2017年5月25日 (木)

天岩戸神話について

天岩戸神話について松前健氏はその著『日本の神々』において次のように論じている。

 

「石窟戸神話については…天皇の御魂を鎮める鎮魂祭と結びついた神話であった…。鎮魂祭は仲秋すなわち旧十一月の寅の日に行われ、新嘗祭の前日であった。この祭りの趣旨は『令義解』に、『遊離の運魂を招き、身体の中府に鎮む』と言うように、そもそもが天皇の霊魂を呼び返し、体にこめようとする、一種の魂返しの呪法で、『天武紀』十四年などでは、『招魂』(たまふり)という字を当てているのである。この天皇の一種の健康呪法ともいうべきものがアマテラス崇拝と関係し、日神自身の死と復活が、この時の鎮魂歌に歌われているのである。…この鎮魂祭は、冬至のころの太陽祭儀であり、冬に衰える太陽の高熱の回復のため、その神の裔(すえ)としての日の御子であり、かつその化身であると考えられた天皇に対してタマフリを行なったのが趣意であろうことはすでに定説化している。…冬至は、農耕民族においては、『古い太陽が死ぬ日』でもあったし、また新しい太陽が誕生する日でもあった。この衰弱死する古い太陽が磐隠りするアマテラスであり、このときふたたび生れ出る太陽が、『磐戸を開いて出現する日の御子』である。」

 

『天岩戸隠れ』の神話は、明るく楽しく爽やかな太陽神再生のお祭りであり、日の御子であらせられる現御神日本天皇の再生復活の祭りなのである。嫌がる神をそのご意志に反して無理やり岩戸から引っ張り出す、などという、あたかも吉良邸に討ち入った赤穂義士が吉良上野介を炭小屋から引っ張り出したような闘争的な話ではないのである。

 

八百万の神々は長鳴鳥を鳴かせたり、鏡や勾玉が沢山ついた玉の緒のついた榊を作ったり、布刀玉命が占いをしたり、天児屋命が祝詞を唱えたり、天宇受売命が神懸りして踊るなどのお祭りをし、「天晴れ、あな面白、あな楽し、あなさやけ、おけ」と大笑いし大騒ぎをした。天照大神が不思議に思って岩戸を少し開けて覗かれると、「あなたより尊い神がおいでになります」と言って、手力男命が手を引いてお出しするという、まことに明るく楽しいお祭りなのである。

 

八百万の神々が天岩戸の前でのお祭りで集団で舞い踊り、大笑いし、大騒ぎをするなかで、死からの復活=起死回生を喜んだのである。それは日本中世の「踊念仏」、江戸末期の「ええじゃないか踊り」とよく似ているのである。また、祭祀における直会とも似ていると言える。

 

楽しく明るい祭祀と饗宴を行うことによって。新たなる生命の復活、天照大神の新たなるお出ましが実現するのである。天岩戸神話はそうしたことを物語っているのである。

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2017年5月18日 (木)

日本傳統精神は天神地祇崇拝を基本とする

日本の歴史を根底から支へて来た力は稲作である。日本傳統信仰は稲作生活から生まれ、稲作生活の中に生きて来た。稲作生活は、再生と循環と相互の助け合ひが根本にある。基本的に闘争や侵略とは最も遠い平和なる共同生活である。

再生と循環は自然の思想である。古代日本人は自然の再生と循環の中に自然と共に生きて来た。日本人は、人の命も自然の命も永遠に共生し循環し続ける事を實感してきた。

 

日本傳統精神は、生活の中から自然に生まれた精神であり、自然を大切にし、自然の中に神の命を拝む心・祖先を尊ぶ心である。わが國の神々は、天津神、國津神、八百萬の神と言はれるやうに、天地自然の尊い命であり先祖の御霊である。

 

日本傳統精神は、天神地祇崇拝(祖先と自然の霊を尊ぶ心)を基本とする。先祖からの恩恵に感謝し、大自然を尊び、大自然から人生を學び、生き方を學び、國の平和と人の幸福の道を學ぶ。山・川・海・風・樹木・石等々全ての自然に神の命が宿ると信じる。また、人の命は神の命であると信じる。一人一人が「命(みこと)」である。一人一人が「日子(ひこ・日の神の御子)」であり「日女(日の神の姫御子)」なのである。日本人は、森羅萬象ことごとく神ならざるものはないのである。

 

