2017年6月27日 (火)

天皇國日本の比類なき特質について

 

 日本は古代からの信仰共同體が今日も続いている。祭祀國家日本の祭り主である日本天皇は、常に國民の幸福を祈る祭り主であらせられるから、國民と相対立する存在ではないし、日本天皇は國民を力によって支配し隷従せしめるご存在ではない。國民と共に神に祈り、神を祭り、神の意志を國民に示し、また國民の意志を神に申し上げ、國民の幸福の実現を最高の使命とされるお方が天皇である。つまり君主と民は「和」と「共同」の関係にあるのであり、「対立関係」ではない。こうした天皇中心の日本の國柄を「君民一體の日本國體」というのである。

 

 このような日本の國柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで続いてきている。ところが外國では、太古の王家も古代國家もそして古代民族信仰もとっくに姿を消し、その後に現れた王家は武力による征服者であり、その後に現れた國家は権力國家であり、その後に現れた信仰は教団宗教である。古代オリエントや古代シナにおいては、祭祀を中心とする共同體が武力征服王朝によって破壊されてしまった。共同體を奪われ祭りを喪失した人々は、貨幣や武力に頼らざるを得なくなり、権力國家・武力支配國家を形成した。

 

 それに比してわが日本は、古代からの祭祀主を中心とする共同體國家が、外國からの武力侵略によって破壊されることがなく、今日も続いている唯一の國なのである。皇室祭祀だけでなく、全國各地で一般國民が参加する祭祀が続けられている。まことにありがたき事実である。

 

 日本は、天皇を信仰的文化的中核として統合・安定・継承・発展を遂げてきた。近代日本は、世界の中でめざましい変化と発展を遂げた。しかし、日本は欧米文化文明を受容し発展はしたけれども、祖先から受け継いだ伝統を決して捨て去ることはなかった。むしろ伝統を堅固の保守し続けてきた。現実面の変化の奥に不動の核があった。それが日本天皇である。

 

 そして今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給う天皇を、君主と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでいる。こうした事実が、西洋諸國やシナと日本國との決定的違いである。

 

 わが國が、長い歴史を通して様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇という神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本という國は太古以来の伝統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。

 

 天皇は、権力政治面・経済面・軍事面ではいかに非力であっても、常に日本國の統一と調和と安定の核であり続けてきた。源平の戦い、南北朝の戦い、応仁の乱、戦國時代、戊辰戦争、そして大東亜戦争の敗北と、日本國の長い歴史において、國が内戦によって分裂し疲弊し、國土が爆弾や原爆で破壊された時期があった。しかし、天皇および皇室が日本民族の精神的核となってその危機から立ち直り、國を再生せしめてきた。そして日本民族は常に國家的・民族的統一を失うことはなかったし、國が滅びることもなかった。これは、世界の何処の國にもなかったところの日本の誇るべき歴史である。日本がどのような危機にあっても、再生のエネルギーを発揮したのは、日本という國家の本質が権力國家ではなく、天皇を中心とする信仰共同體であるがゆえである。

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2017年6月24日 (土)

天皇・皇室と和歌

和歌は伝統の継承と創造とは一体である。歌を詠む人は、先人の和歌を手本として学ぶ。和歌の原点を常に顧みながら新しい創造を行なってきた。即ち伝統と創造が一体になってゐる。ここに和歌文学の特質がある。日本人は伝統の継承から創造を学んだ。和歌はその典型である。伝統と創造が渾然一体となっているのが和歌である。

これは、皇位継承・伊勢の神宮御遷宮と相似である。日本天皇の肉身はやがてお隠れになられるが、皇位は不滅であり皇統連綿であり萬世一系である。先帝がお隠れになると新帝が即位の大典を執行され大嘗祭を行はれることによって、新しき肉体であらせられながら邇邇藝命以来の皇統を継承される。伊勢の皇大神宮は、御祭神の天照大御神の御神霊は永遠であるが、神殿は二十年ごとに造り替へられる。

伝統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふのが、わが国の皇位であり、伊勢の神宮であり、和歌なのである。これは他国には見られないわが日本の特質である。わが國の國體は万邦無比である。

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが国に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

天皇の国家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の国家御統治と一体である。天皇国家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給うために実に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の国家統治は和歌とは切り離し難く一体である。天皇の国家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって国民と国土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって国民と国土を統治されるのである。

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも国をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまひことを国家統治の基本とされたといふことである。

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を読むことによって可能となる。

中河与一氏は「和歌が国風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた、主に公家を中心とする文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ実感すべきである。

そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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2017年6月22日 (木)

