2019年3月11日 (月)

三月十日に思う

 

戦後日本の復興は、アメリカの占領政策が成功したからではありません。明治大正世代の日本人が優秀だったから復興したのです。日本人の血のにじむような努力で復興を遂げたのです。むしろアメリカは日本を弱体化しようと様々なことを行ったのです。

 

アメリカという国は、わが國に対しても、爆撃すれば相手が屈服すると思って、原爆投下・焼夷弾投下などの空爆を敢行し無辜の民を殺戮しました。その体質は今日も変わりません。いくら日米同盟が大事だとは言っても、この事は忘れてはならないと思います。

 

私は、ベトナムという国を見直しています。フランスと戦い、アメリカと戦い、共産支那と戦い、屈服しなかったあの国を日本は見習わねばならないと思います。

わが日本民族は、いわゆる有色民族です。有色の反対語は無色です。しかし白色人種とは言われても無色人種とは言われません。どうも有色人種・白色人種という用語自体に問題があります。白人という言葉には、アジア・アフリカ・中南米などに住む人々すなわちいわゆる有色人種を差別する意識があるように思えます。否、差別どころか、迫害し、圧迫し、搾取してきた歴史がります。

 

そもそもアメリカ合衆国という国家自体、先住民族を迫害し殲滅し放逐し、さらにアフリカ人を強制連行して奴隷としてこき使って出来上がった国です。

 

そしてわが国に原爆を落とし、夜間無差別絨毯爆撃を行って老人・女性・子供を含む無辜のわが国民を大量虐殺した国です。爆撃を実行した米軍パイロットはテレビで、「日本人は人間ではないと思って爆撃した」と語っていました。

 

白色人種の世界支配・侵略・搾取・蛮行に反撃しそれを食い止めアジア・アフリカ諸国に独立を勝ち取らせた戦いが大東亜戦争だったのであります。

 

日本民族は誇りを回復し、かつて白色人種の世界支配からアジア・アフリカを救ったように、今日においてはアジアにおける最大の覇権国家・軍国主義国家たる共産支那のアジア侵略支配策謀を粉砕するために努力しなければなりません。そして反日国家南北朝鮮と戦わねばなりせん。

 

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2019年2月 6日 (水)

日露戦争について・承前

日清戦争に日本が勝利すると、ロシアはフランス・ドイツと謀り、遼東半島の支那への還付を要求した。「三国干渉」である。

 

「三國干渉」で遼東半島を横取りし「黒竜江上の悲劇」で数千の清國人を虐殺したロシアは、朝鮮半島を狙ひわが日本を窺った。

 

伊勢雅臣氏は『國際派日本人養成講座』といふ文章で、「このままロシアの南下を傍観していれば、いずれ朝鮮半島もロシアのものとなり、日本の連合艦隊に匹敵するロシア極東艦隊が目と鼻の先に本拠地を構えることとなる。この脅威は、たとえば現代においてシナが韓國も勢力圏において、海軍や核ミサイルを配備したと考えれば想像できよう。坐して死を待つよりも乾坤一擲の戦いに賭けようとした明治政府の決断に思いをいたすべきだ」と論じてゐる。

 

ロシアは、遼東半島をロシアに租借させ、大軍港を建設した。つまり遼東半島を日本から横取りしたのだ。ロシアといふ國は、偽善・欺瞞・老獪・不正義の國なのだ。それは今も変はってゐないことは、最近の北方領土交渉におけるロシアの態度を見て明らかだ。

 

その後、ロシアは着々と満洲に軍を送り込み、軍事基地建設を進めた。大連には兵営を作り、旅順には要塞を作った。

 

ロシアは、明治三十六年(一九〇三年)日本との交渉において満洲の独立と領土保全には触れず、日本が韓国に派兵することを禁止し、さらに朝鮮半島北部の「中立化」を唱えて満州におけるロシアの勝手な行動に対する日本の制御を排除した。

 

日本がこれを拒否すると、ロシアはロシア軍の動員令を下し、満洲の戒厳令を布き、戦争準備を行った。

 

ロシアの侵略策謀に対して、わが国はロシアに対して防衛戦争を開始しなればならなくなった。日本がロシアと戦はなければ、日本も朝鮮もロシアに占領されるか、属国になるしかなかった。そして明治三十七年(一九〇四年)、日露戦争が開始された。

 

中村粲氏は次のやうに論じてゐる。「日露戦争の重大意義は、アジア及び世界の抑圧された民族に希望と自信を与へ、その民族独立運動を促したことだ。…地理上の発見以後、アジアと年を追ひ、世紀を追うて西力東漸の波に洗はれ、白人国家の圧迫と支配を受けるに至った。…十九世紀末から二十世紀初頭にかけて…日本だけが、当時アジアで唯一の完全な独立国家であり、立憲政体と議会制度と近代的軍隊を持ってゐた。…日露戦争は有色人種の白色人種に対する勝利であり、また立憲国家の専制国家に対する勝利の戦日でもあった。日本の輝かしき勝利が、西洋列強の桎梏下に呻吟するアジア後進諸国に与へた衝撃は甚大で、日露戰爭は全アジアを覚醒、奮起せしめ、民族独立運動は澎湃として起り広がって行く。…アジアのみならず、長年ロシアの暴圧に苦しんできたフィンランド、ポーランド、スウェーデンなどの欧洲の国々も、ロシアの敗北を切望し、日本の捷報に歓喜した」(『大東亜戦争への道』)と。

 

日本が支那やロシアの属国にならないための戦い=日清・日露戦争は正しかったし、正義の祖国防衛戦争であった。

 

日本が支那やロシアの属国にならないための戦い=日清・日露戦争は正しかったし、正義の祖国防衛戦争であった。今日においても、ロシア、南北朝鮮、共産支那の軍事的・政治的圧迫に際会し、領土を奪取されてゐるわが国は、今こそ「大和心」を興起しなければならない。

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2019年2月 5日 (火)

日露戦争について

ロシアは満洲から朝鮮へ、朝鮮から日本へと侵略は拡大してきた。江戸時代末期において、ロシアは北海道と対馬の占領を企んでゐた。

 

すでに三百年以上前にピーター太帝(ピョートル一世。スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とした。これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行)が「ロシアは世界を征服すべく、まづ東へ進出しなければならない」といふ侵略方針を立てて、シベリア全土を占領した。