かうした精神からは排他独善の精神は生まれない。あらゆるものから學ぶべきものを學ぶのである。だからわが國は古来外来の文化を大らかに包容摂取してきた。

 

日本人は、人間と自然は相対立する存在とは考へないで、人間が自然の中に入り人と自然とは生命的に一體であるとの精神に立つ。

 

わが國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも「神社の森」「鎮守の森」がその原点である。わが民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな「神社の森」「鎮守の森」を大切に護って来た。それは「鎮守の森」には、神が天降り、神の霊が宿ると信じて来たからである。「鎮守の森」ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きてゐると信じてきた。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿ってゐると信じて来た。

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られた。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至ってゐる。

 さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それがわたつみ(海神)信仰・龍宮信仰である。海は創造の本源世界として憧憬され崇められた。

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2017年5月17日 (水)

宗教と科學技術、傳統と革新の調和は日本において達成できる

 

近代科學技術文明が人間生活を便利にしたことは事實である。しかし、近代科學技術文明は自然を破壊し、人間生命をむしばみ、地球を危機に陥れてゐる面がある。さらに、人間による自然への冒瀆と傲慢な姿勢を生み出した。そしてその自然によって日本人は大変な脅威にさらされることもある。

 

現代文明とは「科學の論理によって技術革新を行ふやうになった文明」と定義され、産業革命以来機械技術の発達を促し、物質的繁栄至上の社會を作り出した。ところが、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊と自然災害・人心の荒廃・経済破綻を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかってゐると言はれてゐる。

 

今日の混迷を打開するためには<近代合理主義>を根底に置いた科學技術・物質文明に偏した考へ方を改めて、人間の精神性の復活する事が大切である。

 

壮大なる宇宙の神秘=無限の可能性は、人間の理性や知能によって全てが説明できるものではないといふ謙虚な姿勢を持つべきである。人間が作り出し進歩させてきた科學技術の力によって自然を支配できるなどといふ考へが根本的に間違ってゐたことは、今回の東日本大震災によって實感された。

 

生命尊重、自然保護、公害追放は、政治政策・経済政策によってそれを全面的に解決することはできない。今日の日本人には、西洋精神の影響を受けて自然への畏敬の念を失ってしまった人が多い。

 

現代日本の混迷は、天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同體を隠蔽し、日本傳統精神を否定し、神を否定する思想が蔓延して来たことがその根本原因である。日本民族が継承してきた傳統的な正しき信仰精神を正しく継承し現代において生かす事が何よりも必要なのである。そのためには日本國民自身が『記紀』や『萬葉集』を學び、神社に参拝し、日本の自然風土に親しむことが大切である。

 

日本の傳統信仰は自然神秘思想であることは間違ひないが、全てを「神秘なるもの」の支配に任せ、科學的思考・合理的思考を拒絶するといふ考へ方ではない。むしろ日本民族は實際生活においては、きはめて合理的・科學的な生活を営んできた。宗教と科學技術の調和、傳統と革新の調和は、實に日本において真に達成できる。日本天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體國家日本は過去三千年にわたってそれを實践してきたからである。

 

近代科學技術文明による自然破壊・人間破壊の危機救済に、稲作生活を基本とした神代以来の天皇中心の祭祀國家・信仰共同體を今日まで保持しつつ、西洋文化・文明を受容し発展せしめ、もっとも発達した工業國なった日本の精神傳統が大きな役目を果たすと考へる。科學技術國家でありながら、太古からの信仰が今日においても生き続けてゐる日本が、現代の混迷を打開する役割を果たすべきである。

 

自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を、生活の中で體験する農耕民族たる日本民族の信仰精神即ち日本神道精神が、世界の真の平和を作り出すと信ずる。

 

神道(神ながらの道)といふ精神傳統を保持する日本が、新しい文明を切り開いていく。わが國は、古代信仰の「神やしろ」は、伊勢の皇大神宮をはじめ、全国に今日唯今国民に崇敬され、ほとんど全国各地の神社で毎日のやうに祭りが行はれてゐる。

 

アーノルド・トインビーは昭和四十二年、伊勢の皇大神宮に参拝した折、毛筆で次のやうな感想を書いた。「Here, in this holy place, I feel the underlying unity of all religions.」(私はこの聖域において、すべての宗教の根底をなすものを感ずる)

 