祭政一致について

 最近の日本は誤れる「民主主義思想・人権思想」によって人と國家の神聖性・道義性を隠蔽してきた。人間の尊厳性はその人間の生活する國家の尊厳性と不離一体の関係にある。國家をあしざまに罵り続け、天皇の神聖性を隠蔽し、自分さえ良ければいいという観念が横溢したところに、今日の日本の頽廃と混迷の根本原因があると考える。 

 

日本民族の古代からの天皇尊崇の心・現御神信仰を回復し、人間獣化=聖なるものの喪失から脱却することなくして、日本の再生はあり得ない。 

 

わが國古代においては、祭祀と政治は一體であった。だから祭祀も政治も「まつりごと」という。祭祀とは、五穀の豊饒と國民の幸福を神に祈る行事である。政治とは、規則と制度と行政によって國民の幸福を実現することである。祭祀と政治は本来その目的は一つである。これを「祭政一致」というのである。

 

「祭祀」が「政治」と一體であるのは古代からの伝統である。祭祀によって國家國民の平和と繁栄を祈ることと、具體的な施策や制度(すなわち政治)によって國家國民の平和と繁栄を実現することとは、分かち難く一體であった。

 

 祭祀とは、己をむなしくして神に仕えまつる行事である。ゆえに、日本國の祭り主であられる天皇は、「無私」になって神にまつろい奉る御方であり、神のみ心を伺い、それを民に示される御方であり、民の願いを神に申し上げて神の御加護を祈られる御方である。天皇は神のみ心を実現され、天照大神の神霊を體現される御方である。だから民から天皇を仰ぐときには、この世に生きたもう神すなわち「現御神(あきつみかみ)」あるいは「現人神(あらひとがみ)」と申し上げるのである。

 

 「無私」が祭祀の本質であるから、神のみ心のままの政治、私を無くした政治、これが祭政一致であり、天皇の日本國家統治の本質である。だから、日本國はその長い歴史において、覇者同士による多くの競争が行われ戦いがあったが、「無私」の御存在であられる天皇は、唯一神聖不可侵な御存在として絶対的な御位におられ続けた。

 

 武力によるいかなる覇者も、天皇の「信任」を得ることによってその地位の正統性を得ることができた。天皇を廃して自らが日本國の最高君主になることはなかった。徳川幕藩體制下では、行政権・司法権ともに幕府が掌握していたが、祭祀を根本にした日本國の君主すなわち最高の統治者としての権威は天皇にあった。

 

 これは現代においても同じである。今日の日本の政治制度も、國会において多数を制した勢力の長が与党として内閣を組織するが、彼らは天皇の「信任」を得ることによってはじめて「内閣総理大臣」以下大臣としての地位につき國務を執行することができるのである。 

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2017年6月 8日 (木)

孝明天皇御製を拝し奉りて

孝明天皇御製

 

國の風 ふきおこしても あまつ日を もとの光に かへすをぞ待つ

 

長州藩直目付長井雅楽は、文久元年(一八六一)五月に藩主毛利慶親に提出した建言書・『航海遠略策』で次のやうに論じた。

 

「…御國體相立たず、彼が凌辱軽侮を受け候ふては、鎖も真の鎖にあらず、開も真の開に之無く、然らば開鎖の實は御國體の上に之有るべく、…鎖國と申す儀は三百年来の御掟にて、島原一乱後、別して厳重仰せつけられ候事にて、其以前は異人共内地へ滞留差し免(ゆる)され、且つ天朝御隆盛の時は、京師へ鴻臚館(註・外國使節を接待した宿舎)を建て置かれ候事もある由に候へば、全く皇國の御旧法と申すにてもこれなく候はん。伊勢神宮の御宣誓に、天日の照臨する所は皇化を布き及し賜ふ可(べ)しとの御事の由に候へば、…天日の照臨なし賜へる所は悉く知す(註・統治する)可き御事にて、鎖國など申す儀は決して神慮に相叶はず、人の子の子孫たるもの、上下となく其祖先の志を継ぎ、事を述るを以て孝と仕り候儀にて、往昔神后三韓を征伐し賜ひ(註・神功皇后が朝鮮に遠征されたこと)候も、全く神祖の思し召しを継せ賜へる御事にて、莫大の御大孝と今以て称し奉り候。……仰ぎ願はくは、神祖の思し召しを継がせ賜ひ、鎖國の叡慮思し召し替られ、皇威海外に振ひ、五大洲の貢悉く皇國へ捧げ来らずば赦さずとの御國是一旦立たせ賜はば、禍を転じて福と為し、忽ち點夷(註・小さな外國)の虚喝(註・虚勢を張った脅かし)を押へ、皇威を海外に振ひ候期も亦遠からずと存じ奉り候…」。

 

