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2020年4月30日 (木)

民族の魂の甦りであり日本の道統への回帰である維新の精神を表白した歌は伴林光平の歌

民族の魂の甦りであり日本の道統への回帰である維新の精神を、最もよく表白した歌は伴林光平の次の歌である。

 「度會(わたらひ)の 宮路(みやぢ) に立てる 五百枝杉(いほえすぎ) かげ踏むほどは 神代なりけり」

 伊勢参宮の時の実感を詠んだ歌である。伊勢の神宮は度會郡に鎮まりましますゆえに伊勢の参道のことを「度會の宮路」と申し上げる。「五百枝杉」とは、枝葉の茂る杉のこと。「伊勢の神宮に茂る杉の木陰を踏み行くと今がまさしく神代であると思われ、自分自身も神代の人のように思われる」というほどの意である。

「今即神代」が日本伝統信仰の根本である。伊勢の神宮に行くと今日においても誰でもこの思いを抱く。近代歌人のこれと同じ思いを歌に詠んでいる。

若き日に社会主義革命思想に傾斜した土岐善麿も伊勢の神宮において、

「おのづから神にかよへるいにしへの人の心をまのあたり見む」

と詠んでいるし、窪田空穂は

「遠き世にありける我の今ここにありしと思ふ宮路を行けば」と詠んでいる。

 今を神代へ帰したいという祈り即ち「いにしえを恋うる心」がそのまま現状への変革を志向するのである。しかも光平のこの歌は、それを理論理屈ではなく、日本人の美的感覚と文芸の情緒に訴えているのだ。だからこそ多くの人々に日本の道統への回帰を生き生きと自然に神ながらに促すのである。

 光平は「いにしえを恋うる歌」を詠みつつそうした絶対的な信念に根ざしつつ現実の変革への行動を起こした。それが文久三年(一八六三)の天誅組の義挙への参加である。

同年八月十三日攘夷祈願のため大和に行幸され畝傍の神武天皇山陵に親拝される旨の勅が下った。これを好機として一部の公家や勤皇の志士たちは倒幕を決行せんとし、「天誅組」を名乗って決起した。ところが八月十八日に政変が起こって朝議が一変し、大和行幸は中止となった。決起した志士たちは逆境に陥り、壊滅させられてしまった。伴林光平は天誅組に記録方兼軍義方として参加したが、捕らえられ、元治元年二月十六日京都にて斬罪に処せられた。光平の歌でもっとも人口に膾炙している歌は、
 
 「君が代は いはほと共に 動かねば くだけてかへれ 沖つしら浪」

 である。京都にて斬刑に処せられる際の辞世の歌と伝えられる。死への恐怖などというものは微塵もないこれほど堂々としたこれほど盤石な精神の満ちたこれほど力強い辞世の歌は他にあるまい。

 「君が代はいはほと共に動かぬ」という信念は光平の「神代即今」「今即神代」という深い信仰が基盤になっているのである。草莽の志士たる光平をはじめとした天誅組の烈士たちの熱い祈りと行動が、王政復古そして維新の原動力となったのである。

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千駄木庵日乗四月三十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理、書状執筆、連載原稿執筆・脱稿・送付。

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2020年4月29日 (水)

今日、日本國が存在し、日本民族が生きてゐるのは、実に喜びも悲しみも國民と共にされた昭和天皇の仁慈の大御心による


昭和天皇は、國民を鼓舞激励し、祖國の復興を成し遂げるために、昭和二十一年二月二十日より二十九年まで満八年半をかけて、行程三萬三千キロ、総日数百六十五日間の地方御巡幸を行はせられた。それは昭和天皇の「國見」であったと拝する。

「國見」とは、國土と國民の祝福し、國土の豊饒と國民の幸福を祈る祭事である。昭和天皇は、敗戦によって疲弊した國土と國民の再生のための「祈りの旅」を行はせられたのである。

昭和天皇は、「戦災地視察」と題されて次のやうなお歌を詠ませられた。

戦のわざはひうけし國民をおもふ心にいでたちて来ぬ

わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ

國をおこすもとゐとみえてなりはひにいそしむ民の姿たのもし

 鈴木正男氏は、「敗戦國の帝王が、その戦争によって我が子を亡くし、我が家を焼かれ、その上に飢餓線上をさ迷ふ國民を慰め励ます旅に出かけるなどと云ふことは、古今東西の歴史に絶無のことであった。アメリカをはじめとする連合軍は、恐らく天皇は國民から冷たく迎へられ、唾でもひっかけられるであらうと予想してゐた。ところが、事実は逆であった。國民は熱狂して天皇を奉迎し、涙を流して萬歳を連呼した。…天皇の激励によってストは中止され、石炭は増産され、米の供出は進み、敗残の焦土の上ではあったが、國民は祖國再建の明るい希望に燃えて立ち上がった。」(『昭和天皇のおほみうた』)と論じてをられる。

昭和天皇は、ご生涯をかけて日本國の天皇としての御使命を果たされたのである。それはただただ國民の幸福と平和の実現であった。そして昭和天皇が退位されずそのつとめを果たされたからこそ、戦後日本の復興と國民の幸福があり得たのである。

昭和天皇様は終戦直後に次のやうな御製を詠まれて國民を励まされた。(昭和二十一年一月二十二日の歌會始でご発表)御年四十四歳。

ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ

 敗戦の悲しみ・苦しみを降り積もる雪に喩へられ、松の緑が雪に覆はれても色を変へないで雄雄しくしてゐるやうに、日本國民もどのやうな困難に遭遇しても、くじけることなく雄雄しく生きていくことを望む、といふ大御心を示したまふたのである。國家國民が戦勝國アメリカの占領下に置かれても、日本國民としての誇りを失ってはならないといふ御心を示された拝する。この御製は國民への呼びかけであると共に、御自身の御決意の御表明でもあったと拝する。

 昭和四十五年、昭和天皇は「七十歳になりて」と題され次のやうなお歌を詠ませられた。

ななそぢを迎へたりけるこの朝も祈るはただに國のたひらぎ

よろこびもかなしみも民とともにして年はすぎゆきいまはななそぢ

昭和天皇におかせられては、終戦以来、ただただ國家の平和と國民の幸福を祈り続けられたのである。今日、日本國が存在し、日本民族が生きてゐるのは、実に喜びも悲しみも國民と共にされた昭和天皇の仁慈の大御心によるのである。

昭和天皇が御不例になられ、昭和六十三年九月二十二日、皇居坂下門をはじめ全國十二ヶ所の宮内庁施設で、「お見舞記帳」が開始されて以来、一般記帳者の数は、八百萬をはるかに超へた。

昭和六十四年一月七日午前六時三十三分、昭和天皇は宝算八十九歳をもって崩御あそばされた。皇居前など全國の記帳所における記帳者は、一月七日から十六日までの間に二百三十三萬二千七百九十一人にのぼった。一月二十二日から二十四日まで、殯宮一般拝礼が許されたが、三日間で三十三萬九千百人が拝礼を行った。

平成元年二月二十四日の御大喪の儀では、御轜車がお通りになる沿道には、氷雨の中五十七萬人余の人々がお見送り申し上げた。
日本國民の大多数は、昭和天皇が退位されずに日本國の君主としてその責任を果たされ続けられたことに対し奉り、満腔の敬意を表し感謝してゐたことは、この事実を見れば明らかなことである。

つねにご自分を無にして、國の安泰・民の幸福・五穀の豊穣を神に祈られる祭主・日本天皇は、権力や武力で國家・國民を支配と従はせるという覇者ではあらせられず、祭祀主としての信仰的権威と御徳によって國民をしろしめしてこられた。

わが國は、天皇を中心として発展し統一を保ってきた國である。日本は、天皇中心の國體を護持しさらにその本当の姿を顕してこそ、正しく発展していく事が出来る。昭和の歴史だけでなく、元冦や明治維新など、これまで幾度か起った大きな國難の歴史を見てもそれは明らかである。日本國民は、昭和天皇の御遺徳を偲び、且つ、昭和の光輝ある歴史を回顧し、さらには、皇室を中心とするわが國の歴史と傳統に回帰するべきである。

戦後日本は、戦勝國の「日本つぶし」の嵐の中にあっても、たくましく生き抜き、経済復興を立派に遂げてきた。この戦後日本復興の原動力は、つねに日本國民の幸福を願はれてきた昭和天皇の大御心である。そして、天皇を仰慕し、戦前・戦中を生きぬいて来られた多くの先人・先輩の方たちの血と汗のにじむご努力を私たちは忘れてはならない。

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千駄木庵日乗四月二十九日


午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、資料の整理・検索など。

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『現行占領憲法』の「似非平和主義」は悪徳の思想である

今日、ロシア、共産支那そして南北朝鮮のわが国に対する軍事的圧迫・恫喝はますますひどくなっている。これを断固として跳ね返すことが国家緊急の課題である。

ニコライ・ベルジャーエフ(注・ロシアの哲学者。マルキストであったが、ロシア革命を経て転向し、反共産主義者となる。神秘主義に基づき文化や歴史の問題を論じた。十月革命後にパリに亡命。1874年-1948年)は次のように論じている。

「戦争を大なる悪、大なる罪として弾劾せざるをえないにしても、別な極端に堕して断然抽象的な平和主義に懸命になることはいましめなければならない。われわれの世界が現存しているこの悪の状態においては、戦争はより小なる罪禍である得る。帝国主義的征服戦争、圧制戦争が絶対的に悪いにしても、解放戦争、自衛戦争はたんに義認されるのみでなく神聖とみなされる。…忍耐は一美徳ではある。しかし忍耐がかえって悪を鼓舞することに役立つ場合には、悪徳に変わりうるわけである。…戦争の完全放棄は、人間社会の精神状況の変化と社会秩序の改革の結果としてのみ可能である」(『神と人間の実存的弁証法』)。

この主張は、『現行占領憲法』の「似非平和主義」への批判になっている。

『現行占領憲法』前文の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章こそ「極端に堕した断然抽象的な平和主義」である。

現実を無視した『現行占領憲法』の「似非平和主義」はまさにベルジャーエフの云う通り、「忍耐がかえって悪を鼓舞することに役立つ場合には、悪徳に変わりうる」のである。『現行占領憲法』の「似非平和主義」は悪徳の思想である。

今日の国際社会は「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる」などということはない。「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視して」いる。

冒頭に記したようにもロシア・共産支那・南北朝鮮は、「専制と隷従、圧迫と偏狭」を地上に拡散し、「自国のことのみに専念して他国を無視」している国々である。そんな国々に「公正と信義」などというものはカケラもない。存在しないのもに「信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」などということは全く危険千万の考えであり祖国を滅亡へと導く。だから「現行占領憲法」を「亡国憲法」と言うのである。

「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めて」などということとは全く逆のこと、即ち「戦争を好み、専制と隷従、圧迫と偏狭」を自国民そして隣国に強い、「帝国主義的征服戦争、圧制戦争」を行う共産支那・北朝鮮を「近隣国家」に持つわが国は、義認されるのみでなく神聖とみなされる自衛戦争を行う権利があるである。わが国の憲法にはそのことが正しく書かれていなければならない。

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千駄木庵日乗四月二十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内清掃・資料整理など。

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2020年4月28日 (火)

明治維新と水戸藩の「尊皇攘夷思想」

井伊直弼を斃したのは水戸学を学んだ水戸脱藩の志士達であった。幕末における水戸藩の「尊皇攘夷思想」が端的に書かれた文は次の文である。

天保十四年に、福井藩主松平春嶽公に対して、水戸藩主徳川齊昭公が示した「治国」についての文章に「一、国守身持心得方之事、天朝公辺への忠節を心懸、内は士民撫育之世話、外は夷狄奸賊防禦之手当為肝要候」。

国守即ち藩主として、朝廷へ忠節を尽くすこと、藩士と領民の面倒をよく見ること、そして外敵の侵略に対して国土を守る備へをすべきことを論じてゐる。明治維新における水戸烈公と松平春嶽公の貢献は非常に大きかった。しかも水戸藩は御三家の一つ、福井藩は徳川家康の長男と松平秀康を藩祖とする親藩筆頭である。

水戸学の泰斗・藤田東湖が、主君・徳川齊昭に奉った文章で次のように論じてゐる。

「先づは関東の弊風にて、日光等さへ御立派に候へば、山陵はいか様にても嘆き候者も少なき姿に御座候、…日光御門主〈輪王寺宮〉を平日御手に御附け遊ばされ、万一の節は、忽ち南北朝の勢をなし候意味、叡山へ対し東叡山御建立、其の外禁中諸法度等の意味、実に言語を絶し嘆かはしき次第、右等を以て相考へ候へば、京所司代などは、以心伝心の心得ぶり、密かに相傳り仕り候かも計りがたく、実意を考へつめて候へば、一日も寝席を安んじかね候次第」。

