2018年10月31日 (水)

浅薄なる國體論の横行は是正されるべきである

 

最近『国体論 菊と星条旗』(白井聡氏著)、『丸山眞男と戦後日本の国体』(池田信夫氏著)というように「国体」を書名にした著作が刊行されている。白井氏の著書は友人に勧められて讀んだ。池田氏の著書は未読である。白井氏の本は「戦後の国体」「戦前の国体」ということが書かれている。池田氏の著書も書名を見ても分かる通りそういう分け方をしているのであろう。しかし、「國體」には戦前も戦後もない。肇国以来継承されてきた日本国の本来の姿・国柄を「國體」と言うのである。白井・池田両氏は、國體を単に「國家体制」という意味でとらえているのである。

 

三潴信吾氏は、「國體は、我国にあっては、如何なるものであるかといふと、約言すれば、(一)、祭政一致 (二)、萬世一系の天皇の統治 (三)、君民一体 といふことができる。」(『祭祀大権の本質及び統治大権との関係について』)

 

「國體とは、自主的普遍我たる国家の本質が、各国家の成立事実に立脚して各国家毎に、如何様に体現されて居るかといふことであって、各国家の國體の軽重は、その、国家の本質の体現の程度によって判定される。その要点は、国家の自主性、普遍性の確立保障にある。しかして、これを観察し得る最も重要なる中核点は、実に、国家人格の自主表現人たる元首の地位の本質にあり、具象的には、元首定立の態様に於て之を見ることができる。」(『祭祀大権の本質及び統治大権との関係について』)

 

「國體とは、各国家の国柄、品格のことをいふのであって、その国の成立事情によって定まる」「我が国にあっては、皇祖を日の神(天照大神)と仰ぎ、その和魂を継承されつつ、一切の天神地祇、八百万神々を祭り、これといよいよ一心同体たらせ給ふ天皇が、御代々を通じて御一人(一系)として天下を治ろしめすといふ國體を保有してきた」(『國體と政体について』)「政体とは、政治権力の組織制度のことを云ふ。」(國體と政体について)と述べられている。

 

小森義峯氏は、「國體とは、平たくいえば、『くにがら』という意味である。その国をその国たらしめている、その国の根本的性格をいう。」「皇祖天照大神と霊肉共に『万世一系の天皇』を日本国の最高の権威(権力ではない)の座に頂き、君民一体の姿で民族の歴史を展開してきた、という点に日本の国柄の最大の特質がある。」(正統憲法復元改正への道標)と述べておられる。

 

こうした國體観をいかにして今の若者たちに分りやすく説くか、そして納得してもらうかが、今後の課題である。

 

日本天皇と日本国民は対立する権力関係にあるのではない。天皇と国民とは、天皇が民の平安と五穀の豊饒そして世界の平和を祈って行われる祭祀を基とした信仰的一体関係にある。したがって、「天皇を中心とした神の国」と「民の国」とは全く矛盾しないのである。

 

 

日本國體とは、天皇を中心とした精神的信仰的生命的な共同体のことである。単なる「国家の体制」のことではない。「体制」とは、ものの組み立てられた状態という意であり、単に組織、機構、機関、組織、システムのことである。したがって、「国家の体制」とは、無機的な権力機構としての国家組織のあり方即ち統治権力の運用する仕方に関する形式のことである。これは「政体」と表現すべきであって、伝統的な日本國體を「国家の体制」と表現する間は誤りである。國體とは、日本国の国柄・国の本質のことを言う。

 

日本國家の存立の精神的中核は、天神地祇を尊崇し稲穂を大切にする信仰精神であり、日本という國家は<天皇を祭祀主とする信仰共同體>なのである。ゆえに日本國は天皇國といわれるのである。浅薄なる國體論の横行は是正されるべきである。

 

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2018年10月28日 (日)

日本民族の愛国心・ナショナリズムの特質

 

吉本隆明氏は、「『ナショナリズム』というとき、ひとによってさまざまにかげりをこめて語られる。社会学・政治学の範疇では、世界史が資本制にはいってから後に形成された近代国家そのものを単元として、社会や政治の世界的な諸現象をかんがえる立場をさしている。しかし、『ナショナリズム』という言葉が、世界史の尖端におくればせに登場した国家・諸民族によってかんがえられるばあい、民族至上主義・排外主義・民族独立主義・民族的革命主義などの、さまざまなかげりをふくめて語られる。そこでは、すでに規定そのものが無意味なほどである。さらに、これが、日本の『ナショナリズム』として、明治以後の日本近代社会に起こった諸現象について語られるとき、天皇制的な民族全体主義、排外主義、超国家主義、侵略主義の代名詞としての意味をこめて、怨念さえ伴われる。」(『日本のナショナリズム』・「現代日本思想体系 ナショナリズム」所収論文)と論じてゐる。

 

