2019年7月 4日 (木)

聖帝の意義

 『古事記』には、仁徳天皇の御世を聖帝の世と言うと記されている。仁徳天皇は、高い山に登って四方の国をご覧になり、「国の内に炊煙が立たないのは国民が貧しいからだ。これから三年間国民から税金を取るのをやめよう」と仰せられた天皇で、聖帝と讃えられた。

 日本思想体系『古事記』の「補注」において佐伯有清氏は、「(聖帝の仼)『聖』とは、耳と呈(貞即ち正)から成り、耳聡く聞き分ける人、神秘的な洞察力のある人物。農耕社会では時候の推移を洞察して農事を指導することが、対立する主張を聴取して調整することと共に、王たるべき者の責務であるから、聖と王とは結びつきやすい」と論じている。

また『角川当用漢字字源辞典』(加藤常賢・山田勝美著)によれば、「意味を表わす『耳』と『口』と、音を表す『壬』とからなる形声字。…耳の穴がよく開いていて普通人の耳に聞こえない神の声の聞こえる意。…古代社会においては、普通人の聞きえない神の声を聞き分けうる人を『聖』と呼んだものであろう」という。

 一般人が聞きえないことを聞く人というのは、聴覚器官が普通の人より発達している人ということではなく、神霊の声を聞く人ということであり、祭り主ということである。神の声を聞いて民に伝え、民の声を聞いて神に申し上げるという神と人とをつなぐ役目を果たされる祭り主が天皇のなのである。

 また、<やまとことば>の「ひじり」(漢字では聖と書く)とは、「日を知る人」の意であるという。日とは文字通り太陽のことであり、天体の運行に通暁している人のことである。天体の運行即ち暦は農業にとってきわめて重要である。これを知っている人は農耕国家の君主たる資格を持つのである。また「日」は「霊」であり、「ひじり」は「霊力を有する神聖な存在」という意味でもある。

 『萬葉集』に収められた「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麿朝臣の作れる歌」という長歌の冒頭に、「玉だすき 畝傍の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを…」とある。これは「(『玉だすき』は畝傍にかかる枕詞仼)畝傍の山の橿原に都を開かれた日知りにまします(神武天皇の仼)御代以来、(『つがの木』はつぎにかかる枕詞仼)この世に降臨された現御神はことこどくみな天下を御統治になられたが…」というほどの意である。ここにも「日知り」という言葉が登場する。本居宣長は、「日知り」を「日の如くして天下を知らしめすといふ意なるべし」としている。「日の神・太陽の神の如くわけへだて無く天下を統治される天皇の御代」を「日知りの御代」と言ったのである。

 仁徳天皇と同じように聖帝とお讃え申し上げる昭和天皇陛下は、
 
 さしのぼる朝日の光りへだてなく世を照らさむぞ我がねがひなる

 とお詠みになっておられる。これは文字通り、<日の御子><現御神>としての神人合一の無上の御境涯を高らかにお詠みになった尊い御製であると共に、「昭和天皇は、昭和二十一年元旦の詔書において『人間宣言』をされ、天皇は神から天皇になった」などという議論が全く誤りであることを証明する御製である。 

 ともかく、日本伝統の「ひじり」についての考えと支那の「聖」という字の意義とが結合して「聖帝」という考えが生まれたのである。

 このように民の心を知りたまい(しろしめす)聞きたまう(きこしめす)ことが天皇の国家統治の基本なのである。 

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2019年6月28日 (金)

日本天皇の改元と支那皇帝の改元との決定的相違は、「天命思想」との関はりにある

日本天皇の改元と支那皇帝の改元との決定的相違は、「天命思想」との関はりにある。瀧川政次郎氏は、その著『元號考證』において、「東洋諸國における元号のおこりは中國であって、元号の始まりは、周末の春秋戦國の時代に顕現し、元号に吉祥の文字を加えた年号は、前漢の時代から現れるに至ったが、その元号を生んだものは、漢民族に固有なる天命思想である。天命思想というのは、地上の帝王なるものは、至高唯一の神格を持つ天(彼の蒼々たる天に非ずして、北極の紫微星を宮居とすると信ぜられている昊天上帝、略して天帝)より蒸民(一般の人民)を化育せよとの委任命令を受けて、宇内(天下とも四海ともいう限られざる地域)に君臨するものであるという思想であって、古代社會に共通なる帝王神権説の一種である。…天命を受けた中國の帝王は、地上すなわち空間を支配すると同時に、時間(暦日と昼夜の時刻)をも支配するものであるとすることである」と論じてゐる。

支那の帝王は「天の命令」によって地上を支配するといふ思想と、上御一人日本天皇が「天照大神の御神勅」によって地上を統治あそばされるといふ思想は似て非なるものがある。そもそも支那の上帝と天照大神をはじめとする日本の天つ神とは異なる。同じやうに「天命思想」と名付けられてゐても、わが國のそれと支那のそれとは全く異なる。

山崎闇斎(江戸初期の朱子學者、神道家。朱子學の日本化に努め、門弟は数千人を数へた。また、神道を修め、垂加神道を創始し、後世の尊皇運動に大きな影響を与へた)門下の玉木清英(あるいは正英)は神話時代以来の天皇信仰に基づいて『藻盬草』といふ文章で次のやうに論じた。「異國(注・支那の事)には大君の上に天帝あり。敕命の上に上天の命あり。吾國の大君は、所謂天帝也。敕命は所謂天命と心得べし。假令へば天災ありて、大風洪水或は時疫流行して人民多く死亡に至ると雖も、一人も天を怨むる者なく、下民罪ある故に、天此災を降せりとして、反て身を省る、是常に天帝の清明なるを仰ぎ尊む故なり」。

村岡典嗣氏はこの文章について「(絶對尊皇道徳思想の)最も代表的なものを、山崎闇斎を祖とする垂加神道の所説とする。曰く、日本の天皇は、支那に比すれば天子でなくて天そのものに當る。儒教の天がわが皇室である。儒教でいへば、大君の上に天命がある。勅令の上に天命がある。しかるに我國では、大君なる天皇は即ち天帝であり、勅命はやがて天命である。されば假に君不徳にましまして、無理を行はれるといふやうなことがあっても、日本では國民たるものは決してその爲に、天皇に背き奉り、また怨み奉るべきでないことは、恰かも天災がたまたまあったとて、ために支那に於いて、天帝に背き、また天帝を恨むべきではないとされると同様である」と解釈し、「これまさしく、わが國民精神の中核を爲した絶対對尊皇思想である」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。

祭祀は「神人合一」の行事であり、祭りを行ふ者は「私」を無くして神にまつろひたてまつる行事である。その最高の祭祀主が、天皇であらせられる。即ち、祭祀主日本天皇はわが國において最高の無私のご存在であり、清らけく明らけきご存在である。

天皇が無私・無我となって神を祭られる祭祀主であらせられるといふことは即ち、天皇が地上における神の御代理即ち現御神であらせられるといふことである。そしてそのことは天皇が日本の伝統精神の体現者であられせられるといふことである。だから、天皇の御意思を「大御心」と申し上げる。

支那の有徳王君主思想は、「君主に徳がなくなり間違ったことするやうになればその君主を廃する」といふ思想である。

これに対して、日本の絶対尊皇思想は、「天皇は現御神であらせられ、善悪の論を離れて絶対に尊びたてまつるべし」といふ至情である。これを「あかき心」(赤誠心)といふのである。

「あかき心」とは「無私の心」である。「丹(あか)き心」とは、「赤心(せきしん)」であり、誠實、偽りのない心、まごころ、美しい心、きれいな心、清い心、まことの心である。すなはち日本精神の骨髄たる「清明心」である。

