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2021年1月31日 (日)

千駄木庵日乗一月三十一日


午後、「日本の心を学ぶ会」の主催者・渡邊昇氏、司会を担当して下さる林大悟氏と、今後の方針について協議。新宿に行ったのは本当に久しぶり事。

帰宅後は、原稿執筆の準備など。

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千駄木庵日乗一月三十一日

午後、「日本の心を学ぶ会」の主催者・渡邊昇氏、司会を担当して下さる林大悟氏と、今後の方針について協議。新宿に行ったのは本当に久しぶり事。 帰宅後は、原稿執筆の準備など。

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天孫降臨以来の薩摩の歴史と伝統

 南九州・薩摩の地は、天孫降臨から神武天皇御東征御出発までの神話が伝えられている地である。大和地方は大和三山・三輪山・二上山という美しい山々がある麗しい地である。そこには穏やかな大和心が伝わっている。しかし、黒潮に洗われ、険しい山がある南九州の地は、戦いの精神である大和心が伝わっているような気がする。大和魂にも和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)の両面がある。

 本居宣長の歌

「しきしまの大和心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」

は大和魂の「和魂」を表現した歌であり、村田清風(長州藩士)の歌

「しきしまの大和心を人問はば蒙古のつかひ斬りし時宗」

は「荒魂」を表現した歌であろう。

 南九州は南方の荒々しい心を反映していると共に、海に面している地なので、海の神への深い信仰が伝えられている。それが『海幸彦・山幸彦の神話』であり、『龍宮伝説』・『浦島太郎伝説』なのである。

 薩摩の地は、縄文・弥生時代から独自の文化が発達し、古墳時代には隼人と呼ばれる武力の秀で独立進取の気性が強かった人々がいた。五世紀前半以降には大和朝廷に服属したという。隼人族は宮門警衛や天覧相撲の力士として勇敢さが讃えられた。

 また南九州は、天照大神の御命令によって天孫・番(ほ・穂のこと)の邇邇藝命(ににぎのみこと・にきにぎしく穂が実ること)が降臨された地である高千穂峰(高く稲穂を積み上げた山のこと)がある。

『古事記』には、「天の日子番(ひこほ)の邇邇藝命(ににぎのみこと)天の石井(いはくら)を離れ、天の八重多那雲(やえたなぐも)を押し分けて、稜威(いつ)の道(ち)別(わ)き道別きて、天の浮橋に、浮じまり、そりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の霊(く)じふる峰に天降りましき。」(天の日子番の邇邇藝命は天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によって、浮洲にお立ちになって、筑紫の東方の高千穂の尊い峰に天降りさないました、というほどの意)と記されている。

 高千穂の峰は現在の鹿児島県の霧島山の一峰と、宮崎県西臼杵郡の二ヵ所がその伝承地である。天孫降臨神話の思想は大嘗祭の稲穂の上に穀霊神としての天皇の御霊が天降ったということである。

 『古事記』にはさらに、南九州とりわけ鹿児島がわが國本土最南端にあり、海に面した黒潮洗う地であり、明るい太陽に照らされた地であることを次のように表現している。天照大神が「此地(このち)は韓國に向ひ笠紗(かささ)の御前(みさき)にま来通りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。かれ此地ぞいと吉(よ)き地(ところ)」(この地は海外に向かって、笠紗の岬に(良き國を)尋ね求めて通って来て、朝日が真っ直ぐに照り輝く國、夕日の輝く國である。こここそは大変良い所である、というほどの意)と詔りされたと記されている。「笠紗の岬」とは現在の鹿児島県河辺郡笠沙町の岬という。

 南九州の地には邇邇藝命などの御陵も鎮まっている。我が國創世の神話は薩摩を中心とする南九州の地から始まっている。ゆえに、薩摩人が戦いに強く、敬神・尊皇の念が篤いのは神代以来の伝統である。聖武天皇の御代に國分寺が立てられているということは、南端の地でありながら、律令國家に組み込まれたのが早かったことを証明している。

 御家人・島津氏は二階堂氏などと共に十三世紀に鎌倉幕府の時代に地頭として薩摩に派遣された。島津氏は土着すると共に勢力を強め、第十五代・島津貴久は南九州(薩摩・大隅・日向)を統一し、第十六代・義久は九州全体を制覇せんとするが、豊臣秀吉に敗れる。その後、豊臣氏に忠節を尽くす。義久の弟の第十七代義弘は朝鮮出兵に戦功を立て、関ヶ原で徳川方と勇敢に戦う。

 徳川時代には徳川幕府の圧迫に遭った。薩摩藩は鎖國政策を取り、他藩との交通を厳しく制限し、隠密侵入を取り締まった。さらに領内に外城といわれる百十三の出城を築き、武士を土着させて兵農一致態勢を敷き、幕府側の侵攻に備えた。しかし、宝暦三年(一七五三)には幕府の圧迫政策の一環である木曾川の治水工事で四十万両の出費があり藩財政は逼迫した。

 幕末期には、薩英戦争では世界の超大國イギリスを相手にして戦い、その後イギリスと友好関係を結び、パリで開かれた万國博覧會では、幕府と同格の立場で参加し、ナポレオン三世に薩摩藩独自の勲章を与えている。そして明治維新の戦いでは、同じく関ヶ原で徳川氏と戦った長州と共に徳川幕府打倒の中心勢力となる。鎌倉時代から明治維新まで七百年の長きにわたって一貫して同じ領國を支配した大名は島津氏以外にはないという。維新後においてさえ薩摩は新政府に対抗して西南戦争を戦った。

 このように薩摩藩は敬神尊皇思想も篤かったが独立進取の気象もまた旺盛であった。地理的にも外國との接触を早く受けやすい地であったため、中世においては坊津が倭寇の根拠地となり、近世においては明との交易も盛んとなり、鉄砲やキリスト教が我が國で最も早く伝来した。近代においては、多く人材を失った西南戦争の痛手が大きかったことは否めない。

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2021年1月30日 (土)

大和田獏氏の『モンテンルパ』の舞台におおいに期待したい。

去年コロナウイルスが流行り出した頃、有名芸能人で感染して亡くなった方が、志村けんさんであり、岡江久美子さんであった。特に岡江さんは入院以来家族に会うことができず、遺骨になって帰宅されたと報道され驚き実に気の毒に思った。岡江さんは、御主人の小和田獏氏と共にNHKの「連想ゲーム」という番組に毎週出ていた。わたしはご夫妻二人ともに好印象を持ってゐた。その後大和田獏氏はあまりテレビにお出にならなかったので、どうしているのかと思っていたところ、『朝日新聞』今年一月二十一日号夕刊に「大和田獏この役にかける迷いつつも―舞台『モンテンルパ』戦犯と向き合って僧侶に」と題する記事が掲載された。

それには「第二次世界大戦後のフィリピンで戦犯として収容されていた一〇〇人を超す元日本兵と、彼らを救おうと奔走した人たちの姿を描く部隊『モンテンルパ』。大和田獏は今回の役に、『役者としてかけてみたい』と語る。モンテンルパの刑務所内で戦犯が作詞・作曲し、歌手の渡辺はま子が歌った『ああモンテンルパの夜は更けて』は大ヒットした。…大和田が演じる加賀尾就任は、教誨師として現地に赴任した実在した僧侶だ。(注・大和田獏は)『七〇年生きてきた人生の一コマ一コマを思い出しながら、その心境に逼れればと思っています。そこに役者としてかけてみたい』と話す。」と書いていた。

私は高校生時代から、『元禄名槍譜・俵星玄蕃』『ああモンテンルパの夜は更けて』という歌をよく歌ってきた。

『元禄名槍譜・俵星玄蕃』は、三波春夫氏が歌った長編歌謡浪曲である。高校時代にレコードを購入して憶えて以来、今日まで家の中で、あるいは色々な会合で歌い続けている小生の愛唱歌である。

赤穂浪士の吉良邸討ち入りを助けた槍の名人・俵星玄蕃を主人公にした歌謡浪曲で、歌い切るには約十五分くらいかかる。忠臣蔵のテーマである「主君のために尽くすまごころ」「忠義の心」は、日本人の心情の中でも最も大切なものであり、多くの人々が共感する。


『ああモンテンルパの夜は更けて』は、渡辺はま子さんが歌った。フィリッピンの捕虜収容所に収容されていた日本人捕虜の方が作詞・作曲した歌である。渡辺はま子さんのところに送られてきて、それをレコード化し大ヒットした。

渡辺はま子さんは、苦労してフイリッビンに赴き、捕虜収容所を慰問し、この歌や「支那の夜」などの数多くのヒット曲を歌った。そして当時のキリノ大統領と面会し、この歌のオルゴールを聞いてもらった。キリノ大統領は感激した。そしてその後『戦犯釈放運動』が行われ、「戦犯」と言われた人々は、帰国することが出来た。

渡辺さんは、「帰国したと言っても三つの帰り方があった。一つは、遺骨になって帰国、一つはそのまま巣鴨プリズンに収容、もう一つはそのまま自由の身でした」と語っていた。

私は、故野村秋介氏にフィリッピンに連れて行っていただいた時に、モンテンルパ刑務所を見学し、実際に死刑が執行された処刑台のそばでこの歌を歌わせていただいた。涙があふれてとどまらなかった。

