2018年8月11日 (土)

先帝陛下・今上陛下の靖国神社に対する大御心は春秋の「例大祭」への勅使差遣に示されてゐる

 

靖国神社に対する、先帝陛下・今上陛下の大御心は、昭和殉難者が祀られてゐるとお分かりになった上で、靖国神社の春秋の例大祭に勅使を差遣されてゐたことに示されてゐる。この事実は揺るがない。

 

また毎年終戦記念日に武道館で行はれてゐる「全国戦没者追悼式典」で追悼の対象となる戦没者には昭和殉難者も含まれてゐる。昭和天皇は崩御される前年の昭和六十三年八月十五日の『全国戦没者追悼式』に病をおして御臨席になった。弱られた身体でヘリコプターをお降りになり、式典会場にもたどり着くやうにしてご親臨あそばされた。あのお姿は瞼に焼きついて離れない。「A級戦犯がどうのこうの」と論ずる余地はない。

 

以上の事実を拝すれば、「昭和殉難者が合祀されたから、天皇の靖国神社尊敬の御心がなくなった」とすることはできない。

 

昭和天皇は昭和殉難者の靖国神社合祀を否定されたのではない。まして、靖国神社を否定されたのでないことは明々白々たる事実である。繰り返し言ふ。昭和天皇の大御心は、崩御されるまで靖国神社に勅使を差遣されてゐた事に正しく示されてゐる。

 

靖国会の事務局長をしてをられた藤沢越氏から「靖国神社に祀られてゐる神は、神話の神様でもなければ偉人聖人でもない。普通一般の庶民である。多くは農民であり、市井の一般庶民である。中には前科者もゐただらう。ヤクザもゐただらう。聖人君子ばかりだったわけではない。戦争で斃れた人々即ち国の爲に命を捧げた人々の御霊が祀られてゐるのだ」といふ言葉を聞いて感激したことがある。靖国の英霊とは国の爲に殉じた尊い御霊なのである。

 

戦勝国の復讐によって「処刑」されたり「獄中死」した殉難者が祀られてゐるから「参拝しない」とか「祭神から取り外せ」などといふのは余りにも理不尽である。先帝陛下がそのやうな御心をお持ちになってゐたなどといふ事は絶対にあり得ない。

 

昭和殉難者について昭和天皇はかう仰せになってゐる。

「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」(木戸幸一日記・昭和二十年八月二十九日)

「戦犯といえども米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」(同・昭和二十年十二月七日)〉

「戦争の責任は全て私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする」(マッカーサーとの会見・昭和二十年九月二十七日)

 

このやうな無私にして仁慈の大御心を示された先帝陛下が、「富田メモ」に書かれてゐるやうなご発言をされるとは到底信じられない。富田氏の創作であろう。

 

先帝陛下は東條英機元総理について「東條は平沼から云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東條に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、ただ真相を明らかにして置き度いから、之丈云つて置く。」(『昭和天皇独白録』・文藝春秋刊)と仰せになってゐる。

 

東條由布子さんは「昭和天皇さまからは東條はいろいろなお気遣いを賜っておりました。昭和二三年一二月二三日に七人が処刑されて以来、毎年、祥月命日には北白川宮家から陛下のお使いの御方が見えられ、御下賜の御品を頂戴し、また“東條の家族は今どうしておるだろうか?”というお言葉まで頂戴しておりました。祖母からその話を聞きました時は、感動で胸が一杯になったことを覚えております。ですから、陛下が“富田メモ”にあるような事を言われる御方とはとても思えないのです」と語ってゐる。

 

先帝陛下が、昭和五十年のご親拝以降靖国神社にご親拝されなくなったのは、昭和殉難者が合祀されたからであるいふことはあり得ない。先帝陛下は、東條英機氏などの昭和殉難者に対して悪感情を持ってをられたなどといふことはあり得ない。

 

今上陛下も同様であると拝し奉る。今上陛下におかせられても、靖国神社に勅使を差遣され、『全国戦没者追悼式』にご親臨あそばされてゐる。また、南部利昭靖国神社第九代宮司が就任する際、今上陛下から特に御依頼がありお受けしたと承ってゐる。今上陛下におかせられも昭和殉難者が祀られてゐるからといって、靖国神社を尊崇してをられないといふことはあり得ない。むしろ靖国神社を尊崇し御心配になってをられると拝察する。

先帝昭和天皇、今上天皇が、戦没者追悼式にご親臨あそばされ、靖国神社に勅使を差遣されていたといふことこそ、先帝そして今上天皇の大御心である。

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2018年8月 5日 (日)

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことはない

斉明天皇の御代、唐新羅連合軍によるわが国への侵攻の危機に際会した。まさに今日の日本と同じ危機的状況であった。

 

第三十七代・斎明天皇は、敏達天皇の皇曾孫であり、舒明天皇の皇后であらせられる。また、第三十五代・皇極天皇の重祚(一度位を退かれた天皇が再び位につかれること)であらせられる。

 

