2018年6月 1日 (金)

『排日移民法』について

日露戰爭勝利によって日本は、愈々アジアに於いて存在感を強めた。またわが国は大正八年のパリ講和会議(ヴェルサイユ会議)において「国際連盟規約」の前文に「各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則を是認し」との文言を盛り込むよう提案し「白色人種による人種差別撤廃」を主張した。これはアメリカイギリスなど反対によって実現しなかった。そしてアメリカなど日本に対する脅威感が強まった。

 

我国が関東大震災という大国難に際会した大正十二年の翌年、大正十三年(1924)71日に「排日移民法」が施行された。これはアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられた。当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになった。この「排日移民法」によって日本は大きな移民先を失ったため、その代替として満州を重視せざるを得なくなったとする見方が古くから存在する。

 

アメリカ人を妻に持ち。アメリカとの友好に力を盡し、日本の武士道をアメリカに紹介した新渡戸稲造氏は同法成立に衝撃を受け、二度と米国の地は踏まないと宣言した。それまで比較的親米的な感情を持っていた多くの日本人に与えた影響は大きかった。

 

 

昭和天皇は敗戦後、日米開戦の遠因として「(大東亜戦争の・注)原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず。黄白の差別感は以前残存しまた青島還附を強いられたこと亦然りである。加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に之を抑へることは容易な業ではない」(『昭和天皇独白録』)と仰せられた。

 

「排日移民法」は当時の日本人の名誉を傷つけ、反米感情を産み、やがて日米開戦の遠因となったのは疑いないところである。

 

ともかく西欧列強によるアジアアフリカ植民地支配からのアジアアフリカ解放、人種差別撤廃を主張するする日本と米英との対立が決定的となったのが「排日移民法」であった。

 

日露戦争後、アメリカが日本を仮想敵国としたことは明白な事実である。ことごとに日本を圧迫した。それには有色人種への差別意識が根底にあった。アメリカは建国以来征服国家である。そして日本もアメリカに対抗せざるを得なくなった。これは避けることのできない歴史の流れだった。

 

さらにソ連は日米を戦わせることによって、アジア・世界を赤化するという謀略工作を展開した。当時の日本はこうした二重の圧迫・謀略と戦わねばならなかった。

 

アメリカは人種差別によって成り立った國であると云っても過言ではない。アメリカの「建国」と「開拓」は、先住民所謂「インディアン」及びアフリカから連行してきた所謂「黒人奴隷」の犠牲を伴った。

以前、参観した東京芸術大学美術館に『米墨戦争 記挿図』(カール・ネベル作)が展示されていた。これは、日本に開国を迫るためにペリーが持ってきた絵である。アメリカがメキシコを軍事的に屈服させたことを主題とする絵画で、メキシコがアメリカに降伏する場面か描かれていた。ペリーがアメリカの軍事力をわが国に示すためにこういう絵を幕府に贈ったのだ。

 

「黒船来航」はまさに、日本を屈服させんとする砲艦外交だったのである。「日米修好」などと喜んでいい話ではない。

昭和二十年九月二日に行われた「降伏文書調印式」では、会場となったミズーリ艦上に、ペリーの黒船に掲げられた星条旗が掲げられたのは、日本はアメリカに二度目の屈服をしたということを示すためであったのだろう。

 

二〇〇一年九月十一日に、同時多発テロが起こった直後、当時のブッシュ大統領は「アメリカに攻撃を加えた國で殲滅されなかった國はない」という意味のことを言った。わが國を念頭に置いて言ったのであろう。

 

わが國の真珠湾攻撃は軍事施設に限られていたし、多数の民間人を道連れにはしなかった。それでもアメリカは、「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉としてわが國へのすさまじい報復攻撃を開始した。広島・長崎に原爆を落とされ、全國主要都市が焼夷弾・爆弾攻撃にさらされて殆ど焦土と化し、無数の罪の無い一般國民が爆殺され焼き殺された。

 

倉前盛通氏著『艶の発想』によれば、わが国に対する原爆投下の際、アメリカのトルーマン大統領は「早く投下しなければ、原子爆弾が都市住民にどんな被害を与えるか、テストする機会を逸する」と言ったという。これは米軍部の考えでもあったという。

 

アメリカは、わが国への原爆投下・無差別の焼夷弾・爆弾攻撃についての反省と謝罪は全くしていない。アメリカは、文明の国、自由と民主主義の国と言われるが、果たしてどうか。そもそも文明とは何か。自由と民主主義とは何か。反米感情を煽るわけではない。また、今日の情勢を考えると、日米同盟は大事である。『日米同盟』『日米友好』は大切だが、アメリカの残虐性、身勝手さ、独善性は忘れてはならない