私には、渡辺はま子さんと三波春夫氏は、好きな歌手というよりも、尊敬する歌手である。渡辺さんは、戦時中は戦地に行って多くの皇軍兵士を慰問し、戦後は、いわゆる戦犯釈放運動に活躍された。文字通り渡辺先生の大ヒット曲の名の通りの「愛国の花」であられた。

今回の大和田獏氏の舞台におおいに期待したい。

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2021年1月29日 (金)

水戸學の特質とその影響

 勤皇が徳川光圀以来の水戸藩の伝統である。光圀は、常々近臣に対して、「わが主君は天子なり、今将軍はわが宗室なり。あしく了簡仕り、取り違へ申すまじき」と戒め、毎年元旦には、直垂(ひたたれ)を着して早朝京都を遥拝したという。

 光圀の學問・尊皇思想は、各方面に多大な影響を及ぼした。それは徳川御三家にまで及んだ。御三家筆頭の尾張藩四代藩主・徳川吉通は、子孫に対する訓誡として「天下の武士は、みな公方(徳川将軍の尊称)家を主君の如く崇めかしづけども、実は左にあらず…三家(尾張、紀伊、水戸)の者は全く公方の家来にて無し、今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣(天武天皇十三年に定めた八階級の姓(かばね) の第二位。後には、三位の人の姓(せい)の下、四位の人の名の下につける敬称)と称するからは、これ朝廷の臣なり。されば水戸の西山殿(徳川光圀のこと)は、我らが主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりとのたまひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘のごとき事出来て、官兵を催される事ある時は、いつとても官軍に属すべし。一門の好みに思ふて、かりにも朝廷にむかふて弓を引くことあるべからず」と述べた。

 「水戸學」は、天皇國日本の悠遠な真姿を示し、徳川幕藩體制のみならず鎌倉幕府以来の武家政権の転変を超えて持続する皇位の伝統を明らかにした。それは、『大日本史』の綱条の序文に、「人皇基を肇めて二千余年、神裔相承け、列聖統を纉(つ)ぎ、姦賊未だ嘗て覬覦(身分不相応なことをうかがいねらうこと)の心を生ぜず。神器の在る所、日月と並び照らす。猗歟(ああ)盛なる哉。其原(もと)づく所を究むるに、寔(まこと)に祖宗の仁沢、民心を固結し、州基を盤石の如くならしむるに由る也」とある通りである。

 「水戸學」は支那思想を重んじたが、無批判に支那思想を受け入れたのではない。藤田東湖は『弘道館記述義』で、「然れば則ち唐虞(唐は七世紀初めから十世紀初めまで、古代支那王朝として最も文明の発展をとげた國。虞は支那古代、舜(しゆん) が尭(ぎよう) からゆずられて帝位にあった王朝の名)の道、悉く神州に用ふべきか。曰く、否。…決して用ふべからざるもの二つあり。曰く禅譲(帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること)なり。曰く放伐(徳を失った君主を討伐して追い払うこと。「禅譲」と共に、支那の易姓(えきせい)革命思想による考え方)なり。…赫赫たる神州は、天祖の天孫に命ぜしにより、皇統綿々、緒(物事のはじまり)を無窮に伝へ、天位の尊きこと、猶ほ日月の踰ゆべからざるがごとし…万一禅譲の説を唱ふる者あらば、凡そ大八洲の臣民、鼓を鳴して之を攻めて可なり。…若し彼の長ずるところを資り、併せて其の短に及べば、遂に我が萬國に冠絶する所以のものを失はん」と論じている。

 支那の有徳王君主思想・革命思想を否定し、皇統の無窮を説いている。さらに、支那思想の悪しきところを取り入れたならば、わが國の國體が破壊されるとしているのである。ここに「水戸學」とりわけ藤田東湖の尊皇思想の真骨頂があるのである。

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2021年1月28日 (木)

氷雨と雪の降る中、心臓を労わりながら都心部を歩きました

氷雨と雪の降る中、心臓を労わりながら都心部を歩きました。少し大変でした。しかし議員会館でお会いした若手の真正保守の政治家には元気づけられました。これからの日本の政治をしょって立つ人の一人であると期待します。ともかく立憲民主と共産に政権を渡してはなりません。

帰途、御徒町の飲食店に寄ろうと思ったのですが、何処も御休み。仕方がないので近所の店に寄り夕食。やはり近所の行きつけの店が一番落ち着く。

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2021年1月27日 (水)

本来「祟り」はより高次の「善」「幸」を生じせしめる契機である


最近、新型コロナウイルスの猖獗によって、いはゆる「祟り神」の事が論じられることがある。古代から今日までの日本の「祟り神」と言はれるのは次の神々である。

国常立神 大物主神 平将門 菅原道真 崇徳上皇

日本の祟り神と言はれる神々は、最初は祟り神として出現されても、祭祀を受けられ、時間を経ると、善神・守護神としてのお役目を果たされるやうになる。

『古事記』と『日本書紀』に書かれてゐる大物主神に関する神話は、日本の神が「祟りの神」から「豊穣の神」「幸の神」に変身することを明らかに示してゐる。

『日本書紀』に書かれてゐる通り、大物主神は『我は是倭國の域(さかひ)の內に所居(を)る神、名を大物主神(おほものぬし)と爲(い)ふ』であられる。

その大物主神は、崇神天皇の御代において「祟りの神」として登場された。しかし、天皇・朝廷が大物主神をお祭りするやうになると、「祟りの神」としての性格を全く無くされ、大和の國のみならず日本全國そして皇室の「守り神」「豊穣の神」としてご活動をされ続けられるやうになる。大物主神は大国主命別名と崇められてゐる。

最初に「祟りの神」として登場されるのは、大物主神に如何に大きな力があるかを示し、神としての活動開始の合図であったかのやうである。

小室直樹氏は、「人びとにまつられる日本の神は、もと祟りである。…祟らないように神社を作ってこれを祭る。そうすると、人に祟りをなす悪神は善神となり、人びとに幸福を授けるようになる。日本の神様は、みなこのタイプである」(『天皇恐るべし』)と論じてゐる。

大物主神だけでなく、菅原道真の御霊も然りである。最初は「祟り神」として登場されるが、天皇・朝廷そして一般民衆が祭りを行ふことによって、「天満大自在天神」といふ幸をもたらす神、善神、學問の神へと変身された。

折口信夫氏は、「たたり」について次のやうに論じてゐる。「『たゝる』といふ語は、…古い意義は神意現れると言ふところにある。允恭紀に淡路の島で狩りせられて、終に獲物がなかったので、占はれると、島の神祟りて曰はく、獣をとらせないのは自分の心だ。赤石の海底の眞珠を自分に獻ったら獸をとらせようと言うたとある。此文の卜うたら神が祟ったと言ふのは、今の祟るでない。…『たつ』と云ふ語は現れる・出るといふ意義が古いので、其から、出發・起居などの觀念が纏って來たのである。…(注・『月立つ』…『向ひの山に月たゝり見ゆ』といふ言葉は)月神の出現を示すのである。其が段々内的になって來て、神意の現れる事を示す語になる。…更にそこに、意義が固定すると…捉へ難きものゝ出現の意になる。『たゝり』は『たつ』の『あり』と複合した形で、後世風には『たてり』と言ふところである。『祟りて言ふ』は『立有而(たゝりて)言ふ』と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で…古いものはやはり、人の過失や責任から『たゝり』があるのでなく、神がある事を要求する爲に、人困らせる現象を示す風であった」(「『ほ』・『うら』から『ほがひ』へ」)。

この折口説によると、「祟り」の語は、神の顕現を表はす「立有(たちあり)」=「立ち現れる」といふ意味であり、神が目の前に立ち顕れることを言ったといふ事である。それがいつしか、今のような、神仏や霊魂などが人間に災ひを与へること、また、その時に働く力そのものを言ふようになってしまったのである。

本来「祟り」は、より高次の「善」「幸」を生じせしめる契機なのである。これは、明るい太陽のもとで生きてゐる日本人の國民性による信仰精神であらう。

村岡典嗣氏は「(注・我國の神代傳説において)部分的にも全體的にも著しく看取せらるゝ哲理として存するものは、吉凶相生じて吉に歸する、換言すれば凶も又吉の爲に存するといふ見解である。…一貫して吉の力、生成の力の優越が示されてゐる。…人生や世界は凶悪あるにも拘らず、本格的にそを支配するものは吉善の力で、凶悪の存するのも畢竟は吉善の爲であり、凶悪は假で吉善こそ本質である」(『日本思想史研究④』)と論じてゐる。

日本には、絶対的悪神・悪魔はゐないのである。悪神は祭りを受けることによって善神となり、人間の罪穢れも禊祓ひによって清められるのである。新型コロナウイルスに苦しめられる今こそ、全国の神社仏閣はもちろん我々国民全体も神と佛への祭りと祈りを深めねばならない。

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2021年1月26日 (火)

田原総一朗・佐藤優氏と創価学会について

佐藤優氏と田原総一朗氏が創価学会・池田大作についていろいろ書き、且つ、学会系出版社から著書を出し雑誌論文を書いているが、このお二方は、戦前の創価学会創立期から今日までの歴史、そして池田大作および創価学会の主張を正しく理解し把握して書いているのだろうか。最近の田原・佐藤両氏の動きを見ると、この二人の物書き・評論家としての姿勢・知識・取材力に疑念を抱くようになった。お二人ともよく知っているだけに困ったことだと思っている。