日本のナショナリズムは明治になってから発生し発達したものではない。「辞書」によると「國民國家」とは、「同一民族または國民といふ意識によって形成された中央集権國家」「領域内の全住民を國民といふ単位に纏め上げて成立した國家そのもの」といふ定義である。近代以後においてかういふ國家が成立したといふのが定説になってゐるやうである。「神國思想」「尊王思想」の継承の歴史を見て明らかな通り、わが國においては、近代以後に「同一民族または國民といふ意識によって形成された國家」が建設されたのではない。江戸時代以前と言うよりも古代以来、においてもわが國は日本民族による統一國家體制は確立してゐた。

 

安倍晋三氏は、「現在の國家の形を、一般にネーションステート(國民國家)と呼ぶ。これはもともと近代のヨーロッパで生まれた概念だ。…日本で國民國家が成立したのは、厳密にいえば明治維新以後ということになるが、それ以前から、日本という國はずっと存在してきた。」(『美しい國へ』)と論じてゐる。

 

西洋列強の日本に対する圧迫が強まった時、これを撥ね除けるために藩といふ地域そして士農工商といふ身分制度を乗り越えて、天皇を中心とした日本國家・民族の一體感・運命共同意識を醸成して外敵に当たらうとした。それが明治維新である。しかし、明治維新以前に於いてもわが國が、天皇を君主と仰ぐ統一國家であったし、天皇中心の國體精神に回帰することによって、國難を打開し変革を行ってきた。

 

和辻哲郎氏は「シナ古代に典拠を求めていた尊皇攘夷論は、日本人が欧米の圧迫によって日本を一つの全體として自覚するとともに、その鋒(ほこさき)を幕府の封建制に向け、武士社會成立以前の國民的統一を回復しようとする主張に変わって行った。…日本第一期以来の天皇尊崇の感情が…國民的統一の指導原理となった。…王政復古の達成は、松陰処刑後わずかに八年目のことであった。」(日本倫理思想史)と論じてをられる。

 

和辻氏の言ふ「武士社會成立以前の國民的統一の回復」=王政復古が、わが國における『近代國民國家の成立』であったのである。そしてその根底にあった思想は、和辻氏の言ふ「日本第一期以来の天皇尊崇の感情」である。日本ナショナリズムが古代からの日本傳統精神が原基となってゐることは明らかである。

 

 わが國における攘夷とは、時代を無視した頑なな排外思想ではない。吉田松陰をはじめ多くの維新の先人たちは世界の状況・時代の趨勢を正しく把握しやうとしてゐた。松陰は敵たるアメリカを認識せんとしてアメリカ渡航を実行しやうとした。吉田松陰が安政三年三月二十七日夜、金子重輔と一緒に下田来泊のペリーの米艦にて米國に渡航せんとしたことは、攘夷とは排外・鎖國を専らとするのではなく、日本が外國の支配下に入ることを拒み、独立を維持するために、外國の進歩した文物を學ぶことを要するといふ開明的な考へ方であった。維新後の開國政策の下地はこの頃からあった。古来、わが國が外國文化・文明を柔軟に包摂して来たのは、日本民族の根底に強靭なる傳統信仰があったからである。

 

日本民族の國を愛する心の特質は、「尊皇愛國」といふ言葉もあるやうに、萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一體であるところにある。日本人における愛國心は、日本人一人一人が静かに抱き継承してきた天皇を尊崇しさらに麗しい日本の自然を愛するごく自然な心である。

 

日本人にとって愛する祖國とは本来的には天皇の御代すなはち『君が代』なのである。これが日本の愛國心の特質である。ゆえに『國歌・君が代』こそ最大の愛國歌といふことができる。

 

日本における愛國心とは「恋闕心」(「みかどべ」を恋ふる心)であり「麗しき山河即ち自然を慈しむ心」である。どちらも「愛」の極致である。

 

そして、防人が「大君の命かしこみ」と歌って以来、蒙古襲来の時は日本神國思想が勃興し、幕末において欧米諸國のアジア侵略を脅威と感じた時も『尊皇攘夷』が叫ばれ、明治以来大東亜戦争に至るまでの内外の危機に際して勃興したのも國體精神である。日本における愛國心・ナショナリズムは尊皇精神・國體観念と一體である。

 

大化改新・明治維新・大東亜戦争を見ても明らかなやうに、日本における変革や國難の打開は、必ず愛國心・尊皇心の興起と一體であった。

 

維新変革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌とは悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。神話時代における戦ひの神々すなはち須佐之男命・日本武尊の御歌を拝すればこの事は明らかである。

 

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しく歓喜に溢れたものでもある。

 

わが國の文學史とりわけ和歌の歴史に於いて、最も偉大なる時代は、國家の変革期である。変革期においてこそ偉大なる和歌が生まれる。日本最高最大の歌集『萬葉集』は大化改新・壬申の乱・奈良遷都といふ大変革を背景として生まれた。

 

伴信友は、日本傳統文藝たる和歌とは「其をりふしのうれしき、かなしき、たのしき、恋しきなんど、其をりふしのまごころのままにうたふ」と言ってゐる。そもそも愛國心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。

 

