2017年10月21日 (土)

今上陛下の御製を拝し奉りて

 

昭和三十四年四月十日、当時中学一年生であった私は、テレビで中継されていた宮中三殿賢所において執行された「結婚の儀」を拝した。その荘重さ、神々しさに感激したことを覚えている。

 

今上天皇が「祭」について詠ませられた御製を掲げさせていただく。

 

昭和三十二年

歌会始御題 ともしび

ともしびの 静かにもゆる 神嘉殿 琴はじきうたふ 声ひくくひびく

 

昭和四十五年

新嘗祭

松明の 火に照らされて すのこの上 歩を進め行く 古思ひて

新嘗の 祭始まりぬ 神嘉殿 ひちきりの音 静かに流る

ひちきりの 音と合せて 歌ふ声 しじまの中に 低くたゆたふ

歌ふ声 静まりて聞ゆ この時に 告文読ます おほどかなる御声

 

昭和四十九年

歌会始御題 朝
神殿へ すのこの上を すすみ行く 年の始の 空白み初む   

 

昭和五十年

歌会始御題 祭り

神あそびの 歌流るるなか 告文の御声聞え来 新嘗の夜

 

平成二年

大嘗祭

父君の にひなめまつり しのびつつ 我がおほにへの まつり行なふ 

 

平成十七年

歳旦祭
明け初むる 賢所の 庭の面は 雪積む中に かがり火赤し

          ○

これらの御製は全て、皇居のおける祭祀の御事を詠ませられている。宮中三殿において、天皇のみ祭りが行われている。皇居は、明治維新前までは、徳川将軍家の居城であったとしても、今日は、まことに以て神聖不可侵の聖域である。

 

日本は、二十一世紀を迎えた今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給う天皇を、現實の國家元首と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでいる。これは日本の麗しい自然と稲作生活が完全に滅びない限り続くであろう。こうした事實が、西洋諸國やシナと日本國との決定的違いである。わが國が、長い歴史を通して様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇という神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本という國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。

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2017年10月 8日 (日)

天皇国日本の本質

 

 日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の信仰的・精神的共同體である。農耕生産の共同生活を営む人々の祭祀がその中核である。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生成された國である。これを『日本神話』は「神が日本國を生みたもうた」と表現した。

 

 したがって、日本といふ國家の本質は権力者が國民を支配するための機関すなはち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國ではない。さらに、征服や革命によって人為的に成立した國家でもない。だから我が國の國體を「萬邦無比」といふのである。

 

 

 日本民族の生活の基本たる稲作に欠かすことのできない自然の恵みが、太陽であり大地である。日本民族は太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大御神である。また大地の神は國津神として祭られた。また稲穂そのものも神の靈が宿ってゐるものとして尊ばれた。そして、古代日本人は太陽神・天照御神を最も尊貴なる神として崇めた。天照大御神は、太陽の神であると共に、皇室の御祖先神であると信じられた。

 

 天照大御神をはじめとする天津神、大地の神である國津神、稲穂の靈をお祭りされ、國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主たる日本天皇は、天照御神の御子即ち日の御子として國民から崇められた。祭り主たる天皇は、稲作を営む古代日本人の共同體の統合と連帯の中心者・君主として仰がれた。

 

 古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行はれる祭祀を中心とし、その祭祀が地方の祭祀を次第に全國的に統一されることによって實現したのである。古代日本の統一(日本國の生成)は、祭祀的統一である。各部族間の武力闘争はあったにしても、その有限的にして相対的な勝利は、最終的には神への祭祀によって聖化された。

 

 大和朝廷による祭祀的統一によって、日本民族が狭い部族的あるいは地縁的な共同體の分立から、今日の日本國の原形である全體性を確立した。その中心にあったのが<天皇の祭祀>である。これが「祭」と「政」の一致なのである。かかる意味において、日本國は天皇を中心とした信仰共同體なのである。

 

天皇国日本は、そこに住む人々の共同の意識・倫理観・信仰精神と共にある。祭祀主たる天皇は権力者でもないし権力機関でもない。その共同体に生活する国民は、天皇の大御宝と尊ばれ、神の子として育まれ、美しいものへの憧憬憬の心を育てられて生きてきた。

 

その信仰共同体としての国は、母なる大地であり、まさに祖国であり母国である。日本国は、親と子との関係と同じ精神的結合によって形成されてゐるのである。

 

日本国は「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一された

日本の統一は、分立してゐた地方の共同体勢力がともどもに日の大神=天照大御神の権威を承認することによって成就した。日の大神の御子である「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一したのである。日本各地から太陽神祭祀の象徴である鏡が数多く発見されてゐる。

 

天照大御神をお祭する祭り主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理・神聖なる御存在=現御神として仰がれるやうになった。信仰共同体・日本国の〈生きた全体性〉は天照大御神とその地上的御顕現であらせられる現御神日本天皇によって体現される。

 

祭祀主による日本国の統合は、軍事力によるのではなく、祭祀による統合であった。古代日本において、軍事力が全く使用されなかったといふことはなかったとしても、基本的には祭祀的統合・結合が基本であった。古代日本の地方共同体が稲作生活を基本として交流し、共同を確かめ、稲作生活に必要不可欠な太陽を神と仰ぐ信仰を共通の信仰としたのである。そして天照大御神を最高神と仰ぐ共同体・日本国として統一された。それが天皇国日本の成り立ちである。

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2017年10月 2日 (月)

德川幕府による朝廷圧迫の実態

 

