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2019年9月30日 (月)

日本共産党は自由を圧殺する

共産党を「リベラル政党」とするのは全く間違ってゐる。最近、「リベラル」(liberal)といふ言葉をよく聞くやうになった。「リベラル」とは、「自由な」といふ意味を持つ言葉で「自由主義」「リベラリズム」のことを指すといふ。そして「リベラル」とは「個人の自由を尊重する思想的な立場」といふのが本来の意味ださうである。

自民、公明、希望、維新四党を「保守派」、共産、立憲民主、社民三党を「リベラル派」と位置づけて語られるケースが多くなった。偏向メディアは、共産・社民両党を繰り返し「リベラル」と報道してゐる。しかしこれは全く間違ってゐる。

共産主義こそ、「個人の自由を尊重する思想的な立場」であるところの「自由」を束縛し蹂躙する政治思想であり、共産国家こそ「自由」を束縛し蹂躙する国家であり、共産主義政治集団こそ「自由」を束縛し蹂躙する政治集団である。共産党・社民党といふ独裁専制国家共産支那・北朝鮮と同根の政党、共産支那・北朝鮮を結果的に利する立場を取る政治勢力・政治家を「リベラル」と呼ぶのは全く間違ってゐる。

中国共産党・朝鮮労働党は、世界の中で最も「自由」を圧殺してゐる政党である。共産・社民(旧社会)の二つの政党は、長い間北朝鮮・共産支那と「友好関係」「兄弟関係」にあった。日本共産党・社民党は中国共産党・朝鮮労働党と同根である。

日本共産党がいかに「自由」を敵視する政党であるかは、『日本共産党の四五年』(日本共産党中央委員会発行)を讀めば明らかである。その本には以下のやうな記述がある。

「第七回党大会では、一九五八年(昭和三十三年)夏、東京でひらかれました。大会は、中央委員会が提出した政治報告と行動綱領、党規約を圧倒的多数で採択し、中央委員会を選出しました。大会は、これをかちとるため一年にわたるカンパニア(注・政治闘争)は、自由主義、分散主義、『左』右の日和見主義、修正主義とのはげしい闘争をともなっていました」「第七回党大会以後も、わが党の内部に自由主義、分散主義、修正主義の傾向がなお根づよくのこりました」。
さらに『日本共産党の四五年』には「アメリカ帝国主義は、(注・一九五〇年)六月二十五日、わが国を前進基地として朝鮮への侵略戦争を始めました」などと嘘八百を書いてゐる。クロをシロと言ひくるめる共産党の体質は全く恐るべきものがある。共産党とはかかる政党であることわれわれは正しく認識すべきである。

北朝鮮や共産支那と本来同根の日本共産党にとって「自由主義」は敵なのである。このやうな政党を「リベラル政党」などとするのは全く間違ってゐる。「日本共産党は創立以来一貫して自由と民主主義の為に不屈に戦ってきた」などといふのは全く大嘘であり、真逆のことを言ってゐるのだ。

社会主義・共産主義は、国民の自由を圧殺し統制国家・専制独裁国家を建設せんとする思想である。実際にロシア・共産支那・北朝鮮などの社会主義・共産主義国家はさういふ国家である。

リベラル=自由を圧殺する政党を「リベラル」などと言ふのは偏向メディアに巣食ってゐる共産主義者・社会主義者の謀略・情報操作である。

偏向メディア・共産党・立憲民主党最左派(旧社会党)は、戦後一貫して共産支那・北朝鮮の手先であったが、今もさうなのである。

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2019年9月29日 (日)

千駄木庵日乗九月二十九日

午前は、諸事。

 

午後は、室内整理、原稿執筆の準備。

 

午後六時より、春日の文京区民センターにて、『第九十九回日本の心を学ぶ会』開催。林大悟氏が司会。渡邊昇氏が主催者挨拶。小生が「明治維新と井伊直弼」と題して講演。活発な質疑応答と討論が行われた。

 

帰宅後は、原稿執筆など。

 

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今日幼馴染と語り合ったこと

今日は日暮里で幼馴染みと語り合ったのですが、今と同じやうに我々の幼少の頃にも色々凶悪なる事件、悲惨な事件が起こりました。私宅の近い地域で起きた事件について記してみます。

高校時代の昭和三十八年には、吉展ちゃん誘拐殺人事件が起こりました。事件が起こった入谷、吉展ちゃんの御遺体が発見された南千住は、私宅に比較的近いところでした。高校の同級生に名前が「義信」という人がゐましたので、余計忘れられない事件です。

昭和三十七年には、三河島事故が国鉄常磐線三河島駅構内で発生しました。死者160人、負傷者296人を出し、「国鉄戦後五大事故」の一つとされています。私は木造の長屋のわが家で寝転がっていましたが、遠くからドシンという地響きのような音を感じまた。

比較的新しい事件ですが、平成七年三月三〇日に当時警察庁長官であった國松孝次氏が何者かに狙撃された事件が起こった。この時は、今住んでいるマンションに引っ越してきたばかりでした。朝、部屋の掃除をしていると物凄いサイレンの音が聞こえましたので、ベランダに出て見下ろしますと、西日暮里方面から来た車列が日本医大病院のある千駄木二丁目方面に走って行きました。救急車の前後をパトカーが数台挟んで物凄い勢いで走って行きました。

今も、世の中は表面的には平和で落ち着いているように見えますが、実際にはそうではなく、色々不安定なものがあると思います。人心も決して安定したゐないと思います。殺人事件は殆ど毎日起ってゐます。そういう時に、既成宗教・新宗教・新新宗教がかつてのような救済のエネルギーを失っているというのですから困ったことです。


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千駄木庵日乗九月二十八日

午前は、諸事。室内清掃。明日行う『日本の心を学ぶ会』における講演準備。

この後、北区にある菩提寺に参詣。住職夫人に挨拶。四宮家の墓所を掃苔、拝礼、般若心経読誦、ご加護とご冥福を祈らせていただいた。

日暮里の蕎麦屋にて、幼馴染と言うか永年の友人と懇談。ここの蕎麦はとても美味しい。思い出話の花が咲く。

帰宅後も、明日の講演の準備、資料の整理。

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2019年9月27日 (金)

この頃詠みし歌


気に入らぬこと多き日々を生きてゆく 風にさらされる街燈の如く

友どちを祝ふ宴(うたげ)に多くの同志(とも)集ひ来れり嵐近づく夜

大嵐ついに来たれるか風のうなり声響き渡れる午前一時過ぎ

明治維新を戦ひ国を新たならしめし人々は皆三十代四十代の人

大久保利通は紀尾井坂に命落とし西郷南洲は故郷(ふるさと)に死す

何事も為し得ずに生きて来たけれどまだこれの世を去りたくはなし

漸くに秋来たれるか涼しき風吹き来て大空は高く澄みきる

髙光る日の御子新たに天降り日の本の國を新たならしめたまふ

老人や病人が停電に苦しむに内閣改造などとは如何に

皇国(すめくに)に命捧げし人々の御霊は今も國護ります

靖國の宮に祀られし御霊たち有難くもわが国を護りたまへる

自分は土建屋の我が儘娘なるに 小泉進次郎をバカ息子と罵りし愚かさ

人は皆次第に老いてゆくことは絶対的に否定は出来ぬ

楠公像も桜田門も見ゆるなる出光美術館の窓辺にぞ立つ

体調故か鰻の蒲焼うまくなしああ勿体無い支払ひし金

看護師などと言ふのは大嘘 鬼か悪魔か母を苦しめしその顔

小夜更けて聞こえ来るなり西日暮里の駅を過ぎゆく電車の音よ

秋の彼岸と根津の祭礼が重なりて今日も賑わはふ不忍通り

三崎坂の上なる蕎麦屋の名前こそ慶喜と言ふはおかしかりけり

老夫婦と言へども我と同い年うまき物を作りくれることのうれしも

妻も無く子も無き我は父母(ちちはは)もこの世を去りてさみしさ無限

亡くなりし友多けれどまだ死なぬ我は生きゆかんとの決意は堅し

月眺め物悲しくぞなりにけるやがて消えゆくわが身なりせば

不忍池の蓮の葉風に吹かれ初秋の空の下に耀よふ

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千駄木庵日乗九月二十七日

午前は、諸事。

午後は、印刷所の人来宅。『政治文化情報』の印刷について相談。

この後、原稿執筆の準備、原稿執筆など。

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日本人は上代から今日に至るまで、月を愛で、月を拝み、月を歌って来た

お月様、お日様、お星様といふ言葉がある。日本人は自然を尊び愛し敬意を持ってゐることの証しする言葉である。英語にかういふ表現があるのであらうか。「ミスター・ムーン」「ミス・サン」「ミスター・スター」といふ言葉はないのではないか。

「月」は、日本人が歌や俳句によく詠まれる。日・月・星の中でも、月が最も日本人に親しまれて来たと思はれる。日常生活において、「月」は最も親しい自然景物なのではないか。

ところが、月讀命は、神話物語に一回しか登場せず、全国の神社に祀られることは少なかったが、「月」は日本人の愛され続けてきた。日本人は「月」をこよなく愛した。古代以来、国民一人一人が生活の中で「月」に親しんできたからこそ、「神やしろ」にあらためて神として祀ることがなかったのでなからうか。

『萬葉集』の歌から、現代日本の歌・歌謡に至るまで、「月」を題材とした作品は数多い。月讀命が神やしろに祀られることが比較的少なく、且つ、月讀命が神話物語にも一回しか登場しないことを考へれば、これは実に不思議である。

「神としての月」はあまり歌はれも語られも祀られもしないのに、「月」そのものは古代から現代に至るまで日本人に親しまれ、愛され続けてゐるのである。

月を眺めて楽しむことを「月見」と言ふ。「月見」は、主に旧暦八月十五日から十六日の夜(八月十五夜)に行はれる。野口雨情作詞・本居長世作曲『十五夜お月さん』といふ童謡もある。この夜の月を「中秋の名月」と言ふ。

折口信夫氏は次のやうに論じてゐる。「月見の行事の心の底には、昔から傳ってゐるお月様を神様と感じる心が殘ってゐる。さういふ風に昔の人が、月夜見命などゝいふ神典の上の神とは別に、月の神を感じて居り、その月の神に花をさしあげるのが、月見といふのです。月見はお月さんのまつりのことです。……神が天から降りて來られる時、村里には如何にも目につく様に花が立てられて居り、そこを目じるしとして降りて來られるのです。昔の人はめいめいの信仰で自分自身の家へ神が來られるものと信じて、目につくやうに花を飾る訣なのです」(『日本美』)。

この折口氏の論述で注目されるのは、日本人の多くは、月夜見命といふ神典に登場する神とは別に、月の神を感じてゐたとしてゐることである。これは一体どういふことか。

上代から今日に至るまで、日本人は月を愛で、月を拝み、月を歌って来た。しかしそれは、『記紀』に登場する「月夜見命」を拝んだり祭ったり歌ったりしてきてゐるのではないと、折口氏は言ふのである。

自然は美しい。特に「月」は、月が人間にやすらぎを与へる。月の不可思議な光は、恋に悩めるものを慰め、労はってくれる。それは日本人特有の信仰精神と美意識に深くかかはると思はれる。古来日本人は、夜空に浮かぶ月を見て格別の詩情をそそられ、月もまた何事かを地上の人間に語りかけて来た。われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。人間の力が自然を征服するなどといふ傲慢な考へ方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。自然に宿る神々に畏敬の念を持つことが大切である。

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千駄木庵日乗九月二十六日

午前は、病院に赴き、治療・検査を受ける。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事。原稿執筆の準備など。

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2019年9月25日 (水)

日の神信仰の傳統が佛教的に表現された奈良の大佛

天平時代は、「長屋の王の変」「旱魃による飢饉」「天然痘の流行」「藤原広嗣の乱」などが続いた。聖武天皇は御心を悩ませられ、様々の災厄の原因は御自身の不徳にあると自覚せられた。一切を自己の責任とされるすめらみことの仁慈の大御心が、佛教の慈悲の精神と一致し、佛教への信及び佛の慈悲と加護によって災厄から國家・國民を救ひたいと念願あそばされた。佛教とりわけ『金光明最勝王経』に説かれてゐる〈四天王の國土擁護の思想〉で、國を救済しようと思し召された。

そして、天平十三年(七四一)三月に『詔』を発せられて、諸國に國分寺(金光明四天王護國寺)・國分尼寺(法華滅罪寺)を建立するように命じられた。これらの寺は、鎮護國家の祈りを全國的な規模で行おうとしたものであった。

『國分寺建立の詔』(天平十三年三月廿四日)には「頃者(このごろ)、年穀(ねんこく)豐(ゆたか)ならず、疫癘(えきれい)頻(しきり)に至る。慙懼(ざんく)交(こもごも)集りて、唯勞して己を罪す。是を以て、廣く蒼生の爲に、遍く景福を求む。…聖法の盛なること、天地と與に永く流へ、擁護の恩、幽明に被りて恒に滿たむことを」と示されてゐる。

つまり、聖武天皇は國分寺の建立によって、國民の幸福を希求し、佛法が永遠に盛んになってその恩沢が満ちること即ち佛法による國家・國民の救済を願はれたのである。

聖武天皇は、國内の色々な災厄の続発によって精神的に弱くなられ、外来の佛教に救ひを求め『大佛』を造立せられたといふ説がある。

しかし、聖武天皇は、

「食國の 遠の朝廷(みかど) に 汝等(いましら)し かく罷りなば 大ららけく 吾は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ 天皇朕(すめらわ)が うづの御手もち 掻き撫でぞ 勞(ね) ぎたまふ うちなでぞ 勞ぎたまふ 還り來む日 相飲まむ酒(き) ぞ この豐神酒は」 

「ますらをの行くとふ道ぞ凡(おほ)ろかに思ひて行くな丈夫の伴」(『萬葉集』巻六)

といふ強く堂堂とした立派な日本男児の道を讃へられたまことにも雄渾な調べの御製をのこされてゐる。

聖武天皇は、天平十五年(七四三)『盧舎那大佛造立の詔』を発せられ、鎮護國家の祈りを全國的規模で行ふ日本國の総國分寺として東大寺を建立された。本尊は廬遮那佛(ろしゃなぶつ)である。廬遮那とは光明遍照といふ意味であり、遍く全宇宙を照らす存在としての佛である。インドの太陽神にほかならず、密教では大日如来である。「毘廬遮那佛」「遮那佛」とも言ふ。その太陽神たる廬遮那佛が蓮華座の中心(蓮華は宇宙を意味する)に座して照り輝くことによって、明るく大いなる國家の實現を願った。様々の困難を打開し、太陽を中天に仰いで、明るい國家を建設していこうといふのが、聖武天皇をはじめとしたこの時代のわが民族の願望であった。

『盧舎那大佛造立の詔』を発せられる二年前の天平十三年(七四一)十一月三日、聖武天皇は、右大臣・橘諸兄を勅使として伊勢神宮に東大寺大佛建立の祈願を行はしめられた。 

諸兄はこの時、「当朝は神國なり。尤も神明を欽仰(注・うやまひつつしみ仰ぐこと)し奉り給ふべきなり、而して日輪は大日如来なり、本地は廬遮那佛なり、衆生此の理を悟り解いて、當に佛法に帰すべし」といふ『示現(注神佛が不思議な靈験をあらわすこと)』を得た。

中西進氏は、「盧舎那佛さながらに君臨するのが聖武天皇の目標だった。いわゆる本地垂迹説では釈迦の垂迹したものが天照大御神だという。…聖武天皇が一方で大佛建立を進めながら、伊勢神宮に行基や橘諸兄を遣して神意をうかがわせるのも、そのひとつであろう。諸兄が伊勢神宮から帰京したのち、聖武天皇の夢に、日本は神國で、日輪は大日如来、その本地は盧舎那佛だから、佛法に帰依すべきだというお告げがあった。これは盧舎那佛と天照大神を同一視しようとする傾向の現われに違いない。」(『聖武天皇』)と論じてゐる。

千葉の蓮華の真中に廬遮那佛を置いて礼拝することは、大宇宙の光明遍照の中心であるところの太陽神を礼拝することと同義である。そして、わが國においてもっとも尊貴な神として仰がれ、皇室の御祖先神と仰がれる天照大神は太陽神である。つまり、わが國の天照大神への信仰といふ傳統信仰が佛教的に表現されたのが奈良の大佛の造立だったのである。

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千駄木庵日乗九月二十四日

午前は、諸事。

午後は、印刷会社の人来宅。『政治文化情報』の印刷について相談。

この後、原稿執筆、書状執筆など。

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日本固有信仰と佛教の受容

『日本書紀』によると、わが國への佛教公式的な傳来は、欽明天皇十三年(五五二)とされ、百済の聖明王が、欽明天皇に釈迦佛像や経典を献じた時であると記されてゐる。しかし、別の説では欽明天皇七年(西暦五三八)のことだったとされる。

『日本書紀』によると、この時、欽明天皇は、佛像の美しさに驚嘆され次のように仰せになったと傳へられる。「西蕃(にしのくに)の献(たてまつ)れる佛の相貌瑞厳(みかおきらきら)し、全(もは)ら未だ曾て看ず」。

日本の固有信仰は自然そのものそして祖霊を神として信仰するのだから、佛像のような美しく威厳のある姿を表現した偶像を造りそれを「神の像」として礼拝することはなかった。だから百済の王様から献じられた金色燦然とした佛像を見て、その美しさに驚嘆したのである。佛教への驚異の念は佛像に対する驚異だったと言へる。

