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2020年3月31日 (火)

日本伝統信仰に今こそ回帰し、今日の危機を乗り越えるべきである

新型コロナウイルス感染症が猖獗してきており、感染拡大を押さえられるかどうか重大局面になってゐるといふ。東日本大震災ではは、地震と大津波といふ大自然の脅威と原発事故といふ科学技術に脅威とが同時にわが国に襲いかかってきた。

日本のみならず今日の人類の危機的状況は相当深刻である。現代社会は精神的にも物質的にも大きな困難に直面してゐる。各地で民族紛争・宗教紛争が起こり、資源が枯渇し、自然破壊が進み、人類は困難な道を歩んでゐる。

現代文明・文化は西洋文化・文明が主流となってゐる。現代文明とは、「科学の論理によって技術革新を行ふやうになった文明」と定義されてゐる。それは、産業革命以来機械技術の発達を促し、経済至上・物質的繁栄至上の社会を作り出した。

ところが、現代文明は、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻そして今回の原発事故を見ても明らかな如く、既に頂点を越えて没落の時期に差しかかってゐるやうである。機械技術・科学は今回の疫病を完璧に抑へ込むことができるであらうか。

今日の混迷を打開するためには、これまでの先進諸国の〈近代合理主義〉を根底に置いた科学技術・物質文明に偏した考へ方を改めて、人間の精神性の復活が大事だと思ふ。物質文明及び経済至上主義の行きづまりによる今日の混迷を打開するためには、正しき「宗教精神」への回帰が大切である。

壮大なる宇宙の神秘=無限の可能性は、人間の理性や知能によって全てが説明できるものではないといふ謙虚な姿勢を持つべきである。「神への回帰」「自然への畏敬」といふ精神性を重視した世界観・文明観を確立することが、これからの人類の生存のために不可欠である。

しかし、「宗教精神」への回帰とは、安易にしていかがはしい神秘主義や狂信的な教団宗教へのよりかかりであってはならない。むしろさうしたものを厳しく否定しなければならない。

日本は、四季の変化が規則正しいだけでなく、全て穏やかな自然環境に恵まれてゐる。ゆゑに日本人は、衣食住はもちろん人間関係をはじめあらゆる生活の安定と豊かさは、人間が自然のままに、自然に随順して、自然を規範として生きることによって、実現することができた。自然に随順することが生活規範であり哲学であったと言っていい。まさに「神ながら 言擧せぬ國」なのである。
これが、日本民族が現実を肯定し、自然を神として拝む態度で生活し、殊更に論理や教条を構築する必要がなかった原因である。

日本人は自然のみならず、歴史からも「道」を学んだ。わが國に傳はる「道」は歴史に現れてゐるのだから、体系としての世界観や人倫思想を人為的に「さかしらなる知識」をもって言挙げし作りあげなくとも、日本の國の歴史の事柄・事実に学べばよかったのである。

稲作生活を営んで来た日本人は、太陽・山・海・川など大自然の恵みの中に生
きて来たので、自然を神と崇めた。鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿ってゐると信じて来た。

鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きていると信じて
きた。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来た。

麗しい日本の天地自然そして農耕生活の中から生まれてきた「神ながらの道」といふ信仰とは、天地自然と祖靈を神として拝ろがみ祭る信仰である。わが國の神は、天津神、國津神、八百万の神と申し上げるやうに、天地自然、祖霊を神として拝ろがむ信仰である。

日本人は祖先から稲の種と水田と農耕技術といふ恵み祖先から傳へられたので、祖先に感謝する思ひが強かった。ゆゑに自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる自然信仰と共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る祖霊信仰を抱いた。これを「敬神崇祖」と言ふ。その最も端的な例が天照大神への信仰である。

天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来た。わが國の神々の中で、最尊最貴の神として信仰され崇められてゐる天照大神は、皇室の祖先神であると共に、自然神たる太陽神である。

わが國の傳統信仰の祖靈崇拝と自然崇拝が、信仰共同體國家日本の土台、言ひ換へれば日本國體の根幹を成してゐる。そしてそれは、國民道徳・道義精神の根幹でもある。  

日本伝統信仰即ち神道は、自然の命と祖先の霊を崇める精神がその根幹であり全てである。それは日本民族の実際生活から生まれて来た信仰である。この日本伝統信仰に今こそ回帰し、今日の危機を乗り越えるべきである。これは安易なる神仏へのよりかかりではないし、叶はぬ時の神頼みでもない。わが国は、古代以来、神への祭りによって大国難を乗り切ってきた歴史を有するのである。私はそのことを信じて疑はない。

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千駄木庵日乗三月三十日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内清掃・資料整理・原稿執筆など。

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2020年3月30日 (月)

志村けんさんのご冥福をお祈り申し上げます。

志村けんさんが亡くなりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

私たちの世代の言葉て言えば、アチャラカ喜劇・ドタバタ喜劇の俳優・役者・タレントという人には、アクが強すぎたり、余りに品格の無さすぎる人が多いと思うのですが、志村けんさんはそんなことは無く、心地良いというか安心して見られるそしてとても面白いコントを演じてくれたと思っています。七十歳を過ぎてこれからタレントとして俳優としてもっと大きく活躍されると期待していただけに、急逝は本当に惜しみても余りがあります。同じドリフターズのいかりや長介さん、そして志村氏と交代した荒井注氏も亡くなるのが早すぎました。荒井氏は私の出身校二松学舎大学の先輩でした。

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 大嘗祭は、天孫降臨の繰り返しであり神人合一の神聖なる行事である


 大嘗祭は、天孫降臨の繰り返しの行事である。これまで何回も論じたたやうに、そもそも「まつり」とは元初(ものごとの一番始め)の行事の繰り返しである。天照大神は邇邇藝命に稲穂をお授けになって「このお米を地上にたくさん実らせ、豊葦原瑞穂の國を統治しなさい」と御命令になる。邇邇藝命は、その稲穂を奉持して、真床追衾(まとこおふふすま)に包(くる)まれて地上の高千穂の峰に天降られる。真床追衾とは、床を覆ふ夜具といふ。おくるみ(赤ん坊を抱く時、衣服の上からくるむもの)とよく似てゐると承る。

 天照大神と神霊と稲穂の霊と一体となられ日の御子としての神聖性を開顕される大嘗祭において、新しい天皇は、先の天皇と同じやうに神と一体となられるのである。つまり歴代天皇は、御肉体は変られても、「やすみししわが大君 高照らす日の御子」といふ神聖なる本質・神格は全く同じなのである。これを「歴聖一如」と申し上げる。

 大嘗祭は、天孫降臨といふ元初の事実の繰り返しであり、御歴代の天皇が天照大神の御神霊と一体になられるみ祭りであり、天皇の神としての御資格の再生であり復活のみ祭りである。大嘗祭は、持統天皇の御代から行はれるやうになったといふ。

 天照大神は「天照らす 日孁尊(ひるめのみこと)」と申し上げる。「天空に照り輝く太陽の女神」といふ意である。

『日本書紀』には、「伊耶那岐命・伊耶那美命、共に議(はか)りて曰(のたま)はく、吾すでに大八洲國及び山川草木を生めり。いかにぞ天の下の主たる者を生まざらむや、と。ここに共に日神(ひのかみ)を生みます。大日孁貴(おほひるめのむち。太陽神の神霊を保持される尊い女神といふ意)と號(まを)す。此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る」と記されてゐる。

古代日本人は日の神の永遠性を信仰してゐた。故に、日の神たる天照大御神は、最尊最貴の女神と仰がれる。天照大御神は、高天原の主神であり、日の神である。その日の神を祀る祭祀主を共同體の「おほきみ」と仰いだ。そして日の神を「おほきみ」の祖神と信じた。

天照大御神は、日神に五穀の豊饒を祈る祭祀主である「おほきみ=天皇(すめらみこと)」の御祖先神としても仰がれるやうになったのである。つまり、天照大御神は、日の神=自然神と、皇祖神=祖先神との二つの面を持つ女性神であられる。

天照大御神は、大日孁貴尊(おほひるめのむちのみこと)とも申し上げる。太陽を神格化した御名である。「ヒル」は光り輝く意で、「メ」は女神の意である。「ヒルメ」とは「太陽の女神・母神」といふ意である。

 天照大御神は、女性神であるから武を尊ばれないといふ事は絶対にない。弟神の須佐之男命が高天原にお上りになって来た時、「善(うるは)しき心ならじ」と思し召され、弓矢で武装され、大地を蹴散らして雄叫びの声をあげられた。

天照大御神は、太陽神のもたらす光明温熱によって萬物が生育するといふ御神徳をも具有される。故に穀靈であらせられる。稲にとって太陽の熱と光が生命の源である。そこで、稲穂の命即ち穀靈は、日の靈と不離一體であり、日靈と穀靈と皇室の祖靈とは一體の関係にあるといふ信仰が生まれたに違ひない。だから天照大御神をお祭りする神殿(神明造)が穂倉の形をしてゐるのである。

『古事記』には、天照大神が忌服屋(いみはたや・清浄な機織り場)で神御衣(かむみそ・神がお召しになる衣服)をお織りになってゐたと記されてゐる。わが民族は、日の神・穀靈・皇祖神たる天照大御神を、新嘗祭を行はせられ、機織りをせられる「母神」=女性神として仰ぐ信仰を保持してきた。

天照大御神は「ひとり神」ではあらせられると共に母神であらせられ、御子神=天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)をお生みになられた。天之忍穂耳命は「女神系の男神」といふことになる。天之忍穂耳命の御子神が邇邇藝命であらせられる。

日本民族は、男性を日子(ヒコ)といひ、女性を日女(ヒメ)といふ。人は、信仰的には日の神の子であるといふ信仰がある。人は単なる肉体ではない。神の分靈である。まして、現御神日本天皇は人にして神であらせられる。したがって、現御神日本天皇を、生物學上の女性・男性として区別する事はできない、現御神日本天皇としての御本質は、肉身が男性であられやうと女性であられやうと全く同じである。

 「萬世一系」とは、皇祖神への祭祀を行ふのは、天照大御神及び邇邇藝命の御子孫・生みの御子であるといふ思想による。高天原の祭り主は、女性神たる天照大御神であらせられる。皇極天皇・持統天皇など歴代の女性天皇も祭祀を厳修せられた。

祭祀國家・信仰共同体=日本國の祭祀主たるスメラミコトに女性がなられることには何の不思議もない。神武天皇以来、原則として男系の男子が皇位を継承してきた傳統は守らねばならない。しかし、「女性天皇は、皇統断絶につながる」などといふことはあり得ない。

皇祖天照大御神は、古代における偉大なる女性ではなく、神話時代の女性神であり、日の神の神靈である。邇邇藝命は、天照大御神の「生みの御子」であられ地上に降臨された天孫であられ肉身を持たれる御存在である。すなはち神にして人であり人にして神であられる。

邇邇藝命の御子孫である神武天皇そして歴代の天皇は、天照大御神そしてその生みの御子たる邇邇藝命の血統と靈統を継承されてゐる。さらに言へば歴代の天皇お一方お一方は天照大御神の「生みの御子」であらせられるのである。

大嘗祭と箱の信仰的事実を開顕する最も神聖にして重大なる「皇室祭祀」「天皇の祭祀」「神人合一の行事」なのである。

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千駄木庵日乗三月二十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅してね、室内清掃、原稿執筆・資料整理など。

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2020年3月29日 (日)

永寿総合病院に小生が出した抗議文・質問書

本日(令和二年三月二八日)次のように報道がされている。永寿総合病院で三月二十八日に感染が確認されたのは患者ら計二十九人。判明した感染者数の累計は六十九人に上り、都は院内感染が主な原因とみている。

 慶応大病院(新宿区)では、永寿総合病院から転院した患者一人と、同じ病室にいた患者三人が感染したことが明らかになっている。

 永寿総合病院は内科、産婦人科、外科などを備え、病床数は四〇〇。二四時間体制で救急患者を受け入れている二次救急医療機関に指定されている。感染者が出たことを受け二四日から外来診療を中止した。

小生の父は永寿総合病院な長期間入院していた。その時の対応があまりにひどかったので、下記のような抗議文・質問書を院長に提出した。ご参考までに掲載します。

             ◎

永寿総合病院         平成22年3月20日
院長 湯浅祐二殿

四宮正貴

第一   貴病院の対応
1、平成二十二年十一月二十日午前、父・四宮金彌が、尿路感染症で苦しみ出し、救急車で永寿総合病院に行く。診察を受け、すぐ入院ということになった。中野邦夫医師(総合内科・永寿病院副院長)は、付き添って行った小生に対し「老衰が進んでいる。高齢になると老衰とか病気は急激に進行することがある」と言った。

2、十一月二十五日午後、小生が付き添っていると、父が体の痛みを覚え「痛い、痛い」という声をあげていた。小生が付き添っているとは知らなかったある女性看護師は、「痛い、痛い」という父の口真似をしながら廊下から病室に入って来た。小生は、「患者が苦しがっているのに、その真似をするとは何事かと」強く叱りつけた。

3、尿路感染症は数日で小康を得、体力も回復の兆しを見せてきた。十一月二十七日、連絡があり病院に赴くと、担当の中野邦夫医師が「肺に食べ物が入り、熱が出た。どういう結果になるか分からない」と言う。そして、食事をいったん中止するという。「老化による咽頭反射の低下が原因だ」という。しかし、入院前は、全くそういう兆候は無く、食欲は旺盛の方であった。前日の十一月二十六日、私が病院に行って父に会った時、父は「病院の人に無理に食べ物を食べさせられた。」と言っていた。この事で、食べ物が肺に入り、誤嚥下性肺炎を起こした可能性が極めて高い。

4、十二月一日、また病院に呼ばれ、担当の中野邦夫医師の説明を受けた。今度は、何と「MRSA(耐性ブドウ球菌)」が父の喉に付着したという。「耐性ブドウ球菌」とは「耐性を獲得し、最も有効なメチシリンという抗生物質が効かなくなった黄色ぶどう球菌(食中毒などの原因となる菌)。学名、スタフィロコッカス‐アウレウス。皮膚や鼻腔などに存在。院内感染の原因ともなり、抵抗力の弱い手術後の患者や高齢者・未熟児などが感染しやすく、一旦発症するとほとんどの抗生物質が効かないため治療は困難。多剤耐性黄色ぶどう球菌。MRSA(Methicillin-resistantStaphylococcus aureus)」という黴菌である。これが私の父の喉に付着したという。つまり治療が困難な黴菌に院内感染してしまったのである。

5、そして医師は、「回復の見込みはない。延命とは延苦である」とか言って、延命治療については私に任せると言うのだ。病院側の不注意、医療体制の不備によって治療困難な状況に私の父を追い込んでおいて、延命治療は私の判断に任せるなどというのはあまりにも無責任であり、無反省である。
私が会いに行くと、目を覚ましていれば、色々話しかけてくる。そして食べ物を欲しがる。つまりまだまだ意識もあり、生きる意欲もある父について、息子の私が『もう延命させなくて良い』つまり『殺してくれ』などと病院に言えるはずがないではないか。しかも嚥下能力の喪失も、「耐性ブドウ球菌」の感染付着も、病院側のミスによると判断せざるを得ない。そういうことへの反省も責任の自覚も無く、「回復の見込みはない。延命とは延苦である」などと言って、事実上、私に「父親を殺してくれ」と言わせようとしているのだ。これは全く許し難いことである。

