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2020年7月 4日 (土)

「國民主権論」の憲法への明記はわが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある


 美濃部達吉氏は、「主権の観念は近世の初期以来、主としてフランスにおいて初めには君主主権説の形において君権の擁護のために主唱せられ、後には一転して國民主権説の形において社会契約説と相結合し、広く世界に大なる影響を及ぼし、ことに米國諸州の英本國よりの独立、米合衆國の成立、フランス革命等につきその思想的基礎を与えたのである。」(『日本國憲法原論』)

大石義雄氏は、「主権在民とは國民主権とかいう言葉は、日本の歴史にはなじまない言葉である。西洋の歴史は、君主退國民の政治闘争の歴史であるから、君主の手に握られていた主権が國民の手に移ったことを示す用語として、主権在民又は國民主権という言葉は、その歴史を示す言葉として適当である。しかし、日本では、皇室対國民の政治闘争の歴史がないのである。」(『憲法改正の根本問題』)と論じてゐる。

小森義峯氏は「國民主権の思想は、國家契約思想や天賦人権思想と結びつくものであり、それら一連の思想は、とりわけ近世初頭において、専制君主の横暴と抑圧に苦しめられていたという、君民対立・抗争の西洋の歴史と風土の中から生まれたものである。そして、それらの思想を言葉を換えて、一言で表わせば、キリスト教的自然法思想と称することができる。」(『正統憲法復元改正への道標』)

小室直樹氏は「主権理論を最初に明確な形で打ち出したのが、フランスの思想家ジャン・ボタンである。…ルイ十四世に代表される『絶対王権』が出現する…その絶対王権の出現にいわばお墨付きを与えたのがボダンの理論なのである。ボダンは、國家は何者にも縛られない『主権』を持っていると主張した。…それ以前の世界では、王といえども臣下の特権を無視することはできなかったし、また、信仰面ではキリスト教会の法王の足元にひれ伏さなければならなかった。さらに傳統主義から逃れることも出来なかった。だが、ボダンによれば、自由に法を制定・改廃することができる。まさにルイ十四世が言ったとおり、『朕は國家なり』なのだ。このボダンの理論によって、中世の王國ははじめて『國家』(stato)になることができた。近代國家の始まりである。」(『日本國憲法の問題点』)

このやうに、国民主権論は全くわが国の国柄とは相容れないのである。そもそも日本天皇が日本國の君主であらせられ、統治者であらせられるのは、天皇が絶対的な政治権力者であらせられといふことではない。それは、武家専横時代の歴史を見れば余りにも明らかである。日本國の政治権力者は藤原氏・平氏・源氏・北條氏・足利氏・徳川氏と転変を繰り返したが、大君・君主は神聖なる権威の保持者であらせられる上御一人・日本天皇であった。日本國の君主=天皇は、権力のあるなしには全く関はりなく君主であらせられ天皇であらせられる。ゆへに國民主権論を我が國の憲法の基本原理にするのは絶対に誤りであり、國體を隠蔽し、國柄を破壊することとなる。

わが國の歴史には、天皇が主権=國家の最高権力を独占的に掌握し独裁専制政治を行ってゐたなどといふことは全くない。『大日本帝國憲法』にも、「天皇に主権がある」とは全く書かれてゐない。

 わが國は天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體である。西洋國家論で言ふところの契約國家・権力國家ではない。我が國は君民一體の國柄である。西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」を奪ひ合ったといふ歴史は全くない。天皇の政治的権力によって國民が圧迫されたこともない。

故に、君主と國民が対立関係にある國家ではない。國王と人民が主権争奪戦を繰り広げた歴史を持つのは欧米諸國である。従って「主権」が「君主にあるのか、國民にあるのか」などといふことを成文憲法に規定すること自體わが國の國柄とは相容れない。「國家の意思を最終的に決定する権力」という意味での「主権」なる概念と言葉は、天皇中心の信仰共同體國家日本には全くそぐはない。

西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定することは、大きな誤りであり國體を隠蔽し國體破壊につながる。「國民主権論」が憲法に書かれている事が、をわが國の國家傳統の破壊、共和制革命への突破口になる危険がある。

小生は、小学校時代の國会見学で、参議院議場を見学したとき、担任の教師が、天皇陛下の玉座を指差して、「今にああいふものはなくなります」と言ったのを今でも鮮明に覚えてゐる。「國民主権」などといふ概念が憲法に盛り込まれている限り、かかる教育が行はれる危険があるのである。

