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2020年9月23日 (水)

荒ぶる神は祭祀によって鎮めることができる

「神」は、人知では計り知れない靈妙なる存在である。日本人は古代より祭祀や祈りの対象とされるかしこき存在を「神(かみ)」と言った。

本居宣長は、日本の神々を「人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云うなり(すぐれたるとは、尊きこと善きこと功(いさを)しきことなどの、優れるたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり…)」(『古事記傳』)と定義してゐる。

日本の自然の神々は、近年はやりの言葉で言へば、想定の範囲以上の激しい力を発揮する畏怖すべき生命であり靈であるといふことである。無限の可能性を持つと言ひ換へてもいい。その無限の可能性は、人間に恩恵をもたらすばかりではなく、時に災ひをももらたすと古代日本人は信じた。今日の新型コロナウイルスの感染拡大はこれにあたると思はれる。

『古事記』の「身禊」の条には、「悪(あら)ぶる神の音なひ、狭蠅(ばへ)なす皆満ち、萬の物の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記され、「天の岩戸」の条には、「高天の原皆暗く、葦原の中つ國悉に闇し。これに因りて、常夜往く。萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち、萬の妖(わざはひ)悉に発(おこ)りき」と記されてゐる。

自然の中に精靈が生きてゐるといふ信仰である。日本民族には、自然を敬ひ、愛すると共に、自然を畏れる素直な心があった。「萬の神の声(おとなひ)は、さ蠅(ばへ)なす満ち」は、文學的には擬人的表現と言はれるが、古代日本人は、嵐の音も、草木の音も、海の音も、素直に「神の声」と信じたのである。

近代以後、科學技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精靈として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替へようなどといふ文字通り神をも恐れぬ考へ方を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。「草木がものをいふ」古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

折口信夫氏は、「我々の古文獻に殘った文學は、しゞまの時代の俤を傳へて居る。我々の國の文學藝術は、最初神と精靈との對立の間から出發した。…神の威力ある語が、精靈の力を壓服することを信じたからである。…神代の物語として,語部(かたりべ)の傳へた詞章には、威力ある大神隱れ給ふ時、木草・岩石に到るまで、恣に發言した。さうして到る處に其聲の群り充ちたこと、譬へば五月蠅(さばへ)の様であったと言ふ。而も亦威力ある大神の御子、此國に來臨あると、今まで喚きちらした聲がぴったりと封じられてしまったとある。神威を以て妖異(およづれ)の發言を封じたのである。」(「日本文學における一つの象徴」)と論じ、『六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓』の「荒ぶる神等をば神問(かむと)はしに問はしたまひ、神掃(はら)ひに掃ひたまひて、語(こと)問ひし磐ね樹立(こだち)、草の片葉(かきは)も語止(ことや)めて、天(あめ)の磐座(いはくら)放れ、天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだ)し依さしまつりき」といふ一節を引用してゐる。

日本民族は、自然に刃向ひ対決し、自然を破壊すると、自然から災ひを受けること体験から學んだ。自然を畏敬し、自然に順応して生活することが大切であることを知った。自然を畏敬し、自然に順応するといふことは、自然の神、自然の精靈たちを畏れるだけではなく、祭祀によって神や精靈たちを祓ひ清め鎮めた。

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千駄木庵日乗九月二十三日

午前は、諸事。

親族来宅。室内清掃。

午後からは、『伝統と革新』編集の仕事。日曜日に行われる『日本の心を学ぶ会』における講義の準備。資料整理。

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深谷隆司氏の正論

 深谷隆司の言いたい放題第863回

 「靖国参拝」

 19日午前、安倍前首相が靖国神社を参拝した。「内閣総理大臣を辞任したことを御英霊にご報告した」とツイッターに書いている。安倍氏の参拝は第2次政権の発足から1年後の平成25年であったが、その後中国や韓国の反発を踏まえ参拝を見送り、今回が7年ぶりとなった。

 中国や韓国の言い分はA級戦犯が合祀されているからということだ。しかし、勝者が裁く東京裁判で戦犯とされたが、日本の国会では国内法による犯罪者ではないと決議しているのだ。

 1985年、中曽根総理が参拝された折、朝日新聞が報道し、史上初めて中国共産党政府が公式に非難を表明した。それまでは一切言及はなく、当然のように歴代首相および閣僚が参拝していたのだ。過去11人の首相が参拝している。

 靖国神社は日本国の為に命を捧げられた人々の霊を慰め、その事績を後世に伝える場所である。本来他国からとやかく言われる筋合いはない。

 韓国ではかつての親日派の墓を暴いて死者に鞭打つことさえしようとしているが、そんな国に迎合することなど全くない。 

 私は閣僚時代何度も参拝をしている。息子は孫を連れて終戦記念日に参拝を欠かさない。神仏に手を合わせ崇敬することは日本人の文化であり、誇りである。何の遠慮もいらない。堂々と参拝し、あわせて世界の平和を祈っていきたい。

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2020年9月22日 (火)

明治時代以後における尊皇攘夷運動

幕末に於いて、維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』で半国家・半植民地と化した日本が、「完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。

天皇を中心とした日本国を欧米列強の侵略支配から祖国を守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であった。それが尊皇攘夷の精神である。しかし、明治維新後に於いても、「不平等条約」が存続し、日本は西欧列強と対等の立場に立っているわけではなかった。それとどころか、文明開化に美名のもと、日本は欧化の風に侵された。

明治維新の理想を実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。そしてそれは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いであった。

民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。

近代日本というか明治新政府は、「脱亜入欧」「文明開化」「富國強兵・殖産興業」の道を突き進んだ。つまり、欧米の文化・文明を取り入れて日本を近代化し、國を富ませ、軍事力を強固にし、生産を増やし産業を発展させることを目指したのである。

明治初期に岩倉使節団に参加して欧米を視察した政府高官たちの基本的観念には、第一に、欧米の文明に対する高い評価があり、第二に、アジアに対する蔑視とは言わないまでも欧米に比較してアジアは未開であるという認識があり、第三に日本の発展は、アジアから脱して欧米に入ることによって達成されるという考え方である。そして大久保・岩倉などは、その能力がわが日本にはあると確信した。これはまた、『五箇条の御誓文』の「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」という大御心に沿うものであると考えたのであろう。
 
大久保利通は、明治七年に書いた『殖産興業に関する建議書』には、「必ずしも英國の事業に拘泥して、之を模倣す可きにあらずと雖も、君民一致し、其國天然の利に基き、財用を盛大にして國家の根抵を固(かと)ふするの偉績に至りては、我國今日大有為の秋に際して宜しく規範と為すべきなり、況や我邦の地形及天然の利は、英國と相類似するものにあるに於ておや、……」と記している。わが國と國柄および天然自然条件が類似する英國を規範として殖産興業につとめるべきであるという主張である。 

東洋の伝統を否定あるいは軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線は、反対者によって『西洋覇道路線』とも名付けられる。そしてこの路線は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。

さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。マルクス主義などの西洋革命思想による日本の変革運動がそれである。

こういった近代日本の体制側・反体制側に共通する「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。明治第二維新運動では、西郷隆盛、江藤新平、島田一郎などが命を捧げたが、未完に終わった。

その精神と行動を継承する在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動である玄洋社は、明治十四年二月、福岡に創設された。「皇室を敬体戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の三箇条を憲則に掲げた。

明治二十一年に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、そしてそれに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。    

そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的原因にも関わる今日的課題なのである。

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千駄木庵日乗九月二十二日

午前は、諸事。

午後は室内清掃。『伝統と革新』編集の仕事。

夕刻は、幼馴染の息子さんと懇談。息子さんといってね四十代の前半の人。

帰宅後は、資料整理。

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第106回日本の心を学ぶ会

第106回日本の心を学ぶ会

神道を考える

神道とは日本列島の気候風土のなかで生まれた伝統信仰です。日本人は自然の中に人知を超えた存在を感じ、祭りを行うことでそういった存在と交流を持とうとしてきました。このような祭りは現在も全国約八万社の神社で一年を通じて行われております。神道と祭祀が日本人の生活と心に大きな影響をもたらしていることは言うまでもありません。

しかしNHKの調査によると自らの信仰を神道と回答した人は全体の2.7%に過ぎず、文化庁が刊行する「宗教年鑑」では信者数は平成の約30年の間に約1600万人も減少しております。現代の日本は地域共同体そのものが過疎化の進行で衰退しつつあり地域共同体を基盤とする神道も同時に衰退しているのかもしれません。20年後には40%の神社が消滅するという指摘もされております。
 さらに新型コロナの流行は神道だけでなく、あらゆる宗教の活動を困難にさせています。近代以前の人々がペストや天然痘などが流行すると宗教に救いを求めていたことを考えると、もはや宗教そのものが現代の人々に必要されていないようにも見えます。

このような社会の変動の中で神道は大きな危機を迎えているのではないでしょうか、最近の神社神道をめぐる様々な事件の続発はそのことの証左に思えます。

日本の精神文化の基本である神道が大きな危機を迎えていることは、同時に日本人と社会の精神もまた大きな危機の中にあるといえます。今回の勉強会では神道について考えてみたいと思います。

(今回の勉強会は文京シビックセンターになります。お間違えないようお願いします。)

【日 時】令和2年9月27日 午後6時から

【場 所】文京シビックセンター 三階会議室B

文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分、都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分、JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9分

【演 題】神道と維新運動・民族運動

【講 師】四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代1000円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

この告知文は主催者が作成しました。

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2020年9月21日 (月)

共産・立憲民主という革命勢力、國體破壊・自由圧殺政治勢力による政権奪取を絶対に許してはならない。

また、偏向メディアや亡国野党は反権力を装っているが、彼らこそ横暴なる権力者であり営利至上主義者である。

何時も思っていることだが、要するに新聞雑誌テレビは、商業であり、営利事業なのである。雑誌新聞の売り上げ増加、テレビ視聴率の向上が目的なのである。だから、ある事ない事センセーショナルに報道するのである。しかも私が許せないのは、営利目的なのに、正義の味方面していることである。朝日新聞・テレビ朝日の反自民、反日姿勢も営業政策である。

偏向マスコミは、自民党政権を何としても打倒するべくキャンペーンを張っている。立憲民主党・社民党・共産党は、反日政党である。歴史と伝統の國日本を破壊することが彼等の最終目的である。

日本が滅びた方かいいと思っている連中が、今や最大の権力となっているメディアを牛耳っている。サヨク政党は、そういうメディアと連携して、権力を握ろうとしているのである。今の自民党と野党連立政権とどちらがマシか、誰が考えても明らかである。偏向メディアや亡国野党は反権力を装っているが、彼らこそ横暴なる権力者である。

共産支那はアジアのおける軍事的覇権とアジア支配体制確立のために対外膨張を激しくさせている。そして、立憲民主の中には、共産社民と同じ思想を持つ輩が多数いる。

ともかく離合集散をり返し、外交・安全・経済・財政・福祉・教育そして肝心の憲法についての何等の政策も理念も政策も示し得ない現在の野党に政権を委ねることは絶対に出来ない。

社民・共産そして立憲民主は、旧ソ連、共産支那・北朝鮮と同根の共産革命勢力である。彼らは、自由民主体制の日本を破壊して、日本を支那・ロシア・南北朝鮮の属国にしようとしているのである。そのために自民党政権打倒運動をしているのだ。

立憲民主・共産・社民の連立政権が出来たら、日本の国防・安全保障が根底から揺らぐ。そして日本は文字通り亡国の道を歩む。何があろうと、野党勢力に国家権力を握らせてはならない。

小沢一郎が、最近都内で開催した「小沢一郎政治塾」最終日に塾長として講義を行い、「11月には社民党も一緒になる予定。共産党は特別扱いとして、野党は1つになる」と明言したという。その上で「これが効果的に機能すれば、間違いなく政権は取れる。(衆院の)任期はあと、1年。1年以内に政権を取る」と語ったという。そして「野党が大同団結して夏の参院選で過半数、次の総選挙で政権を取りたい」と言っていたという。

自民党政権を何としても打倒したいという小沢の自民党脱党時からの「怨念」からの発言であろう。社民・共産・立憲民主という革命勢力、國體破壊・自由圧殺政治勢力による政権奪取実現したいということだ。こんなことを絶対に許してはならない。

そもそもついこの間三つに分裂した勢力をまた大同団結させるなどということ自体実に無責任であり、国民を愚弄するものだ。数多くの政党が連立を組んだ政治がいかに駄目だったかは、細川連立政権が実証した。