6、十二月十六日午後、病院で父に付き添っていると、ベッドに拘束され苦しがっている父が、拘束具をはずしてくれとうめくので、看護師を呼ぶ。しかし、十数分経ってからやって来て、ようやく拘束を解いた。あまりのことなので、厳しく抗議する。そして中野邦夫担当医師を呼んでもらう。私が色々抗議すると、中野医師は「では別の病院に行ってくれ」と暴言を吐く。断じて許し難い。医師としての責任感も倫理感覚も持ち合わせていない暴言である。この病院に対しては長い間不信感を持っていたが、もう我慢がならない。徹底的に戦う覚悟を決める。

この病院については、これまでも色々腹の立つこと、許せない事があった。ことは父の命にかかわることである。断固として戦いたい。 しかも医師の態度たるや傲岸不遜と言うか全く誠意が感じられないものであった。

第二 質問
1、 何故入院した後に病状が悪化したのか。

2、 何故食べ物が父の肺の中に入り誤嚥下性肺炎にかかったのか。

3、 何故、嚥下能力を喪失したのか。

4、 何故「耐性ブドウ球菌」が父に感染付したのか。
        ◎
この質問書・抗議文に対する回答は全くなかった。永寿総合病院とはそういう体質の病院なのである。

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千駄木庵日乗三月二十八日

午前は、『政治文化情報』発送完了。

午後は、資料の整理。書状執筆。原稿執筆など。

お花見は、一昨日、谷中霊園と上野寛永寺を散策して済ませました。私はこの十年以上、花見の宴に参加していません。年齢のためか体調のためかは分りませんが、『酒は静かに呑むべかりけり」という心境になっております。ただし美しい女性に誘われれば別です。しかしそういうことはありません。

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2020年3月27日 (金)

この頃詠みし歌


新左翼活動家なりし人なれど今や企業を経営しブルジョアになりぬ

帰り来し祖国に生きて母と吾と妹を守りくれたる父を偲ぶも

父母(ちちはは)の恩愛は常に新たなり報いることの足らざりし我に

花の季節になりても人々の華やぐ姿少なし萎れたる日々

咳をする人をみんなで睨みつける面白き世の中となりにけるかな

わが思ひ訴えんとして今日もまたパソコンに向かふ一人居の部屋

筆を執るといふ言葉も消えゆくかパソコンのキーをたたく日々(にちにち)

その昔共に学びし友達の姿は見えぬ麹町三番町

巨大な墓並ぶ霊園に寒き風吹き来る夕べを一人し歩む

桜花咲き盛る道に入(い)り行けばグランドより子供たちの歓声聞こゆる

金色の葵の紋が輝ける東叡山寛永寺の屋根仰ぎ見る

上野戦争で灰燼に帰せる寛永寺 今は静かなる古寺となりぬ

芭蕉の詠みし句を思ひつつ鐘楼を仰ぎたりけり春寒の寛永寺

谷中銀座は何時もの通り賑はへりウィルス騒動何するものぞと

焼き鳥屋も天ぷら屋も皆賑はえり下町庶民の明るき生活

お稲荷さんを買ひ来て家で食したり今夕は珍しく外食はせず

政権批判ばかり繰り返す野党たちよ 今こそしっかりとした対策を示せ

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千駄木庵日乗三月二十七日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、最終校正。『政治文化情報』発送準備など。

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永寿総合病院は確かに質が悪かった

今朝、「東京都では26日、新たに新型コロナウイルスへの感染が47人確認されました。一日に確認された人数としてはこれまでで最多で、2日連続で40人を超えました。

 東京都などによりますと、新たに感染が確認された47人のうち、10人は台東区の永寿総合病院の患者ら関係者。3人が慶応病院の入院患者で、海外への渡航歴がある人が6人、感染経路が不明が24人となっています。永寿総合病院では、これまでにも入院患者や看護師の感染が明らかになっていて、感染者はあわせて25人となりました。

 また、慶応病院で感染が確認された3人は、永寿総合病院から転院し、その後、感染が明らかになった男性患者と同じ部屋に入院していたということです。

 東京都での47人の感染確認は、一日に確認された人数としては最多で、2日連続で40人を超えました。これまでに東京都で感染が確認された人はあわせて260人となっています。(26日23:51)」
という報道があった。

私の父は永寿病院に入院しました。永寿病院は評判が悪かったのですが、救急車で運ばれたので、選択の余地はありませんでした。

入院してみると、医師・看護師・職員の質は確かにあまり良くありませんでした。何回病院に抗議し、医師看護師職員に注意したか分かりません。弁護士を立てて永寿総合病院に抗議文を出しましたが、何の回答もありませんでした。こうしたことは、近々、あらためて詳しく書きたいと思います。

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支那の易姓革命思想を否定し皇統の無窮を説いた藤田東湖

藤田東湖は『弘道館記述義』(『弘道館記』の解説書。弘化三年(一八四六)一月三十日に脱稿)で、「然れば則ち唐虞(唐は七世紀初めから十世紀初めまで、古代支那王朝として最も文明の発展をとげた國。虞は支那古代、舜(しゅん) が尭(ぎょう) から譲られて帝位にあった王朝の名)の道、悉く神州に用ふべきか。曰く、否。…決して用ふべからざるもの二つあり。曰く禅譲(帝王がその位を世襲せず、有徳者に譲ること)なり。曰く放伐(徳を失った君主を討伐して追ひ払ふこと。「禅譲」と共に、支那の易姓(えきせい)革命思想による考へ方)なり。…赫赫たる神州は、天祖の天孫に命ぜしにより、皇統綿々、緒(物事のはじまり)を無窮に傳へ、天位の尊きこと、猶ほ日月の踰ゆべからざるがごとし…萬一禅譲の説を唱ふる者あらば、凡そ大八洲の臣民、鼓を鳴して之を攻めて可なり。…若し彼の長ずるところを資り、併せて其の短に及べば、遂に我が萬國に冠絶する所以のものを失はん」と論じてゐる。

 支那の有徳王君主思想・革命思想を否定し、皇統の無窮を説いてゐる。さらに、支那思想の悪しきところを取り入れたならば、わが國の國體が破壊されるとしてゐる。ここに「水戸學」とりわけ藤田東湖の尊皇思想の真骨頂がある。

藤田東湖は、『弘道館記』冒頭の「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経にして、生民の須由も離るべからざるものなり。」といふ言葉を解説して、「その(注・『道』の)實のごときは、すなはち未だ始めより天神に原(もと)づかずんばあらず。…神代は邈(ばく)たりといへども、古典の載するところ、彰名較著、また疑ふべからず」「天神は生民の本にして、天地は萬物の始めなり。然らばすなはち生民の道は、天地に原づき、天神に本づくや、また明らかなり」(『弘道館記述義』)と論じてゐる。

日本人の踏み行ふべき「道」の實體は、天津神の御事跡に具體的に示されてゐる、日本の倫理道徳は、神話の神々の世界に事實を以て示されてゐる、といふほどの意であらう。

さらに、藤田東湖は武の精神の尊さを、「その勇武に至っては、すなはち皆これを天性に根ざす。これ國體の尊厳なる所以なり。そもそも所謂勇武とは、ただ勁悍(けいかん)猛烈、以てその威を逞しうするのみにあらず。蓋しまた必ず忠愛の誠に発するなり。」(『弘道館記述義』)と論じて、素盞鳴尊・日本武尊の御事跡に触れてゐる。

會澤正志斎の『新論』と藤田東湖の『弘道館記述義』は、水戸學を代表する文献として、全國に広く傳写された。嘉永六年(一八五三)ペリーが来航し、砲艦外交で我が國を恫喝するに至り、水戸學の「尊皇攘夷」の精神は、國家的危機打開の思想的基盤となった。

明治維新の基本精神たる『尊皇攘夷』は『弘道館記』の一節「わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。」より発したのである。

藤田東湖はこれを解釈して「堂々たる神州は、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)神器を奉じ、萬方に君臨し、上下・内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるごとし。然らばすなはち尊皇攘夷は、實に志士・仁人の、盡忠・報國の大義なり。」(『弘道館記述義』)と述べてゐる。

天皇を君主と仰ぐ日本の國柄は、歴史のあらゆる激動を貫いて今日まで続いてきてゐる。ところが、古代オリエントや古代支那をはじめとする諸外國においては、祭祀を中心とする共同體は武力征服王朝によって破壊されてしまった。古代民族信仰・祭祀宗教は姿を消し、その後に現れた信仰は外来宗教である。また、太古の王家も古代國家も姿を消し、その後に現れた支配者は武力による征服者であり、國家は権力國家である。

それに比してわが日本は、神話の世界が今日唯今現實に生きてゐる國である。すなはち、わが日本は、古代祭祀宗教の祭祀主たる神聖なる御資格を受け継ぎ給ふ天皇を、現實の君主と仰ぎ、共同體國家と民族の中心者として仰いでゐる殆ど世界唯一の國である。

かうした事實が、日本國と西洋諸國やシナとの決定的な違ひである。それは、會澤正志斎が『新論』において、「神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣、世宸極を御し、終古易らず。」と説き、北畠親房が『神皇正統記』において、「大日本者神國他。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。」と説いてゐる通りである。

日本が長い歴史において様々な変化や混乱などを経験しつつも國が滅びることなく統一を保ち続けたのは、天皇といふ神聖権威を中心とする共同體精神があったからである。日本國は太古以来の傳統を保持する世界で最も保守的な國でありながら、常に新たなる変革を繰り返して来た國である。その不動の核が天皇である。天皇國日本を愛する心を養ふことこそが日本國永遠の隆昌と世界の真の平和の基礎である。

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千駄木庵日乗三月二十六日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、室内清掃、『伝統と革新』編集の仕事、『政治文化情報』発送準備など。

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2020年3月25日 (水)

「大嘗祭は天皇と神とが一体となる儀式ではない」などといふ主張は日本の國體・伝統信仰の中核を隠蔽する主張である


先日も書いたが、近年、大嘗祭を政府が公費によって協賛し奉る事が「『現行占領憲法』の政教分離の原則に反する」といふ批判を回避するため、宮内庁によって「大嘗祭は天皇と神とが一体となる儀式ではない」といふ主張が出されてゐる。政府全体も同じ考へであらう。そしてその政府や宮内庁の意向に沿ふ如く、日本の伝統護持の立場に立つ神道学者・憲法学者などがさういふ主張繰り返し述べるやうになった。


基本的に、「天地の初発の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が祭りである。

日本民族は、神に対して常に祭りを行って来た。神道の基本行事は、神を祭ること即ち「祭祀」である。「まつり」は、日本民族の精神傳統・日本文化の原点である。日本傳統信仰は、神學・教義といふ抽象概念として継承されて来なかった。上は天皇から下万民に至る日本人の「神祭り」「祭祀」といふ行事によって、古代より今日まで傳へられて来た。

「まつる」といふ言葉の原義は、「お側で奉仕し服従する」「何でも仰せ事があれば承りその通り行ふ」「ものを献上する」といふほどの意である。

「神祭り」とは神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神の御心のままに勤めることをお誓ひする行事=神人合一である。

人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在である。しかし、様々の罪穢が、神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまふ。禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが神道行事たる祭祀の根本であり基本である。

つまり人の本来の姿を回復することが祭りの原義である。『古事記』冒頭に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が祭りである。

天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来てゐる。わが国存立の基盤は、「天皇の祭祀」にある。天皇の御使命は、地上に稲作の栄える瑞穂の國を作られることにある。これが天皇中心の日本國體の根幹である。

稲作生活から生まれた神話の精神を、「祭祀」といふ現実に生きる行事によって、今日唯今も継承し続けてきてをられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。

大嘗祭・新嘗祭などの「天皇の祭祀」は神人合一の行事である。「大嘗祭は天皇と神とが一体となる儀式ではない」などといふ主張は日本の國體・伝統信仰の中核を隠蔽する主張である。

「天皇の祭祀」によって、わが國の伝統精神が現代において生きた形で継承され、踏み行はれてゐる。天皇の「まつりの御精神」を仰ぎ奉ることが、我が國の道義の中心である。祭祀主・日本天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。 

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千駄木庵日乗三月二十四日

午前は、諸事。

午後らは在宅して、室内清掃、原稿執筆、『政治文化情報』発送準備など。

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東叡山寛永寺・谷中霊園散策記

朝は少し曇ってゐたが、やがて晴れ、洗濯物を干した後、室内を清掃しました。風が強かったので洗濯物はすぐ乾きました。こうして体を動かすことがかえって心臓に良いように思います。ただし、もちろん無理はいけません。

午後に家を出発。タクシーで上野寛永寺に参りました。正しくは、東叡山寛永寺と言います。天海という徳川家康・家光に仕えた坊さんの発案で、東の比叡山という意味です。朝廷の権威を利用して徳川幕府の権威を高めようという魂胆であったと思います。

天台宗の大本山で、江戸時代には、芝増上寺と並んで徳川将軍家の菩提寺で、広大な領地を有し、皇族を門主に迎えました。そもそも徳川氏の菩提寺の住職に皇族を迎えること自体が不敬千万です。

これには深謀遠慮があり、西国大名などが京都の朝廷を要した徳川征伐の兵を挙げた時、寛永寺門主を天皇の御地位に祭り上げて対抗しようとしたのであります。事実幕末の戊辰戦争の時には、東北の幕府方諸藩が当時の寛永寺の門主を「東武皇帝」と祭り上げ、奥羽列藩同盟盟主にして政府軍に対抗しました。

しかし、戊辰戦争・上野戦争では、たった半日で彰義隊は敗北し、あの豪華だったであった寛永寺の堂塔伽藍のほとんどは灰燼に帰しました。彰義隊の忠義は逆の結果を生んでしまったのです。政府軍は今の東大構内からアームストロング砲という新鋭の大砲を上野山に撃ち込みました。その総指揮にあたったのが靖国神社に銅像が建てられてゐる長州藩士・大村益次郎であります。

今日、埼玉から移築した建物を「根本中堂」としています。屋根には、金色の葵の御紋が燦然と輝いてゐます。私はこのお寺に来るたびに「盛者必衰のことわり」を想起します。徳川慶喜が謹慎した部屋も残されています。

根本中堂のそばには芭蕉の句とされる「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の「上野寛永寺時鐘堂」がのこされている。浅草の鐘は「浅草寺弁天山鐘楼」であるという。江戸の時代の庶民は早起きで日の出午前六時(明け六つ)の鐘で起こされ仕事に励んだようである。

ところが今日は確かに櫻は咲いてゐましたが、とても寒く、花の雲などという気分にはなれませんでたした。

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千駄木庵日乗三月二十四日

午前は、諸事。室内清掃。

午後は、上野寛永寺参拝。谷中霊園散策。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備など。

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2020年3月24日 (火)

最近読みし歌

政治家はますます無責任になり行くか一人の役人を死地に追ひやり

犠牲になるはやはり下っ端の者なるは古今東西変らざりけり

坊ちゃん育ちの二人の政治家一人の役人の命など眼中にあらざる如し

吉田茂と岸信介の孫ならばもう少しまともな姿勢を示せ

アメリカにしか頼ることのできぬ日本か 武力を奪ひたるそのアメリカに

暴虐国家の独裁者を国賓として迎えんとせし安倍総理は一体何を考へたのか

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千駄木庵日乗三月二十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、原稿執筆、資料整理など。

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2020年3月23日 (月)

