2018年10月15日 (月)

皇后陛下の御歌を拝し奉りてー靖国の英霊は今日唯今も祖国日本を護って下さっている

戰勝國は、復讐のためにいわゆる「戰争犯罪人」を捕らえ「裁判」にかけたのである。戰勝國による復讐の軍事裁判は、見せしめのための裁判であった。そして、わが國に侵略國家の汚名を着せそれを全世界に宣傳したのである。

 

「A級戰犯は戰争責任者だから靖國神社に祭られてはならない」とか「A級戰犯が祭られている靖國神社に総理大臣が参拝するのは侵略戰争を讃美することになる」などという議論は、戰勝國が行った法律なき「軍事裁判」即ち非人道的にして残虐無比な復讐を肯定することとなる。

 

「A級戰犯」という呼称はあくまでも戰勝國側の呼称であって、わが日本においては「昭和殉難者」と称するべきである。昭和殉難者は、まさに英靈であり戦没者である。だから、靖國神社においては「昭和殉難者」「戰死者」として祭られているのである。 

 

靖國神社に祭られている英靈は、國のために命を捧げられたばかりでなく今日唯今もわが祖國をお護り下さっているのである。

 

それは皇后陛下が「終戰記念日」と題されて、

 

「海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたの御靈國護るらむ」

 

と、詠ませられている御歌を拝しても明らかである。

 

昭和二十年(一九四五)六月二十三日未明、沖縄第三十二軍司令官として摩文仁岳にて自刃した牛島満陸軍大将の辞世歌を掲げさせていただく。

 

「矢彈(やだま)盡き天地染めて散るとても魂がへり魂がへりつゝ皇國(みくに)護らむ」

 

沖縄戦に於いて第三十二軍を指揮し、昭和二十年六月二十三日、自決された牛島満陸軍大将の辞世の歌である。まことにも悲しくも深く切なる歌である。自決した後も魂は祖國に帰ってきて、天皇國日本を守るといふ決意を表白された歌である。

 

われわれ国民は、天皇陛下にそして英霊にお護り頂いているのだ。國體護持も靖国神社国家護持も感謝報恩のための言葉である。 

 

わが國及びわが國民は、靖國神社そして各県の護國神社に鎮まりまします護國の英靈によってお護りいただいている。であるが故に内閣総理大臣をはじめ全國民は、靖國の英靈に対して感謝・報恩・顕彰の誠を捧げるのは当然である。共産支那や韓國の圧迫に屈してこれを怠るなどということは絶対にあってはならない。

 

また、國のために命を捧げた英靈をお祀りする靖國神社に内閣総理大臣が公式参拝すること、各県の護國神社に県知事が玉串奉奠することを「憲法違反だ」「近隣諸國との関係を悪化させる」などと決めつける法匪、亡國マスコミは許しがたい。

 

 

| | トラックバック (0)

2018年10月13日 (土)

現御神信仰について

 

昭和天皇御製

昭和天皇おかせられては、昭和三十四年、『皇太子の結婚』と題されて、

 

あなうれし神のみ前に日の御子のいもせの契りむすぶこの朝

 

と詠ませられた。「日の御子」とは「日の神すなはち天照大御神の御子」といふ意味である。「日嗣(ひつぎ)の御子」とも申し上げる。昭和天皇におかせられては、「天皇及び皇太子は天照大御神の生みの御子=現御神である」との御自覚が、大東亜戦争後においても、いささかも揺らいでをられなかったことは、この御製を拝すればあまりにも明白である。

 

「現御神信仰」は『萬葉集』に収められてゐる柿本人麻呂の歌に「やすみしし わが大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと…」と高らかに歌ひあげられてゐる。「四方をやすらけくたいらけくしらしめされるわが大君、高く光る日の神の御子、神ながらに、神にますままに、…」といふほどの意である。この長歌は、古代日本人の「現御神日本天皇仰慕」の無上の詠嘆である。

 

「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」といふ言葉は、『古事記』の景行天皇記の美夜受比売(みやづひめ)の御歌に最初に登場する。「現御神信仰」は、わが國古代以来、今日まで繼承されて来たてゐるのである。

 

歴代の天皇そして皇太子は、血統上は天照大御神・邇邇藝命・神武天皇のご子孫であり血統を継承されてゐるのであるが、信仰上は今上天皇も皇太子もひとしく天照大御神の「生みの御子」であらせられるのであり、天照大御神との御関係は邇邇藝命も神武天皇も今上天皇も皇太子も同一である。

 

昭和天皇はさらに、昭和三十五年に『光』と題されて、

 

さしのぼる朝日の光へだてなく世を照らさむぞわがねがひなる

 

と詠ませられてゐる。「さし昇る朝日の光が差別することなく世を照らすことこそ私の願いである」といふほどの意と拝する。

 

鈴木正男氏は、この御製について「まことに堂々たる天津日嗣天皇の大みうたである。…一天萬乗の至尊にしてはじめて述べることのできる御製である。いかに昭和天皇が皇祖皇宗の示された大道を畏み給ひ、御歴代中最も苦難な御一代を通じて、その御重責をいかに御痛感遊ばされてゐたかを示す御製である。」と述べてゐる。(『昭和天皇のおほみうた』)

 

昭和天皇は、現御神として君臨あそばされてゐるといふ御自覚は決して失ってをられなかったのである。『昭和二十一年元旦の詔書』において昭和天皇は「人間宣言」をされたなどといふことは全くの絵空事である。

 

先帝陛下も、今上陛下も祭祀を厳修せられてゐる。この貴い事實は、戦勝國アメリカの占領軍の無理強いによって発せられた『昭和二十一年元旦の詔書』が「人間宣言」であったなどといふことを根底から否定する。

 

| | トラックバック (0)

2018年10月 6日 (土)

楠公一族の絶対尊皇精神・七生報國の精神

楠木正行の歌

 

「帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る名をぞ 留むる」(出陣したならば、放たれた梓弓のやうに帰って来ることは無いとかねてから覚悟して来たので、過去帳に記されるであらう人々の名を書きとどめて置かう)。

 