またここで注目すべきことは、日本に佛教を傳へた支那や朝鮮を「中華思想」の言葉を用いて「西蕃」(西方の未開人といふの意)と表現してゐることである。これは、日本の独立性・自主性の高らかな誇示であり、支那・朝鮮から多くの文化・文明を輸入してゐた『日本書紀』編纂当時にあって、日本人は支那・朝鮮に対して属國意識を持ってゐなかったことの証明である。

欽明天皇が、佛教を採用するかどうかを群臣に諮問あそばされた際、佛教受容を支持した蘇我稲目(佛教を日本に傳へた百済系の渡来人といはれてゐる)は「西蕃諸國、一に皆之を礼(いやま)ふ。豊秋日本(とよあきつやまと)、豈に独り背かむや」と答へた。「西方の蕃人の國々も信仰してゐるのだから、わが國でも信仰しても良いのではないか」といふ意味である。古代日本における佛教の受容に、深い精神的・信仰的葛藤があったわけではなかったと推測される。

本居宣長は日本人が「神」として崇める対象を「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳がありて、可畏(かしこ)きもの」としてゐる。

欽明天皇の御代に外國から到来した佛像もさうした外来の「神」であった。だから『日本書紀』は「佛」とは書かず「蕃神」と書いたのである。

「蕃神」と名付けられた「佛」も、日本人にとっては「神」なのだから固有信仰の「神」と矛盾するものではなかった。「異國の蕃神」も「世の常にない徳と力」があるのだから崇拝してもいいではないかといふのが、当時の日本人の基本的な態度だったのであらう。日本人にとって佛とは八百萬の神が一神増えたといふ感覚であったと思はれる。

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千駄木庵日乗九月二十四日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、書状執筆、原稿執筆、原稿執筆の準備など。

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2019年9月24日 (火)

第99回 日本の心を学ぶ会

第99回 日本の心を学ぶ会

テーマ 明治維新と尊皇攘夷思想を考える。

明治維新とは幕末期から明治初期に行われた政治的な改革と一般的には言われます。
最近では従来の歴史観に異議を唱え明治維新を薩長によるクーデターであり維新の志士はテロリストであると評する歴史観も流布されております。確かに明治維新に権力闘争の側面があったことは否定できません。
しかし維新の原動力となった思想を正しく理解しなくては明治維新をも正しく理解することは到底できません。維新の原動力となった思想は尊皇攘夷思想です。
天皇を唯一の君主と仰ぐ日本國體を明らかにして内憂外患交々来たる国難を乗り越えたのが明治維新です。我が国本来の姿を顕現する事によって国家を変革することが維新であります。
ところが現在、尊皇攘夷という思想は正しく理解されておりません。それどころか攘夷という言葉は偏狭な排外主義であるという誤解すら広がっております。
幕末と同じく今日の日本も内憂外患の情勢のなかにあり、維新についての正しい理解が求められています。そこで今回の勉強会では明治維新とその原動力となった尊皇攘夷思想について考えてみたいと思います。
ます。
【日 時】令和元年9月29日 午後6時から
【会 場】文京区民センター 2-B会議室
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html
文京区本郷4-15-14/03(3814)6731都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分
【演 題】明治維新と井伊直弼
【講 師】四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表
【司会者】林大悟
【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)
【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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2019年9月23日 (月)

現代日本においても強靱にして自由な日本民族の傳統的な文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない


笹川良一氏は生前、「世界は一家、人類は兄弟」という標語を宣傳してゐた。そしてその一方で、「戸締り用心、火の用心」といふ標語の宣傳してゐた。世界が一家・人類は兄弟なら戸締りはいらないはずなのだが、さうはいかないといふのが現實なのである。さういふ意味で、『東アジア共同体』『國連中心主義』『友愛の海』などといふ現實離れした考へ方は實に以て危険千万である。

鳩山由紀夫前総理等によっていまだに唱へられてゐる「東アジア共同体論」は、EUが引き金になって、東アジアにおいて構想されてゐる地域共同体構想であり、共産支那を含めた東アジア地域を統合したブロック経済によって、米國、欧州共同体に匹敵する地域連合を成立させようとする概念であった。つまり「日本・韓國・支那とアセアン(東南アジア諸國連合)諸國をメンバーとして経済統合・政治・安全保障・文化的・外交的一体化を進める」といふことのやうである。インド・オーストラリア・ニュージーランド果てはアメリカまで含めるといふ意見もあった。こんな「共同体」建設き不可能であることは自明である。

全世界の國家がさうであるように、東アジアにおいても大陸國家と半島國家・海洋國家とに分けられる。支那は大陸國家であり、朝鮮は半島國家であり、日本や東南アジア各國は海洋國家である。戦争が起こる確率が高いのは、半島國家である。大陸國家・半島國家・海洋國家が「共同体」を形成することはきはめて難しいといふか、不可能に近い。 

日本と支那が「共同体」を形成することは、日本が大陸との関係を今日以上に深めることである。これまでの歴史で、日本が大陸に進出して成功したためしはない。

戦前は、軍事的・政治的に大陸に深入りして、ソ連中共の謀略に引っかかり、泥沼の戦ひとなって日米戦争にまで進み敗北した。戦後は、経済的に深入りして、金と技術をまきあげられ、共産支那を軍事大國にしてしまひ、かへってわが國の安全と独立が脅かされてゐる。

日本が危機的状況に陥ったのは、今が初めてではない言ふまでもない。といふよりも日本の歴史は外圧の危機との戦ひの歴史であった。飛鳥・奈良時代も、江戸時代末期も、今日と同じやうな危機に遭遇した。そしてわが國はその危機を乗り切った。飛鳥・奈良時代にも、儒教や佛教をはじめとした外来文化・文明が怒涛の如く日本に流入してきた。日本は、さうした言はば当時のグローバリズムの波に呑みこまれることなく、たくみに対峙しつつ、日本独自の文化と政治を確立し、自立した國家を作り上げた。そして、平安時代といふ長きにわたる平和の時代を招来せしめた。

日本の歴史の中で長期にわたって続いた平和な時代が二つある。平安時代の三五〇年と江戸時代の二五〇年である。これほど長期にわたって平和を持続させた國家は世界史的にも日本だけであるといふ。その基礎を築いた時代が、飛鳥・奈良時代であった。

また、江戸時代末期にも、同じような危機に際會したが、明治維新を成し遂げ、日本の独立を守り、近代化を遂げた。

つまり、わが國の歴史は、今日で言ふグローバリズムと対峙し、それを克服し、國家民族の独立と栄光を維持し発展させてきた歴史なのである。その最大の要因は、天皇・皇室を祭祀主と仰いで國の統一と安定を確保するといふ強靭なる日本國體精神である。

日本民族がグローバリズムの波に呑みこまれることなく、外来文化・文明を自由に柔軟に受け容れ、自己のものとしさらに発展させた基盤の中核が、天皇・皇室のご存在である。

わが國の建國の精神は、「八紘爲宇」の精神である。これは、世界は色々な民族・國家が連帯し共存する一つの家であるといふ精神である。また近代日本の父と仰がれる明治天皇御精神は、「四海同胞」の精神である。これは、世界の民は兄弟であるといふ精神である。日本は本来的に言葉の真の意味における平和國家である。

日本はその傳統信仰の靈的精神の偉大なる包容力によって、よく他國の宗教・文化・文明を取り入れてそれを融和せしめ洗練して、強靱にして高度な日本文化として開花せしめる力を持ってきたのである。

世界各國各民族にはそれぞれ傳統精神・傳統文化を保持してゐる。世界各國は、各民族の個性・立場・歴史・傳統を尊重し合ひ、真の意味の平和な世界を實現しなければならない。 現代日本においても、この強靱にして自由な日本民族の傳統的な文化感覚を発揮して、危機的状況を打開していかなければならない。日本の伝統的な「祭祀の精神」はそれが可能であると信ずる。

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千駄木庵日乗九月二十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、原稿執筆など。

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2019年9月22日 (日)

三月三日に開催された『元号の本質を考える緊急国民集会』における登壇者の発言

三月三日に開催された『元号の本質を考える緊急国民集会』における登壇者の発言は次の通り。

杉本延博奈良県御所市議会議員「改元はこれまで二百四十七回あった。明治大帝の下、一世一元の制度となった。大化から平成の御代まで続いてきたことをしっかりと伝えていく。元号は独立国家の象徴。事前公表は何としても阻止すべし。元号制定權は内閣に移ったが、御名御璽は賜らねばならない。五月一日のご即位・四月一日の公表は、一世一元に抵触する。元号法にも合わない。天皇の統治権である元号制定権・官位授与権は江戸時代も守られてきた。事前公表も無かった。歴史伝統に基づいて元号を制定すべし。御名御璽が無ければ政令は公布できない。事前公表はあり得ない」。

鈴木信行東京都葛飾区議会議員「天皇は『時』をも支配することは、海外の異文化に対して、日本は天皇国であることを示している。萬世一系の皇位継承に揺るぎはない。事前公表されても『天壌無窮の御神勅』に基づく皇位継承に揺るぎはない。新しい御代になってから新天皇が元号をお決めになり公布されるのでなければならない。政府は皇位より憲法を優先させた。『特例法』ではなく『皇室典範』を改正すべきだった。独自文化を利便性で蔑にするのは軽率。元号は政府が決めて良いことではない。御名御璽をいただいて決定され公布される。今上天皇に二回も改元を公布して頂くことになる」。

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千駄木庵日乗九月二十二日

午前は、諸事。

午後からは、『伝統と革新』編集の仕事、資料整理、原稿執筆。

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日本の朝鮮統治は日本が投資と開発・教育の普及を行うことによって、朝鮮と共存・共栄の道を歩んだ偉業であった


                              
 明治維新を断行したわが国は、李氏朝鮮を援けて清国の侵略を排除した。また朝鮮半島を侵略しようとしたロシアの野望を撃破した。この二つの戦いが日清・日露両戦争である。当時の朝鮮半島が独立国家として自立していれば、わが国は、日清・日露両戦争をする必要もなかったし、朝鮮を併合する必要はなかったのである。しかし、朝鮮が支那やロシアに対して「事大主義」(支那・ロシアという勢力の強い国に従って言いなりになること)に陥り、支那・ロシアの属国となってしまう危険があった。朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、次は日本である。「朝鮮併合」はわが国の独立と自存のための止むを得ざる選択であったし、当時の国際世論の認めるところであった。

 併合後は、わが国の指導と投資により、南北縦貫鉄道の施設、多角的港湾の設定、多種多様の殖産興業、教育の普及、保健衛生施設の拡充、水利灌漑施策の充実等々、近代化建設はめざましいものがたった。これは台湾も同様である。つまり、台湾及び朝鮮統治は西欧列強の植民地支配とは全く異なる性格のものである。 

 「江華島条約」(明治八年)から「日韓併合」(同四十三年)に至るまでの間、日本の対朝鮮半島政策において明治の父祖が一貫して心血をそそいだのは、欧米列強からいかにして日本および朝鮮を守り抜くかということであった。隣接する朝鮮半島とその周辺が強大国の支配下に入ることは日本の安全に対する脅威であった。

 ゆえに、日本自体が朝鮮半島へ進出すべきだというのではなく、朝鮮が第三国の属国にならないようにするというのが、「朝鮮独立」を目指した明治前半期の日本の対朝鮮政策であった。日本が国運を睹して戦った日清、日露両戦争が韓国の独立保全を目的として戦われたことは両戦争の「宣戦の詔書」に明らかに示されている。

 「朝鮮併合」以前の朝鮮半島は混乱の極にあった。日韓併合前の朝鮮即ち李王朝政府は名のみのものであって、その実力は全く失われ、当時の朝鮮は独立国家の体をなしていなかった。李王朝は専制政治だった。勢道政治(一族政治)などの言葉も残っている。「朝鮮併合」の翌年支那に辛亥革命が起こり清朝が滅亡している。

 日露戦後の明治三八年(一九○五)、「第二次日韓協約」が調印されて韓国は我が国の保護国とされ、外交権を日本が掌握した。そして、韓国統監府が設置され、初代統監に伊藤博文が就任した。その伊藤博文の本心は韓国を名実伴う独立国にすることにあった。韓国皇太子・李王垠殿下は伊藤博文公を追慕して「伊藤は「自分は今、韓国を立派な国に建て直すために懸命の努力を払っておりますが、殿下はやがて韓国の帝位にお就きになる方ですから、それに相応しい御修行にお励みになりますように」と常々申していた」と語ったという。

 以来、日本にとっての朝鮮は植民地というより拡張された日本の国土であった。日本国民は、朝鮮・台湾を統治するにあたって、おおむね本土と同じ待遇を与えた。そして本土以上の投資を行った。台湾と朝鮮の総督府、台北駅・ソウル駅を見れば明らかである。日本の何処のにもあのような立派な建物はなかったし、駅舎もなかった。

 しかし伊藤博文公の朝鮮に対する真摯な心を韓国民の一部は理解することができず、ついにハルピン駅頭において伊藤公は安重根の銃弾によって暗殺された。これが、「日韓併合」に至る原因である。                

日本に併合されることによって近代化が達成できるということは朝鮮改革派の合意だった 明治四三年(一九一○)の「日韓併合条約」締結(初代総督寺内正毅)は、日本の強圧によるのではない。日本に併合されることによって朝鮮の近代化・文明開化が達成できるということは、当時の朝鮮改革派の合意であった。一九○四年(明治三七年)の日露戦争では、東学党(民間宗教)の教徒五万人は日本と共にロシアと戦った。さらに、一進会の前身の進歩会の人々三五万人がこれに加わった。

 一九○四年に結成された「一進会」という近代的な大衆政治組織は、朝鮮王朝と守旧勢力を打倒し、日本と連携して近代化を為し遂げようとした。そして、日韓併合・開化啓蒙運動を展開し、一時期は百万をこえる組織となった。

 この大韓帝国内の強力な民意に従い、日本が合法的な手続きを経て朝鮮統治権を持ったのである。「日韓併合条約」は、十九~二十世紀の弱肉強食・優勝劣敗の時代において、日本、ロシア、支那三国間パワーバランスの中で、欧米列国もこれを勧め、支持したものである。当時韓国内に百万人の会員がいた一進会は、「併合嘆願書」を韓国十三道からの「併合嘆願書」と共に、韓国皇帝、韓国首相、日本統監宛に提出し、皇帝の「御沙汰書」により、内閣も一人を除く全員が賛成して実現したのである。

 当時の国際法では、政府代表に直接明白な強制がない限り、正当対等に成立したものとされたのである。「日韓併合」は法的に有効に成立しており、国際法上無効などということは金輪際あり得ない。「日韓併合条約」は国際法上有効であったという原則は断じて譲ってはならない。                                

 「日韓併合」に対して、韓国・北朝鮮側は「日帝三十六年の植民地支配」として非難攻撃しているが、以上述べて来た通り、「日韓併合」は決して植民地支配ではなかったし、単なる領土拡張政策でもなかった。日本の韓国統治は西洋諸国の行った植民地統治とは全く異なるものであった。これは感情論ではない。

それは、明治四十三年八月二十九日の「韓国併合に付下し給へる詔書」に「民衆は直接朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべし産業及貿易は治平の下に顕著なる発達を見るに至るべし」と示され、また、大正八年三月一日の独立運動事件の後に出された「総督府官制改革の詔書」に、「朕夙に朝鮮の康寧を以て念と為し其の民衆を愛撫すること一視同仁朕が臣民として秋毫の差異あることなく各其の所を得其の生に聊(やすん )じ斉しく休明の沢を享けしむることを期せり」と示されていることによって明らかである。

 したがって、朝鮮、台湾、樺太を「外地」と呼ぶことはあったが、「植民地」と呼ぶことは政府によって排された。事実、民法、刑法を始め大半の法律は内地と同一内容で施行され、各種の開発や公共事業も進み、医療衛生制度や教育制度も整備され、内地の政府民間の負担も相当の額に達した。そして乱脈だった李朝末期の韓国社会を正し法治社会をもたらした。これは欧米列強の植民地支配・愚民政策・搾取行為とは全く異なるものであった。

 また日韓併合と同時に多くの朝鮮人が雪崩を打って日本に来た。二百万人近く移住して来た。その上、毎年何十万という朝鮮人が出稼ぎに来た。日本の方が朝鮮の植民地になったと言っても過言ではない。

 日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは歴史的真実である。日本が韓国統治において一方的な収奪したというのは大きく事実に反する。

 日本の朝鮮統治により、朝鮮は多大な発展を遂げた。三○年間に、一○○万足らずだった人工が二五○○万に増え、平均寿命は二四歳から四五歳に伸び、未開の農業国だった朝鮮は短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌した。
 日本本土から優秀な教師が赴任して朝鮮人を教育し、日本政府から莫大な資金が流入し、各種インフラが整備された。その他、文芸・美術など文化面でも復興が遂げられた。 

 日本の台湾・朝鮮統治は、台湾・朝鮮を搾取の対象としたのでない。投資と開発、教育の普及を行うことによって、共存・共栄の道を歩んだのである。

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千駄木庵日乗九月二十一日

午前は、諸事。

この後、『政治文化情報』発送作業、発送完了。資料整理。原稿執筆。

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2019年9月21日 (土)