斉明天皇六年(六六○)三月、我が國と友好関係にある百済に、唐・新羅連合軍が電撃的に侵攻し、七月には、百済は敗北した。そして、百済の義慈王は唐の國へ連行されてしまった。九月、百済から我が國に沙彌覚従(さみかくじゅ)などの使者が来て、百済再興のため日本に救援を要請してきた。

 

斉明天皇は詔して、「百済が困窮してわが國を頼ってきました。どうして見捨てることができませうか。将軍たちはそれぞれに命令を下し、前進しなさい。雲のやうに集ひ、雷のやうに動いて敵を倒し、百済の危機を救ひなさい」と、激しい御口調の命令をお下しになった。(『日本書紀』に拠る)

 

斉明天皇七年(六六一年)正月六日、六十八歳となられたご老齢の女帝・斉明天皇の率いる朝廷の軍船は、中大兄皇子・大海人皇子そして妃や王子・王女など全皇族とご一緒に、寒風の中を難波の港を出発して、瀬戸内海を航行し筑前朝倉宮まで赴かれた。率いられる軍船團は、船千艘、兵士二萬七千人であったと傳へられる。

 

三百年近くにわたり同盟関係にある百済救援は当然のことではあったが、戦ひの相手は唐と新羅である。國家挙げての大きな戦ひであった。天皇御自身が戦ひを決意され、御自ら総指揮者として外征のために軍船に筑紫の向かふことは、神功皇后以来のことであったと傳へられる。

 

軍船團は、一月十四日、伊豫熟田津(今の愛媛県松山の港)に船を泊めた。熟田津には、斉明天皇がかつて夫君・舒明天皇と行幸され、禊を行はれたことのある石湯(今の道後温泉)の行宮があった。軍團が伊豫の石湯行宮に寄ったのは、そこで戦勝を祈念する禊(みそぎ)をされるためであった。斉明天皇は出航予定の二十三日まで、しばらくその行宮に滞在された。

 

二十三日夜、斎明天皇は御座船で、御自ら祭主となられて國家的大事の前の戦勝祈願と出航出陣の祭事を執行された。午前二時、空に満月が昇って来て、満潮になった。そして西向きの風も強まった。いよいよ神意にかなふ船出の時を迎へた。まことにも緊迫し神秘的な情景であったと思はれる。

 

斉明天皇は、祝詞を奏上され、神に祈られた。そして、気迫が漲った次の歌を高らかにお歌ひあそばされた。

 

「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」

(熟田津で船出をしやうと月の出を待っていると、潮も満ちてきた。さあ、今、漕ぎ出さう)

 

「船乗りせむと」は、船に乗り込むこと。「潮もかなひぬ」は、船出に都合よく潮が満ちてきたこと。「潮も」とあるから月も望み通り出たことがわかる。この歌の詠まれた時刻について、一月二十三日(太陽暦三月二日)午前二時頃であらうと推定されてゐる。「今はこぎ出でな」の「な」は歌ひ手の意志をあらはす助詞でこの場合は勧誘的用法。

 

 古代の船は船底が扁平だったため、潮が引くとそのまま干潟の上に固定されてしまふので、船出は月が出て潮が満ちて来て船が浮上するまで出来なかったといふ。かがり火をつけた百千の軍船團は神に護られるがごとく月光に照らされながら潮の流れに乗って次々と出航した。それはまことに勇壮な光景であったと思はれる。

 

 潮が満ちて来て船出が可能となった時の緊張した雰囲氣と月光に浮き立つ場面が一体となって生き生きと迫って来る。差しのぼる月とその光、くっきりと照らし出された数多くの軍船、満ちて来る潮が出発の時を告げるのを「今はこぎ出でな」と歌はれて、船出を祝福し航海の無事を祈られると共に、眼前の風景をも雄渾に歌ひあげた感動を呼ぶ御歌である。

 

「やまとことば」特に和歌には靈力がこもってゐると信じるわが國の「言靈信仰」が脈うってゐる御製である。この御歌にこそ、祭り主・日本天皇の大御心が実によく表白されてゐる。

 

 祭祀主であらせられ全軍の最高指揮者であらせられる斎明天皇ならではの御歌である。『萬葉集』の代表歌の一つとなってゐる。

 

天皇は、神と人との間に立ってまつりごとを執行され神の言葉を宣せられる祭り主であらせられる。斉明天皇も祭り主として、航海の無事を祈るまつりごとを執行された。その時に、神のお告げ・御託宣を受けて出発を命令され、御自らを励まされ全軍を叱咤し鼓舞し、船出を祝福された。女性天皇の御歌ではあるが歌柄の大きい氣迫のこもった男性的な御歌である。一種の神憑り状態で御託宣として歌はれたといふ説もある。さうであらうと拝察する。

 

この御製は、『萬葉集』に収められてゐるのであるが、「題詞」(詩歌の詠まれた事情・趣意・作者などを記したことばで、歌の前に置いたもの。詞書)には「額田王の歌」と記されてゐる。一方、左註(歌の左側に記す注)には、「天皇の御製なり」と記されてゐる。『萬葉集』の研究者の意見も二つに分かれてゐる。

 

この御歌のしらべは、やはり上御一人でなければ歌ひ得ない格調と強さを持ってゐる。また「今は漕ぎ出でな」といふ結句は、全船團に出航を命令してゐるのである。「斎明天皇の御製」と拝すべきと考へる。