楠木正行は、河内國水分にて正成公の長男として生まれた。父・正成公が湊川に出陣する時、正行は十一歳であったので、父から懇々と諭されて故郷の河内に帰り他日を期した。正平二年、正行が二十二歳になると、足利方は悪名高き高師直を総大将として吉野に攻め寄せて来た。正行は、後村上天皇に拝謁してお暇乞ひをし、後醍醐天皇の御陵を拝した。その後、如意輪寺にて決死覚悟の一族郎党一四三名の過去帳と遺髪を奉納し、この辞世の歌を扉に鏃で刻んだ。

 

そして翌年一月五日、四条畷にて高師直、師泰連合軍約八万騎を楠木勢約二千騎にて迎へ撃ち、師直の本陣へと突入し、師直を討ち取る寸前までの奮闘を見せるが、やがて幕府軍の大軍に取り囲まれ、弟正時公と刺し違へて生涯を終へた。

 

正行は、早くから死を覚悟してゐた。後村上天皇は正行に弁内侍といふ女性を娶るやうに勧められたが、正行は辞退してゐる。その時詠んだ歌が「とても世に 永らふべくもあらぬ身の 仮の契りを いかで結ばん」である。

 

天皇國日本存立および日本國民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と、國民の「尊皇精神」である。國民が、神聖君主・日本天皇の大御心に「清らけき心」「明けき心」を以て随順し奉ることが、日本國永遠の隆昌の基礎であり、日本國民の倫理精神の根幹である。私心なく天皇にお仕へする心は、須佐之男命・日本武尊といふ二大英雄神の御事績を拝すれば明らかである。

 

中世においては、大楠公・楠木正成こそ尊皇精神の体現者であられた。大楠公の絶対尊皇精神は、『太平記』『日本外史』などの史書によって後世に伝へられた。明治維新の志士たちも楠公精神を継承して維新を戦った。大楠公は絶対尊皇精神の具現者である。

 

日本の古典には「名文」と言はれるものが多数ある。『太平記』の次の一節は、その最たるものであらう。

 

「舎弟の正季に向て、そもそも最後の一念に依て、善悪の生(しゃう)を引くといへり。九界の間に何か御辺の願なると問ければ、正季からからと打笑て、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替(かへ)て、この本懐を達せんと契て、兄弟共に刺違て、同枕(おなじまくら)に伏にけり。」

 

この文章には、楠公のそして日本民族の絶対尊皇精神、七生報國の精神が見事にうたひあげられてゐる。「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ正季の言葉は、後々の世まで深く人の心に感銘を与へ、人の心を動かした。歴史を動かしたと言っても過言ではない。

 

楠公兄弟は、「今度は浄土に生まれたい」「地獄には行きたくない」「後生はもっと善い処に生まれたい」などとは言はなかった。ただひたすら、「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ強烈に決意を吐露した。

 

「七生」とは永遠の生命を意味する。日本人たるもの、永遠に生き通して、君國に身を捧げるといふ捨身無我の尊皇精神に憧れたのである。

 

絶対尊皇精神といふ「素直な民族感情」は、仏教の宿命論、輪廻思想・厭離穢土思想を超越するのである。「七生報國」の精神は、仏教の輪廻転生思想・宿命論が我が國に入って来る以前から日本民族が抱いてゐた死生観より生まれた観念だからである。

 

「七生まで唯同じ人間に生れる」とは、「よみがへりの思想」である。黄泉の國(あの世)に行かれた伊邪那美命の所を訪問した後、この世に帰って来られた伊邪那岐命は「よみがへられた」のである。

 

落合直文が作詞した『櫻井の訣別』に

 

「汝をこゝより歸さむは わが私のためならず おのれ討死なさむには 世は尊氏のまゝならむ 早く生ひ立ち大君に 仕へまつれよ國のため」

 

といふ一節がある。毎年『楠公祭』で斉唱する度に、胸が迫る。現代のわが國は、精神的・思想的・政治的に混迷の極に達している。また近隣諸國との関係も緊迫している。今こそ、楠公精神即ち絶対尊皇精神・七生報國の精神に回帰しなければならない。

| | トラックバック (0)

2018年10月 5日 (金)

絶対尊皇精神・楠公精神について

 

日本国民の「楠公崇拝」は、楠公の「絶対尊皇精神」がその根源にある。それは、天皇を現御神と仰ぎ奉り絶対の信をよせることが日本の臣道ということである。

 

久保田収氏はその著『建武中興』において次のやうに論じてをられる。

 

「『太平記』四十巻の中で、近世の人々が最も感動深く読んだものは、正成の活動と忠誠とであった。正成が天皇の御召しを受けて参上し、力強く決意を申上げたこと、千早の険に拠って、北条氏の大軍を向こうにまわして、…奮戦し…中興の糸口をつくったこと…七生報国の志を残して、湊川で戦死したことなど、正成が死生を超越し、一意至誠をもって天皇に捧げた純忠の精神は、読む人に深い感動を与え、正成への憧憬と、その志をうけつごうとする決意とを生み出したのである。…正成に対する感激…決定的方向を与えたのは水戸光圀である。…『大日本史』において、吉野の正統を主張した…湊川に『嗚呼忠臣楠子之墓』という碑を立てた…。…天和二年(一六八二)に亡くなった山崎闇斎…の学問の流れを汲んだ若林強斎が、その書斎を望楠軒といって、楠公を崇拝する気持ちを明白にし、正成が『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』と申したということに感じて楠公崇拝の心をおこした、と伝えている…強斎は、このことばが『わが国士臣の目当』であると考え、正成を日本人の理想像として仰いだのである」。

「明治維新…のために活動した多くの志士は、ほとんど例外なく楠公に対する感激と崇敬とをいだいていた。…松陰は、安政三年(一八五六)、『七生説』を作って、正成が七度人間と生まれて国賊を滅ぼすことを誓ったことについて、『楠公兄弟、たゞに七たび生れるのみならず、初めより未だかつて死せざるなり』といい、『是より其の後、忠孝節義の人、楠公に見て興起せざるものなし。…』となし…ひとびとの心が楠公崇拝に帰一した時に、明治維新は成就したのである。挫折した建武中興の理想は、明治維新という形で復活したというべきであろう。…建武中興への懐古、ことに国家の中興を目指し道義的理想を実現しようとされた後醍醐天皇と、その御志を理解して、身命を捧げた忠臣義士に対する感激が、王政復古運動を導き出し、やがて明治維新実現に至る精神的動因となった」。