和辻哲郎氏は「彼(注・山崎闇斎)によれば、國常立尊は大極で天之御中主神と同体異名であり、また外宮の神である。『國常立と云(まう) す時、帝王の始祖神也、帝王より出たる系図の人は、神拝に其心得あるべし。天御中主と云す時は、万姓の元祖神也、其心を持て万人拝すべし』(『神道族秘伝問答』)…無形の形たる宇宙の原理を『一神』即ち國常立尊とする根本の立場…」「(吉川惟足は『神道大意』で・註)『儒佛或はバテレンが道と雖、本此一元より起れり。其ほどこす所は各土地の風に依て教へり、理に於て異なる事なし。…理に天竺、漢土、日本の差なし、然ども事は大に隔別なり。』宋の形而上學を神道の基礎づけに用いている点においては、羅山と同じ立場に立つといってよい。闇斎の説は神道を儒教から理解するのではなく、神道自身から理解しようとする立場の先駆をなす…その先駆的な意義は、形なき普遍的な原理と、神話的特殊形態との、直接的統一を把捉したところにある…。」「闇斎は神代巻の巻頭に解釈を加えて、『此処に所謂神聖は、天人を合せて云へり、是大元の尊信神にして、則ち帝王の御大祖、御人体御血脈の本源と拝み奉る御事也。』『この神(國常立尊)は正しく造化の神にて在ますと、直に御人体の御神と拝み奉る御事に侍る。葦芽の最初より國土成定て後、いつまでの限り知られず、常磐固磐に國も君も常しなへに立せ給へる御事なれば…』…彼は、神代紀が『吾邦帝王の御實録』であり、『我大君の御血脈の本源』より始めて『天壌無窮の皇統』を明らかにしたものであることを、力説した。…この見解は皇統そのものの内に造化神の血脈を見るのであって、天皇の現神性を天人唯一の説によって基礎づけたことになる。天皇の意義もまたシナの天子とは異ならざるを得ない」(『日本倫理思想史』)と論じてゐる。

竹内式部は、「代々の帝(みかど)より今の大君に至るまで、人間の種ならず、天照大神の御末なれば、直に神様と拜し奉つり、御位(みくらゐ)に即かせ給ふも、天の日を繼ぐといふことにて、天津日繼(あまつひつぎ)といひ、又宮つかへし給ふ人を雲のうへ人といひ、都を天(あめ)といひて、四方の國、東國よりも西國よりも京へは登るといへり。譬へば今床の下に物の生ぜざるにて見れば、天日(あまつひ)の光り及ばぬ處には、一向草木さへ生ぜぬ。然(さ)れば凡そ萬物(よろづのもの)、天日の御蔭を蒙らざるものなければ、其御子孫の大君は君なり、父なり、天なり、地なれば、此の國に生(いき)とし生けるもの、人間は勿論、鳥獸草木に至るまで、皆此君をうやまひ尊び、各(おのおの)品物(ひんぶつ)の才能を盡して御用に立て、二心(ふたごころ)なく奉公し奉ることなり。故に此の君に背くものあれば、親兄弟たりといへども、則(すなはち)之を誅して君に歸すること、吾國の大義なり。況や官祿いたゞく人々は、世に云ふ三代相傳(注・所謂封建的主従関係。例へば将軍と旗本、大名と藩士の間柄を指す)の主人などといふ類にあらず。神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至まで大恩を蒙むる人なれば、其身は勿論、紙一枚絲一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我が身のものと思ひ給ふべからず。わけて御側(おそば)近く奉公し給ふ人々は、天照大神の冥加にかなひ、先祖神靈の御惠みに預かり給ふ御身なれば、いよいよ敬まひかしつき奉る心しばらくも忘れ給ふべからず」「吾君(わがきみ)は眞に神といふこと返す返すも忘れ給ふべからず、然るを淺(あさ)はかに心得、君を怨みねたむ人は、其身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推(お)しては天下の亂にも及ぶ事、古今其例多し。愼むべし。楠正成の言葉に、君を怨むる心起らば、天照大神の御名(みな)を唱ふべしとあるも、天照大神の御恩を思ひ出さば、則(すなはち)其(その)御子孫の大君たとひ如何なるくせ事仰せ出さるるも、始めより一命さへ奉り置く身なれば、いかで怨み奉る事あるべきや」「皇后に奉公し給ふも同じ事なり、皇后は大君と並び給ふ御方にて、天地陰陽日月とならび給ふ御方ゆゑ、君と同じく敬ひ給ふべし」と論じてゐる。

この竹内式部の尊皇思想について葦津珍彦氏は、「ここでは人間は無論のこと、鳥獣草木にいたるまでのものが、勤王でなくてはならず、天皇は宗教的神そのものであると断ぜられている。それはまったく人間関係を超絶せるものであって、三代相伝の主人(封建武士階級の君主)と臣下との人間対人間の忠誠関係などというものとは、まったく類を異にする、異質のものだというのである。…忠の対象たるべき天皇は、天そのものと同一視され、人間ではなくして、天そのものとなり、逆に人間関係としての封建的忠誠は、その類にあらず、として蔑視されてしまうことになる」(『萬世一系と革命説』・「天皇―日本のいのち」所収論文)と論じでゐる。

天皇と民との関係は、決して人間と人間との関係ではなく、天皇は現御神であり、この世に於ける神であらせられる。故に絶対的にまつろひ奉るのが民の道なのである。

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2019年6月23日 (日)

沼山光洋氏の篤い思いが表白されている貴重なる文章

5月11日未明に九段の靖国神社近くの路上で割腹自決を遂げられた沼山光洋氏の原稿を掲載させていただきます。この原稿は小生が編集責任者にさせて頂いている季刊誌『伝統と革新』第二十九号(平成三十年五月発行)に掲載させていただきました。沼山氏の篤い思いが表白されている貴重なる原稿ですので、多くの人々に読んでいただきたいと思い、敢えてご紹介させていただきます。

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天皇陛下靖國神社御親拝祈願

靖國會 靖國忠霊祭事務局長 沼山光洋 

 平成二十八年八月八日異例の天皇陛下の玉音を賜った。その冒頭に「現憲法下での象徴としての立場」とういう御言葉を拝し、即位以来日本国内のみならず海外への行幸啓、慰霊への並々ならぬ御意思を拝見していた小生は、これは天皇陛下が国民に対し、「象徴」「現憲法」に対しての疑問、畏れ多いことだが、残り時間内にどうしたら靖國神社へ行幸することが出来るのか、ということを投げかけられたように感じた。

 行動は言葉より雄弁である。平成十七年サイパンへの行幸啓、平成二十七年パラオ共和国への行幸啓は日本人を感動で包んだ。正に祈りによって民族を導く天皇陛下の御姿そのものである。そしてそれは万世一系のまごころ大御心を天皇陛下という存在が民族に示す行動実践である。

 先帝陛下昭和天皇の靖國神社御親拝は、所謂戦前、戦後あわせて二十八回の御親拝を賜っている。昭和二十二年の現憲法施行後も七回の御親拝を賜る。それが何故昭和五十年十一月二十一日を最後に途絶えてしまっているのか。

 天皇陛下の御存在は権力者ではない、天皇陛下は憲法と法律に縛られ、御自身の御意思を貫くことは非常に難しい。宮内庁をはじめ関係省庁に管理されてしまっている。それでも、昭和五十年までは正しく天皇陛下の御心を忖度できる正しい日本人の側近が多くいた。

 昭和二十七年日本が主権を回復し経済復興を最優先した時代、占領中公職追放によって復権した社会主義者たちが蠢き、国民の生活安定を優先する保守系政治の隙を突き反国家主義者、所謂「天皇制反対」主義者を育てた。反国家主義者の最終目的は「天皇制打倒」であり国家壊滅に他ならない。

 昭和四十年代には「靖國神社国家護持法案」を巡り国会では熾烈な攻防が繰り広げられ、「靖國神社国家護持法案」自体に重大な瑕疵があることなどから保守系からも反対意見が多数出たことから最終的に廃案に追い込まれた。同時期に経済成長を続ける日本とは裏腹に、世界ではベトナム戦争、支那文化大革命という有事も決して無関係ではない。