慶応三年、大政奉還が行はれたが、徳川慶喜はこれに先立って、山城一国・二十三万石余を「禁裏御料」として献上した。それまでは「禁裏御料」「仙洞御陵」など色々な区別はあるが、朝廷・皇室の所領は四万石余で、小大名と同じくらいであった。徳川幕府は、「あめのしたしらしめすすめらみこと」に対し奉りこのやうな処遇をしてゐたのである。

 

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

 

『岩倉公実記』には次の如くに書かれてゐる。「安永年中幕府厳に朝廷の会計を検束し、供御の丁度に制限を設け、当時の価格を以て御用品代価の標準を定む。爾後御用品の時価に低昂あるも、其費を増減するを許さず。此の如く供御の調度に制限を設くるを以て、和歌御用の懐紙短冊の如き些細の物品にも一箇年間消費の数に限り有りて、時々不足を告げ、近習の堂上、密に之に進献して其不足を補充すること有り。又諸物価年を追ふて騰貴するに由りて、御用商人は所謂本途直段を以て物品を調達するときは、損益相償はざるが為に、粗悪の物品を混合して以て其品目に充て、その員数に盈たしむ。是故に御膳の如きも魚菜八塩醃(注・魚、野菜などを塩に漬けて保存すること。また、その物。塩づけ)腐餒して食ふ可らざるもの多し…」。

 

幕府が朝廷の会計を厳しく制限したために、天皇が和歌をお書きになる懐紙も足らなくなり、御用商人はお買ひ上げ価格が低いので粗悪の品物を納品し、さらには、上御御一人が召上がる食べ物すら腐った物をお出しせざるを得なかったといふのである。かうなると徳川幕府は「不忠の臣」どころか「逆臣」と断定してもいいくらいである。

 

第百十代・後光明天皇は、父帝である後水尾上皇が御病気を憂慮あそばされ、お見舞ひにのために後水尾上皇の御所に行幸ありたき旨を京都所司代に仰せ出されたところ、所司代・板倉周防守重宗は、「江戸に申し遣はし幕府の許可を得なければなりませぬ」と申し上げた。後光明天皇は「それならば自分の御所の東南隅よりと院の御所の西北隅にかけて梯子でつなげ高廊下を早々に設けよ。廊下を渡るだけなら行幸と幕府も言はないだらう」と仰せられ、御病気見舞ひを強行あそばされたと承る。

 

つまり、天皇は、父君のお見舞ひのために御所を出られることすら自由にお出来にならなかったのである。

 

徳川幕府専横時代、寛永年間、三代将軍徳川家光が上洛した時に、後水尾天皇が二条城に出でまして以来、嘉永七年に、皇居が炎上し、孝明天皇が下鴨社に渡御あそばされるまで、上御一人は皇居の中から外にお出になることは出来なかったのである。しかも嘉永七年の孝明天皇下鴨社渡御は、皇居炎上といふ突発事故が無ければ行はれなかったのである。

 

このやうに、大変畏れ多い言ひ方であるが、天皇は、「てのひらほどの大宮所」しかもその中の天皇の住まはれる御所の中に厳しい経済状態で軟禁状態に置かれてゐたと言っても過言ではないのである。徳川幕府の天皇・皇室への圧迫・迫害は許し難いものであった。

 

阪本健一氏は次のやうに論じてゐる。「近世において、天皇の御在位中、皇居の外への行幸は、寛永年中、三代将軍家光の時、二条城へのいでましのみである。御室の花は咲けども、嵐山の楓は紅葉すれども、そのいでましはなかったのである。もちろん幕府の政策のしからしめたところであって、志士仁人が憂憤興起した所以もまたそこにあった」(『天皇と明治維新』)

 

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その実態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

 

阪本健一氏の言はれる「志士仁人」たる高山彦九郎、蒲生君平の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へたのである。

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2017年9月26日 (火)

江戸時代においても尊皇思想の道統は脈々と受け継がれてゐた

 

江戸時代においても、天皇が日本國の君主であるといふ事實、即ち一君萬民の國體が全く隠蔽されてゐたわけではない。尊皇思想の道統は脈々と受け継がれてゐた。天皇を君主と仰ぐことが、徳川幕藩体制の「正統性」の根拠であったのだからそれは当然である。

 

江戸期においても、わが國を「本朝」「皇朝」と称し、幕末に近くなると「皇國」が多くなった。

 

徳川幕府による武家中心の政権をめざし首都を朝廷の置かれた京都から江戸に移したとの説があるが、日本の都は、天皇がゐます所であることは、江戸時代においても全く変はりはない。江戸時代において「都」が江戸に遷ることはなかった。「都」はずっと京都であった。江戸時代の地図の経度の起点は幕府の所在地である江戸ではなく、上御一人日本天皇のおはします京都の上に置かれてゐた。(藤田覚氏著『幕末の天皇』)

 

これは、日本國の君主・統治者は上御一人・日本天皇であるといふ國體に揺るぎがなかったことを証明する。

 

「勤皇」が徳川光圀以来の水戸藩の傳統である。光圀は、常々近臣に対して、「わが主君は天子なり、今将軍はわが宗室なり。あしく了簡仕り、取り違へ申すまじき」と戒め、毎年元旦には、直垂(ひたたれ)を着して早朝京都を遥拝したという。

 

