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2019年12月31日 (火)

錦の御旗と戊辰戦争

「鳥羽伏見の戦ひ」と呼ばれる戦ひで、何故幕府軍は敗退してしまったのであらうか。史家たちが挙げる原因は次の通りである。「①士気・戦意の違ひ。政府軍が士気・戦意共に勝っていた。②幕府方の戦争目的の曖昧さ。③幕府方の計画性と指揮能力の欠如。④新政府軍の武器が幕府軍の武器よりも優れていた。⑤幕府方内部の裏切りと内紛。⑤総大将たる徳川慶喜の戦意・統率力の欠如。」

そして、多くの史家は、開戦翌日の一月四日に、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたので、幕府軍の士気が萎えてしまったと論じてゐる。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことが、史家のいふところの「両軍の士気・戦意の相違、幕府内部の所謂『裏切り』『内紛』、徳川慶喜の戦意・統率力欠如」の根本原因である。

錦の御旗とは、朝廷の軍即即ち官軍の旗印であり略称を錦旗(きんき)と言ふ。赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍したり描いたりした旗を、朝敵討伐のしるしとして天皇から官軍の総指揮官に下賜される。承久の乱(一二二一)に際し、後鳥羽上皇が近江守護職佐々木広綱をはじめ朝廷方の武士に与へたのが歴史上の錦旗の初見と傳へられる。

『トンヤレ節』には、「宮さん宮さんお馬の前に ヒラヒラするのは何じやいな トコトンヤレ、トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じや知らないか トコトンヤレ、トンヤレナ」と歌はれてゐる。

史家の中には、「鳥羽伏見の戦ひ」に登場した「錦の御旗」は、岩倉具視が、国学者・玉松操に頼んで、適当にでっち上げさせたものだとか、贋作だとか言ふ者がゐる。以ての外の妄説である。

明治天皇は、一月三日深夜、議定(王政復古により置かれた明治新政府の官職名。総裁・参与とともに三職の一。皇族・公卿・諸侯の中から選ばれた)仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮・上野公園に銅像が建てられてゐる)を軍事総裁に任ぜられ、翌四日には「錦の御旗」と征討の節刀を賜り、征討大将軍に補任された。

明治天皇から征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王に下賜された「錦の御旗」が、「贋作・でっち上げである」などといふ理屈は全く成り立たない。
仁和寺宮嘉彰親王は、新政府軍を率いて御所をご進発、午後には洛南の東寺に陣を置かれ、錦旗が掲げられた。

西郷隆盛は一月三日付の大久保利通宛の書状に、「初戦の大捷、誠に皇運開立の基と、大慶此の事に御座候。兵士の進みも実に感心の次第驚き入り申し候。…明日は錦旗を押立て、東寺に本陣を御居(す)ゑ下され候へば、一倍官軍の勢ひを増し候事に御座候…」と書いた。

一月五日、征討大将軍が鳥羽街道を錦旗を立てて南下すると、それを遠望した幕府軍は浮足立ち、淀城へ退却した。ところが、前述の通り、淀藩は幕府軍の淀城入場を拒んだ。

津藩・淀藩の行動は決して裏切りではなく、上御一人日本天皇への恭順である。徳川慶喜の戦意喪失も決して臆病風に吹かれたのではなく、彼の尊皇精神がさうさせたのである。

『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一著)は鳥羽伏見の戦ひにおける徳川慶喜の心情を次のやうに記してゐる。「…やがて錦旗の出でたるにを聞くに及びては、益々驚かせ給ひ、『あはれ朝廷に対して刃向ふべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負ふに到りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り會桑を諭して帰国せしめば、事此に至るまじきを、吾が命令を用ゐざるが腹立たしさに、如何やうとも勝手にせよと言ひ放ちしこそ一期の不覚なれ』と悔恨の念に堪へず、いたく憂鬱し給ふ」。

そして慶喜はフランス大使レオン・ロッシュに対して「我邦の風として、朝廷の命と称して兵を指揮する時は、百令悉く行はる。たとい今日は公卿大名の輩より申し出たる事なりとも、勅命といはんには違背し難き國風なり。されば今兵を交へて此方勝利を得たりとも、萬々一天朝を過たば、末代まで朝敵の悪名免れ難し。…当家中興の祖より今に二百六十余年、尚も天朝の代官として士民の父母となり国を治めたる功績を何ぞ一朝の怒に空しくすべけんや。尚も余が本意に背き、私の意地を張りて兵を動かさんとせば、当家代々の霊位に対して既に忠臣にあらず、まして皇国に対しては逆賊たるべし。」と言明したといふ。

徳川慶喜の尊皇精神が、明治維新を成就せしめた大きな原因の一つである。これは決して慶喜の戦闘精神の欠如などと批難されるべきことではない。わが国に「天皇の代官」なるものは必要ではない。天皇御自らが日本国を統治されるのが本来の姿である。一君万民の日本國體が明らかになることによって、内憂外患を取り除くことが出来るのである。

一月六日午後十時、徳川慶喜は、松平容保などを従へて、大阪城を離れ、船で江戸に帰ったことを『トンヤレ節』が、「音に聞えし關東武士 どつちへ逃げたと問ふたれば トコトンヤレ、トンヤレナ 城も氣慨も 捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレ、トンヤレナ」と皮肉ってゐるのは、徳川慶喜にとっていささか酷であると言はなければならない。

徳富蘇峰はその著『明治三傑』において次のやうに論じてゐる。「彼(注・慶喜)が維新の際に戦い得べき陸海の兵を有しながらあたかも平家軍が富士川の羽音に潰送し去ったごとく、目覚ましき戦闘を交ず、ほとんど無血開城をなし、自ら恭順して官軍に無条件降伏をなしたるは、いかにも幕府軍からいえば歯痒き極みであるが、しかも後年慶喜はその心事を語って曰く、『予は幼き時より、わが父から水戸家代々の遺訓を聴いた。『万一天朝と幕府との間に事ある際には、わが水戸藩は宗藩たる幕府を顧みず、進んで天朝のために忠勤に抽んでねばならぬ。』と。予は常にこの遺訓を服膺したが、いったん阿山って朝敵の汚名を受け、悔恨おのずから禁ぜず、ここにおいて自ら恭順、その罪に服したのである』と。…薩長が容易にその目的を達したるについては、けいきのこの無抵抗主義が、与って大にいるとはいわざるも、また力ありということを認めねばならぬ。」と。

内憂外患の除去のためには天に二日なき天皇中心帰一国家建設が絶対に必要であった

鳥羽・伏見の戦ひで錦旗を畏んだのは幕府軍だけではない。一般國民も、現御神日本天皇の御稜威を畏んだ。前述したやうに、賀茂行幸・石清水行幸によって、一般民衆の尊皇精神が興起し、御一人日本天皇を日本国の君主と仰ぐ、一君萬民の國體が明らかに回復された。

鳥羽・伏見の戦ひで錦旗が翻った時の状況を、大久保利通のその日記には次のやうに記してゐる。

「(注・慶應四年)八日巳の刻(午前十時)比(ころ)より八幡辺戦地御巡覧の為、宮(仁和寺宮)御出でにて、錦の御旗を飄(ひるがへ)され、威風凜烈、誠に言語に尽し難き心地にて、老若男女王帥(天皇の軍)を迎えて、有難々々といえる声、感涙に及び候。」。大久保利通の尊皇心が吐露されている文章である。

内憂外患の除去、国際関係の危機打開のためには天に二日なき天皇中心帰一の統一国家建設が絶対に必要であった。東洋制覇の野望に燃える欧米列強に対抗するには、鎖国や世襲的階級制度を墨守してゐては、とても国難を打開することは不可能であった。徳川幕府は、攘夷を断行するにせよ、開国を断行するにせよ、これを断行する主體的能力のある政権ではなくなったといふことである。
変革は武力なくしては達成できない。しかし、わが国伝統精神に基づく変革即ち日本的変革=維新は、神代以来の天皇の神聖権威とそれに畏こむ臣下国民の尊皇精神がその原基なのである。

國家の独立と安定と統一を保持するには、神代以来の國體を体現者・継承者としての権威を保持する御存在=神聖君主日本天皇を中心とした國家體制を確立しなければならなくなった。欧米列強の侵略から祖國日本を守るための國家體制は、神話時代からの伝統的君主である天皇を中心とする國家でなければならないということが全國民的に自覚されるやうになったのである。開国も攘夷も、天皇中心の統一国家の建設によってこそ実現するのである。明治維新によってそれは現実のものとなった。

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千駄木庵日乗十二月三十一日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、資料整理、室内整理、正月を迎える準備など。

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2019年12月30日 (月)

古代人は、岩といふものを非常に神秘的に考へた

 古代人は、岩といふものを非常に神秘的に考へた。地下と地上とをつなぐものと考へた。大きな岩を墓に用いるのは、地下の靈が地上に出てくるのを押さへる役目を持たせたからといふ説もある。岩には死んだ人の靈が籠ると信じた。墓石には「新たなる使命を帯びて地上に再び蘇るまでそこに鎮まっていただきたい」といふ祈りが込められてゐる。萬葉時代は、かかる古墳時代の信仰がまだいきいきと生きてゐたのである。古墳時代の信仰を継承してゐる歌人が柿本人麻呂である。

 「岩」は「いはふ」から出た言葉である。「いは(齋)ふ」は、神に対して穢れと思はれることを謹み、淨め、敬虔な態度を持して神を祀ること。また、さういふ態度をとって穢れに乗じてくる邪悪を避けようとする行ひをもいふ。つまり、身を清めて神を祭ることを齋(いは)ふといふ。そして、人々が集まって籠るところをいへ(家)といふやうになった。                      

 岩や石には神仏や死んだ人の魂が籠ってゐると信じそれを拝むやうになった。特に巨岩は威力があり人格化され意志を持ち人間に語りかける靈妙なものと信じた。

 『國歌君が代』の「君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」は、石は靈が籠ってゐるので次第に成長して岩となるといふ信仰が歌はれてゐる。「天皇の御代は、千代に八千代に小さな石が次第に成長して大きくなり大きな岩となって苔がむすまで永遠であっていただきたい」といふ意である。

 「いは」のイは接頭語で、「いのち」「いきる」といふ言葉がある通り生命力を意味する。           
 
「岩戸」とは、大地のイメージであり、母のイメージである。大地の母に回帰する信仰があらはれたのが、天照大神の岩戸隠れである。

 「岩」が名前についてゐる女性には精神的・靈的に力が強い人が多い。その代表的ご存在が磐姫皇后(いはのひめのおほきさき・仁徳天皇の皇后)であられる。とても嫉妬深い皇后であらせられ、天皇にお仕へする女性のことが噂に上っただけでも、床に横になられて御足をばたばたさせて悔しがられた。また、天皇が寵愛された黒姫といふ女性を宮廷から追放された。黒姫が船に乗って故郷の吉備の國へ帰るのを皇居から見送られた仁徳天皇が、別れを惜しまれて、

 「沖邊には 小舟つららく 黒ざやの まさづこ吾妹 國へ下らす」 (沖の方には小  舟が続いてゐる。あれはいとしのあの子が国へ帰るのだなあ、といふ意)

といふ御歌を詠まれた。磐姫皇后はこれを大変お怒りになられ、人を派遣して黒姫を船から引きずり下ろして徒歩で故郷に帰らせたと『古事記』に記されてゐる。

 鶴屋南北の『東海道四谷怪談』に出てくる靈的力の強い女性の名前は「お岩」である。

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千駄木庵日乗十二月三十日

午前は、諸事。

この後、東都北鎮・根津神社に参拝。今年一年のご加護に感謝し、来年のご加護を祈り奉る。お札納め。

帰宅後は、新年を迎える準備、資料整理。

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「國見」は天皇統治において重大意味を持つ祭祀

 「國見」とは、天皇陛下がただ単に景色を眺められるのではなく、天皇が國を見渡して五穀の豊饒と民の幸福をお祈りし祝福する行事である。

 「目は口ほどにものを言ひ」といふ言葉もあるごとく「見る」といふのは対象物を認識する上で大切な行為である。天皇統治の事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)といふ。

荒木博之氏は、「上代人にとって<見る>とは『対象物の神性に感応し、その対象物を飽かず見ることによって、その神性をその清浄さをおのれが本性にとりこむこと」(日本人の心情論理)と解した。この論を引用して大原康男氏は「<見る>は…単に空間とかかわる視覚に尽きるものではなく、そこには鎮魂儀礼の要素が含まれている…」と論じられてゐる。(現御神考試論)

 天皇が神聖なる天香具山に登られて「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀である。そして、新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。

祭祀主であり現御神であらせられる天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國土が國が始まった時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。

天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。

つまり、「國見」は大嘗祭と同一の意義があり、天の神の地上における御代理即ち現御神(あきつみかみ)たる天皇が、國土に稲穂を豊かに實らせるといふ天の神から命じられた最大の御使命を實現するといふ天皇の統治にとって重大意味を持つ祭祀なのである。           

 昭和五十四年十二月四日、昭和天皇は奈良県に御行幸あらせられた。翌四日、萬葉學者・犬養孝氏の御案内で、高市郡明日香村の甘橿丘にお登りになり、大和盆地を双眼鏡で一望された。この時、犬養氏は、この舒明天皇の御製など五首を朗詠した。犬養氏の「昭和の國見ですね」とふ言葉に、先帝陛下は声を立ててお笑ひになったと承る。そして、次のやうな御製を詠ませられた。

「丘に立ち歌をききつつ遠つおやのしろしめしたる世をししのびぬ」

 昭和五十九年十二月、再び奈良県に御行幸になり、翌昭和六十年の新年歌會始に「旅」といふ御題で賜った御歌が、

「遠つおやのしろしめしたる大和路の歴史をしのびけふも旅ゆく」

である。

 農業國家・稲作國家である日本は、國民生活は旱魃や洪水などの自然環境によって大きく支配される。したがって、集団の統率者は常に祭りを行って、自然の恵みを願ひ感謝しそして自然災害が起こらないやうに神に祈る祭祀を行ふことがことが大きな使命であった。

ゆゑに、祭祀は、天皇の重要な御使命であった。日本においては宗教と政治、祭祀と政治は一体であるべきである。これを<祭政一致>といふ。

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この頃詠みし歌

古き佃煮屋と飴屋に寄りて帰り来ぬ谷中日暮里はゆかしき街ぞ

祖父に背き兄弟との絆を断ち切りて何が調和だ日時計だと思へり(谷口雅宣)

何時もの店に何時もの人々が並びゐて酒呑みをればこの街は平和

自らの歌の下手さはさて置きて現代歌壇の歌を厭へり

高楼といふ言葉はすでに使はれずタワーマンションといはるる建物を仰ぐ

嫌だ嫌だ人は皆老いてゆくそして死に行く人生とはこんなものか

懐かしき友を偲びて夜を過ごす次第に少なくなる同年代

シャワーを胸にかければ動悸も静まりて禊とはかくも有難きこと

ゆっくりと体動かし朝の掃除に励めば心身ともに健やか

捨てるべき物あまりにも多きわが部屋に埋もれて過ごす我にしありけり

酒を呑むと言っても小生(しょうなま)一杯お銚子一本で満足する我

噂を信じちゃいけないよ私の心はうぶなのさそんな歌詞がぴったりな我にしあるらし

すめらみことの御稜威の御光日の本を照らしたまへることの尊さ

神を仰ぎ神に祈るも殺し合ひ憎しみ合ひの世は何時まで続く

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千駄木庵日乗十二月二十九日

午前は、諸事。『政治文化情報』発送作業、発送完了。

午後からは、神棚仏壇の清掃。新年を迎える準備など。

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2019年12月29日 (日)

 天香具山について

 天香具山は奈良県橿原市東部にある海抜一四八㍍の小山。大和盆地は海抜百㍍だから麓からは四八㍍しかない。畝傍山・耳成山と共に大和三山の一つである。古代日本人には、麗しい山を神と仰ぐ信仰があった。大和地方では大和三山・三輪山・二上山など、東國地方では富士山・筑波山など、九州地方では高千穂峰・阿蘇山が尊い山として仰がれた。

 天香具山は、上に「天の」と付けられてゐるやうに高天原から天降って来た山で「天と地とをつなぐ山」として神聖視され大和三山の中でもとりわけ尊い山とされた。現代風にいへば、天と地とをつなぐアンテナで、神事を行ふ際、神の降臨を仰ぐために立てる榊である「ひもろぎ」と同じ性格を持つ山である。「鎮守の森」といはれるやうに神社には多くの樹木があるのは、その樹木に神が降臨すると信じたからである。

 キリスト教では、人類が唯一絶対神たるゴッド及びその一人子であるイエス・キリストを受け入れ、罪を悔い改めなければ、最後の審判において罪人は滅ぼされ、天國に入ることができないとされてゐる。キリスト教は神人分離の信仰である。ところがわが國傳統信仰における「神代」「高天原」と「地上」とは交流しゐて、隔絶してゐない。日本傳統信仰は天地一体・今即神代・神人一体の信仰である。

 「香具」(かぐ)とは「輝く」を短くした言葉で、香具山は輝く山・神聖な山として信仰の対象となってゐる。後世のかぐや姫とは「輝く御姫様」といふ意である。天香具山とは「天に通じる輝く山」といふ意で、高天原と直結する山と信じられたのである。

 高天原にある天香具山について、『古事記』には、天照大神が天の岩戸に隠れになった時、大神に岩戸からお出ましを願ほうとした八百萬命が相談して、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)が取って来た天香具山の男鹿の肩胛骨を波波迦の木で焼いて占ひを行って、天香具山に茂った賢木(さかき)に勾玉(まがたま)や鏡などを付けて捧げ持ち、天宇受売命(あめのうづめみこと)が天香具山の日影蔓(ひかげかづら)を手襁(たすき)に懸け、真拆(まさき)を鬘(かずら)として、天香具山の小竹の葉を手に持ち、岩戸の前で桶を踏み鳴らして神憑りしたと傳へられてゐる。