愛國心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。大化改新における『萬葉集』、平安時代の國風文化復興期における『古今和歌集』、明治維新における志士たちの述志の歌、日清戦争・日露戦争を戦った明治中期の和歌の勃興、そして大東亜戦争従軍将兵の歌を見ればそれは明らかである。 

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2018年9月26日 (水)

日本傳統文化へと回帰しなければならない

日本は外圧を排除するために変革を行なひ、それが成功し、発展した。大化改新、明治維新はさうした変革であった。大化改新は、白村江の戦ひがあっても、唐の文化や制度を取り入れ改革を行ひ、唐との対等関係を樹立した。明治維新は、攘夷が開国となり、鹿鳴館時代を現出した。それは攘夷のための開国であった。即ち西欧列強の侵略を排除するために、西欧文明を取り入れた。

 

 

欧米別けてもアメリカの科学技術による人間生活の進歩と発展を至上命題としてきた戦後日本、もっと言えば近代日本への反省が必要である。具体的にどうしたら良いのか。それには、自然の中に神を見る日本伝統信仰に回帰する以外にない。

 

ただし、アメリカにも大きな精神文明があった。それはキリスト教である。とくに、ウイリアム・ジェイムズの思想、ニューソートという新宗教がアメリカの発展に寄与した。禁欲を説いたカルヴァン主義への反発として一九世紀に生まれた運動で、新しいキリスト教である。原罪を否定し、人間は神の子であることを強調する。フィニアス・クインビーという心理療法家の治療方法が元になっている。ラルフ・ウォルドー・トライン、ウィリアム・ジェームズ、ラルフ・ワルド・エマーソン、ジョセフ・マーフィー、アーネスト・ホームズなどがいた。このアメリカのニューソート思想を光明思想と名付け日本に取り入れ、日本化した人が、生長の家の谷口雅春師である。今日殷賑を極めているいわゆる「成功哲学」や「自己啓発」のルーツの一つとされている。

 

東日本大震災・津波・原発事故によって、科学技術がいかに人間にとって万能ではなく、また人間を守りきることは出来ず、寧ろ人間に危害を加える危険があることが体験された。これをどうするか。

 

現代文明・文化は西洋文化・文明が主流となってきた。現代文明とは、事物を科学の論理によって技術革新を行うようになった文明のことであるが、それは、産業革命以来機械技術の発達と資本主義そしてそれに反発するものとしての共産主義の発展を促し、経済至上・物質的豊かさ至上の社会を作り出した。

 

そして、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして民族紛争・宗教紛争を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかっている。現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重から日本傳統文化へと回帰しなければならない。

 

自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を生活の中で體験する農耕民族たる日本民族の信仰精神が、世界の真の平和を作り出すであろう。

 

日本傳統信仰は、大自然を尊ぶ。それは、大自然から、人生を学び、生き方を学び、國の平和と人の幸福の道を学ぶ心である。山・川・海・風・樹木・石等々全ての自然に神の命が宿ると信じる。また、人の命は神の命であると信じる。一人一人が「命(みこと)」なのである。一人一人が「日子(ひこ・日の神の御子)」であり「日女(日の神の姫御子)」なのである。

 

日本人は、森羅萬象ことごとく神ならざるものはないと考えた。人も國土も神から生まれた、神が生みたもうたと考える日本民族の信仰は、神が人間と自然を造ったと考える西洋一神教の創造説とは全く異なる。神と人間と自然とは対立し矛盾した存在ではなく、調和し、融和し、一體の存在であると考える。こうした精神は排他独善の精神ではない。あらゆるものから学ぶべきものは学ぶのである。だからわが國は古来外来の文化を大らかに包容摂取してきた。

 

闘争戦争と自然破壊を繰り返す現代世界においてこそこの日本伝統精神が大きな役割を果たすと考える。一切の自然や人に神が宿るという大らかにして健全なる信仰精神たる日本傳統精神が、世界を救い、統合し融和して調和するのである。

 

自由自在にして大らかなる日本傳統精神は、教条的で固定的な西洋思想・文化・文明に訂正と活性化を与える。

 

日本という國家には日本の長き歴史の中から生まれてきた立國の精神というものがある。日本國體精神・日本の道統に反する一切の事象を撃滅し、粉砕すべき事は緊急の課題である。真に日本を改革するためには、今こそ、天皇を変革の中核する「維新」即ち日本傳統精神・國體精神を勃興せしめ、それに基づく変革が断行されなければならない。

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2018年3月 6日 (火)

日本國の本質

 

 我々の愛する国家とは権力機構としての国家ではない。否定しても否定し切れないところの「父祖の國」「母國」と表現されるところの「共同生活を営む國」である。海といふ大自然をめぐらし、緑濃き山と清らかな河とを有する国、農耕を営み、優れた文化感覚を持つ国「日本」である。

 

 この麗しき国日本は、村落共同体から出発して、次第にその範囲を広め、「日本」といふ国家を形成した。その本質は、地縁・血縁によって結ばれただけでなく、稲作生活から生まれた祭祀を基本とする伝統信仰によって結合してゐる共同体である。その信仰共同体の祭り主が天皇(すめらみこと)である。

