2019年5月10日 (金)

神を祭る心の回復が大切である

和辻哲郎氏は、その著『風土』において次のように論じている。
「我々は自然の合理的な性格と非合理的な性格とのいずれが著しく目立っているかによって芸術に著しい相違が現われて来たのを見る。…ヨーロッパにおいては、温順にして秩序正しい自然はただ『征服さるべきもの』、そこにおいて法則の見いださるべきものとして取り扱われた。……自然が最も重んぜらるる時でも、たかだか神の造ったものとして、あるいは神もしくは理性がそこに現われたものとしてである。しかるに東洋においては、自然はその非合理性のゆえに、決して征服され能わざるもの、そこに無限の深みの存するものとして取り扱われた。人はそこに慰めを求め救いを求める。特に東洋的なる詩人芭蕉は、単に美的にのみならず倫理的に、さらに宗教的に自然に対したが、そこに知的興味は全然示さなかった。自然と共に生きることが彼の関心事であり、従って自然観照は宗教的な解脱を目ざした。かかることは東洋の自然の端倪すべからざる豊富さをまって初めてあり得たことであろう」。

ヨーロッパの自然は、比較的温順にして秩序正しいので、神が創造した自然は、神の創造物の中で最も高い地位にある人間によって支配され改造され利用されてよいという思想が生まれたと思われる。これがヨーロッパの自然観である。こうした自然観が、自然を改造し利用して科学技術を発達させたが、自然破壊につながった。

日本をはじめとした東洋の自然は比較的厳しく秩序もないので、人間は自然と共生し、自然を畏怖すべきものとして接してきた。そして自然を「神」として拝み、信仰の対象にした。

近年の自然災害の多発は、まさに自然の非合理の極であり、人間が自然を征服するどころか、自然が人間を征服することを実感させた。

われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどという傲慢な考え方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。ただし、自然に宿る神々には、和やかな神もおられれば、荒ぶる神をおられるのである。

日本国土も自然も實に美しい。山・川・海の景色は實にすばらしい。四季の変化も規則正しく、気候も比較的穏やかである。しかし自然は、時に、ものすごい猛威をふるい、人間に襲いかかって来る。そして人間の命を奪い、生活を破壊する。

日本における科学技術の進歩とその利用は目を見張るものがある。現代社会の快適な生活は、その科学技術によるものである。しかし大自然は、時としてその科学技術によって成り立つ人間の快適な生活をも一瞬にして破壊する。そして人間は、悲惨に状況に追い込まれる。

文明は発達し、科学技術が進歩した、その恩恵によって成り立っている現代人の生活は、自然の猛威によってもろくも破壊され、多くの人々が惨禍に喘ぐこととなる。科学技術が進歩しているが故になおさら惨禍がひどくなる。今回の大地震を見てそれは明らかである。

われわれは、自然および科学技術文明との付き合い方を今一度深く考えなおすべきではあるまいか。麗しき自然に恵まれつつも自然の脅威にさらされる日本民族、科学技術を巧みに使いこなして来た日本民族は、そういう使命を帯びていると思う。

科学技術至上主義・物質至上主義・営利至上主義・快楽主義に汚染され続けてきた日本及び日本國民の頽廃を救うには、日本の傳統精神・國家観・人間観を回復する以外に道はない。

そのためには、「現代に生きる神話」たる<天皇の祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復しかないのである。我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心、そして、「農」を大切にされる御心を、道義的倫理的規範として習い奉るということが大切である。そして、日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るという信仰精神を回復しなければならない。

「神」は、人知では計り知れない靈妙なる存在である。日本人は古代より祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言った。

本居宣長は、日本に神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)」(『古事記傳』)と定義してゐる。

日本の自然の神々は、近年はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈であるといふことである。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをももらたすと古代日本人は信じた。

『古事記』の「身禊」の条には、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。

自然の中に精靈が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文學的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

近代以後、科學技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精靈として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替えようなどといふ文字通り神をも恐れぬ考へ方を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。「草木がものをいふ」古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

折口信夫氏は、「我々の古文獻に殘った文學は、しゞまの時代の俤を傳へて居る。我々の國の文學藝術は、最初神と精靈との對立の間から出發した。…神の威力ある語が、精靈の力を壓服することを信じたからである。…神代の物語として,語部(かたりべ)の傳へた詞章には、威力ある大神隱れ給ふ時、木草・岩石に到るまで、恣に發言した。さうして到る處に其聲の群り充ちたこと、譬へば五月蠅(さばへ)の様であったと言ふ。而も亦威力ある大神の御子、此國に來臨あると、今まで喚きちらした聲がぴったりと封じられてしまったとある。神威を以て妖異(およづれ)の發言を封じたのである。」(「日本文學における一つの象徴」)と論じ、『六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓』の「荒ぶる神等をば神問(かむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語問ひし磐ね樹立(こだち)、草の片葉(かきは)も語止(ことや)めて、天(あめ)の磐座(いはくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだ)し依さしまつりき」といふ一節を引用してゐる。

