2017年11月23日 (木)

半藤一利氏の歴史家としての見識は低劣である

今週号(十一月三十日号)の『週刊新潮』所載の「変見自在」というコラムて、高山正之氏は半藤一利氏に対して、「半藤の書くものはとても近視眼的」「(半藤氏は・注)渉猟した資料はまさに汗牛充棟だろう。でも気に入らないものは見ないふりをする癖があるやに見える」と批判している。同感である。

 

半藤一利氏は、平成二十七年六月九日の『朝日新聞』で、「朝日新聞記者の質問に答へて次のやうに語った。「(安倍晋三総理は・注)吉田松陰の好んだ『千萬人といえども我ゆかん』という孟子の言葉も使うが、安倍さんからすれば、自分が正しいと思ったことは實行する、自分の善意が通じなければ相手を攻撃していい、と思っているのだろう」。

 

「千萬人といえども我ゆかん」といふ言葉は、『孟子公孫丑章句 上』にある言葉で、「自ら反(かへり)みて縮(なお)からずんば、褐寛博と雖も吾惴(おそ)れざらんや。自ら反みて縮ければ、千萬人と雖も吾往かん」と書かれてゐる。

 

「自ら反省して自分が真っ直ぐでないと分かったら、相手が毛織のだらだらした衣服を着てゐるいやしい人でも恐れないわけにはいかない。自ら反省して自分が真っ直ぐだと分かったら相手が千萬人であっても、恐れることはない」といふ意である。

 

自分が正義でなければどのやうな相手でも恐れるが、自己が正義と信じた道はいかなる困難があらうとまたいかなる反対があらうと貫き通す、といふ決意と信念を表明した言葉である。

 

半藤一利氏は、孟子の言葉は「自分が正義であるか正義でないか」といふ反省を前提としてゐるのに、それは一切無視し、「千萬人と雖も吾往かん」といふ言葉だけを取り出し、「自分の善意が通じなければ」などと勝手な解釈をして、安倍晋三氏は「自分の善意が通じなければ相手を攻撃していいと思っている」などと推測してゐる。これは悪意ある邪推である。

 

さらに半藤氏は同じ『朝日』の記事で「満州事変にしろ、上海事変にしろ、日本のやったことは、不戦条約違反であり、明らかな國際法違反だった」「日本國内だけの理屈ならば、『自存自衛』かも知れないが、國際社會の一員としては通用しない。日本はやはり戦争責任國なのです」と論じた。

 

「満州事変」「上海事変」が当時の國際法に違反してゐたと言ふが、当時の國際社會において國際法に違反せずに対外戦略を實行した國はない。祖國日本のみを「違反した」と責め立てるのは偏った論議である。

 

半藤一利氏は永井荷風氏を「反戦」「反軍」の作家として尊敬してゐるやうである。半藤氏はその著『昭和史1926-1945』において度々永井荷風『断腸亭日記』を引用して、当時の世相、軍および政府、ナチスドイツを批判してゐる。

 

しかし、三月一日に満州國建國が行はれた昭和七年八月二十日の『断腸亭日記』には、「満州外交問題の記事誌面をうづむ。余窃に思ふに英國は世界到る處に領地を有す。然るに今日吾國が満洲占領の野心あるを喜ばざるは奇怪の至極といふべきなり。…畢竟強者の食たるに過ぎず。國家は國家として惡をなさざれば立つこと難く一個人は一個人として罪惡をなさざれば生存する事能はざるなり。之を思へば人生は悲しむべきものなり。天地間の生物は各其處を得て始めて安泰なり」と書いた。永井荷風ですら当時の弱肉強食の世界情勢の中にあって、日本の自存自衛のための海外進出を止むを得ざることとしてゐたと思はれる。

 

半藤氏はまた、「自存自衛」は「日本國内だけの理屈」と言ふが、日本にとって、「自存自衛」は、國が滅亡するか否か、國家民族の存亡をかけた大問題である。「國内だけ」などと言ふ言葉で片付けられる問題ではない。日本も「國際社會」の一員だったが、東亜侵略・植民地支配を行った欧米列強も言ふまでもなく「國際社會の一員」であった。日本のみが「國際社會の一員」として何処の國も守っていない「國際法」を遵守し國が滅びても良かったといふ理屈は全く成り立たない。

 

半藤氏はさらに、「戦後の婦人参政権などが加わった新選挙法による國民の選良が、徹底的に討議して、GHQ案に日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えたものが憲法(『現行占領憲法』・注)です」と論じた。

 

大東亜戦争終了直後、國民の大多数が食ふや食はずの状態にあり、さらに海外にも未帰還同胞が多数ゐた。とても日本國民全体が憲法について真剣にそして徹底的に考へ論議する状況ではなかった。さうした時期に行はれた選挙、そしてその選挙で選ばれた議員が行った「討議」とそれに基づく「意思」が真の意味の「日本國民の自由に表明せられた意思」(『ポツダム宣言』)とすることはできない。半藤一利氏の好きな永井荷風は『断腸亭日乗』昭和二十二年五月三日の記述において「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より實施の由、笑ふべし」と記されてゐる。荷風は、『現行占領憲法』は「日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えた憲法」即ち日本國民が自主的に作った憲法などとは思ってゐなかったのである。「占領憲法」實施を冷笑してゐたのだ。

