2017年12月11日 (月)

神祭りは、日本傳統精神の原点であり日本傳統文化の祖型である

 

神道の基本行事たる「祭り」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。祭祀は、〈神人合一〉の行事である。

 

「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰るといふ行事である。言ひ換へると、禊祓ひによって生成の根源に回帰するといふことである。「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」といふのである。

 

神祭りは、日本傳統精神の原点であり日本傳統文化の祖型である。

 

「祭り」とは厳粛なる行事ではあるが、堅苦しい苦行ではない。明るく愉快な行事である。神人融和・神人合一の状態は明るく面白いのである。

 

「阿波礼、阿南於毛志呂、阿南多乃之、阿南佐屋気、於気於気(あはれ、あなおもしろ、 あなたのし、あなさやけ、おけおけ)」

 

これは、天照大神が天の岩戸からお戻りになり、世界が明るさを取り戻した際、天の岩戸の前で神々が歌ひ踊って喜ぶ場面の掛け声である。

 

日の神たる天照大御神の再臨は、笑ひによって實現した。日本民族にとって「笑ひ」とは、暗黒や邪気を除去し明るい日の神を迎へる歓びであった。つまり祭りの原義と一體である。

 

日本人が「祭り」が好きなのは、日本人が本来明るい性格の民族であるからである。「面白い」といふの言葉は、實に天の岩戸開き以来の言葉である。神人合一とは、明るい面白い境地なのである。

 

我が國民が祭りが好きなのは、日本人が本来明るい精神を持ってゐるといふことである。厭世的でもなければ逃避的でもないといふのが我が國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓ひ清めることができると信じ続けてきてゐるのである。

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2017年12月10日 (日)

神社神道は共同体としての國家・國民の精神的基盤である

 

日本の伝統信仰である「神道」への理解が戦後大きく歪められてしまった。神道は、祭祀宗教であって、教団宗教ではないという事が忘却された。法律上、靖國神社が創価學會等の教団宗教と全く同じ「宗教法人」とされてしまった事が最大の問題である。

 

そして、「現行憲法」の「政教分離」の規定が、伊勢の皇大神宮・靖國神社などにまで及んでしまった。神社神道は、教団宗教とは全くその本質を異にしている。

 

しかし、それは『神社神道は宗教ではない』ということではない。神道は信仰共同体日本の生成と共にある祭祀宗教である。排他的な教条を持たず、独善的な布教を行わず、教祖がいない。神道は、共同体としての國家・國民の精神的基盤である。それは建國以来のわが國宗教史を見れば火をみるよりも明らかである。

 

日本の伝統信仰である神社神道は実におおらかにして明るい信仰である。明石に柿本神社という神社が鎮座している。別名を人丸神社と申し上げる。仁和三年(八八七年)、覚証という僧侶が、柿本人麻呂の霊がこの地に留まっているのを感得したとして、柿本人麻呂を祀る祠を建てたのが淵源で、元和六年(一六二〇)当時、明石城主であった小笠原忠政が神社を創建した。ご祭神は、申すまでもなく歌聖・柿本人麻呂である。

 

柿本人麻呂は、赴任地の石見から大和に帰る途中、明石海峡を通過する時、

 

「天離(ざか)る 夷の長通(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 倭島(やまとしま)見ゆ」

 

という名歌を詠んだ。明石が人麻呂ゆかりの地であることは確かである。

 

ご神徳は、「学問・和歌・安産・火災除・夫婦和合」の神である。なにゆえ人麻呂が安産の神なのかと言うと、ヒトマロとは「人産()まる」という意味に通じるからだそうである。またなにゆえ「火災除け」すなわち防火の神であられるかというと、ヒトマロは「火止まる」に通じるからだそうである。またなにゆえ人麻呂が夫婦和合の神とされるのは、妻を思ふ歌を多く詠んだからだそうである。

 

こじつけ・語呂合わせ・駄洒落と思ってはならないと思う。きっと防火や安産とは直接的には関係のなかった人麻呂はあの世で驚いていると思うが、日本人はかくの如く、おおらかで明るい信仰心を持っているのである。そして天地万物万象を神として拝むのである。またすぐれた人を神として拝むのである。

 

信仰とは人を明るくさせるものでなければなりません。人を暗くし、闘争心をかきたてるような信仰は誤りだと思う。日本民族は本来明るくおおらかな民族なのである。宗教が闘争戦争の原因になるなどということは全くあってはならないことである。

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2017年11月28日 (火)

日本の宗教精神の寛容性

 

 中東やヨーロッパの歴史を見ると宗教はもっとも非寛容であり、度々宗教戦争が繰り返されている。

 