 

この他高山彦九郎・有馬新七・真木和泉守保臣など、明治維新の草莽の志士たちは殆ど例外なく楠公を尊敬した。

 

自分の意志や思想と一致する天皇を尊ぶことなら誰にでもできる。しかし、自分の意志や思想と異なる行動をされた天皇に対しても忠義を尽くし従ひ奉るのが真の尊皇であり勤皇である。そのことは、日本武尊の御事績・楠正成公の事績を見れば明らかである。

 

天皇は現御神であらせられ絶対的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下をあからさまに批判する事は絶対にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。楠正成公が言はれた如く「仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし」なのである。この絶対尊皇精神は太古以来の日本の道統である。

 

我が国の歴史書において、大楠公を賛美しても、後醍醐天皇を失徳の天子として批判することがある。

 

村岡典嗣氏は「まごゝろといひ、大和心といふものには、一味もののはれと通ずるところがある。而してこれまた、現人神にます天皇を對象とすることに於いて、重なる存在をはじめに有した丹き心本来の性格であった。……正統記に、儒教的の有徳王君主の思想を少なくとも絶對的に否定しつべき積極的主張の十分でなかったことを、感ぜざるを得ざらしめる。これは國學者の立場からせば、所謂漢意を去りえなかったのである。天皇は天皇にまします故に貴く、善悪の論を離れて絶對に尊びまつるべしといふのは、合理主義以上のまた以外の至情である。丹き心の根柢にはこの情味がある。この事は、國學をまって、始めて明瞭なる自覺を以て發揮せられたところである。されば親房以後近世の日本的儒學者の間に於いては、就中、山鹿素行の如き、頗る日本精神の主張に於いて、一層の進歩を示したとはいへども、未だこの點國學ほど純粋ではなかった憾みがある。而してこは、國學の古典學を有しなかった爲である」(『日本思想氏研究第四』)と論じてゐる。

 

わが國における「尊皇精神」「忠義」とは、現御神日本天皇に對する絶對的な仰慕の心・戀闕の心をいふのである。一切の私心なく天皇にまつろひ奉ることが最高の道義なのである。それを「清明心」といふのである。

 

「丹(あか)き心」とは、「赤心(せきしん)」であり、誠實、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれいな心、清い心、まことの心である。すなはち日本精神の骨髄たる「清明心」である。

 

天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「然(しか)あらば、汝(みまし)が心の清く明きは何を以ちて知らむ」と仰せられた。須佐之男命は、ご自分の「清明」を証明するために「うけひ」をされた。

 

「清明心」「清き心」の傳統は、日本の倫理思想の中に力強く生きてゐる。そしてそれは、絶對尊皇精神と一体の倫理観であった。日本武尊の御事績を拝すればそれは明らかである。

 

支那の有徳王君主思想は、「君主に徳がなくなり間違ったことするやうになればその君主を廃する」といふ思想である。日本の尊皇精神は、「天皇は現御神であらせられ、善悪の論を離れて絶対に尊びたてまつるべし」といふ至情である。これを「あかき心」(赤誠心)といふのである。「あかき心」とは「無私の心」である。

 

吉田松陰は、『講孟箚記巻の一』「梁恵王下篇第八章」において、「(注・漢は)天の命ずる所を以て天の廃する所を討つ。何ぞ放伐を疑はんや。本邦は則ち然らず。天日の嗣、永く天壌無窮なる者にて、この大八洲は、天日の開き給へる所にして、日嗣の永く守り給へる者なり。故に億兆の人、宜しく日嗣と休戚(注・喜びと悲しみ)を同じうして、復た他念あるべからず。若し夫征夷大将軍の類は、天朝の命ずる所にして、其の職に称(かな)ふ者のみ是に居ることを得。故に征夷をして足利氏の曠職の如くならしめば。直ちに是を廃するも可なり。」

(支那に於いては、天の命ずる所に従って天が排する者を討つといふ放伐思想を疑はない。わが國はさうではない。天照大御神の継嗣は天地と共に極まりなく永遠の存在であるので、この日本は天照大御神が開き給へる国で、天照大御神の継嗣が永く護り給へるものである。故に多くの人々は、良く天照大御神の継嗣と喜びも悲しみも共にして、他の思ひを持ってはならない。征夷大将軍の地位は、天朝の命ずるところに従って就任するのであるから、その職責にかなふ者のみその地位にゐることができる。だから、征夷大将軍が足利氏のやうに職務をおろそかにすることがあったならば、ただちにこれを廃しても構はないのである、といふ意)

 

吉田松陰は、征夷大将軍がその職責を全うし得ず、夷狄を平らげることができなくなり、天皇のご信頼を失った場合はこれを打倒すべきであると論じたのである。この思想が徳川幕府打倒運動の正統性の根拠になる。

 

「天命が去った暴君を討ち倒すのは正義である」といふ支那孟子の「湯武放伐論」を日本的に昇華させ適用したのが松陰である。即ち、天照大御神の子孫(生みの子)であらせられる日本天皇は、神聖なるご存在であり、天そのものであり給ひ、日本の永遠の君主であらせられ、絶対的御存在である。しかし、徳川将軍は覇者であり、征夷の職責を果たせなくなったらこれを討伐してよいといふ思想である。

| | トラックバック (0)

2018年10月 4日 (木)

日本と支那の君主観の決定的違ひ

 

 宇野精一先生は、「支那においては、俸禄を受けて直接君主に仕へる者を臣と言ひ、俸禄を受けないものを民といふ。しかして一般のいはゆる民は君主に対して直接何の義務もない。わが国においては、臣は即ち民であり、民は即ち臣である。」(要約)と論じてをられる。(宇野精一氏著『儒教思想』)

 

