2018年4月10日 (火)

西郷隆盛と大久保利通について

 鹿児島市内の加治屋町は、西郷隆盛・大久保利通など、明治維新そして明治日本において活躍した数多くの人々が生まれた町である。甲突川という川のほとりに西郷隆盛誕生の地がある。今は、公園になっていて『西郷隆盛誕生之地』と刻まれた石碑が建っている。

 

 西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

 「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

 各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので親近感を覚える。

 

 各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

 この郷中制度出身者には、西郷・大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安繹・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

 大久保利通は天保元年(一八三〇)八月十日、鹿児島城下高麗町で、西郷と同じく小姓組の家に生まれた。そして加治屋町に移転した。大久保もまた『郷中教育』の中で育った。大久保利通が「甲東」と号したのは甲突川という川のの東側で育ったからである。

 

 加治屋町からは桜島が眺められる。平野國臣が「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

 歴史を動かした西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、維新断行後は仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の厳しい一面を物語っている。

 

西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

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2018年4月 4日 (水)

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない。

 

『米国及び英国に対する宣戦の詔書』渙発が、いかに国民に感激を与へたかを示す文章及び歌を記させていただく。

 

保田與重郎氏「対米宣戦の大詔を拝し、皇國の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。…神命は常に國際謀略を霧消せしめ、万民草莽の苦衷は必ず大御心のしらしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」(『日記』)

 

河上徹太郎氏「遂に光栄ある秋が来た。…これまでの政府の抜かりないほうさくと手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。いまや一億国民の生まれ更る日である。…私は今本当に心からカラットした気持ちでゐられるのが嬉しくて仕様がないのだ。…混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『光栄ある日』)

 

青野季吉氏「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚へる。何といふ巨きな構想、構図であらう。」(『経堂襍記』)

 

折口信夫氏「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた。けれども、その日直に、十首近く口にのって作物が出來、その後も、日を隔てゝ幾首づゝ、何だか撞きあげるものゝやうに、出來たのである。」(『「天地に宣る」追ひ書き』)

 

そして折口信夫氏は次ぎのやうな歌を詠んだのである。

暁の霜にひゝきて 大みこゑ 聞えしことを 世語りにせむ

天地に響きとほりて 甚大(おぎろ)なる 神の御言(みこと)を くだし給へり

 

尾上柴舟

大勅捧げまつればおのづから心のふるへ手に及ぶかも

 

佐々木信綱

あなさやけ今日のさやけさ国つ敵(あだ)うてとし宣(の)らす大詔(おほみこと)くだる

 

土岐善麿

撃てと宣す大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に

 

中村武彦氏は、戦争直後獄中で「今こそ撃てと詔(みことのり)/承けて起ちたる暁の/あの一億の感激を/敗けたからとて忘られよか/そうだ敗けても国護る/大和魂われにあり」と歌った。

 

まさに昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできないと思ふ。況や「間違っていた」などと言ふのはあまりにも僭越である。靖國の英霊も、そして銃後でアメリカ軍の爆撃などによって斃れた無辜の國民も、ソ連に抑留され彼の地で非業の最期を遂げた多くの同胞も、さらに大東亜戦争に協力して戦い戦死された多くの東亜同胞も、犬死だったといふことになる。

 

このような歴史観では日本民族の誇り・自尊心を取り戻すことは出来ない。そればかりではなく、上御一人の『開戦の詔書』『終戦の詔書』を否定することとなる。

 

大東亜戦争を侵略戦争として断罪し、他国に謝罪することによって国際協力を果たそうとするのか、あるいは大東亜戦争の果たした役割と意味に誇りを持ち、歴史の継承から世界に貢献しようとするかは、同じ世界への寄与でも全く違ってくる。

 

大東亜戦争の開戦は、その目的においても實際の戦争においてもそして結果においても、自存自衛の戦ひであり、東亜解放の戦ひであった。わが國は米英が百年来、東亜諸國諸民族を侵略支配してゐる状況を掃攘するために宣戦を布告したである。即ち、明治維新の攘夷の戦ひをアジア的規模で遂行せんとしたのである。

 

欧米列強からの独立・解放が日本によって實現した今日、アジアにおいて大東亜共栄圏に近いものが生み出されている。『大東亜共同宣言』に謳われた理想はまさに実現しつつあるのである。

 

 

