2017年8月27日 (日)

日本侵略國家史観を一日も早く払拭すべきである

大東亜戦争侵略史観を払拭し、大東亜戦争は、自存自衛の戦いであり、アジア・アフリカ民族に民族としての自覚と名誉の回復の可能性を与へ、ナショナリズム勃興の引き金となった聖なる戦ひであった、といふ正しき歴史認識を確立しなければ、「戦後」は終らないと考へる。

 

極東國際軍事裁判で「日本無罪論」の判決を書いたインドのパール判事は、「時が熱狂と偏見とをやはらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変へることを要求するであらう」と、「判決文」の最後に書いた。しかるに、日本國民自身が、戦後七十年を経過したにもかかはらず、「偏見」と「虚偽」から脱出することができないでゐる。

 

歴史を大観すれば、明治維新、日清・日露両戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争は、まさに幕末以来の尊皇攘夷の戦ひ即ち西欧列強によるアジア侵略支配を打破する戦ひであった。このことをわが國民は正しく認識し、「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。

 

東トルキスタン、チベットを見てもわかるやうに、歴史問題でわが國に「謝罪しろ」と執拗に迫って来てゐる共産支那こそ、今日、帝國主義的侵略と搾取と暴虐の植民地経営を行ってゐる最大最悪の侵略國家である。

 

日本人は、祖國と民族の名誉を回復するために、また、将来にわたり誇りある日本人を育てていくためにも、さらには、共産支那などからのわが國への侮り・内政干渉を排除するためにも、日本国民全体が明治維新以来終戦までの正しい歴史を認識すべきである。

 

特に、満洲國建國の正当性、蘆溝橋事件及び支那事変におけるわが國の自衛権行使、米國側の挑発とソ連の陰謀による日米開戦といふ歴史の真実を正しく認識し、日本侵略國家史観を一日も早く払拭すべきである。

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2017年8月22日 (火)

深谷隆司氏の正論を紹介します

深谷隆司氏の正論を紹介します。

 

                    ○

深谷隆司の言いたい放題第731

 「韓国ぎらい」

 

昔は韓国要人に知己も多く、通産大臣を辞めた後など、何人かの大臣や財界のトップが私ら夫婦を招いて、ソウルで慰労会まで開いてくれたものだった。

大臣時代、国際会議等で私は特に韓国要人と協力し合い、両国にとって有利な答えを引き出したことも多く、一衣帯水の隣国として深い友情を抱いていた。

だがそんな思いは、正直消えつつある。

近年、韓国はすっかり様変わりして、日本を意識的に敵視するような傾向が強くなっている。政権の不人気を挽回させるために日本たたきが一番有効と思っているかのようである。

これまで日本は韓国国内の政治状況に左右され、そのたびに振り回されてきたが、もう限界を超えている。そんな韓国のご都合に合わせて右往左往することは金輪際やめるべきだと思っている。

当然のことだが日本人の韓国ぎらいは一層増えている。はっきり言って、日本人が韓国ぎらいになることは、彼等にとって大きな痛手になるのであって、日本にとって多少の不都合はあっても決定的に深刻なことではないのだ。

韓国が日本統治から開放された記念日と称する「光復節」の記念式典で、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は「慰安婦や徴用工の名誉回復、補償などが、国際社会の原則にあたる」と発言した。国際社会の原則とは、国同士の約束を守ることを言うのだが、あきれた勝手な発言である。

1965年の日韓協定で、戦後補償問題は「完全かつ最終的に解決された」と明記されている。日本が供与した無償資金3億ドルには個人の被災補償問題の解決金も含まれているのだ。

2005年、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下での日韓請求権協定には徴用工も含まれ、賠償を含めた責任は韓国政府が持つべきだとの政府見解をまとめている。当時の主席秘書官は文大統領なのである。

韓国最高裁の判断は内外から疑問の声が多い。韓国では司法裁判まで民意に左右されているが、文大統領はその裁判の結果に基づいて問題を蒸し返そうとしているのだ。

大体、「強制労働」とか「強制動員」という言葉自体誤りである。当時の法令「国民徴用令」に基づいて、合法的に国民全体に行われたのが勤労動員なのである。

2015年年末、慰安婦問題も「最終的かつ不可逆的な解決」と日韓合意している。

にもかかわらず、日本大使館前や釜山の総領事館前の慰安婦像はいまだ撤去されず、それどころか文政権発足後、慰安婦像は韓国内の各地に次々と増設され、新たに徴用工像も設置され始めた。最近では慰安婦の人形を乗せた路線バスまで登場し、市長が記念乗車までする異様さだ。もうそんな国には行きたくもない。

北朝鮮の核や大陸間弾道ミサイル開発で朝鮮半島は今大変な危機にある。その北朝鮮と日韓政府の解決済みの問題を共同調査までしようというのだから、頭が狂っているとしか言いようがない。

一方で、文大統領は対日外交では経済や安保を切り離す「ツートラック政策」を志向しているという。勝手な話だが、明らかに韓国経済が上手くいってないからである。

韓国ぎらいはあちらの所為、しばらくは放っておくに限ると思っている。

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2017年8月21日 (月)

「日本侵略國家論」を払拭しなければ「戦後」は終らない

 