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めたのである。

日本傳統信仰は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ継承されてゐる。のみならず、現實に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食ひ止める大きな力となってゐる。

科學技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、日本には古代信仰・民族信仰が脈々と生きてゐる。伊勢の皇大神宮をはじめとした全國各地の神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本傳統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、國家の平安・國民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本國家の君主であらせられる。これが世界に誇るべき日本國體の素晴らしさである。

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2019年5月 4日 (土)

根津神社について

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今日、参拝させていただいた根津神社は、小生の地元の氏神・鎮守の神社です。東都北鎮といわれております。「由来書き」によると、根津神社の由緒は次の通りです。

 

「根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。

 

江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。宝永二年五大将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。翌年(1706)完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・透塀・楼門の全てが欠けずに現存し、国の重要文化財に指定されている。

 

明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。

 

御祭神は、須佐之男命・大山咋命・誉田別命・大国主命・菅原道真公」。

 

私は、全国各地を旅行し、神社仏閣などにお参りをしましたが、日本武尊にかかわる伝説は全国に数多くあります。また、須佐之男命を御祭神にしている神社がとても多いようです。

 

この御二方は、英雄神であられるとともに、大変な苦難を経験した神であられます。また「やまと歌」を詠みになっておられます。

 

須佐之男命の 「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という御歌は、わが国の和歌の発祥と言われております。

 

日本武尊は「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし」など多くのお歌を詠まれています。

 

二神とも、剣魂歌心を身を以て実行された英雄神てあられます。古来、わが国民はこの二神に特別の親しみと仰慕の念を持っていたと思われます。日本武尊が千駄木の地に須佐之男命を祀られたのが根津神社の発祥であるという伝承もそのことを証ししています。

日本は古代より言葉の真の意味における平和な國でありました。伊勢皇大神宮の祭祀とたたずまひほど平和で清らかなものはありません。伊勢皇大神宮に限らず、全國各地の神社・神宮は清浄であり、穏やかであり、美しい。

國全体の祭祀主として、天皇がおはします。日本各地に神社があります。天皇は祭祀共同体日本の精神的中心者であせられ、神社は各地の共同体村落の精神的中心であります。五穀の豊穣と民の幸福といふ共同体共通の祈りが捧げられ、願ひが訴へられる場が神社である。

 

神社とは、常に村全体、共同体全体の神が祀られてゐる社(やしろ)であります。そしてその神社に祀られてゐる神を「氏神」と申し上げ、その神社を崇敬する人々は「氏子」と呼ばれます。それぞれの共同体において日本の神々は「親」と仰がれ、民は「子」として慈しまれます。

小生が居住する東京下町の千駄木(旧町名・駒込坂下町)の周辺には古くからの神社があり、初夏から秋にかけて祭りが行はれます。わが家は、千駄木の隣町・根津に鎮座する根津神社の氏子です。根津神社の御祭神は須佐之男命で、景行天皇の御代に日本武尊が御東征の折この地に来られた時、千駄木の地に須佐之男命を追慕して創始したと傳へられます。

 

文明年間(一四六九~八七)大田道灌が社殿を奉建した。徳川五代将軍・徳川綱吉は宝永三年(一七〇六)、根津の地に社殿を造営しました。明治維新後、明治天皇により、勅祭社に准じられました。大東亜戦争で被災せず、徳川綱吉が造営した時の建造物が現存しており國指定の重要文化財となってゐまい。

わが町周辺は日本武尊の遺跡が多い。近くの湯島には日本武尊と弟橘姫を祀った妻恋神社があります。駒込といふ地名も日本武尊があたりを見渡して「駒込み(混み)たり」と言ったことに由来すると傳へられま。馬がたくさん生息してゐたといふ地名傳説です。

湯島には、湯島神社が鎮座します。御祭神は、天手力雄命・菅原道真公。雄略天皇二年(四五六)一月、勅命により創建されたと傳へられる。

北側の隣町・本駒込には、天祖神社が鎮座します。小生が通った中学校の隣にある神社で、御祭神は天照大御神。文治五年(一一八九)五月、源頼朝が奥州の藤原泰衡追討に赴く途次、靈夢により創建したと傳へられます。

本駒込には、さらに富士神社が鎮座します。御祭神は、木花咲耶姫命。加賀前田藩邸(今日の東京大学)に祀られていましたが、寛永五年(一六二八)の現在地に遷座しました。霊峰富士への山岳信仰の神社です。

