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2021年1月24日 (日)

德川幕府による朝廷圧迫の実態



慶応三年、大政奉還が行はれたが、徳川慶喜はこれに先立って、山城一国・二十三万石余を「禁裏御料」として献上した。それまでは「禁裏御料」「仙洞御陵」など色々な区別はあるが、朝廷・皇室の所領は四万石余で、小大名と同じくらいであった。徳川幕府は、「あめのしたしらしめすすめらみこと」に対し奉りこのやうな処遇をしてゐたのである。

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

『岩倉公実記』には次の如くに書かれてゐる。「安永年中幕府厳に朝廷の会計を検束し、供御の丁度に制限を設け、当時の価格を以て御用品代価の標準を定む。爾後御用品の時価に低昂あるも、其費を増減するを許さず。此の如く供御の調度に制限を設くるを以て、和歌御用の懐紙短冊の如き些細の物品にも一箇年間消費の数に限り有りて、時々不足を告げ、近習の堂上、密に之に進献して其不足を補充すること有り。又諸物価年を追ふて騰貴するに由りて、御用商人は所謂本途直段を以て物品を調達するときは、損益相償はざるが為に、粗悪の物品を混合して以て其品目に充て、その員数に盈たしむ。是故に御膳の如きも魚菜八塩醃(注・魚、野菜などを塩に漬けて保存すること。また、その物。塩づけ)腐餒して食ふ可らざるもの多し…」。

幕府が朝廷の会計を厳しく制限したために、天皇が和歌をお書きになる懐紙も足らなくなり、御用商人はお買ひ上げ価格が低いので粗悪の品物を納品し、さらには、上御御一人が召上がる食べ物すら腐った物をお出しせざるを得なかったといふのである。かうなると徳川幕府は「不忠の臣」どころか「逆臣」と断定してもいいくらいである。

第百十代・後光明天皇は、父帝である後水尾上皇が御病気を憂慮あそばされ、お見舞ひにのために後水尾上皇の御所に行幸ありたき旨を京都所司代に仰せ出されたところ、所司代・板倉周防守重宗は、「江戸に申し遣はし幕府の許可を得なければなりませぬ」と申し上げた。後光明天皇は「それならば自分の御所の東南隅よりと院の御所の西北隅にかけて梯子でつなげ高廊下を早々に設けよ。廊下を渡るだけなら行幸と幕府も言はないだらう」と仰せられ、御病気見舞ひを強行あそばされたと承る。

つまり、天皇は、父君のお見舞ひのために御所を出られることすら自由にお出来にならなかったのである。

徳川幕府専横時代、寛永年間、三代将軍徳川家光が上洛した時に、後水尾天皇が二条城に出でまして以来、嘉永七年に、皇居が炎上し、孝明天皇が下鴨社に渡御あそばされるまで、上御一人は皇居の中から外にお出になることは出来なかったのである。しかも嘉永七年の孝明天皇下鴨社渡御は、皇居炎上といふ突発事故が無ければ行はれなかったのである。

このやうに、大変畏れ多い言ひ方であるが、天皇は、「てのひらほどの大宮所」しかもその中の天皇の住まはれる御所の中に厳しい経済状態で軟禁状態に置かれてゐたと言っても過言ではないのである。徳川幕府の天皇・皇室への圧迫・迫害は許し難いものであった。

阪本健一氏は次のやうに論じてゐる。「近世において、天皇の御在位中、皇居の外への行幸は、寛永年中、三代将軍家光の時、二条城へのいでましのみである。御室の花は咲けども、嵐山の楓は紅葉すれども、そのいでましはなかったのである。もちろん幕府の政策のしからしめたところであって、志士仁人が憂憤興起した所以もまたそこにあった」(『天皇と明治維新』)。

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その実態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

阪本健一氏の言はれる「志士仁人」たる高山彦九郎、蒲生君平の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へたのである。

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