2018年12月 5日 (水)

國學は明治維新の思想的基盤

 

 明治維新の思想的基盤である近世国学は、それまでの日本で重んじられていた儒教や仏教という外来思想に抗して、それとは別なる日本独自の「道」を主張した。そこに近世国学の特質があった。

 

 日本独自の道とは、日本民族が古来より持ち続けている信仰精神である。国学とは、古代日本精神の復興による当時の時代思潮への批判思想である。

 

 そして国学は政治思想という狭い範疇に属するものではなく、文献学であり、和歌の学問であり、国語学・国文学であり、神道学である。

 

 そして外来の思想や文化を「からごころ」(「から」とは支那のことであり支那を通して日本に伝来した思想や学問そしてそれをもととした思考のこと)批判を展開した。

 

 十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジアは西洋列強の侵略支配の危機に瀕していた。そしてそれに抗して、民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

 日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こったのである。それが近世国学運動の思想である。

 

 したがって、国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

 キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

 国学は幕末期の日本の危機に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。危機的状況を迎えんとしていた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないという精神が国学運動を起こしたのである。

 

 そしてその底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないという悲憤慷慨の思いであった。そういう思いは、次に挙げる国学者たちの歌に表れている。

 

 最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは 

 

 「よく道を踏みわきまえて間違わないようにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」というほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

 八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。そうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

 また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

神國の 道ふみそけて 横さらふ いづくにいたる 汝が名のらさね

 

 と詠んでいる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言うのか、名乗ってみろ」というほどの意。雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨しているのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌い上げている。

 

 この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。

 

 春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示しているのである。

 さらに雅澄は、ペリー来航を憂いて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

神風に 息吹きやらはれ しづきつつ 後悔いむかも おぞの亞米利加

 

 と詠んでいる。「神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであろう。愚かなアメリカは」というほどの意。この憂国の至情と気概が、彼の学問の奥底にあったのだ。

 

 さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝をりふせて 嗚呼といふめり

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」というほどの意。児童子供といえども、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しということを歌っているのである。幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかる。

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2018年11月21日 (水)

靖國神社と敬神崇祖の心

 

日本民族の宗教精神の基本は敬神崇祖(神を敬い先祖を崇める心)である。そしてそれはわが國の道義精神の基本でもある。毎朝、神棚と先祖の位牌のある仏壇を拝む家庭は、家庭崩壊もないし、子供が非行に走るということも少ない。國家も同じである。國家のため民族のために命を捧げた人々に感謝の真心を捧げる國は、正しき歩みを続ける。

 

わが國は今日、政治・経済・文化・教育の頽廃と荒廃は救いがたい状況にある。日本國の細胞が腐りはじめ、溶けて流れようとしていると言っても過言ではない。このような状況になっている根本原因は、日本國および日本國民が敬神崇祖の心を喪失しつつあるからである。外國からの内政干渉を恐れて、靖國神社という國のために命を捧げた人々を祭る宮に、内閣総理大臣が参拝をとがめだてするような輩が跳梁跋扈している事、そして参拝しない内閣総理大臣がいる事にそれは端的に表われている。

 

わが國は、仏教やキリスト教などの外来宗教が入って来る前から、自然や祖先などの亡くなった人々を神として祭る信仰があった。そしてそれは、建國以来今日に至るまで、生きた民族信仰として続いて来ている。それを神社神道という。日本全國の何処かで毎日のように神社の祭礼が行なわれている。つまり、神社神道は日本伝統信仰なのである。

 

総理の靖國神社参拝に内政干渉して来る共産支那は、アジア最大の軍國主義國家であり一党独裁の専制國家である。またわが國内において総理の靖國神社参拝に反対している勢力即ち反日宗教や左翼勢力こそ、排他独善の教義や思想を持ち、宗教団体を攻撃し弾圧する危険な体質を持っている。

 

「東京裁判」の判決即ち勝った側が敗者を一方的に裁いた結論を、我々の価値観として受け入れる理由はない。靖國神社問題の根本にあるのは、「東京國際軍事裁判」で、わが國が『戦犯國』という烙印を押されたことにある。そして大東亜戦争時に政府・軍の枢要な地位にいた人々が『A級戦犯』として殺されたことにある。

 

内外の反靖國神社勢力は、「靖國神社にA級戦犯が祀られているから、総理大臣が参拝するのはけしからん」と言っている。「東京裁判」は戦勝國によるわが國への報復である。「東京裁判」には、まともな裁判権はなく、何ら國際法的根拠を持たない。当事國が裁判官になったのがそもそもおかしい。わが國が「サンフランシスコ講和条約で、東京裁判を受諾した」というのは、刑執行について問題にしないということであって,東京裁判そのものを認めたわけではない。

 

いわゆる「A級戦犯」とは、講和条約が締結されていない時期すなわち戦時における勝者による敗者への復讐である「東京國際軍事裁判」において「死刑」の宣告を受け、殺された人々である。この方々は、まさに戦争において戦死された方々なのである。靖國神社に英霊として祀られて当然である。ゆえに、いわゆる「A級戦犯」と言われる方々は、正しくは「昭和殉難者」なのである。

