2018年11月17日 (土)

石破茂氏の大東亜戦争観について

石破茂氏(当時自民党幹事長)は『文藝春秋』平成二十五年二月号所載「新しい自民党をつくる」といふ論文で、「私にとって政治家としての信念とは、『集団的自衛権行使を可能とし、独立主権国家にふさわしい国家をつくる』ことでありこれは今も変わらない」「占領下でつくられた現行憲法を戴いている限り、日本は真の独立国家たりえない。現行憲法には、独立国家の憲法であれば、当然定められているべき、軍の規定と非常事態条項が抜けているからである。そこを見直して、独立国家にふさわしい法体系を整えることが、すなわち、『戦後レジームからの脱却』であり、そもそも自民党はそのためにつくられた政党であることは、結党時に定められた綱領を見れば明らかだ」「『常識的に考えて、北朝鮮は軍事行動はとるまい』という楽観論を、独立国家は持つべきではない」と論じてゐる。全く正しい見解である。

 

ところが石破茂氏はさらに次のやうに論じた。「これは私の持論だが、戦後レジームからの脱却は、先の戦争に対する検証なくしては、あり得ない。この検証プロジェクトは、安倍総理主導のもと、政府として取組むべきことだと思う。終戦後、『一億総懺悔』という言葉が一人歩きし何となく国民全員が悪かったのだということになったが、これは誤った認識だ。敗戦が明白だったにもかかわらず開戦を決断した当時の指導者たちと、国のために命をささげた兵士の責任が一緒であっていいわけがない。皮肉なことだが、人は歴史からは、絶対に学ばないというのは、ほとんど唯一の歴史の教訓である。だからといって、あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは、二百数十万人の英霊の思いを無視することに他ならない」と論じてゐる。

 

さても大変なことを主張したものである。「歴史の検証」とは具体的に一体どういふことなのか。しかもその「歴史の検証」安倍総理のもとにプロジェクトを作り政府で行ふといふのである。

 

これまで、大東亜戦争の歴史の検証あるいは論議は様々な個人・報道機関・政党・研究団体などが行ってきた。しかし検証や論議の結果は様々な結論や認識がだされ、統一的見解は戦後七十三年を経過しても提出されゐない。それはある意味当然のことである。

 

大東亜戦争に限らず歴史問題に関して政府がプロジェクトを作って検証し、統一見解を出すなどといふことは全く不可能になことである。

 

だから政府機関によって「歴史の検証」が政府の機関で行はれないままに、平成二十六年年七月一日、政府は臨時閣議を開き、憲法九条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めたのである。これに対して当時の石破茂自民党幹事長が激しい抗議を行ったと言ふ事は聞かなかった。

 

石破氏の言ふ「先の戦争」とは「大東亜戦争」の事であらうが、あの戦争の歴史の検証とは、昭和十六年の開戦から同二十年の終戦までの歴史を検証すれば良いと言ふ事ではない。「東亜百年」或はそれ以上の歴史を検証しなければ、真の検証にはならない。

 

石破氏の「あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは、二百数十万人の英霊の思いを無視することに他ならない」といふ主張は全く理解できない。「あの戦争の実態を検証」の結果を待ってゐたら、それこそ永遠に『集団的自衛権行使の議論』は始まらなかったであらう。「検証」はさう安易にたやすくできることではない。まして、内閣・政府が行ふなどといふことは全く不可能なことである。

 

石破氏は「敗戦が明白だったにもかかわらず開戦を決断した当時の指導者たち」と論じてゐるが、果たして昭和十六年十二月八日開戦の大東亜戦争(米英との戦ひ)は最初から敗戦が明白であったかどうか、それこそ検証が必要である。

 

『大東亜戦争開戦の詔書』に「米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益〻經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」と示された戦争目的の達成があの勝利である。

 

『詔書』に示された戦争目的の達成は不可能であったと断言することは全くできない。むしろ米英との四年間の戦ひは、英米などの欧米帝国主義国家による東亜侵略を防ぎとめ、中東を含む大アジア諸国家・諸民族を解放した偉大な戦ひであったと小生は考へる。

 

ともかく、正当なる国防論を唱へてゐるだけに甚だ残念であるが、石破氏の歴史に対する考へ方は承認することはできない。

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2018年10月26日 (金)

近代日本における日本人の誇るべき「國民的気概」

 

十九世紀中頃、植民地主義が批判され出した時代においても、イギリスはインドの完全なる領有、香港の奪取、オーストラリア・ニュージーランドの占領を行った。フランスはインドシナを略取し、ロシアは中央アジア及びシベリアを領有した。さうした時期において、吉田松陰などのわが國先覚者が、欧米列強の侵略から祖國を守り、わが國独立維持の國民的自覚を高めるたに、今日から見れば激烈な「アジア経綸の方策」を唱へたのは当然のことである。欧米列強の帝國主義的侵略の矛先を跳ね返すために國民的自覚を促さんとしたのである。「膨張主義」でも「侵略主義」でもなかった。

 

我國に対して、欧米列強の侵略支配が成功しなかったのは、わが國朝野において独立維持の國民的自覚が高まったからである。明治元年八月二十七日の、明治天皇即位の大礼には、嘉永五年六月、水戸藩主・徳川齊昭が奉献した径三尺六寸余の大地球儀が承明門(京都御所の南面内門)の中央に飾られた。維新日本が世界に雄飛する決意を示したのである。

 

そして、明治維新における祖國防衛・独立維持の精神の實践が「条約改正」運動であり、対韓政策であり、日清・日露と言ふ祖國防衛戦争だったのである。

 

「玄洋社」をはじめとする維新勢力が展開した『条約改正運動』は、幕末以来のわが國民の欧米列強に対する抵抗精神の継続である。そして、實際に関税自主権の回復も含めた「不平等条約」の改正が完全に達成され、欧米との対等なる外交関係を確立したのは、わが國が「日清戦争」「日露戦争」に勝利した後である。弱肉強食の帝國主義時代においてはそれが現實だったのである。故に、日清日露両戦争は、わが日本民族の独立戦争であったと言ひ得るのである。

 

和辻哲郎氏は次の如くに論じてゐる。「(日露戦争によって・注)日本が、その國民的意気によって世界の帝國主義の鋒先をくじいた。…世界史への日本の登場によって最も力強く影響せられたのは欧米人の世界及び人間に対する考え方である。二十世紀までは世界史は白人の歴史であり、芸術は白人の芸術であり、思想は白人の思想であった。しかるに二十世紀は、日本の出現によって、この考え方を覆した。もとより白人の自尊心は有色人種の文化を対等に認めることを欲しないのではあるが、しかしいやいやながらもある程度に認めざるを得なくなったのである。…日本人の衝動的な國民的気概は、明らかに自覚せられざる段階において、かくの如き世界史的意義を持ったのである」(『續日本精神史研究』)

 

明治初期における日本人の「衝動的な國民的気概」は決して恥じるべき事ではなく、むしろ誇るべき事なのである。

 

保田與重郎氏は、「明治の精神は言はば日清日露の二役を戰ひ勝たねばならぬ精神であった。…アジアは一般に舊世紀であり白人の植民地であるか、それに毅然として否と呼んだのは、天心であり、鑑三であり、一般に明治の精神であった」(『明治の精神』)と論じた。

