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2019年8月 5日 (月)

「太平記」「神皇正統記」に示された建武の中興の精神

 後醍醐天皇は、御年五十二歳で崩御せられた。延元年八月十六日のことである。『太平記』は、天皇の最後のお言葉として、「たゞ生々世々の妄念とも成るべきは、朝敵をことごとく亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり」「玉骨はたとへ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕(註・宮城の北門。上奏謁見をする人が出入りする門。転じて、宮城。皇居。禁中。内裏)の天を望まむと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非ず」と記され、左の御手に「法華経」の五巻をお持ちになり、右の御手に御剣をおとりになって、崩御せられたと伝へてゐる。

後醍醐天皇の御聖徳については、『太平記』に次のやうに記されてゐる。「御在位の間、内には三綱五常の儀を正して周公孔子の道に順ひ、外には万機百司の政怠り給はず、延喜天暦の跡を追はれしかば、四海風を望んで悦び、万民徳に帰して楽しむ、凡そ諸道の廃れたるを興し、一事の善をも賞せられしかば、寺社禅律の繁昌、爰に時を得、顕密儒道の碩才も皆望を達せり、誠に天に受けたる聖主、地に奉ぜる名君に也と、その化に誇らぬ者はなかりけり」と。

儒佛といふ外来思想の言葉が多く使はれた論述である。しかし表面上の用語はどうあれ、日本國體を正しき姿の開顕を目指された後醍醐天皇のご理想を正しく言い表はしている文章である。

建武中興の思想的背景を正しく論じた書は『神皇正統記』(北畠親房著。延元四年成立)である。その中核思想は尊皇である。神話の精神から説き起こし日本國が神國である事が説かれてゐる。

冒頭に、「大日本者神國也。天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ傳給フ。我國ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ。此故ニ神國ト云也」と示されてゐる。

「神皇正統記」は、神話時代からのわが國の道統を正直・慈悲・智慧といふ三つの倫理思想に要約して國史を論じた書物である。北畠親房公は、三種の神器は正直・慈悲・智慧の三つの根本徳目を表現してゐると説かれた。

親房公は、「政道と云事は…正直慈悲を本として決断の力有べきなり。これ天照太神のあきらかなる御をしへなり」と論じてゐる。

わが國の尊皇の精神と維新の道統すなはち國體精神はわが國独自の精神である。外来思想はわが國國體精神に合致する思想のみが受容された。そして、わが國體精神を説明し確認するために儒教・佛教が用いられた。「和魂漢才」とはかうしたことをいふのであらう。

親房公が儒教の影響も強く受けた事は確かであるが、親房公の目的は神話時代以来の日本伝統精神と道統を回復し國體を明らかにすることであった。

徳富蘇峰氏は次の如くに論じてゐる。「『神皇正統記』を一読してもさえも、いかに彼(注・北畠親房公)が宋學の大なる感化を蒙りたるかを知ることができる。…およそ宋人ほど大義名分について、深く研究したる者はない。王覇の弁、正閏の別、すべて宋人の論議を尽して余蘊なきものである。…三種の神器論を持ち出し、南朝の正統であること宣揚したる所以のものは、宋人の論理そのものを使用したといわずんば、少なくとも宋人の精神、もしくは思索の傾向の感化を受けたることを看過することはできぬ。日本主義の宗師が支那の感化によって、その論陣を張ったということはいささか意外であるが、しかも事実はまったくその通りである。」(『明治三傑』)

一方、津田左右吉氏は次のやうに論じてゐる。「日本人の道徳に関する知識は概ね儒教によって指導せられて来たのである。しかし、日本人の道徳生活そのものは、古今を通じて、かういふ知識とは関係の甚だ浅いものであり、直接には殆ど影響を受けてゐない」(『役行者傳説考』)「我皇室が國民の血族上の宗家とする思想は、儒教の天子の観念とは全く相容れないものであるが、当時の人々は全く平気で儒教風の文字を連ねてゐた。これらは畢竟、儒教が文字上の教としてのみ取り扱はれてゐたことを示す。」(『文學に現はれたる我が國民思想の研究』)

親房公は、儒教思想を借用して國體を論じたのである。それだけ親房公のみならず日本人は包容力があるといふことである。儒教は學問・知識として受け容れられ、借用もされたが、儒教を宗教として受容しなかったことは、我國に孔子廟の数が、神社仏閣の数とは比較にならないほど少ない事を見ても明らかである。

日本人はまた、儒教の普遍的な倫理思想は受け容れたが、「有徳王君主思想」とそれに由来する「革命思想」は受け容れることはなかった。むしろ厳しく排斥した。日本人は包容力があったとはいへ、國體の根幹を破壊する思想はこれを受け容れなかった。

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