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2020年6月 1日 (月)

自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切

大地震・大津波・火山噴火・台風など、わが国は自然災害が多い。和辻哲郎氏が、その著『風土』において次のやうに論じてゐる。

 「我々は自然の合理的な性格と非合理的な性格とのいずれが著しく目立っているかによって芸術に著しい相違が現われて来たのを見る。…ヨーロッパにおいては、温順にして秩序正しい自然はただ『征服さるべきもの』、そこにおいて法則の見いださるべきものとして取り扱われた。……自然が最も重んぜらるる時でも、たかだか神の造ったものとして、あるいは神もしくは理性がそこに現われたものとしてである。しかるに東洋においては、自然はその非合理性のゆえに、決して征服され能わざるもの、そこに無限の深みの存するものとして取り扱われた。人はそこに慰めを求め救いを求める。特に東洋的なる詩人芭蕉は、単に美的にのみならず倫理的に、さらに宗教的に自然に対したが、そこに知的興味は全然示さなかった。自然と共に生きることが彼の関心事であり、従って自然観照は宗教的な解脱を目ざした。かかることは東洋の自然の端倪すべからざる豊富さをまって初めてあり得たことであろう」。

 ヨーロッパの自然は、比較的温順にして秩序正しいので、神が創造した自然は、神の創造物の中で最も高い地位にある人間によって支配され改造され利用されてよいといふ思想が生まれた。これがヨーロッパの自然観である。こうした自然観が、自然を改造し利用して科学技術を発達させたが、自然破壊につながった。

日本をはじめとした東洋の自然は比較的厳しいので、人間は自然と共生し、自然を畏怖すべきものとして接してきた。そして自然を「神」として拝み、信仰の対象にした。

われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。

自然災害はまさに自然の非合理の極であり、人間が自然を征服するどころか、自然が人間を征服することを実感させる。 

古代日本人は、人生も自然であり、人の生活は自然の中にあるものであって、人間は自然の摂理と共に生きるべきと考へた。だから西洋のやうな「自然を征服する」とか「自然を改造する」などといふ考へ方は本来なかった。

津田左右吉氏は「萬葉歌人の自然に対する態度についていふべきことは、自然を我が友として見、無情の生物を人と同じく有情のものとすることである。」(『文学に現はれたる我が国民思想の研究』)と論じてゐる。

日本人にとって自然とは、本来、対立するものでも、征服するものでも、造り替へるものでもなかった。自然を神々として拝ろがみ、自然に随順し、自然の中に抱かれて生活してきた。自然の摂理に歯向かふ時、人間は自然の報復を受けるといふことを体験的に知ってゐた。報復と言って悪ければ、摂理に逆らふことによって害を受けることを知ってゐた。日本人は古来、自然を畏敬し、順応しつつ生きて来た。

日本人のみならず近代の人類は、自然を破壊し自然の摂理に逆って、文明の進歩発展・経済発展の道をひたすら突っ走ってきたことは確かである。

「山びこ」(山の谷などで起こる声や音の反響)のことをこだま即ち「木霊」「木魂」といふ。山野の樹木に霊が宿るといふ信仰から出た言葉である。まさに日本人は、山野に霊が宿ってゐると思ひ、深山幽谷は古代人の眼から見れば、精霊の世界だったのである。

かうした信仰精神を今日に蘇らせることが自然保護の最高の方策である。法令や罰則の強化は必要ないとは言はないが、それ以前に、自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切である。それには、古代日本人の自然観が表白されている日本神話の世界や『萬葉集』の自然詠の精神に回帰することが大切である。

日本民族は、天地自然に素直なる感動と畏敬の念を持ち、天地自然を神として拝んだのである。また、死者の靈も神として拝んだ。一神教の神観念とは大きく異なる。

 それでは、日本民族の神観念と一神教の神観念とは全く相容れないかといふとさうではない。日本人の神観念には、「神はこんな形だ」というふ一定の相形(すがたかたち)はない。神の姿は無限である。だから、神はありとあらゆる姿に現れる。神は無相であると共に無限の相たり得るのである。日も月も山も海も大木も風も水も神として拝まれる。神は本来が無相であり無限であり、どんな姿にでも現れ、我々を護りたまふのである。

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