 

かかる日本国の生成を『日本神話』は「神が日本國を生みたまふた」と表現した。古代日本の統一は、日の御子(太陽神の子)たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。つまり、古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、外国のくらべるとはるかに少なく、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊んだ。そして、古代日本人は太陽神・天照大神を最も尊貴なる神として崇めた。

 

 天照大神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、そして稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる天皇は、天照大神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。天照大神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。そして、祭り主たる天皇を、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者として仰いだ。

 

歴史学によると、紀元三世紀の日本は既に大和朝廷によって統一されており、天照大神信仰・現御神日本天皇仰慕の心による中核とする信仰共同体としての国家の統一が成立してゐたとされる。

 

 祭祀主たる天皇は、「大化改新」によって北は東北から南は南九州に及ぶ統一国家体制が制度的・法的に確立する時期よりはるか以前から、天皇はわが國に君臨せられてゐたのである。

 

 日本国の本質は権力国家ではない。また、日本天皇は絶対専制君主ではあらせられない。日本國の本質は、「祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體」である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。

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2018年1月13日 (土)

日本精神・日本主義について

 

日本精神とは、天皇仰慕の心・天神地祇崇拝の精神(祖先と自然の霊を尊ぶ心)・父母兄弟を尊ぶ心である。そこから明朗心・清明心・武の心・慈しみの心・むすびの心・神人合一(すべてに神を観る心)・天皇仰慕の心・まつりの心などの倫理精神が生まれる。それは古代日本の稲作生活から生まれた。

 

日本精神を常に実践されているお方が祭祀主・日本天皇である。日本の伝統精神・生活・文化の基本・核は天皇の祭祀である。

 

和辻哲郎氏は、「大和魂と同じく、個々の日本人に宿るところの何らかの形而上的な実体を指す…或いは、漠然と気魄、気概といふ如きものを指すのかもしれない」論じている。

 

安岡正篤氏は「日本精神そのものは、日本として真に日本たらしめてゐるあるもの、これなくば日本及び日本人が、存立できないものであって、斯くの如きものは、概念的に説明できるものでない。冷暖自知(註・悟りが他人から教えられるものではなく、自分で会得するものであることにたとえる)する外はない」と論じている。

 

村岡典嗣氏は「日本精神はその本来の丹き心、又は正直の徹することに於いて、苟(いやし)くも人類の創造した一切の価値を摂取し、動かして、新たな文化を建設し、以て自己を実現し得る」と論じている。

 

日本精神・民族精神とは天皇を中心とする國體より発生し継承されてきた国民精神ということが出来る。天地生成・神武建国・八紘為宇の精神がその根底にある。

 

そういう精神を根幹として日本国をそして世界を変革しようとする行動的な主義が日本主義ということが出来る。それは自然に祖先から継承され生活の中に息づいている国を愛する心・郷土を思う心よりも戦闘的行動的である。

 

日本精神を実践し行動し実現する「主義」を日本主義という。一貫不変不動の日本精神を覚醒し、日本精神をその時代において実現せんとする主張であり政策であり主義である。日本主義とは、日本精神から噴出してきたところの現代日本を政治・経済・社会的に変革しようとする一つの行動原理と言い得る。

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2018年1月 8日 (月)

日本伝統精神の英知を取り戻さねばならない

萬葉歌人の柿本人麿にしても近世の俳人松尾芭蕉にしても、彼らの偉大なる思想精神は、詩歌によって表現されている。このことについて保田與重郎氏は、「芭蕉は…自ら感得した詩人の思想を、思想の言葉で語ることはしていない。これは芭蕉のみでなく、わが國の思想の深さを描いた文章の常である。…最も深いものを、日本の思想として語った人々が、我國では詩人であった。…日本の道は、思想としてかういふ形に現れるものだからである。」(野ざらしの旅)と論じておられる。

 

 古代日本精神を今日まで文献的に伝えているものは『古事記』『日本書紀』『萬葉集』である。これらの文献は、『聖書』『コーラン』『仏典』『論語』のような教義・教条が書き記されている文献ではない。日本の神々と日本国の歴史が叙述され魂の表白たる歌が収められているのみである。日本人があくまでも真実を尊び人間の感性を重んじ抽象的な論議や理論を重んじなかった証拠である。

 

 近世の国学者・平田篤胤はその著『古道大意』において、「古ヘ儒佛ノ道、イマダ御国へ渡リ来ラザル以前ノ純粋ナル古ノ意(ココロ)古ノ言(コトバ)トヲ以テ、天地ノ初ヨリノ事実ヲ素直ニ説広ヘ、ソノ事実ノ上ニ真ノ道ノ具ツテイル事ヲ明アムル学問デアル故ニ、古道学ト申スデゴザル」「真ノ道ト云フモノハ教訓デハ其旨味ガ知レヌ、仍テ其古ノ真ノ道ヲ知ベキ事実ヲ記シテアル其ノ書物ハ何ジヤト云フニ、古事記ガ第一デゴザル」と述べている。