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『大東亜共同宣言』に示された日本の戦争理念

大東亜戦争開戦当初、日本軍が連合国軍を打ち破り破竹の進撃を続け欧米列強を駆逐したことは、長い間,欧米の植民地支配に喘いでいたアジア・アフリカの人々を勇気づけた。日本軍の捕虜となったイギリス軍インド人兵士の中からインド国民軍が結成された。そしてインド独立を達成すべく、日本軍と協力して「進めデリーへ」の合言葉のもとインドに向けて進撃した。インドネシアやビルマでも,日本の指導・援助で独立を目指す軍隊組織がつくられた。


 日本の指導者の中には,戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておく方が良いといふ考へも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたへるため,日本は昭和十八年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。


 日本はアジア諸国家に大東亜戦争への協力を求め,あはせてその結束を示すため、昭和十八年十一月六日、アジア諸国代表(日本・中華民国・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの六カ国および自由インド仮政府)を東京に集めて「大東亜会議」を開催した。

 

会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう『大東亜共同宣言』が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。署名した各国代表は、大日本帝国の東條英機総理、満州国の張景恵総理、中華民国南京政府の汪精衛行政院長、タイ国のワンワイタヤコーン殿下、フィリッピンのホセ・ぺ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、そしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班であった。この宣言は,連合国の『大西洋憲章』に対抗することを目指してゐた。

 

『大東亜共同宣言』には、各国が相提携して戦争を完遂し,大東亜をアメリカ・イギリスから解放して道義にもとづく共存共栄の秩序を建設し,大東亜の安定をはかるといふ理念がうたはれてゐた。

 

「            大東亞共同宣言

 
 

昭和十八年十一月六日「大東亜会議」にて採択

 

 

 

抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス
大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス
一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス
一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス        」

 

終戦後しばらくして東南アジアの国々の殆どが独立を達成した。戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早めるきっかけとなった。

 

日本が敗戦によって撤退したのち,インドネシアには,オランダが植民地支配を再開しやうとして復帰してきた。これに対し,戦時中,日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し,1949年独立を達成した。
 

インドでは,日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して,はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして,長く続いていた独立への気運がさらに高まり,インドは一九四七年,イギリスから独立した。そのほかにも,ビルマは戦後,植民地支配を再開したイギリスから改めて一九四八年に独立を勝ち取った。

かうした事実は、大東亜戦争においてわが国が戦争目的としたことが実現したことに外ならない。勝った國である米英ソよりも、日本の方が倫理的に高かったといふことである。
 深田佑介氏は、「極東国際軍事裁判による歴史観を見直すべき時期が到来している…この裁判においては、『民主主義対ファシズム』という対立図式を硬直的、教条的に適用し、戦時における日本の行動は全てファシズムによる悪と断罪した。この裁判に基く歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であった…大東亜会議は『アジアの傀儡を集めた茶番劇』では決してなかったのである。戦後、バー・モウは『歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、或いは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない』(『ビルマの夜明け』)で述べる。この誤解している諸国民の中に『日本国民』自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある」(『黎明の世紀』)と論じてゐる。

 

終戦時の関東軍作戦参謀・草地貞吾氏は、「十二月八日、いよいよ、大東亜戦争の発動となり、…赫々たる緒戦の戦果が、眠れる東亜諸人種・諸民族に与えた感作・影響は甚大なるものがあった。…大きな一撃が西欧の實力を破砕すると共に東亜全域の民心を覚醒した。…大東亜三十余國の独立は、この時成ったというも過言ではない。」「戦後半世紀の間に、新しく百二十を超える独立國が出現した。しかもその多くは大戦終わって間もなくの頃である。…壮大雄渾なる大東亜戦争の発動と、それに誘発奮起したアジア・アフリカ人種・民族の自決闘争総合の結果と言える。」「これほどすばらしい、これほど美しい歴史的行為・行動は、三千年の日本歴史上に無い。また、五千年の世界史上にも無い。實に大東亜戦争は、神武天皇以来、八紘一宇の皇謨による不可避の天命的大戦争であった。われらは今こそ、護國の礎となった靖國の英霊に無限の感謝を捧げると共に、挙國一致敢闘努力した、大東亜戦争の栄光を末長く伝えなければならない。」(『大東亜戦争大観論』)と論じてゐる。

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2018年2月10日 (土)

昭和十六年十二月八日の一億の感激

昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできない

 

『米国及び英国に対する宣戦の詔書』渙発が、いかに国民に感激を与へたかを示す文章及び歌を記させていただく。

 

保田與重郎氏「対米宣戦の大詔を拝し、皇國の向ふところ、必ず神威発するあるを確信した。…神命は常に國際謀略を霧消せしめ、万民草莽の苦衷は必ず大御心のしらしめすところ、まことに神州たる所以、神州不滅の原理を感銘し、感動し、遂に慟哭したのである」(『日記』)