 また、神武天皇が御東征を終へられ大和に都を開かれる時のお祭りで用いられた神具の土器は、天香具山の土で作られたと傳へられてゐる。國土には地の靈(國魂)が籠ってゐるといふ信仰があり、大和の都を開かれるにあたっては、大和の國の靈を鎮めなければならない。そのために大和の地の靈を象徴し大和の國魂が宿ってゐて、天と地とをつなぐ神聖なる天香具山の土を、土器にして祭祀に用いたのである。それによって、神武天皇は大和國を治められる靈的なお力を備へられたのである。天香具山の土を手に入れることが大和全体を掌握することになるといふ信仰である。

 折口信夫氏は、「天香具山の名は天上の山の名である。同時に地上の祭時に當って、天上と一つの聖地-天高市(アメタケチ)-と考へられた土地の中心が此山であった。だから平常にも聖なる地として天なる称號をつけて呼ぶ様になったのだ」「大和なる地名は、當然宮廷のある地を意味する。天は、宮廷の真上にあり、宮廷のある處は、天の真下である。即ち、國語に於ける天が下(アメガシタ)の確かな用語例は、宮廷及び宮廷の所在を示すことになる。だから、宮廷の存在なる狭義の大倭は、天が下であり、同時に天其物と觀じることが出来た。天香具山は、地上に於ける聖地の中心であった。即ち、大倭の中心である。この山の埴土(四宮注きめの細かい黄赤色の粘土)は、大倭の國魂の象徴にもなる…。」(大倭宮廷の靱業期)論じられてゐる。

 天皇のゐます宮は「天」(高天原)であり「聖地」である。その中心が天香具山なのである。このやうな神聖な所を神座(カミクラ・神のゐますところ)といふ。

 このやうに天香具山は天皇の祭祀・神事即ち國家統治には欠かせない尊い山である。

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千駄木庵日乗十二月二十八日

午前は諸事。

午後からは、在宅して、室内整頓、新年を迎える準備、書状執筆、原稿執筆。

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2019年12月27日 (金)

「國民主権論」はわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口

 『日本國憲法』と称する『現行占領憲法』の<三原理>とは、「國民主権主義」「平和主義」「基本的人権の尊重」である。

 嘘と欺瞞に満ちた『現行憲法』の「前文」には「日本國民は、正当に選挙された代表者を通じて行動し、……ここに主権が國民にあることを宣言し…そもそも國政は、國民の厳粛な信託によるものであって、その権威は國民に由来し、その権力は國民のこれを代表者が行使し、その福利は國民がこれを享受する」と書かかれている。

 『現行憲法』でいう「國民主権主義」の「主権」とは、「國家意思を最終的に決定する権限」を言う。主權在民論・契約國家思想・權力國家思想に要約される西洋法思想に基づく規定である。西洋法思想における「主權」とは「領土や國民を支配する國家の權力」「國家として持つ最高獨立性」のことであり、憲法上最も重要な意味は「國家の意思を最終的に決定する權力」であるとされている(伊藤正己著『注釈憲法』)。

 『現行占領憲法』の「國民主権主義」は、「戦前の我が國は天皇主権の國であり、天皇制権力のもとに軍國主義國家となり國民の権利は奪われ戦争に駆り立てられた」という思想に基づくものとされている。しかしこれは全く誤れる考え方である。我が國の歴史には、天皇が主権=國家の最高権力を独占的に掌握し独裁専制政治を行っていたなどということは全くない。『大日本帝國憲法』にも、「天皇に主権がある」とは全く書かれていない。

 我が國は天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体である。西洋國家論で言うところの契約國家・権力國家ではない。我が國は君民一体の國柄である。西洋や支那大陸のような君主と人民とが「國家意思を最終的に決定する権限」を奪い合ったという歴史は全くない。

「國家の意思を最終的に決定する権力」という意味での「主権」なる概念と言葉は、天皇中心の信仰共同体國家日本には全くそぐわない。天皇を中心とした信仰共同體である日本國は、権力支配組織ではない。だからわが國には西洋的主権論はあてはまらない。

 西洋法思想・國家思想である「主權」なる「概念」を、わざわざ成文法として日本國の憲法に規定すること自體、大きな誤りであり國體を隠蔽し破壊につながる。

 今日の多くの憲法学者やマスコミは相変わらず「國民主権」の「國民」を國民共同体という正しき意味で解釈せず、「君主と対立する人民」の意義にとって、「國民主権論」をわが國の國家伝統の破壊、共和制革命への突破口としようと躍起になっている。それが一般國民の常識となって浸透していることは実に以て根本的な非常識であり、國家存立の基礎を揺るがす凶事である。

『現行占領憲法』は、万邦無比の日本國體を隠蔽しているどころか、國體破壊の元凶なのである。天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体國家日本の成文憲法に「國民主権」を記す必要は全くない。

 繰り返すが、日本國という國家は、単なる権力機構・政治的支配機関ではない。もっと大らかにして神聖なる存在であり、精神的・道義的・信仰的・文化的存在である。人と人とが精神的に結合した共同體である。日本國はその生成の過程を見れば明らかな通り、天皇を祭祀主とする信仰共同體である。日本國は革命とか開拓によって人為的に造られた國ではなく、神が生みたもうた國であるという神話と信仰が古来からの國體思想である。

 國家を単なる権力機関として見ると、國家の神聖性・道義性が隠蔽され、日本國の文化も、伝統信仰も、文化も、道義も、全て権力機関としての國家の下に置かれ、その支配を受けなければならなくなる。そして権力機関としての國家のみが前面に出て、国家が國民と対立し、やがて國家の中で権力と國民の闘争が日常化する。現代日本は、まさにそうした状況に置かれつつある。

 今日においてさらに重大な問題は、日本國天皇の祭祀という共同體國家日本の存立の基本である<天皇の祭祀>が、憲法の制約下に置かれるようになっていることである。

 憲法に、日本の國柄に反し天皇の御本質を正しく表現していない「天皇条項」がある事は早急に正されねばならない。天皇中心の日本國體を正しく成文化した憲法を回復すべきである。

 日本の伝統的國家観・君主観とは絶対的に相容れない原理で成り立っている『現行憲法』が長く続けば続くほど、麗しい伝統的な日本の國柄が隠蔽され破壊され続けることとなる。これが現代の混迷の根本原因である。

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千駄木庵日乗十二月二十七日

午前は、諸事。


午後からは、在宅して、新年を迎える準備、資料整理など。

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今日思ったこと

拓殖大学・大東文化大学卒業の国会議員は逮捕起訴されるが、東京大学法学部卒のエリート官僚、エリート議員はなかなか逮捕起訴されない。これが不思議。

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この頃詠みし歌

反権力であるはずのマスコミは検察や警察情報をそのまま垂れ流す 参議院のドンと言はれし政治家も検察権力に見事に潰さる 被疑者の人権などは頭の片隅にもないと大声で言ふ元検事の弁護士 完全黙秘を続けても絶対に有罪にすると元検事はにこやかにテレビで語る 検察は絶対正義なりやと思ひつつ昨日今日のニュースを見てをり 厚生労働省の女性官僚は証拠をでっち上げられたことを忘れることなかれ

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福島香織氏(ジャーナリスト)による「米中新冷戦構造と台湾―そして日本の対応は―」と題する講演の内容

四月二十七日に開催された『アジア問題懇話会』開における福島香織氏(ジャーナリスト)による「米中新冷戦構造と台湾―そして日本の対応は―」と題する講演の内容は次の通り。

「米中経済対立は地域覇権闘争。かつての米ソ対立と同じになる。変化のきっかけになる。国家安全上大きな影響を受けるのは日本。中国はアメリカに対抗して世界の半分を支配しようとしている。清朝時代の世界への影響力は物凄いものがあった。それくらいまで影響力を広げたいという夢が習近平の『中華民族の偉大なる復興』。米極一極世界がそろそろ終わる節目にあると習近平は言いたい。本当はアメリカにとって代りたい。世界を二つに分けて支配したい。オバマに会った時、新型二国間関係をつくろうと言った。オバマはそれを無視。ハワイで中米による太平洋二分割論を言い出した。中国は二〇一〇年にGDP世界第二位になった時、アメリカと肩を並べる大国になったと思った。

中国の考え方・価値観はアメリカ・日本など西側世界と全く違う。中国では下部組織は上部組織に逆らってはいけない。毛沢東時代に戻ってきている。完璧なヒエラルキーの構造。中国海軍の実力は伸びている。

十年前は中国はアメリカと対等に渡り合える実力はないと思っていたが習近平時代にアメリカと対抗できる軍に変ったと思っている。アメリカは、中国の国力を今潰しておかないとアメリカのトップの地位は奪われると思った。それでアメリカは貿易戦争を仕掛けた。中国経済は急激に発展したので非常に脆弱。アメリカは一帯一路を潰してやろうと思っている。

一帯一路は十九回党大会で党規約に書き込まれた。高速鉄道計画は軍事目的。中国国内を兵隊を移動させるためである。一帯一路は地域社会貢献のためにやっているのではない。日本は国際社会で信用が高い。日本は参加しなかった。

中国はハッキングを使って他国の機密情報を奪うこともある。アメリカは5Gで中国をやり込めようとしている。アメリカは倫理ルールを自分に課しているが、中国にはそれがない。アメリカは一帯一路封じ込め作戦を日本と一緒にやっている。安倍さんはどういう立ち位置でアメリカと中国に対峙するのか。

台湾は米中の駆け引きの最重要なポイント。国民党が政権を取ると中台統一は可能になる。三権分立・法治のない國になる。国民党政権になると台湾は中国の一部になる。中国軍の基地が台湾に出来、中国は太平洋に進出できる。米中による太平洋二分割が視野に入る。

民意を問う選挙で台湾が中国を選んだら、日米は文句を言えない。米国在台湾協会は、米海兵隊が警備。武器庫のある要塞。米台軍事同盟が急速に強まっている。

中国はあざとい札束外交をしている。スワジランドとバチカンも台湾と断交するのではないか。台湾は国際機関からも排除されている。

日本は何故台湾に関心を持たないのか。二階幹事長などの日本の政治家は親中。拘束投獄された日本人の解放について何もとりあってくれない。日本は中国から何も引き出していない。中国に一方的に与えている。見返りはない。安倍長期政権のために、公明党と自民党内の二階・福田という親中派と妥協している。安倍政権の利益のために日本が一帯一路に協力すると後で大変なことになる。台湾が中国の軍事基地化する」。

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千駄木庵日乗十二月二十六日

午前は諸事。

午後からは在宅して、室内整理、、書状執筆、原稿執筆など。

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2019年12月26日 (木)

日本伝統信仰と現代

 わが國の麗しい山河、かけがえのない道統を重んじ、日本の伝統的な文化を大切なものとする姿勢を取り戻し、祖國日本への限り無い愛と、國民同胞意識を回復しなければならない。我が國は神話時代(神代)以来の伝統精神すなわち日本國民の歩むべき道というものがある。それに回帰することによって現代の混迷を打開すべきである。それ以外に道はない。

 

 それでは我が國伝統精神=日本人の歩むべき道とは何か。それを今日の正しく把握し歩むことが亡國的状況からの脱却すなわち現代の救済への道があると確信する。

 

日本伝統精神の根幹は、自然を大切にし自然の中に神の命を拝む心である。そして祖先を尊ぶ心である。つまりきわめて自然で自由で大らかな精神なのである。

 

 我々日本民族の祖先が有した人生や國家や世界や宇宙に対する思想精神は、誰かが説いた知識として独立的に存在しているのではなかった。神とか罪悪に関する考え方が、全て祭祀という実際の信仰行事と不可分的に生まれてきたように、抽象的な論理や教義として我が國伝統信仰の精神即ち神道を理解することはできない。我が國においては生活そのものの中に伝統信仰が生きているのである。

 

 わが國の伝統精神における最も大切な行事は祭祀である。祭祀は、自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の実践なのである。祭祀が自然を破壊し、人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると確信する。日本伝統精神の価値は今日まことに大切なものとなっている。

 

 天皇は日本國の祭り主であらせられる。天皇はわが國建國以来、常に國民の幸福・世の平和・五穀の豊饒を、神に祈られて来ている。天皇の御使命は、地上に稲作の栄える瑞穂の國を作られることにある。これが天皇中心の日本國體の根幹である。稲作生活から生まれた神話の精神を、祭祀という現実に生きた行事によって今日ただ今も継承し続けてきておられる御方が、日本國の祭祀主であらせられる日本天皇である。

 

 その天皇の無私の御精神を仰ぎ奉ることが、我が國の道義感覚の中心である。その天皇を中心とする信仰共同體が神話時代以来の日本國の本姿なのである。天皇中心の道義國家の本姿を回復する以外にない。

 

 天皇の祭祀において、わが國の伝統精神が現代において生きた形で継承され、踏み行われているのである。
わが國の神々とは天地自然の尊い命であり先祖の御霊である
 わが國の神は天津神、國津神、八百万の神と言われるように、天地自然の尊い命であり、先祖の御霊である。 

 

 今日、自然破壊が人間の心を荒廃せしめる大きな原因になっている。我が國の自然を大切にする心=自然保護の精神は、歴史的にも文化的にも『神社の森』『鎮守の森』がその原点である。我が民族の祖先は、古代から神々の鎮まる緑豊かな『神社の森』『鎮守の森』を大切に護って来た。

 

 それは鎮守の森には、神が天降り、神の霊が宿ってると信じて来たからである。鎮守の森ばかりではない。ふるさとの山や海に神や精霊が生きていると信じてきたのである。秀麗な山にも神が天降り、神の霊が宿っていると信じて来た。天皇の御祖先である邇邇藝命は高千穂の峰に天降られたのである。そして、富士山・三輪山・大和三山・出羽三山・木曾山など多くの山々は神と仰がれ今日に至っている。

 

 さらに、海の彼方にも理想の國・麗しい國があると信じた。それが龍宮信仰である。海は創造の本源世界として崇められた。

 

 我が國伝統信仰すなわち神道は、自然の中に生きる神の命と人間の命とが一體となって結ばれる信仰である。それと共に、自分たちの祖先の霊を崇め感謝し奉る信仰である。これを「敬神崇祖」という。

 

その最も端的な例が天照大神への信仰である。天照大神は、農耕生活にとって最も大切な太陽に神であられると共に、その太陽神を祭られる祭り主であられる「すめらみこと」=天皇の祖先神であられる。そして天照大神は日本民族の親神として崇められて来たのである。

 

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千駄木庵日乗十二月二十五日

午前は諸事。

午後からは在宅して、資料の整理、書状執筆など。

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2019年12月25日 (水)

昭和天皇が靖国神社にご親拝されなくなったのは昭和殉難者が合祀されたからではない

戦後の歴代総理大臣は在任中、公人として例年参拝してゐたが、昭和五十年八月、当時の三木武夫総理が総理としては初の「終戦記念日」の参拝の後、「総理としてではなく、個人として参拝した」などと愚かなるなことを言った。この事が、この後の靖国神社を巡る混迷の大きな原因となった。三木の責任は非常に大きい。

稲田朋美さんは、「昭和天皇が、最後に靖国神社にご親拝されたのは、昭和五十年十一月二十一日である。A級戦犯合祀と天皇陛下のご親拝の中止を関連付けて主張するものは、ぜひ参議院内閣委員会の議事録を読むべきである。これに先立ち三木元首相が八月十五日に靖国神社に参拝して『私的参拝』という奇妙な理論を持ち出した。これ以来『私的か公的か』という不毛の議論が始まった…この委員会でも社会党の議員らが次の日に予定されている靖国神社参拝について執拗に批判的な質問をし、天皇陛下の参拝が私的か公的かで激しいやり取りがなされている。このような状況を憂えて天皇陛下は委員会の次の日の参拝を最後に靖国参拝を中止されたのである」(『やすくに』平成十八年七月一日号)と論じてゐる。

昭和五十年十一月二十日の参議院内閣委員会で、翌十一月二十一日に行なはれた先帝昭和天皇の靖国神社ご親拝について、社会党の野田哲・秦豊・矢田部理の三議員が執拗に、当時の富田朝彦宮内庁次長(当時・後に長官となる。宮内庁長官は常時天皇陛下にお側で奉仕することを職務とするので、国会に政府委員として出席することはないといふ)を責め立てた。

その内容は、「天皇の御親拝は公的行為か私的行為か。私的行為なら宮内庁はどう関はるのか、警備や交通規制は行きすぎではないか」「憲法第二十条に違反するのではないか」「靖国神社問題が国会で論議されてゐる時に親拝するのは政治問題だ」といふものであった。

秦豊氏は、「あなた方によれば、私的行為の名のもとに天皇が靖国に参拝されるということは、どんな答弁、どんな強弁に接しようともわれわれは断じて認めるわけにいかない。つまりあなたに聞きたいのは、私的行為とあなた方がいかに強弁されようとも、天皇御自身が、自然人としての天皇なんてことを吉國長官あたりは言いそうだけれども、靖国に参拝すれば、実質的に表敬法案が先取りされる。これは一つの既成事実になりますよ。……三木さんは行った、あすは天皇だ。一つ一つがステップになるんですよ、踏み石になるんですよ、こういう問題については。あなた方はいかに宮内庁的感覚でわれわれに接しようと思っても、それを政治的に利用しようとする勢力は手ぐすね引いて待っているじゃありませんか。だから、あなた方がいかに言われようとも、あすの参拝というのは表敬法の先取りである、大きな政治問題である、自然人裕仁氏の自然行為ではない、私的行為というような強弁は聞けない」と主張した。

矢田部理氏は、「宮内庁長官や侍従長あるいは政府職員がこれに随行するようなやつは私的行為とは言えないんじゃないかという問題点も出されています。さらに、費用の使い方も問題だ。私的行為であるとするならば、純粋に天皇の個人資産から支出をすべきなんです。それを公の費用で賄うということもおかしい等々の点で、どうしても私的行為だという強弁には承服しがたいわけでありますが、もう一つ私が伺いたいのは、私的行為の場合にも、重大な制約、限界が天皇の場合にはあり得るのではないか」。