 昭和五十年代には、昭和五十年五月三日稲葉修法務大臣「自主憲法制定国民会議」出席での「私人」問題、八月十五日三木武夫首相の「私人」発言が公人の「公私」論議に発展し、畏れ多くも天皇陛下の「公私」に至った。それが昭和五十年十一月二十日第七十六回内閣委員会である。

 この十一月二十日とは、戦後三十年の節目に靖國神社御親拝を賜る十一月二十一日の前日である。この御親拝前日という宮内庁をはじめ警備当局関係機関全てが慌しい前日に宮内庁から参考人として出席したのが当時宮内庁次長の富田朝彦氏その人である。富田メモの富田朝彦氏である。富田朝彦氏とはいかなる人物であったか、大正九年生まれ東京帝国大学法学部、海軍主計大尉、戦後内務省、警察庁警備局長を経て昭和四十九年に宮内庁次長に就任した。人となりは分からずとも、経歴だけ見てもエリート中のエリートであることが分かる。そしてその宮内庁次長就任一年足らずの富田朝彦氏を内閣委員会で吊るし上げたのが

野田  哲 社会党参議院議員 岡山県出身福山市役所自治労
秦   豊 社会党参議院議員 愛媛県出身NHKニュースキャスター
矢田部 理 社会党参議院議員 茨城県出身弁護士
の三人である。この社会党の三人が入れ替わり立ち代り優秀なエリートの富田朝彦氏を半ば屁理屈のような言葉で攻め立てた。はっきりと「天皇皇室」を否定し批判する輩の言葉は活字では伝わらない侮辱と挑発に満ちていたはずである。

その悪意に満ちた言葉の攻撃で、翌日に控えた天皇陛下の御親拝を憲法第七条国事行為の確認を持ち出し、お馴染みの憲法第二十条政教分離で御親拝の中止を要求したのである。

 このことが宮内庁、富田朝彦氏のトラウマとなり昭和五十三年に宮内庁長官に昇進し昭和六十三年六月の退任から現在まで、宮内庁の暗黙の了解か明らかな申し送りかは分からないが、間違いなく踏襲され現在に至っている。

富田メモが書かれたとされる昭和六十三年四月二十八日、富田朝彦氏が退任を間近に、天長節を翌日に控え前年から御不例の先帝陛下から労いの御言葉があったと推察される。富田朝彦氏本人はこのメモを公開するつもりなど毛頭無かったはずである。飽くまでも推理であるが、天皇陛下から労いの御言葉を頂戴し、戦後四十年の節目に天皇陛下の御心を知りながら御親拝を実現させなかった罪悪感や贖罪意識が、自己の正当性を裏付けるための葛藤となり所謂「戦犯」合祀を自己弁護のために「天皇陛下が戦犯合祀を不快」という意味合いのメモを書かせたのではないかと思う。もしかしたら富田朝彦氏本人のメモ自体が存在しないものかも知れない。

昭和殉難者の合祀は昭和五十三年秋、その年の春、筑波藤麿宮司の逝去に伴い七月に宮司に就任した松平永芳宮司の英断によって秋季例大祭に合祀申し上げられた。まるで松平永芳宮司が独断で合祀申し上げたようにいわれているが、昭和殉難者の祭神名票は昭和四十一年に厚生省引揚援護局より靖國神社へ送付されていて、崇敬者総代会はすでに合祀を了承していた。つまり、筑波藤麿宮司も合祀は了承していたのである。しかしこの時期「靖國神社国家護持法案」を巡る攻防とベトナム戦争の影響からか合祀に慎重になっていて結局合祀申し上げる前に筑波藤麿宮司は逝去された。

所謂「富田メモ」なるものに出てくる松岡(松岡洋右元外務大臣)白鳥(白鳥敏夫元イタリア大使)は政治家、役人であり軍人ではない。その意味で昭和天皇が「何故?」と疑問を持たれた可能性派は充分あると思うが、祈りの存在であられる天皇陛下が、天皇陛下の御立場で故人を非難することは考えられない。ましてや「天皇陛下万歳」と散華された忠霊の鎮まる靖國神社、明治大帝の思し召しで御創立された靖國神社に鎮まる忠霊を、大和民族を導く天皇陛下が否定することなどありえる訳が無い。全ての原因が前述した昭和五十年十一月二十日第七十六回内閣委員会にあった。
 
現在では、首相や閣僚の参拝に支那中共と韓国の圧力云々が春秋の例大祭、八月十五日で報道されるが、これらは昭和六十年の中曽根康弘から出てきた話で、御親拝中断とは別の問題、新たに出てきたのか、作った問題である。それを天皇陛下の御親拝が途絶えた理由が国内の政治問題であることを公にしたくない勢力が、これ幸いにと利用しているのである。または、自分達の怠慢を誤魔化すために、反日報道機関を利用して支那中共などを動かしたのかも知れない。全て行ったのは、富田朝彦氏を攻め立てた社会党勢力ではない、所謂保守陣営である。

 この保守陣営が「東京裁判史観」に魂を売った昭和五十年代前後には、よど号事件、浅間山荘事件、ダッカ事件、北朝鮮による日本人拉致、教育現場では中学校での校内暴力が発生したのも昭和五十年代である。経済発展を至上の目的としエコノミックアニマルと世界から嘲笑されたのもこの前後である。

 小生は今まで間違っていた。首相の靖國神社参拝が天皇陛下の露払いとなり御親拝への道だと勘違いしていた。総理大臣とは所詮選挙で当選し、政党内での駆け引きで出来上がる俗物である。そんなものの参拝を忠霊の皆様は待ってはいない。忠霊が待ち望まれているのは、大元帥であられる天皇陛下ただ御一人である。忠霊の皆様は、大元帥であられる天皇陛下の御親拝を賜る靖國神社に祀られる、その栄誉と誇りが日清、日露戦争と我が国を護り、大東亜戦争では白人至上主義と戦い、負けはしても國體を護持せしめた。

小生自身が良く口にする台詞であるが「それでも春秋例大祭には勅使の参向をいただいている。勅使は天皇陛下そのものである」と、しかしこの台詞は負け惜しみである。参道で誰も勅使に対し「天皇陛下万歳」を唱えることは出来ない。そしてこの途絶えることの無い勅使の参向、皇族方の参拝こそが大御心なのである。春秋例大祭での勅使の参向、皇族方の参拝は慣例や儀礼ではない。大御心の下途切れることなく継続されている。

天皇陛下の靖國神社への想いは平成十六年南部利昭第九代宮司就任にも充分示された。学習院の後輩で霞会の一員である南部家四十五代当主南部利昭氏は所謂「賊軍」である。宮司就任要請には逡巡があったそうで、就任を辞退するつもりだったらしい。しかし、天皇陛下からの「靖國神社を頼みますよ」の一言で宮司就任を決意なさったそうである。南部利昭宮司就任後の活躍は、靖國神社に変わる「国立追悼施設案」所謂「A級戦犯分祀」に強く反発された。平成二十一年一月七日昭和天皇祭を奉仕奉った後、宮司室で心臓麻痺でお亡くなりにならなければ、南部利昭宮司は今上陛下の御親拝を奉仕奉ったのではないかと思うと非常に残念である。

余談ではあるが、南部利昭宮司は春秋例大祭で三笠宮寬仁親王殿下を到着殿で奉迎申し上げる際に到着殿前で「寬仁親王殿下万歳」と奉迎申し上げる人々の姿に寬仁親王殿下が非常にお喜びいただき、そのお姿に南部利昭宮司は涙を流して喜んでくださった。その「寬仁親王殿下万歳」を唱えていたのが私たち靖國會の有志である。この逸話は南部利昭宮司を偲ぶ会で披露された話である。また、平成二十四年寬仁親王殿下薨去の際には、霊柩車が病院から赤坂御用地へ戻る途中靖國神社中通正中にしばらく停止した。
 