志位和夫・蓮舫・福島瑞穂・辻元清美・小川敏夫・長妻昭などという連中が中枢を担う政権が誕生すれば、まさに日本は亡国です。こんな連中が政府閣僚になっている姿を想像するだけでゾッとする。そんな政権より自民党政権の方がましであることは火を見るよりも明らかである。

今の野党に政権を渡してはならない。日本国の政治が混迷し不安定になれば一番喜ぶのは誰かを考えるべきである。日本は支那の属国になり、軍事的政治的支配下に置かれることとなる。経済も福祉も停滞する。治安も悪くなる。ともかく、亡国野党・偏向朝日の企みを阻止しなければなりません。

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千駄木庵日乗九月二十一日

午前は、諸事。

午後は、書状執筆。『伝統と革新』編集の仕事。資料整理など。

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信仰心・宗教心とは、特に日本においては、敬神崇祖の心が基本である

信仰心・宗教心とは、特に日本においては、敬神崇祖の心が基本であると思う。

昨日、新型コロナウイルスの猖獗に伴う我々日本人の反省は、静寂を旨とし森厳を大切なものとしてきた我が国神道精神に回帰することによって実現する。その意味でも全国の神社への参詣と祭祀が大切になってくると考える、と書いた。

少し私の意見を追加したいと思う。神仏に祈りを捧げるために神社仏閣に赴き参拝することは大切である。しかし、神仏に対しては静謐なる祈りと祭りを心がけねばならないと思う。

全国の神社仏閣が、現在大きな祭礼や法要を中止または延期してゐるのはそのためなのであろうか。だとしたらそれは正しい。

私は大分以前から思ってゐたことなのであるが、靖国神社に参拝する国会議員の人々が、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」と名乗っていたことに違和感を抱いていた。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という悪いこと法律違反も大勢でやってしまえば構わないという言葉を連想させるからである。

神仏への祈りと祭祀は集団で行うことも大切である。祭祀を基本とする日本伝統信仰=神道は共同体信仰である。しかしそれは共同体に対する神のお守りを祈念することが根柢にあるのであって、みんなでやらないと批判される咎められるという性格の事では絶対ない。

戦後日本は国民の多くが貧困や病苦に苦しめられていたので、神と佛に健康と豊かさを与えたまえと祈ることは致し方のないことであった。そして戦後宗教はそうした庶民の願いを実現すべく努力した。現世利益とはそういう事であろう。

しかしそれは宗教の本来のそして唯一の目的ではない。やはり、静かに心を鎮めて神を祭り佛に祈ること本来の信仰のあり方であろう。新型コロナウイルス猖獗や戦乱など人類の危機的状況を根本的に打開するためにもそのことは大切であると思う。

私は、信仰心・宗教心とは、特に日本においては、敬神崇祖の心が基本であると思う。日本伝統信仰たる神道そして先祖伝来の宗教を信仰することが大切であると思う。具体的に言えば、地域の産土の神社と先祖代々の菩提寺に眠る祖霊・靖國の英霊への感謝・報恩の心が基本であると思う。その上で。多くの宗教者の説いてきたことを学び、生活に生かすべきであると思います。

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2020年9月20日 (日)

千駄木庵日乗九月二十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理。『伝統と革新』編集の仕事。

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2020年9月19日 (土)

新型コロンウイルスの猖獗に伴う我々日本人の反省


新型コロナウイルスの猖獗は何時までつづくのだろうか。完全に収まるのは不可能だとかもしれない。来年以降も続くと考えねばならい。

しかしこの未曽有の新型コロンウイルスの猖獗がある程度おさまった後、違った世の中が生まれるのではないか。またそうあってほしい。

歌人の大辻隆弘氏は、「アイザック・ニュートンはが万有引力の法則を発見したのは、ペスト禍でケンブリッジ大学が閉鎖されていた時期だった。湯川秀樹博士が中間子理論の端緒をつかんだのは室戸台風で大学が休みの夜だった。世界の見方を変えるような新しい知見は、一見無意味な空き時間から産み出される。若者はそこから何かを確実につかみ出して来る。…必ず、彼らなりの新しい何かを見出して来るに違いない」と論じてゐる。『日経新聞本年【令和二年】五月十七日号』。

現代社会は異様な社会である。金銭と快楽を追い求める人たちが多い。毎日毎日を刹那的に生きてゐる人々そして夜遅くまで遊び呆ける若者たちがうようよしてゐる。テレビ番組を見れは、そうしたことは一目瞭然だ。これは誠に困った現象であった。地球環境の問題も、国際政治の対立も、国内政治の混迷、家庭崩壊もそうしたことが原因なのではなかろうか。

『禍(わざわい)転じて福を為す』という古いことわざがあるように、感染症や伝染病の流行が社会を変え、モラルが向上すれば良いと思う。

保田與重郎氏は「わが國の古神道の祭祀が、静寂を旨とし、森厳を好んだ、…古神道の祭祀が静寂の極致を演出してゐる點は、非常に遥かな悠遠の神代に、我々の遠つ御祖によって、早くもつくり出された文明である。これば實に獨自の文明の相である。我國人の美や情緒の淵源も、この時に發するのである」(『文學』の威厳)と論じてゐる。

新型コロンウイルスの猖獗に伴う我々日本人の反省は、静寂を旨とし森厳を大切なものとしてきた我が国神道精神に回帰することによって実現する。その意味でも全国の神社への参詣と祭祀が大切になってると考える。

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千駄木庵日乗九月十九日

午前は、諸事。

知人来宅。室内清掃。

この後、資料整理。

夕刻、千駄木にて。地元の知人方々と懇談。

帰宅後は、資料整理・原稿執筆。

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吉村寅太郎の遺詠

吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ
吉村寅太郎

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠である。吉野から東吉野村の丹生川上神社中社を目指して行くと、鷲家谷といふところにさしかかる。道路に面して左側に「天誅組終焉之地」と刻まれた石碑が建ってゐる。また、「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠」と題してこの歌の歌碑も建てられてゐる。

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公卿と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携し長州藩の協力を得て「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。これは、孝明天皇が神武天皇御陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現するといふ計画であったといふ。

八月十三日、朝廷より攘夷御親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成され、河内國の村役人らの参加を得て大和國で挙兵した。大和國五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。
 
しかし、「大和行幸・攘夷御親征」は、孝明天皇の御心ではなく、在京諸藩主に反対も多かったといふ。特に會津・薩摩両藩の間で意思統一が行はれ、「大和行幸の詔」は、孝明天皇の御本意ではなかったとして、八月十八日未明、大和行幸の延期が決定された。これにより、攘夷親征の先鋒を以て任じた天誅組は逆に「朝見を憚らず、勅諚を唱へ候段、國家の乱賊にて、朝廷より仰せつけられ候者には之無く候間、草々討ち取り鎮静これあるべく」(朝廷よりの京都守護職への達示)と断じられる存在となり、幕府軍の追討を受けることとなった。

天誅組は、吉野山間を転戦し、悪戦苦闘一か月、残った四十士によって、同年九月二十四日から二十七日にかけて彦根と紀州の藩兵を相手に最後の決戦が行はれ、三総裁以下十五人の志士が戦死した。鷲家谷はこの大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐる。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

吉村寅太郎は、天保八年(一八三七)生まれの土佐國土佐郡津野山郷の庄屋の家に生まれる。城下に出て武市半平太に剣を学び尊攘思想に傾倒する。文久元年(一八六一)土佐勤王党に加盟。文久二年京都に出て、同志と図り尊皇攘夷運動に挺身した。

吉村寅太郎は、天誅組に中心人物の一人として参画した。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受け歩行困難となったが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、駕籠で担がれ東吉野村木津川より山を越え、最後の決戦地・鷲家谷までたどり着いた。

かかる戦ひのさなか、明日をも知れぬ命を思ひ、吉村寅太郎が詠んだ歌が次の歌である。

「曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと」

吉村寅太郎は、文久三年九月二十七日、鷲家谷にて、幕府方藤堂藩兵の銃弾によって二十六歳で最期を遂げた。凄惨なる戦ひが行はれた旧暦九月二十日過ぎと言へば晩秋である。このあたりの山々は見事に紅葉してゐたのであらう。散る間際の紅葉は、戦ひの時に寅太郎が敵を刀で討った時に迸った真紅の血潮の色に見えたのであらう。何とも凄まじい歌、凄惨な歌ではあるが、不思議と残虐さは感じられない。むしろ潔い戦闘精神が感じられる。

寅太郎が脱藩して上京する際、母上が寅太郎に贈った歌が、

「四方に名を揚げつつ帰れ帰らずばおくれざりしと母
に知らせよ」

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に

最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」
を實感させる歌である。

吉村寅太郎は、明治二四年(一八八一)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

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吉村寅太郎の遺詠

吉野山風にみだるるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ
吉村寅太郎

天誅組総裁・吉村寅太郎の遺詠である。吉野から東吉野村の丹生川上神社中社を目指して行くと、鷲家谷といふところにさしかかる。道路に面して左側に「天誅組終焉之地」と刻まれた石碑が建ってゐる。また、「天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠」と題してこの歌の歌碑も建てられてゐる。

幕末の文久三年(一八六三)、三条實美、姉小路公知などの少壮公卿と、真木和泉守、平野國臣、桂小五郎、久坂玄瑞など尊攘派の志士たちが連携し長州藩の協力を得て「大和行幸・攘夷御親征」の計画が立てられた。これは、孝明天皇が神武天皇御陵に御幸されて攘夷御親征を祈願され、軍議を勅裁せられ、さらに伊勢皇大神宮に御親拝され、徳川幕府を打倒し、王政復古を一気に實現するといふ計画であったといふ。

八月十三日、朝廷より攘夷御親征のための「大和行幸の詔」が下った。これに呼応し、その先駆となるべく、中山忠光卿を主将として、藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎ら三士を総裁とする「天誅組」が結成され、河内國の村役人らの参加を得て大和國で挙兵した。大和國五条の幕府代官所を襲撃し、近隣の幕府領を朝廷領とし、年貢半減を布告した。
 
しかし、「大和行幸・攘夷御親征」は、孝明天皇の御心ではなく、在京諸藩主に反対も多かったといふ。特に會津・薩摩両藩の間で意思統一が行はれ、「大和行幸の詔」は、孝明天皇の御本意ではなかったとして、八月十八日未明、大和行幸の延期が決定された。これにより、攘夷親征の先鋒を以て任じた天誅組は逆に「朝見を憚らず、勅諚を唱へ候段、國家の乱賊にて、朝廷より仰せつけられ候者には之無く候間、草々討ち取り鎮静これあるべく」(朝廷よりの京都守護職への達示)と断じられる存在となり、幕府軍の追討を受けることとなった。

天誅組は、吉野山間を転戦し、悪戦苦闘一か月、残った四十士によって、同年九月二十四日から二十七日にかけて彦根と紀州の藩兵を相手に最後の決戦が行はれ、三総裁以下十五人の志士が戦死した。鷲家谷はこの大和義擧最後の決戦が行はれた地である。

「天誅組終焉之地」の石碑の背後、鷲家川を渡った崖下に「天誅組総裁吉村寅太郎之墓」が建てられてゐる。美しい大自然の中で、地元の人々によって手厚く慰霊の誠が捧げられてゐる。

吉村寅太郎は、天保八年(一八三七)生まれの土佐國土佐郡津野山郷の庄屋の家に生まれる。城下に出て武市半平太に剣を学び尊攘思想に傾倒する。文久元年(一八六一)土佐勤王党に加盟。文久二年京都に出て、同志と図り尊皇攘夷運動に挺身した。

吉村寅太郎は、天誅組に中心人物の一人として参画した。高取城攻略の戦ひで弾丸を脇腹に受け歩行困難となったが屈せず、中山忠光主将以下の安否を気づかひ、駕籠で担がれ東吉野村木津川より山を越え、最後の決戦地・鷲家谷までたどり着いた。

かかる戦ひのさなか、明日をも知れぬ命を思ひ、吉村寅太郎が詠んだ歌が次の歌である。

「曇りなき月を見るにも思ふかな明日はかばねの上に照るやと」

吉村寅太郎は、文久三年九月二十七日、鷲家谷にて、幕府方藤堂藩兵の銃弾によって二十六歳で最期を遂げた。凄惨なる戦ひが行はれた旧暦九月二十日過ぎと言へば晩秋である。このあたりの山々は見事に紅葉してゐたのであらう。散る間際の紅葉は、戦ひの時に寅太郎が敵を刀で討った時に迸った真紅の血潮の色に見えたのであらう。何とも凄まじい歌、凄惨な歌ではあるが、不思議と残虐さは感じられない。むしろ潔い戦闘精神が感じられる。