「戦後体制」を維持したいという勢力がまだまだ根強いことを実感する。保守といわれる勢力の中にも、自主独立の日本の回復及び歴史と伝統の国日本の再興に反対し抵抗する勢力がまだまだ根強く存在する。また安倍政権の連立相手も創価学会・公明党も戦後体制打倒を目指してはいない。むしろ戦後体制維持である。

 

わが国伝統精神は、見直し・聞き直し・のり直しである。陰極は必ず陽転します。常夜行く時にこそ、天の岩戸は開かれる。国家の再生のためにこれからも勇躍前進して行かねばならない。そして国家的危機を跳ね返し、国の現在および将来を危うくする勢力を駆逐せねばならない。

 

真の保守とは、自民党政権を守るとか、現体制を擁護するというのでは決してない。戦後体制打倒である。まさに「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づく」日本を建設する我々こそが真の革新勢力=維新勢力なのである。

 

「戦後」といふ言葉は何時まで続くのであろうか。敗戦以来すでに七十二年も経過している。戦後とは敗戦後といふことであり、屈辱的な時代といふ事である。しかも、日本は侵略戦争を行なったという歴史観が『憲法』の『前文』にも記され、且つ、閣議決定の『戦後五十周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話』にも記されている。即ち、「日本は侵略戦争を行なった悪い国だった」といふのが日本『国是』になっていると言ふことが出来る。

 

だから「戦後」という言葉は陰鬱な響きを持っているのである。大東亜戦争は決して日本の一方的な侵略ではなかったこと、ソ連の謀略やアメリカの挑発によって追い込まれ、開始せざるを得なかったことを正しく認識すべきである。

 

 大東亜戦争侵略史観を払拭し、大東亜戦争は、自存自衛の戦いであり、アジア・アフリカ民族に民族としての自覚と名誉の回復の可能性を与え、民族自立と独立の引き金となった聖なる戦いであった、という正しき歴史認識を確立しなければ、「戦後」は終らないし、わが國の再生はあり得ない。

 

 極東國際軍事裁判で「日本無罪論」の判決を書いたインドのパール判事は、「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう」と、「判決文」の最後に書いた。しかるに、日本國民自身が、戦後七十二年を経過したにもかかわらず、「偏見」と「虚偽」から脱出することができないでいる。

 

歴史を大観すれば、明治維新、日清・日露両戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争は、まさに幕末以来の尊皇攘夷の戦ひ即ち西欧列強によるアジア侵略支配を打破する戦いであった。このことをわが國民は正しく認識し、「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。

 

また戦争中に残虐行為大量虐殺を行ったのはわが國ではなく、アメリカとソ=ロシア連であったことを全国民が正しく認識すべきである。

 

東トルキスタン、チベット、内コルを見てもわかるやうに、わが國に「謝罪しろ」と執拗に迫って来ている支那こそ、今日、帝國主義的侵略と搾取と暴虐の植民地経営を行っている最大最悪の侵略國家である。

 

日本人は、祖國と民族の名誉を回復するために、また、将来にわたり誇りある日本人を育てていくためにも、さらには、共産支那などからのわが國へ侵略を阻止するためにも、明治維新以来終戦までの正しい歴史観を形成すべきである。

 

 特に、満洲國建國の正当性、蘆溝橋事件及び支那事変におけるわが國の自衛権行使、米國側の挑発とソ連の陰謀による日米開戦という歴史の真実を正しく認識し、日本侵略國家史観を一日も早く払拭すべきである。

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2017年8月15日 (火)

終戦記念日に思う―東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除すべし

国防問題と歴史問題は密接に絡み合っている。特に、共産支那、そして日本共産党などという反日政党、朝日新聞・テレビ朝日・NHKなどという亡国メディアは、歴史問題で祖国の尊厳性と誇りを傷つけることに躍起になっている。「終戦記念日」前後において、テレビ朝日、朝日新聞、テレビ朝日などは「大東亜戦争は侵略だった、残虐行為を行った」などと、がなり立て、自虐史観をまき散らす。そしてそれがわが国国民の祖国愛を傷つけている。これは即ち国防安保の弱体化に直結する。亡国野党・反日メディアは侵略国家共産支那の手先なのである。

 

わが国は東京裁判という勝者による敗者に対する復讐に於いて、戦争当寺の国家指導者七名が処刑され、多数の人々が有期刑に処せられた。そして、アジア各地で行われたいわゆる「戦犯裁判」に於いても多数の人々が処刑され有期刑が処せられた。

 

さらに、戦後日本は七年間も戦勝国に占領された。そしてアジア各国対して戦後賠償を行った。支那・韓国に対しても事実上の戦後賠償を行った。支那・韓国は日本の経済技術援助によって経済発展を遂げた。

 

にもかかわらず、わが国に対して戦後七十二年を経過した今日においても、「戦争責任」「戦争犯罪」なるものをがなり立てる者どもは、日本にこれ以上何をすればいいと言うのか。わが日本は、すでにやるべきこと既にすべてやったのである。日本は、支那朝鮮に対して、これ以上謝罪も援助もする必要は毛筋の横幅ほどもない。

 

偏向メディアや「サヨク」がまき散らす「自虐史観」とは、「米英支蘇」は善人であり悪いことは何もしなかった、日本は悪人であり悪い事しかしなかったといふ史観である。別の言い方をすれば、欧米列強の切り取り強盗し放題は許されるが、日本がやったことは防衛と自存の為の戦いであっても侵略と見なすという史観である。これは「極東国際軍事裁判」という名の戦勝国によるわが国に対する軍事的報復における一方的断罪の理由付けとなった。従って「東京裁判史観」とも言うのである。

