2017年6月29日 (木)

日本傳統信仰は自然の中に神の命を拝む心・祖靈を尊ぶ心

日本人は自然に対立せず、自然と共に生きて来た。自然と共に生きるとは、自然の命と人の命を連続したものと見ることであり、自然は神から生まれたという信仰、つまり自然の中に神を見る信仰から出てくる精神である。

 

わが國の神は「天津神、國津神、八百萬の神」と言われる。天地自然の尊い命であり、先祖の御靈である。日本傳統精神の本質は、自然を大切にし、自然の中に神の命を拝む心と、祖先を尊ぶ心である。日本傳統信仰は、日本人の農耕生活の中から自然に生まれた信仰で、天神地祇崇拝(祖先の靈と自然に宿る神を尊ぶ心)を基本とする。それは古代日本の稲作生活から発した大自然と人間の共生の精神でもある。

 

日本人は、自然の摂理に素直に随順し、人間と自然は相対立する存在とは考えない。人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。

 

わが國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも「神社の森」「鎮守の森」がその原点である。わが民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな「神社の森」「鎮守の森」を大切に護って来た。それは「鎮守の森」には、神が天降り、神の靈が宿ると信じて来たからである。「鎮守の森」ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精靈が生きており、秀麗な山には神が天降り、神の靈が宿っていると信じて来た。

 

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られた。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神の山と仰がれ今日に至っている。

 

さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが、海神(わたつみ)信仰・龍宮信仰である。海は創造の本源世界として憧憬され崇められた。

わが國傳統信仰は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に自分たちの祖先の靈を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」といふ。

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2017年6月20日 (火)

日本人の道義感について

日本人の道義感が失われつつある。政治家・官僚・学者など知的にも職業的にもエリートと言われる人々の基本的な道義感覚が薄れている。

 

文部事務次官をつとめた前川喜平氏は、天下り問題で、辞職を余儀なくされたことに「逆恨み」して、内部文書を暴露して官邸を攻撃した。

 

また、幼児に「教育勅語」を暗唱させるなど、一見まともな教育を行っていた学校法人「森友学園」(大阪市)が国や大阪府の補助金を不正受給したとして詐欺容疑などで家宅捜索を受けた。

 

広島県警広島中央署で証拠品の現金8572万円が盗まれた事件か起こり、未だに犯人が検挙されていない。九九パーセント内部犯行とされている。

 

官僚・政治家・警察官は「聖人君子」であるべしなどという気はない。しかし、人としての最低の矜持・道義感覚・倫理精神は持っていなければならないと思う。

 

科学技術が発達し、文明は進歩しても、人間の道義感覚がそれに伴って高くなっていない。進歩した文明、科学技術を用いて悪事を働く者が増えている。頻発するテロ、北朝鮮の暴虐などはその典型である。

 

わが國は伝統的に「明らかさ・清らかさ」が最高の美徳とされてゐた。平田篤胤は、「そもそもわが皇神のおもむきは、清浄を本として汚穢(ケガレ)を悪(キラ)」ふと論じてゐる(『玉襷』)。

 

日本人は、清いことは善いことであり、汚いことは悪いことであると考へて来た。日本人は人間の価値基準を「善悪」といふ道徳観念には置かず、「浄穢」といふ美的価値に置いたともいへるのである。日本人は、「きたない」といふことに罪を感じた。

 

故に、神道では「罪穢(つみけがれ)」と言って、道徳上・法律上の「罪」を「穢」と一緒に考へた。神道では、罪穢を祓ひ清めることが重要な行事なのである。禊祓ひをすることが神を祭る重要な前提である。身を清らかにしなければ神を迎へることはできないのである。人類の中でお風呂に入るのが好きな民族は日本民族が一番であらう。

 

実際、日本人にとって、「あいつはきたない奴だ」「やり方がきたない」と言はれることは、「あいつは悪人だ」と言はれるよりも大きな悲しみであり恥辱である。また、「あなたは善人だ」と言はれるよりも、「あなたの心は美しい」「身の処し方がきれいだ」と言はれる方に喜びを感じる。

 

 「清明心」は記紀の神代の巻特に天照大神と須佐之男命が会見されるところに多く出てくる。天照大神は須佐之男命にその心の正しく清らかなことを知りたいとおぼし召されて、「然(し)からば汝(みまし)の心の清明(あか)きことは何以(いか)にして知らまし」と仰せになられた。

 

 日本人の倫理・道徳の根本は、「清明心」「正直」「誠」にある。「私」を去り「我」を没することを大切にしている。清明心即ち「あかき心」「清き心」は仏教や儒教が輸入される以前からわが民族のあるべき心とされてきた。

 

天武天皇十四年(西暦六八五)に定められた冠位の制(官人の位階)では、「明位」「浄位」が上位に置かれた。御歴代の天皇の『宣命』(漢文体で書かれた詔勅に対して、宣命体で書かれた詔勅のこと。宣命体とは、体言や用言の語幹は漢字で大きく、用言の語尾や助詞などは万葉仮名で小さく書いた)には、「明」と「浄」という言葉がことにしばしば使われてゐる。

 

徳川家康や吉良上野介があまり日本人に好かれないのは、「やり方がきたない」といふイメージが定着してゐるからであらう。

 

悪人とか善人といふのは場合によって転倒する可能性がある。といふよりも、わが國の祖先は徹底的な悪人・悪魔といふ存在を考へることをしなかった。日本神話には西洋のやうな悪魔は存在しない。日本民族は本来清らかな民族なのである。

 

清明心即ち「明(あか)き心」「清き心」は仏教や儒教が輸入される以前からわが民族のあるべき心とされてきた。それは長い歴史の流れの中で自然につちかはれてきた傳統なのである。

 