光圀の學問・尊皇思想は、各方面に多大な影響を及ぼした。それは徳川御三家にまで及んだ。御三家筆頭の尾張藩四代藩主・徳川吉通は、子孫に対する訓誡『圓覺院様御傳十五カ条』において「天下の武士は、みな公方(注・徳川将軍)家を主君の如く崇めかしづけども、實は左にあらず…三家(尾張、紀伊、水戸)の者は全く公方の家来にて無し、今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣(注・天武天皇十三年に定めた八階級の姓の第二位。後には、三位の人の姓の下、四位の人の名の下につける敬称)と称するからは、これ朝廷の臣なり。されば水戸の西山殿(注・徳川光圀のこと)は、我らが主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりとのたまひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘のごとき事出来て、官兵を催される事ある時は、いつとても官軍に属すべし。一門の好みに思ふて、かりにも朝廷にむかふて弓を引くことあるべからず」と述べた。

 

ただし辻達也氏はその著『天皇と将軍』において、「この文章は吉通から約半世紀の十八世紀後半に作為されたものと考えるのが妥当いえよう」としてゐる。しかし辻氏は「吉通といい宗治といい、尾州家には将軍家への対抗意識が傳統的にあり、これが幕末の尾張義勝の勤王意識に連続するといえそうである」「巷の雜説のなかに、尾州家は将軍家と同格、尾州家は天皇の直臣という意識が醸し出されてきたことが認められる。それは尊王意識を育む土壌の形成を意味していると考えてよいのではあるまいか」(同書)と論じてゐる。

 

徳川御三家の一つ水戸藩で形成された学問「水戸學」は、天皇國日本の悠遠な真姿を示し、徳川幕藩體制のみならず鎌倉幕府以来の武家政権の転変を超えて持続する「皇位の傳統」「國體の道統」を明らかにした。それは、『大日本史』の綱条の序文に、「人皇基を肇めて二千余年、神裔相承け、列聖統を纉(つ)ぎ、姦賊未だ嘗て覬覦(注・身分不相応なことをうかがひねらふこと)の心を生ぜず。神器の在る所、日月と並び照らす。猗歟(ああ)盛なる哉。其原(もと)づく所を究むるに、寔(まこと)に祖宗の仁沢、民心を固結し、州基を盤石の如くならしむるに由る也」とある通りである。

 

幕末における水戸藩の「尊皇攘夷思想」が端的に書かれた文章を紹介する。

水戸学の泰斗・藤田東湖が、主君・徳川齊昭に奉った文章で次のやうに論じてゐる。

 

「先づは関東の弊風にて、日光等さへ御立派に候へば、山陵はいか様にても嘆き候者も少なき姿に御座候、…日光御門主(輪王寺宮)を平日御手に御附け遊ばされ、萬一の節は、忽ち南北朝の勢をなし候意味、叡山へ対し東叡山御建立、其の外禁中諸法度等の意味、實に言語を絶し嘆かはしき次第、右等を以て相考へ候へば、京所司代などは、以心傳心の心得ぶり、密かに相傳り仕り候かも計りがたく、實意を考へつめて候へば、一日も寝席を安んじかね候次第」。

 

徳川幕府の朝廷への不敬を厳しく糾弾した文章である。かうした正統なる尊皇精神が徳川御三家の一つ水戸徳川家に存したといふことは實に以て驚くべき事である。明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発したのである。

 

山鹿素行(江戸前期の儒者、兵学者)は、「朝廷は禁裏也、辱も天照大御神の御苗裔として、萬々世の垂統たり、此故に武将権を握て、四海の政務武事を司どると云ども、猶朝廷にかはりて萬機の事を管領せしむることわりなり」(『武家事紀』)と論じてゐる。

 

天明八年(一七八八)十月に、老中松平定信(江戸後期の白河藩主。田安宗武の子。徳川吉宗の孫。老中となって、財政の整理、風俗の匡正、文武の奨励、士気の鼓舞、倹約を實施して寛政の改革を實行)は、将軍・徳川家斉に奉った上書『御心得の箇条』に、「六十四州は禁庭より御あづかり遊ばされ候御事に御座候へば、仮初にも御自身の物とは思召され間敷候御事に御座候」「永く天下を御治さめ遊ばれ候御事、皇天及び禁庭への御勤め、御先祖様方への御孝心に当たらせらるべし」と記してゐる。

 

これを「大政委任論」(天皇・朝廷から國政を委任されてゐるといふ論)と言ふ。この大義名分論が、「大政奉還」即ち明治維新に継承され一君萬民の國體明徴化されるのである。

 

山県太華(長州明倫館学頭・藩主毛利斉元の側儒)は、「天子は、先皇以来正統の御位を継がせ給うて天下の大君主と仰がれ給ひ、武将は天下の土地人民を有ちて其の政治を為す」(『評語草稿』)と論じた。

 

このやうに、江戸時代においても、日本國の君主は天皇であり、征夷大将軍はその臣下であるといふ「大義名分」は継承されてゐたのである。

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2017年9月25日 (月)

「天皇の國家統治」について

 

日本天皇の國家統治とは、天皇が権力や武力によって國家國民を屈従させることではないし、天皇が國民の意志を全く無視し蹂躙して恣意的に権力を行使するといふ事でもない。

 

「天皇の國家統治」とは、天皇が精神的・文化的に國家と國民を統合される事を言ふのであり、天皇が日本國の君主であり統治者であるとは、天皇が日本國の傳統・文化そして歴史的永続性を体現され日本國民の統合を体現される御存在であるといふ事である。天皇が日本國及び日本國民を統合され統治される御存在であることは建國以来の道統である。

 

「統治」といふ言葉は漢語である。〈やまとことば〉で言へば「しらす」「しろしめす」である。「天皇が民の心を知りたまひ、天皇の御心を民に知らしめる」といふことが「統治」なのである。

