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2019年8月28日 (水)

「素直な心」「そのままの心」「無私の心」が日本民族固有の精神である


 『大和心』『大和魂』とは、儒教・仏教などが入ってくる以前からの、日本人本来のものの見方・考へ方、即ち日本民族固有の傳統精神のこととしても間違ひではあるまい。その『大和心』を短歌形式で表白した歌が次の歌である。

 敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山櫻花

 近世の國学者・本居宣長の歌である。「大和心をどういふものかと人に問はれたら、朝日に美しく映える山櫻だと答へやう」といふほどの意である。
 
「朝日ににほふ山櫻花」は何とも美しい。それが大和心なのだと宣長は言ふ。朝日に美しく映えてゐる山櫻は理屈なしに美しい。さういふ美しさを大和心に譬へてゐる。そして宣長は、日本人の中核的性格=大和心の本質をなすものは、理知ではなく、素直なる心、鋭敏な感受性を備へた純粋感情であるとした。

神の生みたまひし美しい國に生まれた日本人は、美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」「無私の心」が、日本民族固有の精神即ち大和心である。

これを「もののあはれ」といふ。それは、理智・理屈・理論ではない。一切の先入観を取り除いた心である。大和心即ち日本傳統精神は、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

大和心即ち日本傳統精神は、誰かによって作られた思想體系や理論體系ではなく、純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。

しかしながら、日本人はただ単に感覚的に美しいものを好むのではない。日本人の「真心」は一種の厳粛さ・神々しさを伴ふ。古代日本人にとって、櫻の花に限らずすべての花や草木は宗教的・神秘的存在であった。「花」(ハナ)の語源は、端(ハナ)即ち、物の突き出した所、はし(端)であると共に、幣(ハタ)・旗(ハタ)であったといふ。「幣」とは、神に祈る時に捧げ、また祓ひに使ふ、紙・麻などを切って垂らしたもので、幣帛(へいはく)・御幣(ごへい) とも言ふ。日本人は、櫻の花を素直に美しく感ずると共に、櫻の花にある神秘性・神々しさに畏敬の念を持った。

日本の傳統的な行事である「お花見」の起源は、生命の盛りである花の下に人間が入ることによって、花の精気が人間に移り、自分自身の生命を豊かにするといふ信仰である。

「朝日ににほふ山櫻花」の美しさは神々しさの典型である。宣長は、日の神の神々しさをたたへてゐる。そこにわが國民信仰の根幹である太陽信仰(天照大神への信仰)があり、神の命に対する畏敬の念がある。

本居宣長は、『たまかつま五の巻』において、「つひにゆく道とはかねて聞しかどきのふけふとは思はざりしを、契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也、後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことしからずして、いとにくし、……この朝臣(註・在原業平)は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の偽りをあらはして死ぬる也といへるは、法師(註・契沖のこと)のことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(『最後には行かなくてはならない死出の道だとは、かねて聞いて知っていたけれど、昨日今日と差し迫ってゐやうとは思はずにいたもの』といふ歌について、契沖は言った。この歌は人の真實の心であって、教訓とするにもよい歌である。後々の世の人は、死のうとする間際になってものものしい歌を詠み、あるいは道を悟ったことなどを詠む。真實はさうではないので、大変気に入らない。……在原業平朝臣は、一生の真實がこの歌に表現され、後の世の人は一生の偽りを表現して死ぬのだと言ったのは、僧侶の言葉にも似ないで大変に尊いことだ。やまとだましひの人は、僧侶ではあっても、このやうにことがあるのだ)と論じてゐる。

『伊勢物語』の結びに据ゑられてゐる在原業平の「つひにゆく」の歌は、死に直面した時の心をこれ以上素直な言葉はないと思はせるくらい素直に表現してゐる。まさにそのままの心・自然な心・真心の表白である。その真心・そのままの心・素直な心が「やまとだましひ」であると宣長は言ふのである。それはまた日本人の代表的美感覚である「もののあはれ」(物事に素直に感動する心)にも通じる心なのである。

一切の偽りも影も嘘もない清らかで明るい心が大和心である。これを「清明心」といふ。それが即ち大和心である。

天智天皇はこの清明心を次のやうに歌はれた。

わたつみの豐旗雲に入日さし今夜(こよひ)の月夜清明(あきらけ)くこそ

「大海原のはるかの大空に、大きく豊かな旗のやうに棚引く雲に入り日がさしてゐる。今宵の月はきっと清らかで明るいであらう」といふ意。
 大らかで豊かな御歌である。この天智天皇の大御心こそが日本人の本来的に持ってゐる精神=「大和心」なのである。この御製に「清明」といふ漢字が用いられてゐる。日本人は清らかで明るい心を好むのである。
 麗しい山紫水明の風土に育まれた日本人の倫理観は、明・浄・直の心を理想とした。「清明心」とは、私心の無い真心、くもりの無い清き心・明るい心のことである。すなわち穢れや暗さのない心である。古代日本人は、「キヨキ心」「アカキ心」(清らかさ・明るさ)を最高の道義的価値とし、「キタナキ心」「クラキ心」(汚さ・闇さ)を嫌った。「清は善」「穢は悪」といふ価値観である。わが國傳統信仰たる神ながらの道で「禊祓」が重視されるものこのためである。浄穢といふ美的価値観と善悪といふ道徳的価値観とが一體となってゐる。
 
天照大神は、高天原に上ってきた須佐之男命に「然(しか)らば汝(みまし)の心の清明(あか)きはいかにして知らむ」と宣(の)りたもうた。天照大御神は須佐之男命が高天原に上って来られた時に、須佐之男命の「清明心」を証明することを求められたのであった。

 天照大神が、天の石戸からお出ましになった時、八百万の神々が一斉に「天晴れ、あな面白、あな楽し、あな清明(さや)け、おけ」と唱へたのも、日本民族が、天皇を明るく爽やかに晴れ晴れしく仰ぎ仰慕することを道義の根本として来たからである。

 『宣命』には、「明・浄・直」といふ言葉が屡々使われてゐる。『文武天皇即位の宣命』には、「明(あか)き淨(きよ)き直(なお)き心以ちて、御稱(いやすす)み稱みて緩怠(たゆみおこた)る事無く、務結(つとめしま)りて仕奉(つかへまつれ)と詔(の)りたまふ大命(おほみこと)を、諸(もろもろ)聞食(きこしめ)さへと詔(の)る」と示されてゐる。

明治天皇御製

あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな

さしのぼる朝日のごとくさはやかにもたまほしきはこころなりけり

 この御製において、明治天皇は清明心の尊さをお示し下ってゐる。わが國において古来から、正直・真面目・潔さ・清廉潔白・光風霽月の心境・誠・真心といふことが尊ばれたのは、「清明心」を道義の基本に置いてゐるからである。
 日本民族は道義の根本である「清明心」の體現者として天皇を仰いだ。天皇を限り無く仰慕し、天皇及び國家のために私心無く奉仕する誠の心、即ち<滅私奉公>の誠を尽くすといふ道義精神は、祖國愛・親孝行・兄弟愛・夫婦愛・友愛・人類愛などの一切の徳目を包摂する。

 神聖なる信仰共同體の體現者・祭祀主・統率者が天皇であらせられるから、天皇への無私なる帰属意識が究極の道義なのである。それは権力への屈従ではなくして、柔らかな優しいおのづからなる仰慕の心・むすびの心である。

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