大和朝廷の頃は、外國との交際も盛んであり、太陽の照るところは全て天皇の統治される地であるといふのが日本の神の御心であるから、鎖國政策は、日本の神の御心に反しており日本の傳統ではないから転換すべきである、そして、外圧といふ禍を転じて福と為し、天皇の御稜威を世界に広めるべきであると論じてゐる。天照大御神の神威を體し鎖國を止めて、海外への発展の道を開くべしといふ、氣宇壮大な主張である。

 

鎖國は、八紘為宇のわが國建國の精神に悖るといふ正論である。この正論は明治維新の断行によって實現した。

 

この長井雅楽の文書は五月十二日に毛利慶親より三条愛(さねなる)に提出された。これをお読みになった孝明天皇は、

 

「六月二日長門藩主・毛利慶親の臣・長井雅楽を以て慶親へたまひたる」と題されて、

 

國の風ふきおこしてもあまつ日をもとの光にかへすをぞ待つ

 

との御製を賜った。孝明天皇は決して頑なな攘夷論者・鎖國論者ではあらせられなかった。わが國の主體性を確立した上での開國・海外発展・外國との和親交際は太古以来のわが國の傳統であると考へられてゐたのである。皇臣・岩倉具視も同じ考へである。岩倉が、孝明天皇を弑逆し奉ったなどといふ説は妄説である。

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2017年6月 6日 (火)

「皇室典範」「皇位継承」「御譲位」という國體に関する根本問題について権力機構が干渉したり何事かを決めてはならない

「皇位継承」「皇室典範改正」「天皇御譲位」について、「天皇・皇族から意見を聞くことは憲法に反する。象徴天皇制のいまの制度ではできない」というのが今日の通説になっているという。『現行占領憲法』第四条に、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定されているのがその根拠になっている。

 

本欄において度々論じているように、「皇位継承」「皇室典範』改定」は、日本国家を体現される御方の「御位」(みくらい)に関する事柄であり他の政治問題とは全く性格を異にする。皇位継承とは、『天津日嗣の高御座』の繼承である。普通一般の国家の国家元首・権力者交代とはまったく次元を異にする。

 

故に権力機構が多数決で決めてはならない。また、『天皇のご意志を伺はなくていい』などという議論は全く間違っている。日本の傳統の根幹に関わることなのであるから、日本の傳統の体現者であらせられる天皇の御意志に添い奉るべきである。

 

内閣・国会という権力機構が決定したことを、陛下に押し付け奉ることがあってはならない。「皇室典範」「皇位継承」「御譲位」という國體に関する根本問題について、「天皇御意思」を全く無視するなどということがあっていいはずがない。

 

『現行占領憲法』第四条の「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と書かれているのは、『現行憲法』上、天皇は権力者ではあらせられないということである。であるならば、天皇は、「権力の制限規範」である「成文憲法」の制約を受けられないのである。天皇は、「成文憲法」を超越した御存在である。

 

天皇は権力者ではあらせられないし、申すも畏れ多いが、天皇は権力機関ではあらせられない。したがって「皇室典範」「皇位継承」「御譲位」という國體に関する根本的事柄について、権力機関たる国会や政府が干渉したり、何事かを決めることは本来出来ないのである。

 

天皇の大御心にまつろい奉ることが日本國民の道義心の根幹である。天皇国日本存立および日本国民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と国民の「尊皇精神」である。神聖君主・日本天皇に「清らけき心」「明けき心」で随順したてまつることが、日本国永遠の隆昌の基礎であり、日本国民の倫理精神の基礎である。私心なく天皇にお仕えする心がもっとも大切である。それは、須佐之男命・日本武尊といふ二大英雄神の御事績を拝すれば明らかである。

 

 

支那の有徳王君主思想は、「君主に徳がなくなり間違ったことするようになればこれを廃する」という思想である。日本の尊皇精神は、「天皇は現御神であらせられ、善悪の論を離れて絶対に尊びたてまつるべし」という至情である。これを「あかき心」(赤誠心)といふのである。「あかき心」とは私心が無い即ち無私の心である。

 

私心なく天皇にお仕えする心がもっとも大切である。それは、須佐之男命・日本武尊といふ二大英雄神の御事績を拝すれば明らかである。

 

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2017年5月27日 (土)

継體天皇の『詔』を拝し奉りて

『日本書紀』「巻十七」に次のようなことが記されている。

 

《継體天皇元年(丁亥五〇七)》「三月の庚申(かのえねさる)の朔に詔して曰く。『神祗不可乏主。宇宙不可無君。天生黎庶。樹以元首、使司助養。令全性命。』(神々をお祭りするには、祭祀主がなくてはならず、天下を治めるには君主がなくてはならない。天は國民を生み、元首を立てて、その本性と天命とを全くさせている。)

 