 

また、斉明天皇の命を受けて額田王が代作したとする説もある。中西進氏は、「この緊張したしらべは、託宣のひびきにも似ておごそかであろう。そのとおりに、これは斉明女帝の立場で歌われたものであり、かつ出航をうらなった一首だった。古くは『女軍(めいくさ)』というものがあった。兵力として戦う男性軍に対して、つねに神意をうかがいながらこれを指揮する集團のことである。この傳統に立って、額田王は右の歌を口ずさんだのである。初期萬葉には女歌が多い。それは一つにはのこされた歌が公的な儀礼歌にかたよっているからであり、それには、神と人との中に立って〝ことば〟を傳えるのに女性があたるという傳統があったからである。額田王もその流れにいた。」(『萬葉の心』)と論じてゐる。

 

額田王が実際に詠んだとしても、この歌には、斎明天皇の大御心が表白されてゐることには違ひはない。

 

女性天皇・女性皇族は、祭祀を行ひ得ず、且つ、軍の統率も行ひ得ないといふことは絶対にない。それは、神功皇后・斎明天皇の御事績を拝すれば明らかである。

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2018年8月 4日 (土)

政府が、「天皇の御譲位」ではなく「天皇の御退位」としてゐることは、國體・皇室の伝統に反してゐる

本年(平成三十年)四月三日に閣議決定された「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式などの挙行に係る基本方針について」の冒頭に、「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位が、国民の祝福に中でつつがなく行われるよう…」と書かれてゐる。故に、あれこれ意見を申し述べることは、憚られることかもしれない。しかし、國體・皇室の伝統の根幹に関はることなので、敢へて以下のことを書かせていただきたく思ふ。

 

そもそも政府が、「天皇の御譲位」ではなく「天皇の御退位」としてゐること自体が、國體・皇室の伝統に反してゐる。

 

天皇陛下は、単に御位を退かれるのではない。日嗣の御子即ち皇太子殿下に御位を譲られるのである。先帝が新帝に御位を譲られることによって、萬世一系の血統と道統が継承されるのである。これを歴聖一如・皇統連綿と申し上げる。「退位」といふ言葉ではこの事が正しく示されず、隠蔽されてしまふと考へる。

 

「皇位の継承」とはまさに「継承」であり、先帝から新帝に御位を譲られることにより、皇統が「継承」されるのである。天照大神・邇邇藝命・神武天皇・歴代天皇に継承されてきた「御位」即ち「天津日嗣」を継承するのである。

 

「天津日嗣」とは、天照大神の御神霊を継ぐといふ意である。新帝が即位式に於いて「天津日嗣の髙御座」に登られるのは先帝に伝へられてきた天津日嗣を新帝が継承されるといふ事である。歴代天皇の「詔」を拝してもそれは明らかである。

 

政府が「退位」といふ言葉にこだわったのは、「譲位」だと、天皇の御意思によって御位を譲られることとなり、それは「天皇は政治的権能を有しない」と規定した『現行占領憲法』の規定に反するからだといふ。つまりわが国の傳統、國體、皇位継承の本義よりも外國製の『占領憲法』の規定が方が大事だといふ考へ方に基づくのである。『現行占領憲法』はまさに「諸悪の根源」である。

 

事実関係から言っても、一昨年(平成二十八年)八月に、今上天皇が「ご譲位」の御意思を示されたことにより、国民がこぞって、陛下の御意思・大御心に服し奉り、御譲位が行はれることとなったのである。

 

天皇の大御心に国民が従ひ奉ったのである。それは「国民主権」などといふ西洋政治思想とは全く関係ない。天皇の大御心は絶対であり、日本は天皇国なのである。

一昨年八月の、天皇陛下の「お言葉」を国民・政府・議会が拳拳服膺したことは、日本国は天皇国であり、天皇は成文憲法・成文法を超越した御存在であることが事実を以て示したのである。

 

「譲位」といふ言葉を用いると、天皇が御自らの御意志で御位を譲られることになり、それは、「現行憲法」の「天皇は政治的権能を有しない」といふ規定に反するなどといふ議論は通用しないし通用させてはならない。

 

何回も書くが、そもそも『現行占領憲法』が「権力の制限規範」であるのなら、『現行憲法』で「国政に関する権能を有しない」とされてゐる天皇は、『憲法』の制限を受けられないのである。

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2018年7月28日 (土)

高山彦九郎・蒲生君平の尊皇の志

 

高山彦九郎、蒲生君平の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇討幕運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へた。

 

高山彦九郎は次の歌をのこしてゐる。

 

「東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處」

 

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

 

「一天萬乗の聖天子」「上御一人」が住まはれるにしては、余りにも質素で小さい京都御所を拝しての實感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと傳はってくる。

 

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は非常に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

 

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、上野國新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、高山彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として名をはせたといふ。

 

十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

 

蒲生君平は次の歌をのこしてゐる。

 

「比叡の山 見おろすかたぞ あはれなる 今日九重の 數し足らねば」

 

