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2020年5月 1日 (金)

日の神を祭る祭祀共同體が我が國の起源であり本質である

伊勢の神宮に奉斎されてゐる神鏡が、崇神天皇の御代に皇居からお出ましになり、大和笠縫の地に奉斎され、ついで垂仁天皇の御代に伊勢に奉斎されたと傳へられてゐるが、この事は、天照大御神が皇室の御祖先神であらせられると共に、日本民族全體の祖先神・御親神であらせられることを示したと思はれる。

『記紀』の神話は、かうした神聖なる宗教的統一が行はれた日本國生成の物語が語られてゐる。

柳田國男氏は、「皇祖が始めてこの葦原中つ國に御入りなされたときには、既に國土にはある文化に到達した住民が居た。邑に君あり村に長ありといふのは有名な言葉で、彼等は各々その傳統の祭りを續けて居たと思はれる。それが幸ひなことには、互ひに相扞格(かんかく。お互ひに相手を受け容れないこと・註)するやうな信仰ではなかったのである。天朝はそれを公認し又崇敬なされて、いはゆる天神と地祇との間に何の差等をも立てられなかったこと、是が國の敬神の本義であり、國民も又範をそこに求めて、互ひに他の氏ゝの神祭を尊重したことは、國初以来の一大方針であったらう…それが互ひに隣を爲し、知り親しむことの深きを加ふると共に、少しづゝ外なる神々の力を認めるやうになりかけて居たといふことが、欽明天皇の十三年、新たに有力なる海外の一種の神を迎へ入れんとした機縁を爲したかと思はれる。」(『氏神と氏子』)と論じてゐる。

これはきはめて重要な論述である。日本國は各地方の共同體・村落の祭祀を廃絶し滅ぼして宗教的統一を達成したのではなく、各地方の共同體・村落の祭祀が統合され平和的に包容されて日本國といふ天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同體國家が生まれたのである。日本國は、いはゆる天孫民族が先住民を侵略し滅亡させて建國されたのではない。それは大和朝廷の「信仰・祭祀」と出雲・三輪山・葛城山など数多くの地方共同體の「信仰・祭祀」との関係を見れば明らかである。このことが、仏教といふ外来宗教を包容摂取する基盤となったのである。
日本傳統信仰たる神社神道を一般の教団宗教と同一視して、「政教分離の原則」をあてはめることはまったく日本の傳統にそぐはないことなのである。全國津々浦々隅から隅まで神社があり、鎮守の神様が祀られてゐる。日本は神社國家と言って良い。

宗教的祭祀的権威による國家の統一とは、これを迎へる民にとっては、日の大神の来臨であり、豊饒と平和とをもたらす神の訪れであった。古代における天皇の各地巡幸と國見の行事はその継承であらう。

 ともかく日の神を祭る祭祀共同體が我が國の起源であり本質である。権力・武力によって統一されたり建國された國ではないのであるから、欧米の諸國家とはその成り立ちが全く異なるのである。ゆへに、欧米國家観によって我が國體を規定してはならない。

天皇と國民と國土は靈的・魂的に一體の関係にある。神話とは、現實の歴史を反映し理想化して描いた物語であり伝承である。日本國の祭祀的統一の歴史が、神話において物語られた。君主と國民とは対立関係にあるのではないし國家と國民も対立関係にあるのではないことは、日本神話に示されてゐる。

村岡典嗣氏は、「(國家の神的起源思想の特色として・註)國家成立の三要素たる國土、主權者及び人民に對する血族的起源の思想が存する。即ち皇祖神たる天照大神や青人草の祖たる八百萬神はもとより、大八洲の國土そのものまでも、同じ諾册二神から生れ出たはらからであるとの考へである。吾人は太古の國家主義が實に天皇至上主義と道義的關係に於いて存し、天皇即國家といふのが太古人の天皇觀であったことを知る。皇祖神が國土、人民とともに二神から生れ、而も嫡子であると考へられたのはやがて之を意味するので、換言すれば天皇中心の國家主義といふに外ならない。」「日本の國家を形成せる國土(即ち大八洲)と元首(天照大神)と、而してまた國民(諸神)とが、同じ祖神からの神的また血的起源であるといふことである。」(『日本思想氏研究』四)と論じてゐる。
日本國は神の生みたまひし國である。日本國の肇國・建國・生成は、決して武力や権力による統一・結合そして支配被支配関係の確立ではない。

伊耶那岐命・伊耶那美命は、自然神であると共に、人格神であらせられた。岐美二神はお互ひに「あなにやし、えをとめを」「あなにやし、えをとこを」(『本当にいい女ですね』『本当にいい女ですね』)と唱和されて、國生みを行はれた。二神の「むすび」「愛」によって國土が生成されたのである。國土ばかりではなく、日本國民の祖たる八百萬の神々もそして自然物も全て岐美二神のよって生まれたのである。

國土も自然も人も全てが神の命のあらはれであり、神靈的に一體なのである。これが我が國太古からの國土観・人間観・自然観である。

日本神話においては、天地が神によって創造されたのではなく、二柱の神の「愛・むすび」によって國土が生まれた。つまり神と國土・自然・人間は相対立し支配被支配の関係にあるのではなく、神靈的に一體の関係にあるのである。ここに日本神話の深い意義がある。神と人とが契約を結び、神は天地を創造し支配するといふユダヤ神話とここが全く異なる。

伊耶那岐命が伊耶那美命に「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。故(かれ。だから・註)この吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に、刺し塞ぎて、國土(くに)生みなさむと思ふはいかに」とのりたまふた。
伊耶那岐命が「國土を生みなさむ」と申されてゐるところに日本神話の素晴らしさがある。

中西進氏は、「(世界各地の神話は・註)人類最初の男女神は、人間を生んでいる。國を生むのではない。ところが、日本神話ではそれが國生みに結び付けられ、國土創造の話に転換されている。これは日本神話の特色で…」(『天つ神の世界』)と論じられてゐる。

岐美二神は、単に大地の創造されたのではなく、國土の生成されたのである。太古の日本人は劫初から、國家意識が確立してゐたのである。この場合の「國家」とは権力機構としての國家ではないことはいふまでもない。

天皇と國民と國土の関係も、対立関係・支配被支配の関係にあるのではない。契約関係・法律関係にあるのでもない。靈的魂的に一體の関係にある。これを君民一體といふ。

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