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2020年6月21日 (日)

徳川幕府を崩壊させたのは國民全体が古来より持っていた尊皇の心であった

正しく國史を概観すれば、万民の苦難を救い、さらに外國からの侵略の危機という有史以来未曾有の國難を打開するためには、天皇がわが國の統治者であるというわが國體の真姿を正しく開顕し、日本國民は天皇を唯一の君主として仰ぐという國民的自覚を高揚せしめ、天皇中心の政治体制を確立することが絶対要件であったのである。明治維新においては、天皇中心の國體を明らかにするには、徳川幕藩体制の打倒は必要欠くべからざることであった。公武合体路線や幕藩体制では國難が突破できなかったのである。

 徳川軍一万五千(會津・高松・浜田・大垣各藩及び旗本・新選組・見廻組等から構成)は、慶應四年一月二日、老中格・大河内正質(まさただ)を総督として京都に進発した。新政府軍(薩摩・長州・芸州・彦根・西大路各藩などで構成)がこれを迎え撃ち、鳥羽・伏見両方面で戦闘が開始された。戊辰戦争の勃発である。

一月四日には、議定・嘉彰親王が征討大将軍に補任され、錦旗と征討の節刀を賜り、洛南の東寺に陣を置いた。錦旗が新政府側に翻ったことは、旧幕府軍が朝敵・賊軍になったことを意味する。

 五日まで激戦が続いたが、南下した追討軍が翻す錦旗を遠望した旧幕府軍は浮き足立ち、藤堂藩・淀藩をはじめ御三家・紀伊藩など近畿各藩が新政府軍側についてしまった。これにより、旧幕府軍は陣形・士気ともに崩壊し、敗走する。皆、朝敵となるのを恐れたのである。

 そして、徳川慶喜は一月九日、大阪城を脱して海路江戸に向かった。これにより、新政府軍の勝利が決定的となった。

 鳥羽・伏見における薩長その他新政府軍と、旧幕府軍との兵力比は一対三で、旧幕府軍が圧倒的に有利であった。また、海軍力も財力も旧幕府軍が新政府軍より優勢であった。にもかかわらず、新政府軍が勝利を収めたのは、錦旗の威力すなわち現御神日本天皇の御稜威(神聖権威)によるとしか考えられない。天皇に反抗して戦いを行うことはできないという「尊皇精神」が旧幕府軍にあったから、戦いを続行できなかったのである。

 このときの状況を西郷隆盛は、慶應四年一月三日付けの大久保利通に宛てた書状で、次のように書いている。

 「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。追討将軍の儀如何にて御座候や。明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候間、何卒御尽力成し下され度く合掌奉り候」。

 尊皇の大義名分を基とした正しき國史『大日本史』を編纂し、尊皇攘夷運動の発火点となった水戸藩の出身であり、烈公・水戸斉昭の実子である徳川慶喜が、錦旗に歯向かうことなどできよう筈がなかったのである。

 鳥羽・伏見の戦い・大阪城脱出・江戸城明け渡し、という慶喜の姿勢を「不甲斐ない」と批判する史家もいる。現に新政府の東征軍が士気を鼓舞するために歌った『宮さん宮さん』(別名『トンヤレ節』或いは『錦の御旗』)には、「宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいな/トコトンヤレトンヤレナ/あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか/トコトンヤレトンヤレナ」「一天万乗のみかどに手向かいする奴を……覗(ねら)いはずさずどんどん撃ちだす薩長土…」「おとに聞こえし関東武士(ざむらい)どっちへ逃げたと/問うたれば…城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」

 この歌は、わが國近代軍歌の濫觴といわれる。作詞は征東軍参謀・品川彌二郎(長州藩士。後に内務大臣・宮中顧問官)、作曲はわが國陸軍の創設者といわれる大村益次郎(周防の人。長州で兵学を講じ、戊辰戦争で新政府軍を指揮。明治二年、兵部大輔となるも同年暗殺される)である。

 「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか」という歌詞に、新政府軍が錦旗の権威を拠り所としていたことが歌われている。また、「おとに聞こえし関東武士どっちへ逃げたと問うたれば城も気概も捨てて吾妻へ逃げたげな」という歌詞に、大阪城を脱出し江戸に帰ってしまった徳川慶喜への侮蔑の念が現れている。

 しかし、この歌詞は、慶喜にとってあまりにも酷である。彼の尊皇心が「大阪脱出」「江戸城明け渡し」を行わしめたのである。

後年、慶喜はその心情を次のように語ったという。「予は幼き時よりわが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸家は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤を抽(ぬき)んでねばならぬ』と。予は常にこの遺訓を服庸(心につけて忘れない)したが、いったん過って朝敵の汚名を受け、悔恨おのづから禁ぜす。ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである」。

 慶應四年(一八六八)一月十九日、フランス公使・ロッシュは、江戸に帰って来た徳川慶喜に面會し、「再挙」(新政府軍に再度武力戦を挑むこと)を促した。しかし慶喜はこれを拒絶し、次のように語ったという。曰く「わが邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過(あやま)たば末代まで朝敵の悪名免れ難し。……よし従来の情義によりて当家に加担する者ありとも、斯くては國内各地に戦争起りて、三百年前の如き兵乱の世となり、万民其害を受けん。これ最も余の忍びざる所なり。されば唯当家衰運の然らしむ所と覚悟し、初より皇室に対し二心なき旨を幾度も申し披(ひら)き、天披を待つの外なきことなり。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として市民の父母となり國を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。此上尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊威に対して既に忠臣にあらず、まして皇國に対しては逆賊たるべし。……」(『徳川慶喜公伝』)。
 
また、徳川慶喜は渋沢栄一に次のように語ったと書かれている。「(鳥羽・伏見の戦いで仼)やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては、(慶喜は仼)益(ますます)驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刄向かうべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑(會津と桑名)を諭して帰國せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよといひ放ちしこそ一期の不覚なれ。』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」(『徳川慶喜公伝』)。
 
『勝海舟日記』(慶應四年二月十一日付)には、徳川慶喜が勝海舟ら幕臣たちに、次のように語ったと記されている。「我不肖、多年禁門(朝廷のこと)に接近し奉り、朝廷に奉対して、御疏意(疎んじられること)なし。伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも、朝敵の汚名を蒙るに至りて、今また辞無し(言葉もない)。ひとへに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せむ。且爾等憤激、其れ謂れ無にあらずといへども、一戦結で解けざるに到らば、印度支那の覆轍(失敗の前例・印度や支那が内部に混乱によって西欧列強に侵略されたこと)に落ち入り、皇國瓦解し、万民塗炭に陥らしむるに忍びず。…臣等も我が此意に体認し、敢て暴動するなかれ、若(もし)聞かずして、軽挙の為さむ者はわが臣にあらず。……」。
 
要するに旧幕府=徳川慶喜は、天皇の神聖権威に刃向かう意思は全くなかったし、刃向かうこともできなかったのである。慶喜は足利高氏になりたくなったのである。かくて江戸城明け渡しが行われた。慶喜の天皇への忠誠心が明治維新を成就したと言っても過言ではない。
 
さらに言えば、現御神日本天皇の御稜威を畏(かしこ)んだのは、徳川慶喜及び旧徳川幕府軍のみではない。一般國民もまたしかりであった。鳥羽・伏見の戦いで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のように記している。
 
「(慶應四年仼)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候。」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。
 
徳川幕府を崩壊させたのは、岩倉・西郷・大久保等の策謀でもなければ、薩摩・長州・土佐などの武力でもない。それはわが國民全体が古来より持っていた尊皇の心であったのである。

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