 

東京裁判の唯一の権威であったマッカーサーは帰國後、米上院の軍事外交委員會での演説で、『日本が戦争に入ったのは主としてセキュリティーのためであった』と言った。マッカーサーは東京裁判が日本に押した侵略國家の烙印を否定したのである。

 

「東京裁判」の判決即ち勝った側が敗者を一方的に裁いた結論を、我々の価値観として受け入れなければならい理由がどこにあるのか。

 

繰り返し言う。七人の昭和殉難者を靖國神社にお祀りするのは当然であるし、祀るかどうかは日本が決める事である。外國があれこれ文句を言うのは、まさに内政干渉であり、主権侵害である。靖國神社について、外國からとやかく言われる筋合いはない。 

 

反日・反靖國思想は、今や左翼勢力や偏向マスコミだけでなく、与党内部にまで深く浸蝕している。かかる勢力を駆逐しない限り、日本國は真っ当な國家とはならない。

 

わが國がまともな外交が出来ない根本原因は,『過去の歴史問題』にある。戦後日本は、主権に関して怯懦であり鈍感であり、売國的・土下座外交が行なわれている。その責任は政治家にある。

 

わが國がまともな外交すなわち主権を正しく守りきる対外政策が出来ない根本原因は,『過去の歴史問題』にある。総理はじめ与野党の政治家そしてマスコミが『大東亜戦争は日本の侵略であり近隣諸國に惨禍を及ぼした』と謝罪しているのだから、支那や韓國からいかなる無理難題を吹きかけられても、主権を侵害されても、内政干渉されても、わが國は毅然とした対処が出来ないのだ。

 

「わが國は侵略をした悪い國であり,支那や南北朝鮮からどんなに主権を侵害されても,内政干渉をされても,文句を言ったり反撃してはならない」という観念が蔓延している。これはまさに「現行占領憲法」の基本精神なのである。

 

「現行憲法前文」には「日本國民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し…平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。これは「日本は東條内閣の行為によって侵略戦争を起こしましたが,二度とそのような事はしないことをお誓いします。今後はアメリカ様,ソ連様,中國様など戦勝國の皆様の公正と信義に信頼して、侵略を行なった悪い國であるわが國とわが國民の生存と安全を保持してまいります。今後は何をされても決してお手向かいを致しません」という『詫び証文』である。

 

この『わび証文』の精神を実践しているのが今日の日本の外交である。「憲法守って國滅ぶ」という言葉はまことに真実である。「現行憲法」の無効確認なくして真の主権回復はあり得ない。

 

祖國の歴史への正しい認識と國を守る心を常日頃持っていなければ道徳心は起ってこない。大東亜戦争は誇りある戦いであった事を正しく認識し、子々孫々に語り伝えなければならない。

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2018年11月19日 (月)

伊勢皇大神宮について

鈴木大拙氏著『禅と日本文化』に次のように書かれている。

 

「禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、然は究極実在の直覚的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。茶は原始的単純性の洗煉美化である」「茶人は書いている『天下の侘(注・わび)の根元は、天照御神にて、日()国の大主にて、金銀珠玉をちりばめ、殿作り候へばとて、誰あって叱るもの無之候に、茅葺・黒米の御供、其外何から何までも、つゝしみふかく、おこたり給はぬ御事、世に勝れたる茶人にて御入候』(石川流「秘事五カ条」)この筆者が天照大神をわび住居をする代表的な茶人と見なしているのは面白い。しかし、これは茶の湯が原始的単純性の美的鑑賞であること、換言すれは、茶は人間の生存が許しうるところまで自然に還って、自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現であることを示している」。

 

伊勢の皇大神宮の簡素さ、清浄さ、神聖さが、「原始的単純性の洗煉美化」「自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現」であると論じているのである。

 

世に宗教の殿堂は数多くあるが、伊勢の皇大神宮くらす簡素にして清らかで神々しい神殿は存在しない。宗教の殿堂には金銀珠玉をちりばめた豪華絢爛たる建物がある。覇者を神として祀った日光東照宮などはその典型ではないだろうか。

 

伊勢皇大神宮のご正殿から荒祭宮に向かふ途中に、御稲御倉(みしねのみくら)、外幣殿(げへいでん)がある。御稲御倉は、御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)をお祀りする祠である。祠といふことは穂倉であり、神宮神田で収穫された抜穂の御稲が納められてゐる。外幣殿は、古神宝類が納められてゐる。どちらも、高床式の穀倉から神殿に昇華した建物である唯一神明造である。

 

「唯一神明造」とは、弥生時代の高床式の穀倉形式である。檜の素木造(しらきづくり)の掘立式(柱の素を直接地中の埋めて作る方法)で造営されてをり、屋根は茅葺である。素朴であり、何の豪華さもない。しかし、言ふに言はれぬ清浄さと威厳がある。日本文化の簡素さと清浄さを体現する建物である。日本人の信仰精神の結晶である。