 

近代の歩みに対する反省は必要だが、日本だけが侵略者とする戦後の歴史観は訂正されねばならない。これがある限り、日本はまともな国になり得ない。支那とアメリカに対して対等な関係を構築できない。

 

今日、中華帝国主義による日本侵略支配の危機が迫っている。日本はこれに如何に対処すべきか。それが今日におけるもっとも重大な問題である。歴史に学び、正しき歴史観を確立し、現代の危機に立ち向かわねばならない。中華帝国主義の侵略を打ち砕かねばならない。

 

今後の日本は、いかにして「中華帝国主義」の侵略そして北朝鮮の暴虐から祖国を守るかが最大の課題である。「日米自立」「日米安保破棄」を主張する人々がいる。しかしその根本に、まず以て日本の敗戦国意識の払拭そして日本の真の自立が確立されなければならない。日本こそ『強盛国家』にならねばならない。

 

ベトナム・イスラエルは大国ではないが、それなりの力を持ち、支那やロシアやアメリカの言いなりにならない。日本はこの点は見習わねばならない。支那・ロシア・アメリカの言いなりにならない国にならねばならない。

 

日本は、非核三原則などという誤った原則を墨守し、且つ、軍事力を全く否定した似非平和憲法を未だに破棄出来ないでいる国である。そればかりでなく日本は、現実に何時共産支那や北朝鮮から核攻撃を受けるかわからない危機に曝されている国である。

 

日本はかつてアメリカと戦った国であり、ベトナムやイラクと同じようにアメリカの空爆を受け、国土は焦土と化し、多くの国民が殺戮された国である。ベトナムやイラク以上にひどい目に遭った国が日本である。

 

大東亜戦争に敗北した後、日本は七年間もアメリカの軍事支配を受け、日本を弱体化することを目的とした憲法を押し付けられた。日本は、その占領憲法を後生大事に未だに押し戴いている。そして自分の国を自分で守ることのできない情けない国である。

 

アメリカ製の憲法を押し戴きアメリカの核の傘に入っている以上、国際問題、経済問題等々でアメリカに徹底的に逆らうことなど出来ないのである。まさに日本はアメリカの属国なのだ。否、いまだにアメリカの占領下から独立してはいないのである。だからトランプは日本に来た時、成田や羽田ではなく横田基地に来たのだ。

 

わが国がアメリカと対等の立場に立ち、言いたいことが言える国になるためには、核武装して自主防衛体制を確立し、自主憲法を制定し、真の独立国家として再生しなければならない。

 

日本国も核武装し自主防衛体制を確立し単独で支那共産帝国主義や北朝鮮と戦いこれを壊滅できる力を持つような国家になるよう努力すべきである。

ところが、日本の真の独立=アメリカの属国からの脱却を妨害して来たのが、自主憲法制定・自主防衛体制確立・核武装に反対してきた亡国政党=社民・共産・民進党左派・立憲民主党であり、偏向マスコミなのである。自民党の中にさえそういう連中がいる。

 

最近、国際的安保環境は大規模に変容している。とりわけ北東アジア情勢は極めて危険である。日本は正しき安保観・国防観を一刻も早く確立しなければならない。自主防衛体制=核武装を断行して、いかなる国からの攻撃・侵略も徹底的に排除する態勢を確立しなければならない。これが中華帝国主義打倒・対米自立の基礎である。そのために、日本国内の似非平和勢力・売国分子を糾さなければならない。

 

 日米安保体制の枠内で憲法9条がどうの、安保法制がどうの、といったことが大問題となった牧歌的な世界はもはや過去となった。日本も米国に軍事でも経済でも過度に依存しない「偉大な国」を目指せばいいだけの話である。

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2018年4月10日 (火)

西郷隆盛と大久保利通について

 鹿児島市内の加治屋町は、西郷隆盛・大久保利通など、明治維新そして明治日本において活躍した数多くの人々が生まれた町である。甲突川という川のほとりに西郷隆盛誕生の地がある。今は、公園になっていて『西郷隆盛誕生之地』と刻まれた石碑が建っている。

 

 西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

 「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

 各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので親近感を覚える。

 

 各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

 この郷中制度出身者には、西郷・大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安繹・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

 大久保利通は天保元年(一八三〇)八月十日、鹿児島城下高麗町で、西郷と同じく小姓組の家に生まれた。そして加治屋町に移転した。大久保もまた『郷中教育』の中で育った。大久保利通が「甲東」と号したのは甲突川という川のの東側で育ったからである。

 

 加治屋町からは桜島が眺められる。平野國臣が「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

 歴史を動かした西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、維新断行後は仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の厳しい一面を物語っている。

 

西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

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2018年4月 4日 (水)

