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2019年8月10日 (土)

「祭祀」について

「祭祀とは神人合一の行事」なのである。日本民族は、神に対して常に祭りを行ってきた。「まつり」は、日本民族の精神傳統・日本文化の原点である。「まつる」といふ言葉の原義は、「お側で奉仕し服従する」「何でも仰せ事があれば承りその通り行ふ」「ものを献上する」「ものを奉る」といふほどの意であると言ふ。

日本伝統的信仰精神の基本行事は、神を祭ること即ち「祭り」である。「祭り」とは、神に奉仕(仕へ奉る)し、神の御前において自己を無にして神の御心に従い奉ることである。つまり神と自己との一體を確認し、神の御心のままに勤めることをお誓いする行事である。祭祀は、神人合一の行事である。

「祭祀」とは、「始まりの時」に行われた行事を繰り返し行うことによって、「始まりの時」に回帰する行事である。日本神道の祭りは、お祓い、祝詞奏上、玉串奉奠などを行ふうことによって、罪けがれを祓い清めて、人としての本来の姿に立ち帰る行事である。「無私」になって神に一切を「まつろふ」(従い奉る)から「まつり」というのである。

折口信夫氏は、「日本の太古の考へでは、此國の為事は、すべて天つ國の為事を、其まゝ行って居るのであって、神事以外には、何もない。此國に行はれることは、天つ神の命令によって行って居るので、つまり、此天つ神の命令を傳へ、また命令どほり行うて居ることをば、まつるといふのである。処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行致しました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になった。」(『大嘗祭の本義』)「祭りごととは、食物を獻上する事に關する行動儀式といふ事であるらしい。…神の命令によって、與へられた種子を田に下して作った結果をば、神に奉り、復命する事がまつろふなのだから、まつりごとは、神に食物を獻上する事である」(『祭りの話』)と論じてゐる。

柳田國男氏は、「神の大前に侍座して暫く時を過ごす意。根本は尊敬せられるものとの対座面會、後世の語でいへば拝謁に近い語であったかと思ふ」(『神社のこと』)「マツルは…マツラフといふ語と別のものではない。今でいふならば『御側に居る』である。奉仕と謂っても良いかも知らぬが、もっと具體的に言へば御様子を伺ひ、何でも仰せごとがあれば皆承はり、思し召しのまゝに勤仕しようといふ態度に他ならぬ。たゞ遠くから敬意を表するといふだけではないのであった」(『先祖の話』)と論じてゐる。

人は、様々の罪穢が、神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。そこで、禊によって罪穢を祓ひ清め、祭りと直會(神と共に供へ物を食する行事)によって神との一體観を回復する。穢れたる現實・歴史を無化し清浄化して原初に回帰する。人が神のご命令に服従し、それを實現するために生活したことを復奏する。

これが神道行事の基本たる祭祀である。つまり、人の本来の姿を回復することが「祭り」の原義である。『古事記』に示されてゐる「天地の初発(はじめ)の時」(天地宇宙の始まりの時)に回帰する行事が祭りである。

人は本来、神に生かされ、神と離れた存在ではなく神と一體の存在であった。しかし、様々の罪穢が神との一體観・神と共に生きる姿勢と心を隠蔽してしまった。禊によって罪穢を祓い清め、祭りと直會(神と共に供え物を食する行事)によって神との一體観を回復する。これが日本伝統信仰の基本行事である祭りである。

我々日本人の祖先が有した信仰精神(神観・天皇観・宇宙観・國家観・人間観・自然観)は、知識・教条・理論として抽象概念として把握され今日まで継承されて来たのではない。祭祀と和歌(広く文藝文化と言っても良い)という日本人による現實の営為・生きた行事によって継承され伝えられてきた。

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