寅太郎が脱藩して上京する際、母上が寅太郎に贈った歌が、

「四方に名を揚げつつ帰れ帰らずばおくれざりしと母
に知らせよ」

である。寅太郎烈士は母上の望み通り、遅れをとらず立派に

最期を遂げたのである。まさに「この母にしてこの子あり」
を實感させる歌である。

吉村寅太郎は、明治二四年(一八八一)、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

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千駄木庵日常九月十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して。『伝統と革新』編集の仕事。

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2020年9月17日 (木)

日本の神々の偉大さと日本の傳統の素晴らしさに感激するほかはない。 

式子内親王御歌

 後白河法皇の第二皇女であらせられる式子内親王は、賀茂神社の「齋院」(賀茂神社に奉仕する未婚の皇女)になられた。式子内親王は實に十一年間の長きにわたって賀茂神社の祭祀に奉仕された。

 式子内親王が、齋院として最も重大な賀茂祭り(陰暦四月中の酉の日)の前日、賀茂神社の北にあるみあれ野というところに仮屋を建て、潔齋のために一夜泊まる儀式をされた日の思い出を歌われた御歌が、

 忘れめや 葵を草に 引き結び 仮寝の野辺の  露のあけぼの
 (忘れようとしても忘れられはしない。葵を草枕の草として結んで、旅寝をする野辺に、一夜が明けてゆく、この露の置く 曙の姿は、というほどの 意。)

 という歌である。初夏の曙の空と、涼しい露に濡れた野の草とが、清々しく神々しい祭事の雰囲気と一つになっていることを感動的に詠んでいる。この御歌は中世の代表的歌集『新古今和歌集』に収められている。

 後白河天皇も御退位の後出家され、式子内親王御自身も落飾して承女法という法名を名乗られた。このように皇室が佛教への帰依を厚くされていた時代であっても、天皇の祭祀及び皇室の祭事は、日本の文化傳統及び信仰共同體日本の中核を成す行事として、絶える事なく続けられていたのである。

 平安前期に制度的に整えられたといわれている皇室祭祀は、佛教の影響を排除した。孝謙・称徳女帝のように大嘗祭に僧侶を参列させたという例外はあるが、基本的には佛教を関与させなかった。大嘗祭の行われる年には、十一月に入ると「僧尼不浄の輩」の参内を許さないという傳統があった。僧尼を不浄とするところに日本の皇室祭祀の純粋性を保とうとする意志が厳然としている。それでいて退位した後出家されて僧となられる天皇様も多くおられたのである。

 また、皇祖神を祀る伊勢の神宮は、傳統的に佛教を拒否し続け、僧尼を忌むという傳統がある。そのため僧形をした者は社殿に近づくことは許されず、さらに五十鈴川を渡ることさえ許さないという規制が行われた。それでいて、戦國時代以来出来なくなっていた伊勢の神宮の式年遷宮の復興のために守悦(後に皇室より慶光院という号を賜る)という僧尼が全國に募金の旅を行い、皇室及び徳川家康が感動し、式年遷宮復興の大きな端緒となった。

こうした事實は、日本の文化感覺に柔軟さと強靱さの両面があることを明確に物語っている。日本という國はこうした不思議さで歴史を刻んできたのである。日本の神々の偉大さと日本の傳統の素晴らしさに感激するほかはない。 

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千駄木庵日乗九月十七日

午前は、諸事。

午後は、室内清掃。『伝統と革新』編集の仕事など。

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見飽きた顔は亡国野党の方だ

菅新内閣に対して野党は相変わらず「見飽きた顔、何時か見た顔、安倍氏のいない安倍内閣」などとイチャモンをつけているが、それでは野党には新鮮さがあるのか。見飽きた顔ばかりではないか。だから何時までたっても政権が取れないのだ。いまだに小沢一郎などというそれこそ見飽きた顔の典型の男が背後で力を持っている。しかも、革命政党、結党以来侵略国家の手先であり続ける日本共産党と共闘するという者共に政権を渡してはならない。

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2020年9月16日 (水)

立憲民主・日共を徹底的に批判しなければならない。

本日の総理総裁交代劇を見ていて、やはり今の野党特に立憲民主・共産両党に政権を担わせることは絶対に不可であることを実感した。

枝野にしても共産党の小池晃書記局長にしても、新政権新総理につまらないケチをつけるだけの記者会見をしていた。

枝野は安倍の負の遺産を受け継ぐだけだと言うが、安倍前総理の後継として政権を担ったのだが負の遺産だろうと正の遺産だろうとこれを引き継ぐのは当たり前ではないか。野党第一党たる立憲民主党は、新政権がこれから何をするのかについて、菅総理の発表した政策について、まともな議論を行うべきである。ただイチャモンをつけるだけでは駄目だ。

立憲民主党こそ、これまで民党・立憲民主党時代の出鱈目な政治、負の遺産を正しく清算すべきである。

小池晃は、わが国が敵基地攻撃能力を持つことに反対してゐたが、これは、我が國そしてアジアを軍事攻撃し侵略せんとする敵性国家を利する発言である。やはり日共は侵略者の手先なのだ。

立憲民主・日共を徹底的に批判しなければならない。

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千駄木庵日乗九月十六日

午前は諸事。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社』幹部会開催。顧問の一人としてスピーチ。二か月ぶりに同志の方々と会う。

帰宅後は、資料検索、原稿執筆の準備など。

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2020年9月15日 (火)

この頃詠みし歌

 

久しぶりに来たりし銀座四丁目鐘は鳴れども人影少なし

 

逆賊逆臣懲らしめることが筆誅と思ひゐる我に力を与へよ

 

暑さ厳しき大空の下ドンチャカドンと楽の音聞ゆる日比谷公園

 

朝日新聞と亡国野党に苛められ病となりし宰相を思ふ

 

今は亡き大いなる人のやまと歌今宵讀みつつ心清まる

 

検察の無慈悲暴力的取調べに遭ひたる政治家は身罷りたまふ(村上正邦氏)

 

中野区鷺宮世田谷区成城に行きしその昔田舎に来たなと思はず口にす

 

農といふ事にはほとんど縁が無く都の隅に理屈こね生きる我

 

激動の歴史を生きたまひしすめろぎのみささぎをつつしみおろがみまつる(孝明天皇後月輪東山陵)

 

登り来し山道の上に清らけく鎮まりおはすみささぎを拝す(同)

 

樹齢二百年の巨木が二本倒れしと古社の宮司は歎きたまへり

 

型通りのことを為しても生きてゐる甲斐はあるまじ日々(にちにち)を心尽してことを為しゆかん

 

朝起きて神前で唱へる天津祝詞日の大神のつつまれる幸

 

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千駄木庵日乗九月十五日

午前は、諸事。

親族来宅。室内清掃。

この後、原稿執筆の準備、資料検索・整理など。

夕刻、近所の方々と懇談。

帰宅後も仕事。

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第106回日本の心を学ぶ会


第106回日本の心を学ぶ会

神道を考える

神道とは日本列島の気候風土のなかで生まれた伝統信仰です。日本人は自然の中に人知を超えた存在を感じ、祭りを行うことでそういった存在と交流を持とうとしてきました。このような祭りは現在も全国約八万社の神社で一年を通じて行われております。神道と祭祀が日本人の生活と心に大きな影響をもたらしていることは言うまでもありません。

しかしNHKの調査によると自らの信仰を神道と回答した人は全体の2.7%に過ぎず、文化庁が刊行する「宗教年鑑」では信者数は平成の約30年の間に約1600万人も減少しております。現代の日本は地域共同体そのものが過疎化の進行で衰退しつつあり地域共同体を基盤とする神道も同時に衰退しているのかもしれません。20年後には40%の神社が消滅するという指摘もされております。
 さらに新型コロナの流行は神道だけでなく、あらゆる宗教の活動を困難にさせています。近代以前の人々がペストや天然痘などが流行すると宗教に救いを求めていたことを考えると、もはや宗教そのものが現代の人々に必要されていないようにも見えます。

このような社会の変動の中で神道は大きな危機を迎えているのではないでしょうか、最近の神社神道をめぐる様々な事件の続発はそのことの証左に思えます。

日本の精神文化の基本である神道が大きな危機を迎えていることは、同時に日本人と社会の精神もまた大きな危機の中にあるといえます。今回の勉強会では神道について考えてみたいと思います。

(今回の勉強会は文京シビックセンターになります。お間違えないようお願いします。)

【日 時】令和2年9月27日 午後6時から

【場 所】文京シビックセンター 三階会議室B

文京区春日1-16-21 東京メトロ後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分、都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分、JR総武線水道橋駅(東口)徒歩9分

【演 題】神道と維新運動・民族運動

【講 師】四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代1000円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

この告知文は主催者が作成しました。

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2020年9月14日 (月)

「道ある世」の回復を図られた後鳥羽上皇の大御心は、歴史の底流に脈々と流れ続けた

『承久の變』は、中世以後における「道統の継承」の源流であり淵源であった。『承久の變』以後も、わが國の道統は、祭祀と和歌を根幹として朝廷によって継承された。つまり、後鳥羽院の隠岐遷幸は武力戦では敗北であったが、「道の復興」といふ大事業に於いては、決して敗者ではあらせられなかった。後鳥羽上皇の御志はその後のわが國史に脈々と継承されていった。わが國體は外國の王朝交代・易姓革命とは無縁である。

後鳥羽上皇は、「道」と題されて、

「奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ」
(奥山の草木の茂り合ってゐる下も踏み分けて、本来、道のある世であると、天下の人に知らせやう)

といふ御製を詠ませられた。後鳥羽上皇が御年二十九歳の時、承元二年(一二〇八)五月二十九日『住吉社歌合』で、「山に寄する」と題されて詠まれた御製である。

正しい道が行はれなくなった世を正し、正しい道が存することを天下の民に知らせやうといふ強いご意志を示された御製である。「道ある世」即ち「道義國家」の回復を熱祷された御製である。「ますらをぶり」の御歌であり述志の御製である。

上三句は「道」にかかり、下句はその「道」を天下にあまねく明らかにしたいといふ強い御意思を示されたと拝する。武家政権によって「天皇中心の國體」が隠蔽されてゐる状態を正し、日本のあるべき道を明らかにしたいといふ大御心である。

後鳥羽上皇はこの御製で、単に鎌倉幕府の専横・北条氏による政治権力壟断を嘆かれたのではなく、「道」すなわち上古以来のわが國の道統が隠されてしまった世の中を嘆かれたのである。単に政治的なことをお詠みになったのではなく、傳統的な精神文化・藝術の復興をも願はれたと拝する。

武家の権力は、強い者が弱い者を倒して獲得した私的なものである。これを「覇道」といふ。後鳥羽上皇は、天皇の信仰的権威による國家統治といふ本来のわが國の國柄の回復が「正しき道」「あるべき道」であるとされ、「道の回復」を念願された。繰り返しいふが、『承久の變』は、朝廷が政治権力を武家から奪還するなどといふ低次元のことではなかったのである。

「われこそは新島守よ隠岐の海荒き波風心して吹け」
(自分こそはこれからの新しい島守なのだ。沖の海の荒い波風よ、心して吹け)

後鳥羽上皇が承久三年七月、隠岐に遷幸された時の御製である。この御製に対しても、「権力闘争の敗者のうめき・負け惜しみ」などと評する者がゐる。全く誤りである。これは、「おく山の」の御製と共に、道の継承に対する悲壮な御決意を表白された御製である。簡潔なお言葉と強い調べに、上皇のご決意とご感慨が偲ばれる。一切の「合理主義」「教条」による歴史解釈を超越した雄大にして激烈な御精神である。まさしく大御心である。

「承久の變」の後、幕府勢力が強大となり、一君萬民の日本國體は隠蔽された
が、「道ある世」の回復を図られた後鳥羽上皇の大御心は、歴史の底流に脈々と流れ続けた。まさに、武家専横の代といふ「おどろ」の下にわが國の「道」は一筋につながって行ったのである。

 保田與重郎氏は「日本の國と民と、さうして血統と神の永遠の誓ひの歌は、花鳥の風詠と竝行して、九重の奥で、しかも一等高い自信でつねにくりかへされてきたのである。それは後鳥羽院、順徳院から、龜山上皇、後宇多天皇、伏見天皇、花園天皇とへて、次は後醍醐天皇のもとに南山の憂國悲憤の歌となる。この最も高遠にして永遠な男子の志を展く歌は、維新先憂志士や神道國學者の述志をへて、維新行動志士によって民衆の歌になったのである。」「後鳥羽院が後世の詩人に教へられた事は、その大様の文藝王國の精神であり、一人でそれを支へる詩人の決意である。雄大で永遠な信念や國柄の久しい信仰を反映した大業は、現世の成敗とは無縁に、永久の未來にかけて永續し又開花の日を常にたくはへてゆくものであるといふことも、院が御自身の運命で教へられた最大の詩人の信念の一つである。」(『後鳥羽院』)と論じてゐる。