 

神を祀る社殿のことを祠(ほこら)と言ふのは、穂倉(ほくら)に由来するといはれる。人々の生命の根源である稲などの穀物の収蔵庫は神聖視されたので、神のまします建物が穂倉の形になったのであらう。

 

原初、わが国の伝統信仰には神殿は無かったとされてゐる。日本の神々は、祭祀が行はれる時に、神が居られるところから降臨されて、樹木や石などに依りつき、祭祀が終了すると元の所に戻られるとされる。今日の祭祀においても、降神の儀・昇神の儀が行はれてゐる。大神神社は今日においても、三輪山そのものが御神体であり、神殿はない。

 

しかし、時代の推移と共に、自然に神殿が造営されるやうになった。何故神殿が造られるやうになったのか。榎村寛之氏は「自然神から人格神に発展する過程で発生した」(『古代・律令体制の造替の開始』)と説いてゐる。これも一つの考へ方である。

 

「唯一神明造」の神殿は、日本人が生きてゆくために食する穀物を納める蔵の形に神殿が造られてゐる。まさに日本の神々は命の本源の神が鎮まられる祠である。

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2018年11月11日 (日)

『やまと』とは

 

「やまと」は、申すまでもなく日本国の意である。古義では、皇都のある国を中心としてその四辺を指したといふ。大和朝廷の都があった奈良盆地の東南地域が「大和(やまと)」と呼称されてゐたといふ。そして奈良中期になって、外国に対して日本国といふ観念になったといふ。

 

石井良助氏は、「やまと」とは、山門(やまと)即ち山への入り口といふ意であるとし、「そのやまとは三輪山辺りから東方の伊賀の山地に違いない。そして伊賀を超えれば伊勢である。大和より東方で、早朝太陽を仰ぐ勝地として五十鈴川の近辺に太陽神たる天照大神が祀られた」と論じてゐる。

 

高崎正秀氏は、「大和とは、神座を指す意味を持ってゐるから、山の神事を行ふ座席―山の神座―それがやまとではなかったらうか。そこで行われる神事儀礼の威力の及ぶ範囲が『やまと』と呼ばれ、これが次第に国名になり、日本総國に国号にまで拡大されていく」と論じてゐる。

 

「やまと」とは、「山上の神座(かみくら)」のことであり、「天皇が祭事を執行せられる地」を指したと思はれる。

 

「やまと」は、神話時代以来日本人の魂のふるさとであり、日本人の最も大切な心の置き所であった。日本武尊が恋慕した美しい国であった。古代歌謡や萬葉歌に「やまと」を歌ひこめた歌が多い。古代の歌人(うたびと)たちは常に「やまと」を思ひ、たとへ肉体は滅びても魂となって還るべき地が「やまと」であると思ってゐた。

 

元明天皇の御代の和銅六年(七一三)五月に『風土記』を編纂する勅令が出されると共に、雅字を用いた二字で地名を表すやうにとの勅令が下された。これを『好字二字令』『諸国郡郷名著好字令』と言ふ。

 

それまで、国名、郡名、郷名の表記の多くは、やまと言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないことが多かったので、地名の表記を統一する目的で発せられた勅令である。

 

さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいふ)を用いることになった。そこでそれまで「やまと」は「倭」といふ漢字が充てられてゐたが、「大和」と言ふやうになったといふ。ちなみに「下毛野」は「下野」(現栃木県)、「上毛野」は「上野」(現群馬県)、「泉」は「和泉」(現大阪府南西部)と言ふやうになった。

 

「やまと」といふ国号に「日本」といふ漢字を用いるやうになったのは、大宝元年(七〇一)の『大宝律令』に、「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらしめすやまとのすめらみこと)」と記されたのが最初とされる。支那の歴史書『旧唐書』に、西暦七〇一年に栗田真人を首席とする遣唐使が、支那に対してはじめて「日本」の国号を用いたと記録されてゐるといふ。

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2018年11月 5日 (月)

熊野信仰について

熊野信仰について

 

 熊野本宮大社の御祭神は熊野坐大神(くまのにますおおかみ)と申し上げ、熊野に鎮まりまします大神という意である。本社には十四柱の神が鎮まっているが、その総称を熊野坐大神と申し上げる。十四柱の神々の主祭神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ・須佐之男命の別名)。「ケ」は食物を意味する言葉であるから穀霊神と見てよいという。この神は熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬのみこと)とも申し上げ、木の御神霊である。紀伊の國は木の國であり、山に覆われ木が生い茂る國である。また熊野の「クマ」とは「神」の意であるという。つまりこの神社に祭られている神は太古より信仰された紀伊の國の樹木の神霊と申し上げてよいと思う。その信仰が大和朝廷の神話の神であられる須佐之男命と融合したのであろう。