社会党が如何に皇室を敵視し靖国神社を敵視していたかを如実に示す質問である。かうした国会における社会党議員の追及が、富田氏及び宮内庁に大きな大きな圧迫となったことは確かである。信念に欠ける気が弱い富田氏は、「昭和天皇の靖国神社ご親拝をやめて頂かねばならない」と思ったのではないか。

事実、この国会論議の翌日に行はれた五十年十一月二十一日のご親拝を最後にして、先帝陛下の靖国神社ご親拝は行なはれなくなった。

社会党の野田哲・矢田部理・秦豊の三人による、昭和天皇陛下の靖国神社ご親拝についての悪辣にして執拗な「追及」に恐れをなした富田朝彦は、先帝陛下に色々な情報を申し上げて、先帝陛下の靖国神社行幸をお止め申し上げたのではないか。

そしてそのことを糊塗するために「A級戦犯云々」を『日記』に書いたと推測する。少なくともあの『富田メモ』なるものには富田の創作・富田の考へが混入されていることは確かであらう。『富田メモ』に書かれてゐることはあくまでも、富田氏の聞き書きであり、先帝陛下のお心を誤りなく伝へているとは決して言へない。

現行体制下の宮内庁長官は、政治権力者と対等にものを言へる立場ではない。それが皇室の政治利用が行はれる原因である。そして国会で国賊議員からとっちめられれば、天皇陛下の靖国神社御親拝も行はれなくなる。天皇陛下の側近中の側近が政治家に顎で使はれたり、国会議員に恫喝されるやうでは、天皇・皇室を政治権力からお護りする事は出来ない。

メディアなどの皇室冒瀆に対処するためだけではなく、政治権力によるいはゆる「皇室の政治利用」「皇室への圧迫と干渉」を防ぐために、天皇の輔弼体制の強化がなりより大切である。『現行憲法』下においても宮内庁長官は認証官であり、政治権力者の部下ではない。

「選択」という雑誌の平成十七年六月号掲載の『藩屏不在』という記事には、皇室に関して次のような重大な指摘がなされていた。

「政府に遠慮しなかった(二十五年にわたった宮内庁長官を務めた)宇佐美に閉口して、官邸がコントロールしやすいように、宇佐美の後の宮内庁長官を官僚の一ポストに過ぎなくした…入江(相政氏・半世紀にわたって先帝昭和天皇にお仕えした人)の実力に政治家も手が出せなかった。…宇佐美の後任、警察官僚の富田朝彦は次長四年、長官を十年勤めたが決断が鈍く、『小型』官僚の典型であった」と書いている。

後藤田正晴が警察庁長官の時、富田氏は警備局長だった。富田氏の宮内庁入りは直属の上司だった後藤田正晴の人事であることは間違いない。富田氏が警備局長の時、「あさま山荘事件」が起こった。解決にあたった佐々淳行氏は、「あさま山荘事件」についての自著で、富田氏のことを「不決断の警備局長」と断じて批判した。

天皇陛下の側近が政治家に顎で使われるようでは、皇室を政治権力からお護りする事は出来ない。戦前は、総理経験者などの「元老」「重臣」が輔弼の臣として天皇をお助けした。宮内大臣、内大臣もいた。これらの人々は総理と同格あるいはそれ以上の人々で、政治家に顎で使われるなどということはなかった。だからこそ、皇室の藩屏の役目を果たすことができたのである。富田氏は、宮内庁長官時代、元の上司・後藤田正晴に対等にものが言えるという立場ではなかったであろう。部下同然に対応されたのではないか。

戦後は、占領軍に日本弱体化政策によって、元老、重臣、宮内大臣、内大臣、宮中顧問官などは廃止され、六千人以上の職員がいた宮内省も宮内庁に格下げとなり、職員も千人程度に減じられた。

戦後体制からの脱却は、憲法・教育・国防のみならず、皇室制度においてこそ実現されなければならない。宮内庁の省への昇格と、機能と権限の強化が望まれる。宮内大臣には、官僚あがりではなく、総理経験者以上あるいは同等の人が就任すべきである。

永田忠興氏は、「『天皇の祭祀』の改変・簡略化の原因は、他の省庁のキャリア官僚が宮内庁に集まるようになり、それまでの伝統を重んじる宮内庁ではなくなったことにある。特に、昭和四十九年十一月に内閣調査室長から宮内庁次長となり、同五十三年に長官になった富田朝彦氏がその元凶である」という意味の大変重要なことが語られた。

富田朝彦氏は、宮内庁次長の頃、宮内庁病院で当時掌典職であった永田忠興氏に話しかけてきて、「僕は、無神論者なんですよ」と言ったという。そして、富田氏は長官になった後、陛下の側近中の側近でありながら、宮中最大の重儀である新嘗祭をはじめとする大祭に、皇族方や三権の長が参列するにもかかわらず、参列しないことが多かったという。

神々を祭る宮中祭祀に奉仕する役目の「掌典職」にわざわざ「私は無神論者だ」などと言うのは、富田氏は単に無神論者であるというだけでなく、天皇の最も大切なご使命であり日本國體の根幹である「宮中祭祀」を簡略化することが正しいと信じていたとしか考えられない。

このような人物が宮内庁長官になったことが後の皇室に関わる重大事の原因となった。富田氏は、昭和天皇が宮内庁長官であった富田氏に語られた『お言葉』をメモに取り、自宅に秘匿した。そして富田氏の遺族はそれを『日経』に売った。

無神論者・富田朝彦は文字通り「神を恐れぬ人物」であり、且つ、稀代の君側の奸、不忠の臣である。

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千駄木庵日乗十二月二十四日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆の準備。

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2019年12月24日 (火)

靖国神社について

昭和天皇陛下そして、先帝陛下は、昭和殉難者が祀られてゐても、靖国神社の春秋の例大祭に勅使を差遣されてきた。これが歴代天皇の大御心であると拝する。

また毎年終戦記念日に武道館で行はれてゐる「全国戦没者追悼式典」で追悼の対象となる戦没者には昭和殉難者も含まれてゐる。昭和天皇、先帝陛下は、「全国戦没者追悼式」に御親臨あそばされ、慰霊の誠を捧げられてゐる。「A級戦犯がどうのこうの」と論ずる余地はない。

昭和天皇・先帝陛下は、昭和殉難者の靖国神社合祀を否定されたのではない。まして、靖国神社を否定されたのでないことは明々白々たる事実である。このことは、靖国神社に勅使を差遣されてゐた事に正しく示されてゐる。

以前、運動の先輩が「靖国神社に祀られてゐる神は、神話の神様でもなければ偉人聖人でもない。普通一般の庶民である。多くは農民であり、市井の一般庶民である。中には前科者もゐただらう。ヤクザもゐただらう。聖人君子ばかりだったわけではない。戦争で斃れた人々即ち国の爲に命を捧げた人々の御霊が祀られてゐるのだ」と話されたことを聞いて感激したことがある。

靖国の英霊とは国の爲に殉じた尊い御霊なのである。戦勝国の復讐によって「処刑」されたり「獄中死」した殉難者が祀られてゐるから「参拝しない」とか「祭神から取り外せ」などといふのは余りにも理不尽である。昭和天皇・先帝陛下がそのやうな御心をお持ちになってゐたなどといふ事は絶対にあり得ない。

昭和殉難者について昭和天皇はかう仰せになってゐる。
「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」(木戸幸一日記・昭和二十年八月二十九日)
「戦犯といえども米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」(同・昭和二十年十二月七日)〉
「戦争の責任は全て私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする」(マッカーサーとの会見・昭和二十年九月二十七日)

さらに昭和天皇陛下は、東條英機元総理について「東条は平沼から云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、ただ真相を明らかにして置き度いから、之丈云つて置く。」(『昭和天皇独白録』・文藝春秋刊)と仰せになってゐる。

東條由布子さんは「昭和天皇さまからは東条はいろいろなお気遣いを賜っておりました。昭和二三年一二月二三日に七人が処刑されて以来、毎年、祥月命日には北白川宮家から陛下のお使いの御方が見えられ、御下賜の御品を頂戴し、また“東条の家族は今どうしておるだろうか?”というお言葉まで頂戴しておりました。祖母からその話を聞きました時は、感動で胸が一杯になったことを覚えております。ですから、陛下が“富田メモ”にあるような事を言われる御方とはとても思えないのです」と語ってゐる。

昭和天皇陛下が、昭和五十年のご親拝以降靖国神社にご親拝されなくなったのは、昭和殉難者が合祀されたからであるいふことはあり得ない。昭和天皇陛下は、東條英機氏などの昭和殉難者に対して悪感情を持ってをられたなどといふことはあり得ない。

先帝陛下も同様であると拝し奉る。先帝陛下におかせられても、靖国神社に勅使を差遣され、『全国戦没者追悼式』にご親臨あそばされてゐる。また、南部利昭宮司が就任する際、先帝陛下から特に御依頼がありお受けしたと承ってゐる。先帝陛下におかせられも昭和殉難者が祀られてゐるからといって、靖国神社を尊崇してをられないといふことはあり得ない。むしろ靖国神社を尊崇し御心配になってをられると拝察する。

天皇陛下だけでなく、皇族方もずっと機会あるごとに何のわだかまりもなく靖国神社に参拝されてゐる。古賀誠などの政治家の中に、「皇室の方々もお参りできるための対応こそ、我々がやらなければならない」と述べる人がゐるが、こんなことを言ふのは、昭和殉難者を分祀しなければ皇族が参拝されることができない状況を作り出さうとしてゐるとしか思へない。

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千駄木庵日乗十二月二十三日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、資料整理検索、原稿執筆の準備、『政治文化所恵法』発送準備など。

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2019年12月23日 (月)

「天の岩戸」神話について

伊耶那岐命に「海原を治めなさい」と命じられた須佐之男命は「母のいる黄泉の国へ行きたい」と泣きわめいたので、伊耶那岐命に追い払われてしまった。そこで須佐之男命が黄泉の国へ行く前に天照大神のところへ挨拶に行こうと天に上っていくと、山川が鳴り騒ぎ国土が振動したので、天照大神は天上の国を奪いに来たのだと思われる。須佐之男命はそんな心は持っていないと言われた。そこで、二神は、誓約(うけい・どちらが正しいかを判断する神秘的な行事)をした。

その結果、須佐之男命が勝ったので須佐之男命は勢いにまかせて大暴れする。すると天照大神は天の岩戸にお隠れになってしまう。そこで八百万の神々は色々な方法を用いて、天照大神を岩戸から引き出す。そして須佐之男命は天上の世界から追い払われて出雲の国にお降りになる、という物語が「天岩戸神話」である。 

天照大神は須佐之男命の田を壊したり溝を埋めたり御殿に糞をするという様々な御乱行(荒ぶる行為)に対して「糞のように見えるのは酔って吐いたのでしょう。田を壊し、溝を埋めたのは大地をいたわってのことでしょう」と善いように解釈されて最初は咎められなかった。これを「詔り直し」という。悪い行為を善い意味に解釈することである。

「詔(の)る」とは言葉を発するという意であり「直す」悪いことを善くすることである。日本民族は本来、悪を固定的に考えないし、他人の長所を見て短所を細かくあげつらわないのである。これは言霊(ことだま)による浄化・善化・光明化である。邪悪なものを言霊によって直すことが「詔り直し」である。

天照大神が天の岩戸の隠れることについては、次のような解釈がある。一つは日蝕説であり、もう一つは冬至説である。

太陽が欠けていくことは古代人にとってとりわけ農耕民族の日本人にとって恐ろしいことであったに違いない。また日照時間がどんどん短くなっていくことも気持ちのいいものではなかったろう。そこで太陽の再生・新生を祈る祭りすなわち微弱化した太陽を更新する宗教儀礼が行われたと思われる。それが天の岩戸前における八百万の神々の祭事だといわれている。

八百万の神々は長鳴鳥を鳴かせたり、鏡や勾玉が沢山ついた玉の緒のついた榊を作ったり、布刀玉命が占いをしたり、天児屋命が祝詞を唱えたり、天宇受売命が神懸りして踊るなどのお祭りをし、「天晴れ、あな面白、あな楽し、あなさやけ、おけ」と大笑いし大騒ぎをした。天照大神が不思議に思って岩戸を少し開けて覗かれると、「あなたより尊い神がおいでになります」と言って、手力男命が手を引いてお出しするのである。

中西進氏は「知力、呪力、体力、技術力、笑いの力というもろもろの力が集められており、これ以上盛大な祭儀はないというほどであった。太陽の子孫を称する天孫族の日招き神話の詞章として、まことにありうべき壮麗さである。…笑いはもっとも旺盛な呼吸活動であり、『生きる』ことの極上の状態を示す。失われた太陽を復活させるための、貪欲な模擬行為といえるだろう。天孫、天皇家のもっとも大事な祭儀と考えられた理由もよく理解されるところである」(『天つ神の世界』)と論じておられる。

日本人は太陽神たる天照大神を主神と仰いだ。だからすべてにおいて明るく大らかな民族である。前述した「見直し聞き直し詔り直しの思想」もここから発する。ただ明るく笑いに満たされた歓喜の祭りによって神の再生・再登場が実現する。これが他の宗教は厳しい修行や悔い改めをしなければ神に近づくことができないというのとは全く異なる日本伝統信仰の誇るべき特徴である。

そしてその祭儀は太陽のもっとも衰える冬至に行われた。冬至は農耕民族たる日本人にとって「古い太陽が死ぬ日」であり「新しい太陽が誕生する日」であった。天照大神の岩戸隠れは太陽の衰弱であり、天の岩戸よりのご出現は新しい太陽の再生なのである。

この「天の岩戸神話」には日本の踊りの起源も語られている。すなわち天宇受賣命が「天の石屋戸に覆槽(うけ)伏せて踏みとどろこし、神懸りして、胸乳掛き出で、裳の緒(ひも)を陰(ほと)に忍し垂りき」(伏せた桶の上に立ってそれを踏み轟かせながら神懸りして乳房を出して裳の紐を陰部に垂らした)と記されているのが舞踊の起源なのである。桶を踏み轟かせたというのは大地に籠っている霊を目覚めさせそれを天照大神のお体の中にお送りすることであるといわれている。

神懸りとは宗教的興奮状態のことである。つまり舞踊の起源は神を祭るために神の前で興奮状態になって舞い踊ることであった。これを神楽という。天宇受賣命は舞踊を含めた日本芸能の元祖ということなのである。 

祭事とは共同体における霊的心理的宗教的な営みの中でもっもとも大切なものである。それは生命の更新・再生であるからである。つまり新たな生命の始まりが祭事によって実現する。

祭事は物事の全ての原始の状態を再現復活せしめるのである。一時的に生命が弱くなることがあっても、祭事によっていっそうの活力をもって再生する。それは稲穂という植物の生命は、秋の獲り入れ冬の表面的な消滅の後に春になると再び再生するという農耕生活の実体験より生まれた信仰である。

そしてこの稲穂の命の再生は、天照大神の再生と共に行われる。さらに天照大神の再生は人々の知力・呪力・体力・技術力・そしてたゆまぬ努力と明るさを失わぬ精神によって実現する。こうしたことを象徴的に語っているのが「天の岩戸神話」である。  

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千駄木庵日乗十二月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、書状執筆、『政治文化情報』発送準備、原稿執筆。

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2019年12月22日 (日)

萬葉古代史研究會

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 令和二年一月八日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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2019年12月21日 (土)

本日行われた講演における興味深い話。

本日行われた講演における興味深い話は次の通り。

 

 

「私の立ち位置は、韓国人に歴史認識を改めて頂けないと日韓関係に進展はない。日本が韓国にたくさんの金を投入したことを有難いと思って貰う以外にない、ということ。こう言ったら、『朝まで生テレビ』と『朝日新聞』から嫌われた」。

 

「自分たちの選択で日本にお任せしますと言ったのが『日韓併合』。韓国人は日本に支配された事ばかりでなくこのことに自信を持ってもらいたい」。

 

「韓国は日本が輝きを失うと簡単に中国に乗り換えた。韓国には十九世紀以来一貫した歴史観がある。大きなものに仕えるという『事大主義』」。

 

「日本は多くの資材を韓国に送り込んで韓国を近代化した。これを否定するのはあまりにもひどい」。

 

「北朝鮮の体制は崩壊すると言われていたが、なかなか崩れない。そのことを前提にすべし」。

 

「日本には三十五年間朝鮮を経営し得たというノウハウがある。日本は主体的に考えていきたい」。

 

「韓国には南北統一して日本とアメリカを見返してやるという民族主義がある。この感情はふだんの世論調査には出て来ない別の動き」。

 

「中国の一帯一路は海で苦労する。アメリカの海軍力がある」。

 

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千駄木庵日乗十二月二十八日

午前は、諸事。

午後二時半より、内幸町の日本プレスセンターにて、「アジア問題懇話会」開催。武貞秀士拓殖大学大学院客員教授が「米朝・南北・日韓関係を讀む」と題して講演。質疑応答。

帰宅後は、書状執筆など。

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祭祀が自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する


原子力開発が「自然の摂理」に歯向かふものであり絶対的な悪であるかどうかは、私には分らない。しかし、日本人のみならず現代の人類は、自然を破壊し自然の摂理に逆らって文明の進歩発展・経済発展の道をひたすら突っ走ってきたことは確かである。

近代以後、科学技術の進歩発展によって、人間生活が快適になると共に、自然を神・仏・精霊として拝み、愛し、畏れる心が希薄になってしまった。自然を征服しようとか、自然を造り替へようなどといふ文字通り「神をも恐れぬ考へ」を捨てて、自然を愛し、自然の中に神仏の命を見る心を回復しなければならない。つまり、神々を祭る心の回復が大切である。古代日本の信仰精神に回帰しなければならない。荒ぶる神も祭祀によって鎮めることができるのである。

自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切である。太陽の神・大地の神・海の神・山の神・水の神など、ありとしあらゆるもの、生きとし生けるものを、神と崇める日本伝統信仰に回帰することが今一番求められてゐる。

自然保護・自然との共生は、法令や罰則の強化による以前に、日本人が本来持ってゐる信仰精神を回復し今日に蘇らせることが自然保護の最高の方策である。法令や罰則の強化は必要ないとは言はないが、それ以前に、自然に宿る神や霊魂を畏敬する心を復活することが大切である。人間が自然を支配し造る変へることは正しいとする人間中心思想を脱却するにはこうした信仰精神に回帰するしかない。