この日本民族の傳統的倫理観念の精髄たる「清明心」は、古代においては『宣命』(宣命体で書かれた詔勅)における「明き浄き直き心」、中古においては「もののあはれ」、中世においては「正直」、近世においては「やまとたましひ」として受け継がれてきた。これは別の言葉で言えば、「捨心無我」であり、岡潔氏の言った「日本的情緒」である。

 

「清らかさを求める」とは、あることないことあげつらって、政府攻撃、与党攻撃をすることではない。今、メディアや野党のやってゐることはまさに「いじめ」である。

 

西洋精神が自我を拡張し、自我を確立することを根本とするのとは對照的にわが國は「無我」を根本とするのである。繰り返すが、日本人の倫理・道徳の根本は、「清明心」「正直」「誠」にある。「私」を去り「我」を没することを大切にしてゐる。

 

その無私の精神・清明心を体現されるお方が天皇であらせられる。天皇が地上における神の御代理即ち現御神であらせられるということは、天皇が無私・無我となって神を祭られる祭祀主であらせられるということである。

 

無我・無私となられて神を祭られる天皇は、「清明心」の根源者であらせられ、体現者であらせられるのである。故に「現御神・現人神」と仰がれるのである。そして現御神日本天皇に對し奉り無私となって仕へまつる國民の精神と行動も「清明心」なのである。

 

明治天皇は

「さしのぼる朝日のごとくさはやかにもたまほしきは心なりけり」

「あさみどり澄みわたりたる大空の広きをおのが心ともがな」

と詠ませられてゐる。

 

この御製の大御心こそ清明心であると拝する。「清明心」「清き心」の傳統は、日本の倫理思想の中に力強く生きてゐる。そしてそれは、絶對尊皇精神と一体の倫理観であった。

 

 この日本民族の傳統的倫理観念の精髄たる「清明心」は、古代においては『宣命』(宣命体で書かれた詔勅)における「明き浄き直き心」、中古においては「もののあはれ」、中世においては「正直」、近世においては「やまとたましひ」として受け継がれてきた。これは別の言葉で言えば、「捨心無我」であり、岡潔氏の言った「日本的情緒」である。

 

忠孝精神とは、天皇と親に真心を尽くしてお仕え申し上げること

 

『黒田武士』

「皇御國(すめらみくに)の 武士(ものゝふ)は

 いかなる事をか つとむべき

 たゞ身にもてる 眞心を

 君と親とに 盡(尽)すまで」

 

この歌が日本道義精神の根本であると思う。

 

政治家に対して清廉潔白さが求められるのは、東洋においてはわが國が最も厳しい。ただしそれは、「明るくさはやかな心」の回復を目指すものでなければならない。朝日新聞などの亡国メディアそして何とか自民党政権を失墜せしめようとする野党による安倍総理及びその夫人への非難攻撃は、日本人の伝統的倫理観たる「清らかさ」「明るさ」とは全く異質である。それは政府与党を責め立ててゐる時の野党政治家のきわめて醜い顔を見れば火を見るよりも明らかであ

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精神性を重視した世界観・文明観の確立と神道精神

 現実の人間生活は理論や理屈通りには行かないものである。また不条理なものである。

 人間の意思決定やものの考え方そして行動は、合理的に論証して行われるのではなく、情念的・情緒的に行われる場合が多い。学問の分野における新たなる発見や発想及び芸術の分野における新たなる創作は、自由な感性・想像力・霊感というような不条理な心理が源泉となり、偉大な業績を生み出す。その感性・想像力・霊感をどのようにして正しく統御し自制するかが問題なのである。

 

 人間は理論や理屈では死ねないし、世界は理論や理屈では動かない。学問や芸術のみならず、歴史そのもののも、人間の情念によって動いてきた。歴史の根底を支えてきた民衆は、政治思想や政治技術によっては容易に動かず、心性を揺さぶる情念によって動かされてきたし、自己の情念が美しいと感じたものに対して命を捧げてきた。己れの「美学」が死をも厭わぬ行為に駆り立てるのである。

  

 今日の人類の危機を打開するためには、合理的発想を重んじるとともに、科学技術・物質文明に偏した考え方を改めて、人間の精神性の復活・内面から発する情念の正しき統御が大事なのである。イデオロギーとしての合理主義やある一人の人の説く教義で全ての世界が説明できるという傲慢な考えを捨てて、壮大なる宇宙の神秘=無限の可能性は、人間の理性や知能によって全てが説明できるものではないという謙虚な姿勢を持つべきである。ここに宗教の必要性が生じてくる。

 

 先進諸国の<近代合理主義>を根底に置いた物質文明及び経済至上主義の行きづまりによる今日の混迷を打開するためには、正しき「宗教精神」への回帰が大切である。

 

 しかし、「宗教精神」への回帰とは、安易にしていかがわしい神秘主義や狂信的な教団宗教へのよりかかりであってはならない。むしろそうしたものを厳しく否定しなければならない。

 

教団宗教は、往々にして排他独善の姿勢に陥りやすい。世界の宗教史は宗教戦争の歴史といっても過言ではない。そして今日それがますます激化してきている。

 

 日本伝統信仰すなわち神道には教祖がいない。教典もない。ただ「神への祭り」を行い、「神の道」に随順して生きる事を大切にしている。これが、わが国の伝統的な信仰精神の基本である。つまり日本神道の本質は、特定の人物によって書かれた教条・教義の中には無いのである。文字通り「神」及び「道」のそのものの中にあるのである。我々日本人は、その「神」を祭り「神の道」を現実に生きることによって宗教的安穏を得るのである。

 

 今日の日本人には、西洋精神の影響を受けて自然への畏敬の念を失ってしまった人が多いが、古来、日本人は自然を神として拝み尊んでいた。これは一種の神秘思想と言っていい。そうした日本民族が継承してきた伝統的な正しき信仰精神を正しく継承し現代において生かす事が必要なのである。