 

そもそも「侵略主義」「膨張主義」とは、曾てのナチスドイツのやうに非アーリア人種を従属させ、奴隷にし、絶滅するといふ行為であり、「中華帝國主義」のやうに漢民族以外は野蛮なる動物(夷狄)であるからこれを従属させ、奴隷にし、抵抗するものは殺戮するといふ行為であり、旧ソ連のやうに終戦のどさくさに乗じて東欧諸国及び南樺太全千島を侵略する行為である。

 

わが國のアジア進出は、『大東亜共同宣言』を見ても明らかなごとく、欧米列強の植民地支配を打破、東亜同胞との共存共栄を目的としたのである。

 

昭和十八年(一九四三)十一月六日の大東亜會議にて採択された『大東亜共同宣言』には次のやうに書かれてゐる。

 

「抑〻世界各國ガ各其ノ所ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス」

 

この「宣言」は、わが國の東亜百年の大計を實現せんとする宣言であった。そしてわが國は、戦ひには敗れたが、その戦争目的は達成したのである。

 

名越二荒之助氏は次のやうに論じた。「クラウゼヴィッツは、『戦勝國とは最終的に戦争目的を達成した國をいう』と書いております。日本の戦争目的の中には、アジアにまで手をのばした西欧勢力に一撃を与え、アジアの解放をはかる点にありました。日本は大東亜戦争によって、敗れたけれど最終的に目的を達成したのであります。こういう点に着目すれば、日本は戦勝國と言える訳であります」(『大東亜戦争を見直そう』)

 

日清・日露の両戦争、そして大東亜戦争が、欧米列強・白色人種による長年にわたる有色人種に対する征服支配を撃ち破ったのである。日清・日露両戦争から大東亜戦争までの東亜百年戦争は、その目的を達したといふ意味においては、わが國の勝利だったと言へる。そしてその根源にあるものは、吉田松陰などのわが國先覚者のアジア経綸策にあったのである。三百萬英霊は決して犬死ではなかったのである。

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2018年9月20日 (木)

石破茂氏の歴史観について

この数日、たまりにたまった資料の整理をしているのだが、既に廃刊になってしまった『諸君』平成十九年三月号に掲載された論文と座談会で大変重大なことが語られ、書かれていたので紹介したい。

 

一つは、「防衛省誕生で日本は『普通の國』になれるか」という座談会で、今総裁選挙を戦っている石破茂氏は、「戦後レジーム脱却の核心があるとすれば、それは『集団的自衛権の行使を可能にすること』だろうと思います。私は『憲法改正しなくとも自衛権行使は可能』という論者ですが、日本が集団的自衛権を行使できるようにするには、以下の二つの歴史認識が不可欠です。まず第一は、『何故あのような戦争に突入してしまったのか?』という認識。なぜ勝ち目のない戦争に突入し、貴重な人命と財産をことごとく失い、国民には何も知らせないまま、破滅に陥ってしまったのかという視点です。第二は、先の戦争で日本がアジアの国々に対し、いかに多大な迷惑をかけたかに対する認識。私自身は、日中戦争はまぎれもなく侵略戦争だったと思いますし、一般人も巻き込んで大きな犠牲を強いたことは間違いないと率直に思います。『南京大虐殺はでっち上げ』『三十万も殺していない』という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、『他の國も同じような侵略をやっていた』という自己正当化の論理は、子供がよく言う『だって○○ちゃんのやってるもん』という言い訳と似たような発想です。迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と語っている。

 

私は防衛問題に関する石破氏の発言と言うか考え方には共鳴するところが多かったのだか、歴史観は大いに問題があると思っていた。今日この主張を讀んであらためてそのことを実感した。

 

「あの戦争」とひとくくりに言うが、満洲事変から日米戦争までの戦いが日本の一方的侵略であったという議論は全く成り立たない。歴史的事実に反する。「勝ち目のない戦争だった」という事は日米戦争で敗戦に追い込まれたからそう言われるのであって、満洲事変から日米戦争まで十年間の戦いは勝つために行ったし、始めから勝ち目がなかったなどということは全くない。事実、満洲国は建国されたし、支那大陸では日本は優勢な戦いを続けていた。

 

支那事変(所謂日中戦争)と日米戦争は、国際的謀略に引っかかって戰爭に追い込まれたのである。日本を戦争に追い込んだのはソ連とアメリカである。

 

「たとえ百人でも虐殺に変わりはない」などと言うのは全く最初から日本を悪者にしようという「反日思想」である。戦争は殺し合いである。まして敵の首都攻略において死者が出るのは当たり前である。それを「三十万人虐殺した」など言って日本を攻撃する支那の嘘八百をそのまま認めるわけにはいかない。それを百人でも三十万人でもで「虐殺は虐殺だ」などと日本の政治家か言うこと自体全く間違っている。

 

「迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と言うが、わが国は、「極東国際軍事裁判」という名の「復讐戦」に於いて、国家指導者が7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。またその他各地で行われた「戦犯裁判」という名の「復讐戦」に於いて数多くの人々が処刑され、投獄された。そしてわが国は七年間軍事占領され、さらにアジア各国に戦後賠償を行った。そればかりではない。戦後七十三年間、支那や韓国などに対して謝罪させられ続けている。これ以上どう「謝罪」すればいいのか。

 

石破茂氏は、左翼・反日主義者とほとんど同じ「自虐史観」を持っているのだ。もっとも石橋だけを責め立てるわけにいかない。自民党の有力政治家の中にも、古賀誠氏や河野洋平氏など石破氏と同じような考え方の人は多い。

 

また、安倍晋三内閣総理大臣の「戦後70年談話」を讀むと 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」と書かれている。石破氏の歴史認識とそんなに変わりはない。実に以て困ったことである。

 

なお『諸君』の同じ号で西尾幹二氏は、「あの戦争(注・大東亜戦争)は非力なアジアの一国の自暴自棄の反乱だったのではない。始まる時には不安だったものの、ついにやったとの解放感もあり、勇気も湧き、希望も抱いていた。反西欧・反近代のナショナリズム、遅れて貧しいアジアの一国の捨て鉢な犯行ということですべて説明できる事態ではない。英米と互角だったからこそ可能になった、四年にもわたる長期戦である。単なる暴発でも、自爆でもない」「東京裁判は不法な政治裁判だった。共同謀議と言うあり得ない言いがかり、国際法が認めていなかった軍人や政治家の個人責任、戦争自体は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後立法的性格)という異邦、等々の国際法上の矛盾はつとに知られる」「敗戦国の指導者が裁判で裁かれるというついぞ例のない現実を、心ある当時の日本の法律関係者は、悪夢を見るような、幻覚を見るような思いで見つめていた」「昭和二十年九月十一日、東條英機大将は自決に失敗したが、AP通信に、『大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦いだったと自分は信じている。国民はよろしく戦いは正しかったという自信の下に大局の処置を誤らないように自重されたい』と所信表明をして、昏睡状態に入ったと当時の新聞は伝えている。政治指導者としての東條を評価するかどうかは別問題としても、この言葉の大意は素直に認めるべきで、私は多分この通りであったと共鳴している」(『勝者の裁き』―フセインと東條の『ここが違う』)と論じている。

 