警察は何故もっと厳しくパチンコを規制しないのか。

笹川陽平氏の下記の意見には賛同します。
退職した警察官僚・警察官が大量にパチンコ業界に再就職していることも影響しているのではないでしょうか。
パチンコは完全に博打です。しかも多くの年寄りがなけなしの金を取られてゐます。警察は何故もっと厳しく規制しないのでしょうか。

          ◎

パチンコホールと警察庁の指導力」―新型コロナウイルス問題― [2020年03月23日(Mon)]

「パチンコホールと警察庁の指導力」
―新型コロナウイルス問題―


どうにも不思議でならない現象がある。新型コロナウイルスの感染拡大が大きな問題となっている中で、パチンコホールがどこも、ほぼ平常通り営業を続けていることである。

新型コロナウイルスの感染拡大を受けて改正新型インフルエンザ特別措置法が成立、施行され、政府は必要であれば、緊急事態宣言を発出できるようになった。安倍晋三首相は14日に記者会見を行った際、先に政府の専門家会議が公表した「集団感染が確認された場所に共通する三つの条件の重なり」に言及し、改めて注意を喚起した。

 ①換気の悪い密閉空間
 ②多くの人が密集していた
 ③近距離での対話や発声が行われた

この三条件が重なった場所は感染リスクが高まるという。私がみるところ、パチンコホールは、今回の感染源の一つとなった屋形船やライブハウスと同様に、三条件が重なる空間になりうるように思われてならない。にもかかわらず、あまり深刻に受け止められていないのではなかろうか。

ネット・メディアによれば、大阪府堺市のパチンコホールでは、2月末に新型コロナウイルスの感染者が来店したことが保健所の調べでわかった。そこで同店は3月7日から臨時休業とし、すべての従業員を自宅待機させて健康観察を行った。そして、保健所の指導に従って店内の消毒を終えたため、13日から営業を再開したという。これも、大きなニュースにはなっていない。

パチンコ業界の指導は警察庁の管轄だと聞く。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大問題で、警察庁が先頭に立って動いた印象は私にはない。

私の見方に対し、パチンコ業界は反発するだろう。インターネット上にはパチンコホールの実情に詳しい関係者のコメントやリポートがいくつも載っている。

それらによれば、(きちんとしたパチンコ店の場合)建築基準法に則って1時間当たり6~10回も店内の空気を入れ替える換気システムが設置されており、パチンコ店は密閉されていて換気が悪いというのは先入観や偏見にすぎない――これが、①についての反証である。

②についての反証としては、多くのパチンコ店の天井高はお客に喫煙者が多いこともあって、他の商業施設に比べて高く設計されていることをあげている。コロナウイルス問題の影響もあってパチンコ店の客数はすでに大きく減っており、密集状態とはいえないという。

③についても、パチンコ店の現状には当てはまらない。なぜなら、そもそも客は遊技台に面して座る。他者と対面する状況にはならない。また、多くの店で客同士の間にタバコの煙を遮るための「分煙ボード」を設置し、これが飛沫感染を防ぐ役割を果たしているのだそうだ。こうした理由から、パチンコ店が他の商業施設と比べて感染危険度が高いと一方的に決めつけるのは的外れだという。

確かに警察庁は2月27日、全国のパチンコ店に対し、新型コロナウイルス感染対策の強化を要請した。それもあって、店の入り口前や店内の随所に消毒液を置き、マスクをつけた店員が消毒液ポンプを持って客に呼び掛けたりしている。また、パチンコ機のハンドルやパチスロ機のレバー、ボタンなど不特定多数の客が触れる部分の消毒が励行されているそうだ。

しかし、である。こんな声も聞く。
 「パチンコ店を訪れる客のマスク着用率はかなり低い」
 「マスクをしていない店員を見た」
 「消毒を促すポスターがなかった」

パチンコはギャンブルではなく、「遊戯」と定義されている。しかし、人を熱中させてしまう娯楽の一つであり、多くの人を限定された空間に留まらせる装置ともいえる。感染が起こりやすい施設であると言わざるを得ない。新型コロナウイルス感染の拡大防止に、国全体が一丸となって取り組まなければならない時、パチンコ店で繰り広げられている光景が、私には危なげに思えてならないのである。

感染は全世界に広まり、すでに日本国内でもさまざまなイベントの中止が相次いでいる。野球、ゴルフ、大相撲など多くのプロスポーツ競技で中止や延期、無観客試合の措置がとられた。中でも気の毒に思えたのは選抜高校野球大会の中止だ。出場が決まっていた球児たちの心のうちは察するに余りある。

公営競技の競馬や競輪、オートレース、そしてボートレースも各監督省庁の指導によって無観客での開催となっている。こうした非常の措置がとられたのは、ともかくも多人数が一つの場所に集まらないようにすることが、ウイルス感染を防ぐためには死活的に重要であるからだ。

ところで、IR(統合型リゾート整備推進)法案(通称カジノ法案)の成立によってギャンブル依存症についての懸念が浮上した際、公営競技施行者団体と並んでパチンコ業界も依存症対策を打ち出した。社会的責任を果たそうとする姿勢を評価したい。

パチンコの場合、感染防止対策では公営競技とは違って〝無観客営業〟はありえないし、店には営業する自由もある。しかし、今回は非常の事態なのだ。思い切った対応をお願いできないものか。

菅義偉官房長官は10日の記者会見で、感染防止対策について、「警察庁がパチンコ業界に対して、従業員に感染拡大しないような職場の整備についての特段の配慮、遊技機のハンドルなど、不特定多数の人が触れる場所を消毒するなど感染防止措置を要請している」と述べた後、こう付け加えた。

「パチンコ業界も自主的な取り組みとして、集客を目的とした広告宣伝の自粛を各パチンコ店に求めたほか、感染拡大を受けて、休業日を設けた店舗もあると聞いている。引き続き、警察庁が政府の基本方針をふまえ、パチンコ業界で適切な対応がとられるよう指導する。さらに、一定の期間は休業日を増やしたり、営業時間を短縮するなど、思い切った対応がとれないものか。業界の英断を期待する。目下のところ、存在感が薄い警察庁には、より一層の指導力発揮をお願いしたい。

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水戸學の基本精神が記された『弘道館記』

水戸藩第九代藩主・徳川斉昭(烈公・寛政十二<一八〇〇>~萬延元年<一八六〇>)は、七代藩主・治紀の第三子。幕末の國難の時期に積極果敢な言動を示して國政に大きな影響を与へた人物である。自ら先頭に立って藩政改革を断行した。また尊皇攘夷の基本的立場から幕政改革を求め続けた。ために、六十三歳でその生涯を終へるまで前後三回幕府から処罰を受けた。

藩政改革に燃えた徳川斉昭は、天保十二年(一八四一)に弘道館を創立した。弘道館が創設されやうとしてゐた時期は、丁度阿片戦争が勃発し、イギリスの東亜侵略がますます活発化してゐた。支那が侵されれば次はわが國である。水戸における尊皇攘夷の精神の興起はまさにさうした危機的状況における國家防衛精神の勃興であった。

弘道館は単なる藩校ではなく、内憂外患交々来たるといった情勢にあった幕末のわが國の危機を救ふための人材を養成する目的で作られた。儒學・諸武芸のみならず、天文、地理、数學から医學まで教授した当時としては稀に見る壮大な規模の総合教育施設である。斉昭の學校建設の基本精神は、「神儒一致、文武合併」(神道と儒教の融合、文と武を共に學ぶ)であった。

幕末には、水戸藩だけでなく維新回天の大事業に貢献した薩摩藩・長州藩、そして後に幕府體制維持のために奮闘した會津藩もかうした教育振興策が講じられた。

徳川斉昭が天保三年(一八三八)三月、弘道館の建學の精神と綱領とを記したのが『弘道館記』である。『館記』の草案については、天保七年(一八三六)に斉昭から藤田東湖に下問があり、斉昭・東湖・會澤正志斎・青山延于(のぶゆき・水戸藩士、儒學者)・佐藤一斎(陽明學者)の意見が入れられてゐるといふ。

藤田東湖は、文化三年(一八〇六)三月十六日に生まれ、安政二年(一八五五)に亡くなった。藤田幽谷の次男。東湖の号は屋敷の東に千波湖を望見したことによる。『正気の歌』『回天詩史』『壬辰封事』『弘道館記述義』の著者。父の學問を継承発展させ、徳川斉昭の改革の事業を補佐する一方、熱烈な尊皇攘夷論で勤皇家を主導、安政の大地震で圧死した。道義によって鍛へられた日本人の純正な在り方を示した不朽の英傑である。

東湖から正志斎に宛てた書状に、「神州の一大文字にも相成るべき儀、東藩(水戸藩のこと)學術の眼目に仕り」と記されてゐるやうに、『館記』の草案は、水戸の學問の眼目ばかりでなく、わが國の一大文字にしたいといふ志で書かれた。

『弘道館記』には、「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大経(天地の間にそなはっている大道)にして、生民の須由も離るべからざるものなり。弘道の館は、何のために設けたるや。…上古、神聖(記紀の神々)極(窮極の標準)を立て統を垂れたまひ……宝祚(天皇の御位)これを以て無窮、國體、これを以て尊厳、蒼生(國民)、これを以て安寧、蕃夷戎狄、之を以て率服(服従)す。……中世以降、…皇化陵夷(天皇の徳化が次第に衰退する)し、禍乱相次ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋しまた久し。わが東照宮(徳川家康)、撥乱反正(乱世を治めて正道に帰る)、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開きたまふ。……義公(徳川光圀)…儒教を崇び、倫を明らかにし、名を正し、以て國家の藩屏(朝廷の守護となること、またその人)たり。……臣士たる者は、豈に斯道を推し弘め、先徳を発揚する所以を思はざるべけんや、これすなはち館の、為に設けられし所以なり。……わが國中の士民、夙夜解(おこた)らず(朝早くから夜遅くまで勉励する)、斯の館に出入し、神州の道を奉じ、西土の教へ(儒教)を資(と)り、忠孝二无(な)く(忠と孝とは根本において一つであることを知る)、……神を敬ひ儒を崇び、偏黨あるなく(一方にかたよらず)、衆思(多くの人々の考へ)を集め郡力(多くの力)を宣べ、以て國家無窮の恩に報いなば、すなはち豈にただに祖宗(徳川頼房・光圀)の志、墜ちざるのみならんや、神皇(神々と御歴代の天皇)在天の靈も、またまさに降鑒(天より人間界のことを見る)したまはんとす」と記されてゐる。

 『館記』の精神は要するに、日本の神々を敬ひ、天皇を尊び、祖先を崇める精神である。そして、神道と儒教を尊ぶ姿勢である。この精神によって藩士を教育し、國家的危機打開の為に役立たせやうとしたのである。『館記』には水戸學の精神が端的に表現されてゐる。

荒川久壽男氏は「烈公の新政は…尊皇と民政と國防の三大眼目に集中する。これは言葉をかえれば藤田東湖が、日本の政治の最大焦点を、敬神・愛民・尚武の三点に要約したところでもあった。しかしながら、この三事三点を貫き、その根底をなすものは正しい學問と教育でなければならぬ。正しい學問と教育があってはじめて尊皇にも目覚め、愛國の意識も育ち、人間尊重の政治も行われる。ここに烈公は水戸藩の學問教育の振興を目ざし、水府大學ともいうべき弘道館の建設を計画した。」(『維新前夜』)と論じてゐる。

「水戸學」は支那思想を重んじたが、無批判に支那思想を受け入れたのではない。『弘道館記』に「神州の道を奉じ、西土の教え(儒教)を資(と)り」とある通り、神州の道を第一とし、儒教は第二と考へた。しかしながら、外来思想・文化・文明を一切排斥するといふ考へ方ではなかった。

藤田東湖はその著『常陸帯』で、「皇朝の風俗萬國にすぐれて貴しと雖も、文字を初め萬事の開けぬるは漢土の勝れぬる所なり。其勝れたる所を取りて皇朝の助とせん事何の耻ることや有るべき、銃砲は西北の夷狄より渡りぬるものなれども、之を取りて用る時は夷狄を防ぐべき良器なり。漢土の教を取りて用る事これに同じと、我君常に宣ふは御卓見と申すべし」と論じた。

日本は、古来、外来文化・文明を包摂してきた。そのことが日本文化・文明をより洗練せしめ高度にものにしてきた。しかし、その根底には、日本傳統精神を厳然として固守する根本姿勢があった。

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千駄木庵日乗三月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内清掃、資料整理、原稿執筆の準備、資料検索、原稿執筆など。結構忙しく生活しています。

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2020年3月22日 (日)

允恭天皇の御製を拝し奉りて

「天皇、井のほとりの櫻の華をみそなはして、歌よみしてのたまはく

花細(ぐは)し 櫻の愛めで こと愛では 早くは愛でず 我が愛づる子ら

皇后、聞(きこ)しめして、且(また)大きに恨みたまふ」

第十九代・允恭(いんぎょう)天皇の御製である。允恭天皇は、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子、御母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)である。
允恭天皇が允恭天皇八年春二月、藤原に御幸され、櫻の花をご覧になり、衣通郎姫の消息を案じられた御歌である。

天皇が、井戸のほとりの櫻をご覧になって、歌をお詠みになって仰せになった。

【通釈】なんと繊細な花の美しさ、櫻の美事さよ。どうせ愛でるのだったら、もっと早く愛でればよかったのに、さうしなかったのが惜しいよ。愛しい姫よ。

【語釈】◇花細し 櫻の繊細な美しさを讃える詞。櫻の枕詞とも見られる。

『日本書紀』巻第十三。櫻に寄せて衣通郎姫を讃へた御歌。皇后大中姫がこの歌を聞皇后大中姫がこの歌を聞いて嫉妬され、姉に遠慮した衣通郎姫は王宮を離れることを請ふたため、天皇は河内に茅渟宮を造り、郎姫を住まはせたといふ。

森田康之助氏は、「櫻をかくの如く愛でいとしむと言ふのであれば、いっさうのこと、もっと早くから愛でていればよかったのにといふ、悔やみの情の表白なのである。衣通郎女への思ひの深さが、心の襞にしみじみと喰ひ入る以前の、それこそそのにげない触れあひをもったにすぎぬところの。そもそもの馴れそめのときから、すなはち端(はな)から心ひかれるものがあったといふ、その微妙な感情をばこの「「花細し」といふ言葉づかひに、暗示するものがあるやうに思はれる」(『日本思想のかたち』所収「花の精神史」)と論じておられる。

櫻の季節となって来たが、日本人は、古代より櫻の花を愛でてきた。それは梅の花を愛でる歴史よりもずっと古いことをこの御製を拝して明らかである。

 神の生みたまひし美しい國に生まれた日本人は、美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」「無我の心」が、日本民族固有の精神である。それは、理智・理屈・理論ではない。一切の先入観を取り除いた心である。大和心即ち日本伝統精神は、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

日本人はただ単に感覚的に美しいものを好むのではない。日本人の「真心」は一種の厳粛さ・神々しさを伴ふ。古代日本人にとって、櫻の花に限らずすべての花や草木は宗教的・神秘的存在であった。

「花」(ハナ)の語源は、端(ハナ)即ち、物の突き出した所、はし(端)であると共に、幣(ハタ)・旗(ハタ)であったといふ。「幣」とは、神に祈る時に捧げ、また祓いに使ふ、紙・麻などを切って垂らしたもので、幣帛(へいはく)・御幣(ごへい) とも言ふ。日本人は、櫻の花を素直に美しく感ずる思ひと共に、櫻の花にある神秘性・神々しさといふものに畏敬の念を持った。