 

ロシアはその後も、シベリアから満洲、蒙古、さらに支那・日本へと侵略の牙を伸ばしてきつつあった。日清戦争に日本が勝利すると、ロシアはフランス・ドイツと謀り、遼東半島の支那への還付を要求した。「三国干渉」である。

 しかもロシアは、遼東半島をロシアに租借させ、大軍港を建設した。つまり遼東半島を日本から横取りしたのだ。ロシアといふ國は、偽善・欺瞞・老獪・不正義の國なのだ。それは今も変はってゐないことは、最近の北方領土交渉におけるロシアの態度を見て明らかだ。

その後、ロシアは着々と満洲に軍を送り込み、軍事基地建設を進めた。大連には兵営を作り、旅順には要塞を作った。ロシアの侵略策謀に対して、わが国はロシアに対して防衛戦争を開始しなればならなくなった。日本がロシアと戦はなければ、日本も朝鮮もロシアに占領されるか、属国になるしかなかった。

そして明治三十七年(一九〇四年)、日露戦争が開始された。

明治三十七年二月十日に渙発された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』には、

「惟フニ文明ヲ平和ニ求メ列國ト友誼ヲ篤クシテ以テ東洋ノ治安ヲ永遠ニ維持シ各國ノ權利利益ヲ損傷セスシテ永ク帝國ノ安全ヲ將來ニ保障スヘキ事態ヲ確立スルハ朕夙ニ以テ國交ノ要義ト爲シ旦暮敢テ違ハサラムコトヲ期ス朕カ有司モ亦能ク朕カ意ヲ體シテ事ニ從ヒ列國トノ關係年ヲ逐フテ益々親厚ニ赴クヲ見ル今不幸ニシテ露國ト釁端ヲ開クニ至ル豈朕カ志ナラムヤ

 

帝國ノ重ヲ韓國ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス是レ兩國累世ノ關係ニ因ルノミナラス韓國ノ存亡ハ實ニ帝國安危ノ繋ル所タレハナリ然ルニ露國ハ其ノ淸國トノ明約及列國ニ對スル累次ノ宣言ニ拘ハラス依然滿洲ニ占據シ益々其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ終ニ之ヲ併呑セムトス若シ滿洲ニシテ露國ノ領有ニ歸セン乎韓國ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス故ニ朕ハ此ノ機ニ際シ切ニ妥協ニ由テ時局ヲ解決シ以テ平和ヲ恆久ニ維持セムコトヲ期シ有司ヲシテ露國ニ提議シ半歳ノ久シキニ亙リテ屡次折衝ヲ重ネシメタルモ露國ハ一モ交讓ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス曠日彌久徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメ陽ニ平和ヲ唱道シ陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス凡ソ露國カ始ヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ毫モ認ムルニ由ナシ露國ハ既ニ帝國ノ提議ヲ容レス韓國ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ帝國ノ國利ハ將ニ侵迫セラレムトス事既ニ茲ニ至ル帝國カ平和ノ交渉ニ依リ求メムトシタル將來ノ保障ハ今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ朕ハ汝有衆ノ忠實勇武ナルニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス」と示された。

 

明治三十八年(一九〇五年)に日本が勝利すると、白人(かかる表現が適当であるかどうか疑問だが)によって侵略され支配されてゐた有色人種(この表現も適当かどうか疑問である)は、白人たるロシアに対して有色人たる日本が勝利したことを歓喜した。日露戦争の日本の勝利が、二十世紀後半における人種差別撤廃、植民地支配の解放のきっかけとなった。

日露戰爭における明治天皇の大御歌を「戦意高揚の歌であり、日本国憲法の平和主義に反する」などと言って、安倍総理を非難攻撃した日共委員長・志位和夫は、侵略国家・ロシアの手先である。

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2019年1月31日 (木)

大東亜戦争について

 およそ国運を賭しての大国間の戦争が、そう簡単に始められるものではない。アメリカの歴史家・ベアードは、「日本はルーズベルト大統領の巧妙なる秘密工作により、戦争に追い込まれたのである。大統領は、開戦一年二ヵ月前の一九四〇年十月、既に日米開戦の不可避を知っていた」と多くの資料に基づいて論述している。           

 

 ルーズベルト大統領は、わが国による真珠湾攻撃の五ヵ月前の昭和十六年七月十八日に、米爆撃機を使ってわが国の工業地帯を先制奇襲爆撃する計画にゴー・サインを出し、自ら署名していた。(米国立公文書館、極秘資料)

 

 また、昭和十六年十一月二十六日、アメリカ政府は最後通牒『ハル・ノート』を突きつけた。その内容の要点は、①支那大陸とフランス領インドシナからの日本軍の即時全面撤退②蒋介石政権以外の政権を否認すること③日独伊三国同盟を死文化すること-など十項目である。

 

 日清・日露両戦役、第一次世界大戦で得た支那大陸における日本の合法的権益(条約に基づく租借地や租界)を一切認めない、日本軍の仏印進駐はヴィシー政権との条約に基づくのだがそれを認めない、南京の汪兆銘政権を認めてはならないという、それに加えて三国同盟を破棄せよと迫ったのである。当時の国際常識からいったら無茶苦茶な無理難題というほかはない。それはパール判事が、「モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも米合衆国に戈をもって立ち上がったであろう」と評したほどの無理な要求であった。

 

 『ハルノート』は、ソ連工作員・パブロフから直接指示されたソ連のスパイ=ハリー・ホワイト米財務長官が六月に起草したものであったことが判明した。(米特殊機関「VENONA資料」)一方、そのホワイトに対日強硬策を工作したソ連側の当事者パブロフは、ソ連崩壊後に回顧録を執筆しその謀略の内容を明らかにした。

 

 当時のアメリカにとって、日本はソ連や支那以上に憎い国であった。日本が日露戦争に勝利をおさめた後、アメリカにとって仮想敵国は日本だった。アメリカの歴史こそまさに帝国主義の歴史・侵略の歴史であった。十八世紀にイギリスから十三州で独立したアメリカ合衆国は、フロンティア精神を発揮して西部開拓を行い、インディアンを駆逐し、メキシコから領土を奪い取り、西海岸に到達し、ハワイを併合し、グアム、フィリッピンを植民地化したのはまさに侵略・帝国主義以外のなにものでもない。幕末のペリー来航は、支那大陸への中継港確保が主目的だったが、あわよくば日本の植民地化を狙ったものでもあった。

