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2020年10月 4日 (日)

天皇及び皇室はわが國の文化・宗教の中心であり続けた

萬葉時代後期から中世初頭までのいはゆる王朝時代は、武による天下支配ではなく、祈り・祭祀による天下統治であった。その主宰者が天皇であらせられた。天皇は常に五穀豊穣と民の幸福を祈られる祭祀主である。そして祭祀と和歌は一体であった。故に和歌文學は、天皇・皇室を核として傳承されてきた。

承久三年(一二二一)の「承久の変」が終はり、これを機として幕府勢力がますます強大になり、朝廷を圧倒するやうになった。「承久の変」の後、北條泰時が入京すると、後鳥羽上皇は『院宣』を泰時に傳へさせられたが、その中に「大小の事、申請に任せて聖断あるべし」といふ文言があったといふ。朝廷の「まつりごと」は、幕府の申請通りに行ふといふ意味に解せる。つまり一君萬民の國體が隠蔽されたのである。

日本天皇及び皇室は、武力・権力によって國民を支配してゐたのではない。日本天皇は「一天萬乗の君」と讃へられ、上御一人・現御神と仰がれながらも、多くの天皇は、時の権力者即ち藤原氏や武家政権によって制限を加へられ、時には離島に流されたまふこともあった。「日本の歴史は天皇受難史であり、皇室哀史である」と言った人もゐるほどである。

日本天皇は「あめのしたしろしめしたまふすめらみこと」と讃へられるが、後醍醐天皇は

「さしてゆく笠置の山をいでしより天が下にはかくれがもなし」

といふ御歌をのこされてゐる。

しかし、建國以来三千年、一系の天子即ち日本天皇は、日本國の中核として君臨されて来た。覇者である足利・北条・徳川政権は滅びても、天皇及び皇室がわが國の文化・宗教の中心であり続けた。これがわが國柄の有難くも不思議な事實である。わが國は武力・権力が支配する覇道國家ではない何よりの証左である。

保田與重郎氏は次のやうに論じてゐる。「今日我々が文藝の志を以て共感する永遠の理想は、つひに後鳥羽院から連綿として、中頃の吉野の天子たちをへて、ずっと宮廷にあったのである。日本の國と民と、さうして血統と神の永遠の誓ひの歌は、花鳥の風詠と竝行して、宮廷の九重の奥で、しかも一等高い自信でつねにくりかへされてきたのである。それは後鳥羽院、順徳院から、龜山上皇、後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇とへて、次は後醍醐天皇のもとに南山の憂國悲憤の歌となる。この最も高遠にして永遠な男子の志を展く歌は、維新行動志士によって民衆の歌となったのである」(『後鳥羽院』)。

「おく山の おどろが下も ふみわけて 道ある世ぞと 人にしらせむ」

と詠まれ、「道ある世」の回復を図られた後鳥羽上皇の大御心は、歴史の底流即ち、おどろが下に脈々と流れ続けた。その重大な一つの流れが和歌の継承である。藤原定家の『百人一首』編纂はその大きな事績である。

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