 

近代日本の歩み、とりわけ、明治維新から大東亜戦争敗戦までの歴史について、いかに考えるかが、今日の日本にとってきはめて重要な問題である事は言うまでもない。日本人は、「自虐史観」「東京裁判史観」と一日も早く訣別しなければならない。

 

わが国には戦争犯罪人は日本には一人もいない。東條英機氏らを裁いた「極東軍事裁判」はその名の示す通り「軍事裁判」なのであり、戦争行為の継続であり、敵国の復讐であったのである。そこにおいて絞首刑の「判決」を受け執行されたということは文字通り戦死であり殉難である。日本には戦勝国の復讐の犠牲者・殉難者は存在しても、唯の一人も「戦犯」は存在しない。「極東軍事裁判」なるものの「判決」により処刑された方々を殉難者・戦死者として靖国神社にお祭りするのは当然なのである。

 

我々日本人が「A級戦犯」という呼称を使うことは絶対にやめるべきである。「A級戰犯」と言われる人々は、人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反していわゆる「被告」を断罪した「東京國際軍事裁判」、つまり、裁判とは名ばかりの非常に野蛮で公平性を全く喪失した戰勝國による一方的な報復の場=復讐劇において、「有罪」と断罪され、「絞首刑」に処せられた犠牲者である。わが日本においては「昭和殉難者」と称するべきである。

 

「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」という罪名を勝手に作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した「東京國際軍事裁判」は、“法の真理”に照らして完全に間違ったものであった。

 

日本に原爆を落し東京大空襲を行ったアメリカこそ「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」を犯したのである。トルーマンこそ戦争犯罪人として処罰されるべきだったのである。また、満洲・樺太・全千島を侵略し多くの無辜の日本同胞を殺戮したソ連こそ「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」を犯したのである。スターリンこそ戦争犯罪人として処罰されるべきだったのである。

 

戦勝国こそ「人道に対する罪」を犯したのである。それを糊塗するためにわが國に「侵略國家」の汚名を着せそれを全世界に宣傳したのである。それが東京裁判でありアジア各地において行われたいわゆる「戦犯裁判」だったのである。 東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除し、不当性を主張し、歴史問題での外国の内政干渉や不当なる非難を跳ね除けなければならない。

 

共産支那が何かというと「過去の歴史問題」とやらを持ち出すのは、日本を政治的外交的に屈服させるためである。

 

巨大な軍事国家・全体主義国家の奴隷になるか独立と自由を守るかという二者択一の選択が、わが国民に迫られている。中華思想の共産支那こそ今日のアジア最大の敵である。わが国は、共産支那の理不尽さに対して毅然とした態度で臨むべきである。 そして事実上共産支那の手先となって国内に於いて自虐史観をまき散らしがなり立てる偏向メディアを徹底的に糾弾しなければならない。

 

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2017年4月24日 (月)

西郷隆盛の対韓外交論について

 「征韓論」という歴史用語は大きな誤解を生んでいる。明治新政府の筆頭参議をつとめていた西郷隆盛は、決して朝鮮半島を武力侵略しようとしていたのではない。当時、韓國政府は、わが明治新政府に反感を持ち、國書の受取りを拒否するのみならず、「日本人は畜生と変わるところがないから今後日本人と交際する者は死刑に処す」という布告(今の韓国・北朝鮮でもこんな布告はない)を出したり、釜山の日本公館に準じる施設を封鎖したり、日本人居留民を迫害したり、韓國水軍が釜山沖で大演習を行った。

 

 西郷隆盛は、「韓國政府の姿勢を糺すために西郷隆盛が自ら使者として韓國に赴く。万一、韓國側によって西郷が殺されるようなことになったら、やむを得ず戦端を開く」というごく当然の外交交渉を行うべしと主張しただけである。

 

 西郷は閣議で「大使は、宜しく烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、道を正しうして之に当たるべし。今、俄かに兵を率いて赴くが如きは、断じて不可なり。」と論じている。西郷は征韓でも武力侵略でもなく、礼を尽くして修好にあたろうと主張したのである。西郷の主張及び目的は、「没落士族を『外征』によって救おうとした」などという侵略主義では断じてない。

 

 葦津珍彦先生は、「彼(西郷隆盛)の説は決して好戦的でもなく威圧的でもない。十九世紀の列國外交が、常に兵力を用いて強硬外交をした事実とくらべてみれば、『論理的』にはるかに平和的で、礼儀正しい。この西郷の外交理論は、その後も変わっいない。これから間もなく西郷下野の後に(明治八年九月)、日本軍艦が仁川沖で朝鮮に対して発砲したとき、西郷は公然と日本政府の武力行使と威圧外交を非難している」(永遠の維新者)と論じておられる。

 

 大久保利通や岩倉具視が、西郷らの対韓外交論に対して横車を押し反対したのは、西郷や江藤新平など(いわゆる留守政府)からの権力奪取のためである。岩倉・大久保にとって、彼らが洋行中に明治新政府が西郷・江藤らによって牛耳られてしまったことが我慢ならなかった。もし、「西郷遣韓」による韓國外交が成功したら、大久保らの出る幕は益々少なくなってしまう。だから西郷や江藤らの対韓外交政策に反対したのである。「内治優先」というのはあくまでも理由付けである。西郷らの主張を葬り去ることによって大久保らによる権力奪取を目指したのである。

