2017年2月 1日 (水)

伊勢の皇大神宮は、日本伝統精神の結晶である

。伊勢の神宮では、二十年に一度、御正殿以下御垣内の諸社殿、すべてを新しく造り変へ、御正殿内の御装束神宝の一切を新しく調進して、新しい御正殿の御神座へ大御神にお遷り願ふ「式年遷宮」が行はれる。

 

これは、二十年に一度の「大神嘗祭」で、皇祖天照大御神の神威の新たな甦りを仰ぐ祭事である。この重大なる祭事は、天皇陛下の勅旨によって執行されると承る。平成二十五年には、第六十二回神宮式年遷宮が執行される。二十年毎の立て替へには、神御自身と国土と国民のよみがへりといふ大きな意義がある。

 

新生の祈りをこめて元初・天地初発に回帰し、再生し続ける御遷宮こそ、民族の英知が磨きあげた神道精神・日本伝統文化の精粋であり、天地を清浄化する永遠の祈りである。御遷宮は、神・天皇・國民・国土・国家の再生の大祭である。また、式年遷宮は、「今即神代」「天地初発之時」への回帰を実感する祭りである。

 

式年遷宮は、瑞穂の國日本の穀靈・天皇國日本の皇祖神たる日の神=天照大御神の神威が新生し復活するといふ重大なる意義がある。

 

持統天皇四年(六九〇)に内宮、翌六年には外宮において遷宮が行はれたのが式年遷宮の制が建てられた最初である。(『大神宮諸雑事記(しょぞうじき))。また、『日本書紀』に、持統天皇五年十一月戊辰日に「大嘗めす」とあるのが践祚大嘗祭の始まりとされる。遷宮祭儀と皇位継承祭儀は相似である。つまり式年遷宮は、新帝の御即位に際して新たなる神霊の天降り・甦りを仰ぐ践祚大嘗祭と相応する。女性天皇の御代に宮中祭祀、伊勢の神宮祭祀の今日に続く制度が確立されたのである。

 

真弓常忠氏は「神宮の遷宮は二十年一度の大神嘗祭であり、大神嘗祭はまさに皇祖の大御神の神威に新たな甦りを仰ぐ最大最重の厳儀である。それは、宮中における大嘗祭に相相応する大儀であるといえる。このことは、皇居においても、御代ごとに遷宮する例であったのが、持統天皇の藤原京より恒久的な皇居が営まれたことも照応する。昔から伊勢の遷宮を『皇家第一の重事、神宮無双の大営』(『遷宮例文』)といわれてきたゆえんがここにある。それは始源においては、大嘗祭と表裏一体の相対応する大儀であった」(『大嘗祭の世界』)と論じてゐる。

 

御遷宮は、日本民族の叡智・中核的信仰精神を表現する祭儀であり、神代即今・今即神代を実感する祭儀である。

 

「祭り」とは、神人合一の行事であり、罪穢れを祓ひ清め元初の姿へ回帰する行事である。天地宇宙の更新再生が、祭りである。元初の伊勢の神宮に回帰しつつ常に新たに生まれるといふ理念・原理=復古即革新が、日本文化の精粋である。それが現実の姿として顕現してゐるお宮が伊勢の神宮はなのである。

 

外国の宗教は、永久に残であらうと考へた石造りの神殿を造営したが、廃墟になってゐるところが多い。古代ギリシアやローマは、恒久的な神殿を建設しやうと考へたが、結局は廃墟をのこすのみとなった。

 

日本伝統信仰の祖神たる天照大神の神殿は木造である。そして、定期的に立て替へることにより、その生命が再生し新生すると信じた。日本民族は、神殿を定期的に作りかへることによって、神及び神殿を再生し続けて来た。日本の神と神殿は、永久不変であると共に永遠に新しいのである。

 

室町時代の戦乱により百二十年間途絶えてしまった神宮の式年遷宮を再興する原動力になったのが慶光院上人である。慶光院は、室町時代の創建とされる本寺末寺もない独立した臨済宗の尼寺である。慶光院の院主は慶光院上人と呼ばれ、長野善光寺上人、熱田誓願寺上人と共に、代々上人号を天皇から与へられ、紫衣着用を許可された。

 