日本の伝統的な行事である「お花見」の起源は、生命の盛りである花の下に人間が入ることによって、花の精気が人間に移り、自分自身の生命を豊かにするといふ信仰である。

 日本人は、櫻に滅びの美しさを見た。櫻はすぐに散ってしまふから、人はなおさらその美しさを感ずるのである。櫻が咲いてゐる姿にすぐに散ってしまふ影を感じる。櫻は、「三日見ぬ間の櫻かな」といふ言葉があるように他の花々よりも咲いてゐる時間が非常に短い。また、雨や風に当たればすぐに散ってしまふ。日本人はさういふ櫻花の「潔さ」をとりわけ好む。これを「散華の美」といふ。

 日本人は、未練がましく現世の命に恋々としないといふ精神を抱いてゐる。かうした心は、「七生報國」の楠公精神そして神風特別攻撃隊の「散華の精神」に継承されてゆく。

 日本人が最も美しいと感じる窮極的なものは、花そのものや花の命と共に、花の命が開き且つ散る「時」なのである。

 日本人は、花とは見事に咲き潔く散って行くべきであると考えた。人間もまたそうあらねばならないとした。この世に恋々として生き延びるのはそれ自体が汚れた行為であり、潔くないし、醜いと考えた。

 しかし、櫻の花の命は、はかなくそして見事に散ってしまえば、それで消滅してしまうのではない。櫻の花は散ってしまうのであるが、来年の春になると必ずまた美しく咲く。つまり、花が散るというのは花の命が消滅したのではなく、花の命は必ず甦るのである。肉体は滅びても人の命は永遠である。ただ現世における命には限りがあるということなのである。

 櫻の花は散ってもまた来年の春に甦る。滅亡の奥に永遠の命がある。それが楠正成公の「七生報國」(七度生まれて國に報いる)の精神である。理屈なしに素直に國のため大君のために命を捨てるという純粋なる精神もまた大和心なのである。生命の永遠を信じているからこそ、潔く散ることをいとわないのである。

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千駄木庵日乗三月二十一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内清掃、原稿執筆、原稿執筆の準備、資料検索など。

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2020年3月21日 (土)

政府・宮内庁そして伝統信仰・祭祀の専門家による國體隠蔽・道統破壊を憂える

近年、大嘗祭を政府が公費によって協賛し奉る事が「『現行占領憲法』の政教分離の原則に反する」といふ批判を回避するため、宮内庁によって「大嘗祭は天皇と神とが一体となる儀式ではない」といふ主張が出された。政府全体も同じ考へであらう。

基本的には、日本の伝統の護持が憲法よりも大切なのである。まして占領軍によって押し付けられた「亡国憲法」の原則に違反するから大嘗祭の本義を隠蔽し否定するといふのは、文字通り政府宮内庁による國體隠蔽である。絶対に許されない。

祭祀は、日本伝統信仰の中核行事である。神を祭ること即ち「祭祀」「祭り」とは、神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従ひ奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままにつとめることをお誓ひする行事である。「まつろふ」とは、神のご命令に従ひ奉仕しさらに實現しその結果をご報告するといふ意味である。祭祀は、そもそも「神人合一の行事」である。

「祭祀」とは、「始まりの時」に行はれた行事を繰り返し行ふことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓ひ、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふことによって、罪けがれを祓ひ清めて、人としての本来の姿に立ち帰り神と合一するといふ神聖な行事である。

「祭祀・まつり」は、「元初の時」すなはち日本神話冒頭の「天地初発之時」への回帰である。天地生成の神聖なる時間を今に再生することが「祭り」である。「祭祀」は特に「宮中祭祀」は毎年周期的に元初のままに現實の歴史を超越して無関係に永遠に繰返される。

「祭祀・まつり」といふ行事によって實感される天地初発・原初への回帰とは、罪穢れを祓ひ清めることである。それが現實生活の倫理的精神的な秩序維持となる。現實生活の中における精神・魂そして生活の新生となる。

天皇が即位された後初めて行はれる新嘗祭を大嘗祭と言ふ。大嘗祭は、全國各地から集めた穀物を天照大神にお供へをして、五穀の豊饒を感謝すると共に、天皇がお供へしたお米を神と共に食される。そして天皇・神・穀物の霊が一体となる行事である。このみ祭りによって、天皇は、現御神(地上に現れた神」としての神聖性を継承され保持されると承る。

大嘗祭は、天孫降臨の繰り返しの行事である。繰り返すが、そもそも「まつり」とは元初(ものごとの一番始め)の行事の繰り返しであり、神人合一の神聖なる行事である。

天照大神は邇邇藝命に稲穂をお授けになって「このお米を地上にたくさん実らせ、豊葦原瑞穂の國を統治しなさい」と御命令になった。邇邇藝命は、その稲穂を奉持して、真床追衾(まとこおふふすま)に包(くる)まれて地上の高千穂の峰に天降られる。真床追衾とは、床を覆ふ夜具で、おくるみ(赤ん坊を抱く時、衣服の上からくるむもの)のやうなものである。

日継の皇子の御魂と天照大神と神霊と稲穂の霊と一体となり、日継の皇子が日の御子(現御神)としての神聖性を開顕されるまつりが大嘗祭である。

大嘗祭によって新しい天皇が、先の天皇と同じやうに神と一体となられるのである。つまり歴代天皇は、御玉体は変られても、「やすみししわが大君 高照らす日の御子」といふ神聖なる本質・神格は全く同じなのである。これを「歴聖一如」と申し上げる。

大嘗祭は、天孫降臨といふ元初の事実の繰り返しであり、歴代天皇が天照大神の御神霊と一体になられるおまつりであり、天皇の神としての御資格の再生であり復活のみ祭りである。

近年、伝統隠蔽の動きが益々顕著になって来てゐる。そしてそれを主導してゐるのが、政府であり宮内庁であり、さらに伝統信仰・神道の専門家と言はれる人々である。まことに以て憂へるべき事態である。

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千駄木庵日乗三月二十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料整理、原稿執筆など。

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2020年3月20日 (金)

「水戸學」と吉田松陰

『新論』が尊皇攘夷運動に与へた影響は計り知れないものがある。明治維新の思想的原動力の一つは、吉田松陰の思想である。その吉田松陰は、未だ印刷されず、筆写されたものが次第に世の中に広まってゐた『新論』を幼少の頃読んで感激した。松陰は、嘉永四年(一八五一)の暮に、水戸に赴き、翌嘉永五年一月二十日までの滞在二十四日間に、會澤正志斎・豊田天功などを訪問した。

七十六歳となってゐた會澤正志斎は、当時二十二歳の松陰に漢學だけでなく、日本の學問も學ぶやうに諭したといふ。以後松陰は、神典・國史・素行學・水戸學を懸命に學んだといふ。松陰は、『東北遊日記』に、「會沢を訪ふこと数次、率(おおむ)ね酒を設く。…會々(たまたま)談論の聴くべきものあれば、必ず筆を取りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記してゐる。

徳富蘇峰は、「彼(注・松陰)の尊王論は水戸派の尊王論にあらず。その淵源各々同じからずして、毫も水戸派の議論に負う鮮(すくな)きが如しといえども、その實未だ必ず然りというべからず。然も王覇の弁、華夷の説、神州の神州たる所以、二百年来水戸人士のこれを講ずる精かつ詳。後水戸學の宿儒會沢、豊田の諸氏に接し、その談論を聞き、喟然(きぜん)として嘆じて曰く『身皇國に生れ、皇國の皇國たる所以を知らず、何を以て天地の間に立たん』と。…帰来急に『六國史』を取ってこれを読み、古の聖君英主海外蕃夷を懾服したるの雄略を観て、慨然として曰く、『吾今にして皇國の皇國たる所以を知れり』と。」(『吉田松陰』・仮名遣ひは『岩波クラシックス』の原文のまま)と論じてゐる。

吉田松陰はさらに、嘉永四年(一八五一)九月二十三日付の兄・杉梅太郎宛書簡に、「水府公明訓一斑抄、今晩写終り申候。凡六則 仁心を本とすべき事 奢侈を禁ずべき事 諫言を用ゆべき事 刑は刑なきに期すべき事  仏法を信ずべからざる事 夷狄を近(ちかづ)くべからざる事 通篇御気象被伺感服敬服。」と記した。

『水府公明訓一斑抄』とは、徳川斉昭が弘化二年(一八四五)に論じた人君が注意すべき要件を論じた文である。「水戸學」の思想が、松陰に多大な影響を与へたことは確かである。然るに悲しいかな、戊辰戦争に於いては、徳川斉昭の子息である徳川慶喜と長州とは仇敵の関係になってしまった。歴史の悲劇と言ふべきである。

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千駄木庵日乗三月十九日

午前は、諸事。

 

午後からは在宅して、資料整理、原稿執筆など。

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2020年3月18日 (水)

『二〇周年記念 深見東州バースデイ書画個展』における登壇者のスピーチ

本日開催された『二〇周年記念 深見東州バースデイ書画個展』における来賓祝辞を紹介します。

 

亀井静香氏「深見氏は現代のダヴィンチを超えているかもしれない。暗い空気に人類が滅ぼされてはならない。深見東州氏に人類を救う先頭に立ってもらわねばならない」。

 

高村正彦氏「深見氏はビジネス・國際交流で素晴らしい活躍をされてゐる。沈滞した世の中に明るく元気な空気を吹き込んでもらいたい。深見氏の全人格がキャンバスにストレートに反映されている。これから深見先生の真似をして生きていきたい」。

 

下村博文氏「こういう催しを開かれたことにより勇気と元気をいただいた。我々の発想をはるかに超えたパワーで刺激を与えられた」。

 

前原誠司氏「京都亀岡の大本の出口王仁三郎の書画と陶器は素晴らしい。神が降りてきて力を与えられた。深見先生も大きな神の力を与えられている。人をワクワクさせる。先生のチャレンジ精神をいただきながら私も頑張っていきたい」。

 

平沢勝栄氏「今永田町で流行っている言葉は延期・自粛・中止。この時期にこれだけの人が集まるには大したこと」。

 

鈴木宗男氏「私が逮捕されて一番つらい時期に深見先生は一番助けてくれた。人間として一番大切なことは施し。障害者のために尽力する深見先生に敬意を表する」。

 

深見東州氏は要旨次のように語った。
「自粛ではなく積極的に打ち勝っていく。今回は自分の目で選んだ浮世絵を展示している。江戸期のものは価値が安定している。来年は七〇歳。おじいさん臭くなるので古稀の祝いはしないようにしている。葛飾北斎は七〇代で一番活躍し世界のクリエイターに影響を与えた。白隠禅師と北斎の一番の黄金期は八〇歳台。私は九〇歳まで現役を続ける。お茶会は生きるか死ぬかの時にするもの。茶禅一如・剣禅一如。戦さで明日は決戦の時にお茶をたてる。明日は死ぬか生きるか分からない。己の腹を固めるためにお茶をたてる。柳緑花紅の喜びを悟った者が貴い。見性の中に佛が出てくる。雑念妄想に打ち勝つ。その奥に悟りがある。これが和敬清寂。コロナウイルスの恐怖の中で超然とお茶会をする。刻々と今を生きる。私はこれまで五回見性している」。

 

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千駄木庵日乗三月十八日

午前十一時より、六本木の泉ガーデンギャラリーにて、『二〇周年記念 深見東州バースデイ書画個展』開催。

午後二時より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。


帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。資料の整理。原稿執筆。

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2020年3月17日 (火)

この頃詠みし歌

何となく心和めり台湾の駐日代表と語り合ひをれば

 

やはり支那人とは違ふなと思ひつつ台湾駐日代表の話し聞きをり

 

父上と共に見たる映画とは「森は生きている」と「バンビ」なりけり

 

立憲民主日共と朝日をくりたたね焼き亡ぼさむ天の火もがも

 

テレビも新聞も煽りに煽り視聴率と広告代を稼がんとする

 

朝鮮と支那を隣國とするわが日本 何とかならぬか全能の神よ

 

海越えて渡り来るものは軍事的侵略と共に傳染病疫病

 

御茶ノ水の改札に立ちゐし姿は幻か この世を去りしといふ知らせ受く

 

たった一度會ひたる時に「萬葉集」のことを語らひし人は逝きたり

 

人の命は何とはかなき二か月前にこやかに語らひし人は逝きたり

 

疫病は支那朝鮮からやって来る歴史繰り返す日本の國

 

それぞれににこやかに語る人々はスパスパと煙草を吸ひてゐるなり

 

高校時代よりお世話になりし先輩の老い衰へし姿悲しき

 

二回転びて体衰へし先輩のことを思へば胸迫りくる

 

あれほどに元気で武道に励みゐし人の衰へし姿悲しも

 

憂憤の心極まり自裁せし人を思へば胸迫りくる

 

ベッドより立ち上がらんとせし時に頭クラクラとせしは何事

 

介護の人が作りくれたるカレーライスをうましと食すことの喜び

 

食欲がありて安堵す介護の人が作りくれたるカレー食して

 

鳥鍋もそろそろ終はりと言はれけり季節が移ることの忙しさ

 

肉体は滅びても生命は永遠と信じつつ仏壇に手を合はすなり

 

父母(ふぼ)の御霊は永遠に生きておはすことを信じて今日も手を合はすなり

 

にこやかに話しゐる人それとなく自分の祖先を自慢してゐる

 

人口の二十五%は死にきといふ天平時代の疫病猖獗

 

神仏への祈り深めて國難を乗り越えたまひし聖武天皇

 

旅に行けず會合も無く日々(にちにち)を家で過ごすも楽しかりけり

 

ゆっくりと道を歩みて自らを省みることが旅の醍醐味

 

ツアー旅行に思ひ出は少なし ただバスに押しこめられて移動せしのみ

 

支那帝國がアジアから消えてなくなることが天下泰平萬民安楽

 

専制國家の独裁者を國賓として迎えんとする政権を厭ふ

 

よくしゃべる蕎麦屋のあるじ幼き日の野球場のことなど楽しげに語る

 

なつかしき東京スタジアムのことなど語りゐる老いし蕎麦屋のかき揚げうまし

 

新型ウイルスで會合も学校も閉ざされても千駄木の酒場は賑はひてをり

 

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千駄木庵日乗三月十七日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料の整理、原稿執筆、明日のスピーチの準備など。

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會澤正志斎の尊皇攘夷思想

「後期水戸學」といはれる學問は、幕末期の内憂外患の國家的危機をいかに克服するかについて、尊皇思想・大義名分論に基づく主張を行った。そしてそれは全國的に大きな影響を与へ、尊皇攘夷運動の思想的基盤の一つとなった。

 會澤正志斎(天明二年-文久三年、一七八二年~一八六三年。水戸城下の農民であった會沢恭敬(郡奉行下属の役人として市五郎を名乗る)の長男として生まれた。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎。寛政三(一七九一)年、十歳で藤田幽谷に師事。彰考館に入り、『大日本史』編纂に従事。幽谷の逝去後、彰考館総裁となる。文政七(一八二四)年五月、水戸藩内大津浜(北茨城市大津町)に英人十二人が上陸した際「筆談役」として応接。文政八(一八二五)年、『新論』を脱稿した。八十二歳で逝去。)の代表的著作である『新論』は、幕末の尊皇攘夷論の基本的文献である。