 

 フィリッピン植民地化後、支那大陸への野望を募らせたアメリカの前に立ちはだかる国は日本しかなかった。日本を押さえ込むことがアメリカの目的だったのである。

 

 このように、日米開戦は、まさに、アメリカ・ルーズベルト政権の挑発によるものなのである。それはルーズベルト政権がソ連に踊らされただけでなく、アメリカのアジア進攻という強い意志によるのである。その証拠は、大東亜戦争の日本降伏の調印式が行われた戦艦「ミズーリ」の艦橋にペリー来航時の米国国旗が翻っていたことである。

 

 大東亜戦争において、東南アジアが戦場になったが、決してわが国が東南アジアをその地域を侵略し領土拡大を狙ったわけではない。東南アジアを植民地支配していた米英蘭という西欧列強と戦ったのである。米英蘭などの西欧列強は、それまでアジアの資源を独占していたが、わが国の大東亜戦争によって、アジア諸国はことごとく独立を獲得した。

 

 いわゆる「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行問題」も政治的作為であり、虚構であることは、歴史家の調査及び種々の文献によって明白である。

 

 そもそも、「侵略」とは、無法に独立主権国家の支配下にある領土等に軍事力で侵入して奪い取り、そのまま長期にわたってこれを占領して主権を侵害するする状態をいう。国際法上の戦争行為・行動や戦争中における一時的占領行為を意味するものではない。

 

 大東亜戦争においてわが国が軍事進攻した地域は、清朝崩壊後多数、政権・軍閥が並立して、統一された独立主権国家が存在していなかった支那大陸と、欧米列強の植民地だったアジア地域であった。支那事変におけるわが軍の支那大陸進攻、大東亜戦争におけるハワイ急襲、マレー上陸・シンガポール攻略、フィリッピン・香港・蘭印・ビルマへの進軍などは、すべて戦争手段たる一時的作戦・戦闘行為であって、断じて侵略ではない。

 

 極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)を創設したマッカーサーですら、一九五一年五月、米上院の軍事外交合同委員会の公聴会で、「日本が第二次大戦に赴いた目的はその殆どが安全保障のためであった」と述べ、侵略ではなかったと証言した。

 

 極東国際軍事裁判の裁判長を勤めたウエップもバーガミニーという人の著書の序文で、「米国も英国も日本が一九四一年に置かれたような状況に置かれれば、戦争に訴えたかもしれない」と書いている。

 

 大東亜戦争は、決してわが国による侵略戦争ではなく、わが国の自存・自衛のための戦いだったのであり、かつ、アジア解放戦争であったのである。欧米列強こそ、アジア侵略の張本人であったのだ。

 

 しかるに、わが国自身がいわゆる「東京裁判史観」に呪縛されたまま、謝罪決議を行ったり、謝罪総理談話を発表したのである。「東京裁判史観」とは、極東国際軍事裁判の多数判決即ち六人の判事の西欧列強のアジア侵略を正当化するためにわが国の行為を一方的に処断した判決を正しいとする歴史観である。

 

 また、支那共産政府そして韓国の内政干渉に屈伏して、「謝罪外交」をくり返しているわが国政府、そして、外国の手先となって祖国の歴史を冒瀆している国内の反日勢力はこれを糾弾しなければならない。

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2019年1月27日 (日)

安倍晋三総理、石破茂氏などの歴史観について

私はかつて石破茂氏を総理候補の人として期待してゐたことを今猛烈に反省しています。彼の歴史観はあまりにもひどい。そこで、昨年九月二十日に書いた拙文を再掲載させていただきたい。

 

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安倍晋三総理、石破茂氏などの歴史観について

この数日、たまりにたまった資料の整理をしているのだが、既に廃刊になってしまった『諸君』平成十九年三月号に掲載された論文と座談会で大変重大なことが語られ、書かれていたので紹介したい。

 

一つは、「防衛省誕生で日本は『普通の國』になれるか」という座談会で、今総裁選挙を戦っている石破茂氏は、「戦後レジーム脱却の核心があるとすれば、それは『集団的自衛権の行使を可能にすること』だろうと思います。私は『憲法改正しなくとも自衛権行使は可能』という論者ですが、日本が集団的自衛権を行使できるようにするには、以下の二つの歴史認識が不可欠です。まず第一は、『何故あのような戦争に突入してしまったのか?』という認識。なぜ勝ち目のない戦争に突入し、貴重な人命と財産をことごとく失い、国民には何も知らせないまま、破滅に陥ってしまったのかという視点です。第二は、先の戦争で日本がアジアの国々に対し、いかに多大な迷惑をかけたかに対する認識。私自身は、日中戦争はまぎれもなく侵略戦争だったと思いますし、一般人も巻き込んで大きな犠牲を強いたことは間違いないと率直に思います。『南京大虐殺はでっち上げ』『三十万も殺していない』という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、『他の國も同じような侵略をやっていた』という自己正当化の論理は、子供がよく言う『だって○○ちゃんのやってるもん』という言い訳と似たような発想です。迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と語っている。

 

私は防衛問題に関する石破氏の発言と言うか考え方には共鳴するところが多かったのだか、歴史観は大いに問題があると思っていた。今日この主張を讀んであらためてそのことを実感した。

 

「あの戦争」とひとくくりに言うが、満洲事変から日米戦争までの戦いが日本の一方的侵略であったという議論は全く成り立たない。歴史的事実に反する。「勝ち目のない戦争だった」という事は日米戦争で敗戦に追い込まれたからそう言われるのであって、満洲事変から日米戦争まで十年間の戦いは勝つために行ったし、始めから勝ち目がなかったなどということは全くない。事実、満洲国は建国されたし、支那大陸では日本は優勢な戦いを続けていた。

 

支那事変(所謂日中戦争)と日米戦争は、国際的謀略に引っかかって戰爭に追い込まれたのである。日本を戦争に追い込んだのはソ連とアメリカである。

 