このやうに、日本と支那の国体観・君主観には大きな違ひがある。わが国肇国以来の傳統である天皇に対する「忠」と、封建君主に対する「忠」とは、絶対的に区別されるべきである。日本は一君萬民の國體であり、天皇は萬民の君であり、萬民は天皇を絶対的君主と仰ぐのである。封建社会が解体され、一君萬民・天皇中心の國體が明徴化された近代以後においては、「絶対的忠誠」の対象は、天皇以外にあり得ない。

 

「忠」と「恕」を倫理の基本と考へた孔子の思想=『論語』は、「君子」(朝廷の會議に参列できる貴族・官僚たちの総称)の身分道徳であった。然るに、わが国においては、封建時代においてすら、寺小屋で『論語』が教へられゐたことによって明らかなやうに、孔子の思想は一般國民の道徳として学ばれた。

 

わが國の尊皇精神・天皇への忠誠心は、俸禄を与へる封建君主と俸禄を与へられる臣下の間の精神的紐帯ではない。百人一首・雛祭りが一般国民に愛好され、農民が『なに兵衛』と名乗るやうに、天皇への忠誠心は、俸禄などといふものは全く関係のない心であり、上御一人と日本国の民衆全体との精神的紐帯である。天皇への忠誠は封建道徳ではない。

 

ゆゑに、「士農工商」といふ身分制度が解体された明治維新後において、国民全体の尊皇精神・天皇への絶対的忠誠心は、顕在化し高まったのである。

 

天皇は常に無私の御心で統治される。無私の心とは神の御心のままといふことである。さらに御歴代の天皇の踏み行はれた道を継承されることを心がけられる。そのことがそのまま國民にその所を得さしめる事即ち国民の幸福実現となる。天皇の国家統治とは権力・武力を以て民を屈従せしめ私物化することではない。

 

ところが、支那においては、天を以て帝権の象徴とし、地を以て民衆に擬し、天と地とは相対立する相対的関係のあるととらへ、天子たる皇帝は民衆を上から見下ろし支配すると考へられてゐる。しかしわが国においては、天子たる天皇は天の神の御子として地上に天降られ、国民もまた神々の子孫であり、天皇は一大家族国家の中心であると考へてゐる。

 

簡単に言へば、支那においては皇帝は権力と武力によって国民を支配し、日本においては天皇は信仰的権威によって国民を慈しむのである。この違ひは支那と日本の国家の成り立ちとその後の歴史の違ひによる。

 

明治維新によって、肇国以来の一君萬民の国体が回復した。明治天皇は、西洋模倣・知育偏重の教育を憂へ給ひ、『教育勅語』を渙発された。そして天皇は、全国民に対して「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」といふ徳目が示されたのである。それが肇国以来のわが國の道統である。萬葉時代の防人の歌を見ても、萬民が大君の御爲国の爲に「義勇公に奉じ」る精神が歌はれでゐる。決して武士階級(支那で言ふ『士・大夫』)のみが大君の御爲国家の爲に義勇を以って奉じたのではない。これがわが國體の本義である。

| | トラックバック (0)

2018年8月29日 (水)

萬世一系にして神聖なる天皇の国家統治―神話時代からの伝統

萬世一系にして神聖なる天皇の国家統治―神話時代からの伝統

 

 天皇はどういう御存在であるか、天皇が日本國を統治するということはどういうことであるのか。日本國統治の大権は建國以来、天皇にあるわけですが、天皇統治とは、権力、武力によるものではないと思います。統治とは神聖なる信仰的権威によって國民を統合し、統一することが天皇の統治であると私は思うわけです。

 

 元々、西洋成文憲法というものは、マグナカルタというイギリスの國王と貴族の契約から発祥したものです。君主と貴族の時代から経て、君民の対立の時代になってから、その対立関係をうまく調停させて契約を交わしたのが近代成文憲法の起源であり歴史です。欧米諸國はみな成文法を持つようになり、日本でも、近代化をする過程で成文法を持つ必要が生まれた。それで制定されたのが「大日本帝國憲法」です。

 

 日本という國は三千年の歴史があり、太古、神代の時代からある國の國柄というものを、西洋起源の成文法で規定してしまうこと自体無理がある。ところが明治の先人という方々は大変立派で、伊藤博文、井上毅という方たちが叡智を絞って作り上げた。西欧の法律と日本の伝統というものを良く咀嚼して、それを統合したのが「大日本帝國憲法」でした。「帝國憲法」は完璧とは言えないかもしれないけど、和魂洋才の立派な憲法だと思います。

 

 ですが、成文法で日本の天皇様の国家統治の御事を明記したということでは、「日本書紀」における天照大神が邇邇藝命に下された御神勅というものがあります。

 

 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜爾(よろしくいまし)皇孫(すめみま)、就きて知らせ。さきくませ。寳祚(あまつひつぎ)のさかえまさむこと、天壌(あめつち)と窮まりなけむ」

 

 これが日本の成文憲法の起源と言えるでしょう。即ち、「豊葦原の、豊かに草木実る、米実る瑞穂の國は、吾が子孫、即ち天照大神様が御生みになった子孫、邇邇藝命が君主であるべき國である。さあ、汝皇孫よ、日本國に行って統治しなさい、皆を幸福にしなさい、天皇の位が栄えるのは天地と共に永遠であろう」と命じられたわけです。

 

「就きて知らせ」とありますが、大和言葉では他に「しろしめす」、「しらす」、「きこしめす」とも言う。統治する、の意味ですが、元は「知る」という言葉の尊敬語でもある。お知りになるということは、即ち日本の國土、國民、全てのことをお知りになるのが、天皇陛下の御役目であります。

 

知る、というのは単に知識として知るわけではなくて、全てを把握する、意識するという意味で使われる。日常生活でも、「わたしはそんなこと全然知らない」と言うのは、「自分はそういうことには一切関係ない」という意味になりますように、知る、ということには天下一切のことを認識し把握するという非常に深い意味があるわけです。全てをお知りになり、國民をあるべきところにあらしめるのが、天皇統治の本質であるわけです。

 

