2018年8月12日 (日)

ソ連こそ、第二次世界大戦における最悪最大の侵略国家だった

本日(平成三十年)八月十二日午後一時五十五分より、テレビ朝日で「真珠湾七七年目の真実」という番組で、日米開戦当時のアメリカ政府の中枢にソ連のスパイが数百人入り込み、日本とアメリカとが戰爭を開始すべく工作を行っておりそれず成功したというドキュメンタリーを放送した。

 

小生は、平成二十三年十二月発行の『政治文化情報』三百十三号で、要旨次のように論じた。

 

「ルーズヴェルト米大統領の周辺が共産主義者で固められてゐたのと同じく、日本でも、総理大臣時代の近衛文麿の周辺に共産主義者がゐた。

 

内閣書記官長(=現在の内閣官房長官)の風見章(親ソ系のマルキスト)、ゾルゲ事件の首謀者として死刑となった尾崎秀實(ソ連のスパイ)、日中講和の阻止に暗躍したとされる西園寺公一(中國共産党系のマルキスト)などである。

 

昭和十二年(一九三七)に内閣総理大臣となった近衛文麿が風見章を内閣書記官長に抜擢した時は、風見と全く面識がなかったといふ。風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣の嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

 

戦後になると風見は、昭和三十年(一九五五)一月にマルクス・レーニン主義政党である左派社會党に入党した。また、日ソ協會副會長、日中國交回復國民會議理事長、アジア・アフリカ連帯委員會代表委員、世界平和評議會評議委員として活動した。しかも風見章は尾崎秀實を「マルクス主義の殉教者」と評し、「わが尾崎が、絞首台にはこべる足音は、天皇制政権にむかって、弔いの鐘の響きであり、同時に、新しい時代へと、この民族を導くべき進軍ラッパではなかったか、どうか。解答は急がずともよかろう。歴史がまもなく、正しい判決を下してくれるにちがいない」 (『改造』昭和二十六年五月号) と書いた。風見が完全なる共産主義者であったことは明白である。

 

西園寺公一(公望の孫)は、イギリスのオックスフォード大學でマルクス主義の洗礼を受けたといはれる。近衛内閣が成立すると外務省嘱託・内閣嘱託を歴任した。尾崎秀實と共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたため、それが「國家機密漏洩」であるとして、「ゾルゲ事件」に連座したとされ、禁錮一年六月、執行猶予二年の判決を受けた。西園寺は昭和三十三年(一九五八)に日本共産党に入党する。日中共産党が対立状態になり、昭和四十二年(一九六七)二月、日共を除名された。西園寺もまた完全なる共産主義者であった。

 

近衛文麿は何故このやうな人物を内閣の中枢である書記官長そして機密を知り得る立場にあった内閣嘱託に任命したのであらうか。有体に言って近衛文麿は脇が甘かったと言はざるを得ない。

 

さらに小生は、平成二十四年二月十日発行の『政治文化情報』第三百十四号で次のように論じた。

 

「風見は書記官長になると、以前からの親友であった尾崎秀實を内閣嘱託に抜擢した。尾崎秀實が昭和十六年十月にゾルゲ事件で逮捕されると、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けた。

 

『根本瑛』(根本瑛先生追憶の書編纂委員會編)に収録されている愛國維新運動に挺身されてきた方々の根本瑛氏への追悼文に、風見章のことに触れた次のやうな文章があった。

 

塙三郎氏『そのころの先生(注・根本瑛氏)は、一つにも二つにも風見章に尽くしていた。風見に尽くす事は、國に尽くすと同意語であると確信していた。久しくして、風見に裏切られた時に、その倍に増して、風見を恨んだ。…戦後の風見は完全にその本性を現わした。彼は、尾崎秀實やゾルゲと共にして日本を裏切った人物であった。』

 

中村武彦氏『(注・根本瑛氏に)二度目にお目にかかったのは大東亜戦争の敗色すでに決定的となりつつあった十九年の秋であった。本間憲一郎先生の御伴をして帝國ホテルへ行った時…根本先生が居られて暫くお話をされた。…両先生の御話しをうかがっていた中に、風見章氏のことが出て両先生とも異口同音にその変節を嘆いておられたのが、強く記憶に残っている。根本先生は政治家風見章の後援者として知られ、風見氏の今日あるは先生のおかげだと云われていた。私どもも風見氏の行動を苦々しく思っていたのであるが先生にしてやはりその嘆きがあるのかと痛感したことは忘れられない。』

 

鈴木善一氏「國際共産主義運動の思想から、天皇制の廃止、共和制への移行を唱道したのが日本共産党であり、当時近衛内閣の書記官長としてスパイゾルゲ、尾崎秀實、西園寺公一、野坂参三らと行動を共にしたか、少なくとも便宜を計ったのが風見章である。根本博士は現状打破の点で風見の革新思想と一脈相通ずるかに見えたが、風見は共産主義、社會主義を友とし、長男は共産主義者であるということから、根本博士は風見と絶対に袂を別つことを決意し、晩年色々な人が両者の間を調停したが、頑としてこれだけは操守した。」

 

このやうに、同時代に生きた方々の証言を読めば、近衛文麿の側近だった風見章は、尾崎秀實と同志的関係にあり、尾崎のいはゆる「敗戦革命工作」に協力してゐたことは確實である。

 

尾崎秀實自身、処刑の直前に、自主的に意見を述べ、『自分は長く仮面をかぶった危険な潜行運動をした…自分たちの日本赤化運動は、すでにその目的を達し、日本はついに大戦争に突入し、擾乱は起こり、革命は必至である。自分の仕事が九分通り成功しながら、今その結果を見ずして死ぬのは、残念である。』と書き、『大東亜新秩序社會』が戦争の後に現れて、『世界共産革命』の一端を形作るという満足感を以て死に赴いたといふ。(保阪正康氏著『昭和史七つの謎』より引用)

 

尾崎秀實自身もその『獄中手記』に「内閣嘱託時代は毎日首相官邸に出勤し秘書官室下の地階の一室で仕事をする外秘書官室や、書記官長室には常に自由に出入し書記官長、秘書官等から内閣に来ている文書中仕事の上で必要とするものを見せられ或は私の方から申し出て必要なものを見せて貰うこともあり又此等の人達と話をする機會も多かった訳でありまして私はこれ等に依って現實の政治が如何に動きつつあるかを確實に知ることが出来ました。左様な訳で内閣嘱託たる地位にあった関係から此の重大な転換期に於ける國の政治の重要な動向を知り得たと同時に其の時々の政治情報等も容易に察知し得たのであります。此等の情報は勿論ゾルゲに報告すると共に政治動向に関する私の意見も述べて居るのであります。」と書いてゐる。