 

 

以上述べてきたやうに、高山正之氏による半藤一利氏に対する「半藤の書くものはとても近視眼的」「半藤氏は気に入らない資料は見ないふりをする癖があるやに見える」という批判は正鵠を得てをり、全く正しいのである。半藤氏は、今日、歴史家として高く評価されてゐるやうであるが、その見識は相当に低劣と言はざるを得ない。

 

| | トラックバック (0)

2017年10月31日 (火)

『東照大権現』について

徳川家康のことを「東照大権現」と言う。東から日本の國を照らす神という意味であろう。皇室の祖先神・天照大御神を意識した神名である。臣下にこのような神号を付けるのは明らかに不敬である。

 

「権現」とは、仏が衆生を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れることで、神道の本地垂迹説においては、仏が衆生を救うために日本の神の姿となって現れた神のことという。

 

東照大権現即ち徳川家康の本地(本来の姿)は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師瑠璃光如来であるとした。徳川家の菩提寺・上野寛永寺の本尊は薬師瑠璃光如来である。

 

しかも「東照大権現」という神号は、後水尾天皇の勅許によってつけられた。日光東照宮には後水尾天皇の御宸筆の「東照大権現」と書かれた敕額が掲げられた。つまり徳川幕府は、天皇の権威によって徳川家康の神格化を行ったのである。しかもその神格化は、明らかに、天皇の権威に対抗するものであった。日光東照宮は、伊勢皇大神宮に対抗するものである。そして大名に東照宮を建立することを半ば強制し全国の五百社を超える東照宮が作られた。

 

後水尾天皇は、度重なる徳川幕府とりわけ、徳川秀忠の圧迫と不敬行為に耐えられ、朝廷の権威を守られた。京都岩倉実相院で、後水尾上皇御宸筆の『忍』という色紙を拝したことがある。徳川幕府の横暴に対する御心を示されたと拝される。

 

しかし、幕末の国家的危機において、日本国民は、皇祖天照大神に国難打開を祈り、天照大御神の生みの御子即ち現御神たる天皇中心の國體を明らかにすることによって、国難を打開し、明治維新を断行した。

欧米列強の侵略の危機を打開し、日本の独立を維持するためには、徳川幕府が、天皇及び皇室の神聖権威に対抗すべく不遜不敬にも創出した「東照大権現」の神威では、とても國民的統一の信仰的核にはなり得なかった。

 

今谷明氏は、「東照大権現の神威は、武家階層はともかく、民衆レベルに浸透したとはとうてい考えられない。反面、大衆の間に天皇祖神を祭る伊勢の神威が高まっていくのは、よく知られているとおりである。伊勢と日光の勝負はもはやついて居た。」(『武家と天皇』)と論じてゐる。

 

そもそも征夷大将軍たる徳川氏は、その職責である夷狄を征伐する力を喪失したのである。もともと戦國時代の武士の覇権争いの勝者・覇者にすぎなかった徳川氏は、覇者たるの力と資格を喪失したのである。端的に言えば、徳川氏は「征夷大将軍」(夷狄を征伐する大将軍)の任を果たす事が出来なくなったのである。

 

現御神信仰・尊皇精神の興起は、勤皇の志士たちのみならず、一般庶民においても旺盛であった。伊勢の皇大神宮への民衆の集団参拝(いわゆる御蔭参り)が行われ一般庶民の皇室の御祖先神に対する信仰が大きく復活してきていた。天保元年(一八三〇)には、御蔭参り参加者が閏一月から八月までで五百万人に達したという。

 

國家の独立と安定と統一を保持するには、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるようになった。そして、一君万民の國體を明徴化する明治維新が断行されたのである。

| | トラックバック (0)

2017年10月25日 (水)

大久保利通について

大久保利通は、明治元年正月二十三日に明治新政府に提出した『大阪遷都の議』において、

「…朝廷上に於て、一時の勝利を恃み、永久治安の思をなされ候ては、則北条の後に足利を生じ、前姦去て後姦来るの覆轍を踏ませられ候は必然たる可し。依て深く皇図を注目し、触視する所の形跡に拘らず、広く宇内の大勢を洞察し玉ひ、数百年来一塊したる因循の腐臭を一新し、官武の別を放棄し、國内同心合体、一天の主と申し奉るものは、斯く迄に有り難きもの、下蒼生といへるものは斯く迄に頼もしきものと、上下一貫、天下萬民感動涕泣いたし候程の御實行挙り候事、今日急務の最急なるべし」

「是迄通り、主上と申し奉るものは、玉廉の内に在(いま)し、…纔(わづか)に限りたる公卿方の外拝し奉ることの出来ぬ様なる御さまにては、民の父母たる天賦の御職掌には大に乖戻(かいれい)したる訳なれば…主上の在す処を雲上と云ひ、公卿方を雲上人と唱へ、龍顔は拝し難きものと思ひ、玉体は寸地も踏み玉はざるものと、余りに推尊奉りて、…終に上下隔絶して、其形今日の弊習となりしものなり」

「是を一新の機會にして、…民の父母たる天賦の君道を履行せられ、命令一たび下りて、天下慄動する処の大基盤を立、推及し玉ふにあらざれば、皇威を海外に輝し、萬國に御対立あらせられ候事叶うべからず」