さらに日本の國の天皇は、自分の力で國民を統治されるのではない。天皇はあくまでも、天の神の御委任によって、地上における神の代理人として天職を奉じる、國家も國民も、神様からの御預かりものであるという大御心によって統治されるわけです。だから、ブルボン王朝やロマノフ王朝のように、人民を征服し、武力と権力でこれを支配し服従せしめるような存在では決してないのです。

 

 もう一つ「きこしめす」には、お聞きになるという意味がある。天照大神は御孫様の邇邇藝命様に天降りを命じられたわけですが、この邇邇藝命の親神、即ち天照大神の御子神は、「天忍穂耳の尊(あめのおしほみみ)」です。「耳の尊」です。また神武天皇の皇子で、第二代綏靖天皇の大和言葉での御名が、神渟名川耳(かむぬながわみみ)の尊、と言われます。このように、日本の國の天皇様は「耳」を非常に大切にされたわけです。國民がどういうことを考えているか、耳を傾けてお聞きになるということを大事にされた。

 

また天皇を「聖(ひじり)の君」とも言いますが、聖(ヒジリ)というのは、日を知る、つまり天体の動きを把握するということです。日本は農耕社会でございますから、時候の推移、季節の移り変わりというものを考察して、農業の指導に当たった。天候を知る、つまり神様の声を聞くことができるのが君主の役目だということです。國民の声、神様の声を知ることを統治の基本にする、これが「しろしめす」「みみのみこと」の意義であると思います。

 

| | トラックバック (0)

2018年8月26日 (日)

昭和天皇の崇高なる御自覚

 

昨日も書かせていただいたが、昭和天皇は、ご生涯をかけて日本國の天皇としての御使命を果たされたのである。それはただただ國民の幸福と平和の実現であった。そして昭和天皇が退位されずそのつとめを果たされたからこそ、戦後日本の復興と國民の幸福があり得たのである。

 

昭和天皇は、「退位」について東京國際軍事裁判に判決が行われた直後、「個人としてはそう(退位)も考えるが公人としての立場がそれを許さない。國民を今日の災難に追い込んだことは申し訳なく思っている。退くことも責任を果たす一つの方法とは思うが、むしろ留位して國民と慰めあい、励ましあって日本再建のために尽すことが先祖に対し、國民に対し、またポツダム宣言の主旨にそう所以だと思う。反省と考慮の末、退位によって責任はつぐないきれない。むしろすすんで留位して平和國家の建設を成就したい」と仰せになった。(昭和二十二年十二月二十四日『朝日新聞』の報道・由利静夫・東邦彦両氏の共著「天皇語録」より引用)

 

昭和二十三年十一月十二日、東京國際軍事裁判の判決があった日に、マッカーサー宛てに送られた書簡では、「今や私は一層の決意をもって萬難を排し、日本の國家再建を速やかならしめるために、國民と力を合わせ最善を尽くす所存であります」と仰せになったと承る。

 

昭和二十七年五月三日、皇居前広場で行はれた「講和条約」発効を受け独立を祝ふ「記念式典」における『お言葉』では、「この時にあたり、身寡薄なれども、過去を顧み、世論を察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きに耐えんことを期し、日夜ただ及ばざることを恐れるのみであります」と仰せになった。

 

また、「もし自分が『私』を先にするならば退位の安きにつきたいのは山々であるが、自分の位置として『私』があってはならぬと思へばこそ、このやうにして居るのである」(安倍能成氏『陛下のこと』・由利静夫・東邦彦編『天皇語録』)と仰せられた。

 

昭和天皇は、昭和四十五年四月二十四日、側近の稲田周一侍従長に「明治天皇は、大臣が辞職するのとは違って、天皇は『記紀』に書かれている神勅を履行しなければならないから退位できないと仰せられたとのことである。明治天皇の思召しは尤もであろうと思う。わたしの任務は祖先から受け継いだ此の國を子孫に傳えることである。わたしは明治天皇の思召に鑑み、苦難に堪えて義務を果たす方が國家に忠を尽すことになると思う。熟慮の上、苦難に堪え日本再建に尽す決意である。」と仰せられたと承る。(『徳川義寛終戦日記』による)

 

明治天皇を仰慕し尊敬してをられた昭和天皇は、日露戦争における明治天皇の「天皇に辞職はない」とのお言葉をかみしめてをられたと拝察する。

 

昭和天皇が、「先祖に対し」と仰せになってゐるのはまことに重要である。終戦のご詔勅において「皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ」と仰せになってゐる。天皇の御使命は、皇祖皇宗から受け継がれた日本國を統治されさらに次代に受け継がせ、日本國の永遠を保持することである。

 

皇祖・天照大御神の『天壌無窮の神勅』を奉行するために、そして邇邇藝命・神武天皇以来の道統を護持するために退位を思ひとどまられたのである。

 

君主としてのご責任を回避しご自身の地位と名誉の保全すなはち自己保全のために退位されなかったのでは決してない。天皇として君主としてのご責任を果たされるために、陛下御自ら仰せの通り「あえて自らを励まして、負荷の重きに耐えんことを期し」留位されたのである。

 

それは「戦争の道義的責任」といふよりも、もっと高次の「日本國の君主として天皇としての責任」を果たされたのである。昭和天皇は、退位されず御位にとどまられて「天皇としてのご責任」を果たされることを至上の使命とされてをられたのである。

 

葦津珍彦氏は「側近の臣、木戸日記には、陛下が御退位について洩らされたお言葉が見える。畏れ多いが、もしも陛下が、中世か上代の御帝(みかど)であれば、御退位なりご出家なさったであらう。皇室の古来の歴史事情に詳しく、陛下に最も御親近した近衛公が敗戦直前から、そのやうなことを考へたと云はれる。中世王朝風の近衛公は『失はれし政治』の一文を残して自殺した。畏れ多いが、陛下も『しばしの間』は、近衛にも似た御感慨がなかったとは断言しにくい側近記録もないではない。しかし陛下は、維新を断行して皇位の無限責任の神武の掟(おきて)を明白に復古確立して『朕に辞任は許されない』とさとされた皇祖考、明治天皇の御遺訓に深く思ひを及ばされた。死にも勝る『五内為に裂ける』艱苦の道を選び、皇祖の大道を守るとの悲壮なる御決意を固められた。この超人的な御決意は、今上の御勇気もさることながら、神武復古の大道を示し給へる明治天皇の神靈の御命令によるものであった。陛下は、玉体を裂かれる苦しみを耐へぬいても、皇祖皇宗にたいして、その精神傳統を確保し、荒廃せる祖國の立ち直りの速やかなることを朝夕祈りつづけられた」(『神國の民の心』)と論じておられる。