「たとえ百人でも虐殺に変わりはない」などと言うのは全く最初から日本を悪者にしようという「反日思想」である。戦争は殺し合いである。まして敵の首都攻略において死者が出るのは当たり前である。それを「三十万人虐殺した」など言って日本を攻撃する支那の嘘八百をそのまま認めるわけにはいかない。それを百人でも三十万人でもで「虐殺は虐殺だ」などと日本の政治家か言うこと自体全く間違っている。

 

「迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と言うが、わが国は、「極東国際軍事裁判」という名の「復讐戦」に於いて、国家指導者が7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。またその他各地で行われた「戦犯裁判」という名の「復讐戦」に於いて数多くの人々が処刑され、投獄された。そしてわが国は七年間軍事占領され、さらにアジア各国に戦後賠償を行った。そればかりではない。戦後七十三年間、支那や韓国などに対して謝罪させられ続けている。これ以上どう「謝罪」すればいいのか。

 

石破茂氏は、左翼・反日主義者とほとんど同じ「自虐史観」を持っているのだ。もっとも石橋だけを責め立てるわけにいかない。自民党の有力政治家の中にも、古賀誠氏や河野洋平氏など石破氏と同じような考え方の人は多い。

 

また、安倍晋三内閣総理大臣の「戦後70年談話」を讀むと 「戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」と書かれている。日本を戦争に追い込んだ米ソ両国の事には全く触れていない。そして日本の一方的侵略で当ったかのような主張だ。石破氏の歴史認識とそんなに変わりはない。実に以て困ったことである。

なお『諸君』の同じ号で西尾幹二氏は、「あの戦争(注・大東亜戦争)は非力なアジアの一国の自暴自棄の反乱だったのではない。始まる時には不安だったものの、ついにやったとの解放感もあり、勇気も湧き、希望も抱いていた。反西欧・反近代のナショナリズム、遅れて貧しいアジアの一国の捨て鉢な犯行ということですべて説明できる事態ではない。英米と互角だったからこそ可能になった、四年にもわたる長期戦である。単なる暴発でも、自爆でもない」「東京裁判は不法な政治裁判だった。共同謀議と言うあり得ない言いがかり、国際法が認めていなかった軍人や政治家の個人責任、戦争自体は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後立法的性格)という異邦、等々の国際法上の矛盾はつとに知られる」「敗戦国の指導者が裁判で裁かれるというついぞ例のない現実を、心ある当時の日本の法律関係者は、悪夢を見るような、幻覚を見るような思いで見つめていた」「昭和二十年九月十一日、東條英機大将は自決に失敗したが、AP通信に、『大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦いだったと自分は信じている。国民はよろしく戦いは正しかったという自信の下に大局の処置を誤らないように自重されたい』と所信表明をして、昏睡状態に入ったと当時の新聞は伝えている。政治指導者としての東條を評価するかどうかは別問題としても、この言葉の大意は素直に認めるべきで、私は多分この通りであったと共鳴している」(『勝者の裁き』―フセインと東條の『ここが違う』)と論じている。

 

西尾幹二氏の主張は全く正しい。大東亜戦争は決して侵略戦争ではなかった。アジアの国々に多大な迷惑をかけた戰爭では無かった。東亜解放の戦いであった。この歴史の真実を日本の政治家たる者しっかりと正しく認識していなければならない。

 

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2018年12月18日 (火)

西郷隆盛・西南戦争について

西郷隆盛は文政十年(一八二七)十二月七日、武士階級の家が立ち並んでいた下加治屋町で城下士の下から二番目の地位である小姓組の家に生まれた。西郷は下加治屋町で『郷中教育』を受けた。

 

「郷中」とは城下の道路で囲まれた一区角に住む数十戸の武士の子供たちの學区のこと。その中で行われていた組織的な教育(儒學・武道・歴史など)を『郷中教育』という。肉体的にも精神的にも徹底的な鍛練教育であったという。

 

各郷の學舎にはそれぞれ名前がつけられ、西郷と大久保は加治屋町の「二松學舎」という名の學舎に學んだ。小生の母校は東京九段にある二松學舎である。これは明治初年に、大審院判事・三島毅(元岡山藩藩儒)によって創立された漢學塾である。同じ名称なので嬉しく思う。

 

各學舎では薩摩藩中興の祖といわれる島津忠義(日新公)の作った「いろは歌」(座右の銘をいろは順に詠み込んだもの)が教えられた。それは「い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行ひにせずばかひなし」「ろ 楼の上もはにふ(注みすぼらしい)の小屋も住む人の心にこそはたかさ賤しさ」などという歌である。

 

この郷中制度出身者には、西郷・大久保のほかに樺山資紀・大山綱良・黒田清輝・有馬新七・重野安・吉井友実・大山巌・牧野伸顕・東郷平八郎などがいる。

 

大西郷が生まれた地は、その波乱万丈の生涯のとは裏腹に、今は静かに石碑が立っている。

 

この加治屋町からは桜島が眺められる。

平野國臣が

 

「わが胸のもゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山」

 

と詠んだように、西郷隆盛や大久保利通など鹿児島に生まれ育った人々は、この活火山を眺めては壮大な気宇を養ったのであろう。

 

近代日本の基礎を築いたと言っても過言ではない西郷・大久保の二人が生まれ育った加治屋町である。

歴史を動かした西郷と大久保は文字通り「竹馬の友」である。そして相協力して命懸けで明治維新の戦いに挺身した。しかし、維新断行後は仇敵同士となり、相戦い、西郷は城山に露と消える。一方、大久保は明治政府の最高権力者として近代日本建設に邁進したが、西郷死後一年も経たないうちに、石川県氏族島田一郎等によって斬殺される。この二人の関係は、盟友関係が敵対関係になるという変革の歴史の厳しい一面を物語っている。

 

大西郷と大久保甲東の二人こそ、わが日の本の近代の二つの道を示したる人である。この二つの道は「王道」と「覇道」、「伝統回帰」と「欧化」と言われるが、西郷も大久保も日本の自主独立と発展と繁栄自由の礎を築いた人であったことは間違いない。

 

明治十年(一八七七)九月二四日午前三時五五分、政府軍によって西郷軍が立て籠もる城山総攻撃が開始された。城山に籠った西郷軍はわずか三七0人、包囲する政府軍は五万人を超えていた。西郷軍は奮戦したが敗れ、西郷隆盛は午前七時過ぎ別府晋介の介錯によって満四九歳八ヵ月の生涯を閉じた。