『奥の細道三三〇年 芭蕉』展

本日参観した『奥の細道三三〇年 芭蕉』展は、「芭蕉は、江戸を出立。白河の関を越えて、松島・平泉を巡り、出羽の各地を遊歴しました。その後、越後・越中・加賀・越前へと旅して、8月下旬には美濃大垣へと至ります。こうした約600里(2400キロ)の旅路は、半年にも及びました。行く先々で目にした景物を題材に優れた俳諧作品が生まれ、自筆の短冊や懐紙なども多く残しています。この旅をもとに、亡くなる元禄7年(1694)の4月に編まれたのが紀行文『おくのほそ道』です。今年は、芭蕉が奥の細道の旅に出て、330年の記念の年を迎えます。これを記念して本展では、出光コレクションの中から芭蕉の自筆作品を厳選し、他館の名品もお借りして、約20点もの芭蕉の書をご紹介いたします。多様に展開する芭蕉の書の魅力をお伝えするとともに、芭蕉の真跡を捉え直す機会になれば幸甚です。また、『おくのほそ道』をめぐる名品や芭蕉を敬慕した者たちの書画作品も展示し、芭蕉や俳諧にまつわる美術をお楽しみいただきます」(案内書)との趣旨で開催された。

「発句自画賛『はまぐりの』 松尾芭蕉 江戸時代」「二句懐紙『ふる池や』『ながき日も』松尾芭蕉 江戸時代」「発句画賛『かれえだに』書/松尾芭蕉 画/森川許六 江戸時代」「中務集 伝 西行 平安時代 重要文化財」「発句画賛『はまぐりの』書/松尾芭蕉 江戸時代」「奥之細道図 与謝蕪村 安永七年」「西行物語絵巻 詞書 烏丸光廣 画俵屋宗達 寛永七年」「佐野渡図屏風 狩野興以  江戸時代」「筏師画賛 与謝蕪村 江戸時代」「芭蕉蛙画賛 仙厓 江戸時代」などを参観。

それぞれ趣のある作品である。和歌絵画などのわが国古典芸術の伝統を継承していることはもちろんであるが、学者・文化人・絵画の専門家でなくとも親しめる作品である。「古池や蛙飛び込む水の音」「長き日もさえずり足らぬひばりかな」「蛤の生けるかひあれ年の暮れ」(貝と生きがいとを掛けている。いはば洒落である)などはその典型であらう。「奥之細道図 与謝蕪村 安永七年」は「奥の細道」長大なる絵巻物になっている。如何に蕪村が芭蕉を尊敬していたかが分かる。このほかの作品にも、芭蕉の有名な俳句が書かれている。書家や平安朝貴族・僧侶の書や画とは異なるが見つめてゐると何となく心やすらぐ。

江戸時代の僧侶仙厓の「画賛」が特に面白いパロディである。「池あらば飛んで芭蕉に聞かせたい」(池の無い所に坐っている蛙を描いた画)「古池や芭蕉飛び込む水の音」(植物の芭蕉が池に飛び込む画)「気に入らぬ風もあろふに柳かな」(堪忍の心を詠んでゐる)。昔『てなもんや三度笠』といふテレビの喜劇番組で天王寺虎之助という役者が「インド洋象の飛び込む水の音」と叫んだのを鮮明に思い出した。
感銘した画と俳句(画賛)は「枯れ枝にからすのとまりけり秋の暮れ」「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」「筏師の蓑や嵐の花衣」などであった。

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2019年9月20日 (金)

千駄木庵日乗九月二十日

朝は、諸事。

午前十一時半より、麹町にて、『呉竹会幹事評議員会』開催。頭山興助会長が挨拶。藤井厳喜・茂木弘道両氏がスピーチ。懇談。小生は幹事・評議員ではありませんがご案内をいただいておりますので出席させていただいております。

この後、丸の内の出光美術館で開催中の『奥の細道三三〇年 芭蕉』展参観。

帰宅後は、『伝統と革新』編集の仕事、原稿執筆。

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昭和天皇は如何なる困難があらうとも日本皇室の傳統を継承して来られた

長谷川三千子氏は、「見落としてならないのは、これ(『五箇条の御誓文』・註)が『朕躬ヲ以テ衆ニ先ンジ天地神明ニ誓ヒ』といふかたちで発せられてゐる、といふことである。すなはち、まさしく『現御神』としての責任と資格をもって、わが國古来の傳統にもとづく、民の幸福の實現にかなふ國是を神々に誓はれたのが、『五箇條の御誓文』だったのである。したがって、『五箇條の御誓文』を詔書の冒頭にかかげ、自らもこの明治大帝のご趣旨にのっとって新日本の建設につとめたい、と宣言することはどういふ意味をもつのかと言へば、(遠く神々を祖先としていただき、その遺訓を柱として政〈まつりごと〉を行ふ)『現御神』といふ在り方は、明治大帝の在り方でもあり、また自らの在り方でもある、と宣言しているのにひとしい。これは『人間宣言』ではない。まさに『現御神宣言』なのである」(『神やぶれたまはず』)と論じてゐる。

昭和天皇は、昭和五十二年八月二十三日、那須御用邸における記者會見で、記者の「そのご詔勅の一番冒頭に明治天皇の〝五ヶ条の御誓文〟と言うのがございましたけれども、これはやはり何か、陛下のご希望もあったと聞いておりますが」との質問に対して、昭和天皇は「そのことについてはですね、それが實はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそう言うことは二の問題であった」「國體というものが、日本の皇室は昔から國民の信頼によって萬世一系を保ってきたのであります。…日本の國民というものは非常に日本の皇室を尊敬したのです。その原因というものは、皇室もまた國民をわが子(註・會見の場では『赤子』と仰せれられたが、後で宮内庁から訂正が出されたといふ)と考えられて、非常に國民を大事にされた。その代々の天皇の傳統的な思し召しというものが、今日をなしたと私は信じています」と仰せになり、さらに「記者會見」の終了直前に、「付け加えておきたい」と仰せられ、「明治憲法にしても、それからそのもっと前にしても、とにかく日本の皇室では、常に世界の平和とそれから國民の幸福を祈っておるということについては、昔も今も変わっていないということを一言したいのです」と仰せになった。

「皇室は國民を赤子と考えられて、非常に國民を大事にされた」「日本の皇室では、常に世界の平和とそれから國民の幸福を祈っておる」との仰せは、天皇は國民の「親様」であらせられ、「神への祈りを捧げることを最も重大なる使命とする祭祀主」であらせられるとの御自覚を吐露されてゐるのである。古来、かうした崇高なる使命を行はせられる尊い君主を「現御神」とお讃へ申し上げてきたのである。

さらに、昭和天皇は、昭和五十年九月、皇居における米『ニューズ・ウイーク』誌のバーナード・クリッシャー東京支局長との會見において、クリッシャー氏が「陛下の戦前と戦後の役割を比較していただけませんでしょうか」との質問に対して、「精神的には何らの変化もなかったと思っています」とお答へになった。天皇が「現御神」としての御自覚を継承されてをられるか否かは、まさに最も重大なる「精神的」な事柄であるが、昭和天皇は、「精神的になんらの変化もなかった」と仰せになったのである。

このやうに、昭和天皇はこの『詔書』によって「神格」を否定されたわけでもなく、「人間宣言」されたわけでもなかったのである。またそのやうなことをされることは、天皇が天皇であらせられる以上、不可能なのである。昭和天皇は、如何なる困難、如何なる不当な圧迫があらうとも、日本天皇の眞姿と日本皇室の傳統を継承して来られたのである。

『昭和二十一年元旦の詔書』には、
「茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。
曰ク、
一、広ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ」と示されてゐる。

この「詔書」は『五箇条の御誓文』を國民に新た明お示しになることが最大最高の目的であり、それ以外の事、とりわけGHQの意向即ち前田多門文部大臣(当時)の言ふ天皇の「神秘的な雲霧を排し」、天皇に「神性をかなぐり捨て」ていただくといふいはゆる「人間宣言」は、「付け足し」であったと拝する。否、「付け足し」といふよりも「大御心に非ず」と拝するべきと思ふ。

「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン」とのお言葉に、昭和天皇様の萬感の思ひと言ふか、GHQに強制に対する抵抗の御心が示されてゐると拝する。私にはさう感じられて、胸迫るものがある。

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2019年9月19日 (木)

千駄木庵日乗九月十九日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事。資料の整理。原稿執筆。

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。「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である

臣下國民に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因

今日のわが國の議會政治は、とても「公議を竭(つく)」してゐるとは言へない。また健全に機能してはゐない。政党間・政治家同士の醜い権力闘争が繰り返されてゐる。國會中継を見ればわかる通り、相手を議論で打ち負かし、相手の言葉の揚げ足を取り、自分の意見に従はせようとすることに汲々としてゐる。

かうした事の根本原因は、わが國の道統である「尊皇精神」「天皇へのかしこみの心」が、政治家にも國民にも官僚にも希薄になってゐるからにほかならない。

後藤田正晴氏は、「國務大臣などの政治家は天皇の臣下ではない」といふ意識の持ち主であった。後藤田氏は平成十二年十二月五日号の『日本経済新聞』で、中央省庁の再編に関するインタビューに答へて、「まず大臣といふ名前を変えたらどうか。誰の臣下ですか?。行政の長なんだから『長官』でいい」と述べた。

これは、天皇を君主と仰ぐ建國以来のわが國體を否定し、『現行占領憲法』体制下においてもわが國は立憲君主制であるといふ自明の理を否定する許し難い発言である。社民党・共産党・極左分子がこのやうな発言をするのならまだしも、警察庁長官・内閣官房長官・自治大臣・内閣副総理を歴任し、官僚・政治家の頂点、即ち政治権力の頂点に立ったと言っていい人物が、このやうな発言をしたのである。

肇國以来今日に至るまでわが國の歴史を貫き、将来にも継続する無私の御存在・倫理的御存在が天皇である。天皇は、倫理道義の鏡として祭祀主として君臨されてゐる。

新渡戸稲造氏がその著『武士道』において、「我々にとりて天皇は、法律國家の警察の長ではなく、文化國家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうのである」と論じてゐる。

「天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもう」日本天皇は、権力や武力の暴走、権力者の私欲による権力と武力の行使を制限し抑制される権威をお持ちになる。天皇は権力や武力と無縁の御存在ではない。むしろ権力や武力に対して道義性を与へられる。中世・近世・近代を通じて武家権力や軍に対してさういふおはたらきをされた来た。その事を『大日本帝國憲法』は「天皇は統治権の総攬者」と表現したのだと考へる。

閣僚は、天皇の臣下ではないなどといふ主張は、かうした日本の正しい伝統を根底から否定する考へ方である。片岡啓治氏が「明治維新で求められた新時代とは、その後の現實に起こるような西欧化による近代の形成ではなかった」といふ指摘を思ひ起こさざるを得ない。 

わが國の傳統的倫理・道義は、〈神に対する真心の奉仕〉〈神人合一の行事〉である祭祀として継承されてきた。日本人の實際生活において行じられる祭祀そのものが倫理精神・道義感覚の具体的な現れである。信仰共同体國家日本の祭祀の中核は「天皇の祭祀」である。したがって、日本國家の祭祀主であらせられる天皇は、日本道義精神・倫理観念の体現者であらせられる。

江戸時代中期の不世出の國学者・思想家・詩人賀茂真淵は、「…さて臣たちも神を崇めば、心の内に、きたなき事を隱す事を得ず、すめらぎを恐るれば、みのうえに、あしきふるまひをなしがたし、よりて、此の二つの崇みかしこみを、常わするまじきてふ外に、世の治り、身のとゝのはんことはなきをや」(『賀茂翁遺草』)と説いてゐる。

議會政治は、多数決を基本とする。多数決を誤りなく機能させるためには、國民及び國民によって選出された議員が、権力闘争や利害の対立を抑制し、道義精神、理性を正しく発揮しなければならない。「人間は政治的動物だ」などと言って、道義道徳・理性を忘却してはならない。

日本の傳統の継承者であらせられ、常に神々を祭り、國民の幸福を神に祈られている神聖君主・日本天皇へのかしこみの心を國民全体が持つことが、日本の全ての面での安定の基礎である。

臣下國民に敬神尊皇の思ひが希薄になったことが今日の政治の混乱の最大原因である。現代日本は、肝心要の「一君萬民の國體」が隠蔽されてゐるのである。これは、『現行占領憲法』にその大きな原因がある。

しかしわが國には、國家的危機を傳統の復活・回帰によって打開して来た歴史がある。現代もさうした時期である。わが國の傳統の根幹は「天皇中心の國體」である。

「天皇中心の國體」とは、「神話の世界以来の信仰に基づき一系の血統と道統を保持し継承される天皇による國家統治」といふことである。そして天皇の國家統治は、権力・武力による人民支配ではなく、祭祀主としての宗教的権威による統治(統べ治める)である。それは信仰共同体國家たる日本独特の國柄である。「一君萬民の國體の開顕」「公議を竭す政治の實現」を目指した明治維新の精神を今日回復することが大切である。

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千駄木庵日乗九月十八日

午前は、諸事。資料整理。

午後二時半より、芝の駐健保会館にて、『大行社幹部会』開催。顧問の一人としてスピーチ。

帰宅後は、『政治文化情報』発送準備、資料の整理など。

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2019年9月18日 (水)

再び「事大主義」「華夷の弁」について

韓国が、日本に対して激しくも執念深い恨みを抱くのは、「事大主義」「華夷の弁」という東アジアにおける長い間の悪習を日本が破壊し否定したからである。

韓国朝鮮が支那の属国であることは正しいが、日本が支那朝鮮の上に立ったこと(=日韓併合)は絶対に許せないというのである。

韓国朝鮮人が信じ込んでいる「華夷秩序(支那はアジアの中央にある大きな「華」であり文明文化が最も正しく開花した国であり、その周りの国々はすべて野蛮な国であり最下層の國だという観念)」という過てる儒教観念では、この「華夷の弁」という旧来の陋習を打ち破り、新朝鮮韓国の優位に立った日本を絶対に許す事ができないのである。

「韓国朝鮮は支那の属国である」という旧来の陋習に固執し今日唯今も脱することができないのだ。

朝鮮の『童蒙千習』(粛宗王序・宋時烈跋文)といふ文献には「大明太祖高皇帝にあらためて国号を賜り朝鮮と言う。都を漢陽(ソウル)に定め、聖子の神孫が代々受け継ぎ、光明を重ねて太平の世を続け、以て今日に至った。実に万世に限りないよろこびである。…華人はこれを称して小中華という。これがどうして、箕子(支那、殷 (いん) の紂 (ちゅう) 王の叔父朝鮮から逃れて朝鮮王になったと言われる人物・注)が遺し置いた感化でないことがあろうか」と書かれている。

李氏朝鮮はその国号すら支那の皇帝から賜り、小中華であるという思想である。何とも凄まじい属国観念であり事大主義であることか。

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千駄木庵日乗九月十七日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、資料整理、明日のスピーチの準備など。

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2019年9月17日 (火)

事大主義=韓国朝鮮の悲劇

事大主義(じだいしゅぎ・小が大に事(つか)えること)が韓国朝鮮の歴史的態度である。強い方に付く。近代以後も、支那・ロシア・日本・アメリカなど大国に仕えた。大東亜戦争後は、北は支那・ロシア。南はアメリカに仕えた。これが韓国朝鮮の本質なのだ。

新羅・高麗・李朝など朝鮮半島に生まれた王朝の多くは、大陸の中原を制した国家に対して事大してきた。朴正煕は「自律精神の欠如」としてこれを批判していたが娘は確実に継承した。

漢城の西大門である敦義門のすぐ外、義州を経て北京に至る街道に建てられていた迎恩門とは、支那皇帝の臣下であり、冊封国であった李氏朝鮮の歴代の王が、明代および清代の支那皇帝の使者を迎えるための門である。迎恩門とは恩のある支那皇帝の使いが通る門という意である。

崔基鎬氏によると、迎恩門は朝鮮国王が三跪九叩頭の礼によって明代および清代の支那からの使者を迎えた場所である。その迎恩門に隣接して建てられていた慕華館は、清の使節団が滞在する建物である。慕華館とは字面を見ても明らかだが『中華を慕う館』という意である。かくの如く李氏朝鮮は、支那の属国であった。

韓国朝鮮は血縁集団の集合体である。宗族とは男子単系血族で構成される同姓血縁集団である。全州李氏・慶州金氏とかいうのがある。この宗族が男系の子孫を確保するために他の異姓の血縁集団と婚姻関係を結ぶ。しかし、女性は婚姻によって他家に移っても、宗族の系図(族譜)に名が記されることがない。女性は男子単系血族の子孫を生む<道具>に過ぎない。従って、父系祖先の祭祀には通常、女性は参加できない。いわんや祭祀主になることはできない。古代日本では女性も一族の長になり、祭祀主となったのとは全く異なる。

日本と韓国朝鮮とは、文化的・宗教的相違点が大きい。日本と韓国朝鮮とは、近親憎悪していると言うが、本当に近親なのか。日本の韓国朝鮮は近親ではない。儒教・仏教の受容の態度も異なる。

また、日本はキリスト教を受け入れなかったが、韓国は受け入れている。キリスト教徒が多いのは何故か。しかもオカルト的なキリスト教があるのはどういうことか。再臨のキリストとかが何人も出た。

多神教、自然を神として拝み、八百万の神を拝むため、一神教が浸透しなかった日本と、一神教を信ずる人が多い韓国とは基本的に信仰精神・文化感覚が異なると思う。日本は包摂・包容の文化であり、韓国は排他・独善の文化である。