御世代わりまで残り一年、万が一平成の御世に御親拝なき場合、東京裁判史観に毒された勢力は、所謂「A級戦犯」批判を「富田メモ」を後ろ盾に改めて始める。今現在でも、「富田メモ」にある白鳥、松岡と二名の苗字は言わず、「A級戦犯」合祀に天皇陛下が「不快感」を示し、御親拝が途絶えた。と敢えて「A級戦犯」を強調する。すると自然に所謂「A級戦犯」とは東條英機大将をはじめ軍人が思い浮かんでしまう。明確な印象操作とさりげない捏造である。こうして大東亜戦争は所謂「A級戦犯」と軍部の暴走が引き起こした世界に謝罪しなければならない大犯罪へと昇格する。一般庶民は、それほど事細かに検証はしない。日本では、報道機関への信頼度は異常に高い。新聞の見出しで繰り返し「A級戦犯」と活字が躍れば、今現在でも所謂「A級戦犯」は存在してしまう。事実関係は無視し、大気圧のように国民に贖罪意識、罪悪感を植え付ける。

そして同時に所謂「A級戦犯」に「不快感」を持った昭和天皇そしてその意思を踏襲あそばされた今上陛下を平和の象徴とし、靖國神社を根底から否定する。また、忠霊を崇敬する国民には「たった数人の「戦犯」の存在が不快であるから天皇陛下万歳と散華された二百四十六万六千余柱の忠霊を無視する」と天皇陛下を貶め、国民との間に溝を作る。
 
明治維新から百五十年靖國神社御創立百四十九年は正に近代日本が国際社会の中で歩んできた歴史である。人種、宗教、言語の違う民族が発展を目指し覇権を争い衝突を繰り返したのは必然である。そしてこの必然は決して絶えることの無い人類の歴史である。靖國神社を否定するような政治体制、国防に携わる高官が「日本は良い国だった」と、民間に論文を発表し罷免されるような政治体制で、誰が命を賭けて国を護るのか。たまたま七十二年間戦渦に巻き込まれずいただけである。望まぬ災いは必ずやってくる。
 
昨年、平成二十九年の流行語大賞は「忖度」であった。今正に私たち日本人が本当に忖度しなければならないのは、天皇陛下のまごころ、大御心である。繰り返しになるが、天皇陛下は権力者では決して無い。現憲法と法律に縛られている実に御不便な思いをなさっているに違いない。天皇陛下がいかに御望みになられていても御自身の御希望通りに自由に行幸することなど出来ないのである。
 
天皇陛下は靖國神社御親拝を御望みになられている。御親拝実現は、今を生かされている日本人の過去と未来の日本人に対しての責任と義務である。

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2019年6月19日 (水)

井上毅(法制局長官・枢密院書記官長)曰く「皇室典範を以て國會の議に附するときは、人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」

先日も書いたが、六月十五日に、 立憲民主党・国民民主党が、「皇位継承」について「論点整理」とか「皇室典範改正概要」などを出したと報道された。

 

「皇位継承」といふ國體の根幹に関わる神聖なる事柄について、政争と離合集散に明け暮れ、きちんとした国家経綸を確立しているとはとても思えない今日の政党や政治家が、色々と発言したり意見を出したりすることに対して、私は大きな違和感を覚える。

 

皇室に関する事柄を、政府・国会で決めるのは、権力が権威を、俗が聖を、権力国家が信仰共同体国家(祭祀国家)を、政体が國體を規制する事となる。これは國體破壊であると言っても言い過ぎではない。

 

「祭祀國家日本の祭祀主・天皇」に関する神聖なる事柄、即ち「皇位継承」「御譲位」などは、世俗の法律問題・政治問題ではない。「現行占領憲法」が規定する「政治権力作用としての國政」ではない。故に、政治権力や成文法によって、規制し拘束し奉るようなことがあってはならない。天皇陛下の御心によって全てが定められるべきである。

『皇室典範改正』『天皇御譲位』は、天皇國日本といふかけがへのない信仰共同體・祭祀國家の根幹に関はる重大問題である。皇位繼承とは、神代以来の道統を繼承する天皇の御位に関することである。他國の王位繼承・元首の選び方・権力者交代システムとは全くその本質を異にする。

皇位繼承・天皇御譲位・皇室典範改正など皇室に関はる重大事は、神代以来のわが國の傳統を遵守しなければならない。而して天皇は、神代以来の傳統の繼承者・體現者であらせられる。故に天皇の御心を第一にすべきである。

『大日本帝國憲法』第七四条には、「皇室典範ノ改正ハ帝國議會ノ議ヲ経ルヲ要セス」(皇室典範の改正は、帝國議會の議を経る必要はない)と書かれてゐる。また明治天皇が明治二十二年二月十一日に勅定された『皇室典範』六十二条には、「将来此ノ典範ノ条項ヲ改正シ又ハ増補スヘキノ必要アルニ当テハ皇族會議及枢密顧問ニ諮詢シテ勅定スヘシ」と書かれてゐる。

伊藤博文著の『皇室典範』の逐条解説書『皇室典範義解』(明治二十二年六月一日公刊)の「前文」には、「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず。而して将来已むを得ざるの必要に由り其の条章を更定することあるも、また帝國議會の協賛を経るを要せざるなり。蓋し皇室の家法は祖宗に承け子孫に傳ふ。既に君主の任意に制作する所に非ず。また臣民の敢て干渉する所に非らざるなり」と書かれてゐる。

さらに、『皇室典範義解』の第六二條の「註」において「皇室の事は皇室自ら之を決定すべくして之を臣民の公議に付すべきに非ざればなり」と書かれてゐる。

伊藤博文はその著『大日本帝國憲法義解』の「憲法第七四條」の「註」で、「皇室典範は皇室自ら皇室の事を制定す。而して君民相關かるの権義に非ざればなり」と論じてゐる。

また、明治二十一年五月二十五日から六月十五日にかけて、枢密院で『皇室典範』について審議が行はれ、出席者から次のやうな発言があった。

井上毅(法制局長官・枢密院書記官長)「皇室典範を以て國會の議に附するときは、人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」。

山田顕義(司法卿)「皇室典範は特別重大の法典にして尋常の法律命令と混同すべきに非ず。故に別段の勅令を以て之を発布し、普く人民をして之を恪遵(注・忠實に守る意)せしめざるべからず」。

河野敏鎌(枢密顧問官)「(注・『皇室典範』を)公布するとも、別に議院の干渉を容るゝの虞毫厘もあることなし。如何となれば、向来皇室典範を改更することあるも、皇族幷(ならび)に枢密院に諮詢する等の明条(注・『皇室典範』第六二条)あるを以て、更に議院の容喙を許さゞればなり」。 

 

メディアや國體護持の精神は希薄にして離合集散を繰り返す野党、そして視聴率競争、売上部数競争に明け暮れるメディアなどが、皇位継承に等の國體・皇室の重大問題に関して色々と干渉し論議する今日の状況は、まさに井上毅の言った通り「人民相集まりて、皇室の家格を妄議し、却て皇室の尊厳を冒瀆するに至る虞あり」ではないだらうか。

ともかく、『皇室典範』は本来「勅定」であり、國民やその代表者とされる議會などが干渉することはあってはならない。

 

戦後、『皇室典範』が『憲法』の下位法になり、皇室典範改正・皇位繼承・天皇陛下の御譲位といふ皇室の重大事が権力機構である衆参両院で多数決によって決められてしまふようになったのは、重大なる傳統破壊・國體隠蔽であり、厳密・厳格に言へば「國體破壊」への道を切り開くものである。

 

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2019年6月15日 (土)