西尾幹二氏の主張は全く正しい。大東亜戦争は決して侵略戦争ではなかった。アジアの国々に多大な迷惑をかけた戰爭では無かった。東亜解放の戦いであった。この歴史の真実を日本の政治家たる者しっかりと正しく認識していなければならない。

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2018年8月27日 (月)

「昭和天皇退位論」は、昭和天皇に対する日本國民大多数の仰慕・敬慕の念を、全く無視した主張

天皇が退位されなかったことに対して、「天皇のさうした態度が戦後日本の無責任風潮の原因だ」とか「アジア近隣諸國との歴史問題の軋轢の原因だ」とする非難は全く誤ってゐる。

 

小堀桂一郎氏は、「天皇が果たされた戰爭責任は、戰爭の収拾に成功されたといふところまでで本来は竭くされたはずである。驚嘆すべく、畏れ多いことであるが、その責任達成の御努力は、戰後の跡始末の部分にまで及んだ。…戰後度重なる占領軍司令官との御會見、そして六年にわたる全國御巡幸の旅である。戰争の全責任を引受けられ、ついで戰後復興といふ事業にも進んで責任を負擔されたことにより、今上天皇の戰前の二十年の御統治と戰後四十年の國民統合の象徴的御行動とは見事な一貫性・連續性を以て嚴としてつながってゐる。」(『昭和天皇論』)と論じてゐる。

 

昭和天皇が、疲弊し困難に立ち向かふ日果たされた戰争本國民を鼓舞激励され、國のために一身を捧げた英靈に対して常に慰靈の誠を捧げられ、且つ、宮中祭祀を続けられたそのことが、「道義的戦争責任」といふよりも「君主として天皇としての使命と責任」を果たし続けられたといふことなのである。

 

國家國民が最も疲弊し困難に陥っている時にこそ、「皇祖・天照大御神のご神勅により國家・國民を統治する使命を有する」といふ天皇としての崇高なる御自覚、すなはち「日本國の時間的連続性(歴史的傳統性)と空間的統合性の中核として君臨されてゐる天皇としての聖なるご使命」を自覚され、退位されなかったと拝察する。

 

昭和天皇様は終戦直後に次のやうな御製を詠まれて國民を励まされた。(昭和二十一年一月二十二日の歌會始でご発表)御年四十四歳。

 

ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ

 

敗戦の悲しみ・苦しみを降り積もる雪に喩へられ、松の緑が雪に覆はれても色を変へないで雄雄しくしてゐるやうに、日本國民もどのやうな困難に遭遇しても、くじけることなく雄雄しく生きていくことを望む、といふ大御心を示したまふたのである。國家國民が戦勝國アメリカの占領下に置かれても、日本國民としての誇りを失ってはならないといふ御心を示された拝する。この御製は國民への呼びかけであると共に、御自身の御決意の御表明でもあったと拝する。

 

昭和四十五年、昭和天皇は「七十歳になりて」と題され次のやうなお歌を詠ませられた。

 

ななそぢを迎へたりけるこの朝も祈るはただに國のたひらぎ

 

よろこびもかなしみも民とともにして年はすぎゆきいまはななそぢ

 

この三首の御製を拝すれば、「昭和天皇退位論」がいかに誤った議論であるかが、理屈ではなく了解できる。昭和天皇におかせられては、終戦以来、ただただ國家の平和と國民の幸福を祈り続けられたのである。今日、日本國が存在し、日本民族が生きてゐるのは、実に喜びも悲しみも國民と共にされた昭和天皇の仁慈の大御心によるのである。

 

昭和天皇が御不例になられ、昭和六十三年九月二十二日、皇居坂下門をはじめ全國十二ヶ所の宮内庁施設で、「お見舞記帳」が開始されて以来、一般記帳者の数は、八百萬をはるかに超へた。

 

昭和六十四年一月七日午前六時三十三分、昭和天皇は宝算八十九歳をもって崩御あそばされた。皇居前など全國の記帳所における記帳者は、一月七日から十六日までの間に二百三十三萬二千七百九十一人にのぼった。一月二十二日から二十四日まで、殯宮一般拝礼が許されたが、三日間で三十三萬九千百人が拝礼を行った。

 

平成元年二月二十四日の御大喪の儀では、御轜車がお通りになる沿道には、氷雨の中五十七萬人余の人々がお見送り申し上げた。

 

日本國民の大多数は、昭和天皇が退位されずに日本國の君主としてその責任を果たされ続けられたことに対し奉り、満腔の敬意を表し感謝してゐたことは、この事実を見れば明らかなことである。

 

「昭和天皇退位論」は、昭和天皇に対する日本國民大多数の仰慕・敬慕の念を、全く無視した発言といへやう。

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2018年8月19日 (日)

『近衛上奏文』と赤尾敏氏の予言的中

近衛文麿が大東亜戦争末期において、如何に日本の共産化を憂へ、且つ、自己のかつての政治行動を反省してたかが分かる文章が、昭和二十年二月十四日に近衛文麿が、昭和天皇に奉呈した『近衛上奏文』である。

 

それには次のやうなことが書かれてゐた。

「國體護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。つらつら思うに我國内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。即ち國外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座侯。」

「國内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之侯。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵慨心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する所謂新官僚の運動、及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座侯。右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之侯。少壮軍人の多数は、我國體と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存侯。…共産分子は國體と共産主義の両立論を以て、彼等を引きずらんとしつつあるものに御座侯。抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。」

「満洲事変当時、彼等が事変の目的は國内革新にありと公言せるは、有名なる事實に御座侯。支那事変当時も、『事変永引くがよろしく、事変解決せば國内革新はできなくなる』と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯。これら軍部内一部の者の革新論の狙いは、必ずしも、共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は國體の衣を着けたる共産主義者なり)は、意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵しおり、無智単純なる軍人、これに躍らされたりと見て大過なしと存侯。この事は過去五十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを、感ずる次第に御座侯。不肖は、この間に二度まで組閣の大命を拝したるが、國内の相剋摩擦を避けんがため、できるだけこれら革新論者の主張を容れて、挙國一体の實を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座侯。」

 

愛國運動家とりわけ「転向右翼」と言はれる人々が、「南進論」を唱へ、意識するとせざるともかかはらずソ連の手先となって日米戦争を煽ったといふ議論がある。『近衛上奏文』にもそのやうなことが書かれてゐる。しかし、「転向右翼」の代表的存在である赤尾敏氏は、次のやうに論じてゐる。

 

「当時軍部は、戦略的にゾビエトと手を握り、全アジアから英米勢力を追放して大東亜共栄圏をつくるという野望にとりつかれていた。また政府はむろん、議會もマスコミも財界も、日本中がみんな大東亜共栄圏の甘い夢に浮かれていた。そういう時代状況のなかで、ぼくはひとりその構想に反対した。なぜならば、ソビエトはマルクス・レーニン主義で、日本の天皇制國家を認めない。それにソビエトには、まだ日露戦争の苦い記憶も残っている。それにくらべて、アメリカとは戦争したことはないし、同じ資本主義体制である。だから、英米資本主義と妥協して、むしろソビエトと戦わなければならない、と考えていた。つまり、中國の蒋介石も、反共産主義者だし、ドイツのヒットラーも、イタリアのムッソリーニも反共産主義のイデオロギーで戦っている。資本主義英米と手を握れば、世界の大多数の世論を味方にできる。日本はまず北進し朝鮮、満洲、シベリアで勢力圏を確保し、國力を充實してから、英米の列強と戦いアジアを解放すべきだ、それが道理であると。…(しかし)太平洋戦争は僕の予言どおり敗れてしまった」。(『憂國のドン・キホーテ』)