 日本においてはその宗教ですら実に寛容であって、天皇を祭主と仰ぐ日本固有の信仰(神道)は外来仏教を受け容れて融合している。しかも皇室の祭祀を拝しても明らかなように、日本固有の信仰は形を変えずほぼ古代のままに継承され生き続けている。これは世界宗教史上においても希有な現象である。

 

 日本人の人生観・世界観の基本に、天と地への崇敬の心言い換えれば天神(天の神)と地祇(地の霊)に対する崇敬の心がある。そしてその祭り主が天皇である。

 

 日本民族は古代において儒教・仏教を受容し、近代において欧米文化を取り入れた。しかし神道と名付けられた日本伝統信仰を保持してきた。そして今日においても伊勢の皇大神宮をはじめとした全国の神社への国民の崇敬心は堅固なものがある。日本民族は、伝統信仰を中核に置いて外来文化を自家薬籠中のものとした。むしろ日本民族は仏教や儒教を借りて日本独自の精神を表現したと言っていい。

 

 このことについて柳田國男氏は「我々の固有信仰は、国の団結の大いなる必要に応じて、次第にその寛容の度を加へ、内外多くの神の並立両存を可能ならしめるほど至って協調しやすい素質をはじめから具へて居たものと、推測し得られる。…此点は、独り国内各地の神々の御間だけでなく、海を渡って遥々と送られて来た、新古の宗教に就いても同じ事が考へられる。…国民の中に人の祭り拝む神を、承認しようといふ態度は古くからあったのである。」(『参詣と参拝』)と論じておられる。

 

 日本民族の宗教的特質は、諸々の神々を崇拝の対象としたところにある。日本神話を読むと、日本人は人間が不可思議と思ったり偉大なる存在だと思ったものは全て神として拝み崇敬した。こうした神々を八百万の神という。

 

 日本が信仰共同体を形成するに際して、異なる土地の人々が崇め敬い祭っていた神を、迎え入れ、同じように祭るようになった。他人の拝む対象(神)を否定する事なく、八百万の神として受け入れた。狂暴にして他者に害を及ぼすと見られるような神をもこれを崇敬し祭ることによって人間に恩恵を施す神に転換させてしまう。こうした日本民族の宗教的柔軟性・無限包容力が、外来の宗教をも素直に受け入れた素地なのである。

 

 和辻哲郎氏は、日本の伝統信仰の包容性について、次のように論じておられる。「祭祀も祭祀を司どる者も、無限に深い神秘の発現しきたる通路として、神聖性を帯びてくる。そうしてその神聖性のゆえに神々として崇められたのである。しかし無限に深い神秘そのものは、決して限定せられることのない背後の力として、神々を神々たらしめつつもそれ自身ついに神とせられることがなかった。…究極者は一切の有るところの神々の根源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。言いかえれば神々の根源は決して神として有るものにはならないところのもの、すなわち神聖なる『無』である。それは根源的な一者を対象的に把握しなかったということを意味する。…絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することにほかならない。それに反して絶対者を無限に流動する神聖性の母体としてあくまでも無限定にとどめたところに、原始人の素直な、私のない、天真の大きさがある。それはやがて、より進んだ宗教的段階に到達するとともに、あらゆる世界宗教に対する自由寛容な受容性として、われわれの宗教史の特殊な性格を形成するに至るのである」(『日本倫理思想史』)。

 

 日本の伝統信仰の中心行事である祭祀は神聖なる行事として尊ばれて、祭り主(祭祀の執行者)も神聖なる存在として崇められた。その祭祀の対象は無限定の存在であり、無限包容力を有する存在である。つまり日本民族は人間が不可思議と思ったり偉大なる存在だと思ったものは全て神として拝み崇敬した。言い換えると祭祀のおいては、その対象を有る一定の神として限定的に把握しなかったのである。古代日本人のこうした信仰的態度が、後世日本民族が外来宗教を自由寛容に包摂した原因である。

 

 本居宣長は「何事もみな神の仕業にて、世中にわろき事共あるも、みな悪神のしわざに候へば、儒・仏・老(注・老子のこと)などと申す道の出来たるも神のしわざ、…儒も仏も老も、みなひろくいへば其時々の神也。」(『鈴屋答問録』)と述べている。日本伝統信仰のこのような驚くべき大らかな神観念が外来宗教受容の原点であろう。

 

 日本民族の神を祭る心は、宗教的ドグマや教条によるのではない。ただただ霊妙なる存在に驚き崇敬する心から発している。驚くべき存在・霊妙なる存在に対する崇敬の念が神を祭る心なのである。