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない。

 

『米国及び英国に対する宣戦の詔書』渙発が、いかに国民に感激を与へたかを示す文章及び歌を記させていただく。

 

保田與重郎氏「対米宣戦の大詔を拝し、皇國の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。…神命は常に國際謀略を霧消せしめ、万民草莽の苦衷は必ず大御心のしらしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」(『日記』)

 

河上徹太郎氏「遂に光栄ある秋が来た。…これまでの政府の抜かりないほうさくと手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。いまや一億国民の生まれ更る日である。…私は今本当に心からカラットした気持ちでゐられるのが嬉しくて仕様がないのだ。…混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『光栄ある日』)

 

青野季吉氏「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚へる。何といふ巨きな構想、構図であらう。」(『経堂襍記』)

 

折口信夫氏「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた。けれども、その日直に、十首近く口にのって作物が出來、その後も、日を隔てゝ幾首づゝ、何だか撞きあげるものゝやうに、出來たのである。」(『「天地に宣る」追ひ書き』)

 

そして折口信夫氏は次ぎのやうな歌を詠んだのである。

暁の霜にひゝきて 大みこゑ 聞えしことを 世語りにせむ

天地に響きとほりて 甚大(おぎろ)なる 神の御言(みこと)を くだし給へり

 

尾上柴舟

大勅捧げまつればおのづから心のふるへ手に及ぶかも

 

佐々木信綱

あなさやけ今日のさやけさ国つ敵(あだ)うてとし宣(の)らす大詔(おほみこと)くだる

 

土岐善麿

撃てと宣す大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に

 

中村武彦氏は、戦争直後獄中で「今こそ撃てと詔(みことのり)/承けて起ちたる暁の/あの一億の感激を/敗けたからとて忘られよか/そうだ敗けても国護る/大和魂われにあり」と歌った。

 

まさに昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできないと思ふ。況や「間違っていた」などと言ふのはあまりにも僭越である。靖國の英霊も、そして銃後でアメリカ軍の爆撃などによって斃れた無辜の國民も、ソ連に抑留され彼の地で非業の最期を遂げた多くの同胞も、さらに大東亜戦争に協力して戦い戦死された多くの東亜同胞も、犬死だったといふことになる。

 

このような歴史観では日本民族の誇り・自尊心を取り戻すことは出来ない。そればかりではなく、上御一人の『開戦の詔書』『終戦の詔書』を否定することとなる。

 

大東亜戦争を侵略戦争として断罪し、他国に謝罪することによって国際協力を果たそうとするのか、あるいは大東亜戦争の果たした役割と意味に誇りを持ち、歴史の継承から世界に貢献しようとするかは、同じ世界への寄与でも全く違ってくる。

 

大東亜戦争の開戦は、その目的においても實際の戦争においてもそして結果においても、自存自衛の戦ひであり、東亜解放の戦ひであった。わが國は米英が百年来、東亜諸國諸民族を侵略支配してゐる状況を掃攘するために宣戦を布告したである。即ち、明治維新の攘夷の戦ひをアジア的規模で遂行せんとしたのである。

 

欧米列強からの独立・解放が日本によって實現した今日、アジアにおいて大東亜共栄圏に近いものが生み出されている。『大東亜共同宣言』に謳われた理想はまさに実現しつつあるのである。

 

 

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『大東亜共同宣言』に示された日本の戦争理念

大東亜戦争開戦当初、日本軍が連合国軍を打ち破り破竹の進撃を続け欧米列強を駆逐したことは、長い間,欧米の植民地支配に喘いでいたアジア・アフリカの人々を勇気づけた。日本軍の捕虜となったイギリス軍インド人兵士の中からインド国民軍が結成された。そしてインド独立を達成すべく、日本軍と協力して「進めデリーへ」の合言葉のもとインドに向けて進撃した。インドネシアやビルマでも,日本の指導・援助で独立を目指す軍隊組織がつくられた。


 日本の指導者の中には,戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておく方が良いといふ考へも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたへるため,日本は昭和十八年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。


 日本はアジア諸国家に大東亜戦争への協力を求め,あはせてその結束を示すため、昭和十八年十一月六日、アジア諸国代表(日本・中華民国・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの六カ国および自由インド仮政府)を東京に集めて「大東亜会議」を開催した。

 

会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう『大東亜共同宣言』が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。署名した各国代表は、大日本帝国の東條英機総理、満州国の張景恵総理、中華民国南京政府の汪精衛行政院長、タイ国のワンワイタヤコーン殿下、フィリッピンのホセ・ぺ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、そしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班であった。この宣言は,連合国の『大西洋憲章』に対抗することを目指してゐた。

 