皇室に関する神聖なる事柄を、政府・国会で決めるのは、権力が権威を、俗が聖を、権力国家が信仰共同体国家(祭祀国家)を、政体が國體を規制する事となる

立憲民主党・国民民主党が、「皇位継承」について「論点整理」とか「皇室典範改正概要」などを出したと報道された。

「皇位継承」といふ國體の根幹に関わる神聖なる事柄について、政争と離合集散に明け暮れ、きちんとした国家経綸を確立しているとはとても思えない今日の政党や政治家が、色々と発言したり意見を出したりすることに対して、私は大きな違和感を覚える。

皇室に関する事柄を、政府・国会で決めるのは、権力が権威を、俗が聖を、権力国家が信仰共同体国家(祭祀国家)を、政体が國體を規制する事となる。これは國體破壊であると言っても言い過ぎではない。

三潴信吾先生は、その著『日本憲法要論』において、皇室典範について、「(現行の・註)皇室典範は…宮務法としてではなく、憲法の下に従属する政務法の一つとして新『皇室典範』が『皇室経済法』の如き法律と共に制定された…皇位継承の事項が法律事項となり、例へば商法の会社法などとも同列に置かれたことは大問題である。皇位継承の事項を、…一般法律の改正手続、即ち、単純多数決(過半数)を以て改変できる事となってゐる。即ち、皇位に関する事項を単なる政治問題として国会の論議に委ねてしまったのである」と論じてをられる。

「皇位継承」「『皇室典範』改定」は、日本國家を體現される御方の「御位」(みくらい)に関する事柄であり他の政治権力問題とは全く性格を異にする。また、皇位継承とは、『天津日嗣の高御座』の繼承である。普通一般の國家の國家元首・権力者交代とはまったく次元を異にする。

ゆゑに権力機構が多数決で決めてはならない。また、『天皇のご意志を伺はなくていい』などといふ議論は全く間違ってゐる。日本の傳統の根幹に関はることなのであるから、日本の傳統の體現者であらせられる天皇の御意志を奉じて決められるべきである。

旧『皇室典範』は、明治天皇が裁定され、制定された。即ち勅定である。議會や政府が定めたのではない。皇室に関はることは、なべて大御心に俟つべきである。一切は大御心のまにまにが、臣下國民のあるべき姿勢である。

日本國體を根幹として成文法があるのであり、成文法の下に國體があるのではない。わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主である。したがって、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」なのである。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる「のりごと」である。祭政一致のわが國の国柄においては、祭祀主たる天皇が神の意志として宣(の)べられた事が最高の「法」と考へられた。

わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。「詔勅」は神の御意志なのである。「皇位」は「天津日嗣の高御座」と申し上げる。これは、「高天原にゐます天照大御神の靈統を繼承される御方の座される高い御位」といふほどの意である。まさに神聖不可侵の「御位」なのである。その神聖なる御位=「天津日嗣の高御座」の繼承のあり方を、権力國家の行政機関や立法機関で決定しては絶対にならない。あくまでも天つ神の御意志・神代以来の傳統に基くべきである。

そして神の御意志・肇國以来の傳統の體現者は、上御一人日本天皇であらせられる。天つ神の地上におけるご代理=現御神であらせられ、神代以来の傳統の繼承者・體現者であらせられる天皇陛下の大御心に帰一すべきである。これが一番大切である。臣下が上御一人に対し奉り、建言し意見を申し上げることはあり得ても、いかなる権力者であらうとも、いかなる立場の者であらうとも、臣下が議論して決めるべきではない。


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2019年5月30日 (木)

天皇陛下と国軍・自衛隊

トランプ大統領が陸上自衛隊の儀仗隊の栄誉礼を受け、整列した隊員を巡閲したとき、天皇陛下は共に巡閲されなかった。何故なのであろうか。大きな違和感を覚えた。政府からもテレビ報道でも何故陛下が共に巡閲されなかったのかの適切な説明はなかった。ある女性キャスターは「天皇は自衛隊に関係ないから」などと言っていた。「現行憲法」下では天皇は「国民統合の象徴」とされている。それでは自衛隊は国民ではないのか。天皇が統合された存在ではないのか。

軍および軍人が順従する対象は、時の政権でもなく権力体制でもない。祭祀主であらせられ、日本の道義精神の体現者であらせられる上御一人を君主と仰ぐ天皇国日本である。この基本が確立していなければ、軍が権力者の恣意によって動かされることとなるし、軍が単なる体制擁護のための暴力装置となってしまふ。
かかる意味において、私欲や党派の利害を超越したご存在であらせられ、無私の精神・清明心の体現者であらせられる天皇が軍の最高統率者であらせられるべきなのである。

戦後、天皇・皇室の文化的中心者としてのお役目や平和を祈られるご精神が強調されたことは素晴らしいことであった。ところがその半面、天皇・皇室と軍との関はり・武との関はりが全く無視され遮断されてきたことについては、小生は大きな疑問を持ってゐる。

戦後日本の「民主化」「非軍事化」「伝統否定」の中で、祭祀主・宗教的権威としての天皇のご本質が軽視され隠蔽され、天皇の祭祀といふ最も大切な行事が「天皇の私的行為」とされてゐる。さらに、天皇・皇室と国軍=自衛隊とのつながりも極端に制限されてゐる。また、天皇陛下が、一般自衛官の前に立たれて励まされることもないと承る。

『現行憲法』に「軍」の規定が無いから、天皇と軍との関係に関する規定もない。

しかし、何処の國も、元首・君主が軍の最高の「統帥者」(実際に軍を指揮するといふのではない栄誉的地位も含めて)である。日本のみがさうであってはならないといふことはないと信じる。

祭祀・生産・軍事といふ国家存立の三大要素の体現者が天皇であらせられる
「まつりごと」「生産」「軍事」といふ国家存立の三大要素が、天皇の国家統治を表象する「三種の神器」の意義である。天皇の御権能、国家統治の御精神は「三種の神器」に示されてゐる。「三種の神器」には鏡=祭祀・政治、玉=豊穣・生産、剣=軍事の意義がある。祭祀・生産・軍事の継承者・中心者・体現者が天皇であらせられる。皇室の道統に「武・軍事」があることを否定することはできない。

わが国傳統信仰において「剣」とは、単なる武器・人斬り包丁ではない。神の力が発現する神聖なる器物である。さらに、「剣」には、武勇・克己の精神が象徴される。剣は、己に克ち、無私の精神を象徴してゐる。

わが国においては、文化・政治・宗教などありとあらゆるものが、わが国におけるもっとも神聖なるご存在であらせられる天皇によってその倫理性・道徳性が保証される。であれば、軍事がその例外であるはずはない。

軍の政治的中立性、生命を賭けて国を守る精神と行動の精神的源泉は、天皇への忠節の心である。わが國における國軍の道義性は、「わが国軍は天皇の軍である」といふ精神から発する。道義を喪失した軍隊は、単なる暴力装置である。覇道精神・強いもの勝ちの精神が支配する軍は、悲劇を招く。

『陸海軍人ニ賜リタル勅諭』に示されてゐる通り、中世以降に武家が台頭し國政を掌握したことは、わが国の本来のあり方ではない。戦後日本のやうに、天皇と軍を全く切り離すことは本来の姿ではない。天皇が政治・軍事・祭祀の大権を掌握されるのが本来のあり方である。それによってわが国の道義が保たれるのである。

天皇を、国軍の尊厳性・道義性の拠り処とし、最高の精神的栄誉的統帥者として仰ぐ「天皇尊崇の精神」が、覇道精神・強いもの勝ちの精神を抑制すると考へる。

憲法改正あるいは自主憲法制定においては、國家の基軸中の基軸を為す天皇の「統治大権」「祭祀大権」「統帥大権」の復権が何よりも先に行はれなければならないのである。これが為されないかぎり真の憲法改正・自主憲法制定とはならない。