 

 さらに熊野の「クマ」は、奥まった隅のところという意でもある。地理的に熊野は大和から見るとまさに「奥まった隅のところ」である。「奥まった隅のところ」は神秘的なところであり神のいますところと信じられたのである。

 

 そして『日本書紀』では、伊耶那美命が亡くなってから葬られた地が熊野であるとされており、熊野は夜見の國(あの世)・常世(永遠の理想郷)に近いところと信じられた。なお、『古事記』では出雲の國に葬られたとある。出雲にも熊野神社がある。紀伊國と出雲とは日本伝統信仰において深いつながりというか共通性がある。伊耶那美命はこの神社では熊野牟須美大神(くまのむすみのおおかみ)という御名で祀られている。

 

 また、『古事記』によると神武天皇が熊野に上陸されると、「大きなる熊、髪(くさ・草のこと)より出で入りしてすなわち失せぬ」とある。

 

 本地垂迹説(日本の神は仏が人々を救済するために仮の姿を現したという説)では、日本伝統信仰の常世への憧れと仏教の浄土思想が融合しため、熊野三山が阿弥陀如来、新宮が薬師如来、那智が観世音菩薩を本地とする。本宮の主祭神・家津美御子大神の本地は阿弥陀仏であるとされる。ゆえに熊野の神は熊野大権現とも言われる。権現とは仏の仮の姿という意。 

 

 熊野本宮大社の御鎮座は神武天皇御東征以前と伝えられ、第十代崇神天皇六五年に社殿が創建されたという。また奈良時代より修験道(神仏混淆の山岳修行道)の行場であった。そして、平安時代には仏化(神社というよりも寺になったということ)した。熊野水軍を統率し源平の戦いに参加したくらいであり、その権勢は國守や領主を凌いだという。南北朝時代は吉野朝(南朝)に忠誠を尽くした。  

 

 熊野三山は御歴代の天皇の御崇敬篤く、第五九代宇多法皇(延喜七年・九0七年に行幸)より第九十代亀山上皇まで、上皇、女院の熊野行幸は百余度の多きに達した。鳥羽上皇二十八度、後白河上皇三十四度、後鳥羽上皇二十八度に達している。熊野への行幸は往復二十数日を要する難行苦行の旅であった。こうした皇室の崇敬が熊野水軍という勤皇の軍団が生まれた原因であろう。

 

 何故このように皇室の御信仰が篤かったのか。それは太古の昔から熊野が聖地として仰がれたと共に、神武天皇が橿原に都を開かれる前に熊野の地を通られたこともその理由の一つであると思われる。また中世期に入ってから末法思想が盛んになり、浄土への憧れが強くなったことが、常世・浄土の入口と信じられた熊野への信仰が平安から鎌倉時代にかけて最高潮に達した原因であろう。

 

 要するに熊野信仰には、山・森林への自然信仰と、他界信仰(常世への憧れの思想)という日本の伝統信仰が凝集しているのである。

 

 熊野本宮大社の鳥居には「熊野大権現」と書かれている。太古からの社殿は明治二十四年(一九八一)の大洪水で災害を蒙り、現在の地に移転したと承る。

 

総門には菊の御紋の染められた幕が下がっている。社殿は四つあり第一殿第二殿には伊耶那美命(熊野牟須美大)神など、第三殿には家津美御子大神(須佐之男命)など、第四殿は天照皇大御神が祀られでいる。

 

境内には、境内には、白河上皇御製碑が建てられている。

 

「咲きにほふ 花のけしきを 見るからに 神のこゝろぞ そらにしらるゝ 雍仁親王妃勢津子謹書」

 

と刻まれている。第七二代・白河天皇は、院政を創始した方であらせられ、「治天の君」と讃えられ、『源平盛衰記』には「賀茂の水、双六の賽、山法師」の三つのほかは何事も上皇の意のままであるという「天下三不如意」という話も伝えられている。この御製は行幸の折熊野本宮社前にて詠まれたと承る。

 

後鳥羽上皇御製碑も建てられている。

 

「はるばると さかしきみねを わけすぎて おとなし川を けふみつるかな」

 

と刻まれている。

 

「おとなし川」とは本宮の旧社地近くを流れている川。後鳥羽上皇の行幸は、建久九年(一一九八)八月の以降、二十八度に及ぶと承る。

 

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2018年10月30日 (火)

日本人の自然観は天地自然を神として崇める信仰

日本民族は自然を神と崇めた。萬葉歌人・柿本人麻呂は、天地生成神話の発想で、神そのものとしての國土の永遠の美しさを讚歎してゐる。人麿は神話の世界を今に生きた歌人なのである。人麿が和歌史上第一の歌人といはれる所以はかうした神話意識にある。人麿において「神代」とは遠く遥かな過去の時代のことではなく、「今」がそのまま「神代」なのである。

 

人類は自然と人間との関係において、自然を征服し支配し造り変へるといふ対し方と、自然に即し自然と共に生きるといふ対し方の二つの立場を持ってゐる。一神教は前者、多神教は後者である。