初代院主・守悦上人、三代院主・清順上人、四代院主・周養上人は、尼僧でありながら諸国を巡歴し、遷宮浄財の勧進につとめた。全国の人々を感動させ、それが推進力となって式年遷宮の復興が実現したと承る。故に、内宮上人・伊勢上人・遷宮上人と呼ばれた。(神宮司庁刊『お伊勢参り』)

 

特に、四代・周養上人は、後陽成天皇より綸旨を賜って遷宮の勧進につとめ、小田・豊臣二氏の協力もあり、天正十三年(一五八五)十月十三日に内宮、十五日に外宮の第四十一回遷宮が行はれた。

 

徳川家康も、伊勢の神宮奉護の心が旺盛であったと傳へられる。家康は、征夷大将軍に任ぜられた慶長八年、遷宮朱印状を周養上人に与へてゐる。そして慶長十四年には、内宮外宮造営料三万石(米六万俵)を寄進し、それが先蹤となって歴代将軍に引き継がれた。

 

元禄二年(一六八九)、東山天皇の御代、第四六回・式年遷宮が行はれた。遷宮には伊勢を目指して多くの人々が集ひ、神と万物万生の再生・甦り・新生を祝した。

 

松尾芭蕉は、式年遷宮の奉拝を志して元禄二年九月六日、四十六歳の時、大垣を出発、十一日に伊勢に着いたが、内宮の式は十日にすでに終り、十三日の外宮の式を拝んだ。外宮遷宮を奉拝した感激を、

 

「尊さに 皆押しあひぬ 御遷宮」

 

と吟じた。

 

当時、遷宮日時を告げる高札が主要都市や街道筋に立てられ、多くの民衆が陸から海から神都伊勢を目指して天地もどよもすばかりであったといふ。(中西正幸氏『幕藩体制下の制度復興』・「歴史読本・伊勢遷宮の謎」所収)

 

本居宣長は、寛政度の御遷宮に際して、寛政元年(一七八九)に

 

「ものいはゞ 神路の山の 神杉に 過ぎし神世の 事ぞとはまし」

 

と詠んでゐる。

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2017年1月29日 (日)

「天の岩戸隠れ神話」について

天照大神の「御霊代(みたましろ)・依代(よりしろ)」は「八咫鏡」」である。「御霊代・依代」とは神が顕現する時の媒体となるものである。『古事記』には、邇邇藝命が天降られる時、天照大御神が「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごと、斎(いつ)きまつれ」(この鏡こそはもっぱら私の魂として、私の前を祭るやうにお祭り申し上げよ)との御神勅を下されたと記されてゐる。

 

「八咫鏡」は、天照大神の顕現であり、天照大神と同じきもの、一体のものとして拝まれる。『日本書紀』には、鏡を作って日の神の御像としたことが記されてゐる。

 

「八咫鏡」は、天照大神が岩戸にお隠れになった時、石凝姥命(いしこりどめのみこと)がお造りしたと伝承されてゐる。天照大神の神霊の依代(よりしろ)として天孫降臨の後、宮中に安置され、垂仁天皇の時代に伊勢に移され、伊勢の神宮の御神体として祀られた。また、皇位継承の「みしるし」として宮中賢所(かしこどころ)に代りの鏡がまつられてゐる。

 

『日本書紀』には、「伊弉諾尊の曰はく、『吾、御㝢(あめのしたしら)すべき珍(うづ)の子を生まむと欲ふ』とのたまひて、乃ち左の手を以て白銅鏡(ますみのかがみ)を持()りたまふときに、則ち化り出づる神有()す。是を大日孁尊と謂(まう)す」と記されてゐる。

大日孁尊即ち天照大神は、その出生の時に白銅鏡が化して生まれられたのである。このことは、『古事記』に示された天照大神の御神勅及び『日本書紀』に、天照大神が天忍穂耳命(あまのほしほみみのみこと・邇邇藝命の父神)に「宝鏡」を授けて「視此宝鏡、当猶視吾、可与同殿共殿、以為斎鏡」(この鏡を視まさむこと、まさに吾を視るがごとくすべし。ともに床(ゆか)を同じくし殿(おほとの)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし)と命じられたと記されてゐることに対応する。

 