文政八年(一八二五)幕府が「異國船打払令」を発した前後の騒然たる情勢を背景として成った『新論』は、文字通り國家的危機に際しての憂國慨世の書である。幕末勤皇論に對する影響は、頼山陽の『日本外史』に比肩されるといふ。

『新論』はその冒頭に「國體」といふ項目を置き、日本國體の本義と外患の危機への對処を論じた。曰く、「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣(てんじつのしし)、世(よよ)宸極(しんきょく・天子の御位)を御し、終古易(かは)らず。固(もと)より大地の元首にして、萬國の綱紀(すべての國々を統轄するもの)なり。誠によろしく宇内に照臨し、皇化(天皇の聖徳による感化)の曁(およぶ)所、遠邇(遠い所と近い所)あることなかるべし。しかるに今、西荒の蛮夷(西洋の野蛮人)、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸國を蹂躙し、眇視跛履(自分の力のほどを顧みず無理に事を為さんとすること)、敢へて上國(尊い國。わが國のこと)を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕れるや」。

さらに、「國體上」において「天地の剖判し(注・天と地が初めて分かれる、天地開闢)し、始めて人民ありしより、天胤(注・天照大御神のご血統を継承するご子孫)、四海に君臨し、一姓歴歴として、未だ嘗て一人も敢へて天位を覬覦(きゆ・身分不相応なことをうかがひねらふこと)するものあらずして、以て今日に至れるは、豈にそれ偶然ならんや。夫れ君臣の義は、天地の大義なり。」「天祖(注・天照大御神)、肇めて鴻基(大いなる基盤・肇國の基礎)を建てたまふや、位はすなはち天位、徳はすなはち天徳にして、以て天業を経綸し、細大のこと、一も天にあらざるものなし。徳を玉に比し、明を鏡に比し、威を剣に比して、天の仁を體し、天の明に則り、天の意を奮ひて、以て萬邦に照臨したまへり。」「その本に報い祖を尊ぶの義は、大嘗に到りて極れり。夫れ嘗とは、始めて新穀を嘗めて、天神に饗するなり。天祖、嘉穀の種を得て、以為(おもへ)らく以て蒼生を生活すべしと、すなはちこれを御田に植ゑたまふ。また口に繭を含みて、始めて蚕を養ふの道あり、これを萬民衣食の原(もと)となし、天下を皇孫に傳ふるに及んで、特にこれを授くる斎庭(ゆにわ)の穂を以てしたまふ。…」と論じてゐる。

天孫降臨の繰り返しであり、現御神日本天皇のご本質が顕現される「み祭り」である「大嘗祭」と天照大御神の「齋庭の穂の御神勅」の御事を論じてゐる。水戸學は神代を無視したなどといふのは全くの妄説である。『新論』は、言ふまでもなく、幕末期の國難に際會して、國家の革新を論じた書であるが、以上のやうに神代のことから説き起こし日本國體思想を論じてゐる。即ち、「復古即革新」といふ日本的変革の本義が論じられてゐるのである。

「國體」に続き、「形勢」「虜情」「守禦」「長計」の五項目を立て、世界情勢と欧米列強の東亜侵略の方策を述べて、これに對する防衛體制を緊急措置と根本對策の両面から論じた。特に、國民皆兵がわが國の傳統であり、武家時代に専門の兵が出現し都城に集中せしめたのは誤りであるとし、兵を土着させて全國至る所に兵力を充實させれば、外夷もわが國に近づかなくなると論じた。この兵制改革論は、全國統一的立場での軍備を主張する点において、實質的に徳川幕藩體制解體につながる論議である。國體論のみならず、國防論においても、徳川幕藩體制の矛盾を指摘したのが「水戸學」であった。

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千駄木庵日乗三月十六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内清掃。資料の整理など。

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2020年3月16日 (月)

藤田幽谷の「大義名分論」

「水戸學」といはれる學問をまとまったかたちで確立した學者は藤田幽谷(安永三年-文政九・一七七四~一八二六。水戸の古衣商の家の出。立原翠軒に學び、のち彰考館総裁。郡奉行を兼務した。五十三歳で没した。藤田東湖の父)とされる。幽谷は寛政三年(一七九一)に『正名論』を著はして、徳川幕藩體制下における朝廷と幕府の関係を正し、天に二日がないやうに、日本國の君主・統治者は上御一人日本天皇であるといふ國體の本義を論じた。そして君臣上下の名分を厳格に維持することが國家安定の要であるとする考へ方を示し、尊皇論に理論的根拠を与へたされる。

藤田幽谷は『正名論』において次のやうに論じてゐる。「甚しいかな、名分の天下國家において、正しく且つ厳ならざるべからざるや。それはなほ天地の易ふべからざるごときか。天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり、苟しくも君臣の名正しからずして、上下の分、厳ならざればすなはち尊卑は位を易へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴(ぼう)して、亡ぶること日なけむ。」「(注・孔子)曰く『天に二日なく、土に二王なし』と。一に統べらるるを言ふなり。蓋し嘗(こころ)みに古今治乱の迹(あと)を観るに、天命は常なく、徳に順(したが)ふ者は昌(さか)え、徳に逆ふ者は亡ぶ。」「赫々たる日本、皇祖開闢より天を父とし地を母として、聖子・神孫、世(よよ) 明徳を継ぎて、以て四海に照臨したまふ。四海の内、これを尊びて天皇と曰ふ。八洲の広き、兆民の衆(おほ)き、絶倫の力、高世の智ありといへども、古より今に至るまで、未だ嘗て一日として庶姓の天位を奸(おか)す者あらざるなり。君臣の名、上下の分、正しく且つ厳なるは、なほ天地の易ふべからざるがごときなり。ここを以て皇統の悠遠、國祚の長久は、舟車の至る所、人力の通ずる所、殊庭(しゅてい・別世界や人跡未踏の地のこと)絶域も、未だ我が邦のごときものあらざるなり。」「天朝は、開闢以来、皇統一姓にして、これを無窮に傳へ、神器を擁し宝図を握り、礼楽旧章(古来の制度や禮式)、率由して改めず。」「今夫(そ)れ幕府は天下國家を治むるものなり。上、天子を戴き、下、諸侯を撫するは覇主の業なり。その天下國家を治むるものは、天子の政を摂するなり。…幕府、天子の政を摂するも、またその勢のみ。異邦(支那のこと)の人、言あり、『天皇は國事に与(あづか)らず、ただ國王の供奉を受くるのみ』と。蓋しその實を指せるなり。然りといへども、天に二日なく、土に二王なし。皇朝自(おのづ)から真天子あれば、すなはち幕府はよろしく王を称すべからず。」と。

天と地に絶對的な区別がある如く、君と臣下にも絶對的な区別がある。天に太陽が二つは存在しない如く、地上に二人の君主はあってはならない。わが國は、天地開闢以来、皇祖天照大御神のご子孫であり三種の神器を持される日本天皇が世を照らして来た。一般の姓を持つ者即ち臣下が君主となることは絶對になかった。このことは天地がひっくり返ることがないのと同じく絶對に変えてはならない傳統である。今日、徳川幕府が世を治めてゐるのは徳川氏の武力が強かったことによるのであり、天皇のご代理なのである。支那人が天皇は名目上の君主であると言ふ。しかし、天に二つの太陽がなく、地上に二人の王はゐない。わが日本には本当の天子様がをられるのだから、幕府は王と名乗ってはならない、といふほどの意である。

荒川久壽男氏は、「彼(注・幽谷)によればわが民族にとって皇室とは天より生まれて天そのものであり、それゆえに日本の君臣の名分道義は相對流転の世界をこえて天地とともに永遠絶對なるものであった。ここに日本が四海萬國に冠たるゆえん、換言すれば日本が最も典型的なる君主國、道義國家たるゆゑんがある、さう幽谷は説くのである。まさに儒教的政治原理を踏まえつつそれをこえて皇國の原理にたった千古の達識といふほかはない。」(『水戸史學の現代的意義』)と論じでゐる。

『正名論』に「赫々たる日本、皇祖開闢より天を父とし地を母として、聖子・神孫、世(よよ) 明徳を継ぎて、以て四海に照臨したまふ。」と書かれてゐるやうに、幽谷の國體観は、日本國は、皇祖神・伊邪那岐命伊邪那美命の二神の國生み、天照大神のご神勅による天孫瓊瓊杵尊の御降臨、神武天皇の橿原建都以来の天皇を君主・統治者と仰ぐ國であるといふことである。

この『正名論』は、幽谷の青年時代(十七歳といふ)の著述で、時の老中松平定信の求めに応じて書かれたといふ。青年時代の論文とはいへ、天皇中心帰一の日本國體の本姿を説いた高邁なる論文であり、明治維新の國體明徴化の源泉思想の一つである。

『水戸學』の「大義名分論」に基づく「尊皇思想」は「儒教的名分論」といはれる。たしかに朱子學を摂取した思想である。しかし、儒教の「名分論」は、「君、君たり。臣、臣たり。」(『論語』顔淵篇)といふ言葉がある通り、君主は君主らしく、臣下は臣下らしくするべしといふ意味であり、道徳論・規範論である。したがって君主が君主らしくなくなったら、これを打倒してもよいといふ革命思想を孕んでゐる。

ところが、藤田幽谷すなはち「水戸學」の「大義名分論」は、「古より今に至るまで、未だ嘗て一日として庶姓の天位を奸(おか)す者あらざるなり。君臣の名、上下の分、正しく且つ厳なるは、なほ天地の易べからざるがごときなり」と説いてゐる通り、革命思想は絶對にこれを否定してゐる。だからこそ幽谷は、「天に二日なく、土に二王なし。皇朝自(おのづ)から真天子あれば、すなはち幕府はよろしく王を称すべからず。」と論じて、徳川幕藩體制下における國體隠蔽を深く憂慮し批判したのである。

「『大日本史』の修史の方法は、『通鑑綱目』を典範とし朱子學の強い影響下にあった。光圀が『大日本史』を、神武天皇の御代から始め、神代のことが記されてゐないのは、『實に據って事を記す』といふ史観の建て前からで、『記紀』の神代の記述を史實と認めることができないといふ理由に基づいた」(小林秀雄氏『本居宣長』)といふ論議がある。しかし、水戸學が神代を認めなかったといふことは絶對にない。

『水戸學』は儒教を大いに取り入れてゐるけれども、その本質においては、純粋なる日本國體精神を継承し現實にそれを回復顕現せしめやうとしてゐるのである。精神においては純日本、その學問的表現において支那思想を借りた、と言っていいと思ふ。

『古事記』冒頭の天地開闢の神話から論じ、皇祖天照大御神の皇孫(生みの御子)たる天皇が日本の君主であられるといふのが、わが日本の絶對に変革すべからざる國體であるといふ思想が「水戸學」である。「水戸學」は、神代以来の連綿たる日本國體を明らかにすることが、名分を正すといふことであり、道義國家を顕現することであり、天下が正しく治まるこどてあることを説いたのである。 

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千駄木庵日乗三月十五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整頓。『政治文化情報』原稿執筆・脱稿・送付。

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2020年3月15日 (日)

今日思ったこと

小生の大先輩の息子さんが、一時期皇宮警察に務めてゐましたが、人数が少なく転勤先も少ないので、人間関係で悩むことが多かったそうです。そして上司に嫌われ、とうとう皇宮警察を退職し自衛隊に移ったとのことです。気の毒な事でした。

 

皇宮警察で不祥事が起こりましたが、過激派左翼の活動が活発な時期と比較すると、今は緊張感が薄れているのでしょうか。困ったことです。今回のことは警察学校長だけでなく、皇宮警察本部長も責任を取るべきかと思います。

 

ただ私たちも高校を卒業し、大学に入ると、未成年ても喫煙飲酒を始めたことは事実です。それを咎める人はいませんでした。もう五十年以上のことです。

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2020年3月14日 (土)

今日思ったこと

私は、朝日新聞・テレビ朝日と日本共産党が反対することには賛成し、賛成することには反対するという姿勢をかたくなに守っていきたいと思います。

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千駄木庵日乗三月十四日

毎日ほぼ同じとを書くので恐縮しています。会合も殆んど中止となり、美術館・博物館の休館ですので外出することがありません。家では掃除や体操など適度の運動を行っています。その方が心臓にも良いようです。椅子に座りっばしベットに寝っぱなしというのはやはり良くありません。それでは皆様御機嫌よう。

 

午前は、諸事。室内整理。清掃。

 

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』の原稿執筆。

 

 

 

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この頃詠みし歌

恋をせねば恋歌などはつくれぬと自嘲しつゝも今日も歌詠む

恥多き人生なるかなと思ひつゝ弓張月を仰ぐ夜かな

酒といふ有り難きものを今日も呑む有り難きかなわが人生は

夕雲が遥かに浮び動かねば浄土といふがあるを信ぜむ

内裏雛仰ぎ眺めつゝ皇國(すめくに)の御門辺(みかどべ)を恋ふる心満ち来る

睡眠剤をのむこともなく眠れるを幸ひとして今日も生きゆく

菅公の尊皇精神しのびつつ夕暮れ時の梅園を歩む

白梅を愛でつゝ一人歩みをり本郷湯島の玉垣の内

湯島天神女坂をばのぼり行き白き梅をば愛でにけるかも

梅の花愛でる心を大切にせむとして湯島女坂をのぼる  

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千駄木庵日乗三月十三日

午前は、諸事。

昼は、若き友人と懇談。

午後からは、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2020年3月13日 (金)

今日思ったこと

安倍氏に批判すべき点が多いことは確かです。安倍政権批判は大いにやるべきです。しかし安倍氏を倒した後どうするのでしょうか。今の亡国野党に政権を託すのですか。石破茂氏に託するですか。今より日本が良くなるとは絶対に思えません。石破氏の歴史観は到底受け入れられません。

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わが国が、前近代的な専制支配國家である共産支那との友好関係・互恵関係などが構築できるものではない

支那は「張り紙」「標語」も多い國である。「張り紙」や「標語」が多いといふことは、そこに書かれてゐることが実行されてゐないといふことでもある。「中國共産党万歳」といふ「標語」が多いのは、腹の底でさう思ってゐない人が多いから、「標語」を掲げなければならないのである。

戦後台湾に入ってきた支那人の政党である國民党の独裁体制下即ち支那人によって支配されてゐた時代の台湾も「標語」が多かった。「総統万歳」「光復大陸國土」「実践三民主義」といふ標語が其処彼処に掲げられてゐた。

また、政府や國民党関係の建物の中には孫文の言葉である「天下爲公」といふ言葉が多く掲げられてゐた。

司馬遼太郎氏は次のやうに論じてゐる。「いま台北にいる。…歩道に段差が多く、あやうく転びそうになった。歩道は公道なのだが、どの商店も、自分の店の前だけは適当に高くしている。高さに高低がある。『"私〟がのさばっていますな』と、冗談をいった。中國文明は偉大だが、古来、"私〟の文化でありつづけてきた。皇帝も"私〟であれば大官も"私〟だったし、庶民もむろんそうだった。"私〟を壮大な倫理体系にしたのが、儒教であった。孝を最高の倫理とするのはみごとだが、孝は身の安全と家族の平穏ということのみの願望になりやすい。近代中國の父といわれる孫文は、このことをなげいた。色紙をたのまれると、『天下為公』(天下をもって公となす)と書いた。また、その著『三民主義』の冒頭にも、"中國人は砂だ、にぎってもかたまらない〟といった。"公〟という粘土質に欠けていることをなげいたのである」(「風塵抄ー台湾で考えたこと(1)公と私」全集六六)。