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2021年1月25日 (月)

最近の新宗教は非常に元気がないは何故だろうか

最近の新宗教は非常に元気がない。活動家たちが老齢化している。それは共産党などのサヨク組織と同じだ。小生が十代の頃、即ち昭和三十年代、選挙のたびに各新宗教は組織を挙げて選挙運動に邁進した。創価学会は参院全国区で多くの候補者を立て、殆ど全員が当選した。学会は、選挙を戦うことによって組織を強固にし伸ばした。

それに対抗した立正佼成会も候補者を立て、長谷川仁というサンケイ新聞論説委員が高位当選した。生長の家・霊友会・仏所護念會・世界救世教という教団も候補者を立てその多くが当選した。

しかし、その実態はその宗教の信者が候補者になるのではなく、各教団は自民党の候補者を応援する集票マシンだった。私が活動してゐた生長の家も、例外ではない。重宗雄三、鹿島何とか云う歯医者、玉置猛夫という日本銀行役員などを当選させたが、彼らは生長の家信徒でも谷口雅春師門下でもなかった。当時の生長の家幹部にも、仙頭泰・菊池藤吉・森田征史の各氏など参院議員になれはそれなりの活躍をしたであろう人はいたが候補者になることはなかった。

そこで組織内から候補者を立てるべきだという意見か起こったが、当時の生長の家政治連合会長・田中忠雄氏は「組織内の幹部を立てろという意見があるがそういう人は高級靈ではありますが政治的にはパーであります」などとわけのわからない禅問答みたいなことを言っていた。

当時の生長の家は『大日本帝国憲法復元』を主張してゐたが、生長の家のお蔭で当選した人々がそのことに努力した人はいなかった。要するに生長の家は自民党に集票マシンとして利用されたのだ。

他の教団も実態は大体同じであろう。ただ創価学会だけは、「政教分離」の批判が起るまでは学会幹部が国会議員を兼ねた。だから公明党は今日も残ってゐるのだ。

そんなこんなで各教団も選挙運動に疲れたのかやってもメリットがないと分かったのが選挙に熱心ではなくなった。今日も各教団の支援を受けている議員はゐるだろうが、昔のような派手な選挙運動は行われてゐない。そのことが新宗教の活気というかエネルギーを失わしめているのである。創価学会も例外ではない。邪教撲滅、折伏大行進の戦闘性は喪失してゐるようである。ただし日蓮正宗宗門攻撃は続いてゐる。

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2021年1月24日 (日)

德川幕府による朝廷圧迫の実態



慶応三年、大政奉還が行はれたが、徳川慶喜はこれに先立って、山城一国・二十三万石余を「禁裏御料」として献上した。それまでは「禁裏御料」「仙洞御陵」など色々な区別はあるが、朝廷・皇室の所領は四万石余で、小大名と同じくらいであった。徳川幕府は、「あめのしたしらしめすすめらみこと」に対し奉りこのやうな処遇をしてゐたのである。

天皇崩御の際の「布令」を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

『岩倉公実記』には次の如くに書かれてゐる。「安永年中幕府厳に朝廷の会計を検束し、供御の丁度に制限を設け、当時の価格を以て御用品代価の標準を定む。爾後御用品の時価に低昂あるも、其費を増減するを許さず。此の如く供御の調度に制限を設くるを以て、和歌御用の懐紙短冊の如き些細の物品にも一箇年間消費の数に限り有りて、時々不足を告げ、近習の堂上、密に之に進献して其不足を補充すること有り。又諸物価年を追ふて騰貴するに由りて、御用商人は所謂本途直段を以て物品を調達するときは、損益相償はざるが為に、粗悪の物品を混合して以て其品目に充て、その員数に盈たしむ。是故に御膳の如きも魚菜八塩醃(注・魚、野菜などを塩に漬けて保存すること。また、その物。塩づけ)腐餒して食ふ可らざるもの多し…」。

幕府が朝廷の会計を厳しく制限したために、天皇が和歌をお書きになる懐紙も足らなくなり、御用商人はお買ひ上げ価格が低いので粗悪の品物を納品し、さらには、上御御一人が召上がる食べ物すら腐った物をお出しせざるを得なかったといふのである。かうなると徳川幕府は「不忠の臣」どころか「逆臣」と断定してもいいくらいである。

第百十代・後光明天皇は、父帝である後水尾上皇が御病気を憂慮あそばされ、お見舞ひにのために後水尾上皇の御所に行幸ありたき旨を京都所司代に仰せ出されたところ、所司代・板倉周防守重宗は、「江戸に申し遣はし幕府の許可を得なければなりませぬ」と申し上げた。後光明天皇は「それならば自分の御所の東南隅よりと院の御所の西北隅にかけて梯子でつなげ高廊下を早々に設けよ。廊下を渡るだけなら行幸と幕府も言はないだらう」と仰せられ、御病気見舞ひを強行あそばされたと承る。

つまり、天皇は、父君のお見舞ひのために御所を出られることすら自由にお出来にならなかったのである。

徳川幕府専横時代、寛永年間、三代将軍徳川家光が上洛した時に、後水尾天皇が二条城に出でまして以来、嘉永七年に、皇居が炎上し、孝明天皇が下鴨社に渡御あそばされるまで、上御一人は皇居の中から外にお出になることは出来なかったのである。しかも嘉永七年の孝明天皇下鴨社渡御は、皇居炎上といふ突発事故が無ければ行はれなかったのである。

このやうに、大変畏れ多い言ひ方であるが、天皇は、「てのひらほどの大宮所」しかもその中の天皇の住まはれる御所の中に厳しい経済状態で軟禁状態に置かれてゐたと言っても過言ではないのである。徳川幕府の天皇・皇室への圧迫・迫害は許し難いものであった。

阪本健一氏は次のやうに論じてゐる。「近世において、天皇の御在位中、皇居の外への行幸は、寛永年中、三代将軍家光の時、二条城へのいでましのみである。御室の花は咲けども、嵐山の楓は紅葉すれども、そのいでましはなかったのである。もちろん幕府の政策のしからしめたところであって、志士仁人が憂憤興起した所以もまたそこにあった」(『天皇と明治維新』)。

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その実態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

阪本健一氏の言はれる「志士仁人」たる高山彦九郎、蒲生君平の歌に表白されてゐる皇室の式微を嘆いた憂憤恋闕の情、そして、皇陵修復と天下を周遊して志士を鼓舞する行動は、尊皇運動の先駆であった。そして、明治維新・王政復古・朝威回復を目指した志士たちの思想的基盤の一つとなり、計り知れない影響を与へたのである。

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2021年1月23日 (土)

吉田松陰の根本精神は絶対尊皇思想である

松陰は、「本邦の帝皇、或は桀紂の虐あらんとも、億兆の民は唯だ当に首領を並列して、闕に伏し号泣して、仰いで天子の感悟を祈るべきのみ。」(安政三年「斎藤生の文を評す」『丙辰幽室文稿』所収。本邦の帝皇に、あるいは桀王や紂王のやうな残虐な行為があったとしても、億兆の民はただ頭を並べて、天子の宮殿の門の前に伏し、号泣して、祈るべきのみである、という意)と論じている。

この絶対尊皇思想は、山崎闇斎の思想に通じるものがある。村岡典嗣氏は、「(注・尊皇思想の近世における)最も代表的なものを山崎闇斎を祖とする垂加神道の所説とする。曰く、日本の天皇は、支那に比すれば天子ではなく天そのものに當る。…儒教でいへば、大君の上に天帝があり、勅命の上に天命がある。しかるに我國では、大君なる天皇は即ち天帝であり、勅命はやがて天命である。されば君不徳にましまして、無理を行はれるといふやうなことがあっても、日本では國民たるものは決してその爲に、天皇に背き奉りまた怨み奉るべきではないことは、恰も天災がたまたまあったとて、ために支那に於いて、天帝に背き、また天帝を怨むべきではないとされるのと同様である、と。…これこそまさしく、わが國民精神の中核を爲した絶対尊皇思想である。」(『日本思想史研究・』)と論じている。

 日本における変革は、天皇を原基として行われて来た。天皇國日本の本来的あり方への回帰即ち日本國體の明徴化が、そのまま現実の変革となるというのが、わが國維新の本質である。

また、政治変革によって権力の移動は行われても、天皇の國家統治は決して変らない、言い換えると政体変革はあっても國體変革は絶対にあり得ないというのが、日本の道統である。その根底には、まさに天孫降臨・日本肇國以来、日本國民の心の奥底にあり続けた「天皇信仰」がある。

安政六年十月二十日付の「諸友に語(つ)ぐる書」には「聖天子宵衣旰食(せういかんしょく・朝早く起き日暮後遅く食事をとる、即ち君主が國事に精励される意)、夷事を軫念(しんねん・天子が心を痛めること)したまひ、去年来の事、豈に普率(普天率土・全世界)の宜しく傍観坐視すべき所ならんや。是れ宜しく今日天子の為めに死すべし」と書いている。

「天子の御為に命を捧げる」といふ尊皇精神・勤皇精神の極を説いている。吉田松陰の根本精神は絶対尊皇思想であった。

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2021年1月22日 (金)

「忠孝一本の國民精神」を命懸けで表白した松陰の辞世歌

安政六年十月二十日、死罪に処せられることを察知した松陰は、故郷の父叔兄に宛てた手紙において、「平生学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申し候。」と書き、