徳川幕府の朝廷への不敬を厳しく糾弾した文章である。かうした正統なる尊皇精神が徳川御三家の一つ水戸徳川家に存したといふことは実に以て驚くべき事である。明治維新、尊皇討幕運動は水戸藩の「尊皇攘夷思想」から発したのである。

水戸学の精神が記された文章が『弘道館記』である。水戸藩の藩校・弘道館は藩政改革に燃えた第九代藩主・徳川斉昭(烈公)が、天保十二年(一八四一)に創立した。

徳川斉昭(寛政十二<一八00>~萬延元年<一八六0>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与へた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終へるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来るといった情勢にあった幕末当時のわが國の危機を救ふための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩などでもなどでもかうした教育振興策が講じられた。

弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎(水戸藩士、水戸學の祖・藤田幽谷の思想を発展させた。東湖と共に尊皇攘夷運動の思想的指導者)・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられている。

藤田東湖は、文化三年(一八0六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷(彰考館総裁・『正名論』により水戸學を確立)の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛えられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。
東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されているように、『館記』は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいという志で書かれた。
『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなわっている大道)にして……弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考え)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の霊も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されてゐる。

『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬ひ、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせようとしたのである。『館記』は水戸學の精神が端的に表現されてゐる文である。この『館記』の解説書が藤田東湖の『弘道館述義』である。

藤田東湖は「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、万方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、実に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べてゐる。

徳川幕藩體制打倒の基本思想が徳川御三家の一つ・水戸徳川家から発したといふ事実は驚嘆に値する。

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千駄木庵日乗四月二十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆・書状執筆など。

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2020年4月27日 (月)

一昨日そして今日と、同志の方からマスクをいただくというご厚情を賜り、本当に有難く思っております


本日も、同志の方より、沢山のマスクをお送りいただきました。ご厚情本当に有難うございました。

何もさせて頂いていないのに、このようにご心配いただくことは恐縮千万です。これからも、精一杯言論活動に精励させていただきたいと思います。

文章を書くことが私の与えられた使命であると思っています。「言論報国」などという大袈裟な事ではなく、これまで勉強してきたこと、そして今、勉強していることを文章にして多くの方々のご参考になればと思っています。独り善がりの議論も多いかと思いますが、宜しくお願い致します。

ともかく、一昨日そして今日と、同志の方からマスクをいただくというご厚情を賜り、本当に有難く思っております。

以下は、大分前に書いた文章ですが、再掲載させていただきます。

            〇

「言論と羞恥心

三島由紀夫氏は、『若きサムラヒのための精神講話』(『全集』第三十三巻所収)で、次のやうなことを書いてをられる。

「日本の男性ほど羞恥心に満ちた男はなかった。…私は、日本では戰後女性の羞恥心が失はれた以上に、男性の羞恥心が失はれたことを痛感する」「言論の自由に名のもとに、人々が自分の未熟な、ばからしい言論を大聲で主張する世の中は、自分の言論に對するつつしみ深さといふものが忘れられた世の中でもある。人々は、自分の意見――政治的意見ですらも何ら羞恥心を持たずに發言する。…われわれの若い時代には、言ふにいはれぬ羞恥心があって、自分の若い未熟な言論を大人の前でさらすことが恥ずかしく、またためらはれたからであった。そこには、自己顯揚の感情と、また同時に自己嫌惡の感情とがまざり合ひ、高い誇りと同時に、自分を正確に評價しようとするやみ難い欲求とが戰ってゐた」「羞恥心は單に肉體の部位にかかはるものではなく、文化全體の問題であり、また精神の問題である」と。

日本文化は「名と恥の文化」と言はれる。「名を惜しむ」「恥を知る」といふのは日本人の強い感性といふか、道義心であらう。

今日、ホームページとか、ブログとか、ツイッターとかが発達して来たので、文章を書きそれを多くの人々に発表するといふことが実に容易にできるようになってゐる。それだけに、文章を書きそして他人に読んで頂くといふことについてのつつしみ深さが希薄になってゐるのかもしれない。

私も毎日毎日、文章を書き続け、発表してゐる。三島氏のこの文章を読んで、大いに反省させられた。実行できるかどうかは分からないが、つつしみ深く、恥をかくことのないやうな文章を書きたいと思ふ」。

            〇

皆様方のご厚情・ご支援に感謝しつつ、筆を置かせていただきます。

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千駄木庵日乗四月二十六日

午前は、諸事。

『政治文化情報』発送。読者の皆様には明日お届けできると存じます。

午後からは、在宅して、室内清掃。原稿執筆。明治維新史特に「坂下門外の変」について書いています。

本日も、同志の方より、沢山のマスクをお送りいただきました。御厚情本当に有難うございました。

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2020年4月26日 (日)

今日思ったこと

母が入院していた時、その病院の医師から言われた次の言葉は忘れることはできません。「四宮さんが八十歳、九十歳になる頃は、病院のベッド数は不足し、入院できなくなります」と。その上、医師・看護師・介護士も不足するとなると大変なことです。

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孝明天皇と明治維新

孝明天皇は、御名は統仁(おさひと)と申し上げ、仁孝天皇の第四皇子。弘化三年二月(一八四六)践祚。翌年御即位。慶応二年(一八六六)十二月二十五日、御年三十六歳で崩御。二十年にわたる御在位期間は、まさに内憂外患交々来たる大国難の時期であった。孝明天皇は、神仏に国家の危機打開を祈願されるばかりでなく、德川幕府を叱咤督励し、国民を激励された。

二度目のペリー来航があった嘉永七年(一八五四)、孝明天皇は次の御製をお詠みになった。

「あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異國(とつくに)の船」(嘉永七年。ペリー来航の翌年)

安政五年(一八五八)一月、德川幕府は朝廷に『日米修好通商条約』批准の勅許を奏請したが、朝廷は外国の勢威を恐れた屈辱的な開国をお許しにならなかった。同年六月幕府は、井伊直弼主導の下、朝廷の意向に反して、孝明天皇の勅許を得ずして、アメリカと『日米修好通商条約』を調印した。また将軍継嗣の決定でも、独断専行した。

孝明天皇は条約締結に震怒あそばされた。『岩倉公実記』の「米国条約調印二付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなりと深く幕府の専断を嘆かせたまひ、六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の「勅書」において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何国迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候。」と仰せになり、条約締結は神国日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことはあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

さらに、孝明天皇が、同年八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下国家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

そして、孝明天皇は、

「あぢきなやまたあぢきなや蘆原のたのむにかひなき武蔵野の原」(御詠年月未詳)

との御製を詠ませられた。武蔵野の原とは、徳川幕府のことである。

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の国家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主体はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事実中の大事実をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

征夷の実力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させた。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一国家建設=明治維新の開始であった。

吉田松陰は、同年七月十三日に、長州藩主に提出した『講大義』において、それまでの幕府容認の姿勢を転換して、「…幕府ハ…墨使ニ諂事シ、天下ノ至計ト為ス。国患ヲ思ハズ、国辱ヲ顧ミズ、而シテ天勅ヲ奉ゼズ、神人皆憤ル。コレヲ大義ニ準ジ、討滅誅戮シテ然ル後ニ可ナリ。少シモ宥スベカラザルナリ」と論じ、討幕の姿勢を明らかにした。

全国的規模で「幕府は、アメリカの恫喝に屈し、朝廷のご命令を無視して開国した」との批判が巻き起こってしまった。幕府の違勅とそれに対する孝明天皇の震怒が、倒幕運動を急激に大きくしたのである。思想的・理論的な「尊皇統幕思想」は脈々と継承されてゐたが、全国の志士が決起したのは、幕府が勅命に反して『日米修好通商条約』を批准したこと、そしてそのことに対し、ひたすら國の行く手を憂ひ給ふ孝明天皇が震怒されたことによるのである。

幕府批判の動きが活発化すると、井伊直弼は、「安政の大獄」を起して弾圧した。憤激した尊皇攘夷の志士たちにより、安政六年三月三日に井伊直弼誅殺の「桜田門外の変」が起った。

孝明天皇はこの年の七月二十六日に、

「こと國もなづめる人も殘りなく攘ひつくさむ神風もがな」

といふ御製を詠ませられた。
また、次のやうな御製ものこされてゐる。

「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」(年月不祥)

井伊直弼誅殺後、孝明天皇は、文久二年五月十一日付渙発の『時局を御軫念の御述懐の勅書』(別名「時局御軫念の御述懐一帖」)では次のやうにお示しになった。

「惟に因循姑息、舊套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内疲弊の極、卒には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏まば、朕、實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕實に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して、以て報ぜん事を計れ。」

幕府が攘夷を決行しなければ、神武天皇、神功皇后の御事績に倣ひ、孝明天皇御自ら、軍事的行動を起こされると宣せられたのである。幕府は恐懼し、「勅書」を体して「奉勅攘夷」を貫くことを堅く誓約した。

小田村寅二郎氏は、この『時局御軫念の御述懐一帖』について、「この御文章は、ここに謹撰申上げた悲痛極りない御製の数々と共に、幕末を語るすべての日本人が必読すべきものとしてぜひごらんいただきたいと思ふ。」(『歴代天皇の御歌』)と論じてゐる。

孝明天皇の國を憂ひ民を思はれる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新であった。君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守らうといふ國粋精神が日本の独立を守った。そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。

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千駄木庵日乗四月二十五日

午前は、諸事。「政治文化情報」発送作業。作業は完了したのだか、郵便局によると本日は集荷ができないとのこと。どうも集荷の係員が全員出勤していないようである。困ったことだ。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、原稿執筆など。

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2020年4月25日 (土)

持つべきものは良き友であると今更のように実感しました


昨日の本欄で、小生が買い物に行った時、薬局でマスクを買うことができず、魚屋さんでマスクを一枚いただいたということを書きましたが、本日夕刻、心配をして下さった同志の方がわざわざ多くのマスクを届けて下さいました。本当に有難いことでございます。持つべきものは良き友であると今更のように実感した次第です。

それにしてもこの大きな国難が何時終るのか、終息するのは皆目分からないことが問題です。人通りが激減していますが、それは企業活動や生産活動が正常に行われていないということで、私は経済については全く素人ですが、経済への悪影響は相当凄まじいものになっていると思います。どういうことになるか本当に心配であります。

小池都知事は「スーパーには三日に一回行って下さい」と言っていますが、小生はもともと三日に一回くらいしかスーパーに行っていません。独身ですし夜は大体外食でしたから、食料などをそれほど沢山買う必要がなかったからです。このところ近所の食堂や居酒屋が休業しているので困っています。しかし、商店街やスーパーは何時ものように賑わっていますので、安心して買い物をしています。「自炊もまた楽しからずや」です。

小生個人のことはともかく、日本の医療態勢が意外と弱体であることに驚きました。「医療崩壊が始まっている」などと言われています。確かに医師や看護師がウイルスに感染してしまう、さらに、病院のベッドが足りない、治療器具も足りないということは大変な事態です。医師や看護師でさえマスクが手に入らないというのは一体どうしてでしょうか。

ともかく、国民が助け合い協力し合ってこの国難を乗り切っていかねばならないと思います。そしてそれには政治のリーダーシップ正しく発揮され機能すべきであります。

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2020年4月24日 (金)

千駄木庵日乗四月二十四日

午前は、諸事。室内清掃。

午後からは、資料整理、原稿執筆の準備など。

夕刻、同志来宅。マスクを届けて下さる。有難し。

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わが國の天照大神信仰が佛教的に表現されたのが奈良の大佛の造立だった

わが國の天照大神信仰が佛教的に表現されたのが奈良の大佛の造立だった

天平時代には、「天然痘の流行」「長屋王の変」「旱魃による飢饉」「藤原広嗣の乱」などが續いた。聖武天皇は御心を悩ませられ、様々の災厄の原因は御自身の不徳にあると自覚せられた。一切を自己の責任とされる「すめらみこと」の仁慈の大御心が、佛教の慈悲の精神と一致し、仏教信仰と佛の慈悲と加護によって災厄から國家・國民を救ひたいと念願あそばされた。

佛教とりわけ『金光明最勝王経』に説かれてゐる〈四天王の國土擁護の思想〉で、國を救済しようと思し召されたと承る。

そして、天平十三年(七四一)三月に『詔』を発せられて、諸國に國分寺(金光明四天王護國寺)・國分尼寺(法華滅罪寺)を建立するように命じられた。これらの寺は、鎮護國家の祈りを全國的な規模で行おうとしたものであった。

『國分寺建立の詔』(天平十三年三月廿四日)には「頃者(このごろ)、年穀(ねんこく)豐(ゆたか)ならず、疫癘(えきれい)頻(しきり)に至る。慙懼(ざんく)交(こもごも)集りて、唯勞して己を罪す。是を以て、廣く蒼生の爲に、遍く景福を求む。…聖法の盛なること、天地と與に永く流へ、擁護の恩、幽明に被りて恒に滿たむことを」と示されてゐる。