東側の隣町・日暮里には、諏方神社が鎮座します。この神社はどういふわけが「諏訪」とは表記しないで「諏方」と表記します。御祭神は、建御名方命。元久二年(一二〇二)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したと傳えられます。日暮里・谷中総鎮守です。

このやうに、わが家近くの神社には、皇祖天照大御神、須佐之男命、天手力雄命、木花咲耶姫命、建御名方命、日本武尊、菅原道真公などの神々が祀られてゐるのです。そしてこれらの神社を中心とした共同体が今も生き続けてゐます。有難き限りです。

 

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2019年4月20日 (土)

国家的危機と敬神尊皇精神

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めたのである。

日本傳統信仰は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほ継承されてゐる。のみならず、現實に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食ひ止める大きな力となってゐる。

科學技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、日本には古代信仰・民族信仰が脈々と生きてゐる。伊勢の皇大神宮をはじめとした全國各地の神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本傳統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、國家の平安・國民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本國家の君主であらせられる。これが世界に誇るべき日本國體の素晴らしさである。

わが國の歴史を回顧すると、國家的危機の時こそ、尊皇敬神思想・愛國心が勃興し、その危機を乗り切ってきた。「白村江の戦ひ」に敗れ、唐新羅連合軍のわが國への侵攻の危機に見舞はれた時には、大化改新を断行し、天皇中心の國家體制を明徴化した。「壬申の乱」の後には、皇室祭祀および伊勢の神宮祭祀の制度が確立し『記紀』及び『萬葉集』が編纂され天皇中心の國家思想が正しく確立された。「元寇」の時には、それこそ全國民的に神國思想が勃興し國難を乗り切った。

幕末の外患の危機に際しては、尊皇攘夷を基本精神とする明治維新が断行され、日本の独立を維持し近代國家として出発した。今日の日本の危機的状況も、尊皇精神の興起・日本傳統精神の復興により必ず打開し乗り切ることができると確信する。

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2019年4月10日 (水)

大伴家持が「むすび信仰」を詠んだ歌

大伴家持が「むすび信仰」を詠んだ歌

たまきはる 命は知らず 松が枝(え)を 結ぶこころは 長くとぞ思ふ(一〇四三)

右の一首は、大伴宿禰家持の歌なり。

大伴家持の歌。「たまきはる」は「命」にかかる枕詞。色々な説があるが、魂が発展し、張り出し、外に出て行くといふ意。冬の季節には籠ってゐた虫も動物も草木も、春になると動物は動き出し、植物の葉は張り出すので、「春」の語源は「張る」であると言ふ。四季の変化はあっても、いのちは永久に生き生きとしてゐるといふことであらう。

「命」は寿命のこと。「松が枝を結ぶこころ」は、吉凶を占ひ、また無事・幸福を祈るために松の枝を結ぶ風習。松の枝を結ぶことによって、自分の命の長久を祈った。

通釈は、「寿命のことはよくわからないけれども、松の枝を結ぶ心は、寿命よ長くあれと思ふ心からだ」といふ意。

家持二十五歳の時の歌と言ふ。今よりもずっと平均年齢が低かったので、かかる歌を詠んでも不思議ではなかったのであらう。

この歌は「むすび」の信仰を詠んでゐる。「苔が生(む)す」といふのは、苔の命がどんどん発展成長することである。命が出現することを「むす」と言ふ。

天之御中主神と一体の関係にある、高御産巣日神、神産巣日神は、「生(む)す」といふ「天地生成の働き」を神格化し神の御名で表現したのである。「ムス」は生き物が自然に生ずる意、「ビ」は靈力の意であるといふ。また、「生産」「生成」を表はす「ムス」と「神靈」もしくは「太陽」を表はす「ヒ」との合成であるといふ説もある。

ともかく高御産巣日神、神産巣日神は、生命力の根源の神である。本居宣長は「凡てものを生成(な)すことの靈異(くしび)なる神靈(みたま)」としてゐる。高御産巣日神は男系の神であり、神産巣日神は女系の神であるとされる。

「むすび」は、生命の根源である。ゆへに「結び」を産靈とも書く。人間の生命は男と女がむすぶことによって発生する。「息子(むすこ)」「娘(むすめ)」の語源も「生す子」「生す女」である。男と女がむすぶ(和合する)ことによって新たに生まれた生命が「むすこ」「むすめ」である。

また、「むすび」は日本傳統信仰(神道)の根本原理の一つである。自然物を生み成し、結び合ふ靈性・靈力を「むすび」といふ。

「むすび」「むすぶ」といふ言葉は信仰的意義を離れても、「おむすび」「紐をむすぶ」といふ言葉がある通り、「離れてゐるものをからみ合はせたり、関係づけたりしてつなげる、まとまって形を成す」といふ意味で日常生活において使用される。

