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2019年6月 4日 (火)

桜田門外の変は徳川幕府瓦解、天皇を唯一の君主と仰ぐ國體明徴化即ち明治維新実現の発火点になった

第百二十一代・孝明天皇は、安政五年(一八五八)の『日米通商条約』締結に震怒あそばされた。『岩倉公実記』の「米國条約調印二付天皇御逆鱗ノ事」によると、孝明天皇は、「時勢のここに至るは御自らの徳の及ばざるところなり」と深く幕府の専断を嘆かせたまひ、同年六月二十八日、関白・九条尚忠などに下された宸筆の「勅書」において、「関東の処置は神州の瑕瑾と為り、皇祖列聖に対せられ、御分疎(注・細かく分けて説明する。弁解する)の辞なきを以て、天位を遜がれ給ふ可き旨を親諭し給ふ」たといふ。

そしてその「勅書」には、「所詮条約許容儀者如何致候共神州瑕瑾、天下之危急之基。(御名)ニ於イテハ何國迄モ許容難致候。然ルニ昨日、武傳披露之書状見候ニ、誠ニ以存外之次第、實ニ悲痛抔申居候位之事ニ而無之、言語ニ尽シ難キ次第ニ候。…此一大事之折柄愚昧(御名)憗ヰニ帝位ニ居り、治世候事、所詮微力ニ及バザル事。亦此儘帝位ニ居リ、聖跡ヲ穢シ候モ、實ニ恐懼候間、誠以歎ケ敷事ニ候得共、英明之人ニ帝位ヲ譲リ度候」と仰せになり、条約締結は神國日本を傷付けることであり、このやうな一大事が起こったのでは皇位についてゐることはできないと、譲位の意志を示された。天皇御自らが譲位のご意志を示されるといふことは、実に以てあり得べからざることにて、それだけ、孝明天皇の御憂ひは深かったのである。

さらに、孝明天皇は八月五日の『御沙汰書』に於いて「条約調印為済候由、届け棄て同様に申し越し候事、如何の所置に候哉。厳重に申せば違勅、實意にて申せば不信の至りには無之哉。…朝廷の議論不同心の事を乍承知、七月七日、魯西(ロシア)も墨夷の振合にて条約取極候由、同十四日、英吉(イギリス)も同断、追々仏蘭(フランス)も同断の旨、届棄ニ申越候。右の次第を捨置候はゞ、朝威相立候事哉。如何に当時政務委任管于関東の時乍も、天下國家の危急に拘る大患を、其儘致置候ては、如前文奉対神宮已下、如何可有之哉。」と幕府への強い不信感を表明せられてゐる。

孝明天皇は、

あぢきなや またあぢきなや 蘆原の たのむにかひなき武蔵野の原

との御製を詠ませられた。(御詠年月未詳)

「征夷」の実力が喪失した徳川幕府に対する不信の念のご表明である。この孝明天皇のご震怒・御深憂が、尊皇討幕運動を活発化させる原因となった。幕府瓦解・王政復古即ち天皇中心の統一國家建設=明治維新の開始であった。

橘孝三郎氏は、「孝明天皇のこの史上未曽有の自唱譲位は皇権回復の歴史的爆弾動議に他ならない。而して王政復古大宣言即ち明治維新の國家大改造、大革新大宣言に他ならない。…王政復古、明治維新の大中心主体はとりもなほさず天皇それ自身であるといふ歴史的大事実中の大事実をここに最も明確に知る事が出来る。」(『明治天皇論』)と論じてゐる。

市井三郎氏はその著『明治維新の哲学』において、「政治的対決は、一国の体制を倒すか守るかぎりぎりにまで高まると、暴力的なものの出現は多かれ少なかれ不可避になります。…(注・明治維新の)変革過程の直接の発端に戻りましょう。その幕を切って落としたのは、万延元年三月の水戸浪士と水戸学に影響された薩摩藩士の井伊大老暗殺でした。それは結果として、幕府に対する朝廷の権威を高め、政治の中心地を江戸から京都へ移してしまうほどの力をもっていました。それほど歴史的に意味のある行動を行い得たのが、水戸学に動かされた人々である」と論じてゐる。

政治的大変革に直接行動が大きな役割を果たしたことは、大化の改新など歴史を見れば明白である。明治維新の後も、明治第二維新運動において、紀尾井坂事件即ち大久保利通暗殺が大きな役割を果たし、その後、自由民権運動の活発化、議会開設・民選議院設立、帝国憲法発布が実現した。

明治維新前の桜田門外の変即ち井伊大老暗殺は、まさに徳川幕府瓦解、天皇を唯一の君主と仰ぐ國體明徴化即ち明治維新実現の発火点になったのである。

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