2017年1月27日 (金)

「天地の初発の時」の回復と現代の救済

 物質偏重・経済至上・科學技術万能の世界を訂正することが現代おいて求められてゐる。日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るという信仰精神を回復しなければならない。日本及び日本國民の頽廃を救ふには、日本の伝統精神・宇宙観・神観・國家観・人間観を回復する以外に道はない。

 

 わが國の麗しい山河、かけがへのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識をより強固にしなければならない。

 

 我が國には、神話時代(神代)以来の伝統精神=日本國民の歩むべき道がある。それに回帰することによって現代の混迷を打開できる。「神話の精神」への回帰によってこそ今を新たならしめることができる。

 

 日本伝統精神の本質は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心である。そして祖先を尊ぶ心である。つまりきはめて自然で自由で大らかな精神なのである。

 

 我々日本民族の祖先が有した人生や國家や世界や宇宙に対する思想精神は、誰かが説いた知識としてつくりあげてしまった観念ではなかった。

 

 神とか罪悪に関する日本人の考へ方が、全て「祭祀」といふ實際の信仰行事と不可分的に生まれてきたやうに、抽象的な論理や教義として我が國伝統信仰の精神即ち神道を理解することはできない。我が國伝統信仰は、「神話」と日本人の生活そのもの、とりわけ「祭祀」と共に生きてゐる。

 

 わが國の伝統精神における最も大切な行事は「祭祀」である。「祭祀」は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神=神話の精神の實践なのである。「祭祀」が自然を破壊し、人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となる。

 

 天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来てゐる。稲作生活から生まれた「神話の精神」を、「祭祀」といふ現實に生きた行事によって今日ただ今も継承し続けてきてをられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。天皇の「祭祀」によって、わが國の伝統精神が現代において生きた形で継承され、踏み行はれてゐるのである。

 

 「祭祀」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。日本最高の祭り主であらせられる天皇の無私の御精神を仰ぎ奉ることが、我が國の道義の中心である。天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。

 

 人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが神道行事の基本である。

 

 なべての「本来の姿」を回復する行事が「祭祀」である。つまり『古事記』に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が「祭祀」である。

 

 今日、混迷の度を深めている我が國も、「天地の初発の時」を回復することによって、危機的状況を打開することができる。實際、日本民族は、全國各地で毎日のやうに祭りを行ってゐる。それは信仰共同體日本の本来の姿を回復する祈りが込められてゐる行事である。 

 

 維新変革も、罪穢を祓ひ清め國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿を回復することである。「今を神代へ」であり「高天原を地上へ」である。

 

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2017年1月25日 (水)

 日本固有信仰と仏教の受容

 

『日本書紀』によると、わが国への仏教公式的な伝来は、欽明天皇十三年(五五二)とされ、百済の聖明王が、欽明天皇に釈迦仏像や経典を献じた時であると記されてゐる。しかし、別の説ではそれは欽明天皇七年(西暦五三八)のことだったとされる。

 

『日本書紀』によると、この時、欽明天皇は、仏像の美しさに驚嘆され次のように仰せになったと伝へられる。「西蕃(にしのくに)の献((たてまつ)れる仏の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」。

 

日本の固有信仰は自然そのものそして祖霊を神として信仰するのだから、仏像などのような美しく威厳のある姿を表現した偶像を造りそれを「神の像」として礼拝することはなかった。だから百済の王様から献じられた金色燦然とした仏像を見て、その美しさに驚嘆したのである。仏教への驚異の念は仏像に対する驚異だったと言へる。

 

またここで注目すべきことは、日本に仏教を伝へた支那や朝鮮を「中華思想」の言葉を用いて「西蕃」(西方の未開人といふの意)と表現してゐることである。これは、日本の独立性・自主性の高らかな誇示であり、支那・朝鮮から多くの文化・文明を輸入してゐた『日本書紀』編纂当時にあっても、日本人は支那・朝鮮の属国意識を持ってゐなかったことの証明である。

 

欽明天皇が、仏教を採用するかどうかを群臣に諮問あそばされた際、仏教受容を支持した蘇我稲目(仏教を日本に伝へた百済系の渡来人といはれてゐる)は「西蕃諸国、一に皆之を礼(いやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)、豈に独り背かむや」と答へた。つまり、「西方の蕃人の国々も信仰してゐるのだから、わが国でも信仰しても良いのではないか」といふ意見である。

 

本居宣長は日本人が神として崇める対象を「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」としてゐる。欽明天皇の御代に外国から到来した仏像もさうした外来の「神」であった。だから『日本書紀』は「仏」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

 

「蕃神」と名付けられた「仏」も、日本人にとっては「神」なのだから固有信仰の「神」とそう矛盾するものではなかった。「異国の蕃神」も「世の常にない徳と力」があるのだから崇拝してもいいではないかといふのが、当時の日本人の基本的な態度だった。日本人にとって仏とは八百万の神が一神増えたといふ感覚であったと思はれる。

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