 

祭祀國家・信仰共同体であった古代日本において、祭り主たる天皇が民の心を知りそれを神に申し上げ、さらに神の心を承って民に知らしめることが天皇の「しろしめす」=國家統治の本質である。このことによって「君と民とは相対立する存在ではなく、精神的に一体の関係にある信仰共同体」としての日本國が成立する。

 

明治天皇の外祖父・中山忠能前権大納言は、明治天皇御即位に当たって、「そもそも皇國は天照皇大神の御國で、天子をしてこれをあずからしめてあるので、至尊といへども吾物と思召ては、自然御随意の御処置に押移るべく、…」と言上したといふ。

 

日本天皇は、『朕は國家なり』と言ふような國家國民を私物化する西洋的な絶対専制君主とは全くその本質を異にする。

 

天皇統治は、天の神の御委任により天の神の地上における御代理としての天皇が天の下をお治めになるといふ雄大なる神話的発想に基づくのである。天皇による日本の祭祀的統一といふ歴史を背景として成立した日本神話には、天皇の御祖先である邇邇藝命が高天原から地上に天降られた時に、天照大神からの御命令(御神勅)が下されたと記されてゐる。

 

それには、「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の國は、これ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壤と窮まりなかるべし」(豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る國は私の生みの子が統治すべき地である。なんじ生みの子よ、これから行って統治しなさい。元気で行きなさい。天の日の神の霊統を継ぐ者が栄えるであらうことは、天地と共に永遠で窮まりないであらう、といふほどの意)と示されてゐる。

 

この御神勅は、天照大神の神霊をそのまま受け継がれた生みの子たる天皇が永遠に統治される國が日本であるといふことを端的に表現してゐる。

 

天皇の國家統治とは、人為的に権力・武力によって民と國土を治めるのではなく、あくまでも神の御心のままに宗教的権威によって國民と國土を治めるといふことである。

 

〈やまとことば〉ではまた「統治」のことを「きこす」「きこしめす」(「聞く」の尊敬語)とも言ふ。天皇が民の心を聞かれるといふ意味である。

 

 日本を統治するために天の神の命令により天から天降られた天孫邇邇藝命の父君にあたられ、天照大神が邇邇藝命の前に地上に天降らせようとした神を正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひめあめのおしほみみのみこと)と申し上げる。さらに、神武天皇の御子・綏靖天皇を神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)と申し上げる。日本國の統治者・君主は「耳で聞く」ことを大事にされていたので「耳」という御名を持たれたとされる。

 

天皇の國家統治とは、権力行為ではない。力によって民を屈従せしめるといふものではない。天皇は國民の意思を広くお知りになり統合される御存在であるといふ事である。さらに言へば天皇の國家統治とは、國家と國民の統一と調和すなはち統合が天皇の宗教的権威によって保たれるといふことである。

 

 ただし、天皇が日本傳統信仰の祭祀主として君臨されるといふことは、天皇が現実政治に全く関はりを持たれないといふことではない。むしろ無私にして清らかな天皇の御存在が國家の中心にゐまし、常に國家の平安と國民の幸福を神に祈る祭祀を続けられてゐることが、政治のみならず日本國のあらゆる物事の安定と調和と統一の核となり、道義性の維持の基となって来た。その尊い事実が天皇の國家統治そのものなのである。

 

わが國建國以来の天皇を君主と仰ぐ國體は護りぬかねばならないし、正しく開顕しなければならない。天皇は近代成文法以前から君臨されてきた日本國の神聖なる君主であらせられる

 

日本國の國體が隠蔽されてゐる状況を是正しさらには國體破壊を防ぐめには、信仰共同体の君主・祭祀國家の祭祀主であらせられ、國家と國民を統合される神聖にして至高の御存在であるといふ古代以来の國體を正しく成文化された正統憲法に回帰すべきである。 

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2017年9月23日 (土)

傳統的な尊皇精神について

 

尊皇愛國の精神を尊び、それを基本として日本國の現状を変革し理想の姿を回復せんしてさまざまな運動を行ってゐる人々、そして皇室尊崇の念を道義の基本としてゐる人々は、天皇様や皇太子様が「自己の抱く天皇の理想像」あるいは「天皇様にはかうあっていただきたいといふ思ひ」と異なる御発言や御行動をされた時、天皇様や皇太子様に批判の思ひを抱くことがある。

 

しかし、それでは真の尊皇にはならないと思ふ。日本國民が天皇を神聖なる君主と仰ぐとはいかなることであるのか、言ひ換へれば尊皇精神とはいかなることであるのか。わが國の傳統的な尊皇精神を正しく継承しなければならない。

 

尊皇精神とは、日本國の祭祀主であられ神聖なる君主であられる天皇への「かしこみの心」である。そしてそれは日本人の道義精神の根本である。

 

村岡典嗣氏は、「歴史日本が創造した道徳的價値の重要なものとしては、尊皇道と武士道との二つを、擧げ得る。尊皇道徳は太古に淵源し、我が國體の完成とともに、而してまたその根柢ともなって成就したものである…そは即ち、天皇に對し奉る絶對的忠誠の道徳であって…太古人がその素朴純眞な心に有した天皇即現人神の信念こそは、實にその淵源であった」と論じて、柿本人麻呂の「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも」を挙げてゐる。(『日本思想史研究・第四』)

 

天皇に対する絶対忠誠の心は太古以来今日に至るまで継承されて来てゐる。『古事記』には次のやうなことが記されてゐる。

 

