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2019年6月26日 (水)

 『大久保利通斬奸状』について

 『大久保利通斬奸状』には、「石川県氏族島田一良等叩頭昧死(こうとうまいし・頭を地面につけてお辞儀をし、死を覚悟して注)、仰ぎて天皇陛下に奏し、伏して三千余万の人衆に普告す。」という文句で始まり、「一良等方今皇國の時状を熟察するに、凡て政令・法度、上天皇陛下の聖旨に出づるに非ず、下衆庶人民の公義によるに非ず、独り要路官吏数人の憶断専決する所に在り、……」とある。

 これは『民撰議院設立建白書』の冒頭と同意義の文章であるが、要するに、上は天皇陛下の大御心、下は國民の意志を無視して、一部権力者の専断によって政治が行われている状況を批判しているのである。これは、大久保等によるいわゆる有司専制政治が明治維新の理念を宣明せられた『五箇条の御誓文』の「広く会議を興し万機公論に決すべし」との大御心に反する政治であるという主張である。

いわゆる『朝鮮遣使問題』に関わる明治六年の政変がその具体的事例であった。つまり適法且つ正当な手続きを経て行われた閣議決定が大久保・岩倉等によって一方的に覆され、しかもそれが既成事実となって罷り通ったことへの批判である。

「独り要路官吏数人の憶断専決」とは、大久保利通を中心とした当時の権力中枢にいる者の政治を指しているのであるが、西郷隆盛・木戸孝允亡き後は、大久保利通がず抜けた力を持った。日本人は、権力が一個人の集中してそれが絶対化することを好まない傾向がある。

 『斬奸状』にはさらに、次のように記されている。 
 まず大久保利通等政府権力者の罪については、「曰く、公議を杜絶し、民権を抑圧し、もって政事を私する、其の罪第一なり。曰く、法令漫施(一貫した方針がなく法律を定めること注)、請托公行(公務員が内々で特別の配慮をすることが公然と行われること注)恣に威福を張る(威力で押さえ付け人を思いのままに従わせること注)其の罪第二なり。不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、國財を徒費する、其の罪三なり。曰く、慷慨忠節の士を疏斥(疎んじ退けること注)し、憂國敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成する、其の罪四なり。曰く、外國交際の道を誤り、國権を失墜する、其の罪五なり。」と五つの罪状を挙げている。

 「公議を杜絶し」とは多くの人々が参加する議論の場を閉ざしているということである。西郷隆盛等が下野した直後の明治六年十月には、「新聞紙条目」(讒謗律)を制定して、政府批判の言論を封殺せんとし、十一月には内務省を設置して「内政安定」を図ると共に警察権力を強化して反政府の動きを圧迫しようとした。また、板垣退助・江藤新平等が連名で提出した『民撰議院設立建白書』を、時期尚早であるとして否定した。大久保・岩倉は西洋を視察して、「言論の自由」の意義や「議会制度」の機能をよく知っていた。知っていたが故に、当時の日本においてこれを取り入れることは時期尚早であると断じ、先手を取って新聞発行などの言論の自由要求の動きを、権力と法律による規制を以て対したのである。

 「法令漫施、請托公行恣に威福を張る」とは、政府権力者の権力を利用した腐敗堕落・犯罪のもみ消しなどを指している。井上馨や山県有朋の汚職疑惑そして黒田清隆による夫人殺害事件であろう。「不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、國財を徒費する」というのはあるいは一方的な議論かもしれないが、近代化を急ぐ政府の様々な建設事業に対する反発が強かったのであろう。「憂國敵愾の徒を嫌疑し、もって内乱を醸成する」とは、「佐賀の乱」(明治七年)「萩の乱」(明治九年)「西南戦争」(明治十年)などの第二維新の決起が政府当局の挑発によって起こったことを指していると思われる。「外國交際の道を誤り、國権を失墜する」とは、政府の対支那・対韓國外交姿勢を指していることは言うまでもない。

 さらに、「勅命を矯(た)め(形を変えること・転じて自分たちの都合の良いように勅命を利用する意か注)、國憲を私し、王師(天皇の軍注)を弄し(もてあそび注)、志士・憂國者を目するに反賊を以てし、甚だしきに至りては隠謀・蜜策を以て、忠良節義の士を害せんと欲す。」と書かれてある。これは大久保等の政治に対する痛烈なる批判である。

つまり、「勅命を矯め國憲を私し」とは、明治六年の政変における大久保岩倉等の隠謀を指していると思われる。「王師を弄し」とは大久保岩倉等が政権維持のために天皇の軍を利用したことを指す。
 
続いて、「内は以て天下を玩物視し、人民を奴隷視し、外は外國に阿順し、邦権を遺棄し、遂に以て皇統の推移、國家の衰頽、生民の塗炭を致すや、照々乎として掌を指すか如し。」「前途政治を改正し、國家の興起することは、即ち 天皇陛下の明と、闔國(こうこく・國全体の意注)人衆の公議とに在り。願はくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を起し、公議を取り、以て皇統の隆盛、國家の永久、人民の安寧を致すべし。一良等区々(とるにたらないという意。謙遜して言っている。注)の微衷以て貫徹するを得ば、死して而して瞑す。」と書かれている。 これは結論の部分の文章である。八年四月の詔旨とは、明治八年四月十四日渙発の『元老院・大審院を設置し、地方官招集の詔』のことである。この詔には「…朕今誓文の意を拡充し、元老院を設け、立法の源を広め、大審院を置き、以て審判の権を鞏(かた)くし、また地方官を召集し、以て民情に通じ、公益を図り、漸時に國家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に、其慶に頼らんと欲す。」と示されている。

島田は、特にこの詔書の「國家立憲の政体を立て」との聖旨を重く受けた止めた。島田らは、明治天皇の『五箇条の御誓文』の聖旨に基づき、『國会』を開設し民意を集めて政治を行うべきである、と論じているのである。つまり立憲君主体制の確立が彼らの最大の主張である。つまり、島田一郎の大久保利通暗殺は、後の自由民権運動の端緒となったのである。

島田らはこの『斬奸状』を各新聞社に送り、國民一般に彼らの意図を知らせようとした。大久保斬殺は、言論が封殺された状況下における止むに止まれぬ行動であったし、島田らは自分たちの命と引換に権力者を撃ち、世論を喚起し、第二維新実現を目指したのである。

 大久保の死によって、政府における薩摩の力は減退し、長州(即ち伊藤博文・山県有朋・井上馨等)が力を持つようになった。それ以上に、この事件がきっかけとなって自由民権運動・第二維新運動が益々活発化した。そして、明治二十二年の大日本帝國憲法発布、二十三年の國会開設へと時代は進むのである。
 
紀尾井町事件の精神はまた、その後の維新運動・愛國運動へと継承されたことは、明治十四年に頭山満等によって設立された『玄洋社』の「憲則」第三条に「人民の権利を固守すべし」とあることによって明らかである。 

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