 

 日本の伝統信仰は自然神秘思想であることは間違いないが、全てを神や仏という絶対者の支配に任せ、科学的思考・合理的思考を拒絶するという考え方ではない。本居宣長の思想は極めて合理的である。

 

 日本の古代から継承されてきた伝統精神を「道」と称してきたのは、日本の伝統精神はある特定の人物によって説かれた「法」でもなければ「教義」でもないからである。人間の作り出した科学技術や人間が発見した<合理的法則>というものが全てを解決するという傲慢な考え方を否定するのである。

 

 「神への回帰」「自然への畏敬」という精神性を重視した世界観・文明観を確立することが、これからの人類の生存のために不可欠である。であるがゆえに、神道(神ながらの道)という精神伝統を保持する日本が、新しい文明を切り開いていく可能性が非常に高いのである。

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2017年6月 4日 (日)

日本伝統信仰と仏教受容

 日本人は、外国からの文化・文明を自由に受容してきた。古代における仏教の受容はその典型といえる。日本人は仏教受容以来今日まで、神と仏を自然な形で融合させ、信仰してきている。神と仏は日本人の生活の中で溶け合っている。それは理論理屈の世界ではなく、生活の中で文字通り自然な形で神仏が融合している。

 

 稲作生活を基盤として生まれた日本の地域共同体には、自然を神と崇め祖霊を祭るという固有信仰が、太古以来今日までの脈々として生きてきている。日本人は「自然に宿る霊」と「祖先の霊」を八百万の神として尊崇した。そして八百万の神々に現世の幸福(五穀の豊饒・病気の治癒など)を祈するための祭りを行ってきた。

 

 そういった日本の固有信仰に仏教が融合したのである。仏教の受容については、多少の反対はあったものの、祈りの宗教として採用された。現世の幸福を仏に祈ることは、日本の神々への祭りによって現世の幸福を祈るのことと同じである。というよりも、日本人の仏教信仰の実態は日本人の固有信仰が仏教という表皮をまとって形を変えたものなのである。

 

 日本の一般的な家庭では、家の中に神棚と仏壇が共存している。毎朝、神棚にお灯明をあげ柏手を打ってお参りする。次の仏壇にお灯明をあげ線香を立てて合掌礼拝する。神棚には国の主神である皇祖神(皇室のご先祖の神)である天照大神そしてその地域の産土神が祭られている。各家庭の仏壇には、その家が檀家になっているお寺の宗派の本尊が、安置されている場合もあるが、それは一般的ではない。それよりも仏壇には必ずその家の先祖の位牌が祭られている。各宗派の本尊は安置しなくても先祖の位牌だけ祭られている家が多い。

 

 つまり日本の家庭に安置されている仏壇の「仏」とは祖霊のことであり、仏壇とは祖霊の祭壇なのである。「近い先祖は仏様。遠い先祖は神様」といわれる所以である。また、結婚式などの慶事は神式で行い、葬式などの祖霊への慰霊は仏式で行っている。

 

 日本国は仏教国ともいわれているが、日本人の大多数は難解な仏教の教義を学び信じているのではなく、祖霊への崇拝と感謝を仏教祭壇の形態を借りて行い、現世の幸福を祈っているのである。日本の一般庶民が仏教の深遠な教義が日本人の実生活に知識として受け容れられたということではない。教義の研鑚・修得は出家した僧侶が寺院内で行うに止どまった。

 

 そもそも、人間に対して厳しい気候風土のインドに生まれた仏教は、現世を実在とは考えず苦界と見、人間が現世から超越して解脱の境涯に入ることを理想とする宗教である。本来厭世的な宗教といっていい。

 

 一方、明瞭な四季の変化があり、四方環海にして山が多く平地が小さい日本列島は、人間に対してやさしい気候風土である。そういうところに生まれた日本の固有信仰は、現世を肯定し、人間生活を謳歌するところの明るく大らかな信仰精神である。『古事記』を見てもわかるように日本人は厭世思想とは無縁である。仏教が大分浸透した後に編纂された『萬葉集』にも仏教の厭世思想に関係があると思われる歌はきわめて少ない。

 

 日本固有信仰(神道)と仏教は全く異なった性格を持つ二つの宗教である。しかし、日本人は仏教を生活の中で融合してしまっている。それは日本人が外来の仏教を日本人の精神生活に合致するように包み込んだということなのである。これは日本人の寛容性であり、包容力であると共に、日本人の強靱さといってもいいだろう。

 

 インドに始まった仏教は、南方に伝わったもの(南伝)が小乗仏教を形成し、北方に伝わったもの(北伝)が大乗仏教を形成したという。そして日本には支那・朝鮮を経由して大乗仏教が伝えられたのである。

 

 『日本書紀』によると、わが国への仏教公式的な伝来は、欽明天皇十三年(五五二)とされ、百済の聖明王が、欽明天皇に釈迦仏像や経典を献じた時であると記されている。しかし、別の資料ではそれは欽明天皇七年(西暦五三八)のことだったとされている。

 

 『日本書紀』によると、この時、欽明天皇は、仏像の美しさに驚嘆され次のように仰せになったと伝えられる。「西蕃(にしのくに)の献((たてまつ)れる仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」。

 

 日本の固有信仰は自然そのものそして祖霊を信仰しているのであるから、神は姿を見せない、というよりも神の姿はないのである。仏像などのような美しく威厳のある姿を表現した偶像を造りそれを神の像として礼拝することはなかった。だから百済の王様から献じられた金色燦然とした仏像を見て、その美しさに驚嘆したのである。仏教への驚異の念はその教義に対してではなく、仏像に対する驚異だったと言える。

 