呉善花さんは、「韓国には日本の神社や神道というクッション(媒介)がないため、日本のように、多神教の持つエネルギーを現代市民社会のより高度な発展へと向かう力に変えることができていない」「韓国の多神教の伝統は、日本のようにクッションを通して市民社会の無意識層に浸透しているものではなく、市民社会とは別個に、田舎、あるいは前近代的な場においてだけ、各地に細々と生きているにすぎない。この点日本と大きく事情が異なっている。韓国は儒教、キリスト教という外来の器に自前のシャーマニズムを流し込んでゆくが、日本は神道という自前の器に外来の宗教を受け入れ飲み込んでしまうのである」と述べている。(『續スカートの風』)

また「日本語の文字には漢字、カタカナ、ひらがながあって、どんな外国語の受け入れにも対応できるようになっている。受け入れを身上とする日本文化ならではのものと言えるだろう。漢字で中国大陸から入った文化用語や形式的な言葉に対応させる。またカタカナで主に欧米からの外来語に対応させる。そして、平仮名によって固有語をそのまま残すことができる」と論じている。(『續スカートの風』)。

儒教は、「怪力乱神を語らず」という思想があるが、しかるに儒教国家と言われる韓国朝鮮にシャーマニズムが残っているのはなぜか。オカルト的宗教が多いのは何故か。

近年、日本に「ヘイトスピーチ」「レイシズム」が起きていると言うが、憎悪表現・人種差別は韓国の方がずっとひどい。李明博や韓国国会議長、天皇陛下に対する侮辱発言は許し難い。さらに、反日デモ隊が、天皇陛下の人形を路上で焼いたのは許し難い。「日韓友好」などという事は金輪際あり得ない。

日本人は、韓国朝鮮が異文化・異民族であることをもっと確認すべきだ。日本と韓国とは近親でも身内でもない。別の国であり別の民族である。地理的には近隣でも文化的・民族的には決して近隣国家ではない。アジア・東洋で一括りにするのは誤りだ。

日本人そして日本文化は排他的ではないのに、韓国のそれは何故排他的なのか。包容力豊かな日本の近代は開国攘夷(外国の文化文明を大いに取り入れて自国の発展と独立を図る)であった。包容力の乏しい韓国近代は鎖国攘夷(外国文化文明特に西洋の文化文明を拒否して世界の進運に後れを取る)であった。それが、韓国が近代化できず独立を維持ではなかった原因と考える。

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千駄木庵日乗九月十六日

午前は、諸事。

午後は、室内整理、原稿執筆、資料整理など。

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2019年9月16日 (月)

わが國の韓国併合を「植民地支配」とするのは大きな間違いである

わが國の韓国併合を「植民地支配」とするのは大きな間違いである。朝鮮は日本の植民地ではなかった。九州・四國と同じに考えられた併合國家であった。だから朝鮮総督府は内閣に直属していた。

明治天皇の『韓國併合に付下し給へる詔書』(明治四十三年八月二十九日)に、「(朝鮮の・注)民衆は朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべし。産業及び貿易は治平の下に顕著なる発達を見るに至るべし。而して東洋の平和は之に依りて愈々其の基礎を鞏固にすべきは朕の信じて疑はざる所なり」と示されている通り、わが國には韓國・朝鮮を植民地にする考えは全くなかった。

また、大正天皇は、大正八年三月一日の独立運動事件の後に出された『総督府官制改革の詔書』に、「朕夙に朝鮮の康寧を以て念と為し其の民衆を愛撫すること一視同仁朕が臣民として秋毫の差異あることなく各其の所を得其の生に聊(やすん )じ斉しく休明の沢を享けしむることを期せり」と示された。
 
わが國が朝鮮半島において植民地搾取を行ったと言うなら、『数字』を根拠とするべきである。朝鮮統治三十六年間、朝鮮総督府の財政予算の一五~二〇%は日本中央政府から補助を受けていた。「日本は朝鮮半島の土地を収奪し、人の命を収奪した」と言うが、日本統治時代に朝鮮の土地の利用価値・生産価値を高め、三十七年間の自然・社會環境の整備によって人口を倍増せしめた。「合邦國家」の誕生は「侵略」でもなければ、「植民地支配」でもなかった。

朝鮮、台湾、樺太を外地と呼ぶことはあったが、植民地と呼ぶことは政府によって排された。そして民法、刑法を始め大半の法律は内地と同一内容で施行され、各種の開発や公共事業も進み、医療衛生制度や教育制度も整備され、内地の政府民間の負担も相当の額に達した。そして乱脈だった李朝末期の韓国社会を正し法治社会をもたらした。これは欧米列強の植民地支配・愚民政策・搾取行為とは全く異なるものであった。日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、李氏朝鮮時代の悲惨な状況から一足飛びに近代化したことは歴史的真実である。

朝鮮半島の歴史は、「中華帝國」への隷属の歴史であった。有史以来、李氏朝鮮は中華帝国の属国であった。李氏朝鮮王室は、朝鮮半島では絶対専制君主ではあっても、支那皇帝の臣下であった。李氏朝鮮の国是は大国・強国に仕える「事大主義」(『以小事大』(小を以て大に事〈つか〉へる)である。強い者を背景に弱い者をいじめるという体質である。「事大主義」は、李氏朝鮮建國以来の体質であり國策であった。

李氏朝鮮の国号は、李成桂が高麗王朝から政権を簒奪した後、明の皇帝から下賜された国号である。この国号は、日本が日清戰争に勝利し、大韓帝国になるまで五百年以上使われた。最初から言葉の真の意味における独立国ではなかったのである。李氏朝鮮は、「小中華」を名乗り、中華帝国の属国であることをむしろ誇りにしていたのである。

朝鮮は、文化的にも政治的にも軍事的にも支那の属國であり続けた。李氏朝鮮王室は、権力を維持し自らが生き延びるためには、ロシアについたり、支那についたりする芸当を続けて来た。その一番良い例が、困窮に喘ぐ農民の一斉蜂起である東學党の乱の鎮定を清にゆだねたという事実である。

しかし、日清戦争の後の「下関条約」(明治二十八年)で、「清國は、朝鮮が完全無欠なる独立自主の國であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮國から清國に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)」事となった。すなわち、日清戦争における日本の勝利の結果、朝鮮半島は支那からの独立を獲得したのだ。

ところが、日清戦争の後日本が「三國干渉」に屈服すると、「日本弱し」と見た李氏朝鮮王室は、「清が駄目ならロシアがあるさ」とばかりに今度はロシアに接近し、日清戦争の翌年の一八九六年二月十一日、李朝国王・高宗は、宮廷を脱出して、何とロシア大使館に駆け込み、そこで政治をおこなうようになった。
このように日本に併合される以前の韓國は、ある時は支那の属國になり、ある時はロシアの属國となるという体たらくで、とても独立國と言える状況ではなかった。

日本が国運を睹して戦った日清、日露両戦争が韓国の独立保全を目的として戦われたことは両戦争の『宣戦の詔書』に明らかに示されている。

李朝は最早国家支配者としての資格を喪失した集団であった。朝鮮の悲劇の根源は、国王専制下の政治腐敗・農民に対する貪官汚吏の苛斂誅求にあった。また李氏朝鮮は國内の改革・近代化も全く進まず、経済的に破綻に近い状態にあり、権力者は腐敗し、政争を繰り返していた。そして國民は疲弊し李朝の圧政に苦しんでいた。   

ともかく、当時の朝鮮半島は、きわめて不安定な情勢であった。これはわが國にとって重大な脅威である。そこで、日露戦争に勝利した日本は、事實上ロシアの属國であった朝鮮を併合したのである。当時の國際感覚では当然の成り行きであり、文字通り致し方の無い選択であった。
 
日露戦争の後、韓国は『日韓協約』により我が国の保護国とされ、伊藤博文が初代統監に就任した。この協約締結に際しての伊藤博文の態度は今日批判を受けているが、その伊藤も本心は韓国を名実伴う独立国にすることにあった。韓国皇太子・李王垠殿下は伊藤博文を追慕して「伊藤は『自分は今、韓国を立派な国に建て直すために懸命の努力を払っておりますが、殿下はやがて韓国の帝位にお就きになる方ですから、それに相応しい御修行にお励みになりますように』と常々申していた」と語ったという。

しかしそうした伊藤博文の心が韓国民のよく理解するところとならず、ハルピン駅頭において伊藤博文は安重根の銃弾によって暗殺され、日韓併合に至るのである。

日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは歴史的真実である。日本が韓国統治において一方的な収奪したというのは大きく事実に反する。

日本の朝鮮統治により、朝鮮は多大な発展を遂げた。三○年間に、人口が倍増し、平均寿命は二四歳から四五歳に伸び、未開の農業国だった朝鮮は短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌した。

日本本土から優秀な教師が赴任して朝鮮人を教育し、日本政府から莫大な資金が流入し、各種インフラが整備された。その他、文芸・美術など文化面でも興隆が遂げられた。
 
韓国・朝鮮人の独立運動が国内外において起こったが、限定されたものであった。韓国人の多くは日本統治体制に協力した。日本に協力し日韓融合に努めた多くの青年達が、韓国が独立した後、大統領・首相・閣僚・参謀総長・企業家・高級官僚・学者をはじめとする国家指導者となった。こうした事実を否定することはできないし、否定することはかえって韓国人の名誉と誇りを否定し傷つけることとなる。しかるに、かつて日本に協力し日韓融合に努めた人々を、「親日派」とか言って迫害している。
 
日本の台湾・朝鮮統治は、台湾・朝鮮を搾取の対象としたのでない。投資と開発、教育の普及を行うことによって、共存・共栄の道を歩んだのである。台湾・朝鮮の遅れた社会構造を解体して産業革命の基礎を作り出した。

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千駄木庵日乗九月十五日

午前は、諸事。室内整理。

午後からは、在宅して、原稿執筆の準備、資料検索整理、原稿執筆。

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2019年9月15日 (日)

お知らせ

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オピニオン雑誌『傳統と革新』第三十三号


オピニオン雑誌『傳統と革新』第三十三号
 たちばな出版発行 四宮正貴責任編集
[特集] 特集 「令和の御代と皇室」
―大嘗祭・皇位継承・憲法第一条について考えるー
巻頭言 天皇が勅定あそばされるべき「元号」が内閣によって決められたのは國體隠蔽である               四宮正貴 
「インタビュー」
神話の時代から語り継がれる日本の歴史が、現代の愛國心を生み出す       深谷隆司 
伝統や國柄を守りつつ、かつ創造・革新を断行する。それが日本のあるべき道である 
稲田朋美 
日本國民は何によって生かされているのか理解すれば、死守すべきものが見えてくる 
和田政宗 
[講演録]  令和の即位礼と大新嘗祭ーー高御座と米・粟に見る日本の伝統文化  所功   
[佐藤優の視点]令和時代の日本外交―                     佐藤 優
改元なった今だからこそ、「日本國憲法」の無効と、「大日本帝國憲法」の甦りが必要だ 
西村眞悟
「令和の時代」は、日本人とは何か、の原点を考える時代            宮本雅史 
無形民俗文化財にみるーー伝統と変容                     神崎宣武 
天皇とともに令和の御代を創る                        荒谷 卓 
日本文化の特殊性を考える                         久保田信之
日本武尊は誰であったか(前篇)                       田中英道 
日本人居留民に対する中國共産党の大量虐殺の実相               岡村青  
[特別再掲載]天皇陛下靖國神社御親拝実現は、現代を生きる私たちの責任である  沼山光洋 
「連載」
[やまと歌の心]                             千駄木庵主人
石垣島便り27 穏やかな海。コーヒーを飲みながら考える。自衛隊配備が未だ決まらない。
その裏で見え隠れするものは                         中尾秀一                            
トランプ大統領発言を奇貨として、自主國防体制の確立を!           木村三浩 
[憂國放談]第五回 敵は何処に                        犬塚博英 
「伝統と革新」バックナンバー一覧         
「伝統と革新」取り扱い書店様一覧           
「編集後記」 
定価 本體価格1000円+税。 168頁                  
168〒167―0053 東京都杉並区西荻南二-二〇-九 たちばな出版ビル
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西岡力麗澤大学客員教授による「第二回米朝首脳会談と日本」と題する講演内容

〇三月二日午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、開催された『アジア問題懇話会』における西岡力麗澤大学客員教授による「第二回米朝首脳会談と日本」と題する講演内容は次の通り。

「三・一運動の死者は七千五百人というニュースがあった。韓国の国史編纂委員会のデータベースは今年二月二十日に九三四人死亡と発表。自国の研究成果に大統領は従わなかった。『独立運動血史』も朝鮮総督府の調査も同じ数で、死者は千人を超えてない。しかるに文在寅大統領は七千五百人死亡したと言った。『朝日新聞』も七千五百人死亡と書いた。『朝日』のソウル特派員が書いた。何故、国史編纂委員会の数字を無視するのか。最近の研究成果を文在寅も朝日新聞も無視した。安重根は日本人にとってテロリスト。韓国人と評価が違うのは当たり前。

北朝鮮への経済制裁が効いている。北は外貨の九割を失った。中国に対しては石炭・水産物・医薬品・鉄鉱石を売っている。二十五億円が制裁の対象になった。中国は今のところ制裁を守っている。湾内で烏賊を釣る烏賊釣り船が大和堆まで出て来て漂流する。北は漁業権を中国に売った。だから近海で烏賊釣り船が操業できない。

去年六月の米朝首脳会談でトランプを騙せた。北の言う非核化とは米軍基地の核もなくせということ。北朝鮮の非核化ではない。国連の制裁には罰則規定はない。アメリカは独自に二次制裁という方法を持っている。北と取引をしている第三者に対してドル取引を停止できる。中国の銀行に対して北と取引をしたということでドル取引を停止した。トランプが何をするかわからないから中国は制裁を守っている。ドル取引を停止されればその企業はもたない。

北の人民に金正恩に対する不満の声が高まっている。地方では配給は殆ど止り三百万人が餓死。弱者が死んでいく。共同農場の農民も食えなくなっている。外貨はどんどん無くなって行く。北は近くもっと折れて来る。大陸間弾道弾は完成していない。アメリカの安全はぎりぎりのところで担保されている。

米朝関係がうまくいったのに拉致問題が進まないということはない。トランプは、拉致問題をとりあげている。文在寅には日韓関係を良くする気はない。『朴槿恵は親日派の代表。朴正煕は親日派の代表なのにクーデターで大統領になった』と言っている。保守派は『文在寅はアカだ』と言っている。自由民主体制が弱体化すると、必然的に対米・対日関係が悪化する。日本は謝る事しかやって来なかった」。

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第99回 日本の心を学ぶ会

第99回 日本の心を学ぶ会

テーマ 明治維新と尊皇攘夷思想を考える。

明治維新とは幕末期から明治初期に行われた政治的な改革と一般的には言われます。
最近では従来の歴史観に異議を唱え明治維新を薩長によるクーデターであり維新の志士はテロリストであると評する歴史観も流布されております。確かに明治維新に権力闘争の側面があったことは否定できません。
しかし維新の原動力となった思想を正しく理解しなくては明治維新をも正しく理解することは到底できません。維新の原動力となった思想は尊皇攘夷思想です。
天皇を唯一の君主と仰ぐ日本國體を明らかにして内憂外患交々来たる国難を乗り越えたのが明治維新です。我が国本来の姿を顕現する事によって国家を変革することが維新であります。
ところが現在、尊皇攘夷という思想は正しく理解されておりません。それどころか攘夷という言葉は偏狭な排外主義であるという誤解すら広がっております。
幕末と同じく今日の日本も内憂外患の情勢のなかにあり、維新についての正しい理解が求められています。そこで今回の勉強会では明治維新とその原動力となった尊皇攘夷思想について考えてみたいと思います。
ます。
【日 時】令和元年9月29日 午後6時から

【会 場】文京区民センター 2-B会議室
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html
文京区本郷4-15-14/03(3814)6731都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【演 題】明治維新と井伊直弼

【講 師】四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代500円終了後、近隣で懇親会(2千円くらいの予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395


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2019年9月14日 (土)

徳川幕府の鎖国と明治維新の理念たる尊皇攘夷との違い

徳川幕府は開設以来鎖國政策を取り、頑なに外國との接触を拒否していたにもかかわらず、アメリカの恫喝に遭遇すると、屈辱的な開港を行ってしまった。明治維新の志士たちはこうした徳川幕府の軟弱な姿勢を批判し否定したのであって、外國との交渉・開港を一切否定したのではない。ここが徳川幕府の封建的な鎖國政策と維新者の攘夷精神との決定的な違いである。

吉田松陰や坂本龍馬らは、日本の自主性を保持し日本の真の発展に資する外國との交渉を望んだのである。だから、松陰や龍馬など多くの維新の志士たちは外國の文物を学ぶことに熱心であった。松陰などは下田港から黒船に乗り込み密航してまで外國に渡ろうとした。