鏡は三世紀代の古墳から発見されてをり、その頃には太陽神(日の神)祭祀に用いられてゐたと思はれる。太陽に鏡を向けると、その鏡は太陽光を反射してと太陽と同じようにまぶしく光り輝くので太陽神の神霊を招き迎へ太陽神を象徴するのに最もふさはしいものとされたと考へられる。

 

「天の岩戸隠れの神話」は、天皇の御魂を鎮め奉る宮中祭祀である鎮魂祭と結びついた神話であるとされてゐる。鎮魂祭は、仲秋即ち旧十一月の寅の日に行はれる新嘗祭の前日に行はれると承る。つまりその祭儀は太陽の最も衰へる冬至に行はれた。冬至は農耕民族たる日本人にとって「古い太陽が死ぬ日」であり「新しい太陽が誕生する日」であった。

天照大神の岩戸隠れは太陽の衰弱であり、岩戸よりの出現は新しい太陽の再生なのである。「天の岩戸隠れの神話」は、冬至の日に行はれた太陽復活祭である。

 

松前健氏は、「鎮魂祭は、冬至のころの太陽祭儀であり、冬に衰える太陽の高熱の回復のため、その神の裔としての日の御子であり、かつその化身であると考えられた天皇に対して、そのタマフリを行ったのが趣意であろうということは、すでに定説化している」(『日本の神々』)と論じてゐる。

 

「たまふり」とは、魂に活力を与へ再生させることである。天照大神いったん岩戸に籠られることによって、霊力を復活・更新し、新たにご出現になるのである。そもそも「祭り」とは、原初への回帰による霊力・生命力復活の行事である。

 

「天の岩戸隠れ神話」には、日本の踊りの起源も語られてゐる。即ち『古事記』に、天宇受賣命が「天の石屋戸に覆槽(うけ)伏せて踏みとどろこし、神懸りして、胸乳掛き出で、裳の緒(ひも)を陰(ほと)に忍し垂りき」(伏せた桶の上に立ってそれを踏み轟かせながら神懸りして乳房を出して裳の紐を陰部に垂らした)と記されてゐるのが舞踊の起源なのである。 

 

桶を踏み轟かせたのは、大地に籠ってゐる霊を目覚めさせそれを天照大神のお体の中にお送りすることである。神懸りとは宗教的興奮状態のことである。つまり舞踊の起源は神を祭るために神の前で霊的興奮状態になって舞ひ踊ることであった。これを神楽といふ。天宇受賣命は舞踊を含めた日本芸能の元祖なのである。

 

「阿波礼、阿南於毛志呂、阿南多乃之、阿南佐屋気、於気於気(あはれ、あなおもしろ、 あなたのし、あなさやけ、おけおけ)」(『古語拾遺』)

 

これは、天照大神が天の岩戸からお戻りになり、世界が明るさを取り戻した際、天の岩戸の前で神々が歌ひ踊って喜ぶ場面の掛け声である。日の神たる天照大御神の再臨は、笑ひによって實現した。日本民族にとって「笑ひ」とは、暗黒や邪気を除去し明るい日の神を迎へる歓びであった。

 

日本人が「祭り」が好きなのは、日本人が本来明るい性格の民族であるからである。「面白い」といふの言葉は、實に天の岩戸開き以来の言葉である。神人合一とは、明るい面白い境地なのである。

 

わが日本の国民性は、厭世的でもなければ逃避的でもない。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを明るく打開し祓ひ清め、新たなる力を再生し発揮するのである。

日本人はすべてにおいて明るく大らかな民族であるので、太陽神たる天照大神を主神と仰いだ。「見直し聞き直し詔り直し」の思想もここから発する。明るく笑ひに満たされた歓喜の祭りによって神の再生・再登場が実現する。これが他の宗教は厳しい修行や悔い改めをしなければ神に近づくことができないといふのとは異なる日本伝統信仰の特徴である。

 

祭事とは共同体における霊的心理的宗教的な営みの中でもっとも大切なものである。それは生命の更新・再生であるからである。つまり新たな生命の始まりが祭事によって実現する。

 

「祭祀」は物事の全ての原始の状態を再現復活せしめる行事である。一時的に生命が弱くなることがあっても、祭祀によっていっそうの活力をもって再生する。それは稲穂といふ植物の生命は、秋の獲り入れ冬の表面的な消滅の後に春になると再生するといふ農耕生活の実体験より生まれた信仰行事である。