『大東亜共同宣言』には、各国が相提携して戦争を完遂し,大東亜をアメリカ・イギリスから解放して道義にもとづく共存共栄の秩序を建設し,大東亜の安定をはかるといふ理念がうたはれてゐた。

 

「            大東亞共同宣言

 
 

昭和十八年十一月六日「大東亜会議」にて採択

 

 

 

抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス        」

 

終戦後しばらくして東南アジアの国々の殆どが独立を達成した。戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早めるきっかけとなった。

 

日本が敗戦によって撤退したのち,インドネシアには,オランダが植民地支配を再開しやうとして復帰してきた。これに対し,戦時中,日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し,1949年独立を達成した。
 

インドでは,日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して,はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして,長く続いていた独立への気運がさらに高まり,インドは一九四七年,イギリスから独立した。そのほかにも,ビルマは戦後,植民地支配を再開したイギリスから改めて一九四八年に独立を勝ち取った。

かうした事実は、大東亜戦争においてわが国が戦争目的としたことが実現したことに外ならない。勝った國である米英ソよりも、日本の方が倫理的に高かったといふことである。
 深田佑介氏は、「極東国際軍事裁判による歴史観を見直すべき時期が到来している…この裁判においては、『民主主義対ファシズム』という対立図式を硬直的、教条的に適用し、戦時における日本の行動は全てファシズムによる悪と断罪した。この裁判に基く歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であった…大東亜会議は『アジアの傀儡を集めた茶番劇』では決してなかったのである。戦後、バー・モウは『歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、或いは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない』(『ビルマの夜明け』)で述べる。この誤解している諸国民の中に『日本国民』自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある」(『黎明の世紀』)と論じてゐる。

 

終戦時の関東軍作戦参謀・草地貞吾氏は、「十二月八日、いよいよ、大東亜戦争の発動となり、…赫々たる緒戦の戦果が、眠れる東亜諸人種・諸民族に与えた感作・影響は甚大なるものがあった。…大きな一撃が西欧の實力を破砕すると共に東亜全域の民心を覚醒した。…大東亜三十余國の独立は、この時成ったというも過言ではない。」「戦後半世紀の間に、新しく百二十を超える独立國が出現した。しかもその多くは大戦終わって間もなくの頃である。…壮大雄渾なる大東亜戦争の発動と、それに誘発奮起したアジア・アフリカ人種・民族の自決闘争総合の結果と言える。」「これほどすばらしい、これほど美しい歴史的行為・行動は、三千年の日本歴史上に無い。また、五千年の世界史上にも無い。實に大東亜戦争は、神武天皇以来、八紘一宇の皇謨による不可避の天命的大戦争であった。われらは今こそ、護國の礎となった靖國の英霊に無限の感謝を捧げると共に、挙國一致敢闘努力した、大東亜戦争の栄光を末長く伝えなければならない。」(『大東亜戦争大観論』)と論じてゐる。

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2018年2月10日 (土)

昭和十六年十二月八日の一億の感激

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない

 

『米国及び英国に対する宣戦の詔書』渙発が、いかに国民に感激を与へたかを示す文章及び歌を記させていただく。

 

保田與重郎氏「対米宣戦の大詔を拝し、皇國の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。…神命は常に國際謀略を霧消せしめ、万民草莽の苦衷は必ず大御心のしらしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」(『日記』)

 

河上徹太郎氏「遂に光栄ある秋が来た。…これまでの政府の抜かりないほうさくと手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。いまや一億国民の生まれ更る日である。…私は今本当に心からカラットした気持ちでゐられるのが嬉しくて仕様がないのだ。…混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『光栄ある日』)

 

青野季吉氏「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚へる。何といふ巨きな構想、構図であらう。」(『経堂襍記』)

 

折口信夫氏「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた。けれども、その日直に、十首近く口にのって作物が出來、その後も、日を隔てゝ幾首づゝ、何だか撞きあげるものゝやうに、出來たのである。」(『「天地に宣る」追ひ書き』)

 

そして折口氏は次ぎのやうな歌を詠んだのである。

 

暁の霜にひゝきて 大みこゑ 聞えしことを 世語りにせむ

天地に響きとほりて 甚大(おぎろ)なる 神の御言(みこと)を くだし給へり

 

尾上柴舟の歌

 大勅捧げまつればおのづから心のふるへ手に及ぶかも

 

佐々木信綱の歌

 あなさやけ今日のさやけさ国つ敵(あだ)うてとし宣(の)らす大詔(おほみこと)くだる

 

土岐善麿の歌

 撃てと宣す大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に

 

中村武彦氏は、戦争直後獄中で「今こそ撃てと詔(みことのり)/承けて起ちたる暁の/あの一億の感激を/敗けたからとて忘られよか/そうだ敗けても国護る/大和魂われにあり」と歌った。