真の攘夷精神を端的に示しているのが土佐藩士・中岡慎太郎が慶應二年(一八六六)に書いた次の文章である。「それ攘夷と云ふは、皇國の私言にあらず。その止むを得ざるに至っては、宇内(世界中仼)各國、皆これを行ふものなり。米利堅(アメリカ仼)かつて英國の属國なり。時に英吉利(イギリス仼)王、利を貪る日々に多く、米民ますます苦しむ。因って華盛頓(ワシントン仼)なる者、民の辛苦を訴へ、是に於て華盛頓、米地十三邦の民を帥(ひき)ゐ、英人を拒絶し鎖國攘夷を行ふ。此より英米連戦七年英ついに不勝を知りて和を乞ひ、米利堅是に於て英属を免れ独立し、十三地同盟、合衆國と号し一強國となる……皇國当今、和親開港の如きは、幕吏彼の兵威に怖れ、上天子の勅意に違ひ、義理の当否、國の利害を計らず、……往々彼(外國仼)の命ずる所のまま(関税権を奪われたこと仼)にて、萬民殆ど途端に苦しむ。……是故に萬々願くば天下の士民、……薪に座し胆を嘗むるの思を為し、……吉田松陰の攘夷の志によって海外に渡り、彼の長を取らんと企てしことなどを思ひ、その心を心とし、上下一致学術に励み、兵力を養ひ、早く攘夷の大典を立て、諸港の条約を一新し(仼不平等条約を改正すること)……会稽の恥(仼外國から受けたひどい辱めのこと)を雪(そそ)がざれば、死するとも止まずと決心する…」(『愚論ひそかに知人に示す』)。

この文書は、攘夷とは外國の侵略から祖國を守るために戦うことであり、徳川幕府それを実行できなかったのであり、日本中の人々は上下一致して、耐え難きを耐えて努力し、外國の長所を取り入れてみずからの國を強國にして、外國からの辱めを晴らして名誉を挽回しなければならないと論じているのである。真の攘夷のためには海外の接触し「彼の長を取る」事も必要であるというのである。これが明治維新を目指した人々の「攘夷」であった。

だからこそ、徳川幕藩体制が崩壊し、明治維新が断行された後の日本では、外國との交際を一切行わないという頑なな攘夷論は姿を消し、外國の侵略を撃退し日本の自主独立を守るために西欧の文物を学ばなければならないという強い意志を持った。これを「開國攘夷」という。ここに日本民族の柔軟性・優秀性があると言える。

徳川幕府中枢部に柔軟な考え方を持つ人がいた。ペリー来航の翌々年の安政二年(一八五五)に老中首座となり対米交渉に当たった堀田正睦(まさよし・佐倉藩主)は、安政四年(一八五七)十一月に、評定所(徳川幕府最高の司法機関・老中、寺社・町・勘定奉行、大小目付らがここで事件を合議した)に下した意見書に、

「…広く萬國に航し貿易を通じ、彼が長ずるところを採り、此の足らざるところを補ひ、國力を養ひ、武力を壮にし、漸漸(ようよう)全地球中御威徳に服従致し候様の御國勢に相成り、世界の害を成し候暴國は、同盟与國を率ひ、征伐を加へられ、善良孤弱の國を撫せられ、実に天心に代て天討を行はせられ、世界萬邦恵治の恩沢を蒙り、彼此相犯す事なく、兄弟臣子の情を結び、終に世界萬邦の大盟主と仰がれ、我が國の政教を奉じ、我國の裁判を受け候様相成り候…」(広く萬國と交流し、外國の長所を取り入れて我國の足らざるところを補い、國力を養って、軍事力を増強し、次第次第に全地球が天皇の御威徳に服従するような國の勢いになり、世界の害になる暴虐國家は同盟國を率いて征伐し、善良にして孤独で弱い國を援助し、天の神の心に代わって天の討伐を行い、世界萬國が恵みの政治の恩恵を蒙り、國家同士が互いに侵略し合う事なく、兄弟・君臣・親子の情を結び、終に日本が世界の盟主と仰がれ、萬國が我國の政治の在り方と信仰精神奉じて、我國の裁判を受けるようになる…、というほどの意)

ここで堀田正睦が論じたことは、明治天皇の『五箇条の御誓文』に示された「智識を世界の求め大に皇基を振起すべし」という御精神、そして明治新政府の「富國強兵・殖産興業」政策と同じであり、先見の明に満ち溢れている。

堀田正睦はさらに言う。「神州は、天地剖判以来、國祖天神皇統綿々、古往来今に亙り、君臣の名前正敷(ただしく)、國家の綱常明らかにして、其時に九鼎・風教を革(あらたむ)る如き國々と日を同じくして論ずべきにあらざれば、天孫豊葦原の中津國に降誕以来、時々の変革なきを以て、世界萬國第一の旧域、天帝血統の御國にて、天心の眷顧祐護之無き筈之無く、即今乾坤一変の機会に乗じ為されられ、祖宗の御遺法を御変通為されられ、却って御遺志に叶い為され候御処置を以て、世界萬邦の大盟主と仰がれ候様之有りたく。…」(神州日本は、天地が始まったときから、國の祖であられる天照大神の皇統が途絶える事なく続き、昔から今まで、君と民との名分は正しく、國家が守るべき大道は明らかであって、その時その時の状況によって貴重な伝統や事物を改めてしまう國々と同列に論じるべきではないので、天孫邇邇藝命が地上に降臨されて以来、その時その時の変革は無かったがゆえに、日本は世界萬國第一の古き國、天の神の血統を継承する國にて、天の神が日本を心から愛され目にかけられて助け守られないはずはない。今日只今は、天と地とが一変する機会に乗じられて、徳川家康の御遺法(鎖國政策のこと仼)を変えられ、かえって御遺志に叶う処置を以て、世界萬邦の大盟主と仰がれるようでありたく…、というほどの意)
 
堀田正睦はここで日本國體と外國との違いを正しく論じ、日本の神への篤き信仰心を表白している。

「(アメリカが開國を求めて来た仼)此機会に乗じ、此御國を以て一世界の大盟主と仰がれ候様精忠を抽(ぬきんで)候は、即ち國祖天神えの御忠節、天朝御尊崇の随一、御祖三百年の御恩沢を報じ奉り候も、此時に之有る可く候間、当今外國人御取扱ひの義は、即ち他日宇内統一の御手始めの義に付き、…」(この機会に乗じて日本を世界の盟主と仰がれるように真心を尽くすことは、國の祖である天照大神への忠節であり、最高の皇室への尊崇であり、徳川家康の三百年の恩に報じることも、この時であるべきである。今日只今の外國人取扱いのことは将来日本が世界を統一する手始めのことであるから…、というほどの意)
 
堂々たる八紘一宇論であり、皇室の尊厳性を基本にした世界統一を論じている。堀田正睦はこうした考え方に立って開國政策を推し進めようとしたのである。しかし、将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し、井伊直弼が大老に就任した後失脚する。

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千駄木庵日乗九月十四日

午前は、諸事。室内整理。


午後二時より、内幸町の日本プレスセンターにて、『アジア問題懇話会』開催。興梠一郎神田外語大学教授が「最近の中国情勢―米中対立と日本の役割は」と題して講演。活発な質疑応答が行われた。

帰宅後は、原稿執筆、書状執筆など。

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お知らせ


オピニオン雑誌『傳統と革新』第三十三号
オピニオン雑誌『傳統と革新』第三十三号
 たちばな出版発行 四宮正貴責任編集
[特集] 特集 「令和の御代と皇室」
―大嘗祭・皇位継承・憲法第一条について考えるー
巻頭言 天皇が勅定あそばされるべき「元号」が内閣によって決められたのは國體隠蔽である               四宮正貴 
「インタビュー」
神話の時代から語り継がれる日本の歴史が、現代の愛國心を生み出す       深谷隆司 
伝統や國柄を守りつつ、かつ創造・革新を断行する。それが日本のあるべき道である 
稲田朋美 
日本國民は何によって生かされているのか理解すれば、死守すべきものが見えてくる 
和田政宗 
[講演録]  令和の即位礼と大新嘗祭ーー高御座と米・粟に見る日本の伝統文化  所功   
[佐藤優の視点]令和時代の日本外交―                     佐藤 優
改元なった今だからこそ、「日本國憲法」の無効と、「大日本帝國憲法」の甦りが必要だ 
西村眞悟
「令和の時代」は、日本人とは何か、の原点を考える時代            宮本雅史 
無形民俗文化財にみるーー伝統と変容                     神崎宣武 
天皇とともに令和の御代を創る                        荒谷 卓 
日本文化の特殊性を考える                         久保田信之
日本武尊は誰であったか(前篇)                       田中英道 
日本人居留民に対する中國共産党の大量虐殺の実相               岡村青  
[特別再掲載]天皇陛下靖國神社御親拝実現は、現代を生きる私たちの責任である  沼山光洋 
「連載」
[やまと歌の心]                             千駄木庵主人
石垣島便り27 穏やかな海。コーヒーを飲みながら考える。自衛隊配備が未だ決まらない。
その裏で見え隠れするものは                         中尾秀一                            
トランプ大統領発言を奇貨として、自主國防体制の確立を!           木村三浩 
[憂國放談]第五回 敵は何処に                        犬塚博英 
「伝統と革新」バックナンバー一覧         
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「編集後記」 
定価 本體価格1000円+税。 168頁                  
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2019年9月13日 (金)

時事通信社 編集局総務・解説委員 梅本逸郎氏による「トランプのアメリカ」と題する講演内容

〇二月二二日に日本プレスセンタービル九階会見場で開催された『新聞通信調査会定例講演会』における時事通信社 編集局総務・解説委員 梅本逸郎氏による「トランプのアメリカ」と題する講演内容は、次の通り。

「アメリカに関しては日本には情報がすごく多い。ヒラリー・クリントンも、トランプもニューヨーク出身。トランプ当選の時私はニューヨークにいた。トランプの当確がなかなか出なかったが、投票日翌日(十一月九日)の午前二時に当確が出た。全く違う世の中になるのだろうなという気持ちだった。票は固定されている。アメリカは二極化と言われる。『エモクラシー』という言葉が出て来た。(注・『もはやデモクラシー(民主主義)の時代ではない。多数派よりも感情が、理性よりも感覚が重視されるエモクラシー(感情主義)の時代を生きている』英国出身の歴史学者ニーアル・ファーガソン氏が、一 月 二七 日に The Times 紙に寄稿した記事("Feeling beats truth in our indignant ‘emocracy’)にあった言葉)選挙をすればするほど分裂・二極化が進む。アメリカの選挙は大雑把でいい加減。住民登録がないから二重投票などがある。負けた方が敗北宣言をした時に勝敗が確定する。都市部は民主党。田舎は共和党。民主党はマイノリティに強い。これを生かさないと民主党は勝てない。アメリカの大学の学者は皆借金している。公的ローンがある。平均して債務が四万ドルある。苦しい。医療費も高い。アメリカの平均寿命は先進国では非常に低い。薬物と肥満による。アメリカにおける中国の存在感が大きい。中国企業による企業買収も問題になっている。ニューヨークタイムスはトランプのお蔭で部数が急上昇。ヒラリーは民主党の支持層を動員することが出来なかった」。

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千駄木庵日乗九月十三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、書状執筆、原稿執筆。

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千葉県の大災害に思う

何でもかんでも東電の責任にして、良いのだろうか。東電は東日本大震災による原発事故などの処理で大変な出費をしている。そして、電信柱の地下埋設や送電線の整備などが遅れたのであるまいか。共産国家などでは電力生産送電などは政府が行う。日本は九つの電力会社が行う。それはそれでいいのだろうが、今回や東日本大震災等の大災害の時は、もっともっと復旧などに政府が介入していいのではないか。ともかく電力エネルギー問題について政府自民党は今後の展望と具体的政策を国民に示すべきだか。それとも、小泉進次郎新環境大臣の主張する「どうやったら(原発を)残せるかではなく、どうやったらなくせるかを考えたい」は安倍内閣の政策なのか。

千葉県民の大多数が日常生活に困り果ているのに、内閣改造を予定通り行い、災害対策本部を官邸に置かないというのはどうかしている。小泉進次郎新環境大臣も所管外であろうとなかろうとすぐに被災地に飛んで救援活動を指揮すべきだろう。安倍氏も然りだ。

食べ物もろくに食べられず、水も飲めず、家にも寝ていられない状況は老人や病人にとって死に直結する。政府は一体何を考えているのか。

森田健作氏が千葉県知事だが時々千葉テレビというのを見ると、千葉県特産品や名所・観光地の案内をしているようだが、今回は全く姿を現さない。また千葉テレビもまったく今回の災害に関する放送をやっていない。これもおかしい。

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2019年9月12日 (木)

千駄木庵日乗九月十二日

午前は、諸事。

 

午後からは在宅して、『伝統と革新』編集の仕事、書状執筆など。

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天皇国日本の成り立ち


天照大御神は、『古事記』によると、伊耶那岐命が、筑紫の日向の橘の阿波岐原で禊祓へされた時、左のみ目を洗ひたまひし時になりませる神である。右のみ目を洗ひたまひし時になりませる神は月読命、鼻を洗ひたまひし時になりませる神は須佐之男命である。

『日本書紀』には、「伊耶那岐命・伊耶那美命、共に議(はか)りて曰(のたま)はく、吾すでに大八洲國及び山川草木を生めり。いかにぞ天の下の主たる者を生まざらむや、と。ここに共に日神(ひのかみ)を生みます。大日孁貴(おほひるめのむち)と號(まを)す。此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る」と記されてゐる。

古代日本人は太陽を崇めた。天孫・邇邇藝命が天降られた地は、「朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国なり。故(かれ)此の地はいと吉(よ)き地(ところ)」(『古事記』)と記されてゐる。『萬葉集』の「人麻呂歌集」には、「ひさかたの 天つみ空に 照れる日の 失せなむ日こそ 我が恋やまめ」といふ歌がある。

古代日本人の素朴な太陽への信仰・崇拝の心が、次第に純化し太陽の光明温熱によって万物万生が生成化育するといふ、その尊い事実を神格化して太陽を最高尊貴な人格神として拝むようになったのである。

古代日本人は日の神の永遠性を信仰してゐた。ゆえに、日の神たる天照大御神は、最尊最貴の神と仰がれる。天照大御神は、高天原の主神であり、日の神である。その日の神を祀る祭祀主を共同体の「おほきみ」と仰いだ。そして日の神を「おほきみ」の祖神と信じた。天照大御神は、日神と穀靈に五穀の豊饒を祈る祭祀主である「おほきみ=天皇(すめらみこと)」の御祖先神としても仰がれるやうになったのであらう。

日本国は「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一された。日本の統一は、分立してゐた地方の共同体がともどもに日の大神=天照大御神の権威を仰慕することによって成就した。日の大神の御子である「日の御子」と呼ばれる祭祀主の信仰的権威によって統一したのである。日本各地から太陽神祭祀の象徴である鏡が数多く発見されてゐる。

天照大御神をお祭する祭り主たる天皇は、地上における天照大御神の御代理・神聖なる御存在=現御神として仰がれた。信仰共同体・日本国の〈生きた全体性〉は天照大御神とその地上的御顕現であらせられる現御神日本天皇によって体現される。

祭祀主による日本国の統合は、軍事力によるのではなく、祭祀による統合であった。古代日本において、軍事力が全く使用されなかったといふことはなかったとしても、基本的には祭祀的統合・結合が基本であった。古代日本の地方共同体が稲作生活を基本として交流し、共同を確かめ、稲作生活に必要不可欠な太陽を神と仰ぐ信仰を共通の信仰としたのである。そして天照大御神を最高神と仰ぐ共同体・日本国として統一された。それが天皇国日本の成り立ちである。

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千駄木庵日乗九月十一日

午前は、諸事。

午後は、『伝統と革新』編集の仕事。

午後六時半より、駒込地域文化創造館にて、『萬葉古代史研究会』開催。小生が、『柿本人麻呂歌集』所収の旋頭歌について講義。

終了後出席者と懇談。

帰宅後は、原稿執筆。

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2019年9月10日 (火)

日本天皇の國家統治と和歌は不二一体である

天皇の統治をやまとことばで「しろしめす」「しらしめす」と申し上げる。「しろしめす」「しらしめす」とは、「知る」の尊敬語で、お知りになる、承知しておられる、おわかりでいらっしゃるといふ意である。「しらしめす」は、「しらす」(「知る」の尊敬語)に、さらに尊敬の補助動詞「めす」の付いた言葉である。

また、「きこしめす」とも申し上げる。「きこしめす」は「きく(聞く)」の尊敬語「きこす」に「見る」の尊敬語から転じた「めす」が付いて一語となった言葉で、聞きあそばす、お聞きになるといふ意である。

天皇は、神の御心のままに國を治められると共に、臣下・民の心を良くお知りになり、お聞きになって、この國を統治あそばされるのである。

そして、天皇と民の心をつなぐものが「やまとうた」=和歌である。天皇は御製によってその御心を民に示したまひ、民もまた歌を捧げることによって民の心を天皇にお知りいただくのである。その傳統は、毎年行はれる「新年歌會始」に継承されてゐる。

天皇統治とやまとうたは切り離し難く一体なのである。君民一体の國柄は和歌によって保たれてきた。神代の昔より、今日に至るまで、高下貴賎の区別なく継承されて歌はれて来た文藝が和歌である。かかる優雅にして清らかなる君民一体の國柄は他の國には見られない。

小田村寅二郎氏は、「遠い遠いところに居られるやうに感じてゐた御歴代の天皇がたが、御歌を拝読するわれわれの目の前に、身近にお姿を現され、お聲をかけてくださるやうな気さへしてくる。『詩歌』とはまことに不思議なものであり、とくに『和歌』を介しての作者と読者とは、時空の隔たりを超えて心一つに通ひ合ふことができさうである。」(『歴代天皇の御歌』はしがき)と論じてゐる。