自然保護・自然との共生は、自然の中に宿る生命と人間の生命とが本来一体であるといふ信仰的真実を実感し、自然を畏れる心を大切にすることによって自然に実現するのである。

武智功氏(奈良新聞取締役)は近著『記紀に見る日本の神々と祭祀の心』において次のように論じてゐる。「混迷の時代には原点に帰れと言われている。今こそ私たちは『記』『紀』の神話や、その息吹が今も息づく各地の祭りなどに、日本の原点を学ばなければならない」「万物に神が宿るという思いは、一神教に見られる人間が自然を支配するという考えとは異なり、地球環境問題を考える上で大切な思いである。自然を神と置き換えれば、現代人はまさに神をも恐れぬ存在になっている」。

中河与一氏は次のように論じてゐる。「私はいまさらのように東洋に遍満している汎神論、すべてのものの中に神を見るという思想――それこそが今日の文明のゆきづまりを打開するものではないかと考える。科学文明を否定せよとはいわぬが、それがもっている性格を充分理解して、新しい観念を樹立しなければならぬ時代に入っている」「日本の神話の中にある天皇は祖先神であって、神であって、同時に人間であるという考え方に立っている。神話の発想の中にあるものは、地上におりて来て地上をしろしめすことであって、『豊葦原の中つ國は吾が児の王たるべき地なり』とあるように、それが地上の君主として今日につづいている。それはシナイ山の山頂でモーゼが神と契約する苛烈な条約とはちがう」「古来日本の皇室は、無所有の神聖ということをもって国を治め、徳を建てることによって連綿として皇統を維持した。ヴェルサイユやマドリードの宮殿にあった構想はかけらさえなかった。それは覇者としての威圧や誇示ではなく、皇祖の遺訓の中に生きようとした形態としか思えない。もしそれを美しいとすれば、これほど美しい宮殿は世界のどこにもない」(評論集『森林公園』・昭和四十七年刊)。

今日の日本人は「まつりの心」を回復しなければならない。宮中祭祀を中核とする日本の祭祀は、自然神と祖霊神を祭祀する行事である。自然を尊ぶ日本人の伝統精神の最高の継承者・実践者が天皇であらせられる。日本の神話は、「天皇の祭祀」によって生きた現実として太古より今日まで継承されてきてゐる。世界に国家多しといへども、古代祭祀が建国以来、国家元首によって継承され続けてゐる国は日本のみである。

宮中祭祀は、日本民族の傳統的世界観・国家観・人間観・神観が示されてをり、日本文化の中核である。そして、文化・文藝・政治・経済・宗教など人間のあらゆる「いとなみ」を聖化し「いとなみ」の模範となる行事である。

イデオロギーや特定の教義によるのではなく、自然と共に生きるといふ日本傳統信仰を回復し、自然と人間に宿る生命を護る態度を養ふことが大切である。宮中祭祀を中核とする日本傳統信仰の祭祀こそ、その原基である。

宗教には、救済宗教と祭祀宗教の二つがあるといはれる。そしてキリスト教が救済宗教で、神道は祭祀宗教であるとする。しかし、祭祀は自己の罪穢れを祓ひ清め神と一體となる行事である。救済宗教の役目も持ってゐる。

「祭祀」および「直會」は、神と人との一體感を自覚する行事であると共に、それに参加する人々同士の一體感も實感する行事である。お互ひに神と一體となりお互ひが一體となる「まつりの精神」が世界に広まれば世界は平和になる。魂的信仰的一體感が、世界人類の交流と共存の基盤となる。まつりが世界で行なはれるようになれば世界は平和になる。まつりの世界化が大切である。

現代に生きる人々は、自然の中に生きたまふ神々、そして祖霊への感謝と畏敬の念を回復すべきである。近年大きな自然災害を経験してゐる日本人は、このことに目覚めなければならない。真の意味で自然との共生を実践できる日本伝統信仰を根底に置いて生活することが、日本人が生き延びる道である。

全てに神佛の命を見る日本伝統信仰への回帰が現代の混迷を打開する。「日本の神々と祭祀の心」に回帰することが現代の日本を救ふ方途であると確信する。自然と人の命を拝み、自然と人の命を大切にする精神の實践である祭祀が、自然を破壊し人の命を軽んずる現代の状況を救済し打開する原理となると確信する。

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千駄木庵日乗十二月二十日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、資料の整理など。

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2019年12月20日 (金)

天皇國日本の生成は祭祀による統合である

わが國は、「豊葦原千五百秋之瑞穂國」(トヨアシハラノチイホアキノミヅホノクニ)と言ふ。トヨは美称。チイホアキは千年も五百年も長く豊作が続くといふ意。ミヅホは瑞々しい稲穂が稔るといふ意。稲作國家日本を祝福した言葉である。つまり、この國土に生活する人々は稲作生活を基本としてゐる。稲作生活において共通の生活意識を持つやうになり、同一の祭祀や文化や言語を育むやうになった。

稲作は、本来一人で行はれることはない。田植ゑにしても刈り取りにしても共同作業である。さうした共同作業が周期的に繰り返されてゐる。また、先祖から伝へられた農作業の技術や耕された耕地を継承して行はれる。そして、豊作を祈り、感謝する行事である「まつり」が周期的に行はれてゐる。それは自然への祭祀と共に祖霊への感謝のお祭りである。かくして信仰共同体・祭祀國家が生成したのである。

その祭祀國家の基本にあるのは、共同体の中に生きる民衆の精神的物質的福祉即ち幸福を希求する精神である。民衆の福祉實現といふ根本的目的のために、祭祀が行はれ、その祭祀を中心として共同体が生々発展した。そしてその祭祀の中心的執行者が天皇である。古代においては、祭祀主と政治的統率者は一体であった。これを「祭政一致」と言ふ。

日本國を「ヤマト」と言ふ。高崎正秀氏は、舒明天皇の國見歌を論ずる論考で、「ヤマトといふトとは神座を指す意味を持ってゐるから、山の神事を行ふ座席――山の神座(カミクラ)――それがヤマトではなからうか。そこで行はれる神事儀礼呪術の威力の及ぶ範囲が同時にヤマトと呼ばれ、これが次第に國名になり、日本総國の國号にまで拡大されて行く」(『國見歌の傳統と展開』)と論じてゐる。

「大和」の語源は、「祭祀が行はれる山へ入り立つ口」即ち山の門(と)であり、山の門を抜けると広い平原=磯城平原に出る、そこを「やまと」と言ったといふ説もある。つまり、「やまと」とは「ヤマ・ト」(山の門=山の入口・「港」はミナ・ト即ち水の入口といふ)といふ意味である。いづれにしても、「やまと」とは、日本天皇に祭祀よって統合された範囲の地を指すのである。天皇國日本の生成は、祭祀による統合なのである。

要するに、日本國家の成立は日本列島各地に存在した多くの祭祀共同体を統一する祭祀的統一であった。その祭祀的統一者・祭祀主が天皇である。日本國家統一の原基は、武力や権力による抑圧的支配ではなく、祭祀主の神聖権威である。祭祀主たる天皇は國民と自然と神とのむすびの役目を果たす。

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千駄木庵日乗十二月十九日

午前は、病院に赴き、検査と診察を受ける。大変な混雑。本日の予約は四千五百人とのこと。午前中で受診を終え、薬を購入して帰宅。

 

午後からは、在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備。

 

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2019年12月18日 (水)

日本民族の歴史的一貫性、理想、道義、倫理性、傳統を継承し体現するのが真の日本國家である

いはゆる自由民主体制は、國民一人一人の高い倫理精神が土台になってゐなければならない、さうでなければ、闘争・破壊・腐敗が蔓延し、國民の幸福は實現しない。

ドイツの哲学者ヤスパースは、「自由というものは、神とも道とも涅槃とも、大きな充實した空とも、本然の存在とも呼ばれる超越的存在を私たちが経験する場所としてのみあり得ます」と語ったといふ。(昭和二十七年日本ヤスパース協会への「年頭の辞」・武藤光朗氏著『革命思想と實存哲学』より引用)

道義精神・倫理観のない國家は、権力組織に過ぎない。日本民族の歴史的一貫性、理想、道義、倫理性、傳統を継承し体現するのが真の國家である。さういふ國家に対してこそ、愛國心・國家意識が湧く。愛國心・國家意識は、共に懐かしむことができる歴史意識、傳統精神、道義精神、神話を持つことによって育まれる。

わが日本國民の生活は本来、精神的にも物質的にも、悠久の太古より継承された歴史・傳統・祭祀・信仰に積み重ねの上に形成されてゐる。グローバル化時代などと言はれてゐる今日こそ、その事を正しく認識すべきである。祭祀國家日本の本姿開顕、信仰共同体へ回帰してこそ、真の自由・真の民主政治が實現し國民の幸福が達成できる。

わが國は、ある特定の時代に人為的に作られた國家ではない。神話時代より継承されてきた神聖なる國である。「成文憲法」には、この事が正しく書かれてゐなければならない。

日本の國生み神話は、無名の大地の生成ではなく、國土の生成であるところに大きな意義がある。伊耶那岐命・伊耶那美命による國土生成の神話は、大八島國といふ統一した國土が生まれる物語である。そしてその中心の神が、天照大御神であり、天照大御神の靈統の継承者・地上における御代理が日本天皇である。

日本國民の天皇に対する帰属意識は、権力・武力に対する恐れに基づくのではない。従って、西洋傳来の「成文憲法」が「権力への制限規範」であるのならば、さうした「成文憲法」に権力者では本来あらせられない天皇に関する「条項」があること自体不自然と言へる。現御神・祭祀主であらせられる天皇陛下の御本質への回帰が第一であり天孫降臨・神武建國以来の道統を開顕する事が最も大切である。皇室の御事及び憲法はそこから考へねばならない。

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千駄木庵日乗十二月十八日

午前は、諸事。

午後一時半より、三田にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。この後、六本木にて忘年会。同志諸氏と懇談。

帰宅後は、書状執筆・資料整理など。

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2019年12月17日 (火)

伝統と革新第三十四号

オピニオン雑誌『傳統と革新』第三十四

 たちばな出版発行 四宮正貴責任編集

[特集]常軌を逸した韓國の反日にいかに対処するか

~朝鮮半島の動向と日本の安全~

巻頭言

「朝鮮併合は侵略であり、朝鮮に計り知れぬ惨害と苦痛を強いた」と祖國を貶めることは許されない                        四宮正貴   

インタビュー

東アジア外交ー東京裁判史観からの脱却が根本課題である   松原 仁 

妄想ばかりの隣國には、客観的事実に基づいて粛々と対処すべき 城内 実

反日を叫び続ける韓國に未来はあるのか         呉 善花 

論文

佐藤優の視点

日韓関係の悪化と地政学的変動             佐藤優 

我が國を「戦後体制」に閉じ込めて、中共を喜ばせ、 

戦争を招きよせる「日本國憲法」から脱却せよ      西村眞悟  

闘うことこそが求められている             荒木和博  

朝鮮半島問題で日本がすべきこと            武貞秀士 

日韓の「歴史問題」の処方箋              下條正男 

日韓國交正常化の過程での竹島領有権の対立

竹島問題は話し合いでは絶対に解決できない       濱口和久 

韓國反日思想の原点                  阿部正寿 

朝鮮における「全國中等学校優勝野球大会」       村田春樹 

日本人引揚者に対して何をしたか

朝鮮人の反人道的蛮行                 岡村 青 

日本武尊は誰であったか(後篇)            田中英道 

「聞き書き」

朝鮮半島の赤化統一を阻止すべしー

共産化に突き進む韓國・文政権の正体          崔 三然 

連載   

「やまと歌の心」                 千駄木庵主人  

石垣島便り28

東南アジア諸國戦没者慰霊祭の旅   

参加した若い人の笑顔が救いだった           中尾秀一 

戦後ポツダム体制という「植民地」から脱却すべし!   木村三浩 

「憂國放談」第六回

即位の礼正殿の儀の感激                犬塚博英 

「伝統と革新」バックナンバー一覧                

取り扱い書店様一覧                       

編集後記                                      

   価 本體価格1000円+税。 168頁                  

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日本共産党の本質

 

日本が日露戦争に勝利したことにより、帝政ロシア=ロシア帝國は衰退し、共産革命(いはゆる十月革命)が起こった。これでロシアの世界侵略の野望が途絶えたかといふと決してさうではなかった。ロシアとって代ったソ連は「國際共産主義運動=世界赤化、万國の労働者団結せよ」を合言葉・スローガンにして世界侵略支配の野望を益々たぎらせた。

そして、共産主義・ソ連の世界侵略による殺戮の歴史が開始された。我が國におけるその手先が日本共産党などの日本國内の共産主義革命集団である。

日本共産党は、國際共産主義運動の指導組織と言ふよりも、世界共産化・ロシアの世界侵略の謀略組織たるコミンテルン日本支部として大正十一年(一九二二年)に創立したのである。日共は創立当初から大侵略國家ソ連の手先であり出先機関なのである。

日共はソ連・共産支那・北朝鮮などの共産主義独裁國家・全体主義國家と同根の政党であり本質は全く同じである。日共はソ連の世界共産化謀略組織「コミンテルン日本支部」として創立した政党であり最初から共産主義侵略國家の手先なのだ。

それは日本共産党自身が「日本共産党は、一九二二年(大正十一年)七月十五日、コミンテルンと片山潜の援助のもとに創立されました」(『日本共産党の四五年』)「日本共産党は、…十月革命の影響のもとに、創立されました」(日本共産党中央委員会出版局一九七三年発行『共産主義読本』)と書いてゐる通りだ。

さらに、日本共産党創立時にその準備段階から参画し、中央委員となり、綱領作成に携った鍋山貞親氏は、その著書『共産党をたたく一二章』において、「日本の共産党は、一九二二年に成立して以来、四十四年近くの長きにわたりソ連に完全従属して来たことは、否み得ぬ事実である。党の憲法ともいうべき綱領を、よく顧みるがよい。一九二二年、創立した時の綱領はモスクワ製である。ニコライ・ブハーリンが書いて、日本に与えたものだ。次いで第二回目の綱領、いわゆる二七年テーゼもソ連製である。…第三回目の綱領、天皇制打倒を真向うにふりかざしたそれは、文字通りモスクワ製であり、しかも一方的押しつけである。…時を経て、一九五一年に打ち出された第四回目の綱領はどうか。この綱領は端的な暴力革命を指示した点で、有名なのだけれど、これまたモスクワ製である」「革命のための綱領を押しつけるだけではない。それに基づく活動に必要な資金をまかなわれてきたことも事実である。…世間一般が共産党をしてソ連の手先だと見たのも、決して見当ちがいではなかったのである」と。

ロシア十月革命直後の二年間で粛清・処刑された人々は一百万人と言はれる。そしてアジア・東欧・アフリカなど全世界における共産主義革命侵略闘争による犠牲者は一億七千万人に上ると推計されている。(ニューヨーク市立大学アルバート・ウィークス教授の推計)共産支那の「文化大革命」といはれる毛沢東による政敵粛清・自國民虐殺、ガボジアのポルポトによる人民虐殺を加えるともっともっと多くなるであらう。

國際政治学者のズビグネフ・ブレジンスキーは「二〇世紀における人類の共産主義との遭遇ほど、無意味で大きな犠牲を引き起こしたものはなかった」と述べている(『大いなる失敗』)。

ブレジンスキーによると、ソ連で殺戮された人の数は、革命期処刑者100万人、革命後処刑者200万人、貴族資本家等100万人、富農階級500万人、強制移住死亡者1千万人、粛清された共産主義者100万人、中國や東欧で失われた人命を加算すれば5千万人を下らないという。

同様にユン・チアンとジョン・ハリデイは『マオ』で、『毛沢東は、七千万有余という数の國民を平時において死に追いやった』、ステファヌ・クルトワとニコラ・ヴェルトは『共産主義黒書』で『ソ連二千万人、中國六千五百万人』が粛清・殺戮されたと述べている。

日本共産党の党員は今でも三十万人以上いるとされる。「野党共闘」が実現すれば、勢力をさらに拡大する可能性もある。日本共産党は、ことあるごとに自民党政権に対して「戦前」「ファシズム」といった言葉を持ち出して批判をするのだが、共産主義政党・政治集団こそ、長年にわたって多くの人々を苦しめ、殺してきた。

志位和夫は自民党の國防政策を「日本國憲法の平和主義に真っ向から反する」などと非難しているが、共産主義思想、共産主義独裁専制國家、共産主義政党・集団こそ、この百数十年間、世界・アジアそしてわが國の平和・自由・繁栄を根柢から破壊して来たのである。共産主義独裁専制國家及び集団組織の最高権力者は人殺しである。

プーチンはこれまで、反対派粛清・暗殺を指令した。金正恩は気に入らない人間は自分の叔父でも残虐なる方法で殺している。習近平は、形だけの裁判は行うが、敵対者・邪魔な者を監獄に放り込んでいる。ロシア・支那・北朝鮮の独裁者は根本的にさういう体質を持ってゐる。日共の最高指導者だった野坂参三も宮本顕治も、同志を死地に追いやり、そしてリンチを加へて死に至らしめた。このやうな共産主義勢力と共闘し連立を組む今日の日本の野党勢力に政権を掌握させてはならない。

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千駄木庵日乗十二月十七日

午前は、諸事。

午後は在宅して、『政治文化情報』原稿執筆・脱稿・送付。明日のスピーチの準備。資料の整理。原稿執筆の準備。

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明治時代における尊皇攘夷運動

幕末に於いて、維新討幕が緊急とされた具体的理由は、『安政条約』で半国家・半植民地と化した日本が、「完全な植民地」となることを食い止め、早急に国家独立の体制を確立することにあった。

天皇を中心とした日本国を欧米列強の侵略支配から祖国を守り、世界の中で完全独立国家として屹立させることが明治維新の理想であった。それが尊皇攘夷の精神である。しかし、明治維新後に於いても、「不平等条約」が存続し、日本は西欧列強と対等の立場に立っているわけではなかった。それとどころか、文明開化に美名のもと、日本は欧化の風に侵された。