高橋紘氏などは、「明治初期に新しい国家を造るにあたって、天皇は陸海軍の統率者・統帥者であらねばならなかったから、天皇は男系の男子とした。女帝であってはさまにならないとした。」「明治以後、男系の男子でなければ皇位につくことあたはずとしたのは、女性では大元帥陛下として軍を統帥できないからだ」などと論じてゐる。畏れ多いが、女性天皇も「三種の神器」を継承され、「剣」のご精神を体現されるのである。女性天皇も軍の統率者であられる。事ある時には男帝女帝の別なく、天皇の御本質・御稜威が発現する。

ただ、戦前の日本軍が「上官の命令は天皇陛下の命令だ」と言って恣意的な命令に部下を隷従させたり、「統帥権干犯」を主張して、政府・議会の意志を陸海軍が全く無視したといふ事があったと伝へられる。かかる事を防ぐためにも、「天皇は国軍の道義的・精神的な統帥者である」といふ事を明確にすべである。

「尊皇」を言ひながら実は天皇のご意志を無視し逆らふといふことは絶対にあってはならないことである。

今日、政治の混乱・道義の低下・外圧の危機が顕著になってゐる。そして人々の心の中に不安と空虚感が広まってゐる。これを克服するためには、日本民族としての主体性が大事になってくる。

わが國の歴史において、日本國民の価値判断の基準は常に、天皇を中心とするわが國體の精神であった。特に政治・倫理・文化・軍など國家民族形成の基本においてしかりであった。大化改新・明治維新の歴史を見て明らかなやうに、急速な変化と激動の中でわが國が祖先から受け継いだ伝統を守り、かつ変革を為し遂げた核は天皇のご存在であった。

近代のみならずわが國の歴史始まって以来、日本といふ統一された國家を体現する核が天皇であった。どのやうな困難な時期においても、日本國家・日本民族が常に伝統を守り統一体としての國家民族を維持し、かつ、新しいエネルギーを結集して國家変革を行った。その中心の核が天皇であった。

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2019年5月28日 (火)

今日思ったこと

昔ある宗教家の方に、「浩宮さまは素晴らしい天皇になられる」と言われたことがあります。まことにそうなりました。有り難いことでございます。

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2019年5月24日 (金)

『五箇条の御誓文』について

日本國體と欧米の権力國家論との結合は不可能である。古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行われる祭祀を中核として、他の地方的な祭祀が全國的に統一されることによって実現したのである。これが天皇國日本の成立である。日本國は権力者の武力によって統一された権力國家ではない。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生まれた國である。

 古代日本の統一とは祭祀的・信仰的統一であり、日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の精神的な共同体である。
 
したがって、日本という國家は権力者が國民を支配するための機関すなわち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國でもない。さらに、天皇國日本は、世界の多くの國々のような征服や革命によって人為的に成立した國家ではない。だからわが國の國体を「萬邦無比」というのである。

「天皇制と民主主義は矛盾する。歴史の進歩にしたがって天皇制はなくなるし、なくすべきだ」と考える人がいる。こうした考えは、悠久の歴史を有する日本國を否定し破壊する考え方である。そして、こうした考え方に妥協して、いわゆる「民主主義」といわゆる「天皇制」を何とか矛盾なく結合させようとする考え方がある。現行占領憲法の「天皇条項」はそうした考え方によって書かれていると言えるのかもしれない。この度の御代替わり、皇位継承の意義深い行事・儀式においても『現行占領憲法』によって伝統が破壊され隠蔽されたところが大いにあった。
 
占領憲法に象徴される「戦後民主主義」(欧米民主主義思想と言い換えてもよい)なるものが如何に日本國を堕落させ破壊したかは、今日の日本の現状を見れば火を見るよりも明らかである。我々は日本を亡國の淵から救い、立て直すために、「戦後民主主義」を根底から否定しなければならない。そして、「戦後民主主義」の否定は、日本の伝統的國家観・政治思想の復興によって行われるのである。言い換えると、日本國體精神が「戦後民主主義」否定の原理なのである。
 わが日本は建國以来、民が「主」の國ではない。天皇が「主」の國である。これが萬古不易のわが日本國體である。ゆえに、日本國は決して「占領軍や共産主義勢力が目指した民主國家」になってはならない。日本國は天皇國である。「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)は決して善でも正義でも真理でもない。日本にとって百害あって一利無き亡國思想である。欧米民主主義を建国以来理想として来た国がアメリカであるが、そのアメリカにおいて黒人の奴隷制が行われていた。

国家を権力機構とみなし、君主と人民は対立する関係にあるとする「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)と「天皇制」との結合などということは全く必要のないことであるし、また不可能なことなのである。

 ただし、わが國體精神・天皇の国家統治は、民の幸福実現を最高の目標としている。国民の幸福の実現こそが天皇の統治の目的である。わが国においては、古代より国民を「おほみたから(大御宝)」ときた。民を尊ぶことが天皇の御統治の基本である。日本伝統信仰おいては、人は神の分け御霊であり、人間は本来神の子として尊ばれるべき存在である。

 御歴代の天皇は、すべて国民の幸福を祈られ、「おほみおや(大御親)」戸しての仁慈の大御心を以て「おほみたから」であるところの国民に限りない仁政を垂れたもうたのである。

 国民の幸福を実現する政治制度という意味で「民主政治」「民主主義」という言葉を使うとするなら、わが國の天皇統治はまさにそういう政治制度を生み出す根幹なのである。天皇中心の國體を正しく実現する事を目的として断行された明治維新の基本的精神は、慶応四年三月一四日、明治天皇が京都御所南殿で、公家、諸侯や百官を率いて天地神明に誓われた『五箇条の御誓文』に示されている。

それは、「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め大に皇基を振起すべし」の五か条であり、民主政治の基本が示されている。

 葦津珍彦氏は「五箇条の御誓文に見られる政治思想そのものは、決して外国の政治学理論によってはじめて教えられたものではなく、いわゆる幕末時代、約二十年の間に、日本人が政治実践の中から、自然成長的に形成されてきた日本人の政治しそうであった。」(『近代民主主義の終末』)と論じている。
 昭和天皇は、昭和五十二年八月二三日、那須御用邸で、宮内庁記者団に対して、「(『昭和二十一年元旦の詔書』の)第一の目的は御誓文でした。神格とかは第二の問題でありました。当時アメリカその他の勢力が強かったので、国民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは、明治天皇の思召しであり、それが『五箇条の御誓文』です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものではない事を示す必要があった」と仰せになられた。天皇の国家統治は、「輸入のものではない民主政治であり民主主義」なのである。

 天皇の国家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の統治は民の心をお聞きになり、民の心をお知りになる事が基本である。そしてそれは議会によって実現する。ゆえに、明治維新断行後において、帝国議会が開設され『大日本帝国憲法』が施行されたのである。

近代に於いてのみならず、古代日本においても、国民のために政治が天皇の統治によって実現していたのである。『日本書紀』の「仁徳天皇紀」には次のように記されている。「天皇の曰はく、『其れ天の君を立つるは、是百姓(おほみたから)の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢ゑ寒(こ)ゆるときには、顧みて身を責む、今百姓貧しきは、朕(われ)が貧しきなり。百姓富めるは朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは』とのたまふ。」

 天皇が国民の幸福を祈られる祭祀を執行され、国民は天皇の大御宝であるという事が正しく実現され、萬機は公論によって決せられるという体制が真に確立する時、国民のための政治即ち民主政治が、言葉の上においてではなく、実際政治に於いて正しく実現するのである。天皇のまつりごとにこそ、真の民主政治のである。

天皇は常に国民の幸福を祈られ、天皇統治とは国民を意志をお知りになることが基本である。わが國は天皇が民の幸福をわが幸福とされ民の不幸をわが不幸とされる君民一体の国柄である。これこそ真の民主政治でなくして何であろうか。