台北は、台湾でも所謂外省人即ち支那人が多い町である。支那の権力者は國家さへ私物化する。だから「天下爲公」といふ「標語」を掲げざるを得なかったのである。それは國民党だけではない。今日の「中國共産党」も同じである。

毛沢東は、権力掌握後、國家を私物化したのみならず、多くの同志・國民を虐殺した。今日の支那共産党の幹部や政府の官僚たちも國家人民を食ひ物にしてゐる。党と國家の指導者の居住地である北京の中南海の入り口には、『人民の為に服務せよ』と書かれた大きな看板があった。かうした看板が掲げられてゐるのは、党幹部が人民のために服務してゐないからである。 

共産支那は、北朝鮮とその体質は同じである。権力闘争に敗れたら、殺されるか獄に入れられる。毛沢東時代は過去のことだと思ったら大間違ひ。習近平による周永康、薄熙来、徐才厚などの粛清事件などを見ても明らかである。薄熙来・周永康は、劉少奇・彭徳懐・賀龍のやうになぶり殺しにされなかっただけまだましかもしれない。

ある支那問題専門の学者の方から、「中國の皇帝は、即位する前は、多くの人々を殺して、即位した後、『聖人・君子』になる」という話を聞いたことがある。
「共産支那帝國」の「皇帝」であった毛沢東は、どれだけの人を殺したか分からない。即位する前どころか即位した後も、文革などで数千万の人を殺したと言はれる。また別の「中國問題の専門家」の方は私に「中國の権力者は、普段は聖人君子のようにふるまってゐるが、ある日突然極めて残虐になる」と語ってゐた。

『論語』『孟子』など支那の古典は実に立派なことが書かれてゐる。日本思想史への影響も大きい。しかし、現実の支那の歴史は、極めて残虐なる闘争と殺戮の歴史である。また、今日の「中國人民」も道義精神を忘却してゐる人が多い。鄧小平は、「黒い猫も白い猫も鼠を捕るネコが良い猫だ」と言った。これは、文革派の教条主義を批判した言葉だったのだが、現実には、金儲けのためなら何をしても良いといふやうな意味に理解されてゐる。

わが日本は支那とはよほど注意して付き合はねばならない。支那も朝鮮もまともな國ではない。前近代的な専制支配國家であると言っても決して間違ひではない。友好関係とか互恵関係などが構築できるものではない。

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千駄木庵日乗三月十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事(校正)。書状執筆。

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2020年3月12日 (木)

古賀俊昭氏が語った正論

小生が編集責任者をしている季刊誌『傳統と革新』第二十八号(平成三十年一月発行)に掲載されたインタビューで、古賀俊昭氏は次のように語った。 

「安倍さんが今年五月の憲法記念日に話されたように、『憲法第九条の一項、二項を残して、三項目に自衛隊についての規定を明文化する』ということなのですが、また解釈を巡っての争いが続きますよ。『交戦権は認めない、戦力を保持しない』という規定はそのまま残るわけですから。結局、なんだかんだいっても、解釈であって、さらに解釈を巡っての対立を生むことになりかねない。

 主権がない時代に、外国軍の軍事占領下で国の基本法をつくるなんて、そのこと自体無効なのです。あってはいけないことですよ。マッカーサーの落書きだという説は正しいと私は思っています。
 
これからもし、日本が中国共産党の軍隊に一時的に占領されたときに、『憲法を変えろ、人民共和国の憲法にしろ』と言われたら、憲法を変えることになってしまいます。

 自衛隊も、本来ならば存在自体が違法であるのに、『必要最小限の、戦力でない実力組織』だということで存在している。巡洋艦とか駆逐艦とは言わず、護衛艦と言っているし、階級も、大将、中将、少将、と言えばいいものを、陸上幕僚長とか、空将、空将補などと言う…そういうごまかしから正していくべきなのです」。


 「マッカーサーは、本当は昭和二十年の終戦と同時に処刑したかったわけですよ。靖国も焼き払うつもりでいたんです。しかし、それでは占領統治がうまくいかないという助言があって、東京裁判では(天皇を)被告として訴追しなかった。自国の生存を図ろうとしてアメリカに本気で刄を向けたのは日本だけですから、そうした侍の国を蘇らせないためにはどうしたらいいか…その忠誠の源は皇室であると、マッカーサーは気づいたわけです。それで、十年後、百年後には万世一系を途絶えさせる事を考えた。そのために十一宮家を皇室から排除して皇族が減少し、自然消滅するようにしむけた。その効果というか弊害が今、表れてきているのです。

 女性天皇は過去にもありましたし、あくまで男系の女性天皇ですから。この万世一系は奇跡中の奇跡的なんですよ。二七〇〇年もの間、一つの系統が続いている王族、皇室というのは、世界中で日本だけです。二番目に長いデンマークでも日本の半分以下、その次がイギリスです。

 ですから、今後、皇族の減少をどうすべきか…これこそ国難ですよ。十一宮家にまず皇族に復帰していただくことだと、私は思います。マッカーサーの意図を挫かねばなりません。今まさに彼が目論んだとおりの現象が、国の根幹を揺るがしているわけですから。
 そうしたマッカーサーの陰謀から、七十二年経ち、この時代にトランプ大統領の登場というのは、ある意味で日本が真に独立する、絶好のいい機会だと思います」。
      

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千駄木庵日乗三月十一日

午前は諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』の原稿執筆。

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2020年3月11日 (水)

古賀俊昭氏の思い出

平成二十二年十二月二十九日に、古賀俊昭東京都議会議員から、古賀議員が池田勝彦警視總監に提出した「平成二十三年版 警視廳機動隊暦の使用寫眞に潛む『国旗日の丸への敵意』に對する抗議書」が送られて来た。長文でブログでは全文紹介できないので、重要なところを紹介させていただく。

「来年の警視庁機動隊の暦の八月の頁に使はれてゐる写真は、今年八月十五日靖国神社周辺で強行された『反天皇制運動連絡会』の示威行進に整然と抗議する国民を機動隊が威圧する光景のものであった。国旗を手に秩序正しく抗議する人たちを恰も悪事を働く暴徒であるかのごとき印象を与へる写真が使用されたことに怒りを禁じ得ない。当該暦には左翼組織に対する警戒状況を紹介する写真は一葉もない。反日活動家・岡崎トミ子に阿諛迎合する意識が警察に醸成されてゐると看做すこともできる。私は当日現場の状況を確認してゐるが、警視庁は『反天連』に対する警備よりも、国旗日の丸を持つ人々に対する警備の方が敵意を感じさせる位過剰なものであった。国旗日の丸を掲げることがあたかも犯罪であるかのやうな印象を国民に伝える可能性大であり黙視できない。配布済みの機動隊暦を速やかに回収し、残部と共に廃棄すべきである。」(原文は正漢字)

さらに、古賀俊昭議員は、十二月六日に行われた警視庁の暴走族取締り訓練における、国旗に対する不敬・冒涜行為についても次のような抗議文を提出した。

「実戦さながらの訓練とは言へ、国旗を暴走族の紋章であるかの如く、国旗と暴走族を一体に結びつけるのは乱暴に過ぎる。暴走族より悪質な所業であり断固抗議する。」(原文は正漢字)

治安維持を担当する官庁が、国旗に対して不敬・冒涜行為を働いたのである。それは当然である。戦前なら、警視庁警備部長・交通部長そして最高責任者たる警視総監は、即刻辞任したであろう。また、当然懲戒免職になっているであろう。
今の日本が如何に劣化しているかを如実に示している。国家治安担当の閣僚が、皇室を冒瀆し、そしてその機関が、国旗を冒瀆したのである。まさに日本国は危機に瀕している。

こうしたことは以前にもあった。何かの国際会議が日本で行われる直前に行われた右翼の抗議活動取締り訓練で、「右翼」の役を演じる機動隊員に「国旗」を持たせた。

警察は、他の官庁と比較すると、国旗・国歌を大事にしているように思えるのだが、こういうことが繰り返されるとなると、そうではないということになる。

国旗・国歌を本当に大切に思っているのなら、訓練の制圧対象に「国旗」を持たせるなどということができるはずがない。

警視庁警備当局は、国会への請願行進でも、国旗を捧持して行進することを禁じている。これもおかしい。国旗を奉持するのと、赤旗を立てるのとの一緒にしているのだ。しかも真正保守の人々の請願行進で参加者が手にする国旗は、小さな紙製の国旗である。武器になる可能性は全くない。それても駄目だと言う。

国旗は、太陽をかたどっている。天照大御神は皇室の御祖先神であらせられると共に太陽神であらせられる。国旗を侮辱することは、すなわち、皇室を侮辱することであり、祖国を侮辱することだ。

警視庁には、昭和天皇の御製碑が建てられている。官庁に「天皇の御製碑」が建てられているのは、警視庁以外にないのではないか。私は寡聞にして知らない。しかるに、最近はこのような体たらくになっている。許し難いことである。

「靖国神社の神道祭式を廃止し無宗教の慰霊施設にしろ」という暴論がある。国のために命を捧げた人々に対して、神社祭式での慰霊をやめて無宗教の慰霊施設となってしまった先例がある。それは、千代田区の北の丸公園にある皇宮警察・警視庁・東京消防庁などの殉職者慰霊施設・彌生慰霊堂である。

彌生慰霊堂かつては彌生神社と言った。明治十八年十月に『彌生神社』として創建された。この名称は私の家の近くの本郷区(現文京区)向ヶ岡彌生町に創建されたことによるものという。以来、毎年、神式による合祀・慰霊祭を行ってきた。

しかし、戦後の「神道指令」により、神社を警視庁が管理し続けることができなくなってしまったために、昭和二十一年十月に元警視総監をはじめとする有志が奉賛会を結成し、昭和二十二年十月に現在地に遷座し、名称を『彌生廟』と改めた。そして奉賛會主催の慰霊祭という形に変化した。しかし、戦前・戦後を通じて神道祭式には変化はなかった。昭和四十七年、連合赤軍の浅間山荘事件で殉職した警察官の合祀祭も神道祭式で行われた。

ところが、昭和五十八年九月に名称を「彌生慰霊堂」に改称し、神式の慰霊祭からいわゆる“無宗教”形式の慰霊祭に変更してしまった。この変更について警視庁は「法律を守る立場にある警察としては、政教問題が取りざたされているときでもあり、どこからも文句のでない無宗教方式へ変更した」と説明した。

小生も何回か参拝しているが、社殿は神社建築に近いもので拝殿と本殿からなり、本殿は神明造の屋根であるが千木・堅魚木がない。現在でも鞭懸(神明造の破風にある八本の棒)が残っている。しかし鳥居などは取り外されている。

東京都慰霊堂は、仏教施設であり、そこで行われる春秋の慰霊大法要には、都庁・都議會の幹部が公式に参列している。殉職警察官を神道祭式で慰霊しても何ら問題はない。殉職者への慰霊というきわめて重要な行事を、わが國伝統信仰たる神道祭式で行わないというのは、敬神崇祖というわが國の倫理精神の基本そして日本伝統信仰たる神道祭式を、警視庁が否定したということである。

小生は何度か、警察庁長官及び警視総監に対し、殉職警察官慰霊施設は日本伝統信仰に基づく慰霊すなわち神道祭祀に戻すべきであると要望している。

また数年前、古賀俊昭都議も都議会本会議でこの問題を取り上げ、警視総監に要請を行った。しかし、いまだに実現していない。

「政教分離」とは一神教國家における特定の教団宗教と政治権力の結合による信教の自由の侵害を防ぐための<原則>であって、「國家及び自治体」と「宗教」とを全く無関係にするという<原則>ではない。

さらにいえば、わが國は建國以来天皇を中心とする祭祀國家であり信仰共同体である。祭祀共同体としての日本國家と神社神道の本来一体なのである。そしてそれは決して教団宗教を圧迫し否定することにならないことは、わが國の宗教史を見れは明々白々である。

國家民族のために一身を捧げた御霊を、わが國伝統祭式によって公的にお祭りし慰霊し顕彰し感謝の誠を捧げることが、「政教分離」の原則に違反するなどという批判は全く誤りである。

「無宗教」とは霊魂の否定であり道義の否定である。殉職警察官慰霊施設の無宗教化が、最近の警察官の道義精神希薄化・不祥事続発の原因の一つがある。

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古賀俊昭氏のご冥福を謹みてお祈りさせていただきます。

三月九日に逝去された古賀俊昭氏のご冥福を謹みてお祈りさせていただきます。まだまだお国の為に活躍していただきたかった方なので、本当に残念である。古賀氏とは学生時代からの知己であり、同志である。古賀氏は昭和二十二年、熊本生まれで私と同年である。

近畿大学法学部に学んでおられた頃から日本学生同盟に属していわゆる民族派学生運動に挺身されていた。関西の大学で活躍されたので、頻繁にお会いすることは無かったが、上京された時、学ランを着用し下駄ばきで東京の街を闊歩されてゐた姿が鮮明に私のまなうらに焼き付いている。以来五十数年、古賀氏は日野市議会議員を経て、東京都議会議員となり活躍された。特に教育問題・教科書問題・拉致問題・国旗国歌問題・国語国字問題で大活躍された。さらに在野の愛国運動・真正保守運動にも大きな貢献をされた。

都議会自民党では総務会長を務められたが、幹事長・議員団長・そして都議会議長になられることがなかった。本来なら、国政へと歩を進められるべきであった。しかしそういうことも無かったのが惜しまれる。古賀氏が権力より自己の信念・政治主張の貫徹を優先されたからであろう。

また同年輩のそして身近な同志が一人あの世に旅立って行かれた。本当にさみしい限りである。「古賀俊昭氏の御霊よ、安らかに」とお祈りするのみである。

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千駄木庵日乗三月十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆・脱稿・送付など。

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2020年3月10日 (火)

日本人は日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観る信仰精神を回復しなければならない。


近年の自然災害の多発は、まさに自然の非合理の極であり、人間が自然を征服するどころか、自然が人間を征服することを実感させた。

われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどという傲慢な考え方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。ただし、自然に宿る神々には、和やかな神もおられれば、荒ぶる神をおられるのである。

日本は国土も自然も實に美しい。山・川・海の景色は實にすばらしい。四季の変化も規則正しく、気候も比較的穏やかである。しかし自然は、時に、ものすごい猛威をふるい、人間に襲いかかって来る。そして人間の命を奪い、生活を破壊する。

日本における科学技術の進歩とその利用は目を見張るものがある。現代社会の快適な生活は、その科学技術によるものである。しかし大自然は、時としてその科学技術によって成り立つ人間の快適な生活をも一瞬にして破壊する。そして人間は、悲惨に状況に追い込まれる。

文明は発達し、科学技術が進歩した、その恩恵によって成り立っている現代人の生活は、自然の猛威によってもろくも破壊され、多くの人々が惨禍に喘ぐこととなる。科学技術が進歩しているが故になおさら惨禍がひどくなる。今回の大地震を見てそれは明らかである。

われわれは、自然および科学技術文明との付き合い方を今一度深く考えなおすべきではあるまいか。麗しき自然に恵まれつつも自然の脅威にさらされる日本民族、科学技術を巧みに使いこなして来た日本民族は、そういう使命を帯びていると思う。