 

さらに猪野健治氏著の『評伝・赤尾敏』によると、昭和十年以降、赤尾敏氏が主宰した愛國運動団体・建國會のソ連攻撃が激しくなり、昭和十二年七月に日華事変が勃発すると、中國で起こっている抗日・排日運動の背後にはソ連の影があるとして、東京市内各所で演説會を開きビラ貼りを行なった。『滅共反ソか反米英か』といふ本に続いて発刊した『日本の外交を何とするか』(昭和十五年八月)といふ本の「序文」で赤尾氏は、「今やわが國家の内部には、軽佻浮薄な独伊追従、容共親ソ、反英米の武力的南進論が跳梁跋扈しているのでありますが、わが皇國の外交は、いかなる外國にも追従せず、毅然として自主独往の姿勢を堅持するのみならず、区々たる目先の利欲に惑わず…軽佻浮薄な独伊追従、容共親ソ、反英米の武力的南進論はわが皇國の運命を極度に誤るものであって、日本の対外國策は必ず滅共反ソを以て基本とすべきことを信じ…」と論じた。

 

昭和十六年四月十三日に『日ソ中立条約』が締結されると、赤尾氏は反対の「声明文」を発表した。それには、「一、日ソ中立条約などは一片の反故紙も同然である。ポーランド、フィンランド等が良い例ではないか。二、日ソ中立条約は日米戦争をけしかけるソ連の謀略である。三、ソ連の大きい謀略の手にだまされて軽挙主力南進をやり米ソ挟撃の危地に陥るな。…四、南進政策に便乗する『赤』の魔手を断滅せよ」などと書かれてあった。

 

これは、のちの歴史を予言してゐる文である。赤尾氏の危惧は現實のものとなった。予言は的中したのである。

 

猪野健治氏は「ソ連のスパイとして昭和十六年十月、ゾルゲと共に逮捕された尾崎秀實は、処刑前の最終陳述で赤尾の論に触れて、『今や日本は一路米英戦争に向いつつあるが、これに反対しているのは朝野に赤尾敏唯一人である』と述べたという」と書いてゐる。

 

今日の吾々は、かうした歴史に学ばねばならない。「反戦平和」を標榜する運動は今も活発である。彼らは、米軍基地反対闘争・核兵器反対運動・反自衛隊運動などを行ってゐるが、共産支那・北朝鮮の核兵器に対しては一切反対運動を展開しない。共産支那・北朝鮮の軍事侵略に対しても何の抗議も行はない。日本の安全と独立を守る運動のやうに見せかけて、實は意識するとせざるとにかかはらず共産支那・北朝鮮の侵略を助けてゐるのだ。

 

左翼の「反戦平和運動」は、共産支那・北朝鮮のわが國及び全アジアに対する侵略支配を實現するための策謀であり、共産支那・北朝鮮の手先となって日本の安全・独立・自由・繁栄を脅かしてゐるのだ。

 

戦後ずっと行はれて来た左翼勢力の「反戦平和運動」の本質は、支那事変・日米戦争を煽りつつ實は「社會主義の祖國・ソ連」を守り、アジア赤化を實現せんとした尾崎秀實と全く同じである。共産支那・北朝鮮の軍事的圧迫にさらされてゐる今日のわが祖國日本は、歴史に學び、侵略國家の謀略に嵌ることなく、祖國の独立と平和と自由を守り抜かねばならない。

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2018年8月17日 (金)

ソ連を護りソ連の國家戦略に協力するための謀略をわが國において行なったのがリヒャルト・ゾルゲであり、尾崎秀實であった

第二次欧州大戦の結果、最も利益を獲得したのはソ連である。アジアにおいてもヨーロッパにおいてもソ連は、その勢力範囲を飛躍的に拡大した。ソ連を護りソ連の國家戦略に協力するための謀略をわが國において行なったのがリヒャルト・ゾルゲであり、尾崎秀實である。 

 

ソ連は、わが國と締結してゐた『日ソ不可侵中立条約』を一方的に踏みにじり、日本及び満州に侵攻して来た國である。そして、多くの日本國民を殺戮し、強姦し、数十萬同胞をシベリアに拉致し、強制労働を課して十数萬人を殺した國である。且つ、南樺太全千島といふわが國固有の領土を奪った國である。

 

このやうな悪逆非道の國から、一九六四年に『ソ連邦英雄』の称号を与へられたゾルゲとその手先の尾崎を、われわれ日本國民は永遠に許してはならないのである。

 

尾崎の罪の深さはわが國においてソ連のためにスパイを行なったことだけではない。彼は、わが國を戦争へと追ひ込む謀略活動を行ひ、わが國を未曾有の敗戦に導いた一つの要因を作った民族の裏切り者である。尾崎秀實は、近衛内閣嘱託といふ立場を利用して、わが國の世論や近衛内閣の政策決定に影響を与へ、支那事変・日米開戦を煽動し、わが國を敗戦へと導いた。

 

これは、レーニンの「社會主義の勝利にいたるまでの基本原則は資本主義國家間の矛盾対立を利用して、これら諸國を互ひにかみ合はすことである。」(一九二〇年十一月、モスクワ共産党細胞書記長會議)といふ戦略、そして一九三五年にモスクワで開催された『第七回コミンテルン大會』において決定された「米英と日独といふ資本主義國家同士を戦はせて、双方とも疲弊させ、ソ連への圧迫を排除して上で、米英を打倒してソ連の世界制覇を實現する」といふ戦略に基づくものであった。

 

さらに昭和七年(一九三二年)八月~九月のコミンテルン第一二回総會が行なった決議は、米英仏日独といった『帝國主義列強』を互ひに対立させ、戦争に追ひ込め、といふ戦略指令であった。日本について言へば、①日本を米國との戦争へ追ひ込め、②日本がソ連を攻撃するのを阻止せよ、といふことが書かれてゐたといふ。

 

ソ連共産党の謀略機関も、ソ連政府の外交機関も、この目標に向けて一斉に活動した。ゾルゲ機関は、日本の政治中枢や軍部へ浸透を図って米國との対決路線に追ひ込み、また、マスコミにも、反米英を主軸とした排外主義(『鬼畜米英』)を吹き込んだ。一方、米國内でも、ソ連の手先によって排日機運の盛り上げが工作されてゐた。

 

ソルゲと尾崎などのコミンテルンのエージェントたちは、当時わが國内で澎湃と湧き起こって来てゐた「國家革新」「東亜解放」といふ正義の主張をたくみに利用して、日本がソ連よりもアメリカ・イギリスを主敵とし、ソ連と戦ふよりも「米英を撃つべし」といふ世論を煽った。『革命の祖國・ソ連』を守る為に日本を「北進」させてはならず、そのために「南進論」を煽ったのである。また、日本と蒋介石政権の和平を図る動きを妨害したのもゾルゲと尾崎である。その協力者が、第一次近衛内閣の書記官長・風見章であった。