つまり、聖武天皇は國分寺の建立によって、國民の幸福を希求し、佛法が永遠に盛んになってその恩沢が満ちること即ち佛法による國家・國民の救済を願はれたのである。

聖武天皇は、天平十五年(七四三)『盧舎那大佛造立の詔』を発せられ、鎮護國家の祈りを全國的規模で行ふ日本國の総國分寺として東大寺を建立された。本尊は廬遮那佛(ろしゃなぶつ)である。廬遮那とは光明遍照といふ意味であり、遍く全宇宙を照らす存在としての佛である。インドの太陽神にほかならず、密教では大日如来である。「毘廬遮那佛」「遮那佛」とも言ふ。その太陽神たる廬遮那佛が蓮華座の中心(蓮華は宇宙を意味する)に座して照り輝くことによって、明るく大いなる國家の實現を願った。

様々の困難を打開し、太陽を中天に仰いで、明るい國家を建設していこうといふのが、聖武天皇をはじめとしたこの時代のわが民族の願望であった。

『盧舎那大佛造立の詔』を発せられる二年前の天平十三年(七四一)十一月三日、聖武天皇は、右大臣・橘諸兄を勅使として伊勢神宮に東大寺大佛建立の祈願を行はしめられた。 

諸兄はこの時、「当朝は神國なり。尤も神明を欽仰(注・うやまひつつしみ仰ぐこと)し奉り給ふべきなり、而して日輪は大日如来なり、本地は廬遮那佛なり、衆生此の理を悟り解いて、當に佛法に帰すべし」といふ『示現(注・神佛が不思議な靈験をあらわすこと)』を得た。

中西進氏は、「盧舎那佛さながらに君臨するのが聖武天皇の目標だった。いわゆる本地垂迹説では釈迦の垂迹したものが天照大御神だという。…聖武天皇が一方で大佛建立を進めながら、伊勢神宮に行基や橘諸兄を遣して神意をうかがわせるのも、そのひとつであろう。諸兄が伊勢神宮から帰京したのち、聖武天皇の夢に、日本は神國で、日輪は大日如来、その本地は盧舎那佛だから、佛法に帰依すべきだというお告げがあった。これは盧舎那佛と天照大神を同一視しようとする傾向の現われに違いない」(『聖武天皇』)と論じてゐる。

千葉の蓮華の真中に廬遮那佛を置いて礼拝することは、大宇宙の光明遍照の中心であるところの太陽神を礼拝することと同義である。そして、わが國においてもっとも尊貴な神として仰がれ、皇室の御祖先神と仰がれる天照大神は太陽神である。つまり、わが國の天照大神への信仰といふ傳統信仰が佛教的に表現されたのが奈良の大佛の造立だったのである。そしてその廬遮那佛は、天照大御神の生みの御子であらせられる天皇ご自身であるのである。

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千駄木庵日乗四月二十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理、原稿執筆の準備。

午後、薬局に行き、「マスクを下さい」と言ったから、「何時入荷するは分かりませんし言えません。何時から売り出すかも言えません」と大変な警戒でした。一体どうしたことでしょう。そして魚屋さんに行ったら、御主人から「マスクをしてませんね」と言われました。「何処に行っても売ってません。すぐそこのパパスにもありません」と答えたら、その御主人は、「差し上げますから使ってください」と言ってマスクを一つくれました。有難いことです。

岡江久美子さんが亡くなりました。六日からご主人の大和田獏さんは岡江さんに会えず、荼毘に付してから遺骨で帰宅するそうです。志村けんさんと同じです。気の毒な事です。志村さんも岡江さんも好感の持てる方でした。心よりご冥福を祈ります。ともかく大変な事態です。

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2020年4月23日 (木)

この頃詠みし歌

次第次第に感染者増えゆき人々の不安は増し来る末世の如く

中学時代にはじめて讀みし法華経の自我掲をば今日も忘れずにゐる

「唯仏与仏乃能究尽」といふ言葉何故か忘れず今も覚えゐる

近頃は丁寧にシャワーを浴びるなり加齢臭とやらを防がんとして

嫌な言葉を拒みて耳を塞ぎたし加齢臭とアルツハイマー

頑張りてあきなひ続けるお店にてイカと牛蒡の天婦羅買いて来ぬ

負けるものかとの心意気ひしひしと感じる夕暮れの市場

日常の喜怒哀楽を歌に詠み心たらへる我にしありける

十万円を貰ひたい人は手を挙げろと麻生財務大臣はのたまひにけり

寒き夜にパスタを食べに来たりけり幼馴染みが生みし子の店

一つの文章を書き終へて安堵の胸撫でおろす春とは言へど寒き夜の更け

人間は老い病み衰へて死にゆくが何とも切なき定めなりけり

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千駄木庵日乗四月二十二日

午前は、諸事。室内清掃。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、資料検索・整理など。

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2020年4月22日 (水)

正しき国家観に回帰し、日本国を道義国家として新生せしめねばならない


多くの人々にとってすでにご理解の事と思うが、国家について少し書いてみたい。

国家には本来、道義的正統性がなければない。しかし今日の世界には道義的正統性を継承し保持していない国家があることも事実である。しかしだからと言って、国家を否定することはできない。むしろ、国家の悪しき側面をできる限り抑制することが大切になってくるのである。そのためには国家はただ人間の共同生活を営むための装置・権力機構であるという考え方を持たないことが大切だと思う。

 人間が共同生活を営む国家という共同体には、「精神的共同体」という側面と「利益共同体」という側面がある。「精神共同体」とは共同生活を営む人間がお互いにいたわり合い助け合い愛し合い信じ合うという精神的「結び」によって成立する共同体と言っていい。一方、「利益共同体」とは人間が物質的・経済的な利益を共同して獲得し分配する共同体と言っていい。

 人間自身にも、精神的なやすらぎや信頼や安穏や道義精神を追い求める側面とともに、物質的利益や肉体的快楽を追い求め悪事を行う側面があるのと同じである。

 また、人間というものは残念ながらお互いに愛し合い信じ合い協力し合うだけではなく、他人より優位に立ちたがり、他者を憎み闘争し果ては殺し合うこともある。

 憎悪や闘争を抑制しつつ国家という共同体を秩序あるものとして成り立たせるには、強制力を持った権力機構が必要になって来る。

 ただし、この権力機構もその存立の基本をただ「力」に置くだけでなく、道義的正統性というものがなければならない。それは国家の尊厳性と言い換えてもいい。それがないとただ国家は国民と対立する暴力機構と化してしまうおそれがある。

 ともかく、国家も人間と同様に、できる限り利益追求のみに走らず、共同の道義精神に基づく立国(国の成立)につとめるべきである。そして、ただ利益のみを追求する営利至上主義国家ではなく道義国家の確立を目指さなければならない。

また力によって国民抑圧するだけの権力国家であってはならない。国家とは単なる力の支配装置ではなく、その基礎にはその国に生きる国民が等しく正しいと信ずる価値・精神的道統というものがなければならない。

 「くに(国)」という言葉がある。「国のために尽くす」とか「国を愛する」という場合の「国」とは、「精神共同体」=道義国家たる「国」である。
一方、「国に税金を取られる」とか「国に対して訴訟を起こす」という場合は「権力機構」としての「国」である。

 今日この「国」という言葉が非常に混乱して使われている。「大して国民のためにもならないのに沢山の税金を取るような国を愛することは出来ないし、そんな国に尽くすことは出来ない」という考えを持つ人がいる。

 我々国民が愛するべき国、尽くすべき国とは、単なる権力機構でもないし利益共同社会でもない。信頼と正義と愛と真心によって結ばれた精神的道義的共同体なのである。

 日本国民は道義感覚が優れていると思う。しかし、愛国心を喪失し、自分さえ良ければ他人はどうなってもいいなどという利己的な精神に冒されているように見える人がいることも事実である。

 幾億人と存在する人間というものにもそれぞれ個性があるように、国家というものも、世界の多くの国々にはそれぞれに個性があり特殊性がある。

 日本という国には民族的個性がある。と言うよりもむしろ民族的個性を離れて国家は存立し得ない。日本という国そして日本人という民族の主体的歴史性、風土、信仰精神の意義を正しく把握してこそ、正しき国家観を持つことができるとおもう。

 人間の道義精神・道義に則った生活の実現も、そして道義国家・人倫国家の回復も、抽象的な「人類普遍の原理」などによって実現し得るものではない。それは今日の日本を見れば明らかである。道義精神は、それぞれの国の歴史伝統・民族信仰の中から培われるものである。

 倫理・道義とか信仰精神というものは、それぞれの民族精神としてのみ表現されてきている。民族的歴史性・個性を通して表現されない「人類普遍の原理」などというものはあり得ない。たとえあると錯覚しても、それは抽象的な観念に過ぎない。

その意味において「人類普遍の原理」だなどと言って欧米民主主義思想を基本原理としている「現行占領憲法」は無国籍憲法なのである。そもそも道義精神や政治思想には「人類普遍の原理」などというものはあり得ない。 

 宗教上の神や仏もそれぞれの宗教教団やそれぞれの宗教の発生した地域の特殊な個性ある神・仏として信じられてきている。ユダヤ教・キリスト教・回教という一神教ですらそれぞれ個性ある神となっている。仏教も真言宗・日蓮宗・浄土宗・浄土真宗・禅宗等々それぞれ個性ある仏を拝んでいる。

 日本という国家にも日本の長き歴史の中から生まれてきた立国の精神というものがある。

 日本という国は、日本民族の生活と自然環境・風土の中からの生成して来た。日本民族の生活の基本は稲作である。日本人の主食は米である。

 稲作に欠かすことのできない自然が太陽であり大地である。その太陽と大地を神として拝んだ。その太陽の神が天照大神である。また大地の神は国津神として祭られた。また稲穂そのものも神の霊が宿っているものとして尊んだ。

 天照大神をはじめとする天津神・国津神および稲穂の霊をお祭りされ、国民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主が、「すめらみこと」即ち日本天皇であらせられる。

 そして天照大神は太陽神であるのみならず、天皇の御祖先であると信じられた。天照大神は「日本国に沢山稲を実らせなさい」という御命令を与えられてその御孫神であられる邇邇藝命を地上に天降らせられた。その邇邇藝命の生みの御子が神武天皇であらせられ、大和橿原の地に都を開きたまい、初代天皇に御即位あそばされた。

 日本国家の存立の精神的中核はこのような信仰精神にあり、日本という国家は天皇を祭祀主とする信仰共同体なのである。ゆえに日本国は天皇国といわれるのである。正しき国家観に回帰し、日本国を道義国家として新生せしめねばならない。

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千駄木庵日乗四月二十一日

午前は、諸事。書状執筆。

 

午後からは、在宅して、室内清掃・資料整理。原稿執筆の準備など。

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2020年4月20日 (月)

祭祀とは神人合一の行事であり、大嘗祭は、天皇の神としての御資格の再生であり復活のみ祭りである


神道の基本行事たる「祭り」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。つまり、祭祀は〈神人合一〉の行事である。

さらに「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰るといふ行事である。

言ひ換へると、禊祓ひによって生成の根源に回帰するといふことである。「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」といふのである。
神祭りは、日本傳統精神の原点であり日本傳統文化の祖型である。

天皇が御即位された後初めて行はれる新嘗祭である大嘗祭は、全國各地から集めたお米を天照大神にお供へをして、五穀の豊饒を感謝すると共に、天皇がお供へしたお米を神と共に食される。そして天皇・神・穀物の霊が一体となる行事である。このみ祭りによって、天皇は、現御神(地上に現れた神」としての神聖性を継承され保持される。

大嘗祭は、天孫降臨の繰り返しの行事である。そもそも「まつり」とは元初(ものごとの一番始め)の行事の繰り返しである。天照大神は邇邇藝命に稲穂をお授けになって「このお米を地上にたくさん実らせ、豊葦原瑞穂の國を統治しなさい」と御命令になる。邇邇藝命は、

その稲穂を奉持して、真床追衾(まとこおふふすま)に包(くる)まれて地上の高千穂の峰に天降られる。真床追衾とは、床を覆ふ夜具で、おくるみ(赤ん坊を抱く時、衣服の上からくるむもの)のやうなものであると承る。

日継の皇子の御魂と天照大神と神霊と稲穂の霊と一体となり、日継の皇子が日の御子(現御神)としての神聖性を開顕される祭りが大嘗祭である。

大嘗祭によって新しい天皇が、先の天皇と同じやうに神と一体となられるのである。つまり歴代の天皇は、御肉体は変られても、「やすみししわが大君 高照らす日の御子」といふ神聖なる本質・神格は全く同じなのである。これを「歴聖一如」と申し上げる。