 またここで注意すべきことは、『日本書紀』において日本の仏教を伝えた支那や朝鮮を「西蕃」と表現していることである。欽明天皇が仏教を採用するかどうかを群臣に諮問した際に、仏教受容を支持した蘇我稲目(仏教を日本に伝えた百済系の渡来人といわれている)は「西蕃諸国、一に皆之を礼(いやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)、豈に独り背かむや」と答えた。

 

 先進文明や文物を伝えてくれた相手の国を「西の蛮人(西方の未開人というほどの意)の国」などと言っているのである。日本が支那の中華思想を受け容れさらに自己のものとして、中華思想の本家本元を「蛮人」と見なしているのである。日本の独立性・自主性の高らかな誇示であり、支那から多くの文化・文明を輸入していた『日本書紀』編纂当時にあっても、日本人は支那の属国意識を持ってなかったことの証拠である。ここが支那と朝鮮の関係との大きな違いである。

 

 外国文明の輸入に熱心であり、渡来諸氏族を背景にしたいわゆる国際派の蘇我氏ですら「西蕃」と言っている。そして仏教に対しても「外国も拝んでいるから日本も拝んだらよいだろう」と言った程度で、深い宗教的自覚に基づいて仏教を受け容れるべきだと主張しているわけではない。宗教を何か流行物と同じように考えている。

 

 また仏教輸入に反対した物部尾輿と中臣鎌子にしても「わが国家(みかど)、天の下に王(きみ)とましますは、恒(つね)に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬に祭り拝(いわいおが)むことを、事(わざ)と為す。方(まさ)に今、改めて、蕃神(となりのくにのかみ)を拝むこと、恐らくは国神(くにつかみ)の怒を致したまはむことを」(日本書紀)と主張して反対した。

 

 この奉答も、日本国の自主性と純粋性を保たんとする国粋的立場から、「外国の神を拝むと日本の国土の神が怒る」と言っているのみである。格別の宗教的論議を組み立てて仏教の受容を拒否しているわけではない。

 

 ともかく、当時の日本は、欽明天皇が、「仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」と仰せられたことに象徴されるように、朝鮮(百済・新羅)から仏像の美しさ即ち仏教芸術において大きな影響を受けたのである。特に仏像は不思議な容貌をしているだけに、何か不思議な御利益がありそうに思われ、礼拝するようになったのであって、仏教の深遠にして煩瑣な教義を学びそれを信じたというわけではない。日本人の大多数は、大乗仏教の煩瑣な教義や哲学体系を論理的に修得するなどということは不得意であった。神道には、神への強靱にして純粋な信仰心はあっても、煩瑣な教義・教条はない。 

 

仏教の受容は、日本の固有信仰と適合する部分についてのみ受容され信仰されたのである。仏教の受容によって、日本固有の信仰を捨て去るということはなかった。仏教は日本の中に深く根づいたが、仏教受容以来千五百年近くになろうとする今日においても、仏教は外来思想と言われているのである。これは日本人の外来宗教への態度がルーズでいい加減ではない証拠である。

 

 日本人の実生活に根ざす固有信仰の精神が、日本民族の同一性の実に強靱な基盤となっているからこそ、かえって日本民族は融通無礙・包容力旺盛な態度を保持し、排他性が希薄だったのである。日本人の固有信仰の強靱さが、日本民族が仏教のみならず外来文化文明を自由に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤である。そしてこれが日本文化の固有なる特質である。現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の伝統的な文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。

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2017年6月 3日 (土)

國學の現代おける意義

日本人の農耕生活・弥生文化から生まれた信仰は、天地自然を神として拝む信仰である。天も地も山も海も川も樹木も、神の命としてこれを尊ぶ心が日本人の根幹にある。天地自然に神の声を聞くのである。殊更に宗教教義を作り出してこれを遵守しなければ神の怒りにふれるなどといふ観念は日本伝統信仰には無い。日本の伝統信仰には、西洋的意味での神学もイデオロギーも無い。

 

 だから日本人は、理論体系を作り出すことはしない。日本伝統信仰においては、一人の人物の説いた教義を絶対のものとしてこれを信奉し、これに反するものを排撃するといふことをしない。

 

日本人は、人としての自然な情感・感性・驚きは大切にするが、さうしたものから遊離した超越的な『真理』『論理』『原理』と称するものを設定しない。なぜなら超越的な『真理』『論理』『原理』と称するものは、作り事であり、嘘や独善と隣合はせであると直感するからである。

 

 つまり日本の伝統精神すなはち日本民族固有の『道』は、事実の上に備はっており、一人の人物が書き表した教義書・経典に依拠しないといふのである。抽象的・概念的な考へ方に陥った教義万能・経典万能の思想から脱却し、日本人としての真心を以て祖先の歴史の真実を見てそれを戒めとしつつ自己の道徳意識を養成し、人間の真心をうたひあげた言の葉(即ち和歌)を学ぶことが、日本人一般の思想傾向であった。

 

 このやうな教義・教条を排するという日本民族の柔軟な態度が、日本文化の発展の基礎であり、日本が古代以来仏教や儒教などの外国思想を幅広く受け入れて自己のものとし、さらにそれをより高度なものにし、さらに近代においては西洋科学技術文明を取り入れた原点である。

 

 そもそも教義とか教条といふものは、具体的な歴史の事実の上に立って抽象的に論議として出て来たものである。だから、その教義・教条が記された書物のみを読み、知識として吸収し、それのみに頼らうとする姿勢は、道を体得することにはならない。 

 

 現代においても、ある特定の人物の説いた教義・教条を絶対のものとして尊崇し、それに反する思想を排斥する勢力はまだまだ多い。かつて田中忠雄氏は、かうした人々を「狐憑き」ならぬ「イデオロギー憑き」と定義づけた。

 