 

 自然と共に生きるといふことは、自然の命と人の命を連続したものと見、自然は神から生まれたといふ信仰、自然の中に神を見る信仰から出てくる精神である。

 

 世界各地の「神話」は、人類最初の男女神はまづ最初に人間を創造してゐる。キリスト教の『創世記』には「はじめに神は天と地とを創造された」「神は自分のかたちに人を創造された。…神は彼らを祝福していはれた。『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従はせよ、…すべての生き物とを治めよ』」と書かれてゐる。

 

天地自然や人間は全知全能の神が創造された物であるといふことは、神と天地及び人間とは<別個の存在>だといふことである。また、人間は大地を服従させ、すべての生物を支配することを神から許されたのだから、人間が自然をいかに造り変へても構はないし、また生物を生かすも殺すも人間の自由である。近代科學技術による自然の造り変へ・破壊が何らの罪悪感無しに行はれてきた思想的根拠はここにある。

 

 日本の天地生成神話では、伊耶那岐命と伊耶那美命の「むすび」によって國が生まれた。自然も國土も神から生まれたのだから神の命の延長である。また、単なる「大地の生成」ではなく「國土の生成」である。伊耶那岐命・伊耶那美命がお生みになった大地は、無國籍にして名前もない土の塊としての大地ではなく、國土である。だから生まれた國には神の名が付けられる。大八洲を神の住みたまふ國土として把握する。つまり天地自然を神として拝んだのである。

 

 このやうな日本人の自然観は、人間が自然を征服し作り替へるといふ西洋の自然観とは断然異なる。柿本人麿の長歌はかうしたわが國の神話の精神を表現してゐる。自然破壊が進む今日において、日本伝統信仰の自然観は重要に意義を持つと考へる。

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2018年10月23日 (火)

中皇命(なかつすめらみこと)の御歌に歌はれた「むすび」信仰

 

中皇命(なかつすめらみこと) 、紀の温泉に往きましし時の御歌  

 

君が代も わが世も知るや 磐代(いはしろ)の 岡の草根(くさ

)いざ結びてな                  (一〇)

 

 中皇命は、舒明天皇の皇女・間人皇女(はしひとのひめみこ・天智天皇の妹君) の御事。大化元年(六四五)に孝徳天皇の皇后になられ、天智四年(六六五)に崩御された。また、第三十七代・斉明天皇(舒明天皇の皇后・天智天武両天皇の母君)とする説もある。

 

「紀の温泉」とは和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉。「君が代もわが世も知るや」の「君」は、作者を間人皇后とすれば中大兄皇子を指す。間人皇女は、兄君・天智天皇とひそかな恋をされてゐたといふ。

 

また中皇命を斉明天皇とすると「君が代」の「君」は舒明天皇の御事とされる。どちらにしても、愛する人と共に紀國へ旅をされた途中でお互ひの旅の平安を祈られた御歌。  

 

「しる」は単にものごとを知識として知るといふのではなく、もっと深く「関係する」「司る」といふ意。天皇の御統治の御事を「しらす」「しろしめす」と申し上げるのと同意義。今日でも「そんなことは知りません」といふのは、単に知識として知らないといふ意味以上に、「私には関係がない」といふ意味も含まれることが往々にしてある。

 

天皇の國家統治を「しらしめす」と申し上げるのは、天皇が天の下の全てを認識され、全てに関係され司られるといふ意である。天皇は、鏡の如く全てを映し出す「無私の御存在」であればこそ、全てを統治され認識され司られることができる。天皇國家統治の「みしるし」である三種の神器の一つが「鏡」であるのはそのことをあらはしてゐる。天皇は自己を無私なる鏡となして一切のものごとを映し出される御存在である。

 

知ることと愛することは一体である。愛とは捨身無我である。自分を相手のために捧げるのが愛の極致である。自分を無にしなければ本当に相手を知ることは出来ないし、愛することもできない。天皇陛下の國家統治もご自分を無にされて天下萬民を愛されることである。学問も自分を無にして学ぶ心がなければならない。

 

「磐代」は和歌山県日高郡南部町岩代及び東岩代。紀の國に通じる熊野街道の要衝にあたり、旅人が木の枝や草を結び行路の平安を祈り予祝する神秘的な場所であった。「磐」には長久の意味がある。「草根」は草のことで、「根」は接尾語。「いざ」は人を誘ひまた自ら行動を起こそうとするときに発する語。「な」は勧誘をあらはす。

 

 通釈は、「あなたと私の寿命といふものを知ってゐるところの靈験あらたか岩代の草を結んで、岩代の岡の巖のやうに命長く幸せであることを祈りませう」といふほどの意。古代信仰が歌はれた歌。

 

「むすび」はわが國傳統信仰上とても重要である。漢字では「産靈」と書く。生命の誕生・萬物の生成のことである。『古事記』冒頭の造化の三神(天地生成の神)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)である。この三神はそれぞれ宇宙の中心の神・男性(陽)の神・女性(陰)の神と申し上げてよいと思ふ。