日本國の統治の大権は建國以来天皇にある。そして天皇の統治大権は権力支配組織の支配権力ではなく、信仰共同體(人格國家)を「しろしめす」といふ意義である。天皇の日本國統治とは、決して権力によって支配されるといふことではない。

三潴信吾氏は「帝國憲法第一条の『統治ス』は、政治に限らず、國家・國民の活動の一切にわたっての根源者、総親たらせ給ふの意で、ここでいふ『統治』は権力作用たる『統治権』のことではない。日本古来の傳統的『やまとことば』で云ふ『しろしめす』のことである。」(『日本憲法要論』)と論じてゐる。

 それでは「やまとことば」の「しろしめす」(「しらしめす」ともいふ)とは一體いかなる意義なのであらうか。「しろしめす」は「知る」の尊敬語である「知らす」にさらに「めす」といふ敬意を添へる語を付けた言葉である。『續日本紀』に収められてゐる文武天皇の宣命には「現御神と大八島國知ろしめす天皇」とある。また『萬葉集』では「御宇天皇代」と書いて「あめのしたしらしめししすめらみことのみよ」と読んでゐる。この場合の「知る」とは単に知識を持ってゐるといふ意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握するといふほどの意であろう。

天皇が、天下の一切の物事を「お知りになる」ということは、<無私>の境地であられるといふことであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれているといふことである。<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。

 先に引用させていただいた文武天皇の宣命にはさらに「天津神の御子ながらも、天に坐す神の依さし奉りし随(まにま)に、聞こし看し(め)し来る此の天津日嗣高御座の業と現御神と大八島國知ろしめす倭根子天皇命の授け賜ひ負せ賜ふ…」と示されてゐる。また『萬葉集』巻十八所収の大伴家持の長歌に「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代…」とある。

 「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られて、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下をお知りになる(お治めになる)といふ、きわめて信仰的な意義があるのである。天皇の統治は決して権力行為ではない。

 『大日本帝國憲法』において「しらしめす」の漢語表現として「統治」といふ言葉を用いたのである。そしてこの「統」といふ言葉は統べる(統一する)といふ意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)とふ意である。明治天皇は、明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになってゐる。このお言葉こそまさしく「治める」の本質であると拝する。無私と慈愛といふまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。

『大日本帝國憲法』の起草に当たった井上毅は「御國の天日嗣の大御業の源は皇祖の御心の鏡持て天か下の民草をしろしめすという意義より成立したるものなり。かゝれば御國の國家成立の原理は、君民の約束のあらずして一の君徳なり。國家の始は君徳に基づくといふ一句は日本國家学の開巻第一に説くべき定論にこそあるなれ」「わが國の憲法は欧羅巴の憲法の写しにあらずして即遠つ御祖の不文憲法の今日に発達したるなり」(『梧陰存稿』)と論じてゐる。

これは「社会契約論」否定の正統なる論議である。君主と民とは相対立しており國家は君と民、あるいは民同士の契約によって成立するなどといふ西洋法思想・國家観は、日本の國體観念・天皇観とは全く異質なものであると井上毅は説いてゐるのである。

 ただ、井上毅はここで「君徳」と言ってゐるが、日本天皇は人としての「徳」よりももっと深い「祭り主としての神聖権威」、日本傳統信仰の言葉で言えば「御稜威」(みいつ)によって國家を統治したもうのである。

御稜威とは天皇の有される神霊の威力といふべきものである。折口信夫氏は「御稜威」について、「みいつといふ語の語根いつといふ語は、稜威といふ字をあてる…いつのちわき・いつのをたけびなどといふ風につかってゐます…天子に傳り、これが内にある時は、その威力が完全に発現するところの権威の原動力なる魂の名でありました。」(『神々と民俗』)「天子には天皇霊といふべき偉大な霊魂が必要であって、これが這入ると、天子としての立派な徳を表されるものと考へられてゐました。その徳をみいつといふ語で表してゐます。…これは天皇靈の信仰上の名稱でした。」(『鳥の聲』)と論じてゐる。そしてその御稜威(天皇靈)は大嘗祭において新しき天皇のお體に入るとされる。

 歴代天皇には「人」としての徳がいかにあられやうと、歴聖一如の「御稜威」によって國家を統治したまうのである。今上天皇におかせられては、大嘗祭を執行されて現御神となられ、御稜威を保持されてゐることはいふまでもない。

