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2020年6月11日 (木)

崇徳上皇御製を拝し奉りて

 「日本の歴史は天皇受難史であり、皇室哀史である」と言う人がいるが、まさにその通りである。しかし、そうでありながら常に、天皇及び皇室がわが國の文化・政治・宗教の中心であった。これがわが國體の有難くも不思議なところである。

崇徳上皇の悲運な御生涯を悲しむ人々の心が生んだ傳説がある。崇徳上皇は、長寛二年(一一六四)、御年四六歳で崩御されるまで九年間讃岐で過ごされ、終生京都への還幸を許されなかった。崇徳上皇の御陵は御遺詔によってこの白峰山に営まれた。讃岐で崩御されたので讃岐院と称されることとなった。

 崩御後、崇徳上皇の霊威甚だしくかつ峻厳にして、大火などの様々な奇瑞が都に起こった。そこで、御歴代の天皇・公家・武家は、霊威を鎮め奉るため努力した。治承元年(一一七七)七月、崇徳院の号を奉った。 

平治・治承・寿永の戦乱は崇徳上皇の祟りによると信ずる人が多かった。『保元物語』にはいわゆる<崇徳院説話>が語られている。それによると、崇徳上皇は、配流の地で、御自分の罪の償いと後生菩提のために深爪をして血判で大乗経を書写し、鳥羽天皇御陵にお納め申し上げようと京に送られたが、弟君・後白河天皇は信西入道の進言により、「罪人の手跡を、京に入れてはならぬ」と許されず讃岐に返送された。

これに激怒された上皇は、「日本國の大魔縁(悪魔のこと)となり、皇を取りて民となし、民を皇となさん」と血書し、そのお経を海底に沈められたという。のみならず上皇は髪を刈らず、爪も切らず、お召し物も着替えられず、「生きながら天狗の姿にならせ給ふ」て憤怒の體を通されたという。

そして、保元の乱の後、武家の力が強くなり、秩序が転倒した世となったのは「大魔縁」となられた崇徳上皇の呪いによるものだと信じられた。 実際、慈円著の歴史書『愚管抄』(承久二年・一二二〇成立)には「安元元年(一一七五注)七月廿九日讃岐院に崇徳院と云う名をば宣下せられけり。かやうの事ども怨霊をおそれたりけり」と記されている。また長寛二年(一一六四)から建仁三年(一二0三)にわたる九条兼実という人の日記『玉葉』には「天下の乱逆。連々として了る時無し。是偏に崇徳院の怨霊たるべし」と記されている。そして、後白河法皇の院宣により寿永三年(一一八四)四月十五日、京都粟田口に、崇徳上皇を神霊としてお祀りする神殿を建立し御霊を鎮めた。
 
第百代後小松天皇は、応永二一年(一四一四)、御陵のそばの崇徳上皇の御廟(崇徳上皇の近習が法華堂を建てて上皇御自筆の御画像を奉安し御菩提を祈っていた)に、頓證寺(頓證とはすみやかに悟りを開くこと。追善回向の功徳によって亡者が成仏するよう祈る言葉を『頓證菩提』という)の御追号勅額を奉納し給い尊崇の意を表された。
 
崇徳上皇が怨霊となられたというのはあくまでも傳説であって全て事実かどうかは分からない。しかし、崇徳上皇の悲運な御生涯を悲しむ多くの人々の心が、源平の戦いなどの世の乱れ・武士の台頭などの社會の変動と関連させて、こうした傳説を生んだといえよう。

崇徳上皇は傳統を尊ばれ歌壇の中心として活躍された。崇徳上皇に関しては、怨霊となられたという傳説ばかりが強調されるが、崇徳上皇の御天性は史書『今鏡』(作者未詳。嘉応二年・一一七0年成立)に「御こころばへ、絶へたる事を継ぎ、古き跡を興さんと思召せり」「幼くおはしましけるより歌を好ませ給ひて、……」と記されているように、上皇は國の傳統を尊ばれ、宮廷の歌壇の中心として活躍されたと傳えられる。側近から俊成、西行、寂然などの大歌人が輩出した。

 もちろん上皇御自身も次のような御歌に代表される数々の名歌を残された。
「御軍(みいくさ)敗れて 後、御室(みむろ)の寛 遍法務が房に入らせ   給ひて

思ひきや身を浮雲になしはてゝ嵐の風にまかすべしとは

 讃岐の松山の津につかせ たまひて、廳野大夫高遠 の御堂に三年過ごし   給へる時、その柱にかき つけさせたまへる

こゝもまたあらぬ雲居となりにけり空ゆく月の影にまかせて

 杉山へおはしまして後、 都なる人のもとにつかは せ給ひける

思ひやれ都はるかにおきつ浪たちへだてたる心ぼそさを     

 讃岐國にて隠れさせ給ふとて皇太后宮太夫俊成( 平安末期鎌倉初期の歌人・歌學者藤原俊成のこと注)にみせよとて書きおかせ 給ひける

夢の世になれこし契朽ちずしてさめむ朝にあふこともがな         」
 
何ともあはれにして悲しみ深き御歌である。天皇は「天の下しらしめすすめらみこと」「一天萬乗の君」と讃えられる日本の統治者であらせられるのであるが、かくの如き境遇になられる天皇も数多くおられた。そして後鳥羽上皇・後醍醐天皇を拝しても明らかな如く、そういう天皇様方はみな素晴らしき御歌をのこされている。
 
特に、崇徳上皇が崩御の際藤原俊成に贈られた「夢の世に」といふ御製はきわめて穏やかな御歌であり、とても怨霊になられたとは思えない。
 
明治天皇は、御即位式を挙げられる直前の明治元年八月二十四日、「御こころばへ、絶へたる事を継ぎ、古き跡を興さんと思召せり」という崇徳上皇の御遺徳を追慕して、讃岐から御神霊をお遷して京都飛鳥井に白峰宮を建立された。武家による政権簒奪の端緒となった保元の乱のために讃岐に御遷幸あそばされた崇徳上皇を御神霊を、武家政権打倒・王政復古の大変革であった明治維新に際して、京の都に祀られるようになったのは意義深きことである。

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