保田氏の言ふ「未來の花の開花」は、武家専横時代の終焉である「明治維新」であった。

維新とは懸命なる戦ひであるが、単なる破壊や暴力ではない。「あはれ」で悲しいものであるが、半面、美しいものである。また歓喜に溢れたものでもある。維新變革には悲劇と挫折を伴ふ。而して詩歌は悲願と悲劇と挫折とを謳ひあげることによってその精神的・美的価値を高からしめる。須佐之男命・日本武尊・後鳥羽上皇・後醍醐天皇の御歌を拝すればこの事は明らかである。
國體が隠蔽されたといふ意味において、「承久の變」以後と、戦後日本が相似である。我々は、「奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ」との、後鳥羽上皇の大御心を體して、現代維新の戦ひを行はなければならない。

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千駄木庵日乗九月十四日

午前は、諸事。

午後は、室内清掃。『伝統と革新』編集の仕事。資料整理。

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皇位継承については、自民党総裁選挙という権力闘争の場で論じられるべきではない。

本日(令和二年九月十四日)の自民党総裁選びに関する報道で、 「自民党総裁選では『女系天皇』について、石破茂元幹事長が容認の可能性に言及。一方、政権中枢で首相を支えてきた岸田文雄政調会長、菅義偉官房長官は「男系継承」の伝統を重視する立場から慎重な姿勢を示しており、議論が停滞する可能性もある」ということが報じられていた。

皇位継承については、自民党総裁選挙という権力闘争の場で論じられるべきではない。

本日のフェイスブック及びブログで書かせて頂いたが、「皇位継承」「『皇室典範』改定」は、日本國家を體現される御方の「御位」(みくらい)に関する事柄であり他の政治問題とは全く性格を異にする。また、皇位継承とは、『天津日嗣の高御座』の繼承である。普通一般の國家の國家元首・権力者交代とはまったく次元を異にする。

ゆゑに権力機構が多数決で決めてはならない。また、『天皇のご意志を伺はなくていい』などといふ議論は全く間違ってゐる。日本の傳統の根幹に関はることなのであるから、日本の傳統の體現者であらせられる天皇の御意志の第一にすべきである。

明治の『皇室典範』は、明治天皇が裁定され、制定された。即ち勅定である。議會や政府が定めたのではない。皇室に関はることは、なべて大御心に俟つべきである。一切は大御心のまにまにが、臣下國民のあるべき姿勢である。

國體の上に成文法があるのであり、成文法の下に國體があるのではない。わが國の國體は「祭政一致」である。天皇は権力者ではなく祭り主である。したがって、天皇の「おほみことのり」そのものが「法」なのである。わが國の「法の起源」は、祭り主たる天皇が神の意志を傳へる「のりごと」である。祭政一致のわが國の国柄においては、祭祀主たる天皇が神の意志として宣(の)べられた事が最高の「法」である。わが國においては、現御神日本天皇の「大御心」「勅」(みことのり)が絶対にして最高の「法」である。「詔勅」は神の御意志なのである。

「皇位」は「天津日嗣の高御座」と申し上げる。これは、「高天原にゐます天照大御神の靈統を繼承される御方の座される高い御位」といふほどの意である。まさに神聖不可侵の「御位」なのである。その神聖なる御位=「天津日嗣の高御座」の繼承のあり方を、権力國家の行政機関や立法機関で決定しては絶対にならない。あくまでも天つ神の御意志・神代以来の傳統に基くべきである。そして神の御意志・肇國以来の傳統の體現者は、上御一人日本天皇であらせられる。天つ神の地上におけるご代理=現御神であらせられ、神代以来の傳統の繼承者・體現者であらせられる天皇陛下の大御心に帰一すべきである。これが一番大切である。いかなる権力者であらうとも、いかなる立場の者であらうとも、臣下が議論して決めるべきではない。

皇位継承・天皇の譲位は國家と皇室の重大な事柄である。権力機構としての國家ではなく、信仰共同体・祭祀國家日本の根本の問題である。権力機関たる行政府が決めるべきではない。

基本的に、皇位継承・御譲位について、臣下があれこれ論議をすることに、私は違和感を覚へる。一切は大御心のままにが、國民の姿勢であるべきだと思ふ。

皇位継承など皇室に関はる重大事は、神代以来のわが國の傳統を遵守しなければならない。神代以来の傳統の継承者・体現者であらせられる天皇陛下の大御心に帰一すべきである。

皇室論・皇位繼承論・天皇論の根本には、國家観・神観・天皇観がある。日本國は神の生みたまひし國であり、天皇は天照大御神の生みの御子でありたまひ、神は今も生きたまふ、といふ絶対の信が、わが國の傳統信仰である。皇室論・皇位繼承論・天皇論はこの信仰を根本にして論じるられるべきである。

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2020年9月13日 (日)

天皇及び日本國體と憲法

日本國の憲法は日本國體に合致したものでなければならない。そうでなければ日本國の憲法とはいえない。

 また、日本國の憲法は、不信ではなく信頼という日本の麗しい精神伝統に立脚した成文憲法でなければならない。特に、日本の伝統が破壊され、天皇中心の國體が隠蔽されている現代においては、そのことは大変に意義のあることである。要するに、天皇中心國家という日本國の道統が憲法の条文にも正しく表現されなくてはならないのである。

日本國體は憲法に規定されることによって合法性が与えられるのではない.一國の國體(國柄)は、憲法に基づいて確立されるのではない。一國の國體(國柄)に基づいて憲法の國體に関する条項が成文化されなければならない。日本國に即していえば、天皇國日本という我が國の國體は、憲法が制定される以前からずっと続いてきたのであり、憲法に規定されることによって合法性が与えられたのではない。

 憲法は國の基本法であるけれども、「憲法にこう書かれているから、皇室はこうあらねばならない」とか「天皇はこういうことをされてはならない」と主張するのは本末転倒なのである。日本國の憲法は天皇の國家統治の道統に即して制定されなければならない。「憲法があって國家がある」のではなく、「國家があって憲法がある」のである。

 また、成文憲法というものは、あくまでも國家の権力機構やその権限を文章に規定したものなのである。日本國の國體とか伝統とかは憲法に規定されるもされないもなく厳然として存在するのである。
 
したがって、憲法及び法律そしてそれに基づく政治権力機関は、天皇日本の道統を破壊したり否定したり隠蔽する権限は全くないのである。むしろ天皇日本の道統に即した憲法及び法律そして権力機関であらねばならないのである。
 
憲法や政治権力は、その権限を越えて、共同體國家の精神伝統及び國民の精神生活、道徳生活、文化創造活動などに介入したり制限を加えたりしてはならない。憲法や政治権力は、日本國の道統に立脚し、その道統を正しく実際の國家において実現するための役割を果たすべきなのである。
 
繰り返し言うが、日本國の憲法は、天皇中心の日本國體(國柄)に基づいて制定されなければならない。國家を権力機関としてとらえた現行憲法
 
そもそも日本國という國家は、単なる権力機構・政治的支配機関ではない。もっと大らかにして神聖なる存在であり、精神的・道義的・信仰的・文化的存在である。人と人とが精神的に結合した共同體である。日本國はその生成の過程を見れば明らかな通り、天皇を祭祀主とする信仰共同體である。日本國は革命とか開拓によって人為的に造られた國ではなく、神が生みたもうた國であるという神話と信仰が古来から今日まで信じられて来ている。
 
國家を単なる権力機関として見ると、國家の神聖性・道義性を否定し、日本國の文化も、伝統信仰も、文化も、道義も、全て権力機関としての國家の下に置かれ、その支配を受けなければならなくなる。そして権力機関としての國家のみが前面に出て、それが國民と対立し、やがて國家の中で権力と國民の闘争が日常化する。現代日本は、まさにそうした状況に置かれつつある。

 今日においてさらに重大な問題は、日本國天皇の祭祀という共同體國家日本の存立の基本である<天皇の祭祀>が、憲法の制約下に置かれるようになっていることである。
 
また「個人の権利」のみを強調する現行憲法の規定によって、祖先を敬い親に孝行するという日本國民道徳の基本が踏み行うことが困難になってきつつあることである。
 
西洋法思想がその理念となり、國家を権力機関としてとらえた現行憲法がある限り、國家は美しく良きものであり、人間はその國の國民として生きることによって幸福を得るということが不可能になるのである。 

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千駄木庵日乗九月十三日

午前は、諸事。

午後は、室内整理・清掃。「伝統と革新」編集の仕事。資料整理。

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レイシズムについて

レイシズムといふ言葉は、日本語で言へば人種差別・人種主義のことだといふ。歴史上もっとも典型的な人種差別は、白人による有色人種に対する差別・迫害である。オーストラリアや北米・南米における先住民殺戮・迫害、黒人奴隷の売買・使役、ユダヤ人迫害虐殺などのことをレイシズムと言ふのである。レイシズムは規模が大きく計画的であり長期間に及ぶ。レイシズムは人類発生以来歴史的に存在して来たと言へる。

アジアにおいても支那民族による他民族の差別・迫害が最も顕著であり大規模であり長期間に及んでいる。有史以来と言っても良い。共産支那によるチベット侵略・支配によって百二十萬人のチベット人が命を失った。これはチベットの人口の五分の一に相当するといふ。さらに、共産支那による東トルキスタン侵略・支配によって、「計画生育」といふ名目で八百五十萬人もの人々が強制中絶させられ、五十回もの核実験によって七十五萬人の人々が放射能中毒で死亡し、「政治犯」として五十萬人もの人々が処刑されたといふ。支那民族は全体として過酷残忍な性情を持ってゐることは、史家が指摘してゐる通りであるし、事実である。

「小中華」と言はれる韓国・朝鮮も他民族に対する差別は根強い。ベトナム戦争の時、南ベトナムに派兵された韓國軍は、三十萬人を超すベトナム人を虐殺したとも言はれ、ベトナムでは村ごとに『「ダイハン(註・大韓のこと)」の残虐行為を忘れまい』と碑を建てて韓國軍の残虐行為を忘れまいと誓ひ合っているといふ。

レイシズムとはこのような共産支那のチベット・東トルキスタンにおける大量虐殺、韓國軍のベトナムにおける大量虐殺のことを言ふのである。

わが國は今日、共産支那によって尖閣・沖縄侵略の危機にさらされてゐる。韓國によって竹島を奪はれてゐる。北朝鮮によってわが国民が拉致されてゐる。これに対して抗議運動がわが國内において激しく行はれるのは当然である。今日わが國しかも限られた地域・限られた人数で行はれてゐる反支那・反韓國朝鮮デモで一部過激な言動があったからとて、それをレイシズムと決めつけることはできない。

在日韓國・朝鮮・支那人及び日本を訪問してゐる韓國・朝鮮・支那人を大量虐殺したわけでもないし、暴力的迫害してゐるわけでもない。今日、わが國内で、行はれてゐる反支那・反南北朝鮮デモなどをレイシズムと規定することが誤りである。

我々日本人が、レイシズムに対して批判の声をあげるのなら、支那・韓國において日常的に行われるわが日本に対する反日デモ対して強く激しく抗議すべきでべきである。

日本民族は、國家的危機に瀕した時に、日本を侵略せんとする他の民族・他の國家と果敢に戦った。しかし、わが国においては特定の民族・人種に対する計画的に長期間にわたる大規模な迫害・殺戮は全く行はれなかった。つまりわが國はレイシズムとは無縁である。

日本の主権を侵害し、日本の領土を奪ひ、日本國内で反日活動を行ってゐる支那人、朝鮮人に対する反撃といふか、抗議活動である。これをレイシズムと規定するのなら、支那韓國で行はれてゐる反日デモ、そして政府要人、マスコミ人などによる反日発言はもっと過激なレイシズムといふ事になる。支那・韓國の暴虐には目をつぶり祖国日本における外国への糾弾活動のみを批判することは許されない。

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2020年9月12日 (土)