継體天皇は『詔』において、上御一人・日本天皇のご使命は、日本國の祭祀主であらせられると共に、天下を統治されるお方であらせられること、そして、天の神が日本國民を生みたまい、天皇を國の中心に立て、日本國民の本性と天から与えられた使命とを全うさせているということを示されたのである。この「詔」には、日本國は、天皇を祭祀主・統治者と仰ぐ祭祀國家であるという「祭政一致の日本國體」、そして日本國民はひとしく神の子であるということが端的に示されている。わが國における「元首」とは、決して権力機構の最高権力者(英語で言うと、ヘッド・オブ・ステイト)ではない。祭祀主・統治者即ちスメラミコトの御事である。

 

さらに『日本書紀』には次のようなことが記されている。

《継體天皇元年(丁亥五〇七)》「三月戊辰(つちのえたつ・九日)に、詔して曰く。『朕聞。土有当年而不耕者。則天下或受其飢矣。女有当年而不績者。天下或受其寒矣。故帝王躬耕而勧農業。后妃親蚕而勉桑序。』(男が耕作をしないと、その年は天下が飢饉に陥ることがあり、女が糸を紡がないと、その年は天下が寒さに震えることがある。それ故、帝王自ら耕作を行って人々に農業を勧め、后妃は自ら養蚕を行って人々にそれを勧めさせると聞いている)

 

継體天皇は『詔』において、天皇・皇后が御自ら、耕作と養蚕にお励みになり、日本國の豊穣を祈られるということを示されたのである。この尊い皇室の伝統は、今上天皇・皇后にも継承せられている。まことに有難き限りである。このような國體・國柄はまさに萬邦無比である。まことに有難き限りである。

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2017年5月26日 (金)

楠公の絶対尊皇精神について

以下の文章は、数年前に書いた拙文に昨日と本日の二日間に多少筆を加へたものです。居丈高な筆致になってゐるように思ひますが、ご容赦ください。

 

             〇

 

尊皇精神とは、日本國の祭祀主であられ神聖なる君主であられる天皇への「かしこみの心」である。そしてそれは日本人の道義精神の根本である。自分の意志や思想と一致する天皇を尊ぶことなら誰にでもできる。しかし、自分の意志や思想と異なる行動をされた天皇に対しても忠義を尽くし従い奉るのが真の尊皇であり勤皇である。そのことは、日本武尊の御事績・楠正成の事績を見ればあまりにも明らかである。

 

尊皇精神・勤皇精神の體現者が楠正成公である。日本國民の「楠公崇拝」即ち楠正成を尊崇する心とは、楠公の絶対尊皇の精神と行動に共感する心である。

 

足利高氏軍が兵を率いて九州から進攻して来た時、楠正成は、後醍醐天皇に「比叡山に行幸して頂き、正成も郷里の河内に馳せ下り、畿内の兵を以って淀の川尻をさし塞ぎ、物資の都への流入を断ち、敵を兵糧攻めにして苦しめ、その間に義貞と正成とで敵を挟撃すれば、必ず勝利を収めることができる」と献策した。

 

しかし、その献策は朝廷の容れるところとならなかった。『太平記』によると、正成は「討ち死にせよとの勅定ござむなれ。義を重し死を顧ぬは忠臣勇士の存る処也」と言って、五百余騎で兵庫に向ひ、見事に討ち死にした。

 

『太平記』は、楠公を讃嘆して、「智仁勇の三徳を兼て死を善道に守り、功を天朝に播(ほどこす)事は、正成ほどの者は未だ有らず」と書いてゐる。また、足利高氏側近の武将が書いたとの説がある『梅松論』でさへ、「賢才武略の勇士ともかやうの者をや申べきとて、敵も味方もおしまぬ者ぞなかりけり」と楠公をほめてゐる。かかる楠公の絶対尊皇精神は、後世に大きな影響を与へた。

 

久保田収氏は次のごとく論じてゐる。「明治維新のために活動した多くの志士は、ほとんど例外なく楠公に対する感激と崇敬とを抱いていた。…松陰は『七生説』を作って、正成が七度人間と生まれて國賊を滅ぼすことを誓ったことについて、『楠公兄弟、たゞに七たび生れるのみならず、初めより未だ死せざるなり』といい、『是より其の後、忠孝節義の人、楠公に見て興起せざるものなし。…』となし…人々のこころが楠公に帰一した時に、明治維新は成就したのである。」(『建武中興』)

 

高山彦九郎・有馬新七・真木和泉守保臣など維新の志士たちの楠公仰慕の心は非常に強いものがあった。楠公の絶対尊皇精神が、明治維新の戦ひに挺身した志士たちの精神的基盤であったと言っても過言ではない。

 