 

わが國と蒋介石政権が全面戦争に突入した原因である西安事件も蘆溝橋事件も、ソ連と中共の謀略であったことは今日明らかになってゐる。張作霖爆殺事件もその真の下手人はソ連であるといふ説がある。

 

かくて、日本の進路は米英との対決以外になくなり、日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである。

 

尾崎秀實は、近衛内閣の中枢にあって情報収集や謀略活動を行ってゐただけではなく、対支那及び対米英戦争を先導する言論活動も展開した。尾崎は次のやうな論文を発表した。

 

「筆者の意図は和平の成立の可能性を論証せんとするものではない。かへつてその反対なのである。…戦の性質は遂に一方が完全なる屈服に到るまでは終結することなきをもって特質とする。旧世界の転換期における矛盾は極めて深刻である。この際最も重要なることはかゝる基本的認識に基づいて日本が一旦確立した東亜新秩序創建の路をたゆたふことなく進み続けることである。」(『転機を孕む國際情勢と東亜』・「中央公論」昭和十六年七月号)

 

「満州事変以来我國民は『非常時』と言はれ、『危機』に立つと教へられ続けて来た。しかも日本は一路軍事的威力を発揮しつゝ、東亜新秩序建設の道を邁進し続けたのである。…今やその危機は正体を日本國民の前に現はし来つたのである。日支戦争四年の後に、日本國民はアメリカの指導する全面的経済封鎖に直面したのである。今こそ日本國民は一大決心を強ひられてゐるのである。」(『危機迫る東亜』・昭和十六年十月号)

 

尾崎秀實は、「米英の植民地支配からのアジアの解放・大東亜諸民族の独立」といふ崇高な目的達成のためにこの文章を書いたのではない。「敗戦革命」即ち日本とアメリカとを戦はせ、日本が敗戦した後、日本及びアジアを赤化するといふ策略のもとに書いたのである。

 

戦後になって、反日左翼勢力は、尾崎秀實を「反戦平和のために戦ひ、官憲によって処刑された英雄」に仕立て上げた。例へば、尾崎の獄中書簡を収録した『愛情はふる星のごとく』(左翼系出版社たる青木書店発行)といふ本の「編者のことば」(柘植秀臣執筆)には「ファシストの手によってたおれた犠牲者が、ひとしく熱烈な平和愛好者であり、清純な人間愛にみちあふれた人々であったことは、彼らの行動や遺言によって知ることができるのである。…彼らが平和を守るために、人民の解放のために自己の生命をすこしも惜しまなかった…人間愛に燃えた尾崎、平和のためにたたかった尾崎のことを記録にのこしておくことは、時代的にも歴史的にも大きな意義がある…」「尾崎と松本(慎一・尾崎の親友にして日共党員)が生命を賭してたたかってきた道は、日本國民の幸福を念願するためにこそ、戦争に反対することであった」などと書いてゐる。

 

よくもまあこのやうな嘘八百が書けたものである。尾崎は、戦争に反対したことはない。引用した尾崎自身の論文に明らかなように尾崎は支那事変そして日米戦争を煽ったのだ。

 

尾崎秀實はコミンテルンの指令に基づき「社會主義の祖國=ソ連」を守るために、盧溝橋事件後に拡大論を唱へて支那事変を拡大させ、日支を泥沼の戦ひに追ひやり、同時に『日独伊三國同盟』を推進することによって日米対立・分断を實現させ、さらには『南進論』を唱へて日米開戦を誘導したのだ。

 

日本は日米戦争に敗れ、支那大陸、朝鮮半島北部、ベトナムなどの赤化は實現した。コミンテルンの手先となって日本國内で活動した尾崎秀實の目的は半ば達成された。

 

日本共産党は、今でも、「侵略戦争に反対して唯一の政党はわが党である」と誇らしげに宣伝してゐる。しかし、日本を敗戦に導いたのは、ほかならぬ「社會主義の祖國ソ連」及びコミンテルンそしてその手先どもだったのである。

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2018年8月12日 (日)

ソ連こそ、第二次世界大戦における最悪最大の侵略国家だった

本日(平成三十年)八月十二日午後一時五十五分より、テレビ朝日で「真珠湾七七年目の真実」という番組で、日米開戦当時のアメリカ政府の中枢にソ連のスパイが数百人入り込み、日本とアメリカとが戰爭を開始すべく工作を行っておりそれず成功したというドキュメンタリーを放送した。

 

小生は、平成二十三年十二月発行の『政治文化情報』三百十三号で、要旨次のように論じた。

 

「ルーズヴェルト米大統領の周辺が共産主義者で固められてゐたのと同じく、日本でも、総理大臣時代の近衛文麿の周辺に共産主義者がゐた。

 

内閣書記官長(=現在の内閣官房長官)の風見章(親ソ系のマルキスト)、ゾルゲ事件の首謀者として死刑となった尾崎秀實(ソ連のスパイ)、日中講和の阻止に暗躍したとされる西園寺公一(中國共産党系のマルキスト)などである。

 

昭和十二年(一九三七)に内閣総理大臣となった近衛文麿が風見章を内閣書記官長に抜擢した時は、風見と全く面識がなかったといふ。風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣の嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

 

戦後になると風見は、昭和三十年(一九五五)一月にマルクス・レーニン主義政党である左派社會党に入党した。また、日ソ協會副會長、日中國交回復國民會議理事長、アジア・アフリカ連帯委員會代表委員、世界平和評議會評議委員として活動した。しかも風見章は尾崎秀實を「マルクス主義の殉教者」と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」 (『改造』昭和二十六年五月号) と書いた。風見が完全なる共産主義者であったことは明白である。

 

西園寺公一(公望の孫)は、イギリスのオックスフォード大學でマルクス主義の洗礼を受けたといはれる。近衛内閣が成立すると外務省嘱託・内閣嘱託を歴任した。尾崎秀實と共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたため、それが「國家機密漏洩」であるとして、「ゾルゲ事件」に連座したとされ、禁錮一年六月、執行猶予二年の判決を受けた。西園寺は昭和三十三年(一九五八)に日本共産党に入党する。日中共産党が対立状態になり、昭和四十二年(一九六七)二月、日共を除名された。西園寺もまた完全なる共産主義者であった。

 

近衛文麿は何故このやうな人物を内閣の中枢である書記官長そして機密を知り得る立場にあった内閣嘱託に任命したのであらうか。有体に言って近衛文麿は脇が甘かったと言はざるを得ない。

 

さらに小生は、平成二十四年二月十日発行の『政治文化情報』第三百十四号で次のように論じた。

 

「風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

 

『根本瑛』(根本瑛先生追憶の書編纂委員會編)に収録されている愛國維新運動に挺身されてきた方々の根本瑛氏への追悼文に、風見章のことに触れた次のやうな文章があった。

 

塙三郎氏『そのころの先生(注・根本瑛氏)は、一つにも二つにも風見章に尽くしていた。風見に尽くす事は、國に尽くすと同意語であると確信していた。久しくして、風見に裏切られた時に、その倍に増して、風見を恨んだ。…戦後の風見は完全にその本性を現わした。彼は、尾崎秀實やゾルゲと共にして日本を裏切った人物であった。』

 