共産主義者は、マルクス・レーニン主義を絶対の思想としそれ以外を排斥した。かうした勢力がどれだけ多くの人々を苦しめ、不幸にしてきてゐるかは、それこそ歴史そして現代の諸事象を見れば明白である。もはやかくの如きイデオロギー至上主義では混迷せる現代を救ふことはできない。むしろ混乱と不幸を増大せしめるだけである。日本の神ながらなる理想を今日において実現することが大切である。

 

 「理論のあげつらひ」つまり人間の有限知を基盤とした哲学的思考によって得られた認識が、どれだけ宇宙や人生や歴史の真実を説き明かすことができるのか。まづこのことを疑ってかかる必要がある。宗教家の神学的・教義的考察、そして科学者の研究によって得られた知識が、どれだけ宇宙の真実に一致してゐるかを反省する必要がある。かういふ疑問や反省を忘却した人間の傲慢さが今日の文明的危機を招いてゐると言へよう。

 

 倉前盛通氏は、「日本人が『言挙げ』といい『さかしら』といい『あげつらい』という場合には、人間の言葉そのものの中に、すでに宇宙の奥底に潜む原理から遊離したものを本質的に含むという意味を表わしている。言葉が一つに概念規定をした場合、その概念規定という作業そのものの中に本質的に虚構の要素、誤差、ずれというような諸々の過ちが混じってくる避けることはできない、という意味である。」(『艶の発想』)と論じてをられる。

 

 人間の言葉(ここで言ふ「言葉」とは人間の思考や研究の成果としてつくりあげられた理論・教条のこと)は宇宙の真実とは虚構や誤差やずれがある。にもかかはらず、傲慢にも、自然や宇宙や人生を全て人間の作りあげた論理や科学研究によって説き明かこれを改造できるなどと考へたことが、美しい自然を破壊し、人類の生命をも脅かすに至った根本原因である。しかし、日本民族は、既に古代において、人間のかかる傲慢さを反省し、自覚してゐた。

 

 それが、古代日本人の「葦原の 水穂の國は 神ながら 言擧せぬ國…」といふ歌なのである。日本人は、あるがままの自然に素直に随順し、人間と自然は相対立する存在とは考へないで、人間が自然の中に入り、人と自然とは生命的に一体であるとの精神に立つ。

 

 日本人は自然そのもののみならず、歴史からも「道」を学んだ。わが国に伝はる「道」は歴史に現はれてゐるのだから、体系としての世界観や人倫思想基礎を人為的に「さかしらなる知識」をもって言挙し作りあげなくとも、日本の国の歴史の事柄・事実に学べばよかったのである。

 

 歴史や自然を対立的にとらへて、論理や教条を振り回して自然や宇宙や人生や歴史の本質を説き明かそうなどといふ不遜な考えは持たなかった古代日本人の基本的な姿勢を、現代において甦らせることが必要なのである。

 

 近世国学者が、外圧の危機に中で行ったやうに、古代日本の歴史精神として今日まで伝へられてきてゐる「道」を、そのままありのままに学び、今日において明らかにすることによって、現代の危機を打開することが大切である。

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2017年6月 2日 (金)

日本は「神ながら 言擧せぬ國」

 

 「日本の道」すなわち倫理精神・信仰精神は、教条的な形で理論として伝えられているのではなく、和歌によって伝えられている。『萬葉集』はその典型である。

 

 その『萬葉集』に収められている「柿本人麿歌集」の長歌に、「葦原の 水穂の國は 神ながら 言擧せぬ國…」と歌われている。「わが国は神のみ心のままに生きる国であるから、言挙をしない国…」という意である。日本国の古代信仰においては、日本は全て神のみ心のままに生きていく国であると信じられていた。ゆえに、日本人はあえて自己主張をしないのである。この歌はそういうことを歌っているのである。

 

 しかし、日本民族は言葉を軽視したのではない。この長歌の反歌(長歌のエッセンスを歌った短歌)に「しき島の日本(やまと)の國は言靈のさきはふ國ぞまさきくありこそ」(大和の国は言葉の霊が助けて下さる国です。ご無事でいらっしゃい、というほどの意)と歌われているように、日本人は、言葉には霊が宿り人間を助けてくれると信じていた。古代日本人は、言葉には大きな力(霊力)があると考えた。そこから言霊思想が発生した。言葉は、それほどに大切なものであるからこそ、軽々しく言葉を発しないという信仰を持ったのである。みだりに理論や理屈をあげつらうことはしないという生活態度は、萬葉時代即ち古代以来の日本人の基本的姿勢だった。 

 

 近世国学者平田篤胤はその著『古道大意』において、「一體、眞(まこと)の道と云ふものは、事實の上に具(そなは)って有るものでござる。然(しか)るをとかく世の学者などは、盡(ことごと)く教訓と云ふ事を記したる書物でなくては、道は得られぬ如く思(おもう)て居るが多いで、こりゃ甚だの心得ちがひな事で、教(をし)へと申すものは、實事よりは甚下(ひく)い物でござる。其故は、實事が有れば教へはいらず、道の實事がなき故に、をしへと云ふことがおこる。」と論じている。

 

 意訳すれば、「一体、まことの道というものは、事実の上に備わっているものである。それなのに世の学者は、ことごとく教訓が書かれている書物を読まなくては、道を体得することはできないと思っているのが多い。これは非常に心得違いである。教義・教訓というものは事実よりも甚だ低いものである。その理由は、事実があれば教訓はいらない。道の事実が無いがゆえに教義・教訓が起こってくる」というほどの意である。

 

 「道」は、国の歴史の上に厳然として事実として示されているのであって、外来の儒教や仏教の経典を読まなくては「道」を求めることはできないという考え方は誤りである。むしろ、歴史の事実の上に「道」が現れていないからこそ、書物に書かれている「教義・教条」に頼らねばならないのである。それが支那における儒教である。日本における儒學は、「日本の道」を説明するために儒教文献を借用したのである。

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2017年6月 1日 (木)

国学は実行と変革を目指す学問

 