 

南洲墓地には城山における最後の戦いおよび各地の戦いにおける西郷軍の戦死者二千二三人(西郷軍全戦死者六千二百三九人の約三分の一)が埋葬されている。墓の殆どは錦江湾に向いている。戦死者には若者が多く、十歳代の若者が数百人数えられる。これらの若者は郷中教育・私學校などにおいて教育を受けた優秀な人が多かったであろうから、天寿を全うしたとしたら國家のために大きな働きをしていたであろう。鹿児島県のみならず國家にとって大きな損失であった事は確かである。

 

城山を攻めた政府軍首脳には、川村純義・大山巌(西郷の従兄弟)など薩摩出身の人も数多くいた。また参軍の山県有朋も西郷の恩顧を受けた人物である。政府軍は西郷たちの遺体に無礼を働くことはなかった。また政府の派遣した岩村通俊鹿児島県令は、西郷隆盛をはじめとした二千二三名の西郷軍戦死者たちをここに手厚く葬った。

 

佐賀の乱鎮圧の時、その首謀者とされた江藤新平を梟首(晒し首)の刑に処したのとは大きな違いである。西郷隆盛が死してもなお政府は西郷の影響力を恐れたからともいわれている。ただし末端の政府軍兵士には西郷軍の遺体に無礼を働く者もいたという。

 

西郷等の墓所は埋葬直後から鹿児島市民の参拝が絶えず献花は墓標を埋めて盛り上がったという。

 

墓地の正面の下の方には、勝海舟の

 

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

 

という歌碑が建てられている。最近建てられたものであろう。説明書きには「私學校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。…西南戦争を引き起こした…幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私學校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです」と書かれている。

 

果たしてこの見方は正しいであろうか。西郷はただ私學校の生徒にかつがれただけなのか。勝海舟のこういう見方は西郷を政府への反逆者・賊徒にしたくないという意思に基づくものである。

 

西郷は相当の決意を持って軍を率いて上京しようとしたと私は思う。大久保・山県・伊藤等が主導する政府の非を問責するため兵を率いて上京しようとしたのは西郷自身の強い意志であると信じる。

 

警視庁から西郷暗殺団が送り込まれたという事実を勘案すれば、陸軍大将の地位にある者として兵を率いて上京するのは当然である。それはまた島津斎彬・久光が維新前に徳川幕府を威圧するために行った『率兵上京』を見習ったことなのかもしれない。

 

ただし、西郷軍は最初から武力戦を想定していたのではなく、政府軍は西郷軍到着前に熊本城下を焼き払い、熊本城に籠った政府軍の方が先に発砲した来たのである。

 

また、墓地には常夜燈が建てられてゐる。西郷と勝との會談により江戸城が無血開城され江戸が兵火から免れたことへの感謝のため、昭和十四年東京市によって建立されたという。「江戸ノ開城セラルルヤ西郷南洲勝海舟両翁ノ折衝ニ依テ兵火ノ厄ヲ免レ以テ大東京殷盛ノ基ヲ成セリ茲ニ奠都七十年記念トシテ感謝祭ヲ行ヒ常夜燈ヲ建ツ 昭和十四年五月 東京市」と刻まれている。

 

さらに『岩村縣令紀念碑』と刻まれた石碑がある。岩村通俊は、土佐藩士として維新の戦いに加わり、維新後は北海道開拓、佐賀の乱・萩の乱鎮定に功をたてた。西南戦争後、鹿児島県令として戦後処理に当たり西郷を手厚く葬り、南洲神社の前身である参拝所を建てた。このことに対する鹿児島県人の感謝の意をとどめた碑である。通俊はその後、農商務大臣・宮中顧問官などを歴任した。

 

通俊の弟は岩村高俊というが、高俊も維新戦争に挺身し、東山道総督として信越に出征、小千谷において長岡藩家老河合継之助と會談し、高圧的態度で挑み談判を決裂させ、長岡藩を抗戦させた。また、佐賀の乱では佐賀県令としてこれまた高圧的な態度で挑発し、佐賀県氏族を決起させたといわれている。弟は兄と違って多くの悪評を持つ人物である。この兄弟の墓は東京谷中墓地にある。

 

城山に立て籠もった西郷軍兵士はわずか三百七十余名。西郷隆盛が自決するまでの最後の五日間を過ごした岩崎谷の洞窟(間口三m、奥行五m)がある。政府軍の総攻撃が開始されるや、西郷がこの洞窟を出て百㍍ほど歩いたところで、政府軍の弾丸が西郷の太股を貫いた。そこで西郷は従っていた別府晋助に「晋どん、もうこの辺でよかろ」と言って介錯を命じたという。

 

こうして西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じた。西郷軍の戦死者は士族四九一九名、平民二九八名。政府軍の戦死者は四六五三名であったという。

 

明治維新の歴史・そして近代日本の歴史は、この薩摩の國の人たちが都(京都と江戸)に踊り出で、築きたるものと言うべきか。西郷南洲・大久保甲東皆共に、薩摩隼人の気性を背負いて近代日本の礎作りし人である。

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2018年12月15日 (土)

今こそ山鹿素行の精神を学ぶべきである

元禄十五年十二月十五日未明、赤穂浪士による吉良邸討ち入りが行われた。艱難辛苦を乗り越えて主君の仇を討った行為は、武士の鑑として歴史的に高く評価されてきた。三波春夫氏の「俵星玄蕃」は、赤穂浪士の討ち入りをテーマとした歌である。私は、発売された直後、昭和三十九年の高校時代にこの歌を覚えた。以来、年末になると、忘年会などでよくこの歌を歌わせていただいてきた。

 

赤穂城にも十年ほど前に行ったことがある。もちろん、高輪泉岳寺にも数回参詣させていただいた。元禄時代から四百年くらい経過しているのに、今でも、赤穂浪士のことは忘れなれていない。『鉄道唱歌』に「高輪泉岳寺 四十七士の墓所 雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも」と歌われている通りである。

 

「忠臣蔵」とも言われ、芝居や歌や映画にこれほど多く題材になっている事件もめずらしいではないか。それだけ日本人の心情に合う事件だったということであろう。

 

