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2021年1月13日 (水)

靖国神社ご祭神について

幕末から明治十年頃までの激動の歴史の過程で、かつての賊軍が官軍にかつての官軍が賊軍になった、否、ならざるを得なかった悲劇があった。

小堀桂一郎氏の言ふ「旧敵に対して復讐せず、かつての叛逆者を粛清も訴追もしない。臣民の全てが『おおみたから』であることこそ、神武天皇以来の日本の皇室の倫理伝統」「伝統的な温情と和解の心」は、わが國史を貫いてゐる美風である。

であるならば、戊辰戦争で幕府方として戦死した人々、西南戦争で西郷軍として戦ひ戦死した人々の御靈が靖國神社に祀られるべきと考へるのは決して不思議ではない。

しかし、「國事に殉ずる」といふことと、「朝敵」「賊軍」であったかどうかの判別は難しい。「錦の御旗」「官軍」に抗すれば「朝敵」「賊軍」である。戊辰戦争、そして明治第二維新運動における「神風連の変」「萩の変」「佐賀の変」「西南戦争」における反政府軍の戦死者も、「國事」に殉じたのであるが、官軍・政府軍に抗したことは事實である。

維新前の徳川幕府が瑕疵のない正義であったとは言へないやうに、明治新政府も瑕疵のない正義であったとは言へない。ここが難しいところである。

太田黒伴雄、前原一誠、江藤新平、西郷隆盛は、上御一人日本天皇に背くなどといふ思ひは微塵もなかった。むしろ、國家のために蹶起したといふ切なる思ひがあった。それは、「蛤御門の変」における久坂玄瑞など、「天誅組の変」の吉村寅太郎など、幕府と戦った人々が、朝廷に抗したなどとは全く思ってゐなかったのと同じである。

従って、「蛤御門の変」における長州軍の戦死者、「天誅組」の戦死者が靖國神社に祀られてゐるとすれば、明治第二維新運動における反政府軍の戦死者が靖國神社ら祀られるべきである。

戊辰戦争における「賊軍」の総大将とされた徳川慶喜は、明治二年(一八六九)九月二十八日、謹慎を解除され、明治五年(一八七二年)一月六日、従四位に復帰した。明治十三年(一八八〇)五月十八日、正二位に昇叙、明治二十一年(一八八八)、従一位に昇叙された。そして、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控へる資格が与へられた。天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の薨去に際しては、勲一等旭日桐花大綬章を賜った。

政府軍に攻撃され、最後まで抵抗せざるを得なかった松平容保は、明治五年(一八七二)一月、三十八歳の時に蟄居を許された。さらに、明治九年(一八七六)十一月一日、従五位に叙位。明治十三年(一八八〇)二月、四十六歳の時に、官職である日光東照宮の宮司に任じられた。明治二十年(一八八七)十二月二十六日従三位に昇叙。明治二十六年(一八九三年)十二月四日、正三位に昇叙。同年十二月五日、薨去した。

「神風連」関係者は大正十三年二月十一日に名誉回復が為され、太田黒伴雄等には正五位が贈られた。前原一誠には、大正五年四月十一日、従四位が贈られた。江藤新平には、明治二十二年、『大日本帝國憲法』発布に伴ふ大赦令公布により賊名を解かれ、大正五年四月十一日、正四位が贈られた。西郷隆盛には、明治二十二年二月十一日、江藤と同じく『大日本帝國憲法』発布に伴ふ大赦で赦され、正三位が贈られた。
このやうに、戊辰戦争、明治第二維新運動において、政府軍に抗した戦った人々は、賊軍の汚名は取り除かれてゐる。有名な『抜刀隊の歌』には「吾は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ」と歌はれてゐるが、今日、西郷隆盛を「天地容れざる朝敵」などと思ってゐる人はゐない。明治維新の傑物、大功労者として尊敬されてゐる。さうした方々は、「賊名」を取り除かれた時点で靖國神社に合祀されるべきであったと思ふ。

徳川慶喜の曾孫にあたられる徳川康久宮司は、『中國新聞』平成二十八年六月十日号所載のインタビュー記事で、聞き手による「将来、賊軍とされている方々を合祀することはあり得ますか」との問ひに答へて、「無理だ。日本が近代統一國家として生まれ変わる明治維新の過程で、國家のために命をささげられた方々のみ靈を慰め、事績を後世に伝えるというのが前身の東京招魂社を建てられた明治天皇のおぼしめし。政府に弓を引いた者はご遠慮すべきだろう」と語られてゐる。慎み深いご意見である。靖國神社がこのやうな意向である以上、私は、靖國神社に対して政治家などが多人数で「申し入れ」を行ひ、新聞に意見広告を載せ、「合祀」を強硬に主張すべきではないと思ふ。これは政治権力の神社への介入になる危険がある。

日本國民の大多数は、白虎隊や西郷隆盛に対して尊敬の念を抱いてはゐても、「賊徒」「賊軍」だなどと思ってはゐない。松平容保、徳川慶喜に対しても然りである。上野山の彰義隊士の墓、會津飯盛山の白虎隊の墓地や鹿児島の南洲墓地は今日も香華が絶へない。

江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。

慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野山を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって茶毘に付された。

正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。

日本國民は、伝統的な寛容性によって、歴史の過程において一時期「賊軍」の汚名を着せられた方々に対して、慰靈の誠を捧げて来てゐる。靖國神社に祭祀さなければ、日本の「寛容性」「伝統的な温情と和解の心」が實現しないといふ事はない。

日本民族は古来、「人間死んだら神様」といふ言葉があるやうに、祖靈を神と崇め、祭って来た。祖靈・死者の魂を尊びこれをお祭りすることは、日本民族の傳統信仰の基本であり、道義心・倫理觀の根幹であるからである。

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