 

近衛内閣の内閣書記官長・秘書官・内閣嘱託といふ内閣中枢に「資本主義國家同士を戦争させ、共産國家が漁夫の利を得て、アジアそして世界を赤化する」といふ世界革命戦略を實行しつつあったソ連のスパイ・工作員・同調者たちが入り込み、対米英戦誘導や情報収集などの工作を行ってゐたのである。そして、日支及び日米関係分断を図ったのである。實に以て戦慄すべき事態であった。近衛文麿氏の『上奏文』における痛切なる反省の弁通りの事態であった。

 

内閣の中枢にソ連・國際共産主義運動組織のスパイ・工作員が入り込んでゐたのだから、参謀本部や陸海軍省などにも工作員が潜入してゐたと推測することができる」。

 

このやうに、わが国もアメリカもソ連の謀略によって戦争に追い込まれたのである。謀略活動を行ったソ連、そして戦争終結後もっとも領土を広げ覇権を広げたソ連こそ、第二次世界大戦における最悪最大の侵略国家だったのである。

 

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石破茂氏の歴史観について

この数日、たまりにたまった資料の整理をしているのだが、既に廃刊になってしまった『諸君』平成十九年三月号に掲載された論文と座談会で大変重大なことが語られ、書かれていたので紹介したい。

 

一つは、「防衛省誕生で日本は『普通の國』になれるか」という座談会で、今総裁選挙を戦っている石破茂氏は、「戦後レジーム脱却の核心があるとすれば、それは『集団的自衛権の行使を可能にすること』だろうと思います。私は『憲法改正しなくとも自衛権行使は可能』という論者ですが、日本が集団的自衛権を行使できるようにするには、以下の二つの歴史認識が不可欠です。まず第一は、『何故あのような戦争に突入してしまったのか?』という認識。なぜ勝ち目のない戦争に突入し、貴重な人命と財産をことごとく失い、国民には何も知らせないまま、破滅に陥ってしまったのかという視点です。第二は、先の戦争で日本がアジアの国々に対し、いかに多大な迷惑をかけたかに対する認識。私自身は、日中戦争はまぎれもなく侵略戦争だったと思いますし、一般人も巻き込んで大きな犠牲を強いたことは間違いないと率直に思います。『南京大虐殺はでっち上げ』『三十万も殺していない』という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、『他の國も同じような侵略をやっていた』という自己正当化の論理は、子供がよく言う『だって○○ちゃんのやってるもん』という言い訳と似たような発想です。迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と語っている。

 

私は防衛問題に関する石破氏の発言と言うか考え方には共鳴するところが多かったのだか、歴史観は大いに問題があると思っていた。今日この主張を讀んであらためてそのことを実感した。

 

「あの戦争」とひとくくりに言うが、満洲事変から日米戦争までの戦いが日本の一方的侵略であったという議論は全く成り立たない。歴史的事実に反する。「勝ち目のない戦争だった」という事は日米戦争で敗戦に追い込まれたからそう言われるのであって、満洲事変から日米戦争まで十年間の戦いは勝つために行ったし、始めから勝ち目がなかったなどということは全くない。事実、満洲国は建国されたし、支那大陸では日本は優勢な戦いを続けていた。

 

支那事変(所謂日中戦争)と日米戦争は、国際的謀略に引っかかって戰爭に追い込まれたのである。日本を戦争に追い込んだのはソ連とアメリカである。

 

「たとえ百人でも虐殺に変わりはない」などと言うのは全く最初から日本を悪者にしようという「反日思想」である。戦争は殺し合いである。まして敵の首都攻略において死者が出るのは当たり前である。それを「三十万人虐殺した」など言って日本を攻撃する支那の嘘八百をそのまま認めるわけにはいかない。それを百人でも三十万人でもで「虐殺は虐殺だ」などと日本の政治家か言うこと自体全く間違っている。

 

「迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と言うが、わが国は、「極東国際軍事裁判」という名の「復讐戦」に於いて、国家指導者が7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。またその他各地で行われた「戦犯裁判」という名の「復讐戦」に於いて数多くの人々が処刑され、投獄された。そしてわが国は七年間軍事占領され、さらにアジア各国に戦後賠償を行った。そればかりではない。戦後七十三年間、支那や韓国などに対して謝罪させられ続けている。これ以上どう「謝罪」すればいいのか。

 

石破茂氏は、左翼・反日主義者とほとんど同じ「自虐史観」を持っているのだ。もっとも自民党の有力政治家の中にも、古賀誠氏や河野洋平氏など石破氏と同じような考え方の人は多い。また、安倍晋三内閣総理大臣の「戦後70年談話」を讀むと、石破氏の歴史認識とそんなに変わりはない。実に以て困ったことである。

 

なお『諸君』の同じ号で西尾幹二氏は、「あの戦争(注・大東亜戦争)は非力なアジアの一国の自暴自棄の反乱だったのではない。始まる時には不安だったものの、ついにやったとの解放感もあり、勇気も湧き、希望も抱いていた。反西欧・反近代のナショナリズム、遅れて貧しいアジアの一国の捨て鉢な犯行ということですべて説明できる事態ではない。英米と互角だったからこそ可能になった、四年にもわたる長期戦である。単なる暴発でも、自爆でもない」「東京裁判は不法な政治裁判だった。共同謀議と言うあり得ない言いがかり、国際法が認めていなかった軍人や政治家の個人責任、戦争自体は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後立法的性格)という異邦、等々の国際法上の矛盾はつとに知られる」「敗戦国の指導者が裁判で裁かれるというついぞ例のない現実を、心ある当時の日本の法律関係者は、悪夢を見るような、幻覚を見るような思いで見つめていた」「昭和二十年九月十一日、東條英機大将は自決に失敗したが、AP通信に、『大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦いだったと自分は信じている。国民はよろしく戦いは正しかったという自信の下に大局の処置を誤らないように自重されたい』と所信表明をして、昏睡状態に入ったと当時の新聞は伝えている。政治指導者としての東條を評価するかどうかは別問題としても、この言葉の大意は素直に認めるべきで、私は多分この通りであったと共鳴している」(『勝者の裁き』―フセインと東條の『ここが違う』)と論じている。

 

西尾幹二氏の主張は全く正しい。大東亜戦争は決して侵略戦争ではなかった。アジアの国々に多大な迷惑をかけた戰爭では無かった。東亜解放の戦いであった。

この歴史の真実を日本の政治家たる者しっかりと正しく認識していなければなならない。

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2018年8月10日 (金)