人も國土も神が生み給ふたと考へる日本民族の傳統信仰は、神と人間と自然の三つは対立し矛盾した関係ではなく、調和し、融和し、一體であると考へる。闘争と自然破壊に明け暮れる現代世界を救済するには、日本神道精神が大切になる。

 

フランスの哲學者詩人ポール・アントワーヌ・リシャルは『日本の児等に』といふ詩で、「新しき科學と旧き智慧と、ヨーロッパの思想とアジヤの精神とを自己のうちに統一せる唯一の民! 此等二つの世界、来たるべき世の此等両部を統合するは汝の任なり」「流血の跡なき宗教を有てる唯一の民! 一切の神々を統一して更に神聖なる真理を発揮するは汝なるべし」「建國以来一系の天皇、永遠にわたる一人の天皇を奉戴せる唯一の民! 汝は地上の萬國に向って、人は皆な一天の子にして、天を永遠の君主とする一個の帝國を建設すべきことを教へんが為に生れたり」と歌ってゐる。 

 

日本傳統信仰の祭祀は、明るく平和的な行事である。動物や人間を生贄として神に捧げる事はしない。わが國民が祭りが好きであるといふことは、日本人が本来明るい平和的精神を持ってゐるといふことである。日本民族は本来的に残虐でもないし、厭世的でもなければ逃避的でもない。また排他的でもない。それがわが國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓ひ清めることができると信じ続けてきてゐる。

 

日本傳統信仰の「祭祀」の精神が、戦争・闘争テロが繰り返され、自然は破壊され、人の命は軽視される現代を救済し打開する原理となると確信する。また「祭祀」の精神が、自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると信ずる。今日の危機打開は、祭祀の精神の復興がその原基である。

 

「神への回帰」「自然への畏敬」といふ精神性を重視した世界観・文明観を確立することが、これからの人類の生存のために不可欠である。天孫降臨の精神=稲穂による國家統治といふ絶対平和の精神が重大な意味を持つと確信する。日本神話の精神の再興が現代の救済である。

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2017年4月28日 (金)

世界救済原理としての日本精神

 

外来文化文明を咀嚼し融合し高度化したのは、日本の中核に天皇・皇室の御存在があるからである。天皇・皇室を中心として外来文化・文明の融合・高度化が実現した。日本は儒教・佛教のみならず近代科学技術文明をも摂取し咀嚼し高度化した歴史を持ってゐる。これは将来においても優れた特性として保持し続けなければならない。

 

世界的には、イスラム教とユダヤ教とキリスト教との争ひとを終息せしめ神々のもとに永遠の平和を創造するのは、わが日本の使命である。

 

日本主義とは、日本の国益だけを第一に考える主義ではない。また、日本を世界の覇者とする主義でもない。経済力や武力によって世界を支配することを最高の主義とするものではない。日本伝統信仰・日本精神によって世界を救済し世界を新たならしめ、世界を維新する思想である。

 

自然破壊・民族闘争・宗教戦争は、日本精神によってこそ救済できる。そのことを能動的に恢弘するのが日本主義である。天孫降臨の精神=稲穂による統治が重大な意味を持つ。それは、絶対平和の精神である。一神教と多神教を融合する日本の神話の精神である。天之御中主神と八百万の神々との共存の精神である。

 

日本民族の生活態度の基本的特質、言ひ換へれば日本人の文化感覚を恢弘することは、今日の世界においても実に大きな価値を持つ。 

 

近代科学技術文明は、自然を恐れず、自然を征服し作り替へ、破壊することによって、人類の進歩と発展を図ってきた。しかしその結果、公害問題が深刻化するとともに核戦争の危機にさらされ、今日人間生活そのものが荒廃し、人類は破滅に向かって歩み始めている。

 

これを打開するためには、自然に調和し大らかにして柔軟な日本伝統精神に回帰する以外にない。

 

日本傳統精神は、今日唯今も生きてゐる。わが国には太古以来の信仰が今もわが国民の日常生活に生きてゐる。祭祀は、日本天皇が行ひたまふ宮中祭祀によって今日ただ今も太古のままの生きた姿でくり返されてゐる。

 

伊勢の神宮に代表されるように、神殿も太古以来のまま今日まで継承されてゐる。伊勢の神宮の神殿は、二十年目ごとに必ずくり返される式年遷宮によって永遠に新しい姿に復元し生まれ変る。古代の神殿が永遠に新鮮な姿で我々の眼前に立ってゐる。

 