 

まさに昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできないと思ふ。況や「間違っていた」などと言ふのはあまりにも僭越である。靖國の英霊も、そして銃後でアメリカ軍の爆撃などによって斃れた無辜の國民も、ソ連に抑留され彼の地で非業の最期を遂げた多くの同胞も、さらに大東亜戦争に協力して戦い、戦死された多くの東亜同胞も、犬死だったといふことになる。

 

このような歴史観では日本民族の誇り・自尊心を取り戻すことは出来ない。そればかりではなく、上御一人の『開戦の詔書』『終戦の詔書』を否定することとなる。

 

大東亜戦争を侵略戦争として断罪し、他国に謝罪することによって国際協力を果すのか、あるいは大東亜戦争の果たした役割と意味に誇りを持ち、歴史の継承から世界に貢献するのかは、同じ世界への寄与でも全く違ってくる。

 

欧米列強からの独立・解放が日本によって實現した今日、アジアにおいて大東亜共栄圏に近いものが生み出されてゐる。『大東亜共同宣言』に謳われた理想はまさに実現しつつあるのである。

 

問題は、日本がいまだに敗戦後遺症から脱却できないことである。これを正す事が今日最も大切であると信ずる。

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2018年2月 9日 (金)

『大東亜共同宣言』に示された日本の戦争理念

 

大東亜戦争開戦当初、日本軍が連合国軍を打ち破り破竹の進撃を続け欧米列強を駆逐したことは、長い間,欧米の植民地支配に喘いでいたアジア・アフリカの人々を勇気づけた。日本軍の捕虜となったイギリス軍インド人兵士の中からインド国民軍が結成された。そしてインド独立を達成すべく、日本軍と協力して「進めデリーへ」の合言葉のもとインドに向けて進撃した。インドネシアやビルマでも,日本の指導・援助で独立を目指す軍隊組織がつくられた。

 

日本の指導者の中には,戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておく方が良いといふ考へも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたへるため,日本は昭和十八年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。

 

日本はアジア諸国家に大東亜戦争への協力を求め,あはせてその結束を示すため、昭和十八年十一月六日、アジア諸国代表(日本・中華民国・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの六カ国および自由インド仮政府)を東京に集めて「大東亜会議」を開催した。

 

会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう『大東亜共同宣言』が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。署名した各国代表は、大日本帝国の東條英機総理、満州国の張景恵総理、中華民国南京政府の汪精衛行政院長、タイ国のワンワイタヤコーン殿下、フィリッピンのホセ・ぺ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、そしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班であった。この宣言は,連合国の『大西洋憲章』に対抗することを目指してゐた。

 

『大東亜共同宣言』には、各国が相提携して戦争を完遂し,大東亜をアメリカ・イギリスから解放して道義にもとづく共存共栄の秩序を建設し,大東亜の安定をはかるといふ理念がうたはれてゐた。

 

「            大東亞共同宣言

昭和十八年十一月六日「大東亜会議」にて採択

抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス        」

 

終戦後しばらくして東南アジアの国々の殆どが独立を達成した。戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早めるきっかけとなった。

 

日本が敗戦によって撤退したのち,インドネシアには,オランダが植民地支配を再開しやうとして復帰してきた。これに対し,戦時中,日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し,1949年独立を達成した。

 

インドでは,日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して,はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして,長く続いていた独立への気運がさらに高まり,インドは一九四七年,イギリスから独立した。そのほかにも,ビルマは戦後,植民地支配を再開したイギリスから改めて一九四八年に独立を勝ち取った。

 

かうした事実は、大東亜戦争においてわが国が戦争目的としたことが実現したことに外ならない。勝った國である米英ソよりも、日本の方が倫理的に高かったといふことである。

 

深田佑介氏は、「極東国際軍事裁判による歴史観を見直すべき時期が到来している…この裁判においては、『民主主義対ファシズム』という対立図式を硬直的、教条的に適用し、戦時における日本の行動は全てファシズムによる悪と断罪した。この裁判に基く歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であった…大東亜会議は『アジアの傀儡を集めた茶番劇』では決してなかったのである。戦後、バー・モウは『歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、或いは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない』(『ビルマの夜明け』)で述べる。この誤解している諸国民の中に『日本国民』自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある」(『黎明の世紀』)と論じてゐる。

 