大嘗祭は、天孫降臨といふ元初の事実の繰り返しであり、歴代天皇が天照大神の御神霊と一体になられるおまつりであり、天皇の神としての御資格の再生であり復活のみ祭りである。大嘗祭は、持統天皇の御代から行はれるやうになったと承る。

近年、保守の立場とされ、皇室を崇敬する学者・評論家の中に、以上述べた様な「天皇の祭祀」とりわけ「大嘗祭」の意義に否定的見解を示す人が出てきている。しかも、祭祀や皇室の伝統について無知な人ではなく、相当な見識を持つ人がさういふことを論んじられてゐる。驚くほかはない。折口信夫氏の大嘗祭の本義」のおける論述を「妄説」などと切って捨てた方もおられる。

宮内庁あるいは政府には、大嘗祭をはじめとした「天皇の祭祀」そして即位の大礼の諸行事が、「現行占領憲法」の政教分離の規定に反するとの批判を恐れるあまり、「現御神信仰」「天皇卽神論」を隠蔽したいといふ意向があると思はれる。保守派学者の論議は、それに同調した動きである。きはめて憂慮すべき事である。

折口信夫氏の論を全て肯定するかどうかは別とて、祭祀とは神人合一の行事であり、大嘗祭は、天皇の神としての御資格の再生であり復活のみ祭りである。このことは絶対に隠蔽してはならない。


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千駄木庵日乗四月二十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内清掃、資料整理、『政治分文化情報』発送準備。

夕方、幼馴染みの息子さんがやっているパスタ屋さんで食事。元気で頑張っていました。飲食店は何処も大変なようです。

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「政教分離」の原則を我が國にあてはめるのは大きな誤り

 日本伝統信仰即ち神道は、自然の命と祖先の霊を崇める精神がその根幹であり全てである。それは日本民族の実際生活から生まれて来た信仰なのである。特定の預言者や絶対神の代理人と称する人が説き始めた教条・教義に基づく信仰ではない。ここが神道と仏教・キリスト教などの教団宗教との根本的相違である。

 今日、大嘗祭に政府が協賛し奉ることは「政教分離」の原則に反するなどという議論が行われ、大嘗祭は天皇皇室の私的行事とされてゐる。

「政教分離」とはある特定の神や人物を絶対者と仰ぎ他の宗教を排斥する排他独善の教団宗教が政治権力を掌握してはならないという原則である。この政教分離の原則は西洋の宗教戦争や政治権力による宗教弾圧の経験から生まれたものである。ゆえに、我が國の伝統信仰とは全く異なる次元の原則である。

 我が國伝統信仰=神道はまことに大らかにして包容力旺盛な信仰である。それは我が國伝統信仰が、前述したように、國民生活の中から自然に生まれてきた信仰精神であるからである。

 だからこそ、神道の祭り主であらせられる日本天皇は、仏教や儒教をも尊ばれた。我が國において仏教典を講義され、仏教寺院を建立されたのは、聖徳太子であられる。聖武天皇は、日本仏教の中心寺院として東大寺を建立され、さらに全國に國分寺・國分尼寺を建立された。我が國において仏教は、皇室を通して広まったと言っていいのである。そして日本伝統信仰は外来仏教や儒教を大らかに融合してきた。

 今日「政教分離」の原則とやらをやかましく言い立てて、天皇の祭祀及び日本伝統信仰=神社神道を排斥する輩こそ、排他独善の西洋法思想を信ずる者共なのである。

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千駄木庵日乗四月十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内清掃、資料整理、『政治文化情報』発送準備など。

夕刻、買い物に出たのですが、商店街は賑わっていました。

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2020年4月19日 (日)

今日においてこそ、歴史に学び、神仏への全國家的・全國民的祭祀と祈願を實行し、危機を打開すべし

祇園祭の由来は今からおよそ一一〇〇年前の貞觀十一年(八六九)、京都で流行した疫病を鎮めるため、「祇園社(ぎおんしゃ)」(現在の八坂神社)にて六六本の鉾をつくり疫病の退散を祈願した御霊会が始まりという。
毎年七月に行われる祇園祭山鉾巡行は、今年は例年通りの巡行を中止する方向で関係者が検討を進めていることが四月一六日に分かった。重要無形民俗文化財に指定され、日本三大祭りの一つに数えられる祭礼には、例年、実に多くの観光客が京都に押し寄せる。新型コロナウイルス感染拡大の終息が見通せない中、従来通りの実施は困難だとして、祇園祭山鉾連合会が各山鉾町などとの調整を続けていて、二〇日に記者会見し、方針を示すという。止むを得ないことであろうか。

しかし、神道学者などから、「疫病退散の祭りなのに。いまやらなくて、いつやるの」という疑問の声があがっている。たしかに、祇園祭は、伝染病退治の祭祀なのであるから今こそ行われるべきであろう。これまでも山鉾巡行はコレラが流行した明治時代に秋に延期したり、5月に実施したりしたことがあった。取りやめは、阪急電鉄の地下工事により中止された昭和三七年以来五八年ぶという。

神社関係の大きな祭礼や寺院の大きな法要なども中止延期を決めた神社仏閣も多いようである。たしかに感染拡大防止のために緊急事態宣言が出されているのであるから、多くの人々が集まる大宗教行事の中止や延期は止むを得ないことなのかもしれない。しかし、余りにそういうことを恐れるあまり、本来行われるべき、否、行わなければならない祭礼・法要などを中止や延期にしてしまうのは如何なものであろうか。むしろこういう時にこそ粛々と行われるべき祭礼・法事があるのではないだろうか。

わが國は國難を契機として、一大変革を成し遂げてきた歴史を有する國である。この度もさうであらねばならない。今日の日本も幕末期・明治初頭と同じやうな、否、それ以上の危機に直面してゐる。國難に遭遇してゐる。今日においてこそ、日本傳統精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

日本傳統信仰即ち神道は、自然の命と祖先の霊を崇める精神がその根幹であり全てである。それは日本民族の實際生活から生まれて来た信仰である。この日本傳統信仰に今こそ回帰し、今日の疫病猖獗などの國難打開危機を乗り越えるべきである。

これは安易なる神仏へのよりかかりではないし、「叶はぬ時の神頼み」でもない。わが國は、古代以来、神への祭りによって大國難を乗り切ってきた歴史を有する。私はそのことを信じて疑はない。

重要なのは、建國以来の歴史に学び、全國の神社・仏閣に國難打開の祭祀・祈願を行ふべきだといふことである。わが國は維新変革を断行する直前に、内憂外患に見舞はれ、國家の存続すら危ぶまれる状況において、全國民が一体となって、神仏への祭祀と祈願を行った。そして危機を打開し、維新変革を實現してきた。今日においてもさうした歴史に学ぶべきと考へる。

然るに、今回の國難においては、全國各地の神社や寺院などにおいて、神職・僧侶・氏子・信徒が一丸となって、神を祭り、仏に祈願を行ったといふ話を聞かない。それどころか、全國の神社仏閣は大きな行事を自粛し、僧侶は自宅待機などをさせられるといふこともあるといふ話を聞いた。何ともおかしなことである。

感染拡大には十分に対策をとりつつ、疫病・自然災害の鎮静化祈願など神社仏閣の本来の使命・最も大切な役割をはたすべきであろう。今こそ、神職・僧侶の聖なる使命の実行が望まれるのである。今日においてこそ、歴史に学び、神仏への全國家的・全國民的祭祀と祈願を實行し、危機を打開すべきである。

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千駄木庵日乗四月十八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆など。

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2020年4月18日 (土)

今日思ったこと

慢性心不全という病名を与えられ、体を無理に動かすことも出来ず、旅行も出来ず、遠出も出ない状況が続いてゐましたので、この度の事態は、小生には格別の影響はございません。

しかしながら、家の中で一日中机に向ってゐたり横になっていてはかえって体に良くないので、室内清掃、近所の散歩を兼ねた買い物に出かけたりしております。

それにしても今の野党というのはどうしようもない存在です。この国難の時に、総理大臣の奥さんが何処に出かけたとかいうつまらないことを国会で取り上げて追及しました。もっと大事な問題があるはずです。安倍氏や政府のやることに何でもかんでもケチをつけてイメージダウンをはかりたいのでしょう。馬鹿な事です。

今は国家国民が一致結束して国難を打開すべきです。そのためには何をすべきかという具体的国策を策定するべきです。野党も自民党に代わって政権を取りたいのなら、今こそ国難打開の具体策を提示すべきです。それができない無能力野党に政権を任せることはできません。

一律一万円支給というのですが、手を挙げた人に支給するとのことです。どうやって手を挙げるのか。まさか家の中で手を挙げてゐても、政府は全く気が付かないでしょう。創価学会員は学会組織を通じてみんな手をあげるでしょう。それを学会と公明党が政府に認知させるのでしょう。

公明党に「連立離脱する」と脅かされてこういうことをするというのもまたおかしな話です。安倍さんはよく「風雪に耐えた自公連立」と言いますが、これも風雪に耐えるということなのでしょうか。安倍政権が風雪で凍え死なないことを祈ります。

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千駄木庵日乗四月十七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理、原稿執筆の準備など。

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2020年4月17日 (金)

共産支那は叩き潰すべきであって友好関係を結ぶべきではない

支那共産政権との友好など絶対にあり得ない。今日、世界最大最悪最凶の侵略国家・軍国主義国家・独裁専制国家が共産支那である。

こんな國は叩き潰すべきであっても友好関係を結ぶべきではない。新疆ウイグル(東トルキスタン)、チベット・内モンゴルに対す侵略と残虐な住民弾圧は天人共に許されざる行為である。

こんな國がアジアの盟主のような顔をして、エチオピアなどを金で手なずけ「兄弟」などと呼びかけることに虫唾が走る思いがする。

最近は、わが国国民の拘束を相次いで行っている。これら対して、わが国政府は強硬な抗議を行わないし報復も行わない。それどころか、習近平と言う悪魔的人物を「国賓」として招いた。一体何を考えているのか。そんなことをすると拘束された邦人は本当に違法行為を行ったのではないとか勘ぐられてします。

わが国の野党もメディアも共産支那政府による邦人拘束に対する糾弾を行わない。全く許し難い。

共産支那は、北朝鮮とその体質は同じである。権力闘争に敗れたら、殺されるか獄に入れられる。毛沢東時代は過去のことだと思ったら大間違ひ。習近平による周永康、薄熙来、徐才厚などの粛清事件などを見てもそれは明らかである。薄熙来・周永康は、劉少奇・彭徳懐・賀龍のようになぶり殺しにされなかっただけまだましかもしれない。

支那は「中華思想」といふ差別思想によってこれ迄の長い歴史において周辺諸國を侵略してきた。秦始皇帝・漢武帝・隋煬帝(ようだい)・唐太宗のように内乱の後に大統一帝國が成立した時には、強力な國外侵略を行っている。

共産支那帝國成立後も同じ歴史が繰り返され、チベット・東トルキスタン・内モンゴル侵略併呑、わが國への軍事的圧迫・尖閣沖縄侵略策謀、ベトナムへの侵略が行われている。

わが國は、防衛體制を強固にし、アメリカ及び台湾・インド・ベトナム・フィリッピン・インドネシアなどの海洋國家と政治的・軍事的・経済的に提携し、支那の中華帝國主義のアジア侵略を封じ込めることが急務である。日本人に今必要なのは、日本民族の誇りを回復し、中華帝國主義と戦う姿勢を確立することである。


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2020年4月16日 (木)

千駄木庵日乗四月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理、原稿執筆の準備など。

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2020年4月15日 (水)

孝明天皇御製を拝し奉りて

万延元年(一八六〇)三月三日に井伊直弼が誅殺された。

孝明天皇はこの年の七月二十六日に、

「こと國もなづめる人も殘りなく攘ひつくさむ神風もがな」

といふ御製を詠ませられた。

また、次のやうな御製ものこされてゐる。

「澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ国民」(年月不祥)

孝明天皇は、翌年の文久二年(一八六一)五月十一日付渙発の『時局を御軫念の御述懐の勅書』(別名「時局御軫念の御述懐一帖」)では次のやうにお示しになった。

「惟に因循姑息、舊套(旧来のやり方)に從いて改めず、海内疲弊の極、卒には戎虜(じゅうりょ、外国人)の術中に陥り、坐しながら膝を犬羊(西洋人)に屈し、殷鑑遠からず、印度の覆轍を踏まば、朕、實に何を以てか先皇在天の神靈に謝せんや。若し幕府十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師(懲らしめの軍隊)を作(おこ)さずんば、朕實に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(いしょう、前例)に則り、公卿百官と、天下の牧伯(諸侯)を師(ひき)いて親征せんとす。卿等其(それ)斯(この)意を體(たい)して、以て報ぜん事を計れ。」