 

河上徹太郎氏「遂に光栄ある秋が来た。…これまでの政府の抜かりないほうさくと手順、殊に開戦劈頭聞かされる輝かしき戦果。すべて国民一同にとって胸のすくのを思はしめるもの許りである。いまや一億国民の生まれ更る日である。…私は今本当に心からカラットした気持ちでゐられるのが嬉しくて仕様がないのだ。…混沌暗澹たる平和は、戦争の純一さに比べて、何と濁った、不快なものであるか!」(『光栄ある日』)

 

青野季吉氏「米英に宣戦が布告された。当然の帰結といふ外はない。戦勝のニュースに胸の轟くのを覚へる。何といふ巨きな構想、構図であらう。」(『経堂襍記』)

 

折口信夫氏「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺えた。けれども、その日直に、十首近く口にのって作物が出來、その後も、日を隔てゝ幾首づゝ、何だか撞きあげるものゝやうに、出來たのである。」(『「天地に宣る」追ひ書き』)

 

そして折口氏は次ぎのやうな歌を詠んだのである。

 

暁の霜にひゝきて 大みこゑ 聞えしことを 世語りにせむ

天地に響きとほりて 甚大(おぎろ)なる 神の御言(みこと)を くだし給へり

 

尾上柴舟の歌

 大勅捧げまつればおのづから心のふるへ手に及ぶかも

 

佐々木信綱の歌

 あなさやけ今日のさやけさ国つ敵(あだ)うてとし宣(の)らす大詔(おほみこと)くだる

 

土岐善麿の歌

 撃てと宣す大詔遂に下れり撃ちてしやまむ海に陸に空に

 

中村武彦氏は、戦争直後獄中で「今こそ撃てと詔(みことのり)/承けて起ちたる暁の/あの一億の感激を/敗けたからとて忘られよか/そうだ敗けても国護る/大和魂われにあり」と歌った。

 

まさに昭和十六年十二月八日の一億の感激は、歴史から抹殺することもできなければ否定することもできないと思ふ。況や「間違っていた」などと言ふのはあまりにも僭越である。靖國の英霊も、そして銃後でアメリカ軍の爆撃などによって斃れた無辜の國民も、ソ連に抑留され彼の地で非業の最期を遂げた多くの同胞も、さらに大東亜戦争に協力して戦い、戦死された多くの東亜同胞も、犬死だったといふことになる。

 

このような歴史観では日本民族の誇り・自尊心を取り戻すことは出来ない。そればかりではなく、上御一人の『開戦の詔書』『終戦の詔書』を否定することとなる。

 

大東亜戦争を侵略戦争として断罪し、他国に謝罪することによって国際協力を果すのか、あるいは大東亜戦争の果たした役割と意味に誇りを持ち、歴史の継承から世界に貢献するのかは、同じ世界への寄与でも全く違ってくる。

 

欧米列強からの独立・解放が日本によって實現した今日、アジアにおいて大東亜共栄圏に近いものが生み出されてゐる。『大東亜共同宣言』に謳われた理想はまさに実現しつつあるのである。

 

問題は、日本がいまだに敗戦後遺症から脱却できないことである。これを正す事が今日最も大切であると信ずる。

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2018年2月 9日 (金)

『大東亜共同宣言』に示された日本の戦争理念

 

大東亜戦争開戦当初、日本軍が連合国軍を打ち破り破竹の進撃を続け欧米列強を駆逐したことは、長い間,欧米の植民地支配に喘いでいたアジア・アフリカの人々を勇気づけた。日本軍の捕虜となったイギリス軍インド人兵士の中からインド国民軍が結成された。そしてインド独立を達成すべく、日本軍と協力して「進めデリーへ」の合言葉のもとインドに向けて進撃した。インドネシアやビルマでも,日本の指導・援助で独立を目指す軍隊組織がつくられた。

 

日本の指導者の中には,戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておく方が良いといふ考へも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたへるため,日本は昭和十八年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。

 

日本はアジア諸国家に大東亜戦争への協力を求め,あはせてその結束を示すため、昭和十八年十一月六日、アジア諸国代表(日本・中華民国・満州国・タイ・フィリピン・ビルマの六カ国および自由インド仮政府)を東京に集めて「大東亜会議」を開催した。

 

会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう『大東亜共同宣言』が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。署名した各国代表は、大日本帝国の東條英機総理、満州国の張景恵総理、中華民国南京政府の汪精衛行政院長、タイ国のワンワイタヤコーン殿下、フィリッピンのホセ・ぺ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、そしてチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班であった。この宣言は,連合国の『大西洋憲章』に対抗することを目指してゐた。