赤穂藩士に大きな思想的感化を与えた人物は、山鹿素行である。江戸時代において、尊皇思想を鼓吹した人物であり、幕末の勤皇の志士にも大きな影響を与えた。徳川初期の儒学者・兵学者である山鹿素行は、一君万民の正統思想を説き、日本の皇統の正統性と政治の理想が古代において実現されていたと論じた『中朝事実』といふ歴史書を著した。これは日本の特質を儒教思想によって論じているという。「中朝」とは世界の中心に位置する朝廷の意で、日本は神国であり天皇はご子孫であるとの意見が開陳されている。

 

支那は自国を「中華・中国・中朝」とし、外国をことごとく野蛮な国と断じている。素行は、その「中華・中国・中朝」は実に日本であるとして、書名を『中朝事実』としたのである。つまり山鹿素行は、日本国を支那と同等あるいは上位に置き、国粋思想を支那の学問を借りて論じたのである。

 

吉良上野介に関しては、芝居や映画では敵役になっているが、実際にはそうではなかったという説もある。歴史の見方は色々である。

 

日本民族は今こそ民族の誇りを取り戻さなければならない。正しい國體観と歴史精神を回復しなければならない。

 

山鹿素行の『中朝事實』は徳川時代初期に著されたもので、「日本は神國なり、天皇は神聖なり」という思想が根幹にあり、後世のいわゆる日本主義思想に大きな影響を与えた。

 

平泉澄氏は次のように論じている。「山鹿素行先生は…日本こそ他國にすぐれたる國であり、正しく中華といひ、中國といひ、中朝といふべき國であるとして、ここに日本の歴史を述べて、これに題して中朝事實といはれたのであります。…中朝事實こそは、長く外國の學問に耽り、外國の思想に惑ひたる後に、一朝目覺めて日本を發見し、日本の偉大に驚歎し、ここに眞の學問として日本學を樹立組織せんとしたる先哲の偉大なる足跡といふべきであります」(『日本學叢書 中朝事實』解説)と。

 

山鹿素行は我が日本こそ文化概念としての「中國」であって、支那は「中國」にあらずとの前提に立っている。『中朝事實』には「皇祖高皇産霊尊、遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵命を立てて、葦原中國の主(きみ)と爲さんと欲(おぼ)す。…是れ、本朝を以て、中國と爲すの謂(いひ)なり」「本朝の 神代、既に 天御中主尊有り、二神(ふたはしらのおほんかみ)國の中の柱(みはしら)を建つれば、則ち、本朝の中國たるや、天地自然の勢なり」と記されている。

 

共産支那は今日、日本の経済協力によって急速な経済近代化・経済建設が進行したにもかかわらず「恩を仇で返す」という言葉そのままにその経済力をベースに、露骨に軍事力増強の「富國強兵」策を取り、わが国に対して軍事的圧迫、侵略策謀を行っている。

 

支那共産政権は、「戦前の日本は侵略國家だった。そして日本に軍國主義が復活しつつある」と攻撃しているが、共産支那こそ、アジア最大の侵略國家であり、軍國主義國家である。

 

これに対して、戦後七十年近くにわたって「富國強兵」とは正反対の「富國弱兵」政策を採り続けてきたわが國は、主権國家としての政治的・軍事的力がきわめて弱体である。このような状況が続けば、日本は「中華帝國」の広域支配下に組み入れられてしまう危険がある。

 

支那こそ、真の侵略国家であり、他民族蔑視国家である。支那に対する誤れる劣等意識や贖罪意識は払拭し、断固たる姿勢で臨まねばならない。今こそ山鹿素行の精神を学ぶべきである。

 

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2018年11月17日 (土)

石破茂氏の大東亜戦争観について

石破茂氏(当時自民党幹事長)は『文藝春秋』平成二十五年二月号所載「新しい自民党をつくる」といふ論文で、「私にとって政治家としての信念とは、『集団的自衛権行使を可能とし、独立主権国家にふさわしい国家をつくる』ことでありこれは今も変わらない」「占領下でつくられた現行憲法を戴いている限り、日本は真の独立国家たりえない。現行憲法には、独立国家の憲法であれば、当然定められているべき、軍の規定と非常事態条項が抜けているからである。そこを見直して、独立国家にふさわしい法体系を整えることが、すなわち、『戦後レジームからの脱却』であり、そもそも自民党はそのためにつくられた政党であることは、結党時に定められた綱領を見れば明らかだ」「『常識的に考えて、北朝鮮は軍事行動はとるまい』という楽観論を、独立国家は持つべきではない」と論じてゐる。全く正しい見解である。

 

ところが石破茂氏はさらに次のやうに論じた。「これは私の持論だが、戦後レジームからの脱却は、先の戦争に対する検証なくしては、あり得ない。この検証プロジェクトは、安倍総理主導のもと、政府として取組むべきことだと思う。終戦後、『一億総懺悔』という言葉が一人歩きし何となく国民全員が悪かったのだということになったが、これは誤った認識だ。敗戦が明白だったにもかかわらず開戦を決断した当時の指導者たちと、国のために命をささげた兵士の責任が一緒であっていいわけがない。皮肉なことだが、人は歴史からは、絶対に学ばないというのは、ほとんど唯一の歴史の教訓である。だからといって、あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは、二百数十万人の英霊の思いを無視することに他ならない」と論じてゐる。

 

さても大変なことを主張したものである。「歴史の検証」とは具体的に一体どういふことなのか。しかもその「歴史の検証」安倍総理のもとにプロジェクトを作り政府で行ふといふのである。

 

これまで、大東亜戦争の歴史の検証あるいは論議は様々な個人・報道機関・政党・研究団体などが行ってきた。しかし検証や論議の結果は様々な結論や認識がだされ、統一的見解は戦後七十三年を経過しても提出されゐない。それはある意味当然のことである。

 

大東亜戦争に限らず歴史問題に関して政府がプロジェクトを作って検証し、統一見解を出すなどといふことは全く不可能になことである。

 

だから政府機関によって「歴史の検証」が政府の機関で行はれないままに、平成二十六年年七月一日、政府は臨時閣議を開き、憲法九条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めたのである。これに対して当時の石破茂自民党幹事長が激しい抗議を行ったと言ふ事は聞かなかった。

 

