和銅元年戊申、天皇の御製の歌
ますらをの 鞆(とも)の音すなり もののふの おほまへつぎみ 楯立つらしも
和銅元年は西暦七〇八年。第四三代・元明天皇(天智天皇第四皇女・持統天皇の異母妹)の御製。
元明天皇は、斉明天皇七年(六六一)-養老五年(七二一)。草壁皇子の妃となり、文武・元正両天皇をお生みになる。二十九歳の時、夫君・草壁皇子が薨去され、さらに皇子の文武天皇が崩御されると、御年・四十七歳で天皇に即位された。在位八年二ヵ月で、皇女・元正天皇に譲位される。
「ますらを」は、武人のこと。漢字で益荒男(ますます荒々しい男)と書く。人並み外れて強い男といふ意。
「鞆」は、弓を射る時に用いる皮製の防具で、左手の指の内側に巻きつけて弦が当たるのを防いだ。「鞆の音すなり」は、兵士たちが弓を引く練習をしてゐる音がするといふ意である。
「もののふ」は、宮廷に仕へる文武百官。「おほまへつぎみ」は、大臣のこと。「楯」は、矢・刀・鉾などを防ぐ防具。
「おほまへつぎみ」とは太政大臣・左右大臣・内大臣の総称。この時の右大臣は、石上麻呂(いそのかみのまろ)。そして石上氏は元来、武の力で天皇にお仕へして来た物部氏であったので、この御歌の「もののふのおほまへつぎみ」を、石上麻呂とする説がある。物部氏は石上神宮の鎮座する辺りの氏族であり、朝廷の武を司ったといふ。
大和朝廷の武器庫のあったところに鎮座し、建甕槌神(たけみかづちのかみ)が中洲(なかつくに)を平定した時(出雲の國譲り)に帯びた神剣の御霊である「布都御魂大神」(ふつのみたまおほかみ)を、御祭神としているお宮が石上神宮である。
しかし、通説では「おほまへつぎみ」を、石上麻呂と特定せず、広く元明天皇の侍臣をいふとしてゐる。
通釈は、「勇敢な兵士たちの鞆の音がする。もののふの大臣が楯を立てて戦ひの準備をしてゐるらしい」といふほどの意。
「楯を立てる」とは、戦争の準備をしてゐるといふことである。緊迫感のある歌。しかも、女帝の御歌であるところに注目点がある。
この御製が歌はれた年の翌年の和銅二年(七〇九)三月に、陸奥・越後の蝦夷を撃つための軍が派遣された。この御製は、東國警備・蝦夷討伐準備のための兵馬の訓練をしてゐる様子或いは狩りへ出発する光景を歌はれたものといふのが通説てある。
しかし、この御製に和した次の御名部皇女の御歌を拝すれば、そのやうなことを歌はれた御歌ではないとする説もある。
この御歌が詠まれたのは、文武天皇が崩御され、元明天皇が御即位あそばされた翌年であるから、何か政情不安があったのかもしれない。
梅原猛氏は、物部氏の系統である石上麻呂は、元明天皇の奈良への遷都の御計画に反対して不気味な動きをしてゐたと説く。石上麻呂の配下の兵士たちが朝早く楯を立てて出陣の準備をしてゐるといふのである。
それはともかく、この御製には、天皇として責任を強く感じられてゐる気迫が漲ってゐる。「鞆の音すなり」に強い緊迫感溢れる響きがある。
通説に従へば、この歌は狩りの準備か軍事訓練の際の御製であり、天皇の御命令に従って、東北へ出発する兵士たちの心を思はれて、平安と無事を祈られた御歌である。
御名部皇女が妹君・元明天皇を励まされた御歌
御名部皇女(みなべのひめみこ)の和(こた)へ奉(まつ)れる御歌
わが大君 ものな思ほし 皇神(すめがみ) の嗣(つ)ぎて賜へる 吾無(われな)けなくに
御名部皇女が元明天皇の御製にお答へした御歌。御名部皇女は、天智天皇の皇女にして元明天皇の同母姉君である。母は、曽我石川麻呂の娘・宗我嬪。高市皇子の室となり、藤原氏の讒言によって滅ぼされた長屋王をお生みになった。