と論じた。

 

この文章は、日本國家の独立を確保し、有史以来未曾有の一大変革を断行するには、天皇中心・一君萬民の國體を明らかにすべきであると論じてゐるのである。

 

德川幕府瓦解・江戸城無血開城の後、明治元年六月、明治新政府の重職にある者として、江戸を新しき皇都とすべく関東に赴いた時の感慨を詠んだのが次の詩である。

 

「辞を陛して千里関東に向ふ 特に天顔を拝して恩賜隆たり 一死酬い難く臣職重し 鞠躬 願はくば泰平の功を致さん」

 

「鞠躬」とは身をかがめる意。「天子に申し上げて、千里の道を関東に向ふ。特に天皇のお顔を拝し、天皇から賜った御恩は深い。一死を以てお報いすることはなかなか困難であり、臣下としての職は重い。しかし、謹み畏みて國家を太平にする功績をあげたい」といふ意である。一命を賭してご奉公するといふ大久保の尊皇精神が吐露されてゐる。

 

明治六年、大久保利通は対韓外交問題で西郷隆盛と対決しなければならない状況に立ち至った。この問題を協議する閣議が行なはれる前々日の同年十月十二日に家族への遺書を書いた。それには「断然当職(注・参議)拝命、此の難に斃れて以て無量の天恩に奉答し奉らんと一決いたし候」と書かれている。命懸けで閣議に臨み、天皇の御恩に報い奉るといふ悲壮な決意を示したのである。

 

大久保利通に対する批判は多い。西郷隆盛を失脚せしめ、死地に追いやって大久保独裁体制(有司専制政治)を確立したといふ批判は強い。私もその一人であった。確かに、大久保利通の尊皇精神は、吉田松陰先生や楠木正成公のやうな信仰的な絶対尊皇精神ではなかったかもしれない。しかし、大久保利通には尊皇精神は無かったとすることは到底できないし、希薄であったとすることもできない。大久保利通は、維新の戦ひの途上においても、また維新断行後の新体制建設期にあっても、様々な過誤はあっても、終始一貫、天皇を中心とする一君萬民の國體を明らかにし、天皇を君主と仰ぐ近代國家建設のために粉骨砕身努力したと考へる。

 

| | トラックバック (0)

2017年8月27日 (日)

日本侵略國家史観を一日も早く払拭すべきである

大東亜戦争侵略史観を払拭し、大東亜戦争は、自存自衛の戦いであり、アジア・アフリカ民族に民族としての自覚と名誉の回復の可能性を与へ、ナショナリズム勃興の引き金となった聖なる戦ひであった、といふ正しき歴史認識を確立しなければ、「戦後」は終らないと考へる。

 

極東國際軍事裁判で「日本無罪論」の判決を書いたインドのパール判事は、「時が熱狂と偏見とをやはらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変へることを要求するであらう」と、「判決文」の最後に書いた。しかるに、日本國民自身が、戦後七十年を経過したにもかかはらず、「偏見」と「虚偽」から脱出することができないでゐる。

 

歴史を大観すれば、明治維新、日清・日露両戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争は、まさに幕末以来の尊皇攘夷の戦ひ即ち西欧列強によるアジア侵略支配を打破する戦ひであった。このことをわが國民は正しく認識し、「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。

 

東トルキスタン、チベットを見てもわかるやうに、歴史問題でわが國に「謝罪しろ」と執拗に迫って来てゐる共産支那こそ、今日、帝國主義的侵略と搾取と暴虐の植民地経営を行ってゐる最大最悪の侵略國家である。

 

日本人は、祖國と民族の名誉を回復するために、また、将来にわたり誇りある日本人を育てていくためにも、さらには、共産支那などからのわが國への侮り・内政干渉を排除するためにも、日本国民全体が明治維新以来終戦までの正しい歴史を認識すべきである。

 

特に、満洲國建國の正当性、蘆溝橋事件及び支那事変におけるわが國の自衛権行使、米國側の挑発とソ連の陰謀による日米開戦といふ歴史の真実を正しく認識し、日本侵略國家史観を一日も早く払拭すべきである。

| | トラックバック (0)

2017年8月22日 (火)

深谷隆司氏の正論を紹介します

深谷隆司氏の正論を紹介します。

 

                    ○

深谷隆司の言いたい放題第731

 「韓国ぎらい」

 

昔は韓国要人に知己も多く、通産大臣を辞めた後など、何人かの大臣や財界のトップが私ら夫婦を招いて、ソウルで慰労会まで開いてくれたものだった。

大臣時代、国際会議等で私は特に韓国要人と協力し合い、両国にとって有利な答えを引き出したことも多く、一衣帯水の隣国として深い友情を抱いていた。

だがそんな思いは、正直消えつつある。

近年、韓国はすっかり様変わりして、日本を意識的に敵視するような傾向が強くなっている。政権の不人気を挽回させるために日本たたきが一番有効と思っているかのようである。

これまで日本は韓国国内の政治状況に左右され、そのたびに振り回されてきたが、もう限界を超えている。そんな韓国のご都合に合わせて右往左往することは金輪際やめるべきだと思っている。