「比叡山より見おろす方向を拝すると悲しい。平安時代には九重(支那の王城は門を九重につくったところから、御所、宮中のことを言ふ)と歌はれた数には足らない狭小な御所なので」といふほどの意。

 

蒲生君平は、明和五年(一七六八)下野國宇都宮新石町の生まれ。『太平記』を愛読し、楠木正成や新田義貞らの尊皇精神に感激する。ロシア軍艦の出現を聞き、寛政七年(一七九五)陸奥への旅に出る。さらに寛政十一年(一七九九)、三十二歳の時、天皇御陵の荒廃を嘆き、皇陵調査の旅に出る。享和元年(一八〇一)『山陵志』を完成する。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができたといふ。さらに、文化四年(一八〇七)には、朝廷の官職についてまとめた『職官志』を著した。翌五年、北辺防備を唱へた『不恤緯(ふじゅつい)』を著す。そし文化十年(一八一三)江戸で四十六歳の生涯を閉じた。

 

この歌は、年代的に考へて、高山彦九郎の歌の志を継承し倣って詠んだと思はれる。その「志」とは言ふまでもなく、徳川幕府専横の時代にあって、上御一人、一天萬乗の君がをられる京の御所が余りにも狭小であることに慟哭し、天朝の神聖なる威厳の回復を祈り奉る「尊皇の志」である。

 

川田順氏はこの蒲生君平の歌について、「勿體なくも宮闕は荒廢して天子の歴史的御座所たる舊観を備へない。九重の數は足らずして、てのひらほどの大宮所と拜せられる。山陵の荒廢を慨して志を立てた君平である。況んや、現に至尊まします所の宮殿が此の御有様なるを見て、涙滂沱たらざるを得んや」(『幕末愛國歌』)と論じてゐる。

 

徳川幕府専横の時代に、尊皇の志を立て、且つ實践した高山彦九郎・蒲生君平の御所の狭小さを嘆く歌は、大きな悲痛と慟哭が巨大な悲しみを以て讀む者の胸に迫って来る。

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皇室伝統の隠蔽、無視、改変の原因は、『現行占領憲法』の「国民主権」の原則にある

本年(平成三十年)四月三日に閣議決定された「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式などの挙行に係る基本方針について」の冒頭に、「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位が、国民の祝福に中でつつがなく行われるよう…」と書かれている。故に、政府の「基本方針」についてあれこれ意見を申し述べることは、憚られることかもしれない。しかし、國體・皇室の伝統の根幹に関はることなので、敢へて以下のことを書かせていただきたく思ふ。

 

「基本方針」の「第一 各式典の挙行に係る基本的な考え方について」について、「各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとすること」と書かれてゐる。

ここにそもそも無理があると言はざるを得ない。「現行憲法」は、日本國體・皇室の伝統と絶対に相容れない「国民主権」を基本理念としてゐる。従って、憲法の趣旨の沿ふことと皇室の伝統を尊重する事とはどうしても矛盾してしまふのである。

 

そもそもこの「天皇の御退位」等としてゐること自体が、國體・皇室の伝統に反してゐる。事実関係から言っても、一昨年八月に、今上天皇がご譲位のご意思を示されたことにより、国民がこぞって、陛下の御意思・大御心に服し奉り、御譲位が行はれることとなったのである。天皇の大御心に国民が従ひ奉ったのである。それは国民主権などと言ふ西洋思想とは全く関係ない。天皇の大御心は絶対であり、日本は天皇国なのである。

 

この一事を以てしても、日本国は天皇国であり、天皇は成文憲法・成文法を超越した御存在であることが事実を以て示されたのである。「譲位」といふ言葉を用いると、天皇が御自らの御意志で御位を譲られることになり、それは、「現行憲法」の「天皇は政治的権能を有しない」といふ規定に反するなどといふ議論は通用しないのである。そもそも「天皇の御譲位」は政治権力作用ではない。また、天皇は「政治的権能を有しない」と『現行憲法』に規定されてゐるのだから、「権力の制限規範」とされる「成文憲法」の規制は受けられない。天皇は、「成文憲法」を超越した御存在である。

天皇陛下は、単に御位を退かれるのではない。日嗣の御子即ち皇太子殿下に御位を譲られるのである。先帝が新帝に御位を譲られるから、血統と道統が継承されるのである。これを萬世一系・歴聖一如・皇統連綿と申し上げる。「退位」といふ言葉ではこの事が正しく示されず、隠蔽されてしまふと考へる。

 

畏れ多いが、皇后陛下におかせられては、一昨年(平成二十八年)十月二十日、八十二歳の「地久節」(お誕生日)における「宮内記者会の質問に対する文書ご回答」で、

「八月に陛下の御放送があり,現在のお気持ちのにじむ内容のお話が伝えられました。私は以前より,皇室の重大な決断が行われる場合,これに関わられるのは皇位の継承に連なる方々であり,その配偶者や親族であってはならないとの思いをずっと持ち続けておりましたので,皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされたこの度の陛下の御表明も,謹んでこれを承りました。ただ,新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。」と記された。

 