「親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」

といふ歌を記した。あふれるばかりの思ひとはりつめた精神が五・七・五・七・七といふ定型に凝縮されてゐる。かかる思いは和歌によってしか表現され得ないであろう。この松陰の歌こそ、「忠孝一本の國民精神」を命懸けで表白した歌である。

徳富蘇峰はこの歌について「死するに際して、第一彼れの念頭に上りし者は、その父母にてありしなり。…かくの如き人にしてかくの如き事を作す、不思議なる忠臣を孝子の門に求るの語、吾人実にその真なるを疑う能ず」(『吉田松陰』)と論じている。

そして、吉田松陰は判決が下る直前の安政六年十月二十五日から二十六日にかけて『留魂録』を書きあげた。その冒頭に、

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」

という歌を記した。
末尾には、

「心なることの種々かき置ぬ思のこせることなかりけり」
「呼たしの声まつ外に今の世に待へき事のなかりける哉」
「討れたる吾をあわれと見む人は君をあかめて夷払へよ」
「愚なるわれをも友とめつ人はわかとも友とめてよ人々」
「七たひも生かへりつゝ夷をそ攘はむこゝろ吾忘れめや」

といふ辞世の和歌を記した。
「討れたる」の歌は文字通り命を懸けた尊皇攘夷の志の表白である。日本の國家的危機を救ふ根本原理は、実に「尊皇攘夷」である。
十月二十七日朝、死罪の判決を受けた松陰は、

「吾 今 為 國 死 死 不 負 君 親 悠 悠 天 地 事 観 照 在 明 神」(吾今國の為に死す 死して君親に負かず 悠悠たり天地の事 観照明神に在り)

といふ辞世の漢詩を遺した。

明治元年(一八六八)九月、明治天皇御東行に供奉した松陰門下の木戸孝允は、その日記九月二十一日の項に、

「(注・安政六年)六月中旬深川に至り、松陰師の江戸拘引せらるを聞き、歎驚及ばず。同秋続きて江戸に至る。而し間日なく終に幕府の為殺戮を受く。窃に其の首体を奪ひて骨原(こつがはら)に葬る。其の後若林に改装し、又甲子(元治元年)の変(注・第一次長州戦争)、幕の毀つところとなる。此の間の事言ふに忍びざるなり。余今日生存して未曽有の盛事に遭遇し、鳳輦に扈陪して関左(注・南を向けば東は左であるところから関東のことをいふ)に入り、而して諸同志に見る可からず。悲歎こもごも到る。…往時を追憾し、涕雨の如し」
と記した。

明治維新断行後、明治天皇に供奉して東京に来た木戸孝允は、吉田松陰が処刑された当時の事、そして第一次長州戦争の時、世田谷若林の長州藩の土地に埋葬された松陰の墓まで毀損されたことを思ひ出しているのである。

維新の先駆者たる吉田松陰の志は門下生達に強烈に引き継がれ大きく花開き、徳川幕府は打倒され、維新が成就した。現代においても、明治維新を目指して戦った志士たちの悲しい志を自己自身の上に回想しわが血を沸き立たせることが大切である。

内憂外患交々至るといった状況にある今日こそ、吉田松陰の如く、日本民族の本来的な清明心・尊皇精神に立脚した大和魂を奮ひ立たさなければならない時である。

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2021年1月21日 (木)

どうしても書かずにはゐられませんでした。

アメリカの政治家にも案外人材がゐないのですね。トランプは激しすぎるし、バイデンという人は全く知りませんでしたが、中華帝国主義と戦うには少し年を取りすぎてゐます。やはりトランプの方が良かったのでしょう。

しかし今更こんなことを書くのはどうかしてゐるという人もゐるかと思いますが今日流れていた「星条旗よ永遠なれ」を聞きつつ、この歌を国歌として歌っていた人たちによって広島長崎に原爆を落とされ、東京大空襲で十万人以上も焼き殺された歴史は忘れてはならないと思います。こんなことを書くのは止めようかと思いましたが、どうしても書かずにはゐられませんでした。

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2021年1月20日 (水)

国会議員の七十三歳定年というのは反対です。

私が七十四歳になるためということもありますが、国会議員の七十三歳定年というのは反対です。選挙に勝ったらいくつでも議員になって良いと思います。ましてこれだけ高齢化社会になってゐるのですからそれは当然です。若手のチンピラ議員ばかりでは良い政治はできないと思います。

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2021年1月19日 (火)

千駄木庵日乗一月十九日

午前は、親族来宅。室内清掃。

 

午後からは、『政治文化情報』発送準備。

 

夕刻、千駄木にて、久しぶりに同志と懇談。その同志の方々が出版社を立ち上げたので、今後の戦略を練る。尊皇・興亜・維新を目的とした出版社で、二人の志の高さに敬意を表する。小生も非力ながらも出来るだけのお手伝いはさせていただきたく思っている。

 

お酒を呑みうまき物を食すると自然に話も弾み、体調の悪さも忘れてしまう。従いまして、マスクをしながら飲食をするなどということは実際にはあり得ません。

 

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2021年1月18日 (月)

千駄木庵日乗一月十八日

行きつけの店で休業している店が出来て困っています。五時に開店して八時に閉めなければならないのでは商売にはならないと店の人は言っていました。そもそも勤務時間が午後五時までなのに五時から飲み始める人は非常に少ないということです。私は時間の調節ができますが、なかなかできない人も多いでしょう。飲食店は大変な困難を強いられています。テイクアウトの物を買って帰り家呑みをするというのも一人者には非常にわびしい。

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今の野党に政権を担える政治家はいない。ただから自民党政権が続くのだ。

菅内閣の支持率が低下したとメディアが騒いでいるが、ではどんな内角なら支持率が上がるのか。枝野内閣や志位内閣では支持率は全くあがらないであろう。

では一体どういう内閣がいいのか。そしてそれが国民の支持を得られるのか。

今の野党に政権を担える政治家はいない。ただから自民党政権が続くのだ。

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2021年1月17日 (日)

明治維新における「攘夷」とは、かたくなな排外思想ではない


明治維新は、尊皇攘夷思想を基本として祖国の危機を乗り切らんとした西南雄藩や尊皇の志士達と、德川幕府体制を堅持して外患を除去せんとした思想を基本とした徳川幕府の激突であったことは確かである。

しかし、明治維新における「攘夷」とは、かたくなな排外思想ではない。吉田松陰をはじめ維新の志士たちは時代の趨勢を正しく把握してゐた。松陰は敵たるアメリカを認識せんとしてアメリカ渡航を実行しやうとした。

真の攘夷精神を端的に示してゐるのが土佐藩士・中岡慎太郎(土佐の郷士。天保九年【一八三八】生。名は道正。薩長二藩の提携に尽力。慶応三年【一八六七】十一月京都で坂本竜馬とともに刺客に暗殺された)が、慶應二年(一八六六)に書いた次の文章である。

「それ攘夷と云ふは、皇國の私言にあらず。その止むを得ざるに至っては、宇内(註・世界中)各國、皆これを行ふものなり。米利堅(註・アメリカ)かつて英國の属國なり。時に英吉利(註・イギリス)王、利を貪る日々に多く、米民ますます苦しむ。因って華盛頓(註・ワシントン)なる者、民の辛苦を訴へ、是に於て華盛頓、米地十三邦の民を帥(ひき)ゐ、英人を拒絶し鎖國攘夷を行ふ。此より英米連戦七年英ついに不勝を知りて和を乞ひ、米利堅是に於て英属を免れ独立し、十三地同盟、合衆國と号し一強國となる……皇國当今、和親開港の如きは、幕吏彼の兵威に怖れ、上天子の勅意に違ひ、義理の当否、國の利害を計らず、……往々彼(註・外國)の命ずる所のまま(註・関税権を奪はれたこと)にて、萬民殆ど途端に苦しむ。……是故に萬々願くば天下の士民、……薪に座し胆を嘗むるの思を為し、……吉田松陰の攘夷の志によって海外に渡り、彼の長を取らんと企てしことなどを思ひ、その心を心とし、上下一致学術に励み、兵力を養ひ、早く攘夷の大典を立て、諸港の条約を一新し(註・不平等条約を改正すること)……会稽の恥(註・外國から受けたひどい辱めのこと)を雪(そそ)がざれば、死するとも止まずと決心する…」(『愚論ひそかに知人に示す』)。

この文書は、攘夷とは外國の侵略から祖國を守るために戦ふことであり、徳川幕府それを実行できなかったのであり、日本中の人々は上下一致して、耐へ難きを耐へて努力し、外國の長所を取り入れてみずからの國を強國にして、外國からの辱めを晴らして名誉を挽回しなければならないと論じてゐる。

そして、真の攘夷のためには海外の接触し「彼の長を取る」事も必要であるといふのである。これが明治維新をめざした人々の攘夷の精神であった。

井伊直弼主導の幕府の開港策は進歩的であり、朝廷などの攘夷の主張は保守的とするのは誤りである。上御一人・孝明天皇も、草莽の士・吉田松陰も、わが國の神代以来の伝統精神を回復し民族の主体性を確立し独立を堅持した上での外交との交際を期したのである。

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2021年1月16日 (土)

維新の戦いで命を国事に捧げた人々はその殆どがすぐれた詩歌を遺してゐます。しかし、維新で大きな活躍をした人でも、畳の上で亡くなった人は詩歌を遺してゐる人は少ないようです。 政治権力者政治的覇者は詩歌はあまりいい作品を遺さないのでしょう

