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2020年6月24日 (水)

高山彦九郎の歌に学ぶ

東山 のぼりてみれば あはれなり 手のひらほどの大宮處(おほみやどころ)

高山彦九郎

寛政三年(一七九一)、光格天皇の御代、高山彦九郎が四十五歳の作と推測される。

歌意は、「東山に登ってみると悲しく思はれることである。手のひらほどに小さい御所(を遥拝すると)」といふ意。

「一天万乗の聖天子」「上御一人」の住まはれるにしては、あまりにも質素で小さい京都御所を拝しての実感であり、彦九郎の「尊皇精神」「恋闕の情」がひしひしと伝はってくる。

光格天皇の御代には、「天明の大飢饉」や「皇居焼失」などの事があり、光格天皇は大変に宸襟を悩まらせられたと承る。さういふことへの嘆きもこの歌には含まれてゐると思はれる。

高山彦九郎は、延享四年(一七四七)五月八日、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に、高山彦八正教の次男に生まれ、名を正之、仲繩と号した。家は名主を勤めた豪農で、祖先の高山遠江守重栄は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として高名をはせたといふ。

十三歳の時に『太平記』を読んで尊皇の志を抱き、十八歳の時、志を立てて郷里を出た。京の都に入るや、三条大橋の上に至り、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、跪いて遥かに内裏(皇居)を伏し拝んだ。今、三条大橋東詰(三条京阪駅前)に「高山彦九郎皇居望拝之像」が建てられてゐる。昭和三年に建設されたが,昭和十九年に金属供出のため撤去され、昭和三十六年に再建された。

二年間京都に滞留、この間多くの学者に学んだ。帰国後六年間家業に従ったのち、各地を遊歴して「勤皇論」を説いた。前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友した。

そして、水戸、仙台、松前を回り、寛政三年(一七九一)、北陸路から再び京都に入った。岩倉具選(江戸時代中期・後期の日本の公卿。岩倉家七世の祖。篆刻を善くした。公卿としては主に後桜町上皇に仕へ、その院別当などを務めた)宅に寄留した。この時「奇瑞の亀」を献上したことにより、光格天皇から謁を賜った。

川田順氏は、「如何にして彦九郎が天顔に咫尺し奉るを得たか。…寛政三年春、近江國高島郡の一漁師が、湖水で緑毛龜を生捕った。大變な評判になったが、たまたま彦九郎も衆と共にこれを一見し、知人の志水南涯をして飼養せしめ、清原宣條(のぶえだ)等の公卿を經て、遂に叡覽に呈するに至った。龜に毛のあるものは文治の瑞兆なるが故である。かやうな機縁にて、匹夫の彦九郎は、窃に天顔を拝するを得たのであった」(『幕末愛國歌』)と記してゐる。

高山彦九郎が、光格天皇の龍顔を拝する栄に浴した感激を詠んだ歌が次の歌である。

「われをわれと しろしめすかや すべらぎの 玉の御聲の かかるうれしさ」

「わたくしをわたくしとお知りになるであらうか、天皇陛下の玉の御声を拝聴するうれしさはかぎりない」といふほどの意である。  

この歌は、「東山 のぼりてみれば あはれなり」の歌と共に草莽の臣の上御一人に対し奉る恋闕の情を歌った絶唱であり『愛国百人一首』にもとられてゐる。

彦九郎はこの後、九州各地を遊歴し、久留米に至り、寛政五年(一七九三)六月二十七日、時世を嘆じ自刃して果てた。時に四十七歳であった。

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