大東亜戦争の意義と『終戦記念日』

 毎年八月十五日の『終戦記念日』が近づくと思うことは、『終戦記念日』が「一億総懺悔」の暗く、重苦しく、憂鬱な日になってしまっていることである。これは、偏向マスコミ・左翼文化人たちをはじめとする反日勢力による『大東亜戦争侵略論』『戦没者は侵略戦争の駆り立てられた犠牲者』という宣伝が功を奏しているからである。

 

 しかし『終戦記念日』は断じて一億総懺悔の日ではない。先帝・昭和天皇陛下の『終戦の大詔』に、「道義を篤くし志操を鞏(かた)くし、誓って國体の精華を発揚し世界の進運に後(おく)れざらむことを期すべし」と示されているとおり、祖國日本の正しき発展のための出発の日である。

 

 先帝陛下は『終戦の大詔』においてさらに「同胞排擠(はいさい)互に時局を乱(みだ)り為に大道を誤り信義を世界の失ふが如きは朕最も之を戒む」と示されている。

 

このお言葉はまさに今日の日本の現状をそのまま予言されていると拝するべきである。先帝陛下の大御心を疎んじ奉ってきたことが、今日の日本の混迷の原因である。『終戦記念日』において道義國家建設の誓いを新たにするのが、政治家はもちろん全國民の義務であり責任である。

           

 祖國日本が近代において、欧米列強の侵略支配に抗して祖國の独立を維持し続けただけでなく、アジア解放に努力した歴史に対して、日本國民が誇りを持ち、先人たちに感謝し慰霊すべきなのである。

 

しかるに、今日の日本の多くの國民が、國内外の反日勢力の洗脳・宣伝によって、東京裁判史観・大東亜戦争侵略戦争論に汚染され、祖國への誇りと自信を喪失している。そして、日本近代史を「近隣諸國への侵略の歴史であった」として罪の意識のみを持ち先人を冒する風潮が横溢している。こうしたことは一刻も早く是正されねばならない。

 

 我々日本國民が日本近代史をどうとらえるかが、今日の日本人の精神構造やその國家観に大きな影響を与え、現実の政治・外交・教育など全てにわたることを規定する。

 

 近代日本が弱肉強食の世界で生き抜き、西欧列強の侵略に抗して独立を維持していくために、「富國強兵」「殖産興業」の合い言葉のもと近代國家建設を行ったことは、わが日本民族が誇りにすべき事実である。また、明治維新以後の日本の海外進出そしてその到達点としての大東亜戦争が、日本の一方的な侵略であったという歴史観は全く誤りである。

 

 近代日本史および大東亜戦争の正しき意義を認識し、國内外の亡國勢力・反日勢力を一掃することが、國家民族の緊急の課題である。

 

 一五世紀から一七世紀前半にかけて西欧諸國が航海・探検により海外進出を行った大航海時代から白人による世界支配が開始され、特に一九世紀の最後の四半世紀は帝國主義植民地獲得競争の最盛期であり、アフリカ全土が分割され、アジア・太平洋地域のほとんどが欧米の植民地となった。

 

 白色人種の帝國主義植民地獲得競争の波を世界で初めて阻止したのが日露戦争であり、今まで圧迫されてきた有色人種のナショナリズムを覚醒させ、各地に独立運動を発展させる端緒となった。

 

 シンガポールは英國のみならず白色人種のアジア支配の象徴であった。大東亜戦争開始直後における日本軍によるシンガポール陥落は、欧米のアジア支配の終焉を告げる弔鐘であった。チャーチルも「英帝國が終焉した理由は、英軍がアジア人の前で日本軍に惨敗したからである」と述べた。東南アジア諸國が独立したのは大東亜戦争が契機となったのであり、やがて植民地独立の波は全世界に広がり、アフリカに及んだ。

 

 欧米の植民地支配を終末に導いた日本に憎しみをぶつけ、再び日本が欧米の覇権を揺るがせないように弱体化しようとしたのが連合國の日本弱体化政策であり、その第一歩が「東京國際軍事裁判」であり、これに続くものが「占領憲法」であった。

 

 東京裁判では帝國主義植民地獲得競争の時代を除いて満洲事変以降のみを裁判の対象とし、日本に対する米英蘭などの包囲陣の形成と経済圧迫などの挑発や、支那における共産勢力の浸透の脅威に関する反証資料の多くを却下した。日本無罪論を唱えたインドのパール判事などの少数意見を無視し、筋書き通りに大東亜戦争を日本の軍部を中心とする共同謀議による侵略戦争として専ら日本を断罪した。

 

 戦勝國の日本占領政策は、東京裁判・神道指令・憲法の押しつけ・厳格な言論統制などを通じて日本人の精神面の弱体化を徹底した。有史以来未曾有の敗戦と異民族支配に動顛した日本は、東京裁判史観即ち大東亜戦争侵略論に汚染され、それは今日に至るまで続いている。

 

 戦争については國家意思が何処にあったかで判断すべきである。『開戦の詔書』には『自存自衛』『東亜の安定の確保』『世界の平和に寄与』『萬邦共栄の楽を偕にする』と示されている。白色人種の植民地だった東亜の解放が戦争目的だったのである。我ら日本人は、日本が白人優位の世界秩序を変えたことを誇りに思わなければならない。

 

 日本の國の歴史に誇りを持つとは、歴史の中に生きた先人たちを大切にし、顕彰することにほかならない。大東亜戦争に殉じた英霊を崇敬し慰霊顕彰し、その遺徳を追慕するのは日本國民の心情である。皇軍兵士の勇戦奮闘は、わが國民が子々孫々に語り継ぐべき誇りである。

 

 その國の國民が祖國の歴史を如何に見るかは、その國の将来を決定する要素である。反省と謝罪の意識に責め苛まれる日本は亡國の道を歩むしかない。日本の國を愛し、日本の國の歴史に誇りを持つことが、今後の日本の発展と國民の幸福の基礎である。

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2018年8月 9日 (木)

昭和天皇と大東亜戦争

 

「終戦記念日」が近づいてきた。偏向メディアや國體破壊勢力は、「昭和天皇の戦争責任」なることについてまた色々と書き立て言い立てるであろう。否、偏向メディア・國體破壊勢力だけではない。保守政治家と言われる人物にも、先帝・昭和天皇陛下に対し奉り、「戦争責任」なるものを責め立てる人物がいる。亀井静香氏であ。亀井氏は、ある雑誌の平成二十八年十月号において、「昭和天皇は戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」と語った。