 

『大東亜共同宣言』には、各国が相提携して戦争を完遂し,大東亜をアメリカ・イギリスから解放して道義にもとづく共存共栄の秩序を建設し,大東亜の安定をはかるといふ理念がうたはれてゐた。

 

「            大東亞共同宣言

昭和十八年十一月六日「大東亜会議」にて採択

抑々世界各國ガ各其ノ所ヲ得相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス        」

 

終戦後しばらくして東南アジアの国々の殆どが独立を達成した。戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早めるきっかけとなった。

 

日本が敗戦によって撤退したのち,インドネシアには,オランダが植民地支配を再開しやうとして復帰してきた。これに対し,戦時中,日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し,1949年独立を達成した。

 

インドでは,日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して,はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして,長く続いていた独立への気運がさらに高まり,インドは一九四七年,イギリスから独立した。そのほかにも,ビルマは戦後,植民地支配を再開したイギリスから改めて一九四八年に独立を勝ち取った。

 

かうした事実は、大東亜戦争においてわが国が戦争目的としたことが実現したことに外ならない。勝った國である米英ソよりも、日本の方が倫理的に高かったといふことである。

 

深田佑介氏は、「極東国際軍事裁判による歴史観を見直すべき時期が到来している…この裁判においては、『民主主義対ファシズム』という対立図式を硬直的、教条的に適用し、戦時における日本の行動は全てファシズムによる悪と断罪した。この裁判に基く歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であった…大東亜会議は『アジアの傀儡を集めた茶番劇』では決してなかったのである。戦後、バー・モウは『歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、或いは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない』(『ビルマの夜明け』)で述べる。この誤解している諸国民の中に『日本国民』自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある」(『黎明の世紀』)と論じてゐる。

 

終戦時の関東軍作戦参謀・草地貞吾氏は、「十二月八日、いよいよ、大東亜戦争の発動となり、…赫々たる緒戦の戦果が、眠れる東亜諸人種・諸民族に与えた感作・影響は甚大なるものがあった。…大きな一撃が西欧の實力を破砕すると共に東亜全域の民心を覚醒した。…大東亜三十余國の独立は、この時成ったというも過言ではない。」「戦後半世紀の間に、新しく百二十を超える独立國が出現した。しかもその多くは大戦終わって間もなくの頃である。…壮大雄渾なる大東亜戦争の発動と、それに誘発奮起したアジア・アフリカ人種・民族の自決闘争総合の結果と言える。」「これほどすばらしい、これほど美しい歴史的行為・行動は、三千年の日本歴史上に無い。また、五千年の世界史上にも無い。實に大東亜戦争は、神武天皇以来、八紘一宇の皇謨による不可避の天命的大戦争であった。われらは今こそ、護國の礎となった靖國の英霊に無限の感謝を捧げると共に、挙國一致敢闘努力した、大東亜戦争の栄光を末長く伝えなければならない。」(『大東亜戦争大観論』)と論じてゐる。

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2018年2月 7日 (水)

対米英戦争がわが國の自存自衛の戦ひであったことは

アメリカはわが国に対し真綿で首を絞めるやうなことをして来た

 

昭和天皇は、わが國が戦争に追ひ込まれて行った原因について、「原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分な物である。」「総理になった東條は、九月六日の午前会議の決定を白紙に還すべく、連日連絡会議を開いて一週間、寝ずに研究したが、問題の重点は油であった。…実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても戦った方が良いといふ考が決定的になったのは自然の勢と云はねばならぬ」(『昭和天皇独白録』)と仰せになってゐる。

 

小生は、鈴木貞一氏がテレビで、「資源が無いのに何故アメリカと戦争をしたのですか」との質問に対し「資源が無いから戦争をはじめたのだ」と答へてゐたこと鮮明に記憶している。

 

開戦前のアメリカによるわが国への圧迫は、①対日通商條約の一方的破棄(昭和十四年七月)②航空燃料の輸出禁止(昭和十五年七月)③屑鉄の輸出禁止(同年五月)④在米全日本資産の凍結(昭和十六年七月)⑤石油の全面禁輸(同年八月)といふものであり、まさに真綿で首を絞めるやうなことをして来たのである。

 

さらに、昭和十六年十一月二十六日、わが軍の仏印・支那大陸からの撤退、王精衛の南京国民政府及び満州国の否認、日独伊三国同盟の死文化を求める米国務長官コーデル・ハルの最後通牒=「ハル・ノート」を突き付けてきた。この「ハル・ノート」をについてパル判事は、「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して戈をとって起ちあがったであろう」(『パル判決書』)と書いてゐる。