「庵をむすぶ」「巣をむすぶ」といふ言葉があるが、庵はいろいろな木材や草を寄せ集めむすぶことによって作られた。そのむすばれた庵や巣の中に人などの生きもの・靈的実在が生活する。つまり生きものの生活は「むすび」の力によって可能となる。

折口信夫氏は「むすびめしは、古代の人は靈的なものと考え、米そのものを神靈と考えている。神靈である米をにぎって、更に靈魂を入れておくと考えた。…それが人の身体へ入るともっと育つ。…水をむすぶのは、禊、復活の水を与えるとき、靈的水をあの形で人の中に入れたのだろう。靈魂のある水を掌のなかへ入れて、発達させておいて人の中に入れる。そして『むすび』の作用をさせる。」(『神道の靈魂思想』)と論じてをられる。

『國歌君が代』の「苔のむすまで」のムス、大伴家持の歌の「草むすかばね」のムスも、「生産する・生える・生ずる」といふ語と同根である。

西角川正慶氏は、「むすびなる語源は結びに外ならず、靈魂を肉体に来触せしめて、生命力を新たにすること、即ち神の持たるる靈威を宿らしめていることで…鎮魂にほかならぬ。…神話に於ても、天子の重大儀また危機に際しては、天神の御教へと共に、常にこの神の発動がある。」(『神道とはなんぞ』)と論じてをられる。
 
草や木の枝や根を「むすぶ」といふ行為は、生命の無事を祈る意義があった。旅人は松の枝などを結んで無事を祈ったのである。
「むすび」といふことが可能なのは“本来一つ”であるからである。この“むすびの原理”(それは愛・和合・調和・合一と言ひ換へても良いと思ふ)といふものが天地宇宙生成の根源神=造化の三神の中に内包されてゐる。

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2019年2月 6日 (水)

天皇国日本の生成は、祭祀による統合である

天皇国日本の生成は、祭祀による統合である

 

紀元節・建国記念の日が近づいてきましたので、わが国の生成について書いてみたいと思います。

 

わが国は、「豊葦原千五百秋之瑞穂國」(トヨアシハラノチイホアキノミヅホノクニ)と言ふ。トヨは美称。チイホアキは千年も五百年も長く豊作が続くといふ意。ミヅホは瑞々しい稲穂が稔るといふ意。稲作国家日本を祝福した言葉である。

 

つまり、この国土に生活してゐた人々は稲作生活を基本として共通の生活意識を持つやうになり、同一の祭祀や文化や言語を育むやうになったのである。

 

稲作は、一人で行はれることはない。田植えにしても刈り取りにしても共同作業である。さうした共同作業が周期的に繰り返されてゐる。さらに、稲作技術は祖先から継承するものである。さらに治山治水、田畑の生成も祖先の遺業である。つまり地域共同体と祖先の恩恵なくして、稲作生活は成り立たない。

 

そして、さらに根本的には、天地自然、太陽や水などの大自然の恵みなくしては稲作は成り立たない。

 

天地自然に感謝し、祖先に感謝し、豊作を祈念する行事が祭祀である。その祭祀・祭りは各家や共同体で行われる。かくして信仰共同体・祭祀国家が生成したのである。

 

その祭祀国家の基本にあったのは、共同体の中に生きる民衆の精神的物質的福祉即ち幸福である。民衆の福祉実現といふ根本的目的のために、祭祀が行はれ、その祭祀を中心として共同体が生々発展した。そして日本国全体の祭祀の中心的執行者が天皇であらせられる。古代においては、祭祀主と政治的統率者は一体であった。これを「祭政一致」と言ふ。

 

日本国を「ヤマト」と言ふ。高崎正秀氏は、舒明天皇の國見歌を論ずる論考で、「ヤマトといふトとは神座を指す意味を持ってゐるから、山の神事を行ふ座席――山の神座(カミクラ)――それがヤマトではなからうか。そこで行はれる神事儀礼呪術の威力の及ぶ範囲が同時にヤマトと呼ばれ、これが次第に国名になり、日本総國の国号にまで拡大されて行く」(『国見歌の伝統と展開』)と論じてゐる。

 

「大和」の語源は、「祭祀が行はれる山へ入り立つ口」即ち山の門(と)であり、山の門を抜けると広い平原=磯城平原に出る、そこを「やまと」と言ったといふ説もある。つまり、「やまと」とは「ヤマ・ト」(山の門=山の入口・「港」はミナ・ト即ち水の入口といふ)といふ意味である。

 

いづれにしても、「やまと」とは、日本天皇に祭祀よって統合された範囲の地を指すのである。天皇国日本の生成は、祭祀による統合なのである。

 