 

昭和天皇様が退位あそばされず、天皇としての御使命を果たされた意義は、この葦津先生の文章に尽きてゐると思ふ。

 

天皇が退位されなかったことに対して、「天皇のさうした態度が戦後日本の無責任風潮の原因だ」とか「アジア近隣諸國との歴史問題の軋轢の原因だ」とする非難は全く誤ってゐる。

 

小堀桂一郎氏は、「天皇が果たされた戰爭責任は、戰爭の収拾に成功されたといふところまでで本来は竭くされたはずである。驚嘆すべく、畏れ多いことであるが、その責任達成の御努力は、戰後の跡始末の部分にまで及んだ。…戰後度重なる占領軍司令官との御會見、そして六年にわたる全國御巡幸の旅である。戰争の全責任を引受けられ、ついで戰後復興といふ事業にも進んで責任を負擔されたことにより、今上天皇の戰前の二十年の御統治と戰後四十年の國民統合の象徴的御行動とは見事な一貫性・連續性を以て嚴としてつながってゐる。」(『昭和天皇論』)と論じてゐる。

 

昭和天皇が、疲弊し困難に立ち向かふ日果たされた戰争本國民を鼓舞激励され、國のために一身を捧げた英靈に対して常に慰靈の誠を捧げられ、且つ、宮中祭祀を続けられたそのことが、「道義的戦争責任」といふよりも「君主として天皇としての使命と責任」を果たし続けられたといふことなのである。

 

國家國民が最も疲弊し困難に陥っている時にこそ、「皇祖・天照大御神のご神勅により國家・國民を統治する使命を有する」といふ天皇としての崇高なる御自覚、すなはち「日本國の時間的連続性(歴史的傳統性)と空間的統合性の中核として君臨されてゐる天皇としての聖なるご使命」を自覚され、退位されなかったと拝察する。

| | トラックバック (0)

2018年8月24日 (金)

「昭和天皇は戦争責任をとって退位されるべきであった」などといふ議論は、昭和天皇の御聖徳を否定し、戦後日本の復興を否定する妄論である。

「昭和天皇は戦争責任をとって退位されるべきであった」などといふ議論は、昭和天皇の御聖徳を否定し、戦後日本の復興を否定する妄論である。

昭和天皇はいはゆる「戦争責任」を回避されたことなど一度もない。むしろ積極的に責任を果たされるために、天皇の御位にとどまられたのである。そして「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」その責任を果たされたのである。だからこそ、その後、昭和天皇は、國民大多数そして諸外國が仰慕され尊敬され続けたのである。 

そして「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」その責任を果たされたのである。だからこそ、その後、昭和天皇は、國民大多数そして諸外國が仰慕され尊敬され続けたのである。昭和天皇はご生涯をかけて國民の幸福と平和の実現を祈られた

 

 

 

昭和天皇崩御前年の最晩年の昭和六十三年には、『全國戦没者追悼式 八月十五日』と題されて、

 

 

 

やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど

 

 

 

と詠ませられた。

 

 

 

昭和六十三年の『全國戦没者追悼式』にご臨席あそばされるため、那須の御用邸からヘリコプターで東京に向はれた。ヘリコプターからお降りになられる時の陛下のお姿を拝し、また『追悼式』でのおみ足の運びのたどたどしさを拝してもなほ、「天皇は戦争責任をとって退位すべきであった」などと批判する輩は、「人間ではない」と小生は思ふ。

 

 

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である。」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

 

 

昭和天皇は、大東亜戦争に対する「政治的責任」「法律的責任」といふやうな次元ではなく、「日本國天皇としての責任」を深く自覚されておられたのである。根本的には、昭和天皇はご自身のご意志で御位にとどまられてその責任を果たそうとされ、また事実果たされたのである。

 

 

 

昭和天皇は、御自身の「退位問題」について、昭和二十年十月、当時の宮内次官・加藤進氏に、「この戦争によって祖先からの領土を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考へ、また退位も考へた。しかし、よくよく考へた末、この際は、全國を隈なく歩いて、國民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。わたくしとしてはなるべく早い時期に行ひたいと思ふ」と仰せになった。(加藤進氏『昭和天皇の御巡幸』・「聖帝 昭和天皇を仰ぐ」所収)

 

 

 

昭和天皇は、國民を鼓舞激励し、祖國の復興を成し遂げるために、昭和二十一年二月二十日より二十九年まで満八年半をかけて、行程三萬三千キロ、総日数百六十五日間の地方御巡幸を行はせられた。それは昭和天皇の「國見」であったと拝する。「國見」とは、國土と國民の祝福し、國土の豊饒と國民の幸福を祈る祭事である。昭和天皇は、敗戦によって疲弊した國土と國民の再生のための「祈りの旅」を行はせられたのである。

 

 

 

昭和天皇は、「戦災地視察」と題されて次のやうなお歌を詠ませられた。

 

 

 

戦のわざはひうけし國民をおもふ心にいでたちて来ぬ

 

 

 

わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ

 

 

 

國をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

 

 

 

 鈴木正男氏は、「敗戦國の帝王が、その戦争によって我が子を亡くし、我が家を焼かれ、その上に飢餓線上をさ迷ふ國民を慰め励ます旅に出かけるなどと云ふことは、古今東西の歴史に絶無のことであった。アメリカをはじめとする連合軍は、恐らく天皇は國民から冷たく迎へられ、唾でもひっかけられるであらうと予想してゐた。ところが、事実は逆であった。國民は熱狂して天皇を奉迎し、涙を流して萬歳を連呼した。…天皇の激励によってストは中止され、石炭は増産され、米の供出は進み、敗残の焦土の上ではあったが、國民は祖國再建の明るい希望に燃えて立ち上がった。」(『昭和天皇のおほみうた』)と論じてをられる。