第二十三代・顕宗天皇はその父君市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺したまふた雄略天皇をお怨みになり、その御霊に報復せんとされて御陵を毀損しやうとされ、弟君・意祁命(おけのみこと)にそれを命じられた。だが、意祁命は御陵の土を少し掘っただけであられた。天皇がその理由を尋ねられると意祁命は「大長谷の天皇(雄略天皇の御事)は、父の怨みにはあれども、還りてはわが従父(をぢ)にまし、また天の下治らしめしし天皇にますを、今単(ひとへ)に父の仇といふ志を取りて、天の下治らしめしし天皇の陵を悉に破壊りなば、後の人かならず誹謗(そし)りまつらむ」と奉答された。この意祁命のみ心に、天皇に対し奉り絶対的に従ひ奉る尊皇精神がよく表れてゐる。

 

本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇國の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びず思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり。」(『葛花』)と論じてゐる。

 

天皇は現御神であらせられ絶対的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下を批判する事は絶対にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。天皇陛下が間違ったご命令を下されたり行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、國民は勅命に反してはならずまして反対したり御退位を願ったりしてはならない、如何にしても従へない場合は楠正成の如く自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが國の尊皇の道であり、勤皇の道であることを、本居宣長先生は教へられてゐるのである。

 

山崎闇斎(江戸初期の朱子學者、神道家。朱子學の純粋化・日本化に努め、門弟は数千人を数へた。また、神道を修め、垂加神道を創始し、後世の尊皇運動に大きな影響を与へた)を祖とする「垂加神道」は、「異國には大君の上に天帝あり。敕命の上に上天の命あり。吾國の大君は、所謂天帝也。敕命は所謂天命と心得べし。假令へば天災ありて、大風洪水或は時疫流行して人民多く死亡に至ると雖も、一人も天を怨むる者なく、下民罪ある故に、天此災を降せりとして、反て身を省る、是常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり。」(玉木清英『藻盬草』)と説いてゐる。

 

村岡典嗣氏はこの文章を、「(絶對尊皇道徳の・註)最も代表的なものを山崎闇斎を祖とする垂加神道の所説とする。曰く、日本の天皇は、支那に比すれば天子でなくて天そのものに當る。儒教の天がわが皇室である。儒教でいへば、大君の上に天命がある。勅令の上に天命がある。しかるに我國では、大君なる天皇は即ち天帝であり、勅命はやがて天命である。されば假に君不徳にましまして、無理を行はれるといふやうなことがあっても、日本では國民たるものは決してその爲に、天皇に背き奉り、また怨み奉るべきでないことは、恰かも天災がたまたまあったとて、ために支那に於いて、天帝に背き、また天帝を恨むべきではないとされると同様である。」と解釈し、「これまさしく、わが國民精神の中核を爲した絶対對尊皇思想である。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

 

二・二六事件に指導的立場で参加し処刑された村中孝次氏(元陸軍大尉)は獄中において「吾人は三月事件、十月事件などのごとき『クーデター』は國體破壊なることを強調し、諤々として今日まで諫論し来たれり。いやしくも兵力を用いて大権の発動を強要し奉るごとき結果を招来せば、至尊の尊厳、國體の権威をいかんせん、…吾人同志間には兵力をもって至尊を強要し奉らんとするがごとき不敵なる意図は極微といえどもあらず、純乎として純なる殉國の赤誠至情に駆られて、國體を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。」(獄中の遺書『丹心録』)と書き遺してゐる。

 

この精神こそが真の絶対尊皇精神である。わが國道義精神の基本は「清明心(きよらけくあきらけきこころ)」である。それは「まごころ」「正直」と言ひ換へられる。まごごろをつくし、清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が古来からのわが國の尊皇精神であると思ふ。

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2017年9月 9日 (土)

<天皇の祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から学んできた。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知ってゐた。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精霊たちを怖れるだけではなく、祭祀によって神や精霊たちを祓ひ清め鎮めたのである。

 

現代文明とは、事物を科学の論理によって技術革新を行ふようになった文明のことであるとされるが、それは、経済至上・物質的豊かさ至上の社会を作り出した。そして、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして民族紛争・宗教紛争を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかってゐる。

 

現代文明・文化の欠陥を是正し、新たなる文化を形成するには、欧米文化偏重から日本伝統文化へと回帰しなければならない。

 

日本伝統精神は、天皇の祭祀と神社の祭祀を通して、今もなほその生命が伝へられてゐる。のみならず、現実に天皇及び御皇室の自然の命を慈しみたまふ御精神と御行動そして神社の鎮守の森が、自然破壊と人心の荒廃を食い止める大きな力となってゐる。

 

わが日本おいては、これだけ科学技術が進歩し物質文明が豊かになってゐる今日においても、古代信仰・民族信仰が脈々と生きてをり、伊勢の神宮をはじめとした全国各地で神社で毎日のようにお祭りが行はれてゐる。のみならず日本伝統信仰の祭り主であらせられる天皇は多くのみ祭りを厳修され、国家の平安・国民の幸福・五穀の豊饒を神に祈り続けられてゐる。そしてその祭り主たる日本天皇は日本国家の中心者として君臨あそばされている。このようにわが祖国日本は永遠の生命を保ちつつ革新を繰り返してきてゐる国である。これが世界に誇るべき日本の素晴らしさである。

 

現代日本の汚れを祓ひ清め、正しき国の在り方・日本人としての正しき姿を取り戻すことが維新である。日本は伝統と変革が共存し同一なのである。だから維新を<復古即革新>といふのである。