久保田収氏は、「楠正成が、わが国史上の英雄として崇拝されて来たのは、その絶対尊皇の精神と行動にある。『太平記』四十巻の中で、近世の人々が最も感動深く読んだものは、正成の活動と忠誠とであった。正成が天皇の御召しを受けて参上し、力強く決意を申し上げたこと、千早の険に拠って、北条氏の大軍を向こうにまわして奮戦し、建武中興の糸口をつくったこと。『七生報国』の志を残して、湊川で戦死したことなど、正成が死生を超越し、一意至誠をもって天皇に捧げた純忠の精神は、読む人に深い感動を与え、正成への憧憬と、その志を受け継ごうとする決意とを生み出したのである。天和二年(一六八二)に亡くなった山崎闇斎の学問の流れを汲んだ若林強斎が、その書斎を望楠軒といって、楠公を崇拝する気持ちを明白にし、正成が『仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし』と申したということに感じて楠公崇拝の心をおこした、と伝えている。強斎は、このことばが『わが国士臣の目当』であると考え、正成を日本人の理想像として仰いだのである。」と論じている。(『建武中興』)

 

正成が「仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし」こそ、わが国の臣民のあるべき態度である。天皇を現御神と仰ぎ絶対の信を寄せることが日本の臣道である。尊皇精神とは、日本国の祭祀主として神聖なる君主であられる天皇へのかしこみの心である。この絶対尊皇精神とその行動が日本国のこれまでの国家的民族的危機を救って来たのである。天皇の御稜威と國民の絶対尊皇精神と行動こそが国家存立の基本である。

 

村岡典嗣氏は、「歴史日本が創造した道徳的價値の重要なものとしては、尊皇道と武士道との二つを、擧げ得る。尊皇道徳は太古に淵源し、我が國體の完成とともに、而してまたその根柢ともなって成就したものである…そは即ち、天皇に對し奉る絶對的忠誠の道徳であって…太古人がその素朴純眞な心に有した天皇即現人神の信念こそは、實にその淵源であった」と論じている。(『日本思想史研究・第四』)

 

葦津珍彦氏は、「戦ひの勝敗をも功業の成否をも無視してひたすらに忠誠を守り、『ただ死ありて他なかれ』との信条に徹して、湊川に散って行った正成公の忠誠の純粋さに、日本人は感動しました。しかしてこの精神が正行公に継承され、三朝五十余年、ただ忠に殉ずることを知って、出世と繁栄とを顧みないで、一門一党ことごとく斃れて行った楠氏の悲史に対して、日本人は感激し、ここにこそ忠誠の典型があると感じました」「楠公は、建武以前には赫赫たる功業を樹てたが、足利との戦ひに於ては、一敗地にまみれて、その戦ひは有効な成果を生みえませんでした。だが一敗地にまみれて果てし湊川の楠公を最高の忠臣と仰ぎ、そこに最高の感激を感じて来た日本の精神史を、高貴であると信ずるのであります。勝敗は時の運によって支配され、功業の成否は、天によりて定まる人間精神の偉大さ、高貴さは、その勝敗成否に心をうばはれることなく、良心の命ずるがままに忠なることにある」(『楠公論私説』・湊川神社社務所発行「大楠公」所収)と論じてゐる。

 

第二十三代・顕宗天皇はその父君・市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)を殺したまふた雄略天皇をお怨みになり、その御霊に報復せんとされて御陵を毀損しやうとされ、弟君・意祁命(おけのみこと)にそれを命じられた。だが、意祁命は御陵の土を少し掘っただけで済まされた。天皇がその理由を尋ねられると意祁命は「大長谷の天皇(註・雄略天皇の御事)は、父の怨みにはあれども、還りてはわが従父(をぢ)にまし、また天の下治らしめしし天皇にますを、今単(ひとへ)に父の仇といふ志を取りて、天の下治らしめしし天皇の陵を悉に破壊りなば、後の人かならず誹謗(そし)りまつらむ」(『古事記』)と奉答された。

 

如何に悪逆非道の天皇であると思っても、天皇に反逆してはならないというのがわが国の尊皇精神なのである。この事が日本国の太古以来の道義精神の基本であったからこそ、意祁命(おけのみこと)は、顕宗天皇に對し奉り「後の人かならず誹謗(そし)りまつらむ」と言上したのである。絶対尊皇精神は太古以来の伝統である。

 