さらに、皇后陛下は、昨年(平成二十九年)十月二十日、八十三歳の「地久節」(お誕生日)における、「宮内記者会の質問に対する文書ご回答」で、

「陛下の御譲位については,多くの人々の議論を経て,この六月九日,国会で特例法が成立しました。長い年月,ひたすら象徴のあるべき姿を求めてここまで歩まれた陛下が,御高齢となられた今,しばらくの安息の日々をお持ちになれるということに計りしれぬ大きな安らぎを覚え,これを可能にして下さった多くの方々に深く感謝しております。」

と記され、「御退位」とは仰せになってをられない。

 

政府は以上の事を知ってゐて敢て『退位』といふ言葉を使ったのであらうか。だとすれば誠に遺憾である。

 

「三種の神器」について、「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(皇室経済法第七条)であって「神器ではない」などという意見がある。「政教分離」といふ『現行憲法』の規定を慮っての意見であらうが、皇祖が、神から授けられた「神器」だから「由緒」があるのだ。そんなことは子供でも分かる議論である。

 

ともかく、皇室伝統の隠蔽、無視、改変の原因は、『現行占領憲法』の「国民主権」の原則にあるのである。それは國體隠蔽、國體破壊につながる重大事である。まさに、「諸悪の因」は『現行占領憲法』にあるのである。

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2018年7月24日 (火)

「皇室典範」について

『大日本帝国憲法』第七四条には、「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」(皇室典範の改正は、帝国議会の議を経る必要はない)と書かれている。

 

これについて伊藤博文はその著『憲法義解』の「憲法第七四條」の「註」で、「皇室典範は皇室自ら皇室の事を制定す。而して君民相關かるの権義に非ざればなり」と論じている。

 

また明治天皇勅定の『皇室典範』六十二条には、「将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族会議及枢密顧問ニ諮詢シテ勅定スヘシ」と書かれている。

 

伊藤博文著の形をとる『皇室典範』の逐条解説書『皇室典範義解』(明治二十二年六月一日公刊)の「前文」には、「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず。而して将来已むを得ざるの必要に由り其の条章を更定することあるも、また帝国議会の協賛を経るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は祖宗に承け子孫に伝ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。また臣民の敢て干渉する所に非らざるなり」と書かれている。

 

さらに『皇室典範義解』の第六二條の「註」において「皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして之を臣民の公議に付すべきに非ざればなり」と言っている。

 

さらに明治二十一年五月二十五日から六月十五日にかけて、枢密院で『皇室典範』について審議が行われた。そこにおいて次のような発言があった。

 

井上毅(法制局長官・枢密院書記官長)「皇室典範を以て国会の議に附するときは、人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」と発言している。

 

山田顕義(司法卿)「皇室典範は特別重大の法典にして尋常の法律命令と混同すべきに非ず。故に別段の勅令を以て之を発布し、普く人民をして之を恪遵(注・忠実に守る意)せしめざるべからず。」

 

河野敏鎌(枢密顧問官)(『皇室典範』を)公布するとも、別に議院の干渉を容るゝの虞毫厘もあることなし。如何となれば、向来皇室典範を改更することあるも、皇族幷(ならび)に枢密院に諮詢する等の明条(注・『皇室典範』第六二条)あるを以て、更に議院の容喙を許さゞればなり。」

 

以上のごとく、『皇室典範』は本来「勅定」であり、議会が干渉することはあってはならない。

 

「天津日嗣の高御座の繼承」という神聖不可侵の事柄を、上御一人の御意志をうかがうこともせず、政争が繰り返される権力機構たる議會で決めるのは間違っている。臣下・政治家が『皇室典範』を改定すること自體、不敬不遜の極みである。

 

権力機構たる議会や政府が、『皇室典範』改定を行うことは、政體が國體を規制し、権力が権威を規制し、「俗」が「聖」を規制し、権力国家が信仰共同体国家を規制することになる。これは文字通り國體破壊である。衆参両院議員の過半数によって、國體の根幹が変更されたり、否定されたり改変されることは絶対にあってはならないことである。

 

天皇國日本においては『憲法』を含め全ての「法」の正統性は、天皇の神聖権威による。現御神日本天皇以上の権威は日本には存在しない。『皇室典範』の改定は、國家の権力機関である立法府・行政府で決められるべきではなく、日本の伝統の体現者てあらせられる天皇陛下の大御心を体して決められるべきである。『皇室典範』は勅定であらねばらない。

 

『皇室典範』を権力機関たる衆参両院において審議し改定することは、わが国の伝統を侵すこととなる。戦後、『皇室典範』が『憲法』の下位法になり、皇位継承という皇室の重大事が権力機構である国会で決められてしまうようになったのは、重大なる國體隠蔽、激しく厳密・厳格に言えば「革命」「國體破壊」への道を切り開くものである。

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2018年7月22日 (日)

「国歌君が代」の信仰精神

 

「君が代は 千代に八千代 に さざれ石の いはほ となりて 苔のむすまで」

 

 

「国歌君が代」の「さざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」という歌句をとらえて、小さな石が大きな岩に成長するということはあり得ないから非科學的な歌であるという議論があるが、日本伝統信仰に対する無知をさらけ出した議論である。

 