石破氏の言ふ「先の戦争」とは「大東亜戦争」の事であらうが、あの戦争の歴史の検証とは、昭和十六年の開戦から同二十年の終戦までの歴史を検証すれば良いと言ふ事ではない。「東亜百年」或はそれ以上の歴史を検証しなければ、真の検証にはならない。

 

石破氏の「あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは、二百数十万人の英霊の思いを無視することに他ならない」といふ主張は全く理解できない。「あの戦争の実態を検証」の結果を待ってゐたら、それこそ永遠に『集団的自衛権行使の議論』は始まらなかったであらう。「検証」はさう安易にたやすくできることではない。まして、内閣・政府が行ふなどといふことは全く不可能なことである。

 

石破氏は「敗戦が明白だったにもかかわらず開戦を決断した当時の指導者たち」と論じてゐるが、果たして昭和十六年十二月八日開戦の大東亜戦争(米英との戦ひ)は最初から敗戦が明白であったかどうか、それこそ検証が必要である。

 

『大東亜戦争開戦の詔書』に「米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益〻經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」と示された戦争目的の達成があの勝利である。

 

『詔書』に示された戦争目的の達成は不可能であったと断言することは全くできない。むしろ米英との四年間の戦ひは、英米などの欧米帝国主義国家による東亜侵略を防ぎとめ、中東を含む大アジア諸国家・諸民族を解放した偉大な戦ひであったと小生は考へる。

 

ともかく、正当なる国防論を唱へてゐるだけに甚だ残念であるが、石破氏の歴史に対する考へ方は承認することはできない。

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2018年10月26日 (金)

近代日本における日本人の誇るべき「國民的気概」

 

十九世紀中頃、植民地主義が批判され出した時代においても、イギリスはインドの完全なる領有、香港の奪取、オーストラリア・ニュージーランドの占領を行った。フランスはインドシナを略取し、ロシアは中央アジア及びシベリアを領有した。さうした時期において、吉田松陰などのわが國先覚者が、欧米列強の侵略から祖國を守り、わが國独立維持の國民的自覚を高めるたに、今日から見れば激烈な「アジア経綸の方策」を唱へたのは当然のことである。欧米列強の帝國主義的侵略の矛先を跳ね返すために國民的自覚を促さんとしたのである。「膨張主義」でも「侵略主義」でもなかった。

 

我國に対して、欧米列強の侵略支配が成功しなかったのは、わが國朝野において独立維持の國民的自覚が高まったからである。明治元年八月二十七日の、明治天皇即位の大礼には、嘉永五年六月、水戸藩主・徳川齊昭が奉献した径三尺六寸余の大地球儀が承明門(京都御所の南面内門)の中央に飾られた。維新日本が世界に雄飛する決意を示したのである。

 

そして、明治維新における祖國防衛・独立維持の精神の實践が「条約改正」運動であり、対韓政策であり、日清・日露と言ふ祖國防衛戦争だったのである。

 

「玄洋社」をはじめとする維新勢力が展開した『条約改正運動』は、幕末以来のわが國民の欧米列強に対する抵抗精神の継続である。そして、實際に関税自主権の回復も含めた「不平等条約」の改正が完全に達成され、欧米との対等なる外交関係を確立したのは、わが國が「日清戦争」「日露戦争」に勝利した後である。弱肉強食の帝國主義時代においてはそれが現實だったのである。故に、日清日露両戦争は、わが日本民族の独立戦争であったと言ひ得るのである。

 

和辻哲郎氏は次の如くに論じてゐる。「(日露戦争によって・注)日本が、その國民的意気によって世界の帝國主義の鋒先をくじいた。…世界史への日本の登場によって最も力強く影響せられたのは欧米人の世界及び人間に対する考え方である。二十世紀までは世界史は白人の歴史であり、芸術は白人の芸術であり、思想は白人の思想であった。しかるに二十世紀は、日本の出現によって、この考え方を覆した。もとより白人の自尊心は有色人種の文化を対等に認めることを欲しないのではあるが、しかしいやいやながらもある程度に認めざるを得なくなったのである。…日本人の衝動的な國民的気概は、明らかに自覚せられざる段階において、かくの如き世界史的意義を持ったのである」(『續日本精神史研究』)

 

明治初期における日本人の「衝動的な國民的気概」は決して恥じるべき事ではなく、むしろ誇るべき事なのである。

 

保田與重郎氏は、「明治の精神は言はば日清日露の二役を戰ひ勝たねばならぬ精神であった。…アジアは一般に舊世紀であり白人の植民地であるか、それに毅然として否と呼んだのは、天心であり、鑑三であり、一般に明治の精神であった」(『明治の精神』)と論じた。

 

そもそも「侵略主義」「膨張主義」とは、曾てのナチスドイツのやうに非アーリア人種を従属させ、奴隷にし、絶滅するといふ行為であり、「中華帝國主義」のやうに漢民族以外は野蛮なる動物(夷狄)であるからこれを従属させ、奴隷にし、抵抗するものは殺戮するといふ行為であり、旧ソ連のやうに終戦のどさくさに乗じて東欧諸国及び南樺太全千島を侵略する行為である。

 

わが國のアジア進出は、『大東亜共同宣言』を見ても明らかなごとく、欧米列強の植民地支配を打破、東亜同胞との共存共栄を目的としたのである。

 

昭和十八年(一九四三)十一月六日の大東亜會議にて採択された『大東亜共同宣言』には次のやうに書かれてゐる。

 

「抑〻世界各國ガ各其ノ所ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス

一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス」

 

この「宣言」は、わが國の東亜百年の大計を實現せんとする宣言であった。そしてわが國は、戦ひには敗れたが、その戦争目的は達成したのである。

 

名越二荒之助氏は次のやうに論じた。「クラウゼヴィッツは、『戦勝國とは最終的に戦争目的を達成した國をいう』と書いております。日本の戦争目的の中には、アジアにまで手をのばした西欧勢力に一撃を与え、アジアの解放をはかる点にありました。日本は大東亜戦争によって、敗れたけれど最終的に目的を達成したのであります。こういう点に着目すれば、日本は戦勝國と言える訳であります」(『大東亜戦争を見直そう』)

 