天皇・皇室は、神代以来、祭祀を継承されると共に、和歌の道を連綿として継承されてきた。そもそも和歌の起源は、皇室のご祖先であられる神代の神々のお歌に遡る。わが國の文藝(歌・物語)の起源は祭詞から発生した。わが國は祭祀國家であり、天皇はわが國の祭祀主であらせられる。天皇の國家統治は、祭祀と和歌がその基本である。

天皇主宰のもとに行はれる「勅撰和歌集」の編纂が、和歌の継承に不可欠であった。今日、「勅撰和歌集」が編纂されなくなってゐるのは、わが國の國柄が正しく開顕してゐないといふことである。

和歌と武と祭祀は一体である。日本國が本来的に和を尊ぶ國であり、天皇・皇室が武力を以て民を支配する御存在ではあらせられないといふことを強調するために、天皇・皇室と「武」との関係を軽視したりあるいは否定してしまふ論議がある。さういふ論議がと現行占領憲法の誤れる「平和主義」と結びつける人もゐるやうである。

しかし、天皇・皇室が「武の道統」を継承して来られた事は、天皇の國家統治を表象する「三種の神器」に「草薙剣」がある事によって明白である。「草薙剣」は、素戔嗚尊が、出雲國簸川(ひのかわ)上流で八岐大蛇(やまたのおろち)を切った時に、その尾から出たと傳へられる剣である。

『古今和歌集』の「仮名序」に、「人の世となりて、素盞鳴尊よりぞ三十文字あまり一文字はよみける」と書かれ、素盞鳴尊がお詠みになった

八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣つくるその八重垣を

といふ御歌が、和歌(三十一文字)の起源であると説かれてゐる。素盞鳴尊は、皇祖・天照大御神の弟神であらせられ、且つ、「武の神」であり、和歌を始めてお詠みになられた御方なのである。和歌は神詠であるといふ古来よりの信仰はここから生まれた。和歌と武とは一体なのである。これを「剣魂歌心」と言ふ。

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千駄木庵日乗九月十日

午前は、諸事。室内整理。

午後からは在宅して、明日開かれる『萬葉古代史研究会』における講義の準備。『伝統と革新』編集の仕事など。

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2019年9月 9日 (月)

「攘夷のための開國」「夷を以て夷を攘ふ」


わが国は明治維新といふ有史以来未曾有の大変革を実行し、黒船の圧迫に象徴される西欧列強からの侵略の危機を排除し独立を維持することができた。その理念は「尊皇攘夷」であった。

明治維新後のわが国は、西洋列強に侵略され植民地支配下に置かれないだけの武力・経済力を持つのが何よりの急務であった。日本が自立・独立の道を歩むには、欧米の文明文化を採り入れ、いはゆる「富國強兵」「殖産興業」の道をとらざるを得なかった。日本の独立維持・発展のために西欧文化・文明を学んだのである。

そしてその後、日本は近代化・西欧化の道を歩み続け、西欧列強の侵略支配を撃退した。これを「攘夷のための開國」「夷を以て夷を攘ふ」と言ふ。

近代日本における西洋学問・藝術・産業・科学技術などの吸収はすさまじいものであった。欧米の圧迫に対峙して、日本國の生存・自立・独立を維持し発展を實現せんとする意識即ち國民主義・民族主義がその根底にあった。だから、西洋文化・文明を吸収しても模倣に終らず、日本独自のものを創造し形成した。

西洋科学技術・近代資本主義を取り入れて近代化を遂げた日本は、日清・日露戦争に勝利し、大清帝国・ロシア帝国によるわが国に対する圧迫と属国化の危機を排除した。ほとんどの国家民族が西欧列強の植民地支配下に置かれていたアジアにおいてわが国は独立を維持した。それどころか、アジアにおいて影響力を強め、白色人種の支配と搾取に苦しむ有色人種の希望の星となった。

アメリカは、さうした日本を抑へ込まうとして日本を圧迫して来た。わが國は、米英から取り入れた近代科学技術によって近代化を遂げたのだが、その科学技術で武装した英米が襲ひかかって来たのが日米戦争であった。それは明治維新以来の「攘夷の戦ひ」の総決算であった。しかし敗北した。わが国は、欧米の科学技術を用いて欧米とりわけアメリカに対抗したが敗れたのである。

日露戦争後、アメリカが日本を仮想敵国としたことは明白な事実である。アメリカは日露戦争後、ことごとに日本を圧迫した。さうしたことの根底には有色人種への差別意識があった。アメリカは建国以来征服国家である。そして日本もアメリカに対抗せざるを得なくなった。これは避けることのできない歴史の流れだったと考へるほかない。

わが日本は明治維新以来、独立主権国家を維持し発展を図ると共に、アジアの安定と世界平和の確保のために努力した。さらに人種平等の確立のために努力した。この三つは、アメリカの国益を侵すものだった。だから、日本をつぶしにかけたのである。勝利に驕ったマッカーサーは、「日本人は十二歳に過ぎない」と放言した。これは明治維新以後敗戦までの日本を全否定した言葉である。

ミズーリ艦上に、ペリーの黒船に掲げられた星条旗が掲げられたのは、日本がアメリカに二度目の屈服をしたといふことを世界に示すためであったのだらう。
近代の歩みに対する反省は必要だが、日本だけが侵略者とする戦後の歴史観は訂正されねばならない。これがある限り、日本はまともな国になり得ない。支那とアメリカに対して対等な関係を構築できない。

「戦後日本」は、戦時中の「鬼畜米英」が「アメリカ万歳」となり、アメリカの従属国となった。ブギやジャズが大流行し、『憧れのハワイ航路』といふ歌がヒットした。変はり身が早い。これが良いことなのか。日本の柔軟性・強靭性なのか。占領されたのだから仕方がないと言へばそれまでだが、ともかく戦後日本はアメリカの言いなりになりになった。

「戦後日本は、アメリカによって解放され、民主国家となり、自由と繁栄を謳歌した」といふ幻想がある。しかしそれはあまりにも一面的な見方である。戦後日本の自由と繁栄は、アメリカがかぶせた鳥籠の中の自由であり繁栄であった。アメリカが押し付けた自由民主主義・平和主義の空間のなかでの「自由」であり「繁栄」であった。かうした戦後日本の空間を文章化したのが『現行占領憲法』である。

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千駄木庵日乗九月九日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆。

午後四時より、西荻窪にて、『伝統と革新』編集会議。この後、出席者と懇談。談論風発。

帰宅後は、書状執筆など。

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2019年9月 8日 (日)

日本民族が継承してきた伝統的な正しき信仰精神を正しく現代において生かす事が必要

<近代合理主義>を根底に置いた物質文明及び経済至上主義の行きづまりによる今日の混迷を打開するためには、正しき「信仰精神」への回帰が大切である。「神への回帰」「自然への畏敬」「祖先を尊ぶ」といふ精神性を重視した生活を確立することが、これからの生存に不可欠である。

 

そのためには、日本民族が継承してきた伝統的な正しき信仰精神を正しく継承し現代において生かす事が必要だと考へる。

 

「神道(神ながらの道)」といふ伝統信仰を保持する日本が、新しい文明を切り開いていく可能性が非常に高いと思ふ。

 

「神道」をやまとことばで「神ながらの道」と言ふ。「神ながら」(漢字では『随神・惟神』と書く)といふ言葉が、最も古く用いられてゐる典籍は、『日本書紀』孝徳天皇三年四月の条である。そこには、「惟神(かむながら)も我(あ)が子(みこ)治(し)らさむと故寄(ことよ)させき。是(ここ)を以(も)て、天地の初めより、君(きみ)臨(しら)す國なり」(神ながらにわが子孫に統治させようと依託された。それゆゑ、天地の初めから天皇の統治される國である)と書かれてゐる。この条の『註』に「惟神は、神道(かみのみち)に随(したが)ふを謂ふ。亦自(おの)づからに神道有るを謂ふ」とある。

 

この条について平田篤胤は、「真の神道と申すは、…天つ神高皇産靈、神皇産靈神の始めまして、伊邪那岐伊邪那美神の御受継ぎあそばして…其功徳は、天照大神に御傳へあそばし、皇御孫邇々杵尊天降り遊ばさるる時、天つ御祖、靈産の御神、天照大御神より、皇御孫命の御代々々、天の下知し召す、御政のやうを御傳へあそばし、扨、御代御代の天皇其の御依しのまにまに、己命の御さかしらを御加へあそばさず、天地と共に御世しろしめすことぢゃが、此の道を神道と申した」(真の神道とは天つ神・高皇産靈神、神皇産靈神を始めとして、伊邪那岐・伊邪那美神が継承され…その功徳は、天照大御神にお傳へになられ、皇孫・邇々杵尊が天降りあそばされる時、天の御親の神、産霊(むすび)の神、天照大神より歴代天皇の御代御代、天の下を統治され、まつりごとのあり方をお傳へあそばされ、それから、ご歴代の天皇は神々のご依託のままに、ご自分の才覚をお加へにならず、天地と共に御代を統治されることだが、この道を神道と申した)と論じてゐる。 

 

「神ながら」は、「神」の「柄」(その物に本来備はってゐる性質、性格。本性の意。人柄の「柄」と同じ)といふ意味だとされる。「な」は助辞で「の」の意。
つまり「神ながら」とは「ある行動などが、神としてのものであるさま。神の本性のままに。神でおありになるさまに」「ある状態などが、神の意志のままに存在するさま。神の御心のままに」といふほどの意味になる。

 

『日本書紀』『萬葉集』の「神ながら」といふ言葉の意義を踏まへて「神ながらの道」を定義すれば、「自分の私心を加へないで、神の御意志通りに、神のなさることをそのまま踏み行ふ道」として良いかと思ふ。

 

つまり、天地自然と祖靈を神として仰ぐところの人為の理論・教条ではない虚心坦懐な信仰が、「神ながらの道」である。

 

熊沢蕃山は、「天地は書なり。萬物は文字なり。春夏秋冬行はれ、日月かはるがはる明らかなり。これ神道なり」(集義外書・巻十六)と述べてゐる。

 

我々の生活が神のみ心通りの生活になり、神のご生活と我々の生活が同じになることをことが「神ながら」なのである。一言で申せば『神人合一』の生活である。そしてその神とは抽象的な概念ではなく、天地自然と共に生きたもう神である。

 

「日本神道」がわが國の太古からの信仰であるとともに、文化文明の発達・進歩と共に生き続け、現代文明・科學技術とも融合し共存する洗練された信仰である。このことは、今日の日本において、近代的なビルや工場などを建設する際、「神道」の祭祀が行はれることに端的に示されてゐる。

 

現代日本は、文字通り内憂外患交々来り、未曽有の危機にある。さうした状況を打開するには、日本人が古来抱いて来た自然の中に神の命を観るといふ信仰精神を回復しなければならない。

 

日本国土の自然は實に美しい。四季の変化も規則正しく、気候も比較的穏やかである。しかし自然は、時に、東日本大地震など多発する地震そして火山の噴火のように物凄い猛威をふるひ、人間に襲ひかかって来る。そして人間の命を奪ひ生活を破壊する。

 

日本における科学技術の進歩とその利用は目を見張るものがある。現代社会の便利な生活は、その科学技術によるものである。しかし大自然は、時としてその科学技術によって成り立つ人間の生活をも一瞬にして破壊する。そして人間は、悲惨に状況に追い込まれる。

 

これだけ文明が発達し、科学技術が進歩した、その恩恵によって成り立ってゐる現代人の生活は、自然の猛威によってもろくも破壊され、多くの人々が惨禍に喘ぐこととなる。科学技術が進歩してゐるが故になほさら惨禍がひどくなる。
われわれは、自然および科学技術文明との付き合ひ方を今一度深く考へ直すべきである。麗しき自然に恵まれつつも自然の脅威にさらされる日本民族、科学技術を巧みに使ひこなして来た日本民族は、さういふ使命を帯びてゐると思ふ。

 

そのためには、「現代に生きる神話」たる<祭祀>を根幹とした瑞穂の國日本の回復・祭祀国家日本の再生が大切である。日本人は自然と共生し、自然を畏怖すべきものとして接してきた。そして自然を「神」として拝み、信仰の対象にした。われわれ日本人は、これからも自然と共に生きる姿勢を保っていかなければならない。

 

人間の力が自然を支配し征服するなどといふ傲慢な考えへ方を持たず、自然の命を尊び、自然に「神」を見なければならない。天神地祇そして祖霊へのお祭りをしっかりとさせていただきましょう。

 

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千駄木庵日乗九月八日

午前は、諸事。

 

午後は、『政治文化情報』の原稿執筆・脱稿・印刷所に送付。

 

午後六時より、歌舞伎町のバトゥール東京にて、『若島和美さんを励ます会』開催。阿形充規・犬塚博英・蜷川正大の各氏が祝辞。盛宴に移った。

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帰宅後は、原稿執筆。

 

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天照大御神の御心であり鏡の心である「清明心」が日本民族の外来文化・文明包摂の精神

太古以来の日本民族の精神的特性は、「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」である。

中村元氏は「日本人の思惟方法のうち、かなり基本的なものとして目立つのは、生きるために与えられている環境世界ないし客観的諸条件をそのまま肯定してしまうことである。」(『日本人の思惟方法』)と論じてゐる。

「清らけき明らけき心」「素直な心」「無私の精神」とは、中村氏のいふ「与へられてゐる環境・条件をそのまま肯定する思惟方法」とかなり近いものがあると思ふ。

「与へられてゐる環境を素直に肯定する思惟方法」が、天地自然を人間と対立する存在ととらへず、天地自然を神としてまつり拝ろがむ信仰生活を生んだと思はれる。それは日本の天地自然が麗しく温和であり人間に大いなる恵みを与へる存在である事による。麗しく豊かな自然に恵まれた日本民族は、現世を肯定し、明るい太陽の下で生きてきた。日本民族は本来明るく大らかな民族である。

明治天皇御製

あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな

「清明心」をうたひあげられた御製と拝する。大らかな広々とした心が「清明心」である。私心をまじえず眞澄のやうに清らかな心、それが日本人の本来の心である。

「清明心」は、佛教思想の影響が強まった中世になる「正直」といふ言葉になった。『早雲寺殿二十一カ条』(室町後期の武将北条早雲の教訓書)に「こころを直にやはらかに持ち、正直憲法にして…あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのままなる心持、持仏冥慮にもかなふと見えたり」と記されてゐる。
「正直の心」は、ありのままなる心・素直な心である。つまり清明心の中世的における表現である。

日本民族は、「もののあはれ」といふ美感覚を持ってゐる。「あはれ」とはうれしいにつけ、楽しいにつけ、悲しいにつけて、心の底から自然に出てくる感動のことばである。

「もののあはれ」とは、物事にふれてひき起こされる感動である。知的興味とは違った何かに深く感動することのできる感じやすい心のことである。自然・人生の諸相にふれてひき出される素直なる感動の心である。理論・理屈ではない。「清明心」「正直の心」を美感覚の世界における表現が「もののあはれ」といへる。

本居宣長に次のやうな歌がある。

事しあればうれしかなしと時々にうごく心ぞ人のまごゝろ

この宣長の歌について、村岡典嗣氏は「この眞心こそは、やがて古神道に於ける清明(あか)き心、中世神道における正直の觀念の發展せるものに外ならない。彼(註・宣長)が一切の偽善や作為をあくまでも斥け、その見地から儒教を攻撃したのもこの立場からである。」(『日本思想史研究・第四』)と論じてゐる。
宣長にはまた次のやうに歌がある。

眞心をつゝみかくしてかざらひていつはりするは漢(から)のならはし

宣長のいふ「からごころ」は、日本人本来の素直なる心・清明心・もののあはれとは正反対に位置するといふことである。

先人は「正直」「清明心」といふに本人の中核精神が「三種の神器」の一つである「鏡」に象徴されると信じた。

北畠親房は、『神皇正統記』で「鏡は一物をたくはず私の心をなくして萬象をてらすに、是非善悪のすがたあらはれずと云ふことなし。其すがたにしたがって感應するを徳とす。是正直の本源なり。」と説いてゐる。

「清明心」は、鏡の心であり、太陽の心であり、天照大御神の御心である。この精神が、「主体性」を喪失せずに「無私」の態度で一切を包容摂取するといふ矛盾と思へるやうなことを為し得て来た原因であると思ふ。

「鏡」は、天照大御神の『神勅』に「吾が児、この寶鏡を視まさむこと、當に吾を視るが如くすべし」と示されてゐる通り、天照大御神の御霊代(れいだい・みたましろ)である。

また、仲哀天皇が筑紫に進軍された時、筑紫の県主・五十迹手(いとて)が『三種の神器』の意義を天皇に奏上した言葉に「白銅鏡の如くにして、分明(あきらか)に山川海原を看行(みそなは)せ」(『日本書紀』「仲哀天皇紀」)とあるやうに、鏡のやうに明らかに山川海原を統治されるお方が、天照大御神の「生みの御子」であられせられる日本天皇なのである。

「鏡」は天照大御神の広大無辺の御慈愛と曇りなき御心を表象する。天照大御神は、素盞鳴尊が悪い行為をされても、それを良く解釈された。それが太陽の明るく大いなる生命=天照大御神の御神徳である。見直し聞き直して、相手を生かされるのが天照大御神の御心である。それがまさに、日本民族の外来文化・文明包摂の心である。

阪本健一氏は、「天照大御神の御神徳は、弟神素盞鳴尊に対する思いやり、見直し、聞き直しの御寛容であり、下からすれば人の児の母胎に宿るが如き、何の不安もなき、絶対帰依の本尊である。」(『明治維新と神道』)と論じてゐる。