 

 正月には数千万の人々が神社に参拝する。驚くべき存在・霊妙なる存在・畏敬すべき存在たる神を拝みに行くのである。だからある種の偶像を作ったり絵を描いたりしてそれを礼拝の対象とすることはなかった。太陽を崇敬する心が太陽を反射する鏡を拝んだのである。日本人の多くは、お彼岸にはお寺に行く。これもお寺にある先祖のお墓にお参りに行くのである。

 

 天皇への崇敬の心もそういう自然な心であった。日本民族の本然の心はあくまでも「大君は神にしませば…」という素朴な信仰であった。こういう心が日本人の尊皇心の原点であって、儒教の大義名分論や仏教の金輪大王の思想は、純粋なる天皇崇敬の心を外来の思想によって理論的に体系化したと言えるのである。

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2017年11月24日 (金)

「國家神道」が國家國民を戦争に駆り立てた」とするのは荒唐無稽の妄説

『神道指令』に登場した「國家神道」とはどういう定義なのか

大東亜戦争終結後、アメリカ占領軍は、わが國が二度と再びアメリカに刃向かうことのないようにするために日本を弱体化せんとして、様々な占領政策を行なった。その一つが、『神道指令』である。「日本が侵略戦争をした根源は『國家神道』にある」という考え方が蔓延しているのは『神道指令』が原因である。

『神道指令』に登場した「國家神道」という言葉は、一体どういう定義なのであろうか。「國家」と「神道」が結合している言葉であるが、小生には何となくいかめしく感じられる。小生は日本各地の神社に参拝させて頂いているが、各地の神社にお参りすればするほど、日本の神々は明るく大らかで平和な神々であると実感する。この精神を世界に広めることが大切だと思う。

「神ながらの道」という言葉の響きと「國家神道」という言葉の響きとは、随分違うように思われる。

村上重良氏は「國家神道」について、「明治維新から大東亜戦争終結までの約八十年間日本國民を支配していた國家宗教であり、宗教的政治制度であった。日本の宗教はもとより國民の生活意識の隅々に至るまで広く深い影響を及ぼした。日本近代は思想・宗教に関する限り國家神道によって基本的に方向付けられてきた」「それは近代天皇制の宗教的表現であり、神仏儒の公認宗教の上に君臨する、内容を欠いた宗教であった」「國家神道の原理を克服し、残影を消し去ることが民主主義に立つ政教関係を確立して、信教の自由を擁護するための不可欠の課題である」「國家神道は、まぎれもない國教であった」「教育勅語が國家神道の教典である」と論じている。(『國家神道』)

こうした考え方は、左翼だけでなく、今日、与党の一角を占めている公明党・創価學會の「反靖國神社」「反神社神道」の理論的根拠の一つになっている。

「國家神道」は決して戦前の問題ではない。皇室祭祀が「天皇の私的行為」などとされているのは、「皇室祭祀を『公的行事』とするのは『國家神道』の復活だ」という批判があるからである。また、靖國神社國家護持・総理大臣公式参拝に反対している勢力は、「國家神道の復活を恐れる」ということをその根拠の一つにしている。このように「國家神道」の問題はまさに今日的問題なのである。

村上重良氏は、「國家神道は内容を欠いた國家宗教に落ち着くほかはなく、國民の生活意識から遊離した制度上の宗教にならざるを得なかった」(國家神道)と断定している。神社神道が内容を欠き國民の生活意識から遊離していたのなら、國民の意識を支配することができない。それどころか影響を及ぼす事すらできず、國教には到底なり得ない。これは國家神道國教論と矛盾した論議である。

村上氏がいかに日本史に対して大きな誤解というか偏見を持った上で神道を論じているかは、次の記述に明らかである。「日中戦争下の一九三九年(昭和一四)に創建され、未鎮座のままに終わった官幣大社扶余神宮は…扶余の地に『内鮮一体』をあらわす神社としてつくられたが、その祭神は、応仁、斉明、天智の三天皇と神功皇后で、古代における朝鮮侵略の担い手たちが、神として植民地朝鮮に降臨したのである」(國家神道)

愚かな事を書くものである。斉明天皇・天智天皇が出陣せられた白村江の戦いは、わが國と友好関係にあった百済を、唐・新羅連合軍からの侵略から救うための戦いであったのだ。決してわが國による朝鮮侵略ではない。また、神話時代の伝承をそのまま歴史的事実として論じ、「日本は古代から朝鮮を侵略した」などと断じるのは全く誤りであり、村上氏の好きな言葉でいえば「時代錯誤」である。