 日本民族の倫理精神と日本の国の歴史と文学を研究し、結合した学問を築こうとする学問が、国学である。そしてその学問は徳川時代中期に発生し幕末という国難の時期に大成した。外圧という有志以来未曾有の危機をどう打開するかという情熱・慷慨の志の上に立っている学問であって単なる知識を求める学問ではない。実行と変革を目指す学問である。もっとも日本らしい学問といっていい。

 

 日本民族の生活を対象とし、日本人の生活の奥底に流れている倫理観というか道義精神というものを探求する学問が国学である。つまり日本の文学・歴史・国語の中から理想を見出し、さらに理想を今日において実現しようとするのである。

 

 しかもその理想は日本一国に限定されるものではなく、世界に通用する理想として学問的に樹立しようとしたのである。国学が外国からの侵略をどう防ぐかという国家的状況の中で生まれた学問だからそれは当然のことであろう。つまり、日本の伝統的な精神によって世界に寄与しようという広大な精神によって打ち立てられた学問が国学なのである。そういう意味で、国学は日本の独自性を探求する学問であると共に、その普遍性をも目指したといっていい。

 

 理想を求めるということは、現状の変革を目指すということである。ゆえに、国学は変革の学問である。実際国学は水戸学と共に明治維新の変革の原理となった。

 

 国学が日本人の生活の奥底に流れている倫理観というか道義精神というものを探求するしようとしたということは、言い換えれば、日本の『道』を求めたということである。神話の世界から発する日本民族の『道』というものを探求した学問が国学なのである。その『道』とは、古代日本人の生活における「しきたり」といってもよいかもしれない。国学はそうしたことを対象とする学問である。

 

 神話の世界から発する日本民族の『道』は、今日、「神道」という言葉で表現されている。神道とは、日本本来の信仰精神・生活規範であり、国学はそのことを学ぶのである。日本民族のみならず世界各民族の文学も芸術も道徳もそして生活全般も、その民族の信仰生活がその起源となっている。

 

 近世国学者は、抽象的・概念的な考え方に陥った儒教や仏教の教条万能・議論偏重の思想傾向を否定した。そして素直なる心を持って我らの祖先の行いを見、自分もそれに身を以て実行しようという志を持つ生活観を持つべきだと主張した。 

 

 それでは、国学における「道」、「神道」の「道」とはいかなる道であろうか。それは「教条」や「掟」ではない。「神のみ心のままに行う」ということである。日本の神の「行い」をそのまま踏み行うことである。

 

 小林秀雄氏は次のように論じておられる。「『道といふこと』とは、論(あげつら)はうにも論ひやうもない、『神代の古事(ふるごと)』であった。『古事記』といふ『まそみの鏡』の面にうつし出された、『よく見よ』と言ふより他はない『上つ代の形』であった。…『上つ代の形』とは、たゞ『天つ神の御心』のまゝであらうとする、『上つ代』の心の『ありやう』、『すがた』た他ならず…。」(『本居宣長』)

 

 つまり、神のみ心のままであろうとする「かたち」の継承が「道」といっていい。日本語には古来、西洋で言う「知識」とか「認識」という名詞は存在しなかったという。日本人は、単に知識を求めたのではなく、「道」を求めたのである。それが日本の学問だったのである。「道を学び問う」事を大切にしたのである。 

 

 「道」とは人が歩む道である。人が歩むという具体的な行いが、学問という精神的な事柄を言い表す場合にも用いられたという事は、日本人はそれだけ「実践・行い」ということを重んじたということである。具体的に道を歩むという「行い」の姿を以て精神的な道を探求することを表現したのである。知行合一の『陽明学』が日本人に好まれたのはこういうことが原因になっているのかもしれない。

 

 日本民族は、思想や精神を理屈として言挙げしなかった。『日本思想とはこういう思想である』と説明しがたいから、理解に苦しむという人が多い。しかし、日本の思想とは「道」であるから、日本の歌道をはじめとする文芸や武道や茶道などあらゆる行為に自然に現れているのである。言葉で説明できる思想精神はそれだけ狭く限定されたものである。

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2017年5月31日 (水)

 明治維新の思想的基盤としての國學

 

 明治維新の思想的基盤である近世国学は、それまでの日本で重んじられていた儒教や仏教という外来思想に抗して、それとは別なる日本独自の「道」を主張した。そこに近世国学の特質があった。

 

 日本独自の道とは、日本民族が古来より持ち続けている信仰精神である。国学とは、古代日本精神の復興による当時の時代思潮への批判思想である。そして国学は政治思想という狭い範疇に属するものではなく、文献学であり、和歌の学問であり、国語学・国文学であり、神道学である。

 

国学者は、外来の思想や文化を「からごころ」(からとは支那のことであり支那を通して日本に伝来した思想や学問そしてそれをもととした思考のこと)批判を展開した。

 

 十九世紀後半当時の世界情勢を見ると、東アジア西洋列強の侵略支配の危機に瀕していた。そしてそれに抗して、民族独立運動・植民地化への抵抗運動が起こっていた。そうした状況下にあって、アジア諸地域において、民族の覚醒を促す思想運動が起こっていた。

 

 日本も勿論その例外ではなく、日本の国の歴史を探求し、日本独自の思想・信仰を進化させんとする運動が起こったのである。それが近世国学運動の思想である。

 

 したがって、国学運動は決して偏狭な排外主義や、単なる時間的過去への郷愁の思想ではなく、世界情勢に対してかなり積極的に目を開き、それに呼応した運動であった。

 

 キリスト教や、欧米の歴史や現状についてもかなり詳しく研究し、海外の政治情勢についても情報収集につとめたうえでの学問であり思想運動であった。

 