 

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である。」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

 

昭和天皇は、御自身の「退位問題」について、昭和二十年十月、当時の宮内次官・加藤進氏に、「この戦争によって祖先からの領土を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考へ、また退位も考へた。しかし、よくよく考へた末、この際は、全國を隈なく歩いて、國民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。わたくしとしてはなるべく早い時期に行ひたいと思ふ」と仰せになった。(加藤進氏『昭和天皇の御巡幸』・「聖帝 昭和天皇を仰ぐ」所収)

 

 

昭和天皇は、ご生涯をかけて日本國の天皇としての御使命を果たされたのである。それはただただ國民の幸福と平和の実現であった。そして昭和天皇が退位されずそのつとめを果たされたからこそ、戦後日本の復興と國民の幸福があり得たのである。

| | トラックバック (0)

2018年8月11日 (土)

先帝陛下・今上陛下の靖国神社に対する大御心は春秋の「例大祭」への勅使差遣に示されてゐる

 

靖国神社に対する、先帝陛下・今上陛下の大御心は、昭和殉難者が祀られてゐるとお分かりになった上で、靖国神社の春秋の例大祭に勅使を差遣されてゐたことに示されてゐる。この事実は揺るがない。

 

また毎年終戦記念日に武道館で行はれてゐる「全国戦没者追悼式典」で追悼の対象となる戦没者には昭和殉難者も含まれてゐる。昭和天皇は崩御される前年の昭和六十三年八月十五日の『全国戦没者追悼式』に病をおして御臨席になった。弱られた身体でヘリコプターをお降りになり、式典会場にもたどり着くやうにしてご親臨あそばされた。あのお姿は瞼に焼きついて離れない。「A級戦犯がどうのこうの」と論ずる余地はない。

 

以上の事実を拝すれば、「昭和殉難者が合祀されたから、天皇の靖国神社尊敬の御心がなくなった」とすることはできない。

 

昭和天皇は昭和殉難者の靖国神社合祀を否定されたのではない。まして、靖国神社を否定されたのでないことは明々白々たる事実である。繰り返し言ふ。昭和天皇の大御心は、崩御されるまで靖国神社に勅使を差遣されてゐた事に正しく示されてゐる。

 

靖国会の事務局長をしてをられた藤沢越氏から「靖国神社に祀られてゐる神は、神話の神様でもなければ偉人聖人でもない。普通一般の庶民である。多くは農民であり、市井の一般庶民である。中には前科者もゐただらう。ヤクザもゐただらう。聖人君子ばかりだったわけではない。戦争で斃れた人々即ち国の爲に命を捧げた人々の御霊が祀られてゐるのだ」といふ言葉を聞いて感激したことがある。靖国の英霊とは国の爲に殉じた尊い御霊なのである。

 

戦勝国の復讐によって「処刑」されたり「獄中死」した殉難者が祀られてゐるから「参拝しない」とか「祭神から取り外せ」などといふのは余りにも理不尽である。先帝陛下がそのやうな御心をお持ちになってゐたなどといふ事は絶対にあり得ない。

 

昭和殉難者について昭和天皇はかう仰せになってゐる。

「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」(木戸幸一日記・昭和二十年八月二十九日)

「戦犯といえども米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」(同・昭和二十年十二月七日)〉

「戦争の責任は全て私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする」(マッカーサーとの会見・昭和二十年九月二十七日)

 

このやうな無私にして仁慈の大御心を示された先帝陛下が、「富田メモ」に書かれてゐるやうなご発言をされるとは到底信じられない。富田氏の創作であろう。

 

先帝陛下は東條英機元総理について「東條は平沼から云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東條に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、ただ真相を明らかにして置き度いから、之丈云つて置く。」(『昭和天皇独白録』・文藝春秋刊)と仰せになってゐる。

 

東條由布子さんは「昭和天皇さまからは東條はいろいろなお気遣いを賜っておりました。昭和二三年一二月二三日に七人が処刑されて以来、毎年、祥月命日には北白川宮家から陛下のお使いの御方が見えられ、御下賜の御品を頂戴し、また“東條の家族は今どうしておるだろうか?”というお言葉まで頂戴しておりました。祖母からその話を聞きました時は、感動で胸が一杯になったことを覚えております。ですから、陛下が“富田メモ”にあるような事を言われる御方とはとても思えないのです」と語ってゐる。

 

先帝陛下が、昭和五十年のご親拝以降靖国神社にご親拝されなくなったのは、昭和殉難者が合祀されたからであるいふことはあり得ない。先帝陛下は、東條英機氏などの昭和殉難者に対して悪感情を持ってをられたなどといふことはあり得ない。

 

今上陛下も同様であると拝し奉る。今上陛下におかせられても、靖国神社に勅使を差遣され、『全国戦没者追悼式』にご親臨あそばされてゐる。また、南部利昭靖国神社第九代宮司が就任する際、今上陛下から特に御依頼がありお受けしたと承ってゐる。今上陛下におかせられも昭和殉難者が祀られてゐるからといって、靖国神社を尊崇してをられないといふことはあり得ない。むしろ靖国神社を尊崇し御心配になってをられると拝察する。

先帝昭和天皇、今上天皇が、戦没者追悼式にご親臨あそばされ、靖国神社に勅使を差遣されていたといふことこそ、先帝そして今上天皇の大御心である。

| | トラックバック (0)

2018年8月 5日 (日)

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことはない

斉明天皇の御代、唐新羅連合軍によるわが国への侵攻の危機に際会した。まさに今日の日本と同じ危機的状況であった。

 

第三十七代・斎明天皇は、敏達天皇の皇曾孫であり、舒明天皇の皇后であらせられる。また、第三十五代・皇極天皇の重祚(一度位を退かれた天皇が再び位につかれること)であらせられる。

 

斉明天皇六年(六六○)三月、我が國と友好関係にある百済に、唐・新羅連合軍が電撃的に侵攻し、七月には、百済は敗北した。そして、百済の義慈王は唐の國へ連行されてしまった。九月、百済から我が國に沙彌覚従(さみかくじゅ)などの使者が来て、百済再興のため日本に救援を要請してきた。