 

わが国は、まさに「開戦の詔勅」に示されてゐる通り「帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ頻セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」といふ状況に立たされたのである。

 

佐藤優氏は、「日本国民は当時の国家指導者に騙されて戦争に突入したのでもなければ、日本人が集団ヒステリーに陥って世界制覇という夢想に取り憑かれたのでもない。日本は当時の国際社会のルールを守って行動しながら、じりじりと破滅に追い込まれていったのである。あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないか」(『日米開戦の真実』)と論じてゐる。

 

対米英戦争がわが國の自存自衛の戦ひであったことは、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが、米上院外交合同委員会で、一九五一年五月三日、「原料の供給を断ち切られたら、一千万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」と証言したことによっても明らかである。

 

東條英機元総理はその「遺言」において、「英米諸国人ニ告グ…諸君ノ勝利ハ力ノ勝利ニシテ、正理公道ノ勝利ニアラズ。…大東亜戦争ハ彼ヨリ挑発セラレタルモノニシテ、我ハ国家生存、国民自衛ノ為、已ムヲ得ズ起チタルノミ。コノ経緯ハ昭和十六年十二月八日宣戦ノ大詔ニ特筆大暑セラレ、炳乎トシテ天日ノ如シ。故ニ若シ世界ノ公論ガ、戦争責任者ヲ追求セント欲セバ、其ノ責任者ハ我ニ在ラズシテ彼ニ在リ、乃チ彼国人中ニモ亦往々斯ク明言スルモノアリ。」と切言してゐる。

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わが国は、米英及びソ連によって戦争に追ひ込まれた

 

日本を戦争へと追ひ込んだのはソ連(ロシア)である。名目上は世界の共産化、実際には自国の権益の拡大・領土拡張を目指し、さらには日露戦争の仇を討ちたいソ連は、日本を取り潰す策謀を展開した。

 

曽野明氏(元外交官)は、「昭和七年(一九三二年)八月~九月のコミンテルン第一二回総會が行なった…決議には…米英仏日独といった『帝國主義列強』を互いに対立させ、戦争に追い込め、という戦略指令であった。日本について言えば、①日本を米國との戦争へ追い込め、②日本がソ連を攻撃するのを阻止せよ、ということであった。ソ連共産党の謀略機関も、ソ連政府の外交機関も、この目標に向けて一斉に活動した。ゾルゲ機関は、日本の政治中枢や軍部へ浸透をはかり(当時の青年将校の思想は、いわば『天皇制共産主義であった』であった)、米國との対決路線に追い込み、また、マスコミにも、國粋主義、排外主義(『鬼畜米英』)を吹き込んだ。一方、米國内では、排日機運の盛り上げが工作されていた。…『中立条約』の締結があったので、日本國民は『北辺の安寧』が保障されたと安心した。かくて、日本軍部の進路は米()との対決以外になくなったし、したがって日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである」と論じてゐる。

 

倉前盛通氏は、「尾崎秀実が対中国強硬論者の一人であったこと、対米開戦を最も叫んだ人間であったことは、戦後、故意にもみ消されて、あたかも平和の使者であったかのごとく、全く逆の宣伝が行われている。…日本が大陸にのめりこんで、国家の大方針を誤ったのは、①陸軍が、一九二〇年頃からドイツ型大陸地政学にかぶれ、大陸政策に深入りしたこと。②日本の目を大陸に向けさせ、海軍力の充実に回す予算を少なくさせようという米国の陰謀が裏にあったこと。この二つに大きな原因を見出すことができよう。…二・二六事件によって、『蒋介石と和解し、対ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々のほとんどが陸軍内部から排除され『シナ大陸への侵攻』を考えるグループによって陸軍の主導権が握られた…ここにも日中を戦わせようとする米ソ双方の巧妙きわまる陰謀工作が伏在していた」(『悪の論理』)と論じてゐる。

 

ソルゲと尾崎などのコミンテルンのエージェントたちは、当時わが國内で澎湃と湧き起こって来てゐた「國家革新」「東亜解放」といふ正義の主張をたくみに利用して、日本がソ連よりもアメリカ・イギリスを主敵とし、ソ連と戦ふよりも「米英を撃つべし」といふ世論を煽った。『革命の祖國・ソ連』を守る為に日本を「北進」させてはならず、そのために「南進論」を煽ったのである。また、日本と蒋介石政権の和平を図る動きを妨害したのもゾルゲと尾崎である。