 

日本国の君主であらせられ、祭祀主であらせられる天皇陛下そして皇室のご存在があってこそ、日本国は安定と平和が保たれるのである。天地自然に神の命が生きてゐるといふ信仰が日本の傳統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同體が日本國の本姿である。それを現代において回復することが、大切なのである。これが道義の頽廃が根本原因である現代の様々な危機的状況を打開する唯一の方途である。我々日本國民は誇るべき國體精神を恢弘してわが國の革新と再生そして世界の真の平和実現に邁進しなければならない。

 

日本伝統精神を世界に発展させて、混迷せる現代世界を救済する役目をわが日本は背負っている。日本伝統信仰の精神が世界の國と民を永遠の平和と幸福に導く道であると思ふ。

 

 

そのためには、「現代に生きる神話」たる<天皇の祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復しかない。

 

 

 

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2017年9月 4日 (月)

日本は、現御神日本天皇を君主と仰ぎ天地の神々が生き給ふ國である

天津日嗣日本天皇は、天照大神(太陽の神)の御子としての神聖なる権威によって治められてゐる。そしてその根幹は天神地祇を祭られる<天皇の祭祀>である。稲作生活を営む日本民族にとって太陽はなくてはならぬ存在であるので、わが國では、日の神信仰(太陽信仰)はより強固なものであった。その日の神の御子が祭り主日本天皇であらせられる。

 

「天皇」といふ御稱号の「天」は、天つ神のをられるところすなはち高天原のことである。「皇」は冠が架上に置かれている形の象形文字であり天の神のことを言ふ。(加藤常賢・山田勝美両氏著『当用漢字字源辞典』)

 

津田左右吉氏は、「推古天皇時代に天皇いふ御稱號の用ゐられたことは確實であらう。これは此の天皇の丁卯の年に書かれた法隆寺金堂の藥師像の光背の銘に『池邊大宮治天下天皇』とあるからである」「『天皇』といふ御稱号がやはりシナの成語を採ったものであることは、おのづから推知せられる。さうしてそれは、多分、神仙説もしくは道教に關係ある書物から来たのであらう」「支那に於ける天皇の稱呼は、帝王としての意義を裏面には含みながら、宗教的觀念が主になってゐるのであるが、それは恰もよく、上代人の思想に於いて政治的君主の地位に宗教的由来があり、その意味で神とも呼ばれ、そこから天つ神の御子孫として天から降られたといふことになってゐた、わが皇室の地位に適合するものであって、此の語の採られた主旨もそこにあったに違ひない」と論じてゐる。(『日本上代史の研究』)

 

肥後和男氏は、「『天皇』というのはもちろん中國語で、『三皇本紀』に『天地初めて立つ、天皇氏有り』と見え、天の支配者といった意味で、いわば最高の神格をさした名称であり、中國でも君主をば天子と称し、あえて天皇とはいわなかった」「聖徳太子は…スメラミコトは天皇という新しい称号のもとに、絶対なる存在たらしめようとした。ここに、中國では天の支配者をさす『天皇』という大きな名を、スメラミコトの称号として採用することにふみきったものと思われる」「聖徳太子等をして、そこまでふみきらせた歴史的根拠は…古くからの日神信仰にあったと考えられる。…日本民族は『ことば』にひとつの力を認める。それがいわゆる言霊の説であるが、スメラミコトが天皇という称号を用いることによって、その本質が一段と高められ、一種の神格的存在となった…。」「太子が隋との國交において対等の礼を用い、その國書に『東天皇つつしみて西皇帝に申す』といった用語をされたことは、日本を未開の外蕃とみなしてきた中國古来のゆきかたに正面から挑戦したもの…。」と論じてゐる。(『天皇と國のあゆみ』)

 

高森明勅氏は、「天皇号の成立は、シナ王朝を中心とする古代東アジア世界において、わが國が自尊独立の文明國家を目指すことを内外に闡明したもの」「天皇号成立の意義については、対外的には何ものにも従属しない國家の主体性と尊厳を表徴するものであって、同時に國内的には、君主大権の神聖な超越的権威と公的・普遍的統治の理念を堅持するものだったと言へるのである」と論じてゐる。(「天皇号の濫觴」・『立正』誌皇紀二六五五年一月号)

 

「天皇」といふ御稱号は、「天の神様」を指すことばである。日本國の君主を『天皇』と申し上げるのは、天命の主体たる天つ神の地上的御顕現、言ひ換へると肉身をそなへた天つ神すなはち『現御神』もしくは『現人神』がわが國の君主であらせられるといふわが國の傳統的な「天皇信仰」に基づく御稱号である。

 

山崎闇斎を祖とする「垂加神道」の「異國には大君の上に天帝あり。敕命の上に上天の命あり。吾國の大君は、所謂天帝也。敕命は所謂天命と心得べし。假令へば天災ありて、大風洪水或は時疫流行して人民多く死亡に至ると雖も、一人も天を怨むる者なく、下民罪ある故に、天此災を降せりとして、反て身を省る、是常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり。」(玉木清英『藻盬草』)といふ「絶対尊皇思想」は、「天皇」といふ御稱号の意義と一致する。

 

里見岸雄氏は、「天皇とはなにかといふことは、天皇なる概念に含まれてゐる多くの表象を分析した上で総合的に観念されなければならないのであって、憲法によって天皇の概念が定まったかの如くに思ひ、そして、軽視的に『象徴である』『象徴に過ぎない』などといふのは、全く逆である」

