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2020年4月10日 (金)

祭祀とは神人合一の行事である

先日も書いた通り、今日の疫病猖獗などの国難打開のために、全国の神社・仏閣に国難打開の祭祀・祈願を行うべきであろう。わが國においては、大化改新、明治維新等の大変革が実現する直前に内憂外患に見舞われ、国家の存続すら危ぶまれる状況において、全国民が一体となって、神仏への祭祀と祈願を行った。そして危機を打開し、維新変革を実現してきた。今日においても歴史に学ぶべきと考える。

「祭祀とは神人合一の行事」である。日本民族は、神に対して常に祭りを行ってきた。「まつり」は、日本民族の精神傳統・日本文化の原点である。「まつる」といふ言葉の原義は、「お側で奉仕し服従する」「何でも仰せ事があれば承りその通り行ふ」「ものを献上する」「ものを奉る」といふほどの意である。日本伝統的信仰精神の基本行事は、神を祭ること即ち「祭り」である。

「祭り」とは、神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。

「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰る行事である。

「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」と言ふの
である。

折口信夫氏は、「日本の太古の考へでは、此國の為事は、すべて天つ國の為事を、其まゝ行って居るのであって、神事以外には、何もない。此國に行はれることは、天つ神の命令によって行って居るので、つまり、此天つ神の命令を傳へ、また命令どほり行うて居ることをば、まつるといふのである。処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行致しました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になった」(『大嘗祭の本義』)「祭りごととは、食物を獻上する事に關する行動儀式といふ事であるらしい。…神の命令によって、與へられた種子を田に下して作った結果をば、神に奉り、復命する事がまつろふなのだから、まつりごとは、神に食物を獻上する事である」(『祭りの話』)と論じてゐる。

柳田國男氏は、「神の大前に侍座して暫く時を過ごす意。根本は尊敬せられるものとの対座面會、後世の語でいへば拝謁に近い語であったかと思ふ」(『神社のこと』)「マツルは…マツラフといふ語と別のものではない。今でいふならば『御側に居る』である。奉仕と謂っても良いかも知らぬが、もっと具體的に言へば御様子を伺ひ、何でも仰せごとがあれば皆承はり、思し召しのまゝに勤仕しようといふ態度に他ならぬ。たゞ遠くから敬意を表するといふだけではないのであった」(『先祖の話』)と論じてゐる。

人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が、神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。

『古事記』に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰し、現実の罪穢れ、禍事を祓い清める行事が「祭り」である。

そこで、禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。穢れたる現實・歴史を無化し清浄化して原初に回帰する。人が神のご命令に服従し、それを實現するために生活したことを復奏する。これが神道行事の基本である「まつり」である。つまり、人の本来の姿を回復することが「祭り」の原義である。

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