要するに、日本国家の成立は多くの祭祀共同体を統一する祭祀的統一であった。その祭祀的統一者・祭祀主が天皇であらせられる。日本国家統一の原基は、武力や権力による抑圧的支配ではなく、祭祀主の神聖権威である。古代日本信仰共同体の祭祀主が天皇である。祭祀主・日本天皇は国民と自然と神とのむすびの役目を果たされる。

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2019年1月 7日 (月)

日本国はまさに今に生きる祭祀共同体である

 

 

古代より日本は言葉の真の意味における平和な国である。伊勢皇大神宮の祭祀とたたずまひほど平和で清らかなものは無い。伊勢皇大神宮に限らない、全国各地の神社・神宮は本来清浄であり、穏やかであり、美しい。

 

日本各地に神社があり、国全体の祭祀主として、天皇がおはします。神社が無い共同体は殆どない。神社が共同体村落の精神的中心である。五穀の豊穣と民の幸福といふ共同体共通の祈りが捧げられ、願ひが訴へられる場が神社である。神社とは、常に村全体、共同体全体の神が祀られてゐる社(やしろ)である。そしてその神社に祀られてゐる神を「氏神」と申し上げ、その神社を崇敬する人々は「氏子」と呼ばれる。それぞれの共同体において日本の神々は「親」と仰がれ、国民は「子」として慈しまれるのである。日本国はまさに祭祀共同体である。

 

小生が居住する東京下町の文京区千駄木(旧町名・本郷区駒込坂下町)の周辺には古くからの神社があり、初夏から秋にかけて祭りが行はれる。わが家は、千駄木の隣町・根津に鎮座する根津神社の氏子である。根津神社の御祭神は須佐之男命で、景行天皇の御代、日本武尊が御東征の折、千駄木の地に須佐之男命を追慕して創始したと伝えへられる。文明年間(一四六九~八七)大田道灌で社殿を奉建した。徳川五代将軍徳川綱吉が宝永三年(一七〇六)、根津の地に社殿を造営した。明治維新後、明治天皇により、勅裁社に准じられた。大東亜太平洋戦争で被災せず、徳川綱吉が造営した時の建造物が現存しており、建造物は国指定重要文化財となってゐる。

 

わが町周辺は日本武尊の遺跡が多い。近くの湯島には日本武尊と弟橘姫を祀った妻恋神社がある。駒込といふ地名も日本武尊が辺りを見渡して「駒込み(混み)たり」と言ったことに由来すると伝へられる。馬がたくさん生息してゐたといふ地名伝説である。

 

南側の隣町・湯島には、湯島神社が鎮座する。御祭神は、天手力雄命・菅原道真公。雄略天皇二年(四五六)一月、勅命により創建されたと伝へられる。

 

北側の隣町・本駒込には、天祖神社が鎮座する。小生が通った中学校の隣にある神社で、御祭神は天照大御神。文治五年(一一八九)五月、源頼朝が奥州藤原泰衡追討に赴く途次、靈夢により創建したと伝へられる。

 

本駒込には、さらに富士神社が鎮座する。御祭神は、木花咲耶姫命。加賀前田藩邸(今日の東京大学)に祀られていたが、寛永五年(一六二八)の現在地に遷座した。霊峰富士への山岳信仰の神社である。

 

東側の隣町・日暮里には、諏方神社が鎮座する。この神社はどういふわけが「諏訪」とは表記しないで「諏方」と表記する。御祭神は、建御名方命。元久二年(一二〇二)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪神社より勧請して創建したと伝えられる。日暮里・谷中総鎮守と言はれる。

 

このやうに、わが家近くの神社には、皇祖天照大御神、須佐之男命、天手力雄命、木花咲耶姫命、建御名方命、日本武尊、菅原道真公などの神々が祀られてゐるのである。そしてこれらの神社を中心として共同体が今も生き続けてゐる。有難き限りである。

 

わが国は天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体が今日においても脈々と伝へられてゐる、といふよりも現実に生きてゐるところにわが日本国の素晴らしさがある。古代オリエント、古代支那、古代インドは、征服されて祭祀共同体は破壊され、そこに生きてゐた人々は個別化された。

 

わが国は、地域のみではなく、企業においても神社あるいは祠を立てて神を祭ってゐる。さうした神々は「企業神」と言はれる。企業神は無機質な利益追求の機能集団である企業に倫理的精神的結合を与へてゐる。

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2018年12月 5日 (水)

國學は明治維新の思想的基盤

 

 明治維新の思想的基盤である近世国学は、それまでの日本で重んじられていた儒教や仏教という外来思想に抗して、それとは別なる日本独自の「道」を主張した。そこに近世国学の特質があった。