 

 大久保利通は、西郷らの対韓政策を「内治優先」を理由にして反対しながら、西郷下野後の明治七年には台湾出兵を断行し、明治八年には江華島事件を起こして武力による朝鮮政策を行っている。やむを得ざることとはいいながら、大久保の主張も行動も矛盾だらけであり「見上げたもの」などでは全くない。

 

 また、西郷ほど内治についても功績のあった人はいない。西郷が筆頭参議を務めていた期間即ち大久保らの留守中に、封建身分制度の廃止・人権の確立・國民皆兵制・御親兵設置・廃藩置県などの諸改革が行われた。大久保らはこうしたことにも嫉妬したのである。西郷は保守反動では決してない。

 

 明治六年十月十五日、西郷の主張が閣議で大久保利通を含む満場一致で正式決定していたにもかかわらず、大久保と岩倉具視は謀略を用いてこれをひっくり返した。岩倉・大久保は、『五箇条の御誓文』に示されている「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」の御精神を蹂躙したのである。西郷隆盛は道義的にも政治的にも法律的にも何ら責められるべきことはしていない。(この謀略の詳細については平泉澄先生著『首丘の人大西郷』参照)

 

 さらに大久保と岩倉は西郷が、天皇陛下に直訴・上奏することを恐れ、遮断の策を講じた。西郷隆盛は、天皇陛下に背き奉ったのでは断じてない。岩倉・大久保らの陰謀によって排除されたのである。そして、恩人西郷隆盛を裏切り大久保の手先となったのが川路利良である。

 

 葦津珍彦先生は、「西郷及び西南戦争を戦った第二維新の戦闘者たちは、決して頑迷な復古主義者ではない。議會政治の実現を望んだ。西郷の対韓外交論が閣議で決定されたのに、大久保・岩倉が陰謀を用いてこれをひっくり返したことに抗議して、野に下ったのである。しかして『民選議院設立建白書』を提出したのも彼らである。」と論じておられる。

 

 韓國の近代史家の多くは、「西郷の征韓論は日本侵略主義の原点である」などと主張しているという。そうした歴史問題に関する韓國側の一方的な日本非難に手を貸すような論議が、日本人によって主張されていることは、まことに残念である。

 

 西南戦争の後に確立した西洋に学んで日本を近代化し独立を維持するという基本路線は全面的に否定されるべきではないが、日本の道統・皇道精神を隠蔽させてはならなかった。西洋に学ぶとはあくまでも良きところを取り入れるということであって、西洋になりきることではない。

 

 西南戦争における政府軍の指揮官の一人で大久保利通の腹心であった当時の警視総監川路利良は、西洋視察からの帰國の船中で、「『今の日本には何よりもまず内政を安定させて、藩体制から府県にかわったばかりの國内統一と安定を、完成させることが大事だ。そのためにも、その基盤となる警察組織を確立することが、何よりも必要なのだ。日本は今、西欧に誇れるようなものは何もないが、俺(おい)は警察だけは世界一流のものにしたいと思っている。きっとしてみせる』と言った」(神川武利氏著『大警視・川路利良』)という。

 

 川路が本当に「西欧に誇れるものは何もない」と思っていたのだとすれば、日本の道統を無視した考え方であり、西郷隆盛の考え方とは全く逆である。

 

 『大西郷遺訓』には、「廣く各國の制度を採り、開明に進まんと欲せば、先づ我國の本體を立て、風教を張り、而して後、徐(しづ)かに彼の長所を斟酌すべし、然らずして猥りに彼に倣はゞ、國體は衰頽し、風教は萎靡して、匡救すべからざるに至るべし」と書かれている。

 

川路利良は一般大衆に対しては、民権というよりも撫育するという発想しか持てなかった。「警察は人民の養育者である。文明がまだ遅れている國の人民は、子は子でも最も幼い子供と看做さなければならない」という考え方を持っていた。

 

 これは人民蔑視思想である。しかもここでいう「文明」とは西洋覇道文明である。川路は漢学を重野安繹(やすつぐ)に学んだというが、いったい何を学んだのであろうか。

 

 『大西郷の精神』とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現である。西洋列強の侵略から祖国を守り四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものである。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからである。

                     

 大西郷は、「國の凌辱せらるるに當りては、縱令國を以て斃るるとも、正道を踏み義を盡すは、政府の本務なり。」と言っている。この言葉こそ今日の我國政府が最も噛み締めなければならない言葉であります。我國は現在、歴史問題・領土問題などで支那・韓国・北朝鮮からなめられ、国家の尊厳性を喪失している。

 

 大西郷は、「王を尊び民を憐れむは学問の本旨」「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節儉を行ひ、職務に精勵して、人民の標準となり、下民をしてその勤労を感謝せしむるに至らざれば、政令は行はれ難し」と述べている。この言葉も今日の我國政治家が噛み締めなければならないと思う。

 

 我國の歴史上の人物の中で、最も敬愛されている人物の一人が西郷隆盛である。大西郷は明治維新の大功労者であり、且つ、維新後も権力に恋々とせず、第二維新運動の指導者として奮闘した。文字通り、内憂外患こもごも来るといった状況にある今こそ、我々日本人は、今こそ『大西郷の精神』を学ばなければなりません。