「わが大君」は、元明天皇の御事。たとへ実の姉君であっても、妹に対して「わが大君」と呼びかけられたのである。「ものな思ほし」のナは禁止の副詞。「もの思ふ」は思ひ悩む意。
「皇神」は皇祖神の御事。スメは、「アマテラススメオホミカミ」(天照皇大神)「スメラミコト」(天皇)「スメミマノミコト」(皇御孫命)のスメと同じ。「スメラ」とは最高・最貴の語の語根であって、「皇神」は神聖な神・皇祖神の御血統であることを端的に意味する言葉。「スメラ」は、「澄む」といふ形容詞から発生したとされる。「濁りなき高貴さの属性」に力点を置いた尊称で、「政治的・宗教的に聖別された状態」を意味するといふ。
「嗣ぎて賜へる」のツギテは継ぎ手か。「後継ぎを賜った」といふ意と思はれる。御名部皇女と高市皇子との間の御子・長屋王は、当時三十三歳。一方、文武天皇の皇子・首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)はまだ八歳であらせられた。
長屋王は有力な皇位継承者であられたので、その母君であられる御名部皇女がこのやうな御歌を歌はれたのである。元明天皇を励まされた背景には、有力な皇位継承者・長屋王を皇子にお持ちになってゐる自信があったからであだといはれてゐる。しかし、長屋王は、前述した通り、聖武天皇御即位の後、藤原氏の讒言によって滅ぼされる。
「吾無けなくに」は、私がゐないわけではない、といふ意。
通釈は、「わが大君よ、ご心配なさいますな。皇祖神から後継ぎを賜ってゐる私がをりますから」といふほどの意。つまり、「わが大君よ、何も心配なさいますな。皇祖神の御血統を継承する長屋王が居りますから」と申し上げて、何事かを心配されておられる元明天皇を励まされてゐるのである。
この元明天皇が抱かれた「ご心配」とは一体どういふ事なのかが問題なのである。妹君の「ますらをの鞆の音すなりもののふのおほまへつぎみ楯立つらしも」といふ御製に答へ奉って、姉君が「わが大君ものな思ほし皇神の嗣ぎて賜へる吾無けなくに」と歌はれた二首の御歌のしらべの緊迫感を拝すれば、「おほまへつぎみ」の軍事的行動の準備とは、単に蝦夷の不穏な動きへの準備よりも重大な不穏な動きへの準備とする説が有力になって来る。
歌の配列も、このお二方の御歌の前に、後に滅ぼされる長屋王の「宇治間山」の御歌が置かれてゐる事も何か意味があるやうに思はれる。
『萬葉集』は大伴家持が編纂したといふ説が有力である。家持及び大伴氏は、藤原氏に対抗し、藤原氏から圧迫を受けてゐた。『萬葉集』は藤原氏への批判といふか反発の思ひがその奥底に流れてゐるといふのである。ゆゑに、歌の配列も意味深長なものになってゐるといふのである。
また、保田與重郎氏は、本居宣長の「嗣ぎて賜へる吾無けなくに」の「吾」は「君」の誤記であるといふ説に賛同してゐる。さうすると、「皇神の嗣ぎて賜へる」は「皇祖神から与へられられ継承されてきた」といふ意になり、「あなたは皇祖神の血統を継ぐ天皇なのだから心配することはない」といふ意味になる。
保田氏は、「『皇神の継ぎて賜へる』といふのは、皇位はすべて天つ神皇祖神の議(はか)り定められしものだといふ天降りの思想を現されたものにて、御位は天つ神々の定め賜ふものゆゑ、大御心にかけて思ひ案ぜられるやうなことは何一つもあるわけがありませぬ。……大御心安らかにませと、お力づけ、またお慰め申された御歌である」(わが萬葉集)と説かれてゐる。
文学作品や歴史書に限らず、重要な文献は一字違っただけで、意味が全く変わってしまふ。文献学が如何に大事かが明らかである。
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