日清・日露の両戦争、そして大東亜戦争が、欧米列強・白色人種による長年にわたる有色人種に対する征服支配を撃ち破ったのである。日清・日露両戦争から大東亜戦争までの東亜百年戦争は、その目的を達したといふ意味においては、わが國の勝利だったと言へる。そしてその根源にあるものは、吉田松陰などのわが國先覚者のアジア経綸策にあったのである。三百萬英霊は決して犬死ではなかったのである。

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2018年9月20日 (木)

石破茂氏の歴史観について

この数日、たまりにたまった資料の整理をしているのだが、既に廃刊になってしまった『諸君』平成十九年三月号に掲載された論文と座談会で大変重大なことが語られ、書かれていたので紹介したい。

 

一つは、「防衛省誕生で日本は『普通の國』になれるか」という座談会で、今総裁選挙を戦っている石破茂氏は、「戦後レジーム脱却の核心があるとすれば、それは『集団的自衛権の行使を可能にすること』だろうと思います。私は『憲法改正しなくとも自衛権行使は可能』という論者ですが、日本が集団的自衛権を行使できるようにするには、以下の二つの歴史認識が不可欠です。まず第一は、『何故あのような戦争に突入してしまったのか?』という認識。なぜ勝ち目のない戦争に突入し、貴重な人命と財産をことごとく失い、国民には何も知らせないまま、破滅に陥ってしまったのかという視点です。第二は、先の戦争で日本がアジアの国々に対し、いかに多大な迷惑をかけたかに対する認識。私自身は、日中戦争はまぎれもなく侵略戦争だったと思いますし、一般人も巻き込んで大きな犠牲を強いたことは間違いないと率直に思います。『南京大虐殺はでっち上げ』『三十万も殺していない』という論争をよく見かけますが、たとえ百人の虐殺であっても虐殺に変わりはないわけですし、『他の國も同じような侵略をやっていた』という自己正当化の論理は、子供がよく言う『だって○○ちゃんのやってるもん』という言い訳と似たような発想です。迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と語っている。

 

私は防衛問題に関する石破氏の発言と言うか考え方には共鳴するところが多かったのだか、歴史観は大いに問題があると思っていた。今日この主張を讀んであらためてそのことを実感した。

 

「あの戦争」とひとくくりに言うが、満洲事変から日米戦争までの戦いが日本の一方的侵略であったという議論は全く成り立たない。歴史的事実に反する。「勝ち目のない戦争だった」という事は日米戦争で敗戦に追い込まれたからそう言われるのであって、満洲事変から日米戦争まで十年間の戦いは勝つために行ったし、始めから勝ち目がなかったなどということは全くない。事実、満洲国は建国されたし、支那大陸では日本は優勢な戦いを続けていた。

 

支那事変(所謂日中戦争)と日米戦争は、国際的謀略に引っかかって戰爭に追い込まれたのである。日本を戦争に追い込んだのはソ連とアメリカである。

 

「たとえ百人でも虐殺に変わりはない」などと言うのは全く最初から日本を悪者にしようという「反日思想」である。戦争は殺し合いである。まして敵の首都攻略において死者が出るのは当たり前である。それを「三十万人虐殺した」など言って日本を攻撃する支那の嘘八百をそのまま認めるわけにはいかない。それを百人でも三十万人でもで「虐殺は虐殺だ」などと日本の政治家か言うこと自体全く間違っている。

 

「迷惑かけた点については潔く謝罪したい。その上で、しかし戦後の日本は国際平和を重視し、日本の独立と安全のために必要な自衛力を持ち行動していくのだと訴えて行くことが必要なのです」と言うが、わが国は、「極東国際軍事裁判」という名の「復讐戦」に於いて、国家指導者が7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。またその他各地で行われた「戦犯裁判」という名の「復讐戦」に於いて数多くの人々が処刑され、投獄された。そしてわが国は七年間軍事占領され、さらにアジア各国に戦後賠償を行った。そればかりではない。戦後七十三年間、支那や韓国などに対して謝罪させられ続けている。これ以上どう「謝罪」すればいいのか。

 

石破茂氏は、左翼・反日主義者とほとんど同じ「自虐史観」を持っているのだ。もっとも石橋だけを責め立てるわけにいかない。自民党の有力政治家の中にも、古賀誠氏や河野洋平氏など石破氏と同じような考え方の人は多い。

 

また、安倍晋三内閣総理大臣の「戦後70年談話」を讀むと 戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」と書かれている。石破氏の歴史認識とそんなに変わりはない。実に以て困ったことである。

 

なお『諸君』の同じ号で西尾幹二氏は、「あの戦争(注・大東亜戦争)は非力なアジアの一国の自暴自棄の反乱だったのではない。始まる時には不安だったものの、ついにやったとの解放感もあり、勇気も湧き、希望も抱いていた。反西欧・反近代のナショナリズム、遅れて貧しいアジアの一国の捨て鉢な犯行ということですべて説明できる事態ではない。英米と互角だったからこそ可能になった、四年にもわたる長期戦である。単なる暴発でも、自爆でもない」「東京裁判は不法な政治裁判だった。共同謀議と言うあり得ない言いがかり、国際法が認めていなかった軍人や政治家の個人責任、戦争自体は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後立法的性格)という異邦、等々の国際法上の矛盾はつとに知られる」「敗戦国の指導者が裁判で裁かれるというついぞ例のない現実を、心ある当時の日本の法律関係者は、悪夢を見るような、幻覚を見るような思いで見つめていた」「昭和二十年九月十一日、東條英機大将は自決に失敗したが、AP通信に、『大東亜戦争は敗けたとはいえ正しい戦いだったと自分は信じている。国民はよろしく戦いは正しかったという自信の下に大局の処置を誤らないように自重されたい』と所信表明をして、昏睡状態に入ったと当時の新聞は伝えている。政治指導者としての東條を評価するかどうかは別問題としても、この言葉の大意は素直に認めるべきで、私は多分この通りであったと共鳴している」(『勝者の裁き』―フセインと東條の『ここが違う』)と論じている。

 

西尾幹二氏の主張は全く正しい。大東亜戦争は決して侵略戦争ではなかった。アジアの国々に多大な迷惑をかけた戰爭では無かった。東亜解放の戦いであった。この歴史の真実を日本の政治家たる者しっかりと正しく認識していなければならない。

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