 

尾崎を側近にした近衛文麿元総理は、社会主義に共感を覚えてゐた人であり、マルクス主義経済学者である河上肇を慕って東京帝大哲学科から京都帝大法科に移ったといふ経歴の持ち主である。近衛氏は、「防共反ソ」よりも「英米駆逐」に力を入れ南進論を主導した。わが國と蒋介石政権が全面戦争に突入した原因である西安事件も蘆溝橋事件も、ソ連と中共の謀略であったことは今日明らかになってゐる。

 

かくて、日本軍部の進路は米英との対決以外になくなり、日本がナチスドイツと呼応してソ連を挟撃する恐れもなくなった。ゾルゲ機関を駆使したソ連共産党の謀略は完全に成功したのである。

 

つまり、わが国は米英とソ連とによって挟撃される事態となった。わが国は、米英及びソ連によって戦争に追ひ込まれたのである。

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2018年2月 6日 (火)

大東亜戦争開戦と高村光太郎の詩

大東亜戦争の意義は、先帝陛下が「開戦の大詔」に明確にお示しになっている。「東亜の安定」と「自存自衛」の為に蹶然起って一切の障礙を破砕するための戦いであったのである。決してアジア諸国を侵略しようという戦いではなかった。東亜諸地域を侵略し支配していた米英との戦いであった。それはインド植民地化・阿片戦争など数百年にわたる欧米列強による東亜侵略への正義の抵抗であった。これを否定する勢力は、まさにわが国の光輝ある歴史を冒瀆し日本人の誇りを喪失せしめる元凶である。

 

詩人・高村光太郎は大東亜戦争開始時に以下の詩を書いている。当時の大多数の日本人の感激を吐露した詩であると思いう。

「   十 二 月 八 日

 

 記憶せよ、十二月八日

この日世界の歴史あらたまる。

アングロ サクソンの主権、

この日東亜の陸と海とに否定さる。

 否定するものは我等ジヤパン、

 眇たる東海の国にして、

また神の国たる日本なり。

そを治しろしめたまふ明津御神なり

世界の富を壟断するもの、

 強豪米英一族の力、

われらの国において否定さる。

われらの否定は義による。

 東亜を東亜にかへせといふのみ。

 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

われらまさに其の爪牙を摧かんとす。

われら自ら力を養いてひとたび起つ。

 老若男女みな兵なり。

 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 世界の歴史を両断する。

 十二月八日を記憶せよ。

 

(昭和161210日執筆、初出「婦人朝日」昭和171月号、詩集『大いなる日に』収録)

 

わが國混迷の根本原因は、「大東亜戦争は日本による一方的な侵略戦争だったのであり、これによってアジア諸國・諸民族に甚大な災厄をもたらした」「近代日本は侵略の歴史だった」という歴史認識が横行し、日本國民の多くが祖國の歴史に対する誇りを持てなくしていることにある。

 

祖國の歴史に誇りを持てなくなれば、國を愛し忠誠を誓うといふ最高の道義、國を護るという崇高な意志も喪失する。その結果、内政・外交・防衛・教育・文化等々あらゆる面においてわが國の混迷と弱体化をもたらす。今日の日本は正しくそういう状況にある。

 

「日本は侵略戦争をした悪い國である」という歴史観は、國家の基本法たる『日本國憲法』の「前文」にも麗々しく書かれてをり、且つ、終戦五十年の『内閣総理大臣談話』(閣議決定)にも書かれている。つまり「侵略戦争史観」はわが國の「國是」になっていると言っても過言ではない。

 

これでは、わが國は何年たっても、混迷から脱却してまともな國即ち道義國家・自主独立國家になることはできない。それどころか亡國への道を歩み続ける事となる。

 

わが国はなにゆえ大東亜戦争を戦わねばならなかったのか、そしてなぜ敗北したのかを正しく考察するべきである。そしてさらに、NHKや朝日新部などの偏向マスコミが喧伝する「東京裁判史観」「自虐史観」を否定し、「侵略者の烙印」を一日も早く徹底的に払拭しなければならない。

 

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2018年1月27日 (土)

半藤一利氏の祖国を貶める歴史観は全く間違ってゐる

半藤一利氏は、平成二十七年六月九日号の『朝日新聞』で、記者の質問に答へて次のやうに語った。「満州事変にしろ、上海事変にしろ、日本のやったことは、不戦条約違反であり、明らかな國際法違反だった」「日本國内だけの理屈ならば、『自存自衛』かも知れないが、國際社會の一員としては通用しない。日本はやはり戦争責任國なのです」「戦後の婦人参政権などが加わった新選挙法による國民の選良が、徹底的に討議して、GHQ案に日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えたものが憲法(『現行占領憲法』・注)です」に論じた。 