「憲法の象徴といふ規定と関連して、天皇非君主説、換言すれば天皇國民説、乃至天皇非元首説を主張するのは、憲法の法相を無視し、天皇概念を正確に把持しない非科學的独断、イデオロギー的見解といはねばならぬ」

「古来の日本人が、天皇といふ言葉によって観念してきたものは、…他國に類例のない理想的帝王であるとの誇りに充ちた観念である…もう少しくわしく言えば、天皇とは、日本國民が古来、世界に類例のない理想的帝王であると信じてきた萬世一系の君主である。と定義してよからう」

「憲法が天皇といふ文字を用ゐてゐるのは、國民に対しての概念である事、及び天皇なる文字そのものが君主の意味である事を前提としたものであるのは明白であって、天皇が君主でないなら、天皇の文字を用ゐることは許されぬ。天皇は明白疑ふ余地のない君主である」と論じてをられる。(『萬世一系の天皇』)

 

天皇は祭祀主として神様に祈り、神を祭り、神の御命令を民に傳へるご使命を果たされる。ゆへに、民から仰ぎ拝すれば、天皇は地上における神の御代理即ち現御神であらせられる。日の神の御子として國家を統治されるといふ御自覚は、歴代の天皇に一貫してゐる。

 

聖徳太子は隋の煬帝に出した國書(國の元首が、その國の名をもって出す外交文書)に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と記し、「日本天皇は日の神の御子である」といふ信仰を高らかにうたひあげた。当時の先進國・隋に対して、このやうな堂々とした國書を提出したのである。

 

 天皇が日の神の御子として國家を統治あそばされるといふ御自覚は、御歴代の天皇に一貫してゐる。第一一六代・桃園天皇(江戸中期)は、

 

「もろおみの朕(われ)をあふぐも天てらす皇御神(すめらみかみ)の光とぞ思ふ」

 

といふ御製を詠ませられてゐる。        

 

天皇が御即位の大礼において、高御座に上られ、天下万民の前にお姿を現されるお姿は、「冕冠・大袖」である。「冕冠」は、『古事談』によると、応神天皇以来のものとされ、中央に金烏を描いた放射状の日像(ひがた)を立てる。これはまさしく日の御子のお姿である。つまり即位式において、天皇が高御座に登られるのは、新しい太陽神の地上における御誕生なのである。また、大嘗祭における鎮魂のみ祭りも、日の神の再生の祭りといはれてゐる。

 

天皇が御即位された後初めて行はれる新嘗祭を大嘗祭といふ。大嘗祭は、全國各地から集めたお米を天照大神にお供へをして、五穀の豊饒を感謝すると共に、天皇がお供へしたお米を神と共に食される。そして天皇・神・穀物の霊が一體となる行事である。このみ祭りによって、天皇は、現御神(地上に現れた神」としての神聖性を保持される。

 

大嘗祭は、天孫降臨の繰り返しの行事である。そもそも「まつり」とは元初(ものごとの一番始め)の行事の繰り返しである。天照大神は邇邇藝命に稲穂をお授けになって「このお米を地上にたくさん實らせ、豊葦原瑞穂の國を統治しなさい」と御命令になる。邇邇藝命は、その稲穂を奉持して、真床追衾(まとこおふふすま)に包(くる)まれて地上の高千穂の峰に天降られる。真床追衾とは、床を覆ふ夜具で、おくるみ(赤ん坊を抱く時、衣服の上からくるむもの)のやうなものである。

 

日嗣の皇子の御魂と天照大神と神霊と稲穂の霊と一體となり、日嗣の皇子が日の御子(現御神)としての神聖性を開顕される祭祀である大嘗祭においても、天皇は真床追衾に包まれるといふ。大嘗祭によって新しい天皇が、先の天皇と同じやうに神と一體となられるのである。つまり御歴代の天皇は、御肉體は変られても、「やすみししわが大君 高照らす日の御子」といふ神聖なる本質・神格は全く同じなのである。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 

大嘗祭は、天孫降臨といふ元初の事實の繰り返しであり、御歴代の天皇が天照大神の御神霊と一體になられるおまつりであり、天皇の神としての御資格の再生であり復活のみ祭りである。大嘗祭は、持統天皇の御代から行はれるやうになった。

 

日本は、現御神日本天皇を君主と仰ぎ天地の神々が生き給ふ國である。それは、わが國の歴史を見れば、否定することは全く不可能な事實であり、建國以来のわが國體である。

 

日本の傳統精神・國家観・人間観を隠蔽してゐる元凶は「現行占領憲法」である。憲法は國家あっての憲法であり、國家理念を正しく規定されていなければならない。

 

わが國の悠久の歴史精神と日本國體精神に、憲法の条文なり理念が合致してゐなければならない。終戦直後、國際法の禁を破って押し付けられた「現行占領憲法」の無効を確認し、わが國の國體精神に立脚した憲法に回帰すべきである。

 

今日、外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」が横溢し、わが國の國家傳統の隠蔽し破壊してゐる。そしてそれが一般國民の常識となって浸透してゐることは實に以て、國家存立の基礎を揺るがす事實である。今回の「天皇陛下の御譲位」をめぐる政府及び國會の動きを見てそのことを切實に実感する。

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2017年8月26日 (土)

天皇・皇室に関はる御事を権力機関で議論し決定すべきではない

『御譲位』『皇室典範』が「政治問題」となって、國會といふ権力機構で論議されている。しかし、天皇・皇室に関することは、一般の政治問題とは全くその性格を異にしてゐる。否、「性格を異にする」などといふ生易しいことではない。天皇國日本といふかけがへのない信仰共同體・祭祀國家に関はる重大問題である。