徳川幕府が攘夷を決行しなければ、神武天皇、神功皇后の御事績に倣ひ、孝明天皇御自ら、軍事的行動を起こされると宣せられたのである。幕府は恐懼し、「勅書」を体して「奉勅攘夷」を貫くことを堅く誓約した。

小田村寅二郎氏は、この『時局御軫念の御述懐一帖』について、「この御文章は、ここに謹撰申上げた悲痛極りない御製の数々と共に、幕末を語るすべての日本人が必読すべきものとしてぜひごらんいただきたいと思ふ」(『歴代天皇の御歌』)と論じてゐる。

文久三年(一八六三年)には、孝明天皇の賀茂神社・石清水八幡宮に御幸され、攘夷祈願を行はれた。今でこそ、石清水八幡宮にはケーブルカーに乗って男山を登りゆき参拝できるが、江戸時代末期はたとへ輿で登られたとしても大変な難行苦行であったと思はれる。

さらに、孝明天皇は、

「戈とりてまもれ宮人こゝへのみはしのさくら風そよぐなり」(御詠年月不詳)

といふ御製をのこされた。この御製は侵略の危機に瀕する日本を憂へられた御歌である。この御製を拝した多くの志士たちが尊皇攘夷の戦ひに決起した。

宮部鼎蔵(熊本藩士。尊攘派志士として、京都を中心に活躍。諸藩の有志たちと協議を重ね尊攘派運動を推進したが、池田屋事件にて自刃)は、孝明天皇の御製にこたへ奉り、次の歌を詠んだ。

「いざ子ども馬に鞍置け九重の御階(みはし)の桜散らぬその間に」

維新の志士の孝明天皇への赤誠・戀闕の心が、尊皇倒幕の行動を起こさしめた。

徳富蘇峰氏は、「維新の大業を立派に完成した其力は、薩摩でもない。長州でもない。其他の大名でもない。又当時の志士でもない。畏多くも明治天皇の父君にあらせらるゝ孝明天皇である。…孝明天皇は自ら御中心とならせられて、親王であろうが、関白であろうが、駆使鞭撻遊ばされ、日々宸翰を以て上から御働きかけになられたのである。即ち原動力は天皇であって、臣下は其の原動力に依って動いたのである。要するに維新の大業を完成したのは、孝明天皇の御蔭であることを知らねばならぬ。」(『孝明天皇を和歌御會記及御年譜』「序」)と論じてゐる。

孝明天皇の國を憂ひ民を思はれる大御心が明治維新の原点であり、孝明天皇の大御心にこたへ奉る変革が明治維新であった。君民一體の神國日本の清潔さ・純潔を守らうといふ國粋精神が日本の独立を守った。そしてその國粋精神の體現者・實行者が孝明天皇であらせられた。

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千駄木庵日乗十月十五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内清掃、資料整理、資料検索、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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今日思ったこと

毎日自宅におります。読書、資料整理のいいチャンスなのですが、なかなかはかどりません。制約された時間の中にいないと何かをしなければならないという切迫した意志がかえって出て来なくなるのかもしれません。読書計画を立ててテーマを決めた読書をしようと思います。しかし、整理をしなけれならない資料が多いのと同じように、詠むべき本があまりにも多いのも事実でどの本から手を付けたからいいのか分かりません。「泉鏡花全集」「萩原朔太郎全集」「鴎外全集」は随分前に購入したのですが、まだほとんど読んでいません。本棚に鎮座ましますだけです。困ったことです。

 

夕刻、近所の商店街に買い物に行きましたが、土曜日と違って人出は少ないようでした。小池さんがあり行かないでくれと呼びかけたからでしょうか。そんな中で商店の方々は頑張っています。戦前から店を構えている所謂老舗は、店は自分のものであり家賃を払う必要もなく、また、親子兄弟で店を切り盛りしているので、いくらか経営も楽なのかもしれません。家賃を払わねばならず人件費も相当かかる店は大変でしょう。ともかく商店街の人々には頑張ってもらいたいと思います。私は、テイクアウトのものを買い込んで来て家で一杯やりました。とても美味しくいただきました。

 

ところで、罹患者・感染者を多くだし、亡くなった方も沢山いる台東区のある病院には何年か前、父が入院していましたので、他の人よりは実情を知っていますが、医師・看護師・職員の質はあまり良くなかったと思います。私の母の友人に大横綱(六十九連勝)と言われた人の奥さんがいましたが、母はその奥さんから「あんな病院に入院すると殺されるわよ」と言われたと言っていた事を鮮明に覚えています。

 

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千駄木庵日乗四月十四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理。原稿執筆など。

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2020年4月14日 (火)

『伝統と革新』第三十五号 たちばな出版発行

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2020年4月13日 (月)

天皇を祭り主と仰ぐ日本國體の開顕することこそが国難打開の道である


國難にあたり、神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の國家御統治の根幹である。孝明天皇の國家・國民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

第一〇三代・後土御門天皇の御代は、応仁文明の乱・疫病の流行・大火大地震などがあり、國民は疲弊し、朝廷の衰微も極に達した。後土御門天皇が崩御になられた後、御大葬は行はれず、御遺体を宮中に御安置申し上げたまま四十九日に及んだといふ。この時もまた未曽有の國難であった。この國難の続く御代に際して、後土御門天皇は御宸筆の「般若心経」を伊勢の皇大神宮に奉納し、聖算長久、武運安全、兵革静謐を祈願された。

後土御門天皇は、明応四年(一四九九)に次のやうな御製を詠ませられた。

「伊勢
にごりゆく 世を思ふにも 五十鈴川 すまばと神を なほたのむかな」

この御製は聖天子の篤き祈りの御歌である。いかなる濁れる世、乱世であっても、否、さうであればこそ、上御一人日本天皇は、神への祭祀、祈りを深められた。そしてその事が、日本國再生の基となった。

今日の日本も「にごりゆく世」である。また文字通り有史以来未曽有の國難に遭遇してゐる。今こそ、祭祀主・日本天皇の御稜威の下、本来の日本の清き姿に回帰し困難を打開しなければならない。今日の疫病猖獗などの國難打開のために、建國以来の歴史に学び、全國の神社・仏閣に國家國民が一丸となって國難打開の祭祀・祈願を行ふべきである。

わが國においては、大化改新、建武の中興、明治維新等の大変革が實現する直前に内憂外患に見舞はれ、國家の存続すら危ぶまれる状況において、全國民が一体となって、神仏への祭祀と祈願を行った。そして危機を打開し、維新変革を實現してきた。今日においても歴史に学ぶべきである。

ところが、今日に於いては「現行占領憲法」の亡國的制約によって、國民的規模・國家的規模の國難打開の祭祀も祈祷も行ひ得ない状況になってゐる。そればかりでなく、天皇陛下の最も重要なるお役目である「祭祀」が「天皇の私事」などとされて、国家公的に翼賛し奉る道が封じられている。これを根本的に改めなければならない。そして、天皇を祭り主と仰ぐ日本國體の開顕することこそが国難打開の道である。

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千駄木庵日乗四月十三日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内清掃。

『政治文化情報』の原稿執筆、脱稿、印刷所に送付。

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2020年4月12日 (日)

徳川幕府による朝廷圧迫について


第一〇八代・後水尾天皇は、徳川家康、德川秀忠の横暴と圧迫に苦慮されながらも、一天萬乗の大君として君臨あそばされ、修學院離宮の造営、學者文人藝術家へのご援助など文化面で大きなお力を示された。後水尾天皇宸翰『忍』は、聖護院門跡に傳わるものである。この宸翰は京都岩倉實相院門跡にも傳えられていて、小生も拝観したことがある。この「忍」という御文字には、德川幕府の横暴と不敬行為に対する、後水尾天皇の深い思いが表白されていると拝する。實に力強い筆致である。

徳川幕府は、天皇・朝廷を力で圧迫しながらもその権威を利用した。徳川家康及び秀忠は基本的に尊皇心が非常に希薄であった。幕府は徳川政権の持続と正統性の確保のためには、天皇及び天皇の傳統的権威を利用した。

しかし、天皇・朝廷を京都に事實上の軟禁状態に置いた。元和元年(一六一五)、幕府は『禁中並びに公家諸法度』を制定し、朝廷と宮家・公家に有史以来未曾有の掣肘を加えた。天皇・朝廷に対し奉り彦根藩及び京都所司代が厳しい監視にあたった。

江戸時代初期、德川幕府の理不尽なる圧迫を受けられた後水天皇は、「忍」の一字をしきりにしたためられた。私も何年か前に、京都岩倉の實相院だったと思うが、拝観した。

後水尾天皇は、

『思ふこと なきだにそむく 世の中に あはれすてても おしからぬ身は』
『葦原や しげらばしげれ おのがまま とても道ある 世とは思はず』

といふ御製をのこされてゐる。

江戸時代の朝廷は、德川幕府によって圧迫され掣肘され、迫害された。故に、財政的にも窮乏した。古代・中古時代のような天皇の御陵を造営することもできず、江戸期の歴代天皇は、京都東山泉涌寺の寺域に造営された仏式の石塔の御陵に鎮まられている。

徳川歴代将軍が、江戸の芝増上寺、上野寛永寺の豪華な墓に眠っていることと比較すると、德川氏の天皇・朝廷への態度がいかにひどかったかが、事實を以て証明される。

江戸時代の禁裏御料はたったの三萬石であったと承る。それも、家康が、慶長四年(一六〇一)五月、一萬五千石を献上した後、家光が一萬五升四合、家宣が一萬一斗余を献上し、ようやく三萬石余になったといふ。まことに畏れ多いが、地方の小大名並の石高である。

幕末になり、幕府権力維持のために朝廷を利用せんとした幕府は、十四代将軍家茂は文久二年(一八六二)に十五萬俵献上し、十五代将軍・慶喜は慶応三年(一八六七)、山城一國に十三萬石を献上した。

天皇崩御の際の『布令』を見ると、普請及び鳴物(建築工事及び音楽)の停止は五日間(もしくは三日間)であったといふ。これに反し徳川将軍の死去にあたっては鳴物停止五十日を普通としてゐたといふ。

徳川幕府は、天皇・朝廷を敬して遠ざけたなどといふことではない。幕府の権威づけに天皇朝廷は利用したけれども、その實態は天皇・朝廷を理不尽に抑圧し続けたのである。

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千駄木庵日乗四月十二日

午前は諸事。室内清掃。

午後からは在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆。

夕方、近所の商店街に行って驚いたのは、多くの人々でにぎわっていたこと。肉屋・お好み焼き屋・イタリアレストラン、肉料理屋など多くの店が弁当(今はテイクアウトと言うそうです)を売っていた。街の賑わいが普段と変わらないのはいいことだと思いました。

帰宅後も、原稿執筆。

安倍さんが自宅でくつろぐ様子を動画で配信したことに、またまた蓮舫などの野党亡国政治家、偏向マスコミがイチャモンをつけている。あんな動画を配信する必要は無いとは思うが、一国の総理があのくらいの生活をするのは当たり前だ。何が悪いのか。蓮舫とは昔会ったことがあるが、台湾独立支持であった。しかるに野党議員になった為か、急に共産支那寄りになった。おかしな支那人だ。