わが国外来文化・文明を大らかに受容したのは、我が國の建国の過程が外国の侵略即ち異民族間の武力闘争によるのはなく、祭祀的統一であったことによる。しかもその祭祀的統一とは、前述した通り、天地自然を神と拝ろがむきはめて平和的な信仰を「核」としてゐる。大國主命は、須佐之男命の御子あるいは御子孫であらせられ、須佐之男命は天照大御神の弟君であらせられる。

日本民族は天地自然を神として拝ろがみ祭ってきた。ゆゑに日本の神々は素盞鳴尊のやうに時に猛威をふるはれることはあっても、一神教の神のやうに「妬み」「裁き」の神ではない。

日本民族の包容性は、母胎が生命を摂取し包容するがごとく柔軟であり寛容である。しかしそれは柔軟であり寛容であると共に自身も強靭な生命力を有してゐないと不可能である。天照大御神の「聖胎」はすべてを包摂し聖化する。

それと関連させて申せば、皇位継承・皇室典範改定に関する議論で「種」とか「畑」といふことを論ずる人がゐるが、女性天皇が御子を胎内に宿されることを、馬や牛と同じやうに論じることに身の毛のよだつのを覚へる。天皇は、天照大御神の生みの御子であらせられ現御神=天照大御神と同一の神格を有せられる神聖なるご存在)であらせられる。

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千駄木庵日乗九月七日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して室内整理、原稿執筆など。

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2019年9月 6日 (金)

【第九十九回日本の心を学ぶ会】のお知らせ

テーマ 明治維新と尊皇攘夷思想を考へる

【日 時】令和元年九月二十九日 午後六時から

【場 所】文京区民センター 2-B会議室
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html
文京区本郷4-15-14/03(3814)6731〇三(三八一四)六七三一都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分/東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分/都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

【演 題】明治維新と井伊直弼

【講 師】四宮正貴氏 四宮政治文化研究所代表

【司会者】林大悟

【参加費】資料代五百円終了後、近隣で懇親会(二千円位の予定です)

【連絡先】渡邊昇 090-8770-7395

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戦後日本全体を覆ってきた精神は「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」

 三島由紀夫氏は言う。「われわれは戰後の革命思想が、すべて弱者の集團原理によって動いてきたことを洞察した。…不安、嫌惡、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の道具に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集團運動である。」と(反革命宣言)。

 革命思想のみならず、戦後日本全体を覆ってきた精神が、「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」である。自分よりも富める者・幸福に見える者を憎み、嫉妬し、これを引きずり下ろそうという精神が國民に横溢している。それを煽り続けているのがマスコミである。

 三島由紀夫氏は、『瀧ヶ原分とん地は第二の我が家』(昭和四五年九月二五日発表)という文章で、「ここでは…利害關係の何もからまない眞の人情と信頼を以て遇され、娑婆ではつひに味はふことのない男の涙というものを味はった。私にとってはここだけが日本であった。娑婆の日本が失ったものがことごとくここにあった。日本の男の世界の嚴しさと美しさがここだけに活きてゐた。われわれは直接、自分の家族の運命を氣づかふやうに、日本の運命について語り、日本の運營について憂へた。……ぢかに足で踏みしめる富士山麓の日本の大地の足ざはりを以て、日本の危機と困難と悲運について考へることができた。……私は、ここで自己放棄の尊さと嚴しさを教へられ、思想と行爲の一體化を、精神と肉體の綜合の厳しい本道を教へられた。」

 これは、自決直前の昭和四十五年九月十日から十二日まで、陸上自衛隊富士學校瀧ヶ原分屯地學生五十名と共に体験入隊した時の文章である。

 三島氏は、祖國防衛のために一身を捧げる訓練をする自衛隊の中にのみ、「利害關係の何もからまない眞の人情と信頼」「自己放棄の尊さ」即ち眞の倫理精神、道義精神が生きており、戦後日本が失ったものがことごとくあるとし、自衛隊分屯地の中だけが日本である、と断じている。この三島氏の文章は、現代社會の腐敗・混乱・堕落の根源にあるものを示唆している。

 軍と武を否定した「平和と民主主義の國・戦後日本」には、眞の日本も、眞の道義精神も、武士道も、大和魂も、なくなっているでのある。    

 三島氏はさらに言う。「文學・藝術の故郷は非合法の行動の暗い深淵に求められていくことになるであらう。…法はあくまでも近代社會の約束であり、人間性は近代社會や法を越えてさらに深く、さらに廣い。かつて太陽を浴びてゐたものが日陰に追ひやられ、かつて英雄の行爲として人々の稱贊を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになった」(行動學入門)と。

 長い日本の歴史の中で、須佐之男命・日本武尊という神話時代の英雄、さらに中古中世の鎮西八郎為朝、源義経、さらに近世・幕末における赤穂四十七士、井伊直弼を撃った水戸脱藩浪士の行動、さらに大東亜戦争における特攻隊員を始めとした兵士たちの行為などは、「英雄」と讃えられた。しかし、戦後日本は、そうした英雄の行為を「非合法」「反ヒューマニズム」として裁き日蔭に追いやった。

 「國のため敵を撃つ」「大君の御為に身命を捧げる」「仇なすものを討つ」などということは、「平和と民主主義」と絶対相容れない「行為」として、「日蔭」に追いやられ続けている。

 大和魂・武士道を否定し、「生命の尊重」が最高の道徳とされ、「平和と民主主義」を謳歌している今日の日本において、戦前どころか有史以来見られなかった凶悪にして残虐なる犯罪、凶悪なる殺人事件が続発している。

 三島由紀夫氏は、昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷台状で自決された際の『檄文』で、「生命の尊重のみで、魂が死んでもよいのか」と訴えられた。まさに、現代日本は「生命尊重」のみで魂が死んでしまい、頽廃と残虐の時代になってしまった。

 『檄文』に曰く「軍の名を用ゐない軍として、日本人は魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである」。

 魂の腐敗と國家の欺瞞は、軍國主義國家であったという戦前の日本にはあり得なかったような、人命軽視という言葉すら空しくなるような、残虐なる殺人が日常茶飯事になった現代社會を現出させた。

われわれ神洲清潔の民は、強者の立場をとらなければならない。「一人立つ」の精神がなければならない。眞の独立自尊の精神がなければならない。「不安、嫌惡、憎惡、嫉妬」の精神を払拭し、祓い清めなければならない。そして、大和魂=日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さを回復しなければならない。須佐之男命・日本武尊そして防人以来の武士道精神・もののふの心に回帰しなければならない。以上は、自分自身への叱咤激励として書いた文である。        

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千駄木庵日乗九月六日

午前は、諸事。

午後からは在宅して、室内整理、『政治文化情報』原稿執筆など。

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萬葉古代史研究會

四宮正貴が講師となり『萬葉集』を勉強する會が開かれております。主要作品を鑑賞しつつ古代日本の歴史精神と美感覚を學んでおります。多くの方々の御出席をお待ちしております。 

日時 十月九日(毎月第二水曜日) 午後六時半より

會場 豊島区立駒込地域文化創造館
豊島区駒込二の二の二 電話〇三(三九四〇)二四〇〇 「東京メトロ南北線 駒込駅」四番出口より徒歩一分 「JR山手線 駒込駅」(北口)より徒歩二分

會費 千円  テキストは、岩波文庫本『萬葉集』

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今日思ったこと

安倍晋三首相が九月五日ウラジオストクでプーチン露大統領と会談する直前に、北方領土の色丹島で稼働した水産加工場の労働者とテレビ会話を実施したことについて、会談に同席した河野太郎外相は「無礼だ」と怒鳴りつけても良かったのではないでしょうか。安倍氏は何十回会談しても北方領土を返還しようとしないプーチンに会う必要はないと思います。

日産の西川広人社長をガードしている坊主頭の二人の屈強な男はどういう人たちなのでしょうか。西川という人も相当悪人なのではないかと疑いたくなります。実際西川という人はゴーン氏と同じようなことをしていたことが明らかになりました。

ホモのセクハラジジイのお別れ会とやらに九万人もの人が集まるという日本は本当にどうかしています。また。テレビなどの日本のメディアが一部週刊誌を除いてジャニーズ事務所の様々な疑惑について全く報道しないのもおかしな話です。

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千駄木庵日乗九月五日

午前は諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、『政治文化情報』原稿執筆、『伝統と革新』編集の仕事など。

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2019年9月 5日 (木)

萬葉集に見るもののふの心

 萬葉集と武と変革

 萬葉集の中心の時代は天武天皇の御代から、孝謙天皇の御代にかけてであって、決して太平の世ではなかった。大化改新・壬申の乱・白村江の戦いという大変革・大建設・大国難の時代に生まれた。変革・建設・国難と和歌とは切っても切れない関係にある。萬葉集には大変革・大建設・大国難の時代の息吹きに満ち満ちた日本民族の精神があった。萬葉の精神とは、国家の大事・国民精神の根柢をつくような大事しきりに起こる中で、わが国民が如何にして國體の神髄を守り、神と天皇に仕え奉ったかが表白されている。歌の調べの美しさも、慟哭も、みなこの一点より解さねばならない。したがって、歌を学ぶとは、歌の道に伝わった日本伝統精神を踏み行うことなのである。
 
 もののふとは
 
もののふとは、武人・武士のことやまとことば(和語すなわち漢語や西洋などからの外来語に対し、日本固有の語)で言った言葉であり、雅語(和歌などに使う、平安時代風の言葉)的表現である。

「もののふ」とは、「宮廷を守護する者」即ち「物部」の音韻が変化した語が「もののふ」である。「もの」とは「もののけ」の「もの」と同じで、不思議な霊力がある存在のことである。物部氏という氏族は、もっとも有力な「もののふ」だったという。

物部の原義は、宮廷の妨げをするものを平らげ鎮める働きをする部(群れ・組。世襲的に一定の職業に従事した団体)のことである。物部氏は、古代の氏族の一つで、朝廷の軍事・刑獄のことを司った。古代日本では、霊的力即ち巫術(呪術(じゆじゆつ) の一つ。超自然的存在が人にのりうつり、その人を通して話し、行動するもの)を以て戦場に臨み、敵軍を守る精霊を抑圧するものが「もののふ」(物部)であった。

もののふのみち(漢語<昔、中国から伝来して日本語となった語。更に広く、漢字で組み立てて音(おん)で読む語>でいうと武士道)は、物部、大伴の二氏によって明確なる史実として表現せられた。

物部氏は饒速日命の後裔で武勇を以て聞こえた家柄で、神武天皇に奉仕し、御東征の折に大和で長髄彦を討って勲功があった。大伴氏と共に宮門を護衛し、軍事を担当した。これが後世武士の起こる濫觴とされている。用命天皇の崩御直後(用命二年・五八七)、仏教受容を唱えた蘇我氏の馬子と物部守屋が争い破れて物部氏は滅びた。大伴氏については後に述べる。

なお、「もののふ」を漢語(漢字で組み立てて音(おん)で読む語。↔和語)では、「武士」(ぶし)というのは、折口信夫の説では、野に伏し山に伏して主君のために仕える者であるからという。

もののふの道(武士道)とは、古代日本(古事記・萬葉)においては、宮廷を守護すること即ち皇室に忠誠を尽くすという精神である。それが原義である。後に述べる日本武尊の御生涯、そして笠金村の次の歌にそれは明らかである。(笠金村は伝未詳。作歌年代の明らかな歌は、霊亀元年(七一五・元正天皇の御代)から天平五年(七三三・聖武天皇の御代)まで)

「もののふの臣(おみ)の壮士(をとこ)は大君の任(まけ)のまにまに聞くといふものぞ」
(三六九・軍人として朝廷に仕える男は、大君の仰せの通りに御命令の通りに聞き従うものであるぞ)

大伴宿禰三中(系統未詳。遣新羅副使・摂津班田使<律令制下民に授けられた田んぼである口分田を民に分かち与えるために派遣された官吏>などを歴任。宿禰とは、天武天皇の代に定めた八色姓(やくさのかばね) の第三。もと、臣下を親しんで言った呼び名。姓とは、わが国の上代で、氏族の尊卑を表すための階級的称号。臣(おみ)・連(むらじ) ・宿禰(すくね) など数十種がある。)が、部下であった丈夫部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)が首を縊って自殺した時に詠んだ歌には、次のように歌われている。

「天雲の 向伏(むかふ)す国の 武士(もののふ)と いはるる人は 天皇(すめろぎ)の 神の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ちさもらひ 内の重に 仕へ奉(まつ)りて 玉かづら いや遠長く 祖(おや)の名も 繼ぎゆくものと 母父(おもちち)に 妻に子供に 語らひて 立ちし日より…」
(四四二・天雲の垂れ伏す遠い国のもののふといわれる人は、天皇が神の如くにおられる皇居で、外の回りを立って警備し、奥庭におそばでお仕え申し上げ、(玉かづら・長居に掛る枕詞)ますます長く祖先の名を継ぎ行くものなのだと、父母に、妻に子供に語って出発した日より…) 

故郷を出発する時の朝廷奉仕の確固たる覚悟が、上司の三中によって歌われている。「天雲の 向伏(むかふ)す国」は、「遠い国」につく慣用句で自殺した丈夫部龍麻呂の出身地のこと。東国の出身であったらしい。

「もののふ」はこの場合は原文(萬葉仮名)に「武士」とあり、皇居を警備する武官を念頭に置いた。天皇の神の御門は現御神信仰に基づく言葉。

「さもらふ」は様子を伺い機を待つという意であるが、この「さもらひ」の女性語が「さむらふ」(目上の人に側に仕えること)。この言葉から「さむらひ」(武士)という言葉が生まれた。

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『笹川平和財団主催 シンポジウム中ロの軍事協力の意義』で聞いた興味深い発言

『笹川平和財団主催 シンポジウム中ロの軍事協力の意義』で聞いた興味深い発言を記します。

 

「以前は、ソ連の仮想敵国の三番目、四番目が中国だった」。
「ロシアの国境ははっきりと確定していない」。
「中ロは具体的な航空作戦をできるレベルではない」。
「ロシアをあまりいじめすぎると中国と手を組む。同盟にはならなくてもパートナーになる」。
「ロシアは中国の敵にすることは物理的にできない」。
「ロシア人より中国人の方が豊か。昔と違う」。
「台湾海峡に何かかがあっても、ロシアが中国と共同作戦をとることはない.中央アジアではあるかもしれない」。
「ロシアは中国が北極海・中央アジア・ウクライナに中国が入ってきてゐるのを不快に思っている」。
「北朝鮮のミサイルにロシアの技術が入って入る可能性はある。しかしロシアの国策として技術を出しているのではなく、漏れた」。

 

 

 

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千駄木庵日乗九月四日

午前は、諸事。

午後は、原稿執筆。

午後三時半より、虎ノ門の笹川平和財団ビルにて、『笹川平和財団主催 シンポジウム中ロの軍事協力の意義』開催。小泉悠:東京大学先端科学技術研究センター特任助教、小原凡司:笹川平和財団上席研究員に二氏が講演。質疑応答。大変専門的な講演内容であったのでメモを取るのが大変であった。来聴者には、自衛隊関係者、国防安保問題の専門家、メディア関係者が多かったようである。

帰宅後は、原稿執筆。

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2019年9月 4日 (水)

『五箇条の御誓文』について

 

日本國體と欧米の権力國家論との結合は不可能である。古代日本の統一は、日の御子たる天皇が行われる祭祀を中核として、他の地方的な祭祀が全國的に統一されることによって実現したのである。これが天皇國日本の成立である。日本國は権力者の武力によって統一された権力國家ではない。祭り主である天皇の祭祀が及ぶ範囲が広がって行って生まれた國である。

 

 古代日本の統一とは祭祀的・信仰的統一であり、日本國の本質は、祭り主・天皇を中心にした國民の精神的な共同体である。
 
したがって、日本という國家は権力者が國民を支配するための機関すなわち権力國家ではないし、日本國の君主たる天皇は、武力や権力を以て國民に命令を下す権力者ではない。また、多数の個人が契約を結んで作った國でもない。さらに、天皇國日本は、世界の多くの國々のような征服や革命によって人為的に成立した國家ではない。だからわが國の國体を「萬邦無比」というのである。

 

「天皇制と民主主義は矛盾する。歴史の進歩にしたがって天皇制はなくなるし、なくすべきだ」と考える人がいる。こうした考えは、悠久の歴史を有する日本國を否定し破壊する考え方である。そして、こうした考え方に妥協して、いわゆる「民主主義」といわゆる「天皇制」を何とか矛盾なく結合させようとする考え方がある。現行占領憲法の「天皇条項」はそうした考え方によって書かれていると言えるのかもしれない。この度の御代替わり、皇位継承の意義深い行事・儀式においても『現行占領憲法』によって伝統が破壊され隠蔽されたところが大いにあった。
 
占領憲法に象徴される「戦後民主主義」(欧米民主主義思想と言い換えてもよい)なるものが如何に日本國を堕落させ破壊したかは、今日の日本の現状を見れば火を見るよりも明らかである。我々は日本を亡國の淵から救い、立て直すために、「戦後民主主義」を根底から否定しなければならない。そして、「戦後民主主義」の否定は、日本の伝統的國家観・政治思想の復興によって行われるのである。言い換えると、日本國體精神が「戦後民主主義」否定の原理なのである。

 