 

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2017年4月21日 (金)

東條英機氏の遺詠を読んで思う

たとへ身は千々にさくとも及ばじな 栄えし御世を堕せし罪は

 

続くものを信じて散りし男の子らに 何と答へむ言の葉もなし

 

東條英機元総理が、昭和二十三年十二月二十三日、東京巣鴨にて、殉難された時の辞世である。

 

東條氏はさらに遺書において「開戦当初の責任者として敗戦のあとを見ると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は、個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て償えるものではない。しかし国際的な犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ、力の前に屈伏した。自分としてはまた国民に対する責任を負って、満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、また下級者まで刑が及んだことは実に残念である。天皇陛下に対し、また国民に対しても申しわけないことで、深く謝罪する」と書いている。

 

この遺詠を読んでもまだ東条氏を許せないと言う人がいるであろうか。東條氏を裁いた東京裁判は日本人自身による公正な裁判では決してなく戦争行為の継続であり、敵国の復讐であったのである。そこにおいて絞首刑の「判決」を受け執行されたということは文字通り戦死であり殉難である。日本には過去において戦勝国の復讐の犠牲者・殉難者は存在しても、唯の一人も「戦犯」は存在しなかった。故に東京裁判の判決により処刑された方々を殉難者・戦死者として靖国神社にお祭りするのは当然なのである。

 

大東亜戦争は東亜解放の戦いであったことは、愈々今日において明白になって来ているし、東条内閣時代に開始された対米英戦争は米国大統領ルーズベルトの挑発によるものであることも明白になっている。大東亜戦争開戦は正義の行動であったのであり、決して犯罪ではない。

 

当時の状況下において「支那及印度支那より一切の陸海空軍兵力及警察力の撤収」などという最後通牒(ハル・ノート)を受け入れることは東条英機氏であろうと誰であろうと不可能であった。それは東京裁判においてインドのパール判事が「こんな最後通牒を受け取ったら、ルクセンブルグ大公国やモナコ王国のような小国でも、敢然として剣を執って起ったであろう」と述べ、英国の軍需大臣オリバー・リットルトンが昭和十九年六月に「米国が戦争に追いつめられたというのは、歴史上の改作狂言である。日本をしてパールハーバー攻撃にまでに追いつめ強圧したのは米国である」と述べたことによって明白である。

 

大東亜戦争および対米英戦争における日本の責任などというものを追及すること自体間違っている。したがって東条英機氏の開戦責任を追及するのは誤りである。

 

大東亜戦争の開戦は、アメリカのあまりに理不尽なる圧迫が原因となったやむを得ざる選択であって、東条英機首相が陛下の大御心を無視し国民の声も聞き入れず戦争に突っ走ったなどということは絶対にないのである。むしろ大東亜開戦を一億国民が双手を挙げて歓迎し歓喜したというのが歴史の真実である。

 

日本が敗北したからといって、あの昭和十六年十二月八日の一億国民の感激を忘却し、東條氏一人を悪人とし、「東條氏は戦争を始めた大罪人でありこのような人物を靖国神社に祭ったてはならない」などという議論は、敗戦後遺症に毒されて、民族の誇りと日本魂を喪失し、戦勝國即ちアジアを侵略搾取し続けた欧米列強の自分勝手な歴史観に追随する全く誤っ考え方であり、歴史への冒涜であるのみならず、大東亜戦争の聖戦としての意義を否定する議論である。

 

東条氏は大東亜戦争遂行時の国家指導者として深く責任を感じておられた。ただそれは「侵略戦争遂行の責任」を感じていたのではない。東条氏は大東亜戦争を侵略戦争だったなどとは寸毫も思っていなかった。敗戦とそれに伴う国家国民に苦難に対して大きな責任を感じたのである。

 

東京裁判において東条氏はキーナンの「あなたは一九四一年十二月の真珠湾ならびに米英の諸領土に対する攻撃について、主に責任を取る一人であることを認めますか」との尋問に対し「認めます。私の責任であります」述べているが、キーナンの「首相として戦争を起こしたことを、道徳的にも法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのですか。ここに被告としての心境を聞きたい」との尋問に対しては東条氏は「間違っていない。正しいことをしたと思う」と答えた事によってそれは明らかである。

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2017年4月 3日 (月)

東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除すべし

「自虐史観」とは、「米英支蘇」は善人であり悪いことは何もしなかった、日本は悪人であり悪い事しかしなかったといふ史観である。別の言い方をすれば、欧米列強の切り取り強盗し放題は許されるが、日本がやったことは防衛と自存の為の戦いであっても侵略と見なすという史観である。これは「極東国際軍事裁判」という名の戦勝国によるわが国に対する軍事的報復における一方的断罪の理由付けとなった。従って「東京裁判史観」とも言うのである。近代日本の歩み、とりわけ、明治維新から大東亜戦争敗戦までの歴史について、いかに考えるかが、今日の日本にとってきはめて重要な問題である事は言うまでもない。日本人は、「自虐史観」「東京裁判史観」と一日も早く訣別しなければならない。

 

巨大な軍事国家・全体主義国家の奴隷になるか自由民主主義の政治体制を守るかという二者択一の選択が、わが国民に迫られている。中華思想の共産支那こそ二十一世紀の人類最大の敵であると考える。わが国は、共産支那の理不尽さに対して毅然とした態度で臨むべきである。