一事が万事である。村上氏は「天皇を中心とした歴史と伝統の國日本」を破壊しようとして、過去の日本の歴史を罵り否定しているのである。そういう基本的立場から、「戦前の日本は、権力と一体となった神社神道(國家神道)を國教とした時代錯誤の帝國主義・軍國主義國家だ」と言い張っているのである。

日本人のナショナリズムは、尊皇精神・神國思想の勃興・甦りと一体である。

「國家神道」という言葉は、前述したように、「國家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件(神道指令)」(昭和二十年十二月十五日 連合國最高司令部日本國政府宛覚書)に登場した言葉である。戦前において一般的に用いられていた言葉ではない。

この「神道指令」には「本指令の目的は宗教を國家より分離するにある、また宗教を政治的目的に誤用することを防止し正確に同じ機會と保護を与へられる権利を有するあらゆる宗教、信仰、信条を正確に同じ法的根拠の上に立たしめるにある、本指令は啻に神道に対してのみならずあらゆる宗教、信仰、宗派、信条乃至哲學の信奉者に対しても政府と特殊の関係を持つことを禁じまた軍國主義的乃至過激なる國家主義的『イデオロギー』の宣伝、弘布を禁ずるものである。本指令の中にて意味する國家神道なる用語は日本政府の法令に依つて宗派神道或は教派神道と区別せられたる神道の一派(國家神道或は神社神道)を指すものである」と書かれている。

当然のことながら「國家神道」という言葉は、英語を我が國語に翻訳した言葉である。「State Shinto」という言葉が、「國家神道」と翻訳された。state とは権力機構としての國家を言う。自主独立した主権のもとの共同体としての國家(nation)や、同一國民が帰属する共同体としての國家(country)とは異なる。あくまでも國家権力を意味する。

國家権力が宗教と一体となることは、他の宗教を認めないどころか権力によってこれを弾圧し消滅させることがある。一神教や共産主義というイデオロギー宗教と一体であった國家権力はこうした事を行なったし、現に行なっている。『神道指令』の言う「國家神道」とは、「國家権力と一体となって排他独善の一神教的神道イデオロギーを宣伝し弘布する神社神道」のことらしい。

そして、村上重良氏は,この國家神道体制が、明治維新から終戦までの八十年間の長きにわたってわが國において確立されて、神社神道が國家権力と一体となり他の宗教をすべて否定し弾圧し圧迫してきたと主張している。そしてそれが「侵略戦争」を推進し日本國を破滅させたというのである。

しかし、戦時下にあっては何処の國でも思想統制を行なう。わが國においても昭和十年代にそうした事が行なわれた。しかしそれは、神社神道と國家権力が一体となって行なったのではない。戦前の神社神道が國家権力と一体となって教団宗教を弾圧したなどということはない。

神社神道すなわち全國の神社は、戦時体制となった昭和十年代(満州事変以降)においても、古来からの祭祀を続けていただけである。一体、日本國中の神主が、声を嗄らして戦意高揚の演説を行ない戦争を煽ったなどということは、ごく一部の例外を除いてなかった。

神社神道は、明治十年代ごろから「宗教ではない」とされて、神社及び神官が神道思想普及する事が憚られる状況にあった。神道思想さえ宣伝出来ないのに、政治問題・外交問題などについての意見を神官が氏子などに説く事は、余計憚られた。

葦津珍彦氏は、「大東亜戦争で人心が極度に緊張するとともに、在野の熱烈な神國思想が猛然として國民の間に広まった。しかし『帝國政府の法令に基づく國家神道』の世俗合理主義的言論からは、國民の内心に感動を与へ、確信を与へるものは出て来なかった。」(國家神道とは何だったのか)と論じておられる。

大東亜戦争という國家存亡の危機に際して、日本人のナショナリズムが高揚した。大東亜戦争中、全國津々浦々の神社で戦勝祈願が行なわれたことは事実である。日本人のナショナリズムは、尊皇精神・神國思想の勃興・甦りと一体である。白村江の戦い前後の唐・新羅連合軍侵攻の危機、元寇、明治維新、大東亜戦争がそういう時であった。そのような時に、神社への参拝が盛んになり、神社神道の基本行事である祭祀によって戦勝祈願が行なわれるのは当然の事である。戦勝祈願は全国の神社仏閣で行はれたのである。「國家神道(=國家権力と一体となった神社神道)が戦争を煽った」とするのは荒唐無稽の妄説である。

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2017年11月23日 (木)