千駄木庵日乗九月十二日

午前は、諸事。

この後、『政治文化情報』発送作業。発送完了。

資料の整理など。

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村田清風・吉田松陰が詠んだ大和心

 花の命は永遠であり、美しく咲き美しく散っていくことを日本人が好むということは、日本人が死を恐れないという心を持っていることを意味する。

 その死を恐れない心・潔く散って行く精神・散華の美を尊ぶ心が戦闘的な大和心を生む。そういう大和心を詠んだ歌が、

 「敷島の 大和心を 人問はば 蒙古のつかひ 斬りし時宗」

 である。

 この歌は、村田清風(長州藩士にして尊皇攘夷論者。)の歌である。わが國に降伏勧告に来た蒙古の使者を北条時宗が斬った戦闘心・攘夷精神を「大和魂」と表現したのである。つまり、どんな大國を相手としても死を恐れないでこれを討つという精神が戦闘的な大和心なのである。
 さらに、  

 「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
 
 という歌がある。吉田松陰の歌である。安政元年(一八五四)、松陰が二十五歳の作である。伊豆下田にて、米艦に便乗して渡米せんとする計画が失敗して捕らえられ、江戸護送の途中、四月十五日、高輪泉岳寺の前を通る時、赤穂義士に手向けた歌。松陰が國法に触れることは分かっていても、國家を思うやむにやまれぬ心で米艦に乗ろうとしたことと、赤穂義士が、吉良上野之助義央を討てば、自分たちも死を賜ることは分かっていたが、やむにやまれぬ思いで吉良を討った精神と共通する思いであった。

 吉田松陰が、安政五年(一八五八)正月十九日、月性(幕末の勤皇僧。周防妙円寺住職。攘夷海防を論じた)に宛てた書簡で、前年の安政四年に米駐日総領事ハリスが、江戸城に登城し、幕府に米公使江戸駐在を認めさせたことを憂い、「ミニストル(公使のこと)を江都(江戸のこと)におき、万國(ここでは國内各藩のこと)の通商、政府に拘らず勝手に出来候へば、神州も実に是きりに御座候。何とも一措置なくては相済み申すべきや。幾重に思ひかへ候ても、此時大和魂を発せねば最早時はこれ無き様覚へ申し候。」と記している。大和魂を発揮して幕府の軟弱外交を糾弾すべきことを論じているのである。 

大和魂・大和心は戦闘者の精神・武士の心・軍人精神・維新者の根幹となる心なのである。内憂外患交々至るといった状況にある今日こそ、吉田松陰の如く、大和魂を奮い立たさなければならない時なのである。 

『萬葉集』に収められている大伴家持の長歌に、「海ゆかば 水づく屍 山ゆかば 草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ」という句がある。
 
大君の御為に自らの命を捧げることを最高の名誉とするというのが日本武士道精神なのである。この精神こそが大和魂であり、「朝日ににほふやまざくら」が潔く散っていく姿そのものなのである。

日本武士道精神は古事記・萬葉の昔から継承されてきた精神である。内憂外患交々来たるといった状況にある今日こそ、大和心・大和魂を回復することが求められている。

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千駄木庵日乗九月十一日

午前は、諸事。

近親者来宅。室内清掃。

この後、『政治文化情報』発送準備。『伝統と革新』編集の仕事など。

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2020年9月10日 (木)

村上正邦氏の御冥福を心より祈らせていただきます。

村上正邦氏が逝去された。心よりご冥福を祈らせていただきます。

村上正邦氏に初めてお会いしたのは、小生が高校生の頃であったと記憶する。半世紀以上昔である。その頃、村上氏は、故玉置和郎氏の秘書をしておられた。精悍で元気の良い方であった。小生が所属していた生長の家が、玉置和郎氏を支持して参院選を戦った。その頃玉置氏は三木武夫氏の派閥に属し、早川崇という参院議員の系列に属していたと思う。

玉置氏と村上氏は拓殖大学の同窓で、村上氏は玉置氏の秘書ではあったが兄貴分と弟分の関係であったように思う。そして二回目の選挙で玉置和男氏は全国区第三位で当選し、大活躍された。

その後、村上正邦氏も自民党候補として参院全国区に立ち、当選した。そして長い間参院議員として獅子奮迅の活躍をされ、谷口雅春師はもとより生長の家の幹部からも信頼された。

日本の伝統を守り、皇室を尊重するという「真正保守」の立場に立ち「国旗国歌法制定」「優生保護法改正」「皇室関連の奉祝行事」などで長年にわたって多大の貢献をされた。

そして囹圄の身になるという苦難に遭遇されたが、若輩の私がこんなことを言うのは失礼の極みであるが、そのことによって益々人物が大きくなられたように思う。村上氏の国を思う心、皇室尊崇の念はますます篤いものがあった。

人生後半で苦難に遭われたが、八十八歳まで元気に活躍された。そして日本の行く末を憂えられ、今日の自民党に対して苦言を呈されていた。

村上氏の事務所で月に一回くらい、勉強が行われていたことを懐かしく思い出す。その勉強会の講師には、与野党を問わず、また政治家ではない人も含め実に色々な方が来られて講演をされ、村上氏の人脈の幅広さを実感した。

心よりご冥福を祈ります。

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千駄木庵日乗九月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。書状執筆など。

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日本人は、肉体は滅びても、生命は永遠といふ信仰を持ってゐる

日本人にとって「死」とは虚無の世界への消滅ではない。生の世界と死の世界は絶対的に隔絶してゐない。人が死んでも、その魂をこの世に呼び戻すことができると信じてゐる。

本来日本人は、「死ぬ」と言はず「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」と言った。「葬る」ことを「はふる」といふ。「はふる」とは羽振るである。魂が空を羽ばたいて飛んでいくといふことである。羽振りが良いとは勢ひがあるといふ意である。

日本武尊は薨去された後、その御霊は白鳥となって故郷に向かって飛んで行かれた。古代において鳥は霊魂を運ぶものと信じられた。肉体を離脱する霊魂の自由性・不滅性の最も原初的な信仰である。そしてその鳥が純白なのは、清らかさを好む日本人の生活感覚から生まれたのであらう。

「身罷る」「逝く」「神去る」「隠れる」といふ言葉は、肉体は滅びても生命・霊魂は生き続けるといふ信仰に基づく言葉である。今でも、丁寧な言ひ方をする時には「死んだ」とか「死ぬ」と言はない。「他界する」「昇天する」といふ。また、「亡きがら」「遺体」とは言っても「死体」とは言はない。

肉体の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎない。だから、死後の世界を幽世(かくりよ)と言ひ、死後の人間を隱身(かくりみ)と言ふのである。

日本人は、古来、霊魂が遊離して肉体は滅びても人間が無に帰するといふことは無いと信じて来たのである。

柳田國男氏は、「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まってさう遠くへは行ってしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられて居る」(『先祖の話』)と論じてゐる。

死者の霊魂は、はるか彼方の他界に行ってしまふのではなく、この国土に留まって子孫を見守ってゐるは、わが国において永く継承されてきてゐる。それは、「ご先祖様が草葉の蔭から見守ってゐる」といふ言葉がある通りである。

この世を去った人の霊魂を身近に感じて来たのが日本人の伝統的祖霊観、生死観である。日本人が比較的死を恐れない強靭な精神を持ってゐるのは、かうした信仰が根底にあるからであらう。

魂が身体から遊離することが死である。それがために肉体人間は力を失ふ。死とは無に帰するのではない。勢ひがなくなることを意味する「しほれる」が「しぬ」といふ言葉の語源である。『萬葉集』の柿本朝臣人麻呂の歌「淡海(あふみ)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしぬに古(いにしへ)思ほゆ」の「しの」である。くたくたになってしまって疲れるといふ意味である。気力がなくなってしまったといふ意味である。

枯れるといふ言葉と同根の「から」が「亡骸」のからである。死とは命が枯れることであり、肉体から魂・生命が去ることである。死は消滅ではなく、生き返るのであり、甦るのである。日本伝統信仰には死はない。

死後の世界は近く親しく、いつでも連絡が取れるところである。だから草葉の陰から見守ってゐてくれるといふ言葉があるのである。お盆には先祖の御霊が帰って来るといふ信仰もある。生と死の区別は明白ではなく、人はこの世を去ってもまた帰って来るといふ信仰がある。死とは誕生・元服・結婚と同様の「生まれ変はりの儀式の一環」である。

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千駄木庵日乗九月九日

午前は、諸事。

午後は、今日行う『萬葉集』講義の準備など

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、大伴家持などの歌を講義。質疑応答。

終了後、出席者と懇談。

帰宅後は、書状執筆など。

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2020年9月 8日 (火)

御寺(みてら)泉涌寺(せんにゅうじ)について

後堀河天皇御製


「山の端を 分出(わけい)づる月の はつかにも 見てこそ人は 人をこふなれ 」

「くりかへし 賤(しづ)のをだまき 幾度も とほき昔を 戀ひぬ日ぞなき」

(『新勅撰和歌集』)

第八十六代・後堀河天皇は、高倉天皇の第二皇子。第八十二代・後鳥羽上皇の御兄君であらせられる守貞(もりさだ)親王(後高倉院)の第三皇子であらせられる。つまり後鳥羽上皇の甥にあたられる。

「承久の乱」の後、立太子礼を経ずして、仲恭天皇廃位後、同日の承久三年(一二二一)年七月九日御年十一歳で践祚。貞永元(一二三二)年十月四日、まだ御年二歳の第八十七代・四条天皇に譲位され、院政を行はせられた。

しかし、後堀河天皇はそれから二年足らずの、天福二(一二三四)年八月六日に御年二十三歳で崩御された。崩御が急だったため、かつて後堀河天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといはれる。この中世時代は、戦乱の時代であり、無念の死を遂げた人や僻地に追放された人が多かったので、怨霊とか生霊の祟りを恐れる人も多かったと考へられる。

後堀河天皇は、皇室の伝統を尊ばれ、和歌・文学を好まれたと承る。また、『新勅撰集』撰進を命じられ、藤原道家、藤原教実、藤原定家らが、文暦二(一二三五)年完成された。

後堀河天皇の御陵墓は、京都市東山区今熊野の泉涌寺にある観音寺陵である。

御寺(みてら)泉涌寺(せんにゅうじ)は、東山三十六峰の一嶺,月輪(つきのわ)山麓にある。皇室の御菩提所(御香華院と申し上げる)であり、諸宗兼学と道場と言われる。

弘法大師が天長年間、この地に草庵を結び、法輪寺と名付けた。順徳天皇御代の建保三年(一二一八)、月輪大師といふ僧侶が大伽藍を造営した。この時、境内に泉が涌き出したので、寺号を泉涌寺と改めたといふ。

このお寺は、朝廷の尊信が篤く、後鳥羽上皇、順徳天皇、後高倉天皇は、月輪大師によって受戒された。仁治三年(一二四二)、第八十七代・四条天皇の御陵が泉涌寺に造営された。

「承久の変」の後、後鳥羽上皇の皇孫であらせられ、順徳天皇の第一皇子であらせられる第八十五代・仲恭天皇が、「承久の乱」の後わずか七十八日間で鎌倉幕府の意向により廃位された。そして、後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒の御意に反対の立場であられた御兄君・守貞親王の皇子が皇位につかれた。第八十六代・後堀河天皇であらせられる。

そして、後堀河天皇はまだ御年二歳の皇子に譲位された。第八十七代・四条天皇であらせられる。しかし、御在位十年、御年十二歳の砌、四条天皇は、御所で誤って転倒されたことが直接の原因になって崩御。前述したとおり、突然の崩御を不可思議に思ふ者が少なくなかったやうで、巷間、後鳥羽上皇の生霊の祟りによるとの噂が立った。四条天皇の御製はのこされていない。

洛中洛外、南都北嶺の諸寺院は、四条天皇の御葬儀に奉仕することを拒んだ。「承久の変」に敗れた、後鳥羽上皇、順徳天皇をお慕ひし、鎌倉幕府の専横に反感を持ってゐたからであらう。そのやうな時、四条天皇の御葬儀奉仕を承ったのが、泉涌寺であった。その御縁で、以後、泉涌寺が朝廷の尊崇を得ることになったとされる。(中村尚勝氏の泉涌寺製作『皇室の御寺泉涌寺』所収論文参照)

御寺泉涌寺の総門を入り、参道を歩み行くと、左側に「拝跪聖陵」と刻まれた石標がある。この文字を讀むと歴代天皇を仰慕する国民の心が籠められてゐると感じ、自ずから粛然とした気持ちになる。

慶長年間に、内裏の御門をお移しした大門を入ると少し下り坂になる。その彼方に仏殿が見える。実に清らかにして美しい眺めである。歩み行くと右側に寺号の起源となった「泉涌水」といふ湧水がある。

