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2020年9月22日 (火)

明治時代以後における尊皇攘夷運動

幕末に於いて、維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』で半国家・半植民地と化した日本が、「完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。

天皇を中心とした日本国を欧米列強の侵略支配から祖国を守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であった。それが尊皇攘夷の精神である。しかし、明治維新後に於いても、「不平等条約」が存続し、日本は西欧列強と対等の立場に立っているわけではなかった。それとどころか、文明開化に美名のもと、日本は欧化の風に侵された。

明治維新の理想を実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。そしてそれは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いであった。

民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。

近代日本というか明治新政府は、「脱亜入欧」「文明開化」「富國強兵・殖産興業」の道を突き進んだ。つまり、欧米の文化・文明を取り入れて日本を近代化し、國を富ませ、軍事力を強固にし、生産を増やし産業を発展させることを目指したのである。

明治初期に岩倉使節団に参加して欧米を視察した政府高官たちの基本的観念には、第一に、欧米の文明に対する高い評価があり、第二に、アジアに対する蔑視とは言わないまでも欧米に比較してアジアは未開であるという認識があり、第三に日本の発展は、アジアから脱して欧米に入ることによって達成されるという考え方である。そして大久保・岩倉などは、その能力がわが日本にはあると確信した。これはまた、『五箇条の御誓文』の「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」という大御心に沿うものであると考えたのであろう。
 
大久保利通は、明治七年に書いた『殖産興業に関する建議書』には、「必ずしも英國の事業に拘泥して、之を模倣す可きにあらずと雖も、君民一致し、其國天然の利に基き、財用を盛大にして國家の根抵を固(かと)ふするの偉績に至りては、我國今日大有為の秋に際して宜しく規範と為すべきなり、況や我邦の地形及天然の利は、英國と相類似するものにあるに於ておや、……」と記している。わが國と國柄および天然自然条件が類似する英國を規範として殖産興業につとめるべきであるという主張である。 

東洋の伝統を否定あるいは軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線は、反対者によって『西洋覇道路線』とも名付けられる。そしてこの路線は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。

さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。マルクス主義などの西洋革命思想による日本の変革運動がそれである。

こういった近代日本の体制側・反体制側に共通する「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。明治第二維新運動では、西郷隆盛、江藤新平、島田一郎などが命を捧げたが、未完に終わった。

その精神と行動を継承する在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動である玄洋社は、明治十四年二月、福岡に創設された。「皇室を敬体戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の三箇条を憲則に掲げた。

明治二十一年に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、そしてそれに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。    

そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的原因にも関わる今日的課題なのである。

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