日本傳統精神は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ国民信仰として脈々とその生命を伝へてゐる。のみならず、現実に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食い止める大きな力となってゐる。

 

万世一系の皇統は、高天原より地上へ、天照大御神・邇邇藝命・神武天皇から今上天皇へと、時間を超えて一貫して連綿として伝へられてゐる。 

 

現代文明は、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかってゐる。現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重から東洋文化とりわけ日本伝統文化へと回帰しなければならない。

 

自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を生活の中で体験する農耕民族たる日本民族の信仰精神即ち日本傳統精神が、世界の真の平和を作り出すであらう。

 

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2017年4月27日 (木)

自然に宿る日本の神々と祭祀

日本国土の自然は實に美しい。山・川・海の景色は實にすばらしい。日本は他の東洋諸国と比較すると、四季の変化も規則正しく、気候も比較的穏やかである。インドや中近東のような過酷な自然環境とは思へない。しかし、自然が常に日本人にやさしく接してきたわけではない。日本の自然は、時に、大地震や毎年やって来る台風や津波のように、ものすごい猛威をふるひ、人間に襲ひかかって来る。さらに飢饉・疫病が度々襲って来た。そして人間の命を奪ひ、生活を破壊する。日本民族は、自然の猛威と危険にさらされながら生きてきたと言っても過言ではない。

 

日本民族は自然に神仏を見、自然と共生して来たことは確かであるが、自然に宿る神々には、和やかな神もをられれば、荒ぶる神もをられる。

 

「かみ(神)」の語義には色々な説がある。「カ」は接頭語であり、「ミ」は語根。「ミ」は漢字で「實」「身」と書かれるやうに、中身・實在そのもの・力のある存在・無形のカオス(天地創造以前の世界の状態。混沌)・靈威ある存在のことされる。神は「上」の方にゐる存在だから「カミ」といふとの説は國語學的には誤りであるといふ。

 

日本の神々は、自然神と祖靈神とに大きく別けられる。この両方の性格を具備してをられる神が天照皇大御神であらせられる。天照皇大御神は、太陽神といふ自然神であると共に皇室の御祖先神であらせられる。

 

日本の神々とは何か強い力を持ってゐる存在をいふのであって、必ずしも完全円満な存在ではない。まして唯一絶対無謬神ではない。

 

「神」に掛る枕詞は「ちはやぶる」である。「チ」は激しい形状、「フル」は自動詞で、神の観念を表してゐるといふ。そして、「チ」は生命力・霊力としての「チ」を内蔵するとの観念である。「ハヤ」は「疾風(はやて)の如く」といふやうに激しい状況。「フル」は震へるといふ意。だから「千早振る」とは、神靈が激しく震へるといふ意である。また「フル」は體に触れる・密着するといふ意味もある。つまり「ちはやぶる」といふ枕詞は、神霊が烈しく活動して、人間を脅かすといふ観念であると考へることもできる。

 

折口信夫氏は、「ちはやぶるといふ枕詞は、いちはやぶる・うちはやぶるなどといふ語の第一音の脱落した形です。古事記の倭建命の東征の條にも、『うちはやぶる人』といふ語が出て來ます。亂暴する人といふことです。はやぶるといふのがその意味で、威力ある靈魂が暴威を發揮することがちはやぶるです。…神の中に暴威を振ふ神が多い。…さういふ觀念から、枕詞として、ちはやぶるが出來ました。」(『神々と民俗』)と論じてゐる。

 

つまり、日本の神々は、生命力・霊力そのものであり、それは、人間に恩恵をもたらすと共に、破壊的な働きも示す。地の神が荒ぶれは地震となり、海の神が荒ぶれば荒波や津波となるのである。

 

「神」は、人知では計り知れない靈妙なる存在である。日本人は古代より祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言った。

 

本居宣長は、日本に神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)(『古事記傳』)と定義してゐる。

 

 日本の神々は、一時はやった言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり霊であると言ふことである。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをもらたすと古代日本人は信じた。

 

『古事記』の「身禊」の条には、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。

 

自然の中に精霊が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文学的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

 

近代以後、科学技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精霊として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替えようなどといふ文字通り神をも恐れぬ考へ方を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。「草木がものをいふ」古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

 