石が成長して大きくなり巌となるというのは日本人の古来からの信仰的真実である。『君が代』の歌の根底にはこの信仰がある。単なる比喩ではない。これは石や岩という自然物が生きているという日本の伝統的自然神秘思想から来ている。

 

全てを命あるものとして見る自然信仰は、祖霊信仰とともに日本伝統信仰の大きな柱である。石や岩などの自然物に魂が宿っているという古代信仰は『萬葉集』の次の歌に表れている。

 

信濃なる 筑摩の川の 細石(さざれいし)も 君しふみてば 玉と拾はむ (萬葉集巻十四・三 四〇〇)

 

 東歌(東國方言で庶民が詠んだ和歌)である。「信濃の千曲川の小石もあなたがお踏みになったのなら玉と思って拾いましょう」というほどの意。恋人が踏んだ石には魂が籠っているという歌である。石に魂が籠るというのは古くからの民俗信仰であった。

 

 さらに、柿本人麻呂が石見の國において亡くなる時、妻・依羅娘子がこれを嘆き悲しんで詠んだ歌では、

 

今日今日と 我が待つ君 は 石川の かひにまじりて ありと言はずやも (萬葉集巻二・二二四)

 

 と詠まれている。山の谷間の貝塚などに遺骸を葬る風習が古代にはあり、川に臨んだ貝塚群の底から、人骨が出土する例が報告されている。「石川のかひ」は、死者を葬った川のそばにあり水に浸された貝塚のことである。石川と名づけられたのも、小さな石(すなわちさざれ石)には霊が籠っていて、霊の憑依物・霊的なものとして考え、「玉」とも呼ばれた長い信仰がこの歌の底にはある。

 

 石と岩の違いは、石が成長した岩には魂が籠っているということである。「いは」の語源は「いはふ」である。「いはふ」は「いへ」と同根の言葉で、霊魂を一処に留めて遊離させないして霊力を賦活させ神聖化することである。そして「いはふ」は神を祭る意にもなった。神を祭る人(神主)を「斎主」(いはひぬし)、神を祭る宮を「斎宮」(いはひのみや)と呼ぶようになった。

 

 家に籠ることを「いはむ」という。「いはむ」とは忌み籠ることである。「忌む」とは、不吉(ふきつ) なこと、けがれたことをきらって避けること。特に、ある期間、飲食・行為を慎んで、身体をきよめ不浄を避けることをいう。「斎」(いつき・心身を清めて飲食などの行為をつつしんで神をまつる。いみきよめる。いわう。いつく。ものいみする、という意)と同じ意である。 

 

 「いつき・いつく」の「いつ」とは清浄・繁茂・威力などの意を包含している神聖観念である。天皇の神聖権威を意味する御稜威(みいつ)はこの言葉から来ている。

 

柿本人麻呂は次の歌を詠んだ。

 

「大君は 神にしませば 天雲の雷の上に いほらせるかも」

 

「天皇は神様であらせられるから、天の雲の雷の上に忌み籠られてお祭りをされておられる」という意である。

 

「いほらせる」は、「いほりする」の尊敬語である。「いほる」とは、「斎」(いつき)の意義が込められている。人麻呂は、天皇が神聖なる雷丘に忌み籠られて五穀の豊饒を祈る祭りをせられたことを詠んだのである。

 

 このように、「いへ」「いは」「いむ」「いつく」は語根が同じくし、深い関係がある。ゆえに、魂の籠っている「石」を「岩」と言うといっていい。天照大神が籠られた「天の岩戸」は大神の神霊が籠られたところなのである。

 

 人々は、亡くなった人の遺体を石の下に埋める。わが國は古墳時代から墓に石を置いた。特に偉大な人の墓の場合は巨大な岩を置いた。墓を石で造るのは、石に魂が籠められるという信仰に基づく。石や岩に霊魂が籠ると信じた日本人は、石は地上にありながら、地下から湧出する生命・霊魂の威力を包み込んだ存在で、地下に眠る霊魂の象徴であり、よりしろ(憑代・依り代。神霊が宿るところ)と考えた。 

 

 日本の「家」(いへ)はそれを構成する人々つまり家族の魂が一処に籠っているということである。

 

したがって、君が代(天皇の御代)は「石」が「岩」になるまで続くということは、天皇國日本は魂の籠っている永遠の國家であるという信仰精神なのである。岩を霊的なものとしてとらえ、それを永遠無窮・天壤無窮の象徴としたのである。そういう信仰を歌っている歌が『君が代』なのである。

 

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2018年7月17日 (火)

「現行憲法」は国体破壊もしくは隠蔽の元凶になっている

祭祀国家日本の祭り主であらせられる日本天皇は、常に国民の幸福を祈る祭り主なのであらせられるから、国民と相対立する存在ではないし、日本天皇は国民を力によって支配し隷従せしめる存在ではない。国民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を国民に示し、また国民の意志を神に申し上げ、国民の幸福の実現を最高の使命とされるお方が天皇である。つまり君主と民は「和」「共同」の関係にあるのであり、対立関係ではない。こうした天皇中心の日本の国柄を「君民一体の日本国体」というのである。

 