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2019年5月23日 (木)

天皇の「祭り主として神聖性」「おほらかなる君主として國民を統治される真姿」の回復

私はその「戦後民主主義」自体を疑ってかからないといけないと思ふ。民主主義とは「國民主権」と同義語であるやうだ。しかし、わが國の本来の姿は、建國以来天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀國家・信仰共同体である。天皇と國民は権力関係・支配被支配の関係にあるのではない。「主権が國民にあるか君主にあるか」といふ西洋國家観はわが國にはあてはまらない。したがって、主権者は國民であるなどといふ戦後民主主義はわが國の國體に合致しない。

 

日本を弱体化する目的で押し付けられた「現行占領憲法」には「天皇は、日本國および日本國民統合の象徴であり、その地位は主権に存する日本國民の総意に基づく」と規定されてゐる。

 

天皇がなにゆゑ日本國及び日本國民統合の象徴であられるのかが書かれてゐない。「天皇・皇室は國民統合の象徴である」といふ条文は「天皇の空間的統一性」をある程度表現してゐるとは思ふが、天皇・皇室は神話時代以来の傳統を継承されるといふ「天皇の歴史的傳統性(時間的連続性)」は全く記されてゐない。

 

心の底では「天皇制などなくなってしまった方が良い」と思ってゐても、「天皇制支持」が八十㌫を超える今日、なかなかそれを言ひ出せない連中による「天皇及び國體を何とか無化しやうとする策謀」が渦巻いてゐる。『朝日新聞』はその元凶である。

 

さうした状況における「日本弱体化のために國民の皇室尊崇の心を希薄化しやうとした占領政策」にのっとった皇室論、そしてそれに便乗した左翼勢力の「天皇制打倒」を目的とする皇室論は厳しくこれを否定すべきである。

 

「現行憲法」上の「象徴」といふ地位は一体いかなる存在なのか。國民統合の「象徴」であられる以上普通一般の人間ではない。しかし、民主主義國家であり主権は國民にあるのだから、天皇は一般國民の上に立つ存在ではない。しかも、一般人よりも道義的道徳的に優れた存在でなければならない。その上、自由な発言される事も許されない。

 

皇族をこのやうなお立場に囲ひ込み、がんじがらめにし奉ってゐるのが、今日の「象徴天皇制」なのである。政治家と官僚の非人間的な「操り人形」として扱はれる状況が、今日の皇太子殿下のご発言になったのではないか。

 

桶谷秀昭氏は、「『たとへば勇気でも親切でも、私たちがさういふ抽象的な属性の<象徴>たらうとすれば、全生活をあげてそれにならうとする結果、身動きのできぬ非人間的な存在にならざるを得なくなるだらう』と言ったのは、福田恒存である。つまり、『象徴』といふ概念は、天皇を神格化しないが、非人間化を強ひるものである。天皇は一度も人間になってゐない。大衆社會のとどまることを知らない卑俗化に耐へ、なほかつ『象徴』なる規定によって非人間化を強ひられてゐるのが、今日の『象徴』天皇である。皇太子殿下が、『人格を否定するやうな動き』といはれたのは、宮内庁の中の誰かが雅子妃殿下に嫌がらせを言ったとか、いぢめたといふ次元の問題ではないであらう。だから『動き』といはれたのであらう。この『動き』は、多分、皇室の傳統や慣習とからみあって、『象徴』規定にあいまいさに無自覚な人間たちの、悪意のない非人間化の意思を指してゐるのであらう。悪意がないだけに、それは一層残酷な効果をもつのである。」(『諸君』平成十六年七月号「わざはひの根としての『象徴』規定」)と論じてをられる。

 

現御神日本天皇及び日嗣の御子としての御本質に立ち返っていただくことが基本である。

 

古代の天皇様は現御神(生きたまふ神)として崇められつつ、人としてもきはめて自由に行動されてゐた。天皇の最大の御使命である祭祀とは、神人合一の行事である。「神人合一」とは「人にして神・神にして人」といふことである。天皇は、「人にして神・神にして人」であらせられるのである。

 

この場合の「神」とは一神教のゴッド・宇宙創造神・絶対無謬の唯一絶対神ではない。天地自然に宿りたまふ八百萬の神々であり、太陽神であるとともに皇室及び日本民族の祖先神=天照大御神である。「天皇が現御神である」とは、天皇が唯一神・全知全能の神・絶対無謬神だといふ事ではない。天皇が祭祀國家・信仰共同体日本の祭り主といふ「人として最も尊い御存在」であるといふことである。

 

また、祭り=神人合一とは、一切の「私」を禊祓ひ去って生成の根源に帰ることであり、「無私」こそが「祭」の窮極である。したがって、天皇の本質は「無私」なのである。無私だからこそ現御神といふ最高に尊い御存在となられるのである。

 

猪瀬直樹氏はかつて「朝まで生テレビ」で、「天皇家に意味があるとすれば、天皇が無私=ゼロ地点にあるので、みんなが欲望で生きてゐる時に、さういふ人がお祈りをしてゐるのだなあといふことがある種の秩序になってゐる」と述べたが、ほぼ正しい見解である。

 

天皇が國民を統合される尊貴な御存在であられるといふことは、天皇は神にして人であらせられるといふことである。天皇が日本國の祭祀主であらせられることが、天皇が國家國民の統合の中心であり君主であらせられることの源泉なのである。「人にして神である」といふ天皇及び日嗣の御子の御本質・日本國の祭祀主であり統治者としての御本質に立ち返っていただくことが基本である。

 

天皇の「おほらかにして自由なそして神聖なる君主としての傳統」「祭り主として神聖性」「おほらかなる君主として國民を統治される真姿」が回復されるべきである。

 

天皇及び皇室は、占領軍によって押し付けられた占領憲法の規定などに全く拘束される必要はない。三千年の傳統のある天皇中心の國體及び天皇・皇室を、アメリカから押し付けられた成文法の枠の中、もっといへば欧米から輸入された近代民主主義の中に閉じ込めてしまふことが間違ひなのである。

 

成文法といふものは、人間相互の不信の上に成り立つものである。人間同士が信じ合へないから、成文法を作ってお互ひにそれを遵守することによって秩序を保つのである。

 

ところがわが國は天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀共同体である。前述した通り、天皇と國民の関係は権力関係・法律関係ではなく、精神的・信仰的関係である。ゆゑに、天皇は人間不信の上に作られた成文法の枠外の御存在であられる。

 

天皇も皇族も自由に御発言され御行動されて然るべきだし、天皇の御地位・自然な御行動・御発言は、成文法や政治家・官僚・メディアによって制限されるべきではない。

 

天皇中心の日本國體は、近代成文法や近代合理主義や近代民主主義を超越した存在である。しかしどうしても成文法に天皇を規定しなければならないのなら、現行憲法の「象徴天皇」の規定を根本的に改めて、日本國の祭祀主・統治者の御地位にあられることを明確に規定すべきである。神話時代以来の宗教的権威を剥奪することが「開かれた皇室」であるのなら絶対に不可である。

 

「開かれた皇室」とは何か。神話時代以来の宗教的権威を剥奪することが「開かれた皇室」であるのならこれは絶対に不可である。現行憲法体制の「象徴天皇」は、歴史的傳統性・時間的連続性を剥奪されたままで「象徴」などといふ地位になってゐるから、非人間的な無機質な操り人形のやうなお立場に立たれるほかはなくなるのである。「象徴」といふ地位は卑俗化し、開かれた皇室=皇室の大衆化といふ言葉によって、ますます尊厳性は隠蔽されるのである。

 

