利氏・徳川氏と転変を繰り返したが、大君・君主は神聖なる権威の保持者であらせられる上御一人・日本天皇であった。

 

日本國の君主=天皇は、権力のあるなしには全く関はりなく君主であらせられ天皇であらせられる。ゆへに國民主権論を我が國の憲法の基本原理にするのは絶対に誤りであり、國體を隠蔽し、國柄を破壊することとなる。

 

わが國の歴史には、天皇が主権=國家の最高権力を独占的に掌握し独裁専制政治を行ってゐたなどといふことは全くない。『大日本帝國憲法』にも、「天皇に主権がある」とは全く書かれてゐない。

 

わが國は天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體である。西洋國家論で言ふところの契約國家・権力國家ではない。我が國は君民一體の國柄である。西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」を奪ひ合ったといふ歴史は全くない。天皇の政治的権力によって國民が圧迫されたこともない。

 

故に、君主と國民が対立関係にある國家ではない。國王と人民が主権争奪戦を繰り広げた歴史を持つのは欧米諸國である。従って、「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などといふことを成文憲法に規定すること自體わが國の國柄とは相容れない。「國家の意思を最終的に決定する権力」といふ意味での「主権」なる概念と言葉は、「天皇中心の信仰共同體國家日本」には全く相容れない。

 

西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定することは、大きな誤りであり國體を隠蔽し國體破壊につながる。「國民主権論」が憲法に書かれてゐる事が、わが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある。

 

さらに言へば、「主権在民・國民主権論」は自由民主政治體制とは別個の概念である。ソ連邦も共産支那も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか、スターリンや毛沢東の個人専制恐怖政治が行はれた。「主権在民」「國民主権」を憲法に書き込めば「自由民主國家」になるなどといふことは金輪際あり得ない。「共和國」といふ名の付いた國家=「中華人民共和國」「朝鮮民主主義人民共和國」が全く「自由民主國家」ではないのと同様である。

 

神話時代からの悠久の歴史を有する日本の天皇中心の國柄を隠蔽し、西洋の契約思想や人間不信を基盤とした國家観を「成文憲法」に規定した『現行占領憲法』には全く正統性がないのである。「國民主権論」を第一原理とする『現行占領憲法』は國體破壊の元凶である。かかる憲法を根幹にした「立憲主義」は國體破壊・伝統破壊に直結する。

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2018年3月26日 (月)

正統性のない『現行占領憲法』に基づく「立憲主義」には正統性がまったく無い

 

『現行占領憲法』には内容的にも制定過程においても全く正統性がない。

 

『占領憲法』は、十七世紀、十八世紀の欧米の市民革命の基礎理論であった「社會契約論」に立脚してゐる。

 

中川剛氏は次のやうに論じてゐる。「日本國憲法が、一七・一八世紀の欧米の市民革命の理論的基礎となった社會契約論に立脚して起草された。…アメリカの独立宣言や連邦憲法が、当時の革命思想であった社會契約論によって起草されたため、占領軍総司令部の憲法案起草者にとっても、社會契約の考え方が基本枠組みとして採用され…憲法の基本原理についてさえ、傳統にも文化にも手がかりを求めることができず外國の理論に典拠を探さなくてはならないという恐るべき知的状況が出現するに至った」(『憲法を読む』)

 

國の生成・成り立ちが欧米とは全く異なり、市民革命も経験してゐないわが日本國に、西洋國家思想たる「社會契約論」を基礎にした憲法が押し付けられたのである。この一点を以てしても『現行占領憲法』に正統性がないことは明白である。

 

日本の國家観と西洋國家観とは根本的に異なる。日本國は、「数多くの個としての人間」が寄り集まって契約を締結して人為的・人工的に作った権力機構・契約國家(これを「國家法人説」と言ひ換へてもいいと思ふ)とはその本質が全く異なる。「國家法人説」を日本國に当て嵌めることはできない。

 

「國家法人説」とは、國家を法的な主體としての法人と考へる理論である。そして「法人」とは「自然人以外で法律上の権利義務の主體となることができるもの。一定の目的の下に結合した人の集団あるいは財産についてその資格が認められてゐる集団」とされてゐる。

 

つまり、國家は人間が集まって文字通り人為的に作られたといふのが西洋の國家観である。國家とは、社団法人や財団法人のやうに多くの人々が一定の目的のために契約を結び人為的に造られたものだといふのが「契約國家論」「國家法人説」なのである。

 

天皇中心の信仰共同體たる日本は断じてそのやうな國家ではない。日本といふ國家は、國民の魂が結び合って生まれてきた生命體である。日本民族の農耕を中心とする傳統的生活の中から培はれた信仰(自然信仰と祖霊崇拝・自然と祖霊を神として拝む心)が根幹となって生まれてきた生命體が日本國である。そしてその〈むすび〉の中核が日本傳統信仰の祭祀主である天皇である。

 

「むすび」の語源は、「生()す」である。「草が生す」「苔が生す」といはれる通りである。つまり命が生まれることである。結婚も男と女の「結び」である。故にそのきっかけを作った人を「結びの神」といふ。そして男女の〈むすび〉によって新たなる生命が生まれる。故に母から生まれた男の子を「むすこ」(生す子)と言ひ、女の子を「むすめ」(生す女)と言ふのである。

 

「庵を結ぶ」といふ言葉があるが、日本家屋は様々な材木や草木を寄せ集め、それらを結び合はせて作られた。日本の家庭も〈むすび〉によって成立してゐる。

 

日本に憲法を押し付けたアメリカ合衆國は、一七七六年七月四日に独立を宣言して「社會契約論」「國家法人説」を基礎して「人為的に造られた國」である。

「生まれる」と「造られる」とでは絶対的な違ひがある。「生む」は日本傳統信仰の「國生み」観念であり、「造る」はキリスト教の「天地創造」の観念である。伊耶那岐命・伊耶那美命は日本國土をお生みになったのであり、キリスト教の神(ゴッド)は人間を造ったのである。キリスト教の神はなぜか國家は造らなかった。

 

日本の歴史と傳統そして日本國體は、西洋の契約思想・國家法人説や、人間不信を基盤とした國民主権論や西洋近代の成文法、そしてさうした思想が基礎になってゐる『現行占領憲法』の「國家観」とは、絶対的に相容れないのである。『現行占領憲法』に正統性がない最大の理由はここにある。

 

その上、『現行占領憲法』は戦勝國アメリカの占領下に、強制的に押し付けられた憲法である。従って、この『現行占領憲法』には内容的・思想的にも、制定過程においても全く正統性がないのである。

 

正統性のない『現行占領憲法』に基づく「立憲主義」もまた正統性が無いのである。従って、「立憲主義」を立党の基本精神とする立憲民主党にも全く正統性が無いのである。

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