 

実に以て許し難い発言である。

 

昭和天皇は、大東亜戦争のいはゆる「戦争責任」をご自分一人で果たさうとされた。昭和天皇は、敗戦直後の昭和二十年八月二十九日午後十一時四十分、木戸幸一内大臣を呼んで次のように仰せになった。

 

「戦争責任者を連合國に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人が引き受けて退位でもして納めるわけにいかないだらうか」「戦犯といえども米國より見れば犯罪人ならんも我國にとりては功労者なり」(『木戸日記』・昭和二十年十二月七日)〉

 

すると木戸氏は「御退位を仰出さることは、皇室の基礎に動揺をまねき、その結果民主的國家組織(共和制)論を助成する恐れもある。十分慎重に相手方の出方を見て考究遊ばさるる要あるべし」と奉答した。(児島襄氏著『天皇』第五巻および高橋紘氏『象徴天皇』)

 

この木戸氏の奉答は正しい。もし、昭和天皇が終戦直後に「戦争責任を果たす」といふ理由で退位された場合、大変な混乱に陥ったであらう。

 

東久邇宮内閣は東條大将自決未遂を知ると、九月十二日朝、閣議を開き、戦争犯罪人を日本側で裁くことを決めた。東久邇宮首相が参内してこの「自主裁判」決定を上奏すると、昭和天皇は「敵側の所謂戦争犯罪人、ことに所謂責任者は何れも嘗ては只管忠誠を尽したる人々なるに、之を天皇の名に於て処断するは不忍ところなる故、再考の余地なきや」と仰せになった。(児島襄氏著『天皇』第五巻)

 

昭和二十年九月二十七日に、昭和天皇はマッカーサーをお訪ねになり、「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されてゐるが責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼らに責任はない。私の一身はどうならうと構はない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか國民が生活に困らぬやう、連合國の援助をお願ひしたい」「私は、國民が戦争を成し遂げるにあたって、政治、軍事の両面で行なったすべての決定と行動に対する、全責任を負ふ者として、私自身をあなたの代表する諸國の裁きにゆだねるためにお訪ねした。日本國民は現在、飢餓に瀕してゐる。もうこれ以上日本國民を苦しめないでもらひたい。米國に是非食糧援助をお願ひしたい。皇室財産の有価証券類を持参したので、その費用の一部に当ててもらひたい」と仰せられた。

 

マッカーサーは後年、「私はこれを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとした位です。もし國の罪をあがなうことが出来ればすすんで絞首台に上ることを申出るといふ、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」(重光葵氏『天皇陛下を讃えるマ元帥』)「私は大きな感動にゆすぶられた。死をともなふほどの責任、それも私の知り尽くしてゐる諸事實に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けやうとする。この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでも揺り動かした。わたしはその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである」(『マッカーサー回想記』)と語った。

 

マッカーサーはまた、昭和天皇を讃嘆して「私ははじめて、神のごとき帝王を見た」「天皇陛下こそ新日本の生みの親である」と語ったといふ。

 

昭和天皇の大御心にマッカーサーは「骨のズイまで揺り動かす」ほどの感動を覚へたことは、占領政策に大きな影響を与へた。そして食糧援助が行はれるやうになった。實に戦争直後、國民が飢へから救はれたのは、ご自分を無にして國民を思はれる昭和天皇の御行動によるのである。日本國及び日本民族が今日あるのは、昭和天皇の御陰である。

 

小堀桂一郎氏は、「我々はこの時の陛下が、國民の悲哀と苦痛とを一身に引受け、身代りとなって敵将の絶對的威力の前に身をさらしてゐる一箇の苦しみ惱む神である、といふことを知ってゐた。この苦しむ神がその身を投げ出して我々を救って下さってゐるのだ、といふ尊い事實を直感してゐた」(『昭和天皇論・續』)と論じてゐる。

 

昭和天皇は、マッカーサーとのご會見において捨身無我の神のごとき大御心を発現されたのである。

 

「戦いに敗れた後、勝者による戦争責任の追及が進む流れの中で、東京裁判に東条英機以下七人の首を差し出された」などといふ亀井静香氏の主張は全く根拠がなく事實無根であり、昭和天皇に対するこの上ない冒瀆である。このような人物がかつて、政権政党の中枢にゐたことは實に以て由々しき事實であった。

 

昭和天皇は、昭和六十三年の『全國戦没者追悼式』にご臨席あそばされるため、那須の御用邸からヘリコプターで東京に向はれた。ヘリコプターから痩せ細ったお体でお降りになられる時の陛下のお姿を拝し、また『追悼式』でのおみ足の運びのたどたどしさを拝してもなほ、「天皇の戦争責任」なる者を云々する輩はそれこそ「人間ではない」と小生は思ふ。

 

葦津珍彦氏は、「(昭和天皇に・註)戦争の惨禍を受けた人々に詫びる御気持ちが薄いといふ人がゐることを私は知ってゐる。しかし昨年(昭和六十三年・註)、最後の御臨席となった戦没者追悼の會へお出ましなさるために、ヘリコプターで那須から東京へお帰りになった時のお姿を拝してさへ、なほ先帝のお気持ちを感得できぬ者は、人としての人情を解さぬ者である」(『悲史の帝』・「文藝春秋特別号 大いなる昭和」所収)と述べてゐる。

 

さらに葦津氏は、「占領以来の『天皇責任論者』は『如何に弁護しようとも、天皇が強大な大権を有しながら、大戦を防ぎきれなかった責任は、決して否定しえない』などと未だに放言している。何たる暴言であるか。強大國米國のルーズベルトにせよ、英國のチャーチルにせよ、ソ連のスターリンにせよ、ローマの法王にせよ、大戦を防ぎ得なかったものが、この地上に唯の一人でもあり得たのか。彼らがいかなる『責任』を取ったのか。ただ地上において、その責任を日本の天皇のみに求めるとは、無理非礼も許しがたい。…聖上は皇祖皇宗に対して、戦没の國民に対して、『精神的』責任の深さを痛感して『五大為に裂く』と詔された。その御痛嘆の情は、いささかも変わらず、御老齢にて御健康御不例にもかかわらず、身体御不自由の身をもって追悼式に臨ませられた。この聖上への非礼を全的に絶滅することを得ないで、聖上のお姿を拝するわれらの感慨、切々としてただ涙流るるのみ」(『神社新報昭和六十三年八月二十二日掲載論文。『天皇 昭和から平成へ』所収)と述べてをられる。

 

