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2020年9月 8日 (火)

御寺(みてら)泉涌寺(せんにゅうじ)について

後堀河天皇御製


「山の端を 分出(わけい)づる月の はつかにも 見てこそ人は 人をこふなれ 」

「くりかへし 賤(しづ)のをだまき 幾度も とほき昔を 戀ひぬ日ぞなき」

(『新勅撰和歌集』)

第八十六代・後堀河天皇は、高倉天皇の第二皇子。第八十二代・後鳥羽上皇の御兄君であらせられる守貞(もりさだ)親王(後高倉院)の第三皇子であらせられる。つまり後鳥羽上皇の甥にあたられる。

「承久の乱」の後、立太子礼を経ずして、仲恭天皇廃位後、同日の承久三年(一二二一)年七月九日御年十一歳で践祚。貞永元(一二三二)年十月四日、まだ御年二歳の第八十七代・四条天皇に譲位され、院政を行はせられた。

しかし、後堀河天皇はそれから二年足らずの、天福二(一二三四)年八月六日に御年二十三歳で崩御された。崩御が急だったため、かつて後堀河天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといはれる。この中世時代は、戦乱の時代であり、無念の死を遂げた人や僻地に追放された人が多かったので、怨霊とか生霊の祟りを恐れる人も多かったと考へられる。

後堀河天皇は、皇室の伝統を尊ばれ、和歌・文学を好まれたと承る。また、『新勅撰集』撰進を命じられ、藤原道家、藤原教実、藤原定家らが、文暦二(一二三五)年完成された。

後堀河天皇の御陵墓は、京都市東山区今熊野の泉涌寺にある観音寺陵である。

御寺(みてら)泉涌寺(せんにゅうじ)は、東山三十六峰の一嶺,月輪(つきのわ)山麓にある。皇室の御菩提所(御香華院と申し上げる)であり、諸宗兼学と道場と言われる。

弘法大師が天長年間、この地に草庵を結び、法輪寺と名付けた。順徳天皇御代の建保三年(一二一八)、月輪大師といふ僧侶が大伽藍を造営した。この時、境内に泉が涌き出したので、寺号を泉涌寺と改めたといふ。

このお寺は、朝廷の尊信が篤く、後鳥羽上皇、順徳天皇、後高倉天皇は、月輪大師によって受戒された。仁治三年(一二四二)、第八十七代・四条天皇の御陵が泉涌寺に造営された。

「承久の変」の後、後鳥羽上皇の皇孫であらせられ、順徳天皇の第一皇子であらせられる第八十五代・仲恭天皇が、「承久の乱」の後わずか七十八日間で鎌倉幕府の意向により廃位された。そして、後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒の御意に反対の立場であられた御兄君・守貞親王の皇子が皇位につかれた。第八十六代・後堀河天皇であらせられる。

そして、後堀河天皇はまだ御年二歳の皇子に譲位された。第八十七代・四条天皇であらせられる。しかし、御在位十年、御年十二歳の砌、四条天皇は、御所で誤って転倒されたことが直接の原因になって崩御。前述したとおり、突然の崩御を不可思議に思ふ者が少なくなかったやうで、巷間、後鳥羽上皇の生霊の祟りによるとの噂が立った。四条天皇の御製はのこされていない。

洛中洛外、南都北嶺の諸寺院は、四条天皇の御葬儀に奉仕することを拒んだ。「承久の変」に敗れた、後鳥羽上皇、順徳天皇をお慕ひし、鎌倉幕府の専横に反感を持ってゐたからであらう。そのやうな時、四条天皇の御葬儀奉仕を承ったのが、泉涌寺であった。その御縁で、以後、泉涌寺が朝廷の尊崇を得ることになったとされる。(中村尚勝氏の泉涌寺製作『皇室の御寺泉涌寺』所収論文参照)