仏殿は、寛文七年(一六六八)、德川四代将軍家綱の再建である。釈迦、弥陀、弥勒の三尊が祀られてゐる。

仏殿の奥の霊明殿には、天智天皇から明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后に至るまでの歴代の御尊牌が奉安され、一山あげて朝夕ご冥福と国家の安穏が祈られてゐるといふ。何故、天智天皇からなのか分からない。

現在の霊明殿は、明治十五年(一八八二)十月炎上の後、同十七年明治天皇によって再建された尊牌殿である。

霊明殿の奥に、御座所(天皇が参拝に来られた時の御休息所)がある。霊明殿が再建された時に、明治天皇の思し召しにより、京都御所の御里御殿が移築され造営されたと承る。

昭和天皇は、昭和四十二年に、泉涌寺に行幸あそばされた時、御座所の御庭をご覧になり、

「春ふけて 雨のそぼ降る 池水に かじかなくなり ここ泉涌寺」

と詠ませられた。

なほ、終戦までは、泉涌寺の伽藍の補修、維持については宮内省の責任とされてゐた。ところが、戦後に押し付けられた『占領憲法』の「政教分離」の規定により、行政機関が直接神社仏閣に資を供することが禁止されたため、檀信徒を持たない泉涌寺の維持は極めて困難となった。ただ、わずかに、皇室内廷の御下賜金が唯一の拠り所であった。この時、伊勢の皇大神宮、橿原神宮、御寺泉涌寺を聖地とする解脱会といふ信仰団体が、霊明殿尊牌への奉仕と泉涌寺維持への協力が行はれるやうになった。

さらに、昭和四十一年、三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、民間篤志の人々が「御寺泉涌寺を護る会」が結成された。

霊明殿の東の奥に、月輪陵(つきのわみさぎ)・後月輪陵(のちのつきのわみさぎ)が鎮まりまします。四条天皇より、後水尾天皇から仁孝天皇までの二十五の御陵、五御灰塚、九御墓が営まれている。全部の御陵域を合わせても五一五七平方メートル(約千五百坪)という狭い所である。まことに畏れ多き事である。

ここに鎮まる天皇・皇族の御葬儀は、泉涌寺長老が御導師をお勤め申しあげ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされていると承る。唐門が美しい。

泉涌寺発行の『御寺泉涌寺』といふ案内書には、「月輪、後月輪陵も、わずかな御境域内に二十五陵、五灰塚、九御墓が鎮まっておられ、天皇陵は九重の石塔を、皇妃陵は無縫塔(むほうとう)を、親王墓は宝篋印塔(ほうきょういんとう)を立てただけで、深草北陵と共に心なき身にも、万乗の君と仰がれ給うた天皇が、幕府・権力者の非道に喘ぐ国民の上を思召されてかのような薄礼に甘んじられたことに無上の感激を覚えざるを得ない」と記されてゐる。

徳川家康及び江戸幕府歴代将軍の霊廟が、日光東照宮や久能山東照宮、そして上野寛永寺、芝増上寺などに豪華に造営されてゐることを思ふと、幕府の朝廷軽視、不敬が実感されるのは止むを得ない仕儀である。

月輪陵の背後の東山をのぼり行く。静寂の世界。鳥の聲のみが聞こえる。坂の左手に、後堀河天皇観音寺陵が鎮まりまします。御陵の清らかさを実感し、のこされた御製を拝すると、怨霊・生霊の祟りで崩御されたなどといふことは、全く嘘であると実感する。


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千駄木庵日乗九月八日

午前は、諸事。

 

親族来宅。室内清掃。

 

午後三時半、本郷の本富士警察署に赴く。小生のカードが拾得物として届いていたので受けとる。半月以上も前に、東大病院内で拾得した方が届けて下さった。有難いことである。小生は昨日カード会社から連絡があるまで全く気付かなかった。迂闊にして不注意な話である。

 

帰宅後は、明日行う「萬葉集」講義の準備。『伝統と革新』編集の仕事など。

 

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2020年9月 7日 (月)

維新とは、霊の復活である。神代への回帰である。

維新とは、霊の復活である。神代への回帰である。明治維新が神武創業への回帰であった。現代維新は神代の回帰であるべきである。天孫降臨に回帰しなければならない。それは「神勅」の実現であり、神の復活であり、神話の再興である。今即神代の実現であり、高天原を地上への実現である。明治維新は王政復古だった。今日の維新は神政復古である。

神代への回帰こそ最高の理想である。天津日嗣日本天皇の実相顕現であり、神国日本・神の子人間の実相顕現である。天の岩戸開きである。

かかる考へ方は、神がかりであり、情緒的であり、観念的であるとの批判もあらうが、体制変革の根本に神への回帰が無ければ、砂上の楼閣である。いくら国家機構を変革し法律や権力を更新しても、様々な悪しき事象が無くならないことは現実と歴史が証明している。『大日本帝国憲法』といふ國體精神に則った理想的な憲法があっても、維新変革が必要だったのである。法律や制度を整えへるだけでは真の維新は成就しない。

わが国においては、国家変革即ち維新と信仰精神・神話の精神は不離一体である。大化の改新、建武中興、明治維新においては、神国思想・國體信仰がその中核にあった。昭和維新運動も然りである。政治制度の変革の根底に信仰精神が無ければならない。それは、日本伝統信仰である。そしてその祭祀主が天皇であらせられる。

日本国は単なる西洋的権力国家ではない。契約国家でもない。神が生みたまふた神の国である。別の言ひ方をすれば、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体であり祭祀国家である。その眞姿を開顕することが即ち維新である。


昭和維新は反近代・近代の超克の戦ひであった。今日においても、近代の悪弊は正されてゐない。それどころか、近代科学技術文明、近代政治体制が大きな矛盾をきたし、人類をそして日本を苦しめてゐる。今こそ近代の超克が目指されなければならない。

明治以来の欧化主義によって日本の近代を遂げ、国家と国民が物質的経済的の発展したことは事実である。しかし、その弊害たるや今や民族の存亡に関わるところまで来てゐる。国家・家庭が破壊され、自然も破壊され、人間生活も根底から破壊されようとしてゐる。これを打開するのは、日本伝統精神の復興しかない。

近代西洋の科学技術至上主義、営利至上主義、悪しき意味の人間中心主義が、世界を破壊へと導いてゐる。日本は、日本伝統精神によってこの危機を克服し打開して、祖国をそして世界を救済する使命を有するのである。

これは神がかりでもないし、空論でもない。天地共に栄える豊穣の国の実現である。太陽の恵み、地の恵みによって国民すべてが麗しく明るく生きる日の本の国の実現である。

神国日本の祭り主であり、天壌無窮の神勅を継承され実現される天皇への帰一が、尊皇精神であり、忠であり、国家の理想実現である。

愛郷と言ひ、社稷と言ふも、その根底に天地の神々がゐます。科学技術至上・営利至上の日本から、道義国家日本・天地自然の神々が生きたまふ國への回帰は、道義の中心者、天地自然の神々への祭祀者・日本天皇への中心帰一、神聖権威への仰慕の心によって実現する。

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千駄木庵日乗九月七日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2020年9月 6日 (日)

石破茂氏の大東亜戦争観について

以前書いた拙論を再掲載します。

石破茂氏(当時自民党幹事長)は『文藝春秋』平成二十五年二月号所載「新しい自民党をつくる」といふ論文で、「私にとって政治家としての信念とは、『集団的自衛権行使を可能とし、独立主権国家にふさわしい国家をつくる』ことでありこれは今も変わらない」「占領下でつくられた現行憲法を戴いている限り、日本は真の独立国家たりえない。現行憲法には、独立国家の憲法であれば、当然定められているべき、軍の規定と非常事態条項が抜けているからである。そこを見直して、独立国家にふさわしい法体系を整えることが、すなわち、『戦後レジームからの脱却』であり、そもそも自民党はそのためにつくられた政党であることは、結党時に定められた綱領を見れば明らかだ」「『常識的に考えて、北朝鮮は軍事行動はとるまい』という楽観論を、独立国家は持つべきではない」と論じてゐる。全く正しい見解である。

ところが石破茂氏はさらに次のやうに論じた。「これは私の持論だが、戦後レジームからの脱却は、先の戦争に対する検証なくしては、あり得ない。この検証プロジェクトは、安倍総理主導のもと、政府として取組むべきことだと思う。終戦後、『一億総懺悔』という言葉が一人歩きし何となく国民全員が悪かったのだということになったが、これは誤った認識だ。敗戦が明白だったにもかかわらず開戦を決断した当時の指導者たちと、国のために命をささげた兵士の責任が一緒であっていいわけがない。皮肉なことだが、人は歴史からは、絶対に学ばないというのは、ほとんど唯一の歴史の教訓である。だからといって、あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは、二百数十万人の英霊の思いを無視することに他ならない」と論じてゐる。

さても大変なことを主張したものである。「歴史の検証」とは具体的に一体どういふことなのか。しかもその「歴史の検証」安倍総理のもとにプロジェクトを作り政府で行ふといふのである。

これまで、大東亜戦争の歴史の検証あるいは論議は様々な個人・報道機関・政党・研究団体などが行ってきた。しかし検証や論議の結果は様々な結論や認識がだされ、統一的見解は戦後七十三年を経過しても提出されゐない。それはある意味当然のことである。

大東亜戦争に限らず歴史問題に関して政府がプロジェクトを作って検証し、統一見解を出すなどといふことは全く不可能になことである。

だから政府機関によって「歴史の検証」が政府の機関で行はれないままに、平成二十六年年七月一日、政府は臨時閣議を開き、憲法九条の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認すると決めたのである。これに対して当時の石破茂自民党幹事長が激しい抗議を行ったと言ふ事は聞かなかった。

石破氏の言ふ「先の戦争」とは「大東亜戦争」の事であらうが、あの戦争の歴史の検証とは、昭和十六年の開戦から同二十年の終戦までの歴史を検証すれば良いと言ふ事ではない。「東亜百年」或はそれ以上の歴史を検証しなければ、真の検証にはならない。

石破氏の「あの戦争の実態を検証しないまま、集団的自衛権の行使の議論を始めることは、二百数十万人の英霊の思いを無視することに他ならない」といふ主張は全く理解できない。「あの戦争の実態を検証」の結果を待ってゐたら、それこそ永遠に『集団的自衛権行使の議論』は始まらなかったであらう。「検証」はさう安易にたやすくできることではない。まして、内閣・政府が行ふなどといふことは全く不可能なことである。

石破氏は「敗戦が明白だったにもかかわらず開戦を決断した当時の指導者たち」と論じてゐるが、果たして昭和十六年十二月八日開戦の大東亜戦争(米英との戦ひ)は最初から敗戦が明白であったかどうか、それこそ検証が必要である。

『大東亜戦争開戦の詔書』に「米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增强シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益〻經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事旣ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」と示された戦争目的の達成があの勝利である。

『詔書』に示された戦争目的の達成は不可能であったと断言することは全くできない。むしろ米英との四年間の戦ひは、英米などの欧米帝国主義国家による東亜侵略を防ぎとめ、中東を含む大アジア諸国家・諸民族を解放した偉大な戦ひであったと小生は考へる。

ともかく、石破氏の歴史に対する考へ方は承認することはできない。

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千駄木庵日乗九月六日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。資料整理。原稿執筆。

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萬葉古代史研究會


小生が講師となりて「萬葉集」を勉強する會が次の通り開かれます。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。


日時 九月九日(第二水曜日) 午後六時半より
講師  四宮正貴
會場 豊島区立駒込地域文化創造館
東京都豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 山手線駒込駅北口徒歩二分
會費 千円
テキストは、岩波文庫本『萬葉集』(佐佐木信綱編)上巻。
初参加の方は、テキストはなくても結構です。初めての方でも分かりやすい内容です。
お問い合わせは、四宮政治文化研究所まで。(m-shinomiya@max.hi-ho.ne.jp)

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今日思い出したこと

第一次安倍政権退陣の時の石破氏による病身だった安倍総理(当時)に対する代議士会における罵倒はひどかった。今でもはっきり覚えていますが、あれでは恨まれます。石破氏はああいう性格なのでしょう。また石破氏が何かというと「田中先生の門下だ」と言うのも好きにはなれません。

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「日出づる國」への誇り・祖國へ愛を歌った山上憶良の歌


 山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(もろこし)に在りし時、本郷(もとつくに)を憶(おも)ひて作れる歌

いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴(おほとも)の 御津(みつ)の濱松 待ち戀ひぬらむ

 山上憶良が、支那にゐた時、祖國を恋ひ慕って作った歌。山上憶良は、斉明六年(六六〇)~天平五(七三三)年。萬葉集代表歌人の一人。大宝元年(七〇一)に三十五年ぶりに遣唐使が復活し、憶良は遣唐少録に任命された。翌大宝二年、四十二歳の時に渡唐。慶雲四年(七〇七)帰國。晩年の歌が多い。

【大唐】支那のこと。【本郷】祖國日本のこと。【いざ】人を誘ひ自らも行動を起こそうとする時に発する言葉。【子ども】年下あるいは目下の親しい人々に対する呼び掛けの言葉。【日本】日本全体を指す。【大伴の御津】大阪市南部から堺市にかけての一帯(摂南といふ)の難波の津(港)のこと。この辺りは大伴氏及びその配下の久米氏が領有してゐた地であったから「大伴の」といふ。ここから遣唐使の船や九州などに行く船が出発した。大唐にある憶良にとって、この港は祖國の門戸であった。

遣唐使が支那へ行くルートは、①今日の大阪から瀬戸内海を通って行き、壱岐・対馬に寄りながら朝鮮半島の西側を通って、山東半島に上陸するルート、②能登半島から出発して沿海州に上陸するルート、③長崎や鹿児島などから出発して支那の楊州や越州に上陸するルートがあったといふ。
 
「濱松待ち戀ひぬらむ」は、松が擬人化されてゐる。懐かしい祖國日本の海岸の松の風景を目に浮かべて歌ってゐる。また、「御津の濱松」は下の「待ち戀ひぬらむ」を出すための序詞といふ説もある。                           

 通釈は、「さあ、皆の者よ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の濱松も、さぞ待ちわびてゐるであらうから」といふ意。                             

 「日本」という漢字に「やまと」といふ傍訓を付したところにこの歌の重要性がある。「日本」とは「日の昇る國」といふ意味である。

 聖徳太子は、推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣隋使として支那に遣はされ、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」といふ「國書」を隋の煬帝に呈した。日本國の誇りを高らかに宣揚し、アジアの大帝國・隋に対して、対等どころか大いなる自尊心をもって相対された。その御精神が山上憶良に引き継がれてゐるのである。

 聖徳太子は外来宗教たる仏教を深く信仰せられた方であるが、素晴らしい日本人としての御自覚をお持ちになられてゐた。憶良もまた、唐において色々なことを学びこれから帰國しようといふ時に、「早く日本へ」と歌ひあげたのである。

 「早く日本へ」といふ言葉に、「日没する國」にゐる憶良の「日出づる國」への恋慕の思ひがにこめられてゐる。憶良は、唐との対比において日本を自覚し、祖國への愛・日本人としての誇りを歌ったのである。それは、わが国は、太陽の昇る国であり、太陽神たる天照大神を祖神として仰ぎ、天照大神の生みの子たる天皇を君主として戴く国であるといふ大いなる自覚である。
 
この歌は望郷の歌であると共に、祖国愛謳歌の歌である。今日のわが國政治家などの支那に対する卑屈な態度と比較すると、やはり民族勃興期・國家建設期の日本は素晴らしい人がゐたと言ふべきである。
                  
 また、憶良には、自分たちが早く日本へ帰りたいといふ思ひと共に、自分たちが学んだ学問を早く祖国へ持ち帰って祖国の役に立てたいといふ思ひもあったと思はれる。


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2020年9月 5日 (土)

『アジア問題懇話会』における興梠一郎神田外語大学教授による「中国はどこへ向かうのか?~習近平体制を読み解く」と題する講演内容

 

『アジア問題懇話会』における興梠一郎神田外語大学教授による「中国はどこへ向かうのか?~習近平体制を読み解く」と題する講演内容

本日開催された『アジア問題懇話会』における興梠一郎神田外語大学教授による「中国はどこへ向かうのか?~習近平体制を読み解く」と題する講演で印象に残ったことは次の通りです。

「毛沢東の言葉を使って毛沢東を批判する。毛沢東は昔湖南自治運動に参加した。今で言う分裂主義。今なら捕まっている。中国共産党は約束を簡単に破る。一国二制度も然り。チェコにたいして『代価を支払わせる』というやくざ言葉を使った。イタリア北部は中国人だらけ。中国共産党は北朝鮮と違って粛清した相手を殺さない。薄熙来も江青も終身刑。一説には、長老の陳雲が「党内闘争では、殺してはならない」と主張したからだと言われている。

今の中国は前近代的。清朝末期のような國。辛亥革命は何のためにやったのか。スターリンの伝統が残ってゐる。ソ連を研究しないと中国は分からない。アメリカのポンぺオ国務長官は、習近平は破綻した全体主義の信奉者と言った。中国は人民抑圧、ファシズムの国になっている。支配と覇権確立が中共の最大の目的。習近平は憲法を変えて任期を撤廃し、終身国家主席をやれるようになったが、首相の任期はそのままであり、李克強は2023年に引退することになる。

コロナの隠蔽や香港の国家安全維持法導入による「一国二制度」の破棄により、中国は国家としての信頼を失っている。アメリカは、経済的成長は軍事力強化になると警戒している。香港では、教科書の内容が変えられ、三権分立や天安門の記述が削除される方針。中国流にいえば、香港人の社会主義思想改造である。いずれ、デモもしなくなるかもしれない。中国の昔の冊封と近代国家における領有権とは違う。日本はまだまだ緊張感が足りない。中国を知り尽くし、コロナの対策などで素早い対応をみせた台湾に学べ」。

 

 

 

 

 

 

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千駄木庵日乗九月五日

午前は、近親者来宅。室内清掃。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。興梠一郎神田外語外語大学教授が、「米中戰爭の行方と日本の覚悟」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、資料整理、『伝統と革新』編集の仕事。

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宮内庁長官について―不忠の臣・後藤田正晴、富田朝彦。

資料整理をしていて「選択」という雑誌の平成十七年六月号掲載の『藩屏不在』という記事を読んだ。皇室に関して重大な指摘がなされていた。

「政府に遠慮しなかった(二十五年にわたった宮内庁長官を務めた)宇佐美毅氏に閉口して、官邸がコントロールしやすいように、宇佐美の後の宮内庁長官を官僚の一ポストに過ぎなくした…入江(相政氏・半世紀にわたって先帝昭和天皇にお仕えした人)の実力に政治家も手が出せなかった。…宇佐美の後任、警察官僚の富田朝彦は次長四年、長官を十年勤めたが決断が鈍く、『小型』官僚の典型であった」と書いている。

富田朝彦氏は、宮内庁次長の頃、宮内庁病院で当時掌典職であった永田忠興氏に話しかけてきて、「僕は、無神論者なんですよ」と言ったという。そして、富田氏は長官になった後、陛下の側近中の側近でありながら、宮中最大の重儀である新嘗祭をはじめとする大祭に、皇族方や三権の長が参列するにもかかわらず、参加しないことが多かったという。

神々を祭る宮中祭祀に奉仕する役目の「掌典職」にわざわざ「私は無神論者だ」などと言うのは、富田氏は単に無神論者であるというだけでなく、天皇の最も大切なご使命であり日本國體の根幹である「宮中祭祀」を簡略化することが正しいと信じていたとしか考えられない。

このような人物が宮内庁長官になったことは誠に遺憾なことであった。後藤田正晴が警察庁長官の時、富田氏は警備局長だった。富田氏の宮内庁入りは直属の上司だった後藤田正晴の人事であることは間違いない。富田氏が警備局長の時、「あさま山荘事件」が起こった。解決にあたった佐々淳行氏は、富田氏のことを「不決断の警備局長」と断じて批判した。

富田氏は、宮内庁長官時代、元の上司・後藤田正晴に対等にものが言えるという立場ではなかったであろう。部下同然に対応されたのではないか。官房長官の後藤田に、呼びつけにされていたという人もいる。

富田氏はまた、昭和天皇が宮内庁長官であった富田氏に語られた『お言葉』をメモに取り、自宅に秘匿した。そして富田氏の遺族はそれを『日経』に売った。

無神論者・富田朝彦は文字通り「神を恐れぬ人物」であり、且つ、稀代の君側の奸、不忠の臣であることが明白となった。

この富田氏の「メモ」が大きな問題を起こしたのである。富田氏が宮内庁次長時代に、社会党議員が国会で、「天皇陛下の靖国神社行幸が違憲である」と富田氏を執拗に責め立てた。この後、先帝陛下が靖国神社に行幸されなくなったのである。富田氏が、政治家の追及に震えあがり、先帝陛下にいろいろな情報を申し上げて、先帝陛下の靖国神社行幸をお止めし、それを糊塗するために「A級戦犯云々」を日記に書いたと推測するのは邪推であろうか。

天皇陛下の側近が政治家に顎で使われるようでは、皇室を政治権力からお護りする事は出来ない。戦前は、総理経験者などの「元老」「重臣」が輔弼の臣として天皇をお助けし、宮内大臣、内大臣もいた。これらの人々は総理と同格あるいはそれ以上の人々で、政治家に顎で使われるなどということはなかった。だからこそ、皇室の藩屏の役目を果たすことができたのである。

戦後は、占領軍に日本弱体化政策によって、元老、重臣、宮内大臣、内大臣、宮中顧問官などは廃止され、六千人以上の職員がいた宮内省も宮内庁に格下げとなり、職員も千人程度に減じられた。

戦後体制からの脱却は、憲法・教育・国防のみならず、皇室制度においてこそ実現されなければならない。宮内庁の省への昇格と、機能と権限の強化が望まれる。宮内大臣には、総理経験者以上の人が就任すべきである。

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2020年9月 4日 (金)

千駄木庵日乗九月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』原稿執筆、脱稿、印刷所に送付。

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2020年9月 3日 (木)

「復古の精神」を忘却した人たちによって行はれた「未曽有の変革」は西洋の物真似にすぎなくなった

神武創業への回帰、道統の継承、祭政一致の回復といふ明治維新の第一義を隠蔽し忘却せしめた要因は、西欧列強の軍事的侵略から祖國を守るための近代化・西洋化・工業化にのみ専念した事にある。そして「文明開化」が日本の傳統を破壊する事態になる危険さへ生じた。

「復古の精神」を軽視あるいは忘却した者たちによって行はれた「未曽有の変革」は、西洋の物真似と権力の徳川幕府から新たなる権力者への移動にすぎなくなった。少なくとも、傳統を重んじる人たちからはさういふ批判が生まれた。それが西南戦争・神風連の変などの第二維新運動である。

岩倉具視の諮問に対して、王政復古の基礎を「諸事神武創業ノ始ニ原カム」すべしと答へた國學者・玉松操は、維新後堂上に列せられたが、岩倉らの主導する明治新政府の欧化政策を批判し、「我不明にした奸雄の為め誤られたり」と嘆息し、明治三年、官を辞し閉居した。

矢野玄道(やのはるみち。明治二十年逝去。幕末の動乱期に國學関係の多くの著書をあらはし、國學を講じてその振興に努めながら、京都を中心に王政復古運動に専念し、維新後は國家構想をまとめた意見書『献芹詹語』を岩倉具視を通じて明治政府へ提出し、政治の改革にも功績を残した國學者)は、明治新政府の「文明開化」「欧化政策」を憂慮し、次のやうな歌を詠んだ。

「事により彼が善き事もちふともこゝろさへにはうちかたぶくな」

「其のわざを取り用ふれば自ら心もそれにうつる恐れあり」

「潔き神國の風けがさじとこゝろくだくか神國の人」

「橿原の宮に還ると思ひしはあらぬ夢にてありけるものを」

大正十三年に永井荷風は「開港は幕府を瓦解せしめたり。尊王攘夷とは薩長志士の呼號する處なりき。幕府倒れて薩長の世とはなるや攘夷の志士皆洋服を著て平然たり。變節も亦甚しと言ふべし。薩長藩閥の勢力今猶衰へず、變節の風天下に滿つ亦怪しむに足らず。日本はその昔永く支那を手本としけるが維新の際佛蘭西を師とし忽ち變返って英米に親しみ又何時となく獨逸に學び陸軍の軍服など初めは佛蘭西風なりしを獨逸風に改め佛蘭西とさへ云へば危險思想の本場にあらざれば背倫不徳の淫國の如く言ひなせしが獨逸敗北と見て取るや俄に飛行機の師匠を佛蘭西から呼び迎へてドイツのドの字も言はず景氣のいゝ處につく事宛ら娼妓の如しと云はれても吾等辦解の辭なきを如何せん」(『麻布襍記』)と書いてゐる。