 

男性と女性がむすび合はされて生命が誕生する。生まれてきた男の子が「むすこ」であり女の子が「むすめ」である。手を結ぶとは「人と人とが和合する」こと。御飯をむすんだものを「おむすび」と云ひこれを食すると生命が生き長らへる。「むすび」とは命が発生し長らへることである。

 

この歌は、『古今和歌集』巻第七に「賀歌」に分類されて収録されてゐる「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」(わが君のお年は、千代に八千代(非常に長い年代)にまで続いていただきたい。一握りの小石が大きくなり、巖となって、苔が生へる時までも)に通じる。この歌の初句が「君が代は」となり、今日の國歌「君が代」になった。

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2018年10月19日 (金)

日本伝統信仰と一神教の自然観の違ひ

 

 

イスラム教徒にとって理想郷とは、川が流れ泉があり緑のある所である。「エデンの園」とはさういふ所である。『コーラン』には次のやうに記されてゐる。「神は、男の信者にも女の信者にも、下を河川が流れ、そこに永遠にとどまるべき楽園と、エデンの園の中のよき住まいとを約束したもうたのである」「楽園には木々が生い繁る。…流れ出る泉が共にある。…深緑に包まれている」「神を懼るる人々に供えらるるは安き場所、緑したたる果樹園とたわわに實る葡萄園」。

 

泉が涌き、川が流れ、緑滴る楽園、それはまさに我々の生活する「緑の日本列島」である。日本のやうな気候風土の國こそ、砂漠の宗教にとって「楽園」であり「理想郷」なのである。曽野綾子さんは、『人間の目利き』という対談集でイラクの小学校の女性の先生たちを日本に招かれて、伊勢神宮にご案内されたことを話された。彼女たちが伊勢神宮の外宮で柏手を打って拝礼をしたこと、そして五十鈴川のほとりを散策して感激したことなどを紹介されている。

 

曽野綾子さんは、『伝統と革新』第二十三号(平成二十八年五月発行)におけるインタビューで小生の質問に答えて、「(伊勢神宮は)尽きることのない清流、まわりに緑したたる森がある。『アラブの大義』のために聖戦に参加して、死んだら行けるとアルカイダたちが言っている天国というものを、彼女たちはこの世で見たのだと思います」「私は、じつは伊勢神宮が大好きなんです。伊勢神宮は、ずっと人々に優しかったですよね。末社が一二五社もおありになって、当時の人々がお酒を造ったり、塩を造ったりすることを支えていらっしゃったのです、つまり物心両面で社会の人々を支えていらっしゃったわけです。本当にすばらしい。伊勢神宮は日本の誇りだと思います。日本は本当にいい国だと私は思います。ですから、日本に住んでいて日本の悪口を言う人には、どうぞ、好きな所に移住して下さい、といつも言っています(笑い)」と語られた。

 

穏やかな風土の緑豊かな地に生まれた多神教の神は、自然と一体であり自然の中に宿る。不毛な風土の砂漠地帯に生まれた一神教の神は、自然と対立しこれを支配し征服する神である。日本伝統信仰は、自然の「神のいのち」として拝ろがむ。ところが、キリスト教の自然観は、人間は神の命令により自然を征服し支配し改造する権利を与へられてゐるといふ信仰なので、庭造りにしても、自然を改造して美しさを作り出す。

 

『創世記』には、「神いひ給ひけるは、『我等に象(かたど)りて、我等の像(かたち)のごとくに我等人を造り、之に海の魚と、空の鳥と、家畜と全地と地に匍ふ處の諸(すべ)ての昆蟲(はふむし)を治めしめんと』…『生めよ殖えよ、地に滿てよ、地を從がはせよ。又海の魚と空の鳥と地に動く所の諸(すべ)ての生き物を治めよ、…』」と記されてゐる。

 

この神の命令により、神の形の如く造られた人間は、自然を征服し支配し改造し操作し利用する権利が与へられたとされる。これが西洋における自然改造の手段としての科学技術や機械の発展の精神的基礎であると言へる。近代科学技術はこのような自然観を基礎として発達し、それによって人間は便利な生活を享受したが、反面、そのために自然を破壊しつつある。

 

神への信仰があるうちは、神が創造した自然を、人間の利己的な目的のみのために利用し改造し害することは、神に対する「罪」であるといふ慎みの心があった。しかし、その天地創造の神を否定する人が多くなった近代においては、さうした心も消え失せ、人間の「幸福」のために自然を改造し破壊してきたのである。それが現代における自然破壊・公害問題の根本原因であると考へる。

一方、日本の精神伝統は、自然崇拝、自然を神として拝む心がその基本にある。これが日本の精神史の不滅の基礎である。

 

この自然崇拝の心(人と自然との一体観)といふ日本の精神伝統とは異なる一神教は日本に根付くことはなかった。

 