折口信夫氏は、「我々の古文獻に殘った文學は、しゞまの時代の俤を傳へて居る。我々の國の文學藝術は、最初神と精靈との對立の間から出發した。…神の威力ある語が、精靈の力を壓服することを信じたからである。…神代の物語として,語部(かたりべ)の傳へた詞章には、威力ある大神隱れ給ふ時、木草・岩石に到るまで、恣に發言した。さうして到る處に其聲の群り充ちたこと、譬へば五月蠅(さばへ)の様であったと言ふ。而も亦威力ある大神の御子、此國に來臨あると、今まで喚きちらした聲がぴったりと封じられてしまったとある。神威を以て妖異(およづれ)の發言を封じたのである。」(「日本文學における一つの象徴」)と論じ、『六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓』の「荒ぶる神等をば神問(かむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語問ひし磐ね樹立(こだち)、草の片葉(かきは)も語止(ことや)めて、天(あめ)の磐座(いはくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだ)し依さしまつりき」といふ一節を引用してゐる。

 

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から学んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精霊たちを怖れるだけではなく、祭祀によって神や精霊たちを祓ひ清め鎮めたのである。

 

日本伝統信仰は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ継承されてゐる。のみならず、現実に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食い止める大きな力となってゐる。

 

科学技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても日本には古代信仰・民族信仰が脈々と生きてゐる。伊勢の皇大神宮をはじめとした全国各地の神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本伝統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、国家の平安・国民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本国家の君主であらせられる。これは世界に誇るべき日本の素晴らしさである。 我々日本國民は誇るべき國體精神を恢弘してわが國の革新と再生そして世界の真の平和実現に邁進しなければならない。

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2017年4月25日 (火)

靖國神社の戦没者への祭祀は日本民族の道義精神の典型である

私は、靖國神社に参らせていただく度に、靖國の英靈が天上界からわが國をお護り下さってゐることをひしひしと實感させていただく。日本國民として、英靈に感謝の誠を捧げ、慰靈し顕彰することは、聖なるつとめである。

 

日本民族は古来、祖靈と自然を神と崇め、祭って来た。わが國の傳統信仰の祖靈崇拝と自然崇拝が、天皇を中心とする信仰共同體國家日本の土台、言ひ換へれば日本國體の根幹を成してゐる。そしてそれは、國民道徳・道義精神の根幹でもある。

 

わが國の神々の中で、最尊最貴の神として信仰され崇められてゐる神である天照大神は、御皇室の祖先神であると共に、自然神である太陽神である。

 

稲作生活を営んで来た日本人は、太陽・山・海・川など大自然の恵みの中に生きて来たので、自然を神と崇めた。また、祖先から稲の種と水田と農耕技術といふ恵み祖先から傳へられたので、祖先に感謝する思ひが強かった。皇祖神と太陽神が一體であるといふことは、わが民族の傳統信仰が祖靈崇拝と自然崇拝であることを端的に示してゐる。これを〈敬神崇祖〉と言ふ。

 

〈敬神崇祖〉といふわが國の國民道徳の基本は、神學・教義といふ〈抽象概念〉として継承されて来なかった。上は天皇から下萬民に至る日本民族の生活の中の〈神祭り〉〈祭祀〉といふ行事によって、古代より今日まで傳へられて来た。

 

靖國神社の戦没者への祭祀は、さうした古来よりの日本民族の道義精神の典型である。祖靈・死者の魂を尊びこれをお祭りすることは、日本民族の傳統信仰の基本であり、道義心・倫理觀の根幹である。わが國民は、鎮守の神を敬ひ、亡くなった祖先の御靈を崇め、その御加護を祈ってきた。これが我々日本民族の生活の土台である。

 

内閣総理大臣、國の為に身を捧げた英霊が鎮まる靖国神社に、支那やアメリカに遠慮して参拝できないということは、我が国がまだ敗戦国家の悲哀から脱していないということであり、極言すれは、戦勝国の支配下にあるということである。これでは「美しい日本」ではないし、「日本をとり戻す」こと、「戦後レジームからの脱却」はできない。

 

内閣総理大臣が、靖國神社に公式参拝し、戦没者の靈に対して感謝の誠を捧げ、國家の安泰と世界の平和を祈ることは、道義が頽廃し、様々の面で混迷の極にあるわが國の再生・改革のためにまことに大切な行事である信ずる。

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2017年4月15日 (土)

『鎮守の森』が自然保護の原点 

 

 わが国の神は天津神、国津神、八百万の神と言われるように、天地自然の尊い命であり、先祖の御霊である。 

 

わが国の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。わが民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』『鎮守の森』を大切に護って来た。

