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2019年9月25日 (水)

日の神信仰の傳統が佛教的に表現された奈良の大佛

天平時代は、「長屋の王の変」「旱魃による飢饉」「天然痘の流行」「藤原広嗣の乱」などが続いた。聖武天皇は御心を悩ませられ、様々の災厄の原因は御自身の不徳にあると自覚せられた。一切を自己の責任とされるすめらみことの仁慈の大御心が、佛教の慈悲の精神と一致し、佛教への信及び佛の慈悲と加護によって災厄から國家・國民を救ひたいと念願あそばされた。佛教とりわけ『金光明最勝王経』に説かれてゐる〈四天王の國土擁護の思想〉で、國を救済しようと思し召された。

そして、天平十三年(七四一)三月に『詔』を発せられて、諸國に國分寺(金光明四天王護國寺)・國分尼寺(法華滅罪寺)を建立するように命じられた。これらの寺は、鎮護國家の祈りを全國的な規模で行おうとしたものであった。

『國分寺建立の詔』(天平十三年三月廿四日)には「頃者(このごろ)、年穀(ねんこく)豐(ゆたか)ならず、疫癘(えきれい)頻(しきり)に至る。慙懼(ざんく)交(こもごも)集りて、唯勞して己を罪す。是を以て、廣く蒼生の爲に、遍く景福を求む。…聖法の盛なること、天地と與に永く流へ、擁護の恩、幽明に被りて恒に滿たむことを」と示されてゐる。

つまり、聖武天皇は國分寺の建立によって、國民の幸福を希求し、佛法が永遠に盛んになってその恩沢が満ちること即ち佛法による國家・國民の救済を願はれたのである。

聖武天皇は、國内の色々な災厄の続発によって精神的に弱くなられ、外来の佛教に救ひを求め『大佛』を造立せられたといふ説がある。

しかし、聖武天皇は、

「食國の 遠の朝廷(みかど) に 汝等(いましら)し かく罷りなば 大ららけく 吾は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ 天皇朕(すめらわ)が うづの御手もち 掻き撫でぞ 勞(ね) ぎたまふ うちなでぞ 勞ぎたまふ 還り來む日 相飲まむ酒(き) ぞ この豐神酒は」 

「ますらをの行くとふ道ぞ凡(おほ)ろかに思ひて行くな丈夫の伴」(『萬葉集』巻六)

といふ強く堂堂とした立派な日本男児の道を讃へられたまことにも雄渾な調べの御製をのこされてゐる。

聖武天皇は、天平十五年(七四三)『盧舎那大佛造立の詔』を発せられ、鎮護國家の祈りを全國的規模で行ふ日本國の総國分寺として東大寺を建立された。本尊は廬遮那佛(ろしゃなぶつ)である。廬遮那とは光明遍照といふ意味であり、遍く全宇宙を照らす存在としての佛である。インドの太陽神にほかならず、密教では大日如来である。「毘廬遮那佛」「遮那佛」とも言ふ。その太陽神たる廬遮那佛が蓮華座の中心(蓮華は宇宙を意味する)に座して照り輝くことによって、明るく大いなる國家の實現を願った。様々の困難を打開し、太陽を中天に仰いで、明るい國家を建設していこうといふのが、聖武天皇をはじめとしたこの時代のわが民族の願望であった。

『盧舎那大佛造立の詔』を発せられる二年前の天平十三年(七四一)十一月三日、聖武天皇は、右大臣・橘諸兄を勅使として伊勢神宮に東大寺大佛建立の祈願を行はしめられた。 

諸兄はこの時、「当朝は神國なり。尤も神明を欽仰(注・うやまひつつしみ仰ぐこと)し奉り給ふべきなり、而して日輪は大日如来なり、本地は廬遮那佛なり、衆生此の理を悟り解いて、當に佛法に帰すべし」といふ『示現(注神佛が不思議な靈験をあらわすこと)』を得た。

中西進氏は、「盧舎那佛さながらに君臨するのが聖武天皇の目標だった。いわゆる本地垂迹説では釈迦の垂迹したものが天照大御神だという。…聖武天皇が一方で大佛建立を進めながら、伊勢神宮に行基や橘諸兄を遣して神意をうかがわせるのも、そのひとつであろう。諸兄が伊勢神宮から帰京したのち、聖武天皇の夢に、日本は神國で、日輪は大日如来、その本地は盧舎那佛だから、佛法に帰依すべきだというお告げがあった。これは盧舎那佛と天照大神を同一視しようとする傾向の現われに違いない。」(『聖武天皇』)と論じてゐる。

千葉の蓮華の真中に廬遮那佛を置いて礼拝することは、大宇宙の光明遍照の中心であるところの太陽神を礼拝することと同義である。そして、わが國においてもっとも尊貴な神として仰がれ、皇室の御祖先神と仰がれる天照大神は太陽神である。つまり、わが國の天照大神への信仰といふ傳統信仰が佛教的に表現されたのが奈良の大佛の造立だったのである。

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