明治維新の理想を実現させるべく在野で運動したのが玄洋社をはじめとする愛国運動であった。そしてそれは、欧米列強に屈従する政策を取る政府、欧化の風に侵された文化文明、この二つを粛正することを目指した戦いであった。

民権と国権は相対立するととらえる説があるが、決してそうではない。国権とは民権を圧迫する国家権力のことではなく、祖国の独立のことである。

近代日本というか明治新政府は、「脱亜入欧」「文明開化」「富國強兵・殖産興業」の道を突き進んだ。つまり、欧米の文化・文明を取り入れて日本を近代化し、國を富ませ、軍事力を強固にし、生産を増やし産業を発展させることを目指したのである。

明治初期に岩倉使節団に参加して欧米を視察した政府高官たちの基本的観念には、第一に、欧米の文明に対する高い評価があり、第二に、アジアに対する蔑視とは言わないまでも欧米に比較してアジアは未開であるという認識があり、第三に日本の発展は、アジアから脱して欧米に入ることによって達成されるという考え方である。そして大久保・岩倉などは、その能力がわが日本にはあると確信した。これはまた、『五箇条の御誓文』の「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」という大御心に沿うものであると考えたのであろう。
 
大久保利通は、明治七年に書いた『殖産興業に関する建議書』には、「必ずしも英國の事業に拘泥して、之を模倣す可きにあらずと雖も、君民一致し、其國天然の利に基き、財用を盛大にして國家の根抵を固(かと)ふするの偉績に至りては、我國今日大有為の秋に際して宜しく規範と為すべきなり、況や我邦の地形及天然の利は、英國と相類似するものにあるに於ておや、……」と記している。わが國と國柄および天然自然条件が類似する英國を規範として殖産興業につとめるべきであるという主張である。 

東洋の伝統を軽視して西洋型の帝國としての日本帝國を建設せんするこの大久保路線は、反対者によって『西洋覇道路線』とも名付けられる。そしてこの路線は、大久保の死後、伊藤博文・大隈重信・山県有朋らによって継承される。

さらに「脱亜入欧」「文明開化」の論理は、体制側・権力側の基本姿勢であっただけでなく、反体制運動にも踏襲されその思考の型となった。マルクス主義などの西洋革命思想による日本の変革運動がそれである。

こういった近代日本の体制側・反体制側に共通する「脱亜入欧」「文明開化」の論理に対抗したのが、明治初期においては西郷隆盛に象徴される伝統護持派である。明治第二維新運動では、西郷隆盛、江藤新平、島田一郎などが命を捧げたが、未完に終わった。

その精神と行動を継承する在野の國民の側即ち草莽の士の愛國維新運動である玄洋社は、明治十四年二月、福岡に創設された。「皇室を敬体戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」の三箇条を憲則に掲げた。

明治二十一年に三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛らによって結成された國粋主義文化団体・政教社(雑誌『日本人』を刊行)であり、そしてそれに続く大正維新運動・昭和維新運動なのである。    

そして、「脱亜入欧」「文明開化」の論理の克服は、大東亜戦争の敗北とその結果としての現代日本の様々な矛盾の根本的原因にも関わる今日的課題なのである。

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千駄木庵日乗十二月十六日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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2019年12月16日 (月)

 古代の「むすび信仰」が歌はれた歌

 中皇命(なかつすめらみこと) 、紀の温泉に往きましし時の御歌 
                                       
                                       
 君が代もわが世も知るや磐代(いはしろ)の岡の草根(くさね) をいざ結びてな  (『萬葉集』一〇番)

 中皇命は、萬葉初期の歌人。間人皇女(はしひとのひめみこ) の御事かといはれてゐる。間人皇女は舒明天皇の皇女。天智天皇の妹君にして天武天皇の姉君にあたられる。大化元年(六四五)に孝徳天皇の皇后になられ、天智四年(六六五)に崩御された。一方、中皇命を斉明天皇とする説もある。「紀の温泉」とは和歌山県西牟婁郡白浜町の湯崎温泉。

 「君が代もわが世も知るや」の「君」は男子に対する尊称で中大兄皇子を指す。「しる」は単にものごとを知識として知るといふのではなくもっと深く「領知する(領有して支配すること)」の意。天皇の御統治の御事を「しらす」「しろしめす」といふのと同意義。今日でも「そんなことは知りません」といふのは、単に知識として知らないといふ意味以上に、「私には関係がない」といふ意味も含まれる。「知る」とは「関係する」「司る」「統治下に置く」といふ意味である。

 天皇の國家統治のことを「しらしめす」と申し上げるのは、天皇が天の下の全てを認識され、全てに関係され、領有し統治されることである。それは、天皇が鏡の如く「無私」の御存在であるから可能になるのである。天皇が鏡の如く全てを映し出す「無私の御存在」であればこそ、全てを領知され認識され司られることができるのである。

天皇國家統治の「みしるし」である三種の神器の一つが「鏡」であるのはそのことをあらはしてゐるのである。天皇は自己を鏡となして一切のものごとを映し出される御存在である。

近代日本の哲學者・西田幾太郎は、「知と愛とは同じである」と言った。知ることと愛することは一体である。愛とは捨身無我である。自分を相手のために捧げるのが愛の極致である。自分を無にしなければ本当に相手を知ることは出来ないし、愛することもできないのである。天皇陛下の國家統治もご自分を無にされて天下萬民を愛されることなのである。学問も自分を無にして学ぶ心がなければならない。

「や」は感動の助詞。「磐代」は和歌山県日高郡南部町岩代及び東岩代。紀の國に通じる熊野街道の要衝にあたり、旅人が木の枝や草を結び行路の平安を祈り予祝する神秘的な場所であった。「磐」には長久の意味がある。「草根」は草のことで、「根」は接尾語。「いざ」は人を誘ひまた自ら行動を起こそうとするときに発する語。「な」は勧誘をあらはす。

通釈は、「あなたの寿命も私の寿命も支配し知ってゐるといふ、この岩代の岡の草を、さあ結びませうよ」といふほどの意。

間人皇女は、兄君・天智天皇とひそかな恋をされてゐたといはれてゐるので、中皇命を間人皇女とすると「君が代」の「君」は天智天皇の御事とされる。斉明四年(六五八)に斉明天皇が紀温泉に行幸されたときの歌であらう。このとき既に間人皇女の夫君・孝徳天皇は崩御されてゐた。

また中皇命を斉明天皇とすると「君が代」の「君」は舒明天皇の御事とされる。ともかく愛する人と共に紀國へ旅をされた途中でお互ひの旅の平安を祈られた御歌。  

「むすび」といふのはわが國傳統信仰上とても重要である。漢字では「産靈」と書く。生命の誕生・万物の生成のことである。大伴家持の長歌の「山行かば草生(む) す屍」の「むす」である。『古事記』冒頭の造化の三神(天地生成の神)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)である。宇宙の中心の神・男性(陽)の神・女性(陰)の神といってよいと思ふ。男性と女性がむすび合はされて生命が誕生するといふことである。生まれてきた男の子が「むすこ」であり女の子が「むすめ」である。手を結ぶとは「人と人とが和合する」こと。御飯をむすんだものを「おむすび」と云ひこれを食すると生命が生き長らへる。「むすび」とは命が発生し長らへることである。

この歌は、あなたと私の寿命といふものを知ってゐるところの靈験あらたか岩代の草を結んで、岩代の岡の巖のやうに命長く幸せであることを祈りませう、といふ歌である。古代民間信仰が歌はれた歌である。

この歌は、『古今和歌集』巻第七に「賀歌」に分類されて収録されてゐる歌、

 「わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」
 (わが君のお年は、千代に八千代(非常に長い年代)にまで続いていただきたい。一握  りの小石が大きくなり、巖となって、苔が生へる時までも)といふほどの意。

に通じる。この歌の初句が「君が代は」となり、今日の國歌「君が代」になった。

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2019年12月15日 (日)

この頃詠みし歌

延命とは延苦なりとの医師の言葉今もわが耳朶に残りて消えず

南無大師遍照金剛と唱ふればわが心身に命満ちわたる

一日一日命大切に生きゆかんわが心臓が病をればこそ

人間の寿命は延びると聞きし日に友の訃報を聞くさみしさよ(山田恵久兄を偲びて)

共に行きし西安南京北京の旅はるか昔の事とは思へず(同)

リヤカーに乗り星空を仰ぎつつ南京の街を走りゆきし旅(同)

言論人として強く生きたる友達はつひにこの世を去りたまひたり(同)

櫻を見る会の事を攻撃する日共の女性議員の顔の醜さ

共産主義者のその本性の醜さをさらけ出しゐるなり志位と小池は

来年こそは来年こそはと歳暮れる

美しきやまと言葉のひびきこそわが魂の癒しなりけり

垂乳根の母の事をば思ひ出す我は母の子母の愛(めぐ)し子

人々は賑やにしも街を行く病める我は一人で静かに歩む

父と母が共に夢に出でて来て会話を交はすことの嬉しも

原稿を書き終へてベッドに入りし時スマホの呼び出し音鳴り続くかな

夜の更けになほやすらぎの時は来ずかくてまだまだ仕事するなり

カランカランと鳴る鐘の声諸行無常の響きとは遠し銀座四丁目

歩み行けば満月が何時までも我と共に動くビルの少なき谷中寺町

転居せりとの張り紙が風に揺られゐる友達の店の閉じられしドア

談論風発とめどなく続く師走の夜鳥鍋食するひと時の幸

かにかくに千駄木の街は賑はへり思ひ出の坂思ひ出の店

ディックミネも伊藤久男も知らぬと言ふまさしく昭和は遠くなりにけるかも

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千駄木庵日乗十二月十五日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』の原稿執筆など。

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新元号の権力機関による制定と「現行占領憲法」よる國體隠蔽


内閣は、今上天皇御即位に伴ふ改元につき、「國民生活への影響を考慮して」「経済界や國民生活の利便性を考へて」即位に先立つ本年四月一日に政府から新元号を発表することとした。そして、天皇陛下の勅許も聴許も承らず、新しい御代の元号が定められてしまった。これは、君主たる上御一人日本天皇が勅定あそばされるべき「元号」が、臣下たる内閣によって決められたといふ事であり、元号は天皇の勅定によるといふ千数百年にわたるわが國の伝統が、無視されたのである。重大なる國體隠蔽である。

内閣がかかることを行ったのは、「天皇の事前許可を求めれば天皇の國政関与を禁じた憲法に反する」といふ考へ方に基づくと言はれてゐるが、元号の勅定は、天皇の権力行使ではないし、政治権力行為ではない。「天皇の祭祀」の重要な事柄である。政府も國會も、皇室や日本の伝統よりも『現行憲法』の規定を重んじる姿勢を貫いてゐる。『現行占領憲法』はまさに國體破壊・國體隠蔽の亡國憲法である。一刻も早く全面否定しなければならない。

明治維新に際して明治天皇が「一世一元」の制を定められ、また昭和五十四年制定の「元号法」においても改元は皇位の継承があった時、とされており、改元は新しく即位された新帝によるものでなければならない。

「ついに日本は、天皇が『時間空間』を統治される國ではなくなった。内閣総理大臣以下政治権力者が『時間』を支配する國となった」と極言することも可能である。ということはわが国の元号は、神聖なる権威を喪失したのである。

報道によると、安倍総理は、天皇陛下の政治への関与を禁じた『現行占領憲法』第四条に抵触しないやう配慮しつつ、「新元号」決定前も決定後も、皇居・東宮御所に何回か参内し、天皇陛下、皇太子殿下に選考が元号にご説明申し上げたやうである。天皇陛下、皇太子殿下のご報告申し上げ、ご意向をうかがったと思はれる。

『現行占領憲法』には、「第四条 天皇は、この憲法の定める國事に関する行為のみを行ひ、國政に関する権能を有しない」と書かれてゐる。権力者ではあらせられない日本天皇は、「権力の制限規範」である『現行憲法』によって規制される御存在ではあり得ない。天皇・皇室は「憲法」を超越した御存在である。天皇は権力者ではあらせられないのであるから、権力の制限規範たる成文憲法に規制されない。

しかるに新しい元号は、天皇が勅定されるといふ伝統が無視され、臣下の権力機構たる政府が決めたといふことは、德川幕府でさへ行ひ得なかったしなかった重大なる伝統破壊である。

新井白石(江戸時代中期の旗本・政治家・朱子學者。六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を實質的に主導した)は、享保元年(一七一六年)頃に書いた『折たく柴の記』といふ随筆において、「わが朝の今に至りて、天子の号令、四海の内に行はるゝ所は、獨年号の一事のみにこそおはしますなれ」と書いたといふ。

もっともこの新井白石は、「徳川将軍は天下の主権者たるにふさわしい『日本國王』の称号を持つべきであると」と主張した人物である。事實、正徳元年(一七一一年)に徳川幕府が朝鮮からの使節を迎へるに際して、國書に記載される将軍の称号を「日本國王」と改めさせた。新井白石は、文字通り幕府の御用學者であったと言ふべきである。

新井白石の主張に対して、頼山陽は後に「噫(ああ)、是れ足利氏を助けて虐(注・天皇に対する反逆)を成すものなり」「名分の在る所、踰越(注・のりこへる)すべからず」(『日本外史』)と厳しく批判した。また、新井白石は、徳川吉宗が将軍になると失脚した。

元号は、臣下の政治家・學者・官僚たちがいろいろ議論して原案を作っても、その原案を、天皇に奏上し、叡慮によって決せられ、勅定されるべきなのである。王朝時代においても、元号は公家・學者による討議があったのちに勅定せられた。

ともかく君主たる上御一人日本天皇が勅定あそばされるべき「元号」が、臣下たる権力機構によって決められたことは、國體が大きく隠蔽されたのである。

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千駄木庵日乗十二月十四日

午前は諸事。

午後は『政治文化情報』の原稿執筆。この後、千駄木の文京区立森鴎外記念館にて開催中の『荷風生誕一四〇年・没後六〇年記念 永井荷風と鴎外』展参観。奈良県から来られた友人と共なり。参観後懇談。

この後、『憲法懇話会』に出席する予定であったが、急用が出来中止。

帰宅後は、原稿執筆など。

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2019年12月14日 (土)

「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。

長い間、「過去の歴史問題」というのが日本国の上に暗雲の如く垂れさがっている。これを吹き飛ばさない限り日本は何時までたってもまともに国になれない。近代日本は正しいことしかしなかった。反省すべき点は一つもない、などと主張するものではない。第一何処の国の歴史も正しいことしかしなかったなどということはあり得ない。

しかし、祖国日本は悪いことしかしなかった、大東亜戦争は日本の一方的侵略であったなどという誤れる歴史観を、政府の見解であるとし、それを否定する思想・考え方を政治家や公務員が発表する自由が制限されるなどということは絶対に許してはならない。

わが国は大東亜戦争の敗北した後、戦勝国が開いた「東京国際軍事裁判」という名称の報復により、戦争遂行時の国家指導者は死地に追いやられた。また、七年間にわたり戦勝国によって占領され、その間、憲法を押し付けられ、ありとあらゆる手段で我が国の弱体化・戦勝国への隷属化が図られた。さらに、わが国が戦争遂行にあたって軍事的に進攻した国々に対して何回も何回も謝罪させられ、かつ、賠償金を支払わされ、経済援助を強いられた。

一体七十四年年以上も経過して、いまだに、過去のことで周辺諸国に謝罪し、さらに、その戦争に対して、自由な意見表明が出来ない国が世界の何処にあるであろうか。日本だけである。何んとも悔しい。しかも、国内に、祖国の歴史を冒瀆し、祖国を悪しざまに言うことしか考えない連中が跳梁跋扈していることは何んとも許し難い。外国からの干渉がある前に、こういう連中が騒ぎだす。「朝日新聞」「テレビ朝日」「日共」などはその典型である。

「極東国際軍事裁判」は、“法の真理”に照らして完全に間違ったものであった。「平和と人道に対する罪=侵略戦争遂行の犯罪」「共同謀議の罪」を新たに作り、勝者が敗者を問答無用的に断罪した。しかし、そもそもそのような概念は、戦争が開始された時にも、終戦時にも、裁判後にも定着しなかった。つまり人類の貴重な法文化たる法原則=「罪刑法定主義」の原則に全く反して被告を断罪したのである。裁判とは名ばかりの非常の野蛮で公平性を全く喪失した戦勝国による一方的な復讐劇=リンチが東京国際軍事裁判であったのである。

「東京裁判史観」とは、極東國際軍事裁判の多数判決即ち六人の判事の西欧列強のアジア侵略を正当化するためにわが國の行為を一方的に処断したにすぎない全く虚妄の「判決」を正しいとする歴史観である。

戦争については國家意思が何処にあったかで判断すべきである。『開戦の詔書』には『自存自衛』『東亜の安定の確保』『世界の平和に寄与』『萬邦共栄の楽を偕にする』と示されている。白色人種の植民地だった東亜の解放が戦争目的だったのである。我ら日本人は、日本が白人優位の世界秩序を変えたことを誇りに思わなければならない。

その國の國民が祖國の歴史を如何に見るかは、その國の将来を決定する要素である。反省と謝罪の意識に責め苛まれる日本は亡國の道を歩むしかない。日本の國を愛し、日本の國の歴史に誇りを持つことが、今後の日本の発展と國民の幸福の基礎である。

日本は白人と戦いアジアを三百年の白人支配から救った。昭和十八年にアジア諸国は独立した。戦後独立したというのは誤りである。インパール作戦はインド独立のための戦いであった。インドに顕彰碑がある。マレーシア人は日本軍は白人と華僑の搾取と支配から解放してくれたと思っている。

 東京裁判史観とは、東京裁判の判決が正しく、日本は東南アジアおよび南方を略取しようとして共同謀議をしたという虚構の歴史観である。極東国際軍事裁判で「日本無罪論」の判決を書いたインドのパール判事は、「時が熱狂と偏見とをやはらげた暁には、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変へることを要求するであらう」と、判決文の最後に書いた。