結構忙しい毎日です。本日午前は、近親者来宅し、共に室内の清掃を行いました。
午後からは、資料整理、連載原稿の執筆です。明治維新の詩歌について書きました。
私が実感することは、維新の戦いで命を国事に捧げた人々はその殆どがすぐれた詩歌を遺してゐます。しかし、維新で大きな活躍をした人でも、畳の上で亡くなった人は詩歌を遺してゐる人は少ないようです。

例えば、山県有朋、德川慶喜は、維新史において大きな位置を占めた人ですが、詩歌は遺してゐません。私は、明治維新史の書籍をある程度読んでいます。(特に詩歌)しかしこの二人の詩歌作品は遺されてゐません。その理由についてはある程度私なりの考え方を持っています。いずれ書いてみたいと思っています。

徳川幕府の征夷大将軍も十五代も続いたのですが、漢詩をのこした人は居てもやまと歌をのこした人はいないようです。政治権力者政治的覇者は詩歌はあまりいい作品を遺さないのでしょう。徳川吉宗の子の田安宗武も歌学についての著書を遺してゐますが、実作はイマイチという感じであります。

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2021年1月15日 (金)

行幸が制限されたり、行はれなくなったのは、「一君萬民」の國體が隠蔽されてゐた時期である


行幸が制限されたり、行はれなくなったのは、「一君萬民」の國體が隠蔽されてゐた時期である

「御譲位問題」に関連して、「天皇陛下は祭祀を行はせられることがもっとも重要なお役目であり、全国各地の御巡幸あそばされ国民を励まされたり、外国ご訪問されることを控へられれば良いのではないか」といふ意見を表明される方がゐる。

天皇が各地を行幸されて国民を激励され天下の諸情勢をご覧になられる尊い行事を「國見」と申し上げる。古代の天皇は、國見を度々行はせられた。

ところが、武家が政治権力を壟断し一君万民の國體が隠蔽されると、天皇の行幸即ち「國見」はあまり行はれなくなった。

特に徳川時代は、幕府の干渉により、天皇は京都御所から一歩も外にお出になることができなかった。幕藩体制下における天皇の行幸は、慶安四年二月二十五日、後光明天皇が後水尾天皇に「朝覲(註・天皇が太上天皇・皇太后の御所に行幸し、恭敬の礼をつくすこと)の行幸」を行はせられて以来、御所炎上などのやむを得ない場合のほか、文久三年(一八六三)三月と四月、孝明天皇が攘夷祈願のために賀茂社・石清水社に行幸されるまで、二百十三年間、行はせられることはなかった。

つまり、行幸が制限されたり、行はれなくなったのは、武家政権の専横により「一君萬民」の國體が隠蔽されてゐた時期である。明治維新によって、「一君万民」の日本國體が明らかになった後、明治天皇は全国を御巡幸あそばされた。そしてその伝統は、大正天皇・昭和天皇・今上天皇に継承された。

先帝陛下が、御巡幸の御事を詠ませられた御製を掲げさせていただく。

「平成十五年歌會始 『町』
我が國の 旅重ねきて 思ふかな 年経る毎に 町はととのふ

平成十六年歌會始 『幸』
人々の 幸願ひつつ 國の内 めぐりきたりて 十五年経つ」

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アメリカで行われているように自民党支持者はメディアの本社に乱入して銃を乱射し怒りをぶつけるべきだ。(ちょっと過激でしょうか?)

政治家に限らず、誰が何処で何を食べようと、自由であり勝手ではないか。フグだろうともつ焼きだろうと、高級料亭だろうと居酒屋だろうと本人の自由だ。

メディアに攻撃されるとすぐに謝る政治家もだらしがない。政治家に御馳走になった報道関係者も多い。そんなことは周知の事実だ。

ともかく今のメディアはおかしい。アメリカで行われているように自民党支持者はメディアの本社に乱入して銃を乱射し怒りをぶつけるべきだ。(ちょっと過激でしょうか?)

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2021年1月14日 (木)

千駄木庵日乗一月十四日

一月になると、何時もなら会合などが増えるのですが、今年は全くそういうことはありません。

氏神様の年初の祭礼は、神職のみで行うということです。また菩提寺の節分会も僧侶のみで行うとのことです。さらに、新年会など各種会合も行われません。致し方の無いことですが、友人・同志・知人と会うことができず、さみしく思います。

毎日、家にいて、原稿執筆・資料整理などを行っています。仕事ははかどるようです。しかし、家に籠っているだけではかえって体に悪いので、一日一回小一時間ほど町に散歩に出ます。今日も散歩を終えて入った地元の居酒屋で、友人と軽く一杯やりました。真打の落語家の方で語り合っていると實に楽しい。今日は奥さんも一緒でした。

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2021年1月13日 (水)

靖国神社ご祭神について

幕末から明治十年頃までの激動の歴史の過程で、かつての賊軍が官軍にかつての官軍が賊軍になった、否、ならざるを得なかった悲劇があった。

小堀桂一郎氏の言ふ「旧敵に対して復讐せず、かつての叛逆者を粛清も訴追もしない。臣民の全てが『おおみたから』であることこそ、神武天皇以来の日本の皇室の倫理伝統」「伝統的な温情と和解の心」は、わが國史を貫いてゐる美風である。

であるならば、戊辰戦争で幕府方として戦死した人々、西南戦争で西郷軍として戦ひ戦死した人々の御靈が靖國神社に祀られるべきと考へるのは決して不思議ではない。

しかし、「國事に殉ずる」といふことと、「朝敵」「賊軍」であったかどうかの判別は難しい。「錦の御旗」「官軍」に抗すれば「朝敵」「賊軍」である。戊辰戦争、そして明治第二維新運動における「神風連の変」「萩の変」「佐賀の変」「西南戦争」における反政府軍の戦死者も、「國事」に殉じたのであるが、官軍・政府軍に抗したことは事實である。

維新前の徳川幕府が瑕疵のない正義であったとは言へないやうに、明治新政府も瑕疵のない正義であったとは言へない。ここが難しいところである。

太田黒伴雄、前原一誠、江藤新平、西郷隆盛は、上御一人日本天皇に背くなどといふ思ひは微塵もなかった。むしろ、國家のために蹶起したといふ切なる思ひがあった。それは、「蛤御門の変」における久坂玄瑞など、「天誅組の変」の吉村寅太郎など、幕府と戦った人々が、朝廷に抗したなどとは全く思ってゐなかったのと同じである。

従って、「蛤御門の変」における長州軍の戦死者、「天誅組」の戦死者が靖國神社に祀られてゐるとすれば、明治第二維新運動における反政府軍の戦死者が靖國神社ら祀られるべきである。

戊辰戦争における「賊軍」の総大将とされた徳川慶喜は、明治二年(一八六九)九月二十八日、謹慎を解除され、明治五年(一八七二年)一月六日、従四位に復帰した。明治十三年(一八八〇)五月十八日、正二位に昇叙、明治二十一年(一八八八)、従一位に昇叙された。そして、明治三十一年(一八九八)三月二日宮中に参内、明治天皇・昭憲皇太后に拝謁した。同三十三年には麝香間祇侯(宮中席次に類するものとして、宮中における優遇者に特定の部屋に入って控へる資格が与へられた。天皇御自ら官に任ずる親任官待遇の人から選ばれた。「祇」とは至るという意味)、三十四年公爵、大正二年(一九一三)十一月二十二日の薨去に際しては、勲一等旭日桐花大綬章を賜った。

政府軍に攻撃され、最後まで抵抗せざるを得なかった松平容保は、明治五年(一八七二)一月、三十八歳の時に蟄居を許された。さらに、明治九年(一八七六)十一月一日、従五位に叙位。明治十三年(一八八〇)二月、四十六歳の時に、官職である日光東照宮の宮司に任じられた。明治二十年(一八八七)十二月二十六日従三位に昇叙。明治二十六年(一八九三年)十二月四日、正三位に昇叙。同年十二月五日、薨去した。

「神風連」関係者は大正十三年二月十一日に名誉回復が為され、太田黒伴雄等には正五位が贈られた。前原一誠には、大正五年四月十一日、従四位が贈られた。江藤新平には、明治二十二年、『大日本帝國憲法』発布に伴ふ大赦令公布により賊名を解かれ、大正五年四月十一日、正四位が贈られた。西郷隆盛には、明治二十二年二月十一日、江藤と同じく『大日本帝國憲法』発布に伴ふ大赦で赦され、正三位が贈られた。
このやうに、戊辰戦争、明治第二維新運動において、政府軍に抗した戦った人々は、賊軍の汚名は取り除かれてゐる。有名な『抜刀隊の歌』には「吾は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ」と歌はれてゐるが、今日、西郷隆盛を「天地容れざる朝敵」などと思ってゐる人はゐない。明治維新の傑物、大功労者として尊敬されてゐる。さうした方々は、「賊名」を取り除かれた時点で靖國神社に合祀されるべきであったと思ふ。