当然のことだが日本人の韓国ぎらいは一層増えている。はっきり言って、日本人が韓国ぎらいになることは、彼等にとって大きな痛手になるのであって、日本にとって多少の不都合はあっても決定的に深刻なことではないのだ。

韓国が日本統治から開放された記念日と称する「光復節」の記念式典で、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は「慰安婦や徴用工の名誉回復、補償などが、国際社会の原則にあたる」と発言した。国際社会の原則とは、国同士の約束を守ることを言うのだが、あきれた勝手な発言である。

1965年の日韓協定で、戦後補償問題は「完全かつ最終的に解決された」と明記されている。日本が供与した無償資金3億ドルには個人の被災補償問題の解決金も含まれているのだ。

2005年、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下での日韓請求権協定には徴用工も含まれ、賠償を含めた責任は韓国政府が持つべきだとの政府見解をまとめている。当時の主席秘書官は文大統領なのである。

韓国最高裁の判断は内外から疑問の声が多い。韓国では司法裁判まで民意に左右されているが、文大統領はその裁判の結果に基づいて問題を蒸し返そうとしているのだ。

大体、「強制労働」とか「強制動員」という言葉自体誤りである。当時の法令「国民徴用令」に基づいて、合法的に国民全体に行われたのが勤労動員なのである。

2015年年末、慰安婦問題も「最終的かつ不可逆的な解決」と日韓合意している。

にもかかわらず、日本大使館前や釜山の総領事館前の慰安婦像はいまだ撤去されず、それどころか文政権発足後、慰安婦像は韓国内の各地に次々と増設され、新たに徴用工像も設置され始めた。最近では慰安婦の人形を乗せた路線バスまで登場し、市長が記念乗車までする異様さだ。もうそんな国には行きたくもない。

北朝鮮の核や大陸間弾道ミサイル開発で朝鮮半島は今大変な危機にある。その北朝鮮と日韓政府の解決済みの問題を共同調査までしようというのだから、頭が狂っているとしか言いようがない。

一方で、文大統領は対日外交では経済や安保を切り離す「ツートラック政策」を志向しているという。勝手な話だが、明らかに韓国経済が上手くいってないからである。

韓国ぎらいはあちらの所為、しばらくは放っておくに限ると思っている。

| | トラックバック (0)

2017年8月21日 (月)

「日本侵略國家論」を払拭しなければ「戦後」は終らない

 

「戦後体制」を維持したいという勢力がまだまだ根強いことを実感する。保守といわれる勢力の中にも、自主独立の日本の回復及び歴史と伝統の国日本の再興に反対し抵抗する勢力がまだまだ根強く存在する。また安倍政権の連立相手も創価学会・公明党も戦後体制打倒を目指してはいない。むしろ戦後体制維持である。

 

わが国伝統精神は、見直し・聞き直し・のり直しである。陰極は必ず陽転します。常夜行く時にこそ、天の岩戸は開かれる。国家の再生のためにこれからも勇躍前進して行かねばならない。そして国家的危機を跳ね返し、国の現在および将来を危うくする勢力を駆逐せねばならない。

 

真の保守とは、自民党政権を守るとか、現体制を擁護するというのでは決してない。戦後体制打倒である。まさに「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づく」日本を建設する我々こそが真の革新勢力=維新勢力なのである。

 

「戦後」といふ言葉は何時まで続くのであろうか。敗戦以来すでに七十二年も経過している。戦後とは敗戦後といふことであり、屈辱的な時代といふ事である。しかも、日本は侵略戦争を行なったという歴史観が『憲法』の『前文』にも記され、且つ、閣議決定の『戦後五十周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話』にも記されている。即ち、「日本は侵略戦争を行なった悪い国だった」といふのが日本『国是』になっていると言ふことが出来る。

 

だから「戦後」という言葉は陰鬱な響きを持っているのである。大東亜戦争は決して日本の一方的な侵略ではなかったこと、ソ連の謀略やアメリカの挑発によって追い込まれ、開始せざるを得なかったことを正しく認識すべきである。

 

 大東亜戦争侵略史観を払拭し、大東亜戦争は、自存自衛の戦いであり、アジア・アフリカ民族に民族としての自覚と名誉の回復の可能性を与え、民族自立と独立の引き金となった聖なる戦いであった、という正しき歴史認識を確立しなければ、「戦後」は終らないし、わが國の再生はあり得ない。

 

 極東國際軍事裁判で「日本無罪論」の判決を書いたインドのパール判事は、「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう」と、「判決文」の最後に書いた。しかるに、日本國民自身が、戦後七十二年を経過したにもかかわらず、「偏見」と「虚偽」から脱出することができないでいる。

 

歴史を大観すれば、明治維新、日清・日露両戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争は、まさに幕末以来の尊皇攘夷の戦ひ即ち西欧列強によるアジア侵略支配を打破する戦いであった。このことをわが國民は正しく認識し、「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。

 

また戦争中に残虐行為大量虐殺を行ったのはわが國ではなく、アメリカとソ=ロシア連であったことを全国民が正しく認識すべきである。

 

東トルキスタン、チベット、内コルを見てもわかるやうに、わが國に「謝罪しろ」と執拗に迫って来ている支那こそ、今日、帝國主義的侵略と搾取と暴虐の植民地経営を行っている最大最悪の侵略國家である。