 にもかかわらず、日本国民自身が、戦七十四年を経過したにもかかわらず、「偏見」と「虚偽」から脱出することができないでいる。歴史を大観すれば、明治維新、日清・日露両戦争、満洲事変、支那事変、そして大東亜戦争は、まさに幕末以来の尊皇攘夷の戦い即ち西欧列強によるアジア侵略支配を打破する戦いであったのである。このことをわが国民は正しく認識し理解し、「過去の賞罰の多くにその所を変へる時代」の招来を期するべきである。


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千駄木庵日乗十二月十三日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、資料整理、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2019年12月13日 (金)

維新とは神の回復であり、信仰共同体日本・祭祀國家日本の回復である

明治二十三年十月三十日に渙発された『教育勅語』にし示された「我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」の「皇祖」は伊邪那岐命伊邪那美命二神及び天照大神の御事であり、「皇宗」は神武天皇の御事である。「國ヲ肇ムル」とは、國生み及び天孫降臨と神武建國の御事である。「國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」と示されてゐる以上そのやうに拝するのが自然である。しかし、『教育勅語』渙発に際して、さうしたことに否定的な見解を示した人がゐた。

新田均氏はその著において大要次のやうに論じてゐる。「『教育勅語』発布後文部省は解説書を井上哲次郎(注・東京大学教授。哲学者)に依頼した。井上の草案では、勅語の『皇祖』は『天照大御神』、『皇宗』は『神武天皇』であると説明していた。井上(注・井上毅。大日本帝國憲法制定に参画、法制局長官となり、『教育勅語』など詔勅・法令を起草。枢密顧問官・文相などを歴任。)は文句をつけて『皇祖は神武天皇、皇宗は歴代天皇』とするよう求めた。彼は、君臣関係の力点を、神話よりも、神武建國以降の『歴史』に置こうとしたのだと言えよう。」(『「現人神」「國家神道」という幻想』)

葦津珍彦氏は次のやうに論じてゐる。「勅語には『皇祖皇宗』の道とあり『祖先』の遺風とある。これをもって、皇祖皇宗を初めとして各地の神社の民族祖神の『神靈』の意と解すれば、勅語は神道の強力な一拠点となり得る。明治天皇の勅語としては、かく解するのは決して無理ではない。しかしそれを神宮神社の『神靈』と結びつけることには『神道を國教化するもの』としての強い反抗の底流があった。その反抗の強力なことを知ってをればこそ、井上毅は、とくに厳重な前提条件として尊神とか敬神とか『神靈』を意味する語を絶対に避けねばならないとし、神靈存否の論は、各人の解釈に任せて、勅語そのものの関知せざるところとした。この明治的合理主義官僚が、神社局の思想となる時には、『神靈については当局は関知せず』として、神道独自の精神を放棄して、一切の合法的宗教、哲学との妥協にのみ神経を労して、神宮神社をもって、歴史的偉人の記念堂(モニュメント)と同視して、神道精神を空白化することになる。」(『國家神道とは何だったのか』)

新田氏によると加藤玄智(大正・昭和期の宗教学者)は「わが國明治以来教育界の通弊は、その實証主義、科学萬能主義で在り、それに加ふるに,迎合外交と追随教育の幣は、教育勅語に仰せられた皇祖皇宗を解するに、単なる人間としての祖宗、すなわち人祖人宗に外ならないものとして、これを解し奉ってをった。…」と批判していたといふ。加藤玄智の批判は正しいと思ふ。

「皇祖」を神武天皇のみし、「肇國」を神武建國のみとすることは、『天壌無窮の御神勅』の否定につながる考へ方であり、神話の精神を隠蔽するものである。日本國體は神話を基礎とするのだから、神靈への信を無視し否定した國體精神・國家主義は真の國體精神ではない。

神霊への信仰を排除し神社を歴史的偉人の記念堂のごときものとするのは、明らかに傳統信仰の隠蔽であり、祭祀国家の破壊である。今日の「靖国神社を排除した國立戦没者追悼施設建設」につながる思想である。ここに葦津氏のいふ「明治的合理主義官僚」の日本傳統信仰に対する無理解といふ大きな欠陥が表れてゐる。かうしたことが、祭祀國家・皇道國家日本の本姿を晦ませて日本を覇道化させた原因だと言ひ得る。

村上重良氏らの「國家権力が神道を人民支配のイデオロギーとするためのバイブル・経典が『教育勅語』であった」といふ主張は誤りである。むしろ國家権力による神道精神の隠蔽が行はれたことが近代日本の過誤の根本原因であったと考へる。

神靈への信を忘れ天皇を祭り主と仰ぐ信仰共同体から遊離した國家至上主義は誤りである。維新とは神の回復であり、信仰共同体日本・祭祀國家日本の回復である。宗教対立・宗教戦争が繰り返され、宗教裁判・魔女狩り・聖戦といふ名のテロが行はれてきてゐる一神教の世界では、まったく考へられないことだらうが、神社神道・日本傳統信仰は、佛教あるいはキリスト教ですら共存させる寛容さ・柔軟さそして強靭さを持ってゐる。それが日本人の当たり前の宗教感覚であり、信仰文化であった。

日清戦争、日露戦争の勝利は、「脱亜入欧路線」の勝利ではない。日本精神を保持して西洋傳来の武器を使用して戦ひ勝利したのである。まさに「和魂洋才」の勝利だった。ところがその後の日本は、「和魂」を忘却し、上滑りな「洋才國家」の道を歩むこととなった。西郷隆盛の言った「野蛮」を尊しとするやうになった側面がある。「明治維新の精神」は日露戦争勝利の後、国民精神の弛緩によって矮小化されもわが国は西洋覇道の道を歩んだのである。日露戦争の勝利は、それまで西欧列強によって支配されていた有色民族・アジアアフリカ諸國諸民族を感激させ希望を与へた。しかし、日本自身は、勝利に奢り、明治維新の精神を忘却してしまったのである。

明治中期以後、金銭営利を求める風潮が横溢し、明治維新の理想、清潔なる國體精神は混濁し、「文明開化」の悪しき側面即ち欧米追従・強い者勝ちの西洋覇道精神・近代合理主義が世を支配するやうになった。近代日本において、「文明開化」「近代化」のために傳統信仰が晦まされてしまった。

勿論、西欧諸國との拮抗、とりわけ帝國主義との戦ひをしなければならない時代に於いて、わが國の独立の維持とは、武力的拮抗でなければならなかった。日本が「富國強兵」の道を歩まねばならなかったのは当然であるし、否定することは出来ない。「富國強兵」を實現するために西洋の文物を学び取り入れることも大切であった。しかし、その根底に日本傳統精神・倫理観がしっかりと確立してゐなければならなかった。「和魂洋才」とはかかることを意味したのだと考へる。欧米近代の國家の侵略による植民地化を跳ね除けるために富國強兵政策がとられたのは正しい選択であった。しかし、「脱亜入欧」は誤りであった。

天皇國日本には、「侵略」「排外」などといふ事はあり得ない。傳統信仰を無視した近代化・富國強兵は日本魂を消失したものであるがゆゑに大きな矛盾を抱へ失敗を招来した。だからこそ、神の回復・信仰共同体日本・祭祀國家日本の回復を目指した昭和維新運動が起こったのである。

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千駄木庵日乗十二月十二日

午前は諸事。

午後からは在宅して、資料の整理、原稿執筆の準備、書状執筆。

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2019年12月12日 (木)

千駄木庵日乗十二月十一日

午前は諸事。

午後は、今夜行う『萬葉集』講義の準備。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が「萬葉集」作者未詳歌を講義。質疑応答・歴史談義。

帰途、出席者と懇談。談論風発。

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佐藤一斎・西郷隆盛の死生観

肉体の死は、人間そのものの消滅ではなく、現世から身を隠すことに過ぎない。だから、死後の世界を幽世(かくりよ)と言ひ、死後の人間を隱身(かくりみ)と言ふのである。

 

柳田國男氏は、「日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まってさう遠くへは行ってしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである」(『先祖の話』)と論じてゐる。死者の霊魂は、はるか彼方の他界に行ってしまふのではなく、この国土に留まって子孫を見守ってゐるは、わが国において永く継承されてきている。それは、「先祖様が草葉の蔭から見守ってゐる」といふ言葉がある通りである。

 

この世を去った人の霊魂を身近に感じて来たのが日本人の伝統的祖霊観、生死観である。日本人が比較的死を恐れない強靭な精神を持っているのは、かうした信仰が根底にあるからであらう。

 

魂が身体から遊離することが死である。それがために肉体人間は力を失ふ。死とは無に帰するのではない。勢ひがなくなることを意味する「しほれる」が「しぬ」といふ言葉の語源である。「心もしのにいにしへおもほゆ」の「しの」である。くたくたになってしまって疲れるといふ意味である。気力がなくなってしまったといふ意味である。

 

枯れるといふ言葉と同根の「から」が「亡骸」のからである。死とは命が枯れることであり、肉体から魂・生命が去ることである。

 

人間の死を「神去る」「逝く」「身まかる」と言ふ。葬るを「はふる」といふ。「はふる」とは羽振るである。魂が空を羽ばたいて飛んでいくといふことである。羽振りが良いとは勢ひがあるといふ意である。

 

死は消滅ではなく、生き返るのであり、甦るのである。日本伝統信仰には死はない。

 

「よみがへり」とは、黄泉の国から帰ることである。『萬葉集』では「よみがへり」といふ言葉に対して「死還生」といふ字をあててゐる。「黄泉の国」とは死後の世界である。

 

「このよみがへり」の思想が、仏教の輪廻転生思想を受け入れた信仰的素地とされる。あの世もこの世もそれほどお互いに遠いところではないのである。

 

死後の世界は近く親しく、いつでも連絡が取れるところである。だから草葉の陰から見守ってゐてくれるといふ言葉があるのである。お盆には先祖の御霊が帰って来るといふ信仰もある。生と死の区別は明白ではなく、人はこの世を去ってもまた帰って来るといふ信仰がある。

 

死とは誕生・元服・結婚と同様の「生まれ変はりの儀式の一環」である。

 

江戸後期の儒学者で、幕末から明治初期にかけて大きな学問的影響を及ぼした佐藤一斎が、四十二歳から八十歳まで、年号で言へば文化十年から嘉永四年まで書き続けた箴言集『言志四録』の第百三十七条には次のやうに記されてゐる。

 

「吾思ふ、我が身は天物なり。死生の権は天に在り。当に順にこれを受くべし。…天之を生じて、天之を死せしむ。一に天に聴(したが)ふのみ。吾れ何ぞ畏れむ。吾が性は即ち天なり。軀穀は則ち天を蔵するの室なり。精気の物と為るや、天此の室に寓す。遊魂の変を為すや、天此の室より離る。死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、而して吾が性の性たる所以のものは、恒に死生の外に在り。吾れ何ぞ焉れを畏れむ。夫れ昼夜は一理、幽明も一理、始(はじめ)を原(たず)ね、終りに反(かえ)し、死生の説を知る」。(私は思ふ。われわれの身体は天から生じたものである。生死の権は天が握っているので、まさに素直に従ってこれを受けるべきである。…天がわれわれを生み、天がわれわれを死なせるのだから、全く死生は天に従ふべきで、我々はどうして恐れることがあらうか。われわれの本質は即ち天である。我々の肉体は身体に天を蔵する部屋である。万物を生成する根源の気が固まって天がこの部屋に住むのである。魂が肉体から遊離すれば、天はこの部屋から離れる。死の後は即ち生の前であり、生の前は即ち死の後であって、我々の本質は常に生死を超越してゐる。われわれは何で生死を恐れやうか)。

 

『言志四録』は、西郷隆盛の終生の座右の書であったといふ。その西郷隆盛は、流罪で沖永良部島にあった時、次の漢詩を詠んでゐる。

 

「獄中有感り(ごくちゅうかんあり) 

 朝に恩遇を蒙り夕べに焚阬(ふんこう)せらる
 人世の浮沈は晦明に似たり
 縦(たと)ひ光を回らさゞるも葵は日に向ふ
 若し運を開くる無くも意は誠を推を()す
 洛陽の知己皆鬼と為り
 南嶼(なんしょ)の俘囚独り生を竊(ぬす)む
 生死何(なん)ぞ疑はむ天の附與なるを
 願はくは魂魄(こんぱく)を留めて皇城を護らむ」

 

結句は、まさに佐藤一斎と同じ死生観を表白してゐる。そして肉体から離脱して魂魄は、この世に留まって皇城即ち上御一人をお守りすることを散ったのである。

 

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2019年12月11日 (水)

宮中祭祀を中核とする日本傳統信仰の祭祀こそ現代救済の原基

「宮中祭祀の大部分は明治以降につくられたもの。江戸時代に復活した新嘗祭も含めて、古代のものが連綿と今につながっているというわけではない。仮にいまの宮中祭祀をなくしたとしても、皇室の姿が明治以降から、明治以前に戻るだけだと考えることもできる」といふ論議がある。

明治以降の「宮中祭祀」は、「神武創業への回帰」といふ維新の理想実現を目指しつつ日本傳統信仰と皇室の傳統を基本として、「宮中祭祀」の本来の姿の回復が図られたのである。決して明治維新後に「つくられた」のではない。

「本来行はれるべき祭祀などの朝儀の復活・充実」は、江戸期を通じて、朝廷の深き御希望であった。それが明治維新によって実現したのである。古代以来行はれてきた「新嘗祭」は、何千年の間に時代と共に洗練に洗練が重ねられて今日まで伝承されて来た。 

靈元天皇をはじめとした江戸時代の歴代天皇は、朝廷の儀式を調査・研究あそばされ、「応仁の乱」以来衰退してゐた朝廷の儀式の再興に努力あそばされた。そして、実際に皇太子冊立の儀・伊勢例幣使・賀茂祭など多くの朝儀が再興された。

そして、東山天皇の御代の貞享四年(一六八七)十一月十六日、後土御門天皇即位時の以来中絶してゐた大嘗祭が、二百二十一年ぶりに略儀ではあったが再興された。桜町天皇の御代の元文三年(一七三八)には大嘗祭と新嘗祭が本格的に再興された。

江戸期の歴代天皇がいかに祭祀・神への祈りを大切にされてきたかは次に掲げさせていただく御製を拝すれば火を見るよりも明らかである。

後陽成天皇
天てらす神のいがきのすゑとほく治めしるべき世をや祈らむ
神にしもなほ祈りなば治まれる世のゆくすゑは千代もかぎらじ

後水尾天皇
いかでなほめぐみにあはむ神やしろかけて祈りし心ひとつに

靈元天皇
朝な朝な神の御前にひく鈴のおのづから澄むこゝろをぞ思ふ
あと絶えずはこぶあゆみを雪の上に見るもかしこき神の広前
まもれなほ神の宮居に引くしめのすぐなれと世をいのる誠は

桜町天皇
新嘗の赤丹(あかに)のはつ穂もろ人にとよのあかりの今日たまふなり
天てらす神ぞ知るらむ末ながき代々のひつぎを祈るこゝろは

桃園天皇
もろおみの朕(われ)をあふぐも天てらす皇御神(すめらみかみ)のひかりとぞおもふ

光格天皇
朝ごとにかけてぞ仰ぐあきらけき八咫(やた)のかゞみは神の御影(みかげ)と

孝明天皇
國民のやすけきことをけふこゝにむかひて祈る神の御前に
わが命あらむ限(かぎり)はいのらめや遂には神のしるしをもみん
奉るそのみてぐらを受ましてくにたみやすくなほ守りてよ

これらの尊き御製を拝し奉れば、「宮中祭祀」の本来の姿の回復が、如何に歴代天皇の御祈りであったかが分かる。

宮中祭祀は今に生きる神話であり現代救済の原基である。「神話」は今こそ回復されるべきなのである。「神話の精神」こそが現代の混迷を救済する。宮中祭祀は今に生きる神話であり現代救済の原基である。

天地自然の神、祖靈への祭りの精神の回復こそが現代を闘争・戦争・自然破壊・人心の荒廃を救済する道である。祭祀こそ、天皇・皇室の最高のご使命であり、現代日本を救済する原基である。

祭祀は決して迂遠な手段ではない。精神の荒廃を救済し、神のご加護を持ち来たす最も基本的な手段である。日本の神の実在を信じない人にはこのことはいくら説いても無駄である。
 
天皇が日本国の祭祀主として五穀の豊穣と国民の幸福を祈られるため祭祀を行はせられてゐることが、天皇が神聖なる権威の基なのである。

日本傳統信仰の祭祀が科学技術文明による荒廃を救済する。繰り返し言ふが、宮中祭祀は、現代に生きる神話である。

ミルチャ・エリアーデは「神話とされるものは、〝かのはじめの時〟に起こったある出来事や、その時に生きていた人物について語られただけではなく、原初の出来事、原初の人物と直接、間接に関係を持つすべてもまた神話なのである。…神話はその性格の如何にかかわらず人間の行動に対してだけでなく、人間自身の条件に対しても常に、先例であり、範例である。」(『聖なる時間・空間』)と論じでゐる。

個人の生存も共同体の存立も「肇(はじめ)の時」「始原の時間」への回帰が大切である。個人も共同体も年の初めに新たなる希望と決意を燃やす。祭祀とはその「肇の時」「原初への回帰」の行事である。

日本の神話は、「天皇の祭祀」によって生きた現実として太古より今日まで継承されてきてゐる。世界に国家多しといへども、建国以来、国家元首が祭祀を行ひ続けてゐる国は日本のみである。宮中祭祀は、現代に生きる神話であり、文化・文藝・政治・経済・宗教など人間のあらゆる「いとなみ」を聖化し「いとなみ」の模範となる行事である。

「大嘗祭」・「新嘗祭」をはじめとした宮中祭祀には、日本民族の傳統的世界観・国家観・人間観・神観が示されてをり、日本文化の中核である。

祭祀は、原初・始原への回帰であり、天地宇宙開闢への回帰である。それがそのまま新生となり革新となる。決定的な危機に際して、「原初の神話」を繰り返すことによってこれを打開する。