國體護持を祈る憲法学者は、國體に沿って『現行憲法』を解釈して、「主権が國民に存するであれば、國民の中に天皇も含まれる」とし、また「國民の総意とは今現在生きてゐる國民だけでなく、神武建國以来未来永劫ずっと続くところの日本國民全員の総意、ルソーのいふ普遍意思のやうなものだから、『天皇制』は永遠に持続する。」と主張してゐる。
日本國體にそって解釈すれば、『現行憲法』のいふ「國民の総意」とは、決してある時点における國民各個人の集合による多数決の総計結果ではなく、永遠の過去から永遠の未来にわたる日本國民の普遍的な意志即ち日本國體精神のことである。したがって、わが國が革命によって國體が否定されるか、日本國が地上から何らかの事情によって消滅しないかぎり永遠に変る事はないとすることができる。

憲法をはじめとした成文法及び國家機関の正統性は、天皇を中心とする日本國體の上に立脚してゐるところにある。天皇の正統性は成文憲法に立脚するのでは断じてない。成文憲法は、あくまでも不文憲法=日本國體にのっとって解釈すべきである。

『現行憲法』上の「國民の総意」は選挙人である國民及びその代表者の國会議員の多数意思(=多数決の総計)ではない。言ひ換へると、天皇の御地位は、共和國の大統領のように國民の投票によって選ばれた御存在ではない。申すも恐れ多いことであるが、現行憲法下で、「天皇選出の選挙」が行なはれた事は一度もない。

『現行憲法』の「國民の総意」とは三千年の長い歴史の中で、遠い祖先から継承され培はれてきた「日本國民の傳統的な普遍意思」といふ解釈が、日本國體に合致した解釈である。『日本國憲法』が、形式上は日本國體に基いて制定された『大日本帝國憲法』を改正した憲法であるとされてゐる以上、さういふ解釈以外あり得ない。

大野健雄氏(元宮内庁総務課長)は「総意に基づくというのは、この天皇の御地位は肇國以来子々孫々の末に至るまで、國民の総意を以てお護りしてきたし将来もするのであるぞ、という過去の事實と将来の決意を中外に宣明したものと解すべきである。金森國務相も…議會において『現在の瞬間に生きている日本國民ではなくて…過去及び将来の人をも併せ考えうる考え方である』と言い又『過去、現在、未来という区別なく一つの総意である』と述べているのは、その意味である」(『天皇のまつり』)と論じてゐる。

『現行占領憲法』の「(天皇の御地位は)主権の存する日本國民の総意に基く」といふ条文を、憲法九十六条の「憲法改正は各議院の総議員の三分の二以上の賛成、國民の過半数の賛成を必要とする」といふ条文に基き、「國民の多数意思によって『天皇制』は廃止され得る」と解釈するのは誤りである。

しかし、本来「國民主権論」は、前述した通り日本國體とは合致しない欧米近代の革命思想である。解釈論争が生じてしまふやうな「國民主権論」を憲法の基本原理とすることは國體破壊の道を開く危険がある。

葦津珍彦氏は、「将来の憲法改正においては、君民対決の連想を誘発させる『國民主権』の語を削り、日本國君民一致の精神に基づき『統治権の総攬者(統合し掌握する者)としての天皇の』の地位を復元すべきものと思ふ。」(『天皇・神道・憲法』)と論じてゐる。

日本の傳統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立ってゐる『現行憲法』が長く続けば続くほど、麗しい傳統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。現行占領憲法は一刻も早く破棄し、日本國の建國以来の國柄へ回帰し、現代の混迷を打開しなければならない。

憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現してゐない「天皇条項」があるから、日本は安定を欠いてゐるのである。正しき自主憲法を制定するに当たっては、天皇中心の日本國體を正しく成文化すべきである。『現行占領憲法』は、君主と人民とは相対立する存在であり國家とは國民同士が契約して成立するものであると考へる西洋法思想・西洋國家観に貫かれており、日本國體の根幹を正しく規定してゐない。むしろ『現行憲法』は國體破壊もしくは隠蔽の元凶になっている。「護憲」の名のもとに数々の國體破壊もしくは隠蔽が行はれている。
 今日においても、神話の世界のままに、天の神の祭り主の神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現実の國家元首と仰ぎ、國家と民族の統一の中心として仰いでゐる。これは日本の麗しい自然と稲作生活が完全に滅びない限りつつくであろう。長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、激しい変革を繰り返して来た國なのである。その不動の核が天皇である。

外来思想である「君主と対立する人民が國家の主権者である」といふ「國民主権論」がわが國の國家傳統の破壊しやうとしてゐる。それが一般國民の常識となって浸透してゐることは實に以て、國家存立の基礎を揺るがす事實である。

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