本居宣長は、「から國にて、臣君を三度諌めて聽ざる時は去といひ、子父を三たびいさめて聽ざるときは泣てしたがふといへり、これは父のみに厚くして、君に薄き悪風俗也。…皇国の君は、神代より天地と共に動き給はぬ君にましまして、臣下たる者去べき道理もなく、まして背くべき道理もなければ、したがひ奉るより外なし。なほその君の御しわざ悪くましまして、従ふに忍びずと思はば、楠主の如く、夜見の國へまかるより外はなきことと知べし、たとひ天地はくつがへるといふとも、君臣の義は違ふまじき道なり…然れば君あししといへ共、ひたふるに畏こみ敬ひて、従ひ奉るは一わたりは婦人の道に近きに似たれ共、永く君臣の義の敗るまじき正道にして、つひには其益広大なり。」(『葛花』)と論じている。

 

天皇は現御神であらせられ絶對的に尊ぶべき御存在である。もしも、万が一、天皇の御心や御行動が、自分の考へや思想や理想と異なることがあっても、天皇陛下を批判する事は絶對にあってはならない。むしろ自らの祈りが足りないことを反省すべきである。天皇陛下が間違った御命令を下されたり行動をされてゐるとたとへ思ったとしても、國民は勅命に反してはならずまして反對したり御退位を願ったりしてはならない、如何にしても従へない場合は楠正成の如く自ら死を選ぶべきであるといふのが、わが國の尊皇の道であり、勤皇の道であることを、本居宣長先生は教へられてゐる。

 

ただし、上御一人に対し奉り諌め奉る事を全面的に否定してゐるとは思はない。三度までは諌め奉り、どうしてもご翻意なき場合は、泣きて従ふのが日本天皇に対する臣下国民の道である。

 

捨身無我の絶対尊皇精神がここに説かれてゐる。これが日本人の道義精神の極地である。これを「恋闕心」と言ふ。恋闕心とは、宮闕(きゅうけつ・宮殿・宮城・宮門・)を恋ひ慕ふ心のことである。ただひたすらなる尊皇の思ひである。

 

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2017年5月23日 (火)

『禁中並公家諸法度』と『現行占領憲法』

 

敗戦後、天皇の統治大権は連合國最高司令官の隷属下にあった。昭和二十年八月十日『ポツダム宣言』を受諾するにあたってわが國政府がアメリカに対し「ポツダム宣言の条項は受諾するも、天皇の國家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に受諾す」との最後の申し入れを行ったのに対し、アメリカのバーンズ國務長官は「天皇および日本國政府の國家統治の権限は、降伏条項實施のため、必要と認むる措置をとる連合國最高司令官の制限の下に置かれるものとする」と回答してきた。

 

「制限の下に置かれる」といふのはあくまでも日本外務省の訳語であって、英語の原文は「subject to」であり、正しい訳語は「従属の下に置かれる」あるいは「隷属の下に置かれる」である。

 

三潴信吾氏は、「(バーンズ回答は)戰時國際法に基く彼等の權利を示したものである。この『従屬』の意義を明確にすべきであって、これ、政府が國民の憎悪感を和げんとして『制限』と譯し、『日本國憲法』は單に一部機能を制限された日本の主権の下に、少なくも日米合作で制定したものの如く擬装したことは言語道断である」(『日本憲法要論』)と論じてゐる。

 

また、同年九月六日付の米國政府の『マッカーサー元帥あての指令』に「一、天皇および日本國政府の國家統治の権限は、連合國最高司令官としての貴官に従属する。…われわれと日本との関係は契約的基礎の上に立つものではなく、無条件降伏を基礎とするものである。…二、日本國の管理は、日本國政府を通じて行われる。ただし、これは、そのやうな措置が満足すべき成果をおさめうる限度内においてとする。このことは、必要があれば直接に行動する機関の権利を妨げるものではない。」(桶谷秀昭氏著『昭和精神史』より引用)と書かれてゐる

 

以上の事實によって、天皇の統治大権が連合國最高司令官たるマッカーサーの従属下にあったのは明白である。ただし、この場合の「統治大権」とは『大日本帝國憲法』第四条の「統治権力」であって、信仰共同體日本の祭祀主たる天皇の御統治といふ信仰的精神的権威と御権能までが、マッカーサー連合國最高司令官の隷属下に置かれたのではない。それは、征夷大将軍が「統治権力」を行使してゐた徳川幕藩體制下においても、天皇が日本國の祭祀主としての精神的信仰的君主の権威と御権能を保持されてゐたのと同じである。

 

徳川幕府は、元和元年(一六一五)七月十七日『禁中並公家諸法度』(『禁中方御条目』ともいふ)を定めた。徳富蘇峰氏は「(『禁中並公家諸法度』は)公家に向かって、その統制権を及ぼしたるのみでなく、皇室にまで、その制裁を及ぼしたるもので、いわば公家はもとより、皇室さえも、徳川幕府の監督・命令を仰がねばならぬ立場となったことを、法文上において確定したものだ。すなわちこの意味において、武家諸法度に比して、さらに重大なる意義がある」(『近世日本國民史・家康時代概観』)と論じてゐる。

