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2020年10月 3日 (土)

『百人一首』は和歌文學史上重大な意義を持つ

『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家であり歌人である藤原定家が、小倉山の山荘で選んだとされる百首の私撰和歌集である。戦國時代から江戸初期にかけて宮中・諸大名家で「かるた」として普及し始め、木版画の技術が発達すると元禄時代頃から絵入りの「歌がるた」の形で庶民に広まった。

以来、今日まで長い間、上は朝廷から下庶民に至るまで愛好された歌集が『百人一首』である。日本人が和歌といふ文藝をいかに愛して来たかが分かる。和歌といふ定型文藝が、日本人の感性・生活感覚に合致してゐるといふことであらう。

濱口博章氏は次のやうに論じてゐる。「現在、わが國の古典文學といえば、誰しも『萬葉集』『源氏物語』などの作品を思い浮かべるであろうが、高等教育の普及した当節でも、これを原文で読み味わうことは困難で、況や江戸時代の庶民となれば、思い半ばに過ぎるであろう」「契沖や真淵のようなすぐれた研究者が輩出しようとも『萬葉集』は一般人にとって縁なき存在で……これに引き換え、百人一首は全く大衆のものであった。目に一丁字のない庶民ですら、百人一首の二つや三つはそらんじていたであろう」「『古典』とは、人々によく知られ、後人の典型となるべき価値の定まったものと定義するならば、百人一首こそ『國民の古典』の名に恥じないもので、まさに『庶民の文學』というべきであろう」「百人一首は『かるた』によって一般大衆の間に流布していった。その結果、和歌に対する理解を深め、人々に培われて情操教育の材料となり、長く『美の心』を養って来たのである。これは他のいかなる文學作品にも見られない大きな特徴で、百人一首こそ真に『古典』と呼ぶにふさわしいものであろう」(『江戸庶民にとっての百人一首』)。

和歌は、時間的には古代人から現代人、空間的には上御一人から庶民までの「こころ」一つに結ぶ働きがある。日本人の思想精神を正確にあるがままに自己にものとするには、人々の心情・まごころに直結することが大事である。それは、古代から現代に至るまでの日本人のまごころを歌ひあげた『和歌』を學ぶことによって可能となる。

『百人一首』がわが國和歌文學史上重大な意義を持つのは、特に和歌を學ぶ人ではなく、一般庶民に自然に和歌を親しい存在にしたことである。

加太こうじ氏は、「『百人一首』をするのは小學校六年生ぐらいからで、十五、六歳から二十歳ぐらいにかけての若者が、明治中期から昭和初期にかけて熱中した。…百人一首の和歌は相聞歌=戀歌が多い。その戀歌は文學的情緒と相まって初戀の雰囲気をかき立てた。それ故当時はどこの町内にも百人一首のサークルがあって、」(『東京の原像』)と書いてゐる。

私は東京下町育ちの戦後っ子であり、いはゆる団塊の世代であるが、双六遊びや普通のカルタ取りをして遊んだが、『百人一首』は全くしたことがない。しかし、わが母は、私と生まれ育った町で生まれ育った東京下町生まれであり、『百人一首』をよくしたといふ。母は今でも『百人一首』に収められた歌を暗唱してゐる。

戦後になって、特に占領軍が禁止したと言ふわけでもなからうが、『百人一首』は衰退したといへるかもしれない。近代短歌ですら「第二藝術」「病人文學」「奴隷の韻律」などと批判されたのだから、『百人一首』が忘却されかけたのは当然かもしれない。それは、決して革新でも進歩でもなかった。ただの破壊であり断絶であった。

しかし、『百人一首』は全く廃れたといふことはなく、継承されて来た。最近は復活してゐる。『百人一首』を各家庭で復興させることにより、青少年たちが日常生活の中で感覚的に日本の古典・日本傳統美を理解することができると思ふ。

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