幕臣の子孫である永井荷風らしい薩長主導の近代日本に対する酷評と言ってよいと思ふ。

西洋の機械的世界観における「進歩」とは、人間が利用しやすいやうに自然を作りかへることである。つまりは自然の破壊である。自然を神として仰ぐ傳統信仰とは全く相反する世界観である。日本近代の矛盾は神の喪失にあった。

明治維新後の急速な西欧化・近代化は、國内的にも対外的にも多くの矛盾と苦痛を生んだ。「和魂洋才」といふ言葉が生まれたが、すべではないが明治新政府の権力者・指導層(學者・経済人など)が西欧の模倣に汲々として肝心の和魂が忘却され隠蔽される事態となった。すなはち、「明治維新の理想」と「中央集権近代國家建設」との乖離が日本近代の歴史に大きな影をもたらした。わが國は近代化によって世界の強國になったが、豊葦原瑞穂の國=信仰共同體日本は隠蔽された原因はここにあった考へる。

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千駄木庵日乗九月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』原稿執筆など。

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 中華思想という名の侵略主義


 
支那には天下という観念は発達したが、国家という観念は無かったという学説がある。国家観念とかナショナリズムが勃興したのは近代以降西洋や日本に対する対抗意識が生まれた後のことであるというのである。

 そうした国家観念の希薄さが、中華思想という侵略主義・大国主義を生んだという。

津田右左吉氏は次のように論じている。「彼ら(支那人注)は自分の国を我々が思ふやうな、又近代的意義での、国家とは思ってゐなかったのである。彼らは自分等を中華とし、自分等で無いものを夷狄として、中華は夷狄を支配するべきものと考へ、天の代表者である自分等の天子は、すべての夷狄、即ち全世界・全天下に君臨してゐるものだと考へてゐた。だから彼等の中華思想では…民族全体が一つの国として、他の国と対峙するものとも認めないから、事実上、国といふ観念は無く、従って愛国の情といふものも養はれないのである」(『文学に現はれたる我が国民思想の研究』)。

 支那人に国家観念が無かったということは、自分の国も無いけれどもよその国も無いということなのである。外国の存在そのものを認めていないのだ。世界・天下の中心の支那があり、世界・天下の人民も国土も全て支那の皇帝のものだとするのである。しかして、世界各地域の王たちは支那皇帝によって冊封(支那皇帝の勅書によって爵位や領土を定められること)されることによって初めて正統な王となり得るという考え方なのである。

 こうした支那の身勝手な論理をつきつめれば、支那と対等な関係の国は存在しないということになる。支那人にとって天下即ち全世界が支那の皇帝のものなのである。そして支那の皇帝に朝貢するという形式でしか外交というものはありえないのである。これを中華思想という。

 中華思想とは、支那民族・漢民族が天の真下・天下の中央にあり、文化が花のように咲き誇っているという意味で、支那を中華と称し、四方の異民族を東夷・西戎・北狄・南蛮と呼んで、獣や虫けら同然に考え差別し侮る考え方である。

 「東夷」は日本・満州・朝鮮などの民族を指した。「夷」とは弓を射るのがうまい民族のという意である。「西戎」とは西方の野蛮人のことで、チベットやトルコ系の諸民族を指した。「南蛮」とは南方の野蛮人のことで、インド支那など南海諸地方の民族を指した。「北狄」とは北方の野蛮人のことで、匈奴(きようど)・ウイグル・韃靼(だつたん)等の遊牧民族を指した。「戎」は槍術のうまい民族、「狄」は犬扁、「蛮」は虫扁がつくということで、いづれも野蛮な民族ということである。

 これほどの差別思想・侵略思想・大国主義はない。支那はこの論理によってこれ迄の長い歴史において周辺諸国を侵略してきた。秦始皇帝・漢武帝・隋煬帝(ようだい)・唐太宗のように内乱の後に大統一帝国が成立した時には、強力な国外侵略を行っている。
 支那は世界帝国であり、支那の皇帝に朝貢(皇帝にみつぎものを差し上げること)する属国の形式でしか外国の存在を認めず、支那以外の世界各地域は支那に朝貢しなければならないと考えて来た。世界各地の支配者はシナの皇帝の冊封(天子の命で官・位を授ける書きつけである『冊』により諸侯に封禄・爵位を授けること)によってその地位と権力を認められる、とする。こうした中華思想には対等な外交関係はあり得ない。

 この「中華思想」が支那歴代王朝の精神であり、「共産中国」も「中華」という呼称に固執している以上変化はない。毛沢東も鄧小平も江沢民も習近平も支那の皇帝であり、国内的には残虐にして強固な独裁体制、国外的には侵略思想・差別思想を持ち続けている。

 このように中華思想こそ、とてつもない帝国主義思想・差別思想なのである。支那という言葉が差別語ならば、「中華」「中国」という言葉はそれ以上に差別語である。

 支那民族が今でもこのような考え方を持っていることは、その国号を「中華人民共和国」と称し、「中華人民共和国」成立の後にはチベット及びベトナム侵略を行っていることによって明白である。中華思想は今も脈々と生きているのである。そのすぐ隣の国がわが国なのである。

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千駄木庵日乗九月二日

午前は、諸事。

午後三時より、永田町の衆議院第二議員会館にて、『明治の日推進協議会運営委員会』開催。相澤宏明氏が司会。古屋圭司衆院議員、山田宏参院議員、田沼たかし千葉県会議員がスピーチ。全員で討論。

議員会館内は、思ったより静かでした。夕刻、しばらくぶりに都心を歩きましたが、人出はすごく少なく感じました。

帰宅後は、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2020年9月 2日 (水)

「中国」という名称の国は存在しない

 日本と「中国」との友好ということが言われ、かつて日本が支那大陸に進出して戦ったことを「日中戦争」などと言っている。

 しかし、支那という地名はあるが、「中国」という名称の国家は地上に存在しないし歴史的にもこれまで存在したことはない。現在、支那大陸に存在しているのは「中華人民共和国」と称する共産主義国家を標榜する独裁政権である。

 また日本は「中国」という国と戦争したことはこれ迄ただの一回も無かった。日清戦争は言うまでもなく日本と「清国」との戦争であり、支那事変や大東亜戦争の時に戦った相手は蒋介石軍であり毛沢東軍であった。この二つの軍隊は支那大陸全土を代表する国軍ではなかった。南京には終始日本に協力した南京国民政府即ち汪兆銘政権があった。

 「中国」とか「中華」は、正式な国名でも民族名でも地名でもなく、文化概念である。ゆえに支那大陸に存在する政権のみが「中国」とか「中華」を名乗る資格があるのでは断じてない。

 日本も自国のことを「葦原中国(あしはらのなかつくに)」と言う。また、江戸前期の儒学者・山鹿素行が赤穂配流中に著した歴史書は『中朝事実』という。中朝とはわが日本のことである。つまり、わが日本国も中国なのである。この書は、「日本は神国なり、天皇は神聖なり」という思想が根幹にあり、後世のいわゆる日本主義思想に大きな影響を与えた。山鹿素行は我が日本こそ文化概念としての「中国」であって、支那は「中国」にあらずとの前提に立っている。  

 渡辺はま子という歌手がおられた。戦前においては、『支那の夜』『蘇州夜曲』『愛国の花』、戦後においては『サンフランシスコのチャイナタウン』『ああモンテンルパの夜は更けて』というヒット曲を飛ばした大歌手である。戦前は支那大陸の戦地の慰問、戦後はフィリッピンのモンテンルパに収容されていた日本人戦犯者の釈放運動に挺身した文字通り<愛国の花>である。ところが渡辺はま子女史の最大のヒット曲『支那の夜』はテレビなどで歌うことはできなかった。「支那という呼称は蔑称であり『中国』といわなければ国際問題になる」というのがその理由であった。日本人の誤った観念がこの名曲を歌ったり聞いたりする機会を奪ったのである。

 支那が蔑称であるのなら、支那そば・東シナ海・インドシナ半島という呼称も蔑称になる。

 支那という呼称をわが国およびわが国民が用いたとて支那及び支那人を蔑視したことにはならない。そもそも何処の国もそして国連などの国際機関も支那のことを支那(China)と呼称している。

 支那とは、秦帝国(始皇帝が周および六国を滅ぼして天下を統一した王朝)の「秦(シン)」の音変化に由来し、サンスクリット語の仏典を漢訳した時から漢字では支那と書くようになった。以来、支那人自身が用いてきた言葉である。だから諸外国も支那と呼称するようになり、英語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語などでも支那と呼んでいる。英語ではChina(チャイナ)と呼称した。支那は歴史的名称であり、わが国も支那と呼称するようになったのである。何故にわが国民が支那を支那と呼称すると差別・蔑視になるのか。

 また、中華人民共和国・中華民国という国は存在していても「中国」という国はこの地球上に存在しないし、かつて一度も存在したこともない。支那大陸に中国という国は存在しないのだから支那を中国と呼ぶことはできないのである。

 わが国は古代より「日本」が国号である。ところが、支那は「五千年の伝統」などと威張ってはいるが、革命が繰り返されて、一つの王朝が継続してこなかった。したがって一つの国号が続かなかった。すぐ思い浮かぶだけでも隋・唐・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国と実に多く国名が変わった。こんなに国名が変化しているのにわが国に対して「中国と呼ばなければ駄目だ」などと指図する資格はない。

 日本のみが支那と呼んではいけないというのは、呉智英氏が言われるごとく明らかに日本に対する差別である。日本に対してのみ支那を中国と呼ばせるのは、支那が日本を属国と思っているからであり、日本人を西洋人より下に見て、差別し蔑視しているからである。こうしたシナの日本に対する差別観念は中華思想から来ている。

 支那大陸では色々な民族が混在したり融合したりして来たし、種々の国が相次いで興亡を繰り返してきた。それはヨーロッパにおいてギリシアやローマが相次ぎ、種々の民族が混在したり融合して来たのと同じである。
 
和辻哲郎氏は「同じシナの地域に起こった国であっても、秦漢と唐宋と明清とは、ローマ帝国と神聖ローマ帝国と近代ヨーロッパ諸国とが相違するほどに相違している…ヨーロッパに永い間ラテン語が文章語として行われていたからと言って、直ちにそれがローマ文化の一貫した存続を意味するのではないように、古代シナの古典が引き続いて読まれ、古い漢文が引き続いて用いられてきたからと言って、直ちに先秦文化や漢文化の一貫した存続を言うことはできない。」(『孔子』)と論じられている。
 
支那大陸を統一したといわれる秦、そしてその後の漢の大帝国も、人倫を喪失した権力団体なのであり、「天子」と言われる君主も実質は権力者・覇者であって、とてもわが日本のような天皇を中心にした同一の文化と信仰と伝統をもって統一された信仰共同体・人倫国家ではなかった。強いもの勝ちの覇道(権力・武力・経済力・権謀術数の力)が支那を制したのである。またそうした覇道でなければあの広大な大陸を統一できなかったのだ。

 従って支那大陸に生活する人々は親子・夫婦・兄弟といった家族関係即ち血縁共同体たる「家」を大切にしても、国家観念はきわめて希薄であった。支那の古典『十八史略』に「日出て作り、日入りて息(いこ)ふ、井を鑿りて飲み、田を耕して食ふ。帝力我に何かあらむや」という言葉があるのでも分かる通り、支那大陸に住む人々の生活は家を中心としていて国家の保護や干渉は否定していたのである。それだけ権力者が好き勝手は事をして民衆を苦しめてきたということである。それは今日の共産政権も同じである。
 
第二次世界大戦後、中国共産党の一党専制政治によって、支那大陸全体が一つの国家として存在しているように見えるが、これはむしろ不自然な状態である。支那大陸の共産主義独裁体制が崩壊するのは時間の問題である。そうなったら大陸は、群雄割拠の分裂状態になる。即ち支那大陸本来のあり方に戻ることは目に見えている。少なくとも満洲・北支・中支・南支・チベット・内蒙古・台湾はそれぞれ独立しては別々の国となる事によってしか、支那大陸とその周辺の安定は図られない。「十億以上の民を単独の政権でまとめるのは難しい。上海料理・北京料理・広東料理・四川料理・台湾料理という料理で分けるべきだ」という意見もあるくらいである。

 要するに支那大陸は様々な氏族が覇を競い様々な王朝が興亡を繰り返した来た地域であって、全体が一貫した文化伝統を有する統一した国家ではあったことはなかった。天皇を中心に時間的連続性地域的統一性を連綿として維持し続けてきた信仰共同体国家たるわが日本とは、全くその性格を異にする地域が支那なのである。

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2020年9月 1日 (火)

千駄木庵日乗九月一日

午前は、親族来宅。室内清掃。

午後からは、在宅して書状執筆、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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