 

日本人は、祖國と民族の名誉を回復するために、また、将来にわたり誇りある日本人を育てていくためにも、さらには、共産支那などからのわが國へ侵略を阻止するためにも、明治維新以来終戦までの正しい歴史観を形成すべきである。

 

 特に、満洲國建國の正当性、蘆溝橋事件及び支那事変におけるわが國の自衛権行使、米國側の挑発とソ連の陰謀による日米開戦という歴史の真実を正しく認識し、日本侵略國家史観を一日も早く払拭すべきである。

| | トラックバック (0)

2017年8月15日 (火)

終戦記念日に思う―東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除すべし

国防問題と歴史問題は密接に絡み合っている。特に、共産支那、そして日本共産党などという反日政党、朝日新聞・テレビ朝日・NHKなどという亡国メディアは、歴史問題で祖国の尊厳性と誇りを傷つけることに躍起になっている。「終戦記念日」前後において、テレビ朝日、朝日新聞、テレビ朝日などは「大東亜戦争は侵略だった、残虐行為を行った」などと、がなり立て、自虐史観をまき散らす。そしてそれがわが国国民の祖国愛を傷つけている。これは即ち国防安保の弱体化に直結する。亡国野党・反日メディアは侵略国家共産支那の手先なのである。

 

わが国は東京裁判という勝者による敗者に対する復讐に於いて、戦争当寺の国家指導者七名が処刑され、多数の人々が有期刑に処せられた。そして、アジア各地で行われたいわゆる「戦犯裁判」に於いても多数の人々が処刑され有期刑が処せられた。

 

さらに、戦後日本は七年間も戦勝国に占領された。そしてアジア各国対して戦後賠償を行った。支那・韓国に対しても事実上の戦後賠償を行った。支那・韓国は日本の経済技術援助によって経済発展を遂げた。

 

にもかかわらず、わが国に対して戦後七十二年を経過した今日においても、「戦争責任」「戦争犯罪」なるものをがなり立てる者どもは、日本にこれ以上何をすればいいと言うのか。わが日本は、すでにやるべきこと既にすべてやったのである。日本は、支那朝鮮に対して、これ以上謝罪も援助もする必要は毛筋の横幅ほどもない。

 

偏向メディアや「サヨク」がまき散らす「自虐史観」とは、「米英支蘇」は善人であり悪いことは何もしなかった、日本は悪人であり悪い事しかしなかったといふ史観である。別の言い方をすれば、欧米列強の切り取り強盗し放題は許されるが、日本がやったことは防衛と自存の為の戦いであっても侵略と見なすという史観である。これは「極東国際軍事裁判」という名の戦勝国によるわが国に対する軍事的報復における一方的断罪の理由付けとなった。従って「東京裁判史観」とも言うのである。

 

近代日本の歩み、とりわけ、明治維新から大東亜戦争敗戦までの歴史について、いかに考えるかが、今日の日本にとってきはめて重要な問題である事は言うまでもない。日本人は、「自虐史観」「東京裁判史観」と一日も早く訣別しなければならない。

 

わが国には戦争犯罪人は日本には一人もいない。東條英機氏らを裁いた「極東軍事裁判」はその名の示す通り「軍事裁判」なのであり、戦争行為の継続であり、敵国の復讐であったのである。そこにおいて絞首刑の「判決」を受け執行されたということは文字通り戦死であり殉難である。日本には戦勝国の復讐の犠牲者・殉難者は存在しても、唯の一人も「戦犯」は存在しない。「極東軍事裁判」なるものの「判決」により処刑された方々を殉難者・戦死者として靖国神社にお祭りするのは当然なのである。

 

我々日本人が「A級戦犯」という呼称を使うことは絶対にやめるべきである。「A級戰犯」と言われる人々は、人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反していわゆる「被告」を断罪した「東京國際軍事裁判」、つまり、裁判とは名ばかりの非常に野蛮で公平性を全く喪失した戰勝國による一方的な報復の場=復讐劇において、「有罪」と断罪され、「絞首刑」に処せられた犠牲者である。わが日本においては「昭和殉難者」と称するべきである。

 

「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」という罪名を勝手に作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した「東京國際軍事裁判」は、“法の真理”に照らして完全に間違ったものであった。

 

日本に原爆を落し東京大空襲を行ったアメリカこそ「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」を犯したのである。トルーマンこそ戦争犯罪人として処罰されるべきだったのである。また、満洲・樺太・全千島を侵略し多くの無辜の日本同胞を殺戮したソ連こそ「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」を犯したのである。スターリンこそ戦争犯罪人として処罰されるべきだったのである。

 

戦勝国こそ「人道に対する罪」を犯したのである。それを糊塗するためにわが國に「侵略國家」の汚名を着せそれを全世界に宣傳したのである。それが東京裁判でありアジア各地において行われたいわゆる「戦犯裁判」だったのである。 東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除し、不当性を主張し、歴史問題での外国の内政干渉や不当なる非難を跳ね除けなければならない。

 

共産支那が何かというと「過去の歴史問題」とやらを持ち出すのは、日本を政治的外交的に屈服させるためである。

 