 

 それは鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来たからである。鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きていると信じてきたのである。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来た。天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られたのである。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至っている。

 

 さらに、海の彼方にも理想の国・麗しい国があると信じた。それが龍宮信仰である。海は創造の本源世界として崇められた。

 

 我が国伝統信仰すなわち神道は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」という。

 

 その最も端的な例が天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来たのである。

 

 日本伝統信仰即ち神道は、自然の命と祖先の霊を崇める精神がその根幹であり全てである。それは日本民族の実際生活から生まれて来た信仰なのである。特定の預言者や絶対神の代理人と称する人が説き始めた教条・教義に基づく信仰ではない。ここが神道と教団宗教との根本的相違である。つまり、わが国伝統信仰=神道はまことに大らかにして包容力旺盛な信仰なのである。

 

 だからこそ、わが国伝統信仰の祭り主であらせられる日本天皇は、仏教や儒教をも尊ばれた。わが国において仏教典を講義され、仏教寺院を建立されたのは、聖徳太子であられる。聖武天皇は、日本仏教の中心寺院として東大寺を建立され、さらに全国に国分寺・国分尼寺を建立された。わが国において仏教は、皇室を通して広まったと言っていいのである。そして日本伝統信仰は外来仏教や儒教を大らかに融合してきた。

 

 わが民族は、今日の混迷も必ずこれを打開して正しき日本の姿を回復するに違いない。しかしそのためには、歴史を回顧して明らかな如く、真に国家の伝統精神を継承する者たちの必死の努力精進が必要である。

 

 わが国の麗しい山河、かけがえのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖国日本への限り無い愛と、国民同胞意識を回復しなければならない。

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2017年4月13日 (木)

日本伝統信仰と現代の危機の打開

 

 

 

自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を生活の中で体験する農耕民族たる日本民族の信仰精神が、世界の真の平和を作り出す可能性が高い。一切の自然や人に神が宿るという大らかにして健全なる信仰精神たる日本伝統精神が、世界を救い、統合し融和して調和すると考える。

 

自然に抵抗し、自然と戦はなければ、人間生活を維持できない厳しい自然環境に生活する人々は、様々な論理や分析を必要とした。そして厳しい自然環境にあって、人間が穏やかで繁栄した生活を営むためには、自然を作り変え、改造しなければならない状況にあった。

 

自然と対決し戦い、自然に打ち勝たねばならない厳しい自然環境の中東半島のようなところに生きる人々は、経験的知恵や合理的知識・分析・説明が不可欠であった。そこで、多くの教条教義を作り出した。また、自然と戦う武器や技術を必要とした。

 

中東に生まれた一神教(ユダヤ教・キリスト教・回教)は、そういった環境と生活から生まれた宗教であるから、現実をそのまま肯定し自然に随順し自然そのものを神として拝むなどということはない。そして「エホバ」という唯一絶対神を信じ、ある特定のすぐれた人物の説く教義を信じ、その人物を崇拝する。そしてその他の神や教えを排撃する。そして過去においてのみならず今日ただ今も宗教戦争をくり返している。

 

また近代社會を混乱に陥れ、限りない闘争と破壊を起し、自然を破壊してきた思想が、西洋近代の科学的合理主義というイデオロギーである。これを超克し是正するものが、日本の傳統精神である。日本傳統精神は、「合理的なものの考え方」を否定するのではなく、その欠陥を補うのである。

 

歴史や自然を対立的にとらえて、論理や教条を振り回して自然や宇宙や人生や歴史の本質を説き明かそうなどという不遜な考えは持たなかった古代日本人の基本的な姿勢を、現代において甦らせることが必要なのである。

 

近年、「グローバリゼーションの時代」などといわれてきたが、最近は世界各地でそれに反発する動きが高まっている。日本民族は主體性・誇りを喪失することなく、且つ、偏狭な排外主義的と独善に陥ることなく、外来文化文明を受容して来た。これはわが民族の優れた特性であり歴史である。

 

日本伝統信仰の祭祀は、明るく平和的な行事である。動物や人間を生贄として神に捧げる事はしない。わが國民が祭りが好きである。これは、日本人が本来明るい平和的精神を持っているということである。日本民族は本来的に残虐でもないし、厭世的でもなければ逃避的でもない。また排他的でもない。それがわが國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓い清めることができると信じ続けてきている。

 