御寺泉涌寺の総門を入り、参道を歩み行くと、左側に「拝跪聖陵」と刻まれた石標がある。この文字を讀むと歴代天皇を仰慕する国民の心が籠められてゐると感じ、自ずから粛然とした気持ちになる。

慶長年間に、内裏の御門をお移しした大門を入ると少し下り坂になる。その彼方に仏殿が見える。実に清らかにして美しい眺めである。歩み行くと右側に寺号の起源となった「泉涌水」といふ湧水がある。

仏殿は、寛文七年(一六六八)、德川四代将軍家綱の再建である。釈迦、弥陀、弥勒の三尊が祀られてゐる。

仏殿の奥の霊明殿には、天智天皇から明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后に至るまでの歴代の御尊牌が奉安され、一山あげて朝夕ご冥福と国家の安穏が祈られてゐるといふ。何故、天智天皇からなのか分からない。

現在の霊明殿は、明治十五年(一八八二)十月炎上の後、同十七年明治天皇によって再建された尊牌殿である。

霊明殿の奥に、御座所(天皇が参拝に来られた時の御休息所)がある。霊明殿が再建された時に、明治天皇の思し召しにより、京都御所の御里御殿が移築され造営されたと承る。

昭和天皇は、昭和四十二年に、泉涌寺に行幸あそばされた時、御座所の御庭をご覧になり、

「春ふけて 雨のそぼ降る 池水に かじかなくなり ここ泉涌寺」

と詠ませられた。

なほ、終戦までは、泉涌寺の伽藍の補修、維持については宮内省の責任とされてゐた。ところが、戦後に押し付けられた『占領憲法』の「政教分離」の規定により、行政機関が直接神社仏閣に資を供することが禁止されたため、檀信徒を持たない泉涌寺の維持は極めて困難となった。ただ、わずかに、皇室内廷の御下賜金が唯一の拠り所であった。この時、伊勢の皇大神宮、橿原神宮、御寺泉涌寺を聖地とする解脱会といふ信仰団体が、霊明殿尊牌への奉仕と泉涌寺維持への協力が行はれるやうになった。

さらに、昭和四十一年、三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、民間篤志の人々が「御寺泉涌寺を護る会」が結成された。

霊明殿の東の奥に、月輪陵(つきのわみさぎ)・後月輪陵(のちのつきのわみさぎ)が鎮まりまします。四条天皇より、後水尾天皇から仁孝天皇までの二十五の御陵、五御灰塚、九御墓が営まれている。全部の御陵域を合わせても五一五七平方メートル(約千五百坪)という狭い所である。まことに畏れ多き事である。

ここに鎮まる天皇・皇族の御葬儀は、泉涌寺長老が御導師をお勤め申しあげ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされていると承る。唐門が美しい。

泉涌寺発行の『御寺泉涌寺』といふ案内書には、「月輪、後月輪陵も、わずかな御境域内に二十五陵、五灰塚、九御墓が鎮まっておられ、天皇陵は九重の石塔を、皇妃陵は無縫塔(むほうとう)を、親王墓は宝篋印塔(ほうきょういんとう)を立てただけで、深草北陵と共に心なき身にも、万乗の君と仰がれ給うた天皇が、幕府・権力者の非道に喘ぐ国民の上を思召されてかのような薄礼に甘んじられたことに無上の感激を覚えざるを得ない」と記されてゐる。

徳川家康及び江戸幕府歴代将軍の霊廟が、日光東照宮や久能山東照宮、そして上野寛永寺、芝増上寺などに豪華に造営されてゐることを思ふと、幕府の朝廷軽視、不敬が実感されるのは止むを得ない仕儀である。

月輪陵の背後の東山をのぼり行く。静寂の世界。鳥の聲のみが聞こえる。坂の左手に、後堀河天皇観音寺陵が鎮まりまします。御陵の清らかさを実感し、のこされた御製を拝すると、怨霊・生霊の祟りで崩御されたなどといふことは、全く嘘であると実感する。


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