中村武彦氏『(注・根本瑛氏に)二度目にお目にかかったのは大東亜戦争の敗色すでに決定的となりつつあった十九年の秋であった。本間憲一郎先生の御伴をして帝國ホテルへ行った時…根本先生が居られて暫くお話をされた。…両先生の御話しをうかがっていた中に、風見章氏のことが出て両先生とも異口同音にその変節を嘆いておられたのが、強く記憶に残っている。根本先生は政治家風見章の後援者として知られ、風見氏の今日あるは先生のおかげだと云われていた。私どもも風見氏の行動を苦々しく思っていたのであるが先生にしてやはりその嘆きがあるのかと痛感したことは忘れられない。』

 

鈴木善一氏「國際共産主義運動の思想から、天皇制の廃止、共和制への移行を唱道したのが日本共産党であり、当時近衛内閣の書記官長としてスパイゾルゲ、尾崎秀實、西園寺公一、野坂参三らと行動を共にしたか、少なくとも便宜を計ったのが風見章である。根本博士は現状打破の点で風見の革新思想と一脈相通ずるかに見えたが、風見は共産主義、社會主義を友とし、長男は共産主義者であるということから、根本博士は風見と絶対に袂を別つことを決意し、晩年色々な人が両者の間を調停したが、頑としてこれだけは操守した。」

 

このやうに、同時代に生きた方々の証言を読めば、近衛文麿の側近だった風見章は、尾崎秀實と同志的関係にあり、尾崎のいはゆる「敗戦革命工作」に協力してゐたことは確實である。

 

尾崎秀實自身、処刑の直前に、自主的に意見を述べ、『自分は長く仮面をかぶった危険な潜行運動をした…自分たちの日本赤化運動は、すでにその目的を達し、日本はついに大戦争に突入し、擾乱は起こり、革命は必至である。自分の仕事が九分通り成功しながら、今その結果を見ずして死ぬのは、残念である。』と書き、『大東亜新秩序社會』が戦争の後に現れて、『世界共産革命』の一端を形作るという満足感を以て死に赴いたといふ。(保阪正康氏著『昭和史七つの謎』より引用)

 

尾崎秀實自身もその『獄中手記』に「内閣嘱託時代は毎日首相官邸に出勤し秘書官室下の地階の一室で仕事をする外秘書官室や、書記官長室には常に自由に出入し書記官長、秘書官等から内閣に来ている文書中仕事の上で必要とするものを見せられ或は私の方から申し出て必要なものを見せて貰うこともあり又此等の人達と話をする機會も多かった訳でありまして私はこれ等に依って現實の政治が如何に動きつつあるかを確實に知ることが出来ました。左様な訳で内閣嘱託たる地位にあった関係から此の重大な転換期に於ける國の政治の重要な動向を知り得たと同時に其の時々の政治情報等も容易に察知し得たのであります。此等の情報は勿論ゾルゲに報告すると共に政治動向に関する私の意見も述べて居るのであります。」と書いてゐる。

 

近衛内閣の内閣書記官長・秘書官・内閣嘱託といふ内閣中枢に「資本主義國家同士を戦争させ、共産國家が漁夫の利を得て、アジアそして世界を赤化する」といふ世界革命戦略を實行しつつあったソ連のスパイ・工作員・同調者たちが入り込み、対米英戦誘導や情報収集などの工作を行ってゐたのである。そして、日支及び日米関係分断を図ったのである。實に以て戦慄すべき事態であった。近衛文麿氏の『上奏文』における痛切なる反省の弁通りの事態であった。

 

内閣の中枢にソ連・國際共産主義運動組織のスパイ・工作員が入り込んでゐたのだから、参謀本部や陸海軍省などにも工作員が潜入してゐたと推測することができる」。

 

このやうに、わが国もアメリカもソ連の謀略によって戦争に追い込まれたのである。謀略活動を行ったソ連、そして戦争終結後もっとも領土を広げ覇権を広げたソ連こそ、第二次世界大戦における最悪最大の侵略国家だったのである。

 

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石破茂氏の歴史観について

この数日、たまりにたまった資料の整理をしているのだが、既に廃刊になってしまった『諸君』平成十九年三月号に掲載された論文と座談会で大変重大なことが語られ、書かれていたので紹介したい。

 

一つは、「防衛省誕生で日本は『普通の國』になれるか」という座談会で、今総裁選挙を戦っている石破茂氏は、「戦後レジーム脱却の核心があるとすれば、それは『集団的自衛権の行使を可能にすること』だろうと思います。私は『憲法改正しなくとも自衛権行使は可能』という論者ですが、日本が集団的自衛権を行使できるようにするには、以下の二つの歴史認識が不可欠です。まず第一は、『何故あのような戦争に突入してしまったのか?』という認識。なぜ勝ち目のない戦争に突入し、貴重な人命と財産をことごとく失い、国民には何も知らせないまま、破滅に陥ってしまったのかという視点です。第二は、先の戦争で日本がアジアの国々に対し、いかに多大な迷惑をかけたかに対する認識。私自身は、日中戦争はまぎれもなく侵略戦争だったと思いますし、一般人も巻き込んで大きな犠牲を強いたことは間違いないと率直に思います。『南京大虐殺はでっち上げ』『三十万も殺していない』という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、『他の國も同じような侵略をやっていた』という自己正当化の論理は、子供がよく言う『だって○○ちゃんのやってるもん』という言い訳と似たような発想です。迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と語っている。

 

私は防衛問題に関する石破氏の発言と言うか考え方には共鳴するところが多かったのだか、歴史観は大いに問題があると思っていた。今日この主張を讀んであらためてそのことを実感した。

 

「あの戦争」とひとくくりに言うが、満洲事変から日米戦争までの戦いが日本の一方的侵略であったという議論は全く成り立たない。歴史的事実に反する。「勝ち目のない戦争だった」という事は日米戦争で敗戦に追い込まれたからそう言われるのであって、満洲事変から日米戦争まで十年間の戦いは勝つために行ったし、始めから勝ち目がなかったなどということは全くない。事実、満洲国は建国されたし、支那大陸では日本は優勢な戦いを続けていた。

 

支那事変(所謂日中戦争)と日米戦争は、国際的謀略に引っかかって戰爭に追い込まれたのである。日本を戦争に追い込んだのはソ連とアメリカである。

 

「たとえ百人でも虐殺に変わりはない」などと言うのは全く最初から日本を悪者にしようという「反日思想」である。戦争は殺し合いである。まして敵の首都攻略において死者が出るのは当たり前である。それを「三十万人虐殺した」など言って日本を攻撃する支那の嘘八百をそのまま認めるわけにはいかない。それを百人でも三十万人でもで「虐殺は虐殺だ」などと日本の政治家か言うこと自体全く間違っている。

 

「迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と言うが、わが国は、「極東国際軍事裁判」という名の「復讐戦」に於いて、国家指導者が7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。またその他各地で行われた「戦犯裁判」という名の「復讐戦」に於いて数多くの人々が処刑され、投獄された。そしてわが国は七年間軍事占領され、さらにアジア各国に戦後賠償を行った。そればかりではない。戦後七十三年間、支那や韓国などに対して謝罪させられ続けている。これ以上どう「謝罪」すればいいのか。

 