この「祭祀」の精神が、戦争・闘争テロが繰り返され、自然は破壊され、人の命は軽視される現代を救済し打開する原理となると考える。

 

また「祭祀」の精神が、自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると考える。今日の国難打開は、祭祀の精神の復興がその原基である。

 

世界各地で凄まじいテロが続発している。今こそ、日本傳統精神よって強いもの勝ちの覇道精神を反省し訂正せしめるべきである。日本伝統信仰の「祭祀」の精神が、戦争・闘争テロが繰り返され、自然は破壊され、人の命は軽視される現代を救済し打開する原理となる。

 

今日の危機打開は、祭祀の精神の復興がその原基である。天孫降臨の精神=稲穂による統治といふ絶対平和の精神が重大な意味を持つと確信する。

 

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2017年4月 2日 (日)

天之御中主神は天地生成の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である

天之御中主神は天地生成の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である

 

 日本傳統信仰・神ながらの道は、<神と人との合一><罪の意識の浄化>を最高形態としてゐる信仰である。

 四季の変化が規則正しく温和な日本の自然環境は、自然を友とし自然の中に神を観る信仰を生んだ。日本民族は、天地自然を神として拝む。神は到る処に充ち満ちてゐると信じてきた。自然は神の命の顕現である。

 

 日本の神とはいかなるものか。本居宣長の『古事記傳』には次のやうに書かれてゐる。「凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御靈(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり」と。

 

 宣長は「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きものが神である」と定義してゐる。「可畏し」といふ言葉の意味は、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であらうが、それらを総合したやうな感情において神を考へるといふことであらう。日本民族は、天地自然に素直なる感動と畏敬の念を持ち、天地自然を神として拝んだのである。また、死者の靈も神として拝んだ。そこが一神教の神観念とは大きく異なる。

 

それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかといふとさうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」という一定の相形(すがたかたち)はない。神は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまふのである。さうした神々の根源神として「造化の三神」がましますのである。日本の神は「多即一・一即多」のお姿をあらはされる。

 

『古事記』冒頭には、「天地初發の時、高天原になりませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、次に神産巣日神(かみむすびのかみ)。この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示され、「天地の生成の本源神」たる天之御中主神の次に高御産巣日神、神産巣日神の名が示されてゐる。そして「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

 

「造化の三神」が「天地初發の時、高天原になりませる神」(天地宇宙の生成と共になりませる神)と仰がれてゐるのは、「造化の三神」が天地宇宙開闢以来天地宇宙と共に存在する神、天地宇宙の中心にまします根源神であるといふことである。「造化の三神」は、被造物(つくられたもの)とは全然範疇の異なる存在・被造物と対立する存在たる「天地創造神」ではないのである。

 

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は、独神(ひとりがみ)すなはち“唯一神”であり、宇宙の根源神である。この「造化の三神」は、宇宙根源神・絶対神の「中心歸一」「多即一・一即多」「むすび」の原理を神の名として表現してをり一体の御存在である。

 

また、「宇摩志阿斯与訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」「天常立神(あめのとこたちのかみ)」の二柱の神も「みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。「國之常立神(くにのとこたちのかみ)」「豊雲野神(とよくもぬのかみ)」も「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐる。

計七柱の神は、天地宇宙の萬物萬生の普遍的根源神であるから、特定の個別化されたお姿を現されることはなく御身を隠されるのである。だから、「独神になりまして、身を隠したまひき」と示されてゐるのである。七柱の「独神」がをられるのは、唯一神の多くの働き・性格を「神名」によって表現していると解釈できる。「多即一・一即多」である。

 

影山正治氏は、「古代の日本人は萬ものを神に於て理解しようとした…神は無數であって八百萬の神である。しかし萬神一に歸すれば天之御中主神であって、決して云ふ所の低い庶物崇拝ではない…萬物を『いのち』に於て把握し『神』に於て理解する日本人の宇宙觀はまことに比類なきものと云はねばならない。日本に哲學なしなどゝ考へるのはとんでもない間違ひで、人類今後の思考の哲学はまさにこの日本神話の根源から發するものである」(『古事記要講』)と論じてをられる。

 

天之御中主神は、天地生成の根源神であられるが、「唯一絶対神」として他の神々をと対立しその存在を許さない神ではない。八百万の神即ち天地の神々を包容される神である。

 