 

このままだと、わが国は共産支那の属国になってしまう危険さえある。国家の主権・領土・独立・尊厳を固守し、正当なる主張をすることこそ、主権国家の政府としての基本的な外交姿勢である。

 

わが国には戦争犯罪人は日本には一人もいない。「戦争責任」と「戦争犯罪」とは全く異なる。東條英機氏らを裁いた「極東軍事裁判」はその名の示す通り「軍事裁判」なのであり、日本人自身による公正な裁判では決してなく戦争行為の継続であり、敵国の復讐であったのである。そこにおいて絞首刑の「判決」を受け執行されたということは文字通り戦死であり殉難である。日本には戦勝国の復讐の犠牲者・殉難者は存在しても、唯の一人も「戦犯」は存在しない。「極東軍事裁判」なるものの「判決」により処刑された方々を殉難者・戦死者として靖国神社にお祭りするのは当然なのである。

 

我々日本人が「A級戦犯」という呼称を使うことは絶対にやめるべきである。「A級戰犯」といわれる人々は、人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反して被告を断罪した「東京國際軍事裁判」、つまり、裁判とは名ばかりの非常に野蛮で公平性を全く喪失した戰勝國による一方的な報復の場=復讐劇において、「有罪」と断罪され、「絞首刑」に処せられた人々である。わが日本においては「昭和殉難者」と称するべきである。

 

「平和と人道に対する罪=侵略戰争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」という罪名を勝手に作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した「東京國際軍事裁判」は、法の真理に照らして完全に間違ったものであった。 さらにいえば、日本に原爆を落し東京大空襲を行ったアメリカのトルーマンも戦争犯罪人として処罰されるべきだったのである。

 

戦勝国こそ「人道に対する罪」を犯したのである。 また「極東国際軍事裁判」は見せしめのためのリンチであった。そして、わが國に「侵略國家」の汚名を着せそれを全世界に宣傳したのである。 東京裁判史観・自虐史観を徹底的に排除し、不当性を主張し、歴史問題での外国の内政干渉や不当なる非難を跳ね除けなければならない。、

 

 

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2017年2月23日 (木)

西郷隆盛の対韓外交論は侵略主義では断じてない

 

 所謂「征韓論」問題について、「征韓論は簡単にいえば、全國三百万人ともいわれる没落士族を救う道は、『外征以外にない』として士族の不満を、外にそらそうとしたということができる」という論議がある。

 

 つまり、西郷隆盛の主張した対韓政策は全くの侵略論であったというのである。これは断じて誤りである。

 

 そもそも「征韓論」という歴史用語自体が大きな誤解を生んでいる。明治新政府の筆頭参議をつとめていた西郷隆盛は、決して朝鮮半島を武力侵略しようとしていたのではない。

 

当時、韓國政府は、わが明治新政府に反感を持ち、國書の受取りを拒否するのみならず、「日本人は畜生と変わるところがないから今後日本人と交際する者は死刑に処す」という布告(今の北朝鮮でもこんな布告はない)を出したり、釜山の日本公館に準じる施設を封鎖したり、日本人居留民を迫害したり、韓國水軍が釜山沖で大演習を行った。

 

 西郷隆盛は、「韓國政府の姿勢を糺すために西郷隆盛が自ら使者として韓國に赴く。万一、韓國側によって西郷が殺されるようなことになったら、やむを得ず戦端を開く」というごく当然の外交交渉を行うべしと主張しただけである。

 

 西郷は閣議で「大使は、宜しく烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、道を正しうして之に当たるべし。今、俄かに兵を率いて赴くが如きは、断じて不可なり。」と論じている。西郷は征韓でも武力侵略でもなく、礼を尽くして修好にあたろうと主張したのである。

 

 西郷の主張及び目的は、「没落士族を『外征』によって救おうとした」などという侵略主義では断じてない。

 

 葦津珍彦先生は、「かれ(西郷隆盛)の説は決して好戦的でもなく威圧的でもない。十九世紀の列國外交が、常に兵力を用いて強硬外交をした事実とくらべてみれば、『論理的』にはるかに平和的で、礼儀正しい。この西郷の外交理論は、その後も変わっいない。これから間もなく西郷下野の後に(明治八年九月)、日本軍艦が仁川沖で朝鮮に対して発砲したとき、西郷は公然と日本政府の武力行使と威圧外交を非難している」(永遠の維新者)と論じておられる。

 

 大久保利通や岩倉具視が、西郷らの対韓外交論に対して横車を押し反対したのは、西郷や江藤新平など(いわゆる留守政府)からの権力奪取のためである。岩倉・大久保にとって、彼らが洋行中に明治新政府が西郷・江藤らによって牛耳られてしまったことが我慢ならなかった。もし、「西郷遣韓」による韓國外交が成功したら、大久保らの出る幕は益々少なくなってしまう。だから西郷や江藤らの対韓外交政策に反対したのである。「内治優先」というのはあくまでも理由付けである。西郷らの主張を葬り去ることによって大久保らによる権力奪取を目指したのである。

 

 大久保利通は、西郷らの対韓政策を「内治優先」を理由にして反対しながら、西郷下野後の明治七年には台湾出兵を断行し、明治八年には江華島事件を起こして武力による朝鮮政策を行っている。やむを得ざることとはいいながら、大久保の主張も行動も矛盾だらけであり「見上げたもの」などでは全くない。