 

その第一条には、「天子諸藝能の事。第一御學問なり。」と記されてゐる。そして「和歌は光孝天皇より未だ絶えず。綺語たりと雖も、我が國の習俗なり。棄置く可からず」などとも書かれてゐる。

 

徳富蘇峰氏はこの条文について、「天皇は治国平天下の学問を為さず、ただ花鳥風月の学問を為し給うべしとの、意味にて受け取るを、正しき解釈とせねばならぬ。」(同書)と論じてゐる。

 

肇國以来、天皇の御地位は、本来成文法の規定を超越してゐる。わが日本は國家の本質と君主たる天皇の御本質が建國以来、信仰的に厳然と確立してゐる。成文憲法でそれを変革することはできない。日本天皇が日本國の君主・統治者であらせられるのは、日本の傳統信仰・歴史的な國體観念に基づくのであって、成文法に規定されてゐるからではない。つまり天皇及び皇室そしてそれを中心とする日本國體は憲法などの世俗的な法律を超越しており、憲法などの世俗の成文法は、皇室にかかはることに干渉することは本来できない。

 

成文法おいて、天皇の御事が具體的に記されたのはこの『法度』が初めてであるといふ。天皇と朝廷はこの『法度』によって幕府の制定した成文法の枠組みの中に入れられてしまった。「御學問第一」などといふことをあへて成文法化して規定した上に、日本國の君主であらせられ統治者であらせられる天皇本来の國家統治の御権限については何も記されゐないのは、天皇が「政治的権力」を有してをられないない事を「成文法」として規定したものである。すなはち、「天皇は實際の政治権力には関与されず、ただ宮廷において御學問をされておればよい」と読むのがこの『法度』の正しい理解であらう。天皇の統治大権は、幕府権力によってそれこそ制限されたのである。この『法度』の實際の制定権力である江戸幕府への「大政委任」の成文法的根拠を与へた。

 

このやうに見て来ると、『禁中並公家諸法度』は、外来権力ではないが武家権力によって「制定」せられた点、およびその内容が日本國體を隠蔽してゐるといふ点において、『現行占領憲法』と似てゐる。『禁中並公家諸法度』は江戸時代を通じて一切改訂されなかったが、徳川幕府が打倒された後、まさに無効となった。『現行占領憲法』も、『禁中並公家諸法度』と同じく、講和発効・占領解除後に当然無効となってゐるべきである。

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今上陛下の「お言葉」を拝し奉りて

今上陛下が、昨年八月国民に対して発せられた「お言葉」で、「本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います」と仰せられた。

 

これに対して、「天皇に私無し」「天皇は無私の御存在」であるから「個人として」などと仰せられるのはおかしいと主張する人がいる。私はこうした「天皇批判」に大きな違和感と言うか怒りをおぼえる。

 

今上陛下は、「天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」と仰せれられているのである。つまり、「現行占領憲法」第四条に「国政に関する権能を有しない」と規定されているため、憲法上の「現行の皇室制度」についてもご意見を表明されることはできないとのお考えのもとに、敢て「個人として」と仰せになったのである。別の言い方をすれば「個人として」と仰せになるしかなかったのである。

 

私をして言わしむれば、日本国において、今上陛下ほど「無私」「私無し」の生き方を為されている方はおられない。常に国民の幸福と日本国の安泰そして世界の平和のために、神を祭り、神に祈り、そして国民に寄り添い、国民を励まされている方は、天皇陛下以外におられない。

 

田尾憲男氏は、「現憲法によって『国政に関する権能』を剥奪された天皇には、国政はおろか、皇室の大事な制度変更についての発議権も、また公式に発言する権能も与えられていないのである」(『青年運動』平成二十八年十月十五日号所収論文「君民一致」)と論じておられる。

 

國體を隠蔽した「現行占領憲法」にがんじがらめにされている天皇陛下がご自分の御意思を国民に向かって表明される際、「個人として」と仰せにならざるを得なかったのである。我々臣民は、そういうことをそれこそ、慎んで忖度させて頂かなければならない。

 

さらに言えば、「個人としての天皇」は、「現行占領憲法」に規定された「地位」としての「天皇」ではないということである。

 

「個人」とは、「一人の人」という意味である。天皇陛下が仰せになった「個人」とは「上御一人」の意味であると拝し奉るべきである。上御一人・日本天皇は日本国の祭祀主であらせられる。「祭祀」「神祭り」を行わせられる「天皇」は「祭祀」の本義からも本質的に「無私」の御存在であらせられる。

 

「現行占領憲法」に規定された「地位」としての「天皇」ではなく、上御一人・祭祀主としての「お言葉」はまさに「みことのり」である。

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2017年5月15日 (月)