巨大な軍事国家・全体主義国家の奴隷になるか独立と自由を守るかという二者択一の選択が、わが国民に迫られている。中華思想の共産支那こそ今日のアジア最大の敵である。わが国は、共産支那の理不尽さに対して毅然とした態度で臨むべきである。 そして事実上共産支那の手先となって国内に於いて自虐史観をまき散らしがなり立てる偏向メディアを徹底的に糾弾しなければならない。

 

| | トラックバック (0)

2017年4月24日 (月)

西郷隆盛の対韓外交論について

 「征韓論」という歴史用語は大きな誤解を生んでいる。明治新政府の筆頭参議をつとめていた西郷隆盛は、決して朝鮮半島を武力侵略しようとしていたのではない。当時、韓國政府は、わが明治新政府に反感を持ち、國書の受取りを拒否するのみならず、「日本人は畜生と変わるところがないから今後日本人と交際する者は死刑に処す」という布告(今の韓国・北朝鮮でもこんな布告はない)を出したり、釜山の日本公館に準じる施設を封鎖したり、日本人居留民を迫害したり、韓國水軍が釜山沖で大演習を行った。

 

 西郷隆盛は、「韓國政府の姿勢を糺すために西郷隆盛が自ら使者として韓國に赴く。万一、韓國側によって西郷が殺されるようなことになったら、やむを得ず戦端を開く」というごく当然の外交交渉を行うべしと主張しただけである。

 

 西郷は閣議で「大使は、宜しく烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、道を正しうして之に当たるべし。今、俄かに兵を率いて赴くが如きは、断じて不可なり。」と論じている。西郷は征韓でも武力侵略でもなく、礼を尽くして修好にあたろうと主張したのである。西郷の主張及び目的は、「没落士族を『外征』によって救おうとした」などという侵略主義では断じてない。

 

 葦津珍彦先生は、「彼(西郷隆盛)の説は決して好戦的でもなく威圧的でもない。十九世紀の列國外交が、常に兵力を用いて強硬外交をした事実とくらべてみれば、『論理的』にはるかに平和的で、礼儀正しい。この西郷の外交理論は、その後も変わっいない。これから間もなく西郷下野の後に(明治八年九月)、日本軍艦が仁川沖で朝鮮に対して発砲したとき、西郷は公然と日本政府の武力行使と威圧外交を非難している」(永遠の維新者)と論じておられる。

 

 大久保利通や岩倉具視が、西郷らの対韓外交論に対して横車を押し反対したのは、西郷や江藤新平など(いわゆる留守政府)からの権力奪取のためである。岩倉・大久保にとって、彼らが洋行中に明治新政府が西郷・江藤らによって牛耳られてしまったことが我慢ならなかった。もし、「西郷遣韓」による韓國外交が成功したら、大久保らの出る幕は益々少なくなってしまう。だから西郷や江藤らの対韓外交政策に反対したのである。「内治優先」というのはあくまでも理由付けである。西郷らの主張を葬り去ることによって大久保らによる権力奪取を目指したのである。

 

 大久保利通は、西郷らの対韓政策を「内治優先」を理由にして反対しながら、西郷下野後の明治七年には台湾出兵を断行し、明治八年には江華島事件を起こして武力による朝鮮政策を行っている。やむを得ざることとはいいながら、大久保の主張も行動も矛盾だらけであり「見上げたもの」などでは全くない。

 

 また、西郷ほど内治についても功績のあった人はいない。西郷が筆頭参議を務めていた期間即ち大久保らの留守中に、封建身分制度の廃止・人権の確立・國民皆兵制・御親兵設置・廃藩置県などの諸改革が行われた。大久保らはこうしたことにも嫉妬したのである。西郷は保守反動では決してない。

 

 明治六年十月十五日、西郷の主張が閣議で大久保利通を含む満場一致で正式決定していたにもかかわらず、大久保と岩倉具視は謀略を用いてこれをひっくり返した。岩倉・大久保は、『五箇条の御誓文』に示されている「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」の御精神を蹂躙したのである。西郷隆盛は道義的にも政治的にも法律的にも何ら責められるべきことはしていない。(この謀略の詳細については平泉澄先生著『首丘の人大西郷』参照)

 

 さらに大久保と岩倉は西郷が、天皇陛下に直訴・上奏することを恐れ、遮断の策を講じた。西郷隆盛は、天皇陛下に背き奉ったのでは断じてない。岩倉・大久保らの陰謀によって排除されたのである。そして、恩人西郷隆盛を裏切り大久保の手先となったのが川路利良である。

 

 葦津珍彦先生は、「西郷及び西南戦争を戦った第二維新の戦闘者たちは、決して頑迷な復古主義者ではない。議會政治の実現を望んだ。西郷の対韓外交論が閣議で決定されたのに、大久保・岩倉が陰謀を用いてこれをひっくり返したことに抗議して、野に下ったのである。しかして『民選議院設立建白書』を提出したのも彼らである。」と論じておられる。

 

 韓國の近代史家の多くは、「西郷の征韓論は日本侵略主義の原点である」などと主張しているという。そうした歴史問題に関する韓國側の一方的な日本非難に手を貸すような論議が、日本人によって主張されていることは、まことに残念である。

