« 宮中祭祀を中核とする日本傳統信仰の祭祀こそ現代救済の原基 | トップページ | 千駄木庵日乗十二月十一日 »

2019年12月12日 (木)

佐藤一斎・西郷隆盛の死生観

肉体の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎない。だから、死後の世界を幽世(かくりよ)と言ひ、死後の人間を隱身(かくりみ)と言ふのである。

 

柳田國男氏は、「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まってさう遠くへは行ってしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである」(『先祖の話』)と論じてゐる。死者の霊魂は、はるか彼方の他界に行ってしまふのではなく、この国土に留まって子孫を見守ってゐるは、わが国において永く継承されてきている。それは、「先祖様が草葉の蔭から見守ってゐる」といふ言葉がある通りである。

 

この世を去った人の霊魂を身近に感じて来たのが日本人の伝統的祖霊観、生死観である。日本人が比較的死を恐れない強靭な精神を持っているのは、かうした信仰が根底にあるからであらう。

 

魂が身体から遊離することが死である。それがために肉体人間は力を失ふ。死とは無に帰するのではない。勢ひがなくなることを意味する「しほれる」が「しぬ」といふ言葉の語源である。「心もしのにいにしへおもほゆ」の「しの」である。くたくたになってしまって疲れるといふ意味である。気力がなくなってしまったといふ意味である。

 

枯れるといふ言葉と同根の「から」が「亡骸」のからである。死とは命が枯れることであり、肉体から魂・生命が去ることである。

 

人間の死を「神去る」「逝く」「身まかる」と言ふ。葬るを「はふる」といふ。「はふる」とは羽振るである。魂が空を羽ばたいて飛んでいくといふことである。羽振りが良いとは勢ひがあるといふ意である。

 

死は消滅ではなく、生き返るのであり、甦るのである。日本伝統信仰には死はない。

 

「よみがへり」とは、黄泉の国から帰ることである。『萬葉集』では「よみがへり」といふ言葉に対して「死還生」といふ字をあててゐる。「黄泉の国」とは死後の世界である。

 

「このよみがへり」の思想が、仏教の輪廻転生思想を受け入れた信仰的素地とされる。あの世もこの世もそれほどお互いに遠いところではないのである。

 

死後の世界は近く親しく、いつでも連絡が取れるところである。だから草葉の陰から見守ってゐてくれるといふ言葉があるのである。お盆には先祖の御霊が帰って来るといふ信仰もある。生と死の区別は明白ではなく、人はこの世を去ってもまた帰って来るといふ信仰がある。

 

死とは誕生・元服・結婚と同様の「生まれ変はりの儀式の一環」である。

 

江戸後期の儒学者で、幕末から明治初期にかけて大きな学問的影響を及ぼした佐藤一斎が、四十二歳から八十歳まで、年号で言へば文化十年から嘉永四年まで書き続けた箴言集『言志四録』の第百三十七条には次のやうに記されてゐる。

 

「吾思ふ、我が身は天物なり。死生の権は天に在り。当に順にこれを受くべし。…天之を生じて、天之を死せしむ。一に天に聴(したが)ふのみ。吾れ何ぞ畏れむ。吾が性は即ち天なり。軀穀は則ち天を蔵するの室なり。精気の物と為るや、天此の室に寓す。遊魂の変を為すや、天此の室より離る。死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、而して吾が性の性たる所以のものは、恒に死生の外に在り。吾れ何ぞ焉れを畏れむ。夫れ昼夜は一理、幽明も一理、始(はじめ)を原(たず)ね、終りに反(かえ)し、死生の説を知る」。(私は思ふ。われわれの身体は天から生じたものである。生死の権は天が握っているので、まさに素直に従ってこれを受けるべきである。…天がわれわれを生み、天がわれわれを死なせるのだから、全く死生は天に従ふべきで、我々はどうして恐れることがあらうか。われわれの本質は即ち天である。我々の肉体は身体に天を蔵する部屋である。万物を生成する根源の気が固まって天がこの部屋に住むのである。魂が肉体から遊離すれば、天はこの部屋から離れる。死の後は即ち生の前であり、生の前は即ち死の後であって、我々の本質は常に生死を超越してゐる。われわれは何で生死を恐れやうか)。

 

『言志四録』は、西郷隆盛の終生の座右の書であったといふ。その西郷隆盛は、流罪で沖永良部島にあった時、次の漢詩を詠んでゐる。

 

「獄中有感り(ごくちゅうかんあり) 

 朝に恩遇を蒙り夕べに焚阬(ふんこう)せらる
 人世の浮沈は晦明に似たり
 縦(たと)ひ光を回らさゞるも葵は日に向ふ
 若し運を開くる無くも意は誠を推を()す
 洛陽の知己皆鬼と為り
 南嶼(なんしょ)の俘囚独り生を竊(ぬす)む
 生死何(なん)ぞ疑はむ天の附與なるを
 願はくは魂魄(こんぱく)を留めて皇城を護らむ」

 

結句は、まさに佐藤一斎と同じ死生観を表白してゐる。そして肉体から離脱して魂魄は、この世に留まって皇城即ち上御一人をお守りすることを散ったのである。

 

|

« 宮中祭祀を中核とする日本傳統信仰の祭祀こそ現代救済の原基 | トップページ | 千駄木庵日乗十二月十一日 »