多くの人々にとってすでにご理解の事と思うが、国家について少し書いてみたい。
国家には本来、道義的正統性がなければない。しかし今日の世界には道義的正統性を継承し保持していない国家があることも事実である。しかしだからと言って、国家を否定することはできない。むしろ、国家の悪しき側面をできる限り抑制することが大切になってくるのである。そのためには国家はただ人間の共同生活を営むための装置・権力機構であるという考え方を持たないことが大切だと思う。
人間が共同生活を営む国家という共同体には、「精神的共同体」という側面と「利益共同体」という側面がある。「精神共同体」とは共同生活を営む人間がお互いにいたわり合い助け合い愛し合い信じ合うという精神的「結び」によって成立する共同体と言っていい。一方、「利益共同体」とは人間が物質的・経済的な利益を共同して獲得し分配する共同体と言っていい。
人間自身にも、精神的なやすらぎや信頼や安穏や道義精神を追い求める側面とともに、物質的利益や肉体的快楽を追い求め悪事を行う側面があるのと同じである。
また、人間というものは残念ながらお互いに愛し合い信じ合い協力し合うだけではなく、他人より優位に立ちたがり、他者を憎み闘争し果ては殺し合うこともある。
憎悪や闘争を抑制しつつ国家という共同体を秩序あるものとして成り立たせるには、強制力を持った権力機構が必要になって来る。
ただし、この権力機構もその存立の基本をただ「力」に置くだけでなく、道義的正統性というものがなければならない。それは国家の尊厳性と言い換えてもいい。それがないとただ国家は国民と対立する暴力機構と化してしまうおそれがある。
ともかく、国家も人間と同様に、できる限り利益追求のみに走らず、共同の道義精神に基づく立国(国の成立)につとめるべきである。そして、ただ利益のみを追求する営利至上主義国家ではなく道義国家の確立を目指さなければならない。
また力によって国民抑圧するだけの権力国家であってはならない。国家とは単なる力の支配装置ではなく、その基礎にはその国に生きる国民が等しく正しいと信ずる価値・精神的道統というものがなければならない。
「くに(国)」という言葉がある。「国のために尽くす」とか「国を愛する」という場合の「国」とは、「精神共同体」=道義国家たる「国」である。
一方、「国に税金を取られる」とか「国に対して訴訟を起こす」という場合は「権力機構」としての「国」である。
今日この「国」という言葉が非常に混乱して使われている。「大して国民のためにもならないのに沢山の税金を取るような国を愛することは出来ないし、そんな国に尽くすことは出来ない」という考えを持つ人がいる。
我々国民が愛するべき国、尽くすべき国とは、単なる権力機構でもないし利益共同社会でもない。信頼と正義と愛と真心によって結ばれた精神的道義的共同体なのである。
日本国民は道義感覚が優れていると思う。しかし、愛国心を喪失し、自分さえ良ければ他人はどうなってもいいなどという利己的な精神に冒されているように見える人がいることも事実である。
幾億人と存在する人間というものにもそれぞれ個性があるように、国家というものも、世界の多くの国々にはそれぞれに個性があり特殊性がある。
日本という国には民族的個性がある。と言うよりもむしろ民族的個性を離れて国家は存立し得ない。日本という国そして日本人という民族の主体的歴史性、風土、信仰精神の意義を正しく把握してこそ、正しき国家観を持つことができるとおもう。
人間の道義精神・道義に則った生活の実現も、そして道義国家・人倫国家の回復も、抽象的な「人類普遍の原理」などによって実現し得るものではない。それは今日の日本を見れば明らかである。道義精神は、それぞれの国の歴史伝統・民族信仰の中から培われるものである。
倫理・道義とか信仰精神というものは、それぞれの民族精神としてのみ表現されてきている。民族的歴史性・個性を通して表現されない「人類普遍の原理」などというものはあり得ない。たとえあると錯覚しても、それは抽象的な観念に過ぎない。
その意味において「人類普遍の原理」だなどと言って欧米民主主義思想を基本原理としている「現行占領憲法」は無国籍憲法なのである。そもそも道義精神や政治思想には「人類普遍の原理」などというものはあり得ない。
宗教上の神や仏もそれぞれの宗教教団やそれぞれの宗教の発生した地域の特殊な個性ある神・仏として信じられてきている。ユダヤ教・キリスト教・回教という一神教ですらそれぞれ個性ある神となっている。仏教も真言宗・日蓮宗・浄土宗・浄土真宗・禅宗等々それぞれ個性ある仏を拝んでいる。
日本という国家にも日本の長き歴史の中から生まれてきた立国の精神というものがある。
日本という国は、日本民族の生活と自然環境・風土の中からの生成して来た。日本民族の生活の基本は稲作である。日本人の主食は米である。
稲作に欠かすことのできない自然が太陽であり大地である。その太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大神である。また大地の神は国津神として祭られた。また稲穂そのものも神の霊が宿っているものとして尊んだ。
天照大神をはじめとする天津神・国津神および稲穂の霊をお祭りされ、国民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主が、「すめらみこと」即ち日本天皇であらせられる。
そして天照大神は太陽神であるのみならず、天皇の御祖先であると信じられた。天照大神は「日本国に沢山稲を実らせなさい」という御命令を与えられてその御孫神であられる邇邇藝命を地上に天降らせられた。その邇邇藝命の生みの御子が神武天皇であらせられ、大和橿原の地に都を開きたまい、初代天皇に御即位あそばされた。
日本国家の存立の精神的中核はこのような信仰精神にあり、日本という国家は天皇を祭祀主とする信仰共同体なのである。ゆえに日本国は天皇国といわれるのである。正しき国家観に回帰し、日本国を道義国家として新生せしめねばならない。
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