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2020年9月 2日 (水)

「中国」という名称の国は存在しない

 日本と「中国」との友好ということが言われ、かつて日本が支那大陸に進出して戦ったことを「日中戦争」などと言っている。

 しかし、支那という地名はあるが、「中国」という名称の国家は地上に存在しないし歴史的にもこれまで存在したことはない。現在、支那大陸に存在しているのは「中華人民共和国」と称する共産主義国家を標榜する独裁政権である。

 また日本は「中国」という国と戦争したことはこれ迄ただの一回も無かった。日清戦争は言うまでもなく日本と「清国」との戦争であり、支那事変や大東亜戦争の時に戦った相手は蒋介石軍であり毛沢東軍であった。この二つの軍隊は支那大陸全土を代表する国軍ではなかった。南京には終始日本に協力した南京国民政府即ち汪兆銘政権があった。

 「中国」とか「中華」は、正式な国名でも民族名でも地名でもなく、文化概念である。ゆえに支那大陸に存在する政権のみが「中国」とか「中華」を名乗る資格があるのでは断じてない。

 日本も自国のことを「葦原中国(あしはらのなかつくに)」と言う。また、江戸前期の儒学者・山鹿素行が赤穂配流中に著した歴史書は『中朝事実』という。中朝とはわが日本のことである。つまり、わが日本国も中国なのである。この書は、「日本は神国なり、天皇は神聖なり」という思想が根幹にあり、後世のいわゆる日本主義思想に大きな影響を与えた。山鹿素行は我が日本こそ文化概念としての「中国」であって、支那は「中国」にあらずとの前提に立っている。  

 渡辺はま子という歌手がおられた。戦前においては、『支那の夜』『蘇州夜曲』『愛国の花』、戦後においては『サンフランシスコのチャイナタウン』『ああモンテンルパの夜は更けて』というヒット曲を飛ばした大歌手である。戦前は支那大陸の戦地の慰問、戦後はフィリッピンのモンテンルパに収容されていた日本人戦犯者の釈放運動に挺身した文字通り<愛国の花>である。ところが渡辺はま子女史の最大のヒット曲『支那の夜』はテレビなどで歌うことはできなかった。「支那という呼称は蔑称であり『中国』といわなければ国際問題になる」というのがその理由であった。日本人の誤った観念がこの名曲を歌ったり聞いたりする機会を奪ったのである。

 支那が蔑称であるのなら、支那そば・東シナ海・インドシナ半島という呼称も蔑称になる。

 支那という呼称をわが国およびわが国民が用いたとて支那及び支那人を蔑視したことにはならない。そもそも何処の国もそして国連などの国際機関も支那のことを支那(China)と呼称している。

 支那とは、秦帝国(始皇帝が周および六国を滅ぼして天下を統一した王朝)の「秦(シン)」の音変化に由来し、サンスクリット語の仏典を漢訳した時から漢字では支那と書くようになった。以来、支那人自身が用いてきた言葉である。だから諸外国も支那と呼称するようになり、英語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語などでも支那と呼んでいる。英語ではChina(チャイナ)と呼称した。支那は歴史的名称であり、わが国も支那と呼称するようになったのである。何故にわが国民が支那を支那と呼称すると差別・蔑視になるのか。

 また、中華人民共和国・中華民国という国は存在していても「中国」という国はこの地球上に存在しないし、かつて一度も存在したこともない。支那大陸に中国という国は存在しないのだから支那を中国と呼ぶことはできないのである。

 わが国は古代より「日本」が国号である。ところが、支那は「五千年の伝統」などと威張ってはいるが、革命が繰り返されて、一つの王朝が継続してこなかった。したがって一つの国号が続かなかった。すぐ思い浮かぶだけでも隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国と実に多く国名が変わった。こんなに国名が変化しているのにわが国に対して「中国と呼ばなければ駄目だ」などと指図する資格はない。

 日本のみが支那と呼んではいけないというのは、呉智英氏が言われるごとく明らかに日本に対する差別である。日本に対してのみ支那を中国と呼ばせるのは、支那が日本を属国と思っているからであり、日本人を西洋人より下に見て、差別し蔑視しているからである。こうしたシナの日本に対する差別観念は中華思想から来ている。

 支那大陸では色々な民族が混在したり融合したりして来たし、種々の国が相次いで興亡を繰り返してきた。それはヨーロッパにおいてギリシアやローマが相次ぎ、種々の民族が混在したり融合して来たのと同じである。
 
和辻哲郎氏は「同じシナの地域に起こった国であっても、秦漢と唐宋と明清とは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国と近代ヨーロッパ諸国とが相違するほどに相違している…ヨーロッパに永い間ラテン語が文章語として行われていたからと言って、直ちにそれがローマ文化の一貫した存続を意味するのではないように、古代シナの古典が引き続いて読まれ、古い漢文が引き続いて用いられてきたからと言って、直ちに先秦文化や漢文化の一貫した存続を言うことはできない。」(『孔子』)と論じられている。
 
支那大陸を統一したといわれる秦、そしてその後の漢の大帝国も、人倫を喪失した権力団体なのであり、「天子」と言われる君主も実質は権力者・覇者であって、とてもわが日本のような天皇を中心にした同一の文化と信仰と伝統をもって統一された信仰共同体・人倫国家ではなかった。強いもの勝ちの覇道(権力・武力・経済力・権謀術数の力)が支那を制したのである。またそうした覇道でなければあの広大な大陸を統一できなかったのだ。

 従って支那大陸に生活する人々は親子・夫婦・兄弟といった家族関係即ち血縁共同体たる「家」を大切にしても、国家観念はきわめて希薄であった。支那の古典『十八史略』に「日出て作り、日入りて息(いこ)ふ、井を鑿りて飲み、田を耕して食ふ。帝力我に何かあらむや」という言葉があるのでも分かる通り、支那大陸に住む人々の生活は家を中心としていて国家の保護や干渉は否定していたのである。それだけ権力者が好き勝手は事をして民衆を苦しめてきたということである。それは今日の共産政権も同じである。
 
第二次世界大戦後、中国共産党の一党専制政治によって、支那大陸全体が一つの国家として存在しているように見えるが、これはむしろ不自然な状態である。支那大陸の共産主義独裁体制が崩壊するのは時間の問題である。そうなったら大陸は、群雄割拠の分裂状態になる。即ち支那大陸本来のあり方に戻ることは目に見えている。少なくとも満洲・北支・中支・南支・チベット・内蒙古・台湾はそれぞれ独立しては別々の国となる事によってしか、支那大陸とその周辺の安定は図られない。「十億以上の民を単独の政権でまとめるのは難しい。上海料理・北京料理・広東料理・四川料理・台湾料理という料理で分けるべきだ」という意見もあるくらいである。

 要するに支那大陸は様々な氏族が覇を競い様々な王朝が興亡を繰り返した来た地域であって、全体が一貫した文化伝統を有する統一した国家ではあったことはなかった。天皇を中心に時間的連続性地域的統一性を連綿として維持し続けてきた信仰共同体国家たるわが日本とは、全くその性格を異にする地域が支那なのである。

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