「現行占領憲法」は、君主と人民とは相対立する存在であり国家とは国民同士が契約して成立するものであると考える西洋法思想・西洋国家観に貫かれており、日本国体の根幹を正しく規定していない。むしろ「現行憲法」は国体破壊もしくは隠蔽の元凶になっている。憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現していない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いているのである。この度の「ご譲位」そして「皇室典範改正の議論」においても、「憲法との整合性」「護憲」の名のもとに数々の国体破壊もしくは隠蔽が行われる危険がある。

 

外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」がわが國の國家傳統の破壊しやうとしてゐる。それが一般國民の常識となって浸透してゐることは實に以て、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

 

日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている現行憲法が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。

 

葦津珍彦氏は、「将来の憲法改正においては、君民対決の連想を誘発させる『国

民主権』の語を削り、日本國君民一致の精神に基づき『統治権の総攬者(統合し掌握する者)としての天皇の』の地位を復元すべきものと思ふ。」(葦津珍彦『天皇・神道・憲法』)と論じてゐる。

 

日本の伝統的国家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている現行憲法が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の国柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。「現行占領憲法」は一刻も早く無効とし、日本国の建国以来の国柄へ回帰し、現代の混迷を打開しなければならない。

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2018年7月16日 (月)

捨身無我の絶対尊皇精神について

 

本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇國の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びず思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり。」(『葛花』)と論じてゐる。

 

天皇は現御神であらせられ絶對的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下を批判する事は絶對にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。天皇陛下が間違った御命令を下されたり行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、國民は勅命に反してはならずまして反對したり御退位を願ったりしてはならない、如何にしても従へない場合は楠正成の如く自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが國の尊皇の道であり、勤皇の道であることを、本居宣長先生は教へられてゐる。

 

ただし、諌め奉る事を一切否定してゐるのではないと思ふ。三度までは諌め奉り、どうしてもご翻意なき場合は、勅命に従ひ奉るのが日本天皇に対する臣下国民の道である。

 

本居宣長が説いている捨身無我の絶対尊皇精神が日本人の道義精神の極地であると思ふ。これを「恋闕心」と言ふ。「恋闕心」とは、宮闕(きゅうけつ・宮殿・宮城・宮門)を恋ひ慕ふ心のことである。ただひたすらなる尊皇の思ひである。

 

日本國の生命・歴史・傳統・文化・道義の体現者たる天皇の大御心・御意志にまつらふひ奉ることが日本國民の道義心の根幹である。そして天皇の大御心・天皇の國家統治の基本は、天照大神の御命令である「高天原の理想を地上に実現する」といふことである。

 

 

「詔書」は、やまと言葉で「みことのり」と申し上げる。「のり」は「のる」の名詞形であり、「天皇の御命令」をおごそかに宣言されるといふ意である。「詔勅・詔書」は、天皇国日本における最高の公文書である。

 

「渙発」とは、四方に水の散る如く広められるといふ意である。大君が四方に宣言されたお言葉が「みことのり」である。そしてその「のり」は「憲」「則」「矩」「規」「法」である。わが國における「法(のり)」の原義は、「天皇が宣せられた御命令」である。

 

『承詔必謹』が日本国民の道義精神の根幹である。「天皇の大御心・みことのりを謹んで承る」が、天皇国日本の臣下国民のあるべき姿であり、道義精神の基本である。

 

「臣(をみ)」の語源は「忌み」である。「忌み」とは、心身を清浄に保ち、けがれを避け慎むことである。斎戒ともいふ。神への祭祀を執行する時、厳重なる「物忌み」をする。「大臣」とは「大忌み」であり、神事に奉仕する大事や役目を担ふ人といふ意である。日本国は「祭政一致」の国柄であり、宮廷の公の仕事は神への「まつりごと」なのである。

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2018年7月 8日 (日)

「現行憲法」によるわが國の建國以来の麗しい國柄の隠蔽が、道義の頽廃を招いている

 

わが國の長い歴史において、天皇中心の國體には基本的には変化はなくても、政体・制度としての天皇のあり方は歴史的に様々な変化があった。古代から平安時代そして中世、さらに江戸時代・明治維新から終戦まで、戦後五十数年の天皇の政体上のあり方には大きな違いがある。しかし、天皇の伝統的な権威は、古代から今日に至るまで、如何なる政体の変化があってもわが國の歴史を貫いて存してきた。

 

 わが國の伝統の根幹は「天皇中心の國體」である。「天皇中心の國體」とは、神話の世界以来の信仰に基づき一系の血統と道統を保持し継承される天皇による國家統治ということである。そして天皇の國家統治は、権力・武力による人民支配ではなく、祭祀主としての宗教的権威による統治(統べ治める)ということである。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。

 

 天皇は日本國の永続性および日本國民統合の中心であり、日本文化の継承と発展の中心であらせられる。日本國はいかなる時代にあても、天皇及び皇室が國家・國民の統合と連帯の基礎であり続けてきた。この歴史的連続性が憲法に正しく規定されていることが大切である。

 