亀井静香氏は「葦津珍彦先生はもう亡くなられたが、私も学生時代、教えを請いに鎌倉まで通っていた」と語ってゐるが、葦津珍彦氏の「教へ」に全く反する言辞をある雑誌で二回にわたって語ったのである。實に以て許し難いと言はざるを得ない。

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2018年7月15日 (日)

「日本は満洲を侵略した」というのは全くの嘘出鱈目である

「日本は満洲を侵略した」というのは全くの嘘出鱈目である

 

満洲建國は断じてわが國の侵略ではない。侵略とは、「他國の支配下の土地等を、侵入して奪い取ること」と定義される。しかし、満洲は本来的に支那の領土ではない。また、満洲は独立主権國家ではなく諸民族が混在する無主の地であった。

 

『後漢書東夷伝』に、「九夷」ということが書かれているが、朝鮮・満洲・日本がその中に入っている。満洲は朝鮮・日本と同じく「東夷」であり支那人の言う「中華」ではないのである。萬里の長城の内と外とは有史以来敵対する世界であり、共存できない摩擦と衝突が繰り返されてきた。萬里の長城の外は歴史的に支那ではない。漢民族にとって満洲族は東夷(野蛮人)、満洲は化外の地であり、萬里の長城の北側である満洲は、「絶対に一緒になりたくない世界」ではあっても「絶対不可分の固有の領土」ではなかったのである。

 

明治三十八年(一九○五年)八月二十日、孫文が東京で結成した『中國革命同盟會』の綱領には「韃虜(北方の異民族満洲人乃ち清朝に対する蔑称)を追い払い、中華を回復し、民國を創立し、地権を平均しよう」とある。

 

革命党は、強烈な民族主義を主張し、満洲王朝の打倒を主張した。そして満洲人をイギリス人と同じような異民族と断じた。満洲を外地・外國と考えていた。日本人に対して孫文は、「日本は大いに満洲に進出したがいい」と言った。

 

孫文はまた、「余は人民自ら己を治むるを以て政治の極則なるを信ず。故に政治の精神に於ては共和主義を執る。…況や清虜(満洲人への蔑称)政柄を執る茲に三百年。人民を愚にするを以て治世の第一義となし、その膏血を絞るを以て官人の能事となす。…試みに清虜の悪政に浴せざる僻地荒村に到り見よ。彼等は現に自ら治むるの民たるなり」と論じた。(宮崎滔天の『三十三年之夢』)

 

明治四十四年(一九一一)の辛亥革命は「反清復明」(清朝に反対して明朝を復元する)「滅満興漢」(支那大陸を征服し漢民族を支配していた満洲族を滅ぼして漢民族を復興する)を合言葉にして行われた。辛亥革命後の中華民國にとっても、満洲は正に化外の地であった。それは日本統治下に入る以前の台湾と同じである。

 

孫文が、革命の資金援助交渉で、満洲を日本に売却する交渉をしたのも、孫文が満洲を自國領と考えていなかったからである。明治四○年(一九○七)一月、日本に亡命していた孫文は、東京で「革命の目的は『滅満興漢』である。日本がもし支那革命を援助してくれるというのなら成功の暁には満蒙を謝礼として日本に譲ってもよい」と演説した。自國の領土を外國に売り渡す「革命家」「愛國者」がいるだろうか。

 

以上のように「日本は満洲を中國から奪った」「日本は満洲を侵略した」というのは全くの嘘出鱈目である。日本が満洲に進出しても、わが國が支那を侵略したことには全くならないのである。

 

満洲は清朝崩壊後、馬賊(清末から満洲に横行した群盗。馬に財貨を積んだ隊商の宿泊地などを襲い馬ごと略奪した)や軍閥が跳梁跋扈する地となった。軍閥の支配は文字通り苛斂誅求で民衆は苦しめられていた。

 

わが國は、日露戦争勝利後、明治三八年(一九○五)五月、「ポーツマス条約」により合法的に、南満洲鉄道とその付属地(関東州)の権益をロシアより譲り受けて、鉄道を敷設し産業開発と治安維持に努力した。そして毎年百萬人の漢民族が支那大陸の戦乱を逃れて満洲に流入した。辛亥革命当時は千八百萬だった満洲の人口は、満洲事変の頃には三千萬に達した。

 

共産革命後のロシアも、アジア赤化=侵略の前線基地として満州を手に入れようとして「中国共産党」を支援して反日闘争を展開した。満洲は日本防衛すなわち自存自衛のための生命線だったのである。

 

わが國軍民は「ポーツマス条約」に基づいて合法的に満洲に在留していた。そして、日本軍によって満洲の治安が回復した。わが國は、「五族(日・満・蒙・韓・漢)協和」「王道楽土」の理想國家を作ることによって満洲に住む人々に平和と繁榮をもたらした。

 

満洲國では、各種の改革が実行され、土地の農地化・重工業の発展・治安の向上が実現し、混乱の続く支那大陸をはるかにしのぐ安定した國家建設が行われた。多くの民衆は不安と恐怖と貧困と飢えから解放された。他の地域にいた民衆が年間百萬人前後満洲に移住してきて人口はさらに急増し、満洲事変前の人口は三千萬人であったのに、十年後の一九四一年(昭和一六年)には四千三百萬人になった。これは、満洲という地域が、日本軍によって侵略され、日本によって植民地支配され、搾取され、民衆は虐待され、虐殺され、酷い目に遭ったという説が、全くの嘘出鱈目であることを証明する数字である。

 

満洲國建國以前は農林業しかできなかった満洲が、自動車・戦闘機まで生産する一大工業國になった。日本の國家予算が年間二○億円だった時代に、日本は満洲に対して十数年間で一三○億円前後の資本投下を行ったのである。

 

満洲事変はわが國による侵略では絶対にないし、満洲建國はわが國による搾取が行われた植民地支配では絶対にない。西欧列強がアジア・アフリカ・中南米などで行ってきた植民地支配・収奪・搾取とは全く異なる。近代國家建設の理想と情熱で満洲を開発し、十三年半という短期間に近代國家を作り上げたのはまさに奇跡である。わが民族は、満洲事変は自存・自衛のための止むを得ざる作戦であると認識し、満洲建國を誇りとしなければならない。

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2018年6月 1日 (金)

『排日移民法』について

日露戰爭勝利によって日本は、愈々アジアに於いて存在感を強めた。またわが国は大正八年のパリ講和会議(ヴェルサイユ会議)において「国際連盟規約」の前文に「各国の平等及びその国民に対する公正待遇の原則を是認し」との文言を盛り込むよう提案し「白色人種による人種差別撤廃」を主張した。これはアメリカイギリスなど反対によって実現しなかった。そしてアメリカなど日本に対する脅威感が強まった。