 

篤胤は、儒教や仏教という外来思想が日本に入り来る前の純粋なる古代日本の言葉を以て天地生成の起源からの事実を素直に記述し、その事実の上に立って日本民族固有の『道』を明らかにするのが古道(日本伝統精神を学ぶ学問)であり、日本伝統精神は教義・教条ではその真の意義を体得することはできず、古代以来の日本伝統精神を記してある書物の第一は『古事記』であると論じているのである。

 

さらに近世の国学者であり萬葉学者であった契冲はその著『萬葉代匠記怱釈』において「神道とて儒典佛書などの如く、説おかれたる事なし。舊事記、古事記、日本紀等あれども、是は神代より有りつる事どもを記せるのみなり。」と論じている。

 

つまり日本の伝統精神すなわち日本民族固有の『道』は事実の上に備わっており、一人の人物が書き表した教義書・経典に依拠しないというのである。抽象的・概念的な考え方に陥った教義万能・経典万能の思想から脱却し、日本人としての真心を以て祖先の歴史の真実を見てそれを戒めとしつつ自己の道徳意識を養成し、人間の真心をうたいあげた言の葉(即ち和歌)を学ぶことが、日本人一般の思想傾向である。

 

こういう教義・教条を絶対視しないという日本民族の柔軟な態度が、日本文化の発展の基礎であり、日本が古代以来仏教や儒教などの外国思想を幅広く受け入れて自己のものとし、さらにそれをより高度なものにし、さらに近代においては西洋科学技術文明を取り入れた原点である。

 

現代社会は、思想とか信仰というものが、人間の心性の中に深く根ざしたものとして把握されるのではなく、洗脳という形で個人の中に注入される<イデオロギー>と化している。それは人格破壊を招く機械的な洗脳と言う恐ろしさを持っている。<狐憑き>ならぬ<イデオロギー憑き>である。

 

教義・教条とかイデオロギーが人格から分断され洗脳という形で多くの人々を支配した時の恐ろしさは、共産支那や旧ソ連そして北朝鮮などという社会主義国家のこれまでの歴史を見れば明白である。

 

日本民族の生活態度の基本的特質、言い換えれば日本人の文化感覚を回復することが、こうした危険な状態を是正する方途である。日本伝統精神が今後の世界においても実に大きな価値を持つのである。

    

近代科学技術文明は、自然を恐れず、自然を征服し作り替え破壊することによって、人類の進歩と発展を図ってきた。しかしその結果、公害問題が深刻化するとともに核戦争の危機にさらされ、今日人間生活そのものが荒廃し、人類は破滅に向かって歩み始めている。

 

これを打開するためには、自然に調和し大らかにして柔軟な日本伝統精神に回帰する以外にないのである。

 

樋口清之氏は「日本人は、一般的傾向として、経験的な知恵や合理的知識をを分析や説明をこえた先験的・信仰的なとらえ方で身につける。このため近代分析科学的な理解方法しか身につけていない人からは、前近代的な迷信だと誤解されることもある。しかし分析に対する総合、対立に対する調和という伝統的な思考の中に、先人の生きざまの英知を各所で発見するのである。」(自然と日本人)と論じている。

 

今日の世界は、これまでの組織された体系を持つイデオロギーや教義では救い得ない末期的状況にあると言っていい。古い体系は次々に崩壊しつつある。我々の目標は、まともな日本を回復するために、日本の伝統精神の英知を取り戻さねばならないのである。日本の伝統精神とは、日本の自然と風土と生活の中から生まれた日本民族の自ずからなる歴史精神である。

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2017年10月15日 (日)

日本文化の国粋性と包容性

日本伝統信仰たる神道の神官が日本思想史・文学史において占める位置は大きい。賀茂真淵・吉田兼好・鴨長明がその代表的人物である。しかも兼好や長明は仏教の影響も強く受けていた。神道が排他的ではない証拠である。日本の神を祭る人は実に寛容にして大らかであった。これが日本文化そのものの包容性の原点であったと思われる。

 

国粋精神を謳歌した学者たちにおいても、外国文化受容に対して積極的だった。

 

例えば、平安前期・宇多天皇の御代の右大臣・菅原道真は優れた漢学者であり法華経の学者でもあった。言わば外来の最高の学問を身に付けた人であった。

 

その道真が編纂した歴史書『類聚国史』(二百巻)は神祇・帝王のことが冒頭に記されていて、仏教のことについては外国関係のものとしてはるか後ろの方に輯録されているという。菅原道真はまた遣唐使の廃止を建言した人物でもある。

 

日本の伝統を重んじる精神があったればこそ外国文化を正しく学び自己のものとすることができたのである。道真はまさに主体性と開放性とを併せ有する日本文化のあり方を体現した人物であったと言える。

 

徳川初期の儒学者・兵学者である山鹿素行は、日本の皇統の正統性と政治の理想が古代において実現されていたと論じた『中朝事実』という歴史書を著した。これは日本の特質を儒教思想によって論じている。