 

斉明天皇は詔して、「百済が困窮してわが國を頼ってきました。どうして見捨てることができませうか。将軍たちはそれぞれに命令を下し、前進しなさい。雲のやうに集ひ、雷のやうに動いて敵を倒し、百済の危機を救ひなさい」と、激しい御口調の命令をお下しになった。(『日本書紀』に拠る)

 

斉明天皇七年(六六一年)正月六日、六十八歳となられたご老齢の女帝・斉明天皇の率いる朝廷の軍船は、中大兄皇子・大海人皇子そして妃や王子・王女など全皇族とご一緒に、寒風の中を難波の港を出発して、瀬戸内海を航行し筑前朝倉宮まで赴かれた。率いられる軍船團は、船千艘、兵士二萬七千人であったと傳へられる。

 

三百年近くにわたり同盟関係にある百済救援は当然のことではあったが、戦ひの相手は唐と新羅である。國家挙げての大きな戦ひであった。天皇御自身が戦ひを決意され、御自ら総指揮者として外征のために軍船に筑紫の向かふことは、神功皇后以来のことであったと傳へられる。

 

軍船團は、一月十四日、伊豫熟田津(今の愛媛県松山の港)に船を泊めた。熟田津には、斉明天皇がかつて夫君・舒明天皇と行幸され、禊を行はれたことのある石湯(今の道後温泉)の行宮があった。軍團が伊豫の石湯行宮に寄ったのは、そこで戦勝を祈念する禊(みそぎ)をされるためであった。斉明天皇は出航予定の二十三日まで、しばらくその行宮に滞在された。

 

二十三日夜、斎明天皇は御座船で、御自ら祭主となられて國家的大事の前の戦勝祈願と出航出陣の祭事を執行された。午前二時、空に満月が昇って来て、満潮になった。そして西向きの風も強まった。いよいよ神意にかなふ船出の時を迎へた。まことにも緊迫し神秘的な情景であったと思はれる。

 

斉明天皇は、祝詞を奏上され、神に祈られた。そして、気迫が漲った次の歌を高らかにお歌ひあそばされた。

 

「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

(熟田津で船出をしやうと月の出を待っていると、潮も満ちてきた。さあ、今、漕ぎ出さう)

 

「船乗りせむと」は、船に乗り込むこと。「潮もかなひぬ」は、船出に都合よく潮が満ちてきたこと。「潮も」とあるから月も望み通り出たことがわかる。この歌の詠まれた時刻について、一月二十三日(太陽暦三月二日)午前二時頃であらうと推定されてゐる。「今はこぎ出でな」の「な」は歌ひ手の意志をあらはす助詞でこの場合は勧誘的用法。

 

 古代の船は船底が扁平だったため、潮が引くとそのまま干潟の上に固定されてしまふので、船出は月が出て潮が満ちて来て船が浮上するまで出来なかったといふ。かがり火をつけた百千の軍船團は神に護られるがごとく月光に照らされながら潮の流れに乗って次々と出航した。それはまことに勇壮な光景であったと思はれる。

 

 潮が満ちて来て船出が可能となった時の緊張した雰囲氣と月光に浮き立つ場面が一体となって生き生きと迫って来る。差しのぼる月とその光、くっきりと照らし出された数多くの軍船、満ちて来る潮が出発の時を告げるのを「今はこぎ出でな」と歌はれて、船出を祝福し航海の無事を祈られると共に、眼前の風景をも雄渾に歌ひあげた感動を呼ぶ御歌である。

 

「やまとことば」特に和歌には靈力がこもってゐると信じるわが國の「言靈信仰」が脈うってゐる御製である。この御歌にこそ、祭り主・日本天皇の大御心が実によく表白されてゐる。

 

 祭祀主であらせられ全軍の最高指揮者であらせられる斎明天皇ならではの御歌である。『萬葉集』の代表歌の一つとなってゐる。

 

天皇は、神と人との間に立ってまつりごとを執行され神の言葉を宣せられる祭り主であらせられる。斉明天皇も祭り主として、航海の無事を祈るまつりごとを執行された。その時に、神のお告げ・御託宣を受けて出発を命令され、御自らを励まされ全軍を叱咤し鼓舞し、船出を祝福された。女性天皇の御歌ではあるが歌柄の大きい氣迫のこもった男性的な御歌である。一種の神憑り状態で御託宣として歌はれたといふ説もある。さうであらうと拝察する。

 

この御製は、『萬葉集』に収められてゐるのであるが、「題詞」(詩歌の詠まれた事情・趣意・作者などを記したことばで、歌の前に置いたもの。詞書)には「額田王の歌」と記されてゐる。一方、左註(歌の左側に記す注)には、「天皇の御製なり」と記されてゐる。『萬葉集』の研究者の意見も二つに分かれてゐる。

 

この御歌のしらべは、やはり上御一人でなければ歌ひ得ない格調と強さを持ってゐる。また「今は漕ぎ出でな」といふ結句は、全船團に出航を命令してゐるのである。「斎明天皇の御製」と拝すべきと考へる。

 

また、斉明天皇の命を受けて額田王が代作したとする説もある。中西進氏は、「この緊張したしらべは、託宣のひびきにも似ておごそかであろう。そのとおりに、これは斉明女帝の立場で歌われたものであり、かつ出航をうらなった一首だった。古くは『女軍(めいくさ)』というものがあった。兵力として戦う男性軍に対して、つねに神意をうかがいながらこれを指揮する集團のことである。この傳統に立って、額田王は右の歌を口ずさんだのである。初期萬葉には女歌が多い。それは一つにはのこされた歌が公的な儀礼歌にかたよっているからであり、それには、神と人との中に立って〝ことば〟を傳えるのに女性があたるという傳統があったからである。額田王もその流れにいた。」(『萬葉の心』)と論じてゐる。

 

額田王が実際に詠んだとしても、この歌には、斎明天皇の大御心が表白されてゐることには違ひはない。

 

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことは絶対にない。それは、神功皇后・斎明天皇の御事績を拝すれば明らかである。

| | トラックバック (0)

より以前の記事一覧