 西洋諸國の外國の國家観・君主観・権力論を基本にした「現行占領憲法」は、祭祀國家・信仰共同体日本の國柄の精神を正しく表現していない。というよりも、「現行憲法」は、天皇の國家統治を、西洋の絶対君主の暴力的支配と同一視し、國家は個人の暴力的抑圧装置であるとし、天皇及び國家は「個人の敵」であるという考え方に立って制定された憲法である。そして、「民主化」「個人の幸福」「日本の健全な発展」のためには、天皇の「地位」を低め「権能」を弱めることが必要であるという意識のもとに、欧米の政治思想である「國民主権論」が採用されている。

 

日本とは國の成り立ち・歴史伝統が全く異なる欧米の國家論に基づく「國民主權論」「契約國家論」は、日本國體とは絶対に相容れないのであるから、現行憲法の天皇条項は根本的に是正されなければならない。

 

 今や西欧文明のゆきづまりが明らかになり、物質中心の西欧文明から精神に重きを置く東洋文化へと世界史が転換しつつある。今後は自然との共生・人と人との共同意識を基本とする日本の精神文化が重要な役割を果たすと思われる。こういう時代に、西洋の法思想をそのまま日本にあてはめることは基本的に訂正されるべきである。

 

 アメリカ製の「現行占領憲法」が、諸悪の根源になっている。それは「現行憲法」が、西洋思想即ち個人主義と物質主義そして權力國家論・契約國家論・西洋的君主論に基づいており、日本の傳統精神を破壊しているからである。 

 

 天皇が日本國の君主であらせられるという國體法(不文法)は日本國建國以来不変である。天皇は日本の長い歴史を通じて「君主」「統治者」「祭祀主」として君臨されていたのである。天皇が「統治者」であるとは規定されていない「現行占領憲法」は、日本國體の真の姿を正しく表現していない欠陥憲法である。

 

 憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現していない天皇条項があるから、日本は安定を欠いているのである。「現行憲法」によるわが國の建國以来の麗しい國柄の隠蔽が、道義の頽廃を招いているのである。

 

 「現行占領憲法」は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、國體破壊の元凶なのである。終戦直後、國際法の禁を破って押し付けられた「現行占領憲法」の個々の条項の内容の是非を問うことよりも、根本的に、わが國の歴史的な日本國民精神・國體精神に立脚した憲法に回帰しなければならない。それが、独立國家としても、憲政のあり方としても、至極当然な道理である。

 

 日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている「現行憲法」が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。このことは、御譲位・皇位継承に関する様々の事象に表れている。

 

「現行占領憲法」は、日本を永久の弱體化しておくために戦勝國=アメリカ占領軍が日本に押しつけた憲法である。今日における日本の変革とは、「現行憲法」の無効を確認し、正しき憲法に回帰することなのである。

 

 わが國日本及び日本國民が神聖君主・日本天皇にお護り頂いているのであるから、「大日本帝國憲法」の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条文の精神は全く正しいのである。憲法において、天皇は日本國の統治者であらせられ、神聖不可侵の御存在であられることを明確に規定すべきである。

 

 最近憲法改正案が各方面から出されているが、その多くは甚だ残念なことであるが、最も大切である國體条項は、「現行日本國憲法」の基本であるところの「國民主權論」を踏襲している。憲法改正であろうと自主憲法制定であろうと、現行占領憲法の「國民主權」論を踏襲しているのではまったく意味がないのである。

 

 國家存立の根本である「天皇中心の日本國體」を正しく顕現するために、正統憲法に回帰することが最も大切なのである。

 

 大東亜戦争の敗北後、占領軍によって行われたいわゆる「民主化」そしてその後続けられた共産主義革命勢力による國家破壊策謀の最大最悪のものが、「天皇の尊厳性の破壊」という策謀である。日本國を滅ぼさんとする勢力はこれまで長い間、「天皇批判」「皇室批判」を行ってきた。しかし、日本の共産化を目指したマルクス・レーニン主義者たちが如何にその「君主制打倒」の理論を振り回しても、日本國民の篤い尊皇精神を破壊することはできなかった。

 

 しかし、天皇を中心とした日本國の國柄を破壊せんとする勢力は今日も根強く存在している。そして、天皇及び皇室への國民の篤い尊崇の心を破壊するために、皇室の尊厳性・神聖性を失わしめるために巧妙にして陰湿な画策を続けている。否、続けているどころか益々活発化している。

 

 そうしたことは、「朝日新聞」や「毎日新聞」などという天皇国日本を破壊するために存在しているとしか思えない亡國新聞が、皇室報道において、「陛下」「殿下」などという「敬称」や、「尊敬語」を使用しなくなっていることに端的に現れている。

 

 言葉の問題について言えば、「皇室」に対して「天皇御一家」とか「天皇家」と申し上げるのは慎むべきである。なぜなら、天照大神の後裔であらせられる「皇室」は「姓氏」を持たれないので、普通一般の「何々家」ではないからである。

 

 日本國存立の基礎は、神聖君主・天皇の御存在である。日本民族が天皇及び皇室を尊崇する精神を喪失し、天皇の神聖性・尊厳性が冒される時、日本國は崩壊の危機に瀕する。皇室の危機はとりもなおさず真の國家の危機である。

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