 

「中朝」とは世界の中心に位置する朝廷の意で、日本は神国であり天皇は神種であるとの意見が開陳されている。支那は自国を「中華・中国・中朝」とし、外国をことごとく野蛮な国と断じていた。素行は、その「中華・中国・中朝」は実に日本であるとして、書名を「中朝事実」としたのである。つまり国粋思想を支那の言葉によって論じたのである。

 

室町・戦国時代の神道家である吉田兼倶(かねとも)は、「吾が日本は種子を生じ、震旦(支那注)は林葉を現はし、天竺(注インド)は花実を開く。故に仏教は万法の花実たり、儒教は万法の枝葉たり、神道は万法の根本たり。彼の二教は皆是れ神道の分化なり。枝葉・花実を以て其の根源を顕はす。花落ちて根に帰るが故に今此の仏法東漸す。吾が国の、三国の根本たることを明さんが為めなり」(『唯一神道名法要集』)と論じでいる。

 

日本の二大外来宗教・思想たる仏教と儒教が神道から分かれた枝葉・花実であるという日本を中心とする国粋思想である。儒教仏教を包摂した根底にこうした強靱な生命力があったと言える。

 

近世の国学は幕末の尊皇攘夷運動の思想的基盤の一つであったが、決して排他的な偏狭な考え方に支配されていたわけではない。

 

例えば、平田篤胤は「仏法すなわち神の枝道にて、仏すなわち天竺の神なり。…凡て世の中のことは善きも悪きも、本は神の御所業(しわざ)に因れることにて、則公(おほやけ)ざまにも立置るゝ事なれば、これも広けき神の中の一ノ道なり。」(『鬼神新論』)と論じている。仏教は広大なる神の道の一つの枝でありインドの神だというのである。

 

平田篤胤はまた「そもそもかく外国々より万づの事物の我が大御国に参り来ることは、皇神たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故に、善き悪しきの選みなく、森羅万象ことごとく皇国に御引寄せあそばさるる趣を能く考へ弁へて、外国より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すもかしこきことなれども、是すなわち第の御心掟思ひ奉られるでござる」(静の岩屋)と論じている。

 

外国から多くの文物が日本に入ってくるのは日本の神の御心で有るからこれをよく取捨選択すべきだというのである。

 

篤胤の門下にして勤皇の大義を説いた大国隆正は、「今の世の人は、学問とだにいへば儒学のことにこころえてあれど、儒学をのみ学ぶはこと狭し。『神代巻』を本書とし、支那、天竺、西洋よりわたり来れる書籍をすべて、わが神代巻の注釈書とおもひてみるべきなり。…わが門に入る人はたれもかくのごとくこゝろえて、ひろく学ぶべし。」(『本学挙要』)「外国の人の入り来るは、かしこき大御世の御栄にて、よろこぶべきことなるを、世の人の、…ひたすらにうちしりぞけんとするは、天神地祇のみ心を、悟らぬものならんかし。」(『馭戎問答』)と論じでいる。

 

近代においては、西洋科学技術を盛んに取り入れ自家薬籠中のものにした。西洋科学技術文明を取り入れつつ、傳統文化を保持している国が日本である。

 

近代科学技術文明は西洋合理主義を基盤としている。日本民族がこれを拒絶することなく自己のものとすることができたのは、日本民族には本来的に合理精神があったからである。非合理精神と合理精神を調和統合せしめる力が日本にはあるのである。日本は多少の矛盾はあったが、近代化を為し遂げることができたのである。

 

日本の文化は、外来文化を包容摂取したが、外来文化は日本に伝来し日本に融合されることによって高度なものとなり洗練された。それは日本民族の文化感覚がもともと優れたものであったからにほかならない。

 

蓮田善明氏はその著『神韻の文学』において次のように述べておられる。「儒・道教、或は仏教が日本に入って来て、直接に(日本の注)神に会って、どのやうに高いものに達し得たか、どのやうに大きな光に透されたかを見る必要がある。日本人が、それらの有するあの誇りかな理法に絡(まつ)はられつゝも遂に、それに扼殺されてあの生の倦怠と惨落に陥るといふやうなことなく、神ながらのまさ道をまことに無窮の隆昌を保有してきた事実を知る必要がある。日本文化が異文化を抱合することによって高まったとなすが如き思想は正しくない。…我々は日本が儒老仏教によって真の意味に於て生命を国のいのちを豊かにされたとも向上されたとも信じない」と論じておられる。

 

日本民族にこの様な誇りと自尊心があったからこそ、日本文化は多くの外来思想・文化を取り入れつつそれをより高度なものにしてきたのである。

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2017年9月18日 (月)

日本精神・日本主義の今日的使命

日本が、外来文化文明を咀嚼し融合し高度化したのは、日本に天皇・皇室の御存在があるからである。天皇・皇室を中心として外来文化・思想・宗教の融合・高度化が実行された。

 

日本は儒教・佛教のみならず近代科學技術文明をも摂取し咀嚼し高度化した歴史を持っている。これは将来においても優れた特性として保持し続けなければならない。

 