 

我国が関東大震災という大国難に際会した大正十二年の翌年、大正十三年(1924)71日に「排日移民法」が施行された。これはアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられた。当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになった。この「排日移民法」によって日本は大きな移民先を失ったため、その代替として満州を重視せざるを得なくなったとする見方が古くから存在する。

 

アメリカ人を妻に持ち。アメリカとの友好に力を盡し、日本の武士道をアメリカに紹介した新渡戸稲造氏は同法成立に衝撃を受け、二度と米国の地は踏まないと宣言した。それまで比較的親米的な感情を持っていた多くの日本人に与えた影響は大きかった。

 

 

昭和天皇は敗戦後、日米開戦の遠因として「(大東亜戦争の・注)原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず。黄白の差別感は以前残存しまた青島還附を強いられたこと亦然りである。加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に之を抑へることは容易な業ではない」(『昭和天皇独白録』)と仰せられた。

 

「排日移民法」は当時の日本人の名誉を傷つけ、反米感情を産み、やがて日米開戦の遠因となったのは疑いないところである。

 

ともかく西欧列強によるアジアアフリカ植民地支配からのアジアアフリカ解放、人種差別撤廃を主張するする日本と米英との対立が決定的となったのが「排日移民法」であった。

 

日露戦争後、アメリカが日本を仮想敵国としたことは明白な事実である。ことごとに日本を圧迫した。それには有色人種への差別意識が根底にあった。アメリカは建国以来征服国家である。そして日本もアメリカに対抗せざるを得なくなった。これは避けることのできない歴史の流れだった。

 

さらにソ連は日米を戦わせることによって、アジア・世界を赤化するという謀略工作を展開した。当時の日本はこうした二重の圧迫・謀略と戦わねばならなかった。

 

アメリカは人種差別によって成り立った國であると云っても過言ではない。アメリカの「建国」と「開拓」は、先住民所謂「インディアン」及びアフリカから連行してきた所謂「黒人奴隷」の犠牲を伴った。

以前、参観した東京芸術大学美術館に『米墨戦争 記挿図』(カール・ネベル作)が展示されていた。これは、日本に開国を迫るためにペリーが持ってきた絵である。アメリカがメキシコを軍事的に屈服させたことを主題とする絵画で、メキシコがアメリカに降伏する場面か描かれていた。ペリーがアメリカの軍事力をわが国に示すためにこういう絵を幕府に贈ったのだ。

 

「黒船来航」はまさに、日本を屈服させんとする砲艦外交だったのである。「日米修好」などと喜んでいい話ではない。

昭和二十年九月二日に行われた「降伏文書調印式」では、会場となったミズーリ艦上に、ペリーの黒船に掲げられた星条旗が掲げられたのは、日本はアメリカに二度目の屈服をしたということを示すためであったのだろう。

 

二〇〇一年九月十一日に、同時多発テロが起こった直後、当時のブッシュ大統領は「アメリカに攻撃を加えた國で殲滅されなかった國はない」という意味のことを言った。わが國を念頭に置いて言ったのであろう。

 

わが國の真珠湾攻撃は軍事施設に限られていたし、多数の民間人を道連れにはしなかった。それでもアメリカは、「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉としてわが國へのすさまじい報復攻撃を開始した。広島・長崎に原爆を落とされ、全國主要都市が焼夷弾・爆弾攻撃にさらされて殆ど焦土と化し、無数の罪の無い一般國民が爆殺され焼き殺された。

 

倉前盛通氏著『艶の発想』によれば、わが国に対する原爆投下の際、アメリカのトルーマン大統領は「早く投下しなければ、原子爆弾が都市住民にどんな被害を与えるか、テストする機会を逸する」と言ったという。これは米軍部の考えでもあったという。

 

アメリカは、わが国への原爆投下・無差別の焼夷弾・爆弾攻撃についての反省と謝罪は全くしていない。アメリカは、文明の国、自由と民主主義の国と言われるが、果たしてどうか。そもそも文明とは何か。自由と民主主義とは何か。反米感情を煽るわけではない。また、今日の情勢を考えると、日米同盟は大事である。『日米同盟』『日米友好』は大切だが、アメリカの残虐性、身勝手さ、独善性は忘れてはならない

 

近代の歩みに対する反省は必要だが、日本だけが侵略者とする戦後の歴史観は訂正されねばならない。これがある限り、日本はまともな国になり得ない。支那とアメリカに対して対等な関係を構築できない。

 

今日、中華帝国主義による日本侵略支配の危機が迫っている。日本はこれに如何に対処すべきか。それが今日におけるもっとも重大な問題である。歴史に学び、正しき歴史観を確立し、現代の危機に立ち向かわねばならない。中華帝国主義の侵略を打ち砕かねばならない。

 

今後の日本は、いかにして「中華帝国主義」の侵略そして北朝鮮の暴虐から祖国を守るかが最大の課題である。「日米自立」「日米安保破棄」を主張する人々がいる。しかしその根本に、まず以て日本の敗戦国意識の払拭そして日本の真の自立が確立されなければならない。日本こそ『強盛国家』にならねばならない。

 

ベトナム・イスラエルは大国ではないが、それなりの力を持ち、支那やロシアやアメリカの言いなりにならない。日本はこの点は見習わねばならない。支那・ロシア・アメリカの言いなりにならない国にならねばならない。

 

日本は、非核三原則などという誤った原則を墨守し、且つ、軍事力を全く否定した似非平和憲法を未だに破棄出来ないでいる国である。そればかりでなく日本は、現実に何時共産支那や北朝鮮から核攻撃を受けるかわからない危機に曝されている国である。

 

日本はかつてアメリカと戦った国であり、ベトナムやイラクと同じようにアメリカの空爆を受け、国土は焦土と化し、多くの国民が殺戮された国である。ベトナムやイラク以上にひどい目に遭った国が日本である。

 

大東亜戦争に敗北した後、日本は七年間もアメリカの軍事支配を受け、日本を弱体化することを目的とした憲法を押し付けられた。日本は、その占領憲法を後生大事に未だに押し戴いている。そして自分の国を自分で守ることのできない情けない国である。

 

アメリカ製の憲法を押し戴きアメリカの核の傘に入っている以上、国際問題、経済問題等々でアメリカに徹底的に逆らうことなど出来ないのである。まさに日本はアメリカの属国なのだ。否、いまだにアメリカの占領下から独立してはいないのである。だからトランプは日本に来た時、成田や羽田ではなく横田基地に来たのだ。