 

 西南戦争の後に確立した西洋に学んで日本を近代化し独立を維持するという基本路線は全面的に否定されるべきではないが、日本の道統・皇道精神を隠蔽させてはならなかった。西洋に学ぶとはあくまでも良きところを取り入れるということであって、西洋になりきることではない。

 

 西南戦争における政府軍の指揮官の一人で大久保利通の腹心であった当時の警視総監川路利良は、西洋視察からの帰國の船中で、「『今の日本には何よりもまず内政を安定させて、藩体制から府県にかわったばかりの國内統一と安定を、完成させることが大事だ。そのためにも、その基盤となる警察組織を確立することが、何よりも必要なのだ。日本は今、西欧に誇れるようなものは何もないが、俺(おい)は警察だけは世界一流のものにしたいと思っている。きっとしてみせる』と言った」(神川武利氏著『大警視・川路利良』)という。

 

 川路が本当に「西欧に誇れるものは何もない」と思っていたのだとすれば、日本の道統を無視した考え方であり、西郷隆盛の考え方とは全く逆である。

 

 『大西郷遺訓』には、「廣く各國の制度を採り、開明に進まんと欲せば、先づ我國の本體を立て、風教を張り、而して後、徐(しづ)かに彼の長所を斟酌すべし、然らずして猥りに彼に倣はゞ、國體は衰頽し、風教は萎靡して、匡救すべからざるに至るべし」と書かれている。

 

川路利良は一般大衆に対しては、民権というよりも撫育するという発想しか持てなかった。「警察は人民の養育者である。文明がまだ遅れている國の人民は、子は子でも最も幼い子供と看做さなければならない」という考え方を持っていた。

 

 これは人民蔑視思想である。しかもここでいう「文明」とは西洋覇道文明である。川路は漢学を重野安繹(やすつぐ)に学んだというが、いったい何を学んだのであろうか。

 

 『大西郷の精神』とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現である。西洋列強の侵略から祖国を守り四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものである。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからである。

                     

 大西郷は、「國の凌辱せらるるに當りては、縱令國を以て斃るるとも、正道を踏み義を盡すは、政府の本務なり。」と言っている。この言葉こそ今日の我國政府が最も噛み締めなければならない言葉であります。我國は現在、歴史問題・領土問題などで支那・韓国・北朝鮮からなめられ、国家の尊厳性を喪失している。

 

 大西郷は、「王を尊び民を憐れむは学問の本旨」「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を行ひ、職務に精勵して、人民の標準となり、下民をしてその勤労を感謝せしむるに至らざれば、政令は行はれ難し」と述べている。この言葉も今日の我國政治家が噛み締めなければならないと思う。

 

 我國の歴史上の人物の中で、最も敬愛されている人物の一人が西郷隆盛である。大西郷は明治維新の大功労者であり、且つ、維新後も権力に恋々とせず、第二維新運動の指導者として奮闘した。文字通り、内憂外患こもごも来るといった状況にある今こそ、我々日本人は、今こそ『大西郷の精神』を学ばなければなりません。

 

| | トラックバック (0)

2017年4月21日 (金)

東條英機氏の遺詠を読んで思う

たとへ身は千々にさくとも及ばじな 栄えし御世を堕せし罪は

 

続くものを信じて散りし男の子らに 何と答へむ言の葉もなし

 

東條英機元総理が、昭和二十三年十二月二十三日、東京巣鴨にて、殉難された時の辞世である。

 

東條氏はさらに遺書において「開戦当初の責任者として敗戦のあとを見ると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は、個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て償えるものではない。しかし国際的な犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ、力の前に屈伏した。自分としてはまた国民に対する責任を負って、満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、また下級者まで刑が及んだことは実に残念である。天皇陛下に対し、また国民に対しても申しわけないことで、深く謝罪する」と書いている。

 

この遺詠を読んでもまだ東条氏を許せないと言う人がいるであろうか。東條氏を裁いた東京裁判は日本人自身による公正な裁判では決してなく戦争行為の継続であり、敵国の復讐であったのである。そこにおいて絞首刑の「判決」を受け執行されたということは文字通り戦死であり殉難である。日本には過去において戦勝国の復讐の犠牲者・殉難者は存在しても、唯の一人も「戦犯」は存在しなかった。故に東京裁判の判決により処刑された方々を殉難者・戦死者として靖国神社にお祭りするのは当然なのである。

 

大東亜戦争は東亜解放の戦いであったことは、愈々今日において明白になって来ているし、東条内閣時代に開始された対米英戦争は米国大統領ルーズベルトの挑発によるものであることも明白になっている。大東亜戦争開戦は正義の行動であったのであり、決して犯罪ではない。

 

当時の状況下において「支那及印度支那より一切の陸海空軍兵力及警察力の撤収」などという最後通牒(ハル・ノート)を受け入れることは東条英機氏であろうと誰であろうと不可能であった。それは東京裁判においてインドのパール判事が「こんな最後通牒を受け取ったら、ルクセンブルグ大公国やモナコ王国のような小国でも、敢然として剣を執って起ったであろう」と述べ、英国の軍需大臣オリバー・リットルトンが昭和十九年六月に「米国が戦争に追いつめられたというのは、歴史上の改作狂言である。日本をしてパールハーバー攻撃にまでに追いつめ強圧したのは米国である」と述べたことによって明白である。