 

 日本独自の道とは、日本民族が古来より持ち続けている信仰精神である。国学とは、古代日本精神の復興による当時の時代思潮への批判思想である。

 

 そして国学は政治思想という狭い範疇に属するものではなく、文献学であり、和歌の学問であり、国語学・国文学であり、神道学である。

 

 そして外来の思想や文化を「からごころ」(「から」とは支那のことであり支那を通して日本に伝来した思想や学問そしてそれをもととした思考のこと)批判を展開した。

 

 十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジアは西洋列強の侵略支配の危機に瀕していた。そしてそれに抗して、民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

 日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こったのである。それが近世国学運動の思想である。

 

 したがって、国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

 キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

 国学は幕末期の日本の危機に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。危機的状況を迎えんとしていた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないという精神が国学運動を起こしたのである。

 

 そしてその底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないという悲憤慷慨の思いであった。そういう思いは、次に挙げる国学者たちの歌に表れている。

 

 最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは 

 

 「よく道を踏みわきまえて間違わないようにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」というほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

 八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。そうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

 また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・萬葉集を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

神國の 道ふみそけて 横さらふ いづくにいたる 汝が名のらさね

 

 と詠んでいる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言うのか、名乗ってみろ」というほどの意。雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨しているのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌い上げている。

 

 この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。

 

 春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示しているのである。

 さらに雅澄は、ペリー来航を憂いて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

神風に 息吹きやらはれ しづきつつ 後悔いむかも おぞの亞米利加

 

 と詠んでいる。「神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであろう。愚かなアメリカは」というほどの意。この憂国の至情と気概が、彼の学問の奥底にあったのだ。

 

 さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

湊川 御墓の文字は 知らぬ子も 膝をりふせて 嗚呼といふめり

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」というほどの意。児童子供といえども、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しということを歌っているのである。幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかる。

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2018年11月21日 (水)

靖國神社と敬神崇祖の心

 

日本民族の宗教精神の基本は敬神崇祖(神を敬い先祖を崇める心)である。そしてそれはわが國の道義精神の基本でもある。毎朝、神棚と先祖の位牌のある仏壇を拝む家庭は、家庭崩壊もないし、子供が非行に走るということも少ない。國家も同じである。國家のため民族のために命を捧げた人々に感謝の真心を捧げる國は、正しき歩みを続ける。

 

わが國は今日、政治・経済・文化・教育の頽廃と荒廃は救いがたい状況にある。日本國の細胞が腐りはじめ、溶けて流れようとしていると言っても過言ではない。このような状況になっている根本原因は、日本國および日本國民が敬神崇祖の心を喪失しつつあるからである。外國からの内政干渉を恐れて、靖國神社という國のために命を捧げた人々を祭る宮に、内閣総理大臣が参拝をとがめだてするような輩が跳梁跋扈している事、そして参拝しない内閣総理大臣がいる事にそれは端的に表われている。

 

わが國は、仏教やキリスト教などの外来宗教が入って来る前から、自然や祖先などの亡くなった人々を神として祭る信仰があった。そしてそれは、建國以来今日に至るまで、生きた民族信仰として続いて来ている。それを神社神道という。日本全國の何処かで毎日のように神社の祭礼が行なわれている。つまり、神社神道は日本伝統信仰なのである。

 

総理の靖國神社参拝に内政干渉して来る共産支那は、アジア最大の軍國主義國家であり一党独裁の専制國家である。またわが國内において総理の靖國神社参拝に反対している勢力即ち反日宗教や左翼勢力こそ、排他独善の教義や思想を持ち、宗教団体を攻撃し弾圧する危険な体質を持っている。

 

「東京裁判」の判決即ち勝った側が敗者を一方的に裁いた結論を、我々の価値観として受け入れる理由はない。靖國神社問題の根本にあるのは、「東京國際軍事裁判」で、わが國が『戦犯國』という烙印を押されたことにある。そして大東亜戦争時に政府・軍の枢要な地位にいた人々が『A級戦犯』として殺されたことにある。

 

内外の反靖國神社勢力は、「靖國神社にA級戦犯が祀られているから、総理大臣が参拝するのはけしからん」と言っている。「東京裁判」は戦勝國によるわが國への報復である。「東京裁判」には、まともな裁判権はなく、何ら國際法的根拠を持たない。当事國が裁判官になったのがそもそもおかしい。わが國が「サンフランシスコ講和条約で、東京裁判を受諾した」というのは、刑執行について問題にしないということであって,東京裁判そのものを認めたわけではない。

 