科学技術至上主義・物質至上主義・営利至上主義・快楽主義に汚染され続けてきた日本及び日本國民の頽廃を救うには、日本の傳統精神・國家観・人間観を回復する以外に道はない。

そのためには、「現代に生きる神話」たる<天皇の祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復しかないのである。我々國民一人一人が、天皇が神をお祭りになるみ心、そして、「農」を大切にされる御心を、道義的倫理的規範として習い奉るということが大切である。そして、日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るという信仰精神を回復しなければならない。

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千駄木庵日乗三月九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。『政治文化情報』の原稿執筆。書状執筆など。

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2020年3月 9日 (月)

今の野党はダメだ

日本は今日、外交・安保・自然災害・疫病などで大変な危機的状況にあるにもかかわらず、野党は、政権批判それも揚げ足取りと失言追及、つまらないスキャンダル追及に明け暮れている。国会論議はまさにそういうことの繰り返しだ。メディアも同じだ。

今日もっとも大切な問題は、国家の安全安定と独立維持=他国からの侵略阻止である。そのためには憲法を正し、防衛体制を強化するべきなのである。何かというと「正義の味方面」をして「平和」だの「日本は侵略戦争をした」などと騒いでいる連中は、北朝鮮の核実験・ミサイル発射に何の抗議もしない。共産支那の東トルキスタン・チベット・香港における暴虐に抗議しない。

かつて民主党は「コンクリートから人へ」などと耳障りの良いことを言って政権を奪取したが、その直後に東日本大震災が起こり、国土が破壊され多くの犠牲者が出た。災害を出来得る限り食い止めるため國土をもっと整備し強靭化すべきである。

今の野党も国家基本問題でしっかりとした政策もビジョンが無い。だから政府への揚げ足取りや失言追及しかできないのである。

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千駄木庵日乗三月八日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆、校正など。

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2020年3月 8日 (日)

「中国共産党による一党独裁政治」は、古代支那以来の専制政治の継承である

支那や韓国といふ儒教国家は、賄賂が横行し、法治国家とはなってゐない。儒教社会は「法」が及ぶ範囲が少ない。「法」を厳密に通用させようとしても、必ず「抜け道」をつける。そして賄賂が横行する。「法」以外の別のルールで動く。西洋的成文法世界とは異なる。

貝塚茂樹氏は、「孔子は合理的な人道主義はうけついだが、法治主義には反対した。都市国家の祭政一致の貴族政治の形式を保存しながら、実質的にはこの文化伝統を摂取した新興の士の階級に政治を担当させようとした。この士の階級を養成するのが孔子の儒教学団の使命であった。」(『中国の歴史』)と論じてゐる。つまり孔子は、「法治」よりも「人治」を重んじたのである。

共産支那の一党独裁体制は、典型的な法治主義の否定であり、人治主義政治である。法の絶対支配は存在しない。たとへ存在しても、独裁者=共産党の決定が優先する。

小室直樹氏は「中国の革命は、全て易姓革命で終わり、いかなる革命もついに、階級構成、階層構成などの基本的社会組織を変革する社会革命ではありえなかった。…中国においては、いく度革命が起ころうとも、それは単に為政者が入れかわるだけのことであって、政治・行政制度、階級・階層構成など改革されことはない。社会慣習が変革されることもない。」(『天皇恐るべし』)と論じてゐる。

支那の「共産革命」も為政者が変わっただけである。清朝そして国民党政権の後を継いだ毛沢東といふ皇帝及びその配下の官僚による独裁専制政治体制が現出した。二代目の皇帝が鄧小平である。今日の皇帝は習近平である。

「中国共産党による一党独裁政治」は、古代支那以来の専制政治の継承である。中国共産党員による行政機構・企業幹部の独占は、支那古代以来の「君子」による「小人」支配の継承である。

朝鮮は「小中華」と称する儒教国家である。韓国は、独裁的な権力をふるってゐた国家指導者は、権力を喪失すると、逮捕されたり、殺されたり、自殺したりするのは当たり前の國である。文在寅も辞任するとどうなるか分からない。

そもそも儒教の易姓革命思想は、権力を失ったといふことは天命がなくなったといふことであるから、権力を失った人を「賊」として討つことは正義であるといふ思想である。

和辻哲郎氏は、「儒教を生み、また儒教を奉じているはずのシナの歴史が、儒教の道理に反する事蹟を数限りなく含んでいる…賤しい身分のものが君を殺して帝王になる。夷狄として賎しめている異国人に征服せられてその夷狄に服従する。そういう事蹟はいくらでもある。すなわちシナの歴史は儒教の理が空理にすぎぬことを実証しているのである。」「仁義礼智などと名づけて限定すれば、自然の性情はせまく窮屈になる。礼にしても同様である。礼のやかましいシナでは『いやしげなるもの出て、世をうばひ、君をころしまつる』という革命が絶えないのは、その良き証拠である。」(『尊皇思想とその伝統』)と論じてゐる。

和辻氏の言はれる通り、支那の皇帝は、即位する前に多くの人々を殺した人が即位し、その後「聖人・君子」といはれるようになる。権力闘争に打ち勝った覇者が皇帝となる。そして、天命を受けた「聖人君子」と崇められ、皇帝の独裁政治は「王道」と称して肯定される。

安岡正篤氏は、「支那は遂に覇者の国であって。王者の国ではない。然し覇者も王者に学ばねば、…到底長く覇者の地位が保てない。且つ已に覇者となれば、進んで王者たらんことを志すも亦人間のやむにやまれぬ道心である。是の如き人物は之を覇王と謂うことが出来る。しかも尚之に慊(あきた)らずして、真に王者の国を求むるならば、それこそわが日本有るのみである。」「支那に現れたものは、…覇道若しくは覇王の道に過ぎなくて、真の王道は日本天皇の道に輝き出て居る。」(『王道の研究』)と喝破してゐる。

わが国は、以上のことをよくよく認識して支那・朝鮮と付き合わねばならない。

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千駄木庵日乗三月七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆・校正など。

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2020年3月 7日 (土)

この頃詠みし歌


新型ウイルスで会合も学校も閉ざされても千駄木の酒場は賑はひてをり

この国を滅ぼさんとする輩とは立憲民主日共と偏向朝日

テレビも新聞も煽りに煽る視聴率と広告代を稼がんとして

朝鮮と支那を隣国とする日本 何とかならぬか全能の神よ

海越えて渡り来るものは軍事的侵略と共に疫病伝染病

疫病は支那朝鮮からやって来る歴史繰り返す我が国の歴史

疫病を克服しつつ大いなる変革為し遂げし我が国の歴史

大化改新明治維新も疫病の流行の後に断行せらる

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千駄木庵日乗三月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、原稿校正、原稿執筆など。会合の中止が多く、自宅での仕事に精を出しています。

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2020年3月 6日 (金)

新型コロナウイルス感染症の流行を、日本の変革のきっかけにすべし

支那湖北省武漢市で2019年12月に発生が報告された新型コロナウイルス感染症は、世界各地に感染が広がってゐる。そして世界各国で多数の人に感染し、亡くなってゐる。致死率は非常に高い。
おそらくコウモリがこの新型コロナウイルスの起源となったウイルスを保持してゐると考へられてゐる。
新型コロナウイルスが動物由来であるとの確定的な証拠は見つかってゐないが、その遺伝子配列が、コウモリ由来のSARS様コロナウイルスに近いため、コウモリがこの新型コロナウイルスの起源となった可能性が考へられてゐる。そして武漢市民はその蝙蝠を日常的に食用にしてゐる。
新型コロナウィルスは、未知の部分が多い上に、様々な情報が錯綜してゐて、不安を抱へてゐる人も多い。

支那で発生した疫病が日本に入ってきて大きな被害をもたらし多くの人々が犠牲になったのは、今回が初めてではないことは言ふまでもない。古代日本においても、『日本書紀』には、垂仁天皇の御代に疫病がが流行してゐたことが記されてゐる。
『倭名類聚抄』には“疫”の字の意味について「民が皆病むなり」とある。
国史上、最初に我が国で疫病が流行したのに、痘瘡(天然痘)であったといふ。文明・文化・社会の発展と海外との交流拡大による人や文物の往来に伴ひ、それまで疫病が発生しなかった日本にも支那・朝鮮から疫病が伝播した。
コレラは日本では一九世紀に初めて発症したとされ、それ以前には存在しなかった。
わが国においては、朝鮮との交流が増えて、仏教伝来と時を同じくして痘瘡(天然痘)が持ち込まれ、日本最初の疫病大流行となった。
このことに反発し対抗したのが日本伝統信仰たる神道護持の立場に立った物部氏である。そして渡来系氏族で仏教を尊崇した蘇我氏との対立が起こった。その背景には、朝鮮から伝播した疫病である痘瘡(天然痘)の流行があった。
そして天皇を祭祀主と仰ぐ祭祀国家日本の眞姿回復の日本最初の大変革たる大化の改新断行の原因の一つとなった。
ただし、わが国は日本の独自性を保ちつつ、仏教を大きく包容摂取したことは、聖武天皇の御事績を拝して明らかである。
明治維新の直前にも、外国から伝播したコレラの流行により多くの人々が犠牲になった。このことが「尊皇攘夷思想」勃興の原因の一つであった。
歴史は繰り返すと言ふが、今日の新型コロナウイルス感染症の流行も、日本の変革のきっかけになると思はれる。またさうしなければならない、日本民族は、何事も積極的にとらへ、国難を克服し、国家を変革してきた。つまり「ピンチをチャンスに変えた」のである。今回もさうであらねばならない。
習近平来日の延期は、まさに新型コロナウイルス感染症の流行がその原因となったのである。対共産支那外交の根本的転換を断行すべきである。

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千駄木庵日乗三月五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。室内整理。

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2020年3月 5日 (木)

亡國勢力による天皇及び皇室の尊厳性の冒瀆を根絶しなければならない

 日本國存立の基礎は、神聖君主・天皇の御存在である。日本民族が天皇及び皇室を尊崇する精神を喪失し、天皇の神聖性・尊厳性が冒される時、日本國は崩壊の危機に瀕する。皇室の危機はとりもなおさず國家の危機である。

 大東亜戦争の敗北後、占領軍によって行われたいわゆる「民主化」そしてその後続けられた左翼革命勢力による國體破壊策謀の最大のものが、「天皇の尊厳性の破壊」という策謀である。

 天皇を中心とした日本國の國柄を破壊せんとする勢力は、天皇及び皇室への國民の篤い尊崇の心を破壊するために、皇室の尊厳性・神聖性を失わしめるために巧妙にして陰湿な画策を続けている。否、続けているどころか益々活発化している。大村秀章愛知県知事はその先頭に立っているのだ。許し難い。

 マスコミの「皇室報道」の不見識ぶり・不敬姿勢は、天皇及び皇室の神聖性・尊厳性・権威を破壊しようという意図によって行っているとしか思えない。言葉に言い表せないほどの憤りを覚える。

 それにしても『朝日新聞』というのは許し難い新聞である。発行日を西暦を主にして元号を括弧の中に書くようにしたのは『朝日』が一番先である。また皇室への敬語も一切使っていない。このように『朝日』は反皇室・反日本的姿勢の新聞であり、民族の敵・現代の朝敵と断じても何ら間違いではない。

 ところが『朝日新聞』は何か皇室に慶事など重大行事があると、『御写真集』や特集を組んだグラフ雑誌などを発行するのだ。これは『朝日新聞』が皇室尊崇の念を持っているのではなく、明らかに営利至上主義に基づくものである。つまり金儲けのために皇室を利用しているのである。

 『朝日』などのマスコミが皇室への敬語・尊敬語の使用を止めたのは、國民の皇室への尊崇の心を喪失せしめるための策謀である。「天皇皇后両陛下」「皇太子同妃両殿下」と書くべきなのに、「天皇ご夫妻」「皇太子ご夫妻」と書いている。ひどいのになると「天皇夫妻」と書いている(『週刊現代』など)。

 さらに「皇室」に対し奉り、「天皇御一家」とか「天皇家」と申し上げるのは慎むべきである。なぜなら、天照大神の後裔であらせられ、「姓氏」を持たれない「御皇室」は普通一般の「何某家」ではないからである。

田尾憲男氏は、「天皇は日本國の永遠性の象徴であり、日本民族の誇りなのです。そういう『特別の御存在』に対して、敬意の表現としての敬語を用いるのは、伝統的な國民感情に基づいた言葉づかいとして当然……日本國と日本國民の『象徴』をおとしめることは、自分たちをおとしめることにほかなりません」(昭和聖徳記念財団発行『昭和』十二月十日号)と論じている。同感である。

わが國は古来言葉を大切なものとして来た。萬葉集には「言霊の幸ふ國」「言霊のたすくる國」と歌われている。また『聖書ヨハネ伝』には「言葉は神なりき」とある。「言葉の乱れは世の乱れ」とも言われる。   

 言葉は単なる意志伝達手段ではない。文化そのものであり人間の生活そのものである。その言葉を乱すことによって日本國體を破壊せんとしているのが『朝日』などの亡國マスコミ・反日マスコミなのである。

 「開かれた皇室」などということを何時頃誰が言い出したか知らないが、これも、天皇の及び皇室の尊厳性を破壊することを目的とした巧妙なる策謀である。「開かれた皇室」とは、「皇室は神秘のベールに包まれるべきではない」「皇室の関する公私にわたる情報は全て公開せよ」「皇室は國民ともっと自由に接触せよ」ということなのだろう。 

 日本國民は古来、信仰共同体・祭祀國家日本の祭祀主であられる天皇を神聖なる御存在と仰いできた。これを現御神信仰という。そしてこの信仰は、日本伝統信仰の中核である。「神秘のベール」を取り除くということは、天皇の祭祀主としての神聖なる御本質を否定することになる。天皇の神聖性の保持と「開かれた皇室論」とは絶対的に矛盾する。
    
 亡國勢力による皇室批判、というよりも皇室への罵詈讒謗・悪口雑言の根絶に最大の努力をしなければならない。政府・宮内庁の行政努力だけで天皇・皇室の尊厳性・神聖性を冒瀆する言動を抑止し得ない場合は、「皇室の尊厳保持法」の制定が必要である。

 日本國建國以来の、天皇及び皇室への國民の仰慕は、法律や權力によって強制されたものでない。しかし、日本國内に巣喰う反日本勢力の「國體破壊」「反皇室」策謀が愈々益々活発になり、それが國家の現在及び将来に重大な影響を及ぼす時代になっている今日、政府及び宮内庁は、天皇及び御皇室の尊厳性をお護りする具體的処置をとるべきである。

 ともかく、尊皇精神・勤皇精神が希薄になればなるほど、日本國民の道義心・倫理感が希薄になる。なぜなら、天皇は、日本國民の道義感・倫理感の鏡であるからである。皇室への尊崇の念の希薄化と今日の日本國民の道義心の低下とは相関関係にあると考える。

 ともかく、日本民族が尊皇精神を喪失した時、日本國は崩壊の危機に瀕する。亡國勢力による天皇及び皇室の尊厳性の冒瀆を根絶しなければならない。

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千駄木庵日乗三月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、書状執筆、原稿執筆。

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2020年3月 4日 (水)

天皇中心帰一の國體精神の回復と國難打開


江戸時代末期、欧米列強の侵略の危機にさらされた日本は、日本の伝統と自主性を體現される御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國體の明徴化によって國家の独立と安定と統一を保持せんとした。それが明治維新といふ一大変革である。