天皇・皇室と和歌

和歌は伝統の継承と創造とは一体である。歌を詠む人は、先人の和歌を手本として学ぶ。和歌の原点を常に顧みながら新しい創造を行なってきた。即ち伝統と創造が一体になってゐる。ここに和歌文学の特質がある。日本人は伝統の継承から創造を学んだ。和歌はその典型である。伝統と創造が渾然一体となっているのが和歌である。

 

これは、皇位継承・伊勢の神宮御遷宮と相似である。日本天皇の肉身はやがてお隠れになられるが、皇位は不滅であり皇統連綿であり萬世一系である。先帝がお隠れになると新帝が即位の大典を執行され大嘗祭を行はれることによって、新しき肉体であらせられながら邇邇藝命以来の皇統を継承される。伊勢の皇大神宮は、御祭神の天照大御神の御神霊は永遠であるが、神殿は二十年ごとに造り替へられる。

 

伝統を継承しながら、常に新たなる生命が甦るといふのが、わが国の皇位であり、伊勢の神宮であり、和歌なのである。これは他国には見られないわが日本の特質である。わが國の國體は万邦無比である。

 

和歌は天皇・皇室を中心に継承されて来た。古来、わが国に於て幾度か『勅撰集』が編纂され撰進された。和歌の中心に常に天皇が存在し、和歌集の多くは勅撰によって成立した。

 

天皇の国家統治の基本に和歌がある。和歌は天皇の国家御統治と一体である。天皇国家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の御心を民に示し、民の心を天皇が知り給うために実に和歌が重要な役割を果たしたのである。天皇の国家統治は和歌とは切り離し難く一体である。天皇の国家統治は、西洋や支那の皇帝・國王のように権力・武力によって国民と国土を支配するのではない。日本天皇は、まつりごとと和歌といふ二つの信仰的精神的営為によって国民と国土を統治されるのである。

 

本居宣長は「もののあはれを知るといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも国をも治むべき道にわたりぬべきなり。…民のいたつき、奴のつとめをあはれとおもひしらむには、世に不仁なる君はあるまじきを云々」(『源氏物語玉の小櫛』)と論じてゐる。

 

宣長は「もののあはれを知る」心が日本人の道義精神の原理であり、さらには政治の原理であるとしてゐるのである。天皇が和歌を詠ませられるとともに、『勅撰和歌集』の撰進が行はれたのは、まさに天皇が「もののあはれを知る心」を養ひたまひことを国家統治の基本とされたといふことである。

 

日本人の思想精神を正確に自己にものとするには、古代から現代に至るそれぞれの時代に生きた人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を読むことによって可能となる。

 

中河与一氏は「和歌が国風(註・飛鳥・奈良・平安初期にかけての唐風文化に対して、平安中期から後期にかけてみられた、主に公家を中心とする文化活動の総称)と呼ばれて来たったことには深い理由がある…和歌こそその発想に根本於て、わが民族の生命と共にある…時代が進めば進むほど、古代と現代とを結ぶものとしての和歌の意味はむしろ重大になってくると考へられる。ヨーロッパでは叙事詩がまづ存在し、抒情詩がそれにつづいた。然し抒情詩こそ人間感情に最も直接的なものであり、日本人はその根本的なものから詩歌を始めた。それは情緒の表出、感情の爆発として特色をもち、人間感情を直接に訴へるものとしてのその形式を持続した」(『中河与一歌論集』)と論じてゐる。

 

今日の日本は、文字通り内憂外患交々来るといった状況である。かうした状況にあって、我々の維新の情念を伝統的な文學によって訴へる「言靈のさきはへ」が今こそ必要なのである。和歌の復興が大切である。現代日本において和歌を詠む人は多いが、変革の情念、特に日本人の深層精神において継承して来ている民族の共同精神を表白し訴へるものとしての和歌を詠んでゐる人は少ない。真の意味において和歌が復興した時代こそが維新の時代であるといっても過言ではない。維新を目指す我々は、和歌の力といふものの偉大さを今こそ実感すべきである。

 

そもそも愛国心・尊皇心は抽象的人工的な「理論」「理屈」ではなく、この日本に生を享け、日本に生きる者が抱く素直な感情であり自然な心である。さらに言へば日本人の「道」であり「まごころ」である。したがって愛国心・尊皇心は理論や教条によって表現されるよりも、和歌によってよく表白されてきた。現代に生きる我々は古人の歌によってその志・まごころ・道を学ぶべきである。

 

今こそ危機を脱出する方途として、単に政治体制の革新のみではなく、国民精神の革新・日本の伝統精神の復興を期さなければならない。そしてその中核が和歌の復興なのである。

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