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この頃詠みし歌


大きな満月空に浮かべり地上の禍(まが)を全く知らざる清らかさかな

待つことが即ち患者のつとめにて今日も待合室に座してゐるなり

疫病猖獗の日に来たれる病院にゐる人は皆マスクしてをり

訴へたくてしょうがないことを我に向かひ滔々としゃべるタクシー運転手

お客がゐないことを歎きゐる運転手政府の悪口をとめどなく語る

訳のわからぬ言葉の羅列を歎くなり歌にならざる現代短歌

商ひのできない嘆きは深くして街の酒場の夜はさみしき

ブラジルに移り住みてから幾年か友は異国の地に眠りたまふ

底抜けに明るきように見ゆれども深き悲しみを持ちゐし友よ

大声で歌ひて我等を励ましたる友は異国で永久に眠れり

手を合はせご冥福を祈るほかにすべは無し遠きブラジルで逝きにし友に

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千駄木庵日乗四月十一日

午前は、諸事。

午後からは在宅して室内清掃、『政治文化情報』原稿執筆など。

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「伝統と革新」第三十五号目次

 たちばな出版発行 四宮正貴責任編集
オピニオン雑誌『傳統と革新』第三十五号    令和二年四月発行
 目次
【特集】
中国の覇権拡大と日本・台湾・香港
中華帝国主義に一国二制度はあり得ない
【巻頭言】
・日本民族の誇りを回復し、中華帝国主義と戦ふ姿勢を確立すべし     四宮正貴    
【インタビュー】
・台湾は、民主主義と自由を重んじる国。一国二制度は相容れない     謝 長廷     
・中国が国際社会の一員として、正しい方向に向かうように働きかけていく 宮家邦彦    
・対中外交の要は三つー防衛力の強化、人権問題への主張、協力関係の保持 松川るい    
・歴史から読み解く台湾の親日、韓国の反日               渡辺利夫    
【特別寄稿】皇室永続の問題点と改正案                 所  功    
・ファシズム的中華帝国の増長を許すな                 石  平 
【佐藤優の視点】
・中国発の新型コロナウイルスとロシアのインテリジェンス能力      佐藤 優    
・安倍内閣の対中観を憂える 
相手の本質を掴んで動かず、明確な態度を決定し、実行せよ      西村眞悟   
・武漢発・新型コロナウイルス 感染拡大は中国政府の「隠蔽」が原因   河添恵子  
・中国放棄論                             宮崎正弘  
・「中華帝国主義」を考え、改めて思う。
日本は、挫折と敗北の時代を繰り返すな。              潮 匡人
・中華帝国主義に一国二制度はあり得ない                湯浅 博
・国防と憲法についての素朴な疑問                   高乗智之
・習近平政権の「喜劇」が招いた「悲劇」~試される日本の対中外交~   丹羽文生
・日本は、アジアの声に耳を澄ませ                   坪内隆彦  
【聞き書き】平和路線のダライ・ラマ法王との誠意ある対話を
中国は今,真剣に考えるべきだ                 ぺマ・ギャルポ
・還暦を迎えた日米安保の総点検を! ~FMSシステムを見直すべきだ~ 木村三浩
【連載】
「やまと歌の心」                          千駄木庵主人   
【石垣島便り】新型コロナウイルスと左巻きウイルスについて考える    中尾秀一    
「憂国放談」第七回
今、皇位継承、女性・女系天皇の議論はどうなる?           犬塚博英 
取り扱い書店様一覧                    
「伝統と革新」バックナンバー一覧             
編集後記                          

   価 本體価格1000円+税。 168頁                  

168〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル

 たちばな出版  ☎代表03―5941―2341 FAX5941―2348

 

 

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「伝統と革新」第三十五号

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2020年4月10日 (金)

国難にあたり、神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の根幹である

孝明天皇御製

「八幡山 神もここにぞ 跡垂れて わが國民を 守るかしこさ」

孝明天皇が、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神仏習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて詠ませられた御製である。

頻繁に外国船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に宣命を捧げられた。

その宣命には「近時相模国御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。それ交易は、昔より信を通ぜざる国に濫りに許したまふことは、國體にも関はりれば、たやすく許すべきことにもあらず。…肥前国にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情実の知り難きを如何には為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す。」と宣せられてゐる。

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外国船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏で、国民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの勅書も下された。

孝明天皇が、外患に際して日本国の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本国の独立の維持の基盤となったのである。

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の根幹である。孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉状態に置き奉ったのである。

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまふ。慶喜は、天皇に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう神前へは行かずに済ませてしまったといふ。病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓ひを回避したのは、慶喜の奸智であり政略であったといはざるを得ない。まことに以て狡い男である。

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。中でも大阪から京都に「夥しく登り」、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。民衆は天皇に強い仰慕の思ひを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本国の唯一の君主であることを自覚したのであった。

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本国の統治者であらせられるといふ天皇のご本質を顕現せられのたのであった。

言ひ換へれば、賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

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千駄木庵日乗四月十日

午前は諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、「政治文化情報」原稿執筆など。未整理の資料はなかなか減りません。

行きつけの食堂なとが休業、弁当(今の言葉ではテイクアウトの料理と言うそうです)の販売のみになった店があり、困っています。家まで運んでテレビを見ながら食べるのはあまりおいしくありません。第一お酒もまずい。楽しく酔えない。お店のカウンターに座って店の方と会話をしたいのですが、できなくなりました。

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祭祀とは神人合一の行事である

先日も書いた通り、今日の疫病猖獗などの国難打開のために、全国の神社・仏閣に国難打開の祭祀・祈願を行うべきであろう。わが國においては、大化改新、明治維新等の大変革が実現する直前に内憂外患に見舞われ、国家の存続すら危ぶまれる状況において、全国民が一体となって、神仏への祭祀と祈願を行った。そして危機を打開し、維新変革を実現してきた。今日においても歴史に学ぶべきと考える。

「祭祀とは神人合一の行事」である。日本民族は、神に対して常に祭りを行ってきた。「まつり」は、日本民族の精神傳統・日本文化の原点である。「まつる」といふ言葉の原義は、「お側で奉仕し服従する」「何でも仰せ事があれば承りその通り行ふ」「ものを献上する」「ものを奉る」といふほどの意である。日本伝統的信仰精神の基本行事は、神を祭ること即ち「祭り」である。

「祭り」とは、神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事である。

「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰る行事である。

「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従ひ奉る)から「まつり」と言ふの
である。

折口信夫氏は、「日本の太古の考へでは、此國の為事は、すべて天つ國の為事を、其まゝ行って居るのであって、神事以外には、何もない。此國に行はれることは、天つ神の命令によって行って居るので、つまり、此天つ神の命令を傳へ、また命令どほり行うて居ることをば、まつるといふのである。処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行致しました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になった」(『大嘗祭の本義』)「祭りごととは、食物を獻上する事に關する行動儀式といふ事であるらしい。…神の命令によって、與へられた種子を田に下して作った結果をば、神に奉り、復命する事がまつろふなのだから、まつりごとは、神に食物を獻上する事である」(『祭りの話』)と論じてゐる。

柳田國男氏は、「神の大前に侍座して暫く時を過ごす意。根本は尊敬せられるものとの対座面會、後世の語でいへば拝謁に近い語であったかと思ふ」(『神社のこと』)「マツルは…マツラフといふ語と別のものではない。今でいふならば『御側に居る』である。奉仕と謂っても良いかも知らぬが、もっと具體的に言へば御様子を伺ひ、何でも仰せごとがあれば皆承はり、思し召しのまゝに勤仕しようといふ態度に他ならぬ。たゞ遠くから敬意を表するといふだけではないのであった」(『先祖の話』)と論じてゐる。

人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が、神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。

『古事記』に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰し、現実の罪穢れ、禍事を祓い清める行事が「祭り」である。

そこで、禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。穢れたる現實・歴史を無化し清浄化して原初に回帰する。人が神のご命令に服従し、それを實現するために生活したことを復奏する。これが神道行事の基本である「まつり」である。つまり、人の本来の姿を回復することが「祭り」の原義である。

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2020年4月 9日 (木)

千駄木庵日乗四月九日

午前は、病院に赴き、検査及び受診。病院に来る人がいつもよりも混んでいるかと思いつつ病院へ行ったか、逆にいつもよりも減っていた。春麗らかな良き天気の日であったが、病院に来ている人の殆どの人はマスクをしていて、緊張感を持っているように感じた。咳をする人も少なかった。

お医者さんによると、小生の病状はやや悪くなっていて、心臓の周りに溜まっている水を減らさねばならないということであった。そのためにはともかく食事の時、塩分をひかえるべしとのことであった。最近少し油断をしていて塩分摂取についてあまり気を使わなくなっていたことを反省した。

しかし、塩味の極めてうすい或いは無い食べ物は全く美味しくない。美味い物を食べることがほとんど唯一の人生の楽しみである小生にとって、塩分控えめというのは極めて苦しいことである。しかし、命に関わることであるのでこれは遵守しなければならない。

帰宅後は、暫く休憩。そして「政治文化情報」の原稿執筆、書状執筆など。

私宅近くの食堂は平常通り営業していた。

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この頃詠みし歌


何の力も発揮し得ない宗教家 普段は生き神の如くに振る舞ふに

祈りとして叶はざる無しと説くならば早くこの疫病を消え去らしめよ

神保町のランチョンで見かけし吉田健一氏この世を去りて幾十年か

何十年も学び来たりしに歌の心なかなか理解できぬわが愚かさよ

下界は今ウィルスの禍が満つれども中天には満月照りわたるなり

地球上に如何なる禍事に満つるともまんまる月はさやかにぞ照る

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2020年4月 8日 (水)

千駄木庵日乗四月八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、書状執筆など。

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今回の国難によって今までの日本を反省し、立て直す機会になることを願います

新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、安倍総理は政府の対策本部で7都府県を対象に、法律に基づく「緊急事態宣言」を4月7日に発令し「仕事は原則自宅で行うようにしていただきたい」と訴えた。

私は原稿執筆を仕事としているので、仕事は自宅で行ってゐます。ですから今回の「非常事態」は私の日常生活にそれほど大きな変化を及ぼしません。テレビニュースで繁華街が閑散としている有様を見て、たまにはこういうことがあってもいいのではないかと思っているくらいです。しかし繁華街でお店を営業などして色々な仕事をしている人々にとっては死活問題ですから、そんなことを言うのはあまりに無責任ということになります。

しかし、若者たちがあまりに遊び呆けてゐる姿を見て腹を立てていたというのも事実です。

ともかく、今回の国難によって今までの日本を反省し、立て直す機会になることを願います。わが国は国難を契機として、一大変革を成し遂げてきた歴史を有する国であります。この度もそうであせねばなりません。色々批判全すべきことはあっても、安倍総理と小池都知事には健康に留意して奮闘して頂きたいと思います。

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千駄木庵日乗四月七日

午前は、諸事。室内清掃。

午後からは在宅して、資料整理、資料検索、『政治部文化情報』の原稿執筆など。

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2020年4月 7日 (火)

今日においてこそ、歴史に学び、神仏への全国家的・全国民的祭祀と祈願を実行し、危機を打開すべし

 今日の日本も幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面していると言っても過言ではない。国難に遭遇している今日においてこそ、神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。

 自民党は、野党時代に「政府主催で建国記念の日を祝う式典を開催する」という公約を掲げた。自民党が政権を奪還し、「日本を取り戻す」を政治理念とする安倍晋三氏が総理総裁となり、愈々政府主催の建国記念の日奉祝式典が行われると期待していたが、今日に至るまで実現していない。また靖國神社参拝も実行していない。これは一体どうした事か。これは公約違反などという生易しい問題ではない。まさに「日本を取りもどす」即ち国家再生・維新断行の根本問題の一つである。

「真正保守」と言われている学者・評論家・国民運動組織は、安倍晋三総理が批判することを遠慮しているようである。福田康夫氏や石破茂氏が総理として安倍氏と同じようなこと、即ち「戦後七十年談話」「建国記念の日の政府主催行事の不実行」「慰安婦問題の決着」「靖国神社総理参拝の不実行」などをしたら、大変の非難攻撃を行うであろう。私も安倍総理を正面から批判することを控えてきた。しかしもう我慢も限界といった思いである。

そのことと共に重要なのは、今日の疫病猖獗などの国難打開のために、建国以来の歴史に学び、全国の神社・仏閣に国難打開の祭祀・祈願を行うべきであろう。これは「叶わぬ時の神頼み」などという低次元の話はない。わが國においては、大化改新、明治維新等の大変革が実現する直前に内憂外患に見舞われ、国家の存続すら危ぶまれる状況において、全国民が一体となって、神仏への祭祀と祈願を行った。そして危機を打開し、維新変革を実現してきた。今日においても歴史に学ぶべきと考える。

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千駄木庵日乗四月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理・検索、原稿執筆の準備など。

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2020年4月 6日 (月)

天香具山は高天原と地上をつなぐ神聖な山

「 天皇、香具山に登りて望國(くにみ) しましし時の、御製の歌

大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし國ぞ あきづ島 大和の國は」  

 この御歌は、舒明天皇が大和をほめ讃へられた御歌で、「萬葉集」を代表する叙景歌(自然の風景を歌った歌)。

 舒明天皇は第三十代敏達天皇の皇孫で、推古天皇元年(五九三)に生誕され舒明天皇十三年(六四一)に崩御された。舒明天皇の御代に初めて遣唐使が派遣された。蘇我氏が大きな力を持ってゐた時代の天皇である。舒明天皇の第二皇子が蘇我入鹿を討ちとって大化改新を断行された中大兄皇子(後の天智天皇)であり、第三皇子が天武天皇である。

 香具山は奈良県橿原市東部にある海抜一四八㍍の小山。大和盆地は海抜百㍍だから麓からは四八㍍しかない。畝傍山・耳成山と共に大和三山の一つである。古代日本人には、麗しい山を神と仰ぐ信仰があった。大和地方では大和三山・三輪山・二上山など、東國地方では富士山・筑波山など、九州地方では高千穂峰・阿蘇山が尊い山として仰がれた。

 「香具」(かぐ)とは「輝く」を短くした言葉で、香具山は輝く山・神聖な山として信仰の対象となってゐる。後世のかぐや姫とは「輝く御姫様」といふ意である。天香具山とは「天に通じる輝く山」といふ意で、高天原と直結する山と信じられたのである。