 国学は幕末期の日本に対する悲憤慷慨の学問と言ってもいい。危機的状況を迎えんとしていた日本に対して、このままではいけない、何とかしなければならないという精神が国学運動を起こしたのである。そしてその底流にあったのは、日本をこのままにしておいたら、先人たちや祖先に対して申しわけない、相済まないという悲憤慷慨の思いであった。

 そういう思いは、次に挙げる国学者たちの歌に表れている。

 

 最も早い時期の国学者であり、国学の始祖といわれる荷田春滿(京都の人。古典・故実・国史・歌道の研究者)は、

 

ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の跡を見るのみ人の道かは 

 

 「よく道を踏みわきまえて間違わないようにせよ。日本ではない唐(支那)の鳥の足跡のみを見つめて歩くのが、日本人たるものの道ではないぞ」というほどの意。唐鳥の跡とは、漢籍・漢字のこと。

 

 八代将軍・徳川吉宗は、各国の古書を集めたが、その真偽玉石の鑑定を春滿に依頼した。その徳川将軍家の学問は儒教であった。林羅山・中江藤樹・荻生徂徠・新井白石・伊藤仁齋等々江戸時代の中期までの学者の殆どは儒教・漢学の系統であった。そうしたことを悲憤慷慨して詠んだ歌がこの春滿の歌である。

 

 また、鹿持雅澄(幕末土佐の国学者・『萬葉集』を中心として古典を研究。『萬葉集古義』の著者)は、

 

神國の道ふみそけて横さらふいづくにいたる汝が名のらさね

 

 と詠んでいる。「わが神国の正しき道を踏みそらして、蟹のように横這いの道を歩む者共よ、お前の名は何と言うのか、名乗ってみろ」というほどの意。雅澄は日本の伝統思想に目もくれず外来の蘭学に現を抜かしいる者たちに対して憤慨しているのである。日本伝統精神に対する雅澄の態度精神を昂然と歌い上げている。

 

 この歌が歌われた時期は蘭学が盛んになり、日本に英船米艦露艦がしばしば渡来した。

 

 春滿は儒教と仏教、雅澄は蘭学に対して批判的態度を示しているのである。

 さらに雅澄は、ペリー来航を憂いて、安政元年(一八五四)正月、六十四歳の時に、

 

神風に息吹きやらはれしづきつつ後悔いむかもおぞの亞米利加

 

 と詠んでいる。「神風に吹きやられ、海底に沈められた後に、後悔するのであろう。愚かなアメリカは」というほどの意。この憂国の至情と気概が、彼の学問の奥底にあったのだ。

 

 さらに、橘曙覽(福井の人。国学者にして萬葉調の歌人)は、

 

湊川御墓の文字は知らぬ子も膝をりふせて嗚呼といふめり

 

 と詠んだ。「湊川の『嗚呼忠臣楠子之墓』の文字は、文字を知らない子も墓前に屈んで『ああ』と口に出して言うごとく見える」というほどの意。児童子供といえども、楠公の忠義と墓碑の意義を知らぬ者無しということを歌っているのである。幕末の尊皇愛国の精神そして明治維新の精神は、楠公の忠義・七世報国の精神を継承したものであることがこの歌によってわかる。日本人の伝統精神の復興

 

 このように近世国学者は、幕末期日本の思想状況及び國内外の危機的状況を深く憂うる心、そして憤りの心を持っていたのである。つまり、近世国学は変革の思想だということである。言い換えれば、国学は決して支配者と言って悪ければ体制側に奉仕する学問ではないのである。

 

 徳川幕藩体制において、儒教と仏教は、徳川家及び武士階級の国家統治支配のイデオロギーとして利用された。国学は、それに抗した形で発生し発達してきたと言ってよい。

 

 そしてもっとも大切なことは、国学とは理論体系でもイデオロギーでもないということである。日本の伝統信仰と文化の回復による幕末期の原状の変革を目指した精神思想であると考える。 

 

 もちろん、篤胤と宣長との違いを見てもわかるように、国学者それぞれに個性があり特色がある。ただ国学者に共通しているのは、「まづからごころをはらふ」ということと「やまとたましひ」に徹するということではないだろうか。

 

 儒教や仏教のイデオロギー・教条を排して、「まごころ」「神ながらの道」「やまとたましい」といわれる日本人の古代精神・伝統精神を復興することが国学者に共通する意識であったと考えられる。

 

 しかしながら、国学は、前述した通り、偏狭な排外思想ではない。むしろそれまで日本が外国から受容し学んできた学問的成果・思想的遺産を素直に継承している。国学はイデオロギーや教条ではないのだからそれは当然である。

 

 本居宣長の神道論や歌論には儒学者の荻生徂徠の影響があると言われており、宣長は徳川時代を支配していたと言っていい『儒教イデオロギー』に対しては激しい批判を行ったが、孔子その人に対しては批判を行っていない。宣長は「せい人と人はいへども聖人のたぐひならめや孔子はよき人」(鈴屋集・九)という歌を詠んでいる。また平田篤胤はキリスト教の教義を学び、自己の神道学の建設に資した。

 

 国学者の精神は、決して偏狭な外国思想排撃ではなくして、それまでに既に日本に入ってきていた儒教・仏教はもとより、近世になって入ってきたキリスト教や西洋科学技術思想に対しても、いたずらに排撃するものではなかった。 

 

 近世国学の代表的な学者は、『国学四大人』といわれている荷田春滿(一六六九~一七三九)・賀茂真淵(一六九七~一七六九)・本居宣長(一七三〇~一八〇一)・平田篤胤(一七七六~一八四三)の四人である。さらに、春滿・真淵・宣長を国学三哲という。

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2017年5月27日 (土)