徳川慶喜の曾孫にあたられる徳川康久宮司は、『中國新聞』平成二十八年六月十日号所載のインタビュー記事で、聞き手による「将来、賊軍とされている方々を合祀することはあり得ますか」との問ひに答へて、「無理だ。日本が近代統一國家として生まれ変わる明治維新の過程で、國家のために命をささげられた方々のみ靈を慰め、事績を後世に伝えるというのが前身の東京招魂社を建てられた明治天皇のおぼしめし。政府に弓を引いた者はご遠慮すべきだろう」と語られてゐる。慎み深いご意見である。靖國神社がこのやうな意向である以上、私は、靖國神社に対して政治家などが多人数で「申し入れ」を行ひ、新聞に意見広告を載せ、「合祀」を強硬に主張すべきではないと思ふ。これは政治権力の神社への介入になる危険がある。

日本國民の大多数は、白虎隊や西郷隆盛に対して尊敬の念を抱いてはゐても、「賊徒」「賊軍」だなどと思ってはゐない。松平容保、徳川慶喜に対しても然りである。上野山の彰義隊士の墓、會津飯盛山の白虎隊の墓地や鹿児島の南洲墓地は今日も香華が絶へない。

江戸幕府十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(一八六八)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。

慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野山を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺(現、荒川区南千住)の住職仏磨らによって茶毘に付された。

正面の小墓石は、明治二年(一八六九)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に堀り出された。大墓石は、明治十四年(一八八一)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、改府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。

日本國民は、伝統的な寛容性によって、歴史の過程において一時期「賊軍」の汚名を着せられた方々に対して、慰靈の誠を捧げて来てゐる。靖國神社に祭祀さなければ、日本の「寛容性」「伝統的な温情と和解の心」が實現しないといふ事はない。

日本民族は古来、「人間死んだら神様」といふ言葉があるやうに、祖靈を神と崇め、祭って来た。祖靈・死者の魂を尊びこれをお祭りすることは、日本民族の傳統信仰の基本であり、道義心・倫理觀の根幹であるからである。

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2021年1月12日 (火)

大西郷の尊皇精神と明治維新

今日、北朝鮮のミサイル攻撃・共産支那の軍事的圧迫という日本は大きな危機に瀕している。古代日本の大変革たる大化改新は、支那・朝鮮(唐新羅連合軍)からの侵攻と言う外圧危機下に行はれた。明治維新もまた西欧列強の外圧の危機下に行われた。
今日の日本のこの国家的危機に際して、一大変革の時期が到来したと考えるべきである。その意味においても、明治維新三傑の筆頭にあげられる大西郷の精神に思いを致すべきと考える。
明治維新の基本精神は「尊皇攘夷」である。天皇を君主と仰ぎ、國家的統合を一層強めて國家体制を変革し強化して外敵から自國の独立を守るといふ精神が明治維新の基本精神である。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。

天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。そしてそれは、吉田松陰先生と並んで明治維新最大の功労者である大西郷の精神でもある。

西郷隆盛は、文久二年(1862年)、薩摩藩主の父・島津久光の逆鱗に触れ、沖永良部島に流された時に『獄中有感(獄中感有り)』と題する次の詩を詠んだ。

「朝蒙恩遇夕焚坑   朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人生浮沈似晦明   人生の浮沈晦明に似たり
縦不回光葵向日   たとひ光を回らさざるも葵は日に向ふ
若無開運意推誠   もし運開くなきも意は誠を推す
洛陽知己皆為鬼   洛陽の知己皆鬼となり
南嶼俘囚独竊生   南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何疑天付与   生死何ぞ疑はん天の付与なるを
願留魂魄護皇城   願はくは魂魄を留めて皇城を護らん」

勝海舟ゆかりの洗足池(東京都大田区)に西郷隆盛の遺徳を顕彰する留魂碑が建立されてゐる。その碑には西郷自筆のこの「獄中有感」の詩が刻まれてゐる。

この詩は、「朝に主君の恩遇を受けたと思うと夕には生き埋めにされる。人生の浮き沈みは、昼と夜の交代に似ている。葵(ヒマワリ)は太陽が照らなくても、いつも太陽の方を向いている。もし自分の運が開けなくても、誠の心を抱き続けたい。京都の同志たちは皆、国難に殉じている南の島の囚人となった私ひとりが生き恥をさらしている。人間の生死は天から与えられたものであることは疑いない。願うことは死んでも魂は地にとどまって皇城(天皇の御所)を守護したい」といふほどの意である。

平泉澄氏はこの詩について「西郷の詩として傳へられるもの百数首、その中に於いて最も重要なるものとして、私は此の詩をあげたい。その一生の間、厄難多く、島流しにあふ事も前後三回に及んだが、運命の浮沈いかにあらうとも、皇城を仰ぐ忠誠の一念はかわるものでは無い」「末句『願はくは魂魄を留めて皇城を護らん』といふに至っては、皇国の道義、発揮せられて余蘊なく、日本男児の真面目、描出して明々白々なるを見る」(『首丘の人大西郷』)と論じてゐる。

影山正治氏はこの詩について、「寺田屋事件に於て有馬新七らを失ひ、月照を失ひ、齊彬公を失ひ、東湖を失ひ、その他多くの先輩盟友既に無く、一人南島の獄中に沈思回想して無言の慟哭をなして居るのだ。…『生死何ぞ疑はん天の付与なるを、願はくば魂魄を留めて皇城を護らん』南洲五十年の全生命、凝ってこの一句に結晶してゐる。かくて五十年の生命は悠久無限の大生命に飛躍したのだ」(『大西郷の精神』)と論じてゐる。

「願くば魂魄を留めて皇城を護らん」こそ、「大西郷の精神」の根幹・尊皇攘夷精神である。

共産支那や南北朝鮮の「傲慢無礼」なわが国領土に対する侵略策謀・反日政策・対日侮蔑外交が繰り返されてゐる今日、わが國民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない。

今日の危機的状況を打開するためには、南洲精神に回帰し、明治維新と同じやうに、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革を断行しなければならないと信ずる。

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今日思ったこと

体調が悪いと思っていても、食欲はあります。性欲はあるのかないのか分かりません。ただし『美しきものは永遠の喜びなり』という言葉は大好きです。

 

愛知県知事がテレビニュースに出て来ると本当に腹が立ちます。最近こんなに腹の立つ政治家はあまりいなかったと思います。何も行動ができない自分にも腹が立つ。でもあまり腹を立てると心臓に悪い。「天地一切のものに感謝せよ」教えられてゐますが、逆賊は「天地一切のもの」に入らないと思います。

 

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2021年1月11日 (月)

今日思ったこと

今日は一日『政治文化情報』の原稿執筆の仕事をしました。体調が悪いとか言ってはいられません。やるべきことをやらねばなれません。それか生きることだと思います。しかし、あまり無理をせずゆったりとした気分で行きたいと思います。

幼馴染みのお子さんたちが一人前になって、色々な仕事に励んでいます。一人前どころか社会の中核として頑張っています。そういう人たちの営んでいる飲食店で食事をするのも楽しみの一つです。コロナ禍で飲食店は大変な苦労を強いられています。どうか乗り切ってほしいと思います。

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2021年1月10日 (日)

天皇陛下の「國見」の意義


先帝陛下御製

平成二十四年歌会始

津波来(こ)し 時の岸辺は 如何なりしと 見下ろす海は 青く静まる

上皇、上皇后両陛下は、平成二十三年四月二十七日、東日本大震災の被災者お見舞ひのため、津波で壊滅状態になった宮城県南三陸町や仙台市を御巡幸あそばされ、被災者を励まされ、救援・復興関係者をねぎらはれた。

当時の報道によると、四月二十七日午後、南三陸町の小学校校庭にヘリコプターで降り立たれた両陛下は、佐藤仁町長から説明を受けられた後、瓦礫が散乱する沿岸部に向かって黙礼された。体育館での被災者お見舞ひの後、救助活動に当たる自衛隊幹部らにも謁を賜り、「ありがとうございます」と述べられた。同町を去る直前には、お二人でもう一度、町の跡に向かひ頭を下げられたと承る。

ヘリコプターで移動される間には、壊滅した漁港や養殖場が続く三陸沿岸を視察された。報道によると、同乗した村井嘉浩知事に、先帝陛下は、津波で約七割の児童が死亡か行方不明となった石巻市立大川小の上空で「大変な被害でしたね。可哀想でしたね」と仰せられたと承る。両陛下の慈しみ深き、御巡幸を拝すると自然に涙がこみ上げて来た。

大東亜戦争直後、昭和天皇と香淳皇后は、全國各地を御巡幸あそばされ國民を励まされた。戦災復興は、昭和天皇の御巡幸が大きな力となった。東日本大震災の復興も、上皇陛下の御巡幸が大きな力となっていった。有難き限りである。
上皇陛下は、平成二十三年三月十六日、「東北地方太平洋沖地震に関するおことば」を賜り、

「これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。被災者のこれからの苦難の日々を,私たち皆が,様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,國民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」と仰せになった。

常に國民と喜びと悲しみを共にされるのが、歴代天皇の大御心である。歴代天皇の御製にも、常に民を思はれ、喜びも悲しみも民と共にされる大御心が示されてゐる。

天皇が、御巡幸あそばされ、國土の安穏、民の幸せ、五穀の豊穣を祈られることを「國見」と申し上げる。

天皇が「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀であり、天地一新の行事である。祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。天皇が「國見」をされることによって、國土は、國土生成の時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。そして五穀豊饒が實現する。