終戦時の関東軍作戦参謀・草地貞吾氏は、「十二月八日、いよいよ、大東亜戦争の発動となり、…赫々たる緒戦の戦果が、眠れる東亜諸人種・諸民族に与えた感作・影響は甚大なるものがあった。…大きな一撃が西欧の實力を破砕すると共に東亜全域の民心を覚醒した。…大東亜三十余國の独立は、この時成ったというも過言ではない。」「戦後半世紀の間に、新しく百二十を超える独立國が出現した。しかもその多くは大戦終わって間もなくの頃である。…壮大雄渾なる大東亜戦争の発動と、それに誘発奮起したアジア・アフリカ人種・民族の自決闘争総合の結果と言える。」「これほどすばらしい、これほど美しい歴史的行為・行動は、三千年の日本歴史上に無い。また、五千年の世界史上にも無い。實に大東亜戦争は、神武天皇以来、八紘一宇の皇謨による不可避の天命的大戦争であった。われらは今こそ、護國の礎となった靖國の英霊に無限の感謝を捧げると共に、挙國一致敢闘努力した、大東亜戦争の栄光を末長く伝えなければならない。」(『大東亜戦争大観論』)と論じてゐる。

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2018年2月 7日 (水)

対米英戦争がわが國の自存自衛の戦ひであったことは

アメリカはわが国に対し真綿で首を絞めるやうなことをして来た

 

昭和天皇は、わが國が戦争に追ひ込まれて行った原因について、「原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分な物である。」「総理になった東條は、九月六日の午前会議の決定を白紙に還すべく、連日連絡会議を開いて一週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であった。…実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても戦った方が良いといふ考が決定的になったのは自然の勢と云はねばならぬ」(『昭和天皇独白録』)と仰せになってゐる。

 

小生は、鈴木貞一氏がテレビで、「資源が無いのに何故アメリカと戦争をしたのですか」との質問に対し「資源が無いから戦争をはじめたのだ」と答へてゐたこと鮮明に記憶している。

 

開戦前のアメリカによるわが国への圧迫は、①対日通商條約の一方的破棄(昭和十四年七月)②航空燃料の輸出禁止(昭和十五年七月)③屑鉄の輸出禁止(同年五月)④在米全日本資産の凍結(昭和十六年七月)⑤石油の全面禁輸(同年八月)といふものであり、まさに真綿で首を絞めるやうなことをして来たのである。

 

さらに、昭和十六年十一月二十六日、わが軍の仏印・支那大陸からの撤退、王精衛の南京国民政府及び満州国の否認、日独伊三国同盟の死文化を求める米国務長官コーデル・ハルの最後通牒=「ハル・ノート」を突き付けてきた。この「ハル・ノート」をについてパル判事は、「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して戈をとって起ちあがったであろう」(『パル判決書』)と書いてゐる。

 

わが国は、まさに「開戦の詔勅」に示されてゐる通り「帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ頻セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」といふ状況に立たされたのである。

 

佐藤優氏は、「日本国民は当時の国家指導者に騙されて戦争に突入したのでもなければ、日本人が集団ヒステリーに陥って世界制覇という夢想に取り憑かれたのでもない。日本は当時の国際社会のルールを守って行動しながら、じりじりと破滅に追い込まれていったのである。あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないか」(『日米開戦の真実』)と論じてゐる。

 

対米英戦争がわが國の自存自衛の戦ひであったことは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが、米上院外交合同委員会で、一九五一年五月三日、「原料の供給を断ち切られたら、一千万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」と証言したことによっても明らかである。

 

東條英機元総理はその「遺言」において、「英米諸国人ニ告グ…諸君ノ勝利ハ力ノ勝利ニシテ、正理公道ノ勝利ニアラズ。…大東亜戦争ハ彼ヨリ挑発セラレタルモノニシテ、我ハ国家生存、国民自衛ノ為、已ムヲ得ズ起チタルノミ。コノ経緯ハ昭和十六年十二月八日宣戦ノ大詔ニ特筆大暑セラレ、炳乎トシテ天日ノ如シ。故ニ若シ世界ノ公論ガ、戦争責任者ヲ追求セント欲セバ、其ノ責任者ハ我ニ在ラズシテ彼ニ在リ、乃チ彼国人中ニモ亦往々斯ク明言スルモノアリ。」と切言してゐる。

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わが国は、米英及びソ連によって戦争に追ひ込まれた

 

日本を戦争へと追ひ込んだのはソ連(ロシア)である。名目上は世界の共産化、実際には自国の権益の拡大・領土拡張を目指し、さらには日露戦争の仇を討ちたいソ連は、日本を取り潰す策謀を展開した。

 