近世国学者の説いた日本の「道」

本居宣長は、「古(いにしへ)の大御世には、道といふ言挙もさらになかりき、其はただ物にゆく道こそ有りけれ、もののことわりあるべきすべ、万の教へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異国(あたしくに)のさだなり」(『直毘靈』)「主(むね)と道を学ぶ輩は、…おほくはたゞ漢流の議論理窟にのみかゝづらひて、歌などよむをば、たゞあだ事のやうに思ひすてゝ、歌集などは、ひらきて見ん物ともせず、古人の雅情を、夢にもしらざる故に、その主とするところの古の道をも、しることあたはず」(『うひ山ふみ』)と述べてゐる。

 

さらに本居宣長は、「日本の道」とは、「天照大御神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、真の道」(『うひ山ふみ』)であると述べてゐる。

 

そして「日本の道」は、理論・教条といふ形ではなく、『記紀神話』に示され、『萬葉集』に歌はれてゐる。日本の古の道・古人の雅情は、教条的な形で理論として伝へられてゐるのではなく、祭祀といふ信仰行事そして神話や和歌や物語によって伝へられてゐる。

 

『記紀萬葉』は、『聖書』『コーラン』『仏典』『論語』のやうな教義・教条が書き記されてゐる文献ではない。日本の神々と日本国の歴史が叙述され魂の表白たる歌が収められてゐる。日本人があくまでも真実を尊び人間の感性を重んじ、抽象的な論議や理論をそれほど重んじなかった。

 

近世の国学者・平田篤胤はその著『古道大意』において、「古ヘ儒佛ノ道、イマダ御国へ渡リ来ラザル以前ノ純粋ナル古ノ意(ココロ)古ノ言(コトバ)トヲ以テ、天地ノ初ヨリノ事実ヲ素直ニ説広ヘ、ソノ事実ノ上ニ真ノ道ノ具ツテイル事ヲ明アムル学問デアル故ニ、古道学ト申スデゴザル」「真ノ道ト云フモノハ教訓デハ其旨味ガ知レヌ、仍テ其古ノ真ノ道ヲ知ベキ事実ヲ記シテアル其ノ書物ハ何ジヤト云フニ、古事記ガ第一デゴザル」と述べてゐる。

 

平田篤胤は、儒教や仏教といふ外来思想が日本に入り来る前の純粋なる古代日本の言葉を以て天地生成の起源からの事実を素直に記述し、その事実の上に立って日本民族固有の「道」を明らかにするのが古道(日本伝統精神を学ぶ学問)であり、日本伝統精神は教義・教条ではその真の意義を体得することはできず、古代以来の日本伝統精神を記してある書物の第一は『古事記』であると論じてゐるのである。国学とはさういふ学問なのである。

 

さらに近世の国学者であり萬葉学者であった契冲はその著『萬葉代匠記怱釈』において「神道とて儒典佛書などの如く、説おかれたる事なし。舊事記、古事記、日本紀等あれども、是は神代より有りつる事どもを記せるのみなり」と論じてゐる。

 

つまり日本の伝統精神即ち日本民族固有の「道」は事実の上に備はってをり、一人の人物が書き表した教義書・経典に依拠しないといふのである。抽象的・概念的な考へ方に陥った教義万能・経典万能の思想から脱却し、日本人としての真心を以て祖先の歴史の真実を見て、それを戒めとしつつ自己の道徳意識を養成し、人間の真心をうたひあげた言の葉(即ち和歌)を学ぶことが、日本人一般の思想傾向である。

 

かういふ理論・理屈・教条を排するといふ日本民族の柔軟な態度が、日本文化の発展の基礎であり、日本が古代以来仏教や儒教などの外国思想を幅広く受け入れて自己のものとし、さらにそれをより高度なものにし、さらに近代においては西洋科学技術文明を取り入れた原基である。

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2017年5月18日 (木)

日本傳統精神は天神地祇崇拝を基本とする

日本の歴史を根底から支へて来た力は稲作である。日本傳統信仰は稲作生活から生まれ、稲作生活の中に生きて来た。稲作生活は、再生と循環と相互の助け合ひが根本にある。基本的に闘争や侵略とは最も遠い平和なる共同生活である。

再生と循環は自然の思想である。古代日本人は自然の再生と循環の中に自然と共に生きて来た。日本人は、人の命も自然の命も永遠に共生し循環し続ける事を實感してきた。

 

日本傳統精神は、生活の中から自然に生まれた精神であり、自然を大切にし、自然の中に神の命を拝む心・祖先を尊ぶ心である。わが國の神々は、天津神、國津神、八百萬の神と言はれるやうに、天地自然の尊い命であり先祖の御霊である。

 

日本傳統精神は、天神地祇崇拝(祖先と自然の霊を尊ぶ心)を基本とする。先祖からの恩恵に感謝し、大自然を尊び、大自然から人生を學び、生き方を學び、國の平和と人の幸福の道を學ぶ。山・川・海・風・樹木・石等々全ての自然に神の命が宿ると信じる。また、人の命は神の命であると信じる。一人一人が「命(みこと)」である。一人一人が「日子(ひこ・日の神の御子)」であり「日女(日の神の姫御子)」なのである。日本人は、森羅萬象ことごとく神ならざるものはないのである。

 

かうした精神からは排他独善の精神は生まれない。あらゆるものから學ぶべきものを學ぶのである。だからわが國は古来外来の文化を大らかに包容摂取してきた。

 

日本人は、人間と自然は相対立する存在とは考へないで、人間が自然の中に入り人と自然とは生命的に一體であるとの精神に立つ。

 

わが國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも「神社の森」「鎮守の森」がその原点である。わが民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな「神社の森」「鎮守の森」を大切に護って来た。それは「鎮守の森」には、神が天降り、神の霊が宿ると信じて来たからである。「鎮守の森」ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きてゐると信じてきた。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿ってゐると信じて来た。

天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られた。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至ってゐる。

 さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それがわたつみ(海神)信仰・龍宮信仰である。海は創造の本源世界として憧憬され崇められた。

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