ポール・アントワーヌ・リシャル(一八七四年、南仏に生まれた詩人・思想家。大正五年に来日し大川周明氏と親しく交わる)は『日本の児等に』という詩で、「新しき科學と旧き智慧と、ヨーロッパの思想とアジヤの精神とを自己のうちに統一せる唯一の民! 此等二つの世界、来たるべき世の此等両部を統合するは汝の任なり」「流血の跡なき宗教を有てる唯一の民! 一切の神々を統一して更に神聖なる真理を発揮するは汝なるべし」「建國以来一系の天皇、永遠にわたる一人の天皇を奉戴せる唯一の民! 汝は地上の萬國に向って、人は皆な一天の子にして、天を永遠の君主とする一個の帝國を建設すべきことを教へんが為に生れたり」と歌っている。

 

中山嶺雄氏は、「人類を破滅から救済する論理は、過去数千年に亙って自然との共存、共生、共栄を実践してきた純朴高雅なる『日本』の精神文化、即ち『やまとごころ』を措いて他にない…民族同族間、人類同族間の争闘を本質的に否定する『日本精神』『やまとごころ』が全世界に敷衍した時、始めて人類は救済され、存続への道を歩み始めるのである」と論じている。(『神風』百三号)

 

「日本主義」とは、日本の國益だけを第一に考える主義ではない。また、日本を世界の覇者とする主義でもない。経済力や武力によって世界を支配することを最高の主義とするものではない。日本傳統信仰・日本精神によって世界を救済し世界を新たならしめ、世界を維新する思想である。

 

今日の世界的危機をもたらしている自然破壊・民族闘争・宗教戦争は、日本精神即ち明朗心・清明心・武の心・慈しみの心・むすびの心・神人合一の精神(すべてに神を観る心)・天皇仰慕の心・まつりの心・自然及び祖霊を神として拝む心によってこそ救済できる。そのことを、能動的に世界に恢弘するのが日本主義である。

 

天孫降臨即ち稲穂による天皇統治の精神は絶対平和の精神である。また、天之御中主神と八百万の神々の共生という日本の傳統的神観は、一即多・多即一の包容精神である。一神教と多神教を融合する日本の神話の精神である。天地の万物は神が生みたもうたという神話は自然を大切にする心である。こうした日本傳統精神は今日重大な意味を持っている。

 

イスラム教とユダヤ教とキリスト教との争いとを終息せしめ神々のもとに永遠の平和を創造するのは、わが日本の使命である。

 

しかるに、今日の日本自身が日本の傳統精神が正しく全国民的に継承していない。占領憲法たる『日本國憲法』には、「日本精神」「日本の傳統」はまったく書かれていない。「前文」は詫び証文であり、憲法全体はアメリカ民主主義・契約國家論・似非平和主義に彩られている。

 

「日本傳統精神を救済原理・変革原理として日本國及び世界を正しく変革する思想」たる「日本主義」を今日において恢弘することが真の國家変革・真の世界平和の基礎である。天孫降臨の精神に回帰し、〈循環と相互扶助〉〈絶対平和と永遠の生命〉を象徴する稲穂を世界に広めることが大切である。まさしく、神代を今に、高天原を地上に持ち来たさねばならない。

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2017年6月17日 (土)

日本民族・日本國家・日本傳統文化は、人類の理想の日本における顕現である

 

 一時、グローバリズムという言葉がはやり、國家とか民族を軽視あるいは否定する傾向が現れていた。しかし、世界・地球・人類に共通して存在する思想・精神は、それぞれの國家・民族固有の思想・精神として発現する。言語一つとって見てもしかりである。世界共通語などというものは本来存在しない。各民族・各國にそれぞれ特有な言語すなわち國語がある。英語が世界で通用している便利な言葉だからといって、英語だけに世界の言語が統一されることはあり得ない。

 

 一定の共同體を形成する人々に共有される言語、生活様式、倫理観を総称して「文化」というのであり、固有の文化を共有する人々のことを「民族」と言うのである。

 

 言葉は文化そのものである。國家・民族は共通の言語(國語)を使う者によって成立する。各國各民族の國語を基礎とし言葉と一體である文化は、各民族・各國家特有のものとして創造され継承されてきている。各民族・各國家の固有の文化を否定することは、世界の文化・地球の文化全體を否定することになる。

 

 和辻哲郎氏は、「人倫の實現は、個人がいきなり抽象的な人類の立場に立つことによって、なされ得るものではない。それは個人がいきなり人類語を話そうとするようなものである。人倫は常に一定の形態を持つ共同體において、すなわち家族とか民族とかの形態において、實現される。」(近代歴史哲學の先駆者)「絶對精神がただそれぞれの特殊な民族精神としてのみ働くということ、すなわち特殊的形態において己を現わすのではない普遍的精神というごときものは抽象的思想に過ぎぬ。…真の絶對者はあらゆる特殊相對をも己とするものでなくてはならない。…生ける主體的全體性が特殊的民族的となることなしに活動したことは、かつて一度もなかったし、またあり得ぬであろう。」(続日本精神史研究)と論じている。 