和辻哲郎氏は、「明治維新は尊皇攘夷という形に現わされた國民的自覚によって行われたが、この國民的自覚は日本を神國とする神話の精神の復興にもとづき、この復興は氏神の氏神たる伊勢神宮の崇拝に根ざしている。原始社会における宗教的な全体性把捉が高度文化の時代になお社会変革の動力となり得たというような現象は、実際、世界に類がないのである」「(註・明治維新で)封建制度は再び顛覆せられた。中央集権的國家は再び形成せられた。永い封建制度の間を通じて権力なき権威であった天皇の権威は、依然として将軍の権力よりも上にあり、依然として國民の全体性を表現するものである、ということが明白に示された。原始的な信仰は決して死んではいなかった」(『風土』)と論じてゐる。

全國民が真に日本民族としての運命共同意識を強く保持し燃え立たせ得る精神的基盤は、神代以来の神聖権威の体現者・保持者であらせられる日本天皇への尊崇の念即ち尊皇精神である。近世國學は本居宣長の「直毘靈」における論述を見てみ明らかな通り、「日本を神國とする神話の精神の復興」「天皇の権威は将軍の権力よりも上にあり國民の全体性を表現するものである」といふ「一君萬民の國體」を明白に説いた学問である。それが明治維新に大きな影響を与へたのである。つまり、近世國學は、明治維新の思想的基盤であった。

日本民族精神の基礎となるものは、天皇中心の國體を護持する精神である。日本國民の國を愛する心の特質は、「尊皇攘夷」「尊皇愛國」といふやうに萬邦無比といはれる日本國體の精神即ち天皇尊崇の心と一体であるところにある。今日の外患の危機も、日本國民が、天皇中心帰一の國體精神を正しく体得し、強い愛國心を持つことによって打開できると確信する。

危機のさなかにある今日の日本も、国民一人一人の國體精神・尊皇精神を回復すべきである。

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千駄木庵日乗三月三日

午前は、諸事。室内整理。

 

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆など。

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2020年3月 2日 (月)

後櫻町天皇御製に拝する『天津日嗣』の御精神

第百十七代・後櫻町天皇は、
「まもれなほ伊勢の内外(うちと)の宮ばしら天つ日つぎの末ながき世を」
(どうかお護り下さい。伊勢の内宮外宮の神よ。天津日嗣日本天皇が統治する永遠の日本國を)

と詠ませられてゐる。後櫻町天皇は、第百十五代・桜町天皇の第二皇女。江戸時代の宝暦十三年(一七六三)にご即位。

 「天津日嗣」とは、「天照大御神の靈統を継承する御方」といふ意である。天皇の神聖性はここより発する。「日」は「天照大御神の神靈」の御事である。

わが國悠久の歴史は、現御神としての御自覚で君臨あそばされた大君と、天皇を現御神として仰いだ國民とがつくってきたのである。天皇は地上においては天照大神の靈統の継承者・御代理としての御資格を有される。この御製はそのご自覚を高らかに歌ひあげられた御歌と拝する。

影山正治氏は、「(天津日嗣は)『もっもと大いなる〈ひ〉を継ぎつづける日本國の中心の御方』といふ意味である。『生命』─『いのち』の核心は『ひ』であり、『人』は『日子(彦)』と『ひ女(姫)』に分れる『ひ止』であって『ひのとどまったもの』であり、『ひを継ぎつづけること』によってこそ存在するものであるが、そのうちでも、最も中心的な、最も大いなる『ひ』を継ぎつづける日本の中心をなす『大生命』が『あまつひつぎ─天皇』の御存在である。」(『天皇の御本質』・「不二」昭和五十五年緑陰号)と論じてゐる。

『人』としての靈統は、男女の差別は全くなく継承されるのである。現御神即ち地上に現はれられた生きたまふ神であらせられる上御一人を、生物學上の男女としてのみ拝することはできない。天皇が現御神であらせられるといふことは、たとへ肉身においては女性であられても、生物學上の一般女性とは異なる使命を有される。

平野孝國氏は、「(天津日嗣の)ツギの思想は、元来個人の肉体を超えて継承される系譜と思ってよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、宮廷のツギは日を修飾にして、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義である。」(『大嘗祭の構造』)と論じてゐる。

「個人の肉体を超えて継承される系譜」と言っても、皇統に属するといふことが絶対の前提である。「男系であれ女系であれ、大嘗祭で天皇靈が降りてくれば天皇であるといふ議論は乱暴であり、それを容認するならば無法者が皇位を簒奪して大嘗祭をすれば天皇と認められるのであらうか」といふ議論がある。しかし、皇祖皇宗の血統を継がれる皇族が即位の礼と大嘗祭を執行されることが絶対の前提であって、「皇位の簒奪を目論む無法者」が即位式や大嘗祭を執行できるはずがない。

天照大御神以来の血統を継承される方が即位式を挙げられ大嘗祭を執行され皇位を継承されるのである。

天皇は、先帝の崩御によって御肉體は替はられるが御神靈は新帝に天降られ再生されるのである。ただし新帝は、皇祖皇宗から血統を繼承された先帝の「生みの御子」でなければならない。

天皇は武力で空間を制圧して國家を治められてゐるのではなく、天照大神(太陽の神)の御子としての神聖なる権威によって治められてゐる。そしてその根幹は天神地祇を祭られる<天皇の祭祀>である。

日の神信仰はわが國だけに傳へられてゐる信仰ではないが、稲作生活を営む日本民族にとって太陽はなくてはならぬ存在であるので、わが國では、日の神信仰(太陽信仰)は強固なものであった。その日の神の御子が祭り主日本天皇であらせられる。

天皇は國民を統率して、國民を代表して、神様に祈り、神を祭り、神の御命令を民に傳へる役目を果たされる。ゆゑに、民から仰ぎ拝すれば、天皇は地上における神の御代理即ち現御神であらせられるのである。   

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今月の『萬葉古代史研究会』中止のお知らせ

三月十一日(水曜)開催する予定でした『萬葉古代史研究会』は、会場の駒込地域文化創造館が、この度の騒ぎのため休館となり使えなくなりましたので、休会します。来月は第二水曜日に開催します。

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千駄木庵日乗三月二日

午前は、諸事。


午後からは、在宅して、室内整理、『伝統と革新』編集の仕事、『やまと新聞』連載原稿執筆、脱稿送付。

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『桜田門外の変』の意義と吉田松陰先生の精神

「桜田門外の変」が起った三月三日が近づいてきた。

市井三郎氏はその著『明治維新の哲学』において、「政治的対決は、一国の体制を倒すか守るかぎりぎりにまで高まると、暴力的なものの出現は多かれ少なかれ不可避になります。…(注・明治維新の)変革過程の直接の発端に戻りましょう。その幕を切って落としたのは、万延元年三月の水戸浪士と水戸学に影響された薩摩藩士の井伊大老暗殺でした。それは結果として、幕府に対する朝廷の権威を高め、政治の中心地を江戸から京都へ移してしまうほどの力をもっていました。それほど歴史的に意味のある行動を行い得たのが、水戸学に動かされた人々である」と論じてゐる。

政治的大変革に直接行動が大きな役割を果たしたことは、大化の改新など歴史を見れば明白である。明治維新の後も、明治第二維新運動において、紀尾井坂事件即ち大久保利通暗殺が大きな役割を果たし、その後、自由民権運動の活発化、議会開設・民選議院設立、帝国憲法発布が実現した。

万延元年(一八六〇)三月三日に起きた「桜田門外の変」即ち井伊大老暗殺は、まさに徳川幕府瓦解、天皇を唯一の君主と仰ぐ國體明徴化即ち明治維新実現の発火点になったのである。幕府打倒・天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

吉田松陰は「征夷は天下の賊なり。今を措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と主張した。

吉田松陰は、安政五年(一八五八)正月十九日、月性(幕末の勤皇僧。周防妙円寺住職。攘夷海防を論じた)に宛てた書簡で、前年の安政四年に米駐日総領事ハリスが、江戸城に登城し、幕府に米公使江戸駐在を認めさせたことを憂えて、「ミニストル(公使のこと)を江都(江戸のこと)におき、萬國(ここでは國内各藩のこと)の通商、政府に拘らず勝手に出来候へば、神州も實に是きりに御座候。何とも一措置なくては相済み申すべきや。幾重に思ひかへ候ても、此時大和魂を発せねば最早時はこれ無き様覚へ申し候」と記し、大和魂を発揮して幕府の軟弱外交を糾弾すべきことを論じた。

井伊幕閣幕が勅許を得ずして「日米修好通商条約」を締結したことを知った吉田松陰は激怒した。同年七月十三日、松陰が長州藩主に提出した意見書『大義を議す』において「墨夷(注・アメリカ)の謀は、神州の患たること必せり。…ここを以て天子震怒し、勅を下して墨使を断ちたまふ。是れ幕府宜しく蹜蹙(注・恐れ縮こまる)遵奉之れ暇あらざるべし。今は則ち然らず。傲然自得、以て墨夷に諂事(注・へつらふこと)して天下の至計と為し、國患を思はず、國辱を顧みず、而して天勅を奉ぜず、是れ征夷の罪にして、天地も容れず、神人皆憤る。これを大義に準じて、討滅誅戮して可なり。少しも許すべからざるなり」「征夷は天下の賊なり。今を措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と主張し討幕の姿勢を明らかにした。

まことに上御一人日本天皇の勅命を蔑ろにしてアメリカに諂った徳川幕閣を、天人共に許さざる存在であり、天下の賊なりと断定した激烈な文章である。

松陰は、日本國體を護り、國家の独立を守るために、徳川幕閣に天誅を加へねばならないと決意した。京都に上り、朝廷に圧力をかけ、朝議の操作を成さんとし、また、京都所司代・酒井忠義に命じて尊攘の公卿や志士たちを弾圧捕縛した老中・間部詮勝(まなべあきかつ・越前國鯖江藩第七代藩主)誅殺を企てた。かうしたことが、長州藩政府の咎めるところとなり、野山の獄に入れられた。

松陰は、囹圄の身になっても、倒幕の志を変えることはなく、ますます燃え盛った。松陰は、同年四月七日、野山の獄から北山安世に宛てた手紙に「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羇縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。…今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望外なし」と書いた。

幕府も諸藩も頼むに足らず、全國の在野の同志が決起して外國からの脅威を撃ち祓ふ以外に道はないと主張したのである。

吉田松陰は、「安政の大獄」で処刑される直前、同囚の堀江克之助に与へた手紙の中で「天照の神勅に、『日嗣の隆えまさむこと、天壌と窮りなかるべし』と之あり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。唯今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり」と書かれた。

処刑の直前といふ絶望的状況にあっても、なほ、日本國體に対する絶対的信を保持せられた松陰先生に対し無上の尊敬の念を抱く。

今日、日本はまさに危機に瀕してゐる。しかし、神は必ず日本國と日本皇室を守り給ふ。『天壌無窮の神勅』に示されてゐるやうに、天照大御神の「生みの御子」であらせられる日本天皇がしろしめすわが日本國は永遠に不滅である。されば、現御神日本天皇の大御心を体し、日本伝統精神に回帰することによって、いかなる危機もこれを乗り切り、神國日本の真姿が回復すると確信する。

松陰先生は次の辞世をのこされてゐる。

討たれたる われをあはれと 見む人は 君を崇めて 夷(えみし)攘へよ

この歌には、まさに『尊皇攘夷の精神』が表白されてゐるのである。そして松陰の辞世の精神を継承した人々によって、明治維新の大業が成就したのである。

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2020年3月 1日 (日)

千駄木庵日乗三月一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事・原稿執筆など。

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維新とは、神の復活であり、神代への回帰であり、天孫降臨への回帰である

「維新」とは、現代の汚れを祓ひ清め、天皇を祭祀主と仰ぐ國の本来の姿を回復して現状を変革することである。大化改新も、建武中興も、明治維新もさういふ精神に基づいて行はれた。日本においては傳統回帰と変革が一つである。だから維新を<復古即革新>といふ。

この場合の「復古」とは時間的過去に逆戻りすることではない。時間を超越した「祖型」「原初」「始原」「始まりの時」「久遠元初」「永遠の今」への回帰である。傳統精神の新たなる発見である。日本の傳統精神を復活せしめて硬直し腐敗した現代を一新することである。

世の中の矛盾・不合理を徹底的に粉砕し、國民の幸福と國家の存立を確保する。それがただの破壊・破壊としないためには、日本國の道統を原理としなければならない。日本における革新は、古きものの土台の上に立脚する。

東日本大震災など近年多発する自然災害は、自然の脅威が如何に恐ろしく、原発などの科學技術が人間に大きな危害を加へるものであるかが体験された。

欧米の科學技術による人間生活の進歩と発展を至上命題としてきた戦後日本、もっと言へば近代日本への反省が必要である。それには、自然の中に神を見る日本傳統信仰に回帰する以外にない。

体制変革や法律の整備は大切である。しかし、その根本に神への回帰が無ければならない。いくら國家機構を変革し法律を更新しても、様々な悪しき事象が無くなることがないことは現實と歴史が証明してゐる。

『大日本帝國憲法』といふ國體精神に則った理想に近い憲法があっても、昭和の御代において維新変革運動が起った。法律や制度を整へるだけでは真の維新は成就しない。

維新とは、神の復活であり、神代への回帰であり、天孫降臨への回帰である。それは「神勅」の實現であり、神話の再興であり、「今即神代」の實現であり、「高天原を地上へ」の實現である。

わが國においては、國家変革即ち維新と信仰精神・神話の精神は不離一体である。大化の改新、建武中興、明治維新において、神國思想・國體信仰がその中核にあった。現代の維新変革然りである。政治制度の変革の根底に日本傳統信仰が無ければならない。

かかる考へ方は、情緒的であり、観念的であるとの批判もあらう。しかし、今こそ自然の生命の循環と全ての生きるものの相互扶助の不思議な原理を生活の中で體験する農耕民族たる日本民族の信仰精神に回帰すべき時である。

現代文明とは、科學の論理によって技術の革新を行ふ文明のことである。現代文明は西洋科學技術文明が主流となってゐる。そしてそれは、経済至上・物質的豊かさ至上の社会を作り出した。

反面、現代文明は今日、核戦争の危機・自然破壊・人心の荒廃・経済の破綻をもたらし、没落の時期に差しかかってゐる。現代文明の欠陥を是正し、欧米科學技術文明を反省し、新たなる文明を形成しなければならない。

日本傳統信仰は、山・川・海・風・樹木・石等々全ての自然に神の命が宿ると信じる。また、人の命は神の命であると信じる。一人一人が「命(みこと)」なのである。一人一人が「日子(ひこ・日の神の男子)」であり「日女(ひめ・日の神の女子)」なのである。日本人は、森羅萬象ことごとく神ならざるものはないと信じ、人も國土も神が生みたまふたと信じる。

闘争・戦争と自然破壊を繰り返す現代世界においてこそ、一切の自然や人に神が宿るといふ大らかにして健全なる信仰精神たる日本傳統信仰が大きな役割を果たすと考へる。日本傳統信仰の祭祀主が天皇であらせられる。天皇を祭祀主とする信仰共同體たる日本國の本姿回復によって現代の危機を救済する大変革即維新が断行されならない。

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千駄木庵日乗二月二十九日

午前は諸事。室内整理。

午後からは、在宅して、原稿執筆・『伝統と革新』編集の仕・書状執筆。

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