 

「満州事変」「上海事変」が当時の國際法に違反してゐたと言ふが、当時の國際社會において國際法に違反せずに対外戦略を實行した國はない。祖國日本のみを「違反した」と責め立てるのはあまりにも一方的な論議である。

 

半藤一利氏は「反戦」「反軍」の作家として永井荷風を評価し、『昭和史1926-1945』において度々永井荷風の『断腸亭日記』を引用して、当時の世相、軍及び政府、ナチスドイツを批判してゐる。

 

しかし、三月一日に満州國建國が行はれた昭和七年八月二十日の『断腸亭日記』には、「満州外交問題の記事誌面をうづむ。余窃に思ふに英國は世界到る處に領地を有す。然るに今日吾國が満洲占領の野心あるを喜ばざるは奇怪の至極といふべきなり。…畢竟強者の食たるに過ぎず。國家は國家として惡をなさざれば立つこと難く一個人は一個人として罪惡をなさざれば生存する事能はざるなり。之を思へば人生は悲しむべきものなり。天地間の生物は各其處を得て始めて安泰なり」と書かれてゐる。

 

永井荷風ですら当時の弱肉強食の世界情勢の中にあって、日本の自存自衛のための海外進出を止むを得ざることとしてゐたのである。

 

半藤氏はまた、「自存自衛」は「日本國内だけの理屈」と言ふが、日本にとって、「自存自衛」は、國が滅亡するか否か、國家民族の存亡をかけた大問題である。「國内だけ」などと言ふ言葉で片付けられる問題ではない。日本も「國際社會」の一員だったが、東亜侵略・植民地支配を行った欧米列強も言ふまでもなく「國際社會の一員」であった。日本のみが「國際社會の一員」として何処の國も守ってゐない「國際法」を遵守し國が滅びても良かったといふ理屈は全く成り立たない。

 

「占領憲法」の押しつけについても半藤氏は、「戦後の婦人参政権などが加わった新選挙法による國民の選良が、徹底的に討議した」などと言ってゐるが、戦争終了直後、國民の大多数が食ふや食はずの状態にあり、さらに海外にも未帰還同胞が多数ゐた。とても日本國民全体が憲法について真剣にそして徹底的に考へ論議する状況ではなかった。さうした時期に行はれた選挙、そしてその選挙で選ばれた議員が行った「討議」とそれに基づく「意思」が真の意味の「日本國民の自由に表明せられた意思」(『ポツダム宣言』)とすること到底できない。

 

半藤一利氏の好きな永井荷風は『断腸亭日乗』昭和二十二年五月三日の記述において「五月初三。雨。米人の作りし日本新憲法今日より實施の由、笑ふべし」と記されてゐる。

 

荷風は、『現行占領憲法』は「日本人の意思と気持ちをこめてどんどん筆を加えた憲法」即ち日本國民が自主的に作った憲法などとは全く思ってゐなかった。「占領憲法實施」を冷笑してゐたのだ。半藤一利氏の祖国を貶める歴史観は全く間違ってゐる。

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2017年12月23日 (土)

西南戦争について

 

 明治十年(一八七七)九月二四日午前三時五五分、政府軍によって西郷軍が立て籠もる城山総攻撃が開始された。城山に籠った西郷軍はわずか三七0人、包囲する政府軍は五万人を超えていた。西郷軍は奮戦したが敗れ、西郷隆盛は午前七時過ぎ別府晋介の介錯によって満四九歳八ヵ月の生涯を閉じた。

 

 錦江湾・桜島を望むことができる地にある南洲墓地には城山における最後の戦いおよび各地の戦いにおける西郷軍の戦死者二千二三人(西郷軍全戦死者六千二百三九人の約三分の一)が埋葬されている。墓の殆どは錦江湾に向いている。戦死者には若者が多く、十歳代の若者が数百人数えられる。これらの若者は郷中教育・私學校などにおいて教育を受けた優秀な人が多かったであろうから、天寿を全うしたとしたら國家のために大きな働きをしていたであろう。鹿児島県のみならず國家にとって大きな損失であった。

 

 城山を攻めた政府軍首脳には、川村純義・大山巌(西郷の従兄弟)など薩摩出身の人も数多くいた。また参軍の山県有朋も西郷の恩顧を受けた人物である。政府軍は西郷たちの遺体に無礼を働くことはなかった。また政府の派遣した岩村通俊県令は、西郷隆盛をはじめとした二千二三名の西郷軍戦死者たちを南洲墓地にあるところに手厚く葬った。

