« 千駄木庵日乗五月二十六日 | トップページ | 千駄木庵日乗五月二十七日 »

2020年5月26日 (火)

国難の時期においてこそ、厭世的ではなく逃避的でもなく、清潔さを好む、明るくおおほらかなる祭祀の精神を回復すべきである

神祭りは、日本傳統精神の原点であり日本傳統文化の祖型である。神道の基本行事たる「祭り」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。祭祀は、〈神人合一〉の行事である。

「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰るといふ行事である。言ひ換へると、禊祓ひによって生成の根源に回帰するといふことである。「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」といふのである。

「祭り」とは厳粛なる行事ではあるが、堅苦しい苦行ではない。明るく愉快な行事である。神人融和・神人合一の状態は明るく面白いのである。

「阿波礼、阿南於毛志呂、阿南多乃之、阿南佐屋気、於気於気(あはれ、あなおもしろ、 あなたのし、あなさやけ、おけおけ)」
日の神たる天照大御神の再臨は、笑ひによって實現した。日本民族にとって「笑ひ」とは、暗黒や邪気を除去し明るい日の神を迎へる歓びであった。つまり祭りの原義と一體である。

日本人が「まつり」が好きなのは、日本人が本来明るい性格の民族であるからである。「面白い」といふの言葉は、實に天の岩戸開き以来の言葉である。神人合一とは、明るい面白い境地なのである。

これは、天照大神が天の岩戸からお戻りになり、世界が明るさを取り戻した際、天の岩戸の前で神々が歌ひ踊って喜ぶ場面の掛け声である。

日の神たる天照大御神の再臨は、笑ひによって實現した。日本民族にとって「笑ひ」とは、暗黒や邪気を除去し明るい日の神を迎へる歓びであった。つまり祭りの原義と一體である。

日本人が「祭り」が好きなのは、日本人が本来明るい性格の民族であるからである。「面白い」といふの言葉は、實に天の岩戸開き以来の言葉である。神人合一とは、明るい面白い境地なのである。決してしかめつらしい境地ではない。

厭世的でもなければ逃避的でもないといふのが我が國民性である。いかなる困難も罪穢も神を祭ることによってこれを打開し祓ひ清めることができる信じ続けてきてゐるのである。

また「さやけ」といふ言葉には、日本人の清潔好きといふ感覚が表現されてゐる。面白く、楽しく、清らか、といふのが「まつり」なのである。

ここに日本神道=日本傳統信仰の特質がある。「難行苦行を経なければ神の許しを得ることはできない。そして神は常に人間に対して罪を犯したら裁く、神に背いたら報復すると脅し続ける」といふ恐怖の信仰ではない。

今日のやうな大国難の時期においてこそ、厭世的ではなく逃避的でもなく、清潔さを好む、明るくおおほらかなる祭祀の精神を回復すべきである。

民族の魂の甦りであり日本の道統への回帰である維新の精神を、最もよく表白した歌は伴林光平の次の歌である。

 「度會(わたらひ)の 宮路(みやぢ) に立てる 五百枝杉(いほえすぎ) かげ踏むほどは 神代なりけり」

 伊勢参宮の時の実感を詠んだ歌である。伊勢の神宮は度會郡に鎮まりましますゆえに伊勢の参道のことを「度會の宮路」と申し上げる。「五百枝杉」とは、枝葉の茂る杉のこと。「伊勢の神宮に茂る杉の木陰を踏み行くと今がまさしく神代であると思われ、自分自身も神代の人のように思われる」というほどの意である。

「今即神代」が日本伝統信仰の根本である。伊勢の神宮に行くと今日においても誰でもこの思いを抱く。近代歌人のこれと同じ思いを歌に詠んでいる。

窪田空穂は

「遠き世にありける我の今ここにありしと思ふ宮路を行けば」と詠んでいる。

 今を神代へ帰したいという祈り即ち「いにしえを恋うる心」がそのまま現状への変革を志向するのである。しかも光平のこの歌は、それを理論理屈ではなく、日本人の美的感覚と文芸の情緒に訴えているのだ。だからこそ多くの人々に日本の道統への回帰を生き生きと自然に神ながらに促すのである。

 光平は「いにしえを恋うる歌」を詠みつつそうした絶対的な信念に根ざしつつ現実の変革への行動を起こした。それが文久三年(一八六三)の天誅組の義挙への参加である。

同年八月十三日攘夷祈願のため大和に行幸され畝傍の神武天皇山陵に親拝される旨の勅が下った。これを好機として一部の公家や勤皇の志士たちは倒幕を決行せんとし、「天誅組」を名乗って決起した。ところが八月十八日に政変が起こって朝議が一変し、大和行幸は中止となった。決起した志士たちは逆境に陥り、壊滅させられてしまった。伴林光平は天誅組に記録方兼軍義方として参加したが、捕らえられ、元治元年二月十六日京都にて斬罪に処せられた。光平の歌でもっとも人口に膾炙している歌は、
 
 「君が代は いはほと共に 動かねば くだけてかへれ 沖つしら浪」

 である。京都にて斬刑に処せられる際の辞世の歌と伝えられる。死への恐怖などというものは微塵もないこれほど堂々としたこれほど盤石な精神の満ちたこれほど力強い辞世の歌は他にあるまい。

 「君が代はいはほと共に動かぬ」という信念は光平の「神代即今」「今即神代」という深い信仰が基盤になっているのである。草莽の志士たる光平をはじめとした天誅組の烈士たちの熱い祈りと行動が、王政復古そして維新の原動力となったのである。

|

« 千駄木庵日乗五月二十六日 | トップページ | 千駄木庵日乗五月二十七日 »