曽野明氏(元外交官)は、「昭和七年(一九三二年)八月~九月のコミンテルン第一二回総會が行なった…決議には…米英仏日独といった『帝國主義列強』を互いに対立させ、戦争に追い込め、という戦略指令であった。日本について言えば、①日本を米國との戦争へ追い込め、②日本がソ連を攻撃するのを阻止せよ、ということであった。ソ連共産党の謀略機関も、ソ連政府の外交機関も、この目標に向けて一斉に活動した。ゾルゲ機関は、日本の政治中枢や軍部へ浸透をはかり(当時の青年将校の思想は、いわば『天皇制共産主義であった』であった)、米國との対決路線に追い込み、また、マスコミにも、國粋主義、排外主義(『鬼畜米英』)を吹き込んだ。一方、米國内では、排日機運の盛り上げが工作されていた。…『中立条約』の締結があったので、日本國民は『北辺の安寧』が保障されたと安心した。かくて、日本軍部の進路は米()との対決以外になくなったし、したがって日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである」と論じてゐる。

 

倉前盛通氏は、「尾崎秀実が対中国強硬論者の一人であったこと、対米開戦を最も叫んだ人間であったことは、戦後、故意にもみ消されて、あたかも平和の使者であったかのごとく、全く逆の宣伝が行われている。…日本が大陸にのめりこんで、国家の大方針を誤ったのは、①陸軍が、一九二〇年頃からドイツ型大陸地政学にかぶれ、大陸政策に深入りしたこと。②日本の目を大陸に向けさせ、海軍力の充実に回す予算を少なくさせようという米国の陰謀が裏にあったこと。この二つに大きな原因を見出すことができよう。…二・二六事件によって、『蒋介石と和解し、対ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々のほとんどが陸軍内部から排除され『シナ大陸への侵攻』を考えるグループによって陸軍の主導権が握られた…ここにも日中を戦わせようとする米ソ双方の巧妙きわまる陰謀工作が伏在していた」(『悪の論理』)と論じてゐる。

 

ソルゲと尾崎などのコミンテルンのエージェントたちは、当時わが國内で澎湃と湧き起こって来てゐた「國家革新」「東亜解放」といふ正義の主張をたくみに利用して、日本がソ連よりもアメリカ・イギリスを主敵とし、ソ連と戦ふよりも「米英を撃つべし」といふ世論を煽った。『革命の祖國・ソ連』を守る為に日本を「北進」させてはならず、そのために「南進論」を煽ったのである。また、日本と蒋介石政権の和平を図る動きを妨害したのもゾルゲと尾崎である。

 

尾崎を側近にした近衛文麿元総理は、社会主義に共感を覚えてゐた人であり、マルクス主義経済学者である河上肇を慕って東京帝大哲学科から京都帝大法科に移ったといふ経歴の持ち主である。近衛氏は、「防共反ソ」よりも「英米駆逐」に力を入れ南進論を主導した。わが國と蒋介石政権が全面戦争に突入した原因である西安事件も蘆溝橋事件も、ソ連と中共の謀略であったことは今日明らかになってゐる。

 

かくて、日本軍部の進路は米英との対決以外になくなり、日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである。

 

つまり、わが国は米英とソ連とによって挟撃される事態となった。わが国は、米英及びソ連によって戦争に追ひ込まれたのである。

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2018年2月 6日 (火)

大東亜戦争開戦と高村光太郎の詩

大東亜戦争の意義は、先帝陛下が「開戦の大詔」に明確にお示しになっている。「東亜の安定」と「自存自衛」の為に蹶然起って一切の障礙を破砕するための戦いであったのである。決してアジア諸国を侵略しようという戦いではなかった。東亜諸地域を侵略し支配していた米英との戦いであった。それはインド植民地化・阿片戦争など数百年にわたる欧米列強による東亜侵略への正義の抵抗であった。これを否定する勢力は、まさにわが国の光輝ある歴史を冒瀆し日本人の誇りを喪失せしめる元凶である。

 

詩人・高村光太郎は大東亜戦争開始時に以下の詩を書いている。当時の大多数の日本人の感激を吐露した詩であると思いう。

「   十 二 月 八 日

 

 記憶せよ、十二月八日

この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

 否定するものは我等ジヤパン、

 眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治しろしめたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

 強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

われらの否定は義による。

 東亜を東亜にかへせといふのみ。

 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

 老若男女みな兵なり。

 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 世界の歴史を両断する。

 十二月八日を記憶せよ。

 

(昭和161210日執筆、初出「婦人朝日」昭和171月号、詩集『大いなる日に』収録)

 

わが國混迷の根本原因は、「大東亜戦争は日本による一方的な侵略戦争だったのであり、これによってアジア諸國・諸民族に甚大な災厄をもたらした」「近代日本は侵略の歴史だった」という歴史認識が横行し、日本國民の多くが祖國の歴史に対する誇りを持てなくしていることにある。

 