 

わが国がアメリカと対等の立場に立ち、言いたいことが言える国になるためには、核武装して自主防衛体制を確立し、自主憲法を制定し、真の独立国家として再生しなければならない。

 

日本国も核武装し自主防衛体制を確立し単独で支那共産帝国主義や北朝鮮と戦いこれを壊滅できる力を持つような国家になるよう努力すべきである。

ところが、日本の真の独立=アメリカの属国からの脱却を妨害して来たのが、自主憲法制定・自主防衛体制確立・核武装に反対してきた亡国政党=社民・共産・民進党左派・立憲民主党であり、偏向マスコミなのである。自民党の中にさえそういう連中がいる。

 

最近、国際的安保環境は大規模に変容している。とりわけ北東アジア情勢は極めて危険である。日本は正しき安保観・国防観を一刻も早く確立しなければならない。自主防衛体制=核武装を断行して、いかなる国からの攻撃・侵略も徹底的に排除する態勢を確立しなければならない。これが中華帝国主義打倒・対米自立の基礎である。そのために、日本国内の似非平和勢力・売国分子を糾さなければならない。

 

 日米安保体制の枠内で憲法9条がどうの、安保法制がどうの、といったことが大問題となった牧歌的な世界はもはや過去となった。日本も米国に軍事でも経済でも過度に依存しない「偉大な国」を目指せばいいだけの話である。

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2018年4月10日 (火)

西郷隆盛と大久保利通について

 鹿児島市内の加治屋町は、西郷隆盛・大久保利通など、明治維新そして明治日本において活躍した数多くの人々が生まれた町である。甲突川という川のほとりに西郷隆盛誕生の地がある。今は、公園になっていて『西郷隆盛誕生之地』と刻まれた石碑が建っている。

 

 西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

 「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

 各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので親近感を覚える。

 

 各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

 この郷中制度出身者には、西郷・大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安繹・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

 大久保利通は天保元年(一八三〇)八月十日、鹿児島城下高麗町で、西郷と同じく小姓組の家に生まれた。そして加治屋町に移転した。大久保もまた『郷中教育』の中で育った。大久保利通が「甲東」と号したのは甲突川という川のの東側で育ったからである。

 

 加治屋町からは桜島が眺められる。平野國臣が「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

 歴史を動かした西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、維新断行後は仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の厳しい一面を物語っている。

 

西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

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2018年4月 4日 (水)

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない。

 

『米国及び英国に対する宣戦の詔書』渙発が、いかに国民に感激を与へたかを示す文章及び歌を記させていただく。

 

保田與重郎氏「対米宣戦の大詔を拝し、皇國の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。…神命は常に國際謀略を霧消せしめ、万民草莽の苦衷は必ず大御心のしらしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」(『日記』)

 

河上徹太郎氏「遂に光栄ある秋が来た。…これまでの政府の抜かりないほうさくと手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。いまや一億国民の生まれ更る日である。…私は今本当に心からカラットした気持ちでゐられるのが嬉しくて仕様がないのだ。…混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『光栄ある日』)

 

青野季吉氏「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚へる。何といふ巨きな構想、構図であらう。」(『経堂襍記』)

 

折口信夫氏「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた。けれども、その日直に、十首近く口にのって作物が出來、その後も、日を隔てゝ幾首づゝ、何だか撞きあげるものゝやうに、出來たのである。」(『「天地に宣る」追ひ書き』)

 

そして折口信夫氏は次ぎのやうな歌を詠んだのである。

暁の霜にひゝきて 大みこゑ 聞えしことを 世語りにせむ

天地に響きとほりて 甚大(おぎろ)なる 神の御言(みこと)を くだし給へり

 

尾上柴舟

大勅捧げまつればおのづから心のふるへ手に及ぶかも

 

佐々木信綱

あなさやけ今日のさやけさ国つ敵(あだ)うてとし宣(の)らす大詔(おほみこと)くだる

 

土岐善麿

撃てと宣す大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に

 

中村武彦氏は、戦争直後獄中で「今こそ撃てと詔(みことのり)/承けて起ちたる暁の/あの一億の感激を/敗けたからとて忘られよか/そうだ敗けても国護る/大和魂われにあり」と歌った。

 

まさに昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできないと思ふ。況や「間違っていた」などと言ふのはあまりにも僭越である。靖國の英霊も、そして銃後でアメリカ軍の爆撃などによって斃れた無辜の國民も、ソ連に抑留され彼の地で非業の最期を遂げた多くの同胞も、さらに大東亜戦争に協力して戦い戦死された多くの東亜同胞も、犬死だったといふことになる。

 

このような歴史観では日本民族の誇り・自尊心を取り戻すことは出来ない。そればかりではなく、上御一人の『開戦の詔書』『終戦の詔書』を否定することとなる。

 

大東亜戦争を侵略戦争として断罪し、他国に謝罪することによって国際協力を果たそうとするのか、あるいは大東亜戦争の果たした役割と意味に誇りを持ち、歴史の継承から世界に貢献しようとするかは、同じ世界への寄与でも全く違ってくる。

 

大東亜戦争の開戦は、その目的においても實際の戦争においてもそして結果においても、自存自衛の戦ひであり、東亜解放の戦ひであった。わが國は米英が百年来、東亜諸國諸民族を侵略支配してゐる状況を掃攘するために宣戦を布告したである。即ち、明治維新の攘夷の戦ひをアジア的規模で遂行せんとしたのである。

 

欧米列強からの独立・解放が日本によって實現した今日、アジアにおいて大東亜共栄圏に近いものが生み出されている。『大東亜共同宣言』に謳われた理想はまさに実現しつつあるのである。

 

 

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『大東亜共同宣言』に示された日本の戦争理念

大東亜戦争開戦当初、日本軍が連合国軍を打ち破り破竹の進撃を続け欧米列強を駆逐したことは、長い間,欧米の植民地支配に喘いでいたアジア・アフリカの人々を勇気づけた。日本軍の捕虜となったイギリス軍インド人兵士の中からインド国民軍が結成された。そしてインド独立を達成すべく、日本軍と協力して「進めデリーへ」の合言葉のもとインドに向けて進撃した。インドネシアやビルマでも,日本の指導・援助で独立を目指す軍隊組織がつくられた。


 日本の指導者の中には,戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておく方が良いといふ考へも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたへるため,日本は昭和十八年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。