                            

 人間は、民族とか國家とかを離れて存在するものではない。必ず何処かの民族に属し何処かの國の國民である。抽象的な世界人類というものは存在し得ない。血統・風土・地域性・言語・歴史・傳統・文化というものを離れた人間などというものは存在し得ないからである。

 

 日本民族・日本國家・日本傳統文化は、人類の理想の日本における顕現なのである。天皇國家日本の真姿顕現こそが世界的理想國家・真の自由なる國家の建設である。日本國に日本民族として生を享けた誇りと喜びを回復しなければならない。       

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2017年6月16日 (金)

國家を國民と対立する權力機構と考えるのは誤っている

 大分以前から、「國民」という言葉を使わず「市民」という言葉がよく使う人が多くなった。愛國心が希薄になってきた何よりの証拠である。國家とか民族よりも個人の人權の方がよっぽど大切だと考えている人も多い。戦後教育がそういうことを教えてきたのだから当然の成り行きである。

 

戦後教育において、「國家」とは英語のStateの訳語として用いられた。つまり西洋の國家觀に基づいて「國家」というものが教育されてきたのである。そして、Stateとは權力支配組織の意である。この權力支配組織としての國家からの自由を求めるのが近代民主主義であるとされてきた。 

 

 「市民」という言葉の根底には、國家と國民とが対立する関係にあるという思想がある。そういう思想を抱いている人は、「國民」という言葉は読んで字の如く「國の民」という意味であり國家の束縛を受けるように感じられるから使いたくないのであろう。國家の束縛を嫌い、國家と國民とは対立すると考えている人の言う「國家」とは權力機構・支配機構のことである。國家の中には階級対立があり、國家主權と國民の人權及び自由とは矛盾し合い、國家權力と國民とは対立し戦わねばならないとする。そしてできるだけ國家權力は制限すべきであるとする。

 

 こうした國家觀の延長線上に、マルクス・レーニン主義・共産主義の國家觀がある。共産主義者は、「權力國家」はいずれ死滅し、やがて自由で平等な理想社会を作るなどと主張した。しかし、現実には、かつてのソ連(今のロシア)や現在の共産支那、北朝鮮を見ても分かるように、共産主義者が國家權力を掌握した國家ほど國家權力が不断に増大し強大になり、國民の權利を蹂躙し自由を束縛している。それどころか、旧ソ連でも共産支那でも何千万という人々が共産党國家權力によって殺戮された。北朝鮮、カンボジアも然りだ。人民の權利を主張し國家を敵視する共産主義思想が、かえって國家權力の暴虐を招いたのである。歴史の皮肉というほかはない。

 

なぜそういうことになったのか。それは西洋的な國家觀・國民觀に誤りがあるからである。とりわけ、國家を國民と対立する權力機構としてとらえ、國家が死滅することによって人間の自由・平等・幸福が実現するなどという思想は空理空論であり、根本的に誤っている。

 人間は、よほど特殊の場合を除いて、たった一人では生きるなどということはあり得ないし、不可能である。人間は、多くの人々が助け合い、いたわり合ってこそ生きて行ける。つまり人は、人間関係の中にあってこそ、人として生きて行けるのである。

 

 多くの人々が助け合って生きている場を共同體という。そうした有機的生命體としての共同體が成長発展したものが國家である。國家があってこそ人間は生きて行けるのである。人間がこの世に生きている以上共同體國家はなくてはならない存在である。

 

 個人の自由や幸福はできるだけ実現されなければならないが、人間は、道義を重んじ、他者を愛しいたわり、他者と協力する心があると共に、道義を忘れ、他者を憎み迫害し、他者と競争する心があるので、しばしば他人の自由や幸福と衝突する。その場合各自の自由や權利そして幸福の追求を調整しなければならない。その役目を果たすのが國家なのである。

 

 國家は、國民の道義心を基本として、國民同士の愛と信頼と協力を促進せしめる役割を果たすと共に、國民の道義心の忘却による、憎悪と不信と闘争を抑止する役割を担う。個の尊重とか人間の權利とか自由というものも、共同體國家の中においてこそ守られるのである。

 

 つまり、人間は共同體國家と一體であり、人間は共同體國家を離れては生存することができないのである。そしてその共同體は、人間の生活の場であり、人間は文化を創造し、言語や信仰や道義心を持つ。だから、そこに生きている人々の信仰、文化、言語、そしてその共同體が存在する場所・気候・風土によって個性ができる。ゆえに世界に個性を持った共同體國家が多数存在しているのである。

 

 したがって、國家というものを權力機構であるとか、階級支配の道具であるとして一方的にこれを否定し、死滅に追いやろうとするのは不可能である。むしろ国家の死滅を「予言」したマルクス主義を信奉する国家即ちロシア・共産支那・北朝鮮こそ、国家権力による「人民迫害」がとめどなく続いているのである。 

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