そもそも大衆と同じレベルの「人間」が「國家國民統合の象徴」といふ地位になることは不可能である。その不可能を現行憲法施行以来今日迄可能にして来たのは、古来から皇室の傳統性が生きてゐるからである。「開かれた皇室論」は「天皇制」打倒・國體破壊そのものである。その具体的にあらはれが、皇室への尊敬語の不使用である。
天皇・皇室は格別に尊貴なる御存在であるから、大衆化はあり得ない。大衆化した時、「象徴」としての地位がなくなるばかりでなく、日本國體が破壊されるのである。

 

現御神・祭祀主としての傳統的な天皇および日嗣の御子の真姿への回帰・天皇の御本質の復元が根本である。建國以来三千年の傳統をに回帰し護持する事が最も大切である。皇室の御事はそこから考へねばならない。

 

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2019年5月22日 (水)

絶対尊皇精神の体現者・大楠公

大楠公・楠木正成こそ尊皇精神の体現者であられた。大楠公の絶対尊皇精神は、『太平記』『日本外史』などの史書によって後世に伝へられた。明治維新の志士たちも楠公精神を継承して維新を戦った。大楠公は絶対尊皇精神の具現者である。

日本の古典には「名文」と言はれるものが多数ある。『太平記』の次の一節は、その最たるものであろう。「舎弟の正季に向て、そもそも最後の一念に依て、善悪の生(しゃう)を引くといへり。九界の間に何か御辺の願なると問ければ、正季からからと打笑て、七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へと申しければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども、われもかやうに思ふなり。いざさらば同じく生を替(かへ)て、この本懐を達せんと契て、兄弟共に刺違て、同枕(おなじまくら)に伏にけり。」

この文章には、楠公のそして日本民族の絶対尊皇精神、七生報国の精神が見事にうたひあげられてゐる。「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ正季の言葉は、後々の世まで深く人の心に感銘を与へ、人の心を動かした。歴史を動かしたと言っても過言ではない。

楠公兄弟は、「今度は浄土に生まれたい」「地獄には行きたくない」「後生はもっと善い処に生まれたい」などとは言はなかった。ただひたすら、「七生まで唯同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」といふ強烈に決意を吐露した。

「七生」とは永遠の生命を意味する。日本人たるもの、永遠に生きとおして、君国に身を捧げるといふ捨身無我の尊皇精神に憧れたのである。

保田與重郎氏は、「『罪業深き悪念云々』といふのは、当時の仏教思想に基づく考へ方である。『太平記』の作者も、仏教観念の鼓吹を、この物語執筆の趣旨としたのだが、大楠公の品格をのべ行動と結末を語るに当っては、さういふ観念のものを全く棄て、超越してゐるのである。」「正季公がからから打笑ひ、七生尽忠の志を誓はれたのにたいし、大楠公が『よに嬉しげなる気色にて』これを諾ったといふ書きぶりは、まことにこの物語の作者の志のたけ高さ示すに十分であった。これこそすなほな民族感情の表現である。正季公がからからと打笑ったといふことは、当時の一般教養界を風靡した仏教信仰からくる穢土厭離の思想をその笑ひで吹きとばされたのである。」(『太平記と大楠公』・湊川神社社務所発行「大楠公」所収論文)と論じてゐる。

絶対尊皇精神といふ「素直な民族感情」は、仏教の宿命論、輪廻思想・厭離穢土思想を超越するのである。「七生報国」の精神は、仏教の輪廻転生思想・宿命論が我が国に入って来る以前から日本民族が抱いてゐた死生観より生まれた観念だからである。

「七生報国」の楠公精神は、後世においてきはめて大きな影響を与へた。明治維新で活躍した多くの志士は、殆ど例外なく楠公に対する感激と崇敬とを抱いてゐた。維新の志士たちの楠公仰慕の心は非常に強いものがあった。明治維新の戦ひにおいて、楠公精神・七生報国の精神は志士たちによって継承され、且つ、実践された。楠公仰慕心、「七生報国」の精神の継承が、明治維新は成就の一大原動力であった。楠公の絶対尊皇精神が、明治維新の戦ひに挺身した志士たちの精神的基盤であったと言っても過言ではない。

歌人であり国学者でもあった橘曙覽は次の歌をのこした。

「湊川御墓の文字は知らぬ子も膝をりふせて嗚呼といふめり」

楠公の墓が荒廃してゐたのを嘆いた義公・水戸光圀が、元禄五年(一六九二)、佐々助三郎宗淳を湊川に派遣して石碑を建て、「嗚呼忠臣楠子之墓」と自筆で題した。その楠公のお墓に刻まれた文字を仰げば、子供といへども感激して墓前に屈んで「嗚呼」と唱へるであらうといふ意。

吉田松陰は、安政三年(一八五六)『七生説』を書いて、正成が七度人間と生まれて國賊を滅ぼすことを誓ったことについて、「楠公兄弟は、徒(たゞ)に七生のみにあらず、初めより未だ嘗て死せざるなり。是より其の後、忠孝節義の人、楠公を観て興起せざる者は無ければ、則ち楠公の後復た楠公を生ずる者、固より計り数ふべからざるなり。何ぞ独り七たびのみならんや」と論じた。

また、吉田松陰の『留魂録』には次の歌がある。

「七たびも生かえりつゝ夷をそ攘はんこゝろ吾忘れめや」

楠公の崇拝者として知られ『今楠公』といはれたといふ真木和泉守保臣は、天保十年、二十七歳の時、次の歌を詠んだ。

「すめる世も濁れる世にも湊川絶えぬ流れの水や汲ままし」

さらに、西郷隆盛は次のやうな漢詩をのこしてゐる。

「楠公題図(楠公の図に題す) 

奇策明籌不可謨(奇策の明籌、謨(はか)るべからず)、正勤王事是真儒(正に王事に勤る、是真儒) 懐君一子七生語(懐(おも)ふ、君が一子七生の語) 抱此忠魂今在無(この忠魂を抱くもの、今在りや無しや)」。

森田康之助氏は次のやうに論じてゐる。「先年の大戦の評価については本書のよくするところではない。鉄を熔かす暑熱にも耐え、肌も凍る寒気を凌ぎ、或は南溟に或は北漠に、興行の成否を問うこともなしに、名もなき国民の一人一人が、名も無いままに国運に殉じた痛ましいわが国史の跡である。この難に殉じた数多い人々の胸中には、楠公湊川の精神が生き生きと回顧され、脈々と息づいてはずである」(『楠木正成』)。

大東亜戦争において、楠公精神を生き貫き、名も無いままに国運に殉じた名も無き国民ののこした歌を掲げさせていただく。

高田豊志氏(昭和二十年五月十三日、特攻戦死、享年十九歳)
「七たびと誓ひて散りしわが友の心は咲かむ靖国の庭」

堀毛利衛氏(昭和二十年七月十八日、特攻戦死、享年二十三歳)
「七度ぞ生れて御国を守らばや身は大空の花と散るとも」

竹野弁治氏(昭和二十年四月十二日、特攻戦死、享年十九歳)
「七度も生れ変りて諸共に醜の御楯と我は征くなり」

平川勉氏(昭和十九年七月五日、戦死、享年二十五歳)
「君が代のしづめとはてし湊川その誠心ぞ神につながる」

山本卓美氏(昭和十九年十二月七日、特攻戦死、陸軍中尉)
「七たびも生れかはりて守らばやわが美しき大和島根を」

加賀和元氏(昭和二十二年四月二十八日、旧ソ連アングレン収容所にて逝去、享年二十六歳)
「楠のふかきかをりを身にしめて七たび死なんすべらぎの辺に」

昭和二十年六月二十三日未明、沖縄第三十二軍司令官・牛島満陸軍中将は、摩文仁の丘にて自刃された時、次の歌をのこされた。享年五十八歳であった。
「矢弾盡き 天地染めて 散るとても 魂がへり 魂がへりつつ 皇国護らむ」

これらの辞世はまさに楠公精神とまったく同じ精神、志、魂の表白である。

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