 高天原にある天香具山について、『古事記』には、天照大神が天の岩戸に隠れになった時、大神に岩戸からお出ましを願ほうとした八百萬命が相談して、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)が取って来た天香具山の男鹿の肩胛骨を波波迦の木で焼いて占ひを行って、天香具山に茂った賢木(さかき)に勾玉(まがたま)や鏡などを付けて捧げ持ち、天宇受売命(あめのうづめみこと)が天香具山の日影蔓(ひかげかづら)を手襁(たすき)に懸け、真拆(まさき)を鬘(かずら)として、天香具山の小竹の葉を手に持ち、岩戸の前で桶を踏み鳴らして神憑りしたと傳へられてゐる。

 また、神武天皇が御東征を終へられ大和に都を開かれる時のお祭りで用いられた神具の土器は、天香具山の土で作られたと傳へられてゐる。國土には地の靈(國魂)が籠ってゐるといふ信仰があり、大和の都を開かれるにあたっては、大和の國の靈を鎮めなければならない。そのために大和の地の靈を象徴し大和の國魂が宿ってゐて、天と地とをつなぐ神聖なる天香具山の土を、土器にして祭祀に用いたのである。それによって、神武天皇は大和國を治められる靈的なお力を備へられたのである。天香具山の土を手に入れることが大和全体を掌握することになるといふ信仰である。

 折口信夫氏は、「天香具山の名は天上の山の名である。同時に地上の祭時に當って、天上と一つの聖地-天高市(アメタケチ)-と考へられた土地の中心が此山であった。だから平常にも聖なる地として天なる称號をつけて呼ぶ様になったのだ」「大和なる地名は、當然宮廷のある地を意味する。天は、宮廷の真上にあり、宮廷のある處は、天の真下である。即ち、國語に於ける天が下(アメガシタ)の確かな用語例は、宮廷及び宮廷の所在を示すことになる。だから、宮廷の存在なる狭義の大倭は、天が下であり、同時に天其物と觀じることが出来た。天香具山は、地上に於ける聖地の中心であった。即ち、大倭の中心である。この山の埴土(四宮注きめの細かい黄赤色の粘土)は、大倭の國魂の象徴にもなる…。」(「大倭宮廷の靱業期」)論じられてゐる。

 天皇のゐます宮は「天」(高天原)であり「聖地」である。その中心が天香具山なのである。このやうな神聖な所を神座(カミクラ・神のゐますところ)といふ。

 このやうに天香具山は天皇の祭祀・神事即ち國家統治には欠かせない尊い山である。舒明天皇が、神座である天香具山に登られて「國見」をされた時の歌がこの御製なのである。 

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千駄木庵日乗四月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理、原稿執筆の準備など。

夜、外食をしたのですが、不思議な現象が起こっています。普段混んでいてなかなか入ることができない店が空いていて、普段閑な店が混んでいました。密閉、密集、密接そして濃厚接触を嫌って混んでいる店をみんなが敬遠したということでしょうか。スーパーは相変わらず。トイレットペーパーの売り切れが続いています。多くの人に「何時無くなるのかわからない」という不安があるのでしょう。

ともかく一番恐ろしいのは、死んだら遺族は遺体に対面することもできず、遺骨になって家に帰るしかないということです。

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2020年4月 5日 (日)

伊勢の皇大神宮は日本傳統信仰の結晶

伊勢の皇大神宮は、日本傳統信仰の最尊最貴の聖地であり、日本傳統精神がそこに現実のものとして顕現している。日本傳統精神とはいかなるものかを実感するには、伊勢の神宮に参詣し神を拝ろがめば良いのである。理論理屈はいらない。日本傳統信仰が自然に伊勢の神宮といふ聖地と聖なる建物を生んだのである。それは太陽神への無上の信仰であり、皇室への限りなき尊崇の情であり、稲への限りない感謝の心である。

天武天皇は、壬申の乱の時、朝明郡迹太川(とほかわ)で伊勢の神宮を遥拝された。柿本人麻呂の高市皇子への挽歌では、伊勢の神風を称へてゐる。

西行(平安末期・鎌倉初期の歌人、僧)は、治承四年(一一八〇)六十三歳のときに三十年ほど過ごした高野山から伊勢に移り、伊勢の神宮で

「何ごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるゝ」

と詠んだ。

葦津珍彦氏は、「伊勢に鎮まります天照大御神の神宮は、荘厳にして高く貴い。しかもいささかの人工的な飾り気がなく、誠のおごそかさを感じさせるが威圧感もない。ただ清らかで貴い。この清らかさ貴さは、天照大御神を皇祖神として信奉される天皇の御信仰の気風の自らなる流露でもあるかと察せられてありがたい。」(『皇祖天照大御神』)と論じてゐる。

昭和四十二年の秋、イギリスの歴史學者、アーノルド・J・トインビーが夫人と共に参宮された時、内宮神楽殿の休憩室で「芳名録」に記帳し、

「この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底をなすものを感じます」

と書いた。

人類は様々の宗教を信じてゐる。そしてそれらの宗教はそれぞれ特色があり、人類に救ひと安穏をもたらしてゐる。しかし半面、人類の歴史は宗教戦争の歴史であったともいへる。それは今日に至るまで続いてゐる。神を拝み神を信じる人々による凄惨なる殺しあひが行はれて来た。
しかし、宗教の根底にあるものは同じなのである。それは、天地自然の中の生きたまふ「大いなるもの」への畏敬の心である。伊勢の神宮はまさに、最も純粋に最も簡素にその「大いなるもの」をお祭りしてゐる聖地なのである。

吉川英治は、昭和二十五年十二月に参宮した時、

「ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅ごころ うたた童にかへるかな」

といふ歌を詠んだ。 

日本國民の伊勢の大神への崇敬の心は、教義教条に基づくのではない。日本人としてごく自然な「大いなるもの」への畏敬の心である。だからこそ、仏教徒もそして外國人も伊勢の神宮に来ると「大いなるもの」への畏敬の心に充たされ心清まる思ひがするのである。

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千駄木庵日乗四月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理、室内整理、原稿執筆など。

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2020年4月 4日 (土)

御寺泉涌寺・後堀河天皇観音寺陵について


御寺(みてら)泉涌寺(せんにゅうじ)は、東山三十六峰の一嶺,月輪(つきのわ)山麓にある。皇室の御菩提所(御香華院と申し上げる)であり、諸宗兼学と道場と言われる。

弘法大師が天長年間、この地に草庵を結び、法輪寺と名付けた。順徳天皇御代の建保三年(一二一八)、月輪大師といふ僧侶が大伽藍を造営した。この時、境内に泉が涌き出したので、寺号を泉涌寺と改めたといふ。

このお寺は、朝廷の尊信が篤く、後鳥羽上皇、順徳天皇、後高倉天皇は、月輪大師によって受戒された。仁治三年(一二四二)、第八十七代・四条天皇の御陵が泉涌寺に造営された。

「承久の変」の後、後鳥羽上皇の皇孫であらせられ、順徳天皇の第一皇子であらせられる第八十五代・仲恭天皇が、「承久の乱」の後わずか七十八日間で鎌倉幕府の意向により廃位された。そして、後鳥羽上皇の鎌倉幕府打倒の御意に反対の立場であられた御兄君・守貞親王の皇子が皇位につかれた。第八十六代・後堀河天皇であらせられる。

そして、後堀河天皇はまだ御年二歳の皇子に譲位された。第八十七代・四条天皇であらせられる。しかし、御在位十年、御年十二歳の砌、四条天皇は、御所で誤って転倒されたことが直接の原因になって崩御。突然の崩御を不可思議に思ふ者が少なくなかったやうで、巷間、後鳥羽上皇の生霊の祟りによるとの噂が立った。四条天皇の御製はのこされていない。

洛中洛外、南都北嶺の諸寺院は、四条天皇の御葬儀に奉仕することを拒んだ。「承久の変」に敗れた、後鳥羽上皇、順徳天皇をお慕ひし、鎌倉幕府の専横に反感を持ってゐたからであらう。そのやうな時、四条天皇の御葬儀奉仕を承ったのが、泉涌寺であった。その御縁で、以後、泉涌寺が朝廷の尊崇を得ることになったとされる。(中村尚勝氏の泉涌寺製作『皇室の御寺泉涌寺』所収論文参照)

御寺泉涌寺の総門を入り、参道を歩み行くと、左側に「拝跪聖陵」と刻まれた石標がある。この文字を讀むと歴代天皇を仰慕する国民の心が籠められてゐると感じ、自ずから粛然とした気持ちになる。

慶長年間に、内裏の御門をお移しした大門を入ると少し下り坂になる。その彼方に仏殿が見える。実に清らかにして美しい眺めである。歩み行くと右側に寺号の起源となった「泉涌水」といふ湧水がある。

仏殿は、寛文七年(一六六八)、德川四代将軍家綱の再建である。釈迦、弥陀、弥勒の三尊が祀られてゐる。

仏殿の奥の霊明殿には、天智天皇から明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后に至るまでの歴代の御尊牌が奉安され、一山あげて朝夕ご冥福と国家の安穏が祈られてゐるといふ。何故、天智天皇からなのか分からない。

現在の霊明殿は、明治十五年(一八八二)十月炎上の後、同十七年明治天皇によって再建された尊牌殿である。

霊明殿の奥に、御座所(天皇が参拝に来られた時の御休息所)がある。霊明殿が再建された時に、明治天皇の思し召しにより、京都御所の御里御殿が移築され造営されたと承る。

昭和天皇は、昭和四十二年に、泉涌寺に行幸あそばされた時、御座所の御庭をご覧になり、

「春ふけて 雨のそぼ降る 池水に かじかなくなり ここ泉涌寺」

と詠ませられた。

なほ、終戦までは、泉涌寺の伽藍の補修、維持については宮内省の責任とされてゐた。ところが、戦後に押し付けられた『占領憲法』の「政教分離」の規定により、行政機関が直接神社仏閣に資を供することが禁止されたため、檀信徒を持たない泉涌寺の維持は極めて困難となった。ただ、わずかに、皇室内廷の御下賜金が唯一の拠り所であった。この時、伊勢神宮、橿原神宮、御寺泉涌寺を聖地とする解脱会といふ信仰団体が、霊明殿尊牌への奉仕と泉涌寺維持への協力が行はれるやうになった。

さらに、昭和四十一年、三笠宮崇仁親王を総裁に仰ぎ、民間篤志の人々が「御寺泉涌寺を護る会」が結成された。

霊明殿の東の奥に、月輪陵(つきのわみさぎ)・後月輪陵(のちのつきのわみさぎ)が鎮まりまします。四条天皇より、後水尾天皇から仁孝天皇までの二十五の御陵、五御灰塚、九御墓が営まれている。全部の御陵域を合わせても五一五七平方メートル(約千五百坪)という狭い所である。まことに畏れ多き事である。

ここに鎮まる天皇・皇族の御葬儀は、泉涌寺長老が御導師をお勤め申しあげ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされていると承る。唐門が美しい。

泉涌寺発行の『御寺泉涌寺』といふ案内書には、「月輪、後月輪陵も、わずかな御境域内に二十五陵、五灰塚、九御墓が鎮まっておられ、天皇陵は九重の石塔を、皇妃陵は無縫塔(むほうとう)を、親王墓は宝篋印塔(ほうきょういんとう)を立てただけで、深草北陵と共に心なき身にも、万乗の君と仰がれ給うた天皇が、幕府・権力者の非道に喘ぐ国民の上を思召されてかのような薄礼に甘んじられたことに無上の感激を覚えざるを得ない」と記されてゐる。

徳川家康及び江戸幕府歴代将軍の霊廟が、日光東照宮や久能山東照宮、そして上野寛永寺、芝増上寺などに豪華に造営されてゐることを思ふと、幕府の朝廷軽視、不敬が実感されるのは止むを得ない仕儀である。

月輪陵の背後の東山をのぼり行く。静寂の世界。鳥の聲のみが聞こえる。坂の左手に、後堀河天皇観音寺陵が鎮まりまします。

第八十六代・後堀河天皇は前述した通り、高倉天皇の第二皇子で、第八十二代・後鳥羽上皇の御兄君であらせられる守貞(もりさだ)親王(後高倉院)の第三皇子であらせられるつまり後鳥羽上皇の甥にあたられる。

「承久の乱」の後、立太子礼を経ずして、仲恭天皇廃位後、同日の承久三年(一二二一)年七月九日御年十一歳で践祚。貞永元(一二三二)年十月四日、まだ御年二歳の第八十七代・四条天皇に譲位され、院政を行はせられた。

しかし、後堀河天皇はそれから二年足らずの、天福二(一二三四)年八月六日に御年二十三歳で崩御された。崩御が急だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧の怨霊の祟りだとか、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといはれる。この中世時代は、戦乱の時代であり、無念の死を遂げた人や僻地に追放された人が多かったので、怨霊とか生霊の祟りを恐れる人も多かったと考へられる。