 

 心ある史家は、西郷は東洋王道精神を実践し、大久保は西洋覇道路線を歩んだという評価をしている。

 

 また、西郷ほど内治についても功績のあった人はいない。西郷が筆頭参議を務めていた期間即ち大久保らの留守中に、封建身分制度の廃止・人権の確立・國民皆兵制・御親兵設置・廃藩置県などの諸改革が行われた。大久保らはこうしたことにも嫉妬したのである。西郷は保守反動では決してない。

 

 明治六年十月十五日、西郷の主張が閣議で大久保利通を含む満場一致で正式決定していたにもかかわらず、大久保と岩倉具視は謀略を用いてこれをひっくり返した。岩倉・大久保は、『五箇条の御誓文』に示されている「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」の御精神を蹂躙したのである。西郷隆盛は道義的にも政治的にも法律的にも何ら責められるべきことはしていない。

 

 さらに大久保と岩倉は西郷が、天皇陛下に直訴・上奏することを恐れ、遮断の策を講じた。西郷隆盛は、天皇陛下に背き奉ったのでは断じてない。岩倉・大久保らの陰謀によって排除されたのである。そして、恩人西郷隆盛を裏切り大久保の手先となったのが川路利良初代警視総監である。

 

 葦津珍彦先生は、「西郷及び西南戦争を戦った第二維新の戦闘者たちは、決して頑迷な復古主義者ではない。議會政治の実現を望んだ。西郷の対韓外交論が閣議で決定されたのに、大久保・岩倉が陰謀を用いてこれをひっくり返したことに抗議して、野に下ったのである。しかして『民選議院設立建白書』を提出したのも彼らである。」と論じておられる。

 

 韓國の近代史家の多くは、「西郷の征韓論は日本侵略主義の原点である」などと主張しているという。そうした歴史問題に関する韓國側の一方的な日本非難に手を貸すような論議が、日本人によって主張されていることは、まことに残念である。

 

 西南戦争の後に確立した西洋に学んで日本を近代化し独立を維持するという基本路線は全面的に否定されるべきではないが、日本の道統・皇道精神を隠蔽させてはならなかった。西洋に学ぶとはあくまでも良きところを取り入れるということであって、西洋になりきることではない。

 

 川路は西洋視察からの帰國の船中で、「『今の日本には何よりもまず内政を安定させて、藩体制から府県にかわったばかりの國内統一と安定を、完成させることが大事だ。そのためにも、その基盤となる警察組織を確立することが、何よりも必要なのだ。日本は今、西欧に誇れるようなものは何もないが、俺(おい)は警察だけは世界一流のものにしたいと思っている。きっとしてみせる』と言った」という。(神川武利氏著『大警視・川路利良』)

 

 川路が本当に「西欧に誇れるものは何もない」と思っていたのだとすれば、日本の道統を無視した考え方であり、西郷隆盛の考え方とは全く逆である。

 

 『大西郷遺訓』には、「廣く各國の制度を採り、開明に進まんと欲せば、先づ我國の本體を立て、風教を張り、而して後、徐(しづ)かに彼の長所を斟酌すべし、然らずして猥りに彼に倣はゞ、國體は衰頽し、風教は萎靡して、匡救すべからざるに至るべし」と書かれている。

 

 『大西郷の精神』とは、国家の自主独立の精神であり、皇室を敬い国民に真の平安をもたらす政治の実現である。西洋列強の侵略から祖国を守り四民平等の国を建設するための大変革であった明治維新を戦い、さらに維新後にあってもなお、東洋の平和と理想の道義国家建設のために戦った大西郷の精神こそ、今の日本にもっとも必要なものである。何故なら今の日本は、幕末及び明治初期の我國以上に、外国から侮りを受け、政治は乱れに乱れているからである。

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2017年2月13日 (月)

辞世の歌に学ぶ 承前

吉田松陰の辞世

 

 幕末勤皇の志士の辞世の歌は数多い。その代表的な歌が、吉田松陰の次の歌であろう。 

 

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

 

 安政の大獄によって幕府に捕らえられた松陰は死罪の判決を受け、安政六年(一八五九)十月二十七日、従容として斬首の刑を受けたのである。松陰先生時に歳三十。先生は獄中において「親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何ときくらん」「呼び出しの声まつ外に今の世に待つべきことのなかりけるかな」という歌も詠まれている。さらに松陰は、

 

「吾今国ノ為ニ死ス 死シテ君親ニ背ズ 悠々タリ天地ノ事 鑑賞明神ニアリ」

 

という詩も遺した。門下生は師・松陰の死に奮い立ち、その意志を継ぐべく、覚悟も新たに激動の時代を・維新回天の聖業に邁進するのである。

 

乃木大将御夫妻の辞世

 

 明治四十五年七月三十日暁、明治天皇は、御歳六十一歳をもって崩御あそばされた。後に軍神と仰がれた乃木希典大将は、大正元年九月十二日の御大葬当日、次のような遺言を書いて殉死をとげた。「自分此度御跡ヲ追ヒ奉リ、自殺候段恐入候儀、其罪ハ不軽存候、然ル処、明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ、其後死処得度心掛候モ其機ヲ得ズ。皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候モ無余日候折柄此度ノ御大変何共恐入候次第茲ニ覚悟相定候事ニ候」と。乃木大将は今もって西南戦争の際の軍旗喪失の責任を感じ、皇恩の厚きに感謝している。そして、次のような辞世を遺された。