いわゆる「A級戦犯」とは、講和条約が締結されていない時期すなわち戦時における勝者による敗者への復讐である「東京國際軍事裁判」において「死刑」の宣告を受け、殺された人々である。この方々は、まさに戦争において戦死された方々なのである。靖國神社に英霊として祀られて当然である。ゆえに、いわゆる「A級戦犯」と言われる方々は、正しくは「昭和殉難者」なのである。

 

東京裁判の唯一の権威であったマッカーサーは帰國後、米上院の軍事外交委員會での演説で、『日本が戦争に入ったのは主としてセキュリティーのためであった』と言った。マッカーサーは東京裁判が日本に押した侵略國家の烙印を否定したのである。

 

「東京裁判」の判決即ち勝った側が敗者を一方的に裁いた結論を、我々の価値観として受け入れなければならい理由がどこにあるのか。

 

繰り返し言う。七人の昭和殉難者を靖國神社にお祀りするのは当然であるし、祀るかどうかは日本が決める事である。外國があれこれ文句を言うのは、まさに内政干渉であり、主権侵害である。靖國神社について、外國からとやかく言われる筋合いはない。 

 

反日・反靖國思想は、今や左翼勢力や偏向マスコミだけでなく、与党内部にまで深く浸蝕している。かかる勢力を駆逐しない限り、日本國は真っ当な國家とはならない。

 

わが國がまともな外交が出来ない根本原因は,『過去の歴史問題』にある。戦後日本は、主権に関して怯懦であり鈍感であり、売國的・土下座外交が行なわれている。その責任は政治家にある。

 

わが國がまともな外交すなわち主権を正しく守りきる対外政策が出来ない根本原因は,『過去の歴史問題』にある。総理はじめ与野党の政治家そしてマスコミが『大東亜戦争は日本の侵略であり近隣諸國に惨禍を及ぼした』と謝罪しているのだから、支那や韓國からいかなる無理難題を吹きかけられても、主権を侵害されても、内政干渉されても、わが國は毅然とした対処が出来ないのだ。

 

「わが國は侵略をした悪い國であり,支那や南北朝鮮からどんなに主権を侵害されても,内政干渉をされても,文句を言ったり反撃してはならない」という観念が蔓延している。これはまさに「現行占領憲法」の基本精神なのである。

 

「現行憲法前文」には「日本國民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し…平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。これは「日本は東條内閣の行為によって侵略戦争を起こしましたが,二度とそのような事はしないことをお誓いします。今後はアメリカ様,ソ連様,中國様など戦勝國の皆様の公正と信義に信頼して、侵略を行なった悪い國であるわが國とわが國民の生存と安全を保持してまいります。今後は何をされても決してお手向かいを致しません」という『詫び証文』である。

 

この『わび証文』の精神を実践しているのが今日の日本の外交である。「憲法守って國滅ぶ」という言葉はまことに真実である。「現行憲法」の無効確認なくして真の主権回復はあり得ない。

 

祖國の歴史への正しい認識と國を守る心を常日頃持っていなければ道徳心は起ってこない。大東亜戦争は誇りある戦いであった事を正しく認識し、子々孫々に語り伝えなければならない。

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2018年11月19日 (月)

伊勢皇大神宮について

鈴木大拙氏著『禅と日本文化』に次のように書かれている。

 

「禅の茶道に通うところは、いつも物事を単純化せんとするところに在る。この不必要なものを除き去ることを、然は究極実在の直覚的把握によって成しとげ、茶は茶室内の喫茶によって典型化せられたものを生活上のものの上に移すことによって成しとげる。茶は原始的単純性の洗煉美化である」「茶人は書いている『天下の侘(注・わび)の根元は、天照御神にて、日()国の大主にて、金銀珠玉をちりばめ、殿作り候へばとて、誰あって叱るもの無之候に、茅葺・黒米の御供、其外何から何までも、つゝしみふかく、おこたり給はぬ御事、世に勝れたる茶人にて御入候』(石川流「秘事五カ条」)この筆者が天照大神をわび住居をする代表的な茶人と見なしているのは面白い。しかし、これは茶の湯が原始的単純性の美的鑑賞であること、換言すれは、茶は人間の生存が許しうるところまで自然に還って、自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現であることを示している」。

 

伊勢の皇大神宮の簡素さ、清浄さ、神聖さが、「原始的単純性の洗煉美化」「自然と一つになりたいという、われわれの心奥に感じる憧憬の美的表現」であると論じているのである。

 

世に宗教の殿堂は数多くあるが、伊勢の皇大神宮くらす簡素にして清らかで神々しい神殿は存在しない。宗教の殿堂には金銀珠玉をちりばめた豪華絢爛たる建物がある。覇者を神として祀った日光東照宮などはその典型ではないだろうか。

 