宮中祭祀を中核とする日本の祭祀は、自然神と祖霊を祀る行事である。今日、公害・自然破壊・核兵器など物質文明・近代科学技術文明が生んだ様々な「悪」によって人類全体が大きな危機に瀕してゐる。科学技術文明が徹底的に生態系を破壊せんとしてゐる。文明の進歩によってかへって人間の生命が蝕まれ精神が荒廃してゐる。

かかる状況を打開するためには、イデオロギーや特定の教義によるのではなく、自然と共に生きるといふ日本傳統信仰を回復し、自然と人間に宿る生命を護る態度を養ふことが大切である。宮中祭祀を中核とする日本傳統信仰の祭祀こそ、その原基となるのである。

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千駄木庵日乗十二月十日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、明日行う『萬葉集』講義の準備、『やまと新聞』連載原稿執筆、脱稿、送付。

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2019年12月10日 (火)

「もののあはれ」と「やまと歌」について

 文芸とは深遠なる哲理や理論・教条を説くものではない。「もののあはれ」を訴へるものである。人間が物事に感動した思ひといふものを和歌や物語の形式で美しく表現するのが文芸である。

「あはれ」は、感動を表し、「あゝ」と「はれ」が結合した言葉である。「あゝ」も「はれ」も感嘆した時に自然に発する言葉である。「もののあはれ」は、わが國の傳統的な美感覚である。「もの」は、外界の事物のことで、「あはれ」は、外界の事物への感動である。日本の文學精神の主流になった感性であり、自然・芸術・人生などに触発されて生ずるしみじみとした趣き・情感のことと定義される。

すぐれて見事なこと、めざましいことを見たりしたときに発する感動の言葉である「あっぱれ」は、「あはれ」に通じる言葉である。故に本来は、「あはれ」は悲しみの情感を表白するのみではない。悲哀に限らず嬉しいこと・楽しいことなど物事に感動した時に発する言葉である。     
   
藤原俊成(『新古今和歌集』の代表的歌人)は、

「恋せずば 人は心も なかるべし もののあはれも これよりぞ知る」(恋をしないのは人の心がないのと同じだ。もののあはれも恋をすることによって知る、といふ意)
と詠んだ。

 近世の國學者・本居宣長はこの歌を解説して、「大方歌の道はあはれの一言に帰す。さればこの道の極意を尋ぬるにまたあはれの一言よりほかになし。伊勢物語も源氏物語もあらゆる物語もその本意を尋ぬればあはれの一言にてこれをおほふべし」と論じてゐる。

 また、本居宣長は「もののあはれ」は日本文芸の一番大事な基本精神であると説いた。宣長は、「よきことにまれ、あしきことにまれ、心の動きて「ああ、はれ」と思はるることがもののあはれ」と論じでいる。

そして宣長は

「ことしあれば うれしたのしと 時々に 動くこころぞ 人のまごころ」(『玉鉾百首』)

と詠んだ。

 『古今和歌集』の序は、「鬼神をもあはれと思はせるものが和歌である」と説いてゐる。「もののあはれを知る心」とは、外界の事物に対する自分の心の感動のことであり、それは自然の心である。それが日本文芸の原点であるといふことになる。

和歌をはじめとしたわが国の文芸は、理論・教条を説くものではない。「もののあはれ」を訴へるものである。人間が物事に感動した思ひといふものを和歌や物語の形式で美しく表現するのが文芸である。秋の季節は「もののあはれ」を表白した歌が多い。

その代表的な歌が、西行法師の

「心なき 身にもあはれは しられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」

である。

 「やまと歌」は、自然な心の動きが大事なのであるが、ただそれを表白すればいいといふのではなく、その心をやや客観的に見て美しい調べにして表現しなければ芸術としての歌にはならない。自分の情念を客観視して調べに乗せて表現し他者に美しく傳へ他者をも感動させなければならない。それが和歌である。

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千駄木庵日乗十二月九日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、原稿執筆、書状執筆など。

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2019年12月 9日 (月)

東條英機元総理について

         
桶谷秀昭氏の著書『昭和精神史』に大変重要なことが書かれています。昭和二十年九月十一日、米憲兵隊が東條英機元総理逮捕のために東條邸に来た時、東條元総理は自決を図ったのではなく、МPの無礼な態度に憤った東條氏を、抵抗したと見た憲兵隊員が誤射したという説があるというのです。銃声が聞こえたからМPがドアを蹴破って入ったのか、МPが入ってから銃声がしたのか、その瞬間のはっきりした記録はないし、東條氏が握っていた銃がアメリカ製コルトだったというのも変だというのです。アメリカ軍の東條氏への反感は相当のものであったことを考えれば、この説はあながち否定できないと思います。

 

東條氏の『英米諸国人に告ぐ』という遺書には、「諸君の勝利は力の勝利にして、正理公道の勝利にあらず…如何に戦争は手段を択ばずと言ふとも、原子爆弾を使用して、無辜の老若男女を幾萬若くは十幾万を一気に麘殺するを敢てするが如きに至りては、余りにも暴虐非道と謂はざるを得ず」と書かれ、『日本国民諸君』という遺書には、「大東亜戦争は彼より挑発せられたるものにして、我は国家生存、国民自衛の為、已むを得ず起ちたるのみ」と書かれています。

 

歴史の真実を明らかにし、大東亜戦争がわが国の侵略であったという一方的に断罪を断固として否定し徹底的に祓い清めねばなりません。

 

東條英機氏は、大東亜戦争とりわけ日本と米英との戦争について『検事の論告より受けたる所感の要点』(昭和二十一年六月五日)といふ獄中で処刑を目前して記した文書で次のやうに総括しています。

 

「日本は果たして文明に宣戦せりや 戦争は人類の文明生活に破壊を招来するものにして、従て何れの國家も極力避く可きは論を待たず。之れがため平治國際上戦争の原因発生を紛争の危険前に抑止し、常に互譲の精神を以て之れを阻む迅速なる解決を必要とす。殊に大國國家において然り。…大國の威力を以て小國を屈従し正常なる発展を阻止せんとし然も其の目的を達せんがためには其の生存を脅威せんとするが如き行為は果して之れを以て文明的行為と認むべきや。
一、過去数世紀に欧米の東亜侵略、而して其の搾取政策の前に帝國及東亜民族が其の桎梏の前に苦悩せしかは之れを暫く置くも
二、第一次欧州大戦后の英米の帝國に対する國際圧迫。
三、某々大國に於ける東亜移民の排斥。高関税政策、経済ブロックの結成に依る帝國貿易振興の抑制。
四、支那に於て日支相戦はしむる政策の採用。
五、人種差別待遇。
六、大東亜戦直前に於ける平和通商破棄及経済的脅威。
七、日米交渉終期に於ける帝國に対する受入得ざる策、至難なる提案。
検事の論告に依れば、日本は文明に宣戦せりと称するも、寧ろ文明に宣戦せるは以上の事實より帝國を戦争に追い込みたる英米側に存し其の責任は其の負ふべきものなり。蓋し日本は自己の生存を保証せんがため及東亜國民の生存を永久に確立せんがために戦へるものにして、之れ換言すれば人類の真の文明を求めしがためなり(以下略)」。

大東亜戦争とはいかなる戦争であったかを記した血を吐くような文章です。東條英機元総理を始め、我が國の枢要な地位にいた人々二十八名を「文明」と「平和」の名によってその責任を裁くという『極東國際軍事裁判』に対する痛烈なる批判です。

小生は、東條英機氏を批判すべきところのない人物と思っているわけではありません。所謂「憲兵政治」「懲罰召集」「中野正剛氏の自決」「四方諒二東京峡憲兵隊長を使った岸信介氏への恫喝」など批判すべきところがあると思います。しかし東條氏が、昭和天皇のご意志を無視しあるいは逆らって日米開戦を行なったという批判は全く当たらないと思います。

 東條英機氏はその『遺書』において「開戦当初の責任者として敗戦のあとを見ると、實に断腸の思いがする。今回の刑死は、個人的には慰められておるが、國内的の自らの責任は死を以て贖(あがな)えるものではない。しかし國際的な犯罪としては無罪を主張した。今も同感である。ただ、力の前に屈伏した。自分としてはまた國民に対する責任を負って、満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、また下級者まで刑が及んだことは實に残念である。天皇陛下に対し、また國民に対しても申しわけないことで、深く謝罪する」と書いています。

 東條英機氏は、昭和二十三年十二月二十三日、東京巣鴨にて殉難された。辞世において、

「たとへ身は 千々に裂くとも 及ばじな 栄えし御世を 堕せし罪は」
「続くものを 信じて散りし 男の子らに 何と答へん 言の葉もなし」
「さらばなり 苔の下にて われ待たむ 大和島根に 花薫るとき」

 

と詠みました。

 

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『やきもの入門 ─色彩・文様・造形をたのしむ』展参観記

本日参観した『やきもの入門 ─色彩・文様・造形をたのしむ』展参観。この展覧会は、「日本にやきものが誕生してから約1万6千年。その連綿と続くやきもの文化の歴史は、どのようにかたち作られたのでしょうか。やきもの作りの歴史を紐解いていくと、そこには技術や文化において憧れであった、中国や朝鮮半島で作られた輸入陶磁・唐物の存在があり、日本のやきものが広域な東アジア圏の一部であったことをうかがわせます。一方、作品鑑賞の歴史が独自に培われてきたことも重要です。茶道や華道、宴席のうつわにも、日本ならではの文化や慣習が組み入れられ、やきものの評価へと繋がっている歴史があります。卓越した技をもつ陶工たちと、それを受容する審美眼に優れた人々によって、日本のやきもの文化は育まれてきたのです。
本展では、日本人がやきものを使い始めた縄文時代から、陶芸家が個人の美意識を作品として表現するようになる近代に至るまで、やきものから見えてくる美の変遷を三つの視点からご紹介します。「色彩」「文様」「造形」のキーワードをヒントに、それぞれに花開いた日本のやきものの姿をお楽しみください」(案内書)との趣旨で開催された。

「深鉢形土器(火炎土器) 日本 縄文時代中期」 「灰釉瓶子 瀬戸窯 日本 鎌倉時代」 「青磁琮形瓶 龍泉窯 中国 南宋時代」「赤楽茶碗 銘 僧正 長次郎 日本 桃山時代」「白磁松竹梅文遊環付方瓶 一対 出石焼 盈進社 日本 明治時代」などを参観。

縄文時代の土器から近代の陶器までが展示されていたが、実際に生活において使われていた縄文弥生時代の作品(と言うべきではないのかもしれないが)は色彩美はないがすぐれた造形美がある。太古における日本人の美感覚が優れていたことが分かった。

日本は平安時代から次第に焼き物に絵画などが描かれ色彩美が見事に花開かれるようになってきた。日常生活において使われる「焼き物」から美術作品に昇華したと言って良いであろうか。特に茶道・華道が盛んになるにつれてその傾向は顕著になった。武士たちは自分がどれだけ良い由緒のある「焼き物」を持っているかを競ったようである。

そして陶工と言うよりも陶芸家と言う画家・書家と並ぶ専門家が出現し、まさに美術作品として多くの人々に鑑賞されるようになった。

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千駄木庵日乗十二月八日

午前は、諸事。

午後は、丸の内の出光美術館にて開催中の『やきもの入門 ─色彩・文様・造形をたのしむ』展参観。

帰宅後は、資料の整理、原稿執筆など。

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2019年12月 8日 (日)

本日開催された「アジア問題懇話会」における興味深い話

本日開催された「アジア問題懇話会」における興味深い話を紹介します。

「ASEANがパラパラになったのは中国が原因。親中国国家とそうではない國とに分かれた。ASEAN諸国の経済成長は続かない。内政も不安定」。

「台湾と断交する国が増えても総統選挙に全く影響なし。地図を見ても何処にあるのか分からない國に断交されても、政権批判無し。ただしパラオとバチカンは台湾にとって大事」。

「来年一月の総統選挙で蔡英文は大差で再任される」。

「台湾は北朝鮮包囲網に入っていない。北朝鮮との外交ルートや安保協力はないが、覆面企業同士の民間交流はある」。

「日本はバランスを取りながら台湾と付き合わねばならない。台湾は大変な変動期に入っている。今後の日中関係を考えると、香港・台湾は他人事ではない」。

「最近の台湾は老人よりも若い人が親日」。

「立法院選挙で過半数が取れないと、国民党は瓦解する」。

「台湾人は香港問題を深刻に受けとめている。台湾と香港は似ている。台湾人と香港人のアイデンティティ認識が似て来ている。自らを中国人と思っている人は減っている。台湾人は、香港情勢を見てこのままで行くと台湾は滅びると思っている人が増えている」。

「日経・読売・朝日は生き残る。毎日・産経は危ない。朝日は資産が多い」。

小生曰く。「朝日新聞は滅びてもらいたい。産経は生き残ってもらいたい」。

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午前は、諸事。 千駄木庵日乗十二月七日

午前は、諸事。

午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。大東文化大学特任教授・野崎剛氏が「台湾総統選挙まであと一か月―選挙情勢を動かすフェイクニュースや香港問題―」と題して講演。活発な質疑応答か行われた。

帰宅後は、書状執筆・原稿執筆。

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2019年12月 7日 (土)

安倍総理の「日本を取り戻す」と「復古即革新」

「日本を、取り戻す」は、平成二十四年から安倍晋三氏と自由民主党が使った自民党政権公約の題名である。同年に行なわれた自由民主党総裁選挙でこの言葉を使い、安倍氏は勝利した。さらに同年に行なわれた第46回衆議院議員総選挙でも自民党は大勝した。

 

安倍晋三氏は平成二十五年の著書でこの言葉について「これは単に民主党政権から日本を取り戻すという意味ではありません。敢えて言うなら、これは戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであります」と説明した。

 

 

安倍氏が取り戻すべき「日本」とは何時の事であるかというとそれは、「戦後ではない時代であるということになる。この考え方は、私は概ね正しいと思う。戦後日本の混迷から一日も早く脱却することが大切である。

 

しかしながら、戦前の日本が理想であり、戦前回帰が正しいとするわけにはいかない。戦前の日本が理想の國であったのなら、昭和維新運動は起らなかったはずである。やはり吾々は明治維新への回帰そして神武創業へ回帰を目指さねばならない。

 

大化改新・建武中興・明治維新などわが国の変革の基本理念は〈復古即革新〉である。現状を一新し変革することと〈元初のあるべき姿への回帰〉が相互に作用し一体となる。明治維新においては、近代的諸制度の形成といふ「御一新」と神武創業への回帰といふ「復古」は一体であった。復古即革新である。具体的にいへば、徳川幕藩体制打倒は天皇中心の國體明徴化であった。

 

明治維新後初めての御遷宮は、明治二年度の御遷宮である。その前段階として幕末の御蔭参りの国民的盛行があった。

 

御蔭参りとは、御蔭年に伊勢神宮に参拝することで、特に、江戸時代以降、間欠的におこった大群衆の伊勢参りをいふ。御蔭(恩恵)のいただけるありがたい年としてのお蔭年の観念が発生し、約六十年を周期として顕著にあらはれた。季節は三月ごろが多かった。

 

明治二年三月の御遷宮は、まさに明治維新と呼応するものとなった。そしてこの年、明治天皇は、神宮を御親拝された。天皇の神宮御親拝は史上例のないことであり、皇祖神への御崇敬のまことを御自ら捧げられることとなった。

 

そしてこの年の六月に、諸侯の土地人民を天皇に奉還する「版籍奉還」が行はれ、各藩主が、その土地(版)と人民(籍)とを朝廷に奉還し、改めて知藩事に任命され、廃藩置県の前提となった。七月二は、「職員令」による新国家体制が発足した。

 

和辻哲郎氏は、「明治維新は尊皇攘夷という形に現わされた国民的自覚によって行われたが、この国民的自覚は日本を神国とする神話の精神の復興にもとづき、この復興は氏神の氏神たる伊勢神宮の崇拝に根ざしている。原始社会における宗教的な全体性把捉が高度文化の時代になお社会変革の動力となり得たというような現象は、実際、世界に類がないのである。」(『風土』)と論じてゐる。

 

古代ギリシアやローマは、恒久的な神殿を建設しやうと考へたが、結局は廃墟をのこすのみとなった。日本民族は、神殿を定期的に作りかへることによって、神及び神殿を再生し続けて来た。日本の神と神殿は、永久不変であると共に永遠に新しいのである。

 

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千駄木庵日乗十二月六日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆など。

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2019年12月 6日 (金)

祭祀と維新

 神道の基本行事は、神を祭ること即ち祭祀である。「祭り」とは神に奉仕(仕え奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従い奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓いする行事である。

 人は、はじめから神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。禊によって罪穢を祓い清め、祭りと直會(神と共に供え物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが神道行事の基本である。

 つまり人の本来の姿を回復することが祭りの原義である。『古事記』に示されている「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が祭りである。

 混迷の度を深めている我が國も、「天地の初発の時」即ち神がお生みになった日本國の最初の時の姿を回復することによって、この危機的状況を打開することができるというのが、我が國の傳統的な信仰である。

 「維新」とは、実に罪穢を祓い清め國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿を回復することである。したがって、今日行うべきことは罪穢を祓い清めることである。

 國家の本来の清浄な姿・神のお生みになったままの麗しい姿とは、キリスト教や浄土思想の説くような遥か彼方にある天國とか極楽浄土ではない。今此処に、日本人の本来の生活と信仰とを戻すことである。

 今日唯今も実際に全國各地で毎日のように行われている禊と祭祀は信仰共同體日本の本来の姿を回復する祈りが込められている行事である。

 日本傳統精神を世界に発展させて、混迷せる現代世界を救済する役目をわが日本はになっているのである。日本傳統信仰の精神が世界の國と民を永遠の平和と幸福に導く道である。いかなる困難があろうとも、この道を歩み続けねばならない。

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千駄木庵日乗十二月五日

午前は、諸事。

 

午後二時、平河町の先輩事務所訪問。内外の諸情勢について意見交換。

 

帰宅後は、資料整理、書状執筆など。

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2019年12月 5日 (木)