石破茂氏は、左翼・反日主義者とほとんど同じ「自虐史観」を持っているのだ。もっとも自民党の有力政治家の中にも、古賀誠氏や河野洋平氏など石破氏と同じような考え方の人は多い。また、安倍晋三内閣総理大臣の「戦後70年談話」を讀むと、石破氏の歴史認識とそんなに変わりはない。実に以て困ったことである。

 

なお『諸君』の同じ号で西尾幹二氏は、「あの戦争(注・大東亜戦争)は非力なアジアの一国の自暴自棄の反乱だったのではない。始まる時には不安だったものの、ついにやったとの解放感もあり、勇気も湧き、希望も抱いていた。反西欧・反近代のナショナリズム、遅れて貧しいアジアの一国の捨て鉢な犯行ということですべて説明できる事態ではない。英米と互角だったからこそ可能になった、四年にもわたる長期戦である。単なる暴発でも、自爆でもない」「東京裁判は不法な政治裁判だった。共同謀議と言うあり得ない言いがかり、国際法が認めていなかった軍人や政治家の個人責任、戦争自体は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後立法的性格)という異邦、等々の国際法上の矛盾はつとに知られる」「敗戦国の指導者が裁判で裁かれるというついぞ例のない現実を、心ある当時の日本の法律関係者は、悪夢を見るような、幻覚を見るような思いで見つめていた」「昭和二十年九月十一日、東條英機大将は自決に失敗したが、AP通信に、『大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦いだったと自分は信じている。国民はよろしく戦いは正しかったという自信の下に大局の処置を誤らないように自重されたい』と所信表明をして、昏睡状態に入ったと当時の新聞は伝えている。政治指導者としての東條を評価するかどうかは別問題としても、この言葉の大意は素直に認めるべきで、私は多分この通りであったと共鳴している」(『勝者の裁き』―フセインと東條の『ここが違う』)と論じている。

 

西尾幹二氏の主張は全く正しい。大東亜戦争は決して侵略戦争ではなかった。アジアの国々に多大な迷惑をかけた戰爭では無かった。東亜解放の戦いであった。

この歴史の真実を日本の政治家たる者しっかりと正しく認識していなければなならない。

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2018年8月10日 (金)

大東亜戦争の意義と『終戦記念日』

 毎年八月十五日の『終戦記念日』が近づくと思うことは、『終戦記念日』が「一億総懺悔」の暗く、重苦しく、憂鬱な日になってしまっていることである。これは、偏向マスコミ・左翼文化人たちをはじめとする反日勢力による『大東亜戦争侵略論』『戦没者は侵略戦争の駆り立てられた犠牲者』という宣伝が功を奏しているからである。

 

 しかし『終戦記念日』は断じて一億総懺悔の日ではない。先帝・昭和天皇陛下の『終戦の大詔』に、「道義を篤くし志操を鞏(かた)くし、誓って國体の精華を発揚し世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし」と示されているとおり、祖國日本の正しき発展のための出発の日である。

 

 先帝陛下は『終戦の大詔』においてさらに「同胞排擠(はいさい)互に時局を乱(みだ)り為に大道を誤り信義を世界の失ふが如きは朕最も之を戒む」と示されている。

 

このお言葉はまさに今日の日本の現状をそのまま予言されていると拝するべきである。先帝陛下の大御心を疎んじ奉ってきたことが、今日の日本の混迷の原因である。『終戦記念日』において道義國家建設の誓いを新たにするのが、政治家はもちろん全國民の義務であり責任である。

           

 祖國日本が近代において、欧米列強の侵略支配に抗して祖國の独立を維持し続けただけでなく、アジア解放に努力した歴史に対して、日本國民が誇りを持ち、先人たちに感謝し慰霊すべきなのである。

 

しかるに、今日の日本の多くの國民が、國内外の反日勢力の洗脳・宣伝によって、東京裁判史観・大東亜戦争侵略戦争論に汚染され、祖國への誇りと自信を喪失している。そして、日本近代史を「近隣諸國への侵略の歴史であった」として罪の意識のみを持ち先人を冒する風潮が横溢している。こうしたことは一刻も早く是正されねばならない。

 

 我々日本國民が日本近代史をどうとらえるかが、今日の日本人の精神構造やその國家観に大きな影響を与え、現実の政治・外交・教育など全てにわたることを規定する。

 

 近代日本が弱肉強食の世界で生き抜き、西欧列強の侵略に抗して独立を維持していくために、「富國強兵」「殖産興業」の合い言葉のもと近代國家建設を行ったことは、わが日本民族が誇りにすべき事実である。また、明治維新以後の日本の海外進出そしてその到達点としての大東亜戦争が、日本の一方的な侵略であったという歴史観は全く誤りである。

 

 近代日本史および大東亜戦争の正しき意義を認識し、國内外の亡國勢力・反日勢力を一掃することが、國家民族の緊急の課題である。

 

 一五世紀から一七世紀前半にかけて西欧諸國が航海・探検により海外進出を行った大航海時代から白人による世界支配が開始され、特に一九世紀の最後の四半世紀は帝國主義植民地獲得競争の最盛期であり、アフリカ全土が分割され、アジア・太平洋地域のほとんどが欧米の植民地となった。

 

 白色人種の帝國主義植民地獲得競争の波を世界で初めて阻止したのが日露戦争であり、今まで圧迫されてきた有色人種のナショナリズムを覚醒させ、各地に独立運動を発展させる端緒となった。

 

 シンガポールは英國のみならず白色人種のアジア支配の象徴であった。大東亜戦争開始直後における日本軍によるシンガポール陥落は、欧米のアジア支配の終焉を告げる弔鐘であった。チャーチルも「英帝國が終焉した理由は、英軍がアジア人の前で日本軍に惨敗したからである」と述べた。東南アジア諸國が独立したのは大東亜戦争が契機となったのであり、やがて植民地独立の波は全世界に広がり、アフリカに及んだ。

 

 欧米の植民地支配を終末に導いた日本に憎しみをぶつけ、再び日本が欧米の覇権を揺るがせないように弱体化しようとしたのが連合國の日本弱体化政策であり、その第一歩が「東京國際軍事裁判」であり、これに続くものが「占領憲法」であった。

 

 東京裁判では帝國主義植民地獲得競争の時代を除いて満洲事変以降のみを裁判の対象とし、日本に対する米英蘭などの包囲陣の形成と経済圧迫などの挑発や、支那における共産勢力の浸透の脅威に関する反証資料の多くを却下した。日本無罪論を唱えたインドのパール判事などの少数意見を無視し、筋書き通りに大東亜戦争を日本の軍部を中心とする共同謀議による侵略戦争として専ら日本を断罪した。

 

 戦勝國の日本占領政策は、東京裁判・神道指令・憲法の押しつけ・厳格な言論統制などを通じて日本人の精神面の弱体化を徹底した。有史以来未曾有の敗戦と異民族支配に動顛した日本は、東京裁判史観即ち大東亜戦争侵略論に汚染され、それは今日に至るまで続いている。

 

 戦争については國家意思が何処にあったかで判断すべきである。『開戦の詔書』には『自存自衛』『東亜の安定の確保』『世界の平和に寄与』『萬邦共栄の楽を偕にする』と示されている。白色人種の植民地だった東亜の解放が戦争目的だったのである。我ら日本人は、日本が白人優位の世界秩序を変えたことを誇りに思わなければならない。