 わが日本は建國以来、民が「主」の國ではない。天皇が「主」の國である。これが萬古不易のわが日本國體である。ゆえに、日本國は決して「占領軍や共産主義勢力が目指した民主國家」になってはならない。日本國は天皇國である。「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)は決して善でも正義でも真理でもない。日本にとって百害あって一利無き亡國思想である。欧米民主主義を建国以来理想として来た国がアメリカであるが、そのアメリカにおいて黒人の奴隷制が行われていた。

 

国家を権力機構とみなし、君主と人民は対立する関係にあるとする「戦後民主主義」(欧米民主主義思想)と「日本國體」との結合などということは全く必要のないことであるし、また不可能なことなのである。

 

 ただし、わが國體精神・天皇の国家統治は、民の幸福実現を最高の目標としている。国民の幸福の実現こそが天皇の統治の目的である。わが国においては、古代より国民を「おほみたから(大御宝)」ときた。民を尊ぶことが天皇の御統治の基本である。日本伝統信仰おいては、人は神の分け御霊であり、人間は本来神の子として尊ばれるべき存在である。

 

 歴代天皇は、すべて国民の幸福を祈られ、「おほみおや(大御親)」としての仁慈の大御心を以て「おほみたから」であるところの国民に限りない仁政を垂れたもうたのである。

 

 国民の幸福を実現する政治制度という意味で「民主政治」「民主主義」という言葉を使うとするなら、わが國の天皇統治はまさにそういう政治制度を生み出す根幹なのである。天皇中心の國體を正しく実現する事を目的として断行された明治維新の基本的精神は、慶応四年三月一四日、明治天皇が京都御所南殿で、公家、諸侯や百官を率いて天地神明に誓われた『五箇条の御誓文』に示されている。

 

それは、「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め大に皇基を振起すべし」の五か条であり、民主政治の基本が示されている。

 

 葦津珍彦氏は「五箇条の御誓文に見られる政治思想そのものは、決して外国の政治学理論によってはじめて教えられたものではなく、いわゆる幕末時代、約二十年の間に、日本人が政治実践の中から、自然成長的に形成されてきた日本人の政治しそうであった。」(『近代民主主義の終末』)と論じている。
 昭和天皇は、昭和五十二年八月二三日、那須御用邸で、宮内庁記者団に対して、「(『昭和二十一年元旦の詔書』の)第一の目的は御誓文でした。神格とかは第二の問題でありました。当時アメリカその他の勢力が強かったので、国民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは、明治天皇の思召しであり、それが『五箇条の御誓文』です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものではない事を示す必要があった」と仰せになられた。天皇の国家統治は、「輸入のものではない民主政治であり民主主義」なのである。

 

 天皇の国家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の統治は民の心をお聞きになり、民の心をお知りになる事が基本である。そしてそれは議会によって実現する。ゆえに、明治維新断行後において、帝国議会が開設され『大日本帝国憲法』が施行されたのである。

 

近代に於いてのみならず、古代日本においても、国民のために政治が天皇の統治によって実現していたのである。『日本書紀』の「仁徳天皇紀」には次のように記されている。「天皇の曰はく、『其れ天の君を立つるは、是百姓(おほみたから)の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢ゑ寒(こ)ゆるときには、顧みて身を責む、今百姓貧しきは、朕(われ)が貧しきなり。百姓富めるは朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは』とのたまふ。」

 

 天皇が国民の幸福を祈られる祭祀を執行され、国民は天皇の大御宝であるという事が正しく実現され、萬機は公論によって決せられるという体制が真に確立する時、国民のための政治即ち民主政治が、言葉の上においてではなく、実際政治に於いて正しく実現するのである。天皇のまつりごとにこそ、真の民主政治のである。

 

天皇は常に国民の幸福を祈られ、天皇統治とは国民を意志をお知りになることが基本である。わが國は天皇が民の幸福をわが幸福とされ民の不幸をわが不幸とされる君民一体の国柄である。これこそ真の民主政治でなくして何であろうか。

 

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千駄木庵日乗九月三日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2019年9月 3日 (火)

徳川幕府瓦解と井伊直弼の専断政治


源頼朝が鎌倉の幕府を開いて以来、わが国は一君万民の國體か隠蔽されてきた。特に、德川幕府は、天皇・朝廷を圧迫し、京都に押し込め、国政を壟断して来た。

天に二日なきが如く国家にも二君があってはならない。明治維新は、天皇を君主と仰ぐ一君万民の國體明徴化といふ一大変革であった。それは即ち德川幕府の瓦解であった。

その端緒になったのは、欧米列強によりアジアそして日本侵略植民地化の危機であった。徳川幕藩体制では国家の防衛・独立の維持といふ重大事に適切なる処置を講じることが出来なくなってゐた。徳川幕府は、ペリー来航・強圧的開国要求に対して、対等な関係で対処する事が出来ず、屈辱的な不平等条約を結ばざるを得なかった。

徳川氏は、二百数十年にわたって「征夷大将軍」の地位にあった。「征夷」とは、夷狄を征伐するといふ意である。その徳川氏は、使命職責を果たし得なくなったのである。

嘉永六年(一八五三)のペリー来航以来、慶應四年(一八六八)の徳川幕府瓦解まで、十五年かかったが、國體の明徴化によって国難が打開されるといふわが国の変革の歴史の繰り返しが明治維新である。

そのきっかけとなったのは、「安政の大獄」であり「桜田門外の変」である。井伊直弼の専断政治、強圧政策がなければ、國體明徴・一君万民の統一国家實現の大変革即ち明治維新はもう少し違った形で行はれたかもしれない。

井伊直弼は、守旧派といふ言葉がぴったりと当て嵌まる人物である。開国を先導した開明的な政治家であるといふ評価があるが、私にはとてもさう思へない。開国はすでに阿部正弘、堀田正睦によって実行されてゐた。井伊直弼が行ったのは孝明天皇の勅許を得ないで「日米和親条約」を締結した事と、それに憤激した尊皇の大義を重んずる人々を弾圧した事である。吉田松陰、梅田雲浜、橋本左内などの勤皇の志士・思想家を死地に追いやっただけでなく、德川氏の身内であり、幕府を支へる重要な位置にゐた徳川齊昭、松平慶永などにも及んだ。本家の大番頭が、分家・親戚の当主を排除したといふことである。

これに対する反動が、「桜田門外の変」である。そして井伊は自らの命を落としたばかりでなく、反って幕府の権威を失墜させ幕府瓦解を早めてしまった。さらには、「尊皇討幕」の機運がより一層醸成され、後の戊辰戦争へと発展する。一言で言へば、井伊直弼は、朝廷を蔑にした。だから朝敵として誅殺されたのだ。

井伊直弼の独裁体制下にあった徳川幕府が、「安政の大獄」といふ大弾圧を行ひ、且、朝廷への圧迫を強めたことにより、情勢は一変し、「尊皇討幕」の大運動が勃興したのである。

もともと日本は天皇中心の国・一君万民の國だったのに、徳川氏が武力によって政権を壟断したのである。そして天皇・朝廷を京都に押しこめ奉ったのである。これを國體隠蔽と言ふ。

徳川幕藩体制が、天照大神の御神勅に示された「吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」といふ國體を隠蔽し、そのことが国家的危機を招来したから「尊皇攘夷」「尊皇討幕」の思想と行動が生まれたのである。それが明治維新である。

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千駄木庵日乗九月二日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、『政治文化情報』原稿執筆など。

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2019年9月 2日 (月)

 「御即位の大礼」「天津日繼ぎの高御座」の意義

徳川家が独占してきた役職である征夷大将軍とは「夷」(えびす・えみし=日本に仇なすもの)を征討する大将軍という意味である。ところが幕府はペリーがやって来たら慌てふためいて、何もできない。そしてアメリカと屈辱的な國交を結んでしまった。そこで、徳川氏は征夷大将軍の役目を果たすことができないということになって、徳川幕府を倒して、天皇中心の國家を再生せしめた大変革が、明治維新である。

 わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。

 「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。

 慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。

 明治天皇は、さらに、

 「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」
 「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」

 と詠ませられている。    

 明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。

 ただし、明治維新の基本精神たる「神武創業への回帰」とは、「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。

「神武創業への回帰」という根本精神は、明治天皇の大御心の実現であると共に、危機的状況にあった祖國日本を再生せしめるための精神的基盤確立であったのである。近代日本の発展はまさに神武創業への回帰がその基礎となったのである。これを「復古即革新」(=いにしえに回帰することが現在の革新であるという理念)という。

 今日の日本も、冒頭に述べたように、幕末期・明治初頭と同じような否それ以上の危機に直面していると言っても過言ではない。今日においてこそ神武創業の精神に回帰した國家革新を断行しなければならない。
 
                     
 「紀元節」の歌に、「天津日繼ぎの高御座 千代よろづ世に動きなき 基い定めしそのかみを 仰ぐけふこそ楽しけれ」(高崎正風作詞)とある。この「天津日繼ぎの高御座」」(天津日嗣とも書く)とは、天の神の御子即ち日の御子のお座りになる高い御座所のことである。
 「天津日繼ぎ」とは、「高天原の天つ神から伝達された日(靈)を繼承される」ということである。日本天皇は天の神(天照大神・日の大神)の靈統を繼承され、神の御心のままに(神ながらに)日本國を治められるのである。

 平野孝國氏は「このツギの思想は、元来個人の肉体を超えて繼承される系譜と見てよい。ヨツギという形で後代まで変化しつつ残ったが、『宮廷のツギは日を修飾して、ヒツギと言ふ。日のみ子、或は日神の系図の義で、口だてによって風誦せられたものである』という折口信夫説(古代研究・國文学篇)が、本義に近いものである」(大嘗祭の構造)と論じておられる。つまり、皇位の繼承は肉体的な血統のみによるのではなく、日の神の神靈を繼承するという神代以来の信仰に基づくのである。

 さらに「高御座」について折口信夫氏は、「高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。…御即位式に昇られる高御座は、…天が下の神聖な場所、天上と同一な価値を持って居る場所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天の帝(みかど)といふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持って居るところ、といふ意味である。…高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる」(大嘗祭の本義)と論じておられる。

 天皇が高御座に昇られることによって、天皇は天上の神と一体になられ、地上の國がそのまま天上の國となるのである。別の言葉でいえば、今が神代になり神代が今になるのである。日本伝統信仰においては、天と地とが隔絶した存在とはとらえていないのである。高天原を地上に持ち来たし、日本國を高天原のように清らかにして神聖なる理想國にすることが天皇の御使命である。

 今上天皇におかせられても、神代以来の伝統を繼承され、御即位の大礼において天津日繼ぎの高御座にお立ちになられる。これは天の神の御代理(現御神)の御地位にお立ちになったということを意味するのである。「御即位の大礼」は、天照大神が皇孫邇邇藝命を天津日繼の高御座に即け給い、神器を授け給ひ、神勅を下し給ひしことを、新たに繰り返す行事である。

 このように、天皇の國家御統治の御精神は、常に、新たなる國家の生命の甦り、言い換えると國家の新生・再生を常に希求されているのである。しかもこの新生・再生は、それまでの伝統を断絶して行われるのではない。無限の過去から無限の未来にわたるまで、天皇による日本國の新生・再生、命の甦りは繰り返されるのである。ここに日本天皇の國家と統治そして日本國體の特質がある。

 我が國國民は毎年毎年同じように春から始まって冬に終わる周期的な生活を営んでいる。四季の移り変わりが規則正しく周期的であるので、お祭りも、農漁業などのなりわいも、周期的に繰り返される行事が多い。春夏秋冬の一年の暦の一巡りで、冬が終わり元の春に戻り新たな出発が行われるのである。

 そして、我が國民は、暦の移り変わる時、即ち新たなる年を迎えた時に、生活も万物も全て再び新生するという感覚を持つのである。その時が旧暦の睦月一日すなわち紀元節の今日である。

 日本民族は、物事は周期的に新生を繰り返すという生活感覚を自然に持っていた。歴代天皇が、神武創業の精神=物事の初め・國家統治の理想(すなわち)に回帰することによって革新を断行するという維新の精神は、ここから発生してきた。

 だからこそ、維新は「復古即革新」といわれて来たのである。「復古」とは決して反動ではないし、時計の針を過去に戻すことではないし、回顧主義でもない。古きがゆえに良いというのではない。「復古即革新」とは、いにしえの理想の復興によって現在を新たならしめることである。  
 

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千駄木庵日乗九月一日

午前は、諸事。

午後からは、在宅して、室内整理、書状執筆、原稿執筆準備、資料検索・整理、原稿執筆。

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2019年9月 1日 (日)

『国民主権論』という革命思想の危険性―国民主権論が國體を破壊している


日本國民の道義精神・倫理感の基本は「尊皇精神」であり「神聖君主日本天皇へのかしこみの心」である。ところが今日、國民全般に尊皇精神が希薄となり、皇室を蔑ろにする政治家・官僚が増えている。

「國會は國権の最高機関」であり、「天皇の御地位」は、主権の存する國民の総意に基くのであるから、國民の代表者である衆参両院議員は最高権力者であり、天皇は、衆参両院議員よりも「下の地位」にあるという解釈をする憲法学者がいる。そして、衆参両院議員及び衆参両院議員によって選出され信任されている内閣は、天皇よりも「上」の存在だという悪逆思想が、意識するにせよしないにせよ、衆参両院議員に植えつけられる。

そして國會議員に「國権の最高機関の一員であり主権の存する國民に選ばれた國會議員は最高権力者だ。天皇は象徴にすぎない」などという意識が生まれる。これが、権力者・国民が皇室尊崇の念を喪失する原因である。そして、権力者は「かしこみの心」を無くし好き勝手なことするのである。

「諸悪の因は『現行占領憲法』」と言はれて久しいが、最近の事象は、この言葉の正しさをますます証明している。とりわけ「國民主権論」は、日本國の國體・傳統を根底から突き崩す思想である。一刻も早く否定されはならない。

『現行占領憲法』に日本國體と絶対に相容れない「国民主権論」が取り入れられたことは、単なる「日本弱体化」などではない。近年の「皇室典範改定論議」を見ていて日本國體破壊の導火線であったと思い知った。また『皇室典範』が『憲法』の下位法となり、衆参両院で改定できるようになったことは、重大なる國體破壊である。

『現行憲法』には、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある

天皇は、主権者たる国民の総意によってその地位にあるのだから、国民の代表者たる衆参両院議員、そして議員によって指名され選出された内閣の決定に、天皇及び皇族は従わねばならない」という考え方が今日大手を振って歩いている。

「国民の総意」の「国民」について、現在の生きている日本国民ではなく、過去現在未来にわたる『日本国民』であるという説がある。「占領憲法」を出来得る限り『日本國體』に合致させようという解釈である。しかし、現実には、衆参両院議員の過半数に意思によって『皇室典範』が改定されてしまうのである。それどころではない。衆参両院議員の三分の二の意思によって、「天皇を君主と仰ぐ日本國體」すら廃絶される危険すらある。そんなことはあり得ないという意見もあるだろうが、可能性は皆無ではない。

まさに「諸悪の因は現行憲法」なのである。ともかく、国民主権論という國體破壊思想をわが国から祓い清めねばならない。

日本の伝統的な考え方は、「天皇と国民とは相対立する存在ではなく一体である」ということである。従って「主権」なるものが天皇にあるのか国民にあるとかなどということを議論すること自体が不自然に思われてきた。

現行憲法制定時に、衆議院憲法改正案特別委員長を務めた芦田均氏は「君民一体または君民一如のごとき言葉によって表現されている国民結合の中心であるというのが我が国民的信念なのである」と言っている。

宮沢俊義氏をはじめとした多くの憲法学者は、「国民」とは天皇を除く概念であり、この憲法によってわが国は君主主権から人民主権に変わったと主張し、今日では文部省の検定済教科書までこの線に沿って記述されている。

主権在民と民主政治(国民参政)とは別個の概念である。ソ連邦も共産中国も「人民主権」を明記しつつ、共産党一党独裁どころか、スターリンや毛沢東の個人専制恐怖政治が行われた。

君主主権とか国民主権とかいう場合の主権は、西洋法思想の影響下にある国法学では、一般に「国家における最高の政治権力」と解せられている。しかし、日本においては天皇と国民は、権力的・政治的に対立する存在ではなく、信仰的・精神的に一体の存在だったのである。それを敢えて相対立する存在ととらえて、国民主権をわざわざ第一章に置くというのは、国体破壊・伝統無視につながる。

「現行占領憲法」は、戦勝国たるアメリカに強制され、制定された。そして「憲法三原理」なるものとりわけ「国民主権」の考え方は、欧米においてのみ通用するものであり、天皇国日本には通用しない。日本では、古来西洋のような闘争の歴史は無かったからである。日本の歴史と伝統は、天皇を中心として君民一体となって民族共同体・信仰共同体を形成し発展させてきた。天皇と国民、国家と国民の関係は、相対立するものではなくして、不可分一体の関係にある。我々が確認しておきたいことは、国民主権は決して人類普遍の原理ではないということである。

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千駄木庵日乗八月三十日

午前は、諸事。

午後は、室内整理、原稿執筆の準備。

午後六時より、神田学士会館にて『憲法懇話会』開催。村松伸治日本文化大学教授が司会。高乗正臣平成国際大学名誉教授が「憲法学における『国家』の概念」、高乗智之松陰大学准教授が皇位継承に係わる儀式をめぐる憲法問題―学説の整理を中心に」と題して報告。全員で活発な討論を行った。

帰宅後は、原稿執筆。

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