 

大東亜戦争および対米英戦争における日本の責任などというものを追及すること自体間違っている。したがって東条英機氏の開戦責任を追及するのは誤りである。

 

大東亜戦争の開戦は、アメリカのあまりに理不尽なる圧迫が原因となったやむを得ざる選択であって、東条英機首相が陛下の大御心を無視し国民の声も聞き入れず戦争に突っ走ったなどということは絶対にないのである。むしろ大東亜開戦を一億国民が双手を挙げて歓迎し歓喜したというのが歴史の真実である。

 

日本が敗北したからといって、あの昭和十六年十二月八日の一億国民の感激を忘却し、東條氏一人を悪人とし、「東條氏は戦争を始めた大罪人でありこのような人物を靖国神社に祭ったてはならない」などという議論は、敗戦後遺症に毒されて、民族の誇りと日本魂を喪失し、戦勝國即ちアジアを侵略搾取し続けた欧米列強の自分勝手な歴史観に追随する全く誤っ考え方であり、歴史への冒涜であるのみならず、大東亜戦争の聖戦としての意義を否定する議論である。

 

東条氏は大東亜戦争遂行時の国家指導者として深く責任を感じておられた。ただそれは「侵略戦争遂行の責任」を感じていたのではない。東条氏は大東亜戦争を侵略戦争だったなどとは寸毫も思っていなかった。敗戦とそれに伴う国家国民に苦難に対して大きな責任を感じたのである。

 

東京裁判において東条氏はキーナンの「あなたは一九四一年十二月の真珠湾ならびに米英の諸領土に対する攻撃について、主に責任を取る一人であることを認めますか」との尋問に対し「認めます。私の責任であります」述べているが、キーナンの「首相として戦争を起こしたことを、道徳的にも法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのですか。ここに被告としての心境を聞きたい」との尋問に対しては東条氏は「間違っていない。正しいことをしたと思う」と答えた事によってそれは明らかである。

| | トラックバック (0)

2017年4月 3日 (月)

東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除すべし

「自虐史観」とは、「米英支蘇」は善人であり悪いことは何もしなかった、日本は悪人であり悪い事しかしなかったといふ史観である。別の言い方をすれば、欧米列強の切り取り強盗し放題は許されるが、日本がやったことは防衛と自存の為の戦いであっても侵略と見なすという史観である。これは「極東国際軍事裁判」という名の戦勝国によるわが国に対する軍事的報復における一方的断罪の理由付けとなった。従って「東京裁判史観」とも言うのである。近代日本の歩み、とりわけ、明治維新から大東亜戦争敗戦までの歴史について、いかに考えるかが、今日の日本にとってきはめて重要な問題である事は言うまでもない。日本人は、「自虐史観」「東京裁判史観」と一日も早く訣別しなければならない。

 

巨大な軍事国家・全体主義国家の奴隷になるか自由民主主義の政治体制を守るかという二者択一の選択が、わが国民に迫られている。中華思想の共産支那こそ二十一世紀の人類最大の敵であると考える。わが国は、共産支那の理不尽さに対して毅然とした態度で臨むべきである。

 

このままだと、わが国は共産支那の属国になってしまう危険さえある。国家の主権・領土・独立・尊厳を固守し、正当なる主張をすることこそ、主権国家の政府としての基本的な外交姿勢である。

 

わが国には戦争犯罪人は日本には一人もいない。「戦争責任」と「戦争犯罪」とは全く異なる。東條英機氏らを裁いた「極東軍事裁判」はその名の示す通り「軍事裁判」なのであり、日本人自身による公正な裁判では決してなく戦争行為の継続であり、敵国の復讐であったのである。そこにおいて絞首刑の「判決」を受け執行されたということは文字通り戦死であり殉難である。日本には戦勝国の復讐の犠牲者・殉難者は存在しても、唯の一人も「戦犯」は存在しない。「極東軍事裁判」なるものの「判決」により処刑された方々を殉難者・戦死者として靖国神社にお祭りするのは当然なのである。

 

我々日本人が「A級戦犯」という呼称を使うことは絶対にやめるべきである。「A級戰犯」といわれる人々は、人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反して被告を断罪した「東京國際軍事裁判」、つまり、裁判とは名ばかりの非常に野蛮で公平性を全く喪失した戰勝國による一方的な報復の場=復讐劇において、「有罪」と断罪され、「絞首刑」に処せられた人々である。わが日本においては「昭和殉難者」と称するべきである。

 

「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」という罪名を勝手に作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した「東京國際軍事裁判」は、法の真理に照らして完全に間違ったものであった。 さらにいえば、日本に原爆を落し東京大空襲を行ったアメリカのトルーマンも戦争犯罪人として処罰されるべきだったのである。

 

戦勝国こそ「人道に対する罪」を犯したのである。 また「極東国際軍事裁判」は見せしめのためのリンチであった。そして、わが國に「侵略國家」の汚名を着せそれを全世界に宣傳したのである。 東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除し、不当性を主張し、歴史問題での外国の内政干渉や不当なる非難を跳ね除けなければならない。、

 

 

| | トラックバック (0)