 

 日本の國の歴史に誇りを持つとは、歴史の中に生きた先人たちを大切にし、顕彰することにほかならない。大東亜戦争に殉じた英霊を崇敬し慰霊顕彰し、その遺徳を追慕するのは日本國民の心情である。皇軍兵士の勇戦奮闘は、わが國民が子々孫々に語り継ぐべき誇りである。

 

 その國の國民が祖國の歴史を如何に見るかは、その國の将来を決定する要素である。反省と謝罪の意識に責め苛まれる日本は亡國の道を歩むしかない。日本の國を愛し、日本の國の歴史に誇りを持つことが、今後の日本の発展と國民の幸福の基礎である。

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2018年8月 9日 (木)

昭和天皇と大東亜戦争

 

「終戦記念日」が近づいてきた。偏向メディアや國體破壊勢力は、「昭和天皇の戦争責任」なることについてまた色々と書き立て言い立てるであろう。否、偏向メディア・國體破壊勢力だけではない。保守政治家と言われる人物にも、先帝・昭和天皇陛下に対し奉り、「戦争責任」なるものを責め立てる人物がいる。亀井静香氏であ。亀井氏は、ある雑誌の平成二十八年十月号において、「昭和天皇は戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」と語った。

 

実に以て許し難い発言である。

 

昭和天皇は、大東亜戦争のいはゆる「戦争責任」をご自分一人で果たさうとされた。昭和天皇は、敗戦直後の昭和二十年八月二十九日午後十一時四十分、木戸幸一内大臣を呼んで次のように仰せになった。

 

「戦争責任者を連合國に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人が引き受けて退位でもして納めるわけにいかないだらうか」「戦犯といえども米國より見れば犯罪人ならんも我國にとりては功労者なり」(『木戸日記』・昭和二十年十二月七日)〉

 

すると木戸氏は「御退位を仰出さることは、皇室の基礎に動揺をまねき、その結果民主的國家組織(共和制)論を助成する恐れもある。十分慎重に相手方の出方を見て考究遊ばさるる要あるべし」と奉答した。(児島襄氏著『天皇』第五巻および高橋紘氏『象徴天皇』)

 

この木戸氏の奉答は正しい。もし、昭和天皇が終戦直後に「戦争責任を果たす」といふ理由で退位された場合、大変な混乱に陥ったであらう。

 

東久邇宮内閣は東條大将自決未遂を知ると、九月十二日朝、閣議を開き、戦争犯罪人を日本側で裁くことを決めた。東久邇宮首相が参内してこの「自主裁判」決定を上奏すると、昭和天皇は「敵側の所謂戦争犯罪人、ことに所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽したる人々なるに、之を天皇の名に於て処断するは不忍ところなる故、再考の余地なきや」と仰せになった。(児島襄氏著『天皇』第五巻)

 

昭和二十年九月二十七日に、昭和天皇はマッカーサーをお訪ねになり、「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されてゐるが責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼らに責任はない。私の一身はどうならうと構はない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか國民が生活に困らぬやう、連合國の援助をお願ひしたい」「私は、國民が戦争を成し遂げるにあたって、政治、軍事の両面で行なったすべての決定と行動に対する、全責任を負ふ者として、私自身をあなたの代表する諸國の裁きにゆだねるためにお訪ねした。日本國民は現在、飢餓に瀕してゐる。もうこれ以上日本國民を苦しめないでもらひたい。米國に是非食糧援助をお願ひしたい。皇室財産の有価証券類を持参したので、その費用の一部に当ててもらひたい」と仰せられた。

 

マッカーサーは後年、「私はこれを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとした位です。もし國の罪をあがなうことが出来ればすすんで絞首台に上ることを申出るといふ、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」(重光葵氏『天皇陛下を讃えるマ元帥』)「私は大きな感動にゆすぶられた。死をともなふほどの責任、それも私の知り尽くしてゐる諸事實に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けやうとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした。わたしはその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(『マッカーサー回想記』)と語った。

 

マッカーサーはまた、昭和天皇を讃嘆して「私ははじめて、神のごとき帝王を見た」「天皇陛下こそ新日本の生みの親である」と語ったといふ。

 

昭和天皇の大御心にマッカーサーは「骨のズイまで揺り動かす」ほどの感動を覚へたことは、占領政策に大きな影響を与へた。そして食糧援助が行はれるやうになった。實に戦争直後、國民が飢へから救はれたのは、ご自分を無にして國民を思はれる昭和天皇の御行動によるのである。日本國及び日本民族が今日あるのは、昭和天皇の御陰である。

 

小堀桂一郎氏は、「我々はこの時の陛下が、國民の悲哀と苦痛とを一身に引受け、身代りとなって敵将の絶對的威力の前に身をさらしてゐる一箇の苦しみ惱む神である、といふことを知ってゐた。この苦しむ神がその身を投げ出して我々を救って下さってゐるのだ、といふ尊い事實を直感してゐた」(『昭和天皇論・續』)と論じてゐる。

 

昭和天皇は、マッカーサーとのご會見において捨身無我の神のごとき大御心を発現されたのである。

 

「戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」などといふ亀井静香氏の主張は全く根拠がなく事實無根であり、昭和天皇に対するこの上ない冒瀆である。このような人物がかつて、政権政党の中枢にゐたことは實に以て由々しき事實であった。

 

昭和天皇は、昭和六十三年の『全國戦没者追悼式』にご臨席あそばされるため、那須の御用邸からヘリコプターで東京に向はれた。ヘリコプターから痩せ細ったお体でお降りになられる時の陛下のお姿を拝し、また『追悼式』でのおみ足の運びのたどたどしさを拝してもなほ、「天皇の戦争責任」なる者を云々する輩はそれこそ「人間ではない」と小生は思ふ。

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

さらに葦津氏は、「占領以来の『天皇責任論者』は『如何に弁護しようとも、天皇が強大な大権を有しながら、大戦を防ぎきれなかった責任は、決して否定しえない』などと未だに放言している。何たる暴言であるか。強大國米國のルーズベルトにせよ、英國のチャーチルにせよ、ソ連のスターリンにせよ、ローマの法王にせよ、大戦を防ぎ得なかったものが、この地上に唯の一人でもあり得たのか。彼らがいかなる『責任』を取ったのか。ただ地上において、その責任を日本の天皇のみに求めるとは、無理非礼も許しがたい。…聖上は皇祖皇宗に対して、戦没の國民に対して、『精神的』責任の深さを痛感して『五大為に裂く』と詔された。その御痛嘆の情は、いささかも変わらず、御老齢にて御健康御不例にもかかわらず、身体御不自由の身をもって追悼式に臨ませられた。この聖上への非礼を全的に絶滅することを得ないで、聖上のお姿を拝するわれらの感慨、切々としてただ涙流るるのみ」(『神社新報昭和六十三年八月二十二日掲載論文。『天皇 昭和から平成へ』所収)と述べてをられる。

 

亀井静香氏は「葦津珍彦先生はもう亡くなられたが、私も学生時代、教えを請いに鎌倉まで通っていた」と語ってゐるが、葦津珍彦氏の「教へ」に全く反する言辞をある雑誌で二回にわたって語ったのである。實に以て許し難いと言はざるを得ない。

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