天之御中主神は、<一即多・多即一>の神であり、最高の根源神であるとともに萬物・萬生包容の神である。無限の可能性を有する大いなる宇宙主宰神・宇宙本源神が天之御中主神である。八百萬の神々は天之御中主神が無限の姿に現れ出られた神々である。

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2017年3月28日 (火)

天照大神の「天の岩戸の隠れ」神話について

天照大神の「天の岩戸の隠れ」の神話については、次のような解釈がある。一つは日蝕説であり、もう一つは冬至説である。太陽が欠けていくこと、あるいは日照時間が短くなっていくことは、古代人にとってとりわけ農耕民族の日本人にとって不安なことであったに違いない。

 

そこで太陽の再生・新生を祈る祭りすなわち微弱化した太陽を更新する祭祀・宗教儀礼が行われたと思われる。それが天の岩戸前における八百万の神々の祭事なのであろう。

 

八百万の神々は長鳴鳥を鳴かせたり、鏡や勾玉が沢山ついた玉の緒のついた榊を作ったり、布刀玉命が占いをしたり、天児屋命が祝詞を唱えたり、天宇受売命が神懸りして踊るなどのお祭りをし、「天晴れ、あな面白、あな楽し、あなさやけ、おけ」と大笑いし大騒ぎをした。天照大神が不思議に思って岩戸を少し開けて覗かれると、「あなたより尊い神がおいでになります」と言って、手力男命が手を引いてお出しするのである。

 

「天岩戸神話」は天照大御神の御意思を無視して無理やり「天岩戸から引き出した」というのではない。「天岩戸神話」は、天照大神様が天岩戸から出現されることを願う一大祭祀であり、明るく楽しく爽やかなるみ祭りである。赤穂浪士の吉良邸討入りの時に、上野介を無理やり炭小屋から引き出したのとはまったく異なる。

 

中西進氏は「知力、呪力、体力、技術力、笑いの力というもろもろの力が集められており、これ以上盛大な祭儀はないというほどであった。太陽の子孫を称する天孫族の日招き神話の詞章として、まことにありうべき壮麗さである。・…笑いはもっとも旺盛な呼吸活動であり、『生きる』ことの極上の状態を示す。失われた太陽を復活させるための、貪欲な模擬行為といえるだろう。天孫、天皇家のもっとも大事な祭儀と考えられた理由もよく理解されるところである」(天つ神の世界)と論じておられる。

 

日本人は太陽神たる天照大神を主神と仰いだ。だからすべてにおいて明るく大らかな民族であるのだ。見直し聞き直し詔り直しの思想もここから発するのである。ただ明るく笑いに満たされた歓喜の祭りによって神の再生・再登場が実現する。これが他の宗教は厳しい修行や悔い改めをしなければ神に近づくことができないというのとは全く異なる日本伝統信仰の誇るべき特徴である。

 

この天の岩戸神話には日本の踊りの起源も語られている。すなわち天宇受賣命が「天の石屋戸に覆槽(うけ)伏せて踏みとどろこし、神懸りして、胸乳掛き出で、裳の緒(ひも)を陰(ほと)に忍し垂りき」(伏せた桶の上に立ってそれを踏み轟かせながら神懸りして乳房を出して裳の紐を陰部に垂らした)と記されているのが舞踊の起源なのである。 

 

桶を踏み轟かせたというのは大地に籠っている霊を目覚めさせそれを天照大神のお体の中にお送りすることであるといわれている。神懸りとは宗教的興奮状態のことである。つまり舞踊の起源は神を祭るために神の前で興奮状態になって舞い踊ることであった。これを神楽という。天宇受賣命は舞踊を含めた日本芸能の元祖ということなのである。 

 

祭事とは共同体における霊的心理的宗教的な営みの中でもっもとも大切なものであることは言うまでもない。それは生命の更新・再生であるからである。つまり新たな生命の始まりが祭事によって実現するのである。

 

祭事は物事の全ての原始の状態を再現復活せしめるのである。一時的に生命が弱くなることがあっても、祭事によっていっそうの活力をもって再生する。それは稲穂という植物の生命は、秋の獲り入れ冬の表面的な消滅の後に春になると再生するという農耕生活の実体験より生まれた信仰である。

 

そしてこの稲穂の命の再生は、天照大神の再生と共に行われるのである。さらに天照大神の再生は人々の知力・呪力・体力・技術力・そしてたゆまぬ努力と明るさを失わぬ精神によって実現する。こうしたことを象徴的に語っているのが天の岩戸神話であると考える。  

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