 日本はアジア諸国家に大東亜戦争への協力を求め,あはせてその結束を示すため、昭和十八年十一月六日、アジア諸国代表(日本・中華民国・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの六カ国および自由インド仮政府)を東京に集めて「大東亜会議」を開催した。

 

会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう『大東亜共同宣言』が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。署名した各国代表は、大日本帝国の東條英機総理、満州国の張景恵総理、中華民国南京政府の汪精衛行政院長、タイ国のワンワイタヤコーン殿下、フィリッピンのホセ・ぺ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、そしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班であった。この宣言は,連合国の『大西洋憲章』に対抗することを目指してゐた。

 

『大東亜共同宣言』には、各国が相提携して戦争を完遂し,大東亜をアメリカ・イギリスから解放して道義にもとづく共存共栄の秩序を建設し,大東亜の安定をはかるといふ理念がうたはれてゐた。

 

「            大東亞共同宣言

 
 

昭和十八年十一月六日「大東亜会議」にて採択

 

 

 

抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス        」

 

終戦後しばらくして東南アジアの国々の殆どが独立を達成した。戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早めるきっかけとなった。

 

日本が敗戦によって撤退したのち,インドネシアには,オランダが植民地支配を再開しやうとして復帰してきた。これに対し,戦時中,日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し,1949年独立を達成した。
 

インドでは,日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して,はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして,長く続いていた独立への気運がさらに高まり,インドは一九四七年,イギリスから独立した。そのほかにも,ビルマは戦後,植民地支配を再開したイギリスから改めて一九四八年に独立を勝ち取った。

かうした事実は、大東亜戦争においてわが国が戦争目的としたことが実現したことに外ならない。勝った國である米英ソよりも、日本の方が倫理的に高かったといふことである。
 深田佑介氏は、「極東国際軍事裁判による歴史観を見直すべき時期が到来している…この裁判においては、『民主主義対ファシズム』という対立図式を硬直的、教条的に適用し、戦時における日本の行動は全てファシズムによる悪と断罪した。この裁判に基く歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であった…大東亜会議は『アジアの傀儡を集めた茶番劇』では決してなかったのである。戦後、バー・モウは『歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、或いは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない』(『ビルマの夜明け』)で述べる。この誤解している諸国民の中に『日本国民』自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある」(『黎明の世紀』)と論じてゐる。

 

終戦時の関東軍作戦参謀・草地貞吾氏は、「十二月八日、いよいよ、大東亜戦争の発動となり、…赫々たる緒戦の戦果が、眠れる東亜諸人種・諸民族に与えた感作・影響は甚大なるものがあった。…大きな一撃が西欧の實力を破砕すると共に東亜全域の民心を覚醒した。…大東亜三十余國の独立は、この時成ったというも過言ではない。」「戦後半世紀の間に、新しく百二十を超える独立國が出現した。しかもその多くは大戦終わって間もなくの頃である。…壮大雄渾なる大東亜戦争の発動と、それに誘発奮起したアジア・アフリカ人種・民族の自決闘争総合の結果と言える。」「これほどすばらしい、これほど美しい歴史的行為・行動は、三千年の日本歴史上に無い。また、五千年の世界史上にも無い。實に大東亜戦争は、神武天皇以来、八紘一宇の皇謨による不可避の天命的大戦争であった。われらは今こそ、護國の礎となった靖國の英霊に無限の感謝を捧げると共に、挙國一致敢闘努力した、大東亜戦争の栄光を末長く伝えなければならない。」(『大東亜戦争大観論』)と論じてゐる。

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2018年2月10日 (土)

昭和十六年十二月八日の一億の感激

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない

 

『米国及び英国に対する宣戦の詔書』渙発が、いかに国民に感激を与へたかを示す文章及び歌を記させていただく。

 

保田與重郎氏「対米宣戦の大詔を拝し、皇國の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。…神命は常に國際謀略を霧消せしめ、万民草莽の苦衷は必ず大御心のしらしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」(『日記』)

 

河上徹太郎氏「遂に光栄ある秋が来た。…これまでの政府の抜かりないほうさくと手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。いまや一億国民の生まれ更る日である。…私は今本当に心からカラットした気持ちでゐられるのが嬉しくて仕様がないのだ。…混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『光栄ある日』)

 

青野季吉氏「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚へる。何といふ巨きな構想、構図であらう。」(『経堂襍記』)

 

折口信夫氏「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた。けれども、その日直に、十首近く口にのって作物が出來、その後も、日を隔てゝ幾首づゝ、何だか撞きあげるものゝやうに、出來たのである。」(『「天地に宣る」追ひ書き』)

 

そして折口氏は次ぎのやうな歌を詠んだのである。

 

暁の霜にひゝきて 大みこゑ 聞えしことを 世語りにせむ

天地に響きとほりて 甚大(おぎろ)なる 神の御言(みこと)を くだし給へり

 

尾上柴舟の歌

 大勅捧げまつればおのづから心のふるへ手に及ぶかも

 

佐々木信綱の歌

 あなさやけ今日のさやけさ国つ敵(あだ)うてとし宣(の)らす大詔(おほみこと)くだる

 

土岐善麿の歌

 撃てと宣す大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に

 

中村武彦氏は、戦争直後獄中で「今こそ撃てと詔(みことのり)/承けて起ちたる暁の/あの一億の感激を/敗けたからとて忘られよか/そうだ敗けても国護る/大和魂われにあり」と歌った。

 

まさに昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできないと思ふ。況や「間違っていた」などと言ふのはあまりにも僭越である。靖國の英霊も、そして銃後でアメリカ軍の爆撃などによって斃れた無辜の國民も、ソ連に抑留され彼の地で非業の最期を遂げた多くの同胞も、さらに大東亜戦争に協力して戦い、戦死された多くの東亜同胞も、犬死だったといふことになる。

 

このような歴史観では日本民族の誇り・自尊心を取り戻すことは出来ない。そればかりではなく、上御一人の『開戦の詔書』『終戦の詔書』を否定することとなる。

 

大東亜戦争を侵略戦争として断罪し、他国に謝罪することによって国際協力を果すのか、あるいは大東亜戦争の果たした役割と意味に誇りを持ち、歴史の継承から世界に貢献するのかは、同じ世界への寄与でも全く違ってくる。

 

欧米列強からの独立・解放が日本によって實現した今日、アジアにおいて大東亜共栄圏に近いものが生み出されてゐる。『大東亜共同宣言』に謳われた理想はまさに実現しつつあるのである。

 

問題は、日本がいまだに敗戦後遺症から脱却できないことである。これを正す事が今日最も大切であると信ずる。

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