 

日本天皇の御位は、他國の王位・元首の地位とは全くその本質が異なる。また、皇位繼承は、他國の王位繼承・元首の選び方・権力者交代システムとは全くその本質を異にする。

 

日本天皇の御位即ち「皇位」は権力者の地位では絶対にない。神代以来の精神的道統を繼承する祭祀主・すめらみことの「御位」である。従って、天皇・皇室に関はる御事を権力機関で議論し決定すべきではない。

 

また皇室に関する事柄は、日本の傳統的な「神観」「國體観」「天皇観」「人間観」に回帰して論じられるべきである。それが大前提である。

 

人間を単なる肉體ととらへる近代西洋の生物學、國家を権力機構ととらへる近代西洋の國家論によって日本國體・皇位繼承を論ずるべきではない。また、外来政治思想に影響されてはならない。

 

もちろんわが國は、外来の思想・宗教・科學などを包容摂取して来た歴史を持つ。しかし、外来文化の包容摂取は天皇を祭祀主と仰ぐ日本國體精神を基盤として行はれてきた。天皇のご存在が、日本國が外来文化を大いに取り入れながらも、日本國の独自性を喪失しなかった根幹である。

 

日本國體精神の中核は、日本天皇の祭祀である。祭祀主日本天皇は、純粋なる日本傳統精神を原基であり中核である。

 

北畠親房は『神皇正統記』において、「応神天皇の御代より儒教ひろめられ、聖徳太子の御時より、釈教をさかりにし給ひし、これ皆権化の神聖(かみ)にましませば、天照大神の御心を受けて我國の道を広め深くし給なるべし」(巻一)と論じてゐる。

 

北畠親房は、我國の天照大御神の神意を體して仮の姿を現はした神聖なる人によって説かれた教へが儒教・佛教であるとしてゐる。天照大神の皇孫=日本天皇の皇位繼承については、儒・佛の教へが入り来る以前の純粋なる傳統精神(北畠親房のいふ天照大御神のご神意)に依拠しなければならない。

 

基本的には、『皇室典範』『皇位繼承』『御譲位』など皇室の根幹については、、日本伝統信仰の祭祀主であらせられ、日本伝統精神の継承しであらせられる上御一人・天皇陛下の大御心に従ひ奉るべきである。政府・国会はが決めたことに、天皇陛下に従っていただくなどといふことがあっていいはずがない。

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2017年8月25日 (金)

「現行占領憲法」の制約下に、上御一人日本天皇を置き奉る事があっては絶対にならない

 

 西洋の成文法は、一定の地域で共同生活を営む人間同士が信頼することができなくなり、文章で色々な決め事を書いておかなければならない状況になってから作られるようになったのであらう。

 

 要するに西洋の成文法とは共同生活を営む人間同士の契約文書である。といふことは、人間同士が本当に信頼し合って生きていく世の中であれば成文法などは本来不必要だとも言へる。極論すれば成文法は人間性悪説に立脚してゐると言っても過言ではない。

 

 西洋の成文憲法の淵源とされる『マグナカルタ』(一二一五年、イギリスの封建諸侯が國王ジョンに迫り、王権の制限と諸侯の権利を確認させた文書。國王の専制から國民の権利・自由を守るための典拠としてイギリスの立憲制の支柱とされる)は、専制君主と國民との間の不信感に発して作られた契約文書にほかならない。ここから憲法は権力の制限規範だといふ考へ方が生まれた。

日本国は、天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀国家・信仰共同体である。日本国は、西洋の権力国家とは全く成り立ちが異なり、日本天皇は西洋の専制君主とはまったくその本質を異にするのである。

 

 日本國の成文憲法は、人間同士の不信ではなく日本の麗しい伝統精神に立脚した成文憲法でなければならない。天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家といふ日本國の道統が成文憲法の条文に正しく表現されなくてはならない。

 

成文憲法及び成文法そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇日本の道統を破壊したり否定してはならないし、本来否定することは出来ない。むしろ天皇日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならない。

 

 憲法や政治権力は、その権限を越えて、共同體國家の精神伝統及び國民の精神生活、道徳生活、文化創造活動などに介入したり制限を加えたりしてはならない。特に成文法によって、天皇皇室を規制し奉ってはならない。成文憲法や政治権力は、日本國の道統に立脚し、その道統を正しく実際の國家において実現するための役割を果たすべきなのである。

 

『現行占領憲法』下においても、「憲法にこう書かれてゐるから、皇室はかうあらねばならない」とか「天皇はかういふことをされてはならない」と主張する事はあってはならない。

 

何故なら、『現行占領憲法』には、天皇は「國政に関する権能を有しない」と書かれてをり、「憲法とは権力の制限規範である」とされてゐるからである。国政の関する権能を有しないといふ事は権力者ではないといふことである。従って「権力者」ではあらせられない天皇は、「権力の制限規範」たる憲法を超越した御存在であり、憲法が天皇を制約することがあってはならないのである。三権の一つであり「国権の最高機関である」と規定されてゐる國會が、権力者であらせられない「天皇の御位」即ち「皇位」について議論し決定することは、憲法が「権力の制限」である以上、出来ないのである。

 

ともかく、日本國の憲法は天皇の國家統治の道統に則った憲法であらねばならない。日本國の國體に基づいて憲法の國體に関する条項が成文化されてゐなければならない。即ち「天皇を君主と仰ぐ日本國體」に基づいた正統憲法を回復しなければならない。

 

 

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