神社神道によって仏教が圧迫され信教の自由が脅かされたなどということはなかった

日本民族の精神的強靭さの根底に神道思想があるのは事実である。しかし、昭和十年代に興起した愛國心が、神國思想(神社への崇敬心)・尊皇心と一体だったからといって、神社神道が國家権力と一体となって國民を洗脳し信教の自由を奪い、國家國民を戦争へ駆り立てたなどというのは全く誤りである。

 

しかもその「國家神道」なるものが、明治維新以来八十年の長きにわたってわが國の思想界・宗教界に君臨し支配したなどという主張は幻想どころか妄想である。

 

村上重良氏は、『教育勅語』が『國家神道』の「教典」だったと言う。教典とは、絶対無条件で信じるべき教義(独善的観念大系)が書かれている書物である。ところが『教育勅語』はそれを拝すれば火を見るよりも明らかな如く、國民道徳の基準として學校教育を根本から支えた明治天皇の「おさとし」である。『教育勅語』にはいわゆる『國家神道』なるものの教義などは一切書かれていない。申すも恐れ多い事ながら、『教育勅語』には、「神」の字は一字もない。『國家神道』なるものの「教義」が書かれていないのにどうして『教典』なのか。もっとも「國家神道」などいうものは村上重良氏の幻想であり妄想なのだから、教義などはあり得ない。村上氏自身、「國家神道は内容を欠いた國家宗教」と書いているではないか。

 

新田均氏著「『現人神』『國家神道「『現人神』という幻想」によると、井上毅が『教育勅語』起草に際して首相の山県有朋に提出した意見書(明治二十三年六月)には、「勅語ニハ敬天尊神ノ語ヲ避ケザルベカラズ何トナレバ此等ノ忽チ宗旨上ノ争端ヲ引起ス種子トナルベシ」「世ニアラユル宗旨ノ一ヲ喜バシテ他ヲ怒ラシムルノ語気アルベカラズ」と書かれているという。

 

この意見書を見ても分かるとおり、明治の御代の政治家たちは神道を重んじたが、他の宗教、特に仏教に大変気を使ったのである。明治政府の要路に「仏教を叩き潰して神道を國教にしよう」などと考えている人はいなかった。「國家神道」なるものが明治初期からあって全宗教の上に君臨していた、などということは絶対になかったのだ。

 

慶応三年十二月九日の『王政復古の大号令』に「諸事神武創業の始に原(もと)つき」と示されているとおり、明治維新当初は、祭政一致の古代國家再生が実行されようとした。しかし、「祭政一致」は文明開化路線とは相容れずかつまた仏教教団の反対にあって頓挫してしまった。そして、「神道は宗教にあらず」という仏教教団の主張が取り入れられたという。

 

明治初期に「神仏分離令」が出され、廃仏毀釈が行なわれたことを以て神道が國教化し仏教が圧迫されたとする説がある。しかし、神仏分離は排仏ではなかったし、廃仏毀釈の動きにーは一時的に流行であったし、それには理由があった。

 

廃仏毀釈は、徳川幕藩体制下で、神道・神社が仏教から圧迫され制約を受けていた反動である。また、徳川幕府が仏教を尊崇し仏教教団を支配の道具として利用したので、徳川幕府打倒の戦いであった維新が成就した後に、仏教が圧迫されたのである。しかし廃仏毀釈は長くは続かなかったことは歴史に明らかである。

 

近代日本八十年の歴史において、神社神道によって仏教などが圧迫され布教の自由・信教の自由を脅かされたなどということはなかった。むしろ神社神道がその宗教性を除去されたと言って良い。村上氏の「國家神道が神・仏・基の上に君臨し支配した」などという説は誤りである。神社神道はむしろ仏教教団の政府に対する工作活動によって形骸化されたというべきである。

造化の三神への信なくして神道はあり得ない

 

この神社神道からの宗教性の除去とは、具体的にいえば、造化の三神を無視するということであろう。

 

明治八年三月、島地黙雷という浄土真宗の僧侶(この人は長州の勤皇僧で、明治維新の戦いの時に僧兵団を組織した戦ったという)が起草し、大谷光尊が太政大臣三条実美に提出した『宗門上相戻候大意』には「(天照皇太神は来世救済などの宗教上の談ではないからこれを崇敬するが)…造化三神ノ儀ハ近来一種ノ神道者流古事記ニ依テ…尊奉致シ…國体ノ談ニハ管係無之自ラ宗教ノ位地ニ相当リ候」と書かれている。(葦津珍彦先生著『國家神道とは何だったのか』参照)

 

これは、実に重要な文章である。浄土真宗を始めとした仏教教団の政府への影響力は強かった。特に浄土真宗は明治維新に貢献したので影響力が大きかった。維新の志士・明治政府の要路(特に長州出身者)にも真宗門徒がいた。