 

そしてこの稲穂の命の再生は、天照大神の再生と共に行はれるのである。さらに天照大神の再生は人々の知力・呪力・体力・技術力・そしてたゆまぬ努力と明るさを失はぬ精神によって実現する。かうしたことを象徴的に語ってゐるのが「天の岩戸隠れ神話」である。

 

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2017年1月28日 (土)

日本人は日の神たる天照大神を最尊最貴の神と仰いで来た

天照大神は、その御名に示されてゐる通り、天空に照り輝く太陽の大神である。日の神とも申し上げる。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられる。その太陽神たる天照大神を祭られる祭祀主が「すめらみこと」=日本天皇である。天皇は、天照大神の神威・靈統を継承し体現される神聖君主である。故に、天照大神は皇室の祖先神・日本民族の親神として崇められて来た。日本国を「日出處」、日本天皇を「日の御子」と讃へるのも太陽神たる天照大神信仰による。

 

會澤正志斎はこの神聖なる事実を端的に「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元氣の始まる所にして、天日之嗣、世(よよ)宸極(しんきょく)を御し、終古易らず」(『新論』)と述べた。

 

「元氣」とは、万物の根源にある氣のこと。「天日之嗣」とは、日の神たる天照大神の神威を体現され皇位を継承されてゐる御方といふ意。「宸極」とは、天子の御位のことである。

 

日本民族は神話時代から太陽を神として崇拝して来た。『古事記』に天孫邇邇藝命が降臨された地のことを「朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國なり。故(かれ)、此地は甚だ吉き地」(朝日の真っ直ぐに照り輝く地、夕日が照り映える國である。こここそは大変良き所である)と讃へてゐる。

 

日本人の主食である稲は、太陽の光と熱なくして生育しない。つまり稲の命の根源は太陽である。稲の霊と太陽の靈とは一体である。

 

『萬葉集』巻十二所収の「柿本人麻呂歌集」に「久かたの天つみ空に照れる日の失せなむ日こそ吾()が恋止まめ」(大空に高く照り輝く太陽、この太陽がなくなってしまあ日があれば、その日こそ私の恋が終る日でせう、といふ意)といふ歌がある。恋歌にも太陽尊崇の心が表白されてゐる。

 

わが國傳統信仰は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」という。

 

古代日本人の素朴な太陽への信仰・崇拝の心が、次第に純化し太陽の光明温熱によって万物万生が生成化育するといふ、その尊い事実を神格化して太陽を最高尊貴な人格神として天照大神を拝むようになった。古代日本人は日の神の偉大性・永遠性を信じ、日の神たる天照大神は最尊最貴の神と仰がれるようになった。

 

『日本書紀』に「既にして伊弉諾尊・伊弉冊尊共に議(はか)りて曰はく。『吾已に大八洲國及山川草木を生めり。何ぞ天下の主者(きみたるもの)を生まざらむ』とのたまふ。是に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴と号す。大日孁貴、此を於保比屡咩能武智(おほひるめのむち)と云ふ。一書に云はく、天照大神といふ。一書云はく。天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)といふ。此の子(みこ)、光華明彩(ひかのうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る」と記されてゐる。

 

ここに記されてゐるように、天照大神は、大日孁貴尊(おほひるめのむちのみこと)とも申し上げる。太陽を神格化した御名である。「ヒルメ」は光り輝く意で、ヒルマ(昼間)に通じる言葉と言ふ。「メ」は女神の意である。つまり「大日孁貴尊」とは、大いなる光輝く太陽の女性神と言ふ意である。日本伝統信仰においては、日本の主神は女性神なのである。「男尊女卑思想」は、儒教・仏教といふ外来思想の影響であり、日本には本来ない思想である。日本民族は古来、男尊女尊の民族である。

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2017年1月20日 (金)

八幡大神のご神徳

 

八幡神が信仰されるやうになったのは奈良時代からであり、神話には登場されない神である。八幡信仰が盛んになったのは、武門とりわけ源氏の隆盛と深く関はりがあると言はれる。また、怨霊の魂鎮めとも関連があると言はれてゐる。中世以来、討死した武将、攻められて自裁した武将及びその一族を、八幡神として祀った例が多くあると言はれる。