天皇が、御巡幸あそばされ、國土の安穏、民の幸せ、五穀の豊穣を祈られることを「國見」と申し上げる。

「國見」によって天皇の靈と各地の國魂(産土の神・鎮守の神)とが一体となって結ばれる。これを「魂触り」(タマフリ)と言ふ。この「魂触り」によって、天皇の神聖なる國家統治の霊的お力が益々増幅されるのである。これを「食國天下のまつりごと」といふ。

「天皇陛下は皇居で祭祀を行はせられてゐればいい」といふ主張があるが、これは「國見」の意義を正しく理解してゐない主張であると思ふ。まして、たとへ國體護持、尊皇の思ひからの主張であっても、臣下國民による「天皇は皇居にゐて頂くだけで良い」といふ発言に接すると、大きな違和感を覚える。

『朝日新聞』平成二十九年年五月二十二日号に次の記事が掲載された。
「二〇一一年の東日本大震災発生の一九日後、天皇、皇后両陛下の被災地見舞いは三月三〇日、福島県から東京に避難した人々が身を寄せていた東京武道館から始まった。…石原慎太郎氏が都知事として迎えた。翌一二年に心臓手術をする陛下の健康状態を知り『被災地は若い男宮の皇太子、秋篠宮両殿下を名代に差し向けてはいかがでしょう』と進言した。陛下は黙って聞いていたが、被災者見舞いを終えて武道館を出るとき、石原氏に歩み寄り、こう告げた。『石原さん、東北は、私が自分で行きます』。それまで石原氏は、首都の知事でありながら、園遊會や宮中晩餐會にあまり顔を出さなかった。珍しく両陛下を迎えた石原氏は陛下の言葉にあぜんとし、絶句した。その後、考えを変えた。『あれから東北三県に行かれて、みな感動した。行っていただいてよかった』と。両陛下は、大きな災害が起きるたびに被災地を訪れ、被災者を見舞った」。

私は、石原慎太郎氏は、ナショナリストではあるが、尊皇精神は稀薄な人であったと思ってゐた。しかし、先帝陛下の民を思はれる仁慈の大御心に、石原氏は大きな感動を覚えたのである。まことに有難き事實である。

先帝陛下は、平成二十八年八月八日の「お言葉」で
「私が天皇の位についてから,ほぼ二十八年,この間私は,我が國における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず國民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」
と仰せになった。

「國民の安寧と幸福を祈る」とはまさに宮中祭祀の御事であり、「國民の傍らに立ち國民の声に耳を傾け國民の思ひに寄り添ふ」とはまさに「御巡幸」「國見」の御事であると拝する。今上陛下は古代以来の天皇のご使命を果たして来られたのである。

『朝日新聞』は、平成二十九年七月二十五日号から二十九日号まで「平成と天皇 首相経験者に聞く」といふ連載記事を掲載した。「首相経験者に聞く①」(七月二十五日号)は、福田康夫氏であった。

福田康夫氏は、先帝陛下の外国ご訪問に主席随員として御伴をしたことに関連して「陛下の外国ご訪問は、最高レベルの国際親善だ。一つの皇統でこれだけ続いている家系は欧州にもなく、他国の王室からは特別な家系だと敬意を表されている。陛下のご活動は外国でも国内でも同じ。常に変わらず一人ひとりの邦人に丁寧に声をかけることに特別の意味があると感じた」と語った。

三千年の歴史と伝統を保持する萬世一系の天皇の御稜威・御徳が、世界各国との友好そして世界平和に大きなお役目を果たしてきたのである。

「陛下の象徴天皇としての歩みについてどう感じていますか」といふ記者の問ひに対して福田氏は、「『天皇陛下は御簾の中で祈っていればいい』という意見もあるが。それは暴論だ」と答へた。

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2021年1月 9日 (土)

千駄木庵日乗一月八日

今日は本格的な仕事始めのような日でした。『伝統と革新』の原稿執筆依頼、インタビュー依頼の手紙を何人かの方々にお出ししました。以前と違って緊張感を持って手紙を書いたりすると、すぐ疲れを感じ眠くなります。心臓病の薬の副作用かと思います。

来週は「萬葉古代史研究会」があるのですが、豊島区立の施設がコロナ禍により使用できないので今月は休会となりました。残念です。

世の中が正常に動かず、会合も中止になったりするのもさみしいことですが、体調のすぐれない私にとっては、むしろ有難いことかもしれません。一月は無理をせず、ゆっくりと仕事を進めたいと思っております。

不義理を重ねることがあるかと思いますが、お許しくださいませ。ともかくこの一年はゆったりとした気持ちで努力いたしたく思ってゐます。

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2021年1月 7日 (木)

民放こそ放送を自粛すべきである。

民放は、相変わらず夜遅くまで馬鹿面下げたタレントがエヘラエヘラ笑いながら騒いでいる。医療関係者が苦労し、入院も出来ない人たちが増え続け、さらには営業も出来ない飲食店も増えている。つまり国民は大変な状況に陥っているのだ。しかるに何時も同じ馬鹿タレントがテレビで騒ぎまくっている。こんなことは許されないと思う。民放こそ放送を自粛すべきである。

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2021年1月 6日 (水)

今日思ったこと

会食・ゴルフ・女性との交歓を楽しみにしてゐる政治家も多いと思います。すべて無くすのは困難です。北朝鮮・共産支那のように銃殺か収容所送りにするしかありません。

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2021年1月 5日 (火)

メディアや野党の反行政・反自民の大騒ぎ・揚げ足取りには怒りを覚えうんざりします

小生の入院生活では、心臓病などの治療と看護で医師看護師の方々にご苦労をおかけしました。それとは比較にならないかもしれませんが、新型コロナと最前線で戦ってゐる医師・看護師そして介護職員の方々は本当に大変だと思ひます。きちんとした報酬と休養が保障されなければなりません。

メディアや野党の反行政・反自民の大騒ぎ・揚げ足取りには怒りを覚えうんざりします。それよりも、行政・政治家そして我々国民一人一人の自覚と行動が大切と思ひます。

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2021年1月 4日 (月)

千駄木庵日乗一月四日

本日は、今年はじめての室内本格的清掃。

午後は、原稿執筆。たとえ外出することが無理でも家にいて原稿を書いたり、資料検索、勉強ができるのはまことに有難いことです。

ただ小生と同年代の同志・友人が、お子さんやお孫さんに囲まれて正月を過ごされているのはまことにうらやましい限りであります。私も結婚しておけばよかった。今頃になってしみじみと実感してゐます。

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後鳥羽上皇・後醍醐天皇の偉大さ


和歌は天皇統治と一体である。天皇統治は覇道ではない。そこが武家政治との根本的相違なのである。

後鳥羽上皇はきわめて多芸多才で、管弦、蹴鞠、雙六から相撲、水練、弓、飛越、刀剣鍛錬など、あらゆる分野といってよいほどの能力を持っていた。中でも和歌に強く関心を持たれ、天賦の才能を示されていた。

和歌は単に趣味や芸能の一分野というだけでなく、『古今和歌集』の序に「民の心を和らぐる道」とあるように、国を平和に治める手段でもあったのである。このような性格を持つ和歌を通じて慈円が後鳥羽上皇に近づき得たことは、慈円や九条家には重要な意味を持つといえよう。

後鳥羽上皇は、武家政権を打倒し日本全体を実質的に支配しようという意欲に燃えていた人物であると言うのは間違いである。天皇統治の國體回復を願われたのである。

源頼朝の没、二代将軍頼家の暗殺と、幕府が揺れ動く状況を見て、討幕の方針を固めていった上皇は、承元元年(一二〇七)、白川に最勝四天王院を建立した。そしてこの寺ではやがて幕府打倒の祈りが行なわれるようになった。慈円は上皇に対し、討幕の考えを改めるよう何度も申しあげたようであるが、上皇は聞き入れられなかった。

苦悩した慈円は、天皇家が幕府と協力すべきこと、その上で九条家が天皇を補佐してよい政治が行なわれるであろうことを文章にしている。これが『愚管抄』なのである。

武は幕府のよって立つところであるから、実朝は武の道の練磨に留意し、あわせて文の精進につとめて、征夷大将軍としての修養に専念したはずである。その一方で彼は、京風文化にたいそうな執心をもち、徐々に皇室についての認識を明確にし、彼の心中に後鳥羽上皇を中心とする皇室への忠誠という尊皇思想がかためられていったと思はれる。

詠歌にゆだねて皇室に対する丹心をあらわすのであった。「太上天皇御所下預時歌」三首のうちの一首

「山はさけ海はあせなむ世なりとも 君にふた心わかわらめやも」

この御製は、建保元年(一二一三)十二月に成立した『金塊和歌集』に収まる。この一年前、実朝が鎌倉に大慈寺(廃絶)を建立し始めたとき、その目的は、やはり「君恩父徳」に報謝するためであった。

京風文化にのめりこみ、朝廷への至誠を色濃く出せば、それに反比例して実朝は、幕府の首長でありながら次第にその重臣たちと疎隔となり、幕府とは遊離していく。

楠公崇拝はその絶対尊皇にある。天皇を現御神と仰ぎ絶対の信をよせることが日本の臣道ということである。

『太平記』四十巻の中で、近世の人々が最も感動深く読んだものは、正成の活動と忠誠とであった。正成が天皇の御召しを受けて参上し、力強く決意を申上げたこと、千早の険に拠って、北条氏の大軍を向こうにまわして、奮戦し建武中興の糸口をつくったこと、七生報国の志を残して、湊川で戦死したことなど、正成が死生を超越し、一意至誠をもって天皇に捧げた純忠の精神は、読む人に深い感動を与え、正成への憧憬と、その志をうけつごうとする決意とを生み出したのである。