伊勢皇大神宮のご正殿から荒祭宮に向かふ途中に、御稲御倉(みしねのみくら)、外幣殿(げへいでん)がある。御稲御倉は、御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)をお祀りする祠である。祠といふことは穂倉であり、神宮神田で収穫された抜穂の御稲が納められてゐる。外幣殿は、古神宝類が納められてゐる。どちらも、高床式の穀倉から神殿に昇華した建物である唯一神明造である。

 

「唯一神明造」とは、弥生時代の高床式の穀倉形式である。檜の素木造(しらきづくり)の掘立式(柱の素を直接地中の埋めて作る方法)で造営されてをり、屋根は茅葺である。素朴であり、何の豪華さもない。しかし、言ふに言はれぬ清浄さと威厳がある。日本文化の簡素さと清浄さを体現する建物である。日本人の信仰精神の結晶である。

 

神を祀る社殿のことを祠(ほこら)と言ふのは、穂倉(ほくら)に由来するといはれる。人々の生命の根源である稲などの穀物の収蔵庫は神聖視されたので、神のまします建物が穂倉の形になったのであらう。

 

原初、わが国の伝統信仰には神殿は無かったとされてゐる。日本の神々は、祭祀が行はれる時に、神が居られるところから降臨されて、樹木や石などに依りつき、祭祀が終了すると元の所に戻られるとされる。今日の祭祀においても、降神の儀・昇神の儀が行はれてゐる。大神神社は今日においても、三輪山そのものが御神体であり、神殿はない。

 

しかし、時代の推移と共に、自然に神殿が造営されるやうになった。何故神殿が造られるやうになったのか。榎村寛之氏は「自然神から人格神に発展する過程で発生した」(『古代・律令体制の造替の開始』)と説いてゐる。これも一つの考へ方である。

 

「唯一神明造」の神殿は、日本人が生きてゆくために食する穀物を納める蔵の形に神殿が造られてゐる。まさに日本の神々は命の本源の神が鎮まられる祠である。

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2018年11月11日 (日)

『やまと』とは

 

「やまと」は、申すまでもなく日本国の意である。古義では、皇都のある国を中心としてその四辺を指したといふ。大和朝廷の都があった奈良盆地の東南地域が「大和(やまと)」と呼称されてゐたといふ。そして奈良中期になって、外国に対して日本国といふ観念になったといふ。

 

石井良助氏は、「やまと」とは、山門(やまと)即ち山への入り口といふ意であるとし、「そのやまとは三輪山辺りから東方の伊賀の山地に違いない。そして伊賀を超えれば伊勢である。大和より東方で、早朝太陽を仰ぐ勝地として五十鈴川の近辺に太陽神たる天照大神が祀られた」と論じてゐる。

 

高崎正秀氏は、「大和とは、神座を指す意味を持ってゐるから、山の神事を行ふ座席―山の神座―それがやまとではなかったらうか。そこで行われる神事儀礼の威力の及ぶ範囲が『やまと』と呼ばれ、これが次第に国名になり、日本総國に国号にまで拡大されていく」と論じてゐる。

 

「やまと」とは、「山上の神座(かみくら)」のことであり、「天皇が祭事を執行せられる地」を指したと思はれる。

 

「やまと」は、神話時代以来日本人の魂のふるさとであり、日本人の最も大切な心の置き所であった。日本武尊が恋慕した美しい国であった。古代歌謡や萬葉歌に「やまと」を歌ひこめた歌が多い。古代の歌人(うたびと)たちは常に「やまと」を思ひ、たとへ肉体は滅びても魂となって還るべき地が「やまと」であると思ってゐた。

 

元明天皇の御代の和銅六年(七一三)五月に『風土記』を編纂する勅令が出されると共に、雅字を用いた二字で地名を表すやうにとの勅令が下された。これを『好字二字令』『諸国郡郷名著好字令』と言ふ。

 

それまで、国名、郡名、郷名の表記の多くは、やまと言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないことが多かったので、地名の表記を統一する目的で発せられた勅令である。

 

さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいふ)を用いることになった。そこでそれまで「やまと」は「倭」といふ漢字が充てられてゐたが、「大和」と言ふやうになったといふ。ちなみに「下毛野」は「下野」(現栃木県)、「上毛野」は「上野」(現群馬県)、「泉」は「和泉」(現大阪府南西部)と言ふやうになった。

 

「やまと」といふ国号に「日本」といふ漢字を用いるやうになったのは、大宝元年(七〇一)の『大宝律令』に、「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらしめすやまとのすめらみこと)」と記されたのが最初とされる。支那の歴史書『旧唐書』に、西暦七〇一年に栗田真人を首席とする遣唐使が、支那に対してはじめて「日本」の国号を用いたと記録されてゐるといふ。

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