 

神代以来の神々いはゆる天神地祇とはそのご性格を少しく異にしてゐると言へる。ただし日本民族の神への信仰は、教義や教条に基づくのではなく、自然な信仰心によるのであり、あまり理詰めで神のご由来やご性格を考究する必要はないと考へる。

 

「かみ」「かむ」(神)のカは接頭語である。ミとかムに意味がある。ミ・ムは霊的な力をいふといはれてゐる。また、ミは身であり実である。即ち存在の実質・中身のことである。即ち強い霊力・霊威を持った存在のことをカミと言ふ。

 

本居宣長は、「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノフミドモ)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊(ミタマ)を申し、また人はさらに云はず。鳥獣(トリケモノ)木草のたぐひ海山など、其餘何(ソノホカナニ)にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて。可畏(かしこ)き物を迦微(カミ)とは云なり、すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優(スグ)れたるのみを云に非ず、悪(アシ)きもの奇(アヤ)しきものなどをも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」と述べてゐる。この考へ方が今日の神道学の神観となってゐる。

 

八幡神も「尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて。可畏(かしこ)き物」なのである。

 

八幡神がわが国最初の神仏習合神として早くから信仰された。聖武天皇は、東大寺大仏(盧舎那大仏)造立に際して、豊前国の宇佐宮に勅使として橘諸兄(従三位左大臣)を遣はし、「国家鎮護」と「大仏造立」の祈願を行はせられた。天平十九年(七四七)に八幡神の「天神地祇を率いて大仏建立に協力しよう」といふ意の神託が下された。

 

天平二一年(七四九)陸奥の国から大仏像に使ふ黄金が献上され大仏造立が完成した。聖武天皇は大変お喜びになり、この年の七月二日天平勝宝と元号を改められた。黄金の発見といふ瑞祥は八幡神の神徳のよるものとされたのであらう。天平勝宝元年(七四九)十二月に、宇佐八幡の神霊が、紫錦の輦輿(れんよ・鳳輦のこと)に乗って入京し、東大寺の地主神として迎へられたと言ふ。紫錦の輦輿は、天皇のお乗り物であり、八幡神がすでにこの頃、応神天皇の御神霊であると信仰されてゐたと思はれる。

 

天応元年(七八一)に、八幡神に「八幡大菩薩」の神号が与へられた。延暦二年(七八三)には、「護国霊験威力神通大自在菩薩」といふ号も加へられてゐる。

神仏習合の初期現象たる「八幡神上京」は、教義・教条の理論的裏付けがあって行はれたのではない。現実が先行し、それに後から理屈がつけられたのである。まず神と仏が習合することが先だったのである。ここが日本民族の信仰生活の特徴であり、幅が広く奥行きが深いといはれる所以である。融通無礙なのである。

 

石清水八幡宮も、創建以来、幕末までは神仏習合の宮寺で石清水八幡宮護国寺と称してゐた。明治初期の神仏分離までは「男山四八坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ねた。今日も、男山の麓からけーブルで登って行くと、宿坊の跡らしい所が点在してゐる。

 

神と仏とがごく自然に同居し、同じく人々によって信仰せられて来たのが日本の信仰の特色であり傳統であらう。神と仏とを理論的教学的に識別する以前に、日本民族の信仰においては、感性において神と仏とを同一のものの変身した存在として信仰したのである。一つの家に神棚と仏壇が祀られ安置されている姿は、一神教の世界ではあり得ないと思ふ。

 

日本人が太古から継承してきた自然信仰と祖霊信仰といふ日本民族の中核信仰に外来宗教が融合されていったのである。石田一良氏は「神道の原質と時代時代の宗教・思想の影響との関係は『着せ替え人形』における人形と衣裳との関係のようなものと喩えられるかもしれない。…神道の神道たる所以は原初的な原質が時代時代に異なる『衣装』をつけ、または『姿』をとって、その時代時代に歴史的な働きをする所にある」(『カミと日本文化』)と論じてゐる。

 

いくら外来宗教を受容したからとて、わが国の風土と日本民族の気質から生まれたすべてを神として拝ろがむ伝統信仰の中核は失はれることはなかったのである。

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