 

「神社神道非宗教説」とは、「造化三神への信仰を除外した神社神道」と言うことができるのではないか。近代日本におけるいわゆる「國家神道」の形骸化とはこのことである。

 

小生は、造化の三神(天之御中主神・高皇産霊神・神産巣日神)への信なくして、神道はあり得ないと思う。造化の三神は『古事記』冒頭に登場される神であり、わが國神話の根本である「天地生成の神」であられる。この神を否定することは日本神話否定・國體否定と同じである。

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2017年11月12日 (日)

日本の神について

 

本居宣長の『古事記伝』には次のように書かれている。 「凡て迦微とは、古御典等(イニシヘノフミドモ) に見えたる天地の諸(モロモロ)の神たちを始めて、其(ソ) を祀(マツ)れる社に坐御靈(イマスミタマ)をも申し、又人はさらにも云鳥獣(トリケモノ) 木草のたぐひ海山など、其余何(ソノホカナニニ) にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ) き物を迦微とは云なり」と。

 

宣長は「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きものが神である」と定義している。「可畏し」という言葉の意味は、おそれおおい、もったいない、貴い、はなはだしい等々であろうが、それらを総合したような感情において神を考えるということであろう。日本民族は、天地自然に素直なる感動と畏敬の念を持ち、天地自然を神として拝んだのである。また、死者の靈も神として拝んだ。一神教の神観念とは大きく異なる。

 

それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかというとそうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」という一定の相形(すがたかたち)はない。神は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまうのである。

 

『古事記』冒頭の「天之御中主神」をいかに把握するかは古来日本神道上非常に重大な問題である。『古事記』冒頭には、「天地初發の時、高天原になりませる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。

 

日本神話においては神の御名が大きな意義を持つ。古代日本人は、神秘的信仰的な感動をもって神の名を付つけたのである。「天之御中主神」という御名は、日本人の壮大な神観・宇宙観を表している。「天」の「御中」の「主」の神である。大國主・大物主という神がいますごとく、日本人は「主(ぬし)」に対する尊敬心が深かった。天之御中主神は、「大宇宙の中心にいます主宰神」と申し上げて良いと思う。

 

しかもこの神は、「天地初發の時」に「高天原になりませる神」である。天と地が初めては開かれた時に高天原に成りました神である。天地を創造したのではなく、天地と共に「なりませる(遍在する)」神である。「創造」は創造する神と創造された物が隔絶した関係となるが、「生成」(なりませる)は神と天地萬物萬生は根源的に一体関係であるとして把握される。つまり、天之御中主神は「天地の生成の本源神」として把握されている。したがって単に日本民族特有の神あるいは単なる祖先神・自然神として把握されるべきではない。仏教の久遠の仏、キリスト教などの絶対神(怒りの神・妬みの神ではなく愛の神としての絶対神)と本質的には同じ存在であると把握すべきである。

 

さらに『古事記』には、天之御中主神の次に高御産巣日神、神産巣日神の名が示されている。そして「この三柱の神は、みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されている。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は、独り神すなわち“唯一絶対神”であり、宇宙の根源神としてと書かれている。この三柱の神は「造化の三神」といわれるが、宇宙根源神・絶対神の「中心帰一」「多即一・一即多」「むすび」の原理を神の名として表現したのである。

 

この三柱の神は、天地宇宙の萬物萬生の普遍的根源神であるから、特定の個別化されたお姿を現されることはなく御身を隠されるのであるのである。だから、「みな独神になりまして、身を隠したまひき」と示されているのである。日本國の神社には、太陽神・皇室の祖先神であられる天照大御神や、その弟神で豊饒神であられるの須佐之男命などをお祭りした神社は多いが、天之御中主神を個別神として祭った神社は非常に少ない。

 

換言すると、天之御中主神は、唯一絶対神という概念に凝り固まって祭祀や・りの対象になりたもうことはないのである。唯一絶対神であると共に八百萬の神々の「御親神」であられる。<一即多・多即一>の神であり、最高唯一神であるとともに萬物・萬生包容の神である。無限の可能性を有する大いなる宇宙主宰神・宇宙本源神が天之御中主神である。八百萬の神々は天之御中主神が無限の姿に現れ出られた神々である。

 

天之御中主神と一体の関係にある高御産巣日神、神産巣日神は、ムスビの神であり結合の原理であって、結びということが可能なのは“本来一つ”であるからなのである。この“結びの原理”(それは愛・和合・調和・合一と言い換えても良いと思う)というものが絶対神の中に、既に内包されているのである。天之御中主神は単なる理念の神ではなく、愛・和合の神と一体のである。