復古即革新論=「神武創業ノ始ニ原」くとは「祭政一致」の再興である

『王政復古の大号令』に示された「神武創業ノ始ニ原」くとは、「祭政一致」の再興である。「祭政一致」とは、神をまつり神の御心のままに政治を行ふといふことである。

明治天皇は、明治元年十月十七日渙発の『祭政一致の道を復し氷川神社を親祭し給ふの詔』において「神祇を崇(たふと)び祭祀を重ずるは、皇國の大典にして、政教の基本なり。…方今更始の秋(とき)、新に東京を置き、親しく臨みて政を視る。将に先づ祀典を興し、綱紀を張り、以て祭政一致の道を復せむとす」と示された。

さらに、明治天皇は、明治三年正月三日『神靈鎮蔡の詔』を発せられ、神武天皇が橿原建都の後四年二月二十三日に発せられた『天神を祀り大孝を述べ給ふ詔』の大御心を継承されて、「朕、恭しく惟みるに、大祖の業を創(はじ)めたまふや、神明を崇敬し、蒼生を愛撫したまひ、祭政一致、由来する所遠し。朕、寡弱を以て、夙に聖緒を承け、日夜怵惕(じゅつてき)して、天職の或は虧(か)けむことを懼る。乃ち祇(つつしみ)てい天神・地祇・八神曁(およ)び列皇の神靈を、神祇官に鎮祭し、以て孝敬を申(の)ぶ。庶幾(こひねがは)くは、億兆をして矜式(きょうしき)する所有らしめむ」と宣せられた。

影山正治氏は、「『諸事神武創業ノ始ニ原カム』ことを御眼目とされた明治御維新は、何よりも先づ祭政一致の大道大義を明らかにすることを以てその根本第一義とされた」(『古事記要講』)と論じてゐる。

復古の精神即ち祭政一致の精神は具体的には次のやうな形で現れた。明治四年十二月十二日付の左院(明治初期の立法諮問機関)の『建議』に「一、天照大神の神殿を禁域の中央に造立し、國家の大事は神前に於て議定すべきこと。…文武百官拝任の日は必ず神殿に拝して誓文を奉り、神教を重んじて皇室と共に國民を保安するの誠心を表せしむべ事。」とある。

「祭政一致」の制度を確立して、政治家・官僚はもちろん國民すべてが天神地祇へのかしこみの心を持って政治を行ひ、生活を営ませやうとした。神祇官の再興もその一環であった。

神祇官とは、律令制で、太政官と並ぶ中央最高官庁である。朝廷の祭祀をつかさどり、諸國の官社を総轄した。明治維新政府は、慶応四年(一八六八)閏四月、太政官七官の一として神祇官を再興し、神祇・祭祀をつかさどらしめた。明治四年(一八七一)八月八日にその規模を変じて神祇省と改称した。

「神武創業への回帰」といふ雄大にして宏遠なる精神は、近代日本の出発において、傳統を重んじつつ柔軟にして自由な変革を實現せしめる原基となった。

大原康男氏は、「(神武創業への回帰は・注)『歴史的拘束性』を否定して近代化への推進力となったが、同時にそれは急進的な欧化への歯止めともなっていた。従って復古即革新といふスローガンがいい意味でプラグマチックに活用されたことは否めないが、それも神武天皇の再臨としての明治新帝が担う傳統的な権威へのコンセンサスがあってのことだ。『古代的原理への回帰を下敷きにした近代國家の確立』というユニークなテーゼは非欧米諸國で近代化に成功した唯一の國日本の謎を解く鍵でもある」(『國體論と兵權思想』・「神道学」昭和五十五年五月号所収)と論じてゐる。

明治維新が力強く生き生きとして創造性に富む変革となった原因は「諸事神武創業ノ始ニ原カム」とする精神と「我國未曽有ノ変革」といふ自覚である。しかもこの二つの精神は、明治天皇の大御心として全國民に示された。復古の精神を基本に置きつつ自由大胆なる変革が断行できた。

この自由な発想の「生みの親」は實に、洋学者でもなければお雇ひ外國人でもない。實に國学者・玉松操であった。『岩倉公實記』には次のやうに書かれてゐる。「具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ諮問スル事、…具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範トスルニ足ラズト。之ヲ操ニ諮問ス。操曰ク、王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニセンコトヲ要ス。故ニ官職制度ヲ建定センニハ当ニ神武帝ノ肇基ニ原キ寰宇ノ統一ヲ図リ、萬機ノ維新ニ従フヲ規準ト為スベシ。」
「度量ヲ宏クシ、規模ヲ大ニ」した大変革が行はれる精神的素地は、實に「神武創業」への回帰といふ復古精神であった。

要するに、明治維新とは、「諸事神武創業の始に原く」=天皇の國家統治・祭政一致・一君萬民のわが國本来の姿=國體の開顕によって「未曽有の変革」を断行することだったのである。

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千駄木庵日乗十二月四日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、書状執筆、室内整理、原稿執筆など。


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2019年12月 3日 (火)

天皇の大御心にまつろひ奉ることが日本國民の道義心の根幹


天皇国日本存立および日本国民の倫理精神の基本は、天皇の「御稜威」と国民の「尊皇精神」である。神聖君主・日本天皇に「清らけき心」「明けき心」で随順したてまつることが、日本国永遠の隆昌の基礎であり、日本国民の倫理精神の基礎である。私心なく天皇にお仕へする心がもっとも大切である。それは、須佐之男命・日本武尊といふ二大英雄神の御事績を拝すれば明らかである。

支那の有徳王君主思想は、「君主に徳がなくなり間違ったことするやうになればこれを廃する」といふ思想である。日本の尊皇精神は、「天皇は現御神であらせられ、善悪の論を離れて絶対に尊びたてまつるべし」といふ至情である。これを「あかき心」(赤誠心)といふのである。

「あかき心」とは私心が無い即ち無私の心である。しかして、無私の心をもっとも体現しておられるお方が、祭り主・日本天皇であらせられるのである。なぜなら「まつり」とは、神に対して私を無くしてまつろひたてまつる行事であるからである。

日本伝統信仰の「祭祀」とは自己を無にして神に奉仕する(つかへまつる)といふことである。そして祭祀によって神と人とが合一する。天皇の「祭祀」とそれに伴ふ「無私の大御心」「神聖性」が日本國民の道義の規範なのである。

高天原にのぼってこられた須佐之男命に対して、天照大御神が「然(しか)あらば、汝(みまし)が心の清く明きは何を以ちて知らむ」とのりたまひしごとく、日本人の倫理道徳の根本は、「清明心」「正直」「まこと」「無私」にある。そして、祭り主日本天皇は、「清明心」「無私」の体現者であらせられる。

また、天照大御神が、天の岩戸からお出ましになってそのみ光が輝きわたった時、八百万の神々は一斉に「天晴れ、あなおもしろ、あな楽し、あな清明(さや)け」と唱へた。清々しく明るい日本民族精神は、天皇の神聖性を讃嘆し、その大御心に従ひ奉る精神なのである。

「現御神信仰」の公的表現は、『宣命』『詔勅』に現神(あきつかみ)と大八洲知ろしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと)」と示されてゐる。とりわけ『文武天皇即位の宣命』には「天津日嗣高御座の業と、現神と大八嶋知ろしめす倭根子天皇命の、授賜ひ負賜(おほせたま)ふ貴き高き廣き厚き大命受賜り恐み坐して……明き淨き直き誠の心以て、御稱(いやすす)み稱(すす)みて緩怠(たゆみおこた)る事無く」と示されてゐる。

「明き淨き直き誠の心」こそ、わが國の道義心の根本である。天皇は現御神として天の神の御心を地上で実現されるお方であり道義精神の最高の実践者であらせられるのである。

人間の限り無い欲望・闘争心を抑制せしめるには、天皇の無私にして神ながらなる大御心に回帰する以外にない。日本國の生命・歴史・伝統・文化・道義の体現者たる天皇の大御心・御意志にまつろふ(服従し奉仕する)ことが日本國民の道義心の根幹である。

「清明心(きよらけくあきらけきこころ)」は、「まごころ」「正直」と言ひ換へられる。まごごろをつくし、清らかにして明るい心で、大君に仕へまつる精神が古来のわが國の尊皇精神であ

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『伝統と革新』第三十四号

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『伝統と革新』第三十四号です。

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千駄木庵日乗十二月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、資料整理、原稿執筆、『伝統と革新』の仕事。

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平沢勝栄氏の会合で聴いたこと、思ったこと。


平沢勝栄氏は、安倍晋三総理の家庭教師をしていたので、安倍第一次内閣で初めて組閣する時すでに、内閣官房長官になるのではないかという噂が流れた。しかし、当選八回を重ねているのにいまだに入閣していない。安倍総理との間が上手くいっていないのではないかという噂されている。それよりも葛飾の選挙区で、公明党の山口那津男氏と議席を争い、猛烈な戦いを行った。そして平沢氏が創価学会公明党を厳しく批判した。その時の怨みがある公明党の妨害があるか、あるいは安倍氏が公明党に遠慮して、平沢氏を閣僚に起用しないのではないかと言われている。どっちにしても平沢氏のような官僚としても政治家としても長い経験を持ち、識見のある人が未だに入閣しないのは不自然な事である。

田原総一朗氏は祝辞で「私は少子高齢化に危機感を持っている。日本の医学が進歩して、あと十年もたてば日本人はどんな病気になっても死ななくなる。平均年齢は百二十歳になる。社会保障はどうするのか。年金支給年齢は七十五歳にしないと財政が破綻する。税金は今の二、三倍にしなければならない。非正規雇用者は結婚できなくなる。次の政権はこの問題を解決しなければならない。しかるに野党は何も言っていない」と語った。

實に深刻な問題である。


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千駄木庵日乗十二月二日

午前は、諸事。

 

午後は、室内整頓。資料の整理。

 

午後六時より、紀尾井町のホテルニューオータニにて、『平沢勝栄衆院議員政経文化セミナー』開催。竹本直一、衛藤晟一、加藤勝信、上田清、細田博之、中村玉緒、大月みやこ、田原総一朗に各氏などが祝辞を述べた。平沢勝栄氏がスピーチを行い、盛宴に移った。本日は中曽根康弘元総理のお通夜であったので、通夜に参列した二階俊博自民党幹事長などは出席が遅れたようで、小生が会場にいた間には姿を見せなかった。

 

帰宅後は、資料整理、原稿執筆など。

 

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2019年12月 1日 (日)

この頃詠みし歌

夢の中に父が出てきてベランダで雨が降り出したよと我にのたまふ

広き茶房で手を振り挨拶を交はしたる人とは再び逢ふことは無し

友どちの贈りくれたる正倉院展の図録をぱ拝ろがみにつつ頁めくれり

聖武天皇の御宸筆の書を拝しその美しさに心清まる

この國の永久(とは)の平和を寿ぎて正倉院展の図録を拝す

友どちの篤き情に涙せり重く大きな図録を賜へば

塩分控へめ酒控へめとの医者の言葉常に思ひつつ酒房にて座す

野党幹部の顔を見てみよ とても日本の政治を任せる顔には非ず

香港を強権支配の下に置かむとす習近平は笑顔浮かべて

我が手荒れ絆創膏だらけになりにけり冬来れるを知らせる如く

秋風に吹かれて霊園を歩みなば盛者必衰をあらためて思ふ

神代より受け継ぎ来たりし勇猛心ことある時に奮ひ立たさん

邪悪なる者共なべて討ち滅ぼしすめら御国を護りぬくべし

生きてゐし父母の姿を思ひ出し悲しみあらたに涙来湧ける

病人文学などと蔑まれし近代短歌たしかにそんな歌多きは悲しき

與謝野夫妻の歌などは幾度讀んでも心ふるひ立つことの嬉しき

茂吉迢空空穂左千夫の歌などは決して病人文学にはあらず

今日逢へど明日は逢へるか分からねば人の命のはかなさを思ふ

仕事終へさてこれから旅に出むと思へど病ひがそれを許さず

いざ言問はむと歌はれし隅田川近くのタワーが光りを放つ

あと一カ月で令和元年も去り行くか時の流れはとことはにして

今宵また同志ら集ひわが話を聞きてくれるは有難きかな

戦中と戦後の歌を比較すれば土岐善麿を好きにはなれず

反戦平和反戦平和と叫びつつ侵略国家の手先となる輩

久しぶりに土屋文明の歌を讀みにけりその豊かなる言葉の調べ

難解なる言葉羅列する短歌をば読む気はまづは起きて来ず

神の毛をふり乱し歩む知り人は我に気付かず通り過ぎたり

団子坂下交差点に佇める人々は皆文京区民か台東区民

平和を祈り核廃絶を叫ぶローマ教皇北朝鮮と支那を訪ふべし

日本には核兵器は在らず核廃絶はまづ支那朝鮮に行きて説くべし

アジアの平和と自由を踏み躙る共産支那を日本の野党は全く批判せず

静かなる静かなる夜は更けてゆく世の中は如何に騒がしくとも

亀井小沢古賀などといふ元権力者が正義の味方面をしても鼻白むのみ

戦後日本を立て替へて自主独立を求めんとせし政治家は去りぬ(中曽根康弘氏逝去)

憲法を正しくすべしと主張しつつ晩年を元気で生き来し政治家は去る(同)

国家民族の根幹のことを主張せし政治家はあはれこの世を去りぬ(同)

手放しでほめるにあらねどこの頃の政治家に比すればほめるほかなし(同)

長く続きし秋雨の日は去り行きて今朝はすがしく青空を仰ぐ

國體の危機迫りしと思ふ事決して杞憂とは思へざりける

占領下に押し付けられし憲法が國體を隠蔽することの恐ろしさ

皇嗣殿下も現行憲法にとらはれて身の丈に合った大嘗祭などとのたまひたまふ

もう既にわが国に革命は起りたるか外国製憲法に縛られをれば

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千駄木庵日乗十二月一日

午前は、諸事。

 

午後からは、在宅して、原稿執筆、書状執筆など。

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今の野党に政権を担う資格はない

野党議員たちが「桜を見る会」の出席者について調査するために、わざわざ山口県に赴いた。往復の交通費は、議員が負担したのか。そうでなければ公費だ。それこそ税金の無駄遣いだ。追及する共産党の女性議員の人相の悪さにはぞっとする。何とか安倍政権を追い詰めようとしているのだろうが、今の野党の程度の悪さを満天下に示している。原口一博がシャカリキになっているが、同じ佐賀出身の国民運動家・末次一郎氏主催の会合で何回かお会いしたので、この人はもう少しまともな人と思っていただけにがっかりだ。ともかく今の野党には政権担う資格はない。だから自民党政権が続くのである。

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「萬葉古代史研究會」のお知らせ

小生が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 十二月十一日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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『東山魁夷の青 奥田元宋の赤―色で読み解く日本画』展参観記

本日参観した『東山魁夷の青 奥田元宋の赤―色で読み解く日本画』展は、「東山魁夷(ひがしやまかいい)の青、奥田元宋(おくだげんそう)の赤―。ある特定の色が画家の名と結び付けられ、代名詞のように語られることがあります。絵画の中の色は、作品のイメージや画家本人の世界観を伝えるうえで、重要な役割を担っているといえるでしょう。このたび山種美術館では、近代・現代の日本画から印象的に色が表された作品を取り上げ、画家と色の密接な関わりをひもとく展覧会を開催いたします。
明治時代に入り、日本は様々な分野で西洋の影響を受けましたが、絵画の色も例外ではありませんでした。元来、日本美術の伝統的な絵具は、群青は藍銅鉱(らんどうこう)、白は胡粉などに見られるように、鉱石や貝殻をはじめとする天然素材が主に用いられてきました。そのため、表現できる色数も限られていましたが、近代以降、多彩な合成顔料の流入や、新たな人造の岩絵具が開発されたことなどにより、色の種類が増加していきます。
このような画材の広がりは、日本画家に刺激と表現の多様化をもたらしました。画家たちの間では新たに開発・輸入された合成絵具や西洋の色彩学などを取り入れて制作を試みる者がいる一方で、天然岩絵具を中心とした伝統的な彩色表現が日本画の神髄とみなす者もおり、それぞれが日本画ならではの色の可能性を追求しながら、バリエーション豊かな作品を生み出しています。…画家が自らの芸術を創造するため、どのような色を制作に活かしたのか、それぞれの言葉や、社会的背景などを踏まえながら、色を通じて見えてくる画家たちの軌跡をご紹介いたします。」(案内書)との趣旨で開催された。

 

宮廻正明《水花火(螺)》 竹内栖鳳 《鴨雛》 奥村土牛 《舞妓》 田渕俊夫 《輪中の村》 柴田是真《円窓鐘馗》 奥田元宋《奥入瀬(秋)》 東山魁夷《年暮る》 宮廻正明《水花火(螺)》 竹内栖鳳《鴨雛》 山口蓬春《卓上》 千住博《松風荘襖絵習作》 小林古径《秌采》 田渕俊夫《輪中の村》 安田靫彦《観世音菩薩像》などを参観。

 

近代日本の日本画家の美しい作品が展示され実に見ごたえがあった。会場に入って作品を見た途端に心やすらぎを覚えた。色彩美が素晴らしい。ということはそれを描くために眺め描写した日本の自然が美しいということである。こういう絵画を見ると本当に日本に生まれて良かったとあらためて思う。日本の自然が破壊されつつあると言われる。自然が破壊されないことを切に祈る

 

奥田元宋の作品は今回初めてゆっくり鑑賞したが、迫力があり強い力が感じられる。私は、日本の風景画では。川合玉堂が最も好きである。

 

こうした日本画は、藤田嗣治や岡本太郎とは全く異なる世界であるが、どちらも好きだ。岡本太郎は、「芸術は爆発だ」と言ったが今日参観した日本画の世界はそういう世界ではない。「爆発」ではなくあくまでも「美」が描かれている。

 

私宅のある千駄木(旧町名・駒込林町)には児玉希望という画家が住んでいたが、奥田元宋は児玉希望の弟子であるという。児玉希望の作品も色彩が見事であると思うのだが、今回は展示されていなかった。

 

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