これまでの世界は、西洋文明・文化が主流となって歴史を形成してきた。たしかに西洋の文化・文明は偉大であり、それによって世界が進歩し発展してきた。しかし、現代は精神的にも物質的にも大きな困難に直面してゐる。各地で民族紛争・宗教紛争が起こり、資源が枯渇し、自然破壊が進み、人類は不幸への道を歩んでゐる。

 

この根本原因は、砂漠に生まれ、神と人間が隔絶した関係にあり、自然を人間の対立物ととらへ、一つの神・一つの教義を絶対視して他を排除する一神教的思想を淵源としてゐる西洋の文化・文明にあると考へられる。これを根本的に是正すべき時に来てゐる。

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自然の生命を尊び、自然と人との一体感を実現する行事である「祭祀」が自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する

自然の生命を尊び、自然と人との一体感を実現する行事である「祭祀」が自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する。

 

日本列島はモンスーン地帯に属する温暖湿潤な自然風土であり、年間降雨量も多く、森が豊かに生育した。森では木の実や山菜など豊かな食料が供給された。そして清く豊かな水、温かな太陽、豊かな国土に恵まれてゐる。日本の自然は、時に荒れることはあっても基本的に穏やかで美しく人間に対してやさしい存在である。

 

日本の自然環境は他国と比較すれば温和であり、四季の変化が規則正しい。日本は一年中極寒あるいは酷暑が続くことはない。

 

日本民族は、自然が持ってゐるリズムに逆らふことがなければ、基本的には、自然と共生して生きていくことができる。古代日本人は、人生も自然であり、人の生活は自然の中にあるものであって、人間は自然の摂理と共に生きるべきと考へた。そして、人が自然を破壊し自然の摂理に歯向かふ時、人間は自然の報復を受け。災ひを受けるといふことを体験的に知った。報復と言って悪ければ、摂理に逆らふことによって害を受けることを知ってゐた。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。

 

日本の神々は、今はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり霊である。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをもらたす。古代日本人は体験的にそう信じた。

 

古代日本人は、自然は人間と対立するものでも、征服する対象でも、作り替へるものでもなく、人間と一体のものであるといふこと体験的に知ってゐた。自然を神々として拝ろがみ、自然に随順し、自然の中に抱かれて生活してきた。

 

自然を神として拝ろがみ、自然と自己とが霊的・生命的に一体であるといふ信仰の自然な形での実践が祭祀である。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精霊たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精霊たちを祓ひ清め鎮めることである。日本人が古来行なってきた「祭祀」は、まさに自然の生命を尊び、自然と人との一体感を実現する行事である。

 

日本人は旅する時には、訪れた土地の神々を祀り、山に登る時には、その山の神を拝ろがんだ。だから西洋のやうに「自然を征服する」とか「自然を改造する」などといふ考へ方は元来なかった。人の力を試すため、冒険のため、征服するために山に登るなどといふことは無かった。国土や山の神明を敬ふ旅であり登山であった。

 

日本人は、「山びこ」(山の谷などで起こる声や音の反響)のことを「こだま」即ち「木霊」「木魂」といふ。山野の樹木に霊が宿るといふ信仰から出た言葉である。まさに日本人にとって、山野には霊が宿ってをり、深山幽谷は精霊の世界だったのである。

 

原子力開発が「自然の摂理」に歯向かふものであるかどうかは、私には分らない。しかし、日本人のみならず現代の人類は、自然を破壊し自然の摂理に逆らって文明の進歩発展・経済発展の道をひたすら突っ走ってきたことは確かである。

 

近代以後、科学技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精霊として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替へようなどといふ文字通り「神をも恐れぬ考へ」を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

 

自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切である。太陽の神・大地の神・海の神・山の神・水の神など、ありとしあらゆるもの、生きとし生けるものを、神と崇める日本伝統信仰に回帰することが今一番求められてゐる。

 

自然保護・自然との共生は、法令や罰則の強化による以前に、日本人が本来持ってゐる信仰精神を回復し今日に蘇らせることが自然保護の最高の方策である。法令や罰則の強化は必要ないとは言はないが、それ以前に、自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切である。人間が自然を支配し造る変へることは正しいとする人間中心思想を脱却するにはこうした信仰精神に回帰するしかない。

 

自然保護・自然との共生は、自然の中に宿る生命と人間の生命とが本来一体であるといふ信仰的真実を実感し、自然を畏れる心を大切にすることによって自然に実現するのである。

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2018年10月17日 (水)

日本民族の自然信仰とは

 

梅原猛氏は、NHKの「Eテレ」の「3・11をどう生きる」(平成二十四年四月一日放送)といふ番組で、天台本覚思想・「草木もの言ふ」といふ思想が現代文明を乗り越える思想であると述べてゐる。「草木もの言ふ」思想は、『古事記』に語られてゐる。

 