 

 佐賀の乱鎮圧の時、その首謀者とされた江藤新平を梟首(晒し首)の刑に処したのとは大きな違いである。西郷隆盛が死してもなお政府は西郷の影響力を恐れたからともいわれている。ただし末端の政府軍兵士には西郷軍の遺体に無礼を働くものもいたという。

 

 南洲墓地は埋葬直後から鹿児島市民の参拝が絶えず献花は墓標を埋めて盛り上がったという。

 

 墓所には西郷隆盛を中心に桐野利秋(西郷軍総指揮官)・辺見十郎太・池上貞固などの墓が数多く並んでいる。

 

 南洲墓地境内には南洲神社に鎮座している。御祭神は西郷隆盛。そして西郷軍戦没者六千八百柱の御靈が配祀されている。明治十三年に参拝所が建立され、大正十一年に神社として創建された。

 

 また、墓地の正面の下の方には、勝海舟の

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

 

とい刻まれた歌碑が建てられている。説明書きには「私學校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。…西南戦争を引き起こした…幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私學校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです」と書かれている。

 

 果たしてこの見方は正しいであろうか。西郷はただ私學校の生徒にかつがれただけなのか。勝海舟のこういう見方は西郷を政府への反逆者・賊徒にしたくないという意思に基づくものである。

 

しかし、西郷は相当の決意を持って軍を率いて上京しようとしたと私は思う。大久保・山県・伊藤等が主導する政府の非を問責するため兵を率いて上京しようとしたのは西郷自身の強い意志であると信じる。

 

 警視庁から西郷暗殺団が送り込まれたという事実を勘案すれば、陸軍大将の地位にある者として兵を率いて上京するのは当然である。それはまた島津斎彬・久光のが維新前に徳川幕府を非を糺し幕政を改革するために行った『率兵上京』を見習ったことなのかもしれない。

 

 ただし、西郷軍は最初から武力戦を想定していたのではなく、政府軍は西郷軍到着前に熊本城下を焼き払い、熊本城に籠った政府軍の方が先に発砲した来たといわれている。

 

 南洲墓地には、常夜燈が建てられている。西郷隆盛と勝海舟との會談により江戸城が無血開城され江戸が兵火から免れたことへの感謝のため、昭和十四年東京市によって建立されたという。

 

「江戸ノ開城セラルルヤ西郷南洲勝海舟両翁ノ折衝ニ依テ兵火ノ厄ヲ免レ以テ大東京殷盛ノ基ヲ成セリ茲ニ奠都七十年記念トシテ感謝祭ヲ行ヒ常夜燈ヲ建ツ 昭和十四年五月 東京市」と刻まれている。

 

 さらに『岩村縣令紀念碑』と刻まれた石碑がある。岩村通俊は、土佐藩士として維新の戦いに加わり、維新後は北海道開拓、佐賀の乱・萩の乱鎮定に功を立てた。西南戦争後、鹿児島県令として戦後処理に当たり西郷を手厚く葬り、南洲神社の前身である参拝所を建てた。このことに対する鹿児島県人の感謝の意をとどめた碑である。通俊はその後、農商務大臣・宮中顧問官などを歴任した。

 

 通俊の弟は岩村高俊であるが、高俊も維新戦争に挺身し、東山道総督として信越に出征、小千谷において長岡藩家老河合継之助と會談し、高圧的態度で挑み談判を決裂させ、長岡藩を抗戦させた。また、佐賀の乱では佐賀県令としてこれまた高圧的な態度で挑発し、佐賀県氏族を決起させたといわれている。弟は兄と違って多くの悪評を持つ人物である。この兄弟の墓は東京谷中墓地にある。

 

 城山は西南戦争最後の西郷軍司令部のあったところである。城山に立て籠もった西郷軍兵士はわずか三百七十余名。西郷隆盛が自決するまでの最後の五日間を過ごした岩崎谷の洞窟(間口三m、奥行五m)がある。政府軍の総攻撃が開始されるや、西郷がこの洞窟を出て百㍍ほど歩いたところで、政府軍の弾丸が西郷の太股を貫いた。そこで西郷は従っていた別府晋助に「晋どん、もうこの辺でよかろ」と言って切腹し、別府晋助に介錯を命じたという。

 

 こうして西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じた。西郷軍の戦死者は士族四九一九名、平民二九八名。政府軍の戦死者は四六五三名であったという。

 

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