多くの人々の正成に対する感激に決定的方向を与えたのは水戸光圀である。『大日本史』において、吉野の正統を主張した。湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」という碑を立てた。

天和二年(一六八二)に亡くなった山崎闇斎の学問の流れを汲んだ若林強斎が、その書斎を望楠軒といって、楠公を崇拝する気持ちを明白にし、正成が「仮にも君を怨みたてまつる心おこらば、天照大神の御名を唱うべし」と申したということに感じて楠公崇拝の心をおこした、と伝えられている。強斎は、このことばが「わが国士臣の目当」であると考え、正成を日本人のり想像として仰いだのである。

楠公崇拝はその絶対尊皇にある。天皇を現御神と仰ぎ絶対の信をよせることが日本の臣道ということである。

後醍醐天皇が吉野に移られてから二年有余、ひたすら京都を回復し国家中興をはかろうとされた雄図実現の途(みち)は遠かった。

 都だにさびしかりしを雲晴れぬよしのの奥のさみだれのころ

 ふしわびぬ霜さむき夜の床はあれて袖にはげしき山嵐のかぜ

 霜の身を草の枕におきながら風にはよもとたのむはかなさ

 あだにちる花を思ひの種としてこの世にとめぬ心なりけり

『新葉集』に載せられた天皇の御製であるが、後醍醐天皇は、非運の中に御年五十二歳で崩御せられた。延元年八月十六日のことである。

『太平記』には、天皇の最後のお言葉を記して、「たゞ正々の妄念とも成るべきは、朝敵をことごとく亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり」「玉骨はたとへ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕(四註・宮城の北門。上奏謁見をする人が出入りする門。転じて、宮城。皇居。禁中。内裏(だいり)。) の天を望まむと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非ず」と仰せになった。

天皇践祚(四註天子の位につくこと。先帝の崩御、または先帝の禅(ゆず)りによって、皇嗣が皇位を継承すること。古くは践祚と即位の区別はなく、新帝に神器をたてまつる儀式と、天下万民に公示する儀式が行われたが、後にはこの両儀が日を隔てて行われるようになり、前者を践祚、後者を即位式として区別するに至ったと承る)から崩御の日まで、わが国中興の理想を抱きつづけて、生涯をつらぬかれた。この一貫した御信念のもとづくところは、歴史に根ざす国柄であり、神器に対する御確信からであった。

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萬葉叙景歌の真価

萬葉叙景歌の真価は、その生命把握の純粋さ、永遠の信仰にある。ものの本質を貫き通す永遠の生命に参入刷る境地が古代日本人の信仰精神である。そしてそれは、自然を神として拝む心であり萬葉叙景歌の一大特質である。

山口悌治氏はこのことに関して、「萬葉の偉大さは、単にその歌の格調にあるのではなくして、主観客観を超えて貫流生動する一体的生命観、それをまたそのままに純粋に甘受し表現し得た、清純にして無雑なる生命感覚の余すところなき燃焼度にあるのである。」(『萬葉の世界と精神』)と論じてゐる。

 天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀国家日本とやまと歌とは切り離せない関係にある。特に、叙景歌は、日本祭祀国家日本の形成発達と一体の関係にあった。

高崎正秀氏は、「隨唐との接触は国家意識の自覚を高め、急速に大倭宮廷の内部を固め、その国造県主たちへの統轄力を強化し、天子が国内を巡狩遊遊ばすといふ事が頻繁を加へる様になった。宮廷詩人伶人は之に従駕し、至る処目新しい自然に接し、感激に浸りつつ、帝徳礼讃の歌を作った。それには行く先々の行宮の為に室寿(ムロホギ)の寿詞(ヨゴト)を奏し、その景勝の地たることを謳歌せねばならぬから、これが自然描写の歌を発達せしめることに与って大きな推進力となったことは疑ふべからざる処である。」(『和歌史上の女性』)と論じてゐる。

支那朝鮮とわが国との交流接触に原因するわが国の国家意識の高まりは、天皇を君主祭祀主と仰ぐ祭祀国家日本・信仰共同体日本の確立であった。これは日本国が真の意味における「平和国家」「宗教国家」であることを証しする。その基礎に祭祀と和歌があるのである。それは今日においても何ら変わってゐない。

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2021年1月 2日 (土)

「國見」は天皇統治において重大意味を持つ祭祀

天皇が行い給う「國見」とはただ単に景色を眺めるのではなく、天皇が國を見渡して五穀の豊饒と民の幸福をお祈りし祝福する祭祀行事である。

「見る」という言葉にはきわめて信仰的な深い意味があるのである。「目は口ほどにものを言い」という言葉もあるごとく、「見る」は対象物を認識する上で大切な行為である。天皇統治の事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)といふ。荒木博之氏は、「上代人にとって<見る>とは『対象物の神性に感応し、その対象物を飽かず見ることによって、その神性をその清浄さをおのれが本性にとりこむこと」(日本人の心情論理)と解した。この論を引用して大原康男氏は「<見る>は…単に空間とかかわる視覚に尽きるものではなく、そこには鎮魂儀礼の要素が含まれている…」(『現御神考試論』)と論じている。

感覚器官の中でもっとも発達し精密で大事なのは視覚だと言われる。人間は視覚を通して外界をとらえ、環境に適応する。視覚以外のことについても「見る」という言葉が使はれる。「味を見る」「触って見る」「匂いを嗅いで見る」「試して見る」という言葉を使う。

聴覚を表す言葉に視覚を表す言葉が使われる。たとへば「明るい声」「明るい音」「暗い響き」「黄色い声」である。このように、我々の感覚は常に視覚が優越している。それが言語表現にも及び、視覚の上に立った描写の言葉がよく用いられる。事物をありありと描き出すための手法として視覚の言葉が用いられる。

「見える」という言葉を使った歌が『萬葉集』には多い。『萬葉集』における「見る」という言葉も、単に視覚的な意味ではない。柿本人麻呂に、「天ざかる夷(ひな)の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」という歌がある。瀬戸内海を西の方から航行し明石海峡に来たら、故郷の山々が見えたという感激を詠んだ歌。これは単に「見えた」というだけでなく「故郷に近づいた」という感慨を歌った。また、柿本人麻呂が、浪速の港から西の方に向かって航行していく時の歌に「ともし火の明石大門(あかしおほと)に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」というのがある。明石海峡を越えていくと自分の故郷である葛城山系が見えなくなるという歌である。このように「見る」ということが非常に大事に歌われている。

天智天皇が崩御された時に、倭媛大后は、「天の原ふりさけ見れば大君の御命(みいのち)は長く天(あま)足らしたり」「青旗の木幡の上を通ふとは目には見れどもただに逢はぬかも」「人はよし思ひやむとも玉かづら影に見えつつ忘らえぬかも」とお詠みになった。三首とも「見」という言葉が用いられている。

天皇が神聖なる天香具山に登られて「國見」をされることは、天皇が行われる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀であり、天から降臨された聖なる資格を持つ現御神天皇が、天香具山といふ天から降った聖地に立たれて、国土の精霊や国民を祝福し繁栄を祈られる「まつりごと」である。

また「国見」とは、新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國土が若々しい命を回復し豊かな稔が約束されるのである。天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。
つまり、「國見」は大嘗祭と同一の意義があり、現御神たる天皇が天の神から命じられた國土に稲穂を豊かに實らせるという最大の御使命を實現する天皇の統治にとって重大な意味を持つ祭祀なのである。

昭和五十四年十二月四日、聖帝・昭和天皇は奈良県に御行幸あらせられた。翌四日、萬葉學者・犬養孝氏の御案内で、高市郡明日香村の甘橿丘にお登りになり、大和盆地を双眼鏡で一望された。この時、犬養氏は、この舒明天皇の御製など五首を朗詠した。犬養氏が「昭和の國見ですね」と申し上げたら、昭和天皇は声を立ててお笑ひになったと承る。そして、次のような御製を詠ませられた。

「丘に立ち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ」

昭和天皇は、昭和五十九年十二月、再び奈良県に御行幸になり、翌昭和六十年の新年歌會始に「旅」という御題で賜った御歌が、

「遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく」


である。

稲作國家日本の國民生活は旱魃や洪水などの自然環境によって大きく支配される。したがって、集団の統率者は常に祭りを行って、自然の恵みを願い、豊作を感謝し、そして自然災害が起こらないように神に祈る祭祀を行うことが大きな使命であった。故に、祭祀は、天皇の重要な御使命であった。天皇の政治と祭祀とは一体であった。これを<祭政一致>という。

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お詫び

昨年末に体調を崩したため、思うように賀状が書けませんでした。そのため、元旦に大変多くの方々から賀状を賜りましたが、小生がお出ししてゐない方々多く大変申し訳なく思っております。事情ご賢察賜りまして、お許しの程、伏してお願い申し上げます。

皆様方の本年のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

四宮正貴合掌

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2021年1月 1日 (金)

萬葉古代史研究會


四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。
 
日時 一月十三日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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今のメディアは狂っている

大臣を経験した政治家が、なだ万で食事をしようと、千疋屋の果物を食べようとどうでもいいことだ。何でそんなことを問題にするのか。今のメディアは狂っている。

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