祖國の歴史に誇りを持てなくなれば、國を愛し忠誠を誓うといふ最高の道義、國を護るという崇高な意志も喪失する。その結果、内政・外交・防衛・教育・文化等々あらゆる面においてわが國の混迷と弱体化をもたらす。今日の日本は正しくそういう状況にある。

 

「日本は侵略戦争をした悪い國である」という歴史観は、國家の基本法たる『日本國憲法』の「前文」にも麗々しく書かれてをり、且つ、終戦五十年の『内閣総理大臣談話』(閣議決定)にも書かれている。つまり「侵略戦争史観」はわが國の「國是」になっていると言っても過言ではない。

 

これでは、わが國は何年たっても、混迷から脱却してまともな國即ち道義國家・自主独立國家になることはできない。それどころか亡國への道を歩み続ける事となる。

 

わが国はなにゆえ大東亜戦争を戦わねばならなかったのか、そしてなぜ敗北したのかを正しく考察するべきである。そしてさらに、NHKや朝日新部などの偏向マスコミが喧伝する「東京裁判史観」「自虐史観」を否定し、「侵略者の烙印」を一日も早く徹底的に払拭しなければならない。

 

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2018年1月27日 (土)

半藤一利氏の祖国を貶める歴史観は全く間違ってゐる

半藤一利氏は、平成二十七年六月九日号の『朝日新聞』で、記者の質問に答へて次のやうに語った。「満州事変にしろ、上海事変にしろ、日本のやったことは、不戦条約違反であり、明らかな國際法違反だった」「日本國内だけの理屈ならば、『自存自衛』かも知れないが、國際社會の一員としては通用しない。日本はやはり戦争責任國なのです」「戦後の婦人参政権などが加わった新選挙法による國民の選良が、徹底的に討議して、GHQ案に日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えたものが憲法(『現行占領憲法』・注)です」に論じた。 

 

「満州事変」「上海事変」が当時の國際法に違反してゐたと言ふが、当時の國際社會において國際法に違反せずに対外戦略を實行した國はない。祖國日本のみを「違反した」と責め立てるのはあまりにも一方的な論議である。

 

半藤一利氏は「反戦」「反軍」の作家として永井荷風を評価し、『昭和史1926-1945』において度々永井荷風の『断腸亭日記』を引用して、当時の世相、軍及び政府、ナチスドイツを批判してゐる。

 

しかし、三月一日に満州國建國が行はれた昭和七年八月二十日の『断腸亭日記』には、「満州外交問題の記事誌面をうづむ。余窃に思ふに英國は世界到る處に領地を有す。然るに今日吾國が満洲占領の野心あるを喜ばざるは奇怪の至極といふべきなり。…畢竟強者の食たるに過ぎず。國家は國家として惡をなさざれば立つこと難く一個人は一個人として罪惡をなさざれば生存する事能はざるなり。之を思へば人生は悲しむべきものなり。天地間の生物は各其處を得て始めて安泰なり」と書かれてゐる。

 

永井荷風ですら当時の弱肉強食の世界情勢の中にあって、日本の自存自衛のための海外進出を止むを得ざることとしてゐたのである。

 

半藤氏はまた、「自存自衛」は「日本國内だけの理屈」と言ふが、日本にとって、「自存自衛」は、國が滅亡するか否か、國家民族の存亡をかけた大問題である。「國内だけ」などと言ふ言葉で片付けられる問題ではない。日本も「國際社會」の一員だったが、東亜侵略・植民地支配を行った欧米列強も言ふまでもなく「國際社會の一員」であった。日本のみが「國際社會の一員」として何処の國も守ってゐない「國際法」を遵守し國が滅びても良かったといふ理屈は全く成り立たない。

 

「占領憲法」の押しつけについても半藤氏は、「戦後の婦人参政権などが加わった新選挙法による國民の選良が、徹底的に討議した」などと言ってゐるが、戦争終了直後、國民の大多数が食ふや食はずの状態にあり、さらに海外にも未帰還同胞が多数ゐた。とても日本國民全体が憲法について真剣にそして徹底的に考へ論議する状況ではなかった。さうした時期に行はれた選挙、そしてその選挙で選ばれた議員が行った「討議」とそれに基づく「意思」が真の意味の「日本國民の自由に表明せられた意思」(『ポツダム宣言』)とすること到底できない。

 

半藤一利氏の好きな永井荷風は『断腸亭日乗』昭和二十二年五月三日の記述において「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より實施の由、笑ふべし」と記されてゐる。

 

荷風は、『現行占領憲法』は「日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えた憲法」即ち日本國民が自主的に作った憲法などとは全く思ってゐなかった。「占領憲法實施」を冷笑してゐたのだ。半藤一利氏の祖国を貶める歴史観は全く間違ってゐる。

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