 

「うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて われはゆくなり」

 

「神あがり あがりましぬる 大君の みあとはるかに おろがみまつる」

 

 さらに静子夫人も、

 

「いでまして かへります日の なしときく けふの御幸に 逢ふぞかなしき」

 

 との辞世を遺して大将と行を共にされた。時に大将六十四歳、夫人は五十四歳であられた。日本殉死史上最後の人といわれる。

 

 平成元年二月二十四日、昭和天皇の御大葬で、小生は二重橋前にて、轜車をお見送り申し上げたのであるが、その時乃木静子夫人の辞世の歌が思い出され、涙が溢れて止どまらなかった。轜車の御出発はまさしく「かへります日」の無い御幸の御出発であったのである。        

 

三島由紀夫・森田必勝両烈士の辞世

 

「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾年耐へて 今日の初霜」

 

「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」

 

 昭和四十五年十一月二十五日午前十一時、楯の会隊長三島由紀夫氏と、隊員森田必勝氏、小賀正義氏、小川正洋氏、古賀浩靖氏の計六名は、東京市谷の自衛隊において、東部方面総監の身柄を拘束し、「自衛隊国軍化」「憲法改正」「道義建設」などを自衛隊員に訴えた。そしてその後、三島・森田両氏は壮烈な自決を遂げた。この二首はその時の三島氏の辞世の歌である。

 

さらに、森田必勝氏は、

 

「今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは」

 

 という辞世を詠んだ。戦後の自決事件でこれほど大きな衝撃をもたらしたものはない。

三島氏は「散るをいとふ世にも人にもさきがけて」と詠んでおられる。戦後日本は、経済至上主義・営利至上主義の道をひたすら歩み続け、欺瞞的な平和主義にとっぷりとつかってきた。肉体生命以上の価値を認めず、誤れる「生命尊重」を標榜し、無上の価値即ち国のため・大君のため・大義のために潔く散る精神精神を忘却してしまったのである。かかる状況に耐えかねた三島・森田両氏等は「今こそ生命尊重以上の価値を諸君の目に見せてやる」(檄文)と訴えたのである。

 

日本武尊・大津皇子・楠木正行・吉田松陰・乃木御夫妻・三島森田両烈士の自決の精神こそ「生命尊重以上の価値」であった。「物で栄えて心で滅びる」といった状況を呈しつつある今日こそ、そうした精神に回帰すべき時である。

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2017年2月12日 (日)

辞世の歌に学ぶ

 

 この世を去るに臨み、自己の感懐を三十一文字に託して表白することは、日本古来の風儀である。これを辞世の歌という。「人の将に死せんとする、その言や善し」といわれて来た通り、人は死に臨んだ時こそ、その真心を訴え・魂の心底からの叫びを発するのである。死に望んだはそしてそれは多くの人々の共感を呼ぶ。

 

日本武尊の辞世

 

 本朝最古の辞世歌は、日本武尊の次の御歌である。

 

「嬢子(をとめ)の 床の辺(べ)に 吾( わ)が置きし その大刀はや」

 

 命は東征の帰路、能煩野(のぼの・今日の三重県山中)に至って病が重くなりたまい、この歌を詠まれてお隠れになった。「乙女の床のそばに私が置いてきた太刀、その太刀よ」というほどの意。英雄にして大いなる歌人(うたびと)であられた命の辞世の歌にふさわしいロマンと勇者の世界が歌われている。文字通り「剣魂歌心」の御歌である。

 

大津皇子の辞世

 

 『萬葉集』に収められた辞世の歌でもっとも有名なのは、大津皇子の次の御歌である。

 

「百傳(ももづたふ) 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」

 

 天武天皇の第三皇子であられた大津皇子が、天武天皇崩御直後の朱鳥元年(六八六)、謀反の罪に問われ、死を賜った時の御歌である。「(百伝ふは枕詞)磐余の池に鳴く鴨を今日を見納めとして自分は死んで行くことであろう」というほどの意である。死に臨んでの再び見ることのできない光景に自らの全生命を集約させた歌いぶりで、詠むものに大きな感動を与える。「雲隠り」と詠んだところに、肉体は滅びても生命は永遠であるという日本人の伝統的な信仰が表れている。この信仰が「七生報国」の精神につながるのである。

 

楠木正行の辞世

 

「かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」

 

 これは、南朝の忠臣楠木正行が足利高氏の大軍を河内の四条畷に迎え撃ち、壮烈な戦死を遂げる直前、同志と共に、後醍醐天皇の吉野の御陵に参拝し、そのふもとにある如意輪堂の壁板に矢立硯で書き留めた辞世の一首で、再び生還しないという悲壮なる決定(けつじょう)を詠んだ歌である。この時正行は鬢の髪を少し切って仏殿に投げ入れ敵陣に向かったという。湊川楠公戦死の場面と、この正行最後の参内の場面とは、『太平記』の中でも最も人の心を動かし、涙をさそう段である。

 四條畷の戦いは、正平三年(一三四八)正月五日の早朝に開始され、楠木勢は北進し、高師直の軍に肉迫し、師直もあわやと思われたのであったが、遂に楠木勢は力尽き、正行と舎弟正時とは立ちながら刺し違えて、同じ枕に臥したという。

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