後堀河天皇は、皇室の伝統を尊ばれ、和歌・文学を好まれたと承る。また、『新勅撰集』撰進を命じられ、藤原道家、藤原教実、藤原定家らが、文暦二(一二三五)年完成された。

『新勅撰和歌集』に収められた後堀河天皇の御製は、

「山の端を 分出(わけい)づる月の はつかにも 見てこそ人は 人をこふなれ 」

「くりかへし 賤(しづ)のをだまき 幾度も とほき昔を戀ひぬ日ぞなき」

などである。御陵の清らかさを実感し、のこされた御製を拝すると、怨霊・生霊の祟りで崩御されたなどといふことは、全く虚構であると実感する。

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千駄木庵日乗四月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内清掃、資料整理など。

外出する機会が減りましたので、良い機会と思い資料の整理に励んでいますが、なかなか未整理資料が減りません。また普段なかなか読めない本や雑誌をきちんと読もうと思っております。

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2020年4月 3日 (金)

この頃詠みし歌

讃岐なる白峰御陵に参りたる昔の旅を思ひ出しをり(崇徳天皇御陵)

淡路島で隠れたまひし大君のみささぎは今も静かなりけり(淳仁天皇御陵)

何としても許し難きは上御一人を蔑ろにせし家康秀忠

家康を神と祀れる神やしろに参拝するは鬱陶しきかな

神と佛を敬ふ心の奥深き西行の歌を我も学ばむ

大いなる佛の山の宿に寝て西行の歌を繰り返し讀む

西に行くとは浄土に行くことを意味するか昔の歌人のあはれなる願ひ

今の世のこの恐ろしき有様を救はせたまへ天地の神

人類の文明が地球を支配するとの傲慢さは今打ち砕かれんとす

久しぶりに会ひたる乙女暗き世に明るく振る舞ふ姿好もし

遺骨となりて家に帰るより仕方なき無惨なるかな疫病といふは(志村けん氏逝去)

悲しくも消え去りし命懐かしみ面影を慕ふほかにすべなし(古賀俊昭氏ご逝去)


あと十年も二十年も國のため働きたまへと願ひゐしものを(同)

我はただ命あるかぎり生きんとて今日も朝(あした)を迎へけるかな

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千駄木庵日乗四月五日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内清掃、資料整理、原稿執筆の準備、原稿執筆。

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2020年4月 2日 (木)

台湾の独立精神を切々とうたひあげた台湾の人々の「やまと歌」

以前、台湾の蔡焜燦先生より、「臺灣歌壇創立四十周年紀年歌集」及び「臺灣歌壇第十集」をお贈り頂いた。これには呉建堂氏(故人。筆名は孤蓬萬里。医學博士。菊池寛賞受賞者)が、四十年前に台湾に於いて創立した和歌の會・「臺灣歌壇」に参加した方々の作品が収録されてゐる。

 二二八事件とその後の強権政治を歌った歌

「接収の 高官一味 魑魅魍魎 國を食ひものに 私腹を肥やす」許育誠氏
「横暴の 軍官兵士 理不尽に 鎗火を浴びせ 萬骨枯るる」同

台湾に進駐して来た國民党軍は劣悪であった。支那人権力者特有の強権政治・賄賂政治が行われ、汚職が横行した。
その實態を歌った歌である。

「『先に行く』 一言残して 烈士去る 夜明けの馬場町 熱血に染む」 江槐邨氏
「『親を頼む』 言葉今尚 胸を裂く 白色テロ の遺族の悪夢」同
「『生きたい』と 一人呟く 二条一項の 獄友(とも)に慰めの 言葉浮ばず(二条一項は死刑)」同
「緑島に 『今日も暮れゆく異國の丘』歌ひ 日暮の台湾 見詰む(注・緑島は政治犯が収容された監獄のあった島)」同
「吾を憂ひ 病み臥す母を 緑島に 最期の別れ 叶はぬを嘆く」同
「緑島(しま)に二年流され 新店の監獄に十年の 青春を空しく過ごす」同
江槐邨氏がどのやうな事情で國民党当局に逮捕されたかは分らないが、獄中における悲惨な体験を切々とそして怒りと嘆きを込めて歌はれ、読む者の胸を打つ。


「軍法は 獄窓に重く たれこめて 政治判決 覚悟してまつ」陳火桐氏
「獄窓は わが青春に 独立の 夢を刻みし 真空の舞台」同
「犠牲者の 無念と 遺族の涙こめ 二二八の雨 一日を止まず」林聿修氏


反支那感情の歌

「台湾に 世界記録あり 外来政権 戒厳令の 三十八年」蔡西川氏
「纏わりて 身から離れぬ 吸血鬼 脱身の術を イソップに問ふ」同

「敗戦して フォルモサに 逃げ延びて 来た人ら 愚かに夜郎自大ぶる」(林澤榮氏)

「品性は 下劣で腹の黒い人多く 不気味な國よ チャイナは」傳仁鴻氏
「約束は 守らず騙す ごまかすは アサメシ前である 支那人なり」同
「支那人に 欠けてゐるのは 品性と 良心なりと 宣教師語る」同

「外省人(よそもの)も 共に戦慄け ミサイルの 数一千は 友を選ばす」陳皆竹氏

「いざ子らよ 嘘つき 騙り 唐人の 悪しざま學ぶな 潔き道ゆけ」蔡焜燦氏

「美しき わがフォルモサに 塵散らす 外省人は 道で痰を吐く」荘淑貞氏
 
すさまじいまでの反支那感情の表白である。以前ある國體研究家と言われる人物が小生に、「黄文雄氏の本は反中國感情貫かれている。一冊読めばわかる」などと言った。まるで台湾人が「反中國感情」を抱くのが間違ってゐるかのやうな発言であった。
民族対立は無い方が良いに決まってゐる。しかし、過去長い間台湾人を迫害し、残虐極まりない圧政を行った支那、そして今日唯今武力を用いて台湾を併吞し侵略しようとしてゐる支那に対して、台湾人が「反中國感情」を持つのは当然のことである。

蔡焜燦氏は二二八事件について「陳儀の援軍要請を受けて送られた二個師団は、三月八~九日中に北部の基隆杜南部の高雄に上陸し、台湾人への報復を開始した。中國兵は、トラックの荷台に据え付けた機関銃を乱射しながら町の大通りを駆け抜け、男も女も老いも若きも片っ端から射殺していった。…知識層が無實のまま次々と殺され、そして裁判もなく虫けらのように処刑されていったのである。この白色テロの犠牲になった台湾人は三萬人とも五萬人ともいわれている…。」「二・二八事件のとき、陳儀と和平交渉を行った王添丁・台北市會議員などは、数日前まではお互いに酒を酌み交わしていた外省人の憲兵隊長にガソリンをかけられ、火をつけられて焼き殺された。」(『台湾人と日本精神』)と書いてをられる。

台湾独立を目指す正義の戦ひは止むことはないし、それに反対する勢力との闘ひも終ることはない。

台湾独立への思ひを歌った歌

「わが夢の 最たるものと こひねがふ 台湾独立 この眼で見るを」呉建堂氏

この呉建堂氏の歌に和した歌が次の歌である。
「独立が 最なる夢の 師の歌の 今ぞ顕ち来る 台湾萬歳」洪坤山氏
「星ひとつ またも消えゆく 台湾の 独立のさきがけ 安らかに眠れ」同

「二二八 涙止まらぬ 大合唱 我ら台湾の 独立はいつ」欧陽開代氏

「台湾と シナの戦ひ 早や起こり 眠る芋っ子 早く目覚めよ」黄華浥氏

「御祖より 流れ継ぎ来し わが血潮 漢にはあらず フォルモサの血ぞ」蔡焜燦氏
「六十年の 外道の圧政 耐へし祖國 この陣痛の つらさ耐へよや」 同

台湾民族の独立精神を切々とうたひあげた歌である。しかし、共産支那の台湾武力侵攻の恐れは十分にある。また日本語を理解し、自由に使ふことができる世代が少なくなったのも現實である。台湾が、かかる歌を自由に詠むことができ、発表することができる自由國家であり続けてほしい。そのために日本は台湾に出来る得るの協力を実行すべきである。

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千駄木庵日乗四月一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して資料の整理、室内清掃。連載原稿執筆・脱稿・送付。

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2020年4月 1日 (水)

〈天皇の祭祀〉と国難

日本天皇は、天地自然の神々を祭り給ふ祭祀主であらせられる。天皇は自然を神として拝ろがむ日本伝統信仰の体現者であらせられる。〈天皇の祭祀〉は、祭祀国家日本・信仰共同体国家日本の根幹である。言ひ換へると、日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした信仰共同体・祭祀共同體である。 

日本天皇は、天津神、大國津神、稲穂の靈をお祭りされ、四海の平安と國民の幸福と五穀の豊饒を祈られる祭り主であらせられる。そして、天照大神の御子即ち日の御子・現御神として君臨せられ國民から崇められてゐる。

わが国は、古代から今日に至るまでいかなる国難も乗り切って来ることができた歴史を有する。さうした日本国及び日本民族の強靭さの根底には、天皇を祭祀主・君主と仰ぐ國體精神があった。

鎌倉時代に二回の元寇が起こった。第一回の「文永の役」に際して、後深草上皇は、文永八年十月二五日に石清水八幡宮へ行幸されて異国調伏(ちょうぶく・内外の悪を打破すること。特に怨敵・魔物を降伏すること)を祈願された。十一月六日に蒙古軍撤退の知らせがもたらされると、八日に、亀山上皇は石清水八幡宮へ御自ら行幸され徹夜して勝利と国土安穏の感謝の祈りを捧げられた。翌九日には賀茂・北野両社へも行幸された。

第二回の「弘安の役」においても、朝廷から全国の二十二社への奉幣と異国調伏の祈祷が命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所において公卿殿上人、北面武士による「般若心経」三十万巻の転読などの祈祷が行はれた。亀山上皇はさらに、弘安四年六月石清水八幡宮に参籠され、六月四日には、「不断最勝王経」等を修して敵国調伏を祈祷され、七月一日には「仁王経」等を転読され、七月四日には「一切経」を転読され、敵国降伏を祈願あそばされた。

さに、亀山上皇は、弘安四年六月に、異国降伏御祈願のために、院公卿勅使を伊勢大神宮に発遣せられ、宸筆の御願文を奉られた。

『増鏡』巻十二「老のなみ」には次のように記されてゐる。
「伊勢の勅使に経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、眞讀(注・しんどく。経典を省略しないで全部読むこと)の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、『我御代にしもかゝる亂出で來て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき』よし、御手づから書かせ給ひける…七月一日(注・閏)おびたゞしき大風吹きて、異国の船六万艘、つは物のりて筑紫へよりたる、みな吹破(わ)られぬれば、或は水に沈み、をのづから殘れるも、泣く泣く本国へ歸にけり。…さて為氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申をくりける。
 勅として祈しるしの神かぜによせくる浪はかつくだけつつ
かくて静まりぬれば、京にも東(あづま)にも、御心どもおちゐて、めでたさかぎりなし。」

当時の日本国民は、亀山上皇の命懸けの御祈願を神仏が嘉され蒙古軍が玄界灘の底の藻屑と消えたと信じた。

亀山上皇は次のような御製を詠ませられてゐる。

「石清水の社に御幸ありし時よませ給うける
石清水たえぬながれは身にうけて吾が世の末を神にまかせむ

神祇の心を詠ませ給うける
今もなほ久しく守れちはやぶる神の瑞垣(みづがき)世々をかさねて

神祇
ゆくすゑもさぞなさかえむ誓あれば神の國なる我が国ぞかし」

 元寇に際しては、日本国は「天皇を君主と仰ぎ神々が護り給ふ神の国」であるといふ「神国思想」が勃興し、まさに挙国一致で戦い、蒙古軍を二度にわたって撃退した。

元寇は、まさに有史以来未曽有の国難であった。国民唱歌『元寇』の一番は、「四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る/十万余騎の敵 /国難ここに見る /弘安四年夏の頃」といふ歌詞である。

二番の歌詞は、「天は怒りて海は /逆巻く大浪に /国に仇をなす /十余万の蒙古勢は /底の藻屑と消えて /残るは唯三人(ただみたり) /いつしか雲はれて /玄界灘 月清し」である。

今こそ、日本国民はこの歌の精神を発揮しなければならない。

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千駄木庵日乗三月三十一日

午前は、諸事。資料整理。

午後からは在宅して、室内清掃、原稿執筆の準備、資料整理など。

適度に体を動かし、谷中千駄木を散策していますが、街の様子は特に変化はなく、人々も落ち着いています。これ以上感染者が増えることが無いように祈っております。

それにしても何かというと政府自民党攻撃をする亡国野党・偏向メディアが、何の具体策も提案しないで沈黙していることには腹が立ちます。

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