 

また、日本神話においては、神が天地を創造するのではなく、天地は神と共に「なりませる」存在なのである。天地・國の生成は、絶対神のうちに内在する“結びの原理”の展開としてあらわれてくるのであって、日本的思惟においてはすべて“一”をもって“創造の本源”とし、そこから無限の生きとし生けるもの・ありとしあらゆるものが生成するのである。そこに、多即一・一即多・中心帰一という大らかにして無限の包容性を持つ文字通り「大和(やまと)の精神」たる日本的思惟の根元が見出されるのである。

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2017年11月11日 (土)

近世國學について

 

近世國學とはいかなる思想運動であったのであらうか。十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジアは、西洋列強・白色人種による侵略支配の危機に瀕してゐた。日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を深化させんとする運動が起こった。それが近世国学運動の思想である。

 

國學運動は世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。キリスト教や、欧米の歴史や現状についても研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

國學運動の底流にあったのは、日本伝統精神への回帰であり、日本國體の開顕である。さういふ思ひは、次に挙げる国学者たちの歌に表れてゐる。

 

最も早い時期の国学者であり、國學の始祖といはれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

「ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは」 

(よく道を踏みわきまへて間違はないやうにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ)と詠んだ。「唐鳥の跡」は漢籍・漢字のこと。

 

八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を荷田春滿に依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。さうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

「神國の 道ふみそけて 横さらふ いづくにいたる汝が名のらさね」(わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のやうに横這ひの道を歩む者共よ、お前の名は何と言ふのか、名乗ってみろ)と詠んでゐる。

 

雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の外来の学問に現を抜かしゐる者たちに対して憤慨してゐるのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌ひあげてゐる。この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。荷田春滿は儒教と仏教、鹿持雅澄は蘭学に対して批判的態度を示してゐる。

 

さらに鹿持雅澄は、ペリー来航を憂ひて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

「神風に 息吹きやらはれしづきつつ 後悔いむかも おぞの亞米利加」(神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであらう。愚かなアメリカは)と詠んでゐる。かうした憂国の至情と気概が学問の奥底にあったのである。

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2017年11月 7日 (火)

近世國學思想について

 

十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジアは、西洋列強・白色人種による侵略支配下にあった。そしてそれに抗して、アジア各地において民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

 日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こった。それが近世国学運動の思想である。

 

 国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

 キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

 国学運動の底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないといふ悲憤慷慨の思いであった。危機的状況を迎えんとしてゐた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないといふ精神が国学運動を起こしたのである。国学は幕末期の日本に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。

 

 そしてさういふ思ひは、次に挙げる国学者たちの歌に表れてゐる。

 

 最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは 

 

 「よく道を踏みわきまえて間違わないようにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」というほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

 八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。そうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

 また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

神國の 道ふみそけて 横さらふ いづくにいたる 汝が名のらさね

 

 と詠んでいる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言うのか、名乗ってみろ」というほどの意。雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨しているのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌い上げている。

 

 この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示しているのである。

 

 さらに雅澄は、ペリー来航を憂いて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

神風に 息吹きやらはれ しづきつつ 後悔いむかも おぞの亞米利加

 

 と詠んでいる。「神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであろう。愚かなアメリカは」というほどの意。この憂国の至情と気概が、彼の学問の奥底にあったのだ。

 

 さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝をりふせて 嗚呼といふめり

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」というほどの意。児童子供といえども、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しということを歌っているのである。

 

幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかるのである。

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2017年11月 2日 (木)

本日聞いたとても印象に残った話

 

本日聞いた大変印象に残った話を記します。

 

        〇

 

地域における神社の大切を認識しなければならない。日本らしさ・地域らしさを支えているのは神社。

 

 

 

日本人のライフスタイル・文化が神道。天照大神が女性であるのは素晴らしい。私たちはみんな女性のお蔭で生まれている。女性がいなければ私たちは生まれない。

 

 

 

古いものと新しいものとが同居しているところに日本の良さがある。神社は歴史を再発見し、未来につなげる働きをする。

 

 

 

二十年後には、現在ある神社の四〇パーセントは消える。少子高齢化。過疎化で氏子がいなくなる。全国に神職は二萬二千人いる。僧侶は三十萬人いる。神職の七割が兼業。農業・教員・役人をしている。神社は滅びゆかんとしている。

 

 

 

             〇

 