『古事記』の「身禊」の条に、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ国悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。『日本書紀』には、「然(しか)も彼()の地(くに)に、多(さは)に蛍火の光(かがや)く神、及び蠅声す邪しき神有り。復(また)草木咸(ことごとく)に能()く言語(ものいふこと)あり」と記されてゐる。

 

自然の中に精霊が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文学的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

梅原猛氏はさらに、「『君が代』の『さざれ石が大きな岩となる』といふ言葉に草木国土悉皆成仏の心が込められてゐる。石も生きてゐる」と論じてゐる。

 

わが国の国歌である「君が代は 千代に八千代 に さざれ石の いはほ となりて 苔のむすまで」の元歌は、平安朝初期から知られていた「詠み人知らず」(作者不明)の古歌(『古今和歌集』巻第七及び『和漢朗詠集』に賀歌として収録)の一首「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」(わが君のお年は、千年も八千年も、小さな石が巌となって苔が生えるまで、末永くお健やかでいて下さい、といふほどの意)である。

 

石と岩の違ひは、石が成長した岩には魂が籠ってゐるといふことである。石が成長して大きくなり巌となるといふのは日本人の古来からの信仰的真実である。古代日本人は、石が成長すると信じた。『君が代』の歌の根底にはこの信仰がある。単なる比喩ではない。これは石や岩といふ自然物が生きているという自然神秘思想から来ている。全てを命あるものとして見る自然信仰は、祖霊信仰とともに日本伝統信仰の大きな柱である。

 

「いは」の語源は「いはふ」である。「いはふ」は、「いへ」と同根の言葉で、霊魂を一処に留めて遊離させずに霊力を賦活させ神聖化する意味である。

 

そして「いはふ」は神を祭る意にもなった。神を祭る人(神主)を「斎主」(いはひぬし)、神を祭る宮を「斎宮」(いはひのみや)と呼ぶようになった。魂の籠ってゐる「石」を「岩」と言ふと言っていい。天照大神が籠られた「天の岩戸」は大神の神霊が籠られたところである。

 

家に籠ることを「いはむ」といふ。「いはむ」とは忌み籠ることである。「忌む」とは、不吉(ふきつ) なこと、けがれたことをきらって避けることである。特に、ある期間、飲食・行為を慎んで、身体をきよめ不浄を避けることを言ふ。「斎」(いつき・心身を清めて飲食などの行為をつつしんで神をまつる。いみきよめる。いはふ。いつく。ものいみする、といふ意)と同じ意である。「いつき・いつく」の「いつ」とは清浄・繁茂・威力などの意を包含してゐる神聖観念である。天皇の神聖権威を意味する御稜威(みいつ)はこの言葉から来てゐる。

 

日本の「家」(いへ)は、家を構成する人々つまり家族の魂が一処に籠ってゐるといふ意味である。従って、「君が代(天皇の御代)」が、「石」が「岩」になるまで続くといふことは、「天皇國日本」は魂の籠ってゐる永遠の國家であるといふことである。岩を霊的なものとしてとらへ、それを永遠無窮・天壤無窮の象徴としたのである。そういふ信仰を歌ってゐる歌が『君が代』なのである。

 

古代日本人は、石や岩に亡くなった人の霊魂が憑依し籠ると信じた。人々は、死者を葬った場所に大きな石を置き、遺体を石の下に埋める。わが國は古墳時代から墓に石を置いた。特に偉大な人の墓の場合は巨大な岩を置いた。墓を石で造るのは、石に魂が籠められるといふ信仰に基づく。また、墓を岩石で作るのは、地下に眠る人の霊魂がその岩石に封じ込まれ滅多に地上に戻らないやうするためといふ説もある。墓所に用いられて石は、地下の霊界と地上の現界とをつなぐ役目を果たすのである。

 

石や岩に霊魂が籠ると信じた日本人は、石は地上にありながら地下から湧出する生命・霊魂の威力を包み込んだ存在で、地下に眠る霊魂の象徴であり、よりしろ(憑代・依り代。神霊が宿るところ)と考へた。このように、『國歌君が代』には日本國民の伝統的天皇信仰・自然信仰が高らかに歌いあげられている。

 

また梅原猛氏は、太陽信仰・水への信仰の大切さを説いてゐる。日本人がとりわけ尊ぶ自然は、日と水と火である。この三つは、人間の生活に欠かせぬものであり、この三つの恩恵を受けることなしには人は命を保つことが出来ないからである。故に、日本神道は太陽神と国土の神と水の神を崇める。日本神道は、その最高神として太陽神であられ天照大御神を崇めてゐる。奈良の大仏も大日如来も、日本の太陽信仰・天照大御神信仰の仏教的展開である。

 

龍神信仰は水の神への信仰である。『日本書紀』には、天武天皇・持統天皇の御代に、非常に多く地震そして津波が発生したことが記されてゐる。また、頻繁に水と風の神である「廣瀬・龍田の神」を祭り、五穀の豊穣と風水害を無きことを祈ったと記されてゐる。

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