神社が二十年後には四〇%無くなるという話には驚いた。東京にいて、大きな神社ばかりを参拝していると、とてもそんな実感は湧かないが、たしかに地方の神社は存亡の危機にあるのかもしれない。二十年ほど昔、父の故郷徳島の阿波神社に父と共に参拝した時、神職はいなかった。土御門上皇が御祭神であられるので、とてもさみしい気がした。第八十三代・土御門天皇は、後鳥羽天皇の第一皇子。承久の変の後、御自らの御意思で土佐の国にお遷りになり、その後、阿波の国にお遷りになり、阿波の國で崩御された。

 

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2017年10月23日 (月)

神道と近代日本

戦前、神社は内務省神社局の管理下に置かれ、神職は公務員であった。政府の基本的考え方は、「神社神道は宗教にあらず儀礼である」ということとなっていたという。私は明治大正昭和前期までの実際の神社神道については体験的に知っているわけではないので、確定的なことは言えないが、日本国民の伝統的信仰精神が隠蔽されたと見る事が出来る。勿論、神社神道においては、「御託宣」とか「神がかり」は行われなくなったと思われる。神社は専ら儀礼としての祭祀のみを行い、神道精神に基づく宗教的救済活動も行わなくなった。そして、実際に民衆に対する宗教的救済活動は、天理教・金光教・黒住教・大本教などの教派神道が行うようになった。

 

葦津珍彦先生は、

「明治維新に際して「祭政一致」「神仏分離」「大教宣布」の国策決定に大きな働きをした玉松操などをはじめとする主要人物や活動家は、明治3年には早くも政府中枢と対決を生じて、その後10年のうちに追放され、刑死され、戦没するなどして、いわゆる神道勢力全般は「残党なお亡びず」といった悲惨な状態になってしまっていた」

 

「神社局の消極主義は、無精神、脱イデオロギー、ことなかれ主義とも言いかえる事ができ、神宮神社を著名な天皇、皇族、または国家、郷土に功労のあった人々を崇敬するためのモニュメントとして、神霊を祀る神道独自の精神を著しく否定するものだった。神社局長のポストが任官待ちのポストで祝詞も古典も知らないような官吏が腰かけにするようなものであったところをみても、いかに当時の政府が神道に何の期待もしていなかったかがわかる 」(「武士道、天皇、国家神道」)

 

「神社は宗教に非ず」との政府の公式見解は、古来の日本人の神道信仰心理を抹消しようとした。…内務省の公式見解は、議会、とくに衆議院の建議者たちとは異なって、非宗教といふことを、きはめて世俗の常識合理主義の意味での国家精神(国民道徳)以上のなにものでもないとの意味に解することになった。その解釈を要約すると、神社とは、日本帝国の天皇、皇族または、国家社会に特に功績のあった人格者に対して、伝統的な礼法をもって表敬すべき場所であるといふことである。神主は、国家的記念堂(メモリアル・ホール)の儀礼的執行者であり管理人であって、特殊格別の宗教信仰心や思想を持つものではない。忠良な臣民としては、仏教、儒教、キリスト者と同一の国民精神を持つべきで、神道といふ特殊の宗教や思想の対立的独自の立場があるべきではないといふのである」(「国家神道とは何だったのか」)

と論じておられる。

 

明治維新当初は、祭政一致の古代国家再生が実行されようとしたが、それは文明開化路線とは相容れずかつまた仏教教団の反対にあって頓挫してしまった。神道はむしろ形骸化されたと言うべきである。

 

仏教を尊崇し、檀家制度を体制維持の手段にした徳川幕府打倒の戦いであった明治維新の後、明治初期に「神仏分離令」が出され、廃仏毀釈が行なわれたのは徳川幕藩体制下で、神道・神社が仏教から圧迫され制約を受けていたことへの反動である。

 

近代日本においては、神社は宗教ではないとされた。ただ、国民道徳上の儀礼ということになった。「神」も遺徳ある先人と言う事であり宗教上の神ではない。神社神道によって仏教などが圧迫され「布教の自由・信教の自由」が脅かされたなどと言うことはなかった。むしろ神社神道がその宗教性を剥奪されたと言って良い。

 

第二維新すなわち明治維新の理想貫徹をめざした人々=神風連は勿論西郷隆盛や江藤新平らは、大体神道を重んじ、キリスト教や仏教には批判的であったが、そういう勢力が弱まってしまった。

 

近代日本の政府は「神道は宗教ではなく神職は宗教家ではないから宗教活動・布教活動はしなくて良い」というのが基本方針であった。「国家神道が国教だった。国家神道以外は迫害された」などという主張は全くの幻想であり虚構である。

 

しかし、神道の祭祀は、天皇・皇室そして全国の神社で継承され、それが日本国民精神・文化伝統の基軸・基盤となっていた。

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